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南だけが海に向かって開け、東西そして北が低くはあるが(200m以下)山に囲まれる鎌倉。その山稜尾根道を、北そして西側半分ほど歩く。沢登仲間5名のパーティである。
コースは建長寺境内の谷戸最奥部山腹にある半僧坊からはじまり、鎌倉の北と西半分を囲む天園ハイキングコースを瑞泉寺に向かい、瑞泉寺手前でハイキングコースを離れ、地図にルートのあった沢に下る。朝比奈の切通しへのショートカットが出来そうである。
地図に示されるだけであり、実際に歩けるかどうか行ってみなければわからないのだが、ともあれショートカットできれば、そのルートを進み、十二社バス停傍の脇道に入り朝比奈の切通しへ。周囲を山で囲まれた鎌倉への往還のために山稜を切り開き通した七口(7つの切通し)のひとつである。 朝比奈の切通しからの戻りは、切り通し近くの熊野神社から十二社方面に尾根筋を下る道らしきものが地図に見える。そのルートは等高線を垂直に下りている。転び滑りながら下りることになりそうではあった。
計画ではこの後、報国寺脇まで進み、そこから布張山に上り、名越えの切通しに向かい、祇園ハイキングコースを経て鎌倉駅へ、と思っていたのだが、朝比奈の切通から十二社バス停に戻ったところで、パーティ諸氏の「ここで終了」の目力に抗せず、計画を変更し終了。10キロ強の鎌倉散歩を楽しんだ。



本日のルート;北鎌倉駅>建長寺>半僧坊大権現>天園ハイキングコース>覚園寺分岐>大平山の頂>横浜市最高地点>天園休憩所>瑞泉寺分岐>沢を下る十二社へのショートカットルート>十二社バス停>大刀洗川に沿って進む>朝比(夷)奈切通し>磨崖仏>熊野神社>尾根筋を三郎の滝に戻る>十二社バス停


北鎌倉駅
集合地点は北鎌倉駅。ここに来たのは何年ぶりだろう。先回は駆け込み寺・東慶寺、名刹円覚寺、浄智寺などをお参りしながら進んだのだが、今回は天園ハイキングコーの始点・建長寺まで寄り道せずに向かう。
◆円覚寺
横須賀線北鎌倉駅近くに建つ。鎌倉五山第二位、臨済宗円覚寺派の大本山。文永・弘安の役、つまりは蒙古来襲の時になくなった武士を弔うために北条時宗が創建したもの。読みは「えんがくじ」。
開山は無学祖元。中国・宋の国・明州の生まれ。無学祖元禅師の流れは、夢窓疎石といった高僧に受け継がれ、室町期の禅の中核となる。五山文学や室町文化に大きな影響を与えたことはいうまでもない。
ところで、時宗が執権職についたのは18歳の時。亡くなったのは33歳。その間、文永・弘安の役といった国難、兄・時輔らとの内部抗争、日蓮を代表とする批判勢力の鎮圧といった数々の難題に直面。年若き時宗だけで、対応できるとも思えない。第七代執権・北条政村を筆頭に、金沢実時、安達泰盛といったベテランがバックアップしたのであろう。舎利殿は国宝。

東慶寺
円覚寺を出て鎌倉街道を少し南に下ると東慶寺。お寺の案内パンフレットによると「開山は北条時宗夫人覚山尼。五世後醍醐天皇皇女・用堂尼以来松ヶ丘御所と呼ばれ、二十世は豊臣秀頼息女天秀尼。明治にいたるまで男子禁制の尼寺で、駆け込み寺または縁切り寺としてあまたの女人を救済した」と。寺に逃げ込み3年間修行すれば女性から離縁することができたとのこと。
このお寺には多くの文人・墨客が眠っている。西田幾多郎(哲学者; 『善の研究」)、和辻哲郎(哲学者;『風土 人間学的考察』)、川田順(財界人・歌人。「老いらくの恋」の先駆者(?)。 そして、「何一つ成し遂げざりしわれながら君を思ふはつひに貫く」の歌)、安倍能成(骨太の自由主義者。一学校長・学習院院長・文部大臣。愛媛県松山生まれ)、鈴木大拙(禅を世界に広めた哲学者)、小林秀雄(文芸評論。『無常ということ』)などのお墓がある。あまりお寺っぽくない。品のいい日本邸宅のような趣。文人が好んで眠るのも納得。
浄智寺
少し進むと浄智寺。鎌倉五山第四位。臨済宗円覚寺派。執権北条時頼の三男宗政の菩提を弔うために宗政夫人が開く。お寺の案内パンフレットによると、「浄智寺が建つ山ノ内地区は、鎌倉時代には禅宗を保護し、相次いで寺院を建てた北条氏の所領でもあったので、いまでも禅刹が多い。
どの寺院も丘を背負い、鎌倉では谷戸とよぶ谷合に堂宇を並べている。浄智寺も寺域が背後の谷戸に深くのび、竹や杉の多い境内に、長い歴史をもった禅刹にふさわしい閑寂なたたずまいを保つ。うら庭の燧道を抜けると、洞窟に弥勒菩薩の化身といわれる、布袋尊がまつられている」とある。鎌倉の地形の特徴がよく現されている。

建長寺
天園ハイキングコース入り口のある建長寺に。天園コース東端の瑞泉寺方面から歩く場合は不要だが、建長寺側から天園ハイキングコースに入る場合は、建長寺の拝観料を払うことになる。
建長寺
巨福山建長興国禅寺。臨済宗建長寺派の大本山。五代執権北条時頼が蘭渓道隆(後の大覚禅師)を開山として創建。日本初の禅宗道場。 巨福門(こふくもん)と呼ばれる総門を越えると三門。禅宗では「山門」ではなく、「三門」と呼ぶことが多いようだ。「三門とは悟りに入る3つの法門、三解脱門のこと。つまりは空三昧・無相三昧・無願三昧の三つの法門」、と。

半僧坊大権現
境内を進み半僧坊大権現に向かう。「天園ハイキングコース」は、建長寺境内からはじまり、裏山中腹の半僧坊から尾根道を歩き、鎌倉の山並みの最高峰・太平山、といっても156メートルだが、この太平山をこえ天園から天台山、そして瑞泉寺に降りるコース(その逆も)。
建長寺の境内を北に向かい250段ほどの階段を上ると半僧坊大権現。からす天狗をお供に従えた、この半僧半俗姿の半僧坊(はんそうぼう)大権現。

大権現とは仏が神という「仮=権」の姿で現れることだが、この神様は明治になって勧請された建長寺の鎮守様。当時の住持が夢に現れた、いかにも半増坊さまっぽい老人が「我を関東の地に・・・」ということで、静岡県の方広寺から勧請された。建長寺以外にも、金閣寺(京都)、平林寺(埼玉県)等に半僧坊大権現が勧請されている。結構「力」のある神様、というか仏様であったのだろう。
方広寺
いつだったか方広寺を訪れたことがある。浜松駅から戦国の古戦場で知られる三方ヶ原を越え、伊井氏本貫地引佐の里を経て奥山方広寺に向かった。開山の祖は後醍醐天皇の皇子無文元選禅師。後醍醐天皇崩御の後、出家。中国天台山方広寺で修行。帰国後、参禅に来た、遠江・奥山の豪族・奥山氏の寄進を受け、方広寺を開山した、と。
半僧坊の由来は、無文元選禅師が中国からの帰国時に遡る。帰国の船が嵐で難破寸前。異形の者が現れ、船を導き難を避ける。帰国後、方広寺開山時、再び現れ弟子入り志願。その姿が「半(なか)ば僧にあって僧にあらず」といった風体であったため「半僧坊」と。

天園ハイキングコース
半僧坊社務所前の小さな鳥居をくぐりハイキングコースに。樹林の中の起伏に富んだルート。遊歩道として整備されることもなく野趣豊か。木の根っこが飛び出す山道をどんどん進む。5分ほどで「勝上献展望台」。アジサイで名高い名月院方面からの道が合流する。展望台からは鎌倉の海の眺めが楽しめる。 更に5分程度で「十王岩の展望」。かながわの景勝50選に選ばれた展望ポイント。海に続く一直線の若宮大路が見下ろせる。
名月院
このお寺も関東十刹のひとつ。もとは北条時頼の建てた最明寺。その跡に、子の時宗が禅興寺を建立。明月院はこの塔頭として室町時代、関東管領上杉憲方によって建てられた。将軍足利氏満の命による、と。室町幕府三代将軍・足利義満の時代に禅興寺は関東十刹の一位となる。が、明治初年に禅興寺は廃寺となり、明月院だけが残る。明月院は〝アジサイ寺″として有名。 鎌倉十井の一つ「瓶ノ井(つるべのい)」がある。やぐらは鎌倉時代最大のもの、である。

時頼の廻国伝説
北条得宗家の基盤を確固たるものにした時頼には、謡曲『鉢の木』にあるように廻国伝説が伝わる。先日会津街道を歩いた時も出合ったし、伊予の古城巡りのときも時頼が登場した。
30歳で執権職を辞し、出家しその間、「中世の黄門様」のように全国を廻ったということだが、出家したとは言いながら、政権の中枢で隠然たる権力を持ち続けた時頼に、そんな暇があるとも思えない。また37歳という若さで亡くなったというし、伝説が残るのも得宗家の領地が中心というから、ますますもって「伝説」と考えるのがよさそうにも思えるのだが、所詮は素人の妄想であり、根拠があるわけではない。

覚園寺分岐
右手は深い木々、左手は山を切り崩し宅地開発した民家が迫るといったアンバランスな尾根道を進み、「十王岩の展望」の先でコースは瑞泉寺へと続くメーンルートと、麓の覚園寺に下るコールに別れる。今回はメーンルートを進む。
やぐら
いつだったかこの分岐から覚園寺へと下ったことがある。分岐点を5分も歩くと、「百八やぐら」がある。「やぐら」は横穴式のお墓。鎌倉では、岸壁や岩肌に横穴を掘って、そこに遺骨等を埋葬した場所を「やぐら」と言い、武士や僧侶の墓所であるとされている。 「やぐら」は鎌倉の谷戸や山間部の至るところに点在している。山に囲まれ土地が狭い故だろう、か。

大平山の頂
心地よいアップダウンの尾根道を進むと鎌倉アルプスの最高峰、といっても159.2メートルの大平山の頂上に。この辺りに来ると車で近くまで乗ってきたような観光客が結構多い。住所は鎌倉市今泉。左手に見えるゴルフコースへの道を来るのだろうか。
岩場を下りゴルフ場のクラブハウスっぽい建物の横、広場を通り一部舗装された道を進む。鎌倉市と横浜市の境ではあるが、行政区域は横浜市栄区となる。

横浜市最高地点
ほどなく土径となった道を進むと「横浜市最高地点」の標識。「海面からの高度154.9m 横浜市最高地点は鎌倉市境にある大平山(山頂は鎌倉市域)の尾根沿い(栄区上郷町)でこの付近となります。背後の鎌倉市方面には鎌倉市街や相模湾を臨むことができます」とある。
かつて、この辺りに「天園峠の茶屋」があったと思うのだが、なくなっていた。 眼下の鎌倉の山々が美しい。相模湾も光っている。天園は別名、「六国峠」とも。武蔵、相模、上総、下総、伊豆、駿河が望めることができたから、と言う。

天園休憩所
「天園峠の茶屋」の少し南、「天園休憩所」は営業していた。ここで少し休憩。住所は再び鎌倉市十二社となる。

瑞泉寺分岐
天園休憩所から天園ハイキングコースに戻る。先を進むと瑞泉寺分岐の木標。道はふたつにわかれるが、右は瑞泉寺、左は支尾根へと向かう。沢に下るショートカットルートは道を少し戻り左手に下りることになる。
瑞泉寺
瑞泉寺は鎌倉幕府の重臣・二階堂道蘊が瑞泉院として建立。足利尊氏の四男・鎌倉公方・足利基氏が瑞泉寺に。中興の祖となる。以降、鎌倉公方の菩提寺となり、鎌倉五山に次ぐ関東十刹の第一位の格式を誇る。臨済宗円覚寺派。 いい雰囲気のお寺さん。品がいい。素敵な邸宅といった趣。庭もいい感じ。夢想疎石作との伝え。夢想疎石は京都の苔寺・西芳寺や天竜寺といった庭園で有名な寺院も後につくっている。鎌倉期唯一の庭園として国の名勝に指定されているのも納得。
そういえばこの夢想疎石、鎌倉の浄智寺の住職、円覚寺の住職も歴任した仏教界の重鎮。政治との関わり。も深く、後醍醐天皇や北条、足利氏と交わったと。円覚寺の開祖・無学祖元の流れを汲む高僧である。

沢を下る十二社へのショートカットルート
沢に下りる道は草に覆われ少しわかりにくい。iphoneのGPSアプリ、Gmap Toolsで地図に記される沢への下り口をチェックすると、なるほど下りの土径が見えた。
ほとんど整備されていない山道を下る。この沢道ではなく瑞泉寺へと下ると、南に突き出た尾根筋を大きく迂回して十二社に向かうことになる。足元はしっかりしないが、ショートカットのためには少々我慢。

十二社バス停
ささやかではあるが水の流れる沢筋に沿って下り、民家の建つ支尾根の間の道を進み県道204号の十二社バス停に。朝比奈の切通はバス停から県道から右に分かれ、大刀洗川に沿って道を進むことになる。
◆十二社
県道から少し左手に入ったところに建つ。十二所神社自体は結構さっぱりした神社。熊野十二所権現社として近くの光触寺境内にあったものがここに移されたと言われる
十二所権現って熊野三山の神を勧請したもの。熊野三山とは熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の総称。熊野の各社はそれぞれの主神を互いに勧請仕合っており、各社3つの神を祀る。
更に各社には共通の神さんとして「天照大神」が祀られる。ために、1社=4神、その三倍で12柱となる。これをもって、熊野十二所権現社と称した。 十二所=十二社。そう言えば、新宿西口に十二社が。そのすぐそばに熊野神社がある。納得。で、光触寺、こじんまりしたお寺。塩嘗地蔵(しおなめじぞう)がある。道を往来する商人が初穂としてそなえていたのだろう。

大刀洗川に沿って進む
十二社バス停付近で滑川に注ぐ大刀洗川には梶原景時の太刀洗水がある。頼朝の命により、上総介広常を討ち、その太刀を洗ったところ、とか。昔歩いてた時は「大刀洗水」の案内を見つけることができなかったのだが、今回はすぐ目に入った。
梶原景時
梶原景時って、義経いじめ、といったイメージが強く、判官びいきの諸氏にはあまりいい印象はない。どういった人物か、ちょっとメモ;
もともとは平氏方。坂東八平氏である鎌倉氏の一族であり、頼朝挙兵時の石橋山の合戦では一族の大場氏とともに頼朝と戦う。
で、旗揚げの合戦に破れた頼朝の命を助けたため、後に頼朝に取り立てられ、頼朝の側近として活躍。教養豊かで都人からも一目置かれるが、義経とは相容れず対立。頼朝と義経の関係悪化をもたらした張本人と評される。頼朝の死後は、鎌倉を追放され、一族もろとも滅ぼされた。

いつだったか、八王子城址を訪ねた時、高尾駅から丘陵を越え、新宮前橋で北淺川の支流・城山川を渡り、少し進むと宮の前交差点の近くに梶原八幡があった。この八幡様は鎌倉幕府の御家人・梶原景時が建てたと言われる。鎌倉の鶴ケ岡八幡の古神体をこの地に奉祀したもの、とか。参道に梶原杉といった切り株も残る。で、そもそも何故この地に梶原氏が、ということだが、梶原景時の母がこのあたりに覇をとなえた横山氏の出。この地に景時の領地もあった、よう。

上総介広常
治承4年(1180年)8月に打倒平氏の兵を挙げ、9月の石橋山の戦いに敗れた源頼朝が、安房国で再挙を図ると、広常は上総国内の平家方を掃討し、頼朝のもとへ参陣。頼朝が鎌倉入りを果たせたのは、上総・下総両国を領し東国最大勢力であった上総介広常の軍事力が大きく寄与したと言われる。
鎌倉幕府が開かれてからも、その強力な軍事力故か、頼朝に対しても「傲慢不遜」な振る舞いもあり、謀反を疑われ頼朝の命により梶原景時に誅されることになる。
お話では、殺害後に広常の鎧から頼朝の武運を祈る願文が見つかり、頼朝は広常を殺害してしまった事を悔いたと言われるが、対朝廷策で協調派の頼朝と強硬派の広常の間に亀裂があったようで、殺害の因はそのあたりにある、との説もあるようだ。都生まれの頼朝と東国武士の広常故の対立があったのだろうか。

朝比(夷)奈切通し
先に進むと舗装も切れ、その先で道がふたつに分かれる。左手の小滝(三郎の滝)が落ちる道が朝比奈の切通し。先回訪ねた時はなかったように思うのだが、道脇に「朝夷奈切通」の案内がある;
「国指定史跡  朝夷奈切通しは、いわゆる鎌倉七口の一つに数えられる切通で、横浜市金沢区六浦へと通じる古道(現在の県道金沢・鎌倉線の前身)です。鎌倉時代の六浦は、鎌倉の外港として都市鎌倉を支える重要拠点でした。『吾妻鏡』には、仁知2年(1241)に、幕府執権であった北条泰時の指揮のもと、六浦道の工事が行われた記事があり、これがつくられた時期と考えられています。
その後、朝夷奈切通は何度も改修を受けて現代にいたっています。丘陵部に残る大規模な切岸(人工的な崖)は切通道の構造をよく示しており、周辺に残るやぐら(鎌倉時代の墓所)群・切岸・平場や納骨堂跡などの遺構と共に、中世都市の周辺部の雰囲気を良好に伝えています。 平成21年3月 鎌倉市教育委員会」。
また、三郎の滝の東側に石碑があり「朝夷奈切通 鎌倉七口ノ一ニシテ鎌倉ヨリ六浦ヘ通ズル要衝ニ當リ 大切通小切通ノ二ツアリ 土俗ニ朝夷奈三郎義秀 一夜ノ内ニ切抜タルヲ以テ其名アリト傳ヘラレルモ 東鑑ニ仁治元年(皇紀1900)十一月 鎌倉六浦間道路開鑿ノ議定アリ 翌二年四月 經營ノ事始アリテ執権北条泰時 其所ニ監臨シ 諸人群集シ各土石ヲ運ビシコト見ユルニ徴シ此切通ハ即チ当時ニ於テ開通セシモノト思料セラル」と刻まれる。

ふたつの案内を読み、一夜のうちに峠を切り開いたとされる武勇の士・朝夷奈三郎義秀のお話はともあれ、この朝比奈切通しは、執権北条泰時が鎌倉と六浦を結ぶ道の開鑿を決定。執権自ら監督し、鎌倉の外港であり下総などとの窓口・六浦と鎌倉の連絡を容易にし、東国の物資、また塩を鎌倉にもたらす戦略道路として開いたもではあろうが、そこに「朝夷奈三郎義秀」の話が登場するのが面白い。
朝夷奈三郎
朝夷奈三郎義秀は和田義盛の子。安房の朝夷郡に領地を有するが故の名前ではあろうが、和田義盛は北条打倒を図り、和田合戦を起こしている。朝夷奈三郎義秀はその合戦で最もめざましい奮戦をした武将である。戦いは北条氏の勝利に終わり、朝夷奈三郎義秀のその後の消息は不明とのことであるが、敵方である北条氏の執権が苦労の末開いたこの切り通しに朝夷奈三郎義秀の伝説が残るのは、誠に面白い。
いつの頃からこの伝説がおこったのか少々気になる。チェックすると、Wikipediaに拠れば、鎌倉時代の『吾妻鏡』には「六浦道」とあり、「朝夷奈」の文字はない。「朝夷奈」が江戸時代になっても「峠坂」と記録にあり、「朝夷奈」が記録に登場するのは延宝2年(1674)、徳川光圀編纂の『鎌倉日記』に峠坂を「朝比奈切通」とあるのがはじめてのようである。伝説もこの頃できたものだろうか。単なる妄想。根拠なし。

鎌倉七口
鎌倉七口(かまくらななくち)とは三方を山に囲まれた鎌倉への陸路の入口を指す名称。鎌倉時代には「七口」の呼び名は無く、江戸時代になってはじめて記録に登場する。一般には極楽寺坂切通、大仏切通、化粧坂、亀ヶ谷坂、巨福呂坂、朝夷奈(朝比奈)切通、名越切通を七口と称する。
もっとも、江戸時代初期の1642年~1644年頃に書かれたと思われる『玉舟和尚鎌倉記』には、「大仏坂」「ケワイ坂」「亀ヶ井坂」「小袋坂」「極楽寺坂」「峠坂」「名越坂」、上記の『徳川光圀鎌倉日記』には「ケワイ坂を「化粧坂」、亀ヶ井坂を「亀ヶ谷坂」、小袋坂を「巨福呂坂」、峠坂を「朝比奈切通」、大仏坂を「大仏切通」、極楽寺坂が「極楽寺切通」、名越坂が「名越切通」とあるようで、切通といった名称では統一されていないようである。

磨崖仏
崖からの湧水に濡れた石畳状の坂を上る。足場はあまりよくない。道脇に佇むお地蔵さまにお参り。「延宝三年十月十五日」と刻まれている。西暦1675年の作である。
坂を上り切ったところの崖が大きく切り開かれている。大切通しと称される箇所だろう。右手の崖には大きな磨崖仏が刻まれる。薬師如来と言う。

熊野神社
磨崖仏から少し坂を下ると熊野神社分岐がある。道を右手に取り、道なりに進むと熊野神社がある。社殿への石段前に車止め。意味不明。石段をのぼり拝殿にお参り。
由緒には「古傳に曰、源頼朝鎌倉に覇府を開くや朝比奈切通の開鑿に際し守護神として熊野三社大明神を勧請せられしと、元禄年中地頭 加藤太郎左衛門尉 之を再建す、里人の崇敬亦篤く安永及嘉永年間にも修築を加え明治六年村社に列格、古来安産守護に霊験著しと云爾」とある。
朝比奈切通の開鑿は仁知2年(1241)に幕府執権であった北条泰時の指揮のもと開始されたと上でメモした。頼朝既に亡くなっているのだが、由緒ってそんなものだろう、と。
それはそれとして、先日読んでいた大田道潅を主人公とした小説にこの神社が登場していた。狩のみぎり、突然の雨。山家に駆け込み蓑の借用を申し出 る。その家の娘、無言のまま、八重の山吹を盆に載せ差し出す。"実の"つかない八重の山吹。家が貧しく、"蓑"一つさえも無いことを婉曲に伝え詫びたもの。
道潅、わけもわからず不機嫌に帰館。家臣のひとりが、娘が旧歌で返答したのだと。「七重八重、花は咲けども山吹の、実の〈簑〉一つだになきぞ悲し き」。道潅、己が無学を恥じ、爾来研鑽を重ね、歌人としても名を成すに至った、そのきっかけとなった出来事の舞台がこのあたり、とのこと。
もっとも、この山吹の里って、散歩で出合っただけでも数箇所ある。埼玉・越生、川崎の鹿島田、都内豊島区の高田地区、などなど。それだけ道灌が人気者であった、ということだろう。

尾根筋を三郎の滝に戻る
社殿で皆さんが休憩の間に、地図にある社殿裏から尾根道を十二社方面、三郎の滝近くに下る道を確認に。社殿右手の土径を上り、社裏手の尾根筋に廻り込道を探る。左手に折れ果樹園へと向かう道と直進する尾根道を確認。尾根道筋には単なる倒木なのか、通行止めなのか不明だが、木が道を遮る。が、進めそうである。
ということで、休憩後、尾根道を下ることに。果樹園へのコースは道は安定してそうだが、何せ遠回りである。地図を見ると結構勾配が急なようではあるが、ショートカットルートを選択。
下り道は急な傾斜の上に粘土質の堀込みとなっており、足元が危うい。結構滑る。倒(こ)けつ転(まろ)びつ、三郎の滝に。

十二社バス停
三郎の滝から十二社のバス停まで戻り、皆さんの意向確認。当初の予定では、ここから報国寺まで歩き、布張山に登り**の切通し方面まで進む予定であったが、皆さん、ここで充分とのこと。今回の散歩は、これで終了とし、バスで鎌倉駅に向かい、一路家路へと。

■鎌倉散歩アーカイブ■

鎌倉散歩 (1):天園ハイキングコースから亀ケ谷・化粧坂切通しへ

鎌倉散歩 (2):葛原岡ハイキングコースから大仏ハイキングコースへ

鎌倉散歩 (3):鎌倉山から天園へと、鎌倉を西から東に

鎌倉散歩 (4):朝比奈切通し・衣張山から名越切通しへ

鎌倉散歩(5);名越・釈迦堂切り通りから祇園山へ


逗子、名越・釈迦堂の切通し、そして祇園ハイキングコースへ
逗子からのアプローチ。名越の切通しを超えて鎌倉に入ることになる。その後は、お寺を巡りながら釈迦堂切通しに。ついで祇園山ハイキングコースを歩きJR鎌倉駅に、といったコース。通常、切通しは鎌倉と周辺地域とのゲートウエイではあるが、釈迦堂切通しは鎌倉市内のバイパスといったもの。この名越の地は北条一門の館があったところである。朝比奈方面からのアプローチを容易にするため、山が削られたのであろう、か。残念ながら崩落のおそれありと、通行禁止となっていた。











本日のコース;JR逗子駅>池田通り>久木郵便局前>小坪入口>岩殿寺>久木ハイランド入口>法性寺>名越切通し>まんだら堂>安国寺>妙法寺>釈迦堂切通し>大宝寺>安養院>八雲神社>祇園山ハイキングコース>高時切腹やぐら>東勝寺跡>宝戒寺>妙本寺>JR鎌倉駅

逗子駅
名越の切り通しへのアプローチを三浦半島方面から攻めようと逗子駅下車。逗子の名前の由来は「厨子」から。市内、延命寺に弘法大師が設けた厨子があった、から。逗子といえば、徳富蘆花、泉鏡花などの作家がこの地に住んでいる。蘆花の代表作『不如帰』は逗子が舞台。文人墨客だけでなく政治家・実業家が別荘を設けているが、そのきっかけは葉山に御用邸が設けられた、ため。道路などの環境整備が進んだのであろう。ともあれ、散歩に出かける。駅前を池田通り、久木郵便局前、小坪入口の交差点に。交差点を少し行ったあたりに岩殿寺への案内。  (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」

岩殿寺
坂東三十三観音第二番札所。頼朝とかその娘・大姫が足しげく通ったお寺。悲劇の姫君・大姫の話は、唐木順三さんの『あずまみちのく:(中公文庫)』に詳しい。民家の間を通り、谷戸というか谷津の奥に進むと岩殿寺、ガンデンジ、と読む。岩窟が自然の社のように見えることが名前の由来。山の斜面に観音堂、鐘楼堂が建つ。全体の雰囲気は大和・長谷寺を小ぶりにした感じだなあ、と思っていたら、長谷寺の開基徳道上人が、この地で熊野権現の化身に逢ったとの寺伝。
開創は僧行基とか。十一面観音の石像を安置し本尊とする。で、この観音様は頼朝の生涯の守り本尊。石橋山の戦いに敗れた頼朝が安房に逃れるとき、観音さまが船頭として窮地を救ったとか。
建長寺での半僧坊伝説ではないけれど、船頭として窮地を救う話しって、多い。将軍家の信仰篤く御台所、大姫、実朝など一族の参詣もしばしば。『吾妻鏡』に「姫公岩殿観音堂に参りたもう」とある。正暦元年 (990)に花山法皇が、承安四年(1174)には後白河法皇が参詣したという。
熊野でしばしば顔を現した花山法皇もここにも登場。もっとも、花山法皇が関東に来たという事実はない。西国観音霊場を開いたという花山法皇の名前を出すことで、坂東観音霊場のブランドイメージを高めようとしたのだろう、か。
ともあれ、長い階段を 上り眺める谷津の景観は落ち着いて美しい。本堂左手にお稲荷さん(?)があり、右手には熊野社。どちらもそのまま先へ進んでいくと本堂の裏の山というか、 尾根道に。このまま名越に行けるか、とは思ったが、少し歩くと行き止まりではあった。階段を下り、元の道に戻る。ちなみに岩殿寺、明治の文豪・泉鏡花がすず女との恋愛模様の折り、逗子逗留。このお寺によく訪れたよう。鏡花の「普門品 ひねもす雨の桜かな」の句碑がある。泉鏡花の『逗子より』には、岩殿寺の在りし日の情景が描かれている。

法性寺
横須賀線に沿って鎌倉方面 に。久木ハイランド入口の交差点。横浜・横須賀道路の朝比奈インターで下り、朝比奈切通しというか、鎌 倉霊園の丘を越え、ハイランドの住宅街を登り下りし出てくるのがこの久木ハイランド入口。海岸道へのショートカットとしてよく使われる。交差点を進み、道路道が横須賀線と交差する手前を右に山、というか丘方面に進む。「法性寺・名越の切り通し」の案内。
猿畠山法性寺。日蓮宗のお寺。名越の山の反対側の谷(やつ)・松葉ケ谷に草庵を結んだ日蓮が、他宗派非難の激しさ故、鎌倉中の僧門から迫害を受け、草庵を焼き討ちされた。そのとき、山王権現の化身である数匹の白猿が現れ、名越の尾根沿いにこの法性寺の地まで日蓮を導く。で、岩窟に身を隠し法難から遁れた、という白猿伝説が残る。
山王権現=日吉山王権現。日吉山王権現という名称は、神+仏+神仏習合の合作といった命名法。日吉は、もともと比叡山(日枝山)にあった山岳信仰の神々のこと。日枝(日吉)の神々がいた。次いで、伝教大師・最澄が比叡山に天台宗を開いき、法華護持の神祇として山王祠をつくる。山王祠は最澄が留学修行した中国天台山・山王祠を模したもの。ここで、日吉の神々と山王(仏)が合体。権現は仏が神という仮(権)の姿で現れている、という意味。つまりは、仏さまが日吉の神々という仮の姿で現れ、衆生済度するということ。本地垂迹というか神仏習合というか、仏教普及の日本的やり方、とも。
境内の坂道を尾根に向って進む。頂上あたりに、仏殿。その脇にちょっとした岩山。山王権現がまつってある。ここが白猿伝説の岩窟のあたり、と。伝説は別にしても、ここからの眺めは素晴らしい。海が広がるのびやかな風景だ。それにしても、日蓮が危難に遭う時には、白いお猿が現れる。確か、房総から三浦に渡ろうとして猿島に流れ着いたときも、白猿が現れた、とか。ともあれ、この猿畠山から墓地横の道を抜け、 尾根に進む。途中山肌に「やぐら」。磨り減った石段を登る。尾根に出る。「右・大切岸。左・名越切通し」の道標。

大切岸
名越の逆方向、右に行く。大切岸(おおきりぎし)がある。石切の跡とも、巨大な防御崖とも言われる大切岸に向い結構歩くが、どこにあるのか良く分からない。道標がない。足元の崖がそうなんだろうが、尾根から見れるわけでもない。どんどん進む。この先は一体何処まで。ハイランドへと続く尾根道だろうが、途中まで進み引き返し、名越の切り通しに向う。大切岸は法性寺からの尾根道で見るのがいい。






名越の切通し
途中、落葉樹と照葉樹に囲まれたコジンマリした広場。無縁仏をまつる石碑。少し下ると名越の切通し。大岩がゴロゴロしている。切り取った岩が転がっているだけなのか、防御用の意図的ものなのか、ともあれ野趣豊か。
名越の切通しは鎌倉七切通しのひとつ。鎌倉東南の出入り口。古代から旧東海道と思われるルートが名越の坂をこえて沼浜(ぬはま;逗子)に通っていた。名越の切通しは三浦半島から房総へと至る交通の要衝であった、とか。すこし下り気味に進むと「まんだら堂」への入口。普段は文化財調査のため工事・閉鎖中。 が、今回は幸運にも公開日にあたる。
「やぐら」群。石仏、というか石を積み重ねた仏様。石仏を見ながらしばし休息。切り通しに戻る。途中の崖にも「やぐら」の横穴が口を開いている。垂直に切り立った、いかにも切り通し、といったところを越えると山道が途切れ突然平地に。亀ヶ岡団地のはずれ。ちょっと団地の中を進むが、海岸線まで結構ありそう。で、名越切通しに引き返し、先日と同じルートを大町に下りる。

安国論寺
横須賀線にそって進み、逗子から続く県道に出る。長勝寺交差点で横須賀線を越え、道なりに進む。安国論寺が。日蓮宗の寺院。建長5年(1253)、安房から鎌倉に入った日蓮上人がこの地・松葉ケ谷(やつ)に来て、初めて草庵を結んだ所の一つ。この草庵で「立正安国論」を著して前執権・北条時頼に建白。為に、幾多の法難を受け、法性寺の白猿伝説と相成る。






妙法寺
道なりに行くと妙法寺。同じく日蓮上人が松葉ケ谷に結んだ草庵のひとつ。日蓮宗最初の場所。護良親王の遺子・日叡が、亡き父の菩提を弔ったお寺でもある。松葉ケ谷の草庵って、一体何処だったのか確定はしていないよう。いくつかのお寺が、「我こそは」といった由来を書いてある。道なりに歩く。








釈迦堂切通し
釈迦堂切通し「釈迦堂切通し」の道標。小さく通行止め、と書いてある。が、とりあえず進む。谷(やつ)の奥まったところに、釈迦堂切通し。切り通し、というより、岩をくり貫いた洞門のよう。洞門の向こうは釈迦堂谷戸。三代執権泰時が父である二代執権義時の菩提をとむらうべく建立した釈迦堂があったのが名前の由来。が、現在それがどこにあったか不明とのこと。
釈迦堂切通しの近くに「北条時政名越山荘」と伝えられる跡地がある、とのこと。立ち入り禁止のようだが、ここは時政の屋敷跡、政子の御産所とも、浜の御所とも。鎌倉の七つの切り通しの地には北条一族の館がある。外敵に対する抑えの意味をもつ。この地は、三浦半島への交通の 要衝。三浦半島に勢力をもつ頼朝以来の有力御家人、三浦一族に対する押さえとして住まいしたものだろうか。地図をよくよく確認すると、釈迦堂切通しの上の山は、先日登った衣張山。眺めが素晴らしいところ。ともあれ、この切通し、他の切通しは鎌倉と外部とのゲートウエイではあるが、ここは金沢街道から名越地区へのショーカット、鎌倉内部の連絡路。この地区に館を構える北条一門の力の象徴と考えてもいいかもしれない。ちなみに、時政の浜の御所、横須賀線を挟んで松葉ケ谷の反対側、海に近い谷・弁ケ谷、新善光寺のあたり、という説もある。
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安養寺・別寺
通りに戻る。道脇に安養院。北条政子の法名でもある浄土宗のこのお寺、政子が頼朝の菩提をとむらうために建立した長楽寺がその前身。別願寺。鎌倉における時宗の中心となった寺。室町時代には足利一門の信仰篤く、鎌倉公方代々 の菩提寺であった、とか。









八雲神社
別願寺から少し、大町四つ角手前を右に。八雲神社。祇園ハイキングコースの入り口がこの神社の境内にある。鎌倉最古の「厄除開運」の社。鎌倉で疫病が流行し、多くの人々が苦しむ様子をみた 八幡太郎義家の弟である新羅三郎・源義光が京都祇園社の祭神をここに勧請したのが始まり、と。祇園社の祭神、って「牛頭天王(ごずてんのう)」。牛頭天王は朝鮮半島慶尚道楽浪郡にある牛頭山に祀られる神さま。その名前をスサノオ,と言う。スサノオノミコトが朝鮮半島の神様である、というのも驚きだ。この話しは、鈴木理生さんの『江戸の町は骨だらけ』に詳しい。「桜桃書房」、または「ちくま学術文庫」から出ている。ともあれ、この牛頭天王社、明治の神仏混交廃止令によって「天王・明神・権現」といった神仏習合の呼び名が禁止され、多くののところが、八雲神社と改名されている。この八雲神社もその伝、であろう。

祇園山ハイキングコース
ハイキングコースに上る。どこに続いているのだろう。うまくゆけば衣張山まで尾根が続いているかも、などと思いを巡らしながら登る。木立が茂りそれほど眺めはよくない。しかし、いい雰囲気のハイキングコース。尾根道を進む。15分か20分程度歩いたであろうか、道は急に下りはじめる。
北条高時の「腹きりやぐら」 下り切ったところに北条高時の「腹きりやぐら」。新田義貞の鎌倉攻めのとき、十四代北条高時一族郎党この地で自刃。「今ヤ一面ニ焔煙ノ漲ル所トナレルヲ望見シツツ一族門葉八百七十余人ト共ニ自刃ス」、と。北条家滅亡の地である。近くに東勝寺跡地。北条一門の菩提寺。三代執権泰時が建立した臨済宗の禅寺。北条一族滅亡の折、焼失。室町に再興され関東十刹の第三位。その後戦国時代に廃絶。いまは石碑のみ。

東勝寺橋
先に進むと滑川にかかる東勝寺橋。青砥藤綱の銭さらいの話の舞台。ある夜、この橋の辺りで、誤って十文の銭を落とす。
五十文で松明を買い、川ざらい。落とした銭をみつける。「愚かなり」と笑う人に、「十文は小なりと雖(いえども) 之を失へば天下の貨を損ぜん 五十文は我に損なりと雖(いえども) 亦(また)人に 益す 旨を訓せしといふ 即ち其の物語は 此辺に於て演ぜられしものならんと伝へらる(10文は小なりといえど失えば天下の損。50文の出費は自分には 損だが、人々のためになったのだからそれでよい)」と。
ちなみに、葛飾区青戸七丁目・環七沿いにある御殿山公園(葛西城址)は青砥藤綱の邸宅跡との説も。地名が青戸であるのに、京成線の駅名が青砥であるのは、このあたりに由来するの、かも。橋を渡ると右手に宝戒寺。左折し若宮王子幕府跡あたりから若宮王子をとおりJR鎌倉駅に戻る。

先回は鎌倉へ西からのアプローチ。今回は東から。朝比奈の切通しを越えて鎌倉に入ることになる。そのあとはお寺様を巡りながら衣張山に。ちょっとした山登り、といった雰囲気ではあるが、山頂から見下ろす鎌倉の眺めはすばらしい。普通は、この山を下ったら市内へと、という段取りだろうが、勢いに任せて名越の切通しまで進んでしまった。



本日のコース:京急線・金沢八景駅 > 上行寺 > 朝夷奈切通し > 熊野神社 > 峠・磨崖仏 > 十二所神社 > 浄明寺 > 報国寺 > 衣張山 > 巡礼古道 > 名越切通し > 八雲神社 > JR鎌倉駅

京急線・金沢八景下車
京急線・金沢八景下車。最初の目的地「朝比奈切り通し」の最寄りのバスは朝比奈バス停。バスもいいが、今回は歩くことに。国道16号線を六浦の交差点へ。交差点で右折し横浜・横須賀道路の朝比奈インター方面に。金沢の地名は秩父の金沢郷、から。源氏武士の華・畠山重忠一党が、現在の釜利谷のあたりに住まいした。重忠に従って来たものの中には鍛冶職人も多く、地名を「金沢」としたとのことである。釜利谷のある谷戸には、重忠ゆかりの地も多い。金沢八景は、江戸期、妙見台から眺めた景色が美しく、明の名勝地にちなんで名づけられた。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

上行寺
道沿いに上行寺。日蓮上人ゆかりの寺。当時、この寺あたりが海岸線。元は真言宗・金勝寺。日蓮上人が千葉・下総と鎌倉を往復する際に、船中にて在地豪族と問答。結果、真言宗から日蓮宗に改宗。これが「船中問答」。六浦地区を越え、大道地区に。道脇に摩崖仏。往時、この「鼻欠け地蔵」の手前を右に入り、天園の尾根道から鎌倉に入る道があった。天園ハイキングコースを歩いていたとき、いかにも釜利谷方面に抜けるような道筋があったが、朝比奈の切り通しができるまでは、こういった尾根道を通って鎌倉に入っていたのだろう。

朝夷奈切通し
朝比奈切通し朝比奈バス停から、すこし進んだところに「朝夷奈切通し 200メートル」の掲示。朝比奈?朝夷奈?一夜のうちに峠を切り開いたとされる「朝夷奈」三郎義秀の名前を忠実に峠道に使っているのだろうか。真偽のほど不明。ともあれ、左折し朝夷奈切通しの横浜側のスタート地点に。由来書:鎌倉七切通しのひとつ。国指定史跡。執権北条泰時が鎌倉と六浦を結ぶ道の開鑿を決定。朝執権自ら監督、と。鎌倉の外港、下総などとの窓口・六浦との連絡を容易にし、東国の物資、また塩を鎌倉にもたらす戦略道路としての位置づけであったのだろう。
峠道への入口には、お地蔵さまが迎えてくれる。野趣豊かな道を進む。すぐ、横浜・横須賀道路の下をくぐる。石が多く足場のよくない坂を登る。峠の手間に「熊野神社左」のサイン。朝夷奈切通しの工事の無事をいのって頼朝が熊野三社を勧請したと。熊野神社に向う。この道も朝夷奈切通しができるまでは鎌倉に通じる尾根道。谷へと下り、そして太 刀洗方面に至るルートがあるのだろう。神社まではそれほど遠くない。5分程度か。到着。
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熊野神社
神社の階段スタート地点に鉄の進入禁止柵。なんのため?意味不明。階段を上りおまいり。先日読んでいた大田道潅を主人公とした小説にこの神社が登場していた。狩のみぎり、突然の雨。山家に駆け込み蓑の借用を申し出 る。その家の娘、無言のまま、八重の山吹を盆に載せ差し出す。"実の"つかない八重の山吹。家が貧しく、"蓑"一つさえも無いことを婉曲に伝え詫びたもの。
道潅、わけもわからず不機嫌に帰館。家臣のひとりが、娘が旧歌で返答したのだと。「七重八重、花は咲けども山吹の、実の〈簑〉一つだになきぞ悲し き」。道潅、己が無学を恥じ、爾来研鑽を重ね、歌人としても名を成すに至った、そのきっかけとなった出来事の舞台がこのあたり。
もっとも、この山吹の里って、散歩の途中であっただけでも数箇所ある。埼玉・越生、都内豊島区の高田地区、などなど。それだけ道灌が人気者であった、ということ、か。峠・磨崖仏、そしてお地蔵さま。
ともあれ、おまいりを済ませ、分岐へと戻る。峠を越えた下り道は水多し。湧き水だろうが、道を湿らす。足場よくない。途中、朝比奈切通しの由緒書が再び。そのあたりは、真に崖が切り取られている。磨崖仏も。結構な景観。道端にお地蔵さま。いい表情。更に坂を下り、出口、というか、鎌倉側の切通し入口に。水量の多い滝があった。三郎の滝。朝夷奈三郎から来たもの。平地を十二所方面に。太刀洗川に沿って歩く。梶原景時の太刀洗水があるとのことだが、見落とした。滑川と合流。すぐ先で朝比奈峠を越え鎌倉霊園から鎌倉に入る車道に出る。十二所は道の反対側。

十二所神社
十二所神社自体は結構さっぱりした神社。熊野十二所権現社として近くの光触寺境内にあったものがここに移されたと言われる。十二所権現って熊野三山の神を勧請したもの。
熊野三山とは熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の総称。熊野の各社はそれぞれの主神を互いに勧請仕合っており、各社3つの神を祀る。
更に各社には共通の神さんとして「天照大神」が祀られる。ために、1社=4神、その三倍で12柱となる。これをもって、熊野十二所権現社と称した。十二所=十二社。そう言えば、新宿西口に十二社が。
そのすぐそばに熊野神社がある。納得。で、光触寺、こじんまりしたお寺。塩嘗地蔵(しおなめじぞう)がある。道を往来する商人が初穂としてそなえていたのだろう。

浄明寺
稲荷小路、宇佐小路、明石地区と歩く。明石橋の交差点。左に坂を登れば、ハイランド住宅街。この道は逗子の駅前に抜ける近道としてよく利用した。道なりに直進。浄明寺地区に。道の北側に浄妙寺。浄明寺?浄妙寺?地区名と寺の名前が異なる。往古このあたりは浄妙村だった。が、江戸時代になり、浄妙寺中興の祖・足利貞氏の戒名が「浄妙寺殿」。畏れ多いということで、村の名前を浄「明」寺とした、と。で、この寺、鎌倉五山の第五位、結構あっさりとしたお寺さん。これといった印象に乏しい。境内の石窯ガーデンといった小洒落たカフェでお茶ができるのはいいかも。

報国寺
報国寺道の反対側に人が多い。報国寺への人波、か。臨済宗建長寺派の禅寺。足利貞氏(浄明寺中興の祖)の父・家時(尊氏の祖父)が開く。永享の乱のおり、幕府・関東管領軍に破れ、永安寺で自刃した鎌倉公方・足利持氏の長子・義久が自刃した寺でもある。悲劇の話はともかく、かやぶきの鐘楼などなんとなくいい感じ。拝観料を200円払う。何があるのか、と思ったが、孟宗竹の茂る庭園、やぐらを借景にした庭の拝観料といったところ。一周し寺をでる。
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衣張山
山というか崖に沿って歩く。極力崖から離れないように歩いていると、「衣張山まで15分」といったしごく控えめな案内板。15分ならちょっと上り、戻ればいいか、と思ったのが、鎌倉散歩の中でも最高の眺めを楽しめることになる、衣張山へのプレリュード。
衣張山に向かって登る。結構きつい登り。15分? そんなはずはない。結構登る。森は深い。どこまで続くのか、と少々の後悔をしながら登る。山が開ける。尾根近くに。展望コースという掲示。
ハイランド住宅地方面が一望。途中、石切り場跡地。中に入るも少々気味悪く、すぐ退散。すぐに上り道。頂上。ここからの眺め、本当に素晴らしい。鎌倉の街並み、山々、相模湾、すべて一望のもと。天園ハイキングコースの峠の茶屋からの眺め以上、か。

衣張山の名前は、北条政子が、夏の暑い日にこの山を白い絹布でカバーし、冬山に見立て涼をとったという話に由来する。こんな大層な話はともかく、確か北条一族は、三浦半島地区に勢力をもつ三浦一族にそなえるため、名越地区に館をかまえていたはず。この山の近くの釈迦堂の切り通し付近という説、海より光明寺近く、弁ケ谷近くといった説もある。が、 ともあれ、このあたりが北条一族の本拠地。政子の話もこの地区における北条一族の力の象徴と意味合いとすれば納得。

巡礼古道
名残惜しくはある。が、頂上にあるお地蔵さんのお顔を心に留めながら下山。上りとは逆方向の下り道へ。結構長い。下っていたと思ったら、また登る。本当に大丈夫か、と不安になったころ麓、というか住宅地に。ハイランド住宅地区の一部だろうから、正確には未だ山の上のハズ。
掲示で、「左 巡礼古道5分、報国寺20分」「右 名越切り通し15分」。巡礼古道の名前に惹かれ、左に進む。5分行って、すぐ戻り、名越切通しへ、と決めた。左に進む。広い芝生の公園。遊歩道を進む。
住宅地の道路に出る。左手、山道方向に「巡礼古道」のサイン。報国寺まで15分と。最初は入口の雰囲気だけ、と思っていたのだが、やはり巡礼、しかも古道、これは歩くにしかず、ということで予定変更、報国寺まで歩く。
巡礼古道。かつて鎌倉ニ街道・杉本寺のあたりから逗子駅近くの岩殿寺にかけて巡礼の道があった。頼朝は岩殿寺の観音様を守り本尊しており、毎月18日の観音様の縁日には、必ず月詣にこの巡礼道を辿ったと「吾妻鏡」 は伝えている。現在ではハイランド住宅地の開発により、大半が潰え去ったが、一部、報国寺裏手から崖線に沿ってハイランド住宅地の瑞まで残っているってことのようだ。 崖道は誠に、いい感じ。道の途中に庚申塚、石仏・金剛窟地蔵尊も。森は深い。谷も深い。衣張山頂から、大して下りていなかったということだ。下り道。足を踏み外せば谷底に、といった急峻な道。道が開け、住宅街、報国寺の屋根が見下ろせるあたりまで下る。

名越切通し
もとの分岐に戻り、名越切り通しへ。このとき、名越切り通し、って舗装道路、幹線道路って勝手に決めていた。後になってわかったのだが、これって大間違い。極楽坂の切り通しと混同していたよう。ハイランド住宅地の外周部、 崖に沿って散歩道を進む。子ども自然ふれあいの森を越えたあたりから山道へ。結構進む。尾根道近く一軒の住宅が見えた。その家の裏、狭い道を進む。野趣豊か。どこまで続く?麓は未だか?不安になりはじめたころ、少し大きな道と合流。名越の切り通しの案内。
尾根道から名越の切り通しへの合流地点はごつごつした岩場。左に行けば逗子。右に行けば鎌倉市内に戻る。切り通しを越えて逗子に至る山道は往古、鎌倉を東西に走る二本の幹線道路のひとつ。相模と千葉・房総を結んでいた。名越の切り通しの道は、海側東西道。旧東海道である。ちなみにもうひとつの東西道は、朝比奈切通しから六浦に抜ける山側東西道、である。
右方向に進む。下り道。いい感じの道。すこし歩くと道が開き眼下に横須賀線が。足元はトンネル。横須賀線にそって崖道を下る。大町5丁目。 降りきったところで踏み切りを左に。少し歩き、交通量の多い道に当たり、道なりに踏み切りを右に渡る。鎌倉駅まで1キロ弱、といったところ。

八雲神社

駅への途中、八雲神社。仕上げも兼ねお参り。鎌倉最古の厄除け神社。八幡太郎義家の弟、新羅三郎義光が疫病退散を祈願し京都祇園の八坂神社を勧請したもの。社殿裏から祇園ハイキングコースのサイン。道なりに歩き、鎌倉駅に到着。

今回は北鎌倉からのアプローチはお休み。鎌倉に西から入る。まずは鎌倉山のさくら道からスタート。途中、バスを利用しながらJR鎌倉駅に。そこからは、お寺様を巡りながら東に進み、東端・瑞泉寺に。そこから「天園ハイキングコース」に入り、北鎌倉へと歩く。天園ハイキングコースは、北鎌倉の建長寺からこの瑞泉寺まで続いているのだが、先回、途中で覚園寺に下りたため、再び尾根道にのぼることに。見所多い鎌倉ゆえに、選択肢は多い。







本日のコース:湘南モノレール・西鎌倉駅 > 鎌倉山さくら道 > 常盤口バス停 > JR 鎌倉駅 > 鶴岡八幡宮表参道 > 宝戒寺 > 永福寺 > 瑞泉寺 > 天園ハイキングコース > 貝吹地蔵 > 天園峠の茶屋 > 大平山 > 勝上嶽 > 明月院 > JR 北鎌倉駅

湘南モノレール・西鎌倉駅
スタートは湘南モノレールの西鎌倉駅。JR渋谷で湘南新宿ライン平塚行きに乗る。車中、大船で乗り換え、湘南モノレールの西鎌倉下車。昭和のはじめ、大船から江ノ島に通じる自動車専用道路ができ、それがきかっけとなってこのあたりが開けた、と。モノレールができ、古都鎌倉とは趣をことにする都市開発が一段と進んだことであろう。

鎌倉さくら道
スタートは湘南モノレールの西鎌倉駅。JR渋谷で湘南新宿ライン平塚行きに乗る。車中、大船で乗り換え、湘南モノレールの西鎌倉下車。昭和のはじめ、大船から江ノ島に通じる自動車専用道路ができ、それがきかっけとなってこのあたりが開けた、と。モノレールができ、古都鎌倉とは趣をことにする都市開発が一段と進んだことであろう。
モノレールに沿って北東に上り鎌倉山のロータリーに。「鎌倉山さくら道」の表示。当初、鎌倉山、とかいうくらいであるので、結構歴史のあるところかと思っていた。が、実際は、昭和初期、この先ほどの自動車専用道路の開通を待って始まった宅地開発の際に命名された、とか。実際の鎌倉山、って八幡宮の裏山である「大臣山」とも言われるが、定まったものではない、と。
住宅街が続く。山道・尾根道とは異なり、車の走る道。名前のとおり、桜並木は春には美しい、かと。道なりに歩く。鎌倉山1丁目、峠といっていいのかどうかわからないが、坂道を上りきったころから鎌倉の平地が眺められる。美しい。
『だれも書かなかった鎌倉;金子晋(講談社)』によれば、明治の頃、この地に国木田独歩が住んでいた、と。ある日田山花袋などととともに鎌倉山に上り、そのときの風景を描いた記事がある;「北の地平線は武蔵野、極目さへぎるものがない、また大山よりかけて武蔵の国境をめぐる連山!箱根足柄の諸山よりかけ伊豆の岬角に連なる山脈!此等の諸山を圧して立つ富士!大磯小磯の浜つづき、峰づたいに眺めつつ、路、林に入れば憩い、林を出づれば大洋!水平線は思いがけない所に高く一線を画して居る、小坪、葉山の磯は指点すべく、三浦の岬は遠く水平線に没しておる(『鎌倉の裏山』)。まさしく美しい景観である。
笛田公園の傍をくだり市役所通りと交差、常盤口に。車の往来激しい。この道は昔の深沢道。西の湘南モノレールあたりに深沢という地名があるが、そこに名前の由来があるのだろうか。ともあれ、この深沢道は昔の鎌倉に入るメーンルート。いまでは、北鎌倉から鎌倉を訪れる人も多いが、それはJR大船線ができて以来。それ以前はこの深沢道を通って山越えで大仏前に出るか、それでもなければ、藤沢宿から江ノ島を横手に見ての渚渡りしかなかったようである(『だれも書かなかった鎌倉;金子晋(講談社)』)。ここからはバスに乗り、鎌倉駅に。

JR鎌倉駅
JR鎌倉駅からは、鎌倉市内を一気に東端まで歩き、天園ハイキングコースの東端・瑞泉寺に行く。そして、そこから西へと戻ることにした。

鶴岡八幡宮表参道

鶴岡八幡参道鎌倉駅下車。段葛を鶴岡八幡宮前まで歩く。段葛は鶴岡八幡宮の表参道、二ノ鳥居から三ノ鳥居までの道の中央の一段高い歩道。500mにわたり桜並木が続いている。碑文によれば、「置石(おきいし)とも。妻の政子の安産の願いを込 めて、頼朝が、この参道を築く。その土や石を北条時政(ときまさ)をはじめとした多くの武将たちが運んだ。明治はじめに、二の鳥居から南の方の道が無く なった」と。司馬遼太郎さんの『街道を行く;相模半島』だったと思うが、一段高くしているのは、山地に囲まれた鎌倉、雨が降れば土砂・ぬかるみ激しく、足 元を安んずるため、といった記述があったよう。
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宝戒寺

八幡宮前右折。すこし進むと宝戒寺。開基は後醍醐天皇。二代執権・北条義時以来、北条執権家の跡地。西暦1333年(元弘三年)新田義貞により鎌倉幕府滅亡。北条一門も滅ぶ。北条九代の菩提をとむらい人材養成のため、後醍醐天皇の命により足利尊氏が 建てた天台宗の寺。金沢街道を進み、「岐れ道」という地名の分岐点をお宮通りに入り、鎌倉宮方面に。鎌倉宮前を右折。

永福寺
しばらくいくと永福寺跡。「えいふくじ」ではなく「ようふくじ」。開基は源頼朝。奥州平泉を攻め落とし、頼朝は鎌倉に凱旋。平泉の中尊寺大長寿院(二階大堂)をモデルに、永福寺・二階大堂の建立を決定。奥州征討の戦死者を祀ることが目的。ちなみに、このあたりの二階堂という地名はこのお寺・二階大堂から。おちついた住宅街を進み瑞泉寺に。

瑞泉寺
瑞泉寺瑞泉寺は鎌倉幕府の重臣・二階堂道蘊が瑞泉院として建立。足利尊氏の四男・鎌倉公方・足利基氏が瑞泉寺に。中興の祖となる。以降、鎌倉公方の菩提寺となり、鎌倉五山に次ぐ関東十刹の第一位の格式を誇る。臨済宗円覚寺派。いい雰囲気のお寺さん。品がいい。素敵な邸宅といった趣。庭もいい感じ。夢想疎石作との伝え。夢想疎石は京都の苔寺・西芳寺や天竜寺といった庭園で有名な寺院も後につくっている。鎌倉期唯一の庭園として国の名勝に指定されているのも納得。そういえばこの夢想疎石、鎌倉の浄智寺の住職、円覚寺の住職も歴任した仏教界の重鎮。政治との関わり。も深く、後醍醐天皇や北条、足利氏と交わったと。円覚寺の開祖・無学祖元の流れを汲む高僧である。
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天園ハイキングコース
瑞泉寺を出て、天園ハイキングコースへ。瑞泉寺の入口にハイキングコースの掲示が。掲示に従って動いたはずだが、住宅街の中で道に迷う。元に戻る。道脇にほんの人ひとり通れるくらいの細い道。これがハイキングコースの入口。多くの人は見逃すだろうな。ともあれ、山道を建長寺に向かって歩く。

貝吹地蔵
野趣豊かな尾根道を上るとお地蔵さん。貝吹地蔵。新田義貞軍に破れ、北条高時自害。その首を守りながら敗走する北条氏の部下たちを助けるべく、貝を吹き鳴らして 先導したという伝説のある地蔵。

天園峠の茶屋
アップダウンの山道を歩くと天園峠の茶屋。ちょっと休憩。眼下の鎌倉の山々が美しい。相模湾も光っている。天園は別名、「六国峠」とも。武蔵、相模、上総、下総、伊豆、駿河が望めることができたから。このあたりは一部舗装。左手は鬱蒼とした森、右手はゴルフコース。このアンバランスはかえって新鮮。

大平山の頂
天園一部舗装の道を進み、ゴルフ場のクラブハウスっぽい建物の横、広場を通ると眼前に岩場。岩場を上り、大平山の頂上に。鎌倉アルプスの最高峰、といっても159メートル。鎌倉アルプスの尾根道を進む。アップダウン、心地よい。道脇には無数の「やぐら」が。更に進むと覚園寺分岐に。更に尾根道を。左手は深い山々、右手は民家が迫る。このアンバランス。
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勝上嶽
勝上嶽に。道案内に「明月院方面は右」と。まっすぐ進めば半僧坊から建長寺総門まで30分弱。はてさて、と一瞬の迷い。あじさい寺としても有名 な、明月院、ってどんなお寺さんかといった興味もあり結局右手に進む。狭いブッシュの多い下り道を進むと、宅地・住宅街に出る。ハイキングコースの掲示に瑞泉寺からここまで4.1キロと書いてあった。

明月院
明月院宅地を道なり、というか適当に歩き、明月院・北鎌倉駅への掲示を見つける。駅まで1.5キロ程度。左に折れ、坂道を結構下る。結構歩く。明月院前。このお寺も関東十刹のひとつ。もとは北条時頼の建てた最明寺。その跡に、子の時宗が禅興寺を建立。明月院はこの塔頭として室町時代、関東管領上杉憲方によって建てられた。将軍足利氏満の命による、と。室町幕府三代将軍・足利義満の時代に禅興寺は関東十刹の一位となる。が、明治初年に禅興寺は廃寺となり、明月院だけが残る。明月院は〝アジサイ寺″として有名。 鎌倉十井の一つ「瓶ノ井(つるべのい)」がある。やぐらは鎌倉時代最大のもの、である。後は一路JR北鎌倉駅に。
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ずっと気になっていた天園ハイキングコースも走破、というほど大そうなものではないけれど、ともあれ全コースを歩き終えた。本当にいい感じの山の散歩道。葛原岡ハイキングコースも大仏ハイキングコースもよかった。鎌倉は三方を山に囲まれたた要害の地で、鎌倉と他地との往来は七つの切り通しが、といった記述も歩いてみた本当にそのとおり、と実感。地形図をご覧のとおりである。
エトアニア室内管弦楽団の演奏会がきっかけで鎌倉に来た。1回のつもりが3回になってしまった。鎌倉にそれほど興味があったわけではないが、山の散歩道の素晴らしさ惹かれたのだろう。
で、メモをする過程で鎌倉とか頼朝とか北条とか、いろいろ整理することができた、いくつか気になることをメモしておく。真偽のほど定かならず。自分だけが納得
。 1. 鎌倉に「幕府」はなかった。「幕府」とは一種の戦地作戦参謀室といったもの。鎌倉幕府と呼ばれたのは、徳川幕府ができてから。徳川幕府と区別するために、以降鎌倉幕府と呼ばれるようになった。で、鎌倉時代には「鎌倉殿」とだけ呼ばれていた。
2. 頼朝の鎌倉武士政権の歴史的意味は、律令制に対するアンチ・テーゼとして。律令制の根幹をなす、「公地公民=土地はすべて国のもの」に対し、開拓民というか屯田兵というか、ともあれ、武士が「自分で開拓し切り開いた土地は自分のもの」という主張を明確にしめした。律令制度の崩壊を決定的にしたこと。
3. 頼朝といったところで、御大将というよりも、関東武士団の対朝廷土地問題利益代理人といったところ。関東の土地問題を公平に裁き、その土地の所有権を朝廷から認めさすのが最大で唯一の職務。
4. 源氏は三代で滅ぶ。そのあと北条氏が執権として将軍を補佐。実質的に政権を動かす。で、将軍は?藤原氏や天皇家から将軍を迎えていた。いうまでもなく北条の傀儡将軍。 5. 北条氏って、頼朝時代の政子、時宗、滅亡時の高時など、あまりいい感じの人物がいないと思っていた。が、北条泰時さん。結構格好いい。じっくり調べて見たい人物、というのが今回わかった。
快適な3つの散歩道と北条泰時という人物に「出会った」のがこの鎌倉散歩の大きな収獲であった。
二回目は北鎌倉から大仏様へと向かう尾根道のハイキングコースを歩く。大仏さまからは、再び東に戻り、佐助稲荷から源氏山を越えて、寿福寺脇に下る。本来であれば、葛原岡ハイキングコースから大仏ハイキングコース、そして江ノ島あたりでひとつ。葛原岡ハイキングコースから寿福寺、そして鎌倉市内がひとつ、といったものだが。今回は足に任せた欲張りなコースとなった、よう。ともあれ今回のコースは、野趣豊かなハイキングコースである。







本日のコース: JR 北鎌倉駅 > 葛原岡神社 > 日野俊基の墓 > 化粧坂 > 銭洗い弁天 > 大仏切通 > 鎌倉大仏 > 佐助稲荷 > 源氏山公園 > 寿福寺 > JR 鎌倉駅

葛原岡ハイキングコース
JR北鎌倉駅で下車。道を進み、浄智寺への入口に葛原岡ハイキングコース・大仏ハイキングコース入口の案内が。浄智寺脇>葛原岡公園>源氏山公園>大仏へと 続くよう。源氏山公園から化粧坂に戻ればいいと方針変更、このルートから源氏山に向かう。

浄智寺脇の坂をゆっくり上る。次第に山道。アップダウンも激しい。木の根っこに足を掛けながら登り下り。1キロ、20分か30分程度の尾根道だと思うのだが、結構な山道である。途中下り坂っぽい分岐もあるが、案内は見当たらない。ルートを外れたのかと不安になりながら進む。





葛原岡神社・日野俊基の墓
開けた場所に。「文章博士の日野俊基の神社はこちら」の案内。葛原岡公園に着く。文章博士とは、作文が上手な人っていうわけではない。律令制の大学で詩文、歴史等を教える大先生ってわけ。
太平記第二巻「俊基朝臣再び関東下向の事」に、 「落花の雪に踏み迷う、片野の春の桜狩り、紅葉の錦きて帰る、嵐の山の秋の暮れ、一夜を明かす程だにも、旅寝となれば物憂きに、恩愛(おんあい)の契り淺からぬ、我が故郷(ふるさと)の妻子(つまこ)をば、行方も知らず思いおき、年久しくも住みなれし、九重の帝都をば、今を限りと顧みて、思わぬ旅に出でた まう、心の中(うち)ぞ哀れなる」。
後醍醐天皇の意を受け、倒幕を計画。露見し逮捕され鎌倉送り。天皇の弁明もあり釈放。これが正中の変。これにめげず再 度倒幕計画。またまた発覚。元弘の変。再度鎌倉送り。上の文章はその折の作。きらびやかで、道行文の傑作とのことだが、内心はいかばかりか。重犯であり、 さすがに今回は助かるはずもなく、いつ殺されるかといった恐怖の中での文章。実際、この葛原で斬殺される。

化粧坂
葛原岡神社、日野俊基の墓をまわり、源氏山公園に向かう。道の途中に化粧坂。「化粧坂」の由来は、討ち取った平家の武将の首実検のため、化粧を施した、とか、坂の麓に遊女がいた、とかあれこれ。それよりも、ここは鎌倉七口のひとつであり、攻防戦の重要拠点。新田義貞の鎌倉攻めの場合も、この地で合戦があった。が、結局ここを破ることはできず、有名な稲村ヶ崎の渡り、鎌倉攻略と相成る。


源氏山公園
源氏山公園は白旗山、 旗立山とも。頼朝の祖先である源頼義、(八幡太郎)義家親子が後三年の役で奥州に向かう際、源氏の白旗を立て、勝利を祈願したことに由来する。頼朝も平家追討に際し、この地で戦勝を祈願したとか。頼朝の像もあった。
源氏山公園からハイキングコースはいくつか選択肢がある。化粧坂から海蔵寺へのルート、英勝寺に下りるルート(通れないとの案内があったよう)、寿福寺へ下りるルート、銭洗弁天へのルート、佐助稲荷へのルート、大仏ハイキングルート、など。今回は大仏ハイキングコースを歩くことにする。先回の天園コースに続き、鎌倉の尾根道を楽しむことになる。


銭洗弁天
大仏ハイキングコースに向かうとすぐ、「銭洗弁天へ、150メートル」の案内。ちょっと寄り道を。坂を下り、洞穴をくぐり弁才天に。頼朝が夢に現れた老人のお告げで岩から湧き出る霊水を発見。社を建てて宇賀福神=弁天さまを祀ったという言い伝え。この霊水、鎌倉五名水のひとつ。この水でお金を洗うとお金がたまるというが、ザルで小銭を洗うこともなく上之水神社に。脇からあふれ出る湧水が。また崖の中腹から滝のごとく水が流れ落ちる。素敵な眺め。コースに戻る。   (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

大仏ハイキングコース
大仏ハイキングコース降り口大仏ハイキングコース。公園からしばらくは民家ある眺め。道幅も広い。が、次第に本格的ハイキングコースに入っていく。葛原岡ハイキングコース同様、急な上り・下り、木の根に足を掛けての山道が続く。途中で道が二手に分かれる。標識がなかったのでなんともいえないが、佐助稲荷へ降りて行く道だったのだろう。ともあれ、道なり、と思しき踏み分け道を歩く。きつい下り坂を乗り越え平地に。大仏トンネルの脇に出た。
大仏坂切通しはこのあたりの、はず。残念ながら案内がなく切通し跡を訪ねることはできなかった。あとから調べると、このトンネルの北から切り通し跡の道が続いているようだが、トンネルの出口あたりで道は切れていた。次のお楽しみ、と。2キロ弱の山道ハイキングであった。
photo by Koichi Suzuki

鎌倉大仏・高徳院
600メートルほどで大仏さんのある高徳院に。あまりの人の多さに圧倒され、大仏さんは頭だけ外から眺め、スキップ。みやげ物屋が並ぶ長谷通りを下り、長谷観音前を左折。由比ガ浜大通りを東へと。次は平地を少し東に戻り佐助稲荷へと。


佐助稲荷
浄智寺由比ガ浜大通を歩く。道脇に平盛久の碑が。戦に破れた平盛久は捕らえられて鎌倉へ。処刑の日を迎えたが盛久を斬ろうとした刀が何故か折れてしまう。日頃から清水の観世音を深く信仰していた故か。頼朝に許された盛久は、これも観音のおかげと喜びの舞を舞ったとか。
笹目の交差点あたりで左折し北に向かう。佐助1丁目から法務局前交差へ。銭洗弁天、佐助稲荷への案内掲示。銭洗弁天、佐助稲荷は結構近かった。佐助2丁目で左折し、佐助稲荷へ。
鬱蒼とした森を奥へと。赤い鳥居をくぐり社殿に。神社の縁起によると、伊豆配流 となっていた頼朝の夢枕に鎌倉鎮座の稲荷神と名乗る翁現れ、頼朝の平氏追討、天下統一を告げる。鎌倉幕府を開いた頼朝はこの地に稲荷社があることを知り社殿を立てたとか。よくある話。ちなみに佐助とは頼朝が右兵衛佐(うひょうえのすけ)の官職にあったため「佐殿(すけどの)」と呼ばれていた。で、佐助稲荷、「佐殿を助けた」の意味でこの名がつけられたと言われている。
photo by Sig.
源氏山公園から寿福寺
佐助稲荷から、源氏山公園は近い。ということで、源氏山公園に戻り、そこから寿福寺へ下りるコースに向かう。銭洗弁天横の坂を再び登り、源氏山公園に。寿福寺への下り口を探す。結構わかりにくい。あれこれ大回りし、なんとか下り口に。すこぶる険阻なる山道。整地されてなどいないし、すごい坂道。ブッシュもあるし、人ひとりかろうじて通れるような岩場の裂け目を下りるわけだし、途中には寿福寺の墓地に紛れ込みそうになるし、いかにも不気味な「やぐら」はあるし、いやはやな山道走破を求める方にはお勧め。

寿福寺

寿福寺臨済宗建長寺派の寺。鎌倉五山第三位。源頼朝没後、北条政子の発願で伽藍を建立。明庵栄西が開山。 頼朝の父義朝の館のあった所、とも。また、裏手の源氏山は源頼義・義家(八万太郎)が戦勝祈願をしたところ。源氏ゆかりの地である。ために、頼朝は当初ここに幕府を構えようとした、とか。境内には源実朝、北条政子の墓。そのほか、高浜虚子、大仏次郎さんなどが眠る。栄西の『喫茶養生記』や地蔵菩薩は国の重要文化財(「鎌倉国宝館」にある)。『喫茶養生記』はお茶の製造法、効用などが書かれている。栄西禅師が喫茶の習慣を日本にもたらした、という所以である。
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JR 鎌倉駅
寿福寺前からJRの踏み切りを渡り、雪ノ下地区を歩いていると、お屋敷。外国映画の輸入・配給でよくお名前を聞いていた川喜多かしこさんの邸宅だった。後は一路鎌倉駅に向かう。

 
鎌倉は三方を山で囲まれている。鎌倉アルプスなどとも呼ばれている。アルプス、とは言うものの標高は150m程度。山登り、というほどのことはない。その尾根道にはいくつものハイキングコースが整備されている。尾根筋から眺める鎌倉の街並み、そして、その前に広がる湘南の海は、なかなかの景色である。
山に向かえば、「切通し」にも出合える。切通し、って山を切り崩した道である。昔、鎌倉に入るには、渚沿いの道のほかは、「切通し」を通るしかなかった、という。よく聞くのだが、歩いたことはなかった。ということで、鎌倉散歩は、古都を取り囲む山を歩き、そこに残る切通しの跡を巡る。あわせて、道すがら、名刹・古刹も訪ようと思う。
第一回は天園ハイキングコースから亀ケ谷・化粧坂切通しを辿るコース。北鎌倉の名刹からはじめ、鎌倉アルプスと呼ばれる標高150m程度の丘陵にある天園ハイキングコース歩く。ハイキングコースは尾根伝いに朝比奈方面・瑞泉寺のほうまで続いているが、今回は途中で尾根をくだり、鎌倉幕府が開かれた大蔵の地に下りる。そこで頼朝のお墓など名所を巡り西に向かい、亀ケ谷坂切り通し・化粧坂の切り通しを経てJR鎌倉駅に至る。




本日のコース:
円覚寺 > 東慶寺 > 浄智寺 > 建長寺 > 半僧坊 > 覚園寺 > 鎌倉宮 > 荏柄天神 > 源頼朝の墓 > 毛利季光・島津忠久の墓 > 亀ケ谷坂切り通し > 岩船地蔵堂 > 海蔵寺 > 化粧坂 > 英勝寺 > 寿福寺 > JR鎌倉駅

円覚寺
円覚寺横須賀線北鎌倉下車。駅近くに円覚寺。鎌倉五山第二位、臨済宗円覚寺派の大本山。文永・弘安の役、つまりは蒙古来襲の時になくなった武士をとむらうために北条時宗が創建したもの。読みは「えんがくじ」。開山は無学祖元。中国・宋の国・明州の生まれ。無学祖元禅師の流れは、夢窓疎石といった高僧に受け継がれ、室町期の禅の中核となる。五山文学や室町文化に大きな影響を与えたことはいうまでもない。
ところで、時宗が執権職についたのは18歳の時。亡くなったのは33歳。その間、文永・弘安の役といった国難、兄・時輔らとの内部抗争、日蓮を代表とする批判勢力の鎮圧、といた数々の難題。年若き時宗だけで、対応できるとも思えない。第七代執権・北条政村を筆頭に、金沢実時、安達泰盛といったベテランがバックアップしたのであろう。
舎利殿は国宝。
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東慶寺
東慶寺円覚寺を出て鎌倉街道を少し南に下り東慶寺に。お寺でもらったパンフによると「開山は北条時宗夫人覚山尼。五世後醍醐天皇皇女・用堂尼以来松ヶ丘御所と呼ばれ、二十世は豊臣秀頼息女天秀尼。明治にいたるまで男子禁制の尼寺で、駆け込み寺または縁切り寺としてあまたの女人を救済した」と。寺に逃げ込み3年間修行すれば女性から離縁することができたとのこと。
このお寺には多くの文人・墨客が眠っている。西田幾多郎(哲学者; 『善の研究」)、和辻哲郎(哲学者;『風土 人間学的考察』)、川田順(財界人・歌人。「老いらくの恋」の先駆者(?)。 そして、「何一つ成し遂げざりしわれながら君を思ふはつひに貫く」の歌)、安倍能成(骨太の自由主義者。一学校長・学習院院長・文部大臣。愛媛県松山生まれ)、鈴木大拙(禅を世界に広めた哲学者)、小林秀雄(文芸評論。『無常ということ』)などのお墓がある。あまりお寺っぽくない。品のいい日本邸宅のような趣。文人が好んで眠るのも納得。
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浄智寺
浄智寺少し進んで浄智寺。鎌倉五山第四位。臨済宗円覚寺派。執権北条時頼の三男宗政の菩提をとむらうために宗政夫人が開く。お寺から頂いたパンフレットによると、「浄智寺が建つ山ノ内地区は、鎌倉時代には禅宗を保護し、相次いで寺院を建てた北条氏の所領でもあったので、いまでも禅刹が多い。どの寺院も丘を背負い、鎌倉では谷戸とよぶ谷合に堂宇を並べている。浄智寺も寺域が背後の谷戸に深くのび、竹や杉の多い境内に、長い歴史をもった禅刹にふさわしい閑寂なたたずまいを保つ。うら庭の燧道を抜けると、洞窟に弥勒菩薩の化身といわれる、布袋尊がまつられている」。鎌倉の地形の特徴がよく現されている。
photo by Koichu Suzuki

建長寺
建長寺JR横須賀線の線路を越えると建長寺。巨福山建長興国禅寺。臨済宗建長寺派の大本山。五代執権北条時頼が蘭渓道隆(後の大覚禅師)を開山として創建。日本初の禅宗道場。 巨福門(こふくもん)と呼ばれる総門を越えると三門。禅宗では「山門」ではなく、「三門」と呼ぶことが多いようだ。「三門とは悟りに入る3つの法門、三解脱門のこと。つまりは空三昧・無相三昧・無願三昧の三つの法門」、と。
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半僧坊大権現
「天園ハイキングコース」は、建長寺境内からはじまり、裏山中腹の半僧坊から尾根道を歩き、鎌倉の山並みの最高峰・太平山、といっても156メートルだが、この太平山をこえ天園から天台山、そして瑞泉寺に降りるコース。
建長寺の境内を北に向かい250段ほどの階段を上ると半僧坊大権現。からす天狗をお供に従えた、この半僧半俗姿の半僧坊(はんそうぼう)大権現、大権現とは仏が神という「仮=権」の姿で現れることだが、この神様は明治になって勧請された建長寺の鎮守様。当時の住持が夢に現れた、いかにも半増坊さまっぽい老人が「我を関東の地に・・・」ということで、静岡県の方広寺から勧請された。建長寺以外にも、金閣寺(京都)、平林寺(埼玉県)等に半僧坊大権現が勧請されている。結構「力」のある神様、というか仏様であったのだろう。気になりチェック。
方広寺の開山の祖は後醍醐天皇の皇子無文元選禅師。後醍醐天皇崩御の後、出家。中国天台山方広寺で修行。帰国後、参禅に来た、遠江・奥山の豪族・奥山氏の寄進を受け、方広寺を開山した、と。半僧坊の由来は、無文元選禅師が中国からの帰国時に遡る。帰国の船が嵐で難破寸前。異形の者が現れ、船を導き難を避ける。帰国後、方広寺開山時、再び現れ弟子入り志願。その姿が「半(なか)ば僧にあって僧にあらず」といった風体であったため「半僧坊」と。

天園ハイキングコース
社務所前の小さな鳥居をくぐりハイキングコースに。樹林の中の起伏に富んだルート。遊歩道として整備されていることもなく、野趣豊か。木の根っこが飛び出す山道をどんどん進む。5分ほどで「勝上けん展望台」。名月院方面からの道が合流する。鎌倉の海の眺めが楽しめる。更に5分程度で「十王岩の展望」。かながわの景勝50選に選ばれた展望ポイント。海に続く一直線の若宮大路が見下ろせる。
「十王岩の展望」の先でコースは瑞泉寺へと続くメーンルートと、麓の覚園寺に下るコールに別れる。今回は、覚園寺へと下る。分岐点を5分も歩くと、「百八やぐら」。「やぐら」は横穴式のお墓。鎌倉では、岸壁や岩肌に横穴を掘って、そこに遺骨等を埋葬した場所を「やぐら」と言い、武士や僧侶の墓所であるとされている。 「やぐら」は鎌倉の谷戸や山間部の至るところに点在している。山に囲まれ土地が狭い故だろう、か。

覚園寺
覚園寺手付かずの自然の中を下ると覚園寺の脇に出る。覚園寺の創建は13世紀初頭、北条義時が薬師堂を建てたことにはじまる。その後薬師堂は足利尊氏によって再建。現在の薬師堂は江戸時代に作り直されたもの、と。薬師堂前の地蔵堂には全身黒ずんだお地蔵さん。蒲原有明の随筆『鎌倉のはなし』に、このお地蔵さんの記述が;「覚園寺の地蔵尊は地獄で獄卒にかわって火を焚き、罪人の苦痛をやすめたといわれ、世間では火焚き地蔵とも黒地蔵とも呼んでいる」と(『だれも書かなかった鎌倉:金子晋(講談社)』)。近辺の谷戸(津)には紅葉の名所も多い、とか。「獅子舞」、瑞泉寺のある紅葉ヶ谷(もみじがやつ)などである。
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鎌倉宮
宮が。明治天皇が、後醍醐天皇の第1子護良親王(もり ながしんのう)を祭「神として創建したもの。大塔宮護良親王は建武の新政の際の征夷大将軍。が、足利尊氏と対立して鎌倉に流され、後に暗殺される。小説で呼んでいた、親王が幽閉されていたという土牢もこの裏手にある。黒須紀一郎さんの『婆娑羅太平記』」などでの護良親王の姿にリアリティが出る、かも。
次はどこに。案内掲示をチェック。荏柄天神>源頼朝の墓>大江広元の墓>鶴岡八幡経由の建長寺とする。

荏柄天神
荏柄天神は日本 三大天神社(福岡・太宰府天満宮、京都・北野天満宮)の一つ。学問の神様として信仰されている。祭神は菅原道真。創建は平安後期と伝えられている。


源頼朝の墓
ちょっと歩き源頼朝の墓に。白幡神社を過ぎ、大蔵幕府跡が一望できる大倉山中腹にある、高さ約2mの層塔が頼朝の墓。53歳で亡くなったが死因不明。この墓は江戸時代、18世紀、薩摩島津藩島津重豪がつくったとのこと。右奥には三浦一族をまつる、「やぐら」がある。

大江広元・毛利季光・島津忠久の墓

源頼朝の墓の近くに大江広元の墓。あまり整備されていない階段をのぼり、結構寂しい場所の「やぐら」の中に祀られている。大江広元って結構面白い人物。無骨なる荒武者相手に文官として 頼朝の最高ブレーン、頼朝亡き後も北条政子や北条義時とともに北条氏の執権独裁体制を確立させるため奮闘した文治官僚。
で、この大江広元のお墓を囲むように、毛利季光、島津忠久のお墓。中国毛利家の藩主、薩摩島津家の藩主と大江広元や頼朝との関係は?
毛利季光(もおりすえみつ)。大江広元の四男。相模の国・毛利荘を領して、初めて毛利姓を称した。宝治・三浦の乱に三浦一門に組し、北条時頼軍に敗れ、源頼朝 の法華堂(白幡神社)で三浦一族郎党500名とともに自害。ちなみに、この戦いに参加しなかった毛利一族が安芸国に移り、これが、戦国大名毛利家の祖先と なる。 島津忠久。母は比企能員の妹・丹後局。一説には源頼朝のご落胤とも。宝治・三浦の乱で同じく法華堂で自決。薩摩藩主・島津氏の祖。島津家が頼朝の子孫と言うわけは、このあたりに。島津家が頼朝の墓をつくったりした理由も納得。

亀ケ谷坂切り通し
東御門から西御門地区、途中、頼朝が政務を行った幕府・大蔵幕府跡地、一遍上人が開山という来迎寺(あまりに普通のお寺さん)に寄り道しながら、鶴丘八幡を素通りし建長寺に戻る。西に向かい、「亀ケ谷坂切り通し」に。鎌倉七口のひとつ。観光用に一番綺麗に整備されている「切り通し」。
崖が「切り取られて」いる。国史跡、とはいうものの、地域の生活道路。山ノ内地区、つまりは大船・戸塚・武蔵方面と扇ガ谷(おうぎがやつ)地区を通じる路。亀ケ谷(かめがやつ)は扇ガ谷(おうぎがやつ)の古称。室町時代の関東管領が扇ガ谷上杉殿と山の内上杉殿に分かれて、といった話がよく小説に描かれているが、これがその扇ガ谷の地。ちなみに山の内地区は浄智寺のあたり。坂を下り住宅街に。

岩船地蔵堂
JRとの交差近くに岩船地蔵堂が。頼朝の娘・大姫の守り本尊と伝えられている。木曾義仲の長男義高に嫁いだ大姫は、父・源頼朝に夫を殺され自らも命を絶つ。その悲恋は「吾妻鏡」に記されている。


海蔵寺
JR横須賀線をくぐり海蔵寺近くへ。もうあたりは暗く、海蔵寺も階段の両側から草木が迫っているって感じを受けるだけ。海蔵寺の近くに鎌倉七切通しのひとつ、化粧坂への案内。とりあえず行けるとこまで行く。住宅街を進み、山道へ。整地なし。自然のまま。もう足元も見えなくなった。少々やばい。引き返す。で、英勝寺から寿福寺前を通り御成町から鎌倉駅に。本日の予定終了。化粧坂、あらから先はどうなっているのだろう、あのまま行けたのか、道に迷うことになったのか、心残り。明日も再度鎌倉だ!(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


後日談
家に戻り本棚を探し唐木順三さんの『あづま みちのく』を取り出した。大学生の頃読んだ本である。中に、「頼朝の長女」という記述がある。これって、つまりは、鎌倉・岩船地蔵尊で出会った大姫のこと。「頼朝の娘・大姫の守り本尊と伝えられている。木曾義仲の長男義高に嫁いだ大姫は、父・源頼朝に夫を殺され自らも命を絶つ。その悲恋は「吾妻鏡」に記されている。」と簡単にメモした。が、「頼朝の長女」を読んで、簡単なメモではなく、ちょっとまとめておこうと思った。以下、「頼朝の長女」からの抜粋;
1. 大姫は、女性史からだけでなく、中世史全体からみても留意すべき人であった、と唐木順三氏
2. 頼朝と木曽義仲の間柄が険悪になる。それは、甲斐源氏・武田太郎信光の讒言による。武田信光が娘を木曽義仲の嫡子・志水冠者義高にと思うが、木曽義仲にすげなくあしらわれプライドが傷ついたため。讒言の内容;木曽義仲が京に上るのは、平家と連合し頼朝を討つため、と。
3. 頼朝より;謀反なき証として、志水冠者・義高を鎌倉に送るなら、「父子の儀」をなすと。志水冠者は当時11歳。大姫6,7歳。許婚者となる。
4. 2ヵ月後義仲、京都に攻め込む。平氏西海へ逃れる。備中水島で平氏に敗れる。後白河法皇、鎌倉に義仲追討を命じる。範頼・義経軍に敗れ義仲、近江で敗死
5. 1184年(寿永3年)4月。頼朝が義高を亡き者にとの動きあり(「誅せらる可きの由、内々おぼしめし立ち。。。」:吾妻鏡)。大姫・大姫付きの女房たち、義高を逃すべ工作。義高女装。近習が冠者になりすます偽装工作。夕刻露見。頼朝激怒。
6. 頼朝;堀藤次親家に、義高を討ち取るべしとの下知
7. 大姫「周章して魂を、けさしめたまう」
8. 脱出6日目。堀藤次親家の郎党、藤内光澄帰参して曰く「志水冠者を入間川の河原で殺した」と。境川(東京都と神奈川県の境を江ノ島まで流れる)に沿って遡り、町田、府中、国分寺を過ぎて所沢に出て、そこから入間川に達したものと思われる。
9. 大姫、漏れ聞き愁嘆。母の政子も、姫の心中を察し哀傷殊に甚だしく、殿中の男女も嘆色を示す
10. 当時義高12歳。大姫8歳程度。
11. 政子の怒り;堀藤次親家の郎党、藤内光澄、斬首のうえさらし首。
12. 理由;志水冠者を殺して以来、大姫の哀傷いよいよ募り、病床に在って懊悩。日ごとに憔悴の度を加えている。志水冠者を殺したのが大姫憔悴の原因であるから、その郎党に責任がある
13. 1186年(文治三年)2月、吉野の蔵王堂で捕らえられた静御前が鎌倉へ護送。政子の再三の懇請により舞を。上下皆興感を催す。5月、大姫が鬱気を散ずるため参籠しているお堂に大姫の願いにより静が招かれる。2ヵ月後、静、義経の子出産。幕府の命により、由比ガ浜に棄てられる。大姫の愁嘆甚だしく、宥めるすべなし、と
14. 文治年間は大姫の病状は一進一退。大姫の発願により多くの寺で志水冠者の冥福をいのる催し。大姫も岩殿の観音堂に参詣。
15. 1191年(建久2年)、大姫15歳。病状、はなはだ御辛苦。御不例。頼朝、岩殿・大蔵の観音堂に参籠。大姫の快癒を祈る。「総軍家の姫君、夜よりご不例。是れ恒の事たりと雖も、今日殊に危急なり。志水殿の事有りしの後、御悲嘆の故に、日を追いて御憔悴、断金の志に堪えず。殆ど沈石の思いを為し給うか。且つは貞女の操行、衆人の美談とする所なり」と。頼朝、参詣・快癒祈願を繰り返す。
16. 京より一条高能、鎌倉に。頼朝の甥。大姫を一条高能に嫁せしめようと。鎌倉を離れることにより、過去を忘れさせんと。大姫、強いて言うなら「身を深淵に沈むべし」と。一途に亡き志水殿を慕っている。
17. 1195年(建久6年)、頼朝、奈良東大寺大仏落慶法要に。19歳の大姫も同行。在京100余日。大姫、後鳥羽天皇の妃として入内の工作。確か、平氏により大仏殿が焼け落ちたはず。
18. 京都から鎌倉に。大姫、いたく病む。入内拒否の故と。「心身常に非ず、偏に邪気の致す所か」。大姫拒否の理由は、志水冠者へのやみがたき思慕、懐旧に由ると『吾妻鏡』は言う。
19. 入内を自分の意思で拒んだ女性は歴史上、大姫以外に思い当たらない、と。このような未曾有のことが19歳ほどの若い女性によって行われ、その悩乱によって程なく死にいたったのである。1197年(建久8年)7月14日、「京へまいらすべしと聞こえし頼朝がむすめ久しくわづらひてうせにけり」と。
20. このような大姫、殺伐な世の中に己を持して生きていたということだけでも、私(唐木順三)は言っておきたい。
散歩のときの数行のメモ、ちょっと調べればその裏には、あたりまえのことながらすごい歴史が紐づいていた。そういえば、同じような生き方をした女性の本も最近読んだ。先日、渋谷散歩の際、学芸大学の古本屋で買った『千人同心』、また作家は忘れたが、『大久保長安』の中に登場した武田信玄の五女松姫の話。織田信長の長男・信忠との婚約の儀。松姫7歳、信忠11歳くらいか。輿入れの日を待つだけ。が、信玄と家康、三方が原で激突。信長は家康に援軍を。結果、武田・織田友好関係解消。松姫の婚約も解消。織田の武田攻めを逃れ、松姫武州恩方(東京都八王子)に逃れる。武田家天目山で滅亡。信忠本能寺で自刃。それより前、八王子に松姫がいることを知った信忠、妻に迎えたいとの使いを出し、松姫が信忠のもとに向かう途中で本能寺の悲報を聞いたといった、ドラマティックな説もある。松姫出家。信松尼で生涯を終えるまで、信忠の許婚としていき続ける。大姫も松姫も、雛人形のごとき思いを一生大切に、己を持して生きていた。
後日、義高が誅された入間の地、松姫が余生を過ごした八王子の心源院や信松院を訪れた。

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