土佐北街道散歩 ;国見山下山口から本山を経て立川川筋の柳瀬まで

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先回、少々難儀したが立川川の谷筋を柳瀬から旧立川番書院跡まで辿った。これで高知城下を発し、伊予の川之江で瀬戸の海に舟出するまでの土佐藩の参勤交代道・土佐北街道の途次にある権若峠、国見越え()、笹ヶ峰法皇山脈・横峰越えなどの山道を歩き終え、残すは土佐城下から権若峠まで、国見峠越えから立川川筋の柳瀬まで、そして法皇山脈を越えた金田集落から川之江までの里道のみとなった。
今回は 国見山を越えた下山口から立川川筋の柳瀬まで、実際は柳瀬で立川川左岸から右岸に渡る橋が大雨で落橋しているため柳瀬のひとつ南の集落、一の瀬に架かる金五郎橋を渡ることになるのだが、ともあれ立川川右岸山道に入る土佐北街道までを繋ぐこととする。

ルートを想うに、いまひとつはっきりとした道筋がわからない。あれこれチェックすると『土佐の道 その歴史を歩く;山崎清憲(高知新聞社)』という書籍があり、そこに土佐北街道の記事が載っているようである。内容を見たいのだが愛媛の田舎の家のある近隣の公立図書館にはなく、高知の南国市立図書館に蔵書があることがわかった。
どの程度詳しくルートが記載されているのかわからないが、取り合えずその書籍を頼りに南国市まで車で走り、内容を確認。大雑把ではあるが国見越えから立川川筋までの記載があった。 それによれば、国見越えの後は樫ノ木川右岸の吉延集落まで下り、そこで樫ノ木川左岸に移り、本山の町に。参勤交代の一行は本山に一泊した後、現し在の国道439号を吉野川右岸に沿って本山東大橋辺りまで進み、そこで吉野川を渡り吉野川左岸、現在の県道262号を立川川が吉野川に合流する川口まで進み、現在の新川口橋下流の立川川の渡しで立川川左岸に移り、現在の県道5号に沿って柳瀬(実際は一の瀬)まで北進したようである。
途中土佐北街道筋のお堂、石仏、燈明台、藩主休憩所など比定されたポイントの記載はあるが、詳細なルートの記載はない。ポイントとポイントの間は「感」を頼りに行くしかないか、と思い乍らGoogle mapを見ると、本山への道筋には「土佐北街道」と記載された道筋が見える。なんとなく「見えて」きた。依然「空白」部分もあるが、そこは「感」を頼りに進むべしと南国市図書館を後にし、一路スタート地点の国見越え下山口まで急ぐことにした。



本日のルート;
国見越え下山口>参勤交代道標識>分岐点>燈明台>>大杉と阿弥陀堂>石仏>大吉橋の西詰・東詰に見渡し地蔵>地図に記された「土佐北街道」と繋ぐ>展望所>十二所神社>「本山城跡周辺史跡めぐり」案内>下井>上井>土居屋敷跡>上の坊>山内刑部夫妻の墓所>本山の町を離れ国道439号に乗る>下津野>上関の渡し>本村の旧山下家薬医門>>奈路の切通し>葛原>立川川の渡し>一の瀬・金五郎橋>柳瀬


国見越え下山口
いつだったか国見山を越えた下山口、と言うか車で乗り入れられることができたピストンデポ箇所に。そこに「参勤交代道」の標識。国見方向と、車道下り方向を示す標識が立つ。車道に沿って吉延集落へと下る。
道の左手は崖。右手山側に標識などないものかと注意しながら車道を下る。

参勤交代道標識
しばらく車道を下ると道の右手にあらぬ方向を向いた木標が立つ。車道から右に逸れる道もあり、とりあえず右に入るが直ぐに行き止まり。元に戻り車道を下る。標識は左、車道道なりを示していたのだろう。

分岐点
そこからしばらく車道を下ると右に逸れる道がある。標識はないのだが、国土地理院の地図をチェックすると、如何にも吉延の集落へと下る旧道のように思える。地図にも??延集落へと実線が描かれている。取敢えず車道を右に逸れて集落の中を抜ける道を進む。

燈明台
標識もなくちょっと不安になった頃、道の左手に常夜灯が見える。ひょっとしてオンコース?常夜灯傍に「参勤交代道・北山越えの道 カバヶ岡の燈明台」とあった。特に案内はなく「カバヶ」の意味不詳。鰻の蒲焼(かばやき)は「蒲の穂(がまの穂)」に由来するけど、「蒲の穂」と関係あるのかな、などと妄想する。
燈明台と道を隔てた反対側に広い平坦地がある。上述書籍には街道筋に「大休場」があり、参勤交代の隊列を整え、また茶店や宿屋も数軒建っていたとの記事がある。この平坦地は休耕田のようにも思えるが、国見山から下る途次、大休場らしき場所を見ることはなかった。「大休場」何処にあるのだろう?平坦地から国見山方面を借景に写真を一枚。なかなか、いい。

大杉と阿弥陀堂
灯明台からほどなく右手に仁井田神社。その直ぐ先に大きな杉の木とその根元に阿弥陀堂が建つ。阿弥陀堂の周りは古き石仏が並び、その雰囲気は、いい。
杉は樹齢千年、高さ40mhどの古木。「オリドの杉」とも称される。「オリド」は地名のようだ。この大杉は土讃線大杉駅近く、八坂神社境内の樹齢三千年とも称される、日本一の大杉に次ぐ古木のようである。
仁井田神社
仁井田神社にはじめて出合ったのは浦戸湾の渡しに向かう途次。仁井田という地に鎮座する。由来をチェックすると、社の由緒には「古くは五社大明神とも言われていた。天正15年(1587)頃、高岡郡の仁井田明神(現四万十町窪川の高岡神社)を勧請して祀ったのが当社という」とあった。この説明だけでははるか離れた仁井田(現在の窪川一帯)と浦戸湾にほど近い仁井戸由神社の関りなどがわからない。さらにチェック。

あれこれデータを調べていると、『四万十町地名辞典』に、「仁井田」の由来については、浦戸湾に浮かぶツヅキ島に仁井田神社があり、由緒書きには次のように書かれてある。
伊予の小千(後の越智)氏の祖、小千玉澄公が訳あって、土佐に来た際、現在の御畳瀬(私注;浦戸湾西岸の長浜の東端)付近に上陸。その後神託を得て窪川に移住し、先祖神六柱を五社に祀り、仁井田五社明神と称したという。
神託を得て窪川に移住とは?、『四万十町地名辞典』には続けて、「『高知県神社明細帳』の高岡神社の段に、伊予から土佐に来た玉澄が「高キ岡山ノ端ニ佳キ宮所アルベシ」の神勅により「海浜ノ石ヲ二個投ゲ石ノ止マル所ニ宮地」を探し進み「白髪ノ老翁」に会う。「予ハ仁井ト云モノナリ(中略)相伴ヒテ此仕出原山」に鎮奉しよう。この仁井翁、仁井の墾田から、「仁井田」となり。この玉澄、勧請の神社を仁井田大明神と言われるようになったとある」と記す。
仕出原山とは窪川の高岡神社(仁井田五社明神)が鎮座する山。仁井田の由来は「仁井翁に出合い里の墾田」とする。
物語の主人公である伊予の小千玉澄公は『窪川史』に新田橘四郎玉澄とあるわけで、普通に考えれば仁井田は、「新田」橘四郎玉澄からの転化でろうと思うのだが、仁井翁を介在させることにより、より有難味を出そうとしたのだろうか。
もっとも、新田橘四郎玉澄も周辺の新田開発を行ったゆえの小千(後の越智)から「新田」姓への改名とも思えるし。。。?ともあれ、土佐を歩くと仁井田神社に時に出合う。

石仏
大杉の残る阿弥陀堂前から道は幾筋か分かれる。西へと下る道は新しそう。南に向かう道を進むと先ほど逸れた車道に合流。その合流点に石仏が立つ。石仏が佇むとすれば、ひょっとしたらこの道筋が土佐北街道のオンコースかも。






大吉橋の西詰・東詰に見渡し地蔵
『土佐の道』には、参勤道はここから樫ノ川を渡り本山に向かったとする。道を下ると樫ノ川に大吉(おおよし)橋が架かり、その東詰め・西詰に見渡地蔵と彫られた石仏が祀られていた。嘉永六年と刻まれる。1853年に祀られたということだ。
往昔、この地は飛び石により渡河したとのことである。

地図に記された「土佐北街道」と繋ぐ
樫ノ川を渡ると大岩地区。その先、土佐街道はどう進む?地図をチェックすると北東に突き出た尾根筋を廻り込んだ辺りまで「土佐北街道」と記載されている。橋からその間のルートは不詳だが、地図に記載されている「土佐北街道」まで成り行きで、それらしき道を進む。特段の標識はない。ともあれ、地図に記載の「土佐北街道」と繋げた。

展望所
北東に突き出た尾根筋をぐるりと廻り先に進むと、道脇に本山の町を見わたす展望所があった。そこで少し休憩。本山の町は吉野川によって形成された河岸段丘に開かれたような景観を呈する。
本山の町
地図を見ると本山周辺では吉野川が大きく蛇行して流れる。そのため河岸段丘が発達し、四国山地の中に位置するにもかかわらず古くより人々が暮らしていた。町内には上奈路遺跡、永田遺跡、銀杏ノ木遺跡、松ノ木遺跡と縄文・弥生時代の遺跡が残る。中でも松ノ木遺跡(本山町寺家周辺)はほぼ完全な土器が出土し注目を集めている、という。古代、四国山地を越えて土佐の国府に通じる官道の駅、吾椅(あがはし)がこの地に比定されるのも故無きことではないように思える。  
大岩
上述『土佐の道』には本山に廻り込んだ道筋には高さ9m、幅18mほどの大岩が道筋にあるとのことだが、気がつかなかった。大岩地区の地名由来の岩である。

十二所神社
地図に記される「土佐北街道」、といっても舗装された快適な道ではあるが、本山の町並みの少し高台を走る山裾の道を西進する。山側には道に平行して水路が続く。道と水路が北に向きを変えるところに鳥居が建つ。参道を南に進めば十二所神社が鎮座する。
社の由来案内に拠れば、沿革は「長徳寺文書」に承元2(1209)年の「十二所、供田」が初見とあるように古き社である。また弘安11(1288)年2月の文書には「土佐国吾橋山長徳寺若王子古奉祀熊野山十二所権現当山之地主等為氏伽藍経数百歳星霜之処也(以下略)」と、ある。熊野十二所権現を勧請したものだろう。平安末期、この地は熊野社領の荘園・吾橋(あがはし)荘が設置されており、熊野十二社権現が勧請されることは至極自然なことであろうかと思える。
「土佐州郡志」に「帰全山、或は之を別宮山と謂う 旧(もと)十二所権現社有り今は無し」と記し、当社が古代から中世にかけて、??野川対岸の帰全山に鎮座して居たが、戦国乱世の永禄年中、本山氏と長宗我部氏との合戦で兵火に罹災し、帰全山から永田村今宮に移り、慶長15(1610)年5月に再建され、寛永15(1638)年12月、領主野中兼山公のとき、現在地に遷った。
明治元(1868)年、十二所大権現を十二所神社と改称。
十二所権現
熊野の神々のことを熊野権現(くまのごんげん)と称する。熊野三山(本宮・新宮・那智)のそれぞれの主祭神をまとめて呼ぶ場合は熊野三所権現といい、熊野三所権現と熊野三山に祀られる他の神々(五所王子・四所明神)を合わせて熊野十二所権現と称する。
領主野中兼山
領主野中兼山?本山は野中兼山の領地であった。江戸時代初期の土佐藩家老。藩政改革を実践し、港湾修築、河川の利水・治水事業による新田開発など功績を上げるも、その過酷とも言われる施策により政敵との対立を深め、後年は罷免・失脚し失意の中虚しくなった。 残された家族への処遇も過酷であり、男系が絶えるまで幽閉生活が40年以上続いたという。この間の事は『婉という女;大原富枝』に詳しい。婉は兼山の娘。4歳で幽閉され、以降40年間外部との接触を禁じられ、43歳で幽閉を解かれた。

過日遍路歩きの途次、折に触れた兼山の事績に出合った。津呂の港の改修工事新川川・唐戸の切通し物部川流域の治水・利水事業春野の治水・利水事業などが記憶に残る。

「本山城跡周辺史跡めぐり」案内
十二社神社を離れ本山の藩主宿泊所であった土居屋敷跡、別名本山御殿に向かって南へと向かう。途中西進する水路と分かれ坂道を下りると四つ辻があり、そこに」本山城跡周辺史跡めぐり」案内があった。
実のところ、この案内を見るまで本山町のことは何も知らず、何故にこの山間の町が古代官道の駅・吾椅(あがはし)として開けたのだろう、などと思っていたのだが、本山城跡や十二所神社、土居屋敷や上の坊といった史跡案内をみて古代より近世に至るまで要衝の地として開けていたことがわかり、この町が古代官道の駅と比定されたことも少しリアリティをもって感じることができた。
上井と下井
土佐北街道沿いの下井
十二社神社前を流れる下井
それはともあれ、案内で最もフックがかかったのはそこに描かれたふたつの水路。上井(ゆわゆ)の道、下井(したゆ)の道と記され、野中兼山が作った水路沿いの道、とある。しかも土佐北街道に沿った水路は下井の流れであった。 「疏水萌え」としては見逃してはならじと、知らず歩いた疏水へと引き返すことに。
坂を上り返し十二社神社鳥居まで引き返し、道の山側を流れる下井を少し戻る。水路は途中土佐北街道から上側に逸れ先に続く。また、十二社神社傍の下井から少し山を上ると上井の流れが東西に走る。時間があれば上井も下井もどこからどこまでとカバーしたいのだが、残念ながら本日はその時間がない。心残りではあるが元に戻る。

上井
上井から見た本山の町
途中地元の方にお聞きすると、上井は樫ノ川の??延、下井は同じく樫ノ川の高角に取水堰(頭主工)があり、本山の天神前へと進むとのこと。あれこれチェックするが、まったく記事がヒットしない。流路がわからない。樫ノ川に架かる大吉橋の上流と下流に取水堰らしき(思い込みだろうが)記号が見えるが、標高の関係でうまく流路が繋がらない。これはもう、機会をみて再訪すべしと今回はここで思考停止としておく。ともあれ、兼山の領地にも疏水があったことがわかっただけでよしとしておく。

土居屋敷跡
上井、下井の疏水から「本山城跡周辺史跡めぐり」案内の立つところまで戻る。案内図の地図に従い土井屋敷跡に成り行きで向かう。ほどなく土居屋敷跡。現在は公園となっていた。
案内には、「史跡 土居屋敷跡 Remains of the Doi Residence 土居屋敷跡は戦国時代に本山地方を本貫とした本山氏の土居(館)であった。近世初頭には本山に封ぜられた山内刑部・但馬父子、続いて野中玄番・兼山父子の4代にわたる屋敷となった。兼山時代の土居は上段・中段・下段からなり、入り口下段に文武館、中段に長屋門の諸建物があり、上段に本宅があった。(皆山集)
兼山失脚後は藩士の在番が置かれ、享保3(1718)以降は本山倉番、土居門番が配置された。 参勤交代に土佐街道(北街道)が用いられるようになると参勤交代時の藩主の宿泊所にあてられ、以後「本山御殿」と称されるようになる。この土居屋敷を中心に周辺に「土居下町」と呼ばれる小規模な町場が形成されていた。明治になって建物は取り壊され、跡地は桜の公園として整備されている。(史跡) 本山町教育委員会」とあった。
少し昔の「本山土居跡」案内
Google Street Viewで土井館跡を見ていると、現在の案内ではない古い案内が立っていた。説明が少し詳しいので掲載しておく:
「本山土居跡土地の豪族本山氏の土居の一つで 天正十七年(1586)長宗我部検地当時は本山采女が住んでいた。山内一豊の土佐入国後 慶長六年(1601)山内刑部 (永原一照)が本山千 三百石を与えられてここに住んだが、その子但馬は私曲の罪によって元和六年(1620)知行を没収されて 佐川の深尾家に預けられたためそれ以来本山土居はしばらく領主不在となった。
寛永七年(1630)野中直継が本山土居を預けられて千石を加増せられ養嗣子兼山も当然これを受けついだ。 兼山は藩主忠義の厚い信頼をえて藩奉行職として敏腕を発揮したが本山領主としても吉野川の支流の樫ノ川や本能津川に下津野堰、トドノ堰、ノボリ立堰、カタシ山堰 井口堰を設けて用水をひいて多くの新田を開発し、その余沢を現在にまで及ぼしている。又寛永二十年(1643)に発せられた「本山掟」は兼山と領民をつなく歴史的文書といえよう。
寛文三年(1663)兼山失脚後本山土居は山内下総に次いで孕石頼母らによって管理されたが明治になってすべての建物が取りこわされ、今はその石垣にわずかに面影をしのぶばかりである」。
下津野堰は樫ノ川にあったようだが、その他は不詳。
本山掟
兼山は、本山掟とか、国中掟、広瀬浦掟などを作って、農政を行っている。本山掟(643 )の内容は;
〇お上や法律にそむかないこと。
〇荒地が少しでも残らないように開き、田地にせよ。精を出して開けば開 けばほうびをあたえる。3年・5年・7年の間は年貢を取らない。
○年貢は全部11月までにおさめよ。畑作の年貢分は6月までに全部おさめよ。
○作った米の3分の1は百姓のとり分であるが、秋冬はぞうすいを食べよ。春までたくわえずに、めしや酒にして食べてしまったものは死刑にする。
庄屋はよく調べて、そむいているものがないようにせよ。かくしておいてあとでわかったら、庄屋もともに処分する。
○酒を買って飲んだり、朝ねをしてはならない。そむく者があれば銀三匁(およそ6000円)の罰金をとる。赤面三匁〉赤面三匁、生酔い五匁、千鳥足十匁。
○家や着物がそまつなことはかまわない。法で定めているより良くすることは許さない。 このおきてにそむく者があれば、本人はもちろん庄屋も罰する」といったもの。

厳しい施策をとったと言われるが、実際にこんな掟を見ると農民の怨嗟を買ったということも頷ける。
土居
土佐では城館のことを「土居」と称していた。幕府の一国一城制により支城は破却されるが支城のあったところは要衝の地。山内氏も土佐入国に際し、佐川、窪川、本山、宿毛、中村、安芸といった要衝の地に土佐入国以前の掛川以来の重臣を配し、破却された城近くに館を構え領国経営にあたった。これが土居制度であり、本山土居、安芸土居などと称された。
参勤交代の人数
ところで20万2600石余りとされる土佐藩の参勤交代の人数はどのくらいだったのだろう。「二文研叢書;ヴァポリス コンスタンチン」には。「初期の記録によると、正保2年(1645)には、1,477人であつたが、次第に増加して、元禄一10年(1,697)には、2,813人に上った。(中略)享保元年の改革(私注;将軍吉宗による幕政改革:1716)で一 時急に528人までに減って、享保三3年(1,718)に部分的に取り戻し1,799人に上った。それ以後、数字は見たらないので、よくわからない。それにしても、天明頃(1781-1789)には土佐藩の大名行列の評判はまだ高いように思われる。天明の革命に参加した役人によると、「 所々にて評す、今に西国四国諸侯の御人数土州ほど大勢なるはなし」とのことだ」とある。
なお、上述供揃えの人数に占める士分の数は正保2 年(1645)の、1,477人中、198名。行列に占める割合は13.4%,全士分1,695人に占める割合は11.7%となっている。記録に残るその他のケースをみうと、行列に占める割合は4.6%から13.4%,全士分に占める割合は4.5%から11.7%となっていた。
それにしても供揃えの数が多い。参勤交代は常在戦場を表すため、旅装というより軍装であり、享保6年(1721年)、幕府は参勤時の従者の数を定めた。その『御触書寛保集成』に拠れば、1万石の大名は騎馬侍3~4騎、足軽20人、人足30人。10万石の大名は騎馬侍が10騎、足軽80人、人足140~150人、合計で240人。20万石以上で、騎馬侍15-20、足軽120-130、人足250-300と定められている。
これからすれば20万2600石の土佐藩は500名ほどとなる。が、実際はその4倍もの人が動いているときもある。この数には先遣隊も含めたものであり、実際の参勤交代時に動く人数はずっとすくなかったともいうが、それにしても多い。
あれこれチェックすると、参院交代に際しては幕府の定めた数は守られなかった、という。その因は、大名が己が格を世間にアピールするため、とのこと。
これでは世に喧伝される参勤交代は各藩の経済力を削ぐための施策という話と辻褄が合わない。 新田開発に努め幕末の頃は20万2600石余りという本石高と同等の新田収穫があり、実勢石高は49万40007石余に達していた豊かな藩となっていた土佐藩ゆえの「西国四国諸侯の御人数土州ほど大勢なるはなし」ということだろうか。よくわからない。

上の坊
西進する下井
「本山城跡周辺史跡めぐり」案内にあった上の坊は土居館跡からそれほど離れていない。案内に兼山が山崎闇斎を招いて土佐南学を講究したとあった。ちょっと立ち寄る。

土居館跡前の道を西進。下井の流れを跨ぎ少し山に入ると小さな祠があり、その脇に「上の坊」の案内があり、「史跡 上の坊 本山南学寮跡 野中兼山が儒学者山崎闇斎を招いてこの場所にあった古寺で土佐南学を講究したといわれる。兼山は禅学より儒学に転向し、勉学に励み南学(海南朱子学)といわれるまでにその学問を発展させた」とあった。
南学
土佐を歩いていると、、雪蹊寺の案内にもあったように時に「南学」という朱子学派が顔を出す。歩き遍路で三十三番札所を打ったとき、そこには「江戸時代初期には「南学発祥の道場」といわれ天室僧正が朱子学南学派の祖として活躍、野中兼山などの儒学者を生み出した」との案内もあった。コトバンクによれば「天文 17 (1548) 年南村梅軒により南海の地土佐に興った朱子学派。海南学派ともいう。京学,東学に対する称。四書を重んじ,道学者的態度を固持するとともに実践躬行を尊び,実際政治に参与した。
梅軒のあと,吸江庵の忍性,宗安寺の如淵,雪蹊寺の天室らを経て,谷時中にいたって仏教から完全に独立し,基礎を固めた。その門人に野中兼山,小倉三省,山崎闇斎が出た。のち三省の門下から,谷一斎,長沢潜軒,大高坂芝山らが出,また闇斎の門弟,谷秦山が帰国して,南学を振興した。
人間系譜は以上のようにたどれるものの,三省が世を去り,兼山が失脚して藩府より南学派は弾圧を受けて両人の門人や闇斎も土佐を去り,土佐における南学派は一時中絶した。秦山が復興した教学は三省,兼山までの本来の南学と質を異にし,京,江戸の学風の移入とみることができる。もっとも秦山は大義名分論に立つ尊王思想を説き,幕末勤王運動に影響を与えたが,こうした政治と結びついた強い実践性の点では,広い意味での南学は一貫している」とあった。
山崎闇斎
江戸時代前期の儒学者・神道家・思想家。朱子学者としては南学派に属する。闇斎によって論じられた朱子学を「崎門学」または「闇斎学」という。君臣の厳格な上下関係を説き、大義名分を重視した。
闇斎は朱子学だけでなく神道についても論じた。吉川惟足の吉川神道を発展させて神道と儒教を合わせた「垂加神道」を創始し、そこでも君臣関係を重視した。垂加神道は、神を信仰し、天皇を崇拝するというもの。天照大御神に対する信仰を大御神の子孫である天皇が統治する道を神道であると定義づけ、天皇への信仰、神儒の合一を主張し、尊王思想の高揚をもたらした 以上のような闇斎の思想は、水戸学・国学などとともに、幕末の尊王攘夷思想(特に尊王思想)に大きな影響を与えた。

山内刑部夫妻の墓所
上の坊から山道を少し上ったところに山内刑部墓所があるとのこと。土居屋敷の案内にもあった山内氏が土佐藩に入国後、本山に封ぜらえた山内家家老。ここにもちょっと立ち寄り。案内には「山内家の家老であった。山内一豊の土佐入国に際して、その軍功から本山千三百石知行本山城に配され、本山土居初代藩主として慶長6年(1601)に本山に入っている。
慶長8年の瀧山一揆の鎮定に努め、元和元年(1615)の大阪の役には高知城の城代を務めた。元和6年、63歳で病没」とあった。
瀧山一揆
土佐に入国した山内家に対し、改易された長曾我部氏の遺臣、下級武士である郷士に扇動されて起きた百姓一揆。年貢の納入を拒み北山の瀧山に籠り抵抗するも鎮圧される。首謀者は断罪とするも百姓らの罪を不問に伏す。但し、一領具足とも言われ、長曽我部氏の兵農未分離の農兵隊でもあった百姓より武器を召し上げるのが条件でもあった。
この一揆は山内家に対する長曽我部遺臣の最後の抵抗とも言われ、この事件以降、長曽我部氏の影響下にあった一領具足衆は弱体化することになる。
本山町の吉野川対岸の山中に北山の地名がある。瀧山はその辺りなのだろう。
本山城跡
時間がなく上ったわけではないのだが、案内にあった本山城跡をメモしておく;
「本山の東西にそびえる田井山北東尾根の先端部にある。戦国時代以降、本山郷を中心に勢力を伸ばした本山氏の居城跡。本山氏は弘治2年(1556)の長曽我部国親との泰泉寺攻撃に始まる攻防で高知平野の支城潮江城、長浜城、朝倉城を失い本山に退いた後、本山での戦いに敗れ親茂の時、長曽我部氏の軍門に下った。土佐における戦国群雄中の城であった本山氏の居城は今もその遺構を留め、堀切や詰めの段、二の段、三の段、郭などの遺構が残っている」と。

本山氏は長岡郡本山を拠点に勢力を伸ばし、土佐郡の山地を越えて南下し「東は一宮を堺、西は二(仁)淀川、南は浦戸を限り二郡の主也。朝倉の城を居城に持つ」と『元親記』に記されるまでになり、吾川郡や高岡郡までも進出することになる。
朝倉城を中心に土佐の中原に覇を唱え、東の長曾我部氏、西の一条氏と対峙するも、永禄5年(1562)その存亡をかけた朝倉城の合戦で長曽我部氏に敗れ本山に退却した。
案内には本山の戦いに敗れとしているが、本山では利あらずと瓜生野谷口の要害の地まで退き4年間の抵抗の末、長曽我部の軍門に下ったとのことである。

本山の町を離れ国道439号に乗る
「本山城跡周辺史跡めぐり」案内のところに戻る。地図には、そこから国道439号を繋ぐ道筋に「土佐北街道」と記される。
土佐北街道を東進し国道439号に合流。国道北に蛇行する吉野川が流れる。南に突き出しU字に吉野川の流れをなす丘陵は兼山ゆかりの帰全山と称する。
帰全部山・秋田夫人の墓
帰全山は現在公園となっており、兼山廟、また兼山の母である秋田夫人の墓がある。兼山廟は兼山の徳を偲び嶺北地方の町村長が中心となり呼びかけ、昭和27年に竣工したもの。それほど古いものではない。
廟の右奥に兼山の母である萬、姓より秋田夫人と称される墓がある。慶安4年(1651)4月4日、66歳でこの世を去った母のため儒学の礼に従って直方体のひつぎに母の遺体を葬り土葬した。それまで火葬の風習があった土佐において、それは特異なことでもあった。

墓穴は、千人ともいわれる人々によって掘られ、穴の壁も石で築かれた立派なもの。台上にある石碑は、高さ六尺五寸(約一・八メートル)、幅二尺五寸(約七五センチメートル)、厚さ一尺(三〇センチメートル)で、柵を巡らせ屋根が造られている。兼山は、高知から本山まで、約七里(約二七・五キロメートル)の山道を母のひつぎとともに歩き、帰全山に葬った後は、三年間の喪に服した、とのことである。これは、兼山の母親に対する孝心(こうしん)を精いっぱい表現したものと言われる。「孝心(こうしん)を精いっぱい表現した」との意味合いは、友人の山崎闇斎が墓所を中国の古典「 父母全生之、子全而帰之、可言孝矢」より引用し「帰全山」と名付けた如く、「父母の五体を完全なまま大地に帰すのが子の第一の孝行である」とすれば、火葬ではなく土葬にしたことをもって精いっぱいの孝心であり、帰全>全部を(大地に)」帰すということではと妄想する。
ただ、礼を尽くして盛大に営まれた母の葬儀は、幕府への謀反の嫌疑をかけられることになる。 上述大原富江の『婉という女』には、「それは父上が無上に敬愛した母万女の死に遭って、純粋な儒葬を営んだことで、吉利支丹と謀叛の疑惑を受けたときである。
問題の墓地は父上の采邑本山に、二ヵ月の日数と千人の夫役を使って、雁山と呼ばれるやさしい丘陵の美しい雑木林の静寂の中に完成した。十数里の山路を、父上は粗衣、裸足で棺側に従った。すべては晋の文公の家例にならい、荘厳純粋な儒葬であった。殆ど恋しあうほど慕いあった母のためにならば、父上は許されるなら帝王の墓にも劣らぬものを、構築したかったにちがいない。自分の憧れる美の最高のもののなかに母を眠らせたいと思ったにちがいない。
規模構築の壮大さと、儀式の儒礼による珍奇さとで、この葬儀は天下の評判になった。それはやがて「野中大夫、吉利支丹に帰依し、采邑本山に築城し、謀叛の気配がある」という流言になって江戸表まで聞えていった。
幕府の不審の詮議を受けて、参観中の藩公は愕然とし、国許の父上に出仕を命ずる急使が立てられた。 |十余年前、島原の吉利支丹一揆があって以来、吉利支丹は厳禁され、隠れ吉利支丹はいまも執拗に捜索されている。発見されれば打首、磔 は免れない。吉利支丹の流説はいつの場合も不吉な運命の予告に似ていた。破滅を導く白い箭(や)であった。
父上は、喪服のまま夜を日についで江戸に到き、儒葬の形式と精神とを説明、流説の反駁に努めた。幕府では、お抱えの儒者、林羅山に命じて、父上の弁明の真偽を吟味させた。羅山は、「土佐国老の母の葬儀は、儒葬礼の正道に従ったものと考えます。邪宗門の習俗とは異にいたします」と言上した。
こうして父上は嫌疑を晴らすことができ、将軍にも謁を賜り帰国した」とある。
が、続けて
「無事―果して無事だったのであろうか」とあり、長兄はわずか3歳で「人質」として江戸に止まることになったとし、
更に続けて「この年慶安四年四月は、三代将軍薨去、四代家綱公の立たれた八月前後から、何とはなしに人心に不安動揺の兆しがあって、七月、由井正雪、丸橋忠弥など浪人の謀叛の発覚があり、父上の事件はその直後であった。そして父上は不幸にもすでに経世家として高名になっていたのであった。
「土佐二十四万石は実収三十余万石」といわれ、それが父上の器量が招いたものであると噂され、しかも国老の地位にある父上が、仮にも「吉利支丹」「謀叛」などいまわしい言葉によって将軍家の心象に照らしだされたということは、不吉なことであった。
かねて父上が堺その他から刀鍛冶、鞘師、飛道具など技術に優れたものを破格に抜擢したこと、土佐の治安にいつも支障となっていた、困窮して自棄的になっている一領具足(長宗我部の遺臣である浪人たち)一万人を郷士にとりたてて、世上の不安を除いた「郷士制度」をも、父上を快からず思う者どもには、いざの場合に意のままに動かすことのできる「野中の手勢」と噂されていること、なども将軍家は知っていた。これらはすべて藩松山の松平勝山公から将軍家に注進されたという」と書かれる。
事件後も兼山はその功により得意の絶頂期ではあったが、婉のつぶやいた「果たして無事だったのだろうか」との不安は現実のものとなるのは、歴史の知るところである。
嶺北
高知県長岡郡大豊町、長岡郡本山町、土佐郡土佐町、土佐郡大川村の4町村を言う。四国中央部の吉野川源流地域にあり、高知平野から望むと分水嶺の北に位置し、四国の水瓶「さめうらダム」がある。地域の北側には四国山地の峰々が連なり、吉野川の流れが北東に渓谷をなし徳島県側に開いているのみで、周囲を山々に囲まれた特異な地形となっている(れいほくNPOWeb siteより)。
地域面積は965平方キロメートルと高知県の13.6%を占め、標高は200mから1800mの山岳地形です。土地利用状況は地域の89.6%を森林が占め、農用地面積は1.4%、宅地面積は0.4%と、典型的な山村地域となっています

下津野
樫ノ川を渡り国道を東進すると下津野で北に突き出た丘陵に遮られ吉野川は大きくU字を描いて流れる。参勤交代はこの下津野で吉野川を対岸の渡津に渡ったとの説もある。『土佐の道』には、参勤交代の吉野川渡河地点はもう少し下流、東本山大橋の少し下流、上関で渡河下と記される。今回は『土佐の道』の記述に従い進むことにする。
吉野川と早明浦ダム
地図をみていると、本山の直ぐ上流に早明浦ダムがあった。四国の水瓶とも称されるダムである。思いがけないところで早明浦ダムと出合った。
いつだったか銅山川疏水を歩いたとき、吉野川水系銅山川の水を求める愛媛とそれを拒む徳島との「水争い」の歴史をメモしたことを思い出した。その長年の「水争い」を落ち着かせたのが早明浦ダムであり、吉野川総合開発である。
その経緯を再掲する;
〇吉野川水系の水を巡る「水争い」の歴史
吉野川は四国山地西部の石鎚山系にある瓶ヶ森(標高1896m)にその源を発し、御荷鉾(みかぶ)構造線の「溝」に沿って東流し、高知県長岡郡大豊町でその流路を北に向ける。そこから四国山地の「溝」を北流し、三好市山城町で吉野川水系銅山川を合わせ、昔の三好郡池田町、現在の三好市池田町に至り、その地で再び流路を東に向け、中央地溝帯に沿って徳島市に向かって東流し紀伊水道に注ぐ。本州の坂東太郎(利根川)、九州の筑紫次郎(筑後川)と並び称され、四国三郎とも呼ばれる幹線流路194キロにも及ぶ堂々たる大河である。
吉野川は長い。水源地は高知の山の中。この地の雨量は際立って多く、下流の徳島平野を突然襲い洪水被害をもたらす。徳島の人々はこういった大水のこととを「土佐水」とか「阿呆水」と呼んだとのこと。吉野川の洪水によって被害を蒙るのは徳島県だけである。
また、その吉野川水系の特徴として季節によって流量の変化が激しく、徳島県は安定した水の供給を確保することが困難であった。吉野川の最大洪水流量は24,000m3/秒と日本一である。しかし、これは台風の時期に集中しており、渇水時の最低流量は、わずか20m3/秒以下に過ぎない。あまりにも季節による流量の差が激しく、為に徳島は、洪水の国の水不足とも形容された。
さらにその上、徳島県の吉野川流域の地形は河岸段丘が発達し、特に吉野川北岸一帯は川床が低く、吉野川の水を容易に利用することはできず、「月夜にひばりが火傷する」といった状態であった、とか。
つまるところ、吉野川によって被害を受けるのは徳島県だけ、しかもその水量確保も安定していない。その水系からの分水は他県にはメリットだけであるが、徳島県にとってのメリットはなにもない、ということであろう。銅山川分水をめぐる愛媛と徳島の協議が難航した要因はここにある(「藍より青く吉野川」を参考にさせてもらいました)。

以上銅山川からの分水事業の歴史を見るに、基本は分水を求める愛媛県と、それを是としない徳島県の鬩ぎあいの歴史でもある。「分水問題とは分水嶺の遥か彼方に水を持って行こうとするものである。分水は愛媛の農民を助けることかもしれないが、分水のせいで徳島の農民が水不足にあえぐことは認められない。また、愛媛側が水を違法に得ようとした場合、下流の徳島側は絶対的に不利である。一度吉野川を離れた水は二度と戻らない」。これは銅山川分水に反対する徳島県議の発言であるが(『銅山川疏水史;合田正良』)、この基本にあるのは銅山川も含めた吉野川水系全体の分水事業が徳島県に与えるその影響と、その他の愛媛・香川・徳島に与える影響が全く異なることにある。
早明浦ダムおよび吉野川総合開発計画
この各県の利害を調整し計画されたのが吉野川総合開発計画。端的に言えば、吉野川源流に近い高知の山中に早明浦ダムなどの巨大なダムをつくり、洪水調整、発電、そして香川、愛媛、高知への分水を図るもの。高知分水は早明浦ダム上流の吉野川水系瀬戸川、および地蔵寺川支線平石川の流水を鏡川に導水し都市用水や発電に利用。愛媛には吉野川水系の銅山川の柳瀬ダムの建設に引き続き新宮ダム、更には冨郷ダムを建設し法皇山脈を穿ち、四国中央市に水を通し用水・発電に利用している。
そして、池田町には池田ダムをつくり、早明浦ダムと相まって水量の安定供給を図り、香川にはこのダムから阿讃山脈を8キロに渡って隧道を穿ち、香川県の財田に通し、そこから讃岐平野に分水。徳島へは池田ダムから吉野川北岸用水が引かれ、標高が高く吉野川の水が利用できず、「月夜にひばりが火傷する」などと自嘲的に語られた吉野川北岸の扇状地に水を注いでいる。(「藍より青く吉野川」)。

上関の渡し
上関に向け木能津と国道439号を東進する。東本山大橋を越え、その下流辺りに上関の渡しがあったというので、なにか痕跡でもないかと吉野川右岸を助藤手前、如何にも渡河点らしきところまで進むが特段のものはなし。見渡地蔵も立っていた、とのことだが、「過去形」であり現在はないのだろう。
東本山大橋まで戻り、橋を渡り吉野川左岸に移る。橋の北詰めに仁井田神社。土佐北街道はここから立川川との合流点まではおおむね県道262号を進むことになるが、橋を渡るとほどなく右に逸れる道があり吉野川へと接近する。何気に右に逸れ旧道をを進むと、道の右手に「上関の渡し」の案内があった。大河である吉野川は飛び石ではなく、舟で渡ったようである。
木能津
「土佐地名往来」には、「木能津 筏の組み立て地に由来(坂本正夫)。「木の津 (港)」。木材水運の拠点」とある
助藤
「介当」「介藤」「助任」などとも書いた。戦国時 代、阿波国助任村から来た開拓者の集落。「菅の 峠」説も、と「土佐地名往来」にある。

本村の旧山下家薬医門
県道に戻り行川を渡る。この行川(なめかわ)の谷筋にも兼山の井筋が残る。上関、下関の辺りと言う。林業盛んな頃の森林鉄道跡に岸壁を穿った隧道も残るとのこと。本山の上井、下井再訪の折、この行川筋も歩いてみたいものである。
それはともあれ、行川を越えると右手に立派な灯明台。その先、道の左手に「旧山下家薬医門」の案内。坂を少し上ると薬医門。2本の本柱の背後だけに控え柱を立て、切妻屋根をかけた門であり、社寺だけでなく城郭や邸宅など門の形式としてよくみるもの。薬医の由来は門扉の隣に出入りが簡単な戸を設け患者の出入りを楽にした故とも、敵の矢の攻撃を食い止める「矢食い」からとも所説ある。
この山下家は参勤交代の折の藩主の休憩所となっていた。薬医門と石垣が往昔の名残を留める。 吉野川対岸は田高須。「元鷹巣村とて大鷹の巣を構へりしより地名」と郷土史。「たかす」は川の蛇行地に土砂堆積の「高い砂州」と「土佐地名往来」にある。





奈路の切通し
山下家を離れると奈路。吉野川は南に突き出た丘陵に阻まれU字に大きく蛇行する。『土佐の道』には県道は大きく弧を描き進むが、土佐北街道は切通の道を抜けるとあるが、現在の県道は切通となって奈路の丘陵部を抜けていた。
少し進むと道の道手に「井内の渡し」の標識が立っていた。
対岸は山崎。「長岡郡介当名に山サキ。阿州山崎村から麻の種を移植栽培、集落も山崎。助藤も阿波の開拓者」と「土佐地名往来」は記す。
奈路
土佐を歩くと奈路(ナロ)に出合う。「四万十町地名辞典」には「山腹や山裾の緩傾斜地を表す地名地名を高知県ではナロ(奈路)という。奈路(なろ)の全国分布は高知県だけで、それも中西部に多い。ナロ地形にふさわしい地名がこの地「奈路」である 『愛媛の地名』の著者・堀内統義氏はナロ・ナル地名について「東北の平(たい)、九州の原(はる)、四国の平(なる)と同じ地名の群落。奈良も千葉県の習志野も、ナラス、ナラシの当字で、平らな原野を表現している。」と書かれている。 ちなみに「奈路」地名も愛媛県に越せば「成・平(なる)」が断然多くなり、四万十町内でも成川・鳴川がよく見られる。

葛原
割木、葛原と進む。『土佐の道』には葛原の名本である久保家で休憩したとある。名本(なもと)は土佐藩における民衆支配の職制のひとつのようだ。『日本大百科全書』には「民衆支配は町・郡(こおり)・浦の奉行がおり、その下で地域の行政事務を助けたのが庄屋(しょうや)である。高知城下には町会所が置かれ、総年寄、庄屋、年寄、総組頭などの町役人が町政をつかさどったが、豪商が総年寄となって庄屋以下を統率した。
郡奉行は村役人を監督したが、村には庄屋・老(としより)(年寄)・組頭が置かれた。山間部の小村には名本(なもと)・老・組頭がおり、小村をあわせたものを郷といい、郷には大庄屋(おおじょうや)・総老・総組頭が置かれた。国境には道番所(関所)が設置され、大庄屋が番頭(ばんがしら)を、名本が番人を兼ねることが多く、国境を警備し、商品の移出には口銀(くちぎん)を取り立てた。農民の年貢米は村方役所に置かれた納所(なっしょ)に集められた」とあった。

立川川の渡し
県道を進み川口大橋の木田詰めを過ぎると「川口の送り番所」があったと言う。更に東進すると新川口橋。この橋の下流に立川川の渡しがあったとのこと。橋の少し下流、道の川側に常夜灯があり、そこから下に行けそうにも思える。当日は先を急ぐあまり素通りしたのだが、今となってちょっと残念。
新川口橋の直ぐ下流にかかる古い橋を渡り立川川左岸に渡る。『土佐の道』には「川口」には長瀬酒屋があり藩主の昼食場となっていたため「川口御殿」と称されたとある。
川口の送り番所、立川川の渡し、川口御殿も特段の案内もなく、どこにあったのか不明であろう。
 
柳瀬へ
柳瀬集落の橋は崩壊
一の瀬集落の金五郎橋を渡り立川川右岸へ
参勤交代の一行はここから立川川左岸を柳瀬まで進み、そこからは先回歩いた立川川右岸の山道を立川番書院へと進むことになる。
但し現在は柳瀬の土佐北街道に入る橋が落ちており、ひとつ手前の集落に架かる金五郎橋を渡り立川川右岸に入るしかない。また、その立川川右岸の土佐北街道は千本しらや橋手前の斜面が大規模崩壊しており、通行禁止となっている(2021年1月現在)。
大規模崩壊地は崩壊斜面ごとずり落ちた幾多の杉の大木が行く手を阻むが、20分ほど倒木を潜りまた乗り越えるつもりで崩壊斜面をトラバースするれば通れないことはない(関係者の方、ごめんなさい)。

これで土佐北街道散歩も残すところ、法皇山脈を越えた四国中央市の川之江までの里道、高知城下から権若峠までの道を残すのみとなった。次回はさてどちらを歩こうか。

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