日曜日, 3月 10, 2024

讃岐 金毘羅参詣道:伊予・土佐街道 ②:四国中央市の遍路別れから金毘羅宮へ

先回は四国中央市の中之庄にある遍路分かれから伊予・土佐道をトレースをはじめ、予讃の国境を余木崎で越え観音寺市域に入り豊浜を抜け、大野原で丸亀・高松へと向かう伊予・土佐道と金比羅さんへと向かう伊予・土佐道の分岐点まで辿った。
今回は観音寺市大野原のこの分岐点から三豊市、仲多度郡まんのう町を経て仲多度郡琴平町までの金比羅参詣道をトレースする。その距離はおおおそ23キロほどだろうか。
尚、今回も香川県の「歴史の道 調査報告書(以下「調査報告書」)」の金毘羅街道や伊予・土佐街道を参考にトレースする。



本日のルート:白坂上の常夜燈と祠>大鞘交差点の常夜燈と札納め石塔>「中姫の七曲り」に3基の石造物>金比羅道標・社と地蔵堂>県道24号の常夜燈>金比羅燈籠と札納め・自然石の道標>金比羅燈籠と札納め>天満宮の常夜燈・道路元票>本庄公民館横の天満宮に常夜燈・道標>お堂・四里の里程標石>大師堂・金安神社>茂兵衛道標・地蔵尊>茂兵衛道標と舟形地蔵丁石>菅生神社・地神宮の道標>常夜燈と道標・常夜燈と札納め石塔>財田川に架かる長瀬橋南詰の金毘羅道標>砂古の常夜燈>中屋敷で国道を左に逸れ山裾の道を辿り三宮神社に>県道218号の道標>砂川の石橋手前の金比羅燈籠・砂川公民館前の二里の里程標石>土居の常夜燈>反田池の不動さん>大道の不動さん>伊予見峠の一里里程標石>地蔵峠の不動さん>地蔵峠>国道を左に逸れる・県道23号合流点に道標>舟型石仏道標>牛屋口>お堂>法然上人直筆念仏石>>金比羅さんの参詣石段に出る>金比羅大門




■観音寺市大野原の参詣道と丸亀・高松への伊予街道の白坂分岐点よりスタート■

白坂上の常夜燈と祠
白坂交差点からしばらく国道377号を進む。東進し高松自動車道を越えた白坂上に常夜燈と小祠がある。祠は金毘羅祠。傍に文政十年(1827)建立の金毘羅燈籠が立つ。竿に「金比羅 八幡」といった文字がうっすらと浮かぶ。



大鞘交差点の常夜燈と札納め石塔
国道を東進し大鞘の交差点に常夜燈と札納め石塔。常夜燈の正面には「正八幡宮」、側面には「右 こんぴら」と道標を兼ねる。
常夜燈の左手に札納め石塔。「調査報告書」には札納めとは、金比羅参詣の大木札を、お火貰い(水の神)として祀るもの、とある。石塔に納められた「金比羅」の文字が見える。大木札なのだろう。 

大野原は柞田(くにた)川の扇状地と三角州であり、地形は南東から北西にかけて緩やかに傾斜している。柞田(くにた)川は大野原扇状地の中央を流れず、迂回するように北流するため、同扇状地は「月夜にも干し焼けする」といわれるほどの水不足地帯であったという(「調査報告書」)。札納めの由来もこのような事情を踏まえてのことだろう。大野原の中心部が開かれたのは藩政期になり井関池の築堤などの治水をもとにした開墾によることが大であったようだ。
大野原八幡神社

大鞘交差点の北に大野原八幡そしてその周辺に大野原古墳群が地図に記される。ちょっと寄り道。北東に進むと社があり案内には、「御由緒 往古を偲ばせる椀貸塚・平塚・角塚の三大巨石墳や条里制遺跡などから古代社会の大野原は灘文化圏の中心的存在として発展し、里人は椀貸塚を奥津城として、太子殿と称えて地主神を祀っていました。
宮文書によれば、九世紀頃には応神宮として祀られ、その後、大野原開基平田家三代源助正清が京都石清水八幡宮より、譽田別命を勧請、外二神を祭神として、元禄六年(一六九三)に本社・幣殿・拝殿を建立し大野原正八幡宮の基が整いました」といった記載があった。
相撲の土俵

社の周辺は大野原古墳群と呼ばれ6世紀松から7世紀前半頃の古墳が並ぶ。実際本殿は、香川県文化財に指定されている椀貸塚(わんかしづか)古墳にのめり込む形で建てられている。 この辺り、柞田(くにた)川の出水(泉)などが湧出し古代に稲作がおこなわれたのであろうか。
境内には子供の頃」、お寺や社でよく見た相撲の土俵があった。娯楽の少ない頃、境内での地元の方の相撲大会に多くの人が集まっていたことを思い出す。

「中姫の七曲り」に3基の石造物
国道377号まで戻り先に進む。参詣道は県道8号を越えた先で国道を離れ集落の中を進む。「中姫の七曲り」と称されるようだ。国道を逸れ、右折・左折と進むと3基の石造物がある。左から寛政八年(1796)建立の「金比羅三社氏宮常夜燈」と刻まれた金毘羅燈籠、明治十四年の札納め、「こんぴら大門から五里」と刻まれた道標が並ぶ。札納め石塔の札納めの部分がとれていまっていた。
中姫
中姫の地名が何となく気になる。大野原町は大野原、中姫、花稲からなる。豊浜町も姫浜、和田浜、和田、箕浦からなり、ここにも姫浜と「姫」のつく地名がある。あれこれチェックすると、和田浜は昔、近郷とともに姫の江(ひめのえ)郷と呼ばれていたという記事があった。和田浜は、讃岐でよく登場する神櫛王が讃岐の国司となった時、景行天皇の皇女和田之姫命(わだのひめのみこと)が天神三柱の神を「渡りの浜」に祀り、この浜の「り」が省かれて「渡浜(わたはま)」となり、やがて和田浜となったと伝わるが、姫浜や中姫はこの姫の江(ひめのえ)郷、皇女和田之姫命に関係するのだろうか。それとも「姫」って、「かわいい、ちいさい」と行った意味のほか、「湿った」といった意味もあるとも言う。湿地帯ゆえの命名だろうか。結局よくわからない。

金比羅道標・社と地蔵堂
その先集落を抜け車道をクロスし道が左に曲がるところに「こんぴら道」と深く刻まれた道標にちょこっと傘部が乗る金毘羅道標がある。






道を進み、道の右手、川に渡した石橋の先に八幡、厳島、宗像の神を祀る小さな社があり、その対面に地蔵尊とお堂がある。



県道24号の常夜燈
そこから北進すると県道24号に出る。参詣道は直ぐに右折。その角に常夜燈があり、「右 ことひら道 小松尾寺道」「左 本山寺道」と刻まれた風情のある常夜燈がある。小松尾寺は四国遍路札所第67番大興寺の別名、本山寺は第70番札所である。本山寺道はここが起点とも言う。北東に進み財田川を越えた先に本山寺がある。

金比羅燈籠と札納め・自然石の道標
県道を右に折れた参詣道は一瞬国道を進み、直ぐ右に逸れる。直ぐ三叉路。そこには寛元年(1789)建立の金毘羅燈籠と明治十年建立の札納めがある。
道は三叉路から一旦国道に出るが、直ぐ右に逸れて東進む。ほどなく道の左手に自然石の道標がある。「左 こんぴら道」と読めた。

金比羅燈籠と札納め石塔
自然石道標から左に折れ国道377号に出る。少し国道を進むと金比羅燈籠と札納め。燈籠は寛政8年(1796)建立のもの。
国道を進むと柞田(くにた)川に架かる紀伊橋。橋の少し手前から大野原町丸井になる。この辺りの参詣道ははっきりしない。「調査報告書」には「丸井に入り、街道は国道から南に若干はずれる。柞田(くにた)川をどこで渡ったかは定かではない。が、現紀伊橋と重なるか、または若干上手であったのだろう。(中略)丸井北ではL字形に何度も大きく曲がり、粟井川を渡る天皇橋からは、国道と重なり、北東に進む」とある。
地図を見てもそれほどL字に何度も曲がる道は見当たらない。国道を進み粟井川にかかる手前で国道を右に逸れ大王橋まで進む。

天満宮の常夜燈・道路元票
大王橋を渡ると観音寺市粟井町。かつての豊田郡粟井村。明治32年(1899)豊田郡が三野郡と合併し三豊郡となるが、昭和30年(1955)観音寺市と合併した。
粟井川を渡るとほどなく道の右手に社。大きな自然石に「天満宮」と刻まれる。社前の一対の常夜燈の左手のものには「金」と刻まれるとのこと。見逃した。
その先県道240号との交差点、北西角には香川県の「粟井村道路元票」がある。道路元票(げんぴょう)とは道路の路線の起点・終点または経過地を表示するための標識。

本庄公民館横の天満宮に常夜燈・道標
県道尾越え少し進むと横の天満宮に常夜燈。笠の部分に金の字が刻まれるとあるがはっきりしなかた。文化11年(一八一四)の建立。
天満宮の一筋北の細い四つ辻に道標がある。安政4年(1857)の)もので「直こんひら道」とはっきり読める。「右うんへんじ 左まるかめみち」は相当摩耗しているがかろうじて読めるといった状態。 と記し、南へ行けば雲辺寺から第67番札所大興寺へと歩いた遍路道にあたる。

お堂・四里の里程標石
道を進み道の右手にお堂を見遣りながら進む。四つ辻からその直ぐ先の教善寺までは原町の飛び地の南端のようだ。原町を一瞬掠め新田町に。
教善手寺の門前前に「四里」の里程標。里程標の先に整地された広場に小祠が祀られる。地図には「みこし山塚古墳」とあった。
新田町(しんでんちょう)
みこし山塚古墳

この地は山本郷に属し、昔(おそらく江戸時代)、西山九郎右衛門が新しく開墾して新田と呼ばれていたのが村名となった。
●原町(はらちょう)
古くは、野田原と呼ばれていたが開墾され、野田の原村となり、野田が取れて原村となった。山本郷に属した。明治23年(1890)新田村、原村は合併し豊田村となり、昭和30年(1955)豊田村は粟井村とともに旧観音寺市に編入された。

大師堂・金安神社
燈籠の横にあった道標はみつからなかった
里程標から道を左に逸れ道ヶ岡の集落を抜けると車道に出る。そこに大師堂があった。車道をクロスし集落の中を抜けると、元の道筋に復帰。合流点の前には金安神社がある。「調査報告書」には、金安神社前の合流点に立つ常夜燈の傍に道標があるとするが、撤去されたのか見つけることはできなかった。

茂兵衛道標・地蔵尊
道を進むと、左手の民家の間の路地前に茂兵衛道標が立つ。四国遍路百度目の道標である。路地にはいったところには地蔵尊が祀られる。台座に手印と「十方施主 光明真言十万遍「天保八年」と刻まれていた。四国歩き遍路の途次この地を辿ったことが想い起される。
この辺りの道筋について「調査報告書」は、「街道はこの付近から下り坂である。このあたりは、菩堤山塊の尾根が放射状に出ており、地形は大きく乱れる。 「新田村・・・・川の如くにひくき処三ツありて道をよこぎり麦おひたり是を三谷といふ」(『藤浪日記』)。これらの谷は一の谷池に通じる。

地蔵尊より国道一筋北を東進
国道一筋北を東進
「調査報告書は続けて、「今の国道は、谷を埋め、尾根を開削して通ずるが、街道は起伏のまま上下する。そして、街道は国道から離れ、北に大きく下り、弧を描いて原町に上る。そこを天明八年(一七八八)の地蔵像が迎える。何とも柔和な顔立ちである。街道は国道をそれたまま、また下り坂となる」とある。
茂兵衛道標から先は下りとなっているが、道を逸れて大きく北に下る道は地図にない。茂兵衛道標からそのまま東に坂を下り、国道との交差点を少し北に進み地蔵尊を確認する。 この地は先ほど飛び地となっていた原村と同じ原村となる。地蔵尊から国道一筋北の道を東進する。

茂兵衛道標と舟形地蔵丁石
道が国道に合流した坂に茂兵衛道標が立つ。茂兵衛149度目のものである。その横の舟形地蔵丁石には「是ヨリ小松尾寺江八丁」と読める。逆打ち遍路の標石となっている。手には錫杖をもつ。その先のT字路を南に進むと第67番札所大興寺。


●遍路道の9丁石
何時だったかこの遍路道を辿り、茂兵衛道標のあるT字路を左折し、上述茂兵衛道標の立つ辻を右折し札所観音寺へと向かったった。茂兵衛道標の立つ辻へと川へと下る途中、道の山側に地蔵丁石があった。阿讃山脈を借景になかなかいい眺め。標石には「九丁 明香四丁辛」と刻まれていた。
茂兵衛道標の少し西で観音寺市から三豊市山本町に入る。
三豊市山本町
Wikipediaによれば、「山本町は、古くは、豊田郡(刈田郡)山本郷に属していた。昭和30年(1955)三豊郡の辻村、河内村、財田大野村、神田村が合併し、山本村となる。昭和32年(1957),町制を施行して山本町となる。平成18年(2006)1月1日 – 仁尾町、高瀬町、豊中町、詫間町、三野町、財田町と合併し、三豊市となる」とあった。

菅生神社
大興寺へと分けるT字路を越え坂を上る途中から街道は国道を左に逸れ菅生神社に向かう。菅生神社は国天然記念物指定の社叢で知られる。




地神宮の道標
街道は社頭を南東へと折れ、更に北東に進み、菅生神社から東に伸びてきた道と合流するT字路に地神宮。道に面した境内に道標があり、「小松尾寺」と刻まれる。
小松尾寺は四国霊場第67番札所。その地名より「小松尾寺」と称される。

常夜燈と道標
北東に財田川に注ぐ支流を越えた先に常夜燈と道標。常夜燈は猫足の台座、笠は宝珠ではなく獅子置かれている。横の道標には「左 いよ道」「右こんぴら はしくら」の文字が刻まれる。「はしくら」は金比羅宮の奥の院である箸蔵寺。金毘羅さんから土讃線財田駅を経て山入りし、吉野川に面した徳島県三好市池田街の山麓に建つ箸蔵寺迄参詣道の箸蔵道が続く。

常夜燈と札納め石塔
街道はこの四つ辻を右折、更に左折し県道6号を越える。そのさきの四つ辻に常夜燈と札納め。札納めの上部には「金」と「箸」のマークが刻まれていた。
三豊市山本支所の三里里程標
この四つ辻を左折すると三豊市山本支所がある。その敷地に「こんぴら大門より三里」と刻まれた里程石がある。案内には「こんぴら大門より三里 この道標は、もとは山本町大字財田西にある河内橋の西に建てられていたものである。昭和三十年代の道路拡幅工事にともない山本町役場内に移設していたもので山本町では歴史遺産として文化財に指定している。
同様なこんぴら道標は山本町内では一里(伊予見峠) 二里 (砂川)三里(現在地)が残っており、観音寺、大野原、豊浜を経て愛媛県まで続いている。昔のこんぴら参りの盛んな頃の名残として貴重な文化財のひとつである 平成十七年十二月 山本町教育委員会 山本町文化財保護協会」とある。 河内橋は財田川に注ぐ河内川に架かる橋。この後その辺りを進むことになる。

財田川に架かる長瀬橋南詰の金毘羅道標
四つ辻をクロスし県道5号を右折し財田川左岸を進むと河内川が財田川に合流する地点を通る。この辺りに三里の里程石があったのだろう。左岸を更に進み道が南東に緩やかに曲がる辺りで県道を左に逸れ財田川に更に接近した道を進む。道が国道377号にあたる手前、財田川に架かる長瀬橋の南詰に金比羅燈籠。竿部に「右はしくら 左こんぴら道」と刻まれる。ここでいう「はしくら」はここから財田川に沿って上流に向かい土讃線財田駅から山入り道に入るのだろう。
かつて街道は長瀬橋の少し下流を渡っていたようである。

砂古の常夜燈
財田川を渡ると街道は、財田川の支流神田川により堆積された沖積低地を国道377号に沿って進む。砂古(すなご)に寛政11年(1799)建立の常夜燈。竿部に「金比羅大権現」「出雲大社」と刻まれると(「調査報告書)。



中屋敷で国道を左に逸れ山裾の道を辿り三宮神社

その先、国道が神田(こおだ)川を渡ると街道は中屋敷の辺りから国道を左に逸れる。国土地理院の地図と睨めっこしながら道をトレースする。


国道を逸れ田圃の畦道を進み

民家の軒下を抜け
田圃の畦道を進み、集落の軒下を抜ける。






畑と山裾の間の野道を進むと
舗装された道にでる
その先、畑と山裾の間の道なき道を進むと舗装された道に出る。





舗装も切れた先を進むと
三之宮社頭に出る
舗装された山裾の道を少し辿ると舗装が切れる。その先で三宮神社の社頭に出る。





三宮神社の先、野道を東進
三宮神社女坂参道すぐ下の野道に入り
山裾と畑の間の野道を東進
石段を上りお参りをすませ、参道道(女坂)の下に東に続く畔道を進む。少し藪っぽいところもあるが、それほど酷い箇所はない。畑に沿って東に進みむと県道218号に出る。


県道218号の道標
県道角にその角に道標。「二宮道」の文字が読める。県道218号を北を西に進んだ三豊市高瀬町羽方に大水上神社がある。延喜式内社讃岐の二宮と称されるようだ。この社を案内するのだろうか。
「調査報告書」には神田(こうだ)という地名はこの二宮に因むという説もある。神田地区と二宮の関係は深い」と記す。中世後期、神田に拠を構えた近藤氏は二宮と深い関係があった、といった記事もあった。あまり深入りすると参詣道と直接関りの無いあらぬ方向にいってしまいそうなので、このあたりで思考停止としておく。

砂川の石橋手前の金比羅燈籠・砂川公民館前の二里の里程標石
県道をクロスし集落の山側を進むと
常夜燈と石橋
県道218号より先の街道ルートについて「調査報告書」は「砂川に入る。やはり山際の道を歩むと、蛇行する財田川支流の神田川を渡ることになる。この橋の手前に文化十一年(一八一四)の金毘羅燈籠があり今も明りをともしている。
橋は石橋である。橋の全長九七m、幅二・一m、高さ三m、すべて花崗岩を用いている。 厚さ二三㎝、幅三~四〇cmの石材を、橋の中程で接合している。架設年代は特定できないが、道・橋・燈籠と絵になる。
こんなに完全な形で残る石橋は珍し
その先、民家に挟まれた二里里程標石があった
旧バス道に面する砂川公民館前に二里の道標がある 街道拡幅の際、近くより移したとされる」とする。
記事に従い県道をクロスし、集落の山際の道を進むと石橋があった。手前に金毘羅大権現と竿に刻まれた金毘羅燈籠もあり、記事の通り。
砂川公民館はどの建物なのかはっきりしなかったが、道の左、民家に挟まれるように二里の里程標があった。

土井の常夜燈
土井の常夜灯
砂川公民館から先のルートについて「調査報告書」は「街道は、神田小学校の手前で国道を南方に横断し、神田川の北方を東進する。
川原の落合橋付近で神田川の左岸を、国道の神田橋を横断した所で右岸に移り、以後は右岸を進む。 「此あたり道の南も山に近くして此村をなかば過ては南の方も山にせまれり」と『藤浪日記』に記されるように、谷が狭くなり、 川と街道それに国道が、もつれるようにからみ合う。街道の幅は、現状で二m前後である。
土井に常夜燈があった。近年、国道の北側に移し、街道が神田川を渡る橋の脇に再築された 。 文政元年(一八一八)のもの(攻略)」と記す。
●神田小学校跡地手前で国道を越え南に落合橋へ
国道をクロスし落合橋へ
落合橋右岸を進み国道の神田橋に戻る
記事をもとに国土地理院地図と見比べながらトレースする。神田小学校は廃校となっているが、その手前あたりで国道を南に逸れる道に入る。神田川左岸を成り行きで進み国道から分かれた県道218号に架かる落合橋に。
記事で橋から左岸を、とあるが畔道もなく、途中水路で遮られ左岸は進めない。とりあえず歩けそうな右岸の畦道を進み国道にかかる神田橋に。
国道に架かる神田橋まで戻り、国道を進み右に逸れて神田中央橋へ
神田中央橋
神田川右岸の道に入る
神田橋から右岸を進むとあるが、読み違え国道の「右岸」の道を進んでしまった。が、途中で気づき神田川右岸の道を探すが、道もなくまた通れそうにもない。
結局神田川の南の丘陵に開発した神田中央工業団地に続く道にある神田中央橋まで国道を進むことにした。橋の北詰から神田川右岸の道に入る
●神田中央橋から右岸を進み龍光寺橋北詰に出る
造成地用に護岸工事された箇所を進み
龍光寺橋北詰に
神田川右岸の道をすすむ。左手国道側に工場用地のためなのか造成工事が行われており、そのためか神田川側もしっかりとした護岸工事が行われている。この辺り野道が様変わり。先に進むと龍光寺橋の北詰に出る。
道なりに進み国道に架かる土井橋の北に常夜灯が見える
道なりに進むと
国道の土井橋の北に常夜灯がみえてくる
龍浩寺橋北詰を少し進むとその先は野道となり、なりゆきで国道が神田川を渡る土井橋西詰に出る。その北に土井の常夜燈があった。




反田池の不動さん
反田池の不動さん
常夜燈から先のルートについて「調査報告書」は、「田の口で、国道の北にあった街道は、神田川の蛇行に沿って、また南に戻る。さて、立石に入ると、耕地は急激に減少し、国道は上り傾斜度を強め、神田との比高差はひらくばかりである。
田の口で国道に重なった街道は、北立石の瓦地池の上から、また国道の南に下る。この瓦地池の上方では、田と家屋をはさんで、北へ順に、国道田街道家・旧バス道と、三時代の道が併走している。 この中で街道は今は農道となっている 。国道の南方を流れる神田川の右岸に下りた街道は、一m以内外の幅ながら、今でもたどることができる。
北立石の反田池付近からは、また国道に向って上る。池の北西の国道脇に「反田池の不動さん」がある。原位置は、池の西方で街道に伴うものであった。また池の東上方には「お梅茶屋」があった。」と記す。
当時と状況も変わっており、いまひとつはっきりしないが、取り敢えず国土地理院地図と睨めっとしながらトレースする。 
●神田川右岸を進み国道をクロスし神田川に
国道をクロスし神田川へ
石橋を渡り左折
国道土井橋の直ぐ北、神田側の右岸にある常夜燈からなりゆきで進み蛇行する神田川に沿って進むと国道にあたる。これが「調査報告書」に記す「蛇行にそって、また(国道)の南に戻る」との箇所だろか。国道をクロスし少し進み左に折り返し小川となった神田川に架かる小さな石橋に。 
●石橋を左折し国道に戻る 
国道に向って道なりに進むと
国道に出る
石橋を渡り国道の田の口バス停に戻る。これが「田の口で国道に重なった街道は」ということと思い込み、国道を進む。




●瓦地池辺りで国道を南に逸れ民家脇から野道に「
国道を逸れて進む
民家脇から野道に入る

次いで、「北立石の瓦地池の上から、また国道の南に下る」という既述に従い国道を右に逸れる。瓦地池の北を進む舗装された道は直ぐ先の民家の脇から野道に逸れる。


●その先、民家の左を進み舗装された道に出る
民家脇をを左に入り
国道からの舗装道に合流
畦道を進み一旦民家の脇にでるが、また野道に入る。少し進むと国道から入って来た道と合流その先は舗装道となる。



●国道からの舗装道に合流するが工事で行き止まり
舗装道を進むが
工事で行き止まり。迂回し神田川に架かる橋に
その先で道路工事のため行き止まり。工事現場の上に国道から入ってくる結構大きな道があるので、そこまで這い上がり、その道なりに進み神田川に架かる橋まで進む。

●左岸を進み激しい竹藪の手前で国道に戻る
橋左岸道はは藪
荒れた竹藪前で撤退し国道へ這い上がる
橋から先は右岸は通れない。左岸を進むとほどなく藪。今回の歩きで初めての藪漕ぎとなった。藪をへし折り先に少し進むと右岸に渡る小橋がある。
その先は猛烈な竹の藪。先に進む気力はなく、地図に小橋から国道に続く実線をトレースし国道に復帰する。実線で描かれたルートではあるが、藪道であり、国道にはガードレールを握り這い上がることになった。
が、国道に出ると対面に石仏が見える。それが「反田池の不動さん」であった。竹藪前で撤退したルートがオンコースであったのだろうか。ともあれ、偶然の出来事に感謝。

大道の不動さん
その先。「調査報告書」には「街道を国道の位置まで上がると「大道の不動さん」がある。右横には子供の墓地蔵が祀られる」とある。
この既述がよくわからない。既に反田池の不動さんのところで国道に戻っているのだけど?国土地理院地図には反田池の先で国道から右に逸れ直ぐに国道に復帰する道がある。これが「街道を国道の位置まで上がる」ということだろうか。実際、道が国道に復帰した先に大道の不動さんがある。国道をもう一度逸れて進めということなのだろうか。とまれ、道らしき道はないのだが。。。

伊予見峠の一里里程標石
伊予見峠
「調査報告祖」には「この後、街道は僅かであるが、北の山際を進み、また国道に復し、やっと伊 予見峠に至る。標高一五〇mである。参詣を終えた人々が、帰路当峠で、はるか南方の伊予の山々を見て、故郷への思いを馳せたものであろう。また、ここは「こんひら大門 一里」でもあり、それを示す道標が立つ 。弘化四年(一八四七)、伊予松山浮穴郡の人々の寄進によるものである。これまでみ た、讃岐の伊予・土佐街道の里程を示す道標のうち、年号が記される唯一のものである。が、他のものも、形状、様式、文字等のあまりなまでの類似性、個人名は若干異なるものの伊予松山方面の施主など、同じ時のものと判断してよかろう。峠は少しレベルが下っていようが、同じ位置である」とある。 国土地理院地図には大道の不動さんの直ぐ先に、国道を左に逸れ集落を抜ける道がある。それが「 この後、街道は僅かであるが、北の山際を進み」の指すルートだろうか。とはいうもののその国道を逸れる道は民家へのアプローチのように思える。
ともあれ、国道の左手に一里の里程標石を確認する。

地蔵峠の不動さん
一里の里程標石の先について「調査報告書」は「峠を越え、少し下ると、また不動像がある。この不動像の付近から、街道は北に急に下っていく。 国道は直線的に谷を埋め、峠を開削したものである。その下った箇所が不動像の原位置である。これから向う地蔵峠と結びつけて、人々は「地蔵峠の不動さん」と称する伊予見峠の手前に二つ、越えて一つ、都合三体の不動像が、道ゆく人々を守っていた。この三体は、いずれも、弘化四年(一八四七)、赤褐色の花崗岩の自然石を用い、 正面の中央部に立像 を陽刻する。 世話人も同じであり、同一の石工によるものと思われる」と記す。
この記述がよくわからない。「峠を越え、少し下ると、また不動像がある」とするが不動像はない。この不動像は「地蔵峠の不動さん」を指しているのだろう。とすれば。「伊予見峠の手前に二つ、越えて一つ、都合三体の不動像が、道ゆく人々を守っていた」との記述と合致する。反田池の不動さん、大道の不動さん、地蔵峠の不動さんで三体となる。
ただ、「この三体は、いずれも、弘化四年(一八四七)、赤褐色の花崗岩の自然石を用い、 正面の中央部に立像を陽刻する。 世話人も同じであり、同一の石工によるものと思われる」とあるが、石はすべて赤褐色の花崗岩の自然石ではあるのだが、反田池の不動さんと他の2体の不動さんの姿が結構異なっている。これだけがいずれも同じということにちょっと自信が持てない。

地蔵峠
地蔵峠手前は工業団地となり
峠付近も造成中で峠の面影なし
「調査報告書」は「街道は伊予見峠から、北に下り、若干の水田を回って、竹藪を上り、それを上りつめたところが地蔵峠(蔵峠)がある。この峠も今の国道では大きく開削している 。国道のすぐ北に残る街道の峠を北にほんの少し下ったところに、享保三年(一七一八)の地蔵像がある。これが峠の名の由来であろう。像の脇には五輪塔の残欠が、少なくとも五基以上分置かれている。
この峠と街道は、高瀬町上麻に位置するが、ここが高瀬町と山本町の境界である。近世では、上麻も神田も、ともに三野郡神田郷であった」と記す。
しかし現在伊予見峠から地蔵峠にかけての一帯は工業団地となり、地蔵峠のあたりも土地の造成中であった。旧路へのアプローチらしきもののみつからない。峠の地蔵尊や五輪塔の残決探しはできそうもなかった。
高瀬町と山本町とあるが、現在は共に三豊市。街道の北が高瀬、南が山本ということだろう。

国道を左に逸れる・県道23号合流点に道標
郡界標石?
県道23号との合流点に道標
地蔵峠を越えた参詣道はほどなく国道を左に逸れる。この交点が三豊市(北が高瀬、南が山本)と仲多度郡まんのう町(旧仲南町)の境となっている。
それもあってか、国道の四つ辻には郡界標石らしき石柱が立っていた。
まんのう町佐文(さぶみ;旧仲南町)に入った街道は北東に進み県道23号に合流。合流点に道標がある。「いよ」という文字が読める。明治36年(1903)建立のこの道標は、伊予と観音寺を案内するとのこと。
●まんのう町
まんのう町は、平成16年(2008)に仲南町、琴南町、満濃町が合併してできた。道を左に逸れた直ぐ先の四つ辻に郡界標石らしきものが建っていた。

舟型石仏道標
県道23号を東進すると、直ぐ「しこくの道」の指導標。そこを左に逸れ金比羅さんの西口である牛屋口への上り道に入る。北東に集落の道を少し走ると北へと上る道にあたる。道は共に舗装されている。随所に「しこくの道」の指導標が立っている。
50mほど比高差を上げると道の左手に石仏石仏が立つ。像の左右には「左 いよ道」「右 にお道」と刻まれる。「調査報告書」には「今は竹藪の小径となった、仁尾へ至る道の分岐点に立つ。仁尾への道は「さかな道」であり、往時、西口峠(牛屋口)で市が立っていた頃の名残りである」とある。 仁尾は三豊市の瀬戸内海に突き出た荘内半島の付け根あたりにある。

牛屋口
案内板
案内には「街道のはなし 牛屋口 牛屋口とは、かわった名前ですね。 一説によると、巡見便(幕府のお目付)が通ったり、殿様のかわりにこんぴらさんに参詣する使者が通ったので「お使者口」 といっていたとも伝えられています。
新しい国道がこんぴらの町なかを通り抜け、広い道が観音寺へ、伊予へと象頭の山すそを西へ走り通じるまでこの牛屋口は栄えていました。観音寺や仁尾からの魚屋が朝早くから魚市を開いたり、酒食を商う飲食店も、宿屋も、ここでそれぞれ栄えていました。
今はその面影は全く失われ灯ろうなどの奉納物など有形文化財、重文に指定され、静かな山あいの道が昔を物語っています。 大正の終わりころまでは、この灯ろうにも灯がともり、峠道を明るく照らしていたといわれます。 昭和60年三月 香川県」とある。
牛屋口は「ご使者口」がなまって「牛屋口」になったとも言われるようだ。
●六十六部供養塔
石仏道標から100mほどで牛屋口に着く。金比羅さんに入る鳥居手前に六十六部供養塔。「大乗妙典六十六部日本廻國」といった文字がうっすら読める、文化五年(1808)建立のもの。




並び燈籠
鳥居を潜ると道の左手に幾多の並び灯籠が立つ。69基が並ぶという。そしてそのほとんどが土佐の人の寄進であり、明治のはじめに奉納されている。そのうち13基は伊野の講中によるもの。紙漉きで栄えた人たちの寄進のようだ。
坂本竜馬銅像
瀬戸大橋開通を記念し地元の企業が建てたものとのことである。






お堂
少し進むとお堂があり、大小の石仏が並ぶ。大きいものは不動尊のようにも見える。不動尊と小さな石仏の組み合わせは前述「大道の不動さん」で見た。お不動さん横の地蔵は子供の墓地蔵とあった。 お堂の辺りが仲多度郡まんのう町から仲多度郡琴平町に入る。このあたりが左の琴平山と南の愛宕山の鞍部のピーク。道はここからゆるやかに金毘羅さんに向かって下りて行く。

法然上人直筆念仏石
法然上人直筆念仏石
10分強下ると道の左手、沢の向こうに墓所が見えてくる。道脇に案内があり、「広谷墓所 こんぴらの古い墓地で、昔の著名な人たちの墓が多くあります。
中でも法然上人直筆の石塔、金比羅大権現当時の別当職累の墓等があります。街道と谷をはさんだ草地のたたずまいは、昔の姿をよくとどめております。こんびらのまちはついそこでそのにぎやかなざわめきがきこえてきます」とあった。うしや
案内にあった法然上人直筆の念仏石を探す。案内板から直ぐ、沢に架かる細いアプローチがある。そこを直進すると、大きな座像石仏の左に、「南無阿弥陀仏」と刻まれた丸い石碑がある。それが法然上人直筆念仏石。案内も何もない。大きな石仏座像が唯一の目安。

琴平の町並みと金毘羅大門が見えてくる
左手に金毘羅大門が見える
牛屋口から15分ほど、右手山側に立つ常夜燈を越えると、琴平の家並みが見えてくる。左手上には金比羅大門も見える。



金比羅さんの参詣石段に出る
最初の四つ辻を左折し
石段を上ると
最初の四つ辻を左に折れ、石段を上ると金比羅さんの参詣石段に出る。そこは金比羅大門の少し手前だった。




金比羅さんの参詣石段に出る
そこは金毘羅大門のすぐ手前だった
石段を上り切ると参詣石段に出た
すごい人ごみの参詣石段を少し上り金比羅大門を潜り、昔より大門の先で土産を売ることを許されあ五人百姓の姿を見て今回の伊予・土佐道からの金比羅参詣道トレースの旅を終える。