阿波 歩き遍路:第六番札所 安楽寺から第十一番札 所藤井寺へ

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阿波の旧遍路道を辿るメモの第二回。今回は第六番の安楽寺から第十番の切幡寺へと吉野川北岸の道を歩き、そこからは吉野川を越えて南岸、第十一番札所藤井寺までをメモする。


本日のルート
第六番札所安楽寺
県道139号南の地蔵堂に茂兵衛道標(169度目)>真念道標と地蔵台座標石>十楽寺四つ辻手前の3基の標石
第七番札所十楽寺
旧街道合流点の真念再建道標>四国中千躰大師標石が続く>林観音庵に石仏群と四国千躰大師標石>御所小学校傍の標石>県道235号合流点の2基の標石>目引大師堂>延命地蔵尊に2基の標石>集会所対面に巨大供養塔>国道318号交差部に標石2基>御所神社参道鳥居前の標石>県道139号手前を右折し熊谷寺山門に
第八番札所熊谷寺
県道139号合流点に2基の標石>毘沙門堂>茂兵衛道標(167度目)>鳥居の先に2基の標石>舟形地蔵標石と四国中千躰大師標石>四つ辻に茂兵衛道標(88度目)と標石>道路標識に従い左折し法輪寺へ
第九番札所法輪寺
寺の東南角に標石>九龍宇谷川手前の茂兵衛道標(173度目)>青石自然標石>T字路角に地蔵座像と標石3基>小豆洗い大師>水田集会所手前の自然石標石と舟形地蔵標石>秋月大師堂と自然石標石>県道139号とのT字路に自然石標石>切幡寺の寺標石を右折し境内に
第十番札所切幡寺
県道237号手前と合流点の標石>地蔵堂の少し南に標石>県道12号合流点手前のへんろ休憩所>八幡小学校傍の標石2基>農協対面に標石>御所の原地蔵尊の茂平兵衛道標(137度目)と標石2基>吉野川堤防に茂兵衛道標>大野島橋>旧渡船場分岐点の標石>川島橋 >国道192号・県道240号分岐点に茂兵衛道標(157度目)>旧路分岐点に3基の標石 >旧路の自然石標石と地蔵尊>県道238号交差部に自然石標石>お屋敷前に2基の標石>旧遍路道分岐点に標石
第十一番札所藤井寺



第六番札所安楽寺

山門
コンクリート造りの山門。竜宮門形の鐘楼門となっている。左右の切妻造りの建物の仁王様が寺を護る。コンクリート造りは、このお寺様、昭和32年(1957)に大師堂と庫裏を残して全焼した故だろう。
多宝塔
境内に入ると左手に庭園がありその奥に多宝塔が見える。五智如来が祀られる。五智如来とは大日如来、阿しゅく如来、宝生如来、阿弥陀如来、不空成就如来の五大如来のこと。
本堂
正面に本堂。コンクリート造りのお堂に木に銅葺きの屋根。結構落ち着いた造り。Wikipediaには「徳島県板野郡上板町にある高野山真言宗の寺院。温泉山(おんせんざん)瑠璃光院(るりこういん)と号する。本尊は薬師如来。大師堂前から湧き出る宿坊の温泉とラジウム鉱泉入りの薬湯も有名である。
寺伝によれば弘仁6年(815年)に現在地よりおよそ2km離れた安楽寺谷に、空海(弘法大師)が堂宇を建立し薬師如来を刻んで本尊としたという。往時は温泉湯治の利益で、山麓から広大な寺域を誇り十二宇門甍を接し鈴鐘の響きが絶えることがなかったが、天正年間(1573年 - 1592年)に長宗我部元親の兵火により焼失し荒廃した。 万治年間(1658年 - 1661年)に現在地に駅路寺であった瑞運寺を併合して再建される。
承応2年(1653)巡拝した澄禅の『四国遍路日記』では「駅路山浄土院安楽寺」、貞享4年(1687)刊行の『四国辺路道指南』には「六番安楽寺又は瑞運寺とも云う」、元禄2年(1689)刊行の『四国?礼霊場記』には「瑠璃山日興院瑞運寺」、寛政12年(1800)刊行の『四国遍礼名所図会』には「六番温泉山安楽寺」と名称が変遷している。
本尊薬師如来坐像は、昭和37年(1962年)当寺の住職にすすめられて、妻の難病平癒祈願のため四国遍路を続けていた夫婦が、遍路途中に病気平癒をした報恩のために奉納したもので、43cm程の古来の本尊を胎内仏として納められている」とある。
境内にあった案内には「平安時代前期弘仁六年(815)弘法大師四国霊場御開創のみぎり、大師当地において四十二才の大厄をのがれられ(さかまつの由来)自ら薬師如来の尊像を刻み、請藍を建立、安楽寺と命名された。
山号を温泉山と号し、弘法大師が我が国に温泉湯治の利益を伝えた全国でも珍しい旧跡である。「四国遍礼霊場記」元禄二年(1689寂本著)には「相逐来て医王の神化をひとみな仰ぎ、寺院繁栄に至り、十二宇門甍を接し、鈴鐘のひびき耐える時なし」と記され、安楽寺谷川の滝の行場や瓦が出土する古代寺院跡、雨宝堂とよばれている庵、神社、平安時代の線刻仏等、周辺に史跡が点在し、当時の広大な寺域が想像できる。
この地は安楽寺谷川の水源と辺りの森を神とし、早くから開けた土地で「日置の荘」(引野)と呼ばれる広大な荘園であった。南北朝時代天授五年(1379)熊野新宮に寄進され、熊野の山伏(六坊)が熊野権現を祀った。近世となり、仏式の葬式等丁寧に先祖を祀る習慣が定着すると安楽寺はこの荘域に檀家を持つようになる。安土桃山時代慶長三年(1598)蜂須賀家正公の御信仰篤く、阿波の国主として入国するや、当山を駅路寺(管寺)と定め庇護された。茅葺の方丈(登録有形文化財)が当時を物語っている。
神仏分離、廃仏毀釈の歴史を経ても信徒の恩願深く四国霊場六番札所、温泉のある宿坊として現在に至っている。当寺は灌頂窟という道場を有す。願わくば参籠し、くす供養を以て先祖を廻向し自らも仏道を成ぜんことを」とあった。
大師堂
本堂の右手に大師堂。上述「さか松」の由来にある、「さか松」が傍にある。元は多宝塔前の現在庭園になっている辺りにあったようだが平成29年(2017)に枯れたよう。現在のものは何代目のものだろう。
さか松
お大師樣42才のお年に四国を巡錫され、当地に薬師如来の影現を拝して、心に薬師法を修して、国家安穏、諸人快楽を祈られました。その折り、病の父親に猪の肝を飲ませようと狩りをしていた青年が、お大師様を獲物と間違えて弓を放ってしまいました。すると、1本の松の枝が風もないのにその矢を受け、身代わりとなりました。

謝る青年に話を聞くと、お大師様は青年の父親をお加持し、私利私欲を離れて懺悔せよ、供養の心を起こし、人の為、世の為に自分を惜しむこと無く提供するよう説法されました。不思議、翌朝青年の父親は足腰が立ったのでした。ご利益を受けた一家は労力と資金を惜しみなく投じて本堂を建立しました。
お大師様は身代わりになった松の枝を青年にさかさまに植えさせ、この松が芽を出し栄えることがあれば末世の者、この地を踏むことによって悪事災難を免れると言い残されました。後にこの松は芽を出し栄え「六番のさかまつ」と言い伝えられるようになりました」と。

方丈
安楽寺方丈 - 入母屋造茅葺(一部本瓦葺)の方丈。江戸後期の建立。内部の上段の間は、藩主の座所と伝えられている。平成21年(2009年)8月25日、国登録有形文化財に指定された。
聖徳太子の駒繋石と一本木大楠不動明王の由来
方丈前に大きな岩があり、「聖徳太子の駒繋石と一本木大楠不動明王の由来」の案内。「(前略)この聖徳太子駒繋石と一本木大楠不動明王の御尊像(一本木大楠の倒木で造像された)は、聖徳太子が法隆寺へ通う道すがら、民の生活を知るためにこの一本木大楠の木かげのこの駒繋石に歩を止められた、と伝えられ、太子の宮と法隆寺の間に奉安(奈良県橿原市石原田町川本一吉氏宅)されしも、御所市早川勢津子先生のもとに、この不動明王の「お四国へ行って修行の旅をする者の道しるべとならん」というお説げが三度まであり、やっと関係者思案を重ねた末、この地に移されることとなった。(後略)」とあった。

駅路寺
案内に登場する「駅路寺」とは阿波藩独自のもの。藩主蜂須賀家政慶長3年(1598)、領地から城下町徳島を結ぶ5街道を整備し、その街道に往来の便を図るべく寺に宿坊を設けた。官用を優先しながらも、往還の旅人、遍路や出家も宿泊も利用できた、とのことである。
このお寺さまの宿坊は結構大規模。収容人数250名とあった。


第六番札所安楽寺から第七番札所十楽寺へ

安楽寺を離れ次の札所十樂寺へ。距離は1キロほどである。

県道139号南の地蔵堂に茂兵衛道標
安楽寺山門を右折。境内に沿って西に向かい、道なりに北に向か角に地蔵堂。「光明真言一億万遍 般若心経一万巻」と刻まれた供養塔傍に茂兵衛道標。手印と共に、「第六番 第七番 明治参拾弐年」といった文字が刻まれる。茂兵衛169度目巡礼時のもの。






真念道標と地蔵台座標石
遍路道はクロスする県道139号を北進し、最初の四つ辻を左折し西進。道なりに進むと四つ辻角、ブロック塀に囲まれた地蔵堂と標石がある。
地蔵堂に祀られる地蔵座像の台座に手印。標石を兼ねている。「文化七 八百七」の文字も読める。
その前に真念道標。正面に「左 遍ん路みち 願主 真念」の文字が読める。右面には「(梵字)大師遍照金剛」、左面には「為父母六親」といった真念道標の特徴となるサインがはっきり読めた。

十楽寺四つ辻手前の3基の標石
道なりに進むと板野郡上板町から阿波市土成町域に入る。手印と供に、「七番十楽寺、六番安楽寺」と書かれた石造りの「四国のみち」標石を越えると熊野神社。古き趣の社を右に見遣り西進すると、道の右手に3基の標石。
「へんろ道」の文字の上に、矢印の左右に六番、七番と刻まれた標石は前述中尾多七さん達が建立した標石だろう。手印と大師像が刻まれ半ば埋まったような標石は照蓮の四国中千躰大師標石。
この2基の標製の一段高いところに舟形地蔵。「右 十楽寺 寛政九」といった文字が刻まれた標石となっている。「右」では間尺に合わない。どこからか移されたものだろう。 標石の先の四つ辻を右折すると第七番札所十楽寺の山門前に出る。


第七番札所十楽寺

鐘楼門と中門
竜宮門型の鐘楼門を潜り石段を上ると、これも竜宮門型の中門。「遍照殿」の扁額。上層はかつて護摩堂、遍照殿、愛染堂となっていたとの記事もあるが、現在は愛染堂として愛染明王が安置されている。
本堂
正面に本堂。Wikipediaには「徳島県阿波市(もと板野郡)土成町高尾字法教田にある真言宗の寺院。光明山蓮華院と号する。本尊は阿弥陀如来坐像、脇侍は観音菩薩立像と勢至菩薩立像で3躰とも鎌倉期の作と云われている。
寺伝によれば、空海(弘法大師)がこの地に逗留した際に阿弥陀如来を感得し、楠にその像を刻み本尊として祀ったとされる。その際に、空海は人間の持つ八苦(生、老、病、死、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦)を離れ、極楽浄土に往生すると受けられる十の光明に輝く楽しみ(聖衆来迎楽、蓮華初会楽、身相神通楽、五妙境界楽、快楽無退楽、引接結縁楽、聖衆倶会楽、見仏聞法楽、髄心供仏楽、増進仏道楽)が得られるようにと山号・寺号を「光明山十楽寺」とした。当初は現在地よりおよそ3km離れた十楽寺谷の堂ヶ原に堂宇を建立したものと推定されている。
阿波北部でも有数の広大な七堂伽藍を有していたが、天正10年(1582年)に長宗我部元親の兵火によりすべてが焼失、しかし、本尊・脇仏・舎利仏など大切なものは住職真然と弟子が運び出し大門ケ原に安置したが、弟子は矢に射られ死んでしまった。その後、寛永12年(1635年)に現在地で再建された」とある。
寛永12年(1635年)に現在地で再建された頃は草葺のお堂であったよう。現在の堂宇が再建されたのは明治になってからのこと。
大師堂
石段を上に大師堂が建つ。

山門左に茂兵衛道標
山門の少し西、車道の南側に茂兵衛道標が立つ。手印と供に「第六番安楽寺 第七番十楽寺 明治三十一と刻まれる茂兵衛161度目巡礼時のもの。横に「四国第七番霊場」と刻まれた寺柱も立つ。
それにしても標石、寺柱がここに立つのはちょっと違和感がある。お寺さま手前、標石3基を左に折れたあたりの道は整備中といった状態。古い道はこの茂兵衛道標のところに続いていたのか、道標などが移されたのか、どちらだろう。



第七番札所十楽寺から第八番札所熊谷寺へ

次の札所、第八番熊谷寺はここから西へ4キロほど歩くことになる。

旧街道合流点の真念再建道標
次の札所へと、山門手前で右折したところまで戻る。そこを右折すると、直ぐ道の右手に「四国七番十楽寺」と刻まれた寺柱とその横に手印と共に大師坐像、そして「八ばん」の文字が刻まれた標石が立つ。
この標石には「文化六」の文字と共に、「真念再建願主照蓮 世話人阿州徳嶋講中」の文字も刻まれる、とか。真念没後100年以上たった文化6年(1809)、願主とある照蓮が真念の標石建立を徳とし、その意思を継ぐべく四国中千躰大師標石建立を意図した、その「決意表明」と言った意味合いの文言であろう。「願主照蓮 世話人阿州徳嶋講中」のペアで四国千躰大師標石が建てられている。

四国中千躰大師標石が続く
西進し県道139号を右折。その先直ぐに県道を左折し県道235号に乗り換える。川を越えると道の右手、電柱脇に標石。手印、大師像が刻まれた照蓮の四国中千躰大師標石。
その先、道の右手、民家のブロック塀に組み込まれたような標石。これも四国千躰大師標石。



林観音庵に石仏群と四国千躰大師標石
更に西進すると道の右手にお堂があり、林観音庵とある。境内には光明真言百万遍供養塔や石仏、道傍には馬頭明王も祀られる。
この観音庵の南西端、道の右手のブロック塀端にも四国中千躰大師標石。手印は十楽寺方向を指す。今までの流れから言えば、次の熊谷寺を指すのが普通。道の反対側から移されたのだろうか。3基続いた四国中千躰大師標石はすべて文化六年と刻まれている、と言う。


御所小学校傍の標石
宮内谷川に架かる御所大橋を渡ると遍路道は一旦県道を離れて弧を描く旧道に入る。そこに自然石の標石。「是ヨリ大楽寺 十六丁 是与熊谷寺 *丁」と刻まれる。

県道235号合流点の2基の標石
弧を描く道を県道に戻ると合流点に壊れた石造物が集められそこに4基の標石が見える。 西端が「へんろ道」と刻まれその文字の上に矢印のある標石。前述中尾多七さんの標石だろう。その横に自然石の標石。手印と供に「左十楽寺 熊谷寺」の文字が刻まれる。また、その左手のふたつの自然石にも手印が刻まれていた。


目引大師堂
直ぐに四つ辻。県道235号はここから南に下るが遍路道は直進。四つ辻を越えた道の右手に目引大師堂。その前の8基の石碑。1基は光明真言百万遍供養塔だが、その他は馬頭観音など牛馬を祀る。


延命地蔵尊に2基の標石
西進すると道の右手の高い台座に延命地蔵尊が座る。天保三年の建立とある。板野十六地蔵四番札所との石柱も立つ。横には馬頭観音も祀られていた。
延命地蔵の裏表に2基の標石。表には手印と共に「四国道 七番 八番」と刻まれる。裏には大師坐像と共に「是より八ばん十八丁」と刻まれる。



集会所対面に巨大供養塔
ほどなく道の右手に集会所があり、道を隔てた対面に3mほどの供養塔。「光明真言三百万遍為二世安楽」と刻まれる。その横に自然石の石碑。「法華経*石塔」といった文字が読める。
また、集会所傍には大師像が刻まれた石碑、石灯籠も立ち、線香を手向ける台もある。弘法大師茶堂として御接待の場所であった、よう。



国道318号交差部に標石2基
西に進むと国道318号と交差。手前商店傍に「へんろ道」と刻まれた標石。中尾多七標石だろう。また、国道を渡ると道の右手に自然石の標石。手印と「*大師遍照金剛」の文字が読める。

御所神社鳥居前の標石
道の右手、御所神社の鳥居の立つところ、道の右手に2基の標石。少し土に埋もれた標石には「へんろ道」の文字と矢印が刻まれる中尾多七標石。その裏の大きな標石の側面には「是与十らく寺 三十丁」「是与久またに寺 十丁」と刻まれる。
御所神社
後鳥羽上皇を中心とした院の勢力が鎌倉幕府を倒すべく起こした承久の乱(1219-22)により、敗れた院側の土御門上皇ゆかりの地。土佐への配流後、阿波に移されこの地に行在所を設けた。ここから南東に1キロ強のところにある。土御門上皇行宮跡(土成町御所屋敷二42)。
昭和32年(1957)、この地の北にあった吹越神社に合祀され、現在ではそこが吉田の御所神社と称される。

県道139号手前を右折し熊谷寺山門に
西進すると道が県道139号にあたる手前に右折を指示する「遍路タグ」が貼られる。右折し北上すると第八番札所熊谷寺の山門に至る。










第八番札所熊谷寺
山門
四国霊場中最大の規模と称される山門。高さ13.2m、間口9m、1687年(貞享4年)建立。高さ13mの二重門。昭和46年(1971)に県の有形文化財に指定、この仁王門、かつては阿波藩主の蜂須賀公が月見の宴を張ったとか。
山門の先に車道が走る。車道をクロスし右手に弁天池を見遣り先に進む。
熊谷寺板碑
道がふたつに分かれる手前、右手に3基の石造物。その傍に熊谷寺板碑。案内には「この緑泥片岩の板碑は一般には「阿波板碑」と呼ばれているもので、次の文字が陰刻されている。 慈父慈母成等正覚 乃至法界平等利益 暦応二年八月時正
文面によると、亡父母の供養のため、その子息が建てたものと考えられる。建立年月は歴応二年(1339)秋の中日である。歴応は南北朝時代の北朝の年号で、当時北朝方の重臣細川和氏が秋月城に拠って勢力を誇っていたので、此の地方では北朝の年号が使用されていたと推定される 平成元年」とあった。
板碑は左端、2mほどの細長い石造物である。


多宝塔
左手の道を進む。四国最古の歴史をもつ二重の塔。安永三年(1774)の建立と言う。塔の中には大日如来をはじめとした五智如来が祀られる、と。
中門
石段を上ると中門。持国天と多聞天が両脇に立つ二天門であった。







鐘楼
鐘楼も落ち着いた、風情のある建物だ。
本堂
更に石段を上り本堂に。Wikipediaには「徳島県阿波市土成町土成にある高野山真言宗の寺院。普明山(ふみょうざん)真光院(しんこういん)と号する。本尊は千手観世音菩薩。 寺伝によれば、815年(弘仁6年)空海(弘法大師)がこの閼伽ヶ谷で修行をしていた際、熊野の飛瀧権現(熊野那智大社の別宮飛瀧神社の祭神)が現れて「永く衆生済度の礎とせよ」との宣託をし、1寸8分 (約5.5cm) の金の観音像を授けた。そこで堂宇を建立し、一刀三礼して霊木に等身大の千手観世音菩薩を刻んでその胎内に授けられた観音像を収めて本尊としたという。
1927年(昭和2年)火災により本堂とともに空海作と伝えられていた本尊も焼失した。本堂は1940年(昭和15年)に再建が開始されたが戦争により中断、1971年(昭和46年)に全容が完成し、新造された本尊が開眼した」とある。
大師堂
本堂左側の石段を上ったところに大師堂。お堂には永享三年(1431)の作と伝わる弘法大師像が祀られる、と。


前述蜂須賀公の月見の宴の話の如く、江戸の頃は蜂須賀公の庇護を受け境内の堂宇は百を越えたという。なお、寺名の由来ともなった熊野飛瀧権現社跡は本堂と谷を挟んで右手上方の台地にある、とのこと。




第八番熊谷寺から第九番法綸寺へ

県道139号合流点に2基の標石
次の札所法綸寺は南へおおよそ3キロ。山門を出て南に下り旧遍路道まで戻る。熊谷寺への往路で右折した箇所を西進すると県道139号に合流する。
合流点の少し南、県道139号の右手に石仏と2基の標石。1基には「へんろ道」と刻まれる。文字の上には矢印らしきものも見える。中尾多七標石だろう。 その横の自然石も標石。風化が激しく文字は読めないが、「八ばん五丁 白鳥」といった文字が刻まれるようだ。



毘沙門堂
県道139号を下ると道の右手にコンクリート造りのお堂がある。お堂の中には彩色が残る毘沙門立像が祀られていた。この辺り新道整備中のようで往昔の遍路道の風情は残らない。










茂兵衛道標(167度目)
道なりに進み四つ辻の南東角に「四国のみち」の標石があり、その横に茂兵衛道標がある。手印と共に「熊谷寺 法輪寺 明治三十二」といった文字が刻まれる茂兵衛167度目巡襟時のもの。
遍路道はここを左折し県道を離れ南に下る。旧路をのみ込むように新しい車道の整備中。




鳥居の先に2基の標石
南に下ると整備された道の西側に残る旧道筋(といっても完全舗装)に鳥居が建つ。真北に若一王子神社が地図に見えるが、この道筋は参道口なのだろうか。
鳥居の先、道の右手に2基の標石。1基は「へんろ道」と矢印。中尾多七標石だろう。その横の自然石には手印が見える。





舟形地蔵標石と四国中千躰大師標石
ほどなく道の右手に舟形地蔵。「遍路道」らしき文字が刻まれ標石となっている。更に南、民家の生垣にも標石。手印や大師像、そして「千躰大師」といった文字も読める。照蓮の四国中千躰大師標石である。



四つ辻に茂兵衛道標(88度目)と標石

四国千躰大師標石から整備された道を離れて一瞬だけ旧道筋を進む。ほどなく整備された道に合流するが、その合流点先に四つ辻がありそこに2基の標石が立つ。手印と共に、「八十八度目為供養」「左 八ばん」「明治十九年」といった文字が刻まれる茂兵衛八十八度目巡礼時のもの。
また、茂兵衛道標の道を隔てた対面にも標石。上部が破損し「ろ道」の文字が読める。形状からすれば既述中尾多七標石のようにも見える。

道路標識に従い左折し法輪寺へ
茂兵衛道標の先に法綸寺左折の道路標石。指示に従い道を左に折れ道なりに進むと法綸寺に至る。
山門前に標石。手印と共に「右十ばんきりはた寺 二十五丁
左八ばんく満だに寺 十八丁 大正五年」といった文字が刻まれる。








第九番札所法輪寺

山門
白い土塀に囲まれた境内へと山門を潜る。入母屋造りの楼門である。
本堂
境内正面に本堂。Wikipediaには「徳島県阿波市土成町土成にある高野山真言宗の寺院。正覚山(しょうかくざん)菩提院(ぼだいいん)と号する。本尊は涅槃釈迦如来。
巡錫中の空海(弘法大師)が白蛇を見、白蛇が仏の使いといわれていることから釈迦涅槃像を刻んで本尊として開基したと伝えられている。当初は現在地より4キロメートル北方の法地ヶ渓にあり白蛇山法林寺と号した。
天正10年(1582年)に長宗我部元親の兵火により焼失。正保年間(1644年 - 1648年)に現在地に移転して再興され、田園の中にあるため「田中法輪寺」と呼ばれ、当時の住職が「転法林で覚りをひらいた」ことから、現在の山号と寺号に改められた。その後安政6年(1859年)に失火にて鐘楼堂を残して全焼、明治になって現在の堂宇が再建された」とある。
釈迦涅槃像を本尊とするのは四国霊場ではこのお寺さまだけ。幾多の火災にもその難を避け、現在に伝わるとのことである。
大師堂
本堂右手に大師堂。



第九番札所法輪寺から第十番札所切幡寺へ

次は吉野川北岸、十里十寺と称される四国霊場最後の霊場である第十番切幡寺。おおよそ4キロ歩くことになる。

寺の東南角に標石
山門を出ると寺の東南角に標石。手印と共に「是より第十番 二十五丁 大正三年」といった文字が刻まれる。道標を右折、西進しT字路を左折、次いで四つ辻を右折し西進する。








九龍宇谷川手前の茂兵衛道標(173度目)
道を進み九龍宇谷川手前、道の左手に四国のみちの木標と並び茂兵衛道標。手印と共に「法輪寺 切幡寺 明治三十二年」といった文字が刻まれる。茂兵衛173度目巡襟時のもの。









青石自然標石
九龍宇谷川東詰めには瓦葺きのお堂が建つ。「南無大師遍照金剛」の幟がはためく川を渡るとほどなく道の右手に自然石の石碑。「是より教覚寺」と刻まれる青石(緑泥片岩)標石となっている。右に折れると教覚寺がある。






T字路角に地蔵座像と標石3基
西進するとT字路。南東角、鉄骨造りのお堂に地蔵尊が祀られる。地蔵尊前に自然石の標石。ペンキで「10thと矢印が描かれる。分かりやすいが、ちょっと乱暴かとも。横に立つ舟形地蔵も「右遍路道」と刻まれた遍路標石となっている。
また、このT字路の北東角にも自然石がある。よくみると「九番」といった文字が読める。これも標石となっている。

小豆洗い大師
T字路を左折、直ぐに遍路道案内に従い右折し西に向かう。ほどなく道の左にお堂。「小豆洗い大師」の石碑が立つ。お堂の前には湧水らしき水が溜まる。この地は水が乏しく、収穫した小豆を洗えず困っていた地元民を助けた空海の加持水と伝わる。





水田集会所手前の自然石標石と舟形地蔵標石
西進し水田集会所手前の三差路角に2基の標石。自然石の標石には手印と「十番 九番」の文字が刻まれた遍路標識。横の上部の破損した舟形地蔵にも「右遍路道」と刻まれた標石となっている。







秋月大師堂と自然石標石
右手に秋月大師堂を見遣り先に進むと道の右手に自然石の標石。左右を指す手印、中央に法号らしき文字、そして「九ばんへ 十ばんへ」といった文字が刻まれる。









県道139号とのT字路に自然石標石
遍路道はほどなく県道139号とT字路であたる。合流点正面に自然石標石。「左十番 右九番」の文字が刻まれる。左十番の文字はペンキで輪郭が描かれている。現在旧遍路道の目安として標石を追っかける私には、標石はそれなりに意味あるものの、実際にお遍路さんが目安としているとは思えない、標石にマーキングする必要があるのだろうか。
遍路道はこれからしばらく県道139号を進むことになる。



切幡寺の寺標石を右折し境内に
県道139号に合流した遍路道は左に折れ、ほどなく右に折れて再び西進する。道の右手に続く「輪蔵庵」、「秋月歴史公園」、「秋月城址」といった案内、また称念寺を見遣り西に進む。しばらく歩き道の右手に建つ切幡寺の寺標石を右折、門前町を抜け境内に至る。
輪蔵庵
足利尊氏が元寇以来の国難に準じた戦没者の霊を弔うべく安圀寺と利生塔を各国に建立。輪蔵寺はその安圀寺跡とされる。
足利尊氏の四国経営の拠点とし、この秋月庄を領した秋月城の城主である細川和氏の手により建立した補陀寺をその前身とし、夢窓国師により開山した。
秋月城
文永三年(1266)に守護小笠原直長の居城として築城。その後、建武三年(1334)上述の細川和氏が阿波守としてこの城を居城とする。三代目の細川詮春が居城を勝瑞城に移った後は、秋月氏が護った。


第十番札所切幡寺

仁王門
門前町を抜け山門である仁王門を潜り境内へ。
経木場
参道を進むと石段手前にお加持水が溢れる経木場がある。最初は手水場かと思ったのだが、幾多の供養仏の経木が加持水で潅頂されている経木場とのこと。遍路歩きではじめて出合った。湧き出るお水はお大師さんの加持水と伝わる。
伝統行事の一つとして、毎年春分の日と秋分の日に、先祖の戒名などを経木に書き清水をかけて流して供養する経木流しを行なっている、とWikipediaにあった。
本堂
三百三十四段の石段を上ると正面に本堂。Wikipediaには「徳島県阿波市市場町切幡にある高野山真言宗の寺院。得度山(とくどざん)灌頂院(かんじょういん)と号する。本尊は千手観世音菩薩。
寺伝によれば、修行中の空海(弘法大師)が、着物がほころびた僧衣を繕うため機織の娘に継ぎ布を求めたところ、娘は織りかけの布を惜しげもなく切りさいて差し出した。これに感激した空海が娘の願いを聞くと、父母の供養のため千手観音を彫ってほしいとのことであった。そこで、その場で千手観世音菩薩像を刻んで娘を得度させ、灌頂を授けたところ、娘はたちまち七色の光を放ち即身成仏して千手観音の姿になったという。
空海はこのことを嵯峨天皇に伝えたところ、勅願によって堂宇を建立、空海の彫った千手観音を南向きに、娘が即身成仏した千手観音を北向きに安置し本尊として開基したという。山号や寺号は機織娘の故事にちなんでいる」とある。

山号、院号、寺名ともに上述機織り娘に由来するとあるが、異説もある。元禄2〈1689〉の寂本著『四国遍礼霊場記』には「大師初じめてここに至り給うとき、天より五色の幡一流降り、山の半腹にして其幡ふたつにちぎれて、上は西の方へ飛ゆき、下は此山に落ける、怪異の事なれば、是を伝んとて、大師寺を立切幡寺と名け玉ふとなん」とあり、真念や澄禅の著にも機織娘の即身成仏の記事はなく、江戸の中期の頃には未だ機織娘の故事の話はできていなかった、との記事もある。縁起って、所詮縁起ではあるが、何時、誰が、どのような意図で創作するのか、結構気になる。
大師堂
本堂右手に大師堂。当寺は明治45年(1912)に不動堂と大塔を残し、23の堂宇は灰燼に帰したとのこと。本堂を含め、その後の再建である。

不動
本堂左より56段の石段を上ると不動堂





大塔
更に40段の石段を上ると大塔がある。二重の多宝塔。徳川家康の勧めにより豊臣秀頼が父・秀吉の菩提を弔うため慶長12年(1607年)大坂住吉大社の神宮寺である新羅寺の西塔として建立される。明治初年の廃仏毀釈により新羅寺が廃寺となったため明治6年(1874年)から明治15年(1883年)にかけて移築された(重要文化財)。国内の二重塔では、初層も二層も方形という形式で現存しているものは当塔のみである。

境内には機織の乙女が即身成仏した伝説の観音像・はたきり観音が立つ。右手にはさみを左手に布を持つ姿である。
奥の院
大塔脇に奥の院の案内。結構身構えて歩を進めたのだが、あっけなく到着。コンクリート造りのお堂が建っていた。真言宗八祖の肖像画が掲げられていて、内部には八祖の仏像が祀られている。
八祖大師とは龍猛菩薩、龍智菩薩、金剛智三蔵、不空三蔵、善無畏三蔵(ぜんむいさんぞう ) 一行禅師(いちぎょうぜんじ)、恵果阿闍梨、弘法大師。インドで生まれた真言密教の教えが中国をへて弘法大師に伝えられるまでに現れた偉大な阿闍梨を言う。


讃岐から阿波への遍路道
切幡寺は88番札所大窪寺を打ち終えた後、阿波の札所へと辿るふたつの主要ルートのひとつ。大窪寺の標石に「切幡寺」を指していたように、大窪寺を打ち終えた遍路は、日開川筋(現在の国道377号)に沿って西に向かい、長野集落からは流路を南に変えた日開川の谷筋を下りこの切幡寺へと至る。
因みにもうひとつのルートは、上述長野から東へと中尾峠を越え、湊川の谷筋を白鳥の社のある海辺まで進み、前述大阪峠を越えて第一番札所の霊山寺へ向かう。 昔のお遍路は第一番からスタート、といったことにこだわることなく、自由に霊場を廻っていたようである。


第十番切幡寺から第十一番札所藤井寺へ

十里十寺と吉野川北岸を辿った遍路道も、次の札所十一番藤井寺に向け??野川を渡り南岸に向かう。その距離おおよそ10キロである。

県道237号手前と合流点の標石
切幡寺門前町の家並みを抜け、クロスする県道139号を南に抜ける道が東に曲がる角に標石。手印と共に、「是ヨリ ふじ」といった文字が読める。
先に進み県道237号との合流点にも標石。手印と供に「十一ばん」の文字が刻まれる。この標石には「(梵語)南無大師遍照金剛」の名号、「父母六親」と言った真念道標の特徴を備えるため、真念道標とされる。「十一ばん」といった文字は真念道標になじまないが、後世添刻されたと言う。

地蔵堂の少し南に標石
県道237号を南に下る。ちょっと新しい五輪塔のある地蔵堂を越えると民家のブロック塀の前に標石。「へんろ道 左ふじ寺一り半 文化十」といった文字が読める。




県道12号交差部手前にへんろ小屋
道の右手に比較的新しそうな標石があり、藤井寺8.8kmとある。更に南に下ると県道12号との交差部少し手前、道の右手に一見遊園と見まごうへんろ小屋があった。木造2階建ての遍路小屋には「へんろ小屋 空海庵」とあった。


八幡小学校傍の標石2基
県道12号を越えた遍路道・県道237号は八幡小学校前で車道に斜めに合わさる。その合流点手前にお堂があり、その前にある丸い自然石に、かすかに手印と「へんろ」の文字が読める。
合流点の東北角にも標石。「へんろ道」、矢印の両端に「十番、十一番」と刻まれた典型的な中尾多七標石。

農協対面に標石
合流点を左折すると、ほどなく道の左手に阿波郡東部農業協同組合と書かれた建物の対面、理髪店脇に標石がある。手印と共に「十一ばん ふじい寺」の文字が読める。
裏に大師像も刻まれ、形状は四国中千躰大師標石のように見える。チェックすると、文化八の文字が刻まれた照連の四国中千躰大師標石との記事もあった。
既に見てきたように、四国中千躰大師標石は文化六年の銘が多く、文化八は珍しいとのこと。文化六年に始めた道標建立も余り長くは続かなかった、といった記事をどこかで見た記憶があるが、そのことと関係があるのだろうか。

御所の原地蔵尊の茂平兵衛道標(137度目)と標石2基
道は八幡神社(粟島神社)前で右折し南へ進路を変える。橋を渡ると道の右手に御所の原地蔵尊のお堂があり、その傍に3基の標石。
お堂の東には茂兵衛道標。折れた真ん中を補修しているが、裏面上部も破損している。正面に「阿波国阿波郡林村」、右面に「明治二十七年」、左面に「百三拾七度目為供養」などの文字が刻まれる茂兵衛137度目巡礼時のもの。
お堂の西に2基の自然標石。「是よりふしい寺五十五丁 天保九」、「十一ばん」といった文字が手印と共に刻まれる。

吉野川堤防に茂兵衛道標
道を南下すると吉野川の堤防にあたる。堤防に上る石段脇に茂兵衛道標のレプリカ。正面には「遍路道」、右側には「明治十九年」、左には「八十八遍目 為供養 長州大島郡椋野村 行者中務茂兵衛建立」、裏に「越中国下新川郡」と刻まれる。
常の標石には茂兵衛の出身地は長州ではなく周防圀の表示が多いようだ。裏面は施主の住所だろう。オリジナルは市場町にある歴史民俗資料館に置かれているようだ。
茂兵衛道標の傍、堤防下にはへんろ小屋もあった。

大野島橋
堤防への階段を上り、そして??野川への川床へと堤防を下りる。土手を下りた所、車道脇に「善入寺島」の案内。「ようこそ善入寺島へ 善入寺島は一級河川??野川の中流域にあり、阿波市と吉野川市を跨ぐ中州。古代、粟(あわ)が豊かに稔ったことから「粟島」とも呼ばれた。
面積は東西約6キロ、南北約1.2キロ、約500ヘクタール。周囲は真竹が取り囲み、その中に約350ヘクタールの農地が広がる日本最大の川中島。
この島の西端で最上流周辺を「剣先」と呼び、ここから??野川は南北に分かれ、北は阿波市側を市場町から??野町にかけて、もう一方は吉野川市域を流れた後、再びひとつになる。 嶋への出入りは、阿波市側からはこの「大野島橋」のほか「千田橋」「香美橋」の三つの潜水橋(増水時に川の流れを妨げないよう水面下に沈下する橋)、吉野川市からは「川島橋」「学島橋」の二カ所の潜水橋のいずれかを自由に通行する。
現在地点の「大野島橋」から「川島橋」へと続く道路は、第十番札所切幡寺から第十一番札所藤井寺を結ぶへんろ道として現在まで続く。
この島には大正4年(1915)までは506戸約3000名の住人が住み、学校や神社もあった。??野川の水で豊かな稔をもたらる反面、洪水時による島の冠水により農作物だけでなく人的被害などの惨事が繰り返されてきた。
そのため明治政府は明治40年(1907)、吉野川両岸に堤防を築き、中州を国有遊水地とする計画を施行、住民を強制退去させ大正5年(1916)3月31日までに無人島となり、名称も「善入寺島」と改められた。
島外に移住した住民は、現在の国土交通省の管轄下、その後も占有許可を受け農地として残した。平坦は台地は農地整理、土地改良、道路整備を重ね、現在ではほとんどが?アール規模に整理され、利水も約50キロ上流の池田ダムより吉野川北岸農業用水のパイプ配管による導水設備が整備され、農業地帯として成長してきた。
占用耕作者は約550戸、阿波市が約8割、吉野川市が約2割。両市の地域農業を支え、かつ関西の台所と称される野菜の一大産地となっている。カボチャ、キュウリ、ナス、ダイコン、ニンジン、ハクサイ、キャベツ、ブロコリー、水稲などを栽培する」とある。

河川敷の車道を少し進むと「大野島橋」。前述、巨大な中州・善入寺島に架かる潜水橋である。橋桁は低い。幅は3メートルほどのコンクリート造り。車はすれ違い不可能で、対向車の有無を確認しながら渡っている。

旧渡船場分岐点の標石
広い中州を進むと中程に「四国のみち」の標石と共に古い標石が立つ。手印と供に「左きりはた寺 左婦じ井寺 粟島渡場 是ヨリ東 源田濱 二条通」といった文字が刻まれる。 古い標石に従えば、遍路道は分岐点を左に入り粟島の渡で吉野川南岸に進むことになるが、現在その渡しも橋もない。「四国のみち」の「従是藤井寺 5.9粁」の指示に従い分岐点を右に進む。



川島橋
大野島橋からおよそ2キロ強を歩くと川島橋に。橋の幅は大野橋と同じく3mほどだが、こちらは橋の中程に退避スペースがあり、対向車を避けることができる。 堤防に上り吉野川の南岸に。


川島橋南の堤防下に標石
堤防を下りたところに遍路休憩所があり。その前の道分岐点に標石。「へんろ道 第十一番藤井寺三十丁 昭和十一年」といった文字が刻まれる。遍路道は手印に従い分岐点を右に入る。


粟島の渡しの標石
現在は川島橋を渡り、この標石から先に進むが、往昔の遍路道である粟島の渡し辺りに標石があるものかと、好奇心で確認に向かう。
標石から分岐点を左に進むと、県道237号と県道122号が合流する箇所に標石が立ち、「ふじゐ寺へ 廿八丁 きりはた寺へ 一里十丁 大正年間」といった文字が刻まれていた。 また、そこから東、県道122号脇にも標石。「十一番ふじゐ にしをゑ」と刻まれる。共に、善入寺島にあった分岐点を左手を進む道筋の、吉野川南岸といった場所。かつて粟島の渡しを渡ったお遍路さんは、この辺りから藤井寺に向かったのだろう。
なお、「にしをゑ」はこの辺りの旧地名である「西麻植(にしおえ)」のことだろう。


国道192号・県道240号分岐点に茂兵衛道標(157度目)
道なりに進み八坂神社前でJR徳島線の神功踏切を渡り国道192号に出る。国道を左折した遍路道は、すぐ先で右に折れ県道240号に入る。
少し進むと左から径が合わさる箇所に茂兵衛道標が立つ。「藤井寺 切幡寺 左箸蔵寺 明治三十年」といった文字が刻まれる。茂兵衛157度目巡礼時のもの。
切幡寺の手印が北を指す。ということは、かつて粟島の渡しを渡ったお遍路さんは、前述堤防下の2基の標石辺りから、この地へと辿ってきたのだろう。道筋としてはほぼ直線といったものである。
なお、箸蔵寺は吉野川を上流に60キロ弱のぼったところにある金毘羅さんの奥の院。箸蔵寺へ辿る箸蔵道()の記憶が蘇る。


旧路分岐点に3基の標石

少し先に進むと四つ辻の南東角、民家の壁に張り付くように1基の舟形石仏と3基の標石。右端は舟形石仏。その横に照蓮の四国中千躰大師標石。手印と大師像、「四国千」といった文字が読める。

次いで茂兵衛道標。手印と「切幡寺 箸蔵寺 藤井寺 左徳島 百九十二度目供養」といった文字が刻まれる。明治35年、茂兵衛192度目巡礼時のもの。
左端の標石には「ん」といった文字が刻まれるが、その他は読めない。


旧路の標石と地蔵尊

標石のある四つ辻を右に折れ、一旦県道を離れる。道なりに進むと道の右手、民家ブロック塀脇に自然石の標石。「左遍んろ」と青石に刻まれる。その先、天明二年の銘のある地蔵座像を越えると遍路道は再び県道に戻る。








県道238号交差部に自然石標石
県道に戻った遍路道をしばらく歩く。県道238号交差部、北西角に標石。新しい藤井寺と刻まれた石柱の横に自然石2基。1基には「へんろ」の文字が読める。もう1基にも文字が刻まれているようだが読めない。







県道240号を南に離れる角に標石
飯尾川を渡ると、ほどなく道の右手に標石。風化が激しく文字は読めない。ここが分岐点では、と右折し県道を離れ南にすすむ。左手に立派な白壁の蔵。
その先四つ辻にお堂があり、傍に標石が残る。「是ヨリ藤井寺江六丁 文政」といった文字が刻まれているようだ。 お堂の前に藤井寺を案内する新しい標石。指示に従い左折する。

お屋敷前に2基の標石
左折するとお屋敷の塀の前に大きな石碑。3mほどもあるだろう。手印と供に「ふじ以寺道」と刻まれる。
道を進むとT字路で県道242号にあたる。その角、お屋敷の前に標石が立つ。手印と共に、「ふじい寺 志ようさん寺道 きりはた寺道 明治廿年 施主須見徳平」とあり。施主の須見氏はこの屋敷の主である。「志ようさん寺」は第十二番札所焼山寺。



標石から旧遍路道に入り藤井寺へ
南に下ると道は分岐。分岐点に標石があり「へんろ道」と刻まれる。脇の「四国のみち」の指導標に、藤井寺直進の指示。
指示に従い直進し、休憩所を越えた辺りから趣のある径を進み、藤井寺に至る。




第十一番札所 藤井寺
山門
仁王門である山門を潜り境内に。参道右手に藤井寺の寺名由来ともなっている伝空海お手植との藤棚が残る。
藤棚に沿って歩き、納経所を越えると直角に曲がる。


本堂
正面に本堂。Wikipediaには「徳島県吉野川市鴨島町飯尾にある臨済宗妙心寺派の寺院。金剛山(こんごうざん)と号する。本尊は薬師如来。なお、四国八十八箇所霊場のうち、寺号の「寺」を「じ」でなく「てら」と読むのは本寺だけである。
弘仁6年(815年)に空海(弘法大師)がこの地で自らの厄祓いと衆生の安寧を願い、薬師如来像を刻んで堂宇を建立、山へ2町入ったところの八畳岩に金剛不壊といわれる護摩壇を築き一七日(7日間)の修法を行ったのが開創であると伝えられる。このとき空海が堂宇の前に藤を植えたことから藤井寺と号したという。 以来、真言密教の道場として七堂伽藍を持つ寺に発展した。
天正年間(1573年 - 1592年)に長宗我部元親の兵火によって焼失した。澄禅の『四国辺路日記』(1653年巡拝)には、「三間四面の草堂也、仏像は朽ちる堂の隅に山の如くに積置きたる・・」の状態であったが、 延宝2年(1674年)に臨済宗慈光寺の南山祖団禅師が再興し、それゆえ臨済宗に改められたが、天保3年(1832年)に再び火災によって本尊以外は全焼、その後万延元年(1860年)に再建されたのが現在の伽藍である」とある。

「寺」を「じ」でなく「てら」と読むのは本寺だけである、とある。結構珍しい。同じくこのお寺さまには院号がない。院号がないのはそれほど珍しいことではないようだが、結構遍路歩きをしてきたが、院号がない寺はあまり記憶にない。
本尊薬師如来
「薬師如来坐像(本尊) - 榧の一木造り、素地、像高86.7cm。本堂裏にある収蔵庫に収められている秘仏であり通常は公開されていない。像内部の墨書銘に、「仏師経尋、尺迦仏、久安4年(1148年)」などが読み取れ、元来釈迦如来像として造立されたことがわかる。重要文化財指定の正式名称も「木造釈迦如来坐像」である。また、膝裏の墨書きから天文18年(1549年)に現在の形に改変されたことがわかる。平安時代末期の、制作年・作者が明らかな基準作として貴重である。明治44.8.9」とある。

釈迦如来も薬師如来も左手は与願印、右手は施無印を結ぶ。与願印は「願いを与える」、施無印は「畏れを無くする」を象徴する印である。で、釈迦如来と薬師如来の違いは、与願印に「薬壷」を持つか否か、ということ。天文18年(1549年)の修理に際し、薬壷を付け加えたということかと。
大師堂
本堂右手に大師堂が建つ。
大師堂横の延命地蔵尊。
尊像自体は特段のものではないが、台石に刻まれた文面が特徴的。「寺院城砦焼討指揮謝罪 全阿波罹災僧侶民衆兵 士御霊位結集追善菩提 長曾我部軍侍大将 正木修理亮 外正木家一門 昭和五十二年」と記される。
阿波を焼土と化した土佐の侍大将の子孫がその滅罪を願い建てたもの。その惨禍は伊予、差讃岐にも及ぶが、阿波は23霊場のうち15のお寺様が焼失している。
寺は城砦としても機能したであろうから、戦の理ではあろうが、その滅罪を願う尊像を祀るのはここではじめて目にした。

次の札所十二番焼山寺へは本堂左側より入っていく。

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