杉並区散歩そのⅡ:永福から善福寺川に沿って荻窪へ

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先日、桃園川跡を高円寺から下った。逆方向に、阿佐ヶ谷までは辿ったことがあるのだが、源流点は確認していない。ということで、今回は桃園川の源流点に向かうことに。
桃園川の水源は天沼3丁目にあった弁天沼、とか。環八と青梅街道が交差する「四面道」のすぐ近く。荻窪駅の北になる。
さて、どのコースをとるか、だが、善福寺川に沿って歩くことにした。この散歩道は何度となく歩いたことがある。善福寺川の源流まで遡ったこともある。が、川筋に沿って続く遊歩道だけ。川筋に点在する遺跡・神社は訪れていない。いい機会でもあるので、遺跡・神社を巡り、あれこれメモしてみたい。



本日のルート;
永福寺>永福稲荷>大円寺>郷土博物館>済美台遺跡>松ノ木遺跡>和田掘公園>成宗白山神社>宝昌寺>尾崎熊野神社>須賀神社>田端神社>弁天池

永福寺
自宅を出て和泉小学校脇から神田川緑道に入る。ちょっと上流に戻る。井の頭通り、京王井の頭線を越え、川筋が大きく湾曲するあたりで台地に登ると永福寺。大永二年(1522年)開山の古刹。戦国時代は北条氏家臣ゆかりの所領であった、とか。北条氏滅亡後、その家臣が帰農し当寺を菩提寺とし現在にいたる、と。 杉並最古の庚申塔がある。

永福稲荷

近くの永福稲荷は享禄三年(1530)永福寺の鎮守として創建。明治11年頃神仏分離令により現在の場所に移転、村の鎮守様に。

大円寺
稲荷神社の前の道筋を北に。高井戸から井の頭線・永福町永福町に通じている。この道筋は井の頭通りを越えると、一直線に方南通りまで続く商店街となっている。この道筋に大円寺。慶長2年赤坂に家康が開いた、と。延宝元年(1673年)、薩摩藩主島津光久の嫡子の葬儀をとりおこなって以来、薩摩藩の江戸菩提寺となる。庄内藩士による三田の薩摩藩焼き討ちで倒れた薩摩藩士や、戊辰の戦役でなくなった薩摩藩士のお墓がある。益満休之介の墓もあるとか。

益満休之介

益満休之介って魅力的な人物。王政復古の直前、西郷が江戸を騒乱状態に陥れるために送り込んだ工作グループの立役者。浪士500名を集め、江戸市内で佐幕派豪商からお金を巻き上げる「御用盗」や、放火、そして幕府屯所襲撃などやりたい放題。幕府を挑発。それに怒った江戸市中見巡組(新徴組)がおこなったのが、上にメモした三田の薩摩藩邸の焼き討ち。この焼き討ちの報に刺激を受け、会津・桑名の兵が「鳥羽・伏見」の戦端を開いた、という説もある。
ともあれ、休之介は庄内藩に捕らえられ、勝海舟のもとに幽閉。たが、官軍の江戸総攻撃を前に、無血開城をはかる勝は山岡鉄舟を駿府に送り西郷隆盛と直談判を図る。そのときに、山岡に同道したのが益満。西郷とのラインをもつが故。山岡が西郷との会談に成功したのも、この益満あればこそ、である。その後休之介は体を壊し、明治元年、28歳の若さでなくなった。歴史にIFは、とはいうものの、益満が生きていれば、はてさて明治の御世はどうなったのであろう、か。

新徴組
ついでに新徴組。新徴組って、墨田区散歩のとき、本所で屯所跡(墨田区石原4丁目)に出会った。本所三笠町の小笠原加賀守屋敷である。屯所はもう一箇所、飯田橋にもあった。田沼玄蕃頭屋敷(飯田橋1丁目)。新徴組はこの2箇所に分宿していた。
新徴組誕生のきっかけは、庄内藩士・清河八郎による浪士組結成。将軍上洛警護の名目で結成するも、清河の本心は浪士隊を尊王攘夷を主眼とする反幕勢力に転化すること。それに異を唱え清河と袂をわかって結成したのが「新撰組」。結局、幕命により清河と浪士隊は江戸に戻る。清河は驀臣・佐々木只三郎により暗殺され、幕府は残った浪士隊を「新徴組」とし庄内・酒井家にお預け。
当初は存在感もなかったようだが、文久3年(1863年)に新徴組は歴史の表舞台に登場する。江戸の治安悪化を憂えた幕府が、庄内藩を含む13藩に市中警護の命を下したからだ。が、幕府と命運をともにした庄内藩・新徴組は、戊辰戦役以降,塗炭の苦しみを味わうことになるのは、言わずもがな、のこと。
(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」) 

大宮八幡への参道

商店街で足を捕られ歩みが止まった。先を急 ぐ。商店街を北に抜けると方南通りにあたる。大宮八幡入口交差点。交差点を渡り、方南通りの一筋北に通る、大宮八幡への参道を進む。ここは昔の鎌倉街道。『武蔵名所図会』に記述がある;「大宮八幡宮の大門路は往古の鎌倉より奥州街道なり。東へ廿町余行きて、中野街道へ出て、それより追分を北に行けば板橋宿 に行く」、と。

鞍懸の松
参道を進む。道脇に鞍懸の松(和田の曲松)。『江戸名所図会』によれば、「鞍懸の松は、大宮八幡宮の馬場先の大路、民家構えの外にあり、鬱蒼として繁茂せり。根より一丈ばかりに至りて屈曲せる故、土人和田の曲り松と称し或いは鞍懸の松共呼べり。相伝う、八幡 太郎義家朝臣奥州逆徒征伐の折、この松に鞍をかけられしより、しかと言うと」。八幡太郎は至るところで顔を出す。真偽の程定かならず。また、松は二代目、と。

荒玉水道道路
少し進み大宮神社の鳥居の手前、荒玉水道道路で参道を離れ、北に折れる。杉並郷土博物館に寄り道のため。以前メモしたが、荒玉水道道路って、荒=荒川、と玉=多摩川を結ぶ上水道。大正12年の関東大震災後、東京市に隣接した町村の人口拡大にともなう上水事情を改善すべく計画。ただ、実際は多摩川と荒川が結ばれることはなく、世田谷区砧給水所から中野区の野方給水所(江古田1-3)を経て板橋区の大谷口給水所で終わっている。
砧給水所からこの杉並の妙法寺あたりまで一直線に延びている10キロほどの道筋を荒玉水道道路、と呼ぶ。砧と大谷口あたりは以前歩いた。杉並散歩の次は中野。野方給水塔をランドマークにしておこう(後日、野方給水塔を訪ねた)。

杉並郷土博物館
荒玉水道道路を少し北に。区立郷土博物館入口の信号で水道道路を離れ、郷土博物館に。江戸時代の名主屋敷・長屋門を玄関にしたこの博物館には何回も訪れている。今回は、前々から気になっていた資料を買い求めるため。『江戸のごみ 東京のごみ;杉並から見た廃棄物処理の社会史』が目的の資料。
江戸期の 永代島の埋め立てにも市中から出る塵芥を使っている。尾篭な話ではあるが、下肥の利権争い、つまりは、大名屋敷といった大量確保できるところ、しかも栄養状態のいい下肥の獲得にしのぎを削った、といった話もある。葛西船とか川越船といった下肥運搬船の話もあった。散歩のいたるところで、「ごみ」の話が顔を出す。ということで、ちょっとまとめてお勉強を、と思った次第(つい最近『江戸の夢の島;伊藤好一(吉川好文館)』を手に入れた。)。また、思いがけず「杉並区史跡散歩地図」も手に入る。散歩のルーティングには大変役に立ちそう。

この郷土博物館は元嵯峨公爵邸跡。満州皇帝愛親覚羅傳儀の弟傳傑に嫁いだ浩(ひろ)の生まれ育ったところ。終戦後、傳傑は中国政府に捕らえられる。浩は娘二人とともに帰国。「流転の王妃」浩の長女慧生(えいせい)に悲劇が。「天城心中」「天国に結ぶ恋」などと書きたてられてはいるが、実際はストーカー男に銃で殺されたのでは、と言われている。その後の浩は釈放された傳傑のもとに戻り、北京でなくなった。

済美台遺跡

郷土博物館のあるこの台地には古墳時代の済美台遺跡がある。舌状台地に沿って善福寺川が湾曲している。善福寺川は杉並区の西端善福寺池より発し、区内の中央部を蛇行し、和田1丁目で中野区内に入り神田川に合流する全長10キロ弱の川。郷土博物館のすぐ東を流れる。

和田堀公園
郷土博物館を離れ、橋を渡り松ノ木1丁目を西に進む。すぐ南に和田堀公園。あれ、和田堀って由来は?なんとなく和田+堀ノ内=和田堀、となったように思う。 調べると、そのとおり。明治には和田堀ノ内村。が、大正の町制に移るに際し、和田堀ノ内町では少々長すぎる、ということで和田堀町となった、と。

松ノ木遺跡

和田堀運動場の北、松ノ木中学との間の道を進む。台地上に松ノ木遺跡(松ノ木1-3)。古墳時代の復原住居と土師式保存竪穴がある。30戸くらいの家族が住んでいたと想定されている。
先ほどの済美台も含め、善福寺川中流域のこのあたりの台地群は、杉並の古代人の「はじまり」の地ではないかと言われる。善福寺川を隔てて南の台地上には大宮遺跡がある。大宮八幡宮の北門を出た崖の縁がその場所である。

松ノ木遺跡の案内板によれば、「昭和40年夏、ここで弥生時代末期の墓三基本発掘した。中央に墓穴を設け、周囲に溝がめぐらされていた。形が四角なので方形周溝墓と呼ばれ、墓より壷形土器五個、勾玉一個・ガラス玉十二個出土した」、と。
人々は集落を環り・区切り、区画ごとにまとまった生活集団をしていたのであろう。台地から見下ろす崖下の河川敷、和田堀運動場とか、和田堀公園であろうが、そこでは水稲耕作がおこなわれていたのだろう。川では魚を捕り、川を離れれば一面の原野。台地の奥に出かけては狩をしていたのであろう。『和名類聚抄』によれば、平安前期の武蔵野・多摩郡は10の郷からなっており、そのひとつ、「海田(あまだ)郷」に現在の杉並区が含まれる。で、この海田(あまだ)が変化し「わだ(和田)」となった、とされる。
言わんとするところは、このあたりに点在した原始期からの集落がそのまま古代に受け継がれ、古代期においても地域の中心となり、地名も「あまだ>わだ」と受け継いできたのだろう、ということ。

大宮八幡宮
寄り道のついでに大宮八幡宮のメモ。このお宮さんには幾度となく御参りに訪れている。初詣、秋祭り、子供と散歩。数限りない。あまりに身近であるので、それほど気にしていなかったのだが、散歩をはじめて各地のお宮さんにおまいりしても、これほどの雰囲気のあるお宮さんはそれほどなかった。大いに見直す。
で、メモ。『大宮八幡宮史』;「康平6年(1063年)、源頼義が奥州の豪族・安倍氏を征伐し凱旋の折り、京の石清水八幡宮の分神を勧請す。 寛治6年(1092年)に源義家が社殿を修復し、鎌倉時代には幕府より毎年奉幣使が派遣された。天正19年(1591年)に徳川氏より30石の朱印状が寄進され、幕末期には将軍・御三家が社参した」と。紀州熊野那智神社の『米良文書』に「貞治元年(1362年)に大宮住僧三人が那智神社に参拝した」という記録もある。
江戸時代の境内地は6万坪。明治維新で3万5千坪が政府に召し上げられ、現在は1万三千坪。それでも明治神宮・靖国神社に次いで都内3位の広さを誇る。

松ノ木遺跡を離れ、台地上を歩く。善福寺川の北にこんな台地があるというのは知らなかった。正確に言えば、もともと台地が平地であり、長い年月をかけ善福寺川によって開析され、川筋が谷となり、周囲より低くなった、ということではあろう。

白山神社
台 地と崖の境の道を少し進むと白山神社。旧成宗村字白旗の鎮守さま。創建の時期は不明だが、古墳時代の土器などが発見されており、大宮神社と同じ頃にできたのではないか、と言われる。地名の白幡は、またまた源氏の誰某の由来であろう、と予測。そのとおりで、源頼義が奥州征伐のおり、このあたりで空に白旗の如くたなびく雲を見て、勝利の証と慶び一社(大宮八幡)を勧請した、と。
「成宗」とは永禄2年(1559年)の「小田原衆所領役帳」に「永福、沼袋、成宗の三カ村、弐拾壱貫文、島津孫四郎」との記述がある。古くからの村であった。その後、成宗村は幕府の天領となるまでは、旗本岡部忠正氏の知行地であった。
ちなみに、「杉並」の地名はこの岡部氏に由来する。江戸時代に田端・成宗両村を領していた岡部氏が、境界の目印に植えた杉の木が杉並木となり、旅人や市場に通う百姓の道中のランドマークとなった。
で、区ができるとき、どの地区にも当たり障りなく、かつまた、この地域の俗称ともなっていた、俗称となっていた「杉並〔木〕」とした、とか。ついでのことだが、この岡部忠正って薩摩守忠度を討ち取った岡部六弥太田忠澄の末裔。薩摩守忠度(ただのり)のことは熊野散歩でメモしたとおり。

尾崎橋
白 山神社を離れ、台地上の道を善福寺川と「つかず、離れず」北西に。湾曲・蛇行する善福寺川が五日市街道と交差するところに尾崎橋。橋の袂に案内板。簡単にメモ:「上流に向かって左側の台地が「尾崎」と呼ばれる。「おざき」とは「突き出した台地の先端=小さな崎」を指す。発掘された土器などから見て、8,000年前から人が住んでいた、と想定される。
源頼義が奥州征伐の折、白旗のような瑞雲が現れ大宮神宮を勧請することになったが、その頭を白旗地区、尾の部分を尾崎とした、との説もある。このあたりは風光明媚なところで、江戸には文人墨客が訪れた、とか。橋の上流に続く善福寺川緑地公園って、春の桜は素晴らしい。今年の春も会社の仲間と花見と洒落た、場所でもある。

尾崎の七曲
「馬橋村のなかばより、左に折れて山畑のかたへのほそき道をゆく」「つつらおりめいたる坂をくだりて田面の畔を(進む)。他の中に小川ありて橋を渡る。これを尾崎橋」、といった記述も案内板に記してあった。この「つつらおりめいたる」って記述、尾崎の七曲のこと。
現在の五日市街道は工事により直線にはなっているが、昔は尾崎橋あたりはカーブの続く坂道であった、とか。そうえいば、橋の西・東に、大きく曲がる道筋が残っている。またまた、そういえば、結構最近まで、このあたりの五日市街道の道筋は曲がりくねっていたように思う。なんとなく、そういった記憶が残っている。

五日市街道

五日市街道のメモ;「地下鉄新高円寺駅あたりで青梅街道を離れ、松庵1丁目を通り、武蔵野市・小金井市を経てあきるの市に達する街道。江戸時代初期は、「伊奈道」と呼ばれ、秋川谷で焼かれた炭荷を江戸に運ぶ道。その後、五日市道・青梅街道脇道・江戸道・小金井桜道・砂川道など呼ばれ、農産物の運搬や小金井桜の花見など広く生活に結びついた道であった。
明治以降、五日市街道と呼ばれる。この街道に沿った区内の昔の村は、高円寺村・馬橋村・和田村・田端村飛地・成宗村・田端村・大宮前新田・中高井戸村・松庵村で、沿道の神社や寺院・石造物の数々に往時をしのぶことができる」、と。

尾崎橋を渡り、ほんの一瞬五日市街道を歩く。交通公園入口交差点。この交通公園には子供が小さい頃、何十回来たことであろうか。その子供も、すでに高校生。あっという間の、人生であります(現在は既に大学生)。

宝昌寺
気を取り直して、散歩を続ける。交通公園入口交差点前に宝昌寺。文禄3年(1594年)中野成願寺の葉山宗朔和尚によって創立。もとは真言宗。のちに曹洞宗。この「中野成願寺の」というフレーズ、杉並のお寺でよく目にする。中野長者・鈴木九朗が建てたお寺ではあり、大寺院ではあったのだろうが、有徳僧を輩出したのだろうか?そのうちに調べてみよう。

三年坂
お寺を離れ、尾崎熊野神社に向かう。成行きで杉並第二小学校の南の坂をのぼる。この坂は「三年坂」と呼ばれていた、と。「急坂で転倒して怪我をすると三年でなくなる」というのが名前の由来。往時、赤土の急坂で、滑って転んで怪我をする人が多かったので、くれぐれも気をつけるように、という意味で名付けられたのだろう。

尾崎熊野神社
台地上の道を北に進む。尾崎熊野神社。善福寺川低地を望む舌状台地鎮座する成宗村字尾崎の鎮守さま。正和元年(1312)頃の創建と、伝えられる。大宮八幡や村内の白山神社とほぼ同年代の創建でなないか、と言われている。
鎌倉時代末期、鎌倉から移住してきた武士が紀州の熊野権現をこの地に勧請。境内から縄文前期の住居跡が発見され、縄文・弥生・古墳時代の石器・土器などが多く出土した。ために、「尾崎熊野遺跡」と名づけられた。

須賀神社
台地を下り、善福寺川にかかる天王橋を渡り北に進む。須賀神社。旧成宗村字本村の鎮守さま。創建は天慶5年(942年)とも伝えられるが不詳。出雲の須賀神社にならった、とも。慶長4年(1559年)に領主・岡部氏が社殿を再興したとの伝承があるほか、詳しいことは伝わっていない。江戸時代は牛頭天王社、と呼ばれていた。
須賀神社には散歩の折々に出会う。台東区の浅草橋近くにもあった。狭山の箱根ケ崎でも出会った。この神社は島根と高知に多い。この地の須賀神社と同じく「牛頭天王社」と呼ばれていたことろが多いようだ。やまたのおろちを平らげて、「我、この地に着たりて心須賀、須賀し、」といったかどうだか、素盞嗚命(スサノオノミコト)をおまつりする。
牛頭天王って、インドで仏様のお住まいである祇園精舎の守り神。その猛々しさがスサノオのイメージとはなはだ近く、スサノオ(神)=牛頭天王(仏)と神仏習合された、と言われる。スサノオ、と言えば出雲の暴れん坊。先日の氷川神社と同様、この地を開拓した出雲族の名残であろう、か。

弁天社
須賀神社の西隣に弁天社。成宗村開村と同じころに創立。社前の石橋と掘跡は天保11年(1840年)に善福寺川の水を桃園川に引くために掘られた新堀用水路の名残り。神社の前は杉並高校。丁度学園祭。ブラスバンドの音が、いかにも青春でありましょう。

矢倉台
須賀神社を離れ、西に進む。往時、このあたりを鎌倉街道が通っていた、と。地名も「矢倉台」と言われる。中世に物見櫓があった、とか。「成宗の砦」とも呼ばれる。戦国時代に、中野左兵衛門之尉成宗が、鎌倉街道を見張るために、街道の往来が見渡せるこの高台に砦を構えた、と。成宗はこの付近の開拓者として、地名の由来ともなっている。
ちなみに、先ほど渡った「天王橋」のひとつ上流にかかる橋は「矢倉(屋倉橋)」となっている。ちなみに、ちなみに、開拓者の名前は中野左兵衛門之尉成宗ではなく、野口成宗との説も。当面はどちらでもいいか。

田端神社
さらに進むと田端神社。田端村の鎮守。社伝によれば、応永年間(1394年-1429
年)、足利持氏と上杉禅秀が戦ったとき、品川右京の家臣・良影がこの地に定住し、北野天神を勧請したことにはじまる。往時は北野神社とも、社の場所が「田の端」にあったため、田端天神とも呼ばれ、土地の産土神に。田端という地名は神社の名前に由来する。
境内は古墳であった、と。
ちなみに、このあたりの地名、成田の由来。「成」宗+「田」端>成田、との合成語。成田さんでも関係あるかと思っていたが、全く関係なし。昭和44年ごろに、もとの成宗村と田端村(西田端)一帯を成田西、成宗村と田端村飛地(東田端)を成田東と呼ぶようになった。

田端神社を離れ、本日の目的地、桃園川の源流点、天沼を目指す。成行きではあるが、まっすぐ北に進む。杉並区中央図書館前を通り青梅街道と交差。青梅街道が中央線を跨ぐ橋の東詰めで青梅街道を渡る。


天沼3丁目に桃園川の源流点・弁天池天沼1丁目に。あとは、これまた成行きで天沼3丁目23あたりの桃園川の源流点・弁天池に到着。本来はこの後、桃園川緑道を阿佐ヶ谷・高円寺方面に下るのだが、少々メモが長くなった。実際の散歩コースではないのだが、先回の高円寺から下流と本日の高円寺から上流へのメモをまとめて、次回まとめることにする。

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