箱根越え:旧東海道・西坂

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箱根峠から三島へと
箱根越えの二日目。今回は箱根峠から三島へと下る。歩くまでは峠から坂道を下り、その後平地を三島まで歩くと思っていた。東坂の湯本から小田原へは平地を進む、といったイメージを描いていた。が、実際は大違い。峠から一直線に三島に向かって下る、といったものであった。当初心配だった道も、道標がしっかりしており間違うことはない。箱根八里越えの後半戦を始める。



本日のルート;箱根峠>箱根西坂旧道入口>甲石坂>兜石跡>接待茶屋>永禄茶屋跡・徳川有徳公遺跡>甲石>施行平>石原坂>大枯木坂>小枯木坂>山中新田>駒形諏訪神社>カシの巨木>山中城跡>宗閑寺>山中新田>富士見平>上長坂>笹原地区>笹原の一里塚>笹原新田>長坂>こわめし坂>三つ谷新田>松雲寺>小時雨坂>臼転坂>初音ヶ原松並木>錦田一里塚>愛宕坂>東海道線>大場川>三島大社前>三島駅

元箱根
前日は強羅にある会社の保養所に宿泊。朝、登山電車で強羅から小涌谷へ。そこからは駅傍の国道にあるバス停より元箱根に向かう。途中、車窓より、湯坂道入口のバス停や曽我兄弟の墓を見やる。近くには六道地蔵もある、と言う。
湯坂道入口は鎌倉・室町期の箱根越えの古道。鷹巣山、浅間山から湯坂山を経て箱根湯本に下る。曽我兄弟のお墓は国道の直ぐ傍。そのうちに、箱根東坂の権現坂手前にあった六道地蔵への指導標から歩みをはじめ、曽我兄弟・六道地蔵をへて湯坂道を辿ってみたい、と思う。バスは元箱根に

杉並木
元箱バスを下り、元箱根交差点を西に進み元箱根港手前で国道1号線に合流。ほどなく杉並木がはじまる。東海道といえば松並木を思い浮かべるが、箱根といった高所では松は生育が悪かったのだろう。はじめから杉が植えられていたとするには杉の樹齢が少し若すぎる、とか。試行錯誤の末の杉、ということだろう、か。

吉原久保の一里塚跡
杉並木の始点近くに吉原久保の一里塚跡。江戸の日本橋から数えて24番目。塚はすでになく碑が残るのみ。名前の由来は、往時このあたりの入り江を葭原久保と呼ばれていたから。


恩賜箱根公園
杉並木が切れるところに恩賜箱根公園。芦ノ湖に突き出した半島となっている。聖武天皇の頃、この地に観音堂が建てられ、堂ヶ島と呼ばれていた。明治5年からは明治天皇の箱根離宮跡となっていたが現在は恩賜公園となっている。旧東海道は、このあたりで少し半島方面へと右に少し折れる。

箱根の関所
恩賜公園を道なりに進み箱根関所跡に。慶長19年(1614年)の『徳川実記』に「今日より東海・東山の両道に新関を置きて、無券の往還を許さず」とあるので、関所開設はこのあたりだろう、か。関所の仕事は「入り鉄砲、出女(でおんな)」の監視。武器の流入防止、人質として江戸に詰めている諸藩大名の妻女の国元への逃亡監視、である。営業時間は午前6時から午後6時までとなっている。
関所の取り調べ項目は、「関所を出入りする者は笠や頭巾をとる;乗り物で出入りする者は戸をあける;関より西に出る女性はつぶさに証文に引き合わせる;乗り物で西に出る女性は番所の女性を差し出して相改める;手負い・死人ならびに不審なるものは証文なくして通してはならない;朝廷や大名は前もって連絡あれば、そのまま通してもいい」などと示してある(『あるく 見る箱根八里』)。西に向かう女性に対しては結構厳しい項目となっている。
箱根関所跡は立派な施設がつくられており、観光客もすこぶる多い。なんとなく施設
に入る気にならず、国道へと戻り関所を迂回する。関所裏の国道は切り通しの道。昔はここに道があるわけでもなく、関所前を通るしか道はなかったのだろう。

箱根宿
箱根の関を越えると昔の箱根宿跡となる。箱根宿は箱根の関所が設けられる頃と相前後し造られた。人里離れた山中に好んで住みたい人もいるわけでもなく、小田原藩から50戸、天領三島から50戸をこの地に移住させることに。移住に際しては支度金を用意したり、年貢を免除するなど、移住へのインセンティブを用意している。
19世紀の中ごろには160戸に。住民のほどんどは、茶屋や宿屋、運送業や飛脚といった宿場関係の仕事に従事していた。当たり前といえば当たり前。本陣と脇本陣合わせて7軒。通常の宿は2,3軒が普通のようであるので、規模は大きい。とはいうものの、箱根宿に泊まる大名はあまりいなかったようである。
箱根の関を越え、溝といった流川のあたりが小田原からの移住者が住んだところ。その先の大明神川という小川のあたりが三島からの移住者の町があったところである。途中、箱根駅伝記念館などを眺めながら道なりに進み、国道と県道737号線の分岐点に。旧東海道は県道737号線へと折れる。

駒形神社
県道737号線は湖岸を深良水門、湖尻方面に進む。県道とはいうものの、この道は自動車道はすぐ終わり、あとは歩道となるようだ。深良水門と言えば、先日、深良水門から裾野市の岩波までの深良用水跡を歩いた。江戸時代、芦ノ湖の水を引くため、箱根外輪山を1キロ近く掘りぬき水を通したもの。すごいものである。
県道を少し進むと芦川に当たる。芦川の手前に駒形神社。箱根宿の鎮守さま、と言う。ということは、この芦川の集落は結構古い歴史をもつ、ということ。箱根の関とか箱
根宿ができる以前の鎌倉時代、湯坂道を通る鎌倉街道を往来する人たちの宿場であったのだろう。
境内に犬塚明神社。お犬さまを祀る。箱根宿の建設がはじまった頃、付近には狼が多く、宿場の人を悩ました。で唐犬二匹をもって狼を退治し宿場が完成。傷つきなくなった二匹の犬を「犬塚明神」としてここに祀った、と。ちなみに唐犬とは戦国時代、南蛮より日本にもたらされた大型犬の総称である。

向坂
神社を後に芦川を渡る。すぐ県道と別れ左に進む道が旧東海道。峠道へと進む。ほどなく道脇に六地蔵。道の反対側には庚申塔とか巡礼塔。そこが峠道の最初の坂、向坂の
入口である。名前の由来は箱根宿の向かい、といった意味合いだろ
う。軽くおまいりを済ませ坂を上る。
ここからはいままでの開けた景観から一変し杉並木、と言うか山道に入る。向坂の石畳は国指定の石畳となっている。向坂を進み、国道1号線の下を潜り、石畳石が大きく右にカーブするあたりが釜石坂。次いで左に大きくカーブするあたりが風越坂。大きく迂回し峠を上ってきた国道1号線に合流する手前に挟石坂。木の階段を上り終わると国道に出る。

箱根峠
国道に出ると、鬱蒼とした峠道からは一変。国道1号線、箱根新道の出入り口、箱根外輪山を北に向かう芦ノ湖スカイラインと道路が入り組み誠に目まぐるしい。歩道があるわけでもなく、怖々進み、恐る恐る道を横断し豆相国境の箱根峠に進む。標高846m。湖畔の標高は740mといったとこであるので、100mほど上ってきたことになる。

親不知子不知の石碑峠の茶店というか自販機の並ぶ脇に親不知子不知の石碑。お地蔵さまはないのだが、親知らず地蔵とも脚気地蔵とも呼ばれる。昔々、勘当した息子を探して箱根峠を上ってきた商人が脚気を患いこの地で動けなくなる。通りかかった雲助が介抱しようとするに、懐のお金に目がくらみ殺害。財布を開けると名札にわが父の名。実の父を殺めた雲助は自害した、と。

茨ヶ平
箱根峠を離れ箱根西坂旧道入口に向かう。国道沿って進み、広い駐車場を越えるあたりで国道を離れ右に折れ芦ノ湖カントリークラブの南端と言うか、東端を進む。このあたりは茨ヶ平と呼ばれる。今はハコネダケが茂る一帯ではあるが、往時は茨の原であったのだろう。

箱根西坂旧道入口
道を200mほど進むと道標。箱根西坂旧道入口である。石碑には「是より京都百里、是より江戸25里」とある。入口は見落とすことはないだろう。これから箱根越え・西坂を下ることになる。

甲石坂
道に入るとすぐに休憩所。甲石休憩所とある。足元を直し、西坂の最初の坂である甲石坂を下る。ハコネダケのトンネルの中を進む、といった雰囲気。石畳も笹の葉に覆われている。坂名の由来は兜石があった、から。
ほどなく道脇にお地蔵様。三面八臂の馬頭観音。八つ手観音とも呼ばれる。坂の途中に兜石跡の石碑。兜石そのものは、現在は道を少し下った接待茶屋のところに移されている。『東海道中膝栗毛』に弥次郎兵衛の詠んだ歌。「たがここに 脱捨おきし かぶといし かかる難所に 降参やして」。

接待茶屋
ほどなく旧街道は国道に出る。接待茶屋バス停のところを大きくカーブすると、道は再び国道から離れる。道脇に接待茶屋の説明板と道標。道標には「三島宿二里二十一町(10.3km)、箱根峠三十三町(3.6km)」と。
接待茶屋とは、峠を越える人馬のお助け所。お茶や飼い葉、薪などを無償で接待した。元々は江戸時代後期、箱根権現の別当がはじめたもの。箱根越え・東坂の畑宿手前にも接待茶屋があったが、それも箱根権現の別当、今で言う事務長さんがはじめたもの。
で、この接待茶屋も次第に財政が苦しくなり、江戸の豪商の助けを求めることにした。文政7年というから、1824年のことである。この接待(施行)も弘化2年というから、1845年頃まで続いたが、そこで再び財政難に陥り、江戸時代には再開されることなく終わった。
接待茶屋が再開されたのは明治12年。農民運動の指導者大原幽学率いる理性協会が施行を始める。理性協会が衰えた後も、鈴木さんといった個人がボランティアを続け昭和25年まで続く。まったくの無料奉仕。明治天皇が接待茶屋で休んだとき、お礼にお金を置いたがそれも受けとらなかった、とか。

山中一里塚
道を進むと山中一里塚の碑。江戸から26番目。塚はすでに無い。ちなみに、一里塚には榎木が植えられることが多い。謂れは、家康に塚の建設を命ぜられた大久保長安が、塚に植える木を何にしようかとお伺い。と、「そのほうの ええ(好きな)木に植えよ」、と言ったとか、松のかわりに「余(よ)の木にせよ」と言ったのを聞き違いえた、とか。榎の根の強さ故が、本当のところだろう。

兜石
道の逆側に兜石。もとは甲坂にあったもの。由来は、小田原征伐のとき、秀吉が兜を置いた石であったから、とか、頼朝がどうとか、と。ここに移したのは箱根宮下・富士屋ホテルの料理人、鈴木某氏。このあたりを観光開発するために移したと言う。

徳川有徳公遺跡
道の左手に大きな石碑。有徳公・徳川吉宗が将軍になるため箱根を越えるとき、この地で休憩。茶店に永楽銭を賜ったとか。鈴木某氏が観光開発の目玉とすべく、この碑を建てた。

石原坂

分岐を進むと石原坂。石荒坂とも。石畳が続く。坂の途中に明治天皇御小休・御野立所への案内。細路を進めば石碑があるようだが、道はハコネダケで覆われており、なんとなく行きそびれる。

念仏岩
坂の途中に大石と石碑。石碑は、行き倒れの旅人を山中集落の宗閑寺で供養したもの。ために、岩は念仏岩と呼ばれる。「南無阿弥陀仏 宗閑寺」とある、ようだ。

仇討ち場
七曲とも呼ばれるカーブの坂道を下る。カーブの終わるあたりが、上でメモした吉宗公ゆかりの永楽茶屋があったところ。明るく開けた茶屋跡に仇討ち話が残る。
仇討ち事件は三島で起きた。明石の殿様の行列に幼女が闖入。一時は幼女のこととて、放免といった次第に。が、その子供の親が元尾張藩士と聞いた明石の殿さんは、幼女を手打ちに。さぞや尾張嫌いであったのだろう。で、怒り心頭の父親による仇討ちの現場となったのが、この地である、と。
この話には尾ひれがつく。明石の殿さんが三島宿で見染めた遊女。しかし、その遊女にすっぽかされ、機嫌が悪かったのも手打ちの一因、と。また、その遊女は手討ちになった子供の実の姉であった、とも。話がどこまで広がるのやら。
ちなみに、その子供、助けを求めて、「言い成りになりますから、どうか助けてください」と命乞いをした。で、その幼女の冥福をいのって造られたのだ「言成地蔵尊」ということだ。三島市内に残る、とか。

大枯木坂

少し窪地となった新五郎久保を通り、大枯木坂を下ると道は民家の庭先に出る
。本来の街道は直進し、小枯木坂へと進んだようだが、道は左に折れ国道に戻る。バス停は山中農場となっているので、先ほどの民家はその農場の一部であったのだろう。

願合寺石畳
国道を渡り階段を下りる。道はここで国道の谷側に移る。再び石畳の道、このあ
たりの石畳は結構最近のもの。平成7年に三島市が整備したものである。願合寺石畳と呼ばれる。

雲助徳利碑
西坂に入って始めての杉林の中を歩く。道脇に雲助徳利碑。雲助が酒飲みの仲間のために建てたもの。案内によると、酒でしくじり国許を追放された剣道指南の元武家が、この地で雲助に。この碑は、その武芸・教養ゆえに仲間に親分として慕われるようになったそのお武家を偲んで造られた。
雲助の由来はさまざま。住所不定で雲のように漂うから、とか、街道でお客を求め蜘蛛の糸を張り巡らせたていたから、とか、あれこれ。あまり評判のよろしくない雲助にもランクがあり、最上級は長持ちかつぎ。継いで、駕籠かつぎ、そして、一人持ちの道具類かつぎ、といったランクになっていた。

山中新田
雲助徳利碑を過ぎると、ほどなく国道に合流する。このあたりは山中新田と呼ばれる。新田とはいうものの、西坂の新田は、通常の田畑開墾のため、というものではない。箱根越えの人馬への便宜を図るためつくられた「間(あい)の宿」、とか「(継)立場」といったもの。三島代官の斡旋により、三島あたりの農家の次男、三男に呼びかけ移住させた。年後の期限付き免除といったインセンティブも用意したようだ。西坂には山中新田、笹原新田、三ツ谷新田、市山新田、塚原新田と5つの新田が開かれた。

駒形諏訪神社
山中新田入り口に念仏石、無縁塚、三界万霊塔。三界万霊塔とは、欲・色・無色の三界、あらゆる生物が生死輪廻する世界のすべての霊があつまるところ。鎌倉のはじめより供養はじまった、とか。
国道を渡ると駒形諏訪神社の鳥居。山中城の北丸のあったところ。境内に庚申供養塔
そしてアカガシの巨木が残る。巨木といえば、この近く、山中城跡に「矢立ての杉」がある。戦の勝敗を占ったもの、とか、国境を見立てる、といった目的で矢を射る。いつだったか笹子峠を越えたときにも「矢立ての杉」があった。
矢ではないのだが、先日信州の塩の道を歩き、大網峠を越えたとき、「なぎ鎌」といって、鎌を神木に打ち付ける神事があった。この神社と同じく、諏訪神社の神事である。諏訪神社って、木にまつわる神事が多いのだろう、か。そういえば御柱祭も諏訪大社の神事。

山中城跡
諏訪神社から道なりに山中城跡に進む。山中城は北条氏康が小田原防衛のために築城したもの。永禄年間、と言うから、16世紀後半のことである。秀吉の小田原征伐のとき、この城は北条方の拠点として秀吉の軍勢と戦う。が、味方4,000に対し、敵方3万とも5万弱という圧倒的勢力差のため、半日で城が落ちた。この城で印象的であったのが、障子掘。棚田といった美しいつくりであった。

宗閑寺
城跡から国道に戻る。国道脇に宗閑寺。このあたりは山中城三の丸跡。北条、秀吉側両軍の戦死者をとむらうため江戸期につくられた。境内には山中城の守将であった松田康長や副将間宮康俊、秀吉側の一柳直末がまつられる。一柳直末はその討ち死にを聞き、秀吉が「関八州にもかえがたい人物。小田原攻撃はやめ」との取り乱したほどの逸材であった、とか。寺の開基は間宮康俊の妻。小田原落城後、家康に仕えた。

芝切地蔵
国道を少し下ると芝切地蔵。山中村で行き倒れになった旅人が、「なくなった後も、故郷の相模が見えるよう、芝で塚をつくり、その上に地蔵尊としてまつってほしい」と。村人は地蔵をまつり、供養した。で、接待につくったおまんじゅうが評判を呼び、多くの人が参拝に訪れ、村は大いに潤った、とか。

大高源吾の詫び証文

逸話と言えば、この地には大高源吾の詫び証文の話が残る。あらすじは箱根越え・東坂の甘酒茶屋での神崎与五郎と同じ。討ち入り前、大事の前の小事、ということで、ぐっと我慢。箱根峠を境に登場人物が変わって話が出来上がっている。三島宿にその侘び証文が残ると言うが、それによれば主人公は大高源吾である。

山中城岱崎(だいざき)出丸

国道を渡り山中城岱崎出丸に。尾根を活用した曲輪となっている。北条主力がここに籠もって秀吉軍を防ぐといった戦略でつくられた。こう見てくると、山中城って誠に大きな構え。もともとはここに北条の大軍が籠り秀吉勢に対峙する計画が、主力が小田原籠城と決まり、結果わずかな守備兵力しか残らず、ために広い城の構えが活かせず終わった,と言う。

山中新田石畳
出丸を離れ、ふたたび杉林の中を進む。道脇に箱根八里記念碑、司馬遼太郎さんの書いた北条早雲が主人公の『箱根の坂』の一文が刻まれている。

韮山辻
ほどなく国道に。このあたりは昔の韮山辻。伊豆の韮山に続く道があった。往古、このあたりも山中城の内。北条方の戦略拠点でもあった韮山城との往還を繋いでいた。その往還は、今は荒れ果て歩くことはできそうもない。道は国道を離れ、Uの字に大きく迂回する国道を一直線にショートかとする。

富士見平

道が再び国道に出るところに芭蕉の碑。風景は大きく開け、晴れた日には富士が見える。ということだが、当日はあいにくの曇り空。芭蕉がここを通った時も富士が見えなかったようで、「霧しぐれ 冨士を見ぬ日ぞ 面白き(野ざらし紀行)」などと詠んでいる、気持ちは大いにわかる。
この地は富士の名所。東海道名所図会にも 「三島より海道筋二里ばかりにあり。正面に冨士山・三保の松原、はるかに見ゆる」とある。
蜀山人こと大田南畝も『改元紀行』に、「やや行きて霧晴れわたり、四方の山々あざやかに見ゆ、富士見だいらといへる所のよしききつるに、ふじの山のみ曇りて見へぬぞ恨みなる。遠く川水も流れ行くは、黄名瀬川なるべし、南のかたに幾重ともなくつらなれる山あひより、虹のたちのぶるけしきいはんかたなし」と書いている。

上長坂
芭蕉の碑の先、道は再び国道を離れる。今度は、逆U字の基部をショートカットする。
階段をくだり石畳に。三島市が整備したとのことである。このあたりを上長坂と呼ぶ。途中明治天皇御小休所といった石碑もある。笹原地区石畳を国道に進む。

元笹原

国道に出る。しばらく国道に沿って進む。このあたりは元笹原。少し進み、道はモー
テル脇から再び国道を離れる。道はここから笹原新田まで一直線に下る。下長坂と呼ばれる。

笹原の一里塚
道を下り、民家が見える頃になると道の左手にシイの林。笹原の一里塚はその中にある。日本橋から27番目となる。塚は一基だけ残る。塚の上のシイの根元に箱根八里記念碑。「森の谺(こだま)を背に 此の径をゆく 次なる道に出会うために」は詩人の大岡信の碑文。

笹原新田
笹原の一里塚を越えると道は国道に出る。街道は国道を横切り一直線に下る。急坂の両側には笹原新田の民家が並ぶ。今まで見たことのない、印象に残る景観である。
坂の途中に一柳庵。山中城の攻防戦で亡くなった豊臣方の武将一柳直末の胴塚が祀られる。首は敵に奪われることを恐れ三島市に近い長泉に祀られた、と言う。山中新田の宗閑寺の一柳氏のお墓は、ここから移された、と。
集落を過ぎても坂は続く。坂の名前は下長坂と呼ばれる。この坂は、別名、こわめし坂とも呼ばれる。こわめしの由来は、あまりの急坂のため、背中の米が汗と熱で強飯に「ゆであがるほど」であるから、と。西坂第一の急坂であるのは間違い、ない
。ハコネダケの生い茂る急坂を下ると国道に出る。

三ツ谷新田
国道に沿って三ツ谷新田の集落が続く。国道は尾根を通り、集落はその両側に連なる。この地の名前の由来は、その昔、ここに茶店が三軒あったため。当初は、三ツ屋と呼ばれていた。その後、大久保長安が家康の命により西坂に新田をつ
くったとき、三ツ屋を三ツ谷と改名した、と。

松雲寺
国道を進む。国道とは言うものの、三ツ谷新田の手前から国道はバイパスが別れている。車はそちらを走るので、集落中の国道は、比較的静かである。先に進むと松雲寺。江戸期に開山の寺。多くの大名が休息をとったところ。寺本陣と呼ばれる
。境内には明治天皇が腰掛けた石が残っていた。お寺の近くには、茶屋本陣も。言うまでもなく、本陣として使われた元茶屋跡である。

題目坂
国道を進む。集落を外れるころになると坂は急になる。ほどなく道は国道から離れる。このあたりの坂を小時雨坂と呼ぶ。坂小学校の横を通り、坂幼稚園手前を右に進むと階段となる。この坂は大時雨坂、別名題目坂と呼ばれていた。題目坂は、その昔、坂小学校のあたりに、日蓮宗のお寺があり、そこに「南無妙法蓮華経」の七文字が彫られた石、題目石があった。から。東海道名所図会には「市の山・法華坂、ここに七面祠(ほこら)・法華題目堂あり 」と記載されているように、法華堂からは一日中、お題目を唱える声が聞こえたのだろう、か。

市山新田

馬頭観音を見やりながら題目坂を上ると車道にでる。この道は元山中に続く道。元山中は鎌倉・室町の頃の箱根越えの道筋。鎌倉との往還でもあり、鎌倉街道とも呼ばれる。今回歩いた旧東海道のひとつ北の尾根筋を三島に向かって下ってゆく。そのうちに歩いてみたい。
道を左手に折れ国道に出るとそこは市ノ山新田。名前の由来は、箱根に上りはじめた一番目の山であったため、一山と。それが市山に転化した、と言う説と、市が立った山から、との説がある。

法善寺

国道に沿って歩くと右手に山神社。境内に道祖神がたたずむ。西隣に法善寺。題目坂の手前、坂小学校のあたりにあったものが、題目石とか、七面大明神、帝釈天などとともにこの地に移された。
七面堂とは日蓮宗の護神七面大明神を安置する堂。七面堂と言えば『東海道中膝栗毛』に弥次郎兵衛の狂歌がある。「 あしかがの ぶしょうのたてし なにめでて しちめんどうと いふべかりける 」。足利の(武将の建てた七面堂)と、(無精の七面倒)をかけている。七面堂は足利尊氏が建てたと言われる。この七面堂は、この地に移される前の法善寺にあった七面堂であることは、言うまでもない。
先に進むと市ノ山地蔵堂。六地蔵、と言うか、性格には、六地蔵が2セットと一体の地蔵の計13地蔵が知られる。

臼転坂
地蔵堂を先に進むと、道はまた国道から離れる。石畳の道は臼転坂と呼ばれる。臼が転がったから、とか、牛が転がったことからの転化、とか、あれこれ。石畳の道はすぐに終わり、再び国道に。

塚原新田
国道を進むと普門庵。境内には観音坐像、馬頭観音などが佇む。このあたりから塚原新田がはじまる。名前の由来は、この近辺に円形古墳が多いから。塚原古墳群とも呼ばれるようだ。道脇に宗福寺。境内には三界万霊塔や六地蔵。弘法大師が富士を見に、この寺に立ち寄ったとの話が伝わる。宗福寺を過ぎると集落も終わり、ほどなく国道のバイパスと合流。

初音ヶ原松並木
現東海道に沿った石畳の遊歩道を進む。整備された松並木となっている。初音ヶ原松並木
と呼ばれる。『豆州志稿』に「官道の老松背後に列立し、遠く駿遠の峯を望む風景頗る佳なり」と。初音ヶ原の名前の由来は、頼朝が箱根権現に詣でるとき、鶯の初音を聞いたから、とか、箱根に入るはじめての峯、初峰が転化したとか、これも例によってあれこれ。本当に地名の由来って、定まるところなし。


錦田一里塚
初音ヶ原の中ほどに一里塚。日本橋から28番目。地名は、錦の郷と谷田郷を足して二で割ったという、これも地名をつくるときによくあるパターン。初音ヶ原一里塚とも。元の姿が保存された、堂々とした塚である。

箱根大根恩人碑

1キロほど続く松並木も終わり、街道が再び国道と別れで右に入る手前に箱根大根恩人碑。
箱根の西坂でとれる大根とかニンジン、牛蒡など、所謂「坂もの」と呼ばれる農産物を世に広めようとした平井源太郎氏を称えるもの。昭和5年頃、東海道線が開通し、箱根の往来が寂れた村々を救おうと、はじめたのが坂もの販売のためのキャンペーンソング作戦。で、目に付けたのがこの地に伝わる「ノーエ節」。「富士の白雪や ノーエ富士の白雪やノーエ 富士のサイサイ 白雪は朝日に溶ける・・・」の、あのノーエ節。
ノーエ節は、もとは秀吉が小田原の陣を張ったとき、その場で歌われた今様、「富士の白雪朝日でとけて とけて流れて三島へ注ぐ」がはじまりと言われる。その後、農民の田草取り歌や盆踊り歌として伝わり、幕末にはやった尻取歌をへてノーエ節が出来上がっていた。そのノーエ節を「農兵節」と歌詞をアレンジ。「箱根の山からノーエ 箱根の山からノーエ 箱根サイサイ 山から三島を見れば 鉄砲かついでノーエ 鉄砲かついでノーエ 鉄砲サイサイ かついで前へ進め・・・」と。陣羽織に菅笠姿、願人坊主さながらの姿で歌い踊りながらキャンペーンを展開した。

愛宕坂

現国道から離れ、右に別れ坂を下る。この坂は愛宕坂。名前の由来の愛宕神社から。神社は今はなく、そのあとに三島東海病院が建つ。

東海道線

愛宕坂を下ると東海道線に当たる。いやはや、はるばる来たぜ、と小声で叫ぶ。線路を越え。今井坂を下る。山田川に架かる愛宕橋を渡り道は国道に合流する。

川原ヶ谷陣屋跡
国道を進むと道脇に立派な塀構えの屋敷。川原ヶ谷陣屋跡。小田原藩の支藩荻野山中藩の役所跡である。このあたり一帯、東は塚原新田、西は三島宿にはさまれた地区(川原ヶ谷)は、元々は幕府天領として三島代官の管轄であった。が、18世紀の初め頃から幕末にかけて荻野山中藩となったり、韮山代官の支配になったり、またまた荻野山中藩と変わったりしているのだが、その際の荻野山中藩の役所跡である。陣屋の道を隔てた南には足利二代将軍足利義詮や堀越公方足利政知のお墓のある宝鏡院があるとの
ことだが、日も暮れてきた。今回はパスし先に進む。

新町橋
ほどなく国道は大場川を渡る。架かる橋は新町橋。橋を渡れば昔の新町。三島宿の東口である。箱根八里の終点。長かった箱根越えもこれでお終しまい。日も暮れた。お寺が並ぶ新町、現在の日の出町をどんどん進国道を進み、三島大社にお参りを済ませ三島駅にたどり着き、一路家路へと。 

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