多摩丘陵散歩;登戸から多摩丘陵を南に下り鷺沼。そして溝口に

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3月1日の多摩丘陵散歩:稲田堤から新百合ヶ丘に続く2回目は川崎・宮前区に。きっかけは会社の常勤監査役殿との話であった。地震になったときに、自宅までどの程度かかるのかわからない、と。であれば、私が歩いてあげましょう、ということになった。宮前区・鷺沼が監査役殿のご自宅。川崎に足を踏み入れるのははじめて。で、どのルートから歩こうか、と迷った。なんとなく名前が気になっていた登戸が頭に浮かんだ。
 
本日のルート;登戸>西宿河原>府中街道・ニケ領用水>長尾橋>神木本町・等覚院>神木で東名高速と交差>平瀬川>神木橋>東名高速に沿って神木本町4丁目>平6丁目>尻手黒川道・土橋交差点>鷺沼>矢上川>宮前平>宮崎台>宮崎団地前>246号・梶ヶ谷交差点>市民プラザ通り・梶ヶ谷駅入口>梶ヶ谷駅>高津区役所交差点>南武線交差溝口>栄橋>溝口神社・溝口駅入口>ニケ領用水>府中街道・高津交差>大山道>光明寺>二子新地駅

小田急線登戸

登戸で下車。登戸の「戸」は場所といった意味。多摩川の低湿地から多摩丘陵に登る場所であったのだろう。
昔は江戸から津久井に通じる、津久井往還の要衝の地。津久井の絹や黒川の炭、禅寺丸柿を運ぶ商人で賑わったはず。当然多摩川の渡しもあったのだろう。果たして今は、という興味もあり登戸から散歩をはじめることにした。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)



ニケ領用水・新川
南の方、丘陵を目安に成り行きで進む。登戸、宿河原地区をなんとなく南に進む。車の往来の激しい道筋に。府中街道だ。
道筋に沿って水路が。ニケ領用水・新川。この流れは菅稲田堤にある布田橋、新布田橋近くの稲田取水場から取り入れられた流れ。六郷用水散歩のときメモした、川崎のニケ領、武蔵国橘樹(たちばな)郡と幕府直轄地の稲毛郡の二カ国に通した灌漑用水・ニケ領用水がこれ。ちなみに登戸近く、宿河原から取り入れられたニケ領用水の別水路も近くを流れている。龍安寺近く、本村橋で府中街道とニケ領用水は別れる。

向ケ丘遊園
川筋に沿って歩く。向ケ丘遊園が丘の上に。とはいうものの、どうも開園している雰囲気がしない。向ケ丘ボーリング場も閉まっている。昭和2年、小田急の開通とともに営業を開始したこの遊園も、2003年の2月に75年の歴史を閉じたとのこと。こどもが小さいときに連れ歩いた。仮面ライダーショーでこどもが逃げ廻った記憶が懐かしい。

低地から丘陵に
向ケ丘遊園を少し進み長尾交差点で右折。丘陵への登りとなる。結構な傾斜。多摩川の低地との境をなす多摩丘陵の東端といった雰囲気。が、如何せん、車の通りの多い峠道。排気ガスを浴びながら進む。峠を越え住宅街に。五所塚地区。起伏に富んだ多摩丘陵の台地斜面が削られ住宅地となっている。

長尾神社
左折し長尾神社に。長尾神社と通りをへだてた公園には、五つの円形塚が残されている。『新編武蔵風土記稿』では、「墳墓五ヶ塚」と言われている。が、川崎市教育委員会は「村境や尾根筋に築かれた信仰塚のようなもので、一種の民俗信仰上の記念物」と。五所塚地区はその塚にちなんだ名前。
また「長尾」の地名は、多摩丘陵の長く連なる尾根に沿った地形から生まれたといわれる。尾根の南の方を「神木長尾」、北の方が「河内長尾」「谷長尾」。長尾神社は、河内長尾の鎮守だった五所塚権現社が、明治時代の神木長尾の鎮守だった赤城社を合祀し今にいたる。

等覚院
長尾神社を離れ進む。南東方向に品のいい丘陵が見える。緑の丘を目安に進む。神木本町。いかにもありがたそうな地名。そしてこれまた品のいいお寺さん。等覚院、である。神木(しぼく)の由来は、往時日本武尊が東征のみぎり、渇きを覚えた、としよう。鶴の舞い降りるのを見、水辺あれかし、と。水で渇きを癒し、英気回復。神水というか霊水とあがめ、その地に木を植える。で、代々その木を神木と。後に智証大師円珍、その神木をもって不動明王をつくる。この不動明王は等覚院本堂脇の岩穴に置かれている。これが神木の地名の由来。

神木山等覚院(神木不動)は天台宗のお寺。不動明王が本尊。広い境内はつつじの名所。別名、つつじのお不動さんとも。また、すぐ横を走る東名高速などの都市化の進行から自然環境を保全するため、お寺の裏山は緑保全の森となっている。

平地区
等覚院を離れ車の往来の多い通りに沿って進む。平地区。「平」の地名の由来は、領主・葛原(かつらはら)親皇の後裔である「葛山平」(かつらやまたいら)の名によるとか、この地にある室町時代開山のお寺・泰平山東平寺の山号でもある、「天下泰平」を願って名づけられた、とか、平瀬川が流れる地形からきたとか、これも例によっていろいろ。

東名高速と交差

東名高速と交差。東名を越えたところで平瀬川と交差。地図でチェックすると王禅寺、東百合丘あたりが源流点のよう。神木本町交差点を右折。東名高速との交差手前で高速に沿って、高速道路の南を西に向う道に入る。

手黒川道路・土橋交差点

向丘中学脇、平小学校脇をとおり土橋地区を進む。尻手黒川道・土橋交差点に。土橋(つちはし)の地名の由来は、源頼朝がこの地を通ったとき、谷合から流れ出る谷戸川に橋を架けることを命じた。樹木を切り、土を盛り土橋をつくる。これが地名の由来。で、この谷戸川とは矢上川のこと。この川沿いの湿地・湿田が現在の市道尻手黒川道路。

矢上川

矢上川の源流は宮前区水沢1丁目あたり。菅生緑地の湧水を集め清水谷、犬蔵をへて土橋に。矢上の意味は、谷の上=やがみ、小高い丘=弥上=やがみ、とかいろいろ。
土橋は明治・大正はタケノコの名産地。「竹の里」と。昭和に入るとこの地は陸軍の軍用地として接収。軍用道路、北の台地上には高射砲陣地と探照灯基地が設けられる。戦後は宅地開発と高速道路による都市化の波。農地と山林原野の地が大きく変わる。

鷺沼
土橋交差点は東名高速の川崎インターから出たすぐのところ。会社の同僚を車で送って何回かきたことがある。交差点から道なりに坂道をのぼり、鷺沼プール入口交差点をこえ、本日のターゲットポイント鷺沼に到着。

鷺沼駅の西は地下トンネル。トンネルの上に住宅街が乗っかっている。結構奇妙な光景であった。鷺沼は、東急が開発した街。それ以前は、農地と山林からなる丘陵地。丘陵に挟まれて低湿地帯が長く伸びており、鷺沼谷と呼ばれていた。246号線から鷺沼小学校を経て、日本精工のグランドあたりまで延びる谷筋がそれにあたる。

鷺沼配水池
鷺沼を離れ東京地下鉄鷺沼電車区と水道配水所の間の坂道を下る。川崎市水道局の鷺沼配水池は高津・宮前区の一部と中原・幸区の水道水を確保するためにつくられたもの。給水人口は38万人。市内最大の規模の配水池。川崎市の水源は、多摩川・相模川・酒匂川の3つの水系からなるが、鷺沼配水池は、相模川水系。取水口から長い導水トンネルを通り、多摩区三田にある長沢浄水場に運ばれ、そこで処理された水を集めている。

宮前平
東急田園都市線に沿って宮前平の駅に進む。「宮前平」の駅名は、明治時代に五つの村(野川・梶ヶ谷・馬絹・土橋・有馬)が合併して生まれた「宮前村(みやざき)」の地名から。女躰権現社(現在の馬絹神社)のあたりから梶ヶ谷にかけて宮前という小字名があったとか。宮前駅付近は、江戸時代は湿田が広がっていた、とか。矢上川沿いに広がった湿田は、いまの尻手黒川道路沿いに細長い谷間に広がり、「谷戸田」とも呼ばれていた。

宮崎台
矢上川を越え宮前平駅前を越え、宮崎台に。宮崎は、もとは宮前(みやざき)。が、昭和10年に川崎市と合併するとき、ほかに宮前小学校とかいった名前もあり、ややこしい、ということで宮前>宮崎、となった、とか。

この地は昭和15年には陸軍の軍用地として接収され、大塚三ツ叉を中心に馬絹・上作延・下作延から向ヶ丘・菅生地域にまたがった広大な演習場・溝口演習場となる。連隊本部は宮崎の丘の上。現在の宮崎中学校に。兵舎や弾薬庫などがに配置されていた。

部隊編成は、歩兵五個中隊と機関銃二個中隊、八センチ連隊砲と速射砲一個中隊、そして土橋には高射砲隊。これら東部六二部隊の任務は、召集兵のトレーニング。三ヵ月程度の訓練もあと、実線配備に送り出す。この軍用地も昭和26年には返還され、このときに「宮崎」という大字名がつけられた。

梶ヶ谷
宮崎台団地前交差点を越え、ゆったりとした坂道を登り、梶ヶ谷交差点で246号と交差。市民プラザ通りを進み、最初の交差点を左折し梶ヶ谷駅方面に入る。

梶ヶ谷は鍛冶ケ谷と読み替えるべし。北に矢上川が流れるこの地は南に「金山」と呼ばれる台地がある。馬絹との境にある梶ヶ谷金山公園(R武蔵野南線の貨物ターミナルの少し南)の脇には、「稲荷坂」の地名、そして坂の途中の稲荷社がある。
稲荷社は、鉄鍛冶や鋳物師の神様。また、南野川に下れば別所と呼ばれ区域もある。別所は虜囚となった蝦夷人びとを移住させたところ。上作延・平・長尾にも「別所」の地名が残っている。蝦夷虜囚は、産鉄の技術者集団。「梶ヶ谷」=「鍛冶ヶ谷」の所以である。
梶ヶ谷地域一帯は、産鉄と深い関係がある地名が多い。金山、稲荷、別所のほか、有馬には赤い鉱泉の「有馬療養温泉」がある、とか。鷺沼には、「金糞谷」の地名が残っている、とか。金糞は「鉄滓(てっさい)」のこと。

JR武蔵野南線の貨物ターミナル
「梶ヶ谷」にJR武蔵野南線の貨物ターミナルがある。これって謎の鉄路?稲城近くからトンネルに入り、10キロ以上も地中を走る。いつこんなものが掘られていたのだろう。なんとなく好奇心が湧き上がる。チェックすると、最初に計画されたのは戦前の1927年のこと。その後、戦時中の中断をへて、1964年から工事が始められた、とか。貨物線とはいいながら、ホリデー快速鎌倉号といった列車が、土休日に大宮から鎌倉まで走っているとか、いない、とか。一度、10キロのトンネルを体験したいものである。

溝口
梶ヶ谷駅から溝の口に向う。溝の口の街並みが丘の下に広がる。結構な標高差。坂道をくだり246号線にそって歩を進め、高津区役所交差点に。右折し田園都市線手前の交差点に。溝口のど真ん中。数年前まで、正月に年始・新年会のためで会社の元の先輩の家にお邪魔していた。そのころは、この溝口の駅前は毎年大きく変わっており、毎年道に迷っていた。最近は都市開発も一段落したようで、迷うことはない。

いまはビルが林立するこの溝口。溝のような幅の狭い小さな川が流れ、その溝の入り口にあたるところから「溝口」の地名は生まれた、と。
大山街道の宿場町だった溝口は、多摩川の流れの中から生まれた。『新編武蔵風土記稿』によれば、「白波、岡の下を洗い渺々(びょうびょう)たる流れ」だった多摩川は、その後、川幅も狭まって砂地が生まれる。そこに人家が増え宿場が開ける。僅か百軒程度しかなかった溝口の宿も、いまは川崎市の副都心。JR南武線と東急田園都市線の溝の口駅を利用する一日の乗降客は30万人近い、とか。
ちなみにJR南部線のはじまりは大正初期。多摩川砂利鉄道から出発。路線は南武鉄道と改称。昭和十九年(1944)の春に国有鉄道に買い取られ、国鉄の民営化でJR南武線となっている。

宗隆寺
田園都市線手前の交差点を左折。南武線と交差し栄橋交差点を越える。左手に「興林山宗隆寺」。日蓮宗のお寺である。山門を入ると、本堂の手前左に俳人・松尾芭蕉の句碑がある。 「世を旅に代(とも)かく小田の行き戻り」。

境内の墓地には、この地ゆかりの陶芸家・浜田庄司の墓石もある。溝口駅入口交差点手前左手に溝口神社。どんなものかちょっと覗いてみる。おまいりをすませ歩を進める。

ニケ領用水・新川

少し歩くときれいに整備された水路が。遊歩道になっている。ニケ領用水・新川。水路をチェックすると南に下り、幸区の下平間、横須賀線の新川崎にあたりまで水路が見て取れた。その先は多摩川まで遊歩道っぽい道筋になっている。いつか歩いてみようと思う(後日、稲田堤の取水口から武蔵小杉までニケ領用水を歩き終えた)。

府中街道・高津交差点

高津交差点で府中街道を越える。交差点を越えると町並みが急に落ち着いたものになる。ここは大山道。「溝口村は橘樹郡の北二子村の西に隣れり、江戸日本橋より五里の行程なり、相模国矢倉沢道中の宿場にて、此道村係る所十二町程、其間に上中下の三宿に分ちて道の左右に軒を並べたり、総ての戸数は九十四軒に及べり....村内総て平にしてただ、西の方のみ丘林あり水田多くして陸田少し、土性は真土に砂交じれり」と。
「矢倉沢道中」とは、大山詣りで知られる矢倉沢往還、すなわち「大山街道」のこと。「二子の渡し」、「蔵造りの店」、「溝口・二子宿の問屋跡」「庚申塔と大山道標」など昔の大山街道の名残を残している。

二子新地駅
道脇にある光明寺におまいりし、歩をすすめ二子新地駅で田園都市線に乗り本日の散歩はおしまい。本日のルートは多摩丘陵に連なる下末吉台地にある宮前区の南半分。地形は、小さな谷が入り込み、起伏に富む、地形散歩にとっては魅力的な1日であった。

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