座間といえば、米軍基地であり、戦前は帝国陸軍士官学校など軍都、といった印象でしかない。また、ニッサンの座間工場などといった工場の街といったイメージが強い。そんな座間には湧水点が多い。市内を南北に座間丘陵が走る。
その西には中津原段丘面、そしてその下に田名原段丘面、更にその西には相模川のつくる沖積低地が広がる。湧水というのは、通常、崖下タイプか谷頭(こくとう)タイプに大別される。座間の湧水も中津原段丘崖線下より湧き出るもの、台地面の谷奥=谷頭より湧き出るもの、に大別される。市内に点在する湧水を、地形を実感しながら辿ることにする。
本日のルート:
小田急線・座間駅 > 谷戸山公園の湧水 > 入の谷戸上湧水 > 星谷寺 > 心岩寺湧水 > 龍源院湧水 > 鈴鹿明神社 > 鈴鹿の泉湧水 > 番神水湧水 > 座架依橋 > 相模川湧水 > 神井戸湧水 > 国道246号線 > いっぺい窪湧水 > 目久尻川 > 第三水源脇の湧水 > 第三水源湧水 > 小田急線・相武台駅
小田急線・座間駅
座間。往古この地は街道の宿場町。古の古東海道、また、平塚から八王子へと通じる八王子街道の宿場町であった、とか。地名の由来も、古代この地にあった街道の駅名から、との説もある。「伊参(いさま)駅」が伊佐間となり、ついで「座間」となった、ということだ。また、高座郡にある間(小平地)であるので、座間といった説もあり、例によって、あれこれ。
谷戸山公園内の湧水
湧水散歩スタート。第一の目標は、「谷戸山公園内の湧水」。県立座間谷戸山公園内にある。東口に下り、南東へと上る台地へと進む。台地の上に進み、道が再び下る手前で北に折れ、座間谷戸山公園に向かう。公園南口から園内に。シラカシ観察林の中をゆっくり歩く。ここは雑木林を手を入れないで自然のまま推移させる極相林。そしてシラカシの林になった、とか。道を下ると里山体験館。いかにも昔の農家といった建物が再現されている。体験館の前は水田。確かに里山の景観ではある。
田圃の脇を進み、湿生生態園を越えると水鳥の池。湧水池。夏には1日1600トン、冬でも100トン、という。結構なボリュームである。湧水点を求めて奥に進む。いかにもそれらしき、「わき水の谷」に。案内によれは公園内には9か所の湧水があり、そのうちふたつがこの谷にある、と。湧水点っぽい雰囲気の場所はあるのだが、いかにも人工的。自然の湧水点ではあるのだろうが、周囲を整地しているようだ。石の井戸といった構えの中から水が湧き出ている。座間市内の湧水についての案内があった。座間の湧水状況がよくわかる。メモする;「本公園は、座間丘陵のほぼ中央部に位置しており、本公園を含む座間市内には多くの湧水地が分布している。それらは座間基地西端から小田急線座間駅西方に続く相模野台地西縁の崖下と、栗原方面の相模野台地を刻む目久尻川とその支流芹沢川の谷とに分布している。これらは共に相模の台地の下に広がっている砂礫層の中より湧き出ている」、と。
入の谷戸上湧水
わき水の谷」を後に、「入(いり)の谷戸上(やとうえ)湧水に。目印は公園・東口近くの「ひまわり公園テニスコート」。湧水点はテニスコート脇にある、という。木の階段を上り台地上に進む。雑木林の中を進むとテニスコート脇に。湧水点のありそうなところを求めてあちこち、ぶらぶら。テニスコート脇を下り、公園の手前にごく僅かな「水気」を見つける。湧水というには、あまりに「僅か」。昔は、ここから小さい谷筋が通り、目久尻川に向かって湧水が流れていた、という。その谷筋は現在の市役所の東の道筋である、とか。「入の谷戸上湧水」は、付近の住民の生活用水ともなっていた、とのことであるので、ある程度の水量もあったのだろう。が、現在は見る影もない。それでも、夏は6トン(日)、冬は0.9トン(日)あるらしい。
星谷寺
坂東観音霊場のひとつ。真言宗大覚寺派の古刹。建立は奈良時代、とか。坂東8番札所。縁起によれは行基菩薩がこの地を訪れ、だれも足をふみいれたことのない「見不知森(見知らず)」に入る。法華経が聞こえ、星が降り注ぐ。そして、古木の下から観音像が。これが現在に残る聖観音、と。もっとも、聖観音は行基菩薩が彫ったという言い伝えもある。
また、星谷の由来も『風土記稿』によれば、「其地は山叡幽邃にして清泉せん湲たり、星影水中に映じ、暗夜も白昼の如なれば土人星谷と呼べり」とある。観音霊場といえば定番の花山上皇が訪れた、という縁起もあるが、花山上皇が武蔵に下向した事実はない、ということは秩父でメモしたとおり。縁起は縁起として受け入れる、べし、ということだろう。とはいうものの、名刹であることに変わりはなく鎌倉以降も、頼朝、家康などの武将の庇護を受けている。梵鐘は国の重要文化財。源氏の武将・佐々木信綱の寄進とされる。
心岩寺湧水
星谷寺を離れ、次の目的地・心岩寺湧水に向かう。入谷地区。深い谷があった地形に由来。崖線が楽しみ。西に進み、相武台入谷バイパス・星の谷観音坂下に。交差点を少し南に下り、道路を離れ心岩寺(しんがんじ)に。座間丘陵の段丘下にある。
本堂はコンクリートつくり。境内に入ると池。崖下から水が湧き出ている。湧水を見るだけで、これほどに心躍る、ってどういうことであろう、か。夏には日量437トン、冬には14トンほど湧き出している、と。この心岩寺からは境内から土器が見つかったり、台地上には縄文期の遺跡が見つかったりしている。湧水脇に人々が集まって生活していたのであろう。
鈴鹿明神社
心岩寺湧水の次は龍源院湧水。心岩寺のすぐ北にある。龍源院の手前に鈴鹿神社。伝説によれば伊勢の鈴鹿神社の神輿が海に流され、この地にたどりつく。里人は一社を創建しこの座間一帯の鎮守とした、とか。欽明天皇の御代というから、5世紀中ごろのことである。伝説とは別に、正倉院文書には天平の御代、この地は鈴鹿王の領地であったわけで、由来としては、こちらのほうが納得感がある、ような。鈴鹿王(すずかのおおきみ)、って父は天武天皇の子である高市皇子。兄は長屋王。ちなみに、「明神社」って、「明らかに神になりすませた仏」、のこと。権現=神という仮の姿で現れた仏、と同じく神仏習合と称される仏教普及の手法でもある。
龍源院湧水
龍源院は鈴鹿神社の東側の段丘下にある。本堂裏手から湧き出す湧水は、夏には942トン(日)、冬には225トン(日)、と。近くの鈴鹿神社から縄文後期の遺跡が発掘されているので、この湧水は縄文人の生活に欠かせないものであったのだろう。境内には「ほたるの公園」といった湧水池もあった。清流故のほたる、であろう。
鈴鹿の泉湧水
龍源院の北側の段丘下から湧き出す湧水。お寺の隣にありそう、ということで境内をぶらぶら歩いていると、北の隅にみつけることができた。水量は豊富。夏には622トン(日)、冬には32トン(冬)ほど湧き出ている、と。途中柵があり、湧水点までは入れない。しかし、清冽な流れはいかにも心地よい。
番神水湧水
鈴鹿の泉湧水を離れ、北に進む。道に沿って清流が流れる。美しい。これって今から訪れる番神水湧水からの流であろう、か。しばらく歩き、円教寺の東側の段丘下にある祠(ほこら)「番神堂」の裏手から湧き出る湧水。湧水点は柵があり中には入れない。なんとなく崖下から湧き出る雰囲気は感じられる。夏には659トン(日)、冬には27トン(日)の湧水がある、と。日蓮上人が地を杖で突いたところ、清水が湧き出したとの言い伝え、あり。湧水は昭和初期、座間台地上に陸軍士官学校が移ってきたころから、半減した、と。水源が切られた、ということであろう。
座架依橋
座間丘陵西端を一度離れ、相模川に向かう。川床から水が湧き出ている、と。場所は相模川の座架依(ざかえ)橋の下にある水辺広場の南側の護岸付近。台地下から2キロ弱といったところ。ひたすら西に向かって歩く。西に広がる山地は丹沢山系だろう。また、最高峰の峯は、大山ではなかろうか、と思う。なかなか見事な眺めである。相模川左岸用水や鳩川の水路、相模線の鉄路を越え、30分ほど歩いただろう、か。座架依橋に到着。厚木と座間を結ぶ。この橋ができたのは平成4年、とそれほど昔のことではない。それ以前は木造の橋であった、よう。また、木造の橋ができたのも昭和34年。それまでは渡し船があった、とのことである。座架依の由来は、座間と川向うの依知の間に架けられた橋、ということから。ありがたそうな名前であり、なんらかの由来ありや、とも思ったのだが、拍子ぬけ。
相模川湧水
湧水点を探す。なにか案内があるか、とも思ったのだが、なにもなし。あてどもなく、勘だけを頼りに歩く。取りつく島もなし。橋の南の川床に水の溜まり。本流からちょっと分かれたものか、湧水なのか定かならず。とりあえず進む。本流につながっているような、いないような。進につれて護岸下あたりに生える芦原あたりにも水がたまっている。家族づれが釣りをしているそばを進み、溜まりの「はじまり」部分を探す。うろうろしていると、川床の、ほんとうになんでもないところから、水が浸み出ていた。そこが湧水点なのだろう。ここの湧水は、上流域などで浸透した雨水が、古の相模川の砂利層を下り、ここから湧き出している、と。ちなみに相模川って、源流は山中湖。富士吉田、都留、大月をへて相模湖・津久井湖に来たり、その先厚木・平塚・茅ヶ崎の境近くで相模湾にそそぐ。全長100キロ強の一級河川。
神井戸湧水
座間高校の北東側あたりにある。相模川から再び台地に向かうことになる。2キロ強、といったところ。道脇に湧水があった。腰を下し一休み。現在はちょっとした井戸、程度の大きさの湧水地、ではあるが、昔はこの10倍くらいあった、とか。湧水は豊富。現在でも夏には632トン(日)、冬には102トン(日)ほどの水量がある、と。泉の名称については、神様からの賜り物、ってことだろう。湧水マップにはこの神井戸湧水の南150mほとのところに根下南(ねしたみなみ)湧水がある、ということだが、見つけることができなかった。
目久尻川
座間丘陵台地西縁崖下の湧水散歩、相模川湧水の後は、栗原方面に移り、相模野台地を刻む目久尻川に沿って点在する湧水を巡ることに。台地に上り、北に緑地を見ながら中原小学校脇を進むと国道246号線にあたる。少々味気ない国道に沿って栗原地区を北東に進み、西原交差点に。交差点を南東に折れ、先に進むと「栗原巡礼大橋」に。
目久尻川によって開析された深い谷を跨ぐ大橋である。目久尻川に。相模原市にある小田急線・相武台駅近を水源とし寒川町で相模川に注ぐ。昔、栗原村にあった小池から流れ出ていたので、「小池川」とも、また、湧水からの冷たい=寒い水が流れるため寒川とも呼ばれていた。目久尻川と呼ばれたのは、相模一之宮・寒川神社の領地・御厨から流れているためその下流で「みくりや尻川」と呼ばれていたのが、いつしか「めくじり川」となった、とか。また、この川に棲む河童のいたずらを懲らしめるため、目をえぐり取った=目穿(くじる)から、とか、例によってあれこれ。
いっぺい窪湧水
「いっぺい窪湧水」は目久尻川脇。橋の手前を川に向かって下りる。目久尻川を少し南にくだる。目印は巡礼橋。坂東観音霊場を巡る巡礼者がこのあたりを通った、と。橋の脇から台地に上る坂道を巡礼坂、という。橋を南に下る。遊歩道脇に「いっぺい窪湧水」。民家の敷地内、ということで、柵があり、水源点のチェックはできない。「わさび」を栽培しているように思う。水量はいかにも豊か。夏には1,300トン(日)、冬には800トン(日)になる、と。いっぺい窪の名前の由来は、例によって諸説あり、定かではない。が、巡礼者がこの湧水の「一杯」の水で、乾きを癒したことであろう。この湧水から南にすこし下ったところに「大下(おおしも)湧水」があるとのこと。近くには縄文時代の遺跡もある、という。今回はパス。
第三水源湧水
座間の上水は現在でも豊富な地下水を活用しているようで、水道水の85%は湧水である、という。「いっぺい窪」より第三水源に向かって目久尻川を北に進む。栗原巡礼大橋下をくぐり、座間南中のある台地下に沿って進む。しばらく進むと芹沢川が合流。第一・第二水源のある芹沢公園の湧水から流れ出る川、であろう。ちなみに、芹沢公園の近くに、第一、第二水源がある。
国道246号線を越え、蛇行する川筋に沿って歩く。246号線から1キロ強、といったところにいかにも水源といった場所。ここが市営水道・第三水源であろう。衛門沢湧水、とも呼ばれていた、と。湧水点はわからない。水源地から滾々と湧き出ているのであろう。水道用として一日、3,500トンほど汲み上げる、とか。また、水源とは別に現在も夏季には日量3,700トン(日)、冬には2,800トン(日)ほど湧き出ている、ということである。湧水点というより水源地、といった規模の湧水である。
第三水源脇の湧水
第三水源近くのスポーツ広場にも湧水がある、という。グランド土手の斜面から僅かに湧き出る、ということだ。水源の東と北にグランド。どちらにあるのか、少々迷う。東のグランドにはそれらしき水路は見当たらない。北のグランドに進む。地形としては、台地に近いこちらのほうが本命ではあろう。土手の斜面に目をこらす。あった。とはいうものの、まことにささやかなもの。ちょっとしたお湿り程度、といったものであった。湧水点はこの少し北、下小池橋のあたりの護岸にもあるようだ。そこが、目久尻川の湧水点では最上部、と言われる。昔は相武台東小学校の北にも豊富な湧水があったようだが、現在では埋め立てられ児童公園となっている
小田急線・相模台前駅
駅名はもとは「座間駅」。陸軍士官学校本科が当時の座間村に移ったのを契機に、「士官学校前」に。後に「相武台」、と。相武台とは士官学校の別名。朝霞の陸軍予科士官学校は「振武台」、豊岡(現入間市)の陸軍航空士官学校は修武台。市谷から淺川(八王子)に移った陸軍幼年学校は建武台とよばれたよう。ちなみに、命名は昭和天皇による、と。陸軍士官学校跡地は現在在日米軍キャンプ座間となっている。ついでのことながら、相武って、相武国造(さがむの
くにのみやつこ)から、だろうか。相模国のもとの名前であろう、か。
1.座間丘陵西側の段丘崖の湧水群・・・・・番神水、鈴鹿の泉、龍源院、心岩寺、神井戸、根下南
2.座間丘陵の谷底低地・・・・・・・・・・・・・・谷戸山公園、入りの谷戸上
3.目久尻川沿いの谷底低地・・・・・・・・・・大下、いっぺい窪、芹沢川護岸、第三水源、第三水源脇、目久尻川護岸
4.その他の湧水・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・相模川に湧き出す湧水
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