千葉 茂原散歩;丘陵を穿ち谷戸を繋ぐ素掘り隧道を辿る

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佐倉で偶然出遭った鹿島川。その源流点を歩いてみようとの、単なる好奇心だけからはじまり、その源流域である千葉・昭和の森訪れ、結果として昭和の森を分水界とする三つの河川を辿ることになった。その散歩の3回目、外房に注ぐ小中川の流域を歩いたとき、偶然に素(手)掘りの隧道に出合い、これも単なる好奇心でチェックすると、千葉は越後妻有地域(新潟県十日町と津南町)と共に、素掘りの隧道の多い地域として知られるとのこと。ざっとその数を調べてみると、新しいものもあるだろうが、名前の付いた隧道だけでも350ほど見つかった。門外漢が大雑把にチェックしたものであるので、正確な数字とは言えないにしても、他県を圧倒する数であった。

分布は下総の平地には見られず、上総の房総台地・房総丘陵の東部、そして房総丘陵の南部、昔の地名での安房と呼ばれる嶺岡山地(鹿野山・愛宕山・清澄山)以南に集中していた。この一帯の地層は砂岩と泥岩の互層から成る堆積岩であり、岩盤としては最も新しい層であり固結が緩やかで比較的掘りやすく、かつまた砂岩と泥岩の風化のスピードのギャップにより、崩れにくい地層であるということがこの地に素掘りの隧道が多い要因である、と。江戸の頃からはじまり昭和の初めまで農民が手掘りで隧道をつくった、と言う。
隧道の目的は大きく分けてふたつ。牛馬の往来、農具の運搬に坂道の上下を嫌い、丘陵を穿ち、谷戸の田畑を結ぶために隧道を掘った。もうひとつは、蛇行する川の曲流部を隧道を掘り直線で結ぶことにより、瀬替えをおこない元の川床を田圃とした、と言う。千葉では「川廻し」とよばれるこの瀬替えは「穿入蛇行(急峻な谷を大きく蛇行する川)」である、嶺岡山地の夷隅川、養老川、小櫃川のそれぞれ100箇所以上、千葉全体では隧道や切り通しを含め全体で450箇所ほどある、と言う。狭い山間の地に少しでも新田開発、また洪水対策のために施工されたのだろう。なお川廻しには耕作地開発とともに木材流下のための隧道開削もあると言う。
さて、どこからあるきはじめよう?少々迷う。あれこれチェックしていると、茂原に押日素掘群などと呼ばれる一帯があり、素掘り隧道が集中しているとのこと。残念ながら「川廻り」の隧道には会えそうにないが、それは今後のお楽しみとして、とりあえずは茂原へと向かう。



本日のルート;外房線・新茂原駅>子安神社>伊弉子神社>渋谷隧道>三宅谷隧道>阿久川>小山隧道>御領隧道>県道の切り通し>土地改良記念碑>野本隧道>木生坊隧道>隧道脇の切り通し>狸谷隧道>花立隧道>後呂隧道>猪喰隧道>坊谷隧道>細田隧道>八幡神社>隧道脇の切り通し>船着神社>豊田川>長谷隧道>長谷神社>鷲神社>鷲山寺>藻原寺>外房線・茂原駅

外房線・大網駅
総武線を千葉で外房線に乗り換え土気駅を越え大網駅に。先回の散歩で土気駅・大網駅間の廃線跡を、その急なる勾配を感じるべく辿ったのだが、現在の鉄路は土気駅先でトンネルに入り、その先は高架で谷戸を一跨ぎし、その後は丘陵に沿って大網駅に。乗った列車が東金方面行であったため、北東に弧を描く東金線のプラットフォームに着く。本日の散歩の最寄駅は外房線・新茂原であり、そのプラットフォームは到着した東金線プラットフォームからちょっと離れ、南東に弧を描いている。
明治29年(1896)、房総鉄道として蘇我・大網間が開業された当時の大網駅は現在の東金線のプラットフォームを北東方面に少し先に進んだところにあったようだ。その後の駅の開業を見ると、明治30年(1897)に東金とは逆方向の一宮(現・一宮)まで開通。ために、列車は大網駅でスイッチバックして運行した。大網・東金駅間が開通したのは明治33年(1900)のことである。
路線開業の時系列でみれば、房総鉄道の大網駅は一宮方面に向かう現在の外房線のプラットフォーム方面につくればいいのに、どうして東金方面に?気になってチェックすると、開業当時の市街地が東金寄りの地であったとか、土気~大網間に急勾配があったため、これを避けるルートとして、千葉~成東~大網~勝浦方面をメインに考えていたなどの説明があるのだが、なんとなくしっくりこない。
もう少し深堀すると、房総鉄道としては当初より、東金が目的地であったのだが、住民の反対により、やむなく大網まで開通させた、といった説明が見つかった。これであれば理屈に合う。ということは、東金方面への伸長が思うように進まないので一の宮方面に路線を伸ばすことになり、仕方なくスイッチバックで進むことにしたのだろうか。単なる妄想。根拠なし。
それと大網駅のスイッチバックの説明に土気・大網間の急勾配故との説明が多いのだが、急勾配の途中の山中にスイッチバックがあるのならわかるが、そのような路線ではないとすれば、急勾配と大網駅のスイッチバックの因果関係を説くのはちょっと無理があるのでは、などと思う。
その大網駅のスイッチバックが解消されるのは昭和47年(1972)房総線の土気~長田間の複線化と路線の付け替えが完成したときであり、大網駅もこの時現在の位置へ移転している。また、旧大網駅から房総方面への旧線は大網~土気間の勾配を避けた貨物列車が東金線・総武本線経由で運転するために使われたが、その貨物列車が廃止された平成9年(1997年)、その短絡線も廃止された。

新茂原駅
大網駅の東金線プラットフォームから少し離れた外房線のプラットフォームに移り新茂原駅へと向かう列車に乗る。外房線の進行方向左手は九十九里浜に続く平地。右手は下総台地から突き出た無数の舌状丘陵が複雑に絡み合って連なっている。外房線はその平地と丘陵地の境界線を走る。窓から見える無数の舌状丘陵を穿ち、谷戸を繋ぐ素(手)掘り隧道を想い新茂原駅に。
駅は小じんまりとしたもの。昭和30年(1955)開業。昭和56年(1981)に貨物取扱を開始し、三井東圧(現三井化学)の専用線の始点が設けられたが、その専用線も今はなく、のんびりとした駅の佇まいである。
駅を下り、駅の少し北にある渋谷隧道に向かう。当初は押日地区の素掘り隧道を廻れば、などとも思っていたのだが、その素掘り隧道群は住宅街に近い、とのことのようであり、どうせなら舌状丘陵や谷戸の景観を楽しめるところからはじめようと思った次第。で、時間的な関係からして、この新茂原駅の少し北をチェックすると、渋谷隧道があり、そこから押日地区へといくつか素掘り隧道が見て取れるため、渋谷隧道を始点に押日素掘り隧道群へとに下ることにしたわけである。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)



子安神社社務所
国道128号を北に渋谷隧道に向かうと、途中の腰当交差点脇に子安神社社務所がある。地区名は腰当。腰当神社とも呼ばれる。神社ではあるが、鳥居がない。どういう経緯かは不明。天徳・応和年間(957~964)の創建と伝えられている結構由緒ある社である。常とは異なり、子安神社社務所とあるので、社務所だけがのこるのか、とも思ったのだが、立派な社殿が残る。見たわけでもないのだが、江戸や関東の社寺彫刻「木彫」として名高い嶋村家の流れである十代嶋村俊明の勾欄擬宝珠が残る、とか。それにしても、この神社以外にもあるのだが、何故に「社務所」をつけているのだろう。

伊弉子(いさご)神社
腰当地区から北塚地区に入り、渋谷地区との境界で国道から離れ左に折れる。と、左折点の少し北に伊弉子(いさご)神社という、あまり聞いたことのない神社がある。ちょっと立ち寄り。趣のある社殿ではあるのだが、境内には天然記念物の「大モミジ」の案内はあるものの、由緒などの説明はなにもない。社の名前が気になりチェックする。
「千葉県神社名鑑」によると祭神は伊弉子姫命(いさごひめのみこと)。伊弉子姫命(いさごひめのみこと)とは、散歩で結構多くの社を訪ねているが、今まで耳にしたことがない。字面から推測するのは少々乱暴ではあるが、「伊弉」との字面は、神生み・国生みの神である伊弉諾尊(いざなぎのみこと)とその妻の伊弉冉尊(いざなみのみこと)を連想する。で、祭神の伊弉子姫命をこれも乱暴にも分解すると、「伊弉の子で、しかも姫」ということになる。神話によれば伊弉諾尊が黄泉の国の穢れを落し、禊をおこない、左目から生まれたのが天照大神、右目から月読神尊、鼻から速須佐之男命(すさのおのみこと)が生まれたとある。であれば、「伊弉諾尊の子で、しかも姫」とは天照大神、となる。伊弉子姫命(いさごひめのみこと)とは天照大神であろう、と妄想。と、神社明細帳には伊弉子神社の祭神は「大日?貴命(おおひるめむちのみこと)」とある、とのこと(茂原市の広報紙)。大日?貴命とは天照大神の別名であるので、伊弉子姫命=天照大神って妄想は、妄想ではなく、結構いい線いった推論であった、よう。
なお、趣ある社とメモしたが、この社殿も先ほどの子安神社と同じく、江戸や関東の社寺彫刻「木彫」として名高い嶋村家の流れである九代嶋村俊豊の手になる木彫りが施されでいるとのことである。

渋谷隧道
伊弉子(いさご)神社を離れ、国道を左に折れる道を進む。県道でもないのだが結構車の通行が多い。道の先をチェックすると谷戸を抜け真名地区で県道14号茂原街道にあたる。車の往来が多いのは国道128号から県道14号茂原街道へのバイパスといった役割を果たしているのだろう、か。
道を進むと行く手を丘陵が遮る。緩い坂を登り切ったところに渋谷隧道。コンクリートつくりで、距離も長い。素掘り隧道ではないと思う。扁額には竣工年度が記載されておらず、いつ開通したのは不明である。隧道を抜けると大楽地の谷戸が広がる。

三宅谷隧道
はじめての隧道が素掘り隧道の面影はない、いわゆるトンネルであり、出だしで気勢が削がれたが気を取り直し次の隧道である「三宅谷隧道」に向かう。渋谷隧道から少し道を戻り、南に入る小道を見つけ道なりに畦道を進む。先に進むにつれ、丘陵地の木々の中を進む細路となり、その先に三宅谷隧道が見えた。如何にも素掘りの趣である。
入口から中を見るに、出口は見えるも途中は真っ暗。水溜まりも見える。携帯していたライトを取り出し、足元を照らしながら進むが、泥濘で靴は足首まで泥の中。頭が当たりそうな低い天井や壁面の斑模様は砂岩と泥岩の互層だろうか。
豊田村史(明治22年(1889)の町村制により、渋谷村、長尾村、腰当村、小林村、大登村、北塚村が合併しで豊田村となる)によると、この隧道の完成には1年半ほどかかったと言う。当時、渋谷地区から阿久川によって開けた長尾に行くには、腰当から廻るか、この隧道を抜けたとのこと。泥濘がひどく、牛車の轍も泥に食い込み難儀したようで、先ほど訪れた渋谷隧道ができると、この道はほとんど使われることがなくなった、と。因みに渋谷の地名は、この地の水は鉄分を含み渋柿色をしていたことによる。

阿久川
三宅谷隧道を抜けると谷戸が広がる。素掘隧道が、丘陵を穿ち山間や丘陵に囲まれた谷戸の田畑を結ぶため、といった説明を実感。湧水を貯めたような小池、広がる田圃を進む。地図には道脇に本立寺とあるのだが、そまつな木標に手書きの文字で「本立寺」とはあるものの、堂宇などは見当たらなかった。
阿久川により開析された丘陵の谷地の田圃の畦道を進み、川を渡り、三宅谷隧道のあった阿久川の東の丘陵から、川を隔てた西の丘陵に入る。阿久川は複雑に入り組む舌状丘陵よりの水を集め、丘陵部を東西に分け茂原の市街へと下ってゆく。

宝泉寺
阿久川の西の丘陵を進むと右わきに宝泉寺。趣のある山門をもつお寺さま。境内には本堂へのぼる石段右手の堂宇は「岩不動尊」が祀られている、と。江戸時代前半に造られた磨崖の不動明王とのことである。





小山隧道
宝泉寺を越え、住宅地のすぐ先からどんでもない山奥、といった雰囲気の道になる。四角い形状の隧道である。入口辺りは堀脇となっている。隧道の上には竹林が茂る。隧道を抜け西側に出ると、谷戸の先の丘陵はゴルフコースとなっていた。
隧道が造られた時期は不明であるが、茂原市教育委員会の資料によれば、明治9年(1876)の資料にはトンネルは記載されておらず、宝泉寺前から丘陵を登り、尾根で西に折れる山道があるようだ。その後明治39年(1906)の資料にはトンネルの記号がある。明治9年から明治39年の間のどこかで造られたのだろう。

御領隧道
小山隧道から丘陵を抜けて押日地区に行くか、それとも長尾の豊田小学校脇にある「御領隧道」まで少し戻るか、少々悩む。が、結局御領隧道に戻ることに。理由のひとつは御領隧道への道の途中にある「取り残された鳥居」にフックが掛かったため。が、あちこち探しながら歩いたのだが、見つからなかった。結局は、道の片方だけに残った切り通しの上にあった、よう。ちょっと残念。

その半分残った切り通しを越え県道293号を左に折れ豊田小学校に。豊田小学校の東脇から丘陵へと向かう道を進む。先に進むと長大な掘割の先に隧道が見える。掘割の途中に柵で覆われた貫通した穴がある。防空壕とも言われるようだが、なんとなく違和感。
隧道を抜け北口に。北口隧道のすぐ上に切り通しといった地形が見える。隧道ができる前の丘陵越えの旧道の痕跡であろう。北口も結構長い掘割が印象的な隧道であった。その先は腰当と長尾の丘陵に囲まれた谷戸に続く。因みに、長尾地区にある学校名が豊田小学校となっているのは、明治の町村合併時に長尾村などが合併しが豊田村となったからであろう。

茂原の天然ガス
御領隧道を離れ、本日の主たる目的地である押日地区の隧道へと向かう。豊田小学校まで戻り、県道283号を西へと豊田村の由来ともなった豊田川を越え、先ほど豊田小学校へと曲がった交差点をそのまま真っ直ぐ西に。県道を塞ぐ丘陵を掘り割った切り通しを越え、道は小林地区の丘陵裾を南に進む。
道から少し入ったところに天然ガスの工場。明治中期に農業用水の井戸から天然ガスが発見され、ために関連企業が市内に立地し、この地に近代産業が発展したとのこと、茂原ガス田は南関東ガス田の一部として、生産量・埋蔵量ともに日本最大の水溶性天然ガス田となっている。ただ、日本最大とは言うものの、その量は千葉県内の都市ガス需要の30%、家庭用に換算すると55万世帯に相当する規模のようである(関東天然瓦斯開発株式会社の資料より)。
因みに、水溶性ガスとは地中に堆積した有機物が微生物により分解・発酵されてできるメタンガス。第四世紀と呼ばれる地質時代に堆積された動植物より生成されたメタンガスが地中層の水の中に溶け込み濃度を増したものである。

土地改良茂原工区記念碑
道を進むと道脇に結構大きな池があり道路脇に石碑が立っている。石碑に刻まれた内容をメモすると、両総土地改良茂原工区の竣工の記念碑。石碑を読むと、「工区は南は豊田川から北は長尾境、東は国道128号から西は押日間。この一帯は耕地は小林地区 高師 押日 内長谷長谷谷の一部地区二百ヘクタール余。此の地区は道水路に恵まれず用排水が困難で特に小林地区には二沼沢あり耕作に困難であったため地区の地主が集まり協議し、県の土地改良協会の設計にもとづき国の補助のもと昭和31年に工事開始、昭和34年に完成した」とあった。

今は美田が広がる一帯ではあるが、そうなったのも、そんな昔のことでもないようである。ところで、この土地改良は先回の散歩でメモした両総用水の整備事業ともつかず離れずの事業とも思える。両総用水とは水の乏しい九十九里平野に水を導水する用水幹線の整備。WIKIPEDIAなどによれば、かつての九十九里浜には幾多の湖沼群、ラグーンが点在していたが、明治以降の工業化により湖沼群は消滅。大河のない南部地方は農業用水が慢性的に不足の状況となる。一方で利根川の東遷事業により利根川に統合された上部河川の水により、佐原一帯は水害の被害に見舞われるようになっていた。このような状況を打破すべく、昭和18年(1843)工事に着手。戦時下の中断を経て昭和40年(1965)竣工。

概要は、千葉県香取市佐原の第1揚水機場で利根川から取水し、香取市伊地山で栗山川に流し込み、栗山川下流の山武郡横芝光町寺方の第2揚水機場で再度取水し、九十九里浜方面には「東部幹線用水路」を通し一の宮河口5キロ上流の松潟堰へ、丘陵方面には「南部幹線用水路」を通し本納までは外房線の西側、本納からは二流に分けは「南部幹線用水路」は外房線の東側を茂原南まで、分岐した「西部幹線用水路」は丘陵山地を貫き、豊田川を越え茂原市の五郷まで続き、東金市や茂原市などの九十九里平野南部まで農業用水を供給する。全取水量14.47m3/s、用水を供給している受益面積は約20,000ヘクタールになる。 灌漑をカバーする地域は、利根川の支流である大須賀川の沿岸の香取市・神崎町・成田市、九十九里平野にそそぐ栗山川沿岸の多古町・横芝光町・匝瑳市、そして九十九里平野にそって広がる一宮川までの東金市・山武市・九十九里町・大網白里町・茂原市・白子町・長生村・一宮町の6市7町1村。用水による受益面積は14,000ヘクタール(平成23年4月1日現在)千葉県の水田約20%をカバーしている

野本隧道
道を進み小林地区の丘陵が切れる辺りで押日地区の丘陵地との間の谷戸を右に折れ、押日地区の押日素掘り隧道群を目指す。最初の目的地は野本隧道とそのすぐ脇にある木生坊隧道。場所は丘陵南端の富士見中学の西側にある。その名は地名とは無関係であり、何故に富士見中学と呼ぶのだろうなどと、要らぬお節介を抱きながら、中学校の西側の緩やかな坂を上る。
丘にパイプ梯子が架かる手前に小さい石祠があり、そのすぐ奥に野本隧道の西口が見えた。四角い隧道は内部は乾燥しており、泥水で悩むことはない。隧道を通り東口に出る。こちらは少し野趣が残る。道を進み小路に当たる。

切り通し
この辺りからV字に折り返しのように道があり、その先に木生坊隧道があるとのこと。小路とT字に当たるところからV字方向に左に畑の畦道を進むがブッシュで行く手を阻まれる。元に戻り、T字路を右に続く道を辿る。荒れた道をブッシュを掻き分け先に進むと立派な切り通しがあった。切り通しを先に進むと富士見中学の坂で見たパイプ梯子のところに出た。野本隧道ができる前の丘陵越えの道ではなかろうか。

木生坊隧道
切り通しからT字路に戻り、再び木生坊(きしょうぼう)隧道を探す。ひょっとして、と野本隧道へと道を戻り、目を凝らして右手を見ながら進むと、野本隧道が緩やかにカーブするあたりの右手奥のブッシュの中に、踏み跡らしき道筋が見えた。で、ブッシュを掻き分け右手に入ると隧道が見つかった。
隧道に入ると、少々荒削り。隧道を抜けると行き止まり。地形図で見ると、東西の小さな丘陵の間の小さな谷戸があった。昔はこの谷戸への往来のために隧道をつくったのだろうか。




狸穴隧道
野本隧道を東口に戻り、富士見中学校脇の緩やかな坂道を進む。新興住宅街の北東端に東に向かう小路があり、その先に狸穴隧道があった。形は今まで見なかった五角形。観音掘りと呼ばれるようだ。隧道を抜けると、のどかな景観の谷戸に出る。

花立隧道
道なりに進み右へと向かう道、というか踏み分け道を進むと竹の株が道を入口に数本立てかかる花立隧道に到る。四角い隧道に入ると、東口辺りには泥水が残る。隧道を東に抜けると谷戸が広がる。隧道辺りに湧水があるのだろうか、隧道東に湿地の帯が住宅地辺りまで続いている。







後呂隧道
隧道を引き返し、押日の集落の中を進み後呂隧道に向かう。丘陵に向かって道なりに進むと住宅の間の細路の先に黄色い標識が見える。先に進むと「落石注意」の標識。右に向かえば猪喰隧道、左は後呂隧道。どちらに進むか、少々迷う。
あれこれチェックしていると、猪喰隧道の近くに両総用水50号隧道の呑口があるという。であれば、ということで猪喰隧道を後回しにし、後呂隧道に。
入口上を竹林で覆われた隧道は結構大きい。今まで辿った押日地区の中で最も大きいように感じる。東口に向かうと少し天井が低くなっているところもあるが、距離も長いし規模感のある隧道である。東口の先は道が続いていた。再び元に戻り猪喰隧道に戻る。

猪喰隧道
黄色い標識のところまで戻り、右手に進み鬱蒼とした森の掘割の先に隧道。この隧道は中でカーブしている。東口と言うか、北口は隧道上に竹林が繁っていた。
出口から丘陵沿いを南北に進む道に出る。出口からこの道に出た少し南に戻ったあたりに両総用水50号隧道の呑口があると言うので、道を戻りあちこち、特に道の東側を注意して探したのだが、残念ながら見つからなかった。後でチェックすると、道に出たすぐ南に民家があったのだが、その南にあった。小さなポンプ施設のような建物の脇に水路隧道があった。場所からいえば両総用水の西部幹線の水路ではあろう。丘陵を多くの隧道などを通り流れてきた用水は、この呑口から谷戸を南に下り、豊田川を越え茂原の五郷へと向かうのだろうか。単なる妄想、根拠なし。



坊谷隧道
東の小林の丘陵と西の押日の丘陵によって形成された長い谷戸の道を、複雑に入り組む押日の舌状丘陵突端部を結ぶ小道を北に進む。途中、「落石注意」の標識のある後呂隧道からの道との合流点を越え、その先のT字路を右に折れる。
道なりに進むと何となく五角形・観音掘りの形をした坊谷(ぼうやつ)隧道が見えてきた。押日地区では最北端の隧道。隧道を通り抜け、藪の深い掘割上の景色を眺めながら谷戸に出る。



細田隧道
谷戸の田圃を眺めながら南に道なりに進むと細田隧道に入る。素掘りが実感できる刻み跡や低い天井。如何にも素掘り隧道が実感できる。少しカーブしている隧道を抜けると掘割の右に八幡神社が見える。

切り通し 
八幡神社にお参りし、鳥居の辺りから下に広がる景観を楽しんでいると、隧道方向へ道跡らしきものがある。少し進むと切り通しへの道跡のようである。荒れて、道を塞ぐ倒木を乗り越え、下をくぐり先に進むと藪が酷い。藪漕ぎで少し進むと、突然道が切れる。その下は隧道の北口であった。この切り通しも、隧道ができる前の丘陵越えの旧道であったのだろう。


船着神社
細田隧道から県道14号、通称茂原街道に出る。何か歴史のある街道かと思ったのだが、どうも県道の愛称と言ったもののようである。結構交通量の多い道筋を豊田川に沿って東へすすむと、道脇に誠にささやかな社。船着神社とある。社名の由来は、その昔、日本武尊が船でこの地に降り立ったことによる、また 今まで歩いてきた押日も、その日本武尊が船を降り立ったときが夕方で、沈みゆく夕日があまりに美しいため、「いとおしい陽(ヒ)」と言ったことによる、と。縄文時代の海進期は、この辺りは海であったようであり、近くに貝塚跡もあるようだ。

長谷隧道

一応今回の目的である押日地区の素掘り隧道を見終え、後は最寄の駅である外房線の茂原駅に向かうだけではあるが、そのルートをチェック。最短コースは茂原街道に沿って進むのがいいのだろうが、交通量が多く少々興ざめ。
あれこれチェックすると、豊田川の南に「長谷隧道」がある。豊田川により開析された豊田川南の丘陵の谷戸繋いでいるのではあろう、ということで、茂原街道を離れ、豊田川に架かる橋を渡り、少し東に戻り長谷隧道へと道を南にとる。
妙照寺を目安に内長谷地区の谷戸の最奥部まで進む。妙照寺もお寺様といった風情の建物ではなく、更に奥に進む道など見当たらない。建物の周囲をあちこち探り、結局は建物にそって外部を回り込むように進むと竹藪の中に道らしき跡。少々不安ではあるが、藪漕ぎをし先に進むと長谷隧道が現れた。人が通った気配のしない、今回の隧道のうちで最高(?)の荒れたアプローチであった。 アプローチの雰囲気では、どんな山奥に連れて行かれるのか、など少々気を揉んだが、寂しげな隧道を抜けると開けた谷戸に出て一安心。

長谷神社
南の丘陵との間に挟まれた長谷の谷戸を進むと、丘陵東北端辺りに長谷神社。長い参道の途中に明神鳥居が見え、拝殿はその先の石段を登った先に見える。 日暮も近く、道脇からお参り。旧村社で祭神は天照大神。

長谷神社脇から、どのルートをとるか、またまた考える。大人しく真っ直ぐ進むか、それとも少し遠回りにはなるが、鷲神社、鷲山寺、藻原寺といった何となく有難そうな神社仏閣のある丘陵南を通るか、ということだが、結局は遠回りの社寺巡りルートとした。

鷲神社
長谷神社から西の丘陵と、麓に社寺の揃う東の丘陵の間を抜けると、東の丘陵の南西端に鷲神社。境内の中ほどにある明神鳥居の先に石段が見え、社殿はその上。社に由来など特にないのだが、鷲神社と言えば、なんらか酉の市に纏わる因縁など無いものかとチェックすると、ここでも酉の市に纏わる話が登場してきた。

Wikipediaや浅草の酉の市の寺として名高い長国寺の縁起によると、文永2年(1265)11月の酉の日、日蓮宗の宗祖・日蓮上人が、上総国鷲巣(現・千葉県茂原市)の小早川家(現・大本山鷲山寺)に滞在の折、国家平穏を祈ったところ、金星が明るく輝きだし、鷲妙見大菩薩が現れ出た。これにちなみ、浅草の長国寺では、創建以来、11月の酉の日に鷲山寺から鷲妙見大菩薩の出開帳が行われた。その後明和8年(1771年)長国寺に鷲妙見大菩薩が勧請され、11月の酉の日に開帳されるようになった、とある。
この鷲山寺って、鷲神社のすぐ隣のお寺さま。往昔、神仏混淆の折は鷲山寺は鷲神社の別当寺として神仏一体のもの。浅草の酉の市として名高い鷲神社も明治の神仏分離令によって長国寺からわかれたものであるわけで、であるとすれば、浅草鷲神社の大元はこの鷲神社との類推もできるのだが、はてさて。
とはいうものの、酉の市についてはそのはじまりについて諸説あり、はっきりしない。大きく分けて、この鷲山寺とか長国寺の縁起のように仏教サイドからの因縁話と、神道サイドからの因縁話がある。散歩の折々訪れた久喜市鷲宮の鷲宮神社、都内足立区花畑の大鷲神社などでは、東征の折の日本武尊との関係で酉の市が語られていた。

鷲山寺
鷲神社から東に200mほど進んだところに長国山鷲山寺。堂々とした仁王門が印象的。本堂の甍も美しい。仁王門を入ると「法華宗(本門流)大本山鷲山寺(じゅせんじ)由来」の案内。まとめると「日蓮大聖人は、小松原法難(1264:鴨川にて日蓮が襲撃された事件)の後、鷲巣の領主、小早川内記(こばやかわないき)の招きに応じ、当地にて一夏九旬の修行。その後、日蓮上人の命により、日弁上人は小早川氏の寄進を得て建治3年(1277)鷲巣に鷲山寺を建立した。江戸の頃には、徳川三代将軍家光公より寺社領を拝受・十万石大名待遇を受け、七堂伽藍を備え「関東法華の棟梁」と称され、隆盛を誇った。また、第二十七世日誠上人は、正親町三条大納言の養子となり十六弁菊花五條袈裟を下賜され、更に有栖川宮家の祈願所となった、と。
鷲山寺は「霊験あらたかな御祖師様」として人々の進行を集め、信仰による病気平癒の寺として難病に苦しむ人々が多数祈願に訪れ、開山日弁上人の「開山忌」は鷲巣の「ケエサンキ」とよばれ、大勢の人が集い、当地では最も人の多い行事として名をはせた。
元禄16年(1703)、関東一円に発生した「元禄大地震」は大きな被害をもたらし、上総地方では九十九里を中心として溺死者が2154人を数え、死者を弔うために、多くの供養塔が各地に建てられたが、当境内に祀られている「津波供養塔」は、茂原市指定文化財となっている」、とあった。

境内を本堂へと歩いていると、ちょっと古錆びた案内板に鷲山寺の歴史の解説があった。上で述べた由来は省き、それ以外を補足すると、「日蓮上人が長南町の笠森観音で小早川内記を教化したこと。七堂伽藍を備えていたが、天文四年(1535)、宝永二年(1705)、文久二年(1862)、昭和29年と4度の火災に遭い諸堂を消滅。昭和35年仮本堂、昭和50年開山堂庫裏を改修、昭和51年当山開創700年慶讃法要を厳修、昭和56年に信徒会館を建設し諸堂を結ぶ回廊の設置、昭和59年仁王門、水行場の修復、昭和63年に宝物堂の落慶。300余年の間長生村一松本興寺に預け置いた宝物を遷座入堂した。今大本堂の建設にむけて努力精進の日々」といったことが手書きで書かれていた。広い境内の割にゆったりしている空間は、諸堂が焼け落ち、現在復興中のといったことだろか。

仁王門の先にある石段を登るが、特に堂宇といったものは見当たらず、石段を下り、右手にある仮本堂に。仮本堂の前に先ほどの案内にあった「元禄津波供養塔」がある。;元禄16年(1703)、安房の南海海底を震源地とする大地震が起こり、翌未明に大津波が来襲した。この地震と津波は、千葉県内各地に大被害を及ぼした。特に津波による被害者は、夷隅・長生、山武の海岸一帯で数千人と言われている。鷲山寺は九十九里浜一帯に多くの信徒を持つゆえか、元禄津波の供養塔が参道入口に建立された(交通事情により本堂前に移されている)。茂原市、長生郡内に津波碑や供養塔は十数基あるが、碑文の内容、碑の大きさに最もすぐれているのがこの碑である、とあった。
この地震は推定マグニチュード8・2。津波の高さは、千倉で5m、御宿で8m、九十九里浜で4m、白浜の野島崎周辺では6mもの土地が隆起し、それまで島であった部分が陸と繋がったと言う。

藻原寺
鷲山寺を離れ東へと向かうとコンクリート多宝塔の戒壇塚(山門)が藻原寺ユニークな藻原寺が続く。こちらは日蓮宗の本山とのこと。先ほどの鷲山寺は法華宗本門流。法華宗には天台宗から、日蓮を開祖とするこの日蓮宗など30近い宗派・門流があるようだ。何故に、それほど分かれるのだろうとチェックしようと思ったのだが、真言宗でも20近くあると言うので、この件は思考停止とした。
縁起によれば:鎌倉時代中期建長五年(1253)四月二十八日、日蓮上人が清澄山山頂にて、初めて『南無妙法蓮華経』と唱えられた後、法難のため清澄山を追われ、「笠森」の観音堂に難を逃れた。そのとき、藻原の豪族として威勢を誇っていた斉藤兼綱公とその一族の須田時忠公が教化を受け、初の門下生となり、建治2年(1276)、邸内に一小堂(「榎本庵」)を建立した。これが藻原寺の起こり、とか。この縁起は鷲山寺の縁起とよく似ている。
応長2年(1312)日蓮上人より「常楽山 妙光寺」と命名され、日蓮大聖人の直弟子である日向聖人が藻原と身延の両山を兼任された縁により、「東身延」と略称される。藻原寺と称されたのは明治元年(1868)のことである。また、斉藤兼綱公とその一族の須田時忠公が日蓮上人と共にお題目を唱えた事から、『日蓮門下お題目初唱の霊場』と称されている。
因みに。茂原の地名の由来としてこの藻原寺が登場するが、このお寺さまが藻原寺となったのが明治とすれば、ちょっと違和感。茂原の地名は平安時代に藤原黒麻呂によって拓かれた荘園(藻原荘)に由来されるとされ、文字通り湿地が多く「藻原」であったため。現在の「茂原」に文字が変わったのは江戸時代であり、このお寺さまの命名以前より「藻(茂)原」が使われているようである。

外房線・茂原駅
藻原寺を離れ、道なりに進み、国道128号を越え、鷲山寺と藻原寺の門前町、さらには古くからの房総往還の交通の要衝として、所々に古き趣の残る民家を眺めながら外房線・茂原駅に。たまたま来合わせた「特急しおさい」が新宿まで行く、というのでちょっと贅沢し特急に乗り1時間強で新宿に到着。京王線、井の頭線を乗り継ぎ一路家路へと。

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