相模原台地散歩 そのⅢ;田名原段丘面と陽原段丘面を画する段丘崖を辿る(弐)

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思わぬ「やつぼ」での怪我で途中退場となった先回の「田名原段丘面と陽原段丘面を画する段丘崖を辿る散歩」のリターンマッチ。歩き残した田名塩田の塩田さくら橋から、更に南に下る段丘崖線に沿って八瀬川を辿ること、そして相模川の氾濫原跡であろう水郷田名を歩くのが今回の主眼である。 ルートを想うに、先回の散歩では大島地区から田名地区へと「田名原段丘面と陽原段丘面を画する段丘崖」に沿って走る(ように思える)県道48号を辿ったわけだが、今回は大島地区から相模川の崖線に沿って下り、水郷田名を経て、先回の最終地である「塩田さくら橋」に向かい、そこから段丘崖線下に沿って八瀬川を下ることにする。



本日のルート;橋本駅>大島地区>田名地区>山王坂>滝の渡し跡>小沢頭首工>水郷田名>烏山用水>田名八幡宮>(久所地区)>高田橋>相模原幹線水路(大堀)>坂の窟>ひの坂>望地隧道>弁天どぶ>万平穴>望地弁財天>清水下頭首工完成記念碑>南光寺>道祖神>陽原バス停>望地>徳本念仏碑>塩田さくら橋>天満宮>八瀬川>上溝バイパス>土地改良記念碑>無量光寺>相模線・原当麻駅

橋本駅
京王線で橋本駅に向かい、南口バス停で「上大島行き」のバスに乗る。上大島のバス停から大島地区の最南端、田名地区との境の「古清水」までは結構距離があるのだが、先回の散歩で撮った写真がピンぼけが多く、「やつぼ」の写真を撮りながら「古清水上組のやつぼ」まで進む。
先回は、この「古清水上組のやつぼ」から相模川の崖線を離れ、陽原段丘面を通る県道48号を下ったのだが、今回は相模川の崖線から離れず先へと進む。

山王坂
相模原市中央区大島の最南端「古清水」地区から中央区田名に入り、田名の最北端「清水」地区の相模川の崖線上を1.5キロほど下り、中央区水郷田名の 「滝」地区に入った辺りの道脇に「三王坂」の案内。「昔、この付近に山王社があったので、この名がある」と。宋祐寺の裏手辺りの小高い丘にあったようだ。
坂の頂上辺りには高差65cmほどの「徳本碑」があったようだが、何故か見逃した。相模原市の登録有形文化財に指定されている、と。で、この山王坂の徳本碑の辺り、昔は昼なお暗き、といった場所であったようで狐が多く棲んでおり、「山王坂の狐」といった昔話も残る。
○山王坂の狐
お話は、滝地区に住む農民が徳本碑の辺りで一休みし、思わず居眠り。目が覚めると相模川の中。川を越えようと歩くのだが、実は畑を右往左往しているだけ。狐に化かされてと知った農民は仕返しを。一休みするふりをして、天秤棒で狐を打擲。以降、悪戯する狐はいなくなった、と。なんとも、解釈困難なお話ではある。

滝の渡し跡
山王坂から坂をグンと下ると「滝の渡し跡」の碑。「ここには対岸の葉山島の下河原を結ぶ渡し場がありました。そのため「下河原の渡し」とも呼ばれていました」とある。
山王坂が標高83mであり、「滝の渡し跡」の標高は56m。30m弱の比高差である。崖線が弧を描くように南東に続いている。「タキ」には「断崖」を意味することもあり、この30mもの断崖・崖線に囲まれた「滝」地区の地名は言い得て妙である。弧を描く断崖・崖線に囲まれた平坦地はその昔は相模川の氾濫原ではあったのだろう。

小沢頭首工
相模川の堤を下っていると、相模川対岸に水路施設が目に止まった。その時は、とりあえず写真を撮っておこう、といった案配ではあったが、メモする段でチェックすると、相模川右岸の愛川町小沢・六倉、厚木市山際、中依知、関口へ送られる農業用水の施設であった。
写真を拡大すると、取水堰、取水用水門、崖にはブルーの階段があり、中腹には操作室らしき建物もある。こういった農業用水を用水路に引き入れる施設を総称し「頭首工」と呼ぶが、この施設は「小沢頭首工」と呼ばれている。
小沢頭首工を起点とする用水路は小沢頭首工幹線水路と呼ばれ、取水用水門で取水された水は、水門の背後にある水路隧道(小沢隧道)を抜け、相模川右岸沿いに厚木市中依知まで下る、延長約10kmの用排水路である。
で、何故に「頭首工」と称するか、ということであるが、用水路の「頭首」に設置されるから、とのこと。「工」は施設のこと。昨年愛媛の銅山川疏水を辿ったとき、「分水口」と「分水工」の違いを疏水担当者からお教えていただいた。ともあれ、とりあえず気になったものは写真に撮っておくものである。

水郷田名
堤を離れ水郷田名の街並みへと向かう。かつては相模川の氾濫原、そして後に一面の水田が拡がっていたであろう「水郷田名」も現在は住宅で埋め尽くされている。
氾濫原>水田>水郷田名、と連想は美しいのだが、「水郷田名」という名が正式な地区名となったのは、そんなに昔のことではない。古くは「鮎川」と呼ばれたとも伝わる相模川はアユ漁が盛んであり、風光明媚な景観と相まって、大正期以降、この地は東京や横浜から簡便に遊びに行ける行楽地として、「水郷田名」の名で知られるようになった。昭和10年(1935)には『鮎の水郷田名』として、横浜貿易新報社(現神奈川新聞)による、県下45佳選に選ばれてもいる。そんな通称「水郷田名」が正式な名称となったのは平成17年(2005)のこと。相模原市中央区水郷田名となった。
○久所
それ以前のこの地の地名は「久所(ぐぞ)」である。平成17年(2005)の住所表示の変更以前は相模原市田名の「字」として、「滝」「久所」、「久所河原」があった。その「久所」は「公文所」からとの説がある。公文所は後に「政所」となり大江広元が権勢を振るった鎌倉幕府の行政機関として知られるが、平安中期には既に朝廷、有力寺社の家政治機関として国衙の租税・権勢家所領の年貢を取り扱う機関として公文所は各地の国衙や荘園に置かれていたというから、その歴史は古そうである。
で、いつの頃か、この公文所から、「文」を省略して「公所」と呼ばれるようになった、とか。その「公所」が「久所」となったのは、この地が大山街道の宿場として栄え、渡し場もあったわけだが、洪水・大雨の度に旅人は足止めをくらい、「久しく宿に留まる」ことも多かったため、公>久に転化した、とのこと。ちょっと出来すぎの話のようではあるが、ここではそういうことにしておこう。

烏山用水
堤を離れ田名水郷の宅地の中に向かう。地図に田名八幡が見えたので、そこにお参りでもと歩を進めると水路に出合った。石碑に「烏山用水」と刻まれていた。「烏山」の名前の由来は下野国那須郡烏山に城を構えた烏山藩から。その烏山藩は大久保氏が藩主となった江戸期の享保13年(1728)年間以降、相模国の鎌倉郡・高座郡・大住郡・愛甲郡の一部も支配し、愛甲郡厚木町(現神奈川県厚木市)に厚木役所(厚木陣屋)を置き、相模国内支配の拠点とした。江戸時代、高座郡田名村と呼ばれたこの地は隣接の大島村とともに烏山藩の飛び地領であったわけである。

烏山用水は、その烏山藩が幕末の安政5年(1858)、久所河原の水田を拡げるべく相模川から取水した用水路。先ほど歩いた山王坂の下辺りで取水し、相模川の段丘崖を540mに渡って穿ち集落内に出口を設け、ここから南へは掘割を開鑿して導水した。また、高田橋の少し上流の地点からは旧来の堤防につなげて新しい堤防を築いていったという。
烏山藩が用水路を造り水田開発を計った目的は悪化した藩財政立て直しのため、とのこと。凶作による飢饉が発生した天保期に本領の下野領が荒廃し、天保7年(1836)には借財が3万4千両余になるほど藩財政は悪化していた、と言う。この地、田名村の相模川低地一帯の開発は年貢増収による財政再建を企図したものであろう。
しかしながら、この烏山藩の計画は目論見通りにはいかなかったようである。用水路が完成した翌年の万延元年(1860)、洪水によって堤防が決壊し新田は濁流に流失し、用水は破損してしまった。「然ルニ万延元年洪水ノ害ヲ蒙リ平田埋没シ水路杜絶セリ」と文書に残る。決壊したのは新旧堤防のつなぎ目あたりであったという。「全く年貢増徴のみを考えて、新田の開発が広過ぎ、それを守るための堤防が水勢水圧を考慮せず(『相模原市史』)」、ということが堤防決壊の因と断じる。
この「水路杜絶」した烏山用水を蘇らせたのが、地元の篤志家「江成久兵衛」である。久兵衛は28年の年月と私財を投げ打ち築堤事業を進めた。彼の築いた堤防は「久兵衛堤防」と呼ばれたようだが、現存してはいない。 江成久兵衛の努力や、明治、大正と引き続き行われた改修により、烏山用水は「新堀」と呼ばれるようになり、長年に渡り久所や望地の水田を潤してきた。しかし、この用水路も、世の移り代わりにより水田も消え、用水としての使命も薄れ、都市化とともに生活排水により水路も汚れるに任せるようになったが、昭和63年度(1988)から水路と下水の分離工事が行われ、散策路として木道を設置し遊歩道として整備され、現在では往時の清流が蘇えり、「美しい日本のむら景観100選」にも指定されるに到った。
で、水路が何処に流れるのか地図でチェックすると、南に下った水路は県道54号手前に直角に曲がり、相模川の段丘崖に向かって進む。進んだ先で暗渠となり、大堀(後からメモする)手前で下水道に流されているようである。先回の八瀬川散歩の時も、田名郵便局方面の源流域からの水がL字の固定堰から先は下水として処理されていたことを想い起こす。

田名八幡宮
烏山用水を離れ少し東に向かい田名八幡宮に。延暦17年(798)に天地大明神を勧請して祭ったのが始まりという。この天地大明神とは先回の散歩で訪れた「塩田天地神社」ではあろう。田名八幡宮の神事である「的祭」は塩田天地社での儀式の後、田名八幡で奉納される、とか。別当寺は共に明覚寺でもあり、大杉池辺りであったようだが現在は廃寺となっている。
建久2年(1191)に「田名八幡宮」と号したこの社は、仁和元年(885)に暴風により社殿を破損、天暦2年(948)には相模川の洪水で流出、嘉禄2年(1626)には火災、貞享4年(1687)には隣村の火災で類焼するなどの被害に遭い、現在の本殿は元禄2年(1689)に再建されたものである。
○的祭
現在では家内安全などで地元の信仰を集める田名八幡宮であるが、そもそもは弓矢の神、すなわち武門の神で、それを物語るのが上にメモした「的祭(まとまち)」の神事である。境内にあった案内によると、「毎年1月6日に行われる。先ず社殿背後の天地大明神に参拝跡、境内で総丈5尺5分5寸の大的を桃の木の弓(現在は榎)で射、その年の豊凶を占う歩射の神事。
射手4名は氏子の家で両親が健在の満2才から5才までの長子で、前年不幸の無かった家に限られている。
その起源は源頼朝の時代、宝塔建立の際ともいわれて、はっきりしないが、古くからそのまま伝承されている古式ゆかしい貴重な民俗行事である(昭和36年指定 相模原市)」、とあった。
○記念石碑
相模原の保存樹木として指定されている、イチョウ、ケヤキ、エノキの残る境内には いくつかの記念石碑が建つ。そのひとつが明治・大正期の用水改修工事竣工を記念して建てられた「疏水工事記念碑」。裏面には、「高座郡田名村疎水工事ノ沿革ヲ按ズルニ安政五年領主烏山ノ城主大久保佐渡守殿相模川字山王崖ヨリ隧道三百間ヲ鑿チ水ヲ引キ以テ新田ヲ開キ耕サシメタリ」といった碑文が続く。
また、「田名八幡社殿落慶祈念碑」には「田名村は昭和16年の近隣9町村の合併により相模原町田名として新生し、これを期に古くからの田名村の村有地であった三栗山を共有財産として残すため村社田名八幡に無償贈与を決議した、 田名八幡宮の旧社殿は明治期の築造で、風格ある建物であったが老朽化が激しく、近年、新神殿造営の機運が募った。折しも、国土交通省計画の「さがみ縦貫道路」建設に三栗山の一部が国道用地として買収され、その補償金の支払いがおこなわれるに及び、新神殿造営計画が一挙に具体化した。補償金の2億5千万と篤志家の寄進により、2年1カ月という短期間で御神殿、社務所、宮司社宅の建設および境内の整備が行われた「平成の大造営」。平成21年」とあった。社殿が新しい理由がこれで納得。
なお、境内の隅には雨乞いに使われたという「ばんばあ石」とか「じんじい石」があったようだが見逃した。「ばんばあ石」を相模川の淵に沈めると不思議に雨が降るのはいいのだが、洪水となって被害がでる。残された「じんじい石」の怒りの故だろうと、「ばんばあ石」を川に沈めた後に代理の石を置くと、あら不思議、洪水はなくなった、とか。雨が降ると「ばんばあ石」はまた川から出されて境内に安置されたという、この雨乞いの行事は江戸中期から大正末期頃まで行われていた、とのことである。

高田橋

田名八幡を離れ県道63号を相模川まで進み高田橋に。対岸の中津台地に先般歩いた中津段丘面を想いやる。高田橋ができるまでは、この地には「久所の渡し」があった。相模川沿いの自然堤防上にある久所地区は、戦国時代には小田原北条氏が北関東と小田原を結ぶ街道として、また江戸時代には同じ道を利用した大山道(八王子通り)が相模川を渡る地点に成立した渡河集落とし賑わったようである。


水郷田名
高田橋を折り返し県道63号を相模川が陽原段丘面を削った段丘崖に向かう。県道を上る車道に沿って歩行者専用道があり、そこからの田名水郷を眺める。崖線と相模川に囲まれた、いかにも相模川の氾濫原の水田跡に出来た町並みであることが実感できる。

相模原幹線水路(大堀)
崖線下に水路が流れる。北から県道下をくぐり、崖線下に沿って続くこの水路は相模原幹線用水、通称「大堀」と称される。先ほどメモした山王坂辺りの旧烏山用水取水口の上流800m、田名清水にある「清水下頭首工」で相模川から取水し、隧道を通り旧烏山取水口まで下り、そこで二つの流れに分岐し、一方は隧道を抜け烏山用水(新堀)として、もう一方は滝隧道を抜け「相模川ふれあい科学館」の北で開渠となってこの地に下る。旧烏山用水の取水口は現在、排水兼流量調整用水門の機能を備えた分水施設となっているようである。

ひの坂の窟
大堀に沿って県道63号から少し下ると、段丘崖を上る坂があり、坂の上り口の石窟があり、その中に石仏が祀られている。メモをする段になって写真を拡大すると脇にお狸さまらしき像もある。なんとなく気になりチェックすると、「おたぬきさま・狸菩薩」とのこと。
この坂は「ひの坂=火の坂」と呼ばれる。その昔、といっても明治の頃のようなのだが、坂上に住む婆さまがいたが、狸が人に化けて火にあたりに来たそうな。そのうち、狸は相手は婆さまだと侮り、化けることもなく火にあたるようになった。そんな狸の態度に怒ったの婆さまは、大きなフグリをひろげたまま火にあてている狸に火を浴びせかけた。現在はつづら折れの坂道であるが、当時は一直線。狸は火だるまになって坂を転げ落ちて死んだ、という。火の坂の名前の由来である。
が、これが祟ったのか、大正になって、坂下の人が病に伏せる。行者に見てもらうとこの狸が乗り移って話はじめ、火だるまで死んだ恨みで祟っているのだ、と。そこで、この狸の霊を祀ることにしたのだとのことである。 これまた、何気なく撮った写真も、ちょっと深堀すれば、あれこれ出てくるものである。因みに、坂を上下したのだが、崖から湧水が流れだし、「火の坂」ならぬ、「水の坂」の様相ではあった。

望地隧道

大堀に沿って崖下の道を南に進む。しばらく進むと車止めがあり、その先は草むした簡易舗装の道となる。この車止めまでに2カ所ほど下水のマンホールがあった。そのどちらかが烏山用水(新堀)が「雨水下水」として終末処理場に流れるポイントではあろうが、開渠水路は見あたらず、どちらが新堀(烏山用水)の末流か判別できなかった。
車止め柵のある地点から少しすすむと水路施設がある。銘に「望地隧道」とある。隧道横には水門があるが、これは農閑期などに余水を相模川に流すものだろう。
望地隧道は長さ333.4m。もともとは素堀りの隧道であったようだが、維持管理が大変だったようで、昭和54年(1979)より隧道内面をコンクリートで補強したようである。

弁天どぶ
崖下の道を大堀の「余水吐け」の水路に沿って進むと、相模川から入り込んだ一帯 が「淵」のようになっている。小径脇に「弁天どぶ」の案内。「昔は流れの澱みや淵のようなところを「どぶ」と呼んだ」とあった。

万平穴
小径が突き出した崖を廻り込んだあたりに「万平穴」の案内。案内によれば、安政年間(1854~1859年)に中島万平が掘った隧道とのこと。折りからの飢饉に際し、相模川の水を取水し、この辺りを水田として開いたが、現在はその役割を終えている。
とはいうものの、「万平穴」がどれかよくわからない。崖面前に記念碑は建ち、その横に岩の割れ目といった「穴」があるのだが、それが「万平穴」であろう、か。それはともあれ、この辺りより南に拡がる水田は、昭和29年(1954)に現在の形に整備され相模原有数の水田地帯として残るが、この「望地水田」のはじまりは、万平穴であり、中島万平とされる。

望地弁財天
小径を進み、望地キャンプ場の事務所手前で崖を抜けた大堀に、水路施設が設けられ、幹線と支線に分ける水門があった。その先に、崖面に抱かれるような社が建つ。望地弁才天である。
案内によれば、この弁天さまは、もともとは江島神社に安置してあったものであるが、それを田名の南光寺の住職であった森恵力が養蚕鎮守として希地河原の一画に「望島殿(ぼうとうでん)」を設けて迎えたもの、と。明治の神仏分離の際、江島神社の弁財天は近隣の寺に移されて廃仏毀釈の難を免れたらしいのだが、その時の一体であるのだろう。

この相模川の中州にあった「望島殿(ぼうとうでん)」は、明治40年(1907)の洪水によって社殿は流失するも、坐像だけが難を免れ、南光寺に保管された。その後昭和29年(1954)に望地水田を整備した際に社殿を再建、遷座した、とのこと。この弁財天坐像は高さ45センチほどの寄木造り。詳細は不明であるものの江戸時代に造られたものと伝わり、昭和62年(1987)に相模原市の重要文化財に指定されている。

清水下頭首工完成記念碑
望地弁天の前に幾つかの石の記念碑が建つ。「望地河原開田記念碑」「清水滝・望地・向原上当麻隧道 農業用施設防災対策事業 完成記念碑」といった記念碑とともに「清水下頭首工完成記念碑」が。この記念碑は、相模原用水組合連合会が昭和44年(1969)に建立したもの。
烏山用水と大堀の取水口である「清水下頭首工」の記念碑が何故取水口から遠く離れたこの地に?碑文には「清水下頭首工は、もと明治44年烏山用水路延長工事の際、取水口として設置された。旧烏山用水は藩侯の命により農民粒粒辛苦の結果、久所耕地を潤すにいたった歴史的なものであった。星移り昭和22年「相模川沿岸当麻望地農地開発事業」の実施に伴い両耕地を加えて受益面積83ha余に達した。当初、望地は宗祐寺下、当麻は弁天下と別れ取水していたが、相模川の河床低下、耕地保水力の減少、相つぐ水害に農民の心労その極に達し相寄り相集い、昭和35年3月「相模原用水組合連合会」を結成し、地域内用排水路の整備、取水堰の統合を図り、現地点に水門を設けた。昭和40年9月、台風24号の被害は激甚をきわめ永年の労苦は徒労に帰するかに思われたが関係機関の配慮により、5600万円あまりの巨費をもって昭和42年3月完成したものである。
ここに沿革を記し幾多先人の功を称え関係者一同永くその喜びを共にせんとするものである」とある。清水下頭首工で取水された水が、この望地水田、当麻水田を潤す源であった故のことであろう。

○大堀の流路
望地弁天から先の大堀の流路は、相模川の段丘崖斜面林の下に沿って望地水田を下り、田名地区から田名塩田地区に入り、上当麻隧道を抜けて当麻地区で開渠として姿を現す。そして、県道52号線、508号線が交差する下当麻交差点信号付近を経て八瀬川に注ぐ。遠く田名清水の頭首工で取水した用水は、地域を潤し、八瀬川を経て再び相模川へ戻るということである。

南光寺
望地弁天から相模川の段丘崖の坂を上る。成りゆきで進むと南光寺の前に出た。結構大きなお寺さまではあるが、塀がない広場といった寺域に堂宇が建つ。塀もないので、成り行きで本堂裏手から境内に。
本堂は最近再建されたものであろうか新しい。境内に「三栗山造林成功碑」といった石碑が無造作に置かれていた。田名八幡の記念碑文にもあったように、田名八幡の新築は三栗山を相模縦貫道用地として売却したお金を充てた、とか。このお寺さまも同じストーリーであろうか。単なる妄想。根拠なし。


このお寺様は南北朝時代に創建されたとする古刹。江戸時代には、将軍家光から8石1斗の領地を安堵されている。本堂にお参りし、趣のある長屋門風の山門を潜り参道を逆に入口に向かう。建築作業員風の人も多く見かける。お寺様全体の造築をおこなっているのだろうか。参道には秋葉灯籠や徳本念仏塔、出羽三山供養塔、大山道の道標、地蔵様、二十三夜塔、念仏供養塔などの石仏が並ぶ、というか工事の邪魔にならないように足早に参道を抜けたため、すべて見逃した。

道祖神
南光寺を離れ県道48に出る。と、道脇に庚申塔や自然石が祭られている。自然石は「立石」さまのようである。で、その立石さまの傍に溶岩の丸石が横たわる。溶岩でできた道祖神とのこと。「陰石」状を示しており往昔は「陽石」と一対であったのか、とも。先回の散歩で大杉池脇の弁天社に祀られていた「陰・陽」一対の道祖神を想い起こす。

陽原バス停
県道を少し北に戻り、「陽原バス停」に。特に理由はないのだが、今回は「陽原段丘面」散歩であるわけで、それならば「陽原」という地名が残る場所に足を向けるべし、といった想い。
陽原バス停まで戻り、なんということのない県道や周囲の家並みを確認し、折り返し県道を南に望地地区へと下る。

徳本念仏碑
南光寺前、望地キャンプ場入口といったバス停を見遣り、弁天入口バス停に。 そのすぐ先、国道から分岐する道の入口に石碑がある。石碑に刻まれた書体は、幾つか出合った「徳本念仏塔」と同じ。「南無阿弥陀仏」の六字の名号の下に「徳本」と「○に十字」のマークが刻まれる。
とはいうものの、この四角い石柱は何となく新しそう。石碑の裏を見ると「文政五年 陽原望地講中建立 交通安全発願 南光?? 昭和四十七年再建」とあった。南光の後は読めなかったが、南光寺に関わるものだとは思える。文政5年(1822)に建てられた徳本念仏塔を昭和47年(1972)になって造り直したものだろう。相模にある13箇所の徳本念仏塔のリストには挙げられていないので、レプリカとしての価値といった石碑ではあろう。



○陽原と望地
既にメモしたが、「陽原」の「みなばら」とは、平坦な台地の意味であり、昔は皆原とか南原と記された。それが「陽原」となったのは南光寺の山号である「陽原山」に由来する。また、「望地」も昔は「毛地」と記され、農作物が畑に立ち実っている姿を意味する「立毛」を上から眺めるといった意味からの命名、とも(「田名の歴史)より)。相模川の氾濫原に実る作物を崖線上から望め得る地、ということだろうか。

塩田さくら橋
徳本念仏塔の石碑から県道48号を離れ、陽原段丘面を八瀬川へと向かう。県道を離れてしばらく歩くと宅地もほどほどになり、左手に田名原段丘面と陽原段丘面を画する段丘崖の斜面林が見えてくる。
斜面林を目安に先に進むと「田名地区」から「田名塩田地区」に入る。「田名」はどこかでメモしたように「棚」から。相模川の対岸の中津川から眺めると相模川の氾濫原から、その崖線上の陽原段丘面に跨る田名の集落は数段の「棚」のように見えたのだろうか。また、塩田は塩の集散地から、との説もある。 田名塩田地区を進むとほどなく「塩田さくら橋」。ここでやっと先回の散歩の終点地に辿りついた。

天満宮
左手に斜面林を眺めながら塩田の地を八瀬川に沿って進む。しばらく歩み国道129号・上溝バイパス下を潜ると「田名塩田」から「当麻」に入る。「当麻」の東端は「市場地区」。地名の由来は、後述する無量光寺の門前町であり、「市」が立ったからとのこと。
道なりに進むとほどなく「天満宮」。当麻の鎮守である。境内の案内には「祭神 菅原道真公 新編相模風土記によれば、延久五年(1073)に妙音が建てたもの。妙音は近江国三井寺の座主であったが世を逃れて当地に来たり天神を勧請し山王権現社一宇を建立した。御神体は菅原道真公の木坐像、本地十一面観音の立像、湛慶作、古は大日堂にあったものと言われている。
別当は天満山明達院、梅松寺と言い、他の一院は明王院明行寺で明達院13世のとき分かれて二院となった。両院とも不動明王を本尊としている。
元文の頃(1736-1741)、牛頭天王を相殿に祀った。道真公は太政大臣を追贈され学問の神として尊崇されている」とある。
延久五年は西暦1073年。同じ天台宗でありながら、三井寺(寺門)と叡山(山門)は抗争関係にあったようだ。武蔵坊弁慶が三井寺に暴れ込み三井寺の鐘を引きずって 山に戻ったといった話も残る頃である。そんな抗争に嫌気をさしてこの地に逃れたのであろうか。それはそれとして分からないこともないのだが、天台との関係で山王権現はわかるにしても、何故天神を勧請したのかよくわからない。
天満宮の創建縁起には別の節もあるようだ。それには、元三井寺の学僧であった愛甲郡田代の僧が念仏行者となり信州の善光寺に。そこで、如来が夢に現れ「河内国の土師(はじ)寺は菅原道真公の氏寺であり、そこに一株のもくげん樹の木がある。その実を採って来て数珠を作り、念仏を百万遍称えれば必ず往生できると」と。土師寺へ行き、もくげん樹の実を拾うと、天神さまのお告げ。「このもくげん樹の木は地中に埋め置いた写経から生じたものだ。故郷の念仏道場に種子を蒔けば私と縁をむすぶことができる」とのこと。僧は早速故郷に戻り、念仏堂のある当麻山に。この当麻山で一遍上人の意をくみ堂宇を建てた真教にこの種子を献上。真教は境内の西北隅にこの種子を蒔き、一社を建立した。それが市場の天神様であるという」といったもの。
どちらが正しいのか門外漢にはわかるはずもないのだが、どちらもそれなりに面白い話となっている。

八瀬川
天満宮から緑の中を進むと県道509号に合流。少し南に下ると再び八瀬川に出合う。結構日も暮れてきた。本日はこの辺りを終点へと、駅を探すと最寄駅は相模線・原当麻駅。途中に無量光寺があるので、そのお寺さまにお参りし本日の仕上げとすべく左に折れ、県道52号へと向かう。田名原段丘面と陽原段丘面を画する段丘崖線の斜面林は更に南へと続いている。これは、もう一度訪れ、この段丘崖が「埋没」する地点まで辿るしかないだろう。

土地改良記念碑
県道509号を折れ県道52号に向かう途中、八瀬川に亀形橋がかかる。八瀬川が県道52号を潜った先に石碑石塔が見える。石碑は昭和39年(1964)に当麻土地改良区が建立した当麻地区農地区画整理完成記念碑であった。それはいいのだが、メモする段になって、この石碑の前を望弁天で見た相模幹線水路こと、大堀が暗渠で通っていた。今回は何気なく撮った写真がフックであれこれの発見があった。
○相模幹線水路の流路
望地弁天を下った大堀は、望地水田を下り当麻隧道を圏央道手前で抜け、相模原愛川ICの北を開渠で通り、神奈川県内広域水道企業団相模原水路橋の下を抜け、その先の国道129号を潜り、県道508号と県道52号がクロスする下当麻交差点の北を通り亀形(きぎょう)橋に。ここで余水を八瀬川に流し、本流は県道52号を潜り、この石碑のある辺りへと流れてくる。
ここから先は地図でチェックすると、水路は八瀬川を離れ、当麻の水田方面へと南に向かい、途中で流路を南東へと変え、水田を潤しながら流れ相模線・下、溝駅の北方で再び八瀬川に注いでいるようである。清水下頭首工で取水された相模川の水は、おおよそ7キロの旅を終え、八瀬川を経て再び相模川に戻る。

無量光寺
県道52号を東に進む。県道から南に続く段丘崖の斜面林を辿りたい、とは思えども本日は時間切れ。名残り惜しみながら道を進むと無量光寺入口交差点。誠に大きな黒門にかつての寺威を感じる。門辺りにあった案内によると、「この寺は山号を「当麻山(たいまさん)」という。鎌倉時代、時宗の開祖である一遍上人は、「亀形峰(きぎょうほう)」と呼ばれるこの丘の上に「金光院(こんこういん)」ちいう庵を結び、修行に励んだといわれる。
その後、嘉元元年(1303)に弟子の真教により、無量光寺が開かれた。しかし、明治26年(1893)の大火により、二脚門を除く大半の建物を焼失し、現在は仮本堂となっている。なお、当寺にある一遍上人立像と古文書は市の重要文化財に、更に寺の境内は市の史跡に指定されている」とある。
○さかさナギの木・金光院
参道を進むと山門が見えてくる。その山門の右下に常緑樹の背の高い木がそびえている。この大木は「さかさナギの木」と呼ばれ、一遍上人が西国より杖にしてきた一本の椰(なぎ)の木をこの地に刺したところ、根が生え芽を出して育ったと伝わる。この「なぎの大木」のうしろが、一遍上人が庵を結んだ金光院の跡とのこと。
○山門
山門は「当麻山」の扁額を掲げた二脚門。腕木門の親柱の背面に袖をつけ、屋根をかけた高麗門と呼ばれる形式の門とのこと。間口は12尺(約3m60cm)、親柱も1.5尺ほどもある堂々たる山門は市指定有形文化財となっている。 山門をくぐって参道を進むと、右手に芭蕉句碑がある。碑面には「世にさかる 花にも念仏まうしけれ」と刻まれる。
○本堂跡
お石畳を進むと正面に一遍上人の銅像が建つ。明治26年末の大火によって焼失する前、この辺りに本堂が建っていたようである。
○仮本堂
一遍上人銅像の右手後方、旧佛殿跡地に仮本堂が建つ。内部正面には一遍上人が頭部を自作されたと伝えられる立像が安置され、御影の像として信仰を集めている。仮本堂の右後方にある御影の池に、一遍上人が自らの姿を映して木像を刻まれたという。
○鐘楼・熊野権現
境内右手に鐘楼。鐘銘には開祖一遍上人の名と共に、「南無阿弥陀仏」の名号が刻まれる。鐘楼の横に2社がまつられり。1社は一遍上人ゆかりの熊野権現。本地は阿彌陀如来。村人たちから「オクマンサマ」と呼ばれていた、と。
○東権現
その右隣の祠は東権現。明治以前は寺の東方当麻坂の中腹、東澤寺にて各夜姫を養蚕の守り神として祀られていたが、東澤寺が廃寺とななったため、ここに合祀された。
○二基の五輪塔・徳本念仏塔
本堂左後方に進むと、二基の五輪塔。南北朝の頃、徳川家康の先祖である世良田左京亮有親、松平太郎左衛門尉親氏父子が、応安元年(1368)南朝方として挙兵した新田義宗に与力し戦うも利あらず、父子共々戦乱を逃れてこの寺に入る。そして、そのまま親子共々出家し、その髪をこの塚に埋めた。ために村人は「お髪塚(おはつづか)」と呼ぶようになった、と。その後、親子は有親は長阿彌、親氏は修行に勤め,父はこの寺で亡くななる。五輪の塔はそれを建立し供養したもの。息子はは西下し三河の地において松平家を起こし徳川家へと繋がったとのことである。また、徳本念仏塔も境内にあった。


無量光寺のHPの案内などをもとに、一遍上人やこのお寺さまの成り立ちについてメモする。

○一遍上人
この当麻山を開山し、時宗の開祖である一遍上人は、法然上人、親鸞聖人と並び日本の浄土教を確立されたとされる僧。延応元年(1239)、伊予の名門河野家通廣公の次男として生まれ、7歳にして仏門修行にはげみ、15歳で出家し台教(天台宗の教え)を学ぶ。18歳のとき、比叡山(延暦寺)に登り学ぶも、22歳で叡山を出、修行の旅に出る。26歳のとき、浄土門に帰し、法然上人の弟子の高僧のもと7年間修行し名を智真と改める。
建治元年(1275)、37歳のとき宇佐八幡宮にて霊夢を感じ、回国結願の大願を起こし、南無阿弥陀佛の名号の算(ふだ)を作り人々に配り諸国を遊行するになる。
建治2年(1276)、当時、もっとも阿弥陀の浄土に近い場所とされていた紀伊国熊野本宮の證誠殿において百日参籠につとめ、その満願の日、熊野権現にまみえ、この時より一遍と名乗り、《賦算(名号のお札をくばる)を続ける旅に出る。この相模の地に最初に訪れたのはこの時期であろう。
踊り念佛を始めたのは、弘安2年(1279)のこと。41歳の時、信州佐久郡ではじめた、と。空也上人に倣ったものと言われる。その後、正応2年(1289)、摂津国(兵庫)の観音堂で51年の生涯を終える。
南は九州から北は奥羽にいたるまでくまなく遊行したこの一遍上人がこの地に訪れたのは弘長元年(1261)秋。一遍上人(当時23歳)は諸国遊行の旅の途中、依知の里の薬師堂(現在の瑠璃光寺〈神奈川県厚木市上依知 当寺から相模川をはさんで西南方面にある〉)に留まり、念佛三昧。と真夜中に妙見菩薩が姿を現され、「対岸の亀形山は宿縁の山。この山で修行すれば念佛の功徳は四海に及ぶであろう」とのお告げ。
上人は相模川を渡り、亀形の丘に登ると、そこに妙見菩薩の小さな祠を見つける。上人はここに草庵(粗末な住まい)を結び金光院と名付け、修行に励まれまれるも、弘長3年(1263)、故郷の伊予(現在の愛媛県)に向け旅立たれる。その後、文永7年(1270)上人が32歳の時、また弘安4年(1281)43歳の時に、奥州遊行の帰路、当山にとどまり修行し、弘安5年(1282)の3月、上人は鎌倉方面に向け遊行の旅に発つ。
鎌倉入りは拒絶され、京の都、浪速、安芸と遊行の旅を続けることになるが、この別れのとき、名残を惜しむ弟子や信徒に乞われ、自らの姿を水鏡に映し、筆をとって絵姿を描き、自ら頭部を刻み、弟子たちも力を合わせて等身大の木像をつくるが、これが御影の像として、現在も本尊として安置されている。
○真教上人
一遍上人が庵を結んだこの地に無量光寺を建立したのは弟子の真教上人。真教上人は一遍上人が九州地方を遊行されていた時、上人に帰依し、それより終始一遍上人と遊行をともにした。
宗祖・一遍上人が臨終の際にはそれに殉じようとするも、衆徒に乞われて宗祖の教義を継ぐ。一遍亡き後、消滅の危機に瀕した一遍上人の教えを再結成したのはこの真教と言える。嘉元元年(1303)には遊行を智得上人にゆだねて、宗祖ゆかりの地当麻に帰り、その翌年、ここに一宇(建物)を建立。無量光佛(阿弥陀如来の別名)の由来からその名を「無量光寺」と名付け時宗教団の本拠地とした。真教上人は文保3年(1319)示寂される(亡くなる)までの16年間当山にあって、衆徒の教化に努める。

当麻山は後北条氏の外護を受け、天正19年(1591)には徳川家康より30石の寺領を寄付され寺門は大いに繁栄した。その間、天文年間には北条、上杉の戦の折に伽藍が焼失し、天正年間(1573~1593)、元和年間(1615~1623)の火災、なかでも安永2年(1773)の火災においては絵詞伝8巻を始め、貴重な寺宝が多数焼失。その後再建された堂宇も明治26年には全焼し、現在、旧本堂跡は空き地となっている。

○無量光寺と遊行寺
実のところ一遍上人=時宗=藤沢の遊行寺が頭に刷り込まれており、この地に一遍上人ゆかりの時宗、正確には時宗と称したのは江戸期からのことであり、古くは浄土門当麻派と称された根本道場があるなど何も知らなかった。
歴史をチェックすると、遊行三代智得は、真教の一番弟子の一人として、弘安四年(1281)以来当麻道場にあって教学と組織固めに努めていた。が、遊行四代目を巡り確執が起こる。真教の命で京都の七条道場を拠点に賦算をしていた呑海と、三代智得の遺言として側近であった真光との争いである。結局、呑海は実兄の鎌倉武将の俣野景平を開基の檀那として、藤沢山清浄光院(現在の清浄光寺)を建立することになり、ふたつに分裂。やがて藤沢道場が優勢となった。
遊行上人を引退すると、藤沢道場に入って藤沢上人と称した。藤沢山清浄光院が遊行寺と称されるようになったのは、近世になって法主(ほっす)・藤沢上人と遊行上人が同一上人であるため遊行寺(ゆぎょうじ)という通称の方が知られるようになっている。
とはいうものの、藤沢の遊行寺は一遍上人とは直接関係ないお寺さまであり、上人が足を踏み入れた修行の地、という意味では当地の無量光寺のほうが、一遍上人との繋がりが強いようである。
○時宗と時衆
上でメモしたように、時宗と称されたのは他の宗派と同じく江戸になってから。当時は時衆と称されていた、と。時衆とは「一日を6分割して不断念仏する集団(ないし成員)を指す」とのことである。

当麻地区
無量光寺を離れ相模線・原当麻駅に向かう。当麻地区の昔の字に、市場の東に上宿、西に下宿といった地名が残る。当麻は厚木と八王子を結ぶ大山街道の渡場であり相模川の舟運を利用した水運で栄えた町であり、その上に無量光寺ができると、修行僧や参拝者が増え、無量光寺の門前町として栄え市が立つようになった。
市場、上宿、下宿、また市場にある鍛冶屋坂も寺専属の鍛冶屋からの地名である。小田原北条の時代には、早雲の命により、原当麻駅付近に宿場町が建設され新宿と呼ばれm戦国時代の宿場町となったようである。
因みに、この当麻の付近には伊予ゆかりの地が目立つ。相模川を隔てた「依知」は越智氏からとも言われる。宿場を仕切ったのも伊予からの人物と伝わるし、そもそも、無量光寺の西の「芹沢」にある三嶋神社は伊予三島の三島神社からの勧請とも伝わる。伊予の有力武将の係累である一遍上人に付き従った伊予の人々が住み着いたものであろうか。
因みに「当麻」の地名の由来であるが、一遍上人お気に入りの奈良の当麻寺からとの説がある。それはそれでいいとして、では「当麻」の意味は、と言うと、 古代のタギマ(当岐麻)がタイマに訛ったとのこと。古語の「たぎたぎし」とは、凹凸がある悪路。難路を意味する、とのことである。

相模線・原当麻駅
無量光寺を離れ、段丘崖を上る広い車道を進み、相模線・原当麻駅に。段丘崖上に字として原当麻という地名が2万5千分一の地図には残る。由来をチェックすると、小田原北条の時代、当麻村の実力者三人衆、どうも伊予の出身者であるようだが、それはともあれ、その三人衆が市場の問屋権をめぐって争い。その争いに負けたひとりが当麻の市場を離れ、段丘上、現在の原当麻のあたりに集落を開いた、とか。旧地の「当麻」に段丘崖上の段丘面である「原」を合わせた地名としたのだろうか。単なる妄想、根拠なし。
ともあれ、相模線・原当麻駅に向かい、本日の散歩を終える。後は、この当麻地区から段丘崖線の斜面林に沿って南に下り、田名原段丘面と陽原段丘面を画するこの段丘崖が田名原段丘面に埋没する地点である下溝辺りまで下り、その後は最初の散歩で残した鳩川分水路の更に南に下る鳩川を辿り、その流れが相模川に注ぐ地点まで歩いてみようと思う。

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