大丸(おおまる)用水を歩くことにした。きっかけは、一冊の小冊子。もう数年前にもなるのだが、京王線・稲田堤辺りで取水し多摩川西岸域を潤す「二ヶ領用水」を歩いたのだが、なんとなくメモをする気にならず、そのままにしておいた。その「二ヶ領用水」を歩き直し、気分も新たにメモを、と用水散歩の途中で出合った「二ヶ領せせらぎ館(二ヶ領宿河原堰脇にある)」で買い求めた小冊子(製作;NPO法人多摩川エコミュージアム)。その一部に「大丸用水」の案内があった。
小冊子には「散策こみち案内 みんなで歩こう二ヶ領用水」とあり、当初は、「大丸用水」って「二ヶ領用水」の支流かと思い、ついでのことながら、といった程度で取水堰のある南武線・南多摩駅まで進み、小冊子にある「大丸用水堰から菅掘を下る」のコースを歩き始めた。
が、歩き初めてみるとこの大丸用水って分流、合流が夥しく、用水の規模も結構大きい。あれこれ調べると、本流・支流を合わせた総延長は70キロにも及ぶとのこと。幹線水路は9本、支流の数も200ほどになると言う。どうも「二ヶ領用水」とは別系統の用水路網のようである。
かくの如く、誠にお気楽に歩き始めた大丸用水・菅掘散歩ではあるのだが、メモをしようにも巨大用水網でもあり、分流・合流夥しく全体を整理しなければ、なにがなにやらさっぱりわからない。ということで、「菅堀」散歩メモに先立ち、大丸用水についてあれこれチェックし、用水路の概要・流路をまとめることにした。
で、概要をまとめ、さすがに200にも及ぶという支流の全部をカバーしようとは思わないが、幹線だけでも歩いてみようと用水路をチェックし、結局4回に渡った散歩となった。
さて、メモをはじめようと思うのだが、大丸用水の概要図でもなければメモが煩雑になりそうであり、大丸用水散歩の第一回は大丸用水の概要・概略図のまとめとする。
大丸用水開削の経緯
大丸用水の開削の時期は、新田開発による年貢増収を目的とした幕府の治水政策の一環として「二ヶ領用水」の工事が行われた江戸時代初期とされるが、詳しい資料は残っていないようだ。 慶長16年(1611)に完成した、元禄3年(1690)に築造された、慶長9年(1604)に取水が始まった、など諸説ある。大丸用水と接するその下流域を潤す「二ヶ領用水」は、「六郷用水」の開削もおこなった用水奉行である小泉次大夫(こいずみじだゆう)の普請との記録が残ることと比して好対照である。
散歩の折々に用水を辿ることが多いのだが、足柄の山北用水には比較的資料が残ってはいたが、箱根・芦ノ湖の箱根用水や湯河原の荻窪用水など、町民主導の用水に関する詳しい資料は残っていないことが多い。中には故無き罪で罪を問われたり、獄死といったケースもあった。この大丸用水も町人主導の普請であったのだろうか。
それはともあれ、大丸用水の流域概要は、現在の南武線・南多摩駅の少し上流に堰(昔は現在地より下流であった、とか)をつくりで多摩川から取水し、東京都稲城市[昔の武蔵国多摩郡(大丸村、長沼村、矢野口村、中野島村)]と神奈川県川崎市の上部[昔の武蔵国橘樹郡(菅村、上菅生村、五反田村、登戸村)]を潤す。
用水は流域各村により組織された「大丸用水九ヶ村組合」により管理され、享保12年(1727)には田中丘隅(たなかきゅうぐ)により全面改修されており、八代将軍吉宗の時代には新田検地が実施されている。現在の流域一帯は宅地化が進み、暗渠となった箇所も多いが、今でも諸処に残る梨園や田圃に水を届けているとのことである。
大丸用水の水路
■一次幹線水路
多摩川の取水口からの水路が別れる「一次幹線」は南武線・南多摩駅近くの「分量樋」で「菅掘」と「大堀」のふたつに別れる。
① 「菅掘」
「分量樋」で別れた「菅掘」は南武線の北を蛇行を繰り返しながら南武線・稲城長沼駅の北を進み、都道9号バイパスを渡り南武線・矢野口の手前で南武線の南に移り、京王線・稲田堤駅手前で再び南武線を北に移り、京王線・稲田堤駅の北を進み、菅稲田堤地区辺りで流路を南に向け、南武線に沿って三沢川に合流する。 現在の流路はここで切れるのだが、この三沢川は昭和18年(1493)に暴れ川である旧三沢川を改修し、素掘りで通した水路(旧三沢川は丘陵に沿って下り、南武線・中野島駅の南西にある川崎市立中野島中学辺りで「二ヶ領用水」に合流する)であり、江戸の頃はこの川はない。国土地理院の「今昔マップ首都 1896-1909」をチェックすると水路は先に進み、「二ヶ領用水」を越え、昔の「稲田村」辺りまで続いている。おおよそ8キロ弱といったところか。
② 大堀
「分量樋」で別れた「大堀」は南武線の南、都道9号の南を進み、南武線・矢野口駅南を下り、京王・稲田堤駅の西、穴沢天神社の東辺りで三沢川に合流する。清水川とも称される。おおよそ5キロ強だろう。
■①「菅掘」からの分流
①‐Ⅰ 押立用水掘:「菅掘」から分流する準一次幹線水路
分量樋の少し東で「菅掘」から分流し、多摩川堤に向かって進み、都道9号バイパスを渡り、流路を南東に変え、南武線・矢野口駅の北辺りで多摩川に注ぐ。
△「押立用水掘」からの分流;二次幹線水路
◎新田掘派流;「押立用水掘」が「いちょう並木」を越えた先で分流し、しばし「押立用水掘」と併走した後、多摩川堤で流路を南東に変え、稲城市第四図書館南で「菅掘」に合流する。
◎向田掘;多摩川堤手前を進む「押立用水掘」が、多摩川堤の稲城北緑地公園を越えた辺りで分流し、南東に下り、都道9号バイパスを越えた先で「中野島用水掘」に合流する
小冊子には「散策こみち案内 みんなで歩こう二ヶ領用水」とあり、当初は、「大丸用水」って「二ヶ領用水」の支流かと思い、ついでのことながら、といった程度で取水堰のある南武線・南多摩駅まで進み、小冊子にある「大丸用水堰から菅掘を下る」のコースを歩き始めた。
が、歩き初めてみるとこの大丸用水って分流、合流が夥しく、用水の規模も結構大きい。あれこれ調べると、本流・支流を合わせた総延長は70キロにも及ぶとのこと。幹線水路は9本、支流の数も200ほどになると言う。どうも「二ヶ領用水」とは別系統の用水路網のようである。
かくの如く、誠にお気楽に歩き始めた大丸用水・菅掘散歩ではあるのだが、メモをしようにも巨大用水網でもあり、分流・合流夥しく全体を整理しなければ、なにがなにやらさっぱりわからない。ということで、「菅堀」散歩メモに先立ち、大丸用水についてあれこれチェックし、用水路の概要・流路をまとめることにした。
で、概要をまとめ、さすがに200にも及ぶという支流の全部をカバーしようとは思わないが、幹線だけでも歩いてみようと用水路をチェックし、結局4回に渡った散歩となった。
さて、メモをはじめようと思うのだが、大丸用水の概要図でもなければメモが煩雑になりそうであり、大丸用水散歩の第一回は大丸用水の概要・概略図のまとめとする。
大丸用水開削の経緯
大丸用水の開削の時期は、新田開発による年貢増収を目的とした幕府の治水政策の一環として「二ヶ領用水」の工事が行われた江戸時代初期とされるが、詳しい資料は残っていないようだ。 慶長16年(1611)に完成した、元禄3年(1690)に築造された、慶長9年(1604)に取水が始まった、など諸説ある。大丸用水と接するその下流域を潤す「二ヶ領用水」は、「六郷用水」の開削もおこなった用水奉行である小泉次大夫(こいずみじだゆう)の普請との記録が残ることと比して好対照である。
散歩の折々に用水を辿ることが多いのだが、足柄の山北用水には比較的資料が残ってはいたが、箱根・芦ノ湖の箱根用水や湯河原の荻窪用水など、町民主導の用水に関する詳しい資料は残っていないことが多い。中には故無き罪で罪を問われたり、獄死といったケースもあった。この大丸用水も町人主導の普請であったのだろうか。
それはともあれ、大丸用水の流域概要は、現在の南武線・南多摩駅の少し上流に堰(昔は現在地より下流であった、とか)をつくりで多摩川から取水し、東京都稲城市[昔の武蔵国多摩郡(大丸村、長沼村、矢野口村、中野島村)]と神奈川県川崎市の上部[昔の武蔵国橘樹郡(菅村、上菅生村、五反田村、登戸村)]を潤す。
用水は流域各村により組織された「大丸用水九ヶ村組合」により管理され、享保12年(1727)には田中丘隅(たなかきゅうぐ)により全面改修されており、八代将軍吉宗の時代には新田検地が実施されている。現在の流域一帯は宅地化が進み、暗渠となった箇所も多いが、今でも諸処に残る梨園や田圃に水を届けているとのことである。
大丸用水の水路
■一次幹線水路
多摩川の取水口からの水路が別れる「一次幹線」は南武線・南多摩駅近くの「分量樋」で「菅掘」と「大堀」のふたつに別れる。
① 「菅掘」
「分量樋」で別れた「菅掘」は南武線の北を蛇行を繰り返しながら南武線・稲城長沼駅の北を進み、都道9号バイパスを渡り南武線・矢野口の手前で南武線の南に移り、京王線・稲田堤駅手前で再び南武線を北に移り、京王線・稲田堤駅の北を進み、菅稲田堤地区辺りで流路を南に向け、南武線に沿って三沢川に合流する。 現在の流路はここで切れるのだが、この三沢川は昭和18年(1493)に暴れ川である旧三沢川を改修し、素掘りで通した水路(旧三沢川は丘陵に沿って下り、南武線・中野島駅の南西にある川崎市立中野島中学辺りで「二ヶ領用水」に合流する)であり、江戸の頃はこの川はない。国土地理院の「今昔マップ首都 1896-1909」をチェックすると水路は先に進み、「二ヶ領用水」を越え、昔の「稲田村」辺りまで続いている。おおよそ8キロ弱といったところか。
② 大堀
「分量樋」で別れた「大堀」は南武線の南、都道9号の南を進み、南武線・矢野口駅南を下り、京王・稲田堤駅の西、穴沢天神社の東辺りで三沢川に合流する。清水川とも称される。おおよそ5キロ強だろう。
■①「菅掘」からの分流
①‐Ⅰ 押立用水掘:「菅掘」から分流する準一次幹線水路
分量樋の少し東で「菅掘」から分流し、多摩川堤に向かって進み、都道9号バイパスを渡り、流路を南東に変え、南武線・矢野口駅の北辺りで多摩川に注ぐ。
△「押立用水掘」からの分流;二次幹線水路
◎新田掘派流;「押立用水掘」が「いちょう並木」を越えた先で分流し、しばし「押立用水掘」と併走した後、多摩川堤で流路を南東に変え、稲城市第四図書館南で「菅掘」に合流する。
◎向田掘;多摩川堤手前を進む「押立用水掘」が、多摩川堤の稲城北緑地公園を越えた辺りで分流し、南東に下り、都道9号バイパスを越えた先で「中野島用水掘」に合流する
◎川間掘;「向田掘」が分流するすこし先で分流し、「向田掘」にほぼ平行に南東に下り、都道9号バイパスを越え、「向田掘」の少し東で「中野島用水掘」に合流する。
◎本田掘;「川間掘」の分流点を東に進んだ「押立用水掘」が都道9号バイパス手前で梨花幼稚園方向へ直角に流を変える辺りで分流し、そのまま東に進み都道9号バイパスを越え、南東へ下り稲城第四小学校手前で「中野島用水掘」に合流する。
① -Ⅱ 新堀;「菅掘」から分流する準一次幹線水路
稲城市大丸地区自治会館辺りで「菅掘」から分流し、南東に進み南武線を越え、南武線・稲城長沼駅の南を進み、駅の少し東で流路を北東に向け、南武線を越え都道9号バイパスを越えた辺りで東流し、「菅掘」に合流する。なお、Wikipediaでは、菅掘との合流点で、菅掘は終え、そこから先を「新堀」としている。
△「新掘」からの分流;二次幹線水路
◎久保掘;南武線・稲城長沼駅南の踏切辺りで「新掘」から分流し、南下し「大堀(清水川)」に合流する。
◎柳田掘;「久保掘」分流点の北、南武線の踏切を渡った先で「新堀」から分流し、南東に向かい南武線を越え、川崎街道・東長沼陸橋交差点を経て稲城第一小学校北を下り「大堀(清水川)」に合流する。
◎下新田掘;「新掘」が稲城大橋から南下する都道9号バイパスとクロスした先で分流し、南東に下り、「柳田掘」と「大堀」との合流点の少し東で「大掘」に合流する。 ◎大和掘;「新掘」が「菅掘」に合流する少し手前で「新堀」から分流し、南東に下り、「下新田掘」と「大堀」との合流点の少し東で「大掘」に合流する。
◎落掘;「新堀」が「菅掘」に合流する地点から、「菅掘」に沿って東流し、「菅掘」が南武線とクロスする辺りで「菅掘に」合わさる。
① -Ⅲ 中野島用水掘;「菅掘」から分流する準一次幹線水路
都道9号バイパス手前の「喧嘩口」で「菅掘」から分流し、東流。南武線・矢野口駅手前で南武線を南に越え、駅の少し東で流れを北東に変え、南武線を再び北に越え多摩川堤方向に進む。多摩川堤の菅少年野球場辺りで南東に流れを変えるも、京王相模原線手前で再び北東に向かい、京王相模原線を越えた柳田公園辺りで南東へと流れを変え南武線まで下り、そこから南武線に沿って少しすすみ三沢川に合流する。
なお、、「菅掘」に「新堀」が合流した下流の水路は「菅掘」とも、「新掘」とも呼ばれる。その水路が「中野島用水掘」に合流した先、往昔の「二ヶ領用水」を越えた末までの菅掘(新掘)下流部を「中野島用水」とも称するようではある。
△「中野島用水」からの分流;二次幹線水路
◎中野島用水の支流;南武線・矢野口駅の少し西、「中掘」が「中野島用水掘」に合流する地点で「中野島用水掘」から分流し、南武線・矢野口駅の北を進み、駅の東北にある白山神社付近で「中野島用水掘」の本流に合流する。
○一次幹線水路「菅掘」からの直接分流;二次幹線水路(準一次幹線水路を経ないで直接分流)
◎吉田新田掘;「菅掘」というより、実際は大丸堰で取水され分量樋で「菅掘」と「大堀」に分流されるまでの水路を称する「うち掘」か、南多摩駅の西を多摩川に下る「谷戸川(駅付近は暗渠)からの分流とも言われる。それはともあれ、「吉田新田掘」は「菅掘」の北を東流し、ほどなく「菅掘」をちいさな水路橋で渡り、「菅掘」の南を平行に流れ、大丸自治会館辺りで「菅掘」に合流する。
◎末新田掘:南武線・南多摩駅辺りから「いちょう並木」の南を東流した「菅掘」が流路を南東に変える辺りで分流し、しばし「いちょう並木」に沿って東流した後、大丸自治会館に向かって南東に流路を変え、大丸自治会館脇で東に向かい「菅掘」に合流する。
◎中掘;稲城大橋からの都道9号バイパス手前の喧嘩口で「菅掘」から分流し、しばし東に進み稲城第四小学校の少し東で「中野島用水掘」に合流する。合流点の先からは「中野島用水掘」の支流が東に進む。
◎豊掘;南武線・矢野口駅の西、都道9号から南下し、すぐ南を流れる「大堀」に合流する短い水路。
■②「大堀」からの分流
○一次幹線水路「大掘」からの直接分流;二次幹線水路(準一次幹線水路を経ないで直接分流)
◎宿掘;「菅掘」と別れた「大堀」が都道9号の南に越えてほどなく「大堀」から分流し、東流し南武線を越え、「菅掘」から分流した「新堀」と南武線の北で合流する。
◎玉川前小掘:「宿掘」が「新掘」と合流する地点で、「宿掘」の水をパイプで「新堀」を渡し、東に流れ、南武線・稲城長沼駅の北東で「菅掘」に合流する。
◎五反田掘;「宿掘」分流点を先に進み、開渠部分が直角に曲がる地点で分流し、そのまま東流し、都道9号まで接近したところで流路を南東に変え、「久保掘」が「大堀」に合流する少し手前で「大堀」に合流する。
◎久保掘;南武線・稲城長沼駅の南を進んできた「新掘」が、南武線・稲城長沼駅の東で高架を潜る手前で「新堀」から分かれ南に下って、この地で「大掘」に合わさる。既にメモしたが、「新掘」からの分流点は駅前再開発なのか、宅地化工事のため分流点は確認できなかった。
◎切方掘;「久保掘」が「大堀」に合流する地点で分流し、三沢川に向かって南流し、三沢川の少し北を川に沿って進み、穴沢天神の少し東で三沢川に合流する。 ◎中掘;稲城第一小学校の東で「大堀」から分流し、「切方掘」の北を併走し、稲城第七小学校の南で「切方掘」に合流する。
○大丸用水地域の地名
ところで、水路をメモしながら、大丸用水に登場する地名が気になった。中野島や押立、長沼といった如何にも多摩川の流路跡に由来する地名、そして、それと上新田とか下新田、末新田といった新田開発に由来する地名がそれである。
□多摩川の流路跡に由来する地名
「中野島」は、護岸工事もない昔、「あばれ川」との異名をもつ多摩川が洪水の度に幾流にも分かれ、流路定まらぬ川筋に取り残された「島(自然微高地)」ではあろうし、「押立」も多摩川の急流に「押し立てられる」ようにつくられた「自然微高地」のように思う。また、「長沼」は流路の変遷によって取り残された湿地を表す地名だろう。
国土地理院の「2万5千分の1」の地図や「今昔マップ1896-1906」をチェックすると、南多摩駅付近の大丸地区には「河原方」、東長沼地区には「柳嶋」、押立地区には「稲荷島」、矢野口地区には「中島」、稲田駅付近には「下嶋」といった地名が記載されている。 小字名までチェックすると、大丸地区には上河原、川敷、砂場、河原方、閑古島、下川原、東長沼地域には玉川前、柳島、池ノ東(西、南、北)、河原方、池淵、押立地区には稲荷島、矢野口地区には上中島、下河原、下中島といった多摩川の流露の名残を残す地名が数多く残る。
□新田開発に由来する地名
こうした多摩川の流路変遷に由来する地名の中に点在するのが「新田」の名を冠する地名である。国土地理院の「2万5千分の1」の地図や「今昔マップ1896-1906」をチェックすると東長沼地区に上新田、中新田、矢野口地区には下新田が残る。小字を見ると大丸地区に当新田、田島新田、東長沼地区には上新田、中新田といった地名が残る。 新田開発は洪水跡の氾濫原を開発したのではあろうし、その開発の時期は江戸時代中期(1692-1779)とされる。当然のこととして、新田開発の前提として、暴れ川である治水事業が必要ではあろう、ということで、多摩川中流域の治水事業をチェックすると、代官の川崎平右衛門や田中丘隅が登場してきた。
玉川上水や武蔵野新田開発に貢献した川崎平右衛門は享保年間(1716~1735)の頃、新田世話役となり、玉川中下流の村の水防を強化し新田を開発。後には普請奉行として押立の堤防改修工事、中流部左岸の両岸20余里に及ぶ公領、私領の堤防や樋門の改修工事をおこなっている(「多摩学研究」より)。
田中丘隅は小泉次大夫が新用水奉行として普請の「二ヶ領用水」の改修、下流右岸の小杉の瀬替え、下流の連続堤の築堤などで知られるが、享保12年(1727)、川除御普請御用として大丸用水の全面改修をおこなった、とのこと。この時期は川崎平右衛門が新田世話役となり、玉川中下流の村の水防を強化し新田を開発おこなっていた頃と重なる。新田開発と並行して治水事業もおこなわれ、それに伴い新田へと水を注ぐ用水網の改修が実施されたのだろう。
□用水の痕跡示す地名
以上、多摩川の流路の痕跡由来の地名、新田開発由来の地名をメモしたが、この地域には「用水」の痕跡を示す地名も残る。東長沼地区には水門下、新川端(開削された菅堀用水端)、押立地区には、上関、中関、下関といった小字があったようである。正保~慶安年間(1644~1651)に用水の引水堰を3か所設置したと記録が残ることから、この上関、中関、下関は上堰、中堰、下堰のことのようである。
この堰設置の時期は、前述の川崎平右衛門や田中丘隅による治水事業・新田開発・用水路改修の時期より結構早い時期である。用水開削の前提としての新田開発、それを洪水から守る大規模な治水普請は享保年間(1716~1735)であるにしても、氾濫原を利用した水田開発、そこに水を通す用水路はそれ以前から行われていたということではあろう。
長々と地名についてメモした理由は、上に大丸用水開削の経緯として、「大丸用水の開削の時期は、は新田開発による年貢増収を目的とした幕府の治水政策の一環として「二ヶ領用水」の工事が行われた江戸時代初期とされるが、詳しい資料は残っていないようだ。 慶長16年(1611)に完成した、元禄3年(1690)に築造された、慶長9年(1604)に取水が始まった、など諸説ある。(中略)用水は流域各村により組織された「大丸用水九ヶ村組合」により管理され、享保12年(1727)には田中丘隅(たなかきゅうぐ)により全面改修されており」とメモしたが、大丸用水網もすべてが開幕初期に開削されたわけではなく、氾濫原の状態、新田開発や堤防普請といった治水事業の進展とともに整備されていったように思える。
大丸用水の中でも丘陵に近い「大堀」の流路には小字に松木田があった。「松木田」は「真土田=本当の土。川によって流されてきた土砂からなる沖積地ではなく、洪積地」に由来するものであろうから、洪水被害が少ないと思える「大堀」などは開幕初期に開削されたようにも思うが、それ以外の用水路は、上堰、中堰、下堰などの設置が正保~慶安年間(1644~1651)にあるように、多摩川の氾濫原を活用した新田開発と並行し徐々にはじまり、本格的には川崎平右衛門が新田開発・治水事業を行い、田中丘隅が大丸用水網を全面的に改修した享保年間(1716~1735)以降に巨大な用水路網ができあがっていったのではないだろうか。単なる妄想。根拠なし。
◎本田掘;「川間掘」の分流点を東に進んだ「押立用水掘」が都道9号バイパス手前で梨花幼稚園方向へ直角に流を変える辺りで分流し、そのまま東に進み都道9号バイパスを越え、南東へ下り稲城第四小学校手前で「中野島用水掘」に合流する。
① -Ⅱ 新堀;「菅掘」から分流する準一次幹線水路
稲城市大丸地区自治会館辺りで「菅掘」から分流し、南東に進み南武線を越え、南武線・稲城長沼駅の南を進み、駅の少し東で流路を北東に向け、南武線を越え都道9号バイパスを越えた辺りで東流し、「菅掘」に合流する。なお、Wikipediaでは、菅掘との合流点で、菅掘は終え、そこから先を「新堀」としている。
△「新掘」からの分流;二次幹線水路
◎久保掘;南武線・稲城長沼駅南の踏切辺りで「新掘」から分流し、南下し「大堀(清水川)」に合流する。
◎柳田掘;「久保掘」分流点の北、南武線の踏切を渡った先で「新堀」から分流し、南東に向かい南武線を越え、川崎街道・東長沼陸橋交差点を経て稲城第一小学校北を下り「大堀(清水川)」に合流する。
◎下新田掘;「新掘」が稲城大橋から南下する都道9号バイパスとクロスした先で分流し、南東に下り、「柳田掘」と「大堀」との合流点の少し東で「大掘」に合流する。 ◎大和掘;「新掘」が「菅掘」に合流する少し手前で「新堀」から分流し、南東に下り、「下新田掘」と「大堀」との合流点の少し東で「大掘」に合流する。
◎落掘;「新堀」が「菅掘」に合流する地点から、「菅掘」に沿って東流し、「菅掘」が南武線とクロスする辺りで「菅掘に」合わさる。
① -Ⅲ 中野島用水掘;「菅掘」から分流する準一次幹線水路
都道9号バイパス手前の「喧嘩口」で「菅掘」から分流し、東流。南武線・矢野口駅手前で南武線を南に越え、駅の少し東で流れを北東に変え、南武線を再び北に越え多摩川堤方向に進む。多摩川堤の菅少年野球場辺りで南東に流れを変えるも、京王相模原線手前で再び北東に向かい、京王相模原線を越えた柳田公園辺りで南東へと流れを変え南武線まで下り、そこから南武線に沿って少しすすみ三沢川に合流する。
なお、、「菅掘」に「新堀」が合流した下流の水路は「菅掘」とも、「新掘」とも呼ばれる。その水路が「中野島用水掘」に合流した先、往昔の「二ヶ領用水」を越えた末までの菅掘(新掘)下流部を「中野島用水」とも称するようではある。
△「中野島用水」からの分流;二次幹線水路
◎中野島用水の支流;南武線・矢野口駅の少し西、「中掘」が「中野島用水掘」に合流する地点で「中野島用水掘」から分流し、南武線・矢野口駅の北を進み、駅の東北にある白山神社付近で「中野島用水掘」の本流に合流する。
○一次幹線水路「菅掘」からの直接分流;二次幹線水路(準一次幹線水路を経ないで直接分流)
◎吉田新田掘;「菅掘」というより、実際は大丸堰で取水され分量樋で「菅掘」と「大堀」に分流されるまでの水路を称する「うち掘」か、南多摩駅の西を多摩川に下る「谷戸川(駅付近は暗渠)からの分流とも言われる。それはともあれ、「吉田新田掘」は「菅掘」の北を東流し、ほどなく「菅掘」をちいさな水路橋で渡り、「菅掘」の南を平行に流れ、大丸自治会館辺りで「菅掘」に合流する。
◎末新田掘:南武線・南多摩駅辺りから「いちょう並木」の南を東流した「菅掘」が流路を南東に変える辺りで分流し、しばし「いちょう並木」に沿って東流した後、大丸自治会館に向かって南東に流路を変え、大丸自治会館脇で東に向かい「菅掘」に合流する。
◎中掘;稲城大橋からの都道9号バイパス手前の喧嘩口で「菅掘」から分流し、しばし東に進み稲城第四小学校の少し東で「中野島用水掘」に合流する。合流点の先からは「中野島用水掘」の支流が東に進む。
◎豊掘;南武線・矢野口駅の西、都道9号から南下し、すぐ南を流れる「大堀」に合流する短い水路。
■②「大堀」からの分流
○一次幹線水路「大掘」からの直接分流;二次幹線水路(準一次幹線水路を経ないで直接分流)
◎宿掘;「菅掘」と別れた「大堀」が都道9号の南に越えてほどなく「大堀」から分流し、東流し南武線を越え、「菅掘」から分流した「新堀」と南武線の北で合流する。
◎玉川前小掘:「宿掘」が「新掘」と合流する地点で、「宿掘」の水をパイプで「新堀」を渡し、東に流れ、南武線・稲城長沼駅の北東で「菅掘」に合流する。
◎五反田掘;「宿掘」分流点を先に進み、開渠部分が直角に曲がる地点で分流し、そのまま東流し、都道9号まで接近したところで流路を南東に変え、「久保掘」が「大堀」に合流する少し手前で「大堀」に合流する。
◎久保掘;南武線・稲城長沼駅の南を進んできた「新掘」が、南武線・稲城長沼駅の東で高架を潜る手前で「新堀」から分かれ南に下って、この地で「大掘」に合わさる。既にメモしたが、「新掘」からの分流点は駅前再開発なのか、宅地化工事のため分流点は確認できなかった。
◎切方掘;「久保掘」が「大堀」に合流する地点で分流し、三沢川に向かって南流し、三沢川の少し北を川に沿って進み、穴沢天神の少し東で三沢川に合流する。 ◎中掘;稲城第一小学校の東で「大堀」から分流し、「切方掘」の北を併走し、稲城第七小学校の南で「切方掘」に合流する。
○大丸用水地域の地名
ところで、水路をメモしながら、大丸用水に登場する地名が気になった。中野島や押立、長沼といった如何にも多摩川の流路跡に由来する地名、そして、それと上新田とか下新田、末新田といった新田開発に由来する地名がそれである。
□多摩川の流路跡に由来する地名
「中野島」は、護岸工事もない昔、「あばれ川」との異名をもつ多摩川が洪水の度に幾流にも分かれ、流路定まらぬ川筋に取り残された「島(自然微高地)」ではあろうし、「押立」も多摩川の急流に「押し立てられる」ようにつくられた「自然微高地」のように思う。また、「長沼」は流路の変遷によって取り残された湿地を表す地名だろう。
国土地理院の「2万5千分の1」の地図や「今昔マップ1896-1906」をチェックすると、南多摩駅付近の大丸地区には「河原方」、東長沼地区には「柳嶋」、押立地区には「稲荷島」、矢野口地区には「中島」、稲田駅付近には「下嶋」といった地名が記載されている。 小字名までチェックすると、大丸地区には上河原、川敷、砂場、河原方、閑古島、下川原、東長沼地域には玉川前、柳島、池ノ東(西、南、北)、河原方、池淵、押立地区には稲荷島、矢野口地区には上中島、下河原、下中島といった多摩川の流露の名残を残す地名が数多く残る。
□新田開発に由来する地名
こうした多摩川の流路変遷に由来する地名の中に点在するのが「新田」の名を冠する地名である。国土地理院の「2万5千分の1」の地図や「今昔マップ1896-1906」をチェックすると東長沼地区に上新田、中新田、矢野口地区には下新田が残る。小字を見ると大丸地区に当新田、田島新田、東長沼地区には上新田、中新田といった地名が残る。 新田開発は洪水跡の氾濫原を開発したのではあろうし、その開発の時期は江戸時代中期(1692-1779)とされる。当然のこととして、新田開発の前提として、暴れ川である治水事業が必要ではあろう、ということで、多摩川中流域の治水事業をチェックすると、代官の川崎平右衛門や田中丘隅が登場してきた。
玉川上水や武蔵野新田開発に貢献した川崎平右衛門は享保年間(1716~1735)の頃、新田世話役となり、玉川中下流の村の水防を強化し新田を開発。後には普請奉行として押立の堤防改修工事、中流部左岸の両岸20余里に及ぶ公領、私領の堤防や樋門の改修工事をおこなっている(「多摩学研究」より)。
田中丘隅は小泉次大夫が新用水奉行として普請の「二ヶ領用水」の改修、下流右岸の小杉の瀬替え、下流の連続堤の築堤などで知られるが、享保12年(1727)、川除御普請御用として大丸用水の全面改修をおこなった、とのこと。この時期は川崎平右衛門が新田世話役となり、玉川中下流の村の水防を強化し新田を開発おこなっていた頃と重なる。新田開発と並行して治水事業もおこなわれ、それに伴い新田へと水を注ぐ用水網の改修が実施されたのだろう。
□用水の痕跡示す地名
以上、多摩川の流路の痕跡由来の地名、新田開発由来の地名をメモしたが、この地域には「用水」の痕跡を示す地名も残る。東長沼地区には水門下、新川端(開削された菅堀用水端)、押立地区には、上関、中関、下関といった小字があったようである。正保~慶安年間(1644~1651)に用水の引水堰を3か所設置したと記録が残ることから、この上関、中関、下関は上堰、中堰、下堰のことのようである。
この堰設置の時期は、前述の川崎平右衛門や田中丘隅による治水事業・新田開発・用水路改修の時期より結構早い時期である。用水開削の前提としての新田開発、それを洪水から守る大規模な治水普請は享保年間(1716~1735)であるにしても、氾濫原を利用した水田開発、そこに水を通す用水路はそれ以前から行われていたということではあろう。
長々と地名についてメモした理由は、上に大丸用水開削の経緯として、「大丸用水の開削の時期は、は新田開発による年貢増収を目的とした幕府の治水政策の一環として「二ヶ領用水」の工事が行われた江戸時代初期とされるが、詳しい資料は残っていないようだ。 慶長16年(1611)に完成した、元禄3年(1690)に築造された、慶長9年(1604)に取水が始まった、など諸説ある。(中略)用水は流域各村により組織された「大丸用水九ヶ村組合」により管理され、享保12年(1727)には田中丘隅(たなかきゅうぐ)により全面改修されており」とメモしたが、大丸用水網もすべてが開幕初期に開削されたわけではなく、氾濫原の状態、新田開発や堤防普請といった治水事業の進展とともに整備されていったように思える。
大丸用水の中でも丘陵に近い「大堀」の流路には小字に松木田があった。「松木田」は「真土田=本当の土。川によって流されてきた土砂からなる沖積地ではなく、洪積地」に由来するものであろうから、洪水被害が少ないと思える「大堀」などは開幕初期に開削されたようにも思うが、それ以外の用水路は、上堰、中堰、下堰などの設置が正保~慶安年間(1644~1651)にあるように、多摩川の氾濫原を活用した新田開発と並行し徐々にはじまり、本格的には川崎平右衛門が新田開発・治水事業を行い、田中丘隅が大丸用水網を全面的に改修した享保年間(1716~1735)以降に巨大な用水路網ができあがっていったのではないだろうか。単なる妄想。根拠なし。
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