下末吉台地散歩;大倉山から鶴見まで

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多摩の丘陵に惹かれて川崎市麻生区から横浜市青葉区、都築区そして港北区・大倉山まで下ってきた。はじめは、「なんとなく新百合ヶ丘」といった程度ではじめた散歩。何回にも分けて歩くことになろうとは思ってもいなかった。それだけ、丘と谷、入り組んだ谷戸の景観に惹かれたのであろう。
先回の散歩では、都築区から、これも「なんとなく大倉山」に下った。なぜ「大倉山」という地名が記憶に残っていたのか、よくわからない。ともあれ、大倉山まで下ってきた。で、大倉山から南を眺めたとき、これも結構入り組んだ感じの丘陵が見えた。大倉山の近くには中世の城址がある。また、鶴見の近くにも城跡がある。で、どうせのことなら、あと少し足を延ばし、城跡を辿りながら海岸まで下ってみよう、多摩の丘陵地帯から海まで襷を繋げよう、と思った。多摩から歩いてどの程度で海にたどり着くのか、少々のリアリティを感じてみたかったわけである。



本日のルート;東急東横線・綱島駅>綱島公園・綱島古墳>綱島街道>鶴見川・大綱橋>綱島街道>東急東横線・大倉山駅>綱島街道・交差点>環状交差点>環状大倉山2号交差>みその公園>尾根道>獅子ケ谷横溝屋敷>獅子ケ谷市民の森>二ツ池>三ツ池公園>釣鶴見高校>別所交番前>第二京浜・北寺尾交差点>響橋>第二京浜・東寺尾交差点>馬場町公園>殿山>白幡公園・白幡神社>寺尾小学校>第二京浜・東寺尾交差点>(鶴見獅子ケ谷通り)東寺尾交番前>亀甲交差点>JR鶴見駅

東急東横線綱島駅
渋谷で東急東横線に乗り、大倉山駅に向かう。急行でもあり、一駅前の綱島に止まる。普通電車を待つのもウザッタイので、綱島で降りて歩くことに。綱島って、川の中州や湿地に点在する島、「津の島」のこと。すぐ南に流れる鶴見川、東を流れる早淵川によって形つくられた「川中島・中州」であったのだろう、か。
綱島古墳
駅に降りて案内をチェック。駅の近くに綱島古墳。直近まで全く興味のなかった古墳時代ではある。が、最近娘の宿題のお手伝い、といった事情もありに少々の問題意識を持つことにもなっている。つい先日、吉祥寺の古本屋で『まぼろし紀行;稲荷山鉄剣の周辺(奥村邦彦:毎日新聞社)』を買ったばかりではある。それはともあれ、線路に沿って少し戻る。少し歩くと小高い丘。古墳はこの綱島公園の中にある。公園の最も高いところに古墳があった。案内をメモ;「5世紀に造られた円墳で、墳丘頂部の埋葬施設から鉄刀、鉄子、鉄鏃などの副葬品が発見され、古墳の周辺からは須恵器甕や円筒埴輪などが出土し、地域首長の墓と考えら れる」、と。綱島公園は戦時中高射砲陣地があった、とか。

綱島街道・鶴見川
公園を離れ、大倉山に向かう。一旦、綱島駅に戻る。バスセンターが賑やか。駅前の道を綱島街道に出る。綱島街道は東京の五反田を起点に、丸子橋をへて横浜市神奈川区浦島までの道筋のうち、丸子橋より西を指す。都内は中原街道と呼ばれる。先に進むと「大綱橋」。名前の由来は大綱村から。鶴見川を渡り、樽町を進む。「樽」って、「伊豆・河津の七樽」ではないけれど、「滝」ってこと。鶴見川が氾濫してなかなか水が引かず、「樽に溜まった水」のようであった、ため。鶴見川の氾濫は昔から多かったようである。
大倉山の台地の北端は鶴見川で切られる。鶴見川によって開析された台地と平地との境目、といった風情。地形図でチェックすると、綱島の台地が平地にポッカリと浮かぶ。綱島街道を隔てた諏訪神社のある台地と共に「連れになった島>つなしま」、って知名の由来もあるのだが、地形図で見ると大いに納得。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

師岡熊野神社
道の両側に丘陵が迫る。向かって右手が先日歩いた大倉山の台地。左が熊野神社のある「熊野市民の森」の台地だろう。道を進むと熊野神社入口交差点。熊野神社は御園城跡(獅子ケ谷城跡)を拠点とした国人たちの心のより所であった、とか。ちょっと立ち寄る。台地を少しのぼり、ちょっと下ると熊野神社。境内前に池。「い」の池。灌漑用の溜め池。雨乞神事とか、片目の鯉の伝説が残る。
神社がひらかれたのは、8世紀前半・聖武天皇の頃。誠に由緒ある社である。9世紀末には光孝天皇の勅使六条中納言藤原有房卿が此地に下向。「関東随一大霊験所熊埜宮」の勅額を賜り、それ以来、宇多・醍醐・朱雀・村上天皇の勅願所となる。また、戦国期の小田原北条、江戸期の徳川家からの信仰も篤く、幕末まで御朱印を受けた、とか。
石段を上り本殿に。新しい。平成に大修理がなされた、と。なんとなく本殿裏手の姿に惹かれる。古い社とともに、雰囲気のある池。「の」の池。まわりは神域となっている。池の傍に裏山にのぼる道。のぼりきったところに展望台。師岡貝塚の碑もあった。縄文海進期の頃は、このあたりまで海であったのだろう。少し休み、綱島街道に戻る。

東急東横線・大倉山駅
熊野神社入口交差点からゆるやかな坂を大倉山駅方面に下る。綱島街道を離れて大倉山駅に行く。例によって、駅前での名所案内をチェックするため。いくつか散歩コースが案内されていた。目的地は御園城跡(獅子ケ谷城跡)。城跡の案内はどこにもない。この城の名前はいつだったか古本屋で購入した『多摩丘陵の古城址;田中祥彦(有峰書店新社)』にあったもの。そこの紹介でも、地元の国人たちの軍事拠点といった程度のもの。城というほどのものではなかったのかもしれない。『多摩丘陵の古城址』によれば、場所は横溝屋敷の北にある台地である、と。駅前の案内には「みその公園・横溝屋敷」と紹介してあっ
たので、とりあえず「みその公園」に進むことにする。
駅の北には大倉山が広がる。結構広い。山頂には大倉山記念館。ギリシャの神殿を思わせるような堂々とした建物である。実業家大倉邦彦氏が昭和7年につくった研究所がはじまり。当時名もないこの丘も、大倉氏の名前をとって大倉山、と。ちなみに、太尾駅と呼ばれていた駅も大倉山駅に改名。記念館の北、谷戸の風情を残す公園も、太尾公園から大倉山公園に改められた。

御園城
大倉山駅前の通りを進む。前方に新幹線の高架。商店街の上に新幹線が走る、って姿をみたかったのだが、残念ながら列車には出合わなかった。先に進み綱島街道・大豆戸交差点に。ここで環状2号に交差。目指す「みその公園」は環状2号線の南に広がる台地の上。信号を渡り、すぐの石段を登る。台地上から眺めると、環状2号は台地を「切り通し」ていた。
台地上は住宅街。ちょっと道に迷うが、先の緑の台地が「みその公園」であろう、と台地上の尾根道を進む。台地を少し下り、またすぐのぼると「みその公園」。御園城といわれていたのであれば、この台地が城跡であるのだろう。先に進む。雑木林が開けると、ちょっとした広場。このあたりが城跡であったのだろう、と、とりあえず思い込む。先に進む。「横溝屋敷」の案内。尾根道を進み、くねくね道を下ると台地下に「横溝屋敷」があった。

横溝屋敷
「横溝屋敷」。慶長年間から寛永にかけて名主を務めていた小田切氏の館跡に建つ。茅葺き屋根の母屋・表門(長屋門)・穀蔵・文庫蔵・蚕小屋などが残る。ゆったりとした、いい気持ちのひととき。台地崖下からの湧水池も、いい。
さて、これから先はどうしたものか。本日の最終目的地は、いままで二度チャレンジし、結局お店が休みで手に入らなかった、「よね饅頭」を買うこと。「お江戸日本橋七つ立ち」の歌に出てくる、あの「よね饅頭」である。といっても、会社の同僚でこの歌を知っている者はごく僅か。鶴見に行く目的はお饅頭ばかりでなく、あとひとつ。鶴見近くの寺尾にある、これも、お城といっていいのかどうかわからないような寺尾城跡をチェックすること。そこまでは、成行きで進もう、といった段取り。

獅子ケ谷市民の森

横溝屋敷前にある案内をチェック。南に広がる台地上に展望台のサイン。台地、谷戸といった地形 のうねりが大好きの我が身としては一も二もなく台地に向かう。道を南東に進み台地下に。「獅子ケ谷市民の森」と書いてある。台地下の公園から段を上る。少し湿った土。朝の雨の影響なのか、それとも湧水なのだろう、か。チェックする、池は地下水のポンプアップではあるが、崖地からは湧水が滲み出ていた。尾根道に進む。道は南北に通っているが、北に進み、しばらく雑木林の中を歩き、里に下りる。このあたり、樹枝状の台地が複雑に入り組んでいる。

二ツ池
さて、ここから先は、と、地図をチェック。近くに二ツ池、三ツ池公園、それと鶴見への道筋に下末吉といった地名が目に入る。池は谷戸からの湧水であろう。また、下末吉って、地質学で言うところの下末吉台地となんらか関係があるのだろう。ちょっと惹かれた。で、大体のコースを二ツ池>三ツ池公園>下末吉地区の順とする
谷戸を歩き、光明寺へ。ちょっとお参りし、それほど幅のない台地を越え東におりる。ゴルフ練習場脇を進み、車道に。少し北に戻ると道の東に二ツ池。池の中央に堤がつくられ、ふたつの池に分けられている。西は葦のような草が茂る野趣豊かな池。東側はふつうの池。多くのひとがつりを楽しんでいた。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)



三ツ池公園
池に沿って進み、再び台地に上る。鶴見女子学園のグランド南を進むと三ツ池公園に着く。こんな台地の上に池があるとは思えない。予想通り、崖地の下に池が見える。如何にも谷戸の姿。台地に囲まれた窪地から水が湧き出ているのだろう。結構大きい池である。池の周りを囲む崖上の遊歩道を進み「上之池」南端に下る。家族連れが多い。しばし休憩。

下末吉台地
公園を離れ、下末吉地区に進む。公園に沿って台地に上る。上りきったところに鶴見高校。ブラスバンドの練習の音。いかにも青春って風情。高校に沿って歩く。道は大きな下りとなっている。真っ直ぐ進むのもいいのだが、進行方向右手、つまりは道の西の地形が魅力的。一度下った谷地の向こうに再び台地が盛り上がっている。第二京浜の走る尾根道だろう、か。結構複雑な地形となっている。
この地形の「うねり」に抗すべくもなく、鶴見高校を越えたあたりで右に折れる。道の東は下末吉6丁目。当初、故なく下末吉1丁目一番地に行ってみようとも思ったのだが、行って何があるわけでもない。下末吉に足跡を残した、というだけで留めておくことに。それより、下末吉台地についてちょっとまとめておく。
下末吉台地・下末吉層;関東での地形の資料を見ているとしばしば登場する用語。この下末吉で発見された発見された地層により、往古、間氷期に現在より海面が上昇し、内陸奥地まで海が入り込んでいたことが明らかになった、とか。このとき堆積された地層を「下末吉層」、そして、海進が進んだ時代を「下末吉海進期」、そのときに形成された段丘面を「下末吉面」と呼ぶ。下末吉面の台地にあたるのが「下末吉台地」。鶴見高校のあったあたり。この洪積台地の下が沖積平野となる。そして、この上下の面の間は浸食されてできた段丘崖で隔てられている。神奈川県東部の北には多摩丘陵が広がる。神奈川県域では標高70mから90mといったところ。下末吉台地は、多摩丘陵の南、横浜市港北区、鶴見区、神奈川区に広がる。標高は多摩丘陵より一段低い40mから60mといったもの、である。

第二京浜・北寺尾交差点
下末吉面の台地を下る。下りきったところが別所交番前交差点。左手に見える白い建物が気になり左に折れる。少し進むと台地に上る。上りきったところが、第二京浜・北寺尾交差点。で、気になった建物は、道路わきに建つ聖ジョゼフ学園であった。交差点の手前にあるスターバックスで休憩。次の目的地、寺尾城跡への道順をチェック。響橋交差点で水道道に入り、馬場を経て、殿山に行けば、そのあたりが寺尾城跡の。よう。

東寺尾交差点
スターバックスを離れ、第二京浜に沿って南に進む。道の東に聖ジョゼフ学園を眺めながら進む。前方に第二京浜を跨ぐ道。この台地を繋ぐ道が響橋の、よう。第二京浜からははるか高いところを通っており、水道道に進めそうもない。響橋右折を諦め、少し進み東寺尾交差点で第二京浜から離れる。

馬場町公園
脇道はしばらく第二京浜に沿って進む。道が三叉路にわかれるところで台地に上る。台地を登りきり、住宅街を西に進むと馬場町公園。公園の北には谷地を隔てもうひとつ台地が見える。その台地に寺尾城跡があるのだろう。ということは、響橋からの道とい
うのは、その尾根道なのだろう。結構比高差のある台地を下り、窪地を進み、すぐに再び台地に取り付く。なかなか複雑な地形。上りきると結構交通量の多い車道。水道道に出た。少し北に鶴見配水場があるので、そう呼ばれるのだろう。

寺尾城
水道道・馬場3丁目交差点を少し南西に進む。殿山バス停。バス停脇から斜めに入る道。水道道を離れ脇道を少し上ると寺尾城跡の案内。案内と『多摩丘陵の古城址;田中祥彦(有峰書店新社)』を参考に、寺尾城についてかいつまんでメモする。

寺尾城跡:この城は入江川の谷戸を支配した豪族が築いたもの。城主は諏訪氏と言われる。諏訪氏について詳しいことはわかっていないが、早い時期に北条幕下に入っている。関東管領上杉氏のもとで長尾氏や大田氏が台頭することを快く思っていなかった、から。北条氏が上杉謙信と同盟を結んだときは、北条氏とともに武田信玄に備え、また、信玄と誼を通じたときは、謙信に備え川越の寺尾城に詰めた、とも。
ちなみに、寺尾と諏訪は深い関連がある、よう。川崎市、川越、そして秩父の寺尾の地はすべて諏訪氏と深い関係をもつ地である。鎌倉時代、川越の諏訪氏が寺尾姓の改姓しているほど、である、と。ちなみに、この城は北条とともに駿河に出向いているときに、武田信玄の軍勢により焼き払われた、ということだ。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」) 

入江川
先に進む。台地上は住宅街。城跡の赴きは何もなし。取り付く島もない。仕方ないので、台地を下り、寺尾城主・諏訪氏が創建の白幡神社に向かうことに。窪地に下りると川筋。入江川。地図でチェックするとこのあたりが源流のよう。流れは西に進み、西区寺尾付近でJR横浜線に沿って南に下り、神奈川区子安通りで横浜港に注ぐ。このあたりの複雑な谷戸の景観は昔入江川によって開析されたものであろう。とはいうものの、現在はほとんどが暗渠である。

白幡神社
白幡神社は向いの台地の上。坂道を上り白幡公園内にある白幡神社に。室町時代中期(1435)に創建された、と。神社を離れ、寺尾小学校に沿って台地を下る。道なりに進むと、先ほど馬場町公園に折れた交差点に。先に進み、第二京浜・東寺尾交差点に。交差点を渡り、台地に上る。今日はどれほど台地の上り・下りを繰り返した ことだろう。で、この台地がどうも最高点のような気がする。成行きで進み、鶴見獅子ケ谷通りに。東に下りると鶴見駅。西に進むとさきほどの水道道になっている。

総持寺
鶴見駅方面に下る。道の南には総持寺の寺域が広がる。遠くから見えていた青銅色の屋根は総持寺の甍であった、ようだ。総持寺は曹洞宗の大本山。はじまりは、7世紀の能登。明治31年に全山焼失。明治40年、この地に移る。移転の理由は、発展する京浜への教線を広げる、とか、海外に禅の教えを広める二は、海に面し開けたこの地がいい、ということのようだが、はてさて。ともあれ、移転を巡っては大騒動があったことであろう。そのうちに、調べてみよう。

よね饅頭
駅北にある古本屋でしばし古本を探し、最後の目的地、「よね饅頭」を売る、和菓子屋・青月に。しかし、またもやお休み。祝日は休み、日曜は休み。三度目の正直とも成り得ず。鶴と亀との「よね饅頭」になかなか、お目にかかれない。ちなみに、鶴と亀とは鶴屋と亀屋。鶴見橋のあたりにあった店の名前。よね、は浅草待乳山下にあった鶴屋の娘の名前。よね、さんがつくったのだ、と。
それにしても今回散歩の地形は実に面白かった。樹枝状に開析された丘陵地帯は、谷戸が入り組み複雑このうえない。鶴見といった海岸近くは、平坦なる低地であろうかと思っていたのだが、下末吉台地が鶴見川などによって複雑に開析され、結果、アップダウンに富んだ、魅力的な地形であった。結構満足。

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コメント(2)

鶴見在住の者です。私も、こういった古い地形や、古い道や、郷土史などが大好きなのですが、実際にこんなには歩いていません(昔、獅子ヶ谷辺りの、地図にある神社に片っ端から行ってみたことがありますが)。たいへん楽しく読ませていただきました。
他の記事も読ませていただきます。

ボタニカ様
コメント有難うございます。
特段、これといったテーマもなく、彼方此方を彷徨っています。お江戸日本橋の歌にある、「鶴と亀とのよね饅頭」が鶴見駅前の和菓子屋さんで「復活」したとのことで、3度出向いたのですが、いつもお休みで、いまだ口にしていません。
定休日くらい調べていけばいいと思うのですが、行き当たりばったりの散歩と同様、成り行き任せが基本の性格はなかな直りません。面白い散歩コースでもあればご案内ください。
ありがとうございました。

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