守谷散歩そのⅡ:守谷城址からはじめ、かつての古城沼を抜けて小貝川へと

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昨年秋、将門ゆかりの地を訪ねて守谷を彷徨った。基本、事前準備なし、なりゆき任せが散歩のスタイルではあるが、それでも駅を下りれば、なんらかの名所旧跡案内といったマップがあり、それなりに、なんとかなっていた。 が、守谷は思惑と少々異なり、駅を下りても全く何もなし。結局お散歩情報を求めて、5キロほど歩き中央書館で将門ゆかりの地を調べ、それなりにその跡を辿り、最後は守谷城址で散歩を締めくくった。
後日、その散歩のメモをまとめていると、その守谷城址は、守谷城全体のほんの触りの部分に過ぎないようであった。守谷城は、守山城址の案内のあった舌状台地部分(現在の城内地区)と、その先にある平台山と称する島状の台地を合したもの。平台山は鎌倉期に館が築かれた地であり、そこは守谷本城とも呼ばれる。城内地区は手狭になった守谷本城を近世なってに拡張された城域であった。
ということで、今回の守谷散歩の第二回は、守谷城址を再訪し近世の守谷城域を彷徨い、その後で守谷本城と称された平台山へと向かうことに。守谷本城のある島状の平台地の周囲には水が迫り、天然の要害であった、とか。守谷本城を彷徨った後は、城を囲む水の主因でもあった小貝川の流れまで進み、川筋から城跡の景観を楽しむことに。その後は成り行きで日暮まで散歩を楽しむべし、という段取りで守谷に向かった。



本日のルート;守谷駅>雲天寺>八坂神社>薬師寺>石神神社>天王観世音>守谷城址>川獺弁天>熊野神社>小貝川>天満宮>赤法花>常総橋>同地瑠璃光山>小貝排水路>薬師堂>守谷駅>永泉寺>松並木>守谷駅

雲天寺
成田エクスプレスで守谷駅に。慣れた道筋を近世の守谷城址のある台地に向かう。台地に上る坂の辺りに雲天寺。先日の守谷散歩では家路を急ぐあまり、パスしたお寺さま。境内に入り、本堂にお参り。創建は天正3年(1575)。この浄土宗のお寺さまの本尊の阿弥陀如来は、目黒区中目黒の祐天寺にその名を残す祐天上人が入仏供養したと伝わる。祐天上人は陸奥国(後の磐城国)磐城郡新妻村の百姓の子に生まれ、浄土宗の最高位にまで上りつめた稀代の呪術師と伝わる。
幼少の頃は暗愚と呼ばれながらも、後に成田山新勝寺の不動明王から授けられた法力をもって、怨霊を鎮め、それ故か5代将軍徳川綱吉、その生母桂昌院、そして徳川家宣の帰依を受け、幕命により下総国大巌寺・同国弘経寺・江戸伝通院の住持を歴任。正徳元年には(1711年)増上寺36世となり、大僧正に任じられた。祐天寺は隠居し晩年を過ごした草庵(現在の祐天寺)である。
享保3年(1718年)82歳で祐天寺の草庵で入寂するまで、多くの霊験を残したが、その中で最も名高い奇端は、下総国飯沼の弘経寺に居た時、羽生村(現在の茨城県常総市水海道羽生町)の累という女の怨霊を成仏させた累ヶ淵の説話。曲亭馬琴の読本『新累解脱物語』や、三遊亭円朝の怪談『真景累ヶ淵』などは、その説話がもとになっている。
寺には俳人である斎藤若雨が眠る。斎藤若雨こと斉藤徳左衛門氏は江戸初期から名主役を務めていた家柄。流山の醸造家秋元双樹の庇護を受け、しばしば下総を訪れていた小林一茶との交誼も深く、一茶も斉藤家で句会を開いていた、とのことである。
先回の守谷散歩で西林寺に一茶の句碑を見たが、その「行くとしや空の名残りを守谷まで」と刻まれた句碑は、文化7年(1810年)、一茶が西林寺を訪れたときに詠んだもので、碑は終戦後、斉藤徳左衛門(若雨)の子孫である斉藤隆三氏をはじめとする有志によって建立された、とあった。

八坂神社
台地を上り、先回場所がわからなかった八坂神社を目指す。守谷の総鎮守と称される以上、とりあえずお参りせん、との心根である。古きの趣を僅かに残す町並みを進むと、神社は先回訪れた守谷城址の案内のある守谷小学校のひとつ手前の道脇にあった。
樹齢数百年と称される銀杏の木の下の鳥居をくぐり境内に。樹齢400年とも伝わる欅を見やり社殿にお参り。祭神は素戔嗚尊(牛頭天王)。世の多くの八坂神社が元は牛頭天王宮であり、八坂神社となったのは明治の神仏分離令以降との例にもれず、この八坂神社も元は牛頭天王宮と称し、大同元年(806)、守谷の本宿(現在の高野地区。高野地区は先回の散歩で訪れた)天の窪に祀られた。 現在の地に移ったのは慶長3年(1598)。守谷城主土岐山城守によって現在の地に社殿を遷座したと伝わる。その後、寛文2年(1662)に火災により焼失、同年堀田備中守により再建されるも、寛文5年(1666)に再び火災により焼失。寛文11年(1671 )城主酒井河内守によって再建、元禄5年には関宿城牧野備後守により大修営され、その後改修をはかり現在に至る。

○八坂神社と牛頭天王
上で、その牛頭天王が八坂神社となったのは明治の神仏分離令以降とメモした。その所以は、本家本元・京都の「天王さま」・「祇園さん」が八坂神社に改名したため、全国3,000とも言われる末社が右へ倣え、ということになったのだろう。
八坂という名前にしたのは、京都の「天王さま」・「祇園さん」のある地が、八坂の郷、といわれていたから。ちなみに、明治に八坂と名前を変えた最大の理由は、「(牛頭)天王」という音・読みが「天皇」と同一視され、少々の 不敬にあたる、といった自主規制の結果、とも言われている。
で、なにゆえ「天王さま」・「祇園さん」と呼ばれていたか、ということだが、この八坂の郷に移り住んだ新羅からの渡来人・八坂の造(みやつこ)が信仰していたのが仏教の守護神でもある「牛頭天王」であったから。また、この「牛頭天王さま」 は祇園精舎のガードマンでもあったので、「祇園さん」とも呼ばれるようになった。

○守谷藩
八坂神社の修繕に幾人もの大名が登場する。この大名と守谷がどう関係するのかチェックすると、当然と言えば当然ではあるが、皆、この守谷の地の領主ではあった。とは言うものの、守谷に本格的な城があり城下町があったようにも思えないのでチェックする。
この守谷の地には鎌倉時代、千葉宗家第五代常胤の二男・帥常が館を構え「相馬氏」を称した。千葉宗家は中世下総国相馬郡を領した平良文の流れ(下総平氏)を継ぐ名門である。その名門下総相馬氏も秀吉の小田原の陣では小田原後北条の傘下として参陣。守谷城は秀吉勢の浅野弾正少弼長政、木村常陸介重滋の軍勢により落城。下総相馬家もここに絶え、下総相馬家第5代胤村の時、胤村の五男である帥胤が陸奥行方郡の領地に土着した奥州相馬氏が下総平氏の流れを後世に伝えることになる。因みに、浅野弾正少弼長政、木村常陸介重滋には先回の散歩の長龍寺で、寺が軍兵らによって荒らされることを防ぐ「禁制文書」で出合った。
後北条滅亡の後、徳川家康が関東に入府し、下総相馬氏の絶えた守谷の城には菅沼定政氏(後に土岐氏を名乗る)が1万石で入城。土岐氏はこの地で数代続くも定義の代に高槻城に転封。守谷城主を継いだ定義の子も上山に転封となり、守谷城は事実上の廃城となった。
その後、寛永19年(1642)には、守谷の一部が佐倉藩堀田氏の所領となり、堀田正俊が1万 3000 石の領主となる。寛文元年(1668)には酒井忠孝が2万石の領主となるも、天和元年(1681)には酒井忠挙の代に厩橋(前橋)へ転封となる。
城主のいなくなった守谷は元禄元年(1688)には、 関宿藩領へ編入され守谷藩は廃藩となり、以後、幕末まで関宿藩領、天領、田安領(徳川御三卿の一つ)、その他旗本領に分割されて続いた。土岐定政よりはじまる守谷藩は3万石以下の小大名で、城はなく陣屋を設け代官を置いていただけ、とのことである。

薬師堂
台地上の上町から下町へと向かう。先日の散歩で見落とした薬師堂に訪れるためである。下町を進み、道が台地を下り始めるあたりの左手に石段がありその上に誠にささやかなお堂がある。どうもそのお堂が薬師寺のようであった。案内もなく、お参りをする、のみ。

石神神社
次の目的地も先回取りこぼした石神神社。先回の散歩で訪れた乙子地区の「石上神社」は本堂の周囲に男根の石像を配した、結構立派な社であったが、こちらの石神様は鳥居にも「石神神社 稲荷神社」と併記されるといった、誠にささやかな祠ではあった。
散歩の折々で石をご神体とした社によく出合う。原初的な信仰は巨石・奇岩より起こったとも言われる。古代の遺跡からは石棒が発掘されるとも聞く。石には神が宿り、それが豊饒=子孫繁栄の願いと相まって石神信仰がひろまっていったのであろう、か。



この石神様は舌状台地の端にあり、眼下,と言っても数メートルではあるが、眼下に台地下の葦原が広がる。葦原の左右、そして前面には緑の台地が控え、なかなか美しい景観である。葦原は往昔、水に覆われていた一帯であろう。







天王観世音
台地下の崖に沿って坂を上ると、途中に13体の石碑が佇む。もっとも大きい石碑には「天王観世音」と刻まれる。結構散歩をしているのが、「天王観世音」に出合ったのはここがはじめ。
天王観世音って、何だろう?あれこれチェックしても、これといった情報が見つからない。で、妄想をするに、天王といえば牛頭天王。とすれば、この天王観世音は牛頭(天王)観世音のことではないだろう、か。もともとの牛頭天王の意味から離れ、「馬頭」観世音に対する「牛頭」として、牛を祀ったものではないだろう、か。実際、川越の高松寺には牛頭観世音と称される石碑が残る、とか。


(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)

守谷城址
坂を上り、なりゆきで先回訪れた「守谷城址」の案内、土塁の残る守谷小学校脇に向かう。「守谷城址」の案内を再掲:守谷城の概観:守谷城は守谷市(城内地区)と、平台山と称する島状の台地とを 併せて呼ばれている。鎌倉時代の初期に平台山に始めて城館が構築 されたが、戦国時代になると戦闘様式等の進展に伴って城は現在の守谷小学校(本郭のあった所)周辺に増築、移転した。 平台山に最初に構造された城の事を守谷本城とも呼ばれている。この守谷本城は鎌倉時代になって、平将門の叔父に当る平良文の子孫、 相馬師常によって築城されたもので、素朴な鎌倉様式を残した名城である。師常は源頼朝の旗上げに最先かけて参陣し頼朝の重臣として幕政に 参画し、その功によって相馬郡の他に結城・猿島・豊田(一部)の諸郡を 拝領し、更には奥州相馬の地をも賜ったのであるが、守谷本城は それらの領地を統轄する本城としての役割を演じたものである。
本城の面積約21,254㎡で、それを三郭に分割し、各郭は大規模な土塁、堀等によって 区画され、その堀には満々たる水が入り込み舟着場も残されている。 なおその三郭には妙見社も建てられ、相馬野馬追いの行事はその社前で 実施されたといわれている。 なお、本城は戦国期になって本拠を現在の城内の地に遷したが、 その後は守谷城の出城として使用されていたようである。
本城は戦国時代を迎えると城内の地にその拠点を移動したが、そのことは城内第六郭の発掘調査によって判明した。この調査によってこの城は15世紀より16世紀全般に亘って その機能を発揮した城で、ここから戦国期の建造物(宿舎・事務所・倉庫・馬舎) 26棟が発掘され、それに付属して井戸・堀・食糧貯蔵庫・墓拡・製鉄加工所等 が検出され、多くの貴重な遺物が出土した。なお、図面(下の地図)によってみると、小貝川より入る一大水系は満々たる水を湛えて城域を囲み、更にはその城域の極めて広大な事、築城技術の入念な事、 それは天下の名城としての様相が偲ばれるのである。
永禄9年(1566)城主相馬治胤がこの城を古河公方に提供し関東の拠点となすべく計画を進めたのもこの城であった。この城は北条氏の 勢力下にあったので、小田原落城後豊臣秀吉軍の進攻により廃城となった」、とある。
案内によると、小学校脇の守谷城址のある「城内地区」は、戦国時代に増築、移転された城跡であり、鎌倉時代に構築されたもともとの守谷城は、平台山と称される島状の台地にある、ということ。掲載されている地図によると、小学校の右に本郭、5郭、左に6郭、その前面に左から2郭、3郭、4郭と並ぶ。小学校の辺りには大手門があったようだ。とは言うものの、現在は宅地となっており、往昔の風情は小学校脇の土塁のほか特に何も残ってはいないようである。

平将門城跡
守谷城趾の碑の真後ろ、守谷小学校の敷地内に、「平将門城跡」の石碑がある。昔から、この守谷城が東国の新皇となった将門の皇城との説があるようだ。「将門記」には上野国府を攻撃占領した後、新皇を称して、皇城を築いたとあり、その場所は「下総の国亭南」とのこと。皇城そのものの真偽及び位置は不明とされるが、「相馬日記」など、古くからこの守谷城址が将門の皇城との説もあるが、「案内板」の記述にあるように、中世以来相馬氏の居城と比定されており、将門皇城説は現在ではほぼ否定されている。

和田の出口
守谷本城に向かう前に、城内地区に近世に守谷城のなんらかの痕跡がないものかとしばし彷徨うことに。誠に大雑把な案内ではあるが、守谷小学校の北辺りに「和田の出口」とあるので、先ずはそこを目指す。地図で見るに、和田の出口は舌状台地の窪んだ辺りにある。とはいうものの、宅地開発された一帯に舌状台地の痕跡を探すのも困難であり、小学校の敷地に沿って進むと、小学校の北側の台地と崖地の交わるあたりに「和田の出口」があった。



民家の隣の小さな林の中にある案内によると、往昔守谷城二の丸(近世城郭では4郭とある??)の出口にあたり、出口は旧守谷城と結ばれていた。その下には船着場があり、軍事経済上の拠点であった。かつては「和田の出口榎の木」と称される榎の大木があったが、現在は枯れて新木が植え直されている、と。船着き場へと下りる道があればと、近辺を彷徨うも、「和田の出口」の辺りは個人の敷地のようでもあり、また崖を下りる道も見つからなかった。


舌状台地先端部
和田の出口を離れ舌状台地の先端部に向かう。往昔水で覆われていた湿地帯でも見てみようか、できれば下り口を見つけ、かつての湿地帯を横切って平台山の本守谷城に向かおう、と。台地先端部に向かうに、台地先端部近くまで宅地開発が進み、その上先端部を横切って結構広い道路が建設中であった。
守谷小学校の駐車場脇から建設中の道路に下り、工事中の道を進むに、小規模な舌状台地の窪み部分など埋め立てられているようにも思える。また、台地から湿地帯に下りるルートを探すに、一面の葦のブッシュでとても湿地部に下りることもできそうにない。眼前に平台山の緑を見ながらも、結局湿地からのアプローチはあきらめる。台地先端部を辿った唯一の成果は、建設中の道路から「和田の出口」の辺りの台地と、その下一面に広がる湿地帯を見ることができたこと。船着き場があってなんら不思議でない景観が現在でも残っていた。 建設中の道を折り返し、道路の北端部、旧来の道と建設中の道路の接点部に。そこを右に曲がると偶然にも守谷本城へと続く道筋であった。

守谷本城
鎌倉時代の初期に下総相馬氏が館を構えた守谷本城に進む。道脇の城の案内によると、台地を下った城への入口のあたりに「堀切」が造られ、城を外部から切り離している。城の入口には「枡形虎口」があり、その脇には「矢倉台」があり、次いで「御馬家台」と続く。更にその先にある「平台」とは「空堀」で区切られ、「平台」の先には空堀を跨ぐ橋があり、「土橋」と記された台地部と結ぶ。「土橋」台の先に空堀と、名称無き台地部、そして先端部に「妙見曲輪」といった構えとなっている。


「御馬家台」が小学校脇の案内で見た「二郭」、「平台」が「本郭」ではあろう。「二郭」と「本郭」の間の空堀は結構なもので、6mから7mの深さがあるように見える。「本郭」両側には高さ2mほどの土塁も残る。本郭と土橋台は木橋で繋がり、その先にある名のない台地(三郭だろうか)との間の空堀も5mほどもある。

○妙見曲輪
守谷本城をあてどもなく彷徨う。妙見曲輪は千葉氏の守り神である妙見信仰故の命名であろう、か。妙見信仰といえば、秩父神社が思い出されるが、秩父神社は平良文の子が秩父牧の別当となり「秩父」氏と称し妙見菩薩を祀ったことがはじまり。平忠常を祖とする千葉氏はその秩父平氏の流れをくみ、妙見菩薩は千葉家代々の守護神であった。 千葉一族の家紋である「月星」「日月」「九曜」は妙見さまに由来する。 妙見信仰は経典に「北辰菩薩、名づけて妙見という。・・・吾を祀らば護国鎮守・除災招福・長寿延命・風雨順調・五穀豊穣・人民安楽にして、王は徳を讃えられん」とあるように、現世利益の功徳を唱える。実際、稲霊、養蚕、祈雨、海上交通の守護神、安産、牛馬の守り神など、妙見信仰がカバーする領域は多種多様。お札の原型とされる護符も民間への普及には役立った、とか。
かくして、妙見信仰は千葉氏の勢力園である房総の地に広まっていった。上でメモしたように、下総相馬氏は鎌倉時代、平良文の流れ(下総平氏)を継ぐ千葉宗家第五代常胤の二男・帥常が守谷に館を構え「相馬氏」を称したものである。

川獺(かわうそ)弁天
成り行きで守谷本城を歩いていると、知らずに台地を出てしまった。守谷本城台地を囲む、かつては守谷池(沼)と称された湿地部に出たわけだが、台地から往昔の湿地帯の中に土手が造られていた。草の茂る土手を進むと、右手に人工のものらしき池があり、更に進むと微高地に出た。微高地の傍に整地された公園(守谷城址公園)があり、そこにある案内を見ると、その微高地は「川獺(かわうそ)弁天」、とあった。
微高地に上るに、川獺弁天の名にあるような弁天様の社も祠も見当たらないが、その昔はこの地に守谷城の鬼門除けの弁天様が祀られていた、と。かつて、満々と水を湛えた守谷池(沼)には多くの川獺が生息していたのではあろう。なお、その守谷池(沼)はさきほど見た如何にも人工の池が沼の痕跡。昭和43年(1968)の整備事業によって整備・縮小されたのではあろう。人工の池ではあるが、その守谷池(沼)と守谷本城址のある台地を重ね合わし、往昔の湿地に屹立していた守谷本城を想う。

同地地区
川獺弁天から小貝川方面を見やると、かつての湿地は耕地となっており、その先の小貝川との間には同地(どうち)地区、とか法花(あかぼっけ)地区といった台地があり、川筋を見ることができない。案内に、「小貝川より入る一大水系は満々たる水を湛えて城域を囲み。。。」とあった小貝川を見ないわけにはと、川筋へと向かう。


小貝川排水路を越え、同地地区の台地の緩やかな坂を上る。台地を上り切れば小貝川の堤が見えるかとも思ったのだが、道と川筋の間に畑や林があり小貝の流れを見ることができない。なんとか川筋を見ようと、成り行きで畑の畦道に入り込み先に進むが、川に沿って茂る葦のブッシュなどで遮られ流れは全く見えない。
それでも、なんとかなるかとブッシュを掻き分け一瞬だけ川筋に出るも、それより先には進めない。再びブッシュを掻き分け、畑地の端を進み、竹林を抜け、としばらく先に進むも、どうも川筋に出る可能性はない、と藪漕ぎをあきらめ、畑の畦道を抜けてまともなる道に戻る。






赤法花地区
同地地区を進み赤法花地区に出る。赤法花(元は赤法華)の由来は、本守谷城内からの眺めが「中国の赤壁」に似た景観であったため、と言う。昔は台地が削られ赤土も出ていたのだろうか。守谷本城から眺めた現在の台地は深い緑に覆われているだけではある。因みに、中国の赤壁とは、『三国志』の赤壁の戦い(せきへきのたたかい、中国語:赤壁之戰)で知られる。中国後漢末期の208年、曹操軍と孫権・劉備連合軍の間の戦いである。




天満宮
道脇に天満宮。将門と菅原一門は浅からぬ因縁で結ばれており、それ故の天満宮であろう、か。歴史に名高い両者の因縁とは、共に怨霊として天変地異を起こし、よって怨霊を鎮めるべく社に篤く祀られた、ということではない。道真流罪の後に起こった天変地異に怖れを抱いた朝廷は道真一族を遇することに。この下総の地には菅原道真の三男である景行が延喜9年(909)に下総守として下向。これを契機に当時実質上の下総介であったである良門(将門の父)を筆頭にした下総平氏一門との交誼がはじまる。そこには、下総平氏の都での良き理解者であった関白・藤原忠平が同じく菅原道真の良き理解者であったことも縁無きことではないだろう。
下総平氏一門との友好な関係のもと、延長4年(926)、常陸介となった景行は常陸大掾の源護、将門の叔父である平良兼とともに常陸国羽鳥庄に道真を祀る社を建てている。景行はこの下総平氏一門との友好関係を基盤に、飯沼の南岸の農地開拓や飯沼を活用した水運、また飯沼北岸の大草原を活用した牧場経営につとめるなど、下総・常陸に在任した24年の間に、此の地に多くの業績を残している。因みに平将門が生まれたのは菅原道真が太宰府に流された3年前であり、また道真の三男・景行が下総・常陸を離れたのが将門が都での宮廷警護の任を終え下総に戻った延長8年のことであり、将門とが菅公一門との直接コンタクトはなかったようである。

常総橋
天満宮を離れ、豊かな農家の家並みを眺めながら県道46号に出る。挑戦すれども結局見ることができなかった小貝川を眺めるべく、県道を東に進み常総橋に。この辺りの小貝川は常陸と下総の境でもあり、両国の一字を取った橋名であろう。橋からしばし小貝川の眺めを楽しむ。橋からチェックするに、とても川に沿って進めるといった雰囲気ではなく、川筋一面がブッシュや木々で覆われていた。途中で藪漕ぎをやめて正解であった。
橋の向こうの緑の森に祀られる水神宮に少々遠くからではあるが一礼し、道を西に折り返す。赤法花の西に古城沼交差点があるが、この辺りから守谷本城のある守谷池(沼)あたりまで「古城沼」と呼ばれていたようである。湿地は埋められ現在はすべて水田となっている。
埼玉の見沼など、散歩の折々で湿地の中に排水路を通し、そこに悪水を集め湿地を新田開発を進めたケースを目にする。この地も水田の中ほどに小貝排水路があるが、沼地の水をこの排水路に集め、新田開発を進めたのではあろう。

再び川筋のブッシュに戻る
で、予定ではこの地から県道46号を西に進み、北園地区から永泉寺へと向かうつもりではあった。が、リュックのサイドポケットを見ると、田舎のお袋にもらった折り畳み傘が見当たらない。どういうことにない、ありきたりの傘ではあるのだが、何となく気になり、先に進むか、探しに戻るか少々悩むも、結局辿った道を戻り、落としものを探すことに。
県道46号から赤法花の台地の森、天神様を越え、道々折りたたみ傘がないものか目を凝らしながら進む。道には見つからず、結局畑地に戻り、竹林を抜け、ブッシュを掻き分け、来た道を戻ると、川筋脇のブッシュの中に落ちていた。場所はほとんど同地地区まで戻ってきていたので、赤法花に戻ることなく、同地の台地から元来た道を守谷本城へと進むことに。

同地の薬師堂 
成り行きで進むと同地公民館。地域の人たちが宴会を開いていた。公民館のすぐ隣には小振りながらも出来たて、といったお堂があり瑠璃光山とあった。同地に薬師堂があるというが、場所からいえば、このお堂のことであろう、か。昔は鬱蒼とした木々に覆われていたとのことだが、現在はその面影は、ない。薬師堂の中には30センチ弱の薬師様が祀られる。室町の作と伝わる。

 

奥山の薬師堂
お堂を見やり、台地を下り、再び水田地帯をかつての湿地を想いやりながら進む。小貝排水路を越え、再び台地に上る。先に進むと三叉路がある。同地への道、みずき野団地への道、奥山新田への道の分岐点である。
分岐点に古き趣のお堂が佇む。奥山の薬師堂と称されるこのお堂の中には、江戸時代初期に造られた32センチほどの薬師如来、日光菩薩が祀られる、とか。

エコミュージアムをつくる会の案内板
お堂で一休みしながら場所をチェックすると、守谷本城からは大きく外れ、ほとんど関東鉄道常総線の南守谷に向かっている。方向を修正し、守谷駅方面へと向かう。



台地を下り、再びかっての湿地帯に入り、葦の生い茂る一帯に続く小道を進む。本町の台地に上る手前に守谷にエコミュージアムをつくる会の案内板:「約1万年前最終氷河期が終わり、海面が上昇、このあたりは内海に面していた。大谷津田に繋がる湿地はその名残りで、緑濃い林地と生き物たちの棲息地が手つかずで残されていた。近隣の人々や小中学校の協力で熊笹に覆われた旧道を歩行可能な状態に整備しました。水鳥や水棲生物の生態が見られる自然環境を博物館に見立てたエコミュージアムであり、また、利根川、鬼怒川、小貝川を巡るサイクルロードの一部になると考える」とあった。この野道も、地域の人たちのボランティアの賜物と感謝。

永泉寺

勝手知ったる本町の台地を進みつくばエクスプレス守谷駅に。落し物を取りに戻り、その後も遠回りの道を進み、守谷駅についたのは日暮前。予定にしていた永泉寺を訪ねるか否か、ちょっと迷うも、結局は永泉を目指す。
守谷駅から北東へ伸びる大きな道を進み県道46号と交差するあたりに永泉寺への参道があった。結構長い参道である。杉並木の続く参道を進み境内に。右手に鐘楼がある。正面本堂へと進むと、足元の石畳に「九曜紋」とか「左り三つ巴紋」。九曜紋は千葉氏>下総相馬氏の紋。三つ巴紋は藤原摂関家、西園寺家や多くの大名の家紋に見られる。神社では八坂神社とか妙見社で見かけることがあるが、それらの神社に限らず「左三つ巴紋」は神社でもっとも多く使われている紋のようではある。




本堂にお参り。創建は延暦元年と言うから西暦782年。相馬政安により建てられた、と。寺には「聖徳太子」の木造立像が残るが、「相馬(式部太夫)政安」の「聖徳太子の霊夢」との縁起が残る。「笏のみを持つ形の像」は極めて異色で、鎌倉時代の末期~南北朝時代(1300年代後半)ごろの製作と推定され、元は「常州稲田(現、笠間市)の禅房において、祖師「親鸞聖人」が彫刻され、性信房に下されたものを、仏縁によって譲られた」とも伝わる。
天慶の乱より以降に再建された、とも伝わるこの古刹にも将門伝説が残る。曰く「将門の滅亡後、遺族や残党が将門や影武者の土偶を、この地に祀った事に始まる寺」、と。縁起によると、将門は「天慶の乱」(939~940年)に敗れ、自分に似せて作った6人の土武者を安置し、堂宇を建てた。将門伝説によく登場する七騎の武者(影武者)の伝承を思い起こさせる話ではある。
時代は下り、天正元年(1573年)、常陸・下妻の多賀谷修理太夫が当寺を責める。相馬氏が小田原後北条方に与した故の、戦いであろう、か。寺の境内や墓地を囲むように、防御のために築いた土塁が残る、とか。

将門並木
境内を離れると、お寺の少し南に松並木の街道がある。古来、「内裏道」とか「将門並木」とも称された。相馬に将門の王都があった、といった伝説と被る。守谷に将門の城もなかったようだし、王都もなかったようではあるが、将門人気故の伝説ではあろう。松並木は永泉寺の辺りから北に結構続いているようではあるが、もとより、その街道を辿る体力・気力も残っておらず、最後の力を振り絞って成田エクスプレス守谷駅までたどり着き、本日の散歩を終える。

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愛媛県上浮穴郡久万高原町の越ノ峠から…
予土往還 土佐街道・松山街道 ⑩ ; 薬師堂集落の「道分れ」から鈴ヶ峠へ
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