多摩丘陵の南端を歩く:大塚・歳勝土遺跡に出会う

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 田園都市線・荏田駅から東横線・大倉山駅に

多摩丘陵を数回歩き、横浜市青葉区市ヶ尾まで下ってきた。地形図をチェックすると、丘陵はまだまだ南に続いている。どうせのことなら、多摩丘陵の南端まで歩こう、と思った。
地図を眺め、コースを想う。田園都市線・荏田駅から南東に2キロ強、早淵川を下ったところに横浜市歴史博物館がある。実のところ、この港北地区の時空については、まったくもって、何も知らない。とりあえず博物館に行き、あれこれお勉強をする。散歩のコースはそれから考えようと、いうことに。結果的に、横浜市都築区・港北区を歩くことに。(月曜日, 8月 20, 2007のブログを修正)



本日のルート;田園都市線・荏田駅>東名高速>国道246号線>荏田町>剣神社>緑地・愛和幼稚園>神社裏>荏田南町>荏田東町>早淵川・矢先橋>13号・横浜生田線>区役所通り>横浜市歴史博物館>大塚・歳勝土遺跡>13号・横浜生田線>早淵川>最乗寺>勝田町>勝田団地>第三京浜交差>新田・庚申堀>市営地下鉄三号線・新羽(にっぱ)町>鶴見川・新羽橋>太尾町・大曽根台町>大倉山公園>東急東横線・大倉山駅

田園都市線・荏田駅
田園都市線・荏田駅に。「荏田」とは「湿地」の意味。早淵川沿いの湿地であったのだろう。また、この地は江田氏の本拠。義経や頼朝に従って活躍した、と。江田が荏田になったのがいつの頃からか、はっきりしない。荏田駅の南口に下りる。駅前に道路が複雑に交差する。あざみの駅方面から南北に通る道。北東から南西に通る国道246号・厚木街道。同じく北東から南西に走る高架は東名高速。地図を見ただけではわからないが、地形図を見ると、厚木街道も東名高速も、台地の高みを避けて走っている。そして、荏田で交差したふたつの道は、多摩丘陵を越え、鶴見川によって開析された谷地へと走ってゆく。川もそうだけれども、道も自然の地形に抗うことなく、素直に続いているよう、である。

剣神社
歴史博物館に行く途中に、どこか見どころはないかと地図をチェ
ック。駅の南東、1キロ弱のところに剣神社。名前に惹かれた。とりあえず進む。厚木街道を少し引き返す。台地に向かって上ってくる道を逆に歩き、最初の交差点・荏田西団地入口に。そこで右折し台地へと上る道に。荏田第二公園脇を進み、台地上に上る。で、何処で左に折れたのか今となっては定かではない。あたりは畑。目印がないわけだ。とりあえず台地を下る。眺めはいい。下は早淵川で開かれた「谷」ではあろう。
のどかな畑地をゆっくり下る。道に「縄」。とはいうものの、なんとなく動いている。蛇。結構大きな蛇。勘弁してほしい。お蛇様がゆったりと道を横切るまで待機。見えなくなって、小走りに進む。細路を進む。蛇を見た直後でもあり、少々緊張。ほどなく剣神社に裏手に出る。
剣神社。いままであれこれ歩いたが、この名前の神社ははじめて。縁起とか由来案内がなかったので、ちょっと調べる。どうも「本家」は、越前にある剣神社ではなかろう、か。越前では気比神社についで二宮ということだから、それなりに格式のある神社なのだろう。別名織田明神。越前の領主であった、朝倉・斯波・織田氏の庇護を受け、特に織田氏はこの神社を氏神として祟敬した、と。
WEBで調べていると、違う視点からの「剣」に関するアプローチがあった。音韻、というか「音」からのアプローチで、その説によれば、剣も都築も、表記は異なるが、「音」は同じ「tungus」である、と。また、敦賀も駿河も津軽も角も鶴も、筑紫も、戸越も、富樫も櫛も楠も、みな音は同じである、とする。真偽の程は分からないので、このあたりに留めておく。が、剣と都築が同じってことは、なんらか意味があるのか、単なる偶然か、はてさ。。。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


早渕川
神社の前に車道が見える。そのまま里に下りようか、とも思ったのだが、台地をもう少し歩いてみたい、先はどうなっているのかちょっと知りたい、との想い、あり。という事で、神社裏手の小道を引き返す。畑の畦道といった台地中腹の道筋を進む。成行きで進むと愛和幼稚園。南に進むとT字路。東に折れ、下ると車道・神社裏交差点に出る。
車道を越え、荏田南町にある台地の裾を迂回する。北端近くで台地に上る道に進む。すぐに台地を下りると荏田東町。早渕川が流れる。地形図でチェックすると、このあたり、いかにも開析谷。多摩丘陵が早渕川によって「開かれ」ている。早渕川は、青葉区の美しが丘、というから、田園都市線・あざみの駅の北が源流。都築区、港北区を流れ鶴見川に注ぐ。蛇行を繰り返し、早瀬や渕があったのが、名前の由来。荏田駅へと台地を上る国道246号線は、この早渕川の低地から上ってきていたわけだ。

横浜市歴史博物館
川に架かる矢先橋を渡る。台地手前を東に進む。早渕川の両サイドは丘陵地。緑が深い。太古の地形に想いを馳せる。しばらく歩くと、急にモダンな街並み。区役所通りと交差。センター北、といった地下鉄の駅がある。このあたりは港北ニュータウンの中心(センター)なのだろう。自然豊かな丘陵地とのコントラストが印象的。区役所通りを越え、地下鉄なのだろうか、高架を過ぎ、右に折れると横浜市歴史博物館がある。ここに来るまで、博物館が、どうしてこの場所にあるのか、意味不明、であった。なにせ、このあたりの地名は中川であり、牛久保、といった「ローカル」な名前。が、来てみて納得。都築の中心地であった。
横浜市歴史博物館に。横浜市の太古より現代までの歩みをスキミング&スキャニング。印象に残ったことは、このあたりも海進・海退が繰り返された、ってこと。どのあたりまで海が入り込んできていたのか、いまとなってははっきり思い出すことはできないのだが、海進期の地層が下末吉層であり、その段丘面が下末吉台地であるとすれば、今歩いている多摩丘陵あたりまで海が入り込んできていたのだろう、か。多摩丘陵の南には下末吉台地が広がっているわけであり、その比高差はおおよそ10m程度といったところ。その崖線が太古の海岸線であったのであろう。
また、もうひとつ印象に残ったことは、このあたりに古墳というか遺跡が非常に多いこと。この博物館に来るまで全く知らなかったのだが、大塚・歳勝土遺跡といった国指定の弥生時代の遺跡がある、と。もっとも、これほど古墳が多く見つかったのは、港北ニュウタウンの開発と大いに関連あるようにも思える。往古の人は台地上に集落を造らざるを得ないわけで、というのは低湿地など川の乱流・氾濫が怖くて住めるわけもないわけであり、そういった台地を掘り返せば遺跡・古墳が出てくるのは当たり前といえば当たり前のこと、である。
開発主体がお役所がらみであったことも、多くの遺跡がみつかったことと関係あるように思える。お役所がらみの大手ディベロッパーが開発主体であれば、工事現場から遺跡が見つかれば、きちんとレポートせざるを得ないわけで、結果的に多くの遺跡が見つかったのではなかろうか。ちなみに、文化財保護法って法律ができて以来、遺跡の発見・報告の数が激減した、といった記事をどこかで読んだ記憶がある。工事中に遺跡が見つかれば報告すべし、というのがこの法律。で、遺跡の調査、となれば、工事が中断。段取りが狂う。お金が入ってこない。結果として、頬かむり、となるわけだ。が、お役所主導の大規模開発ゆえに、キチキチと遺跡が発見・発掘された結果が多くの遺跡が見つかった主因ではなかろう、か。
そうそう、メモし忘れそうになったのだが、博物館で印象に残ったこととして、中小の河川流域を開発した古墳時代の人達は、その後、枝分かれし、谷戸の窪地への開発へと移っていった、ということ。勿論集団の規模は小さくなる。先日市ヶ尾の横穴古墳の主は、谷地の村の長、といった案内があり、いまひとつ、よくわかっていなかったのだが、ここにきて納得。

大塚・歳勝土遺跡
さてさて、次の目的地は、といっても、大塚・歳勝土遺跡と決まってはいるのだが、どこにあるのか、と地図をチェック。あれ、博物館のすぐ隣にある。博物館をブラブラしていると、大塚・歳勝土遺跡へのアプローチにのぼるエレベータもあった。エレベータで屋上に。歴博通りを跨ぐ陸橋を渡り、大塚・歳勝土遺跡公園に。入口で案内を眺め、まずは大塚遺跡に。
大塚遺跡;弥生時代の環濠集落跡。今からおよそ2000年前の竪穴住居、高床式倉庫などが復元されている。およそ100人ほどの弥生人が住んでいた、とか。歳勝土遺跡はこの地の人達のお墓である。港北ニュータウンの開発にともなう事前事業として昭和48年(1973年)から51年(1976年)にかけて発掘調査がおこなわれた、と。やっぱり。で、全貌があきらかになった1986年に国の史跡として指定された。ありがたい遺跡ではある。が、最近は遺跡・古墳への興味関心が急速に薄れている。娘の古墳・埴輪のレポートのお手伝いが終わったせいでもあろう。ということで、遺跡公園をあっさりと眺め、つぎの目的地をあれこれ想う。

最乗寺
次の目的地は大倉山とする。理由はよくわからない。なんとなく。昔から気にはなっていた地名。それが何故だかわからない。水道の配水塔があるのだろう、と何の根拠もなく思い込んでいる。距離も7キロ程度。日暮れも迫ってきており、丁度いい距離。で、遺跡公園を出発。公園内を東へと進む。フォレストパーク、というのだろうか、高層マンションあたりで南に折れる。こんなところ進んで大丈夫か、といった細路を下る。右手に竹林。一瞬中に入るが、やっぱり戻る。で、車道に下りる。大棚町。
道の南を流れる早渕川を渡り、茅ヶ崎東地区の小高い丘を迂回。廻りきったところに最乗寺。メモをするために地図をチェックしていると、そこからちょっと進んだところに杉山神社がある。この神社は鶴見川流域のみのローカルなお宮さま。50程度あるようだ。続日本後記にも登場する、ということは千数百年の歴史をもつ。延喜式では都築唯一の式内社。武蔵六所宮の「六の宮」といわれている。が、その「本家」というか「元祖」がどこなのかはっきりしないようではある。今回は実際に行ったわけでもないので、メモはこの程度にしておく。また、そのうちにどこかで出会うであろう。

市営勝田団地
最乗寺を越えると、またまた前方に小高い丘。樹枝状の台地が複雑に入り組んでいる。台地に上り、といっても宅地ではあるのだが、再びその台地を下る。目の前に再び坂道。交通量の多い車道。道を上ると市営勝田団地。少々の「歴史」というか「風雪」、というか「年輪」を感じる団地の坂道をのんびり下る。新栄高校交差点。少し進むと第三京浜と交差する。

新羽消防署前交差点

第三京浜を越えると、ゆったりと南東にカーブする道筋を進む。細い水路が見えるあたりで道筋は、今度は東に進み、新羽消防署前交差点に。水路の名前はわからない。地形図でチェックすると、この道筋は台地に挟まれた谷筋。多摩丘陵の最南端といったあたりのように思える。

鶴見川・新羽橋
新羽消防署前交差点からは交差点を南に。地形をチェック。このあたりまで来ると、多摩丘陵からはなれ、鶴見川によって開析された低地になっている。横浜市営地下鉄線あたりまで進むと、庚申堀に。少々騒がしい町並みとなる。更に南に。港
北産業道路と交差。道を東に進むと横浜市営地下鉄線・新羽駅に。新羽駅(にっぱ)東側交差点を越え、新田緑道を過ぎると鶴見川・新羽橋。前方に見える台地が大倉山であろう。あと一息、である。新羽の名前の由来は「新しく開墾された山の端(は)」といったところからくる、よう。地形から見れば、その通り、である。

大倉山記念館

新羽橋を渡ると太尾地区。往古、下末吉海進期にはこのあたりまで海岸線が上がってきており、そこに浮かぶ大倉山の姿が動物の尾っぽのように見えたから、と。新羽橋東側交差点に。南東に折れ、太尾堤交差点に。そのまま進めば東急東横線・大倉山駅ではあるが、大倉山に上るため道を左に折れ、龍松院前の道に入る。ゆったりとした台地、というか公園への上り道を進む。公園の中を進み、台地の上に大倉山記念館があった。

大倉山記念館は実業家・大倉邦彦氏が私財をなげうち建てたもの。東西の精神文化研究のためにつくられた「精神文化研究所」がはじまりである。ギリシャ神殿といった重厚なる建物。この台地は記念館が建てられるまでは、名無しの台地。それが、この研究所の完成をきっかけに、大倉山、と。また、駅も太尾から現在の大倉山という名前に変わった、と。
記念館の中をぶらぶらと眺め、しばし休憩。台地上から南方向を眺めると、多くの台地が見える。複雑な地形。なかなか面白そう。次の散歩は、この大倉山からはじめ、南に下ろう、との想いを抱き、東急東横線・大倉山に下り、本日の散歩を終え一路家路へと。

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