古甲州道 そのⅡ:浅間尾根を歩く

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古甲州道散歩の第二回は浅間尾根を歩くことに。南・北浅川が合流する檜原本宿付近を東端とし、奥多摩周遊道路の風張峠へと東西に延びる15キロ程度の尾根道。標高は概ね900m前後の山稜からなり、比較的穏やかな尾根道となっている。

この尾根道は中世の頃の甲州街道。風張峠から小河内に下りた道は、小菅村、または丹波村から牛尾根に上り、大菩薩を越えて甲斐の塩山に抜けたと言う。江戸期に入り、小仏峠を越え相模川沿いに上野原の台地を通り、笹子峠を抜けて甲斐に進む甲州街道ができてから後も、この浅間尾根は甲州裏街道などと呼ばれ、人々の往還に利用された。


散歩の途中、払沢の滝近くにあった、浅間尾根道の案内をメモする;奥多摩の主稜線から風張峠で離れ、東西にゆるやかな上下を繰り返すのが浅間尾根。浅間という名称は富士山の見えるところにけられており、この尾根からも、時々富士山が遠望できる。この尾根に付けられた道は、以前は南・北秋川沿いに住む人々が本宿・五日市に通うた大切な生活道路でした。また、甲州中道と呼ばれ江戸と甲州を結ぶ要路になっていたこともあります。昭和のはじめ頃までは檜原の主産物である木炭を積んだ牛馬が帰りには日用品を積んでこの峠を通っていました」、と。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」) 



甲斐と武蔵を結ぶだけでなく、浅間尾根を挟んで南北に分かれる秋川の谷筋に住む人々にとって、川筋に馬の通れる道もなかった昔は、この尾根を越えるしかすべはなかったのかもしれない。昔といっても、大正末期の頃まで、尾根道を使った炭の運搬の記録もあり、浅間尾根が主要往還であったのは、そんなに昔のことでは、ない。小河内といた青梅筋の人達も、この尾根を利用したという。
古甲州道散歩の第一回は、秋川丘陵から秋川南岸を辿り五日市の戸倉まで進んだ。本来なら第二回は戸倉から、ということになるのだが、戸倉の戸倉城と檜原本宿の檜原城は既に訪ねたことがある。戸倉と檜原本宿の間の川沿いの車道には歩道などもなく、車に怖い思いをするのは、ご勘弁ということもあり、実際は、歩きではなくはバスに乗ったのだが、それはそれとして、既に足を踏み入れた戸倉から檜原本宿の部分はカットすることにした。

第二回は檜原本宿を始点にと当初考えていた。ルートを検討するに、浅間尾根を先に進んだ数馬方面にはバスの便があまり、ない。終末の午後など数時間に一本といった状態である。数馬方面まで尾根を進み、里に下りてもバスがなく、そこから歩くって想像もしたくない。
ということで、今回は、檜原本宿からずっと先までバスに乗り、その名も、浅間尾根登山口というバス停でおり、そこから檜原本宿に引き返すことにする。もっとも、どうせのことなら、尾根の高い方から低い方に歩くことに魅力を感じたのは否めない。ともあれ、散歩に出かける。おおよそ8キロの道のりである。



本日のルート;浅間尾根登山口バス停>入間白岩林道と交差>数馬分岐>猿石>藤倉分岐>人里峠>浅間嶺>小岩分岐>瀬戸沢の一軒家>峠の茶屋>時坂峠>払沢の滝>

浅間尾根登山口バス停
浅間尾根登山口でバスを降り尾根道へのアプローチを探す。バス停から少し戻ったところに、南秋川を越える橋への分岐がある。分岐点にある道案内で大雑把なルートを確認し、先に進む。橋からの眺め楽しみ南秋川を渡る。民家の間を進み浅間坂に。道は上りとなる。次第に勾配がきつくなる。初っ端から急坂の洗礼を受ける。南秋川の谷筋を見やりながら先に進む。誠にキツイ上り。
入間白岩林道と交差
浅間坂を越えると舗装も終わり登山道に。ジグザクの上りを幾つか繰り返すと舗装された林道に当たる。この林道は入間白岩林道。地図をチェックすると浅間尾根登山口から入間沢西の支尾根をのぼり、浅間尾根道の藤原峠下をかすめ、尾根を越える。林道その先でふたつに分かれ、ひとつはヘリポートへと進み、もうひとつは白岩沢を下り、北秋川筋の藤倉に続く。
壊れかけの「浅間尾根登山道」の案内に従い、再び登山道に入る。杉林の中を進む。途中「熊に注意」の案内。ひとりでは少々心細い。実際、この翌週、有名なアルピニストがこのあたりの尾根道で出会い頭にクマと遭遇。大怪我をした、ってニュースが流れた。尾根道はひとりではなく誰かと一緒に歩きたいのだが、かといって、どうということのない尾根道歩きにお付き合い頂ける酔狂な人も少ないわけで、結局は怖い思いをしながらの単独行となる。

数馬分岐
大汗をかきながら尾根道に到着。数馬分岐となっている。バス停からの標準時間は1時間となっているが、少し早足であるけば30分もかからないようだ。分岐点を左に折れる道筋は、藤原峠、御林山を経て奥多摩周遊道路に続く浅間尾根の道筋。尾根道の途中には数馬温泉センターへの下山道がある。また、浅間尾根を奥多摩周遊道路まで進み、その先を都民の森へ向かったり、奥多摩周遊道路の風張峠を越えて奥多摩湖へ下るルートがある。これらは今回のルートとは逆方向。次回の古甲州道散歩のお楽しみとしておく。

猿石

数馬分岐から人里峠へと向かう。分岐点を右に折れ浅間尾根に。鬱蒼とした杉林。熊が怖い。道脇に佇む石仏に手を合わせ先に進むと、少し開ける。尾根の北側の山稜の結構高いところまで民家が見える。何故、あのような高いところに、と疑問に思っていた。先日古本屋で見つけた『檜原村紀聞;瓜宇卓造(東書選書)』を読んで疑問氷解。日当りを考えれば、高ければ高い程、日照時間が長くなる。歩く事さえ厭わなければ、日当りのいい南向き斜面の高所にすむのが理にかなっている、とか。納得。
馬の背のような尾根道を進むと猿石。「猿の手形がついた大きな石 手形は探せばわかるよ」と案内あるが、探してもわからなかった。同じく案内には「昔ここは檜原村本宿と数馬を結ぶ重要産業道路」とあった。

藤倉分岐
ときに狭く、少し崩れたような道筋を進むと藤倉分岐。北秋川渓谷の藤倉バス停への下山道。標準時間1時間程度。状態のあまりよくない道を進むと道脇に「浅間 石宮」の案内。誠に、誠につつましやかな祠が佇む。馬の背の尾根を進み、崩れた道を補修した桟道を歩く。崖に張り付くようにつくられた木の道であり、崖下を思うに少し怖い 。注意して桟道を進むと人里峠に。

人里峠
標高850m。数馬分岐からの標準時間は1時間とあるが、実際は30分程度だろう、か。人里への下山道があり、標準時間40分程度で人里のバス停に着く、とのことだ。
峠には小さな地蔵塔。享保というから18世紀初めころのものと言う。人里の読みは「ヘンボリ」。モンゴルの言葉に由来する、との説がある。往古、武蔵に移り住んだ帰化人の中で、檜原まで上ってきた一団があった、とか。で、「フン」は蒙古語で「人」を、「ボル」は新羅の言葉で「里」を意味し、「フンボル」」が転化して「ヘンボリ」になった、と言う。重箱読み、当て字もここに極まれり、ということで、いまひとつしっくりしないが、そういう説がある、ということにしておこう。
人里と言えば、先日古本屋で見つけた、『武蔵野風土記;朝日新聞社編(朝日新聞社)』(昭和44年刊)で檜原の五所神社という記事を読んだ。祭礼のシシ舞はよく目にするが、平安時代に建てられた神社の本尊は五大明王。蔵王権現、不動明王、降三世明王、軍茶利明王、大威徳明王、金剛夜叉と五つの明王が揃うのは京都の教王護国寺など全国にも数カ所しかない、と言う。何故この山里に、ということだが、武蔵国分寺にあった五大明王がここに移されたのでは、という説もある。南北朝の戦乱期、国分寺が焼かれた時、何者かの手により、人里の部落に避難したのでは、ということだ。その真偽は別にしても、この集落は以外に古くから中央と交流をもっていたのだろう、と。神社に本尊、というのは神仏習合から。木の根元に佇む、如何にも年月を重ねた風情の石仏にお参りし、浅間嶺に向かう、

浅間嶺
尾根道を進む。このあたりの道は木々は杉ではなく落葉樹。木々の間から陽光も漏れてきて、いかにも、いい。
人里峠から10分程度で道は浅間嶺頂上と浅間嶺広場の二方向に分かれる。浅間嶺頂上に向かうことに。10分程度で頂上らしきところに着くが、いまひとつ頂上といった風景感がない。木々に囲まれ、見晴らしはよくない。これではどうしようもない、ということで、広場方面へと下りてゆく。途中につつましやかな浅間神社の祠。
浅間神社って富士山が御神体。祭神は木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)。浅間嶺は昔、富士峰とも呼ばれていた。富士山も眺める事ができるのであろう、か。祭神の木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)は大山祇神(オオヤマズミ)の娘。天孫降臨族の瓊杵命(ニニギノミコト)と一夜を共にし、子を宿す。が、瓊杵命が、誠に我が子かと、少々の疑念。木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)は身の潔白を証明するため、燃える炎の中で出産。浅間神社=富士山の祭神が木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)であるというのは、こういうストーリーからだろう。
浅間神社を離れ、成り行きでブッシュを進むと開けたところに出る。さきほど分岐した浅間嶺広場。浅間嶺の休憩所となっている。広い平坦地にあり東屋やベンチなどがある。休憩所の広場からは北は三頭山、御前山、大岳山などの馬頭刈尾根が見える。
少し休憩し、先に進む。広場の近くに展望台があったのだが、頂上、広場、展望台と浅間嶺にまつわるターミノロジーが入り乱れ、なにがなにやら、と相成り、パスしてしまった。展望台からは北の馬頭刈尾根だけでなく、南の笹尾根の稜線も見えるとのことである。浅間嶺からは上川乗バス停への下山道がある。2.9キロ、標準時間1時間となっている。

小岩分岐
浅間嶺を離れ尾根道を進む。細い道が交差。そこに道標。小岩への分岐。『浅間嶺0.4km 展望台0.7km 小岩バス 停2.3km』とある。標準時間はほぼ1時間で北秋川渓谷に下りてゆく。
道標を越えると道は大きくカーブ。尾根道は緩やかなアップダウンを繰り返す。快適な尾根道。比較的平坦な尾根道。落葉樹が多く見晴らしもよくなる。浅間尾根でもっとも人気のあるところ、と言う。木々はそれほど密でもなく、木漏れ日の中の凹面の道。ちょっと街道の雰囲気、も。


瀬戸沢の一軒家

大岳山などを左手に見ながら進むと、道は鬱蒼とした樹林に入る。真ん中がえぐれた凹字形の道となる。道は次第に谷筋への下りとなる、勾配のきつい、石が転がる沢沿いの急坂を下る。沢を木橋で渡り先に進むと杉林の中に民家の屋根が見えてくる。
大きな入母屋作りの屋根の民家。「代官休憩所跡 おそば御用達 峠の茶屋チェーン みちこ」とある。かぶと造りの家。瀬戸沢の一軒家、とも地図に書いてあった。民家の前には水車がある。蕎麦が食べれるようだが、当日は閉まっていた。
『み ちこ』と言う、少々景観に似つかわしくない名前はともかく、この瀬戸沢の一軒家は昔は、瀬戸沢の馬宿と呼ばれていた。かつてはここで馬の荷を積み替えていた。檜原本宿にある口留番所では檜原産以外の人や荷物は通さなかったため、小菅や小河内産の薪や炭は、この地で檜原の馬に積み替え、檜原の村人によって運ばれた、と言う。昔の名残だろうか、店の前に「駒繋ぎ」の碑が残る。明治になると口留番所は廃止。馬宿はのその 役割を失うことになる。
代官休憩 所跡の「代官」って、檜原本宿にある口留番所の役人のことだろう。地元の名主が八王子代官(十八代官とも呼ばれる)のひとりから代々委任されていた、と言う。先日檜原本宿辺りを歩いていた時、本宿バス停脇に、堂々としたお屋敷があったのだが、その吉野家がこの名主であった。ちなみに口留番所とは、江戸幕府が交通の要衝を管理するために、主に関東と中部地方に設けた「関所」みたいなもの。関所は20カ所であったが、口留番所は33カ所あった。出入口を押さえ る、という意味で「口留番所」とされた。
ついでに、「かぶと造り」。数馬あたりによく見かける、屋根が兜によく似た入母屋造りの民家。3階または4階建ての高層建築で、1階は居間、2階以上は蚕室などとして使われていた。この様式は甲州の都留地方がオリジナル。江戸の頃、数馬にもたらされた。言わんとすることは、南秋川筋って、甲州の経済圏に組み込まれていた、ということ。南秋川沿いは断崖絶壁で馬の通る道も無く、浅間尾根に上ろうにも、北岸ならまだしも、南岸から南秋川を渡る橋もなく、結局は南の笹尾根を越えて上野原方面に出るのが普通であったのだろう。谷筋に車道が走る現在の交通路から往古の流通経済圏を判断するなかれ、と言うこと、か。

峠の茶屋

「みちこ」を越えると、その先に「払沢の滝」の道案内。この分岐を下れば沢沿いに払沢の滝にショートカットできるのだろうが、古甲州道を辿る我が身としては時坂峠を越えねば、ということで先に進む。
沢 の雰囲気の場所をかすめ、樹林の多い薄暗い道を上ると道脇に小さな祠。大山祇神社であった。浅間神社の祭神・コノハナサクヤヒメの父親におまいり。すぐ横にある休憩所が峠の茶屋。江戸時代貞享3年(1688年)創業。と言う。これまたあいにく閉まっていた。冬にこの地を歩く酔狂な人などいない、ということだろう。峠の茶屋の前には北谷の眺めが広がる。東西に走る北秋川の谷、その向こうに三頭山、御前山、鋸山、大岳山といった奥多摩山系が連なる。

時坂峠

峠の茶屋のあたりからは舗装道路となる。平坦な尾根の車道を400mほど進むと時坂峠。
「トッサカ」と読む。標高530m。「トッサカ」の由来は、浅間尾根への「トッツキ(取っ付き)」の坂との説がある。また、時坂の「時」は、鬨(トキ)の坂、との説も。勝鬨の鬨、である。『檜原村紀聞;瓜宇卓造(東書選書)』に、時坂の住人は檜原城の番人であった、と言う地元の人のコメントを載せていた。檜原城は時坂峠から瀬戸沢の谷を隔てた南の山稜にある。城から裏道が時坂峠に通じていたとの説もあるようだが、瀬戸沢って、背戸=裏口、という説もあるくらいであるから、檜原城のある山稜から尾背戸の沢を迂回し、根道をぐるりと時坂峠に至る山道があっても、それほど違和感は、ない。
いつだったか、檜原城跡に上ったことがある。麓の吉祥寺から、その裏山に張り付いた。結構な急坂を上り、山頂に。どうみても砦、と言うか、狼煙台といった
程度。東に戸倉城の山が見える。秋川筋からの武田方の進軍の兆候あれば、この檜原城、戸倉城、秋川丘陵の根小屋城、高月城と狼煙を連絡し滝山城に伝えたのであろう。
檜原城は足利持氏が平山氏に命じ、南一揆を率いこの地に城を築かせた。代々、この地で甲州境の守りの任にあたるが、秀吉の小田原攻めの時、北条方として戦った平山氏は、八王子城から落ち延びてきた城代横地監物を匿うも、多勢に無勢ということで討ち死とか、小河内に落ち延びた、とか。
道標近くに小さな祠と2体
の小さな地蔵塔。ちょっとおまいりし、峠を下ることに。山道に入る。急な坂。ほどなく舗装された林道に。ここからは杉の木立の中の細い急坂を下りたり、開けた山腹の踏み分け道を下りたり、山道と林道歩きを繰り返す。民家の軒先をかすめたりもする。里の風景が、如何にもいい。眼下に見えるのは檜原本 宿のあたりではあろう。車道を先に進むと浅間橋。北秋川の支流セド沢に架かる。ここまで時坂峠から2キロ弱浅間嶺から5キロ強歩いてこたことになる。

払沢の滝

袂を折れて払沢の滝に向かう。払沢橋を越え、土産物屋を眺めながら5分も進むと沢が近く。ほどなく滝壺に。結構多くの観光客が来ていた。滝は26.4mの高さがある。も
っとも、滝壺からは見えないが、4段に分かれており、全部合わすと60mほどになると、言う。浅間尾根の端、もうこれ以上、水により開析できない固い岩盤に当たった、という箇所だろう。もとは、沸沢。沸騰するように流れ落ちたから、と言う。また、ホッス、僧侶の仏具、とも、法師がなまった、との説もあるが、例によって定説、なし。
『武蔵野風土記』によると、滝は昔から本宿部落の雨乞いの場であった、とか。日照りが続くと、太鼓を打ち鳴らし、「大岳山の黒雲 これへかかる夕立 ざんざんと降って来な」と口を揃えて歌った、と言う。大岳山は標高1237m。雨はここからやってくると人々は信じていた。大正5年か6年に一度雨乞いをし、それが最後であった、と(『武蔵野風土記;朝日新聞社編(朝日新聞社)』)。

「払沢の滝入口」バス停
滝を離れ、大きな車道に進み西東京バスの「払沢の滝入口」バス停に。五日市駅へのバスに乗り、本日のお散歩終了。次回は、数馬分岐から尾根道を藤原峠、奥多摩周遊道路、風張峠へと進み、そこから青梅の谷の小河内へと歩こうと思う。
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