白子の宿から平林寺へ

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「川はみな曲がりくねって流れている。道も本来は曲がりくねっていたものであった。それを近年、広いまっすぐな新国道とか改正道路とかいうものができて、或いは旧い道の一部を削り、或いはまたその全部さえ消し去ってしまった。走るのには便利であるが、歩いての面白みは全く無くなってしまったのである。
埼玉県白子の町は、昔は白子の宿と云った。私が初めて武蔵野の中の禅林、野火止の平林寺を訪ねたのは、実に久しい以前のことで、まだ開けない全くの田舎であった成増の方から歩いて行った。その少し先が白子なのである。。。」。
素白先生こと、岩本素白の「独り行く(二)白子の宿」の書き出しである。新年、何処から歩き始めるか、少々迷ったとき、素白先生のこの書き出し部分を思い出した。そもそも、素白先生のことを知ったのは、昨年、成増・赤塚台辺りを散歩していたときのこと。一瞬白子の町をかすめ、その名前の面白さに惹かれ、あれこれ「白子」を調べているときに、偶然素白先生の「白子の宿」の文章を見つけた。散歩の達人、散歩随筆の達人ということである。で、著書はなどと探していると、みすず書房から『素白先生の散歩(岩本素白)』が出版されており、上の随筆も収められている。早速に入手。散歩の随筆といえば永井荷風の『日和下 駄』が知られているが、私はこの素白先生の文章に大いに惹かれた。同書の帯に曰く;「愛用のステッキを友に、さびれた宿駅をめぐり、横丁の路地裏に遊ぶ素白先生。沁みるような哀感、えもいわれぬ豊かさ、ひそやかな華やぎが匂う遊行随筆の名品」。そのとおり、である。素白先生の話になると、どこまで続くか分からなくなる。このあたりで本筋に戻る。素白先生の書き出しにあるように、白子の宿から平林寺まで歩こう、ということ。素白先生の歩いた道筋を辿るって、新年の歩きはじめには慶き事なり、と思った次第。(水曜日, 1月 10, 2007のブログを修正)


本日のルート;有楽町線・成増駅>254号線・川越街道>八坂神社>旧川越街道>旧新田宿>白子川>熊野神社>県道・109号線・旧川越街道>笹目通り交差>東京外環自動車道>和光市駅入口交差点>陸上自衛隊朝霞駐屯地前>朝霞警察署前>254号線・川越街道>黒目川交差>水道道路交差点>新座警察所前交差点>新座市役所>平林寺


有楽町線・成増駅
有楽町線・成増で下車。川越街道に沿って西に進む。板橋散歩の折に歩いたところでもあり、見慣れた風景。川越街道が白子川に向かって大きく下る手前にある八坂神社まで進む。素白先生の白子の宿の一説に、「丘の上に幾筋も道の在るのは遥かに見える南の丘と同じことで、この丘陵の上には高原のように打ち開けて秋は薄の野になるところ、如何に神とはいえ淋しかろうと思われる一宇の社があり。。。」とある。勿論原文とは場所も違うだろう。薄もあるわけではなく、車の往来の激しい川越街道沿いにひっそり佇むこの小祠、なんとなく、「如何に神とはいえ淋しかろうと」、思った次第。

新田坂の石仏群
八坂神社の手前に「新田坂の石仏群」の碑。先回訪れたときは、先客があり、じっくりとなにかメモをしておられたので、気にはなっていたのだが、先を急いだ。碑文に曰く:石仏群4基。新田坂(しんでんさか)周辺から集められたもの。道祖神は、区内唯一のもので、文久三年(1869年)の建立。もともとは八坂神社の入口にあった。
常夜灯は文政13年(1830年)の建立。成増2丁目34番の角に立っていたよう。「大山」と刻まれいることから、道標も兼ねていた。川越街道と分れて南に向かう道は、土支田方面に通じる。稲荷の石祠と丸彫の地蔵の造立年代は不明。昭和59年に区の有形文化財に」、と。土支田は白子川を南に進み、笹目通りと交差するあたり。光が丘の西にある。土支田(どしだ)は土師田、つまりは、土師(はじ)器をつくる人達が昔々住んでいた。白子川流域には土師器を焼いていた遺跡が多い。貫井には土師器を焼いた窯場跡が発見されている。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


八坂神社

向いの八坂神社にちょっとおまいり。「新田宿と八坂神社」の由来書;板橋宿の平尾(板橋3丁目)で中仙道と別れた江戸時代の川越街道は上板橋宿、下練馬宿をへて白子宿へ向かう。八坂神社右手の道が当時の川越街道で、この付近、白子川へ下るための大きく曲がった急坂(新田坂という)となっていた。新田坂から白子川の間は新田宿と呼ばれた集落で、対岸の白子宿から続いて街道沿いに発達した。昭和初期には小間物屋や魚屋、造酒屋などが軒を連ねていた。八坂神社は京都の八坂神社を勧請したものといわれ、「天王さま」とも呼ばれている。御祭神は素戔嗚尊とイナダヒメノミコト。元々は現在地よりやや南にあったが、昭和8年の川越街道新道工事の際に移された」、と。
ちょっと寄り道、というか、素白先生によれば「話は少し横へ逸れるが」という表現だが、この八坂神社ってよくわからない。祇園社、とも天王社とも呼ばれる。ちょっと調べてみた。そもそも八坂神社とは京都の八坂神社を勧請したもの。正確に言えば、八坂神社という名になったのは明治の神仏分離令以降。それまで「天王さま」とか「祇園さん」と呼ばれていた。明治になって本家本元・京都の「天王さま」・「祇園さん」が八坂神社に改名したため、全国3000とも言われる末社が右へ倣え、ということになったのだろう。八坂という名前にしたのは、京都の「天王さま」・「祇園さん」のある地が、八坂の郷、といわれていた、から。ちなみに、明治に八坂と名前を変えた最大の理由は、「(牛頭)天王」という音・読みが「天皇」と同一視され、少々の不敬にあたる、といった自主規制の結果、とも言われている。
で、なにゆえ「天王さま」・「祇園さん」と呼ばれていたか、ということだが、この八坂の郷に移り住んだ新羅からの渡来人・八坂の造(みやつこ)が信仰していたのが仏教の守護神でもある「牛頭天王」であったから。また、この「牛頭天王さま」は祇園精舎のガードマンでもあったので、「祇園さん」とも呼ばれるようになった。上に、御祭神は素戔嗚尊とイナダヒメノミコトと書いた。どうも、牛頭天王=素戔嗚尊、と同一視していたようだ。神仏習合である。
ちょっとややこしいがメモする;牛頭天王の父母は、道教の神であるトウオウフ(東王父)とセイオウボ(西王母)とも考えられるようになった。ために、牛頭天王はのちには道教において冥界を司る最高神・タイザンフクン(泰山府君)とも同体視される。そこからさらにタイザンオウ(泰山王)(えんま)とも同体視されるに至った。泰山府君の本地仏は地蔵菩薩ではあるが、泰山王・閻魔様の本地仏は薬師如来。素戔嗚尊の本地仏は薬師如来。ということで、牛頭天王=素戔嗚尊、という神仏習合関係が出来上がったのだろう。閻魔様=冥界=黄泉の国といえは素戔嗚尊、といったアナジーもあったのだろう。
また、素戔嗚尊は、新羅の曽尸茂利(ソシモリ)という地に居たとする所伝も『日本書紀』に記されている。「ソシモリ」は「ソシマリ」「ソモリ」ともいう韓国語。牛頭または牛首を意味する。素戔嗚尊と新羅との繋がりを意味するのか、素戔嗚尊と牛頭天王とのつながりを強めるためのものなのかよくわからない。が、素戔嗚尊と牛頭天王はどうあろうと同一視しておこうと、ということなのであろう。寄り道が過ぎた。先に進む。

新田宿
素白先生曰く;「僅かばかりしか家並みの無い淋しい町が、中程のところで急に直角に曲がり、更にまた元の方向に曲がっている。いわゆる鍵の手になっているのである。それと、狭い道の小溝を勢いよく水の走っているのとが永く記憶に残った。
新しく出来た平坦な川越街道を自動車で走ると、白子の町は知らずに通り越してしまう。静かに徒歩でゆく人達だけが、幅の広い新道の右に僅かに残っている狭い昔の道の入口を見出すのである。道はだらだら下りになって、昔広重の描いた間の宿にでもありそうな、別に何の風情もない樹々の向こうに寂しい家並みが見える(白子の宿・独り行く2)」、と
川越街道から一筋離れた坂をのんびり下る。素白先生の言うとおり、まっこと、車で走ると知らずに通り越すことだろう。心持ち落ち着いた家並み。このあたりは新田宿であったところ。板橋散歩のときのメモをコピーする;
白子川の手前、道の左手に細井金物店。この向いに童謡作家、清水かつらが住んでいた。かつらの代表的な歌詞は「靴がなる」。当時としては「靴」は高級品であったわけで、わらじではなく、靴に「はれやか」な思いを託していたのかも。
「靴がなる」
1.お手々つないで野道を行けば
  みんなかわいい小鳥になって
  歌をうたえば靴が鳴る
  晴れたみ空に靴がなる
2.花をつんではお頭(つむ)にさせば
  みんなかわいい兎になって
  はねて踊れば靴が鳴る
  晴れたみ空に靴が鳴る

ちなみにおなじところに「浜千鳥」や「おうちわすれて」の作者・鹿島鳴秋も住んでいた。

青い月夜の 浜辺には
親を探して 鳴く鳥が
波の国から 生まれでる
濡(ぬ)れたつばさの 銀の色

夜鳴く鳥の 悲しさは
親を尋ねて 海こえてn

月夜の国へ 消えてゆく
銀のつばさの 浜千鳥

白子川
坂を下りきったところに白子川。南大泉4丁目の大泉井頭公園を源流点とし、和光市、板橋区を流れ、板橋区三園で新河岸川に合流する全長10キロの川。かつては武蔵野台地の湧水を集めて流れる川。大泉の名前も、白子川に流れる湧水の、その豊さ故につけられた、とか。一時は汚染ワースト一位といった、あまり自慢にならないタグ付けをされたりしたが、先日白子川を源流から下ったときの印象では、川越街道あたりまでは美しい流れに戻っていた。白子川の清流を守る市民運動の賜物であろう、か。
白子の由来は、新羅(しらぎ)が変化した、と言われる。奈良時代、武蔵国には高麗郡、新羅郡が置かれた、ってことは以前メモした。新羅や高句麗、百済からの渡来人が移住したわけだが、新羅郡は平安時代の頃には新座郡と記され、大和言葉で爾比久良郡(にいくらこおり)と読まれるようになる。で、新座郡の中で、この成増の辺りは志楽木(しらき)郷と称し、のちに志未(志木)郷となる。志未は志楽の草書体からきたもの、とか。 「白子」も「しらぎ」が変化した地名と云われている。

熊野神社
以上が昨年7月にこの地を歩いたときのメモ。先に進むことにする。新田宿を越え、白子川を渡りT字路。素白先生の描く、「鍵の手」といったところか。右に折れ熊野神社に。素白先生曰く;「小家の並んだ道の右に、後ろに森を背負った社域の広い熊野の社がある。そこには、いささかの滝が落ちている。夏も冬も絶えず落ちていて、本来は信仰の上の垢離場であったのだろう(白子の宿・独り行く2)」、と。
熊野神社は白子の鎮守さま。由来書によれば、「中世、熊野信仰は全国的に武士や民衆の間に広まった。熊野那智大社に伝わる「米良文書」の中の「武蔵国檀那書立写」には多くの武蔵武士とともに「しらこ庄賀物助、庄中務*」の名があり、和光市域の武士にも熊野信仰が伝わっていたことがわかる」と。
この「庄」さんって、平安末期、練馬から和光市にかけて勢力をもっていた武蔵七党のひとつ・児玉党の流れをくむ「庄(荘)」一族であろう、か。境内には大きな富士塚があった。今まで見た富士塚の中でも最大級のもののように思える。神社脇に水が流れ落ちる。いささかの滝、といった表現がぴったり。神社の横に不動院。これって昔の記録にある白子不動さん、だろう。
素白先生の「白子の宿」への思い入れが少々強く、白子で長引いてしまった。先を急ぐ。

川越街道
白子宿の熊野神社を離れ、新座・平林寺に向かって進む。県道109号線。これって、旧川越街道。15世紀、途切れ途切れにあった古道をもとに、大田道潅が江戸と川越をつないだもの。江戸、川越、そして岩槻の城が古河公方に対する上杉管領陣営の攻撃・防御の戦略的拠点であったため、この往還を確保せんとしたのだろう。近世に入り、松平信綱が川越藩主となった寛永16年(1639)以後整備され、川越往還と呼ばれた。幅4、5間(7-9メートル)あった、というから結構広い。
川越往還は板橋宿(板橋3丁目)で中山道と分かれ、上板橋、下練馬、白子(和光市)、膝折(朝霞市)、大和田(新座市)、大井(大井町)の6宿を経て川越まで続く。その先は、道幅は半分以下になるものの、北へ進み川島、松山、大里を通って中山道・熊谷宿へと続いていた。松山から小川、寄居を通って 秩父へも行けるため、秩父参詣に行く者で往還は大いに賑わった、とか。
また、この川 越街道は公儀御用としても重要な往還であった。公儀御用の場合は、先触(人馬通知書)を出しておくことにより、宿場間に必要な人馬の数、駕籠(かご)などは無償で提供されることになる。白子宿には馬7頭、人足3人が常時用意されていた、とか。が、川越往還は川越御用、公儀鷹方御用、大名の江戸参府などの公儀往来が多く、常備だけでは間に合わず、周辺の村からの助っ人・助郷役が必要であった、とか。助郷負担って結構大変であったよう。ために、その代償として茶屋の営業権や、公儀御用の馬であっても、宿からの戻りの時には一般庶民を乗せて駄賃を稼げる、といったあれこれの便宜を受けていた、とか。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


東京外環自動車道路
東京外環自動車道路と交差し先に進む。東武東上線・和光市駅入口交差点。和光の名前の由来だが、町制施行時に「大いに和する」ということで大和町と。これって、東大和市の由来と同じ。で、市制施行時には本来なら「大和市」、ということになるわけだが、既に東大和市などがあったため、「大和(町)に光を」ってことで、和光市となった、と。

陸上自衛隊朝霞駐屯地
109号線を進む。もちろんのこと、街道沿いの町並みに昔の面影などあるわけもなく、素白先生であっても、情景描写に難儀するのでは、などと思いながら歩を進める。陸上自衛隊朝霞駐屯地あたりで、和光市から朝霞市に入る。少し進むと膝折地区。昔は新座群膝折村と呼ばれた一帯。地名の由来は、馬が骨折したから、と。本来なら膝折町であり、膝折市となるところだが、あまりに縁起もよろしからず。ということで、昭和7年東京ゴルフ倶楽部がこの地に移るとき、その倶楽部の名誉総裁であった宮様の名を頂こう、となったわけ。その宮様が朝香宮殿下。が、そのままではあまりに畏れ多い、ということで、朝霞、となった、とか。いやはや地名の由来って、これといったルールもなく、あれこれあって興味が尽きない。

黒目川
旧川越街道を進む。朝霞警察署のあたりで旧・新川越街道が一瞬合流。このあたりから道は黒目川の川筋に向かっ て大きく台地を下る。黒目川によって開析された台地はその先で再び盛り上がっている。その台地の緑の先に平林寺があるのだろう、あってほしい、との思いが強い。年末に痛めた膝が完治しているわけでもないので、少々弱気。黒目って、先日の野火止用水散歩のときにメモしたように、黒目(くろめ)>久留米(くるめ)、と、東久留米市の名前の由来となったもの。
黒目川は水源を小平市・小平霊園内の雑木林に源を発し、東久留米市>新座市>朝霞市>新河岸川> 荒川へと続く全長15キロ弱の荒川水系・一級河川。カシミール3Dでつくった地形図を見ると、黒目川に沿って台地が大きく開析されている。正直、これほど大きく台地を切り開く川とは思ってもみなかった。そのうち源流点から一度歩いてみよう。

平林寺
台地をのぼり、水道道路の交差点を越え、新座警察署交差点に。ここを南に下ると平林寺まで、あと少し。歩を進める。新座市役所のあたりから平林寺境内林がはじまる。この雑木林は武蔵野の面影を残すものとして、国の天然記念物に指定されている。
フェ ンスに囲まれた雑木林を眺めながら進むと平林寺。昨年野火止用水を平林寺まで歩いたのだが、このお寺さまに着いたときは4時過ぎ。残念ながらお寺は閉門していた。なんとなく気になっていたので、年明け初めの歩きとしてここまで来た次第。拝観料300円を払い境内に。茅葺の山門が美しい。二層の楼門。その後ろに仏殿。山門の南手には半僧坊。半僧坊のことは秩父散歩でメモしたのでここではパス。
全体に落ち着いた、いいお寺。本堂の裏手に進む。雑木林の中をのんびり歩く。野火止用水の支流・平林寺堀の跡が残る。水は流れてはいなかった。武蔵野の林を堪能し、松平伊豆守信綱の墓所に向かう。平林寺は大河内・松平家の菩提寺でもある。

松平信綱
平林寺はもともと、元和元年(1375年)、岩槻に大田氏により創建。この大田氏って、岩槻城主であった太田道潅の父・道心という説、別人という説、あれこ れ。よくわからない。寛文3年(1663年)、川越藩主・松平伊豆守信綱の遺志を受け、子の輝綱がこの地に移す。松平信綱は家康の代官・勘定奉行をつとめた大河内久綱の子。伯父である松平正綱の養子となり松平を称する。島原の乱の鎮圧や「明暦の大火」の後の江戸の復興に尽力。「知恵伊豆」とも呼ばれ、家光・家綱の二代にわたり名老中としてその職務を果たす。松平信綱の墓所のあたりは重厚な墓所が広がる。大河内家の墓所であろう。少々圧倒される。

安松金右衛門
松平家の墓所の手前に安松金右衛門、小畠助佐衛門の墓が並ぶ。安松金右衛門は野火止用水開削の功労者。もともとは新宿にあったお墓を昭和になってこの地に移した
、とか。杉本苑子さんの小説『玉川兄弟』で、伊豆守の主命を受け玉川上水への取水口を羽村にするように玉川兄弟に協力する安松金右衛門の「姿」が思い 出される。
野火止用水を構想する伊豆守としては、高低差の関係より羽村からでなければ自分の領地・野火止台地に導水できない。技術的にも、羽村からでしか分水できなかったわけだが、玉川兄弟は当初、日野あたりからの分水を試みる。が、通水に失敗。結果的に羽村からの分水に落ち着く。
信綱は、玉川上水完成の功により、玉川上水の三分の一を野火止用水に導く許しを得る。野火止用水のことは既にメモしたので、このあたりで止めておく。で、小畠助佐衛門。信綱が川越城主となったとき、原野開墾・藩財政の安定に尽力。最後には家老にまで上り詰めた人物。野火止用水もその事業の一環。

増田長盛

増田長盛の墓もあった。豊臣政権・五奉行のひとり。武人というより文官。上杉景勝との交渉や太閤検地に力を発揮。関が原の合戦時は西軍に属し大阪城の留守居役をつとめる。が、石田三成の挙兵を家康に内通するなどしたため、所領は没収されるものの命は助けられ、身柄は岩槻城主・高力清長に預けられる。その後、息子が大阪の陣で西軍に属したため自害を命ぜられる。平林寺が岩槻にあったためこのお寺にお墓があるのだろう。

見性院殿
見性院殿の墓とい うか宝篋印塔もある。見性院とはいっても、山内一豊の妻・千代とは別人。武田信玄の息女であり、信玄の武将穴山梅雪の妻。ちょっと横道にそれるが、この穴山梅雪って、なんとなく面白い人物。信玄の重臣ではあったが、信玄の息子・勝頼とは反目。諏訪氏の血を受け継ぐ勝頼より、梅雪と見性院との間に生まれた息子が信玄の正当なる後継者であると信じていたから、といった説もある。
ともあれ、武田勝頼と織田信長・家康の連合軍が戦った長篠の合戦で梅雪は無 断で戦線離脱。その後、徳川家康に降伏した。重臣・梅雪にも見限られた勝頼は天目山で自害。名門武田家は滅ぶ。家康と梅雪は安土で信長にお目見え。その後、ふたりで堺見物と洒落込む。その時起こったのが、光秀の反乱・本能寺の変。池宮彰一郎さんの小説『遁げろ家康』にあるように、伊賀の山中をさ迷いながらも家康は窮地を脱する。が、梅雪は落ち武者狩りに遭い無念にも落命。梅雪の死後、見性院は家康の庇護を受け江戸城内で暮らすことになる。
やっと見性院に戻る。見性院といえば、名君・保科正之の養い親であった、ということで有名。この保科正之は二代将軍秀忠と奥女中との間に生まれた子。正室・小督の方に隠れ、見性院が育てることになる。で、この子は信州高遠藩・保科家の養子となり元服し保科正之と名乗る。三代将軍・家光とは異母弟。側近として家光をよく補佐し、その功により会津23万石の藩主に。家光没後はその遺言により、四代将軍家綱の後見役として、その補佐役に徹する。中村彰彦さんの書いた 『名君の碑―保科正之の生涯』は面白かった。見
性院はさいたま市の清泰寺に葬られたが、平林寺の住職とも懇意であったので、ここに宝篋印塔がおかれることになった、とか。

島原の乱供養塔
大河内・松平家の墓所から本堂に戻る途中に「島原の乱供養塔」がある。島原の乱については、昨年中野区散歩のときメモした。中野の宝泉寺に島原の乱鎮圧軍の上使であった板倉重昌がねむっていた、から。が、そのときのメモの記憶もそろそろ、あやしくなってきた。おさらいをする。島原の乱:寛永14年、というから1637年、九州・島原で起こった農民を中心とした反乱。信綱が幕府鎮圧軍の上使として派遣され、知恵伊豆の名をいやがうえにも高めることになる。そもそものはじまりは、大阪の陣の功績により島原の領主となった松倉重政、その子・重家の圧政そしてキリシタン弾圧。また、関が原合戦の功により天草を加増された唐津城主・寺沢堅高の、松倉氏ほどではないにしても、圧政とキリシタンへの厳しい取締り。農民による島原の代官所襲撃をきっかけに、浪人・民衆も加わり3万名弱の勢力となる。
総大将は天草四郎。原城に立て籠もる。反乱勢力に対し、幕府は13の藩からなる鎮圧軍を派遣。そのときの総大将・上使となったのが板倉重昌。が、上使とはいうものの、重昌は三河国・深津藩1万5千石の小大名。黒田藩、細川藩といった何十万石といった雄藩・大大名の軍は重昌を軽視。軍の統制とれるはずもなく、戦線は膠着状態。業を煮やした幕閣は松平信綱を上使として派遣することに。重昌は武士の面目なしと総攻撃を下知。鎮圧軍は指揮に従うわけもなく、重昌は単騎、死を覚悟して攻撃。あえなく討ち死に。

上使として到着した信綱は攻撃を止め、兵糧攻め。さら大砲による威嚇攻撃をおこなう。で、反乱軍の士気が落ちた頃を見計らい、総攻撃。食料もなく士気の衰えの激しい反乱軍は鎮圧され、場内にいたものは婦女子を含め1名を除いて死罪となる。その数2万7000名。うち婦女子は1万2千名にのぼった、という。助命された1名は、原城内の状況を内報していた、絵師だった、とか。
知恵伊豆のイメージとはほど遠い、厳しい処置ではある。が、反乱軍側だけでなく、圧政者にも厳しい処分を下す。松沢重家は打ち首。大名であれば通常切腹であろうが、それも許さぬ厳しい処置。また、寺沢堅高は領地没収。後に自刃した、と。この「島原の乱供養塔」は、3万名にもおよぶ人々を供養するため文久元年(1861年)に大河内・松平家の家臣により平林寺に立てられたもの、とか。
先回の野火止散歩で日没のため参詣できなかった平林寺もやっとカバーし終える。素白先生へのオマージュ故に、白子の宿からはじめた今回の散歩。締めも素白先生の「白子の宿―独り行く2」の最後のパラグラフを引用する。素白先生曰く;「私は何時もこういう何の奇もない所を独りで歩く。人を誘ったところで、到底一緒に来そうもないところである。独りで勝手に歩いているから、時々人と違ったことも考える。先頃この辺りを歩きながら考えたこと、それは昔私はよく、この世間に所謂聡明な人は極めて多いが、善良な人は甚だ稀だと思っていたが、このごろ考えてみると、善良な人は案外多くして、本当に聡明な人というものは殆ど無いということである。
こんな考え方は、私の歩くつまらない道と共に、大方の人はこれ笑うであろう。(昭和三十二年)」。
なんということのないところを、ひたすらに、ぶらぶら歩く。ために、独りで歩く。こんな散歩を2年近く続けてきた。3年目の1月、次回はどこを歩こうか。

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