先日八王子南郊の湯殿川を源流へと辿った。南高尾の山稜を切り開いて流れるこの湯殿川には、南高尾から多摩丘陵へと連なる丘陵地帯から寺田川や殿入川などの支流が合流する。合流といっても、ささやかな流れ、ではある。地形図を見ると、そのささやかな流れは樹枝状に入り組んだ谷戸から下っている。寺田川は鍛冶谷戸、殿入川は殿入谷戸。源流点となる谷戸や谷戸奥の丘陵って、どういう景観なのだろう。ということで、湯殿川のふたつの支流を辿り源流点の谷戸を訪ねることに。
ルートは、寺田川を辿り源流点に。そこから成り行きで丘陵を越えて殿入谷戸に向かい殿入川源流点に。そこから谷戸を湯殿川の合流点まで下る、といったもの。谷戸の風景が楽しみである。
ルートは、寺田川を辿り源流点に。そこから成り行きで丘陵を越えて殿入谷戸に向かい殿入川源流点に。そこから谷戸を湯殿川の合流点まで下る、といったもの。谷戸の風景が楽しみである。
本日の散歩;京王線山田駅>湯殿川・大橋>湯殿川・白幡橋>鍛冶谷戸>寺田川源流点>法政大学グランド>殿入谷戸>淡島神社>龍見寺>湯殿川・和合橋>京王線狭間駅
京王線山田駅
京王線に乗り、京王線山田駅に向かう。寺田川と湯殿川の合流点最寄りの駅である。京王線片倉駅を越えたあたりから、車窓より湯殿川の南に広がる丘陵が見えてくる。時には遠く富士山が姿を現すこともあるのだが、本日は雲に遮られ眺めは、なし。
山田駅で下車。駅名の由来は駅北を下ったところを流れる山田川から、だろう。川に沿って古刹・広園寺がある。それはともかく、本日の散歩は広園寺とは真逆の方向。駅前の道を南に下る。東京都道・神奈川県道506号八王子城山線。八王子市の甲州街道・横山交差点から町田市西部・相原十字路を経て相模原市北西部へと下る。相原で七国峠を越える多摩丘陵横断ルートである。
湯殿川・大橋
道なりに南に進み椚田遺跡公園通りとの分岐交差点に。丘陵下に湯殿川の流域が広がる。誠にいい眺めである。道の左手に五重塔に見えたので、ちょっと回り道。道からちょっと境内を眺め、成り行きで崖線を下る。比高差30m弱の段丘崖を下る坂道の廻りは住宅がビッシリ。
北野街道・小比企町交差点に下り、湯殿川に架かる大橋に進む。「比企=ヒキ」はハケ=崖、から。ちょっとした崖がある町、といった意味か。大橋からは湯殿川に沿って白旛橋に。
寺田町
白旗橋の先に南から寺田川が合流する。ここからは湯殿川を離れて寺田川を源流点へと辿ることになる。合流点にある公園を抜け、川筋を意識しながら道なりに進む。川筋と付かず離れず寺田町の民家の間を進む。ほどなく川筋はふたつに分かれ、ひとつは西に、もうひとつは南へと進む。今回の目的地である鍛冶谷戸は西への川筋。南に分岐した川筋は大船町の先の谷へと続き、その谷戸奥の丘陵を進むと七国峠の山稜にあたる。
七国峠には鎌倉街道が通っていた。峠から北は南のシティの宅地開発により道は断ち切れているが、峠から南、相原十字路近くから七国峠には古道跡が残る。掘割りや切り通しの道が懐かしい。それはともかく、西への水路に沿って道なりに進むとほどなく車道に出る。この道は、先ほど京王線・山田駅前から下った都道506号線であった。
めじろ台グリーンヒル通り
都道を少し南に進み、道に交差する寺田川を確認する。川筋は西へと流れるが、川筋に沿って道はない。少し北に戻り寺田橋交差点に。そこを左に折れ、めじろ台グリーンヒル通り・寺田町東交差点に進み、大きく迂回して再び川筋に合流する。
寺田川は更に西に進む。再び川筋には道がない。しばし直進し、成り行きで右に折れる。雑木林の残る丘陵の裾を回りこみ、ふたたび川筋に。川筋の向かいの丘陵には榛名神社が鎮座していたが、気付かないで通り過ぎた。川の西を進むと、ほどなく川筋に向かう道がある。小径を進み、川というか小川となった寺田川を東に移る。ゆるやかな坂の道を成り行きで進むと大恩寺の裏手の駐車場に出る。駐車場から本堂への道はあるような、ないような。本堂脇の小径を進み道路に出る。小径脇には牛舎。数頭の牛がこちらを凝視。道脇の地蔵尊を見やりながら、水路と付かず離れず進み寺田町西交差点に。
寺田川源流点
寺田町西交差点を越えると車道の東側に細路が続く。道を離れ水路に沿って進む。民家の裏、犬に吠えられながら進むと水路は再び車道下に潜る。地図では水路がここで切れているのだが、ひょっとして、と車道の西側をチェックする。ささやかな水路が先に続く。ほとんど民家の軒先といった水路脇を遠慮がちに進む。道などない。畑の畦道を浸み出すといった水路に沿って谷戸奥に向かう。谷戸の最奥部で水路は丘陵へと入り込んでいく。ブッシュの中、藪こぎでもすれば源流点まで進めないことのないのだが、これで十分。寺田川がはじまる地点から谷戸の景観を眺める。三方を丘陵で囲まれ、その間の平地には畑地が広がる。如何にも谷戸の典型といった景観である。
谷戸とは丘陵が湧水に因って削られた谷間の低地のことを言う。三方が丘陵によって囲まれた平地のとっつき、扇の要のところは小川の源流域。丘陵の湧水を集め平地へと流れ出す。人はその水を水田となし、豊穣を祈って谷神を祀る。これが小山田とか山田と呼ばれる景観である。柳田国男は「古い土着の名残を留めた昔懐かしい良風景の地(『海上の道』)」と描く。
往古、人は安住の地を求めて川を遡った。「地理測量のまだおぼつかない世の中では原は木がなくてもなお一つの障壁であり、これを跋渉することは湖をわたるほどの困難であった。その上に外界の不安面が広がるので、人は近代になるまでくだってこれにつくことをこのまず、依然として水の音を慕って川上にさかのぼった(『地名考察;柳田国男』)」、と。川を遡り、その行き止まりの地が谷戸の里である。三方を丘陵で囲まれ外敵への備えも容易。丘陵からの清浄な水も手に入る。谷戸の里を人は安住
京王線に乗り、京王線山田駅に向かう。寺田川と湯殿川の合流点最寄りの駅である。京王線片倉駅を越えたあたりから、車窓より湯殿川の南に広がる丘陵が見えてくる。時には遠く富士山が姿を現すこともあるのだが、本日は雲に遮られ眺めは、なし。
山田駅で下車。駅名の由来は駅北を下ったところを流れる山田川から、だろう。川に沿って古刹・広園寺がある。それはともかく、本日の散歩は広園寺とは真逆の方向。駅前の道を南に下る。東京都道・神奈川県道506号八王子城山線。八王子市の甲州街道・横山交差点から町田市西部・相原十字路を経て相模原市北西部へと下る。相原で七国峠を越える多摩丘陵横断ルートである。
湯殿川・大橋
道なりに南に進み椚田遺跡公園通りとの分岐交差点に。丘陵下に湯殿川の流域が広がる。誠にいい眺めである。道の左手に五重塔に見えたので、ちょっと回り道。道からちょっと境内を眺め、成り行きで崖線を下る。比高差30m弱の段丘崖を下る坂道の廻りは住宅がビッシリ。
北野街道・小比企町交差点に下り、湯殿川に架かる大橋に進む。「比企=ヒキ」はハケ=崖、から。ちょっとした崖がある町、といった意味か。大橋からは湯殿川に沿って白旛橋に。
寺田町
白旗橋の先に南から寺田川が合流する。ここからは湯殿川を離れて寺田川を源流点へと辿ることになる。合流点にある公園を抜け、川筋を意識しながら道なりに進む。川筋と付かず離れず寺田町の民家の間を進む。ほどなく川筋はふたつに分かれ、ひとつは西に、もうひとつは南へと進む。今回の目的地である鍛冶谷戸は西への川筋。南に分岐した川筋は大船町の先の谷へと続き、その谷戸奥の丘陵を進むと七国峠の山稜にあたる。
七国峠には鎌倉街道が通っていた。峠から北は南のシティの宅地開発により道は断ち切れているが、峠から南、相原十字路近くから七国峠には古道跡が残る。掘割りや切り通しの道が懐かしい。それはともかく、西への水路に沿って道なりに進むとほどなく車道に出る。この道は、先ほど京王線・山田駅前から下った都道506号線であった。
めじろ台グリーンヒル通り
都道を少し南に進み、道に交差する寺田川を確認する。川筋は西へと流れるが、川筋に沿って道はない。少し北に戻り寺田橋交差点に。そこを左に折れ、めじろ台グリーンヒル通り・寺田町東交差点に進み、大きく迂回して再び川筋に合流する。
寺田川は更に西に進む。再び川筋には道がない。しばし直進し、成り行きで右に折れる。雑木林の残る丘陵の裾を回りこみ、ふたたび川筋に。川筋の向かいの丘陵には榛名神社が鎮座していたが、気付かないで通り過ぎた。川の西を進むと、ほどなく川筋に向かう道がある。小径を進み、川というか小川となった寺田川を東に移る。ゆるやかな坂の道を成り行きで進むと大恩寺の裏手の駐車場に出る。駐車場から本堂への道はあるような、ないような。本堂脇の小径を進み道路に出る。小径脇には牛舎。数頭の牛がこちらを凝視。道脇の地蔵尊を見やりながら、水路と付かず離れず進み寺田町西交差点に。
寺田川源流点
寺田町西交差点を越えると車道の東側に細路が続く。道を離れ水路に沿って進む。民家の裏、犬に吠えられながら進むと水路は再び車道下に潜る。地図では水路がここで切れているのだが、ひょっとして、と車道の西側をチェックする。ささやかな水路が先に続く。ほとんど民家の軒先といった水路脇を遠慮がちに進む。道などない。畑の畦道を浸み出すといった水路に沿って谷戸奥に向かう。谷戸の最奥部で水路は丘陵へと入り込んでいく。ブッシュの中、藪こぎでもすれば源流点まで進めないことのないのだが、これで十分。寺田川がはじまる地点から谷戸の景観を眺める。三方を丘陵で囲まれ、その間の平地には畑地が広がる。如何にも谷戸の典型といった景観である。
谷戸とは丘陵が湧水に因って削られた谷間の低地のことを言う。三方が丘陵によって囲まれた平地のとっつき、扇の要のところは小川の源流域。丘陵の湧水を集め平地へと流れ出す。人はその水を水田となし、豊穣を祈って谷神を祀る。これが小山田とか山田と呼ばれる景観である。柳田国男は「古い土着の名残を留めた昔懐かしい良風景の地(『海上の道』)」と描く。
往古、人は安住の地を求めて川を遡った。「地理測量のまだおぼつかない世の中では原は木がなくてもなお一つの障壁であり、これを跋渉することは湖をわたるほどの困難であった。その上に外界の不安面が広がるので、人は近代になるまでくだってこれにつくことをこのまず、依然として水の音を慕って川上にさかのぼった(『地名考察;柳田国男』)」、と。川を遡り、その行き止まりの地が谷戸の里である。三方を丘陵で囲まれ外敵への備えも容易。丘陵からの清浄な水も手に入る。谷戸の里を人は安住
丘陵越え
畑の畦道を戻る。来た道を再び、というのも芸がないので、辺りを見渡すと谷戸の西側丘陵に一筋の道が見える。丘陵に上っている、よう。地図を見ても道はないのだが、成り行きで進むことに。農道を丘陵へと進む。一面に畑地が広がる丘陵地を進む。畑地が切れ雑木林がはじまる辺りに丘陵地散策コースの案内。今ひとつわかりにくい地図ではあるのだが、とりあえず先にも道が続く、ということである。ちょっと安心して雑木林の中をゆったり進む。
畑の畦道を戻る。来た道を再び、というのも芸がないので、辺りを見渡すと谷戸の西側丘陵に一筋の道が見える。丘陵に上っている、よう。地図を見ても道はないのだが、成り行きで進むことに。農道を丘陵へと進む。一面に畑地が広がる丘陵地を進む。畑地が切れ雑木林がはじまる辺りに丘陵地散策コースの案内。今ひとつわかりにくい地図ではあるのだが、とりあえず先にも道が続く、ということである。ちょっと安心して雑木林の中をゆったり進む。
前方は穎明館(えいめいかん)という学校の敷地の、よう。雑木林の中を道なりに進むと館清掃工場裏に出る。その南は法政大学のグランド。野球部が練習している。道は二つに分かれる。さてどちら?と、分岐点のところに、ほとんど消えかけた道案内。なんとなく、「館町バス停」といった文字が見える。右に折れ、清掃工場のフェンスに沿って進み「館町清掃工場入口交差点」に出る。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
殿入川源流点
地図を見るとこのあたりが殿入川の上流端。清掃工場のすぐ近くまで水路が続くが、どうも清掃工場の構内のようである。中には入れそうもない。どこか川筋へと道を探すと、すぐ北にある穎明館(えいめいかん)という学校付近に橋がある。橋から川筋へでも、などと思い描く。道を下り橋に向かうが、谷筋が深く辿れるような道もない。
殿入川源流点
地図を見るとこのあたりが殿入川の上流端。清掃工場のすぐ近くまで水路が続くが、どうも清掃工場の構内のようである。中には入れそうもない。どこか川筋へと道を探すと、すぐ北にある穎明館(えいめいかん)という学校付近に橋がある。橋から川筋へでも、などと思い描く。道を下り橋に向かうが、谷筋が深く辿れるような道もない。
橋の上から源流あたりを眺める。橋を渡れば穎明館(えいめいかん)。校名は、明治10年に初号を発刊した子供向けの井の投稿雑誌「穎才新誌」に因る。子供達が投稿した作文・詩・書画を掲載した。山田美妙、尾崎紅葉、大町桂月といった文学者も、この投稿誌で文才を磨いた、と。ちなみに、穎明=英明。すぐれた才能。また、その持ち主。秀才、と言うこと。
殿入谷戸
橋から道に戻り、坂道を下る。左右を丘陵で囲まれた谷戸の景観が広がる。坂道の右下、川横の自動車や家電の廃棄工場が谷戸の風景には少々の違和感もあるが、それでも典型的な谷戸の景観を残している。なかなかに広がり感のある谷戸である。ちなみに、「殿入」の由来はなんだろう。宮中を警護する舎人(とねり)は殿入から、とも言われるが、この地を舎人と関連づけるのは違和感がある。なんだろう?ちょっと閃いた。殿って「しんがり・最後部」って意味がある。谷の最奥部、とでも言ったものであろう、か。単なる妄想。根拠なし。
殿入谷戸
橋から道に戻り、坂道を下る。左右を丘陵で囲まれた谷戸の景観が広がる。坂道の右下、川横の自動車や家電の廃棄工場が谷戸の風景には少々の違和感もあるが、それでも典型的な谷戸の景観を残している。なかなかに広がり感のある谷戸である。ちなみに、「殿入」の由来はなんだろう。宮中を警護する舎人(とねり)は殿入から、とも言われるが、この地を舎人と関連づけるのは違和感がある。なんだろう?ちょっと閃いた。殿って「しんがり・最後部」って意味がある。谷の最奥部、とでも言ったものであろう、か。単なる妄想。根拠なし。
淡島神社
谷戸の道を下ると道脇に小さな祠。淡島神社とある。誠に、誠に小さな祠に惹かれてあれこれ眺めていると、近くで農作業をしていた方が親切にも声を掛けてくれた。お話によると、淡島さまは享保の頃に祀られた。元々は丘陵の頂に祀られていたのだが、それではお年寄りがお参りするのに難儀だろう、ということで、この地に移した、と。
淡島神は、安産・子授けなど、女性への強力なサポーターである。淡島さまとは住吉神の妃神である、との説がある。このあたりが遠因だろうか。淡島様が全国に広まったのは淡島願人と呼ばれる半僧半人の願人坊主に負うところが大きい、とか。祠を背負い、鈴を振りお祓いをして全国を廻った。
願人坊主で思い出すのは葛飾半田稲荷の願人坊主。時は明和・安永の頃(1764 - 81年)、体中赤ずくめの衣装を着で「葛西金町半田の稲荷、疱瘡も軽いな、発疹(はしか)運授 安産守りの神よ。。。」と囃し江戸を練り歩き、チラシを配る坊主がいた。この坊主は神田在の願人坊主。半田稲荷のキャンペーン要員として雇われた。で、この販促企画が大ヒット。この坊主が来ると、景気がよくなるとまで言われ、半田稲荷への参拝者も増え、」その人気故、歌舞伎にまで取り上げられた、と言う。
湯殿川・和合橋
淡島神社を離れ、右手に殿入中央公園の丘を見やりながら道を下る。道脇に殿入川のささやかな流れを見ながら道なりに進む。時々後ろを振り返り、谷戸の景観を眺める。ほどなく道の右手に、先日訪れた龍見寺大日堂の小高い丘を眺め、先に進むと湯殿川・和合橋に出る。和合橋って各地にあるが、隣接する村々が「合い和す仲良く」しましょう、といった命名由来が多い。この橋は、さて如何に。
京王線・狭間駅
湯殿川を渡り、北野街道を越え段丘崖の坂道を上り国立東京工専前に出る。椚田遺跡公園通りを西に進み狭間駅入口を北に折れ京王線・狭間駅に。狭間は丘陵と丘陵の間に奥深く入り込んだ谷地を指すのだろう。この駅周辺は丘陵地の上であり「挟まれる」ものはないが、丘陵を下った町田街道の狭間交差点あたりは、如何にもの「狭間」であった。台地上は新開地、台地下が昔の狭間の集落だったのだろう、か。ともあれ、本日の散歩はこれでお終い。
谷戸の道を下ると道脇に小さな祠。淡島神社とある。誠に、誠に小さな祠に惹かれてあれこれ眺めていると、近くで農作業をしていた方が親切にも声を掛けてくれた。お話によると、淡島さまは享保の頃に祀られた。元々は丘陵の頂に祀られていたのだが、それではお年寄りがお参りするのに難儀だろう、ということで、この地に移した、と。
淡島神は、安産・子授けなど、女性への強力なサポーターである。淡島さまとは住吉神の妃神である、との説がある。このあたりが遠因だろうか。淡島様が全国に広まったのは淡島願人と呼ばれる半僧半人の願人坊主に負うところが大きい、とか。祠を背負い、鈴を振りお祓いをして全国を廻った。
願人坊主で思い出すのは葛飾半田稲荷の願人坊主。時は明和・安永の頃(1764 - 81年)、体中赤ずくめの衣装を着で「葛西金町半田の稲荷、疱瘡も軽いな、発疹(はしか)運授 安産守りの神よ。。。」と囃し江戸を練り歩き、チラシを配る坊主がいた。この坊主は神田在の願人坊主。半田稲荷のキャンペーン要員として雇われた。で、この販促企画が大ヒット。この坊主が来ると、景気がよくなるとまで言われ、半田稲荷への参拝者も増え、」その人気故、歌舞伎にまで取り上げられた、と言う。
湯殿川・和合橋
淡島神社を離れ、右手に殿入中央公園の丘を見やりながら道を下る。道脇に殿入川のささやかな流れを見ながら道なりに進む。時々後ろを振り返り、谷戸の景観を眺める。ほどなく道の右手に、先日訪れた龍見寺大日堂の小高い丘を眺め、先に進むと湯殿川・和合橋に出る。和合橋って各地にあるが、隣接する村々が「合い和す仲良く」しましょう、といった命名由来が多い。この橋は、さて如何に。
京王線・狭間駅
湯殿川を渡り、北野街道を越え段丘崖の坂道を上り国立東京工専前に出る。椚田遺跡公園通りを西に進み狭間駅入口を北に折れ京王線・狭間駅に。狭間は丘陵と丘陵の間に奥深く入り込んだ谷地を指すのだろう。この駅周辺は丘陵地の上であり「挟まれる」ものはないが、丘陵を下った町田街道の狭間交差点あたりは、如何にもの「狭間」であった。台地上は新開地、台地下が昔の狭間の集落だったのだろう、か。ともあれ、本日の散歩はこれでお終い。
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