阿波 歩き遍路:第十八番札所 恩山寺から第十九番札所 立江寺を打ち鶴林寺道取り付口へ

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18番札所恩山寺から19番札所立江寺を打ち、20番札所への取り付口までをメモする。立江寺までおおよそ5キロ、立江寺から鶴林寺道取り付口までおおよそ10キロ、全行程15キロ程度の遍路道。
ルートをGoogle の衛星写真で俯瞰する。徳島から勝浦川水系のつくった扇状地、デルタ三角地を抜け四国山地の最東端といったところに恩山寺が建つ。立江寺はそこから那賀川水系の開いた大扇状地、デルタ三角地に向かう。
立江寺にお参りした後、那賀川水系立江川に沿って、勝浦川・那賀川水系の分水界をなす田野山地の山裾を立江川源流域まで上り、そこから丘陵地を抜けて勝浦川筋に戻り、勝浦川に沿って鶴林寺道の取り付口である生名(いくな)に向かう。
途中思いもかけず「真念へんろ道」に出合ったり、その真念遍路道を衛星写真でチェックしていると、櫛の歯のように突き出たいくつもの田野山地の支尾根を「発見」したり、三つの山地・丘陵が境を画する川筋跡といった風情の「空白地・低地」に出合ったりと地形大好き人間には結構楽しい遍路道であった。 櫛の歯のように突き出た支尾根ゆえの地名とも言う櫛淵を進む「真念へんろ道」は、その前半部は歩いたのだが、残り半分は遍路タグを見落としたのか真念遍路道ではなく旧遍路道を歩くことになった。実際に歩いたわけではないので正確ではないが、後半部の真念遍路道も、その概略ルートを参考のため掲載しておく。

本日のルート;
18番恩山寺から19番立江寺へ
恩山寺>立江道分岐>弦巻坂に標石>舗装堂に>釈迦庵>分岐点の標石>四国千躰大師標石>標石>県道136号合流点に2基標石>般若心経碑>剣山大権現碑>標石>お京塚>真念遍路道案内>不動明王石仏>立江寺右折点に2基標石>19番札所立江寺
19番立江寺から鶴林寺道取り付き口へ
立江寺>立江寺奥の院清水寺碑>標石>真念遍路道分岐点に四国千躰大師標石>真念道標>茂兵衛道標(118度目)>県道22号T字路に標石2基>茂兵衛道標>茂兵衛道標>県道16号T字路の茂兵衛道標>東林庵の標石>鶴林寺道登山口の寺標



第十八番札所恩山寺から第十九番札所立江寺へ


恩山寺を離れ、次の札所・立江寺に向かう。距離は5キロ弱といったところ。恩山寺からは阿波遍路道(立江寺道)に入ると言う。境内には特段、立江寺道の案内はない。旧参道途中、石段前にあった照蓮の四国千躰大師標石よりその手印が指す左へ、との古い記事があったが、現在は法面補強のためか道路との比高差があり、とても左に抜けることはできそうもない。 とりあえず車道参道を下ることにした。

立江道分岐
車道参道を下ると、養豚場への車道分岐点に「恩山寺右へ」の標石があり、その傍に「立江寺へ 歩きへんろ道」と書かれた案内があった。指示に従い車道を右に折れ、養豚場傍の道を進む。


弦巻坂に標石
その直ぐ先、竹林手前に「四国のみち」や遍路タグと共に「立江寺へ 歩きへんろ道」と書かれた案内が再び。
竹林の中を進むとほどなく「弦巻坂」と書かれた案内と地蔵尊・丁石が並ぶ。丁石には「三丁」と刻まれる。地蔵尊は花折地蔵と称されるが、その由来は不詳。
弦巻坂の案内
義経軍は釈迦庵から恩山寺に登る坂の向こうに敵兵がいないことを探知して、弓の弦を巻くことにしたのが坂名の由来とあった。

標石
ほどなく「立江寺へ 歩きへんろ道」案内と立江寺と刻まれた標石。案内に従い右に折れると三差路。そこには逆打ち遍路さんへの「恩山寺へ へんろ道」の案内と「四国のみち」の標石が立つ。道なりに舗装された道を進む。
義経ドリームロード
小松島市の資料には「義経が屋島に向かって進軍した進路は、現在「義経街道」と呼ばれ、義経が大阪より風雨の中を押してたどり着き、軍船を集めたとされる「勢合」を起点として、小松島市内の義経ゆかりの地を結ぶ約10キロメートルを「義経ドリームロード」として案内板や道標が設置され、史跡やロマンを求める人々に親しまれています。
義経が小松島の海岸に上陸してから屋島に攻め入るまで、わずか1日の出来事でありながら、弦張坂、弦巻坂、旗山、くらかけの岩、天馬岩、弁慶の岩屋など、義経にまつわる伝説の場所が多く残されており、人々の義経にかける思いの深さが感じられます」とあった。

立江道を進む
車道を進むと、すぐ「立江寺へ 歩きへんろ道」の案内。案内に従い車道を離れ右に折れ。竹林の土径を進むが直ぐに車道に合流。大廻りする車道をショートカットしただけであった。 その先、竹林を抜け丘陵裾を蛇行する舗装道をゆっくり下ってゆく。 上述小松島市の資料に拠れば、弦巻坂へと上る道を「弦張坂」と呼ぶようだが、特段の案内は無かったように思う。

釈迦庵
恩山寺車道傍の立江寺道の入口から歩きはじめて20分弱、道の右手、藪の中に堂宇がひとつ建つ。そこが釈迦庵。道傍に「弘法大師おむつき堂」ともある。
寂本の『四国遍礼巡礼記』に、「大師御誕生のときのむつきを此藪おさむといひ伝うとなり」にある。「むつき」は産着のこと。
かつては「むつき堂」もあったようだが、現在は朽ち果てている、と。であれば、境内のお堂は釈迦庵だろう。その風情からして建て替えられたもののようだ。恩山寺の寺僧の隠居寺であったと言う。 荒れはてた境内には仏足石の案内。保護プレートの下に1m四角、幅15㎝ほどの石があった。
には、「釈迦庵の仏足石 銘文 右 三国伝来仏足石跡之図南 左都薬師寺所珍蔵之者也 古式の信仰として、我が国に仏足石が唐より伝来したのが天平勝宝5年(西暦753年)頃といわれ奈良薬師寺にある。ここ釈迦庵の仏足石は、江戸初期に造られたものといわれ、銘文によると、奈良薬師寺の仏足石を写したといわれている。その大きさは奈良薬師寺の仏足石とほぼ同じである。仏足石は全国的にも非常に少なく本県においても釈迦庵の他にはみあたらない」とあった。


分岐点の標石
釈迦庵を離れるとその先に里が広がる。T字路を左に折れ、道なりに進むと、道の右手に「立江寺へ 歩きへんろ道」の案内、「四国のみち」の標石。案内に従い車道を離れ、右折し畑の畦道といった土径に入る。


四国千躰大師標石
直ぐ、照蓮の四国千躰大師標石と「四国のみち 十九番立江寺」の標石。手印に従い水路脇の細い土径を進む。いい趣の道。「立江寺へ 歩きへんろ道」の案内も立つ。




標石
少し進むと「立江寺へ 歩きへんろ道」の案内と標石。「四国のみち」の標石と共に、「へんろ道」と刻まれた標石が立つ。標石脇には五輪塔に似た小さな石造物もあった。
案内に従い右に折れ水路を渡る。道端に石造物が並ぶ






県道136号合流点に2基標石
民家脇の細路を進むと県道136号に合流。そこに笠石をつけた標石と茂兵衛道標。笠石丁石には「是より恩山寺七丁 是より立江寺へ十八丁 文化六」といった文字が刻まれる。
茂兵衛道標には「徳島 立江寺 恩山寺 明治三十一年」といった文字が刻まれる。茂兵衛165度目巡礼時のもの。
県道136号分岐点の標石
この2基の標石が並ぶ県道136号合流地点の少し北、県道136号の分岐点に小堂と標石が並ぶ。左端は中尾多七標石、その右は風化激しく文字は読めない。小堂にも標石1基。照蓮の四国千躰大師標石の上部だけのよう。
ここに立つ標石は、恩山寺から弦巻坂を通らず、県道136号・土佐街道を辿る遍路道。茂兵衛道標の箇所で両ルートは合流する。

般若心経碑・剣山大権現碑
南東に下る県道136号が南に向きを変える角に小堂。横に「奉読誦般若心経」の碑。「読誦(どくじゅ)」とは、お経を称えること。「読誦般若心経百万遍」といった石碑が各地に残るが、この碑も祈願した般若心経を唱え終えた記念碑だろうか。
この先で道は丘陵に入る。小松島の赤石の海辺に向かって突き出した細長い丘陵部。道の右手に剣山大権現碑が立つ。

19丁石・お京塚
丘陵部の低いピークを抜け、立江川筋に向かって緩やかに坂を下る。坂の途中、丘陵部から平地に出る手前、道の左手のコンクリート壁面上に標石。「十九番立江寺」と刻まれる。
道を進み、県道136号が立江川に沿って進んできた県道28号と合流する手前に「お京塚」と刻まれた大きな石碑。その傍には遍路休憩所が建っていた。
お京塚
お京という女性が前非を悔い、庵を結んだところ。
お京は石州浜田(島根県浜田市)の在。16歳で大阪へ芸者に売られるも、22歳で要助と足抜けし故郷の浜田に戻る。夫婦となった二人だがお京は長蔵と密通。要助を無きものにし、故郷を逃れた二人は四国の丸亀に上陸し、四国巡礼の姿での逃避行。
阿波の国(現在の徳島県)にある19番札所立江寺に詣で本尊の地蔵尊を拝するに、忽ち、お京の黒髪が逆立ち鐘の緒に巻きつく。
お京至心に懺悔すると、不思議にも、お京の黒髪は肉とともにはがれ、辛うじて命は助かった。 その後ふたりはこの地に庵を結び、一心に地蔵尊を念じ生涯を終えた、と。
立江寺は阿波の関所寺と聞く。この勧善懲悪の説教話は、お大師さまの審判を受け邪悪な遍路は通さじとする関所寺所以のお話であろうか。
因みに土佐の関所寺は27番神峰寺、伊予は60番横峰寺、讃岐は66番雲辺寺。

「真念へんろ道」の案内
県道136号は立江川手前で県道28号と交差する。県道136号は立江川を渡るが遍路道はここで県道28号に乗り換える。その交差点角に、「真念へんろ道 小松島へんろみち保存協会」の案内。立江川左岸を進む県道28号方向を指す。
この案内の意味するところは後程わかるのだが、その時は「この道筋が真念遍路道?」と県道28号を先に進む。道の右手に不動明王石仏が祀られる。

立江寺右折点に2基標石
ほどなく道の左手に標石2基。1基は茂兵衛道標。「鶴林寺 立江寺 大龍寺 明治三十二年」といった文字が刻まれる。茂兵衛171度目巡礼時のもの。もう1基は風化が激しいが照蓮の四国千躰大師標石のようである。
立江寺はここを左折し立江川にかかる朱塗りの白鷺橋を渡れば直ぐそこ。
白鷺橋
橋柱に案内。「行基上人が立江寺草創の時、一羽の白鷺がこの橋に舞い降りる。橋の名は白鷺橋とも九つ橋とも称された。「九つ橋」の由来は、九界の地位を表す標であって、積悪邪険の者はこの橋で眼がくらみ足がすくみ、一歩も歩くことができず、そのときは必ず一羽の白鷺が橋に舞い降りると。無時渡れた人は善男善女でありとする」といったことが書かれていた。上述、お京の説教話同様、関所寺としての立江寺のイメージを高める。
九界
「九界の地位を表す標」って何?「九界とは仏語。十界のうち、仏界以外の世界。地獄・餓鬼・畜生・阿修羅(あしゅら)・人間・天上・声聞(しょうもん)・縁覚・菩薩(ぼさつ)の九界(コトバンク)」にある。 九界を渡り終えることにより、仏界に至るとの象徴だろうか。実際見たわけではないのだが、橋桁も八つあり、九のスペース(九界)をつくっている、とか。


第十九番札所立江寺(たつえじ)

白鷺橋を渡り直進するとT字路。角に寺標石が建つ。如何にも門前町といった雰囲気。その角を右折し、寺の境内を囲う塀に沿って進むと堂々とした山門がある。入母屋造楼門。

境内に入ると左に鐘楼、右に二重塔(多宝塔)。その裏手に白杉大明神。空海入唐時の守護神とあった。少し進んで右手に阿波七福神毘沙門天堂。
本堂はその先左手。本堂の左右に観音堂と護摩堂。大師堂は本堂に相対するように右手に建つ。その左右に神変堂と黒髪堂が建つ。 Wikipediaには「立江寺(たつえじ)は、徳島県小松島市立江町にある高野山真言宗の寺院。四国八十八箇所霊場第十九番札所で「四国の総関所」、また「阿波の関所」として知られる。橋池山(きょうちさん)、摩尼院(まにいん)と号する。本尊は延命地蔵菩薩。


寺伝によれば、聖武天皇の勅願寺として、行基が光明皇后の安産を祈願し一寸八分 (5.5cm) の金の子安の地蔵菩薩を刻み「延命地蔵菩薩」と名付けて本尊として開基したとされる。空海(弘法大師)が訪れた際、小さい本尊は失われる恐れがあるとして、一刀三礼して等身大の地蔵菩薩を刻み、本尊を胎内に収めたといい、このときに寺名が立江寺と改められたと伝えられている。当時は現在地から400mほど西の奥谷山清水寺のある場所であったという。

天正年間(1573年 - 1593年)に長宗我部元親の兵火により全焼したが、幸い本尊は難を逃れた。その後徳島藩藩祖蜂須賀家政によって現在の地で復興された。昭和49年(1974年)に火災が発生、本堂が焼けたが本尊は無事で昭和52年(1977年)に再建された」とあった。
黒髪堂
お京塚でメモしたお京の黒髪が残ると言う。上述説教話を刻んだ石碑があり、その最後に「肉付き鐘の緒を当山に納め置くは享和三年(1803)の春のことなり」とあった。
ということはお堂に、お京の神それも肉付き鐘の緒がある?とても見る気になれず。




第十九番札所立江寺から鶴林寺道取り付き口へ


立江寺を離れ次の札所20番鶴林寺への取り付口に向かう。その距離おおよそ10キロ。中川水系立江川に沿って丘陵裾を進み、その源流部の先で那賀川水系と勝浦川水系を隔てる丘陵地を北に抜け、勝浦川筋に移り勝浦町生名の取り付口に向かうことになる。
遍路道は立江寺境内を離れ、白鷺橋を渡り茂兵衛道標まで戻り、そこを左折し県道28号を歩く。

立江寺奥の院清水寺碑
道を進むとほどなく大きな石碑。「立江寺奥の院 新四国八十八ヵ所」とある。ここを右に上ると立江寺奥の院清水寺がある。
立江寺奥の院清水寺
県道から200mほど奥まったところに本堂のみが建つ。立江寺でみた寺の旧地がここ。長宗我部元親の兵火により全焼したが、幸い本尊は難を逃れた。その後徳島藩藩祖蜂須賀家政によって現在の地で復興された、は前述の通り。

取星寺道標石
先に進むと、少しあたらしい標石。「右へんろ道」とくっきり刻まれる。最近のものかと通り過ぎようとしたのだが、昭和十一年と刻まれる。お化粧直し?と、側面に「左 十九番奥院 取星寺道」とあり、大阪や日本橋といった寄進者の在も刻まれる。
清水寺の山号か院号が「取星」と軽い気持ちでチェック。と、立江寺奥の院取星寺がヒットした。場所は阿南市羽の浦。立江川の谷筋から向山山地を越えた那賀川筋の山麓にある。指示する方向は合っている。これってどういうこと?
立江寺の奥の院
チェックすると、立江寺の奥の院は取星寺の他、勝浦町星谷にある「岩屋山星谷寺(星の岩屋)」も立江寺の奥の院とあった。
その因は不詳だが、歴史的経緯の中で生まれたものだろう。特に明治維新での神仏分離令の頃、あれこれの混乱が起きている。
奥の院のケースではないが、明治の神仏分離令による札所・前札所の混乱に伊予で出合った。伊予の60番札所横峰寺には、その前札所清楽寺、妙雲寺があった。神仏分離令で廃寺となった伊予の60番札所横峰寺に替わり、その前札所であった妙雲寺が60番前札所となる。 一時期石鎚神社の遥拝所となっていた横峰寺がその後寺に復帰すると、あれこれの混乱はあったものの、現在横峰寺は60番札所、妙雲寺は60番前札所になっている。前札所であった妙雲寺は火災に遭い、現在は前札旧跡となったいた。
また、讃岐で出合ったケースでは、68番神恵院と69番観音寺がそれ。同じ境内にふたつの札所が建っている。これは神仏習合を廃することによる神宮寺の廃寺にその因がある。立江寺奥の院のケースもこういった混乱期に起きたことではと妄想する。根拠はない。
取星寺
取星寺(しゅしょうじ)は徳島県阿南市羽ノ浦町岩脇に所在する寺院。山号は妙見山。宗派は高野山真言宗。本尊は虚空蔵菩薩。四国八十八箇所第十九番立江寺奥の院
寺伝によれば、平安時代初期の延暦11年(792年)に空海(弘法大師)が太龍の峰(現・太龍寺)で修法中に、地上に厄災を及ぼす妖星が現れた。空海が秘法を用いると妖星が地上に落ち松の木に引っかかった。空海がその星を拾い、妙見菩薩と虚空蔵菩薩を刻んでこの地に納めたと伝わる。
南北朝時代の至徳元年(1384年)、増吽上人が鹿島大明神・香取大明神を勧進し妙見宮を建立したと言われる。明治時代の神仏分離令により取星寺と明現神社とに分離された。
星谷寺
星谷寺(しょうこくじ)は、徳島県勝浦郡勝浦町星谷にある、高野山真言宗の寺院。本尊は十一面観音。四国八十八箇所第19番札所立江寺の奥の院である。別名星の岩屋。現在は無住の寺院で鶴林寺が管理している。
その昔、人々に災禍をなしていた悪星を空海(弘法大師)が法力で地上に引き下ろしてこの岩屋に封じこめたところ、悪星が石と化したため、この石を祀ったといわれている。 境内には星の落下にまつわる伝説がある岩屋の中から見る「裏見の滝(不動の滝)」があり、その岩の外壁には「瀧之不動尊」と呼ばれる不動明王が刻まれている。樹齢約450年の朽ちかけた樟の木の巨木には「樟ノ木不動尊」や、最近、岩屋禅学堂から約30mほど上がった裏山の岩場に「定ヶ窟不動尊(天井の不動)」が刻まれ、また、道路脇の小さい滝の横には「先心之滝不動尊」石仏がある。

真念遍路道分岐点に四国千躰大師標石
ほどなく道の右手に照蓮の四国千躰大師標石。手印は県道28号を指すのだが、県道から右に逸れる道筋に「真念へんろ道」との案内がある。これが立江寺近くの県道28号交差箇所にあった「真念へんろ道」であったよう。
標石に従えば県道筋も遍路道であるが、「真念」のネームに惹かれ県道を離れ山裾の道に入る。

真念遍路道を進む
道は県道筋から次第に離れてゆく。山裾の道を進むと切通しといった丘陵鞍部を抜けると眼前に池。その向こうにトンネルが見える。池の東には高架橋桁だけがいくつか建てられている、いかにも工事現場といった風情。
池手前の工事用道路といったところに出ると、遍路タグがあり、右へと続く集落の生活道を山側に進む。
四国横断自動車道路
トンネルとか高架橋桁は何だろう。Google mapの衛星写真を見ると遍路道の北、天王谷でも工事が進んでいる、また更にその北、山稜を越えた勝浦川筋でも工事が進められていた。 四国横断道路の小松島・阿南の工事区間のようであった。

真念道標
道を山側に進み小堂を見遣りながら道なりに進み、池の西でピークを越えると遍路道は田野山地から突き出た支尾根丘陵の間を南に下る。
道を下り、県道合流点の少し手前、道の右手に標石が立ち、「真念道標」の案内があった。「右立江* 左*」といった文字が見える(?)。ここでやっと「真念へんろ道」と称される所以がわかった。地域の方の尽力により遍路道が整備されたようだ。傍に天満神社が建つ。

県道28号に真念道標
山裾を進んだ「真念へんろ道」は旧遍路道筋である県道28号に戻る。その先道が南西に少しカーブするところ、民家のブロック塀に囲まれるように2基の標石があった。1基はその形状から真念標石である。これもこの道筋を「真念へんろ道」と称する所以だろう。「右遍ん路み*』「左五丁ゆき くわんおん」「為父母六親」といった文字が刻まれる。
もう1基には「二十番鶴林寺 明治三十四年」といった文字が刻まれる。
真念へんろ道
これはメモの段階でわかったのだが、「真念へんろ道」はこの標石から再び県道を逸れ、西へと幾つかの丘陵を抜ける生活道を進み勝浦川手前の沼江で県道22号に出て、旧遍路道に合流するようだ。なんとなくよさげな道筋。分岐点に案内がなかった?見落とした?ともあれちょっと残念。因みに、県道分岐点から西に進む遍路道にも真念道標が立つと言う。道筋に3基の真念道標が立つゆえの「真念へんろ道」のネーミングを再確認。遍路道整備に尽力された地元の櫛淵を冠し「櫛淵真念へんろ道」とも称する。

茂兵衛道標(118度目)
を進み法泉寺の近く、県道左手に茂兵衛道標が立つ。手印と共に「鶴林寺 立江寺 明治四十年」といった文字が刻まれる。茂兵衛118度目の巡礼時のもの。







櫛淵
Google Street Viewで作成
この辺り櫛淵の地形は面白い。田野山地から突き出た幾つもの支尾根が平地を囲んでいる。この形をもって「櫛」とするのだろう。が、「淵」は?湿地帯。チェックするとWikipediaに櫛淵は「三方を丘陵に囲まれたくさび型の平地が東部に向かって展開している。隆起や沈降によりおぼれ谷(陸上にあった谷が、その地形を保ったまま何らかの理由で水面下に没してできた地形を指す用語)状にできた入江が櫛目状に連なり、櫛目形の谷が山麓を東西に走る」とあった。妄想も当たらずといえども遠からず、といったところ。
また、この辺りの平地も元は後背湿地とも潟湖であったとの記事もあった。往昔の那賀川は現在より北へと、立江川の方に流れていたともあるから、那賀川の自然堤防によってつくられた後背湿地帯であったのだろうか。これも妄想。

県道22号T字路に標石2基
この標石のある辺りは立江川が平地に流れ出すところ。ここからは北の田野山地、南の向山山地に囲まれた谷筋に入る。緩やかな坂の右手、立江川の源流点近くに池がある。立江川の上流部を「中の坪川」と呼ぶようだが、丘陵に囲まれた池は、何となく「中の坪」といった雰囲気。
坂を上り詰めた辺りは切り通しの風情。向山山地の西端部を彫り抜いて道を通しているように思える。
切通しを越えるとT字路。県道22号と合わさる。ここで那賀川筋へと左へと向かう県道28号と離れ勝浦川筋へと抜ける県道22号に乗り換え。T字路を右折する。
T字路に2基の標石。1基はT字路正面。「第二十番鶴林寺 第二十一番大龍寺 第十九番立江寺 弘法大師生誕千二百年記念 昭和四十年」といった文字が刻まれる。朱に塗られた文字、大龍寺は左折し那賀川筋への方向を示す。昭和48年(1973)に立てられたものであるとすれば、車参拝者への案内であろうか。もう1基はT字路右角。「右立江地蔵字 左鶴林寺」と刻まれる。 遍路道は標石に従いここを右に折れ、県道22号を進む。ここからは小松島市を離れ勝浦郡勝浦町域に入る。
T字路周辺の地形
Google Street Viewで作成
切通を抜けてT字路に出たとき、一瞬そこは川筋のように思えた。地形図で見ると特に川は流れれていないのだが、北の田野山地、南の向山山地、西から突き出た四国山地の支尾根の境を画しており、南の那賀川と北の勝浦川の間が「平地」で繋がれていた。何となく面白い地形だ。






茂兵衛道標(177度目)
県道を進み勝浦町の沼江に入ると、県道から右に逸れる道がある。県道整備前の旧路ではないだろうかと右に折れて道を進む。と、グルリと弧を描き県道へと戻る道の左手に茂兵衛道標があった。巡・逆打ちを示す手印と共に「立江寺 鶴林寺 明治三十三年」といった文字が刻まれる。茂兵衛177度目巡礼時のもの。



茂兵衛道標(149度目)
道は県道22号に戻る。先に進むと再び県道から離れる分岐点がある。これも旧路ではあろうと県道を離れ直進すると直ぐ、四つ辻の右手民家塀角に茂兵衛道標があった。
側面jは「十九番立江寺」とあるのだが、正面は塀側に面している。その正面には左折方向を示し、二十番鶴林寺」とある。 左折した県道22号には胎蔵寺があり、境内には大師堂もあると言う。ここを左折しても違和感はない。茂兵衛道標が立った頃は民家もなかったところ、と思えば理屈には合う。
真念へんろ道
県道から逸れる少し手前に北から県道に合わさる道がある。どうもそこが上述、県道28号から分かれ、いくつもの丘陵を抜けて西に向かう「真念へんろ道」が県道22号に合わさる箇所のようである。

県道16号T字路に茂兵衛道標(177度目
茂兵衛道標(149度目)から先の遍路道は、茂兵衛道標が指すように県道に戻り胎蔵寺に参拝し県道筋を進むのか、直進し集落の中の旧路を進むのかはっきりしない。とりあえず道標の指す県道筋に戻り先に進み、勝浦川手前でT字路・県道16号にあたる。
そのT字路角、沼江不動バス停傍に2基の標石。1基は茂兵衛道標。「鶴林寺 立江寺 左とくしま道 明治三十三年」といった文字が刻まれる。茂兵衛177度目巡礼時のもの。もう1基は角柱正面に不動明王が彫られ、その側面に「左遍路道 明治廿二年」といった文字が刻まれた標石となっている。
中央に阿波勝浦沼江不動と刻まれた石柱。不動明王の刻まれた石仏が沼江不動尊だろう。

東林庵薬師堂の標石
県道22号はこのT字路が終点。県道16号に乗り換えてT字路を左折し、勝浦川に沿って進む。 「道のえき ひなの里かつうら」の手前、勝浦川に注ぐ生名谷川からの流れの手前で遍路道は県道16号を逸れ左に入る。
生名(いくな)に入った道筋の右手に東林庵薬師堂。お堂脇に大きな石碑。「鶴林寺 右お久のいん八十五丁 左二十一丁」と刻まれる。
右お久のいんは、前述の徳島県勝浦郡勝浦町星谷にある立江寺奥の院星谷寺。別名星の岩屋のこと。「二十一丁」は鶴林寺までの丁数だろう。また境内の立像石仏の台石も苔・摩耗のためはっきりしないが標石となっているようである。
お堂にあった縁起には「弘法大師、19歳のとき大龍寺へ修行の地を求めてこの地に来たり、一草庵であった東林庵に滞在し薬師如来を祀った」とあった。

鶴林寺道登山口の寺標
東林庵の直ぐ先、生名谷川傍に4mほどの石碑が立つ。「別格本山 四国第二十霊場鶴林寺」と刻まれる。ここが鶴林寺への取り付口。この寺標石を左に入り第二十番札所鶴林寺へ向かう。

今回のメモはここまで。次回は鶴林道を上り鶴林寺を打ち、那賀川筋の大井までの遍路道を標石を目安に歩くことにする。






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