勝浦川筋の生名より鶴林寺道に取り付き第二十番札所を打ち、太龍寺道の取り付き口である那賀川筋の大井までをメモする。上り3キロ強、下り2キロ強。標高40m弱の生名から標高「470mの鶴林寺迄上り、そして標高40m弱の大井まで下る。全行程6キロ弱を3時間で歩いた。痛めた膝を庇いながらの下山でもあり、ふつうであればこれほど時間はかからないと思う。
鶴林寺道は「一に焼山、二にお鶴、三に太龍」と並び称される阿波の難所の一つと聞いており、歩く前は結構身構えたのだが、距離がそれほど長いわけでもないためか、きちんと整備された道ゆえか、難路というほどの遍路道ではなかったように思う。
強いて言えば、那賀川筋から鶴林寺へと上る逆打ち遍路道が結構大変かもしれない。勝浦川筋の生名から鶴林寺までの距離より1キロほど短い山道を同じ比高差上るわけで、当然といえば当然かも。当日は生名の鶴林寺道取り付き口に車をデポしてのピストンであり、復路の上りが結構きつかった。
今回の散歩での思いがけない出合いは室町期の標石。四国最古の標石とのこと。特段標石に「萌える」わけではなく、単に旧遍路道をトレースする目安として標石を辿っているだけなのだが、それでもちょっとした感慨。遍路道に残る標石はほとんど江戸時代以降のものであり、遍路が世に広まる以前の標石に出合ったというだけで結構有り難く思ったわけである。
鶴林寺道のメモをはじめるが、ここで言う「鶴林寺道」は国指定史跡としての「鶴林寺道」ではなく、広義の意で使う。国指定史跡の鶴林道は、本日メモする遍路道のごく一部区間を指すが、メモでは鶴林寺へ向かう道として「鶴林寺道」を使う。
本日のルート;
■鶴林寺道取り付口から第二十番札所鶴林寺に上る
鶴林寺標・鶴林寺道取り付口>茂兵衛道標(154度目)>19丁石>標石2基(?丁)>18丁>標石2基>青石板状標石>18丁>15丁>水呑大師>標石2基(茂兵衛道標;219度目)>?丁>11丁>10丁>車道(青石板状標石)>9丁>8丁>7丁>6丁>4丁>3丁>第二十番札所鶴林寺
■第二十番札所鶴林寺から那賀川筋の大井まで下る
舟形2丁>遍路墓>舟形3丁>不動石像>舟形4丁>舟形5丁>6丁>遍路墓>舟形9丁>>舟形10丁>四国千躰大師標石>舟形14丁>舟形15丁>中尾多七標石>自然石茂兵衛道標〈88度目)>地蔵堂(17丁)>大井休憩所
鶴林寺標・鶴林寺道取り付口;午前10時40分
スタート地点は勝浦町生名(いくな)。生名谷川傍に立つ4mほどの鶴林寺標が鶴林寺道の取り付口。「別格本山 四国第二十霊場鶴林寺」と刻まれる。この寺標の左手、生名谷川の左岸に沿って歩く。
茂兵衛道標(154度目):午前10時43分
生名谷川に沿って数分歩き、右手から水路が合流する橋の角に茂兵衛道標。順・逆を指す手印と共に、「二十番 十九番 明治三十年」といった文字が刻まれる。茂兵衛154度目の巡礼時のもの。
自動車参道と交差;午前10時45分
数分歩くと鶴林寺への自動車参道道と交差。その交差点に「四国のみち」の木標など幾つかの標識が立つ。「四国のみち」」には「阿波遍路道 鶴林寺道 あと3.0km」の案内、真新しい角柱標石には「20 鶴林寺3㎞ 車道5㎞」と刻まれる。遍路道は車道を横切り右に進む。 「四国のみち」の木標傍に標石らしき石。風化・摩耗激しく文字は読めないが、「二十番鶴林寺へ十九丁 立江寺へ二り半」の文字が刻まれる、とか。
●自動車参道
生名谷川の谷筋を標高200m辺りまで上り、そこから谷筋を離れ標高270mの鶴峠をへて鶴林寺へ向かう。
標石2基(20丁);午前10時50分
車道参道をクロスした遍路道は民家の間を抜け変則四つ辻に。コンクリート壁の前にいくつもの遍路標識。「四国のみち」の木標には「20番鶴林寺 歩きへんろ道」、「阿波遍路道 鶴林寺道 鶴林寺へあと2.8km」の案内がある。
その横に2基の標石。角柱標石には「二十ばん鶴林寺江二十丁」、横広の標石には「右観正寺道 中 鶴林道 左 里道」といった文字が刻まれる。
遍路道はここから山稜尾根筋を上ることになる。
●観正寺
西に200m強のところに観正寺がある。阿波西国観音霊場。ささやかな本堂のみが残る。
18丁;午前10時52分
案内に従い右に折れ、石垣の組まれた畑に沿って道を上る。ほどなく右に逸れる道があり、その分岐点に「四国のみち」の木標と、「阿波遍路道 鶴林寺道 あと2.6km」とあり、遍路道は右に逸れる道を示す。「四国のみち」の木標の傍には標石があり、「鶴林寺是ヨリ十八丁」と刻まれる。
石造物2基
道の左手、藪の中に石造物が2基が並ぶ。1基は舟形地蔵。横に立つのは遍路墓だろか。道の先に茅葺小屋が見える。その手前、ふたつの道があわさる箇所に石造物が残る。何かよくわからない。
茅葺き遍路小屋:標高100m・午前10時59分
茅葺小屋に。伊予でみた茶屋跡といった風情。地図には「茅葺き遍路小屋」とある。この辺り標高100m。生名の鶴林寺道取り付口から20分で、60mほど高度を上げたことになる。勝浦川谷筋の遠景が美しい。
青石板状標石;午前11時2分
藁葺き遍路小屋の直ぐ上に舗装道路が走る。鶴林寺へと上る車道から別かれた道のようだ。遍路道は車道をクロスし更に支尾根筋を上ってゆく。
車道交差角に標石。青石板状の標石には「四国第二十番霊場 鶴林寺へんろ道」と刻まれる。中尾多七さんたちが建てたものと言われるが、遍路道でよく見る所謂「中尾多七標石」とはその形状は大きく異なる。
●中尾多七標石
中尾多七さん達が昭和37年から昭和38年(1963)にかけて建てた標石は阿波の23番札所までに60近くにのぼると言う。特徴は「へんろ道」の文字と、その上に両端に矢印のついた線。線には直線の他、カーブしたものなどがあり、道方向を示す。 中尾多七標石は阿波だけでなく伊予の竜光寺道、香園寺奥の院道など、道の迷いやすい山道にも見られる、と言う。
18丁;午前11時9分
「鶴林寺2.1km」と書かれた「四国のみち」の木標を越え、その先「鶴林寺1.8km」と書かれた「四国のみち」木標で遍路道は右に逸れる。分岐点には「国指定史跡(平成22年8月5日指定 阿波遍路道 鶴林寺道まで1.8km」とある。
15丁;午前11時14分
標高150m辺り、道の右手の石垣前に角柱の標石。「十五丁」とある。施主であろう「泉屋*」といった文字が刻まれる。セメント造りの道も狭くなってきた。
水呑大師;午前11時20分
ほどなくちょっとした平場。おおよそ標高200m。そこに岩組みの中から水が流れ出る。傍には「世の人に永久に残せし石清水 大師の慈悲を心して呑む 昭和三十八年盛夏 竹林晴浪」と刻まれた歌碑も立つ。
平場には小堂も建ち、「水呑大師」とある。全国各地にある弘法水であった。お堂脇には「十四丁」と刻まれた角柱丁石も立つ。
●阿波遍路道案内
水呑大師の小堂脇に「阿波遍路道』の案内。
「国指定 阿波遍路道 鶴林寺道・太龍寺道・いわや道・平等寺道 四国八十八箇所霊場をめぐる遍路道は、四国4県にまたがる引法大師空海ゆかりの社寺を巡る全長1,400kmに及ぶ霊場巡礼道である。
勝浦町で指定を受けた遍路道は、阿波遍路道のうち第20番札所鶴林寺をつなぐ「静林寺道」と鶴林寺から第21番札所太龍寺をつなぐ「太龍寺道」の一部の範囲である。
「鶴林寺道』は現在地点である「水呑大師」(弘法大師が杖を突くと水が噴き出したという伝説がその名の由来となっている)と呼ばれている祠から鶴林境内までの道約1.27kmが指定範囲である。この区間には、約650年前の南北朝期に建てられた花崗岩の町石(丁石)が11基残されており、江戸時代以前より継承されてきた古道である。
また、六丁石を過ぎると遍路道は石畳道となり、鶴林寺境内手前の三丁石まで約300m続く。五丁石付近左奥には、鶴林寺により建てられた遍路の無料宿泊所である「通夜堂跡」(124m四方の建物)とともに便所跡・井戸跡なども残されている。
「太龍寺道」は鶴林寺本堂下から阿南市の大井集落手前の阿南市境までの約860mが指定の範囲になっている。この区間の遍路道は、急勾配の斜面階段が続く。遍路道の傍らには、船形の丁石や遍路墓、また道標も建ち、自然景観も含め往時の面影を色強く残している。
徳島県教育委員会/管理団体 勝浦町」との説明と共に、鶴林寺道と太龍寺道の地図が掲示されていた。
標石2基(茂兵衛道標;219度目);午前11時31分
呑大師から先はコンクリート簡易舗装も消え、擬木や石が敷かれた道となる。標高を30mほど上げたところに標石が2基。
1基は茂兵衛道標。「鶴林寺 当山厄除け弘法大師毎夜開帳 右太龍寺へ一里半 左立江寺へ二里半 明治四十年」といった文字が刻まれる。茂兵衛219度目巡礼時のもの。
もう1基は「鶴林寺道 十三丁 左仁*谷道 弘化二」といった文字が刻まれる。
12丁;午前11時35分
茂兵衛道標から数分、角柱の標石に「十二丁」と刻まれる。
11丁;午前11時39分
次いで現れた「十一丁」の丁石には上部に二本の刻みがある。はじめて見る形。これが上述、阿波遍路道案内に「約650年前の南北朝期に建てられた花崗岩の町石(丁石)が11基残されており」とあった標石のはじまりだろう。
それにしても室町期の標石?それって真念などにより四国霊場八十八ヵ所が定着する以前の時代。 ということは、この鶴林寺道は四国の遍路道でも最も古い時代の遍路道ということか。ちょっと感慨深い。
●標石
遍路道標のはじまりは卒塔婆を建てて道しるべとしたようだ。鎌倉期には朽ちる木に替えて五輪塔形の標石となり、高野山に残ると言う。この南北朝の頃に立てられた丁石は、五輪塔を簡略化したもので、尖塔方柱形式で頭部に切り込みが入る。四国最古の頃の遍路標石だ。
鶴林寺道と同じ頃の室町期の標石は、鶴林寺を那賀川筋に下り太龍寺へと上る遍路道のひとつ、「かも道」にも残る。この遍路道も四国最古の遍路道と称される。
10丁;午前11時43分
擬木の敷かれた道を進み、標高300mを越える等高線の間隔も広くなり、少し緩やかとなったな坂を進むと「十丁」と刻まれた丁石。この丁石には「貞治二年四月十四日」と刻まれるとの記録もある。西暦1355年、四国最古の標石かもしれない。因みに貞治は北朝での元号。当時四国は北朝の勢力下であった、ということか。
この辺りで稜線部に上る。等高線の間隔も広く、緩やかな坂となる。
車道(青石板状標石);午前11時49分
コンクリートで一部固めたようになった道の先で、遍路道は鶴林寺車道参道に出る。遍路道は道をクロスし土径に入るが、その角に「四国のみち」の木標があり、傍に青石板状標石。麓で見た形式と同じ。中尾多七さんたちが建てた標石。「四国第二十番霊場 鶴林寺へ七百八十メートル 七丁 昭和四十年」といった文字が読める。
9丁・8丁
車道を越えるとすぐ「九丁」と刻まれた丁石(午前11時50分)。擬木の道を進み、「四国のみち」の木標が立つ傍に「八丁」(午前11時54分)。この八丁石には「貞治二年六月廿四日」の文字が刻まれると言う。11丁石に遅れること2カ月といった古い丁石である。
那賀川の遠景
ゆるやかに上る尾根道・稜線の遍路遍路道を進む。8丁石を越えると左手に那賀川の谷筋が見える。大きく湾曲した川に橋が見える。地図で確認すると水井橋のようだ。ということは橋の手前の家並は大井の集落だろう。あそこまで下りてゆくわけだ。
7丁・6丁
7丁(午前11時58分)、6丁(午後12時2分)の丁石を見遣りながら擬木の道を進むと自然石の敷かれた石段となり、そこを上ると再び車道参道に合流する。
4丁・3丁
車道をクロスすると下半分が埋まったのか、破損したのか少し小振りの「四丁」と刻まれた丁石(午後12時9分)。その先直ぐに「三丁」石(午後12時11分)。3丁石を越えると車道参道に出る。
2丁・茂兵衛道標(179度目)
車道参道を進み、車止めの先に向かうと山門がみえてくる。その山門手前に「二丁」の丁石。
先に進むと茂兵衛道標。参道側に「立江寺」、山門に面した側に「奥の院二里半」、また「明治三十三」といった文字が刻まれる。茂兵衛179度目巡礼時のもの。
立江寺を指す面の手印は今上って来た道を指すが、奥の院を指す手印は右手方向を指す。裏参道のようだ。かつて多くの遍路は20番札所奥の院慈眼寺に詣で、東棚野から裏参道を上りこの茂兵衛道標に至ったようである。
茂兵衛道標脇には享保年間に立てられた福良余兵衛標石がある。「一町」と刻まれる。裏参道にいくつか残ると言う。
●20番奥の院慈眼寺
慈眼寺(じげんじ)は徳島県勝浦郡上勝町に所在する高野山真言宗の寺院。月頂山 宝珠院 慈眼寺と号し、別名「穴禅定の寺」である。四国八十八箇所霊場第二十番札所奥の院。本尊は十一面観世音菩薩。
上勝町正木の集落(標高150m付近)より山道を上った標高320m付近の車道脇から見上げると灌頂滝が臨め、さらに上がった標高550m付近に本坊・駐車場があり、そこから徒歩で約20分登った標高約700m付近の石灰岩質の山腹に本堂がある。
寺伝によれば平安時代初期の延暦年間(782年 - 805年)四国を巡錫中の空海(弘法大師)が、邪気の漂う不思議な鍾乳洞を発見した。洞窟の入口で数日間、加持祈祷を行ったところ悪龍が洞窟より出て空海を襲った。空海は法力で悪龍を洞窟の壁に封じ込めた。また、十一面観音を刻んで洞窟の前に堂宇を建立し安置した。これが慈眼寺の開創と伝えられている。
仁王門を潜り境内に入る。明治42年(1909)再建。右手に六角堂。文久2年(1862)建立。堂内には大師作の六地蔵が祀られる、と。先に進むと左手に手水場。その先に宿坊がある。
手水場を右に折れ石段を上ると左手に大師堂(大正2年(1913)再建)、護摩堂(大正15年(1926)再建)、正面に本堂が建つ。
本堂は慶長9年(1604)の再建。左右には鶴が並び立つ。元の鶴は戦時に供出され、現在のものは戦後作り直されてもの。
本堂右手に三重塔。文政6年(1823)建立。大日如来、阿しゅく如来(あしゅくにょらい)、無量光壽如来(阿弥陀如来)、宝生如来(ほうしょうにょらい)、不空成就如来(ふくうじょうじゅにょらい)からなる五知如来が祀られと言う。
その右に鐘楼。宝暦9年(1759)のもの。鐘は昭和に鋳造されたと言う。これも戦時の金属供出令のためだろうか。
三重塔と鐘楼の間を置くに進むと承応2年建立の鎮守大権現。その先には宝暦8年(1758)建立の聖天堂が建つ。
Wikipediaには「鶴林寺(かくりんじ)は、徳島県勝浦郡勝浦町にある高野山真言宗の寺院。四国八十八箇所霊場第二十番札所。霊鷲山(りょうじゅさん)、宝珠院(ほうじゅいん)と号する。本尊は地蔵菩薩。
地元の人や遍路からは「お鶴さん」と呼ばれ親しまれているが、「一に焼山、二にお鶴、三に太龍」と並び称される阿波の難所の一つで、鶴林寺山(標高516.1m)の山頂近くにあり、本堂の位置で比較すると標高495m付近で八十八箇所中7番目、表参道は「へんろころがし」といわれる急傾斜の山道である。
寺伝によれば、延暦17年(798年)に桓武天皇の勅願によって空海(弘法大師)が開創。寺伝によれば、空海がこの山で修行中に雌雄の白鶴が杉の梢で小さな金の地蔵菩薩像を守護していた。空海はそれを見て、霊木に3尺(約90cm)の地蔵菩薩を刻み、その胎内に鶴が守っていた1寸8分の地蔵像を納めて本尊として鶴林寺の寺名を定めた。境内の雰囲気が釈迦が説法をした霊鷲山に似ていることから山号にいただいたという。 平城、嵯峨、淳和の各天皇からの篤い帰依、源頼朝、義経、徳島藩祖蜂須賀家政などからの信仰も受けて大いに栄えた。
本尊の伝承として、昔、猟師が猪を追って山に入り矢を放ち、たどって行くと本堂で地蔵菩薩の胸に矢がささり血を流していた。猟師は殺生を懺悔し仏門に入ったということから矢負いの地蔵と呼ばれ、本尊にはその傷が残っていると云われている」とある。
Wikipediaには阿波の寺院によるある記述、「天正の兵火により焼失」のくだりがない。長曾我部勢による焼失を免れたようだ。当時の住職と長曾我部氏の縁ゆえ、とも聞く。
徳右衛門道標・茂兵衛道標と標石;午後12時29分
鶴林寺を離れ、那賀川筋の大井へと下る。距離は2キロほどだろうか。那賀川筋への下りは手水場脇。下り口手前に徳右衛門道標と標石、その先に茂兵衛道標と標石が並ぶ。徳右衛門道標には「是より太龍寺迄 壱里半」、標石には「一丁 是より下り太龍寺道」と刻まれる。
茂兵衛道標には「国宝本尊地蔵大菩薩 当山本堂 太龍寺 立江寺 明治三十三年」といった文字が刻まれる、茂兵衛179度目巡礼時のもの。脇の標石には「太龍寺へ五十丁 船渡し阿り 昭和四年」といった文字が刻まれる。
●遍路道マップ
徳右衛門道標脇に鶴林寺から太龍寺への遍路道マップがあり、那賀川筋から太龍寺へ向かうふたつの遍路道が案内されていた。ひとつは那賀川に架かる水井橋を渡り若杉谷川に沿って太龍寺道を太龍寺に向かうもの。
もうひとつは水井橋を6キロほど下流に下り、旧跡一宿庵に参拝し尾根筋を太龍寺に向かうもの。これが前述の「かも道」。室町期に開かれた四国最古の遍路道。現在路面状態が悪く歩行不適。ひとりでは歩かないでほしい、との注意書きがあった。
舟形2丁・遍路墓
徳右衛門道標脇から下り道に入る。宿坊の建屋を右手に見ながら自然石の組まれた坂を少し下ると道の右手に舟形地蔵(午後12時34分)。「二丁」と刻まれる。下山地点に立つ徳右衛門道標脇の標石に「一丁」とあったので、これから丁石が続くのだろう。
そこから数分下ると遍路墓(午後12時38分)がある。
舟形3丁・石仏
「三丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午後12時41分)を過ぎると石仏(午後12時44分)。お不動さんといった風情。
舟形4丁・石造物
更に続いて「四丁」と刻まれる舟形地蔵丁石(午後12時46分)。その直ぐ先、「伊予新居郡上嶋山村 馬作石塚」と刻まれた石造物(午後12時47分)があった。伊予新居郡とは私の田舎の旧名。上嶋山村は西条あたりにあった旧村名であった。周布郡にあった小松藩の飛び地であったようだ。「馬作石塚」って何だろう?
舟形5丁・6丁
直ぐ「五丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午後12時49分)、「六丁」舟形地蔵丁石(午後12時52分)が続く。
「四国のみち」木標
「大井休憩所0.8km」(午後13時)と書かれた「四国のみち」の木標を越えると直ぐ「九丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午後13時2分)がある。
舟形10丁・四国千躰大師標石
5分ほど下ると「十丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午後13時7分)。そこから数分下ると「四国のみち」の木標。ほぼ尾根筋を下ってきた遍路道はここで左折。角に照蓮の四国千躰大師標石(午後13時9分)が立つ。「是より太龍寺へ四十丁 文化六」といった文字が刻まれる。
県道283号と交差;午後13時15分
数分で車道が見えてくる。鶴峠から下ってきた県道283号だ。県道に下りると少し下ったとこころに遍路道分岐点。「四国のみち」の木標と共に「太龍寺 五・三粁」と刻まれた大きな標石があり、そこを左に折れる。標石傍には舟形地蔵が祀られていたが、丁石などの確認をミスした。
尾根筋を下って来た遍路道は、ここから谷筋といった地形を下ることになる。
舟形14丁;午後13時21分
車道を逸れ谷筋に。そこは谷筋最奥部。急傾斜の鉄骨階段を下り一気に谷筋に。尾根筋の遍路道と様相が異なり、暗い杉林の道を進む。谷筋と書いてはいるが特に川が流れておるわけではない。5分ほど歩くと岩の上のに頭部の欠けた地蔵。「十四丁」と刻まれていた。
舟形15丁・八幡神社
さらに数分。体の上半分が欠けた石仏(午後13時25分)。「十五丁」といった文字が読める。直ぐ八幡神社(午後13時26分)。傍に休憩所もある。小休止。
中尾多七標石; 午後13時29分
里に下る。直ぐ、道の左手に中尾多七標石(午後13時29分)。里が大きく開けて来た。
前方に見える稜線は太龍寺山だろう。
自然石茂兵衛道標〈88度目);午後13時32分
開けた里を数分歩くと道の左手に「21番札所太龍寺 歩きへんろ道」の案内。遍路道は舗装された生活道を左に逸れる。
その分岐点に自然石の標石。傍に「中尾茂兵衛建立の道標」の案内。「中務茂兵衛〈1845-1922)周防国大島郡椋野村 (現山口県周防大島町)の人。
本名は中司亀吉。21歳のとき家を出て、四国遍路を始め、生涯巡礼の旅を続け、78歳の時、280回目の結願を目前に倒れた。
道標の建立は、42歳の厄年、巡拝が88回になったのを記念に建て始め、以降四国各地に253基を建立した。
ほとんどは大型の石柱道標(平均124センチ)であるが、ここ大井町の道標は、唯一、自然石の表面に刻まれたもので、貴重な文化財である、
正面の刻字は「ちかみち 明治19年3月21日 88度目供養 行者 中司茂兵衛」とあった。 茂兵衛道標左の大樹脇に石組の祠に石仏が祀られる。いい風情だ。
六角地蔵尊堂(17丁);午後13時33分
案内に従い土径に入る。直ぐセメント造朱塗り柱の六角堂。境内、というかちょっとしたスペースに並ぶ石仏の中に舟形地蔵。「十七丁」と刻まれた舟形地蔵丁石であった。
大井休憩所;午後13時39分
地蔵尊堂から集落を抜け県道19号に出る。県道を少し西に進み大井休憩所に。これで本日の散歩メモを終える。
次回はここから太龍寺道を上り21番札所太龍寺から22番札所平等寺へ向かう。
ルート図(Google Earthで作成) |
強いて言えば、那賀川筋から鶴林寺へと上る逆打ち遍路道が結構大変かもしれない。勝浦川筋の生名から鶴林寺までの距離より1キロほど短い山道を同じ比高差上るわけで、当然といえば当然かも。当日は生名の鶴林寺道取り付き口に車をデポしてのピストンであり、復路の上りが結構きつかった。
今回の散歩での思いがけない出合いは室町期の標石。四国最古の標石とのこと。特段標石に「萌える」わけではなく、単に旧遍路道をトレースする目安として標石を辿っているだけなのだが、それでもちょっとした感慨。遍路道に残る標石はほとんど江戸時代以降のものであり、遍路が世に広まる以前の標石に出合ったというだけで結構有り難く思ったわけである。
鶴林寺道のメモをはじめるが、ここで言う「鶴林寺道」は国指定史跡としての「鶴林寺道」ではなく、広義の意で使う。国指定史跡の鶴林道は、本日メモする遍路道のごく一部区間を指すが、メモでは鶴林寺へ向かう道として「鶴林寺道」を使う。
本日のルート;
■鶴林寺道取り付口から第二十番札所鶴林寺に上る
鶴林寺標・鶴林寺道取り付口>茂兵衛道標(154度目)>19丁石>標石2基(?丁)>18丁>標石2基>青石板状標石>18丁>15丁>水呑大師>標石2基(茂兵衛道標;219度目)>?丁>11丁>10丁>車道(青石板状標石)>9丁>8丁>7丁>6丁>4丁>3丁>第二十番札所鶴林寺
■第二十番札所鶴林寺から那賀川筋の大井まで下る
舟形2丁>遍路墓>舟形3丁>不動石像>舟形4丁>舟形5丁>6丁>遍路墓>舟形9丁>>舟形10丁>四国千躰大師標石>舟形14丁>舟形15丁>中尾多七標石>自然石茂兵衛道標〈88度目)>地蔵堂(17丁)>大井休憩所
■鶴林寺道取り付口から第二十番札所鶴林寺に上る■
鶴林寺標・鶴林寺道取り付口;午前10時40分
スタート地点は勝浦町生名(いくな)。生名谷川傍に立つ4mほどの鶴林寺標が鶴林寺道の取り付口。「別格本山 四国第二十霊場鶴林寺」と刻まれる。この寺標の左手、生名谷川の左岸に沿って歩く。
茂兵衛道標(154度目):午前10時43分
生名谷川に沿って数分歩き、右手から水路が合流する橋の角に茂兵衛道標。順・逆を指す手印と共に、「二十番 十九番 明治三十年」といった文字が刻まれる。茂兵衛154度目の巡礼時のもの。
自動車参道と交差;午前10時45分
数分歩くと鶴林寺への自動車参道道と交差。その交差点に「四国のみち」の木標など幾つかの標識が立つ。「四国のみち」」には「阿波遍路道 鶴林寺道 あと3.0km」の案内、真新しい角柱標石には「20 鶴林寺3㎞ 車道5㎞」と刻まれる。遍路道は車道を横切り右に進む。 「四国のみち」の木標傍に標石らしき石。風化・摩耗激しく文字は読めないが、「二十番鶴林寺へ十九丁 立江寺へ二り半」の文字が刻まれる、とか。
●自動車参道
生名谷川の谷筋を標高200m辺りまで上り、そこから谷筋を離れ標高270mの鶴峠をへて鶴林寺へ向かう。
標石2基(20丁);午前10時50分
車道参道をクロスした遍路道は民家の間を抜け変則四つ辻に。コンクリート壁の前にいくつもの遍路標識。「四国のみち」の木標には「20番鶴林寺 歩きへんろ道」、「阿波遍路道 鶴林寺道 鶴林寺へあと2.8km」の案内がある。
その横に2基の標石。角柱標石には「二十ばん鶴林寺江二十丁」、横広の標石には「右観正寺道 中 鶴林道 左 里道」といった文字が刻まれる。
遍路道はここから山稜尾根筋を上ることになる。
●観正寺
西に200m強のところに観正寺がある。阿波西国観音霊場。ささやかな本堂のみが残る。
18丁;午前10時52分
案内に従い右に折れ、石垣の組まれた畑に沿って道を上る。ほどなく右に逸れる道があり、その分岐点に「四国のみち」の木標と、「阿波遍路道 鶴林寺道 あと2.6km」とあり、遍路道は右に逸れる道を示す。「四国のみち」の木標の傍には標石があり、「鶴林寺是ヨリ十八丁」と刻まれる。
石造物2基
道の左手、藪の中に石造物が2基が並ぶ。1基は舟形地蔵。横に立つのは遍路墓だろか。道の先に茅葺小屋が見える。その手前、ふたつの道があわさる箇所に石造物が残る。何かよくわからない。
茅葺き遍路小屋:標高100m・午前10時59分
茅葺小屋に。伊予でみた茶屋跡といった風情。地図には「茅葺き遍路小屋」とある。この辺り標高100m。生名の鶴林寺道取り付口から20分で、60mほど高度を上げたことになる。勝浦川谷筋の遠景が美しい。
青石板状標石;午前11時2分
藁葺き遍路小屋の直ぐ上に舗装道路が走る。鶴林寺へと上る車道から別かれた道のようだ。遍路道は車道をクロスし更に支尾根筋を上ってゆく。
車道交差角に標石。青石板状の標石には「四国第二十番霊場 鶴林寺へんろ道」と刻まれる。中尾多七さんたちが建てたものと言われるが、遍路道でよく見る所謂「中尾多七標石」とはその形状は大きく異なる。
●中尾多七標石
中尾多七さん達が昭和37年から昭和38年(1963)にかけて建てた標石は阿波の23番札所までに60近くにのぼると言う。特徴は「へんろ道」の文字と、その上に両端に矢印のついた線。線には直線の他、カーブしたものなどがあり、道方向を示す。 中尾多七標石は阿波だけでなく伊予の竜光寺道、香園寺奥の院道など、道の迷いやすい山道にも見られる、と言う。
18丁;午前11時9分
「鶴林寺2.1km」と書かれた「四国のみち」の木標を越え、その先「鶴林寺1.8km」と書かれた「四国のみち」木標で遍路道は右に逸れる。分岐点には「国指定史跡(平成22年8月5日指定 阿波遍路道 鶴林寺道まで1.8km」とある。
15丁;午前11時14分
標高150m辺り、道の右手の石垣前に角柱の標石。「十五丁」とある。施主であろう「泉屋*」といった文字が刻まれる。セメント造りの道も狭くなってきた。
水呑大師;午前11時20分
ほどなくちょっとした平場。おおよそ標高200m。そこに岩組みの中から水が流れ出る。傍には「世の人に永久に残せし石清水 大師の慈悲を心して呑む 昭和三十八年盛夏 竹林晴浪」と刻まれた歌碑も立つ。
平場には小堂も建ち、「水呑大師」とある。全国各地にある弘法水であった。お堂脇には「十四丁」と刻まれた角柱丁石も立つ。
●阿波遍路道案内
水呑大師の小堂脇に「阿波遍路道』の案内。
「国指定 阿波遍路道 鶴林寺道・太龍寺道・いわや道・平等寺道 四国八十八箇所霊場をめぐる遍路道は、四国4県にまたがる引法大師空海ゆかりの社寺を巡る全長1,400kmに及ぶ霊場巡礼道である。
勝浦町で指定を受けた遍路道は、阿波遍路道のうち第20番札所鶴林寺をつなぐ「静林寺道」と鶴林寺から第21番札所太龍寺をつなぐ「太龍寺道」の一部の範囲である。
「鶴林寺道』は現在地点である「水呑大師」(弘法大師が杖を突くと水が噴き出したという伝説がその名の由来となっている)と呼ばれている祠から鶴林境内までの道約1.27kmが指定範囲である。この区間には、約650年前の南北朝期に建てられた花崗岩の町石(丁石)が11基残されており、江戸時代以前より継承されてきた古道である。
また、六丁石を過ぎると遍路道は石畳道となり、鶴林寺境内手前の三丁石まで約300m続く。五丁石付近左奥には、鶴林寺により建てられた遍路の無料宿泊所である「通夜堂跡」(124m四方の建物)とともに便所跡・井戸跡なども残されている。
「太龍寺道」は鶴林寺本堂下から阿南市の大井集落手前の阿南市境までの約860mが指定の範囲になっている。この区間の遍路道は、急勾配の斜面階段が続く。遍路道の傍らには、船形の丁石や遍路墓、また道標も建ち、自然景観も含め往時の面影を色強く残している。
徳島県教育委員会/管理団体 勝浦町」との説明と共に、鶴林寺道と太龍寺道の地図が掲示されていた。
標石2基(茂兵衛道標;219度目);午前11時31分
呑大師から先はコンクリート簡易舗装も消え、擬木や石が敷かれた道となる。標高を30mほど上げたところに標石が2基。
1基は茂兵衛道標。「鶴林寺 当山厄除け弘法大師毎夜開帳 右太龍寺へ一里半 左立江寺へ二里半 明治四十年」といった文字が刻まれる。茂兵衛219度目巡礼時のもの。
もう1基は「鶴林寺道 十三丁 左仁*谷道 弘化二」といった文字が刻まれる。
12丁;午前11時35分
茂兵衛道標から数分、角柱の標石に「十二丁」と刻まれる。
11丁;午前11時39分
次いで現れた「十一丁」の丁石には上部に二本の刻みがある。はじめて見る形。これが上述、阿波遍路道案内に「約650年前の南北朝期に建てられた花崗岩の町石(丁石)が11基残されており」とあった標石のはじまりだろう。
それにしても室町期の標石?それって真念などにより四国霊場八十八ヵ所が定着する以前の時代。 ということは、この鶴林寺道は四国の遍路道でも最も古い時代の遍路道ということか。ちょっと感慨深い。
●標石
遍路道標のはじまりは卒塔婆を建てて道しるべとしたようだ。鎌倉期には朽ちる木に替えて五輪塔形の標石となり、高野山に残ると言う。この南北朝の頃に立てられた丁石は、五輪塔を簡略化したもので、尖塔方柱形式で頭部に切り込みが入る。四国最古の頃の遍路標石だ。
鶴林寺道と同じ頃の室町期の標石は、鶴林寺を那賀川筋に下り太龍寺へと上る遍路道のひとつ、「かも道」にも残る。この遍路道も四国最古の遍路道と称される。
10丁;午前11時43分
擬木の敷かれた道を進み、標高300mを越える等高線の間隔も広くなり、少し緩やかとなったな坂を進むと「十丁」と刻まれた丁石。この丁石には「貞治二年四月十四日」と刻まれるとの記録もある。西暦1355年、四国最古の標石かもしれない。因みに貞治は北朝での元号。当時四国は北朝の勢力下であった、ということか。
この辺りで稜線部に上る。等高線の間隔も広く、緩やかな坂となる。
車道(青石板状標石);午前11時49分
コンクリートで一部固めたようになった道の先で、遍路道は鶴林寺車道参道に出る。遍路道は道をクロスし土径に入るが、その角に「四国のみち」の木標があり、傍に青石板状標石。麓で見た形式と同じ。中尾多七さんたちが建てた標石。「四国第二十番霊場 鶴林寺へ七百八十メートル 七丁 昭和四十年」といった文字が読める。
9丁・8丁
車道を越えるとすぐ「九丁」と刻まれた丁石(午前11時50分)。擬木の道を進み、「四国のみち」の木標が立つ傍に「八丁」(午前11時54分)。この八丁石には「貞治二年六月廿四日」の文字が刻まれると言う。11丁石に遅れること2カ月といった古い丁石である。
那賀川の遠景
ゆるやかに上る尾根道・稜線の遍路遍路道を進む。8丁石を越えると左手に那賀川の谷筋が見える。大きく湾曲した川に橋が見える。地図で確認すると水井橋のようだ。ということは橋の手前の家並は大井の集落だろう。あそこまで下りてゆくわけだ。
7丁・6丁
7丁(午前11時58分)、6丁(午後12時2分)の丁石を見遣りながら擬木の道を進むと自然石の敷かれた石段となり、そこを上ると再び車道参道に合流する。
4丁・3丁
車道をクロスすると下半分が埋まったのか、破損したのか少し小振りの「四丁」と刻まれた丁石(午後12時9分)。その先直ぐに「三丁」石(午後12時11分)。3丁石を越えると車道参道に出る。
2丁・茂兵衛道標(179度目)
車道参道を進み、車止めの先に向かうと山門がみえてくる。その山門手前に「二丁」の丁石。
先に進むと茂兵衛道標。参道側に「立江寺」、山門に面した側に「奥の院二里半」、また「明治三十三」といった文字が刻まれる。茂兵衛179度目巡礼時のもの。
立江寺を指す面の手印は今上って来た道を指すが、奥の院を指す手印は右手方向を指す。裏参道のようだ。かつて多くの遍路は20番札所奥の院慈眼寺に詣で、東棚野から裏参道を上りこの茂兵衛道標に至ったようである。
茂兵衛道標脇には享保年間に立てられた福良余兵衛標石がある。「一町」と刻まれる。裏参道にいくつか残ると言う。
●20番奥の院慈眼寺
慈眼寺(じげんじ)は徳島県勝浦郡上勝町に所在する高野山真言宗の寺院。月頂山 宝珠院 慈眼寺と号し、別名「穴禅定の寺」である。四国八十八箇所霊場第二十番札所奥の院。本尊は十一面観世音菩薩。
上勝町正木の集落(標高150m付近)より山道を上った標高320m付近の車道脇から見上げると灌頂滝が臨め、さらに上がった標高550m付近に本坊・駐車場があり、そこから徒歩で約20分登った標高約700m付近の石灰岩質の山腹に本堂がある。
寺伝によれば平安時代初期の延暦年間(782年 - 805年)四国を巡錫中の空海(弘法大師)が、邪気の漂う不思議な鍾乳洞を発見した。洞窟の入口で数日間、加持祈祷を行ったところ悪龍が洞窟より出て空海を襲った。空海は法力で悪龍を洞窟の壁に封じ込めた。また、十一面観音を刻んで洞窟の前に堂宇を建立し安置した。これが慈眼寺の開創と伝えられている。
●第二十番札所鶴林寺●
仁王門を潜り境内に入る。明治42年(1909)再建。右手に六角堂。文久2年(1862)建立。堂内には大師作の六地蔵が祀られる、と。先に進むと左手に手水場。その先に宿坊がある。
手水場を右に折れ石段を上ると左手に大師堂(大正2年(1913)再建)、護摩堂(大正15年(1926)再建)、正面に本堂が建つ。
本堂は慶長9年(1604)の再建。左右には鶴が並び立つ。元の鶴は戦時に供出され、現在のものは戦後作り直されてもの。
本堂右手に三重塔。文政6年(1823)建立。大日如来、阿しゅく如来(あしゅくにょらい)、無量光壽如来(阿弥陀如来)、宝生如来(ほうしょうにょらい)、不空成就如来(ふくうじょうじゅにょらい)からなる五知如来が祀られと言う。
その右に鐘楼。宝暦9年(1759)のもの。鐘は昭和に鋳造されたと言う。これも戦時の金属供出令のためだろうか。
三重塔と鐘楼の間を置くに進むと承応2年建立の鎮守大権現。その先には宝暦8年(1758)建立の聖天堂が建つ。
Wikipediaには「鶴林寺(かくりんじ)は、徳島県勝浦郡勝浦町にある高野山真言宗の寺院。四国八十八箇所霊場第二十番札所。霊鷲山(りょうじゅさん)、宝珠院(ほうじゅいん)と号する。本尊は地蔵菩薩。
地元の人や遍路からは「お鶴さん」と呼ばれ親しまれているが、「一に焼山、二にお鶴、三に太龍」と並び称される阿波の難所の一つで、鶴林寺山(標高516.1m)の山頂近くにあり、本堂の位置で比較すると標高495m付近で八十八箇所中7番目、表参道は「へんろころがし」といわれる急傾斜の山道である。
寺伝によれば、延暦17年(798年)に桓武天皇の勅願によって空海(弘法大師)が開創。寺伝によれば、空海がこの山で修行中に雌雄の白鶴が杉の梢で小さな金の地蔵菩薩像を守護していた。空海はそれを見て、霊木に3尺(約90cm)の地蔵菩薩を刻み、その胎内に鶴が守っていた1寸8分の地蔵像を納めて本尊として鶴林寺の寺名を定めた。境内の雰囲気が釈迦が説法をした霊鷲山に似ていることから山号にいただいたという。 平城、嵯峨、淳和の各天皇からの篤い帰依、源頼朝、義経、徳島藩祖蜂須賀家政などからの信仰も受けて大いに栄えた。
本尊の伝承として、昔、猟師が猪を追って山に入り矢を放ち、たどって行くと本堂で地蔵菩薩の胸に矢がささり血を流していた。猟師は殺生を懺悔し仏門に入ったということから矢負いの地蔵と呼ばれ、本尊にはその傷が残っていると云われている」とある。
Wikipediaには阿波の寺院によるある記述、「天正の兵火により焼失」のくだりがない。長曾我部勢による焼失を免れたようだ。当時の住職と長曾我部氏の縁ゆえ、とも聞く。
■第二十番札所鶴林寺から那賀川筋の大井まで下る■
徳右衛門道標・茂兵衛道標と標石;午後12時29分
鶴林寺を離れ、那賀川筋の大井へと下る。距離は2キロほどだろうか。那賀川筋への下りは手水場脇。下り口手前に徳右衛門道標と標石、その先に茂兵衛道標と標石が並ぶ。徳右衛門道標には「是より太龍寺迄 壱里半」、標石には「一丁 是より下り太龍寺道」と刻まれる。
茂兵衛道標には「国宝本尊地蔵大菩薩 当山本堂 太龍寺 立江寺 明治三十三年」といった文字が刻まれる、茂兵衛179度目巡礼時のもの。脇の標石には「太龍寺へ五十丁 船渡し阿り 昭和四年」といった文字が刻まれる。
●遍路道マップ
徳右衛門道標脇に鶴林寺から太龍寺への遍路道マップがあり、那賀川筋から太龍寺へ向かうふたつの遍路道が案内されていた。ひとつは那賀川に架かる水井橋を渡り若杉谷川に沿って太龍寺道を太龍寺に向かうもの。
もうひとつは水井橋を6キロほど下流に下り、旧跡一宿庵に参拝し尾根筋を太龍寺に向かうもの。これが前述の「かも道」。室町期に開かれた四国最古の遍路道。現在路面状態が悪く歩行不適。ひとりでは歩かないでほしい、との注意書きがあった。
舟形2丁・遍路墓
徳右衛門道標脇から下り道に入る。宿坊の建屋を右手に見ながら自然石の組まれた坂を少し下ると道の右手に舟形地蔵(午後12時34分)。「二丁」と刻まれる。下山地点に立つ徳右衛門道標脇の標石に「一丁」とあったので、これから丁石が続くのだろう。
そこから数分下ると遍路墓(午後12時38分)がある。
舟形3丁・石仏
「三丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午後12時41分)を過ぎると石仏(午後12時44分)。お不動さんといった風情。
舟形4丁・石造物
更に続いて「四丁」と刻まれる舟形地蔵丁石(午後12時46分)。その直ぐ先、「伊予新居郡上嶋山村 馬作石塚」と刻まれた石造物(午後12時47分)があった。伊予新居郡とは私の田舎の旧名。上嶋山村は西条あたりにあった旧村名であった。周布郡にあった小松藩の飛び地であったようだ。「馬作石塚」って何だろう?
舟形5丁・6丁
直ぐ「五丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午後12時49分)、「六丁」舟形地蔵丁石(午後12時52分)が続く。
「四国のみち」木標
「大井休憩所0.8km」(午後13時)と書かれた「四国のみち」の木標を越えると直ぐ「九丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午後13時2分)がある。
舟形10丁・四国千躰大師標石
5分ほど下ると「十丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午後13時7分)。そこから数分下ると「四国のみち」の木標。ほぼ尾根筋を下ってきた遍路道はここで左折。角に照蓮の四国千躰大師標石(午後13時9分)が立つ。「是より太龍寺へ四十丁 文化六」といった文字が刻まれる。
県道283号と交差;午後13時15分
数分で車道が見えてくる。鶴峠から下ってきた県道283号だ。県道に下りると少し下ったとこころに遍路道分岐点。「四国のみち」の木標と共に「太龍寺 五・三粁」と刻まれた大きな標石があり、そこを左に折れる。標石傍には舟形地蔵が祀られていたが、丁石などの確認をミスした。
尾根筋を下って来た遍路道は、ここから谷筋といった地形を下ることになる。
舟形14丁;午後13時21分
車道を逸れ谷筋に。そこは谷筋最奥部。急傾斜の鉄骨階段を下り一気に谷筋に。尾根筋の遍路道と様相が異なり、暗い杉林の道を進む。谷筋と書いてはいるが特に川が流れておるわけではない。5分ほど歩くと岩の上のに頭部の欠けた地蔵。「十四丁」と刻まれていた。
舟形15丁・八幡神社
さらに数分。体の上半分が欠けた石仏(午後13時25分)。「十五丁」といった文字が読める。直ぐ八幡神社(午後13時26分)。傍に休憩所もある。小休止。
中尾多七標石; 午後13時29分
里に下る。直ぐ、道の左手に中尾多七標石(午後13時29分)。里が大きく開けて来た。
前方に見える稜線は太龍寺山だろう。
自然石茂兵衛道標〈88度目);午後13時32分
開けた里を数分歩くと道の左手に「21番札所太龍寺 歩きへんろ道」の案内。遍路道は舗装された生活道を左に逸れる。
その分岐点に自然石の標石。傍に「中尾茂兵衛建立の道標」の案内。「中務茂兵衛〈1845-1922)周防国大島郡椋野村 (現山口県周防大島町)の人。
本名は中司亀吉。21歳のとき家を出て、四国遍路を始め、生涯巡礼の旅を続け、78歳の時、280回目の結願を目前に倒れた。
道標の建立は、42歳の厄年、巡拝が88回になったのを記念に建て始め、以降四国各地に253基を建立した。
ほとんどは大型の石柱道標(平均124センチ)であるが、ここ大井町の道標は、唯一、自然石の表面に刻まれたもので、貴重な文化財である、
正面の刻字は「ちかみち 明治19年3月21日 88度目供養 行者 中司茂兵衛」とあった。 茂兵衛道標左の大樹脇に石組の祠に石仏が祀られる。いい風情だ。
六角地蔵尊堂(17丁);午後13時33分
案内に従い土径に入る。直ぐセメント造朱塗り柱の六角堂。境内、というかちょっとしたスペースに並ぶ石仏の中に舟形地蔵。「十七丁」と刻まれた舟形地蔵丁石であった。
大井休憩所;午後13時39分
地蔵尊堂から集落を抜け県道19号に出る。県道を少し西に進み大井休憩所に。これで本日の散歩メモを終える。
次回はここから太龍寺道を上り21番札所太龍寺から22番札所平等寺へ向かう。
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