比企丘陵散歩;高坂から比企丘陵を越え武蔵嵐山に

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いつだったか、越生から毛呂山町へと歩いたことがある。大類の毛呂山町歴史民俗資料館あたりに鎌倉街道が走っており、北へと道筋を辿ると比企丘陵の笛吹峠を越えて畠山重忠の菅谷館があった武蔵嵐山へ続いていた。笛吹峠という、何となく惹かれる名前の峠を知ったのはそのときである。それから1年ほどたったある週末、そういえば、最近埼玉を歩いていないよな、であれば、気になっていた笛吹峠を歩いてみよう、と。
ルートは東武東上線・高坂からはじめ、比企の丘陵を越えて岩殿観音を訪ね、観音道を笛吹峠へと進む。峠からは丘陵を南北に貫く鎌倉街道の道筋を武蔵嵐山へと大雑把に決めた。比企丘陵ってどの程度の山容なのかよくわからない。ちゃんと調べればいいかとも思うのだが、いつもの通り、基本は成り行き。たまたま古本市で手に入れた『埼玉ふるさと散歩(比企丘陵編);梅沢太久夫(さきたま出版会)』をポケットに散歩にでかける。



本日のルート;東武東上線・高坂駅>九十九川>桜山窯跡群>県道212西本宿交差点>足利基氏館址>正法寺・岩殿観音>物見山>比企丘陵自然公園>地球観測センター>観音街道>県道41号線>笛吹通り>笛吹峠>将軍澤>大蔵館址>大蔵神社>向徳寺>都幾川>国道254号嵐山バイパス>東武東上線・武蔵嵐山駅

東武東上線・高坂駅
はるばる来たぜ、と小声で歌い東武東上線・高坂駅に。西口に下りると、西の比企丘陵に向かって真っ直ぐな道が通る。低地から丘陵地へなだらかな坂が続くのが高坂の由来、と言う。駅前や道脇に大東文化大学や東京電機大学と書いたスクールバスが目に付くが、Googleの航空写真を見ると、比企丘陵にはいくつかのゴルフコースのほか、これもいくつかの大学が点在している。結構開かれている丘陵地のようである。
いつだったか、金子丘陵を歩いた時、結構山が深く、また山中から突如現れたマシンガン武装の迷彩服の一団に大いに驚いたことがある。結局はサバイバルゲームを楽しんでいたようなのだが、少々肝を潰した。今回はそれほどの山道では無いだろう、と故無き安堵。


桜山窯跡群
最初の目的地は桜山窯跡群。この比企の地には古墳時代から帰化人が持ち込んだ窯業技術が発達し、幾多の窯跡がある。いつだったか東松山から吉見へと辿ったとき、大谷瓦窯跡など、どこかひとつくらい窯跡を、とは思いながら結局は時間切れ。桜山窯跡群は高坂駅から少し南西に下ったところにあり、ちょっと遠回りとなるが、いい機会でもあるので、今回散歩のスタート地点とする。

駅前の通りを西に進み、元宿あたりで左に折れる。道なりに進むと九十九川にあたる。九十九川は関越の西の丘陵(岩殿丘陵)よりはじめ、越辺川に合わさり、その流れは都幾川に注ぐ。川の向こうの高台に学校らしき建物。桜山窯跡群は桜山小学校の裏手にある。建物を目安に進みむと学校裏手に深い林がある。桜山窯跡群はその林の手前、「はにわの丘公園」と記された公園となっていた。
案内によれば、物見山丘陵の南斜面にある桜山窯跡群は須恵器を焼いた窯跡が2基、埴輪を焼いた窯が17基、それと竪穴住居3軒からなり、須恵器窯は関東最古(六世紀前半)。六世紀半ばから後半にかけてはじまった埴輪窯(円筒埴輪、人物、動物埴輪など)では、その一部が行田の埼玉(さきたま)古墳群でも使用された、とか。
それにしても比企の辺りって、古墳や窯跡が多い。古墳は八百とも。また窯跡は鳩山町を中心に、嵐山町、玉川町にかかる南比企窯跡群だけでも、その数、数百基と言われる。六世紀後半から七世紀にかけて比企や吉見の窯では埴輪や須恵器の生産がおこなわれ、八世紀になると鳩山町のある南比企丘陵で国分寺や古代寺院の瓦が生産された、と言う。このあたり一帯は、古墳時代から奈良・平安にかけて北武蔵の中心地であり、一大工業地帯であった、よう。事実、帰化人である男衾郡の太領壬生吉士福正が、835年(承和2年)に焼失した武蔵国分寺の七重塔の再建を願い出て、造営したという記録がある。それほどの財力をもつ支配者がこの地に登場していた、ということである。


県道212西本宿交差点
成り行きで関越自動車を西に抜け、白山台の地を北に向かう。岩殿のあたりで先ほど渡った九十九川を二度越える。どちらが本流で、どちらが支流であろう、か。なんとなく北側のものが本流のような気もする。
川を越えると西本宿交差点。駅前から西に進んだ道がここに続く。結構交通量が多い。西本宿って、なんとなく気になる地名。先ほども元宿といった地名もあった。江戸の頃、この高坂は江戸からこの地を経て上州に至る川越・児玉往還と、八王子から高坂・東松山をへて日光に至る日光脇往還(千人同心街道)が通り、宿場町として賑わった、と言う。その名残の地名だろう。


足利基氏館址
西本宿交差点を西に進む。ほどなく「足利基氏館址」への案内。県道212号から離れ、畑脇の小径を北西に進むと、民家脇に館址の道案内。畑の縁を林へと進むと館址の案内があった。林というか森の中に分け入り、なんらかの名残を探すが、先に進むとゴルフ場のフェンスで遮られる。案内によれば、土塁や堀跡、水堀が残る、というが、素人目には単なるブッシュではあった。南面は九十九川と谷筋の湿地により敵に備えた、と。なるほど林の中程に湿地が乗っていた。館は堀を含め東西180m、南北80mといった規模であった、とか。
この館址は長期在陣の館址ではなく、1363年に行われた芳賀高貞(宇都宮氏の一族で下野の豪族)との間で行われた岩殿山合戦の本陣であろうと伝わる。とはいうものの、足利基氏も芳賀高定も、いまひとつよくわかっていない。この地で基氏と高定が争うに至った経緯をちょっとおさらい。
足利基氏は尊氏の次男として誕生。1394年、尊氏の命を受け鎌倉公方として鎌倉に着任。1340年生まれというから、わずか十歳前後ではあろう。北朝の争乱に加えて、尊氏と直義という兄弟の争い(観応の擾乱)も加わり、なにがなんだかわからない政情の中、1353年には鎌倉を離れ、入間に陣(入間川御陣・入間川御所)を移す。鎌倉を離れその地に6年とも9年とも在陣した、と言う。北関東の南朝方新田勢や元関東管領上杉憲顕(越後・上野守護職)の勢力に備えるためである。新田はわかるとして、上杉憲顕は幼い基氏を補佐した執事。それが、敵方となったのは直義に与し、畠山国清らによって追放されたため。越後・上野守護職も宇都宮氏綱が取って替わる。
1361年、基氏は畠山国清を更迭。1363年には、上杉憲顕を関東管領、越後守護職に復職を計る。この動きを受けた越後守護職宇都宮氏綱は、上杉憲顕と上野において戦端を開く。芳賀高貞は宇都宮氏綱配下の武将。上野守護代として基氏とこの地で戦うことになった。 いつだったか、毛呂山を歩いたとき苦林野古戦場跡あたりをかすめたことがある。基氏方三千、 芳賀高貞方八百で激戦が繰り広げられたとのことであったが、この岩殿山の合戦はこの苦林野と同時期であり、岩殿山・苦林野合戦と一括りにしてもいいようだ。そのときの基氏の本陣がこの地である、ということだろう。それにしても、鎌倉公方になったのが十歳、入間滞陣が十三歳、畠山国清更迭が二十歳、岩殿山合戦が二十三歳の頃。幼い公方を担ぎ、この争乱舞台を演出したのは誰なのだろう。


弁天池
足利基氏館址を離れ小径に戻る。道脇に九十九川が近づく。一見湿地帯のような風情を呈する。先に進むとほどなく池が見える。岩殿観音の僧が里人のために造った用水池。弁天池とも鳴かずの池とも呼ばれるが、鳴かずの池の名前は坂上田村麻呂にまつわる伝説、から。岩殿山に棲む悪龍を退治し、この池に埋めるが、それ以来、蛙が棲まなくなった、との話が伝わる。池の中程の弁天島への小橋を渡り、ささやかな祠にお参り。
池の脇に休憩所と阿弥陀堂跡にある板石塔婆(板碑)の案内。十四世紀の中頃、岩殿観音・正法寺の僧が願主となり、五十人の人たちが真言の功徳を願わんがために建立した、とある。案内の近くに石塔や庚申塔といったものは並んでいるのだが、肝心の板石塔婆は、見つからなかった。案内板と少し離れたところにあったよう、だ。


正法寺(岩殿観音)の門前町
北西に進んできた小径は、弁天池の先で南西に折れる。道なりに進み九十九川にかかる小橋(総門橋)を渡ると岩殿観音の門前町に入る。江戸の頃書かれた『新編武蔵風土記』には、「当初は名高き板東札所の観音の建てるを以て、参詣の人常に集い、村民自ずから貧しからず」とある。昭和の初めまで17の宿坊や小間物屋、菓子屋といった商店が門前町としてにぎわった参道だが、今は店が一軒ほどしか見あたらない、静かな農村の村といった風情となっている(『埼玉ふるさと散歩(比企丘陵編);梅沢太久夫(さきたま出版会)』)。


正法寺・岩殿観音
石畳の参道を進むと正法寺・岩殿観音に。石段を上り仁王門をくぐる。仁王像を見やり先に進むと石段脇に高札。戦国時代の東松山の松山城主上田宗調朝直が発したもので、岩殿山一帯の木や草を刈り取る事を禁じる、といった内容である。戦国時代の実物をモデルに復元している、とあった。
石段上に草葺き屋根の鐘楼が見える。品のいい佇まい。銅鐘(梵鐘)は十三世紀初頭の作。外面の傷は天正18年(1590)、秀吉による関東征伐の折りについたもの。鐘楼からの眺めはなかなか、いい。

本堂にお参り。板東三十三札所の十番である。本尊は千手観音。本堂右横の観音堂は、奈良時代の養老年間というから、八世紀初頭に創建。正法庵と称した。観音堂右手の崖には多くの石仏。百観音と四国八十八カ所の石仏が並ぶ。
鎌倉期には頼朝の命で比企能員が復興。頼朝の妻・北条政子の守り本尊として発展。続く室町時代も大いに栄えるも、1567年の東松山・松山城を巡る北条・武田連合軍との合戦(山城の合戦)で焼失。その後1574年に中興されるも、江戸の寛永期、また明治にも火災に遭い、現在の構えとなっている。現在のお堂は明治になって高麗村から移築した。
岩殿観音は北条政子の守り本尊であった、と言う。そういえば鎌倉散歩の折、逗子にある岩殿寺も政子の守り本尊。化粧坂近くの岩殿地蔵尊も政子、そしてその娘の大姫の信仰篤き祠であった。


政子と岩殿って何らかの因縁があるのだろうか。それとも、共に板東観音札所であり、観音信仰故の偶然の一致なのだろうか。それとも、この岩殿観音近く、一説には先ほど訪れた弁天池あたりにあったとも言われる比企能員の館、それ故の頼朝・政子への因縁付け故のことだろう、か。比企能員は頼朝の乳母であった比企尼の係累。岩殿というキーワードをフックに、比企一族と頼朝・政子の関係を強化するストーリーを組み立てていったのだろう、か。単なる妄想。根拠無し。
岩殿寺は岩殿山の山腹の崖を削って建てられている。四十八峰九十九谷よりなる岩殿山は別名九十九谷とも呼ばれる。伝説に拠れば弘法大師が真言密教の修行の地を求めこの地を候補に挙げるも、谷の数でひとつ勝る高野山に決めた、と言う。この九十九伝説、散歩の折に触れて現れる。新百合ヶ丘の近くの弘法松にも同様の話があった。百谷、というか九十九谷伝説は日本各地にあるが、それだけでなく、能の「通小町」などには九十九日、男女が恋する相手の元に通い、願を遂げようとする話がある。熊野古道にも九十九王子の祠が並ぶ。九十九と百の間には、結構大きな意味があるのだろう、か。九十九(つくも)は「つつも」の訛ったもの、と言う。「つつ」は足りない、「も」は「百」。「九十九(つくも)」は「百に(ひとつ)足りない>完成=成就にあと一歩」という意味だろう、か。これまた単なる妄想。根拠なし。


物見山
岩殿観音の本堂脇の石段を上る。奥の院でもあろうかと、先に進むと整備された車道にでる。高坂の駅前から続く県道212号であった。道路を横切り物見山に。標高135mというから、山と言うより丘といったもの。とは言うものの、この岩殿丘陵(南比企丘陵)の最高峰。それなりの眺めが楽しめる。名前の由来は、坂上田村麻呂が東北征伐の折、この地より周囲を見下ろした、との伝説から。



比企丘陵自然公園
笛吹峠への道を確認。物見山を少し進んだあたりから県道から別れ、小径を進むようである。物見山入口にあった笛吹峠への案内に従い、道を進むとほどなく車道から別れた細道がある。先に進むと比企丘陵自然公園の案内。しかし、笛吹峠への案内はどこにも、ない。この道ではないのだろうか、と車道に戻り、道を下る。しばらく歩くと山村学園短期大学の案内。さすがに、これは行き過ぎ、と先程の比企丘陵自然公園への小径まで引き返し、先に進む。案内はなにも、ない。しばし進むと公園を散歩する人を見かけ、道を確認すると、オンコース。JAXA地球観測センターを目安に進めばいい、と。雑木林の中をどんどん進みJAXA地球観測センターまで進む。このセンターでは人工衛星からのリモートセンシング(遠隔探査)により地球環境を調べている、とか。衛星からのデータを受信する四つのパラボラアンテナを見やりながら、敷地北側に沿った細路を進む。

観音街道
ところで、物見山の峠から尾根道を進み、笛吹峠をへて西に向かう道を観音街道と呼ぶ。板東札所十番の岩殿観音から札所九番の慈光寺へ続く道である。草笛峠を境に、西に向かう道を慈光寺観音道、東に向かう道を岩殿観音道、と呼ぶ。いつだったか八高線・明覚駅から都幾川村にある慈光寺まで歩いたことがある。七十五坊の伽藍をほこった古刹も、戦乱の巷、焼き討ちに遭い、現在は、誠に広い寺域の中に、いくつかの堂宇が静かに佇む、のみ。

県道41号線
JAXA地球観測センターを越え、ほどなくすると「笛吹峠」の道標。もう少々手前にあってもよかろうに、と思いながら先に進むと里が開ける。もうこれで山中日没の怖れ無し、と一安心。溜池らしきところで釣りを楽しむ人もいる。山道を抜け、田畑の脇の道を進むと県道41号・東松山越生線に出る。T字路に笛吹峠への案内。
左に折れ、すぐさま県道41号を離れ、丘陵の裾を辿り先に進むと、笛吹峠への道の合流点、奥田と須江の境に地蔵堂。新編武蔵風土記には「羽黒堂」、地元では「はぐれ堂」と呼ばれている。お歯黒の大将の首を埋めたとか、出羽の国(羽黒)の人をとむらった、とか、戦ではぐれた人をとむらったとか、あれこれ伝わる。笛吹峠の合戦故話であろう、か。

笛吹峠
笛吹峠へと続く笛吹通りを北に向かう。ゆったりとした傾斜の坂道をのんびりと進む。この道筋は往古の鎌倉街道。それなりの感慨をもち、時に後ろを振り返り、鳩山の景観を楽しむ。このあたり一帯は古代武蔵最大の窯跡のあった南比企窯跡群のあった所。樹枝状に入りくんだ谷津(谷戸)には、それぞれ窯跡があるのだろう、などと想いながら先に進むと笛吹峠に到着した。標高80m。
「史跡笛吹峠」石碑の近くに鎌倉街道と十字に交わる道筋がある。これが観音道。峠から西は西国観音札所九番・慈光寺道。峠から東は岩殿観音道である。当初の予定では、この笛吹峠までは、この岩殿観音道を辿るはずであった。どこからどうそれてしまったのだろう?地図をチェックすると、JAXA地球観測センターの先で見た「笛吹峠」への道標のところで道が分岐している。道案内に従ってすすんだのが今回のルート。右に進むと、里に下りることなく少し北に向かい、一度県道41号に出た後、再び山中を進み、直接この峠へ辿れたようである。後の祭り、ではある。 
この峠は足利尊氏と新田義貞の三男・義宗が戦った合戦の地。1352年(正平7年)のことである。義宗が後醍醐天皇の皇子である宗良親王を奉じて鎌倉街道を南下。一時は鎌倉まで進撃するも尊氏の反撃に遭い、退却。小手指ヶ原の合戦で敗れ、決戦最後の地としたのがこの峠。尊氏軍八万余騎、義宗軍二万。善戦むなしく義宗は破れ、越後へと落ちる。この戦の勝利を境に室町幕府による関東統治がはじまることになる。笛吹峠の由来は、敗軍の中、宗良親王が笛を吹いたことによる、と伝わる。



将軍澤
笛吹峠を離れ、鎌倉街道を北に下り、大蔵の地を目指す。いつだったか、武蔵嵐山に鎌倉武士の鑑である畠山重忠の館址を訪ねたことがある。そこで、思いがけなく木曽義仲産湯の水のある鎌形八幡や義仲の妻・山吹姫ゆかりの斑渓寺に出合った。その時、鎌形の東にある大蔵に義仲の父の館を訪ねようと思っていたのだが、時間切れ。そのうちに、と思っていたので、今回いい機会と大蔵方向に下ることにした。
ゆるやかな坂を下ると、視界が開け
南西から北東へと道を横切る小川(前川)がある。これが将軍沢ではあろう。名前の由来は征夷大将軍・坂上田村麻呂ゆかりの地とか、また藤原利仁ゆかりの地とか、あれこれ。藤原利仁って、東松山を歩いたとき将軍塚古墳で出合った。古墳に上ると後円部の頂きに「利仁神社」。上野介、上総介、武蔵守を歴任し、延喜15年(915年)には鎮守府将軍となった藤原利仁を祀る、と言われる。藤原利仁は平安時代の代表的武人として多くの伝説があり、『今昔物語』にも登場している。芥川龍之介の『芋粥』はこの今昔物語のこの題材を小説にしたものである。

縁切橋
将軍沢を越え、道脇の明光寺を見やり、入口付近にある庚申塔にお参りし、その先の日吉神社に足を運ぶ。つつましやかなる境内には将軍神社。坂上田村麻呂ゆかりの祠、と言う。祠を離れ、ゆったりと丘陵を下る。辺りは既に里の風景である。
将軍沢の集落を過ぎ、坂を下りきると道脇に大きな案内板。近づいてみると「縁切橋」とある。坂上田村麻呂を案じ京より訪ね来たる妻女を、「軍役時に訪ね来るとは不謹慎。その行い許すべからず」といった案配で夫婦の縁を切った、とか。それにしても、この地には坂上田村麻呂にまつわる伝説が多い。比企と田村麻呂に、なんらかの深い関連があるのだろう、か。古代、この比企の地は北武蔵の中心地。奥州の蝦夷征伐の兵站基地として征夷軍と深い関係があったのだろう、か。単なる妄想。根拠なし。

安養寺
少し先に進むと、道の左右に神社というかお寺というか、なんとも賑やかなるお寺さま。大行院とあった。左右を見やり先に進むと道の左に落ち着いたお寺さま。野道のような参道を進み山門に。誠に趣のある構え。江戸後期の作で、籠彫りの唐獅子・龍・花鳥が配されている。このお寺、昭和30年頃、作家の今東光が住職をしていた。と。岩手・平泉の中尊寺の貫首として金色堂の大修理で知られるが、この地で今東光ゆかりの地に出合うとは思わなかった。

大蔵館址
県道17号大野東松山線・大蔵交差点に。左に折れ少し進むと公園脇のブッシュの中に大蔵跡の案内。木曽義仲の父である源義賢の館跡に割には少々寂しい。館跡は、案内の隣にある大蔵神社もふくめた東西170m・南北200m余りの構えてあった、よう。神社にお参りし、往古を想う。
都幾川をのぞむこの台地上に館を構えた源義賢は源氏の棟梁源為義の次子。1139年、京にあって東宮の警護隊長の職にあり、その呼称をもって「帯刀先生(たてわき、たちはきせんじょう)」と呼ばれた。もっとも、その職はすぐに解任されている。
1153年、父為義と不仲になり関東に下っていた長兄義朝が南関東に勢力を拡げると、それに対抗するべく、父為義の命を受け北関東に拠点を設ける。武蔵の国の最大勢力である秩父重隆の娘を娶り、この大蔵の地に館を構えた。木曽義仲もこの地で誕生した、とも。
源義賢は当地を拠点に武威を高めるも、1155年、源義朝の長子である甥の悪源太義平に館を急襲され義父・秩父重隆共々滅ぼされた、と世に伝わる。悪源太義平と名前は少々怖いが、当時義平は十五歳程度。首謀者としてはなんとなく収まりがよくない。対立の構図をチェックすると為義・義賢VS義朝・義平だけではないようだ。この源氏の内紛に秩父一族の内紛が絡んでくる。秩父重隆と家督を巡って争う秩父の一族畠山重能が登場する。また、秩父重隆と抗争を繰り返す新田、足利一族も登場する。結局は、(為義・義賢+秩父重隆)VS(義朝・義平+畠山重能+新田、足利)といった対立の構造の中で、この大蔵合戦を見た方がよさそう、だ。
大蔵合戦において、義賢の次子で当時二歳の駒王丸は畠山重能に助けられ、斉藤別当実盛により木曽の中原兼遠に預けられた。これが後に旭将軍と呼ばれた木曽義仲である。また、鎌倉武士の鑑・畠山重忠は畠山重能の嫡子である。

向徳寺
神社を離れ、県道172号を少し西に進み、西を見やる。いつだったか、この地の西、鎌形の地にある木曽義仲産湯の水・鎌形八幡や、義仲の妻・山吹姫ゆかりの寺・斑渓寺、そして都幾川の川筋を想い、神社へと戻り、武蔵嵐山駅へと向かう。 大蔵交差点あたりから成り行きで都幾川の川筋に向かう途中に向徳寺。時宗の寺であり、藤沢遊行寺の末。いい構えのお寺さま。新しく建て替えられた山門脇に板碑が並んでいた。鎌倉から南北朝、室町に渡るもの。板碑は正確には「板石塔婆」とか「青石塔婆」と呼ばれる。戦乱の世に、生前に極楽往生を念じ建立した供養塔とされ、美しい梵字で如来や菩薩を描く。埼玉には2万近い板碑が見られる、と言う。





都幾川
向徳寺を離れ、北にすすむと都幾川にあたる。比企郡ときがわ町大野地区の高篠峠あたりが源頭部。嵐山で槻川を合わせ比企郡川島町で越辺川に注ぐ。都幾川(とき)の語源は、「清める」を意味する「斎(とき)」からとWikipedia,が言う。
川の向こうの台地は鎌倉武士の鑑・畠山重忠の菅谷館跡。いつだったか、この館からはじめ、台地を都幾川に下り、槻川が合流するあたりを見やりながら、都幾川の堤を鎌形八幡へと下ったことを思い出す。台地の坂を上り、国道254号嵐山バイパスを越え成り行きで東武東上線・武蔵嵐山駅に進み、本日の散歩を終える。ちなみに、本日歩いた比企の語源は、「低地、低湿地」とか、古代の太陽祭祀を司る、日置(へき、ひき)部からとの説がある。  

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