東京下町散歩・台東区 (1): 浅草・隅田川微高地から思川跡を辿る

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下町散歩も、中央区、江東区、墨田区を終え台東区に入る。読みは、「タイトウ」区。台東区の「台」は上野の高「台」、「東」は上野の高台の東、つまりは浅草を指す、という。「台」は台覧、「東」は聖徳太子ではないが、「日の出ずるところ」であり、台も東も、どちらにしてもありがたい言葉である、と。
それにしても台東区って、少々分かりにくい。区名を決めるときは、東区とか上野区,宮戸区とかなどいろいろ案はあったよう。候補のひとつである上野浅草区でもなっていれば、少々わかりやすかった、かも。ということで、「台東」散歩は区名が示す、台の「東」・浅草からスタートする。
今回は、浅草から白髯橋のあたりまで隅田川に沿って歩く。途中の今戸、橋場、石浜といった地名は、江東区や墨田区を含めた東京下町低地の地形や歴史を調べるときに、幾度となく目にしたところ。地形としては、白髭橋のあたりから浅草、そして鳥越あたりまで隅田川にそって砂州というか自然堤防として形つくられた微高地となっていた。それ以外はというと、浅草の西というか北というか、入谷・竜泉寺・千束一帯は「千束池」、その南上野駅の東一帯、下谷・浅草・鳥越一帯は「姫が池」が広がり、これらの池は小川でつながっているわけだから台東区一帯は沼地といったところであろう。これらの低湿地帯が埋め立てられ、現在の姿に近い地形になるのは徳川の時代になってからである。



本日のルート: 浅草観光文化センター > 浅草寺 > 浅草神社 > 駒形橋西詰め > 駒形堂 > 乳待山聖天 > 今戸神社 > 橋場寺不動 > 橋場の渡し・白髭の渡し > 平賀源内の墓 > 玉姫稲荷 > 泪橋;思川の水路跡 > 三ノ輪橋跡 > 三ノ輪・浄閑寺

地下鉄銀座線・浅草駅の近くに「浅草観光文化センター」
地下鉄銀座線・浅草駅下車。吾妻橋西詰に出る。川端には水上バス乗り場。雷門通りを西に進み、「雷門」に。道を隔てて南側に「浅草観光文化センター」。散歩の資料を集め、浅草寺に。
浅草寺
浅草寺に伝わる縁起によると、神社創建は推古36年というから628年。漁師の檜前浜成(ひのくま・はまなり)と竹成(たけなり)が隅田川から拾い上げた金の観音像を、村長・土師中知(はじのなかとも)の家におまつりしたのが浅草寺のはじまり、と。その後、大化元年(645年)には勝海上人が観音堂を建立。縁起は縁起以上のものではないにしても、すくなくとも平安時代の中頃には立派なお堂ができていたようではある。
頼朝も治承4年(1180年)隅田川を渡り、武蔵の国へ攻め入るとき、浅草寺で戦勝祈願をしたというし、頼朝の父の義朝も浅草観音の信者であったというし、鎌倉の地に鶴岡八幡宮を造営の際、地元の宮大工など頼むに足らず、ということで、浅草寺をたてた浅草の宮大工を呼び寄せた、ともいうし、あれやこれやで結構昔から浅草寺は賑わっていた、そのことは間違いなさそう。
それにしても、それにしても、である。仏教伝来は538年。漁師の檜前浜成(ひのくま・はまなり)と竹成が隅田川から金の観音像を拾い上げたのが628年。伝来以来、一世紀弱で川から拾い上げた「もの」が「仏像」であると、一介の漁師がわかるものであろうか。あるとすれば、わずか一世紀弱で仏教が一般市民にも広まっていた、ということであろうか。
と、あれこれ考えながら、ふと気がついた。檜前浜成(ひのくま・はまなり)と竹成っていかにも渡来系の人。墨田区の散歩でメモしたように、この浅草湊は帰化人の橋頭堡であった。とすれば渡来系帰化人って、仏教を持ち込んだ人たちであろうから、拾い上げた像が「仏像」だとすぐにわかって当然でもあろう。勝手な結論;浅草湊は帰化人によって開かれた。
仲見世通りを進み、浅草寺本堂におまいり。それにしても境内にはいろいろな神や仏がそろっている。念仏堂、涅槃堂。閻魔堂などのお堂が169、お稲荷さんが35、不動堂が11、地蔵堂が10、弁天社が7、恵比寿・大黒さまが10。権現様もある。神や仏のデパートのようなお寺さんと呼ばれていた。
秘仏のご開帳も盛ん。江東区散歩のときの回向院は出開帳(でがいちょう)のナンバーワンのお寺であったが、この浅草寺は居開帳(いがいちょう)、つまりは自分のお寺の秘仏を自分のお寺でご開帳するって催しが二年に一度の割合で開かれていた、という。秘仏ご開帳の利益は膨大。『観光都市 江戸の誕生;安藤優一郎(新潮新書)』によれば、文化4年(1807年)のご開帳では70日間(本来は60日が最大)のイベントで、儲けが今の金額でおよそ2億円。この金額は通常の浅草寺のお賽銭額の3分の2にもなるという。それではと、これも本来は33年に一度しかできないものを、あれこれ理由をつけて頻繁にイベントを催したお寺もあったようで、成田山新勝寺など150年の間に10回というから、15年に一度出開帳をおこなっている。ビジネスマネジメントの立場からして、気持ちはわからないでもない。

浅草神社
本堂から少し奥というか北に浅草神社。檜前浜成と竹成、それと土師中知の3人を祭神とする。その後、神仏習合、というか本字垂迹というか、ともあれ「神も仏も皆同じ」といった論法で村長の土師中知が阿弥陀如来、浜成と竹成がその脇時の観音菩薩と勢至菩薩であるという権現思想が生まれ、この浅草神社が三社権現と呼ばれるようになる。「三社さま」の由来である。後に東照権現(家康)もおまつりされた。本殿、弊殿、 拝殿は共に慶安2年(1649年)家光公によって再建。この神社の祭礼である三社祭りは、以来江戸の三大祭りとなって今に至る。

駒形橋西詰めに駒形堂と浅草観音戒殺碑
浅草観光文化センターで手に入れたパンフレットをチェックすると、少し南、駒形通りに架かる駒形橋西詰めに「駒形堂」と「浅草観音戒殺碑」がある。駒形堂のある場所は、浅草寺縁起に言う、観音さま出現の地。出現の地であるが故に、このあたりの川で殺生を禁じたのが「浅草観音戒殺碑」。駒形の由来は、隅田川からのお堂を見ると、駒がかけているようだったので、「駒がけ」。それが「駒がた」に転化したとか、観音さまに寄進する絵馬を掛けたので「駒掛け」、それが転化した、とか、駒形神を相州箱根山から勧請したからとか、これも例によって諸説あり。
このあたり、昭和2年ころまで「駒形の渡し」があった。吉原の遊女・高尾太夫が恋しい仙台の殿様、伊達綱宗を思って詠んだ「(ゆうべは波の上の御帰らせ、いかが候。御館の御首尾つつがなくおわしまし候や。御見のまま忘れねばこそ、思い出さず候。かしこ;あなたのことを忘れることがない、ってこと)。君はいま 駒形あたり ほととぎす」の句の舞台はこのあたり。とはいうものの、先日、日本橋川が隅田川に合流する豊海橋のあたりの高尾稲荷起縁の説明とは正反対のエピソード。
高尾稲荷の説明では、どうしてもなびかない高尾太夫を伊達の若殿が切り殺したというが、こちらの話は高尾太夫が伊達の若殿に恋焦がれておる。酒色に溺れた放蕩三昧の故に、21歳の若さで蟄居逼塞、それがもとでの伊達騒動の発端となったお殿様ではあるが、馬鹿殿を演じていた、という説もあるし、よくわからない。思うに、勝手に思うだけだが、高尾太夫とのお話は「大名を振った遊女」といった筋書きが面白かろうと、虚実織り交ぜての芝居話となっていたのではないだろうか。

乳待山聖天
隅田川に沿った江戸通りを北に進む。吾妻橋西詰めから松屋の脇を進み、東武伊勢崎線のガードをくぐり、墨田公園を右手に眺めながら言問通り・言問橋西詰めを過ごし、微高地ルートの最初の目的地、乳待山聖天(まつちやま・しょうでん)に。小高い丘になっている。昔は鬱蒼とした森であった、とか。推古3年というから595年。この地が一夜のうちに盛り上がる。推古36年の浅草観音出現への瑞兆と伝えられている。同時に龍が舞い降り、この丘を守護した、と。待乳山本龍院の由縁か。
で、この「乳待山」って名前、少々艶かしい。が、もともとは「真土山」。本当の土といった意味。沖積低地部には珍しい洪積層=本当の土、の台地であるからだろう。いつのころからか、真土が待乳に変わった訳だが、聖天さまというのは夫婦和合の神様である。

今戸神社
聖天さまを離れ、北に進む。道路の左手には山谷掘跡が見える。山谷掘って響き、少々袖は引かれるが、次回散歩のお楽しみとし、今戸1丁目の今戸神社に。今戸神社は1063年、奥羽鎮守府将軍・源頼義、義家親子が勅令により奥州の安倍貞任・宗任討伐のとき、鎌倉の鶴ケ丘と浅草今之津(今戸)に京の石清水八幡宮を勧請したのがはじまり。今戸八幡と呼ばれる。その後1081年、清原武衡・家衡討伐のため源義家がこの地を通るにあたり、戦勝を祈願。勝ち戦に報いるため社殿を修復した、とか。戦火にあうたび再建が繰り返された。江戸時代には三代将軍家光も再建に尽力している。
境内に沖田総司終焉の地の碑。京の地から江戸に引き上げた総司は松本良順の治療を受ける。官軍の江戸入りに際して、この地に居を構えていた良順のもと、今戸八幡に収容され治療にあたった。が、その甲斐もなくこの地で没した、と。
境内には「今戸焼」発祥の地の碑。また、この地は「招き猫」発祥の地でもある。商売繁盛の「招き猫」の登場は江戸になってから。人形の招き猫はこの地の今戸焼での人形がはじまり。浅草に住まいする老婆、その貧しさゆえに、可愛がっていた猫を手放す。夢枕に猫が現れ、「吾が姿を人形にすれば福が来る」と。で、つくった人形を浅草寺参道で売り出すと大評判になった。目出度し目出度し、ということで先に進む。

橋場寺不動
明治通り手前、橋場2丁目に砂尾山・橋場寺不動。道からちょっと入った奥まったところにある。うっかりすると見逃しそう。こじんまりしたお不動さん。が。天平宝字四年(760)というから長い歴史をもつ古刹。江戸時代に描かれた図を見ると、おなじく道から奥まったところに本堂、いかにも草堂といった雰囲気のお堂がある。








石浜神社
明治通りを越え、白髭橋西詰めのちょっと先に石浜神社。後ろには大きなガスタンク。周りは広々とした公園に整備されている。お宮も予想と異なり、都市計画で整備された中にたたずむお宮さんといった雰囲気。
歴史は古い。聖武天皇の神亀元年(724)勅願によって鎮座。文治5年(1189)、源頼朝が奥州・藤原泰衡征討に際して戦勝を祈願し「神風や 伊勢の内外の大神を 武蔵野のここに 宮古川かな」と詠む。で、戦に勝利しそのお礼に社殿を寄進。境内にはいくつもの神社が集まっている。「麁香神社(あらかじんじゃ)」は家つくり、ものつくりの神様。職人さんの信仰を集める。「日本大工祖神の碑」があるのもうなずける。「江戸神社」はこの地を治める江戸太郎重長が勧請した「牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)」がはじまり。橋場の鎮守さまであったが、後に江戸神社となった。「北野神社」は言わずもがな。そのほか、妙義八幡神社とか寿老神とか。富士塚といった富士遥拝所もある。また「名にし負わば」の「都鳥歌碑」もある。
この神社には「真先神社」もある。天文年間に石浜城主となった千葉之介守胤が「真っ先駆けて」の武功を祈願した真先稲荷がはじまり。もとは隅田川沿岸にあり、門前は吉原豆腐でつくった田楽を売る茶屋でにぎわった、とか。吉原への遊びの客がこの地を訪れ詠んだ川柳;「田楽で帰るがほんの信者なり」。大正時代に石浜神社と一緒になりこの地に。
この地、とはいうものの、石浜神社も真先神社も別の場所にあった。今石浜神社の西隣にある大きなガスタンク・東京ガス千住整圧所。石浜神社はこの整圧所の北の方にあったらしい。真先神社は東の方墨田川寄りにあったらしい。で、工場建設に伴い現在の地に移転した、ということだ。
お宮を離れる。神社の裏にお墓がある。「お申し込みは石浜神社に」、といった文句。神社にお墓ってなんとなく違和感。が、どうも都内唯一の神社霊園であるとか。

橋場の渡し・白髭の渡し
墨田川を見てみようと堤防に進む。立派な遊歩道となっている。対岸は向島。往古、このあたりから橋場の渡し・白髯の渡しが通っていた。古代、鳥越から砂州に沿って石浜のあたりまで東海道が通り、この渡しを超え市川の下総国府につながっていた。武蔵野台地と下総台地のもっとも接近したところであり、交通の要衝であったのもムベなるかな。
交通の要衝というだけではない。浅草観音の門前には集落もできる。人も集まる。浅草寺の北にある、今戸・橋場・石浜の村落も水陸交通の要衝としてだけでなく、多くの寺院も集まる。今回の散歩では見落としたが、橋場1丁目の保元寺には踊念仏・時宗の「石浜ノ道場」があった。日蓮宗も石浜道場もあった。
文学作品にもこのあたりの地が登場する。『伊勢物語』然り、『更級日記』然り、また墨田散歩のときにメモした梅若伝説の梅若の母・妙亀尼がまつられている「妙亀塚」もこの地にある。言わんとするところは、平安のころには、このあたりは都の人たちにも知られた場所となっていた、ということ。
ともあれ、このあたり一帯は中世、交通・商業・宗教そして軍事上でも重要な地であった。坂東八カ国の大福長者・江戸太郎重長の治める地であった。当時この浅草湊は海運の一大拠点。江戸時代に江戸湊(亀島川と隅田川の合流点近くにあった)が開かれるまでは、海から、また内陸の川筋からの船が多数この地に集まっていた。その富を一手に握っていたのが江戸太郎重長。
江戸太郎重長は、その力あなどりがたく、頼朝がこの地に上陸するまで、市川の地で待機を余儀なくされた程。石浜神社のあたりに江戸氏の出城・石浜城があったとも。最終的には一族の葛西氏、豊島氏などの説得により江戸氏も頼朝に与力した。
『義経記』に;石浜と申すところは、江戸の太郎が知行なり。折柄節西国舟の着きたるを数千艘取寄せ、三日が内に浮き船を組んで江戸の太郎は合力す」、とある。で、墨田の隅田宿・寺嶋あたりから隅田川を渡り、この石浜あたりの砂州・微高地に取り付き、その先の低湿地帯は船を並べた「船橋」を渡り、三ノ輪(水の輪)から王子で武蔵の台地に上陸したわけだ。
明治の頃、橋場のあたりは別荘地であったという。白髭橋のあたりに「対鴎荘跡」の案内文。明治6年、白髭橋西詰めに明治の元勲三条実美の別邸・対鴎荘がつくられた。「いそがしき つとめのひまを ぬすみ来て 橋場の里の月を見るかな」。三条実美が京都風の優雅さをこの地に求め詠んだ歌。対鴎荘はその後、多摩の聖蹟桜ヶ丘に移された、ということであったが、先般多摩を歩いた時は、それらしき屋敷は見つけることが、できなかった。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


平賀源内の墓
橋場を離れ明治通りを西に。先に進む。ほんの少し先の道を一筋程度南に入ったところに、平賀源内の墓がある、という。昔はこの地に曹洞宗総泉寺があり、そこにあったわけだが、この総泉寺は板橋(小豆沢)に移り、源内のお墓だけが残っている。散歩をはじめて源内先生のゆかりの地にもよく出会う。大田区・六郷用水散歩のとき、源内先生が考案した破魔矢がはじめて売られたという新田神社、はじめて住まいをもった神田加治町などなど。江戸のダヴィンチとも、奇人変人の代名詞とも言われる。が、二人を殺傷し獄死した、という話もあるし、その場合、このお墓って、とは思いながらも、とりあえず「土用の丑の日」に鰻を食べるって習慣をはじめた人物、というあたりで矛を収めておく。

玉姫稲荷
吉野通りの手前、清川2丁目に玉姫稲荷。玉姫って、いかにも由来ありげな名前。昔このあたりに住む砂尾長者の一人娘、玉姫は恋に破れ、鏡が池に身を投げた。この玉姫をお祀りしたのが玉姫稲荷。とはいうものの、玉姫稲荷って全国にあるわけで、はてさて。境内には口入稲荷も。口入屋って一種の職業斡旋所。吉原の高田屋という口入屋の庭にあったものをこの地に移したとか。ちなみに、砂尾氏ってこのあたりの有力者。橋場不動を建てたもの、開基は砂尾修理太夫の手になる、という。

泪橋:明治通りは思川の水路跡
北に進み、明治通りに戻る。この道筋は昔の「思川」の川筋。吉野通りと明治通りの交差点に「泪橋」の地名が残るほか、川筋はすべて埋められており、川の面影は何もなし。思川は「音無川」の支流。王子あたりで石神井川というか石神井用水から分流され、京浜東北線に沿って日暮里駅前に。そこから先は台東区と荒川区の境を三ノ輪まで続き、三ノ輪でこの思川と山谷掘に分かれる。この音無川もすべて埋められている、とは思うがそのうちに歩いてみたい。音無という、名前に惹かれる。
三ノ輪・浄閑寺
更に先に進む。「土手通り」と合流。土手通りって、山谷堀にそってつくられた土手道。山谷掘りは今回はパス。昭和通・国際通りが合流し日光街道となり北に向かう三ノ輪に。「三ノ輪」は「水の輪」から転化したもの。往時この地は、北の低湿地・泥湿地、東・南に広がる千束池に突き出た岬といった地形であった。
三ノ輪では本日の最終目的地、浄閑寺に。明治通りと日光街道の交差点を一筋北に。地下鉄入口の丁度裏手あたりにある。浄土宗のこのお寺さん、安政2年(1855年)の大地震でなくなった吉原の遊女が投げ込み同然に葬られたため「投込寺」と。川柳に「生まれては苦界 死しては浄閑寺」と呼ばれたように、吉原の遊女やその子供がまつられる。

三ノ輪橋跡
少し元に戻り、交差点道脇に「三ノ輪橋跡」の碑を確認。音無川に架かる橋。王子から流れてきた音無川は、この先浄閑寺前でふた手わかれ、一筋は「思川」、あと一筋は「山谷堀」となり、ともに隅田川に流れ込んでいた。音無川、山谷堀散歩を先のお楽しみとして、本日の予定は終了。

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