旧東海道鈴鹿峠越え;その弐のⅡ;亀山宿から鈴鹿峠を越えて土山宿へ(関宿から土山宿)

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旧東海道鈴鹿峠越え;その弐のⅡ;亀山宿から鈴鹿峠を越えて土山宿へ(関宿から土山宿) 2泊日の旧東海道鈴鹿峠越えの二日目。関宿を離れたところから土山宿までのメモをはじめる。予想外に伝統的建造物が保存されていた関宿に少々驚き、メモも長くなってしまった。ここから先は坂下宿をへて、鈴鹿峠を越えることになる。地形図を見るに、峠の直前では急な坂を上るが、その後はゆったりとした下り道。難路・険路と呼ばれた鈴鹿峠って、どういったものか楽しみである。




本日のルート:国道1号>お城見庭園>亀山宿>武家屋敷跡>京口門跡>慈恩寺>野村一里塚>布気皇館太神宮>大岡寺(たいこうじ)畷>関の小萬の凭(もた)れ石>東追分・大鳥居>関神社>関の地蔵尊>市瀬集落>楢木・沓掛集落>鈴鹿馬子唄会館>国道1号・沓掛交差点>坂下宿>岩屋観音>片山神社>鈴鹿峠>鈴鹿峠路傍休憩地>新名神高速道路>蟹が坂・白川神社御旅所>蟹坂古戦場跡>田村川>田村神社>道の駅・あいの土山>土山宿

市瀬集落_10時45分;標高101m
関宿の西追分を過ぎると国道1号にあたる。新所町交差点で国道26号と分かれ、先に進み市瀬交差点を越えるとオークワ流通センターがある。この駐車場内に「転び石」があるとのことだが、見逃した。その昔、山の上にあったものが、転がり落ちたとか、鈴鹿峠から転がり落ちたとか、鈴鹿川に落ちた物が、あら不思議、いつのまにかこの地に戻ったとか、あれこれ。これまた後の祭りである。
先に進み、鈴鹿川の手前に狭い道を入る。道は左に曲がり小さな橋を渡り、市瀬集落に入る。江戸の頃は立場でもあった市瀬集落はS字の形になっており、集落の真ん中を国道が分断する。国道を渡り、集落を先に進むと自然石を重ねた常夜灯が建つ。その置くには西願寺。浄土宗本願寺派のお寺さま(三重県亀山市関町市瀬589)。

筆捨山_11時4分;標高145m
東海道は、車が一台通れる程度の細い道で、両側には、古い家が建つ。 この道は永く続かず、すぐに国道と合流してしまう。 これからしばらくの間は、国道を歩くことになる。 人家はほとんどなくなり、緩い登り坂になり、いよいよ山越えの道になっていく。先に進み、国道がS字に曲がる辺りになると、正面に三角の形をした山が見える。道脇にある案内によると、標高289m、正式名は岩根山。筆捨山の由来は、室町時代の絵師、狩野法眼元信が、山の風景を描こうとしたところ、雲や靄がたちこめ、風景画めまぐるしく変わったため、ついに描くことができず、筆を捨てたという伝説から。東海道の名勝として知られ、対岸の筆捨集落にあった茶やからその景観を楽しんだ、とのこと。歌川広重も浮世絵にその姿を描くが、「筆捨山眺望」に描かれる筆捨山は奇岩怪石が強調されている。今では木々に覆われ、その奇岩を見ることはできないが、この岩根山の東に続く羽黒山も奇岩で知られる山であり、さきほどの転石も、その名残りではなかろう、か。

楢木・沓掛集落へ_11時20分:標高174m
先に進み、鈴鹿川に架かる弁天橋を渡ると、旧東海道は国道から分かれ楢木・沓掛の集落に入る。これまた見落としたのだが、国道から分岐する少し手前の国道脇に、一里塚が残る。市瀬一里塚とも、沓掛一里塚とも、弁天一里塚、とも。日本橋から107番目の一里塚である。
この分岐から楢木・沓掛集落、そして坂下宿へは、国道の騒音から離れ、静かな里道をゆったりと進む。楢木の集落は十軒ほどだろうか。集落を抜けると、鈴鹿峠4.4キロの案内。峠が近づいたことを実感する。先に進み、点在する数件の民家を見やりながら進むと沓掛集落に入る。沓掛集落は江戸の頃、立場茶屋もあったところ。古い家並みの中を進む。沓掛という地名は各地に残るが、大体が、山道で潰れた沓(草履)を新品に取り替え、道沿いの木に古い草履を掛けたことに由来する。

鈴鹿馬子唄会館_11時32分;標高177m
沓掛の集落を過ぎると民家は再び少なくなり、家並みも新築・今風の家も多く見かける。民家の如き坂下簡易郵便局を越えしばらく進むと、道は三叉路となり、右側の狭い坂を上る。道の端には東海道五十三次の宿場町が書かれた木柱が並ぶ。坂を上り切ったあたり、右手には小学校跡を活用した研修センター・鈴鹿峠自然の家、左手に鈴鹿馬子唄会館。鈴鹿馬子唄会館でお昼を兼ねて一休み。
鈴鹿馬子唄会館は鈴鹿峠や鈴鹿馬子唄についての歴史や文化についての展示がなされている。
鈴鹿馬子唄;「坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山 雨が降る 馬がもの言うた 鈴鹿の坂で お参宮上﨟(おさん女郎)なら 乗しょと言うた
坂の下では 大竹小竹 宿がとりたや 小竹屋に
手綱片手の 浮雲ぐらし 馬の鼻唄 通り雨
与作思えば 照る日も曇る 関の小万の 涙雨
関の小万が 亀山通い 月に雪駄が 二十五足
関の小万の 米かす音は 一里聞こえて 二里ひびく
馬は戻(い)んだに お主は見えぬ 関の小万が とめたやら
昔恋しい 鈴鹿を越えりゃ 関の小万の 声がする
お伊勢七度 おたがわ八度 関の地蔵は 月参り」。
馬子唄とは馬喰たちの「夜曳き唄」。街道を往来する駄賃付けの馬子が唄ったもの。鈴鹿の馬子唄は日本での馬子唄の南限、とか。それはそれでいいのだが、この詞に小万が何度も登場する。関宿でメモしたように、さすがは、仇討ち孝女の小萬、とは思えども、少々艶めかしいくだりもあり、なんとなくしっくりしない。それに、与作って誰?
チェックすると、仇討ちの孝女・小萬とは別の「小萬」が登場してきた。孝女の小萬が生まれる100年程前、近松門左衛門が著した狂言をもとにつくられた狂言の中で、関の遊女・小萬とその情夫で、馬子である与作が登場する。元は家老の子として生まれた武家が不義密通故に、馬子に落ちぶれ、その子供である三吉が不義密通の相手であり、実の母との再開・涙の分かれの場面で三吉が、鈴鹿馬子唄を唄う、といった場面がある。「馬は戻(い)んだに お主は見えぬ 関の小万が とめたやら」の下りは、如何にも遊女の客引きの様子としか思えない。現在残る鈴鹿馬子唄には、どうも、この二人の小萬がまぜこぜで入っているように思える。素人の単なる妄想ではある。逆に、実際に孝女・小萬って、いたのだろうか、などと思えてきた。

国道1号・沓掛交差点
鈴鹿馬子唄会館のすぐ横を走る国道1号は沓掛交差点で上下線が別々に分かれる。現在の上り線は1924年の開通。このときは上下往復2車線であったが、高度成長期の交通量増大に伴い、1978年に下り線が開通したときに、上下別々のものとなった。

坂下宿_12時17分;標高211m
鈴鹿馬子唄会館を離れ、鈴鹿川の左側に国道1号を眺めながら、右岸の旧道を進む。河原谷橋(下乃橋)を過ぎると街道左手に松屋、左手茶畑の中に梅屋・大竹屋本陣跡の石碑が建つ。「坂の下では大竹小竹 宿がとりたや小竹屋で」と馬子唄に唄われ間口24mを誇った大竹屋も今は昔。また、「本陣は無理でも、せめても」と唄われた脇本陣の小竹屋は街道の右、畑の中にその跡が残る。
坂下宿は東海道48番目の宿。天保14年(1843)の記録では、家数153戸、人口564人、本陣、脇本陣1,旅籠48軒。大層な賑わいではあったのだろうが、これも、今は昔。宿の位置も、往昔、もっと峠よりの地にあったとのことであるが、慶安3年(1650)の大洪水で壊滅し、現在の地に下った。
道を進むと中乃橋の手前に法安寺。庫裡の玄関は本陣・松屋の建築の一部である。将軍家の御殿があり、将軍上洛の途上には休憩所としても使われたとも言われる金蔵院跡の石垣を越える、上乃橋の辺りまでくると家並みも途絶えてくる。

岩屋観音_12時31分;標高224m
道脇の。少々薄暗い森の中に岩屋観音。入口の門を開け、お堂にお参り。お堂の内側にある洞穴に三体の仏さまが祀られる、と。江戸の頃、法安寺の和尚が旅人の道中安全を願い、阿弥陀如来、十一面観音、延命地蔵を造立下、と言う。川原谷橋からこの岩屋観音までのおよそ1キロが坂下宿、とのことである。

古町
旧東海道は岩屋観音の先で国道1号の下り線に合流する。少し進むと東海道自然歩道の道標がある。自然歩道は、国道に平行して林の中を進むようであり、そのまま、国道脇を進む。500mほど進むと、東海道自然歩道も国道沿いの道に合流。その先、鈴鹿川に架かる橋の手前、片山神社の石柱の建つところで、旧東海道は国道を離れ山道へと向かう。橋の先で二手に分かれた鈴鹿川の支流を左手に、杉林の中を進むと道の左下に小さな祠。これが片山神社なのだろうかと、とりあえずチェック。どうも、そうではなさそうである。鈴鹿川が二手に分かれるあたりから、この祠のある辺りが、もとの坂下宿のあった古町であったようである。
『勢州鈴鹿孝子万吉伝』に、「伊勢国鈴鹿郡坂下駅古町と申は、駅より六七町西にて、鈴鹿山の麓、往来の街道なり。古へは此所に宿有しが、慶安三年の秋、洪水にて家屋損亡せし後、今の宿場に移され、こゝを古町といふなり。此所に、万吉といへる孝子あり(略)」とある。この記録にて、古町という地名のあったことははっきりしたが、逆に、この鈴鹿に孝行なる子女の多さが、ちょっと気になる。万吉であり、小萬(万)。ひょっとすれば孝女・小萬って、狂言の遊女・小萬が孝子万吉の話で孝女につくり帰られたのだろうか?
鈴鹿馬子唄会館のところで、孝女・小萬って、実在したのだろうか、などとメモした。再び気になりチェックすると、WEBページの「東海道の昔の話:関の小萬と鈴鹿馬子唄」というページがあり、そこに詳しい考証がなされていた。結論から言えば、1.鈴鹿馬子唄は近松の狂言や仇討ち以前にすでに唄われていた。2.馬子唄の小萬は遊女の小萬である。3.遊女小萬は近松の台本と関係ない。4.山田屋で生まれた子供に馬子唄から小萬という名はつけたが、仇討ちとは関係ない。3.「関の小万が 亀山通い 月に雪駄が 二十五足」という、仇討ちの剣術修行のために通った、というくだりも、これは遊女の小萬が亀山の恋人のもとに通ったもの。それは、仇討ち事件以前に「関の小萬は亀山通い,いろろふくむや冬ごもり」といった小唄がすでに唄われている、から。5.仇討ちは実際あった話で、小萬も実在の人物のようではあるが、馬子唄とはまったく関係がない、とのころ。なんとなく落ち着いた。

片山神社_12時46分;標高283m
細い上りの道をしばし進み石橋を渡ると片山神社の鳥居と石柱がある。鳥居近くには「鈴鹿流薙刀術発祥の地」と書かれた石碑も建つ。石垣など大層立派な構えである。延喜式内社であった古き社を眼にしようと石段を上り神社へと向かう。あちこち彷徨えども、社などは何もなし。近年、2002年放火のために焼失したとのことであった。
この片山神社は、鈴鹿大明神とも、鈴鹿御前とも、また鈴鹿権現とも称された。鈴鹿御前とは坂上田村麻呂を助けたとも、仇なした鬼神ともさまざま。それはともあれ、此の地には太田南畝も「改元紀行」で『左の方に権現の社、高き山の上にたてり、石坂あり、石坂の右にみそぎ殿あり、左に神楽堂あり...。奉るところ三座、中央に瀬織津媛命、左右に黄吹戸命、瀬羅津媛命、相殿は倭媛命ときく、摂社に大山祇命、稲荷愛宕などたたせ給へり』と描く社があった。
この社が片山神社と呼ばれたのは江戸の中期頃になってから、と言う。元は関宿の南、関町古厩字片山にあったとのこと。この道筋は、古代から奈良時代にかけての都から東国への幹線道路。柘植から加太へと加太越えと呼ばれる道筋であり、また、厩の地名の通り、古い時代より駅家が置かれ、二十頭の馬が置かれていた地である。その地に延喜式内に記録される社があっても、なんら不思議ではない。
一方、この鈴鹿峠であるが、古代より、大海人皇子の軍勢が峠を封鎖(壬申の乱)したり、といったことはあるにしても、峠を越える道が整備されたのは、京に都ができてからのことである。延喜式に記録される頃は、未開の山地ではあったわけで、峠=手向け、の名前のように神を祀る祠はあったにしても、ひとも通わぬ山中に延喜式内社はあるとは思えない。この峠に祀られた神の祠であり、峠神信仰をもとに祀られた鈴鹿大明神とも、鈴鹿御前とも、また鈴鹿権現と称された祠があった此の地に、江戸の頃、なんらかの事情で、延喜式内社である片山神社が移ってきたのではないだろう、か。単なる妄想。根拠なし。

鈴鹿峠道
片山神社の石垣手前からジグザグの山道となる。往昔、峠道は「鈴鹿山八丁二十七曲がり」と呼ばれたようであるが、その一端を垣間見る思い。先に進むと石畳。雨に濡れ、滑りやすくなっており、ちょっと注意が必要。石畳が残るが、とは言うものの、曲がりくねった山道は、大部分はコンクリートで補強されているようである。
石畳を過ぎると、ほどなく国道が頭上に被さる。コンクリートで固められた山肌についた階段を上り、国道脇の広場らしきところに出る。昔はバス停があった、とか。案内板の横に芭蕉の句碑。「ほっしん(発心)の 初にこゆる鈴鹿山」。この句は京の御所、北面武士・佐藤義清の身分を捨てて旅に出た、西行が鈴鹿峠で詠んだ「鈴鹿山 浮き世をよそに ふり捨てて いかになりゆく わが身なるらむ」を踏まえて詠んだものだろう、か。
看板脇の山道に入り雑木林の中を進む。途中復元された「馬の水飲み場」などを眺めながら、さらに石段を登ると鈴鹿峠にでる。

鈴鹿峠_13時12分;標高378m
鈴鹿峠は平坦な杉林の中にあり、険阻なる峠のイメージとはほど遠い。江戸の頃には、茶屋が建ち並び、旅人で賑わっていた、と。茶屋跡の名残は見つけることはできなかった。
鈴鹿峠は標高378m。伊勢と近江の国境である。峠は鈴鹿山系の三子山と高畑山の間の鞍部であり、鈴鹿山系ではもっとも標高の低いと頃、と言う。片山神社から1キロ弱を160mほど上るわけで、あっという間に峠に着いたので、少々あっけなかったのだが、東海道本線や東海道新幹線、名神高速道路も当初この地を通る計画があったものの、難工事が予想されたため、このルートを断念したとのこと。現在は新名神の鈴鹿トンネルが開通しておる、ということは、技術変革の賜であろう、か。
峠は鈴鹿山系の最も低い鞍部、ということで、古くから鈴鹿峠越えの山道は開かれていたようである。壬申の乱では大海人皇子方の軍勢がこの地を封鎖した、と上でメモした。とは言うものの、峠越えの道は、所詮は嶮岨な山間の杣道ではあったのだろう。
その鈴鹿越えの道が整備されたのは、都が京に移った平安期から。仁和2年(886)、斎宮繁子内親王の伊勢への斎宮群行に際して、鈴鹿峠を越える新道(阿須波道)が整備されることになる。斎宮は天皇に代わり、伊勢神宮に奉仕する内親王や皇女のこと。天武より後醍醐天皇まで700年弱で64人の斎宮が伊勢に赴く途上、この鈴鹿を超えている。「世に経れば又も越えけり鈴鹿山 昔のいまになるにやあるらん」とか「音に聞く伊勢の鈴鹿の山川の早くより我れ恋ひ渡るかな」などなど、鈴鹿を題材にした斎宮の歌は多い。
斎宮を含め、多くの貴人が往来した峠であるが、鈴鹿峠と言えば、雲助、山賊がすぐに頭に浮かぶ。今回の同僚の鈴鹿越えに同行したもの、山賊除け、という「名目」でもあった。実際昔は盗賊の横行する峠として悪名高く、史書にも頻繁に盗賊話が登場する。都からの貴人を狙っての盗賊三昧であろう。こういった山賊話が伏線となり、坂上田村麻呂による鬼退治、女盗賊鈴鹿御前にまつわる伝説などが生まれたのではあろう。
京・近江から伊勢・東国への幹線道路であった鈴鹿峠越えの道筋も、明治になって関西鉄道の開通により、東海道の要衝の地位を失うことになる。因みに、鈴鹿峠に開かれた道を阿須波道と呼ばれた、と上でメモした。阿須波神とは、「足場(足庭)の意で、足踏み立つる所を守る神」ということから、旅立ちを守る神、と言う。阿須波道とは、旅の安全を祈念した名前でもあろう。

 

鈴鹿峠路傍休憩地・万人講常夜燈_13時24分;標高373m
鈴鹿峠の林を抜けると、一面の茶畑。お茶は土山茶と呼ばれ、葉は厚く二番煎じ、三番煎じでも出涸らしとはならない、とか。茶畑の中の道は勾配も緩く、伊勢側の急峻な崖とのコントラストが面白い。草津までの40キロ近くをゆったりと下ってゆくことになる。伊勢側では谷筋を蛇行してきた国道も、近江路へ入ると、一転直線ルートとなっている。地形図を見るに、緩やかな傾斜で上る近江側の地形が鈴鹿峠を境に、一転、垂直とも見えるような崖となる。これほどに急激に変化する地形、急峻な勾配を避けるにはトンネルを掘るか、崖を穿ち、また崖に沿った道路を造る技術力がなければ、道路や、特に鉄道などは到底、この峠を越えることはできないだろう。東海道や東名高速がこのルートを避けた理由が、急峻な伊勢側ではなく、むしろ、緩やかな勾配の近江側を見ることによって改めて、その困難さを実感した。
茶畑の中を進むと鈴鹿峠路傍休憩地。脇に誠に大きな常夜灯がある。ぱっと見には、つい最近つくられたモニュメントかともおもったのだが、実際は江戸の中頃に、四国の金比羅神宮の講中が建てた常夜燈として建てた。重さ38トン、高さ5.44mもある大きな石灯籠は、地元民三千人もの奉仕によって地元高畑山より運び出され出来たものと伝わる、元は東海道沿いに建ってたものが、国道トンネル工事にためげ現在の地に移された。

新名神高速道路_14時4分;標高288m
万人講常夜燈下は国道1号下り線のトンネル。国道に沿って旧東海道を下ると国道1号に合流。ここからしばらくは国道1号を歩くことになる。しばらく歩き、山中交差点あたりでは道脇に熊野神社の鳥居を見やりながら進む。先に進み、山中西交差点手前で国道左手に脇道。旧東海道はここから国道を離れ、脇道を進むことになる。分岐点には休憩所があり、鈴鹿馬子唄の石碑などがある。先に進み、集落を抜ける。あっさりとした地蔵堂など見やりながら進み、新名神高速道路の高架橋をくぐる。計画当初は第二名神と仮称されたこの高速道路は、名神高速・草津ジャンクションと東名阪亀山ジャンクション間が開通している。地図を見るに、確かに名神より、この鈴鹿峠を越えるルートのほうが直線距離では短い。名神高速や新幹線の建設に際し、鈴鹿峠越えのルートを計画したのがよくわかる。逆に、中止とした理由をきちんと知りたくなってきた。高架下を過ぎると、結構近代的な「一里塚」。周りは一里塚緑地として整備されている。鈴鹿馬子唄の石碑も建っている。旧東海道は一里塚緑地のすぐ先で再び国道1号に合流する。

甲賀市
国道を歩きながら、「甲賀市」の表示を見るに、読みは「こうか」、となっている。甲賀市は2004年、旧甲賀郡の水口町、江南町、甲賀町、土山町、信楽町が合併して誕生した。何故に「こうが」ではなく「こうか」としたのかチェックする。甲賀郡の読みは「こうか」であり、甲賀を「こうが」と濁音で詠むのは「甲賀忍者」といった、忍者関連の用語のみのようである。「こうか」は、元此の地を治めた百済系豪族である鹿深(かふか)に由来する伝統ある名前。故に市名決定に際して。「こうか」「こうが」の最終候補から「こうか」が選ばれた、とのことである。

蟹が坂・白川神社御旅所_14時24分;標高288m
国道1号を進み、猪鼻交差点を越えると、緩やかな上りとなる。標高294mから314mといったところで、現在はそれほどの勾配ではないが、国道ができる前は結構な上りであり、猪鼻峠とも、蟹が坂峠とも呼ばれたようである。昭和49年(1974)年に初版発行の『考証 東海道五十三次;綿谷雪(秋田書店)』には、「町並み道路は、西へ上り坂となる。これを猪鼻坂と言う。(中略)とにかくがむしゃらに猪鼻坂の上方から急坂をよじのぼり、峠の上に達する。この山を半周するように上る。この坂から山の頂点までを猪鼻峠と呼ぶ。また、蟹ガ坂峠、とも」と描かれている。昭和49年には、未だ、こういった峠道が残っていたのだろう。
緩やかな上りを越え、蟹が坂交差点の手前で旧街道は国道から分岐する。この蟹が坂も現在では、ゆるやかな下りではあるが、前述『考証 東海道五十三次;綿谷雪(秋田書店)』には「峠から西北へ、蟹が坂の急坂難路を下る。密樹繁葉の間、湿潤の落葉・雑草を踏んで、旧道はあるいはくずれ、あるいは狭まり、消失したかに見えて又つづく。最低部に達すれば道幅二尺に過ぎず、左側、密林のむこうに、あるかなきかの砂川(俗に蟹ガ淵)が流れ、静凄のしじま暗き彼方の小丘に分け入れば、蟹塚一基がある」と描かれる。同書に掲載されている『伊勢参宮名所図会』の「蟹ガ坂」も、誠に山中の風情が色濃く残る。
分岐近くの緩やかな坂を下る途中、巨木の脇に二つの祠。白川社御旅所の石柱があるのだが、地図では江ノ島神社とある。チェックすると、大正9年。此の地にあった榎嶋神社の祭神を白川神社に合祀した、とのこと。それ以来、この地は白川神社の御旅所となったのだろう。
境内に残る祠の大きいほうは「田村社」、小さい方は「蟹社」と称される、と。田村社って、何となく坂上田村麻呂ではあろうと思うのだが、蟹社って何だろう。これまた、チェックする。蟹坂の由来に、「蟹坂に大きな蟹が出没して旅人を苦しめた。京の僧、恵心僧都が蟹討伐にやてきて、「往生要集」を唱えると、蟹の甲羅はばらばらに砕け散った。僧都は、蟹の供養をするための石塔を建てるように願い、また、蟹の甲羅を模した飴をつくり、厄除けとするようにと言い残された。これが蟹坂飴である」とある。元より、蟹が悪さをするわけもなく、もう少し調べると、「東海道名所図会」に、「むかしこの坂の嶮阻をたのんで山賊が出でて、旅人に暴逆せしよりこの名をよぶ。姦(かん)賊の横行より蟹(かに)坂というか。また蟹ヶ塔は、かの山賊を亡ぼし、こヽに埋むならん。名物とて丸き飴を売る家多し」とあった。
平安の頃より整備された鈴鹿道は、都から伊勢や東国への貴人の往来も多く、盗賊にとっては格好の稼ぎ場であった、と上でメモした。鈴鹿道(阿須波道)の整備された12年後の昌泰元年(898)には伊勢神宮への勅使一行が襲撃された、との記録も残る。それ以外にも、鈴鹿の盗賊の記録がたびたび史書に現れる、とのことである。謡曲『田村』に登場する坂上田村麻呂の鈴鹿峠の鬼退治、また、『太平記』には女盗賊立烏帽子との立ち会いが描かれる(改心し鈴鹿御前として田村麻呂に嫁いだ、とも)のは、こういった背景があって生まれたもの、かとも。ということで、白川神社御旅所の「田村社」は田村麻呂を祀り、「蟹社」には、姦、すなわち、田村麻呂に退治された盗賊・山賊を祀る社、ということであろう。因みに、御旅所とは、祭礼に於いて、神が巡行の途上で休憩・宿泊する場所のことである。

蟹坂古戦場跡_14時30分;標高269m
道なりに先に進み、工場に挟まれた道を通り抜けると、小さなトンネルがあり、そこをくぐり五十メートル程歩くと、小山の前の草地に「蟹坂古戦場跡」の案内。案内によると、「天文十一年(1542年)九月、伊勢の国司北畠具教は、甲賀に侵入しようとして、彼の武将神戸丹後守及び飯高三河守に命じ、鈴鹿の間道を越えて山中城を攻めさせた。当時の山中城主は、山中丹後守秀国であり、秀国は直ちに防戦体制を整え、北畠軍を敗走させた。こうして北畠軍はひとまず後退したが、直ちに軍勢を盛り返し、さらに北伊勢の軍勢を加えて再度侵入し、一挙に山中城を攻略しようとした。
このため秀国は、守護六角定頼の許へ援軍を乞い、六角氏は早速高島越中守高賢に命じて、軍勢五千を率いさせ、山中城に援軍を送った。一方、北畠軍も兵一万二千を率い、蟹坂周辺で秀国勢と合戦した。この戦いは、秀国勢が勝利を収め、北畠勢の甲賀への侵入を阻止することができた」とのこと。因みに山中城址の案内は鈴鹿峠から3キロ程度下った、国道1号山中西交差点手前、十楽寺先の国道脇にあったようだが、見逃した。山中氏は、元は橘と称したが、建久年間(1190~98)以降、鎌倉幕府の命をうけ鈴鹿山盗賊追捕使として、代々鈴鹿の関所を守り、山賊などの討伐もおこない、名も地名より山中とした。その後館を水口に移し、一族がこの支城を守っていたが、秀吉により城地を改易された、とか。

田村川_14時39分;標高249m
道なりに進むと工場がいくつか並ぶ処に出る。工場そばを通り抜けると田園風景が広がり前面に深い森が見える。田村神社の鎮守の森ではあろう。先に進むと木の橋があり、その手前には高札場跡の案内。田村川に架かる木製の海堂橋を渡る。歌川広重の『東海道五十三次・土山』は、雨の中この橋を渡り、森の中へと進む大名行列が描かれている。土山宿に向かっているのだろう。此の橋は、武家と一部の農民の他は有料であった、と高札にあった。川を越えるとそこは土山宿となる。

田村神社_14時44分;標高253m
橋を神社の境内に。誠に大きな境内である。祭神及鎮座由来によれば、「本神社は坂上大宿禰田村麻呂公倭姫命外数神を配祀し奉る。弘仁三年正月嵯峨天皇勅して坂上田村麻呂公由縁の地土山に鎮祭せられ勅願所に列せられる。実に本社の地は江勢の国境鈴鹿参道の咽頭を占め都より参宮の要衝に当る。古伝鈴鹿山中に悪鬼ありて旅人悩ます。勅して公を派して之討伐せしめられ其の害初めて止むと、されば数多の行旅の為め其の障害を除き一路平安を保たしめ給う公の遺徳を仰ぎてこゝに祀らる。誠に御神徳の深遠に亘るものというべきであります」とある。
弘仁元年、と言うから西暦810年、田村麻呂は、嵯峨天皇の勅を奉じて、当時旅人を苦しめていた鈴鹿の悪鬼を討伐し、その害を除いて、道中の平安が保たれるようになった。が、しかし、その後悪鬼のたたりか、農作物が不作となり、疫病が流行るなどしたため、弘仁3年(812)、嵯峨天皇の詔によって厄除けの大祭が行われた、と。主祭神は坂上田村麻呂とともに、嵯峨天皇も祀る。
境内を進み、拝殿でお参りを済ませ、拝殿横を進むと厄落としの太鼓橋。その先にある本殿にお参り。再び長い参道を進み、銅の鳥居をぐぐり国道1号へ。

道の駅・あいの土山_14時53分;標高251m
国道の向こう側に道の駅・あいの土山。ここで小休止し、国道脇を進む旧東海道を土山宿の街並みを眺めながら進み、国道1号・土山支局前交差点付近にある本日の宿に向かう。途中の土山宿のメモは次回に廻し、今回の散歩メモはこれで一応終えルことにする。


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