古道を辿るの最近のブログ記事

先回国見峠を越え、土佐の城下から伊予の川之江を結ぶ土佐藩参勤交代の道・土佐北街道を遮る峠は南国市から国見登山口のある香美市穴内を繋ぐ権若峠(コンニャク・ゴンニャク)を残すだけとなった。標高1000mほどの国見越えを2回にわけて道を繋いだ後でもあり、標高は600mほど、距離は国見越えの三分の一といったもの。しっかりしたルート記録は見当たらないが、この程度ならなんとかなろうかとお気楽に取りついたのだが、これが大誤算。標高1000mクラスの法皇山脈・横峰越え笹ヶ峰越え、国見越え()といった土佐北街道の峠越えで一番難儀することとなった。

Google Earthで作成
難儀した要因は、「半端ない」荒れた道、その結果としての途切れたルート。季節柄伸び放題のブッシュ。クリティカルな箇所に見当たらなかった標識、そして何よりも、誠にお気楽に取りついた心の持ちようといったところだろうか。
一度で軽く終わると思ってはじめた権若峠越えではあるが、初回は穴内ダム湖側から取りつき、荒れて消えた道と雨のため撤退。2回目は南国市側の登山口から取りつき、結構難儀しながらも初回撤退箇所となんとか繋いだ。
初回は途中撤退ではあったが、撤退箇所までは土佐北街道をトレースしており、2回目も峠からその撤退箇所をターゲットに、倒木で荒れそして消えたルートを辿ればよかったわけで、それがなければ目標となる箇所がないまま消えた道で途方に暮れたであろうから、それはそれでよしとして、2回にわたる権若峠越えの記録をメモする。


今回のルート
初回;穴内ダム湖側から権若峠を目指す(途中撤退)
車デポ:10時53分>登山口・参勤交代北山道の標識>参勤交代北山道の標識>参勤交代北山道の標識>参勤交代北山道の標識と土佐街道イラスト>倒木が道を塞ぐ・撤退

2回目;南国市釣瓶の登山口から権若峠を越え、一回目の撤退地点を繋ぐ
釣瓶登山口へ>左手渡瀬>釣瓶登り口>「歴史の道 北山道 権若峠まで2㎞」標識>「歴史の道 北山道 権若峠まで1.5km」標識・中休場>「歴史の道 北山道 権若峠まで1000m」の標識>沢場>東西に延びる尾根筋が見える>峠手前の藪漕ぎ>権若峠>山路に向け藪に入る>境界標石>堀割道に出る>土佐北街道の標識>沢筋右岸を進む>鶏石>沢筋に下り左岸に渡る>先回撤退地点>参勤交代北山道の標識と土佐街道イラスト;>「参勤交代北山道」の標識>参勤交代北山道の標識>登山口・参勤交代北山道の標識


初回:穴内ダム湖側から権若峠を目指し、雨と荒れた道のため撤退

車デポ:10時53分
権若峠越えの第一回は国見越えの登山口のあった穴内ダム湖側から取り付くことにした。権若峠の下山口側からの取り付きであり、遍路道で言うところの「順打ち」の三倍困難とされる「逆打ち」であるが、標高も550mほどの峠でもあるし、ピストンで戻れば、「順打ち」での峠への上り口となる南国市の釣瓶まで行くこともないだろうしなあ、といった想いであった。
取り付き口は、先回の国見越えの登山口のあった穴内ダム湖北岸を更に西に進み、赤荒谷橋を越え、両国橋を渡りダム湖南岸に移った地点で県道268号を離れ林道を少し進んだ辺りのようだ。
両国橋を渡るまでは舗装された県道を進み、左に分岐する林道分岐箇所に。分岐箇所の林道は簡易舗装ではあるが、なんとなく舗装もすぐ切れそうであり、県道脇の空きスペースに車をデポし林道を歩きはじめる。
穴内
「土佐地名往来」には「大豊の集落。"助ける"を意味する古語あななう。この地を助け合って開拓した歴史に由来。
両国橋
両国橋の由来は?国を跨るわけでもないのだが、この橋の少し西からダム湖の南へと延びる尾根が香美市と南国市、昔の香美郡と長岡郡の境となっている。それに関係あるのだろうか。不明である。

登山口・参勤交代北山道の標識:11時4分(標高430m)
車をデポし、県道から左に分かれて林道をすすむ。途中から簡易舗装も切れていた。10分ほど歩き、南に入り込んだ等高線に沿った林道の南端をグルリと廻ったあたり、右手に伐採された杉林が広がるところの狭い沢筋(水は流れていない)脇に「参勤交代北山道 権若峠登り口(六八九米)」の標識があった。「六八九米」は権若峠まで689mということだろう。このときは楽勝気分ではあった。



参勤交代北山道の標識;11時16分(標高450m)
標識はあったのだが、足を踏み入れると直ぐに伐採で荒れた杉林の中。踏み跡もなく途方に暮れる。どうしたものかと、それらしき道筋を探していると杉に巻かれた青色のリボン(11時9分)が目に入った。このリボンが土佐北街道の案内かどうか不明であるが、とりあえずリボンの巻かれた杉の先へと進む。
ほとんど成り行きで5分ほど進むと、杉に巻かれた赤いリボンとともに「参勤交代 北山道」の標識を発見。オンコースであることが分かり一安心。

参勤交代北山道の標識;11時23分(標高460m)
標識はあったが、その先も明確な踏み跡はない。杉の伐採箇所を抜け、少し落ち着いた山相の中、踏み跡らしき道筋5分ほど進むと右手は青、左手は赤と青の里リボンが巻かれた立木があり、その先に「参勤交代 北山道」と書かれたプレートが木に巻き付けられていた。
この辺りまで進むと、登山口標識辺りでは掘り込まれてはいるが水が消えた沢筋に水が現れてくる。

参勤交代北山道の標識と土佐街道イラスト;11時25分(標高480m)
沢の左岸(と言うほど大きな沢ではないのだが)を数分進むと赤いリボンと「参勤交代北山道」の案内が立木に巻き付けられており、またその直ぐ先にも坂本龍馬のイラストの描かれた「土佐街道」の標識が大岩手前の立木に巻き付けられていた。

倒木・藪が道を塞ぐ・撤退;11時26分(標高490m)
結構標識も増え、これは楽勝かと思いながら踏み分けられた道を進むと細い立木に赤いリボンが巻かれている。が、その先は倒木で道が塞がれる。一本だけならなんとかなるのだろうが、折り重なった倒木でその先は藪。「半端ない」荒れ具合である。
何処かに踏み跡などないものかとあちらの藪、こちらの藪とルートを探すが、それらしきものは全く残っていない。また間が悪いことに晴れの天気予報にも関わらず雨が降り出す。雨具は用意していなかったのだが、なんとなく空模様が怪しいので杖替わりにもっていたビニール傘で雨を凌ぐが、傘をさしての藪漕ぎは少々難儀。
権若峠まで比高差80mほどで、這い上がるだけならなんとかなりそうだが、今回の目的は土佐北街道のルート探し。このまま悪戦苦闘しても土佐北街道のルートに出合うかどうかわからない。ということで、ここで撤退決定。次回、オーソドックスに南国市釣瓶の登山口から権若峠に向かい、今回の散歩でルート確定した坂本龍馬のイラスト地点までを繋ぐことにする。

初回撤退ルート



2回目;南国市釣瓶の登山口から権若峠を越え、一回目の撤退地点を繋ぐ


釣瓶登山口へ
南国市は国分川が四国山地を抜け高知平野に顔を出す地。ほとんど高知市まで来たよ、などと思いながら高知道の南国インターを下り、国道32号を領石川に沿って少し北に戻り、国道が高知道の真下で領石川(りょうせき)を渡った少し先、宍崎辺りで県道33号に乗り換える。県道33号の分岐点に「権若峠登り口まで3.8km」の標識がある。
領石
「土佐地名往来」には「根曳峠への登り口の集落。地検帖には龍石。竜に似た奇岩?竜岩寺という寺名に由来する?」とある。
宍崎
「土佐地名往来」には、「猪狩りが盛んに行われた戸山郷の入り口の集落。 また猟犬のことをシシザキと言う」とある。
県道33号を亀石まで進み、そこで奈路川に沿って直進する県道にから離れ右折し、領石川に沿った道に入る。分岐点には「ここが釣瓶橋です。権若峠釣瓶登り口まで2.3キロ」の標識がある。
奈路
「四万十町地名辞典」には「山腹や山麓の緩傾斜地を高知県では「ナロ」と言う。高知県だけの地名」とある。

左手渡瀬
領石川に沿って道を北に進むと道の左手に「左手渡瀬」の標識と「権若峠釣瓶登り口まで1.1km」の標識が立つ。
「左手渡瀬」が気になりちょっと立ち寄り。標識には「中谷川を西岸に渡る」との説明もある。何のことだろう?チェックする。 「左手が渡瀬」の意味だろうとおもったのだが、「左手渡瀬」という固有名詞であり、「西岸に渡る」とは、どうも往昔の土佐北街道が五良兵衛川(領石川)に北から合わさる中谷川の右岸へとこの地で渡ったようである。
土佐北街道のこの地までのルート
高知の図書館に行けば詳しい資料もあるのだろうが、ルートに関する資料がWEB上ではあまりヒットしなかった。唯一見つけた『土佐の自然』の記事「参勤交代道(領石‐ゴンニャク峠)の自然と地誌、山崎清憲」だけを頼りに推定すると、「土佐の城を出た街道は、比島・一宮・布師田・中島へと進む。中島で御免方面へと南下する土佐東街道と別れた北街道は領石へと北に道を取る。領石の天満宮の辺りには領石口番所があり参勤交代の休憩所でもあったようであるから、道は領石川の右岸を進んで来たのだろう。
天満宮を越えた北街道は国道32号と高知道が重なり合う辺りで「一之瀬」を渡り領石川左岸に出たようだ。一之瀬の場所は国道32号と高知道が重なり合う辺りにある二つの堰の内、上流側の堰辺りとのこと。
左岸を進む北街道は現在の楠木橋(同書には「楠本)とあるが楠木では?)辺りにあった楠木渡瀬を渡河し、右岸に。
右岸に渡った街道は、北から亀石川が領石川に合流する先で「瓶の本渡瀬」を渡河し再び左岸に移り、奈路川が領石川に合流する地点を領石川沿いに進み、この地で領石川(五良兵衛川)から離れ、中谷川を右岸に渡る」といったルートかと思われる。

釣瓶登り口と梼方面への分岐点;9時12分
土佐北街道が中谷川右岸を進んだ、というのはメモの段階で分かったこと。当日は「左手渡瀬」の標識横にあった「権若峠釣瓶登り口まで1.1km」の標識の案内に従い、中谷川左岸の車道を進む。
ほどなく中谷川に東側から梼山川が合わさる。車道は梼山川に沿って少し進むと釣瓶登り口と梼方面への分岐点に。分岐点には「釣瓶登り口左手200m」「梼方面右」の標識が立つ。道脇にスペースを見付け車をデポし、釣瓶登りへと左手の道を進む。

釣瓶登り口:9時14分(標高150m)
道を進むとほどなく右手に標識が見える。「権若峠登山口」「峠まで二千三百三十米 約2時間半かかる 標高五百五十米」とある。ここが峠への上り口である。



下り付の渡し
標識の手前の立ち木に登山者のために竹の杖が用意されている。なにか手頃なものは無いかと寄ってみると、手書きで「ここが「下り付の渡し」です。昔の飛び石が残っています。ゴンニャク峠までは2㎞430m」と書かれたプレートが立ち木に括られていた。
当日はなんのことかよくわからなかったのだが、メモの段階で梼山川左岸から右岸への渡瀬のことだろうということがわかった。
ということは、参勤交代道は、先ほど「左手渡瀬で中谷川の右岸」に渡ったわけだから、どこかで左岸に渡らなければならない。あれこれチェックすると場所は比定されていないが途中「中渡瀬」で中谷川を左岸に渡り、そのまま梼山川左岸へと進み、「下付の渡し」で梼山川を右岸に渡ったようである。川には飛び石で渡ったという適当な石が並ぶ。参勤交代の折には、板橋を架設したとのことである。

「ゆすの木」が多くある地ではあるのだろう。龍馬脱藩の道を梼原から歩いた、その梼原も同じ由来である。
釣瓶
釣瓶の由来は不明。瓶は「かめ・びん」のことだろう。途中亀石川があったが、その由来は瓶の形をした岩があることに拠る。地検帳では亀石だが、州郡志には瓶岩とある。で、釣瓶だが、「釣瓶落とし」というフレーズがある。一直線に落ちていく様を表す。垂直な大岩でもあった故の命名だろうかと妄想。 因みに,『高知の地名;角川書店』の亀石村の項に、「梼山の西に菎蒻坂を隔てて釣瓶落山がある」とする。上述の妄想、あながち妄想とは言えない、かも。

「歴史の道 北山道 権若峠まで2㎞」標識;9時25分(標高200m)
よく踏み込まれた道、掘り割りの道を10分ほど上り標高を50mほど上げたところに「権若峠まで2㎞」の標識が立つ。中谷川と梼山川の合流点に向けて南西に突き出た尾根筋を上って行くようだ。


「歴史の道 北山道 権若峠まで1.5km」標識・中休場:9時44分(標高370m)
「権若峠まで2㎞」標識から20分、高度を150mほど上げると道の左手に「歴史の道 北山道 権若峠まで1.5km」の標識があり、少し平場となっている。標識の先、道の右手にも標識が立ち「中休場」とある。参勤交代の休憩所といったところだろう。

「歴史の道 北山道 権若峠まで1000m」の標識:9時58分(標高410m)
比較的急な尾根筋の道を上ってきた土佐北街道は、「中休場」では等高線の間隔が広い平場となっており、その先も等高線をゆっくりと斜めに上る。10mほど高度を上げた後、等高線の間隔の広い尾根筋に入り、ゆっくりと高度を20mほど上げたところに「歴史の道 北山道 権若峠まで1000m」が立つ。

沢場;10時18分(標高530m)
「権若峠まで1000m」の標識から先、等高線の間隔も狭まり少し険しくなった尾根筋の道を等高線に垂直に60mほど高度を上げる。標高370m辺りからは尾根筋を離れ、592mピークの山を、トラバース気味に等高線を斜めに60mほど高度を上げると、雑草も幾分水気を帯びたものになり、その先で小さいながらも沢となって水を集める箇所に出る。谷側がちょっと崖っぽい。
登山の時期にもよるのだろうが、沢の前後に草が生い茂り道は見えない。踏み違えて崖に落ちるのは勘弁と、山側に道でもないものかと彷徨うが、それらしき踏み跡はない。結局ものと沢場に戻り、慎重に足元を確認しながら進むと、崖に沿って道が続いていた。草が茂ってなければ、道筋も見え、なんということもない道ではあろうと思う。

東西に延びる尾根筋が見える;10時33分
沢場のルート探しで時間をとったため、距離からすればほんの数分歩いたところで前面が開け、権若峠へと繋がる東西に延びる尾根筋が見えてくる。峠まであと少し。



峠手前の藪漕ぎ;10時36分
東西に延びる尾根筋を見たときには、峠に着いた、くらいのつもりでいたのだが、そのすぐ先で背丈より高い草が一面に拡がり道が消える。左手が一段低くなっており、そこを迂回するのかと取り付き口を探すが、足を踏み入れるようなアプローチもない。
地図には権若峠の表示もないため、目安として目指す方向もわからない。撤退?その言葉もちょっと頭をよぎる。が、もう少しもがいてみようと、地図を見る。登山口には権若峠は標高550mとあった。地図には西の592mピークと東の621mピークの間に結構広い鞍部があり、そこが標高550m。藪に阻まれた場所の目と鼻の先。そこが権若峠であろうと藪漕ぎに入る。
左手の一段低くなっているところに落ちないように、草を踏みしだき、撤退に備えてナイフで草を刈り、道を造りながら成り行きで藪を漕ぐ。と、進み始めて直ぐ草藪を抜け平場に出た。

権若峠;10時49分(標高550m)
平場は一部ぽっかりと草藪がないところがあり、そこに石標が立つ。「参勤交代 北山道」「歴史の道 北山道 権若峠」とあった。西端からは土佐が一望。太平洋まで見下ろせる。
帰りのルートの峠からの下り口をはっきりさせるため、藪から峠の平場に出た箇所の草を刈り込み、ピストン復路時の取り付き口を造る。藪から平場に出るときは問題ないのだが、平場から藪に復路で取り付き口がわからず苦労することが多いためである。刈込を終えて少し休憩をとる。
上記時刻では藪漕ぎから峠まで13分となっているが、これは逡巡・ルート探しなどあれこれ彷徨い、迷ったため。実際は数分、いや一分程度の距離かもしれない。
権若峠までの行動時間は釣瓶の登山口から実質1時間半といったところだろか。登山口には2時間半とあったが、結構ゆっくり歩いてもそれほどはかからないように思う。
権若峠
権若峠までのルート
「コンニャク峠」とも「ゴンニャク峠」ともある。「コンニャク峠」は「土佐地名往来」には「コン ニャクに類した食物の自生する峠」とも書かれており、『土佐の自然』の「参勤交代道(領石‐ゴンニャク峠)の自然と地誌、山崎清憲」の項には「土佐州郡誌には「菎蒻(コンニャクク」を当てている」とある。
コンニャクはゴンニャクとも言うとのことであるので、それなりに理解はできるのだが、『土佐の自然』には続けて「地名の由来はさだかでないが「国府村史」には、延喜官道の「五椅駅」を比定し、約音から転じたもので、頂上の広場を「オムマヤトコ」と記している」との記述がある。浅学のわが身にはこの説明がさっぱりわからない。

古代官道である南海道の駅には土佐の本山に「吾椅(あがはし)駅」があったとされる。五椅駅は「吾椅(あがはし)駅のことではあろうが、「あがはし」が約音(フランス語のリエゾンみたいなもの)から転じて(これも正確には「約音から転じた」の主語が何か不明ではある)、どうして「ゴンニャク」となるのか不明である。全国に「ゴンニャク」と称される山は他にもあるが、どれもその由来は不明となっている。
ついでのことながら、「転じたもので」と「頂上の広場を「オムマヤトコ」と記している」の繋がりも分からない。繋がりを無視すれば「ヤマトコ」は何となく「山床」のような気もするし、鞍部を表す美しい言葉と妄想する。なんの根拠があるわけでもない。
この権若峠を越えれば、土佐北街道に立ち塞がる峠はすべて越えることになるので、いつか土佐街道の峠と里道を繋ぐ折にでも高知の図書館を訪ねればなんらかの資料があることを期待する。

下山路に向け藪に入る;10時53分(標高550m)
水休憩をとり、穴内ダム側へと下ることにする。とはいいながら、下山側も背丈より高い草藪が茂る。草の向こうには木々が茂る。アプローチの目安はなにもない。根拠は何もないのだが、先回の撤退箇所から沢筋が伸びていたので、峠へと入り込んだ550m等高線の突端に向かうことにする。

境界標石;11時2分(標高550m)
強烈な藪を踏みしだき、戻りのために草を刈り先に進むと木立の茂る箇所に。草から木立に変わっただけで強烈な藪に変わりない。木の枝を折り、力任せに先に進むと標石がある(11時2分)。文字は読めないが頭部分が赤く塗られており境界標石のようにも思える。東西の尾根筋は北の香美市と南の南国市の境界である。

堀割道に出る;11時9分(標高550m)
こんな藪を延々と下るのか、などと気が滅入り始めた頃、突然目の前に掘割道が現れる。土佐北街道のルートであってほしいとの思いもさることながら、なんとなく藪漕ぎから解放されそうな予感が嬉しい。

土佐北街道の標識;11時11分
掘割道を下ると、すぐに道の左手に赤いリボンが巻きつけられた木立があり、「参勤交代 北山道」の標識も木に括られている。予想より簡単に土佐北街道に出合えた。こんなにしっかりと踏み込まれた道があるとは、先回の逆ルートの荒れ具合からして予想できず、外れた予想が誠に嬉しい。

沢筋右岸を進む;11時16分(標高540m)
よく踏み込まれほぼフラットな鞍部の道をゆるやかに下る。途中、龍馬をイメージしたような「土佐街道」の標識を見遣り、木に括られた赤いリボンに出合う辺りで南北を550m等高線で囲まれた鞍部を離れ、550m等高線まで切り込まれた沢筋上流端の右岸を540m等高線に沿って巻きながら進むことになる。 道から沢が見えるわけではないが、地図では沢筋との比高差は10mほどあるように思える。

鶏石;11時19分(標高540m)
沢筋右岸を数分進むと赤いリボンの道標があり、その先に大きな岩がみえてくる。「鶏岩」と書かれた標識が木に括られていた。由来などの説明はない。「鶏岩」を越えた土佐北街道は沢筋に向かって下ることになる。道はそれほど荒れてはいない。

沢筋に下り左岸に渡る;11時26分(標高500m)
沢筋へと、5分ほどかけて30mほど下ると右手に荒れた倒木地帯が見えてくる(11時25分)。周りは藪に覆われている。先回の撤退地点に近づいたようだ。
道はその先でささやかな沢を左岸に渡る、両岸には赤のリボンが木に括られたおり、沢を越えて先に進む。

先回撤退地点;11時31分
道が続いて欲しい、との思いは直ぐに消える。沢を越えてすぐ藪や倒木で道が完全に消えている。倒木で荒れた辺りに道が続いていたのだろうが、仕方なし。GPSを頼りに先回撤退地点まで藪漕ぎ、そしていくつもの倒木を乗り越え進むのみ。
藪漕ぎ・倒木乗り越え・倒木潜りではあるが、今回はターゲットポイントがはっきりしているため気持が楽である。先回はどちらに向かえば土佐北街道に出合えるかもわからないため撤退したが、今回は先回の撤退地点までは土佐北街道をトレースしているわけであり、力任せの藪漕ぎではあるが、先の見通しがついており、安心して進むことができた。
どこをどう進んだか、通りやすい箇所を進んだわけであり、このトラックログが土佐北街道とは思わないが、5分ほどで先回撤退した倒木に到着した。

参勤交代北山道の標識と土佐街道イラスト;11時40分(標高480m)
一応道は繋げた。いくつかの倒木の中で最も北にある倒木の北側には赤いリボンも木に括られており、この倒木まではオンコースとは思うのだが、ちょっと気になることがある。 先回この倒木で道が塞がれ、どこかにルートがあるものかと彷徨ったとき、倒木から少し戻った龍馬のイラストのある大岩の辺りから沢を右岸に進む方向にも赤だったか青だったか、ともあれリボンが木に括られていた。リボンの先にも大岩があるのだが、その先も荒れておりリボンもなく雨の中進む気力もなく元に戻った。今回も、なんとなく気になり再度チェック。結局道は見付からなかった。倒木へのルートが北街道のオンコースであるのだろ、と納得。

権若峠から穴内下山口まで

ルート繋ぎ地点から下山口まで

当時はこの地で土佐北街道のルートを繋ぎ終えたとし、ピストンで車デポ地に戻ったのだが、以下、下山口までを先回のメモの時刻を逆転し編集しなおして掲載する。なお、時刻は下山口から先回撤退地点まで実質20分もあったかどうか、といったものであり想定時刻は省略する。

以下は先回のメモの再掲。登山口から撤退地点まで20分程度でもあり、想定時刻は省略する。メモは時刻を逆転し編集し直し掲載する。

「参勤交代北山道」の標識
沢の左岸(というほどの沢でもないく、この辺りから水も消えるが)道を下ると「参勤交代 北山道」と書かれたプレートが木に巻き付けられている。その傍には赤と青のリボンもある。踏み跡らしき道を数分くだると次の標識に出合う。


参勤交代北山道の標識
杉に巻かれた赤いリボンとともに「参勤交代 北山道」の標識。杉の伐採地帯に入り踏み跡などはわからない。それらしき道を進むと杉に巻かれた青色のリボンがある、それを目安に道を下る。とはいうものの、道が消えているだけで、林道が目に入るわけでどちらにせよ、下山の心配はない。

登山口・参勤交代北山道の標識
荒れた杉林の伐採地を数分下り、水はながれてはいないが掘り込まれた沢筋に沿って下ると登山口・参勤交代北山道の標識のある下山口に着く。

これで土佐北街道の峠はすべてクリアした。後日、峠間を繋ぐ里道を辿り、土佐の城下町から愛媛の川之江まで続く土佐北街道を繋いでみようと思う。
四国霊場43番札所・明石寺から44番札所大宝寺までの80キロ近い遍路道を繋ぐ散歩も今回で最終回。当初、この遍路道の後半部、内子の辺りから大宝寺に辿るおおよそ40キロの途中のある峠越えだけのつもりではじめ、下坂場峠・鶸田峠越え、真弓峠・農祖峠越えルートで大宝寺に、更には44番札所大宝寺から45番札所・岩屋寺への打ち戻し無しの遍路道もカバーしたのだが、なんとなく収まりがよくない。
ついでのことならと、前半部40キロも歩き遍路道を繋ごうと43番明石寺のある卯之町から大洲、大洲から内子へと2回に分けて歩いたのだが、「接合箇所」手前で時間切れ。内子の町を離れ後半部の出発点である国道379号線・石浦バス停に抜ける水戸森峠越えの部分だけが残ってしまった。
遍路歩きの指南として活用させて頂いている「えひめの記憶:愛媛県生涯学習センター」では、水戸森峠越えの箇所は、高速道路建設の因もあるのだろうが、あまりはっきりとしたルートが記載されていない。さてどうしたものかと、ちょっと気になっていたのだが、先回の散歩で水戸森峠への取り付き口である、内子町五百木の松尾集会所を訪ねた時、集会所前に地域の方の努力で作られた水戸森峠越えのルート図案内板が建てられていた。

ルート図もわかり、距離も4キロ弱。標高も180mほどであり峠というか丘を越えるといったもの。ピストンで往復するといっても余裕だろう、とお気楽に歩を進めたのだが、これがとんでもない展開となってしまった。
ルート途中で獣除けフェンス外し・戻しに気をとられ、その傍にあった道標を見落としたため、水戸森峠からの下りは、あらぬ方向に進んでしまい、ために炎天下を遍路道探しに右往左往。最後には偶然に遍路道に出合い水戸森峠越えのルートもクリア。前半と後半部を繋ぎ終え、43番明石寺から44番札所大宝寺までのおおよそ80キロの遍路道を繋ぐことができた。



本日のルート;五百木・松尾集会所>水戸森大師堂>五百木農免道碑>道標に従い遍路道に入る>獣侵入防止のフェンス>水戸森峠>舗装道路に出る >遍路道>石浦大師堂(西光寺大師堂とも)>石浦バス停>舗装道と遍路道交差部に戻る>水戸森峠の切通箇所に戻る

五百木・松尾集会所;9時44分
松山道の内子・五十崎インターで下り、国道56号を少し北に進み、大洲の街並み、曽根城があったという丘陵先端部の切通し箇所で、中山川を渡る五城橋を渡り内子町五百木(いおき)の松尾集会所前に。
集会所の駐車場には長時間駐車はダメ、との告知があり、集会所前の道を、中山川に沿って少し北に進み、道が大きくカーブする辺りにある道脇のスペースに車をデポし、松尾集会所に戻る。

さて、遍路道確認のため城廻自治会文化部が平成27年(2015)に作成したとある「遍路道案内」を見ていると、地図作成者メンバーの方が声をかけてくれ、説明していただく。

上述の如く、遍路道指南として活用している「えひめの記憶」の遍路道案内には、この水戸森峠越えルートの説明は「現在の五城橋の50mほど下流で中山川を渡り、田の中の道を通って水戸森大師堂を過ぎると水戸森峠(みともりとう)の上り口に至る。(中略)ここから道は上りになる。ただ、水戸森地区は松山自動車道の通過点に当たり、道は場所により寸断、付け替えられているが、平成3年建立の遍路道標が峠を案内している。
その案内に従って進むと、やがて水戸森中腹の三差路に至る。ここに、元禄2年(1689)建立の県内で2番目に古い道標(内子町歴史民俗資料館保管)があった。右折すると富浦にある石浦へ通じる道である。ここから700mほどで峠の頂上に達するが、そこは眺望もよく、遍路が休憩するのに絶好の場でもあった。 水戸森峠の頂上から下っていくと石浦大師堂(西光寺大師堂ともいう)に至る。かつて接待や休息の場所として賑(にぎ)わったという大師堂の下段には、菅生山まで8里の徳右衛門道標⑩が他の石碑などと並んで立っている。
遍路道は石浦大師堂を過ぎ民家の間を抜けて進むと、バス停石浦で迂回(うかい)する小田川に沿って内子の町並みから進んできた遍路道(国道379号)と合流する」とある。

水戸森峠越えの遍路道
しかし、「平成3年建立の遍路道標が峠を案内する」といってもその場所が分からず、峠から700m手前の三差路に関しては、「えひめの記憶」に掲載の明治37年の地図にはそれらしき三叉路から石浦に続く道筋が見えるのだが、現在に地図にはその道筋は載っていない。
「水戸森峠を越えて小田川に至る山道は、明治40年(1907)発行の地形図からも、国道379号が開通するまで、人々にとっての重要な生活道であり、また遍路道でもあった(「えひめの記憶)」とあるように、当時は重要な往還道ではあったのだろうが、国道ができた現在、その存在意義が失われ、往還道は消え去り、その代わりに出来た林道・作業道が地図の主役となった故のことではあろう。

ことほど左様に、事前でのルート確認はできず、所詮は4キロ弱の峠、というか丘陵といったもので、成り行きで進んでも何とかなるだとうと思っていたのだが、ここにこんなにしっかりした道案内があり、しかも作成当事者からルート概要も説明頂いた。
これで何も心配なしと、お気楽に歩を進めたのだが、道途中にあった獣除けのフェンスに、獣ならぬ我が身がそのトラップに嵌り、遍路道を大きく逸れて、炎天下右往左往する始末となったのは後の話ではある。

水戸森大師堂;9時50分
松尾集会所から右に、集落の中に入り左に折れて坂道を少し上ると水戸森大師堂があった。
ふと思う。松尾集会所で見た地図には城廻自治会とあった。この中山川左岸は五百木地区、右岸が城廻地区である。何故に五百木地区に対岸の自治会名? ここからは単なる妄想。五百木村と城廻村は明治期の町村制施行時に両村から1字を取り、五城村となった。同じ村であったが故の「城廻自治会」との自治会名だろうか。
因みに、城廻は曽根城との関連でわかるのだが、五百木の由来は?部民制の五百部と関係あるのだろうか?不詳である。

五百木農免道碑;9時56分
ほどなく道は「八日市街並 1.0km 水戸森峠 1.2km」と書かれた木標の建つ箇所で左手から道がわ合わさる。松尾集会所脇から左手にぐるっと廻って来た道である(車をデポした川沿いの道は中山川に沿って上って行くので間違わないように)。
道を進むと立派な舗装道路に出る。松山道に沿って先に進むと、高速道路下を抜けるアンダーパスの手前に石碑があり、「五百木農免道」と刻まれていた。 脇にあった解説石碑には「国営大洲喜多農業開発事業により、四団地が達成され、これにより中山間地域を縦断する基幹農道を整備し、生産団地の高生産性農業を確立する目的で建設された」とあり、事業概要として「事業名 農業漁業用揮発税財源 身替農道整備事業(農免農道) 地区名;五百木地区 受益戸数;二百三戸」などとある。
農免道路って地域名を冠した道路名かとおもったのだが、上記、事業名からわかるように公共事業の事業タイプのことのようだ。えらく長い事業名だが、要は昭和28年(1953)に制定された「道路整備費の財源に関する臨時措置法」により揮発油(ガソリン)税の収入は、国道や県道の道路の整備に充てられる」とされたが、農林漁業用に使用されるガソリンは、仕事上の必要経費であるとして税金の「免除」が求められ、その要望に対し、税金の免除の替わりに農道の整備を行うということで発足した事業のようである。
道路は、昭和62年(1897)度着工、平成14年(2002)度完成。農業開発事業による生産団地の詳細は不詳だが、行政の資料に「大洲市を中心に実施された国営総合農地開発事業により開発された造成地については、落葉果樹及び草地等を主体とした利用を推進するほか、その他の山間部にある農用地についても、かき、 くり等の樹園地及び放牧地等を主体とした利用を確保していくことを基本とする」とある。このような造成地を繋いだ道と整備したということだろう。因みに解説にあった「中山間地域」とは「農村」と「農山村」を包括した呼称のようである。

道標に従い遍路道に入る;10時1分
高速道路のアンダーパスを潜り、道路に沿って農面道路を少し進むと、道の右手に石の道標があり、そこから農面道路の法面を斜めに進む道がある。「左 へんろ道」の側面には平成3年 城廻分・・(私注;以下、当日確認しなかった)」と刻まれている。先ほど松尾自治会で見た地図は平成27年(2015)よりずっと早い時期に道標を整備して頂いたようである。

獣侵入防止のフェンス:10時5分
ゆるやかな勾配の坂を上る。左手下に高速道路を見遣りながら坂をのぼると丘陵突端部となり、そこには「四国のみち」と「八日市街並み 1.5km 水戸森峠 0.7km」の木標が立つ。
丘陵突端を廻り込むと道は獣侵入防止のフェンスで遮られる。チェーンを外し・戻して先に進む。

水戸森峠;10時12分
道の左手下に果樹栽培の畑を見乍ら、道を辿ると、再び獣防止フェンスがあり、先ほどと同じくチェーンを外し・戻して先に進むと水戸森峠に着いた。
峠には四阿があり休憩もできる。四阿脇にあった案内には「水戸森峠 四国山地を東に眺めるこの山頂は、菅生山大宝寺(久万後)と、源光山明石寺(宇和町)のほぼ中間に位置します。水戸森峠は別名「安場の峠」とも呼ばれており、急峻な坂道を登りつめ、昔はこの辺りで一休みをしたものと思われます。
登り口の両地点には大師堂が祭られ、ゆきかう遍路さんが道中の無事を祈願したものと思われます。
この地は桜の名所でもあり、また山菜の豊富なところでもある為、憩いの場として親しまれています」とあった。

道標が見つからない
休憩するほど歩いてもいないので、ママ、峠から道を下ろうと、松尾集会所にあった四阿傍の道標を探す。が、見つからない。実のところ、道標は峠のすぐ手前、獣除けフェンスのすぐ傍に小さな切通しがあり、そこが東に下る道の分岐点であったのだが、フェンスのチェーン外し・戻しに気をとられ、そのすぐ右手にあった切通と道標を見逃していた。
この道標を見逃したため、炎天下の右往左往になってしまったわけである。

舗装道路に出る;10時25分
峠直ぐ手前にある石の道標、そこから東に下る道を見逃したため、結局道標が見つからないまま峠からの道を下る。結構立派な道が下っており、その時は、この道が遍路道と思い込み、道なりに下る。
北東に10分ほど下ると「たばこ栽培棟」だろう建物の場所に出る。建物の中を突き切る道と右へと廻り込む道がある。どちらもグルリと廻った後で合流するようであるので、とりあえず建物を迂回して下るとすぐに、立派な舗装道に出た。
炎天下の右往左往
舗装道路には下りたのだけど、松尾集会所にあった遍路道地図にある、道路を横切り国道379号沿いの石浦バス停に向かう遍路道が見つからない。今となっては、水戸森峠から下る道自体が間違い道であり、始まりの箇所から間違っているわけで遍路道が近くにあるわけはないのだが、その時はオンコースを下っているものと思っており混乱したわけである。
更に混乱に輪をかけたのが、舗装道路に下りたところにあった木標。「富浦バス停 0.7km 水戸森峠0.6km」と、西方向が富浦バス停、東方向が水戸森峠と示す。行きたいのは石浦バス停であり、富浦バス停ではないし、そもそもが、今下りて来た道が水戸森峠からの道であり、東に進むって、とういうこと?
これも後になってわかったことだが、石浦バス停には富浦バス停とも書かれてあり、同じところではあったわけで、それなら「富浦バス停」へと向かったのだろうが、その時は富浦バス停と石浦バス停が同じものと知る由もなく、富浦地区って結構広そうで、あらぬ方向に連れていかれそうで躊躇した(これもよく見れば富浦ではなく富長地区ではあったし、そもそもがバス停までの距離が0.7kmであり、冷静になれば「直ぐそこ」であることはわかったのだが。。。)。

ということで舗装道路に下りた辺りから道路を横断して国道に抜ける道があるはずと思い込み、右往左往。少し富浦バス停方向へと西に進むが道に沿って深い沢があり抜ける道はなさそうだ。東に戻るとタバコ栽培センター(これも前述生産団地のひとつだろか)がある。その敷地は台地端にあり、ひょっとすれば国道に抜ける道があるのではと敷地端をさ迷うが、抜ける道はまったく、ない。
松尾集会所で見た遍路道地図ではありえない場所ではあるが、たばこ栽培団地(仮称)を東に進むが、石浦バス停からどんどん離れてゆく。これはありえないと、峠から下りる途中で見たタバコ栽培棟まで戻り、建物の中を通る道を抜けるが、結局は地図にある通り、最初に下りた舗装道の少し東に戻るだけ。

炎天下1時間ほどの右往左往に疲れ果て、とりあえず富浦バス停まで下りて国道を石浦バス停まで戻ろうと、富浦バス停に向かって道を進む。しばらく歩くと沢筋から離れ東に突き出た丘陵突端を越えあたりに「遍路道」の案内があった。舗装同を横切り上下に踏み分け道があり、松尾集会所の地図にあった道標も道脇にあった。このルートが遍路道のオンコースであった。
その時は、峠から下る道のどこで踏み間違ったのか、と思っていたのだが、前述の如く水戸森峠のところで全く遍路道とは異なる作業道を下っていたことなど、その時は知る由もなし、ということであった。
師恩友愛碑
遍路道へのアプローチを探し右往左往しているとき、登り窯を見つけたり、「富浦バス停 0.9km 水戸森峠0.4km」の木標(この木標で水戸森峠への道は、国道379号側から前述農面道路などをへて水戸森峠に向かう道であろうということはわかったのだが、富浦バス停の疑問は残ったままであった)などに出合ったが、右往左往で唯一の成果といってもいい石碑に出合った。「師恩友愛碑」がそれである。
石碑脇にあった説明によると、「この地は旧五城村の中心地であった長岡山である。昭和十年五城青年学校が開校され、青年の鍛錬の場として県下の注目を浴びた。昭和十七年、愛媛県立女子拓殖訓練所が開設され、戦時(私注;汚れて読めなかった)の教育の場として全国に知られた。
昭和二十三年、義務教育六三制の実施により、村民の熱望と村当局(? 私注;汚れて読めず)の英断にて五城村立五城中学校が開校された。
昭和五十二年、八百余名の卒業生を送り出した学舎も町村合併により廃校となる。 ここに有志相図り記念の碑を建立し後世に残す 昭和五十四年」。

この石碑解説からわかることは、前述の明治期の町村制施行時に百木村と城廻村の両村から1字を取り成立した五城村の中心がこのあたりであった、ということ。その地に、「義務教育期間である尋常小学校(のちに国民学校初等科)6年を卒業した後に、中等教育学校(中学校・高等女学校・実業学校)に進学をせずに勤労に従事する青少年に対して社会教育を行う(Wikipedia)」青年学校が設立されたこと。
そしてなにより気になったのが女子拓殖訓練所。チェックすると、この女子拓殖訓練所とは満州開拓花嫁養成所として設置されたものと言う、満蒙開拓の定着推進のためには、開拓者の花嫁が欠かせなかったのだろう。実際一部の方は花嫁として渡満したとのことである。
こんな「中山間地域」で歴史の一端に触れるとは思わなかった。あたりまえだが、世の中にはまだまだ知らないことが多くある。

遍路道;11時19分
遍路道の案内があるところが見つかったのが、11時19分。おおよそ1時間ほど右往左往していたことになる。上に続く遍路道脇にある道標も確認し、とりあえず石浦バス停へと遍路道を繋ぐことにする。木立の中、遍路道の標識などを見遣りながら5分ほど下ると里に出た。

石浦大師堂(西光寺大師堂とも);11時24分
大師堂は扁額に「金栄山 西光寺」とある。西光寺大師堂とも称されるようである。素朴な造りの大師堂が多い中、この大師堂は細やかな木彫りの意匠で飾られていた。
お堂から美しい棚田を眺めながら一休み。お堂に佇む地元の方にお供えのお饅頭の御接待を受けた。毎月21日に地元の方が茶菓子を持ち寄り、大師堂に集うとのこと。当日は七月二十五一日。地域の方が三々五々おお堂に集まりはじめていた。子供の頃、祖母に連れられて近くの大師堂に行った記憶が蘇る。
徳右衛門堂標
お堂前には光明真言百万遍供養と並び徳右衛門道標が建つ。「是より菅生山迄はは八里」と刻まれる。菅生山は44番札所・大宝寺の山号である。手水鉢には天保十年の銘が刻まれる、とのことである。
●四国へんろ道案内 (4)
御堂の遍路道傍に「四国へんろ道案内 (4)」が建つ。「四国遍路の旅は阿波の"発心の道場"(1‐23番)に始まり、土佐の"修行の道場"(24番-39番)を経て、伊予の"菩提の道場"(40番‐65番)に入り、最後は讃岐の"涅槃の道場"(66番‐88番)を巡って結願となります。
水戸森峠を下ったお遍路さんは、この石浦大師堂に参拝し一休みしました。この大師堂では春の縁日には近郷の人びとがお米を持ち寄り、お接待をする習慣もあったようです。
また、旧暦3月21日と7月21日には、近在の力士達を集めて相撲が行われ、多くの客を集めていましたが、これらの風習もと絶え、近年は盆踊りが復活しています。
へんろさんはここからさらに歩を進め、小田川沿いに大瀬方面に向かい、曾我五郎・十郎の首塚を参詣した後、44番札所大宝寺(上浮穴郡久万町;私注;旧地名)をめざして足を運ぶのでした」とあった。

石浦バス停;11時32分
お堂で地元の方と少しお喋りし、ちょっと休憩の後、道なりに進み国道379号に出る。国道に面した福岡酒店の前に「四国の道案内図」があり、そこには現在地として「富浦バス停」とある。
小田川傍にある小屋建てのバス停には「石浦」と書いてある。石浦、富浦が混在なのか併在なのか、ともあれ、表記が統一されていなかった。山中での右往左往も「富浦バス停?石浦バス停」と分かっておけば、もう少し混乱がセーブできたかとも思う。
それはともあれ、本来はこれで43番明石寺から44番大宝寺までの後半と前半部を繋ぎ終えるはずではあったのだが、水戸森峠からの下り一部区間が抜けている。その部分をトレースすることになるのだが、車デポ地へのピストン行。いつもは少々ウザったいピストン行も、今回は誠にありがたく感じ、気持も軽く復路ルートを開始する。

舗装道と遍路道交差部に戻る;11時48分
国道379号から折り返し、石浦大師堂脇の「へんろ道案内」すぐ脇を進む。この箇所は左手にも道が伸びており、間違って進み途中で気づいて折り返した。ちょっと間違いやすいので注意が必要。
後は道なりに進むとほどなく舗装道と遍路道が交差する箇所の戻る。

水戸森峠の切通箇所に戻る;11時58分
道傍にある石の道標の「右 へんろ道」の案内に従い、斜めに上る踏み分け道に入る。杉木立の中を進むと林道にあたる。左に折れるとすぐに切通し。切通しを抜けると往路で出合った二番目の獣除けフェンス前。右には水戸森峠の休憩所に廻り込む道、足元の切通箇所には松尾集会所の地図にあったとおり石の道標があり、「右 へんろ道」と刻まれていた。

獣除けフェンスの開け閉めに気をとられ、この切通の道と道標を見逃したのが今回のドタバタのすべての因。よくみれば松尾集会所のへんろ道地図は、道標は水戸森峠あずまやに接してはいるが南に描かれている。休憩所あずまやの裏手にも廻り込み、道標や遍路道が見つからないと、あらぬ道を進んだのだが、まさか切通しがあったとは。切通から直ぐ上に水戸森峠の休憩(あずまや)が建っていた。
これで43番明石寺から44番大宝寺までの後半と前半部の未踏ルートも繋がった。あとは来た道を車デポ地に戻るだけ。

車デポ地に戻る
山道を下り、農免道路を下る。炎天下で結構疲れていたのか、知らず松尾集会所から農免道路に合流した箇所を見逃した。結局農免道路を下りきり、中山川に架かる田中橋を渡り、結構な遠回りでデポ地に着いた。峠越えのルート図があっただけで「勝った気になり」道を見落とし、散歩の最後でも合流点はわかるものと思い込み間違い道。気を抜いたらダメだよな、と改めて思った水戸森越えではあった。
難路・険路の馬道(炭の道)を悪戦苦闘し、なんとか小足谷川の谷筋に到着した。途中道を間違い40分ほどロスしたが、それでも4時間ほど歩いただろうか。聞いた話とは異なり、結構酷な道ではあったが、江戸の元禄の頃より明治の30年頃まで、別子銅山の中心として小足谷川に沿って開けた旧別子村の焼鉱・溶鉱に不可欠な薪炭を運ぶ道を実感できた。
往路は馬車道を大永山に向けて辿ることにしたのだが、この馬車道も数は少ないものの難所があり、谷筋の断崖箇所など危険度は馬道より高いルートではあった。
日も暮れ始め、どうなることやらと思い始めた頃、突然地図に記載のない林道に出合い、ギリギリセーフ。復路は3時間半ほどの散歩となった。




本日のルート;銅山峰登山道・目出度町分岐>トラス橋>ダイヤモンド水>高橋精錬所跡>劇場跡>徒河>石組で補強された平坦道に>木橋>朝日谷集落跡>広い平坦地・銅山川筋に出る>お地蔵さま>ロープ付の木橋>平坦地・下七番谷迂回地点>断崖>木橋>下七番谷を越える・最大危険個所>鉄塔巡視路標識>巡視路橋>巡視路橋標識と橋>鉄塔巡視路標識>藪道に>山側が開ける>植林帯に>林道に>県道47号に>車デポ地に戻る

小足谷川筋
銅山峰南嶺のこの谷筋は、元禄4年(1691)の開坑から大正4年(1915)に銅山の現地本部機能が東平に移るまで、別子銅山の中心として栄えた地である。開坑は元禄4年(1691)であるが、坑場整地のための森林伐採や人夫の小屋、金場(選鉱場)、勘場(事務所)、焼鉱の窯場、溶鉱のための床屋などの建設もさることながら、資材や食料、産銅の運搬路の開削に難儀したことだろう。 当時銅山峰北嶺は西条藩の立川銅山であり、天領の銅山峰北嶺からの往還はできない。ために開削道は「小足谷から弟地・筏津・保土野と銅山川を下り、海技一、二五六メートルの小箱越で法皇山脈を越え、勘場成から中ノ川・浦山を経て船着場の天満(現、宇摩郡土居町)に至る一三里余の山道で、岩石を削り谷を埋め、橋を掛ける難工事であった」、と言う(「えひめの記憶」)。

復路[馬車道)ルート
ところで、「旧別子」と言葉では子供の頃からよく聞くのだが、旧別子の別子銅山の概要についてはあまり知らない。いい機会でもあるので、以下「えひめの記憶」をもとに整理しておく;
「旧別子の藩政期の銅製錬;別子銅山は元禄四年(一六九一)に泉屋(住友)によって開かれた銅山で、はじめは嶺南の別子山村で稼行していたが、寛延二年(一七四九)嶺北の立川銅山を併合し、銅山峰一帯及び山麓地域で、採鉱や銅製錬が行われてきた。銅山川上流の足谷川に沿う谷あいは、元は無住の地域であったが、銅山の開坑により突如としてにぎやかな生産活動の場が出現した。

最初に開かれた坑道を歓喜坑といい、嶺北との境界をなす銅山越(標高一二九一m)から南へ少し下ったところ(同一二二〇m)である。選鉱場はこの歓喜坑前におかれ、歓喜坑付近が別子銅山の最初の本舗であった。また下財(鉱夫)小屋・砕女(鉱石を砕く女工)小屋・金場(選鉱場)・勘場(会計事務所)・御番所(山役人出張所)・銅蔵・米蔵・炭蔵などが建てられた。また製錬部門である窯場や床屋からは硫煙が立ちのぼり、険しい山道を越えて産銅を運ぶ仲持衆が往来した。
藩政期の別子銅山では、別子の山元で粗銅をとりだし、それを大阪に送って鰻谷の住友本家にある吹所で真吹して精銅を得ていた。精銅はさらに小吹により貿易用棹銅に加工され、また地売銅も作った。住友の業祖とされる蘇我理右衛門は、慶長年間(一五九六~一六一五)に開発した南蛮絞りの技術により、それまで日本では不可能であった銅と金・銀との分離に成功したことで知られる。

別子で行われた粗銅生産は三工程の作業からなり、それらは木方と吹方に大別された。木方は焼鉱を行う職種、吹方は製銅を行う職種で、いずれも後には製錬課とよばれた部門である。
工程の概要は、まず鉱夫が掘った鉱石を負夫が坑道から運び出すと、金場で品位八%程度以上の富鉱を選出し、これを約三cm角に砕く。これを焼窯に入れ、薪と砕鉱石を交互に敷き並べて三〇日~六〇日間蒸し焼きにする。これが木方の作業で、鉱石一三三〇㎏と薪五三〇kgから焼鉱一〇〇〇㎏が得られた。
こうして得た焼鉱を硅砂と混ぜて吹床(溶鉱炉)に入れ、木炭の火熱で溶解して銅分と不純物を分離する。溶鉱炉の中で不純物の鉄分は硅酸と化合して硅酸鉄となって浮き、炉の上部から流出する(鍰;という;私注「カラミ」と読む)。また銅分の硫化銅は炉床のくぼみにたまり、水で冷却すると皮状に固まるので鈹(私注;「カワ」と読む)とよばれた。鈹は銅分が三五~四○%で、吹大工が火箸で一枚ずつはぎとり、あとには床尻銅が残った。
鈹は再度硅砂と混ぜて真吹炉に入れ、木炭の火熱で不純物の鉄分や硫黄分を除くと、銅分九七%の粗銅が得られる。あとの二工程が吹方の作業で、焼鉱四〇〇〇㎏と木炭一〇〇〇㎏から鈹一〇〇〇㎏がとれ、また鈹二八五○kgと木炭二〇〇〇㎏から粗銅が一〇〇〇㎏得られた。このような製錬法を和式製錬といい、明治時代に洋式製錬法が導入されるまで続いた。
和式製錬では多量の薪炭を消費するため、それらの確保が銅山の経営上不可欠であった。このため幕府は、元禄一六年(一七〇三)に宇摩郡津根山村の一柳家五〇〇〇石を播州に転封して天領とし、別子銅山用薪炭材の給供地とした。しかし、製銅作業では粗銅一トンを得るのに約三トン(一五〇俵)もの木炭を消費したため、明治時代になると製炭の場は別子から二〇~三〇㎞も離れたところで行われた。西条市の笹ヶ峰登山道沿いにある宿は、こうした別子銅山用木炭の集散地であった。

明治期の旧別子
嶺南の足谷川一帯は別子銅山の発祥地で、鉱山集落はまず歓喜坑のある前山付近に成立した。明治時代中期には、山方・木方・風呂屋谷・永久橋・目出度町・見花谷・両見谷・裏門(炭方)・東延・高橋・小足谷などの部落があり、小足谷一帯は最も後にできた部落である。この地域を今は旧別子とよび、各部落は山腹の斜面を削り石垣を組んで、軒を接するように建っていた。 目出度町は旧別子の中心街で本舗ともよばれ、別子銅山支配人・役頭・舗方などが勤める重任局が、明治二五年(一八九二)までおかれた。旧別子地区の人口は、享保一〇年(一七二五)に三五一四人、明治二一年(一八八八)には四三八九人であったが、その後全盛期には一万三四〇〇人に達し、県内有数の大きな町であった。目出度町には別子山村役場・郵便局・接待館・駐在所・住友病院などがおかれ、養老亭や一心楼などの料理屋や料亭、小泉商店(伊予屋)・奥定商店(えびす屋)・雑貨屋・うどん屋などの商店が建ち並んで盛況をきわめた。
目出度町の対岸が木方で、尾根筋に焼鉱場、谷側の上手に木方部落、下手に溶鉱炉があった。焼鉱場の上の丘には元禄四年の開坑時に勧請した大山積神社が鎮座していたが、明治二五年(一八九二)目出度町に遷った。神社のあった丘を縁起(延喜)の端とよび、ここから旧別子の遺跡が見わたせるところから、現在はパノラマ展望台とよばれている。
木方製錬所から少し谷沿いに下ったところが高橋で、明治一二年(一八七九)に鈹をとる荒吹炉二基と、粗銅をとる真吹炉一基を建設した。この製錬所は、従来の吹子に代わって送風機を備えており、別子山中で初の本格的な洋式製錬所であった。また、吹床を洋式製錬では溶鉱炉というところから、高橋部落はヨーコロ部落とよばれた。なお、新居浜の惣開では訛ってヨーコロとなり、惣開に通う人をヨーコロ行きさんとよんだという。高橋の洋式製錬所は、明治三二年(一八九九)八月の大水害で溶鉱炉が倒壊し、事務所・作業所・倉庫なども流失して操業不能となったため閉鎖された(「えひめの記憶」)」とある。

嶺南の旧別子から嶺北の東平へ
これで旧別子の概要はわかった。次に別子銅山の中心が銅山峰南嶺の旧別子山村から、北嶺の東平に移る過程を整理する。馬道が不要となる時期を確認したいためである。

第一通洞(標高1110m)と「牛車道」で新居浜の口屋へと運ぶ;東延時代
開鉱わずか7年目の元禄11年(1698)には年間1521トンという藩政時代の最大の生産高(国内生産の28%を占める)に到った別子銅山は、財政不足の幕府の政策により決済を銀にかわって銅とした、長崎での交易の30%を占めるなど、幕政に大きく貢献するも、「深町深舗」と言う言葉で表されるように、坑道が深くなり採算が悪化。
幕末から明治にかけて閉山をも検討したと云われるが、住友は広瀬宰平翁などの努力により明治2年(1869)粗銅から精銅をつくる吹所を大阪から立川山村に移し輸送の無駄を省くなど合理化を進め、事業継続を決定。
明治7年(1874)、フランスより鉱山技師・ルイ・ラロックを招聘し鉱山近代化の目論見書を作成。論見書に従い鉱脈の傾斜に沿った526mもの大斜坑・東延斜坑(明治28)の開削、明治13年(1880)、別子山村と立川村、金子村惣開(現新居浜市)に精錬所を建設。そして明治15年(1886)には標高1110mの銅山峰の北嶺の角石原から嶺南の東延斜坑下の「代々坑」に抜ける燧道の開削着工し、明治19年(1882)に貫通。これが長さ1010mの「第一通洞」である。この通洞の貫通により銅山越(標高1300m)をすることなく鉱石・物資の輸送が可能になった。
第一通洞は、明治8年(1875)に着工し、明治13年(1880)に完成した新居浜の口屋と別子山村を結ぶ「牛車道」と角石原で結ばれ、さらには明治26年(1893)には第一通洞の銅山峰北嶺・角石原から石ヶ山丈までの5キロほどを繋ぐ日本最初の山岳鉱山鉄道(上部鉄道)が敷設され、鉱石の新居浜の口屋への輸送ルートが大きく改善される。

明治初期から開始された鉱山近代化により、別子銅山は窮地から脱し産銅量も明治30年(1897)には3065トンまで増え、第一通洞の南嶺口から高橋地区にかけの東延地区には運輸課、採鉱課、会計課、調度課などの採鉱本部や選鉱場や多くの焼く鉱路炉(高橋精錬所)などが並んだ。明治28年(1895)には別子山村の人口は12000人に達したとのことである。この時代のことを別子銅山の「東延時代」と称する。

第三通洞と索道そして下部鉄道により惣開へ;東平時代
明治32年(1899)8月、台風による山津波で大被害を被ったことを契機に別子村での精錬を中止し精錬設備を新居浜市内の惣開にまとめ、また明治35年(1902)に銅山峰の嶺北の東平より開削し東延斜坑と結ばれた「第三通洞(標高765m)」、明治44年(1911)に東延斜坑より嶺南の日浦谷に通した「日浦通洞」が繋がると、嶺北の東平と嶺北の日浦の間、3880mが直結し、嶺北の幾多の坑口からの鉱石が東平に坑内電車で運ばれ、東平からは、明治38年(1905)に架設された索道によって、明治26年(1893)開通の下部鉄道の黒石駅(端出場のひとつ市内よりの駅;現在草むしたプラットフォームだけが残る)に下ろし、そこから惣開へと送られた。
この鉱石搬出ルートの変化にともない東平の重要性が高まり、大正5年(1916)には、標高750mほどの東平に東延から採鉱本部が移され、採鉱課・土木課・運搬課などの事業所のほか、学校・郵便局・病院・接待館・劇場などが並ぶ山麓の町となった。その人口は4000とも5,000人とも言われる。

かくして別子銅山の中心は銅山峰南嶺の旧別子山村から、北嶺の東平に移った、ということで旧別子の整理メモを終え、復路のスタート地点があるという、別子銅山の劇場跡に向けて小足谷を下ることにする。

銅山峰登山道・目出度町分岐;13時21分(標高1,069m)
「木方・目出度町」分岐のある橋から少し下ると銅山の遺構案内。当時の写真と共にあった説明文に拠ると;
「木方吹所と裏門;足谷川に面して右の山側に建ち並ぶのは木方吹所(製錬所)である。この時点では高橋製錬所よりもこちらの方が産銅量は勝っていた。明治13年から生産が始った最初の湿式製錬所(沈澱銅)の施設であろう。巨大な両面石積の向こうは木炭倉庫で、その真上にも石積が天に突き出ている。当時の和式製錬では1トンの銅を作るのに4トンもの木炭を使っていた。木炭は食糧に次ぐ貴重な物で、従って銅蔵や木炭倉庫の建ち並ぶ鉱山の心臓部の入口は石垣や柵で厳重に囲まれていた。因みにこの辺りを裏門と呼んでいた」とあった。
木方集落
多くの焼鉱炉や建屋・住宅がびっしりと建っていたという。明治25年(1892)には目出度町から移った重任局(事務所)や勘場(会計)が建ち、小足谷川のは対岸と結ぶ多くの橋や暗渠があった、とのこと。
目出度集落
銅山の商店街といった場所で、今日のデパートにあたる伊予屋を始め料亭一心楼、鰻頭の奥定商店等々軒を連ね、更に郵便局や小学校まであり、銅山本部の下町的存在であった、と。

トラス橋;13時27分(標高1,057m)
数分道を下ると橋があり、銅山遺構の案内が;
「トラス橋の焼鉱窯群;この辺りの地名はトラスバシという。 正面にせり出している熔岩の様なものは製錬をして銅を採った残りの酸化鉄である。これをカラミ(鍰)という。
カラミがあるということは、ここにも製錬所があったという何よりの証である。 無数の焼窯が建ち並び、その前は溶鉱炉があった。このように別子銅山では古いものが新しいものへと、しばしば入れ替わっていた。
焼鉱の工程は、焼窯という石囲いの中に多量の薪と生の鉱石を交互に積み重ねて燃やすと1ヶ月ぐらいで硫黄が燃えて発散し、後に銅と鉄からなる焼鉱が残る。
続いてこれを荒吹炉に入れて、更に次の間吹炉に入れて淘汰すると、銅の含有率が90%ほどの粗銅となる。岩山の上に焼鉱用の薪が高く積まれていた」とあった。

ダイヤモンド水;13時35分(標高1,019m)
更に数分下り、ベンチや休憩所、お手洗い(冬期は利用不可)のある広場に着く。そこに勢いよく噴出する水がある。ダイヤモンド水と称される。案内には; 「高橋熔鉱炉とダイヤモンド水;古くはこの辺りの地名はタカバシであったが、明治12年(1879)頃この対岸に洋式の熔鉱炉が建設されてからはヨウコウロと呼ばれるようになった。
ところが戦後(昭和20年代)、別子鉱床の他にもう一層ある釜鍋鉱床というのを探し当てるためにボーリング探査を始め、ここでも昭和26年に掘削を行った。
予定深度まであと僅かの82mほどの所で水脈に当たり多量の水が噴出し、ジャミングという事故が起きてロッドの先端部分がネジ切れ、掘削不能となった。 ダイヤモンドを散りばめた先端部が今も孔底に残っているので、誰言うともなくダイヤモンド水と呼ばれるようになった。
明治10~20年代にかけて対岸の絶壁の上に焼窯という鉱石を焼く所があって、硫黄を取り去った後の鉱石は箱状の桶でこのレベルまで落とし、熔鉱炉に入れて粗銅を採っていた。最盛期にはこの辺り一帯に製鉱課の施設や木炭倉庫がひしめいていた」とあった。

高橋精錬所跡;13時42分(標高985m)
道を数分下ると対岸に立派な石垣が見える。下段石垣には「住友病院跡」と記された案内もあり、その対岸の石垣から崩れた暗渠も残っていた。
道脇の遺構案内に拠れば:
「高橋製錬所と沈澱工場;対岸の高い石垣は高橋製錬所跡である。この石垣は更に300m上流まで統いているが、この対岸には明治20年代になって建設された洋式熔鉱炉(左)と沈澱工場(正面)があった。
明治28年から政府は環境問題に規制を設け、製錬の際に出る鉱滓を直接川に流さないことにした。そこで製錬所前には暗渠を築いて流水を伏流させ、その上に鉱滓を捨てていたので、一時前の谷は鉱滓堆積広場になっていた。
それが、明治32年(1899)の風水害で堆積広場は流され、暗渠も大半が潰れて元の谷川に戻った。ここに残る暗渠は当時の様子をかすかに伝えている。
正面には沈澱工場といって、銅の品質が低い鉱石を砕いて粉末にし、水を使って処理する湿式収銅所があったが、明治32年の水害以降その設備が小足谷に移ってからは、目出度町の近くにあった住友病院が一時期移転していた。
※鉱滓:鉱石を精錬する際に生ずる不用物」とあった。

劇場跡;13時52分(標高953m)
深山幽谷、夏は沢登にいいところだなあ、などと思いながら先に下るとフラットな場所となり、その先は道に沿って石垣が組まれる。坂となっているためか石垣南端は結構な高さとなり、そこに登る石段も30段ほどもある。
道脇の案内には;「土木課(劇場)と山林課;別子銅山の近代化が軌道に乗りだすと、採鉱・製錬の生産部門と平行して、それを支える部門も増強されていった。
つまり、製炭と土木部門が大きなウエイトを占めるようになり、明治10年頃にはこの辺りの用地が造成され明治14年(1881)には、ここを起点とする車道が中七番まで開通し、夥しい坑木や建築資材・木炭等が牛馬車によって運び込まれた。
明治22年(1889)山林係が山林課に昇格し、左の石垣群が山林課、右の広い造成地が土木課になった。
土木課では明治22年に棟行20間、桁行10間、下屋を入れて延べ350坪もある巨大な倉庫を建てた。明治23年5月の別子銅山200年祭には、ここを劇場として解放し、上方から歌舞伎の名優を招いて盛大に祝った。以来、ここが毎年5月の山神祭には劇場として使われ、山内唯一の娯楽場となっていた」とある。

ここに記されている「車道」が往路の「馬車道」のことであろう。明治14年(1881)には中七番まで通じたとある。場所は劇場より少し上、小足谷川の対岸から進むとのことである。


復路[馬車道)


徒河;14時2分(標高956m)
小足谷川右岸に踏み跡を探し、それらしき場所を見つけ河原に下りる。橋はない。雨の翌日ということもあり、水嵩も増している。徒河できそうな場所を探し、河原の岩を投げ込み、飛び石をつくり川を渡る。
渡河地点は馬車道らしき踏み跡より少し上流。沢登りの高巻ではないが、斜面を上に向かって巻き気味に進み、安定した地点を川筋傍の踏み跡に下りる。

石組で補強された平坦道に;14時8分(標高950m)
少し進むと道は石組で補強された比較的広い道となる。道には電柱らしき柱も倒れている。馬車道沿いの集落に電気を送っていたのだろうか。






木橋が3つ続く;14時12分(標高950m)
広く安定していた道に木を渡した橋が現れる。木は朽ちており迂回。その先にも同じく2本の木を渡した橋(14時15分)がある。沢に下りて迂回。更にその先にも朽ちた木橋(14時16分)。地図を見ると等高線が山側に少し切り込んでいた。



木橋;14時27分(標高952m)

広い道が消えた樹林の中の山道を、川に向かって突き出した支尾根突端部に沿って進むと木橋が現れる。ここは山側を難なくクリア。その先には広い道が見える。






朝日谷集落跡:14時28分(標高955m)

広くなった道を進み、支尾根突端部を迂回すると前方に立派な石組みが見える。支尾根突端部を迂回した先では広い道が消え、台形状に切れ込んだ谷を道なりに迂回すると、石組みの馬車道下にも幾段もの石垣が谷に向かって続いている。 その時は、なにか集落でもあったのだろうか、などと話しながら進んだのだが、メモの段階で『山村文化』などを参考にチェックすると、そこは朝日谷集落跡であった。
朝日谷集落
明治5年(1872)前後より集落が形成された、と言う。元禄に開かれた別子銅山は小足谷川の上流部から集落が形成され、この朝日集落は最後にできた小足谷集落の一部とのこと。
小足谷川を挟んだ左岸の上前地区には職員が住み、左岸川沿いから右岸にかけての下前地区(朝日谷集落)には山林・土木関係の請負人や人夫、商人など30戸の家があったと言う。この石垣の上に棟割長屋が並んでいたのだろう。 この集落は別子銅山の機能が銅山峰南嶺の別子山村から北嶺の東平に移った大正5年頃(1916)から人が減り大正10年頃(1921)には集落はなくなったとのことである。
ちなみに先ほど見た電柱は、この朝日集落と関わりあるものだろか?

広い平坦地・銅山川筋に出る;14時38分(標高956m)
朝日集落跡の谷を抜け、少し荒れた広い道、石組みのしっかりした広い道(14時32分)、道の上下が石組みで補強された広い道を、おおよそ等高線950m等高線に沿った水平道を進む。道が小足谷川の谷筋から銅山川筋に出る辺りに小さな木橋(14時35分)があり、その先は広い平坦地となる。

お地蔵さま;14時41分(標高960m)
木々の間から左手に別子ダムの湖面をみやりながら、安定した道を進むと岩肌にお地蔵様が祀られる。「三界」とは読める。とすれば「三界万霊」と刻まれているのだろう。欲・色・無色界に彷徨うあらゆる霊を供養するお地蔵さまではあろう。
別子ダム
Wikipediaに拠れば、「高さ71メートルの重力式コンクリートダムで、工業用水・発電を目的とする、住友共同電力の多目的ダムである。
水、発電を主な目的とし、1965年(昭和40年)に竣工。ダム事業者は、住友グループの住友共同電力。ダムに貯えた水は同社の水力発電所・東平(とうなる)発電所に送水され、最大2万キロワットの電力を発生したのち、鹿森ダムに放流される」とある。
地図をチェックするとダム堰堤の少し上流から銅山峰を越え、一直線に国領川を堰止めた鹿森ダムの上流に点線が延び、足谷川(国領川の上流の呼称)とあたる箇所に発電所のマークがある。そこが東平発電所だろう。
また、点線は東平付近、唐谷川・柳谷川・寛永谷川方面からも延び、別子ダムからの線に合わさる。唐谷川・柳谷川・寛永谷川にも取水口があるとのことであり、その水も合して東平発電所に落としているのだろう。
因みに東平発電所の水圧鉄管は全国第二位の高低差と言う。端出場発電所の後を受け、別子銅山に電力を供給する目的ではあったようだが、別子銅山の閉山は昭和48年(1973)であるから、銅山とのかかわりは短期間であったことになる。端出場発電所導水路跡の崩壊路を辿ったことが懐かしい。
ついでのことではあるが、子供の頃この川筋にあった石組みの七番ダムに父と一緒に来たことがある。昭和4年(1929)に建設されたこのダムは、別子ダムのため水没したとのことである。

ロープ付の木橋;14時48分(標高965m)
石組で補強された道、左手に崖が迫る細路、右手に岩壁のある比較的広い道など、安定した道を進むと大きな沢が現れ、ロープが張られた木橋が架る。木橋はしっかりしており、ロープをしっかり握り橋を渡る。




その先の沢にも木橋(14時50分)が架かる。この橋もしっかりしており、足元に注意しながら橋を渡る。







平坦地・下七番谷迂回地点;14時57分(標高950m)
10分弱歩くと広い平坦地に出る。ここから深く切れ込む下七番谷を迂回するわけだが、これが結構厳しいルートであった。







断崖;15時7分(標高966m)
谷迂回のスタート地点は比較的楽な道ではあったが、10分ほど進むと岩壁に沿った細路となる。左手は比高差80mほどの断崖。高所恐怖症の我が身は道に這える草木を握りしめ先に進む。時に左手が開け迂回先の対岸が見えるのだが、先は長い。



木橋;15時13分(標高965m)
その先で小沢を渡るが、岩場と崖の間の道が狭まり足元が危うい。谷の最奥部に近づくと一瞬、比較的広い安定した道となるが、その先に木橋が架かる。木は朽ちており、沢を迂回。ここも結構厳しかったのだが、最大の難所がその先の下七番谷を渡る箇所に待っていた。


下七番谷を越える・最大危険個所;15時19分(標高970m)
谷最奥部、谷の左岸から右岸に渡る箇所に木橋が架る。木は朽ちており、谷を流れる水量も多く、岩場も滑りやすそう。結局、右側の岩壁に這える木立を見つけ、道の少し上段に上がり木橋の上流部を「高巻」。岩場の木を握り足元を確保しながら進むわけだが、結構緊張した。


鉄塔巡視路標識;5時20分(標高970m)
今回の散歩での最大の危険個所を渡り終えると、その先に住友共同電力の鉄塔巡視路標識がある。「高萩西線 31 32」とあり、地図を見ると送電線は最大危険個所の真上を進んでいる。鉄塔巡視路があり、ということは道も安定するだろうと期待。もう危険個所は結構。


巡視路橋1;15時22分(標高948m)
石組で補強された安定した道を進むと沢に橋が架かる。鉄塔巡視路として整備されており、橋も鉄のしっかりしたものであり、安心して沢を渡る。
その先にも木橋中央に鉄板を渡した巡視路橋がある。安心して進む。



巡視路橋標識2と橋3;15時27分(標高944m)
その直ぐ先にある鉄塔巡視路標識2(「高萩西線31 32」)を見遣りながら(15時25分)進むと、岩場を勢いよく水が落ちる沢がある。鉄塔巡視路故か、この沢も鉄の橋が架かり、安心して先に進む。




鉄塔巡視路標識3;15時29分(標高953m)
橋を渡ると右手の山が伐採され大きく開かれていた。その先、下七番谷が別子ダム向かって開ける辺りに鉄塔巡視路標識があった。「高萩西線 31 32」と共に別子ダム方向に「30」と記される。地図を見ると、この辺りから県道47号に向かって線が記される。鉄塔巡視路のようだ。

日も暮れ始め、先の展開が分からないため、ここで県道に下りる、という選択肢もあったのだが、パーティリーダーである弟はそのまま進むことを選択。4時半頃になって、どうしようもなければ県道に下りるとのことである。


藪道に;15時30分(標高949m)
そのすぐ先で道は藪となる。先ほど鉄塔巡視路から外れたわけで、仕方なし。藪を抜け、木立が遮る道を進む。
ザレた箇所を越えると植林地帯(15時34分)に入る。暗くて足元が危うい。道は倒木で塞がれる(15時41分)



山側が開ける;15時42分(標高956m)
その先で山側が崖崩れといった状態で山肌が露わとなり、右手山側が大きく開ける。








植林帯に;15時45分(標高948m)
明るくなった道も一瞬で終り再び暗い植林地帯に入る。暗く、そろそろライトを出そうかと思いながら進むと藪に入る。この先、車デポ地まで結構距離がある。さてどうしたものか、と思った時、道は突然林道に当たる。




林道に;15時53分(標高960m)
馬車道から林道に出る。地図に林道は記されていないので、思いがけないご褒美といった心境である。思わず笑みがこぼれる。







県道47号に;16時16分(標高874m)
林道を道なりに20分ほど進むと県道47号に出た。馬車道は?馬車道は林道に合流した後、二つ目の支尾根を廻りこんだ辺り(16時頃)で右に分岐し、中七番に向かって支尾根突端部・沢筋を迂回しながら中七番に向かって進むようである。
分岐点を見落としたが、わかったとしても、馬車道を進むことはできなかったように思う。県道を歩いても車デポ地まで30分ほどかかったわけで、曲がりくねった山道であれば1時間ほどかかるだろうから、日も暮れ危険だったかと思う。結果オーライ。歩き残した馬車道は後日カバーの予定

車デポ地に戻る:16時41分(標高986m)
県道を気持ちも楽に30分ほど歩き車デポ地の大永山トンネル南口に。これで本日の馬道・馬車道周回散歩を終える。繰り返して云うが、往路・復路共に平坦な水平路とは程遠い、難路・険路であった。

今回の馬道・馬車道散歩で、旧別子の土地勘がついた。幾度か銅山峰への登山道を上ってはいるのだが、旧別子の基礎的なことも知らず遺構を見遣り通り過ぎていた。いくつかある馬道といった燃料の道だけでなく、旧別子に残る、であろう鉱山経営のロジスティックス(補給)の道、例えて言うならば、生活に欠かせない水の道などを歩いてみようと思う。

暮れも押し迫った頃、弟から別子銅山の馬道(炭の道)を歩こうとのお誘い。馬道は江戸の頃から明治にかけて、粗銅精錬の焼鉱・溶鉱に欠かせない炭を運んだ道と言う。西条の笹ヶ峰北嶺から尾根筋を進み、大永山辺りから尾根をはずれ、水平道として旧別子の小足谷川筋に設けた粗銅精錬のための焼鉱・溶鉱所に薪炭を運んだ、とのこと。
馬道と馬車道(Google Earthで作成)
弟は笹ヶ峰から大永山辺りまでの馬道は歩き終えているようなのだが、それ以東は未だ歩いていないとのこと。既にその道を歩き終えた山仲間からの情報によると、平坦な水平路とのことで誠にお気楽に出かけたのだが、実際はとんでもない難路・険路ではあった。
また、復路は明治の頃開削された馬車道を小足谷川から車デポ地である大永山トンネル南口に向けて歩く、と。馬車道と言う言葉の響きから、これも平坦な道をイメージしていたのだが、難所・険路の数は馬道に比べて少ないものの、その危険度は馬車道が勝る、結構怖い道であった。よくよく考えれば、馬道は百年も前に廃道となったものであり(馬車道がいつ頃まで使われたか不明)、道が崩壊していても何も不思議ではなかった。

それはともあれ、廃道といえば、いつだったか明治の頃開削された青梅街道を歩いたことがあるのだが、東京では奥多摩の山奥、山梨近くまで行かなければ出合えない。そんな結構しびれる廃道歩きが、実家から1時間弱のところで少々怖くはあるが楽しめた。旧別子にはいくつもの馬道コースがある、という。来年のお楽しみがまたひとつ増えた。



本日のルート;大永山トンネル南口>小滝>尾根筋>馬道分岐>広い道に出る>最初の沢>2番目の沢>沢>広い道が現れる>沢と朽ちた木橋>沢>沢>登山道に合流>沢と朽ちた木橋>沢と朽ちた木橋>沢>平坦地>沢と木橋>鉄塔巡視路分岐点>間違い道を戻る>鉄塔巡視路を下る>右手に大きな滝が見える>銅山峰登山道に出る・目出度町分岐

大永山トンネル南口・車デポ地:7時43分(標高986m)
午前7時、かつて別子銅山の鉱山社宅・新田社宅のあった山根グランドに集合。国領川上流の別子ラインに沿って県道47号・新居浜別子山線を進む。鹿森ダムの上流で小女郎川を分け足谷川と名を変えた川筋を走る。川は支流を分け、西鈴尾谷川となった川筋に中鈴尾谷川が合わさる手前辺りから、山肌をヘアピンカーブでグングン上ってゆく。
昔走った頃に比べて気持ち道が広くなったように思うのは気のせい?などと考えている間にトンネルに入る。大永山トンネルだ。総延長1159.0 m、幅6.5 m、高さ4.5 m、平成2年(1990)11月開通。もっと昔からあったように思ったのだが結構最近のことであった。このトンネルの開通によって、陸の孤島であった銅山川筋の別子山村が愛媛の東予、西に下って徳島・高知と結ばれることになった。

長いトンネルを抜け銅山川の谷筋に出る。笹ヶ峰山麓の「宿」から尾根筋を進む「馬の道(炭の道)への取り付口は、この大永山トンネルの南口から。トンネルを出たすぐの広いスペースに車をデポし尾根筋へと向かう。

小滝;7時58分(標高1.003m)
銅山川上流部、中七番川に沿って進む。等高線にほぼ平行に平坦な植林の中を10分強進むと、中七番川のナメ滝脇に出る。 沢に沿って等高線を斜めに、緩やかな傾斜の道を10分強歩き沢右岸に渡る(8時16分)。その先も等高線を斜めに緩やかな山道を20分ほど進むと尾根筋に出る。



尾根筋・馬道合流8時35分(標高1,185m)
登山道と尾根道はT字に合わさる。その尾根道は西条方面から続く馬道でもある。馬道は「炭の道」とも呼ばれる。銅山嶺南麓の別子銅山の粗銅精錬(当初山元でつくられた粗銅は大阪の吹屋に送られ銅とした)に必要な炭を運ぶ道である。当時、粗銅1トンを作るには鉱石?トン、薪6トンと木炭4.8トンを要したという。

「遠町」
元禄3年(1690)、旧別子山村の足谷山に銅の大鉱脈を見つけ、翌元禄4年より開坑された別子銅山は、江戸中期(17世紀中頃から18世紀中頃まで)には「遠町深舗」と称される鉱山固有の現象のうち、特に「遠町」と呼ばれる状況に直面する。「遠町」とは周辺の森林が伐採され尽くし、焼鉱・溶鉱に必要な薪炭が不足することを意味する(「深舗」は坑道が深くなること)。
旺盛な焼鉱(窯場)・溶鉱(床屋)のため、開坑の地、旧別子村の森林が薪炭の確保のため伐採され、またその焼鉱の過程で発生する煙害(流煙;亜流酸ガス岳による森枯れにより、「遠町」の状況に直面し、新たに薪や炭の供給地が必要となった。

加茂川最奥部からの炭の道
西条から旧別子までの馬道(Google Earthで作成)
供給地はいくつもあったろうが、その一つが西条の加茂川最奥部の集落。中之池、黒代、川来須、笹ヶ峰周辺で焼かれた炭を、天ヶ峠を越え、笹ヶ峰北麓の「宿」の集積所に集める。そこからチチ山北麓を巻き、西山越から大阪屋敷越を経てこの地に至り、複数の道を辿り奥窯谷(目出度町分岐先の小足谷川の谷筋だろう)から高橋精錬所(この精錬所は明治にできたもの)辺りにあった溶鉱炉、というか焼鉱のための窯場・溶鉱のための吹床屋に運ばれたようである。
宿
炭の集積所であった「宿」には馬方人足の長屋が建ち並んだとのこと。二百名もの人足が八十頭もの馬を使い、一日一往復の行程で炭を銅山に運び、帰りは銅山子購買所で味噌・醤油を持ち帰った(「親子三代笹ヶ峰物語」)とのこと。 ◆炭の道の終焉
江戸中期よりはじまった馬道(炭の道)も明治30年代にはチチ山北麓が大崩壊し道が寸断され、明治38年(1905)には焼鉱・精錬所が瀬戸内の四阪島に移るに及び、馬道(炭の道)はその役割を終えた。

大阪屋敷越
馬道のルートに登場した大阪屋敷越は、地図をみると登山道と尾根筋合流点のすぐ西にある。当初、馬道途中の中継地かと思ったのだが、チェックすると、この地名は別子銅山ではなく、立川銅山に関りのある地名であった。
大阪屋とは大阪屋久左衛門という立川銅山の経営者の屋号。別子銅山開坑の数十年前に綱繰山西麓に開坑し、その小屋がけを大永山トンネル北の稜線にした、とのこと。その場所が大阪屋敷越辺りのようである。
別子銅山開坑の頃は、尾根の稜線の北は西条藩、南は天領であり、立川銅山は西条藩内にあった。その後、宝永元年(1704)立川銅山のある立川村は幕領になり、立川銅山も宝暦12年(1762)別子銅山に吸収合併された。
なお、大阪屋は拠点を東北に移し、明治まで鉱山を経営し、大商人として活躍したようである。

馬道分岐;8時49(標高1,198m)
登山道とのT字合流点から尾根筋を5分程度進むと「銅山越え 笹ヶ峰」と書かれた木標が立つ。ここが馬道分岐とのこと。
ひとつは道なりに進み尾根筋の少し南や北を巻き気味に、金鍋越を経て綱繰山(標高1466m)に向かい、西山(標高1428m)手前から銅山嶺北嶺を小足谷川筋に向かって下ってゆく。
もうひとつのルートは今回我々が辿る道。標識の右手の藪に入り、おおよそ等高線1200mから1250m辺りを「水平」に進み、最後に小足谷川筋に下る。小足谷川の谷筋の上流部は奥窯谷と呼ばれるようだし、明治に造られたものではあるが高橋精錬所などがあるので、一帯に焼鉱(窯場)・溶鉱(吹床屋)があったのだろう。

広い道に出る:8時55分(標高1,197m)
木標から数分はしっかり踏み込まれた道ではあるが、藪となっている。藪が切れると道が切れ、ザレ場(8時53分)となる。馬道は平坦な水平道との話であり、イメージでは別子銅山上部鉄道跡の道を思い描いていたのだが、ちょっと話が違うようだ。
が、ほどなく平坦な広い道に出る。雪が残る広い道は5分以上続き、これが続くのか、とは思ったのだが、残念ながら再び道が切れる(9時4分)。

最初の沢;9時15分(標高1,194m)
切れた道を自然林の中、斜面を進む。10分弱進むと、沢というか岩場から水の落ちる箇所に出る。昨日の雨の影響だろうか。尾根筋とは比高差100mほどあるのだが、岩場の上は開けて見えた。









2番目の沢;9時27分(標高1,207m)
支尾根を岩場に沿って迂回し進む。10分ほど難路を進み、沢を越える。先ほどの沢というか、岩場よりは「沢」っぽい。







沢と朽ちた木橋;9時46分(標高1,190m)
倒木で塞がれた道を進み、支尾根を廻り込み進む。笹に覆われた箇所、豪快に根元から抉れた樹木などバリエーション豊かな難路を20分ほど進むと、比較的広い道に出る。
広い道のその先に木橋があった。木は朽ちており、沢に下りて木橋を迂回。橋の両端はしっかりと石が組まれていた。

広い道が現れる;10時2分(標高1,194m)


木橋を迂回した先はザレの度合いが酷くなってくる。時に右手が谷に切れ込んだ箇所もあり、気が抜けない。平坦な水平路とは程遠い難路である。10分強歩き、支尾根を廻り込むあたりでしっかりとした広い道に出る。




沢と朽ちた木橋;10時9分(標高1,201m)
5分ほどしっかりした道を進む。
先に木橋がある。2本の木を渡しているが、朽ちており、沢に下りて迂回することになる。








沢;10時14分(標高1,208m)
5分ほど進むと沢。これも、前日の雨水が岩場を落ちている、といったものではある。沢の先は難路と平坦路が交互に登場。ザレた斜面あり、岩壁下の道あり、しかりした平坦路あり、岩場と急斜面のザレ道コンビネーションありと、バリエーション豊かではあるが、楽にはさせてくれない。


沢;10時34分(標高1,247m)
20分ほど難路・平たん路混在の道を進むと木橋の架かる沢に出る。二本の木を渡した橋はこれも朽ちており、沢を迂回。







登山道に合流;10時39分(標高1,240m)
沢筋から5分ほどで登山道に合流。登山道は左手に進むが、右手の支尾根があり、そちらに馬道があるかどうか確認する。支尾根突端に出るも、それらしき道もなく、合流点に戻り、左手の登山道を進むことにする(10時54分)。



沢と朽ちた木橋;11時2分(標高1,263m)
ここからは等高線1250mに沿って、少し南を進むことになる。比較的平坦な道を5分強進むと二本の木を渡した木橋があった。ここも木は朽ちており、沢に下りて迂回。





沢と朽ちた木橋;11時15分(標高1,225m)
沢を迂回した先は結構厳しい道となるが、数分で結構平坦な道(11時6分)となる。平坦な道は10分弱続いただろうか。その先の平坦な道に木橋が架かる。いままでのパターンでは、沢に近づくと道が崩壊していたのだが、ここは道が残り、そこに橋が架かる。二本渡された木橋は、朽ちており沢に下りて迂回する、

沢;11時22分(標高1,241m)
厳しい斜面のザレ道を5分ほど進むと再び二本の木を渡した橋がある。なお、定かな場所は不明だが、この辺りに中七番から上ってくる「炭の道」が合流していたようである。





平坦地;11時32分(標高1,202m)
そこから10分ほど厳しい斜面のザレ道を、木々につかまりながらクリアすると、広い平坦な箇所に出る。地形図で見ると1200mと1210m等高線の間隔が結構広くなっている。馬も一息つけるようなスペースである。




沢と木橋;11時44分(標高1,191m)
平坦地から5分ほどおだやかな道を進むと、三本の木を渡した木橋がある。ここは結構しっかりした木橋のようだが、安全のためここも沢を迂回する。






鉄塔巡視路分岐点;11時57分(標高1,185m)
その先もしっかりした広い道が続く。石組で補強された箇所もある。10分強歩くと送電線鉄塔標識が見えてきた。住友共同電力の標識で、「34号 35号 と記されていた。高萩西線送電線の鉄塔であろう。
何時だったか端出場発電所導水路跡を歩いたとき、「住友共同電力高萩西線48番鉄塔」があったので、北に向かうほど鉄塔番号が増えるようである。
ここで道が複数現れる。上側にしっかり踏み込まれた道、その下に鉄塔巡視路といった道がある。どちらを進むか少々迷う。結局上の道を進んだのだが、オンコースは鉄塔巡視路道であった。

間違い道を戻る;12時47分
上段の道はしっかり踏み込まれている。幅も広く安定しているのだが、道は1200m等高線に沿って少し上り気味に進んでゆく。大雑把なルートとしては小足谷川の谷筋に向かって下っていくはずではあるのだが、これでは谷筋と同じ比高差を保ったままである。
小雪も舞ってきた12時20分頃、弟が先の支尾根辺りを偵察に行き、無難に谷筋に下りルートは無いと判断し撤退を決める。来た道を20分ほどかけて元の鉄塔巡視路分岐点まで戻る。鉄塔巡視路分岐点で少し休み、13時前に鉄塔巡視路を下る。

鉄塔巡視路を下る;12時50分(標高1,185m)
石組みで補強された道を数分下る。小雪舞い散る道脇には鉄塔巡視路標識が3つ現れる(12時51分、12時58分、13時2分)。3番目の巡視路標識には「35 36」と記されていた。





右手に大きな滝が見える;13時16分(標高1,086m)
等高線に沿って、または斜めに緩やかに10分強、比高差100mほど下ると右手樹林の間に比高差のある巨大な滝が見えてくる。小足谷川も指呼の間となった。






銅山峰登山道に出る・目出度町分岐;13時21分(標高1,069m)
と、坂の下に建屋らしきものが見える。確認のため下るとそこは用水施設跡といったものであった。それよりなにより、そこまで下りてはじめて、弟達は、そこが見知った銅山峰登山道であることがわかったようであった。
小足谷川筋に出ると橋が架かる。小足谷川を渡ると「木方・東延」ルートでの銅山越えの登山道、川の右岸をそのまま左に上ると「大山積神社・目出度町」ルートでの銅山越えの道。右手にも橋が架かっているが、この沢が奥窯谷かもしれない。ともあれ、この谷筋が元禄4年(1691)、泉屋(住友)によって開かれた別子銅山発祥の地である。
江戸から明治・大正初期まで別子銅山の採掘・選鉱・焼鉱・溶鉱がこの谷筋の各所で行われ、それ故にいくつものルートを通り、焼鉱・溶鉱に必要な薪炭がこの谷に向かって運ばれてきたわけである。

今回そのうちのひとつのルートを辿ってきたのだが、話に聞いていた平坦な水平路とは程遠い難路の馬道(炭の道)であった。明治30年(1897)頃には燃料も炭からコークスに変わり、明治32年(1899)に新居浜市内の惣開に移るに及び馬道(炭の道)もその役割を終えたわけで、廃道となって100年以上経過しているとすれば、当然といえば当然のことではあった。
今回のメモはこれでお終い。復路のメモは次回に廻す。
先回のメモは河口集落から峰入りし、今宮登拝道から尾根筋、そして今宮登拝道に戻る王子社道を辿り第七王子社から第二十王子社を辿り石鎚神社中宮・成就社まで登った。当初単独行での計画では、成就社からロープウエイで西之川谷筋の下谷まで下り、河口の車デポ地まで徒歩で戻る予定であったが、弟や山仲間はそんな軟な行動を考えるはずもなく、戻りは黒川登拝道を下るとのことになった。
事の成り行きで一緒に黒川道を下ることにしたのだが、道らしき道は里に近づくまで一切なく、黒川谷のガレ場、ザレ場を延々と下るルートであった。黒川道は小松藩領・横峰寺の信徒の登拝道であり、往昔、西条藩・前神寺や極楽寺の信徒が登る今宮道や三十六王子社ルートより多くの人が登った道とのことだが、今となっては、道を踏み固める人も無く、安全確保の虎ロープのオンパレードといった荒れた道ではあった。
比高差1200mの往路での上りに5時間ほどかかったが、下りであるにもかかわらず4時間程かかってやっと下山。メモをしようにも、王子社といったポイントも何もなく、蔵王権現の石像が残る行場跡が一カ所のみ。時に沢(黒川)に落ちる滝が現れるものの、その他はガレ場・ザレ場、崩壊地が延々と続く。といったルートであり、果たしてメモができるものかどうか少々心もとないが、ともあれメモを書き始めることにする。



本日のルート;石鎚神社中宮・成就社>>八大龍王社>展望台に:11時52分>展望台出発;12時26分>黒川道アプローチ地点;12時50分>笹からガレ沢に;12時54分>成就社への道標:13時7分>第一リフト交差;13時9分>支尾根の間の沢に水管>右手に黒川が滝のように下る;13時29分>石組の道;13時35分>正面に滝が落ちる;13時39分>蔵王権現の石仏;13時55分>王子道の尾根筋が見える;13時58分>崩壊地;14時10分>成就社2.5㎞の標識;14時18分>沢を渡る;14時41分>成就社まで2,750m標識;14時45分>杉林が見えてくる;14時55分>上黒川集落;15時25分>石灯籠とお地蔵様;15時34分>「成就社 5.0km標識」;15時39分>下黒川集落;15時42分>下山;15時58分>烏帽子岩;16時4分>横峰寺別院;16時12分>河口の車デポ地;16時12分

石鎚神社中宮・成就社
八大龍王社の傍にある第二十稚児宮鈴之巫王子社の左手にある見返遥拝殿から石鎚のお山・弥山に拝礼し本殿に。本殿は昭和55年(1980)の火災で焼失。昭和57年(1982)に再建されたようである。本殿の前に立つ少々小ぶりな鳥居は二の鳥居のようである。
既に何度かメモしたように、ここはもと前神寺の石鎚山修験道の根本道場であった。「常住」と称されたとのことであるので、通年で修験行者できる拠点ではあったのだろう。石鎚神社中宮成就社となったのは明治3年(1870)の神仏分離令により蔵王権現号を廃し石鉄神社が誕生してからのこと。明治8年(1875)には前神寺所管の土地建物など一切が石鎚神社の所有となった。
このことにより、奈良時代より石鎚山信仰の中心であった別当寺・前神寺は廃され、里前神寺は石鎚神社の本社となり、石鎚中腹にあり信仰の重要拠点でもあったこの地、「常住・奥前神寺」も石鎚神社に移され、名も「成就」と改められ、成就社となった。

石鎚のお山には子供の頃から幾度となく上っている。成就社も幾度も訪れている。しかし、この社と前神寺の関係、この地が小松藩と西条藩の境であるが故の横峰寺との争い、横峰寺信徒による「常住」打ちこわし事件など、今回の石鎚三十六王子社散歩を終えてメモする段階になるまで、まったく知らなかった。ちょっと「深堀り」すれば、あれこれと知らないことが登場する。実際散歩の後のメモは少々時間が取られはするのだけれど、散歩の原則「歩く・見る・書く」を改めて思い起こす。
常住
石鎚のお山は、本邦初の説話集である日本霊異記に「石鎚山の名は石槌の神が座すによる」とあるように、山そのものが神として信仰される山岳信仰の霊地であった。山岳信仰伝説の祖・役行者が開山との伝説もある。その霊山に役行者の5代の弟子・芳元(讃岐の生まれ)が大峰山で修行の後、石鎚山に熊野権現を勧請し、石槌の神は石鎚蔵王権現として信仰されることになる。奈良時代のことという。
その芳元と同じ頃、『日本霊異記』では「寂仙」、『文徳実録』では「上仙」、また前神寺や横峰寺の縁起には常仙とも石仙とも称される高僧が山に籠もって修行に努め登拝路を開き、前神寺(横峰寺も)開いたと云う。この場合の前神寺とは「常住」の地に開いたお寺ではあろう。
現在石鎚神社本社・口之宮は、もとは里前神寺のあった場所であるが、これは江戸の頃建立されたもの。前神寺は石鎚山の別当寺であり、また四国霊場の札所でもある。その前神寺が石鎚山腹にあるのは、参拝に少々不便なため、庶民の参詣が盛んとなった江戸時代に新居郡西田村(現西条市)の山麓に新たに前神寺を建立したわけである。
神仏分離令により一時廃寺となった前神寺であるが、明治11年(1889)現在の地に前記寺、後に前神寺として旧名に復し石土蔵王権現信仰を継承した。
石鎚神社常住社(現成就社)となった常住・旧奥前神寺も、前神寺が復したため再建されることになる。一時河口と成就を結ぶ登山道脇に再建されたようだが、ロープウェイ開通によって登拝の流れが変わったため、昭和45年(1970)前神寺奥の院として現在地に移したとのことである。
常住から成就
『石鎚 旧跡三十六王子社』には「古伝に石鎚山開祖、役の行者が、今宮の八郎兵衛を道案内として、此所に登山し久しく参籠し池を掘り(宮川旅館裏にあり)毎日この池で禊(みそぎ)をして心身を清め、石鎚大神の神霊を拝さんと祈願したが其の霊験なく、力つきて下山しようとした時白髪の老人が現はれ斧を砥石で磨いているので、その故を問うと老人答えて曰く「之は砥いで針にするのだ」この言葉に感じ挫折してはならない、成せばなると心に言い聞かせ再び行を続け石鎚大神の霊験を得て、石鎚山を開山し此所に帰り、(遥かにお山を見返し、吾願い成就せり)と、仰ぎ拝したと云う。故を以って以来成就社と名づけられ、見返り遥拝殿の由緒でもある」とある。
ここには「常住」の文字はない。が、上のお話は少々「出来過ぎ」のように思える。「常住」>「成就」、「音」が似通っていることからの後世の創作であろうか。
十亀宮司の像
境内にメガネをかけた銅像が立つ。江戸の末期には既に踏まれることもなくなった石鎚三十六王子社に再び光をあてた人物、石鎚神社宮司・十亀和作氏の像である。「石鎚信仰は里宮本社、中宮成就社と石鎚山奥宮頂上社からなる。その道中石鎚霊山にちなむ三十六王子社が祀られるが、現在は唯掛け声として唱えられている伝語であるが、両部神道(「仏教の真言宗(密教)の立場からなされた神道解釈に基づく神仏習合思想(Wikipedia)」)の名残をとどめ、将来も石鎚信仰から消え去ることはない。
しかしそれだけではなんの意味もなく、これを究明するのが責務。各方面からの要望もあり、往古役行者より代々の修験者の、足跡を足で歩いて直に踏み訪ねる(『石鎚信仰の歩み』)」と昭和38年(1963)に企画し、社蔵の古文書や、古老の口碑、各王子社に建つ昭和六年十一月と記した石標(大十代武智通定宮司の時代)を元に現地踏査し、「何百年かの間、時代の変遷とともに登山道が逐次変更され、一部の王子を除いて殆ど日の目を見ない辺鄙と化していたため、探し当てるのは容易でなかった」王子社を46年(1971)に調査し、昭和47年(1972)に『石鎚山旧跡三十六王子社』として発行された。今回歩く石鎚三十六王子社はこの調査の結果比定された王子社である。

アプローチ地点を探す

八大龍王社
さて、黒川道へのアプローチ地点を探す。弟が昔黒川道を上ってきたときは、展望台のあるスキー場第一リフト辺りに這い上がってきたようであり、沢筋を辿ったわけではないようで、第二十稚児宮鈴之巫王子社の横にあった八大龍王の御池の水が黒川の源流と云う事でもあり、八大龍王の祠周辺になにか痕跡はないものかとチェックに動く。
地形図で見る限り、八大龍王の裏手、スキー場第一リフト(普段はロープウエイから成就社に向かう観光リフト)から成就社に続く遊歩道の途中から、如何にも沢筋らしき切れ込みが丁度黒川を示す「実線」辺りまで続いている。遊歩道のどこからか下れる箇所を探したようだが、見つからなかった、と。
八大龍王社
神社の案内に拠ればその由緒には、「石鎚山中では〔水〕は大変貴重であり、ここ成就社では、往古より八大龍王神が水を司る神として奉斎されてきた。開山の祖、役行者の勧進とも伝えられる。


ご祭神故か女性参拝者も多く、厳しい天候の中も祈願を行う方が絶えない。脱皮から再生復活、水遠の命や若返りのご神徳、七生報国の由来ともされる。 古来の八大龍王社殿横には御神水の湧き出る泉がある。砲台地形の成就社境内での不思議の一つと数えられる。この泉は役行者が襖(みそぎ)をした、とも伝えられ、黒川谷の源流でもある。
昭和55年の成就社大火にて八大龍王社は焼失したが翌年再建立され、平成21年春には再び建立された。八大龍王社のおかげ話を始め、成就社大火後の御遷座時にまつわる不思議な出来事などは、現在でも当時の方かち直接伺い知ることが出来る。霊峰石鎚山 総本宮 石鎚神社」とあった。

本殿廻りの遊歩道から展望台に;12時37分
八大龍王社から本殿をグルリと一周する遊歩道もあるようだが、我々はその遊歩道の逆回り、本殿北端を崖下に注意しながら進む。ほとんど本殿裏といった場所を進み、スキー場第一リフト方面からの道が遊歩道に当たるところに小さな鳥居が建つ。



展望台に:11時52分(標高1414m)
遊歩道の鳥居に向かってスキー場リフト方面から家族連れが道を上ってくる。右手の崖から下りる道は無いかとチェックしながら進むが、そのような箇所は見当たらない。結局スキー場第一リフトまで進み、リフト職員に黒川道のアプローチを尋ねるが、崩壊地が多く通行止めとのこと。
弟にしてみれば、スキー場第一リフトに沿って斜面を下れば黒川道に出ることはわかっているのだが、通行止めと伝えられた職員の眼の前を、リフトに沿って下るわけにもいかず、昼食も兼ねて展望台で大休止することにして、別のアプローチ地点を探すことにしたようだ。
展望台から瓶ヶ森の美しい稜線を眺めながら、同行したご夫妻の奥様による手料理をごちそうになる。単独行の場合は、粒あんのアンパンか柿の種がメーンディッシュのわが身には、卵焼きなど誠に美味しい昼食となった。

展望台出発;12時26分
お昼を済ませ展望台を出発。黒川道への手掛かりは依然不明ではあるが、弟は成就社からロープウエイ乗り場までの遊歩道から下る道を探す方針だったようである。






黒川道を下る


黒川道アプローチ地点;12時50分(標高1,393m)
12時44分、成就社境内を離れ遊歩道を下る。5分程度お気楽に道を下っていると、突然弟が何か「ノイズ」を感じたらしく、道の左手の笹の中に入る。
しばし様子眺めの状態のあと、笹から姿を現し、「どうもこのルートらしい」と。僅かに踏み込まれた笹の中に、ルートを示す「誘導ロープ」を見つけたようだ。お見事。
アプローチが見つからなければロープウエイで下山という話もあり、膝に故障を抱えるわが身は、本心では「目出度さも中位なり」といった心持ではあったが、黒川道を下ることにする。

笹からガレ沢に;12時54分(標高1,355m)
下り口は一面の笹。笹の中の踏み跡を、時に誘導ロープに従い高度を50mほど下げると笹が切れ、ガレた沢に出る。水は何もないが、これが黒川の上流端辺りではあろう。





成就社への道標:13時7分(標高1,280m)
足元の危うい沢筋を10分程度下ると「成就社 愛媛の森林基金」が沢筋に立つ。標識の方向は下って来たルートを示している。後日衛星写真で確認すると、成就社の北、遊歩道とスキー場に囲まれた谷の自然林の中を下っていたように見える。



第一リフト交差;13時9分(標高1,278m)
道標から数分、ガレた沢を下ると前方にリフトが見えてきた。先に進むと道は リフトの下、防御カバーの下を潜る。リフトは先ほど休憩した展望台近くに続く第一リフトのようである。右手から下り左手で展望台方面に向かって上ってゆく。リフトのお客さんと軽口のキャッチボールを楽しみながら、数分の間は沢を離れルートを進む。

支尾根の間の沢に水管(標高1,165m)
リフト付近で落ち着いた道は黒川に近づき、少しの間沢に沿って進むが、次第に沢筋から離れ支尾根筋に向かう。リフト交差部から15分ほど歩き支尾根の間の小さな沢筋にかかると、沢を跨ぐ水管が現れる、水管は何処に向かうのだろう。




右手に黒川が滝のように下る;13時29分(標高1,125m)
支尾根の間に入り、黒川の沢筋から結構離れたため自然林に阻まれ姿を消していた黒川であるが、支尾根が合わさり、沢筋が消えたあたりで右手に現れる。まるで滝のように下っていた。
あまりに急勾配で下るため、当日は黒川とは思っていなかったのだが、メモの段階で地形図を見ると、黒川筋の等高線が狭まっていた。
道を左手から下り黒川に合わさる辺りに下りる途中に水槽らしきものがあった。先ほどの水管は一旦ここに貯められ、ここから更に下に向かって下っていた。

石組の道;13時35分(標高1,064m)
右手に近づく黒川の急勾配の沢を見遣りながら進むと、左手から沢筋が黒川道と交差する。水は少なく濡れた岩盤状で道に合わさるが、水が多ければ滝といった風情である。その先の捻じれた鉄板で沢を渡る。





右手が谷に切れ落ちた箇所を虎ロープで安全を確保しながら進むと、右手に滝が見えてくる。その滝を見遣りながら進むと石組みのしっかりした道が現れる。その石組みも一瞬で終える。






正面に滝が落ちる;13時39分(標高1,054m)
石組みの道から沢筋に下りる。眼前に滝が落ちる。これも当日は黒川に注ぐ支流の滝かと思っていたのだが、どうも崖を落ちる黒川そのもののようである。水量が多ければ、結構迫力のある滝であろう。







蔵王権現の石仏;13時55分(標高958m)
沢筋に下りてしばらくは、左岸のゆるやかな傾斜の道を進む。ただ、ガレ場、ザレ場が続き虎ロープが張られた足元の危うい道ではある。
(補足;地図の川のラインはトラックログの左にあり、右岸を進んだようになっている。左岸を下っているのは間違いない。弟のログも同じく右岸を進んでいる。2012年の黒川谷を上った時のログも右岸である。谷筋の電波状態と一言で片づけていいのだろうか。この規則的なエラーの原因が何か調べてみたいものである)

滝を正面に見た沢筋から15分ほど歩くと大きな岩壁があり、その前に石像が立つ。かつての行場跡のようだ。石像は蔵王権現の石像だろう。右足を上げたそのお姿は、石鎚の神と伊曽乃神(女神)とのエピソードを思い起こすと、結構微笑ましい。
石鎚大神と伊曽乃神(女神)
第十七女人返王子社のところでメモしたが、太古、石鎚大神がお山山頂に上る時、伊曽乃神(女神)が、いつまでも後を慕ってくる。霊山にて修行する石鎚大神は少々困惑し、再び会う日(12月9日)を約束し、修行のお山に登って投げる石の落ちた所で待ってほしいとお願いする。
が結局石鎚大神は、その約束を守らなかった。右足を上げた石鎚大権現(蔵王)の像もあるというが、それは約束を破られ怒った伊曽乃神が現れたとき、天に逃げあがろうとする姿といったお話もあるようだ。少々「出来過ぎ」の感はあるが、それであれば、それなりに「坐り」は、いい。

王子道の尾根筋が見える;13時58分(標高958m)
行者場を越える辺りから右手が開け、往路で王子社を辿った尾根筋が見える。位置から見て第十五矢倉王子社から第十六山伏王子社当たりの尾根稜線ではないだろうか。






崩壊地;14時10分(標高900m)
道は未だ落ち着かない。行者堂跡から先で道は沢筋から離れて行く。右手の谷が切れ落ちており、虎ロープのオンパレードである。進んだ後で振り返ると、崖がすっぱりと切れ落ちていた。崩壊地の上を迂回して進んだようだ。





成就社2.5㎞の標識;14時18分(標高894m)
崩壊地の先もザレ道、ガレ道にトラロープが張られる。トラバース気味に進んだ道が、等高線に沿って垂直に下る箇所の岩場に「成就社2.5㎞の標識」が 立つ。黒川道を1時間半ほど下ったが、まだ2.5㎞しか進んでいない。それより、崩壊地からこの木標まで地図ではほとんど距離がないのに、18分もかかっている。ガレ・ザレ場に難儀して距離が稼げていないようだ。

沢を渡る;14時41分(標高773m)
急な斜面を虎ロープを頼りに高度を60mほど下げた後、支尾根を巻くように進み、支尾根を廻り切った辺りで沢を渡る。地形図を見ると支尾根左側に切れ込んだ等高線が見える。そこからの沢水だろう。




成就社まで2,750m標識;14時45分(標高958m)
そのすぐ先に「成就社まで2,750m標識」が倒れていた。標識の前後は少し緩やかな道。黒川から比高差90mほどの処であり、黒川道の中では黒川から最も離れた箇所を進むことになる。





杉林が見えてくる;14時55分(標高673m)
緩やかな下りも、ほどなく等高線に垂直に70mほど自然林の中を下り、小さな沢を越えた先で杉林が見えてくる。植林地が見えると、里に近づいた気持ちになる。
道も踏まれたものになるかと思ったのだが、ガレ、ザレ、更に虎ロープの張られている箇所(15時4分)を越えた後、道は次第に落ち着き、15時17分頃には結構踏み込まれた道となる。

上黒川集落;15時25分(標高454m)
杉林の中を進む。道も結構踏み込まれて安定した頃、道脇に石垣が現れる。そのすぐ先、道の右手、左手に廃屋が残る。上黒川の集落跡だろうか。






今は数軒の廃屋と石垣、コンクリートの水槽などが残るだけではあるが、大正初期には黒川道を辿る登拝者のための季節宿が11軒もあったとのことである。






石灯籠とお地蔵様;15時34分(標高432m)
廃屋の地から5分ほど下ると道脇に石鎚山と刻まれた石灯籠が立ち、その傍にお地蔵様と小祠が祀られる。







「成就社 5.0km標識」;15時39分(標高400m)
踏み込まれた道を5分ほど進むと「成就社 5.0km」と書かれた木標と「成就社」の方向示す木標。3時間半ほどで5キロ下ってきた。残りはほぼ1キロか。






下黒川集落;15時42分(標高378m)
平坦な道を更に進むとほどなく、立派な石垣が現れる。その先には倒壊した廃屋が残る。下黒川集落跡ではないだろうか。この地にも大正初期には登拝者の季節宿が11軒あったとのこと。
「えひめの記憶」に拠ると、昭和33年(1958)の調査時点では黒川村(上黒川と下黒川集落からなるのだろう)に24世帯もあったとのこと。
この時点では季節宿は黒川村で7軒と大正初期から比べると減少しているが、その因は、登拝者の多くは成就社の宮川旅館や白石旅館や常住屋に泊まるようになっていた、とのこと。
半井梧菴の著「愛媛面影」に文久2年(1862)の登拝記が記されるが、そこには「(前略)板摺(虎杖)瀬と名づく。橋を渡って登ること十五町ばかりで下黒川村につく。今日は常住まで行きたいと思ったがそこは客を泊めることを許さない掟なるよし、さればとて此所に宿る」とあり、かつては成就社では一般客は宿泊できなかったようである。

下山;15時58分(標高237m)
下黒川集落の先もしばらく平坦な道を進み、虎杖(いたずり)に向けて突き出た支尾根を廻りこみ、そこからは等高線を斜め、平行、斜めとゆっくり虎杖に下りてゆく。右手に川が見えてみた。
当日は黒川かと思っていたのだが、河口に下る加茂川であった。舗装された県道142号道路に下りた時間は15時58分となっていた。4時間もの長丁場。踏まれた道は1時間弱、3時間ほどはザレ場、ガレ場を下る少々荒れた道であった。下山口には「成就社まで6km」の案内とともに、「通行止め」の標識が立っていた。

虎杖(いたずり)
下山口の虎杖集落の加茂川には虎杖橋が架かる。虎杖を「いたずり」と呼ぶのはなぜだろう?チェックすると、虎杖は「イタドリ」の中国での表記のよう。「イタズリ」は「イタドリ」の転化ではあろうが、それは我々が子供のときによく食べが「タシッポ」のことである。
野に生えるありふれた「イタドリ」が「虎杖」とは大層な、と思うのだけど、それは平安時代の清少納言も感じたらしく、「格別のことはないのに文字で表すと大袈裟になるものがあるとして、覆盆子(イチゴ)、鴨頭草(ツユクサ)、山もも(楊梅)などを挙げた後で、「イタドリ」は特に異様で「虎の杖」と書くようだが、虎は杖などなくても平気な顔をしているのに」と「虎杖」を挙げている。
「イタドリ」が虎杖と表記されたのは「茎が杖になり茎に虎の斑点があるから」といったその形状から、中国の人が斯く表記したとの説もあるが、日本で虎杖と同じ植物と比定され「イタドリ」とされたその由来は。この植物の根が虎杖根などと呼ばれ漢方で痛み止め、「痛取り(いたどり)」として重宝された故といった説もあるようだ。
イタドリとタシッポ
それはそれでいいのだが、我々が呼ぶ「タシッポ」と「イタドリ」の関係は? チェックすると、「イタドリ」の古名は「タヂイ(タヂヒ)」と呼ばれたことが日本書紀や古事記に記載されているとのこと。「多遅花は今の虎杖花(いたどりのはな)なり」と記される。蝮は「たぢひ」と呼ばれたようであり、中国と異なり虎のいない日本では、その斑点を蝮(まむし)と見たのだろか。
イタドリのことを近畿ではタジナ・タジンボ・ダンジなどと呼ばれるようだが、我々が子供の頃、酸っぱい茎を食べていた「タシッポ」も「タジヒ」の音韻転化の一つではあろう。

烏帽子岩;16時4分
下山口から虎杖橋の逆方向、河口方面に向かう加茂川対岸に巨大な岩が川床に屹立する。「天狗の屏風岩」とも「烏帽子岩」とも呼ばれるようだ。「烏帽子石あり其大さ立五間巾六間」ということで、おおよそ縦9m横幅11mといったもの。岩の後ろの山稜を借景に、誠に美しい眺めである。

横峰寺別院;16時12分(標高204m)
下山箇所から県道142号を10分弱歩き、黒川に架かる黒川橋を渡る(16時11分)と河口の集落に入る。道の右側に鳥居の建つ建物がある。同行の皆さんは何度も訪れているのだろう、そのまま通り過ぎたのだが、気になりメモの段階でチェックするとそこは横峰寺別院であった。鳥居が建つのは神仏混淆の名残ではあろう。
平成16年(2004)の台風で四国霊場60番札所横峯寺への道が寸断され参拝が困難となったとき、本院への登山林道が開かれる5ケ月は黒瀬峠の京屋旅館付近に仮札所・納教所を設けたが、後にこの別院に仮札所を移し、お遍路さんに便宜を図ったようである。
もっとも弟の記事に拠れば、平成24年(2012)の段階でも、虎杖からモエ坂を経て横峰寺に登る登拝古道は結構荒れたままのようである。

河口の車デポ地;16時12分
河口の種楽を抜け、今宮道取り付口の車デポ地に戻る。下り4時間半ほどの長丁場となっていた。
これで第一福王子社から第二十稚児宮鈴巫王子社までを歩いた。次回は西之川谷筋の第二十一番札所から第三十四夜明峠王子社まで。標高450mから1600mの比高差1200mほどの登りとともに、入り込んだ複雑な順路の「謎」が実際に歩けば少しは実感できるか否か、結構楽しみではある。積雪次第だが、できれば今年中に歩ければとは思う。
石鎚三十六王子社散歩の2回目は、往路は車を河口集落にデポし第七王子社から第二十王子社のある石鎚神社中宮・成就社まで比高差1200mほどを歩こうと思った。復路はロープウエイで下山し、バスまたは徒歩で車デポ地まで戻る予定であった。
弟の石鎚三十六王子社巡りの記事を参考に各王子社を訪ねるにしても、山中の王子社がうまく見つかるか、少々心もとなかったのだが、幸運なことに弟も一緒に行けるという。しかも、弟の山仲間3名(ご夫妻とご婦人)も同行するとのことである。
同行の皆さんは河口から成就社への参詣道である今宮道を歩いてはいるのだが、王子社登拝道は初めてであり、そのルートへの興味もさることながら、弟のサービス精神故か、下山は今宮道と同じく河口から成就社への参詣道である黒川道を下るというルーティングに惹かれたようである。
登りはともあれ、膝の故障を抱えるわが身には比高差1,200mほどの下りは少々厳しくはあるが、王子社の登拝道を登り、返す刀で参詣道を下る、ってイメージもなかなか、いい、ということで、皆さんと行動を共にすることにした。br>


本日のルート:河口(こうぐち)へ>今宮道参道:6時50分>三光坊不動堂跡:7時15分>第七四手坂黒川王子;7時16分>第八黒川王子社;7時17分>藁葺のお堂・今宮道から離れる;7時28分>第九四手坂王子社;7時33分>尾根筋に;7時40分>第十二之王子社;7時52分>第十一小豆禅定王子社;8時12分>第十二今王子社;8時24分>第十三雨乞王子社;8時59分>今宮道に出る;9時9分>第十四花取王子社;9時32分>水場:9時39分>第十五矢倉王子社;9時49分>第十六山伏王子社;10時22分>第十七女人返王子社;10時28分>スキー場に出る;10時40分>奥前神寺;10時50分>西之川道分岐;10時58分>第十八杖立王子社;11時1分>第十九鳥居坂王子社;11時9分>第二十稚児宮鈴之巫子王子社;11時16分

河口(こうぐち)へ
第七王子社から第十三王子社まで
本日は往復で9時間ほどの長丁場になりそう、ということで新居浜市内で午前6時集合。弟の山仲間の車に同乗し、5名で本日のスタート地点である河口に。河口は文字通り、西之川や虎杖・黒川の谷筋から下る加茂川の合わさるとことである。
石鎚のお山への登拝道はいくつもあったが、最後の上りは、この河口からの今宮道、今宮道に一部重なる三十六王子社登拝道、また、河口から少し西の虎杖からの黒川道を辿り、いずれのルートもお山中腹の「常住」、現在の石鎚神社中宮・成就社に向かうことになる。今宮道は西条藩領であり前神寺・極楽寺の信徒が、黒川道は小松藩領であり横峰寺信徒が利用したようである。

今は静かな河口集落であるが、かつては宿も3軒あったようで、登拝者で賑わっていたのだろう。大正末に開削が始まった県道も大正?年(1926)には、この河口まで伸びた。バスも昭和6年(1931)には河口までの運行をはじめたという(大正?年とか昭和4年との記事もあり、はっきりしない)。
バスの運行とはいうものの、昭和4年(1929)小松から河口まで走ったバスは6人乗りという。それもあってか、戦前は歩きが主流であったようだが、戦後昭和28年(1953)西条から西之川への定期便が開始されるようになると、昭和30年頃には歩く人はほとんどいなくなった(「えひめの記憶」)とのことである。 歩きがバス利用に替わっても、成就社への登拝道の取り付口が河口であることに変わりはなかったが、それが変わったのは昭和43年(1968)西之川の下谷から成就社間に開始された石鎚登山ロープウエイの運行。成就社の少し下、標高1300mまで7分32秒で行けることになった。こうなれば、よほど信仰深き人でなければ、河口から登拝道を4時間ほどかけて成就社まで登ることもなく、河口はお山への登拝道の取り付口としてのその役割を終えた。

今宮道参道:6時50分(標高199m)
河口からの石鎚三十六王子社の登拝道は、今宮道からはじめ、途中で三十六王子社道は尾根筋の険路に分かれ、標高950m辺りで再び今宮道に合流し成就社に向かう。
今宮道の取り付口は三碧橋を西之川方面にちょっと入ったところにある。県道に沿って斜めに登る参道には鳥居が建つ。県道の広いスペースに車をデポし散歩を開始する。
今宮道
今宮道がいつの頃開かれたのかはっきりとした資料は見つけられなかった。ただ、庶民がお山に登るようになったのは江戸の頃であろうから、その頃整備されていったのではないだろうか。
で、この今宮道は西条藩の領地であり、登拝者も前神寺、極楽寺の信者が登っていった道と言う。現在は住む人もなく廃墟となっているが、山中の今宮集落には昭和33年(1958)には32世帯が住み、そのうち12軒が宿を供していた(「えひめの記憶」)とのことである。集落の最盛期は大正の中頃とも言われるが、それでも石鎚ローウエイが開設される昭和43年(1968)までは宿の機能を果たしていたのだろう。
黒川道
今宮道と対をなす、もうひとつの登拝道である黒川道は小松藩領。横峰寺の信者が上って行った道と言う。昭和37年(1962)で24世帯、うち七軒が宿を供していたとのこと(「えひめの記憶」)。

丸八地蔵
鳥居のある参道に入ると道脇にお地蔵様。弟のHPに拠ると、今宮集落の守り神とある。今宮集落での最後の旅館が「丸八旅館」。その祖である長曽我部氏の家臣伊藤八兵衛が今宮の集落を開いた、とあった。

三光坊不動堂跡:7時15分(標高367m)
県道に沿って登る今宮道を進み、ほどなく右に大きく振れた道を進んだ後、尾根筋を少し外し気味に、高度を150mほど上げた辺りで再び道は右に大きく振れる。その道が再び尾根筋を巻き気味に左に曲がる辺りに倒壊した建物が見える。三光坊不動堂跡である。
三光坊は元讃岐のお武家さん。石鎚大神の信心故か、地元の人に尽くし、その後石鎚のお山に籠って修行三昧。修行の成果にと天狗嶽からダイブ。が、フライングハイとはならず、落下死とはなるが、不思議なことに外傷はなかった、とか。地元民はこれを嘆き、修行の地にお堂を建てて祀った、と。

第七四手坂黒川王子;7時16分(標高367m)
崩れたお堂の裏手は平坦な地となっており、王子社の幟(のぼり)が見える。第七四手坂黒川王子である。積まれた石板の上に石殿が置かれ、その後ろに赤い前掛けの王子石柱が立つ。

第八黒川王子社;7時17分(標高367m)
第七王子社の直ぐ裏手、崖手前に第八黒川王子社。積まれた石板の上に石殿が置かれ、その後ろに王子石柱が立つ。赤い前掛けはないが、第七王子社と同じ並びの王子社である。場所からみて、覗きの行場のようである。

それにしても、同じ場所に二つの王子社が並ぶ?『石鎚 旧跡三十六王子社』には第七王子社が第七四手坂黒川王とも黒川王子社(覗き行場)とも、第八王子社が第八黒川王子社とも今宮王子社とも記され、少々混乱している。
王子社の解説にも、ふたつまとめ「(前略)河口より今宮道を登ること八百米、曲がり角に椎の大木がある道の傍に木造の小さい祠が四手坂王子である。大きい祠が三光坊不動堂と云い、香川県坂出の行者三光坊(常盤下勝次郎)の霊を祀ってある。
その裏を少し行くと峙(そばだ)った岩があり、真向かいに黒川宿所を手に取る様に眺め、眼下に断崖幾十丈もあろうか雑木が生い茂り、黒川谷の水音が爽やかに聞こえる。この王子も覗の行場である。この二つの王子を昔から黒川今宮両社の王子と云い伝えられているが、更に次の第九番目を又四手坂王子と唱えている処に、今後尚研究の余地がある」とあった。
更に言えば同書には「今宮四手坂にあり、子安場王子実は第七四手坂王子、第八黒川王子と云い、細道を下るとすぐ県道河口線に出る。。。」ともあり、なにがなにやらさっぱりわからず、といった解説となっている。はてさて。

藁葺のお堂・今宮道から離れる;7時28分(標高397m)
7時20分過ぎ、王子社から今宮道に戻り、尾根から少し外れた道を歩き高度を50mほど上げたところの石垣に黄色と赤の王子社道標がある。道標の先には倒壊した建物と、その奥に藁葺のお堂が見える。この辺りから王子社の登拝道は今宮道から離れ尾根筋に向かうことになる。

『石鎚 旧跡三十六王子社』には「今宮字四手坂にある黒川今宮両社の王子社から登山道を登る事約二百米に四手坂行場がある。お山開き大祭の頃はこの休場で一休して登る。お山名物のトコロテンやアメユ等を売る掛茶屋である。一軒残った家も今は空家になっている。
この家は代々多郎左衛門を襲名する旧家で、当主も藤原多郎左衛門氏で現在は西条市に転居している。この家のすぐ上に地蔵堂があり、旧盆には今宮の部落民が盆踊りを夜を徹して踊ったものだが、今はほとんど絶えてしまったようである。
昔はこの地蔵堂が百米ほど上の森の中にあって権現堂と云い女人禁制であった。明治維新まで(神仏分離以前)は別当前神寺の上人が石鎚大権現門開祭を毎年三月三日この所に来て執行し、この祭りの常宿は藤原多郎左衛門宅であった。前神寺の上人が此の所に来るにも又お山に登るにも迎え送りは多郎左衛門が刀持ちとしていつも奉仕したと伝えられている」とある。
石垣の辺りには藤原多郎左衛門氏の屋敷があったのだろうか。また、倒壊した建物は掛茶屋?藁葺のお堂は地蔵堂跡であろう。

第九四手坂王子社;7時33分(標高420m)
お堂脇を等高線に平行に少し進んだ後、尾根に向かって10mほど上ったところに、まことにひっそりと王子社が佇む。石仏はなく、石殿と石柱、それと石殿左前に鉄の蝋燭立てのようなものが見える。
『石鎚 旧跡三十六王子社』には、「地蔵堂(私注;前述地蔵堂の百メートルほどの森の中の権現堂のこと?)の屋敷跡に、高さ一尺位の円筒様の鉄の祠が祀ってある。四手坂王子第九(私注:「第九四手坂王子」の誤植?)であると云われるが、一説では移転した地蔵堂ではないかともいわれている」とある。
鉄の蝋燭立てらしきものが、説明にある鉄の祠であろうか。また、当日は見逃したが、弟の記事には王子社を廻り込んだ右手上に、石灯籠など、神社跡らしき場所があったようだ。

尾根筋に;7時40分(標高436m)
第九四手坂王子社から20mほど高度を上げると尾根筋に出る。道は急登ではあるが「四手:四つん這い」になるほどのことはなかった。細尾根を進み高度を100mほど上げると王子社の幟が見えてきた。





第十二之王子社;7時52分(標高544m)
きちんと積まれた石板の上に王子社石殿、その後ろに石柱、石板の前には誠に小さな鉄の鳥居と、先ほど見た鉄の祠が置かれる。またお札を入れる真新しいステンレスの箱も置かれている。
『石鎚 旧跡三十六王子社』には「今宮字四手坂王子から約三百米ほど上に楢、椎樫の大木が繁茂し、眼下に黒川宿所を又目を転じると河口三碧峡あたりを眺め、実に風景絶佳日の暮れるのを知らぬほどである。
小さい鉄の鳥居と鉄の桐が祀ってある。昔は河口より今宮へ峰伝ひに登山道があり至って急坂でこの附近一帯を四手坂と名付けられた訳は、急坂を両手両足で四つんばいになって登ったことから、四手坂と呼ぶ様になったものと考えられる。今は四手坂の休場から斜めに今宮へ道が改修されているので二の王子へは細道はあるけれど人通りもなく、置き去りとなり今宮の人でさえ知らぬ人が多い様である」とある。
右手の黒川谷側は崖。木々が茂りそれほど見通しはよくない。また、説明にある「目を転じると河口三碧峡あたりを眺め、実に風景絶佳日の暮れるのを知らぬほどである」は、植林のためか、まったく見晴らしはきかなかった。

第十一小豆禅定王子社;8時12分(標高656m)
左手に植林、右手崖に自然林の間の岩場の多い尾根筋を20分ほど歩き、高度を120mほど上げると王子社の幟が見える。途中鎖場もあった。
尾根筋からの黒川谷の眺めは木々の間から、というものであったが、この王子社辺りは右手が開け、いい眺めが楽しめる。
王子社石殿は尾根筋下に向かって立つ。また、王子社石柱は、いままでの石柱のように柱に像が刻まれたものではなく、頭部が像の形に彫られていた。

『石鎚 旧跡三十六王子社』には「今宮にある、二之王子から矢張り、峰伝いに約二百米位登ると、老松の大木が枝を張りその周囲に小松や雑木が密生し、一つの森を形成しているが祠のようなものは一物も見当たらない。神厳な森そのものが小豆(おまめ)禅定王子である。
ものもらい(目いぼ)が出来ると、この王子へ来て小豆を供へ石鎚大神に願をかけ、その小豆一粒を目いぼにあてて落とし「小豆かと思ったら目いぼが落ちた」と唱えて後を見ず帰ると必ず目いぼが治ると伝へられている」とある。

「祠のようなものは一物も見当たらない」この地を王子社としてどのようにして比定?同じく『石鎚 旧跡三十六王子社』の真鍋充親氏の紀行文には「(前略)磐場がある。ここに第十一小豆禅定王子社のあととみられる岩場に絶好の社あとをみつけて一行はここだと声をあげる。そして祭りをはじめる。だれいうとなしにこの王子社のあとを確定し、はっきりしたまつり場所を設けておこうということになり、各人二ヶ三ヶと石を運んでくる。そして小さな岩場ができあがった」と記されている。斯くして王子社を比定したということだろう。

第十二今王子社;8時24分(標高705m)
この王子社は主尾根筋から離れた支尾根にあった。第十一王子社を離れると大岩が現れ、道標に従い岩を左に迂回し、そのまま支尾根に向かって少々荒れた植林の中を横懸けに50mほど登る。第十二今王子社は支尾根乗越しの平場にあった。石組の上に王子社石殿とその後ろに石柱。ステンレスのお札奉納箱の組み合わせの王子社であった。
『石鎚 旧跡三十五六王子社』には「今宮にある、小豆禅定王子から四百米ほど登ると、楢、しでの大木が2畝位に茂っている。今宮部落の西方の屋根を廻り五百米位の所である。この王子も祠も何もないが、展望台のようである。今は薪取りや山の手入れをする人の外は人足も少なく、狸が住んでいると云う。土地の人は(いまおやじ)と呼んでいる」とある。

ここも如何にして王子社と比定したのか?第十一王子社と同じく『石鎚 旧跡三十五六王子社』の真鍋充親氏の紀行文には「今王子社と書かれた石標を見つけた」とあった。祠はなけれど石柱があった。ということだろうか。 それはともあれ、続いて「大きな自然林が四囲をはばんでいたが、この高い嶺は凡くもっと往古もっといろんな祭祀、祈祷の行場として登場したのではなかったかと思われた。(中略)相当にひろい敷地はいろんな修験行事をおこなうに適当だったと考えられる」と、行場の可能性を記していた。

第十三雨乞王子社;8時59分(標高834m)
第十二王子社は再び主尾根筋に戻る。支尾根から少々荒れた植林地帯の中、岩や倒木の間を縫って稜線を巻き気味に100mほど高度を上げると、一転穏やかな尾根筋の平場の道となる。





第十二王子社から30分程度で第十三雨乞王子社に。王子社石殿、石柱、ステンレスのお札奉納箱の王子社であった。『石鎚 旧跡三十六王子社』には「今宮にある。今王子から尾根を登る事五百米、坂はけわしく、たどれば細い道はあるが雑木雑草が生い茂り通れない。
一旦今宮部落に出て登山道乳杉の林を抜けて曲がり角の附近から山道を登り尾根に至ると、廻り丈令の栂の大木数本あり、境内もよろしく見晴らしも良い。元金比羅社を祀ってあったが明治四十二年神社合併の時、今宮の氏神三倍神社へ合祀され、今はお社の跡のみ残っている。この王子は昔旱天の時土地の人々が集まり、石鎚大神に雨乞いすると雨が降ったと云う。今宮部落の人はこの雨乞王子を雨降(あまもり)と云っている」とあった。
同書では一旦今宮部落に下りた後、この王子社に向かっているが、王子道標は直接尾根筋に向かっていたため、我々は直接尾根筋に向かった。金毘羅さんを祀っていたとのことだが、特段それらしき痕跡を見ることはなかった。

今宮道に出る;9時9分(標高867m)
第十三雨乞王子社からしばらく標高840mに沿った平坦な植林の道を進む。その後30mほど等高線に垂直に上り、標高870m沿って進むと今宮道に出る。今まで辿った王子社道とは異なり、よく踏まれてあり、快適な登山道となっていた。



第十四花取王子社;9時32分(標高981m)
踏み込まれ掘れ込んだ今宮道は尾根筋を巻くように緩やかに登る。「河口(今宮登山道) 成就」などと書かれた道標を見遣りながら20分強進み、笹が現れる左手に王子社が見えてくる。第十四花取王子社である。




王子社石殿とお顔が彫られた石柱とお札奉納箱。石柱の少々いかついお顔が印象的。王子社の後ろは細尾根が下っている。『石鎚 旧跡三十六王子社』には、「今宮登山道にある。雨乞王子から再び乳杉上の参道に出て、登ること約八百米、ちょっとした尾根の曲がり角がり、そこ5花取場王子である。森らしいものも石像もない。仏者が管理していた頃、石鎚山の祭典に捧げる華(しきび)取った所と伝へられている。今に香華の木がある。十年ほど前に或る行者が占いたるところ、この王子の付近に往時、仏者がお山参りには不要といって小判を埋めてあると云うので、人夫十数人を雇い掘ったが何一物も見つからなかった。察するに高山では香華が育たないのでお金の様に、貴重なものと云う意味ではなかろうか」とある。
また同書の真鍋充親氏の紀行文には、「石標はあるが祭祀の場は見つからない」に続いて、「一行は石標のある一帯を探る。(中略)「かくされた黄金」を求めて、大規模な発掘をしたという崖を求めて歩きまはる。埋蔵金のありかなど勿論みつからなかった」と記されていた。

水場:9時39分(標高1,022m)
道を進むと大きな木の下、岩の間から水が浸みだす。『石鎚 旧跡三十六王子社』には「花取王子社から登る途中に岩の間から清水が流れている。今宮登山道では唯一の水飲場である」とある箇所ではあろうが、水量は少々乏しかった。



第十五矢倉王子社;9時49分(標高1,065m)
第十四王子社から尾根筋を巻き気味に高度を100mほど上げる。木々の間から瓶ヶ森方面だろう山々が顔を出す。少し先に進むと崩壊した建物があり、その先に王子社がある。第十五矢倉王子社である。
石殿、石柱と共に、この王子社にはお地蔵さまが佇む。また、石殿の右手には神社の手水場のような石造りの遺構が残る。
『石鎚 旧跡三十六王子社』には、「そこ(私注:水飲場)を過ぎて凡そ三百米位にして矢倉王子に至る。大杉の元に石像が安置されている。石鎚山開祖石仙上人が初めて石鎚山に登り神在りますことを明らかにせんと、久しくこの処に参籠し祈念したと云う。それは四手坂の藤原多郎左衛門氏方に、石仙菩薩尊像記の古記録として残っている。ここからは南に瓶ヶ森の高原を、その下方に西之川部落を眺め、北は連なる山々を越えて瀬戸の内海が見える。至って眺望のよい処である。夏山の季節には茶店が出された。吹き上げて来るは涼風は夏知らずと云う」とある。
同書、真鍋充親氏の紀行文には「大きな杉のもとに地蔵尊が赤ちゃけた前掛けをかけて坐しておられる。その温顔は遥か西之渓谷の真上に雪をいだく瓶が森にむけられていた。瓶が森に今も石土信仰を奉拝する人々があることとのかか わりが偲ばれる」とあった。倒壊した建物は茶屋のようである。
矢倉王子社はなんとなく、王子社の中でも「特別感」のある場所であったように思えるが、瓶ヶ森にしろ、何にしろ、植林のため同書に記載の如き眺望は全く、ない。

石仙上人
第十四王子社から第二十王子社まで
石仙上人については第一福王子社でメモしたが、ここで再掲;
石仙高僧とは前神寺、そして横峰寺の開基とされる高僧である。「えひめの記憶;愛媛県生涯教育センター」に拠れば、「石鎚山のことが最初に見えた文献は『日本霊異記』(年間成立弘仁八一〇~八二四)である。それによると寂仙という浄行の禅師がいて石鎚山で修行し、人々から菩薩とあがめられていた。寂仙は天平宝字二年(七五八)自分は死後二八年後に国王の子に生まれかおり、神野と名づけられるであろうとの言葉を残して死亡した。その予言通り桓武天皇に皇子が生まれ神野親王と名づけられたので人々は寂仙の生まれかわりと信じた。
この転生説話は当時広く信じられていたらしく、『霊異記』より約六〇年後の元慶二年(八七八)に撰せられた『文徳実録』にも類似話を載せている。しかし、ここでは転生したのは灼然という高僧の弟子上仙ということになっている。彼は高山の頂に住み、精進して師の灼然に勝って諸の鬼神を自由に使役した。彼は常に天子に生まれたいと願っていたが、その臨終に及んで人々に告げ「われもし天子に生まれたら郡名をもって名字にする」と予言して死んだ。ところが同郡橘の里にあって上仙を供養した橘の躯というのがあったが、上仙の跡を追い、来世での転生を希望して死んだ。神野親王(嵯峨天皇)とその妃橘夫人(檀林皇后)はそれぞれの後身である」といった記事がある。

『日本霊異記』では「寂仙」、『文徳実録』では「上仙」とあり、また寂仙に音の似通った「灼然」が登場するなど少々混み入ってはいるが、第一福王子に登場する「石仙」とは、「寂仙」とも「上仙」とも比定される。名前はともあれ、石仙とは役小角が開いたお山を修験の地となした奈良中期の修験僧のようだ。石鎚のお山に熊野権現を勧請した芳元と同時代の僧とのことである。
石仙はお山に籠もって修行に努め「菩薩」とまで称えられた。登拝路を開き、横峰寺(四国八十八番札所六十番)、前神寺(四国八十八番札所六十四番)を開き、石鎚のお山を神と仏が渾然一体となった神仏習合の霊地として、明治の神仏分離令まで続く石鎚信仰のベースをつくりあげた高僧のようである。石鎚のお山を深く信仰した人々は桓武天皇、文徳天皇といった天皇から、源頼朝、河野一族、豊臣家といった武家など数多い。

なお、前神寺や横峯寺の開基縁起に登場する石仙(寂仙・上仙)が所属していた寺院は、小松の法安寺とされる。聖徳太子の伊予行啓の際に創建された寺院の境内に残る遺構・礎石跡は国指定史跡となっている。

第十六山伏王子社;10時22分(標高1,209m)
第十五矢倉王子社から尾根筋を巻き気味に30mほど登ると、ほとんどフラットな尾根筋に入る。その尾根道もほどなく次第に急な上りとなり、ジグザグに60mほど高度を上げると再びフラットな尾根筋となる。

その道脇に王子社への入り口の鉄柱があり、それを目安に尾根道を離れ少し下り気味に、西に突き出た細い支尾根突端部に向かうと、そこに王子社があった。 松の大木を後ろに、石殿と石柱が並ぶ。第十六山伏王子社である。

『石鎚 旧跡三十六王子社』には「矢倉王子から参道を約一粁(キロ)登ると、栂の大きな自然木が枝を張っている。ここから小道を右に向って、尾根を約二百米ほど行くと、岩山に森があり中に五葉松の大木がある。眼下は幾十丈の断涯(だんがい)で遥かに右下方に黒川宿所が絵図の様に見え、真下に黒川登山道の行者堂を見下ろす。別当寺管理の頃、天台宗の各坊が石鎚登山に際し山伏等此の行場で一夜籠もって、心を改め身を清めて登山したと言うが社殿の形跡はない。即ち(山に伏す)野宿の行場であろう」とある。
高所恐怖症の我が身は、断崖端に行き黒川の谷筋を見下す気にはなれないが、五葉の松を配したこの王子社のロケーションは、いい。

第十七女人返王子社;10時28分(標高1,217m)
山伏王子社から今宮道に戻るとすぐ先に女人返王子社がある。王子社石殿と石柱、お札奉納箱、そしてお賽銭箱らしきものも供えられていた。
『石鎚 旧跡三十六王子社』には、今宮登山道にある。山伏王子から元の道へ引返すと、前記の栂の大木の処が十米位横道になっている。そのすぐ上が女人返しの王子である。此処にも祠らしきものは見当たらない。明治初年迄、女人はこの王子まで登り遥拝し之より上は登山を禁じた所と云う」との説明に続けて、 女人返しの由来が語られている。
少々長いので、大雑把にまとめると、「その伝説に、太古、石鎚大神がお山山頂に上る時、伊曽乃神(女神)が、いつまでも後を慕ってくる。霊山にて修行する石鎚大神は少々困惑し、再び会う日(12月9日)を約束し、修行のお山に登って投げる石の落ちた所で待ってほしいと願う。が、約束の日はあいにくの大雪で会うことができなかった、と。
石鎚大神が投げた石が落ちたところは加茂川橋の北の岡。伊曽乃神社表参道入り口大鳥居の処には、その大石が保存されている、とのことである。

ふたりの神のお話、地元に伝わるお話ではあろうが、投げ石の話はそれはそれなりにわかるのだが、「大雪で会う事ができなかった」の件(くだり)は何を 言いたいのかさっぱりわからない。だからどうなの?が抜けており、なんとなく「坐り」がよくない。
あれこれチェックするとこの話にはバリエーションがあり、石鎚大神が訪ねて行くと約束しながら、その約束を守らなかった、といったものもある。右足を上げた石鎚蔵王大権現の像もあるというが、それは約束を破られ怒った伊曽乃神が現れたとき、天に逃げあがろうとする姿といったお話もあるようだ。少々「出来過ぎ」の感はあるが、それであれば、それなりに「坐り」は、いい。

スキー場に出る;10時40分(標高1,275m)
第十七女人返王子社から緩やかな上りを10分ほど、高度を40mほど上げると平場の道になりスキー場リフトが目の前に現れる。その脇を抜けるとスキー場のゲレンデが広がる。
土径がゲレンデに出る辺りに「今宮登山道 河口まで6,0km」と書かれた道標が立つ。ゲレンデの遙か彼方に見える瓶ヶ森から笹ヶ峰への稜線が美しい(注;山は詳しくないので、カシミールの「カシバード」で確認)。
スキー場に出たといっても、道は木々の間を進む。上下2箇所あるゲレンデの間の道を進んでいるようである。道脇には「今宮道 成就まで1km」の道標も出てきた。目的地まで指呼の間である。





奥前神寺;10時50分(標高1,033m)
道を進み奥前神寺に。石鎚ロープウエイから成就社に向かう道の途中に建つ。少々簡素な造りではある。明治の神仏分離令により、現在の石鎚神社中宮・成就社となっている山岳修験の拠点「常住」を含め、寺所管の土地建物など一切が没収された石鎚大神の別当寺前神寺が、寺に復した後に建てたもの。一時河口集落に造られたが、ロープウエイの開通にともなう人の流れの変化に対応し、この地に移したようである。
7月1日から10日までの石鎚お山開きは、現在前神寺所管の土地建物を引き継いだ石鎚神社がその主体となり三種のご神像(仁・智・勇)を本社から成就社を経て頂上社へお祀りする神事が行われているが、前神寺でもこの期間「石鎚蔵王権現」三体を里前神寺からこの奥前神寺まで持ち上げる盛大な仏事が行われる、と。

西之川道分岐;10時58分(標高1,352m)
緩やかな道を高度を50mほど上げると、左下から西之川道が合流する。石鎚ロープウエイのある下谷から少し上流から上ってくる。「次回は西之川道ですね」などと話し合っているのを他人事として聞いていたのだが、メモする段になって、王子社の第二十一番は、一旦西之川の谷筋まで下りて再びお山へ登ることがわかった。尾根筋を石鎚山の弥山へと登って行くのだろうと思い込んでいたのだが、結構ショック。




第十八杖立王子社;11時1分(標高1,365m)
西之川道分岐からほどなく第十八杖立王子社。王子社石殿、石柱とお札入れのセットである。
『石鎚 旧跡三十六王子社』には「今宮参道上にある。成就社下の西之川へ下る三叉路の上の森にあって明治初年まで参詣者はお山杖をこの王子に立ておき、勇気を振って無杖で登山するのを例としていた。沢山の杖がまちがわず一本として紛失する事がなかったと云う」とあった。



第十九鳥居坂王子社;11時9分(標高1,413m)
第十九鳥居坂王子社は成就社へ向かう道からはずれる。『石鎚 旧跡三十六王子社』の真鍋充親氏の紀行文には「成就社東遊歩道は近年つくられたものである。原生林の中に古い登山道が残っていた。その古い登山道をゆくと成就の東の山頂に至る、そこを鳥居坂と称し、王子社が祀られている。第十九鳥居坂王子社である」と記される。

杖立王子社から2分程度で「第二園地入口」の道標があり、そこを左に折れると自然林と笹の美しい景観の中に入る。この道が真鍋氏の記す「古い登山道」だろう。鳥居坂王子社は巨木を背に、王子社石殿、石柱、お札入れのセットで並んでいた。
『石鎚 旧跡三十六王子社』には「成就社東の山頂にある。明治の末期まで杖立王子から上へ登りついた山頂(現在の白石別館の上の方)鳥居があった所である。今の成就社の神門はここより現在地に移転したがこの神門は文政天保の頃、別当前神寺と横峰寺が成就社の境内争いをした時に、前神寺が建立したものと云う」とある。

前神寺と横峰寺の争いは既にメモしたので、ここでは簡単にまとめると;共に石鎚のお山信仰の別当寺ではあるが、前神寺の山号は「石鉄山」、「仏光山」を山号とせよとの裁定に不服の横峰寺が「石鉄山」山号を冠することを求め続けたことが争いの根にあるように思う。
上のメモに「文政天保の頃、別当前神寺と横峰寺が成就社の境内争いをした時」とあるが、これは上記紛争の延長戦上の事件。小松藩領千足山村の者による常住社(現在の成就社)打ちこわし事件が起こっている。この地は小松藩と西条藩の境界であり、千足山村の言い分は、常住(奥前神寺)は小松領であり、西条藩の前神寺は不当、ということでの打ち壊し事件である。お山信仰の正当性を主張する「山号」紛争から、小松藩・西条藩の領地争いへとなっている。で、幕府の裁定は、成就社の地所は千足村、別当職は前神寺と。単なる問題先送りといった裁定のように見える。
この鳥居坂王子の辺りに前神寺が鳥居を建立したのは、こういった事情も踏まえたものだろう。この山頂はは西条藩の領地ではあったのだろう。

第二十稚児宮鈴之巫子王子社;11時16分(標高1,402m)
鳥居坂王子社のあるピークから20mほど下り、成就社の大きな鳥居、さらには境内にある小振りな鳥居(これが二の鳥居?)を抜けて拝殿に御参り。拝殿左手にある弥山遥拝殿の右手、八大龍王の祠の傍に第二十稚児宮鈴之巫子王子社があった。王子社石殿、石柱、お札奉納箱のセットではあるが、なんとなくとってつけたような雰囲気ではある。
『石鎚 旧跡三十六王子社』には「海抜1450米の中宮成就社にある。本殿と並ぶ石標が王子である」と記されるが、その由来は記されてはいない。また、王子社の写真も、木の切り株と石柱が写るだけである。
同書の真鍋充親氏の紀行文にも「成就社神殿裏の(中略)この王子社の尊称と、その出緒に就いては詳しいことは三十六王子調べ(私注;亀宮司の王子社解説)にもかかれていない。しかし(中略)石碑はいたく凍りついて(中略)怪しく輝いて拝された」とある。

この王子社はわからないことが多い。まず、場所も十亀宮司は「本殿と並ぶ石標」とあるが、真鍋氏は「神殿裏」とある。これは単なる表現の違いなのだろうか。
次いで、十亀宮司解説の稚児宮鈴之巫子王子社の写真には、他の王子社にある王子社石殿が写っていない。各王子社の石殿は、昭和51年(1976)に王子社石殿奉納事業として信者の奉参により建立されたものであり、昭和46年(1971)、十亀宮司一行の踏査行の時にはなかったのだろうが、この小冊子が昭和62年(1987)に第三版が発行されるときに、他の王子社は石殿も配した写真に取り換えているようだが、この王子社にはそれがない。同書の石殿奉賛事業のページには石殿が写っているので、単なる凡ミス?
また、石柱もそうである。切株とともに写る石柱は他の王子社のそれに感じる古き趣がない。昭和6年(1931)第十代武智通定宮司の時代に建てた石標とは思われない。昭和55年(1980)に成就社が大火焼失したとのことであるが、その時に古き石柱、そして昭和51年奉納された石殿も一時行方不明となったのだろうか。単なる妄想。根拠なし。

いろいろわからないことが多いこの王子社であるが、上記真鍋充親氏の紀行文では、そもそも、この王子社の尊称も不明の様にも読める。「稚児宮鈴之巫子王子」って、いかにも熊野権現の分身として出現する「王子」の由来である御子神のイメージ、それに鈴とか巫といった「神社」のイメージを重ね合わせたネーミングのように見える。この名称は十亀宮司が比定した場所と名称であるが、その他の説には、成就社に「八大龍王王子社」といった名称もある。よくわからない。
あれこれの考察は必要とは思うのだが、今回のメモはわからないことばかりの第二十王子社でメモを終える。成就社から黒川道を下るメモは次回に廻す。
「石鎚三十六王子」という言葉の響きに誘われ、お気楽に歩いたものの、いざメモする段階で常の如くあれこれ気になることが登場し、頭の整理に少々メモが長くなり、先回のメモは石鎚王子社まつわるあれこれで力尽きた。

今回は黒瀬峠近くの第一王子社から河口集落の第六王子社までメモする。河口から石鎚山腹の成就社向かう厳しい尾根筋の登りではなく、加茂川の左岸・右岸を、おおよそ県道に沿って50mから100mほどの比高差の道を進むルートであり、のんびり・ゆったりと進める。
但し、単独行であり、第一王子社から第四王子社まで加茂川左岸を進み、千野々集落で一度県道に下りて車デポ地まで5キロほど戻ることになる。また、第五王子社から第六王子社も同じく土径を歩いた後、車デポ地まで県道を数キロ戻るが、致し方なし。


本日のルート;
第一王子社から第四王子社まで
黒瀬峠>一の鳥居>黒瀬峠傍に車デポ>第一福王子社>上の原地区を進む>沢が切れ込む箇所に>「七曲り」を下り沢に出る>沢から拝礼道に登る>第二桧王子社>極楽寺分岐>極楽寺>植林地帯を進む>第三大保木王子社(覗の王子)>ザレ場を下る>第四鞘掛王子>県道に下りる
車デポ地に戻る
仙徳寺>極楽寺別院>西南日本中央構造線の黒瀬断層>車デポ地に
第五王子社から第六王子社まで
第五細野王子社に向かう>古長河内神社>細野集落への分岐道>細野集落跡>道が荒れてくる>迫割禅定>第五細野王子社>沢のガレ場を下る>第六子安王子社>ガレ場を下りる>旧県道の隧道>三碧橋


黒瀬峠傍に車デポ
黒瀬峠の切通し、一の鳥居を見終え、第一福王子社に向かう。第一福王子社は県道12号をほんの少し進み、山側・右に分岐する道、四国霊場60番札所・横峰寺に通じる平野林道に入ってすぐの「京屋旅館」傍にあるとのこと。
車で京屋旅館辺りまで進むが、横峰寺への小型バスへの乗替場のようなバス停のある広場があるのだが、なんとなく私用地のようで、車をデポする雰囲気でもない。
仕方なく、道を戻り、県道12号と県道142号の切通の出合い手前にある県道の広いスペースにデポすることにした。

長谷地蔵尊
車デポ地を探していると、県道142号が県道12号に合流した切り通しの少し先、派手なペンキが塗られている建物の傍にお地蔵様が見えた。「長谷地蔵尊 遷座記念碑」とあり、「石鎚旧跡 長谷地蔵尊は石鎚山表参道の入口の要衝黒瀬峠にいたる長谷の地に鎮座し永くこの世と浄土の境を守りしあわせを導くお地蔵様としてその信仰を集める。
時移り車社会となり谷底に淋しく立つお地蔵様を悲しく思い(中略)第一王子目前のこの地に遷座す。平成十七年」とあった。
詳しい経緯は不明だが、県道開削に伴い古の登拝礼道に取り残されたお地蔵様を地元篤志家がこの地に遷座したもののようである。

第一福王子社
石鎚三十六王子社の最初の王子社は横峰寺へ続く平野林道にはいってすぐ、「京屋旅館」と林道を挟んだ山側に道に面した竹藪の中にある。
お堂の中には割りと大振りなお地蔵さまが祀られ、その前に王子社を示す「石殿」が置かれている。お堂の左手に王子社石柱、右手には「第三十一番 千手十一面聖観音」が建っていた。「第三十一番 千手十一面聖観音」の由来は不明。西条四国三十三観音霊場とも合致しない。思考停止し、本題に戻る。

『旧跡三十六王子社』には「昔石仙高僧が石鎚山登山しようとして、ここに来たり遥かに石鎚大神を拝し、一夜を野宿した。その時夢枕に福の神が現はれ、願望達成を示され一心に祈願をしたと伝へられる。世人福の字をとりて福王子と唱う」とある。

石仙高僧って誰?チェックすると、石仙高僧とは前神寺、そして横峰寺の開基とされる高僧であった。
「えひめの記憶;愛媛県生涯教育センター」に拠れば、「石鎚山のことが最初に見えた文献は『日本霊異記』(年間成立弘仁八一〇~八二四)である。それによると寂仙という浄行の禅師がいて石鎚山で修行し、人々から菩薩とあがめられていた。寂仙は天平宝字二年(七五八)自分は死後二八年後に国王の子に生まれかおり、神野と名づけられるであろうとの言葉を残して死亡した。その予言通り桓武天皇に皇子が生まれ神野親王と名づけられたので人々は寂仙の生まれかわりと信じた。

この転生説話は当時広く信じられていたらしく、『霊異記』より約六〇年後の元慶二年(八七八)に撰せられた『文徳実録』にも類似話を載せている。しかし、ここでは転生したのは灼然という高僧の弟子上仙ということになっている。彼は高山の頂に住み、精進して師の灼然に勝って諸の鬼神を自由に使役した。彼は常に天子に生まれたいと願っていたが、その臨終に及んで人々に告げ「われもし天子に生まれたら郡名をもって名字にする」と予言して死んだ。ところが同郡橘の里にあって上仙を供養した橘の躯というのがあったが、上仙の跡を追い、来世での転生を希望して死んだ。神野親王(嵯峨天皇)とその妃橘夫人(檀林皇后)はそれぞれの後身である」といった記事がある。

『日本霊異記』では「寂仙」、『文徳実録』では「上仙」とあり、また寂仙に音の似通った「灼然」が登場するなど少々混み入ってはいるが、第一福王子に登場する「石仙」とは、「寂仙」とも「上仙」とも比定される。名前はともあれ、石仙とは役小角が開いたお山を修験の地となした奈良中期の修験僧のようだ。前述の熊野権現を勧請した芳元と同時代の僧とのことである。
石仙はお山に籠もって修行に努め「菩薩」とまで称えられた。登拝路を開き、横峰寺(四国八十八番札所六十番)、前神寺(四国八十八番札所六十四番)を開き、石鎚のお山を神と仏が渾然一体となった神仏習合の霊地として、明治の神仏分離令まで続く石鎚信仰のベースをつくりあげた高僧のようである。石鎚のお山を深く信仰した人々は桓武天皇、文徳天皇といった天皇から、源頼朝、河野一族、豊臣家といった武家など数多い。
なお、前神寺や横峯寺の開基縁起に登場する石仙(寂仙・上仙)が所属していた寺院は、小松の法安寺とされる。聖徳太子の伊予行啓の際に創建された寺院の境内に残る遺構・礎石跡は国指定史跡となっている。

山岳信仰・山岳仏教・修験道
山岳信仰とか、山岳宗教とか、修験道とかややこしい。ちょっとまとめておく。神奈備山とは、神が宿る美しい山ということ。往古、人々は美しい山そのものを信仰の対象とした。「山岳信仰」の時期である。その時期は平安時代に至るまで続く。南都の仏教では、山で仏教修行をする習慣はなかった。山に籠もり修行をした役小角などは「異端者」であったわけだ。伊豆に流されたということは、こういった時代背景もあったのだろう。
「山岳信仰」ではなく、所謂、「山岳仏教」が始まったのは平安時代。天台宗と真言宗が山に籠もって仏教修行をすることを奨励しはじめてから。深山幽谷、山岳でこそ禅定の境地に入ることができる、密教故の呪術的秘法体得ができる、とした。
Google Earthで作成
「修験道」はこの天台宗や真言宗といった山岳仏教を核に、原初よりの山岳信仰、道教、そして陰陽道などを融合し独特の宗教体系として育っていく。修験者の本尊は蔵王権現。石鎚だけでなく、加賀白山、越中立山、大和大峯山、釈迦岳(一部では月山とも)、駿河富士、伯耆大山など、全国に霊地が開かれていったのもこのころだろう。
室町期にはいると修験道は天台系と真言系のふたつの組織として体系化する。天台系は本山派と呼ばれる。近江の園城寺が中心。一方の真言系は当山派と呼ばれる。伏見の醍醐寺が中心となる。近世の徳川期には修験者はこのどちらかに属すべしとなり、明治の神仏分離令まで続いた。
熊野などの山岳修験の地、秩父の観音霊場など、散歩の折々には園城寺系本山派の事跡に出会うことが多かった。役の行者の開山縁起は、この園城寺派の活発な布教活動に負うことが大、とされる。本山派が「このお山は役の行者が開山の。。。」といった縁起を創っていった、とか。役の行者の石鎚開山縁起ができたのも、この室町末期のころだろう。

第一王子社で夢に登場した石仙を「深堀り」し、ちょっとメモが長くなった。とっとと先を急ぐことにする。

林道を進む
第一福王子社から第二桧王子社に向かう。県道に沿って比高差70mほどの「平野林道」から眼下に黒瀬ダムを見下ろす。ふと、昔の西条や氷見からの県道って、どの辺りを進んでいたのだろう。気になってチェックすると。
旧県道
大雑把ではあるが、西条からの旧県道はダムの下までは現在発電所のある、現在の県道よりちょっと下を通る。ダム手前には旧県道の手堀り隧道がふたつ残っているようだ。
その先も現在の県道より少し下を進み、現在の県道とほぼ並行して先に続いていたようだ。また、黒瀬峠に登ってきた氷見からの県道は、黒瀬峠で左に大きく振れ、ヘアピンカーブで曲がった後、西条からの県道に合流する。場所は半円を描いて進む現在の県道がダム湖に突き出た箇所で大きく方向を変える箇所の少し北のようである。

沢が切れ込む箇所に
平野林道と並行して進んでいた県道も、東に大きく離れるあたりで、林道も沢に沿って大きく迂回する。その箇所には古びた鉄の鳥居が建っている。地図を見ると、迂回した道は、沢を迂回しおおよそ現在地の対岸に戻る。
弟の記事では林道を進んでいるのだが、この辺りは車で走っている。車なら仕方ないにしても、徒歩、しかも修験の歩きであれば、この箇所から直接沢に下り、対岸に這い上がったのではないだろうか?唐突に鳥居も建ち、なんとなく「ノイズ」を感じる。
鳥居のある箇所から沢に迂回する道の逆方向に坂道がある。坂道の途中の農家の元気な犬に吼えられながら、その先に進むと「カフェテラス葉風る」があった。店は閉まっており、あちこちと下りる場所を見るが、それらしき箇所は見当たらない。
再び鳥居の箇所に戻ると、犬に吼えたてられた農家のご主人がいた。この辺りからの王子拝礼道を尋ねると、鳥居の先の崖から下る「七曲がり」の道がある、という。途中までは踏み跡もあるが、途中からは藪が酷いよ、と。一応ロープは常備しているので、なんとかなろうと「七曲がりの難所」道を下ることにする。後日メモの段階で『石鎚 旧跡三十六王子社』にも「七曲り」の記事があった。
因みに横峰寺には、ここから切れ込んだ沢を廻りこみ、沢に架かる橋を右に折れて進むことになる。
鉄の鳥居
後日、鉄の鳥居をチェック。『石鎚山 旧跡三十六王子社』は、古い遥拝所を示すものとあり、寄進者は高知の人、との記事があった。が、同書に掲載の鳥居と現在の鉄の鳥居はその形が異なっている。現在の鉄の鳥居には「大正」らしき文字が刻まれているように見える。『石鎚山 旧跡三十六王子社』の記事のもとになった踏査行は、46年(1971)に行われたものであり、鉄の鳥居が大正であれば、この鳥居が同書に掲載されるのが普通かと思うのだが、何故鉄の鳥居の形が異なっているのだろう。不明である。

「七曲り」を下り沢に出る
教えて頂いたように、鉄の鳥居から直線上の崖端に踏み跡がある。踏み跡を進むと石組の箇所があり、それなりに道となっているのだが、七曲りのうち、三曲りほど進んだ先は藪に覆われ、道はまったくわからない。藪漕ぎをして力任せに沢筋に下るだけ。
「七曲り」のルートとは程遠いとはおもうのだが、下り始めて25分、比高差100m弱の崖を下り沢に出る。沢に橋はないが、幸い水量は多くなく、飛び石で沢を渡る。沢に沿って舗装された道が通っていた。

沢から拝礼道に登る
舗装された沢脇の道を右往左往し、沢筋から対岸の拝礼道に登る道を探す。踏み跡は沢に突き出た尾根筋を北に廻り込んだ辺りに見つかった。登り始めると道はしっかり踏まれており、先ほどの下りとは様変わりの快適な土径であった。おおよそ10分弱で舗装された道に出た。






道の山側石垣にはブルーの「石鎚三十六王子社」鉄板道標が架っており、この道に間違いなし。南に瓶が森から高森山の稜線らしき四国山地が開けていた(山のことは詳しくないので、カシミールの機能であるカシバードで描画した結果であり、まちがっていれば御免なさい)。


第二桧王子社
簡易舗装の道を20分弱歩くと曲がり角に、「山火事注意」の幟が立つ消防施設の建物らしきものがある。何気に右手を見ると「第二桧王子社」と書かれたブルーの王子社鉄板案内があり、その上に王子社の幟が見えた。危うく通り過ぎるところであった。

苔むした石段を上ると左手前に「第二桧王子社」と刻まれた細長い石柱があり、お堂の中にはお地蔵様。桧の地蔵と称される。王子社を示す石殿は、お堂の外、左手に祀られていた。
『石鎚山 旧跡三十六王子社』には「昔左甚五郎が成就社本殿の建築を終り、用材の桧を杖にして茲(ここ)に下山休息した。その時杖を地に突き立てて帰った。其の杖が芽を出し成長し、大木となり真径お凡そ二米もあったと云う。何時の世にか伐採し今に其の切株がある。逆杖であったため木の枝がみな逆枝であったと云い伝えられている。その大桧があったので地名を大桧と云い、桧王子と唱えている」とある。
境内には「奉誦光明真言百万遍」や「白衣観音一字一石西国三十三霊場供養」と刻まれた明治に建立の石碑も見られた。

極楽寺分岐
第二桧王子社から10分弱、左手に竹林が茂る辺りで道は二つに分かれる。「右 極楽寺」の木標に従い左に折れる。緩やかな坂を進むと行く手に校舎らしき建物が見える。近づくと校舎外壁に据え付けられた黒板が、びっしり寄せ書きで埋められている。廃校となった大保木小学校跡地であった。

仙徳寺跡
『石鎚山 旧跡三十六王子社』にある真鍋充親氏(『伊予の高嶺』の著者。新居浜市の図書館で読んだことがある)の「紀行文」には「大保木小学校を南ま上に見上げ乍ら小さな谷の道を進むとおもひがけず叢の中に寺跡をみつけた。ここはかつての天台宗仙徳寺のあった処で、いくつもの信徒や檀徒らの寄進をしめす石標もみられた。この寺は今千野々県道傍に移転している」とある。 今回は校庭を進んだが、旧登拝道は、もっと加茂川の谷寄りを進んだのだろう。ために、叢の中に寺跡を見つけることはできなかったが、仙徳寺は県道傍に移転したとあるので、ピストンで車デポ地に戻る途中に寄ってみようと思う。

市指定天然記念物 旧大保木小学校のそめいよしの
校庭にあった案内の概略;樹高2mまでの間で3カ所の枝が分かれ、それぞれの枝分かれ部分の周囲が2m前後と、枝分かれ部分の大きな幹が特長。樹齢は不明だが古木のよう。西条市の市花が桜でもあり、市の天然記念物に指定される。そめいよしのは大島桜と江戸彼岸の交配種。明治の初め頃つくられた。
◇大保木(おおふき)の由来
「ふき」は「はけ」とも「ほけ」と同じ、崖を意味する。急峻な崖地の意味だろう。

極楽寺
大保木小学校から歩くこと20分強、道なりに進むとお寺様の境内に入る。誠に立派な本堂が建つ。境内にあった案内に拠ると、「本堂(金堂)の建築について:この本堂は平安時代(794~1192)の建築様式で建立されております。白鳳時代(672~685)の建築文化が、この時代に日本固有の表現に移り変わった時代で、宇治の平等院などが代表的な建物と言えます。
つまり、堂内の床が土間から板張りの床に移行したり、屋根の瓦が藁葺きとか桧皮葺きにと日本古来からの建築用材である植物が主体となって、その建築美を醸し出しているわけです。
おだやかな屋根の流れ、躍動的な棟のラインともども、その構造体の質実剛健な構えや優雅な軒に「ひらかな」をあみだした平安人の雅をご観覧ください 石鎚山真言宗総本山 極楽寺」とあった。

案内にある通り、誠に優美な構えである。前神寺とか横峰寺のことは知っていたのだが、不勉強にも極楽寺のことははじめて知った。Wikipediaに拠ると、「 極楽寺(ごくらくじ)は、愛媛県西条市大保木にある石鎚山真言宗総本山の寺院。山号は九品山(くぼんざん)。本尊は阿弥陀三尊・石鎚蔵王大権現。石鎚山信仰の根本道場であり、約1300年前から山岳宗教の一大修験道場でもある。 寺伝によると、西暦680年頃役の行者が石鎚山を仰ぎ見ることのできる龍王山に籠り、不動ヶ滝に身を清め修行をされ、阿弥陀三尊と三体の石鎚権現を本尊とする天河寺(てんがじ)を開基し、平安時代から室町時代に至るまで隆盛をきわめた。
ところが、室町時代末期になり、戦国の兵火で1350年天河寺は炎上、その時の住職行善大徳は、その弟子宥法師に天河寺の法灯を継続する地を探すよう命じ自らは遷化した。そして、宥法師は龍王山を仰ぎ見ることのできるこの地を探し出し堂宇を建立し極楽寺と名づけ法灯を守った。
その後、天河寺焼け跡から本尊であった三体の石鎚蔵王権現のうち中尊の「金剛蔵王権現」が掘り出され蔵王殿本尊として祀られた。極楽寺になって二度の火災により寺宝も多く焼失したが権現像は守られ、現在に至るまで石鎚金剛蔵王権現の御前にて護摩焚きが朝夕行われている。 2014年失われていた両脇尊である「龍王吼蔵王権現」「無畏宝吼蔵王権現」が新調され三体が揃った。
特筆するは、明治時代神仏分離令で、前神寺も横峯寺も一時期廃寺になった時も、当山では脈々と石鎚信仰が途切れることなく続いてきたことである」とあった。
極楽寺は天河寺の法灯を継ぐ古刹であった。一説には、蔵王権現はもとは瓶ヶ森にあり、天長5年(827)に石鎚に移った、ともされ、蔵王権現が瓶ヶ森にあったときの常住は天河寺であった、とも言う。ともあれ古い歴史をもつお寺さまであった。
地図を見ると、極楽寺から加茂川を隔てた対岸の山中に西大門といった、如何にも寺を連想させる地名がある。また、坂中地区に残る坂中寺は天河寺ゆかりの寺と言う。龍王山のピークは標高850mほどのところにあるが、天河寺跡はどのあたりか不明ではある。そのうちに探し歩いてみたいとも思う。
本堂から下る長い石段がある。大正末期に開かれた県道傍に別院が造られた、という。これも、車デポ地へのピストンの途中に寄ってみようと思う。


植林地帯を進む
第三大保木王子社に向かう道は、本堂境内下を横切る。少し進むと歩道が切れ、上下二手に道が分かれるが、登拝道は下の道。用水路のような風情を感じる土径を進むと「高橋兵佐右衛門の墓」の矢印。道はその辺りから植林地帯に入る。 更に進むと再び「高橋平左右衛門の墓」の矢印。そこで道は再び上下二手に分かれるが、「高橋平左右衛門の墓」の矢印のある下の道を進む。


王子社名が書かれたブルーの道標を越えると、「高橋平左右衛門の墓」の道標が上下に分かれた上に向かう。登拝道はここは下の道。基本お墓はパスするので、そのまま登拝道を進む。





「赤と黄色の」王子社登拝道の標識を越すと、植林の杉林の中で道は上下に分かれる。住友共電大保木線の鉄塔保線鉄柱がある上側の道を進む。先に登拝道の道標も見える。大岩脇を越えると広場となり、その山側に王子社が見えて来た。




高橋平左右衛門
「銀納義民」として知られる。極楽寺境内にあるという「銀納義民記念碑文」の説明には「堅忍不跋の心を以て為すときは事成らずと云うことなし。そもそも大保木山、中奥山、東の川山、西の川山、黒瀬山の五ヶ山農民の年貢米、未納未進となり住民の至難なるより、慶長八年身を犠牲に供し、銀納受所に祈願せんと衆議一決し、五十有年間何回となく嘆願するも聞き届けなく、遂に時の領主一柳監物殿に請願中、大保木山庄屋左衛門、中奥山治兵衛その倅三名外百姓十一名、承応二年八月入獄され遂に三年二月一八日死刑に処せられ非命の死を遂げしは、悲嘆の極みあらずや。
然るに平左衛門はその後、横峰蔵王権現に祈願し感応により死刑を免れ生存せしを以て萬治元年二月外十名と供に総代となり、西条鴨川に於いて駕訴せしに聞届けられ同四月八日銀五貫三百五十八勺三分一厘に定められ、明治八年に及ぶまで二百十八年間当地の人民鼓腹の楽をなせしも、銀納を訴えた義民右十七名の功勤に因るもの。感嘆の余を以て其の万分の一の報恩の為、碑を建て略誌する事斯くの如し 明治二十三年五月大保木村 工藤弥五郎」と記される、と。 大雑把にまとめると、林業などを主とするこの地域では、コメ相場により高騰する年貢米の替りに銀を納めるべく、庄屋を中心に当時の西条藩・一柳家に直訴するも、願い叶わず16名が処刑される。
死刑を免れた高橋平左右衛門は、改易になった一柳家に替わり西条藩主となった(一時天領となる)紀州家の松平頼純(よりずみ)に駕訴をおこない、銀納が認められることになる。地元人は感謝し、17名を義民として称えた、という。

第三大保木王子社(覗の王子)
王子社の祠には三界万霊地蔵が祀られ、その左手には王子社を示す石柱と王子社石殿が並ぶ。
『石鎚山 旧跡三十六王子社』には、「大保木字覗にあり、此の王子は大保木分であるが、千野々天台宗派仙徳寺の真上約百米、見るからに断崖絶壁今にも岩石崩れ落ちんばかりの感があり、旧参道のほとりにて、のぞきの王子とも称し石の地蔵が祀ってある。(中略)昔松山藩主が領内の山林面河山取調の際この山に入り、東之川のお樽の滝(白糸の滝とも云う)を見物した。西之川庄屋高須賀蔵人が藩主を歓迎してもてなした。
藩主は大いに満足し蔵人を召し出し、其の望を問われ蔵人が曰く、石鎚の神には表境内はあれども(昔は成就から奥は全山表境内であった)裏境内がないので、面河山全部の寄進を願い出た処、藩主驚き蔵人を殺害しようと計り、大保木の庄屋へ召しだした。蔵人はこの大保木王子に来て、石鎚大神に祈願し、抜いた刀を石に突き差し、願意成就を祈り大望を達したと謂う。石の各所に刀を差し込んだ跡がある」とある。

覗きの行場のようだが、木々が茂り、今一つ断崖絶壁感がなかった。木々の間から千野々集落や加茂川を見下すのみ。

ザレ場を下る
虎ロープを頼りにザレ場を下る。振り返ると大岩の崖が見えるようだが見逃した。大保木王子社の「覗きの行場」跡であろうか。
ザレ場を下ると左手に住友共電の鉄標、右手に王子社を指す鉄柱がある。その分岐を右に進むとほどなく巨大な岩壁の下に王子社が見えて来た。第三大保木王子社から10分も歩いていないだろう。

第四鞘掛王子
岩壁の真下に石柱、石殿、お地蔵様が、少々窮屈そうに並ぶ。『石鎚山 旧跡三十六王子社』には、「中奥字千野々。(中略)第三王子の項でも述べた通り、西之川庄屋高須賀蔵人が松山藩主の召に応じ大保木の庄屋に出頭する時、藩主の計略をさとり、ここで刀を抜き一命を堵けて石鎚大神に祈り、鞘のみ木の枝に掛け覚悟を決めて出頭したので、鞘掛の王子と云い伝えられる(後略)」とある。




県道に下りる
王子社から住友共電の鉄柱があった三差路まで戻り、鉄塔保線路を左下に10分弱下り県道12号に出る。車デポ地からおおよそ2時間半ほどで県道に出た。 南に加茂川に架かる赤く塗られた鉄の橋が見える。
千野々橋と呼ばれるこの橋は、大正14年(1925)に完成した愛媛県最古のプラットトラス橋(斜材を橋中央部から端部に向けて「逆ハ」の字形状に配置したもの)。上流にコンクリート橋が架かるまで現役であったが、現在は公園(「石鎚ふれあいの里」)へのアプローチ橋となっている。ここから車デポ地まで歩いて戻ることになる。
千野々
千野々の地名の由来は、この地で合戦があり一面血の海となったため、といった説もある。地名の由来は諸説あり、真偽のほどは不明だが、合戦があったとすれば、天河寺も焼失したという土佐の長曽我部氏との合戦ではなかろうか。





車デポ地に戻る

仙徳寺
歩きはじめるとほどなく、道の左手に結構風雪に耐えた趣のお寺さまがある。 お堂入り口の右手の木札には、紙が上に張られ読みにくいのだが「天台宗総山明王院仙徳寺」と書かれている。大保木小学校のところで「今千野々県道傍に移転している」とあった天台宗仙徳寺であった。
お堂左手には同じく紙が上に張られた木札に「石鎚山(不明)大護摩火渡所」、狛犬の台座には天保十三の文字が刻まれる。
扉は閉じられ内陣を見ることはできなかったが、御堂には波切不動、石鎚蔵王大権現が祀られ、不動明王は、もとは天河寺にあったものとも言う。 札にあった火渡りの行事といった修験が未だ行われているのかどうか不明だが、昔は石鎚修験の寺ではあったのだろう。

極楽寺別院
更に先に進むと道脇にお寺と、その先に強大な建物が見えてくる。如何にも宿坊といったもの。ここが先ほど訪れた極楽寺の別院。本堂から下る長い石段も見える。
大正末期に県道が開かれ、昭和6年(1931)には河口までバスが走るようになると(私注;バス運行の年は異なる年度の記事もある)、石鎚参拝は、この県道を通るルートが登拝道の主流となった、と。別院は県道開削に合わせて、道脇に造られたとのことである。
登拝道の主流となった県道近くに本堂があり、道脇に別院を設けた故の隆盛だろうか、お寺も石鎚山真言宗総本山と一派を起こし独立総本山として、60ほどの末寺を抱えるという。巨大な宿坊故の妄想ではあり、根拠は、ない。

西南日本中央構造線の黒瀬断層
少々単調な舗装道を進み、柳瀬橋を越え、左半円周りに進路を変えた県道を進むと道脇に大きな案内がある。とりあえず近寄ってみると、「西南日本中央構造線の黒瀬断層」の説明がイラストと共に記されていた。
案内には「中央構造線は西南日本を内・外帯に二分する国内第一級の地質構造線で、その延長は長野県諏訪湖付近から九州熊本県八代付近まで至る。 黒瀬断層は、北側にある約7千万年昔に浅い海の底に堆積してできた和泉層群の堆積岩が、南側の1億年昔に地下の深い所で変成岩になった結晶片岩類の上に乗り上がった形の断層である。
これら岩石(岩盤)の間にはこの断層の間に安山岩が貫入している。この安山岩は、石鎚山の火山活動の時(1500万年前)に、断層形成により脆弱となった岩盤の破砕部に貫入してきたものである。
この断層は、約2~3千万年昔に活動したものである。 この断層の走向(延びの方向)はN60゜Eで、北へ30゜~35゜傾斜している。
愛媛県内では黒瀬断層以外にも中央構造線に関係した断層として砥部衝上断層(砥部町)と湯谷口衝上断層(丹原町)が有名で、いづれも断層部に安山岩の貫入が見られる。このような断層を観察できる場所は限られており、大地の動きを考える上で貴重な露頭となっている」とある。

中央構造線って、アジア大陸東端部に出来ていた日本列島の日本海側半分に、太平洋側からの半分が合わさって形成された日本列島の「接合部」といった程度の大雑把なことはわかるのだが、中央構造線がここに現れていて、和泉層群とか結晶片岩類とか安山岩が見られると言われても、周囲は木々で覆われ何も見えない。
今は黒瀬ダムの底に沈む黒瀬村の中央を中央構造線が走っており、川床には露出ポイントがあったという、その記念ということだろうか。門外漢故その有り難さがそれほどわからない。

車デポ地に
下山口から県道をのんびり、おおよそ1時間強かけて車デポ地までもどる。


第五細野王子社に向かう


弟の記事に拠れば、次の王子社である第五細野王子社は、第四鞘掛王子社から県道12号に下り、橋を渡り加茂川右岸に移り、古長河内神社の少し先、県道から左に分岐する道を進むようである。
距離は第四鞘掛王子社から県道に下りた辺りまでおおよそ5.5㎞、その先県道からに分岐する道野辺りまでおおよそ1.5㎞ほどある。 10時過ぎに第一福王子社に向かって歩き始め、千野々橋傍の県道に下りたのが12時半。車デポ地にピストンで戻ったのが2時過ぎ。季節は冬、日暮は早い、ということで、当初の千野々橋あたりに車をデポし、徒歩で進むのを取りやめ、県道から第五細野王子社への分岐箇所まで車で進めることにする。

古長河内神社
車を進め、赤く塗られた千野々橋を見遣りながら先に進むと道脇にちょっと印象的な社が目にとまる。とりあえず車を停め境内に入る。
歴史を感じる鳥居を潜り境内に。本殿・拝殿ともに誠に立派な構えである。 祭神は譽田別尊。応神天皇を指す。譽田別尊は八幡神と同一視される、武運成就の神である。境内社には出雲神社も祀られる。
境内には西条藩主松平依頼純公お手植えの杉が2本あったとのことだが、それといった案内も無かったので枯れてしまったのだろうか。それはともあれ、いい雰囲気の社であった。

細野集落への分岐道
県道から細野集落への分岐には四国電力の黄色と黒に塗られた鉄のポールがあり、その横に「細野王子社」と書かれた道標と方向を示す木標が立つ。道は簡易舗装されており、どこまで続くか不明であるが、取り付き部は車で入れる。 杉林の中、廃屋を見遣りながら進むとブルーの王子社道標がある。その先、取り付口から10分強歩くと、道が左に大きく曲がる箇所の右手の土径に王子社の道標、四国電力の保線路鉄杭、そしてお地蔵さんが見える。

細野集落跡
ここで、舗装道から分かれ土径を進む。道の両側には石垣やお墓がある。この土径はその先ですぐに舗装道路と合流する。土径は舗装道路を横切り上に進むが、王子道は舗装道路を右に進む。
舗装道路を進むとすぐに黄色と赤の王子社道標をつけた鉄ポールがあり、案内に従い斜め右手の土径に入る。鬱蒼とした木々の間を数分進むと少し開けたところに廃屋が残る。

先ほどの石垣や廃屋など、この辺りが細野の集落があった辺りだろうか。『石鎚 旧跡三十六王子社』には、「河内神社の傍を通り淀(私注;県道に「淀バス停」があった)と部落のはずれから旧道の部落道を登る。大正十五年頃県道が通じる迄は唯一の参道であったが、今は細野部落の通行道として三輪車が通れるほどになった。細野には黒門と云って石鎚名物の肉桂(にっき)販売の老舗があったが、今は淋しく屋敷のみ残っている」とある。
子供の頃はおばあさんから折に触れて肉桂(にっき)の根をお土産にもらった。今でいうシナモンではあろうが、最近はあまり肉桂(にっき)をかじる子供を見かけることもない。当たり前ではあろうが。

道が荒れてくる
廃屋脇を進む。道は四国電力の鉄塔保線路のようである。道は次第に荒れてくる。虎ロープが登場する。虎ロープを頼りに先に進むと、道が崩壊した箇所に出るが、木の梯子、桟道、虎ロープが整備されており、安全に先に進むことができた。



迫割禅定
崩壊箇所から5分位歩くと、大きな岩の下にお地蔵さまが佇む。お地蔵さまから左手に登る道があり、寄り道すると大岩が二つに分かれていた。そのときはなんだろうと思いながらも元に戻ったのだが、どうも迫割禅定跡のようであった。
迫割禅定と言えば、人ひとりかろうじて通れる、といったイメージであり、そのイメージには程遠いスペースでもあったので、写真も撮らなかったのだが、『石鎚 旧跡三十六社』によれば、「この部落(私注;細野集落)を通り抜け、五百米くらいの処に迫割と云って狭い岩の間を通る道ががあり、迫割禅定と云う。西条史を見ると「この処両方より石が突き出てその間甚だせまく、童子といえども、からだを細めぎれば通ること能はず、然れどもわずか二間程の間なり」とあり、後世道を作りかえ現在はすぐ下を通るようになったが、その面影は残っている」とあり、同じく同書の真鍋充親氏の紀行文には、石鎚まいりの難所とあり、「度重なる地すべりの為寸断されていて細道を求めるのに困難し」、調査チームの一度目の踏査では辿りつけなかったようである。

思うに、今日迫割禅定へと辿った道は四国電力の保線路であり、往昔の王子道は保線路より上を進み、直接迫割禅定の岩場に出たのだろう。ゆったりしたスペースの大岩をもう少し先に進めば、それらしき岩場があるのだろうか。後の祭りではある。

第五細野王子社
お地蔵さまから5分ほど進むと、また崩壊地に出る。右手の切れたった崖を木道の迂回路でクリア。そこから数分歩くと広場があり王子社が見えてきた。第五細野王子社である。
中央に石灯籠の上部といった石塔に首だけのお地蔵さまが祀られ、その右手に王子社石殿、さらにその右には石柱が立つ。王子社の裏は岩尾根となっている。
『石鎚 旧跡三十六王子社』に拠れば、「中奥字細野にある。迫割禅定があった場所(私注;部落から五百米)から二百米ほど行くと、小高い森があり石の祠がある。その中に頭だけの地蔵が祀ってある。之が細野王子社である。(中略)北には河口の下の片マンプ(私注;逆コの字の岩壁)の岩上、屏風の如く、南には高さ二百米もあらう大岳が峨々とそびえ、仰ぎ見るとまさに倒れかからんばかり、之を王子の嶽と云う。この付近に小谷があり、石鎚参詣の導者はこの滝水で禊をしたという」とあった。

沢のガレ場を下る
第五細野王子社から右下に下る道に入る。崖に沿って急な斜面を下ると、なりゆきで沢のガレ場に入り、そこを下ることになる。『石鎚 旧跡三十六王子社』に「細野王子から直ぐ急な下り坂にかかる。坂と云うより嶽と云うのが適当の様である。昔は此の所に鎖がかかっていたが、後世道を作り少し歩み易くなったので、その鎖を弥山(今の石鎚山一の鎖)へ移したと西条誌に記してある」辺りだろう。
今は、鎖の替りに張られた虎ロープを頼りに慎重に下る。ガレ場は処々で石組みとなっているのは崩落防止のためだろう。

第六子安王子社
ガレ場を下ると、岩壁に沿って道が進む。『石鎚 旧跡三十六王子社』に「急坂は百米ほどで王子の嶽の麓を二百米行くと、山の張り出た所に大岩が横たわり、その岩の傍に石の地蔵が二尊仲よく並んで祀ってある」とある。そこが第六子安王子社である。第五王子社から10分程、といったところだろうか。
王子社石殿の右手に王子社石柱、左手に二体のお地蔵さま。石に刻まれたお地蔵様と石仏の二尊である。覗きの行場だろうか、河口(こうぐち)集落が真下に見える。


『石鎚 旧跡三十六王子社』には「中奥字細野にある。(中略)この王子の真下が登山口の河口であり、石の突端に立ちて見下ろすと千尋の谷、後をふり向くと王子の嶽が立ちふさがり、実にたけだけしい感じである。(中略)この王子は元結掛(もつといかけ)王子とも云い、又細野覗とも云う。明治維新以前は土地の児童等ここで、初登山の者に対し鋏で元結を切り三文乃至五文の料金を申受けるのを例としていた。その子供達が「新客や元結払い南無三宝六王子」と唱えて切った元結を松の木にかけて、登拝の無事を祈ったと云う処から子安場と云い伝えられる。
又その王子の岩場は行場であり、大先達が初めて参詣する若者を芋綱でしばり、岩の端から覗かせて、是迄の悪行をさんげさせ、心を改め行いをつつしむ事をちかわして、然る後、引き上げて登山し更に石鎚大神に誓いを立てさせ、善導して処と伝えられている」とあった。

ガレ場を下りる
第六王子社から急な坂を下る。道はトラバース気味に進むが、足場がザレて、虎ロープのオンパレードである。最後は沢のガレ場。虎ロープを頼りに下る。この沢も崩落防止のため石組みがなされている。




旧県道の隧道
ガレ場の下に加茂川が見え、その手前の道に下りる。第六王子社から10分強。旧県道のようである。道を右に取ると、前方に隧道が見える。近づくとその先にも隧道が続く。河口第四隧道と河口第三隧道とのこと。旧県道建設時、大正13年(1924)に開削された手掘り隧道とのことである。


三碧橋
隧道を抜けると三碧橋北詰に出る。三碧とは渓谷の緑色片岩、加茂川の青き水、茂る木々の緑とのこと。橋からエメラルドグリーンの加茂川の水、山々の残り紅葉を楽しみ第一王子社から第六王子社の散歩を終える。
次回は、この坑口から比高差1,200mほど上った石鎚山腹・成就社までの尾根筋に残る第七王子社から第二十王子社まで一気に歩く予定。結構大変そう。

「お山は三十六王子、ナンマイダンボ(南無阿弥陀仏のなまり)」。往昔、先達に導かれた石鎚講中の登拝者はこの唱えことばをかけながら険しい登拝道を霊山石鎚の頂上を目指した、と聞く。
石鎚に王子社があることを知ったのは平成22年(2010)、弟の還暦記念のため雪の石鎚山に上った時のことである。石鎚神社中宮・成就社の本殿と見返遙拝殿の右手、八大龍王の祠の傍に、第二十 稚子宮鈴之巫女王子社があるのを知った。

石鎚三十六王子社 Google Eaerhで作成
「王子社」に出合ったのはこれがはじめてではない。いつだったか、熊野古道・中辺路道を歩いたとき、熊野九十九王子社のいくつかに出合っていた。『熊野古道(小野靖憲;岩波新書)』によれば、熊野参拝道の王子とは、熊野権現の分身として出現する御子神。その御子神・王子は神仏の宿るところにはどこでも出現し参詣者を見守った、とのことである。

その王子社が石鎚山にもあった。王子社の建つ登拝道を辿りたいと思っていた。思っていたのだが、詳しいルートや所在地がわからずそのまま時が過ぎていた。が、思わぬところから石鎚三十六王子社のルートと所在地が登場した。 山歩きフリークの弟が平成22年(2012)に、既に石鎚三十六王子社を歩き終え、詳細な行動記録とルート地図・写真をHPにアップしていたのだ。昭和46年(1971)に、石鎚神社十亀和作宮司ら8名2泊3日の予定で現地調査し、昭和47年(1972)に『石鎚山 旧跡三十六王子社』として発行された小冊子などを基に踏査したとのことである。弟は藪漕ぎ専門で、歴史にそれほどフックが掛っていないだろうと思い込んでいたわけで、灯台下暗し、とはこういうことだろう。
弟の記事を読むまで、石鎚三十六王子社の建つところは、加茂川の谷筋から石鎚山山腹(標高1450m)の成就社に登る尾根筋にあるのだろう思い込んでいた。加茂川の谷筋を県道12号に沿って進み、県道142号と分かれる(氷見から上ってきた県道142号は、黒瀬峠から河口までは県道12号と同じ)河口(こうぐち)から、成就社のある石鎚山麓まで進む尾根道筋にあるのだろうと思っていたのだが、弟の記事によると、第一の王子社は黒瀬ダム近く、黒瀬峠あたりからはじまるっている。
大雑把に言うと、第一福王子社から第六子安王子社までは黒瀬峠から河口まで。加茂川の川筋に沿って、県道から比高差50mから150mほどのところを進む。次いで、第七黒川王子社から第二十稚子宮鈴之巫女王子社までは、河口から成就社までの尾根道を等高線にほぼ垂直に6キロ、比高差1200mほどを上る。 その先、第二十一大元王子社から第三十四夜明峠王子社までは、再びお山を西之川の谷筋まで下り、複雑極まりない順路をお山の夜明峠までに上っていくようだ。第三十五裏行場王子社と第三十六天狗嶽王子社は標高1980mの石鎚山頂・弥山にある、と言う。

ルートを想うに、車での単独行であり、第一から第六王子社までの10キロ弱は、車デポ地までのピストンを繰り返し1回か2回で終える。第七から第二十王子社のある成就社までの尾根道は6キロ程度、5時間ほどの歩きだろうから、一気に1回で終えることにしようと思う。車は河口の尾根道取り付口に置き、尾根を成就社まで進み、そこからロープウエイで下り、バスで車デポ地まで戻ればよさそうではある。第二十一から第三十六王子社までは今は冬でもあり、来年のお楽しみとなるだろう。
ということで、晩秋のある日、第一王子社から第六王子社まで歩こうと、スタート地点の西条市を流れる加茂川を堰止めた黒瀬ダム近くの黒瀬峠へと向かった。


本日のルート;
第一王子社から第四王子社まで
黒瀬峠>一の鳥居>黒瀬峠傍に車デポ>第一福王子社>上の原地区を進む>沢が切れ込む箇所に>「七曲り」を下り沢に出る>沢から拝礼道に登る>第二桧王子社>極楽寺分岐>極楽寺>植林地帯を進む>第三大保木王子社(覗の王子)>ザレ場を下る>第四鞘掛王子>県道に下りる
車デポ地に戻る
仙徳寺>極楽寺別院>西南日本中央構造線の黒瀬断層>車デポ地に
第五王子社から第六王子社まで
第五細野王子社に向かう>古長河内神社>細野集落への分岐道>細野集落跡>道が荒れてくる>迫割禅定>第五細野王子社>沢のガレ場を下る>第六子安王子社>ガレ場を下りる>旧県道の隧道>三碧橋



黒瀬峠
実家の新居浜市から国道11号を西条市に向かい、加茂川に架かる橋の西詰から左に折れる国道194号に乗り換え、加茂川に沿って北に向かう。松山道の高架が目に入る手前で右に分岐する県道12号に乗り換え、黒瀬ダムに沿って進み県道142号が合流する箇所まで車を進める。合流点の県道142号の黒瀬峠は切通しとなっていた。




黒瀬ダム
愛媛県の資料によれば、「黒瀬ダムは、洪水調節や農業用水などの不特定用水の補給及び工業用水の確保を目的として建設された多目的ダムであり、昭和39年度から調査を開始し、昭和41年度工事着手、補償問題、物価の上昇など様々な問題に直面しながらも昭和48年3月に完成しました。
ダム設置後の昭和50年代には、天然資源による循環型エネルギーの開発が強く望まれていたことから、住友共同電力株式会社がダムサイト下流約0.3kmの地点において、ダムから放流される流水の落差を利用したダム水路式の黒瀬発電所を建設し、昭和57年9月1日より水力発電を行っています」とあった。

一の鳥居
豪快な切通しが気になり、ちょっと県道142号に寄り道。切通しを抜けると無住と思える数軒の民家があり、その先に鳥居が建つ。鳥居の傍に石碑があり「砂田」とか、「昭和弐年拾月建立」といった文字が読める。昭和2年(1927)に建立されたようだ。この鳥居は石鎚神社の「一の鳥居」と称される。

が、ここでちょっと疑問。何故にこの地に一の鳥居が建つのだろう。あれこれチェックすると新居浜市の図書館にあった『石鎚信仰の歩み;発行代表者十亀興美(石鎚神社頂上社復興奉賛会発行)』に「一の鳥居」に関する既述があった。 その記事に拠ると、石碑には「奉納者砂田篤志、建立・黒川カメ 昭和弐年拾月建立、黒川実」と刻まれていることのこと。奉納者の砂田篤志氏は壬生川市三津屋の生まれで台湾で材木商を営み、台湾安里山の桧材を鳥居建立のため奉納した、とある。
台湾から材木を壬生川に船で送り、荷馬車でこの地まで運び、当時は大きい桧を削り両端を銅板で巻いたが、現在は腐食防止のため、亜鉛版入りのトタン巻きとなっているとのこと。建立に際しては、県道専用願いがなかなか許可されなかったようである。
なに故にこの地に?
建立の時期が昭和2年(1927)ということにより、この地に建立した要因を妄想逞しくするに、どうも県道の開削と大いに関係があるように思える。 『石鎚信仰の歩み』には、「明治末期に西条から伸びた県道も大正8年頃には大保木の極楽寺の下付近まで伸びる。氷見からの県道も大正9年には黒瀬峠の掘割工事が行われる。
大正10年には千野々まで開設が進み、極楽寺では県道の傍らに別院を建てる。昔は氷見から千野々まで駄馬が通っていたが、新道の開設により荷馬車が通行するようになる。
県道の開設により登拝者も長谷道(氷見からの県道142号沿いに長谷の集落がある)から黒瀬峠を越え、黒瀬からは新道を歩くように変わった。県道は大正15年に河口まで、昭和2年西之川まで伸びた」といった記事があった。 それまで山道を辿るいくつもの登拝道をお山に向かった登拝者も、新たに開削された県道を西条や氷見から黒瀬峠へと進み、そこからは加茂川の谷筋に沿って県道を河口(こうぐち)まで歩いた後、河口から今宮道や黒川道を上り、お山へと登ることになったのだろう。

で、何故にこの地か、ということだが、氷見からの県道を進み、西条から河口に向かう県道(当時は黒瀬ダムも建設されていないわけで、県道は現在の道筋より谷に下りたところを進んだのではあろう)に合流する地点であり、開削された切通し、という誠に「神々しく」もあり「わかりやすい」ロケーションを鳥居建立の地としたのではないだろうか。単なる妄想。根拠なし。
因みに「二の鳥居」は石鎚山の中腹、標高1450mの高所にある成就社にある(成就社境内の拝殿前にあるちょっと小振りな鳥居がそれだろう)。
石鎚神社
現在石鎚山信仰は石鎚神社が司る。石鎚山頂(弥山)の頂上社(奥之宮)、石鎚山中腹の成就社(中之宮)、里の本社(口之宮)の三社をもって石土毘古神(石鎚大神)を祀る。が、石鎚神社が石鎚山信仰の中心となったのは、それほど昔ではない。明治3年(1870)、明治新政府の神仏分離令により、石鉄神社(後に石鎚神社に改称)が誕生して以来のことである。
それまでの石鎚山信仰の経緯であるが、『山と信仰 石鎚山;森正史(佼成出版社)』には「役小角の開山と伝えられ、以来、前神寺・横峯寺を別当寺とし、石鎚大神を石鎚蔵王大権現と称して、1300年あまりにわたって神仏習合の信仰(石鎚修験道)を伝えてきたが、明治3年(1870)、神仏分離によって権現号を廃し、石鉄神社(のちに石鎚神社)と改めて、新たな出発をすることになった。
明治6年(1873)、別当の横峯寺を廃して西遥拝所と改め、8年(1875)には別当前神寺を廃して東遥拝所とするとともに、前神寺所管の土地建物など一切を神社の所有とした。さらにその後、明治41年(1908)には東遥拝所を改めて石鎚口之宮(本社)とし、西遥拝所を口之宮に合併して神社の新たな基盤を確立した」とある。
明治2年(1869)に始まった神仏分離の取り調べに関しては横峯寺のある小松藩からは、石鎚山に祀られる像(蔵王大権現のことだろう)を「神」と復名、前神寺のある西条藩からは「仏体」であるとして譲ることなく主張するなどの経緯はあったようだが、結局は1300年にわたって石鎚山信仰の中心であった別当寺・前神寺は廃され、その地は石鎚神社の本社となり、石鎚中腹にあり信仰の重要拠点でもあった「常住・奥前神寺」も前神寺から石鎚神社に移され、名も「成就」と改められ、成就社となり、また、横峯寺は西遥拝所横峯社となった。
前神寺・横峯寺のその後
寺領をすべて没収された前神寺は一時廃寺となるも、その処分を不服とし訴訟を起こすといったことを経て、のちに前上寺として現在地に再興され、明治21年(1889)には旧称前神寺に復した。同じく横峯寺も明治42年(1909)、再び横峰寺として旧に復した。明治新政府の性急なる神仏分離令への反省の状況も踏まえての処置ではあろうか。
因みに前神寺は四国霊場64番札所、横峰寺は60番札所でもある。

石鎚三十六王子社の散歩のメモをはじめようと思うのだが、そもそも「石鎚三十六王子社」の持つ音の響きに誘われて始めた散歩のため、石鎚三十六王子社のことなど、何もわかっていない。メモに先立ち少し頭の整理をしておこうと思う。


●石鎚三十六王子社●

王子とは、熊野権現の分身として出現する御子神。その御子神・王子は神仏の宿るところにはどこでも出現し参詣者を見守った。このことは既にメモした。 『熊野古道(小野靖憲;岩波新書)』に拠れば、王子の起源は中世に存在した大峰修験道の100以上の「宿(しゅく)」、と言われる。奇岩・ 奇窟・巨木・山頂・滝など神仏の宿る「宿」をヒントに、先達をつとめる園城寺・聖護院系山伏によって 参詣道に持ち込まれたものが「王子社」のはじまり」のようである。 石鎚のお山は、本邦初の説話集である日本霊異記に「石鎚山の名は石槌の神が座すによる」とあるように、山そのものが神として信仰される山岳信仰の霊地であった。山岳信仰伝説の祖・役行者が開山との伝説もある。
その霊山に役行者の5代の弟子・芳元(讃岐の生まれ)が大峰山で修行の後、石鎚山に熊野権現を勧請し、石槌の神は石鎚蔵王権現として信仰されることになる。これが石鎚に王子社が生まれるベースとはなったのだろう。
奈良時代、芳元によって石鎚のお山に王子社ができるベースが整ったとしても、それ以降、石鎚のお山にどのように王子社が誕生していったのかは、不明である。妄想するに、お山の各地に修験者によって修行の「宿」として王子社が出来たのではあろう。実際、大宅政寛覚書(文政5年)には今回辿る三十六社以外にも幾多の王子社の名が記録されている。
石鎚三十六王子社巡拝のはじまり
Google Earthで作成

山岳修験の地、『其の山高く嶮しくして凡夫は登り到ることを得ず。但浄行の人のみ登りて居住する』しかなかった石鎚山に、一般の人びとが登拝するようになったのは、近世も中期以降のこととされる。江戸時代に入ってからのことである。

『石鎚山と瀬戸内の宗教文化;西海賢二著(岩田書院)』によれば、一般の人びとが登拝するようになったのは講中が組織されるようになってから、と言う。お山の大祭の頃には、講を差配する先達に導かれ幟を立て、「お山は三十六王子、ナンマイダンボ(南無阿弥陀仏のなまり)」の唱えことばをかけながら、ホラ貝を鳴らし登拝道を進んだ。石鎚三十六王子社巡拝がはじまったのはこの頃、江戸の中期だろうとは思われるが、はっきりした時期は不詳である。
講中は愛媛県下ばかりではなく岡山、広島、山口県下一円からお山に上ってきた、とある。宿泊の地である石鎚参詣道の集落である黒川や今宮には『備後国又八組』『安芸国忠海講中』『安芸国西山講中』『安芸橋本組』『備中鬼石組』『周防大島講中』『備後尾道吉和講中』『安芸大崎講』『阿波赤心講』『備後久井講社』などと書かれた常連講中への目印となるマネキが宿の入り口に打ち付けられていた、とのこと。
講中・先達の制度は前神寺によってつくられた、とされる
『山と信仰 石鎚(森正史)』によれば、頂上を目指した「お山講」・「石鎚講」を指導したと先達は修験道から出た言葉で、霊山の登拝にあたり、同行者の先頭に立って案内、指導する、修行を積んだ経験豊かな修験者のことであり、石鎚の先達制度は前神寺によって創設されたとされる。
江戸時代中期、前神寺は道前・道後の真言寺院を先達所に指名し、先達(先達所の寺僧は大先達)と講頭(民間有力者)を中心に講中を制度化していった。明和6年(1769)に幕府に提出した資料には道前、道後の60の寺院・堂庵が記されている(明確なものは39寺院)。39のうち道前が7寺、道後が32と道後が多い。道後平野を主要拠点としている。
前神寺は文化10年(1813)から登拝の許可証といった先達会符の発行はじめる。先達と一般信徒(後達、平山)を識別し、先達に権威を与えるものである、この先達会符は現在でも形を変えて石鎚神社に踏襲されている。

江戸の中期頃からはじまった石鎚三十六社巡拝であるが、江戸末期には既に衰退しその場所も不明となっていたようだ。明治になると神仏分離、修験道の禁止などにより、三十六王子社巡拝は踏み跡も消え藪に埋もれることになったのだろう。

石鎚神社宮司による三十六王子社の現地踏査

その石鎚三十六王子社が再び日の目をみたのは石鎚神社宮司・十亀和作氏たちの努力による。「石鎚信仰は里宮本社、中宮成就社と石鎚山奥宮頂上社からなる。その道中石鎚霊山にちなむ三十六王子社が祀られるが、現在は唯掛け声として唱えられている伝語であるが、両部神道(「仏教の真言宗(密教)の立場からなされた神道解釈に基づく神仏習合思想(Wikipedia)」)の名残をとどめ、将来も石鎚信仰から消え去ることはない。
しかしそれだけではなんの意味もなく、これを究明するのが責務。各方面からの要望もあり、往古役行者より代々の修験者の、足跡を足で歩いて直に踏み訪ねる(『石鎚信仰の歩み』)」と昭和38年(1963)に企画し、社蔵の古文書や、古老の口碑、各王子社に建つ昭和六年十一月と記した石標(大十代武智通定宮司の時代)を元に現地踏査し、「何百年かの間、時代の変遷とともに登山道が逐次変更され、一部の王子を除いて殆ど日の目を見ない辺鄙と化していたため、探し当てるのは容易でなかった」王子社を46年(1971)に調査し、昭和47年(1972)に『石鎚山旧跡三十六王子社』として発行された。今回歩く石鎚三十六王子社はこの調査の結果比定された王子社である。

石鎚登拝道
石鎚のお山巡拝道として石鎚三十六王子登拝道をメモしてきたが、江戸時代のお山への巡拝道は石鎚三十六王子登拝道の他、いくつもある。『山と信仰 石鎚(森正史)』には、石鎚の北、瀬戸内側からの表参道、南からの裏参道、脇参道などに分かれるが、表参道だけをみても、
小松起点のルートとして

◇小松>岡村>綱付山>横峰寺>郷>モエ坂>虎杖橋>成就社>頂上
◇小松>大頭>大郷>湯浪>古坊>横峰寺>成就社>頂上
◇小松>大頭>大郷>途中之川>横峰寺>成就社>頂上
西条の氷見起点として;
◇中国地方から舟で西条市氷見の新兵衛埠頭>小松>岡村>おこや>横峰寺>黒川>成就社
◇氷見>長谷>黒瀬峠>上の原>上山>大檜>堅原>土居>細野>今宮>成就社(これが石鎚三十六王子社登拝道に近い)
◇西条>加茂川沿い>兔之山>黒瀬山>大保木
など。
また、『石鎚 旧跡三十六社』では、昭和36年(1961)の王子社調査隊は、里の本社(口之宮)から直接峰入りし、尾根道登り、遥拝所としての二並山(標高418m)を経て黒瀬峠へとトラバースするルートをお山信仰の古道として踏査している。
結構なバリエーションルートはある。が、大雑把に言ってどのルートを取ろうとも、最終的には河口集落へと収斂し、そこからは西条藩領である尾根を登る今宮道とそのバリエーションルートである三十六王子社道(前神寺・極楽寺信徒)、そして小松藩領である黒川の谷筋を登る黒川道(横峰寺信徒)を辿り常住(現在の成就社)に向かったようである。

Google Earthで作成
以上のようにお山には多くの登拝道がある。決して巡拝道は三十六王子社道だけではないということである。逆に、巡拝道は講中を組織した別当寺・前神寺より、もうひとつの別当寺である横峰寺経由の道のほうが多いようにも思う。また、登拝者の数も横峰寺信徒のほうが多い、といった記事もある。
『石鎚信仰の歩み』には、「安政の頃の参詣人は10,250人、慶応2年は9,249人、これらの人が別当寺である東の前神寺、西の横峯寺を経て登山していたとあり、また、西登山口の大頭に寛政4年(1792)建立の常夜灯などからして、昔は西の横峰寺を経ての登山者が相当多かったと思われる」とある。
どうも、「お山は三十六王子、ナンマイダンボ(南無阿弥陀仏のなまり)」の唱えことばをかけながらお山巡拝したのは、登拝者全体の一部と考えたほうがよさそうに思えてきた。王子社巡拝での「修行」もさることながら、第七王子社から第二十王子社まで比高差1000mほどを登った後、再び谷筋まで下り第二十一王子社から第三十四王子社まで行ったり来たりのルートをお山に向かって登り返すルートは、修験者ならまだしも、庶民の参詣者には少々辛いものではなかろうか。

「石鉄山」山号を巡る別当寺前神寺と横峰寺の紛争
それはそれとして、石鎚のお山信仰については、修験者だけのときであればいのだろうが、一般庶民がお山に登拝するようになると,お山に鎮座する別当寺の前神寺と横峰寺での争いが起こったようだ。お賽銭もばかにならないわけだから、「経済闘争」でもあろうが、『石鎚信仰の歩み』に拠れば、「基本は「石鉄山」という山号と、それにともなう「石鉄山」の別当寺の正当性を巡る争いのように思える。
享保14年(1729)横峰寺が「石鉄山横峯寺」の札を発行したことに前神寺が抗議し、京都の御室御所(仁和寺門跡)に訴える。その結果、「石鉄山之神社は領地が入り組んでいるが、新居郡石鉄山、西条領であり、前神寺が別当である、とし
予州新居郡氷見村 石鉄山 前神寺
予州周布郡千足村 仏光山 横峯寺」
との裁定がでた。

横峯寺は仏光山に限るべし。仏光山石鉄社別当横峯寺とせよ、ということであるが、この調停を不服とした横峰寺は享和元年(1801)御所の調停を離れ、江戸表・寺社奉行に「石鉄山別当職」を出願する。結果は,別当は前神寺として却下される。
また、お山では千足山村の者による奥前神寺打ちこわし事件が起こっている。現在石鎚神社中宮・成就社のあるこの地は小松藩と西条藩の境界であり、千足山村の言い分は、常住(奥前神寺)は小松領であるとして打ちこわしを行ったようだ。これにより、別当争いに境界争い、小松藩と西条藩の境界論争が加わることになる。
文政8年(1825)に出た幕府の裁定では、成就社の地所は千足村、別当職は前神寺、となったが、幕府からどのように言われようと、横峰寺は「石鉄の文字と別当の肩書」に執着している。なにがしかの「伝統」が根底にあったのだろう、と同書は記す。
明和5年(1768)の「道後先達通告書」には
石鉄山別当は前神寺に限る
先達初参者に御守授与のこと
石鉄山号は女人結界の地以外へは通ぜざること
横峯山号は仏光山にして石鉄山にあらざること
先達寺院権現を勧請祭祀せるは古来よりのことなり、その故をもっaて石鉄山号を唱うることなし
石鉄山参詣東西両道勝手たること

Google Earthで作成
とある。石鉄山別当は前神寺。横峯寺は仏光山の別当であり、石鉄山にあらず。参詣道については特段の規制はなし、ということであろう。このような石鉄山の別当としての正当性は前神寺優位ではあるが、参詣者は横峰寺経由のほうが多かったというのは、誠に面白い。
毎度のことではあるが、「石鎚三十六王子」という言葉の響きに誘われ、お気楽に歩いたものの、いざメモする段階であれこれ気になることが登場し、頭の整理に少々メモが長くなった。
今回のメモはここで力尽きた。実際の王子社散歩のメモは次回に廻すことにする。
Gppgle earthで作成

第四回「会津街道探索ウォーク:一泊二日」の二日目は西会津町縄沢からはじめ、束松峠までの散歩をメモした。今回は二日目の後半、束松峠を下り、会津坂下町天屋・本名の集落を経て、只見川手前の会津坂下町片門集落までをメモする。



本日のルート:出発地点・国道49号(縄沢)>兜神社>甲石の採石場とネズミ岩>ガラメキ橋と一里塚跡>大畑茶屋跡>旧会津街道に>軽沢新道>軽沢>旧越後街道道標>舗装道とクロス>戊辰戦争塹壕跡>束松峠

束松峠>子束松>切通し>束松洞門>天屋一里塚>地辷(地滑り)点>旧街道石畳跡>旧越後路木標>「旧道入口」木標>天屋の束松>峠の六地蔵>松原屋>津川屋>阿弥陀堂>束松事件跡>そば畑>諏訪神社>片門集落>片門の渡し跡>肝煎・渡辺家>片門の薬師堂・薬師如来>長龍寺


束松峠から会津板下町片門まで

子束松:12時53分
束松峠で休憩の後、12時50分前に峠から下る。道脇に「子束松跡」の案内があり、「県指定天然記念物の通称「子束松」は、養成のかい無く、枯死したため、平成10年6月伐採した」とあり、周囲に松の木らしき倒木があった。
束松
子束松?天然記念物?そういえば、束松峠にこれといって、「束松」の案内がなかった。あれこれチェックすると、束松峠の会津坂下町側の山麓に、根元で束ねられたような形状のアカマツが十数本あったのが、名前の由来。その内4本が天然記念物に指定され、この「子束松」もそのひとつであった、と。

切通し:13時
子束松から10分弱、緩やかな尾根筋を進むと、道の左手に尾根筋を切通した箇所がある。ここが江戸の会津・越後街道と明治に開削された道の分岐点。もともとの会津街道は、切り通しで分断された尾根筋を下っていたようである。
切り通しを越えたところに、旧街道への分岐点がある。右に折れると旧街道、明治に開削された道は直進し、束松洞門に向かう。

分岐点の傍に「束松洞門」の案内がある。概要をメモする;
束松洞門
「束松洞門は、ここ天屋側入り口から軽沢入り口まで、全長約240mのトンネルで、明治20年(1887)、地元民の努力により貫通。
明治となり、人・物の移動がそれまでの人や馬に代わり、馬車や荷車等により大量に運ばれることになる。
会津五街道のひとつ、越後海道は新発田藩・村上藩でもあり、幕府の佐渡路でもあったが、束松峠は険しく馬車の通行を阻むものであった。
このため明治10年には鐘撞堂峠から西羽賀・野澤芝草に通ずる裏街道が計画され、明治15年には時の県令三島通庸による会津三方道路越後街道が藤峠経由となる。
かつて宿駅として栄えていた舟渡・片門・天屋本名・軽沢などの住民は、生活に困ることになり、「夢よもう一度」と洞門を掘ることを思いつき、明治13年の頃から測量を開始し、紆余曲折を重ね、明治27年新道も完成、落成式が行われる。
洞門入り口には茶屋も設けられ、馬車も人力車も通る道として賑わいを戻したのも束の間、鉄道の開通、自動車の普及はこの洞門道を不要としてしまった。 昭和20年頃までは修繕を重ね、通行できたが、今では崩落激しく通行不可となった(高寺地区地域つくり協議会)」。

束松洞門;13時13分
馬車の通れるような広い道、路肩の崩れた箇所などを進むと大きな広場となり、その先の岩壁に洞門が見える。入り口部分の坑口は半分以上土砂で塞がれている。土砂を上り内部を見る。結構広い。
広場にあった「束松洞門概略図と内部状況」によれば、全長236mの洞門はこの天屋・本名側入口と軽沢側入口が土砂で埋まっており、天屋・本名側はそれでも坑口の半分ほどの空きスペースがあるが、軽沢側はほとんど閉塞状態(人ひとりギリギリで通れる空きスペースとか)。洞門内部も2箇所崩落土砂でスペースが狭くなっているようである。

束松洞門の開削の趣旨は、上記「束松洞門」の案内の通りであるが、若干補足すると、産業振興のため、道路整備を進める明治政府のもと、明治10年、当地を管轄する区会所が、鐘撞堂峠以西は束松峠を通らない上記路線計画を示たわけだが、路線の変更に対し、天屋・本名・杉山・軽沢(現西会津町)の4集落からなる束松村(明治8年に成立)では、同年7月に福島県に対して本街道の北側に新しい道路の開削を建言している。
が、結果は区会所案とも異なるもの。新たに県令(県知事)になった三島通庸は、明治15年(1882)に越後街道の鐘撞堂峠以西を、藤峠経由で野沢に至る、いわゆる会津三方道路の開削計画に変更した。

「束松洞門」にある、「夢よもう一度」と洞門を掘ることを思いつき、明治13年の頃から測量を開始し・・・」の件(くだり)は上記現実を踏まえてのことである。
村人は自らの力で建設した新道(「明治新道」)の格上げ運動を引き続きおこない、昭和も終わるころ「県道」に指定されたようだ。
この洞門を抜け軽沢に抜ける道は県道431号・別舟渡線となった。しかし、工事整備されることなく、今に至る。
尚、束松峠手前で出合った舗装道を県道431号と上にメモし、その未通区間について「思考停止」としたが、その舗装道は本来、束松洞門を抜ける県道431号・別舟渡線のバイパスとして企画されたようである。県道431号・別舟渡線は本線も、バイパスも途中で道が途切れ、未通県道となっている。

束松洞門軽沢側入り口とその先のルート
ところで、束松洞門軽沢側入り口はどの辺りにあるのだろう。あれこれチェックすると、軽沢側入り口は軽沢側の等高線400mが東に切り込んだ最奥部。そこから350m等高線まで等高線400mの北側カーブに沿って緩やかに下り、そこでヘアピンカーブで折り返し。折り返して再び350m等高線まで戻り、そこから350m等高線に沿って進み、軽沢からの県道341号が磐越自動車道を越え、左へと稜線に延びる破線(天屋林道)に繋がる。

天屋一里塚;13時31分
束松洞門から道を戻り、切通し手前で左に折れて尾根筋を進むと標高401ピークの傍に天屋一里塚。街道の両側に塚が残る。一里塚からの眺めは会津坂下町とその向こうの勝負沢峠の山稜であろうか。
この一里塚について「主催者資料」に、「寛文7年(1667)頃つくられた。会津では一里壇とも呼ばれる。一対の塚が残るのは会津領の越後街道では唯一」と。
また、「一里壇に木(私注;いい木?)を植えよ」を「榎を植えよ」と聞き違いため会津では榎が塚に植えられた、とあるが、全国の塚の過半数が榎であり、松が四分の一強、次いで杉が一割、というから、特段榎は会津特有のものではない。
家康が「ええ木を植えよ」を「榎」と聞き違えたといった話もある。実際の所は、成長が早く大木になり、枝が多くでるので木陰で旅人が休息が来れる、といった利点からとも言われる。



地辷(地滑り)点;13時39分
一里塚から少し下ったところに「地辷り」の案内;
「大正14年2月14日夜此処一里壇の直ぐ傍ら即ち旧越後街道を削って谷のように陥没し、上部の幅は凡そ4,50間、下方の幅は凡そ100間余の地辷り。その長さ170間本名村新田郷(私注;不鮮明)を埋没して終わった。
そのことごとくが山林で樹木が姿を消し所有者数人の境界さえ不明となる。是を本名八百刈りの地辷りと言う。 平成三年 」とあった。
尾根道がちょっと坂のように陥没している感があるが、それが痕跡だろうか。直ぐ下を磐越自動車道が走っている。

旧街道石畳跡;13時44分
地辷(地滑り)点から5分程度下ったところに「旧街道石畳跡」の木標。とはいいながら、よく見ればそうかな、といったもの。「主催者資料」にも、「束松峠の通行が盛んだった明治初年まえは、石畳が何kmも続いたが、炭焼き窯に使われたり、馬車の通行に邪魔になったりで、今ではほとんどなくなってしまった」とある。
石畳道といえば東海道箱根越え・西坂に残る「本格的」石畳道を想い起こす。箱根の石畳を歩いたのは雨の日。つるつる滑り、誠に危なかった。沢上りの時には、底にフェルトのついた渓流シューズの代わりに草鞋といった選択肢もあるわけだから、旅人は泥濘より楽ではあろうし、馬も蹄鉄ではなく草鞋履きが主流の日本ではあったわけで、それなら石畳でも不都合なかったのだろうか。

旧越後路木標;13時50分
「峠路の雨はつめたし朴の花 昭和10年 桂林(私注;満田桂林;詳細不詳)」と書かれた木碑を見遣りながら下ると「旧越後街道入口」の木標。今下って来た道が旧越後街道。木標脇に「左 新道」と有る。束松洞門を経て軽沢に向かって開削された「明治新道」の道筋かと思う。明治新道って残っているのだろうか。
そういえば、束松洞門に向かう切通しの尾根道手前に道があったように思える。切通しには車が写真に写っているし、主催者の四駆も束松峠まで上ってきているわけであり、車が通れる道が残っているとも想像できる。地図には全くその道筋は記載されていないが。。。

「旧道入口」木標;13時55分
旧越後街道から5分程度下ると、あたりが開ける。尾根筋を進んで来た旧越後街道が山裾に下りたということだろう。旧越後街道へのアプローチを示す「旧道入口」の標識が建つ。これだけ「旧道」を明示するということは、新道・明治新道が未だ「現役」って思いを強くする。


天屋の束松;13時57分
「旧道入口」の傍、道の、右手のすこし高くなったところに「天屋の束松」の案内;
「旧越後街道に沿う標高300メートル前後の丘陵地帯に、束松と呼ばれる特殊な樹形のアカマツが10数本ありました。これらの松は樹幹の下部から中部にかけて多数の枝を出し、傘状の樹冠を形成しています。枝の形状が、あたかも根元で束ねたような姿を示すので、束松の名がついたと言われます。このような樹形は、おそらく遺伝的なもので、成長するにしたがって独特の樹形を示すようになったと思われます。
束松群の中で特に目立つ4本が、県の天然記念物に指定されましたが(子束松・孫束松・曾孫束松・三本松)、松枯れ等により子束松、孫束松、三本松は枯死してしまいました。ちなみに三本松という名は、胸高幹周囲が2メートルをこえ、地上1.5メートルのところで3本の大枝に分岐するので、この名があります。また、束松峠という名も、峠頂上に大きな束松(江戸時代に枯死したといわれます)があったので、その名がついたといわれています」とある。
「主催者資料」には、「平安時代末期、八幡太郎義家公が、前九年の役の際、ここを通り、戦勝を祈願して数本の松を束ねて植えたもの根付いて、今のようになった、という伝説もある」とあった。八幡太郎義家とその父頼義は、此の地から束松を越え兜神社のある縄沢へと下って行った、ということだろうか。

三本松

「天屋の束松」の脇に大きな切り株が残る。これが束松のひとつ、三本松の巨木跡だろう。なお、傍にあった「束松峠案内」を見ると、枯れ死した「孫束松」は束松同門の切通から越後街道を少し下った道の左手、唯一残っている「曾孫束松」は、この三本松跡から右手に進んだ辺りに描かれている。

明治新道
「束松峠案内」には、越後街道と共に、「新道」が描かれていた。「明治新道」ではあろう。ルートは、三本松の少し埼で越後街道の左手に移り、上述した「越後街道入口」木標のところで、越後街道の左手に移り、切通し箇所で越後街道とクロスし束松洞門へと向かっていた。
街道を歩きながら、何故に「越後街道入口」とか「旧道入口」といった標識が並び建つのか、不可解であり、そこまえ標識がある以上、新道・明治新道は未だ「現役」であろうと想像したが、この明治新道のルート図を見て、けっこう筋のいい想像であったと自画自賛。
塩の道
「束松峠案内」の近くに「塩の道一里壇束松を詠ふ」といった句碑が建つ。「会津づくし吟行」という愛好家の詠う句が石碑に刻まれている。句は別にして、「塩の道」というフレーズに惹かれた。
塩の道は全国各地に見られる。「塩の道」として知られる信州千国から大網峠を越えて越後の糸魚川に出たことがある。越後街道も内陸と日本海を結ぶ往還として「塩の道」としても重要な役割をはたしていたのだろう。
牛と馬
それはともあれ、いままで歩いた会津街道の説明で、荷運びの主役は馬のようであり、「牛」があまり登場しなかった。大網峠越えの「塩の道」の荷運びの主役は牛であった。その塩の道も、松本から南の街道では輸送の主役は馬である。 千国街道が馬ではなく牛が使われた理由は、その地形から。難路、険路の続くこの千国街道では「柔」で「繊細」な馬では役に立たなかったのだろう。しかも、馬に比べて牛はメンテナンスがずっと簡単、と言う。馬のように飼葉が必要というわけでもなく、路端の「道草」で十分であった、とか。
会津街道大量運搬の主役で「牛」が登場することはないのだろうか?千国峠越えの牛の供給先は佐渡であったようにも記憶するのだが。。。

峠の六地蔵;14時3分

数分先に進むと道の左手にお地蔵さま、右手に鳥居が建つ。お地蔵さまの傍には大きな石に水が溜まる。お地蔵さまは峠の六地蔵、鳥居は山王の社であった。 「峠の六地蔵」の案内には、「明治の初めのころまで、ここに茶屋があり「地蔵の茶屋」といいました。大きな地蔵の後ろには六地蔵が控え、聖徳太子の石碑・庚申塔などがあります。前には大きな石の船があって、かつては馬の水飲み場でした。
街道は人馬だけでなく神々も往来しました。悪い神が村に入らないように村境を守ってくださるのが、地蔵様でした。
聖徳太子は職人の神様、庚申塔の申(猿)は馬の守り神ということから、祀られたものと考えられます。

道向かいの鳥居は山王神社の鳥居です。社殿はありませんが石の祠があります。山王神社のお使いは猿です。ここにも馬の守り神としての猿があります。当時の人々が馬を大切にした心情が切々と伝わってきます。 高寺地区地域づくり協議会」
地蔵様と遮神
いつだったか、信州から越後に抜ける塩の道をあるいたことがある。そのとき大網峠を越えて糸魚川に出たのだが、途中「塞の大神」と称される大杉があった。
「塞の神」って村の境界にあり、外敵から村を護る神様。石や木を神としておまつりすることが多いよう。この神さま、古事記や日本書紀に登場する。イサザギが黄泉の国から逃れるとき、追いかけてくる「ゾンビ」から難を避けるため、石を置いたり、杖を置き、道を塞ごうとした。石や木を災いから護ってくれる「神」とみたてたのは、こういうところから。 「塞の神」は道祖神と呼ばれる。道祖神って、日本固有の神様であった「塞の神」を中国の道教の視点から解釈したもの、かとも。道祖神=お地蔵様、ってことにもなっているが、これって、「塞の神」というか「道祖神(道教)」を仏教的視点から解釈したもの。「塞の神」というか「道祖神」の役割って、仏教の地蔵菩薩と同じでしょ、ってこと。神仏習合のなせる業。
お地蔵様といえば、「賽の河原」で苦しむこどもを護ってくれるのがお地蔵さま。昔、なくなったこどもは村はずれ、「塞の神」が佇むあたりにまつられた。大人と一緒にまつられては、生まれ変わりが遅くなる、という言い伝えのため(『道の文化』)。「塞の神」として佇むお地蔵様の姿を見て、村はずれにまつられたわが子を護ってほしいとの願いから、こういった民間信仰ができたの、かも。
ついでのことながら、道祖神として庚申塔がまつられることもある。これは、「塞の神」>幸の神(さいのかみ)>音読みで「こうしん」>「庚申」という流れ。音に物識り・文字知りが漢字をあてた結果、「塞の神」=「庚申さま」、と同一視されていったのだろう。
馬の守り神・猿
馬の守り神が猿?はじめて聞いた話でもありチェック:
日光東照宮の有名な「見猿・言わ猿・聞か猿」も社の神厩を守るため猿の像が彫られた、と。昔から猿は馬の病を治し、世話をする守り神とされる、印度から中国をへて日本に伝わった。由来には諸説あり、省略するが、正月に猿回しが厩の前で舞う(厩の前で猿が舞ったのが猿廻しのはじまり、とも)、厩に猿を飼う、猿廻しが来ないところでは、猿の頭蓋骨や骨を吊るし牛馬の無事を願う民間信仰があった、と言う。猿が馬を曳く図が刻まれた庚申塔もある、とのことである。

松原屋;14時16分
六地蔵から10分強で、里が開ける。天屋・本名集落に入り坂道を下ると、道の左手の天屋側(道の北が天屋、南が本名)に松原屋が建つ。「主催者資料」には「戦後まで旅籠を営んでいた。客室の蔵座敷は明治初年に建築されたもので、二棟並ぶ。家の前には水車があり、石畳も敷かれていたが、舗装路となりその面影はない」とあった。

津川屋:14時18分
集落を進み、三叉路の天屋側に津川屋がある。旅籠屋であるが、束松洞門を開削し明治新道が開かれた後は、人力車のサービスも始めた(「主催者資料)。
本名の斎藤家
三叉路から少し南に本名の肝煎・斎藤家がある。「主催者資料」には、「戊辰戦争では本陣として使われ、西軍の刀傷が残っている。明治初年には民生局が置かれる。家の東の高台にはふたつ米蔵跡があり、「一屋は社倉、一屋は本組(野澤組)の米を納める(『新編会津風土記』)」とある。組とは既述の通り(そのⅡ)、数ヶ村から大きくは数十ヶ村をまとめた会津藩の行政組織。

「旧越後街道間の宿天屋・本名」案内
三叉路隅に「旧越後街道間の宿天屋・本名」案内があった。
「旧越後街道間の宿天屋・本名
天屋本名の集落は、街道を挟んで北が天屋、南が本名となりそれぞれ別の行政区となっている。『新編会津風土記』によれば、「天屋村は昔、満田といったが永正のころ(一五〇六~二〇)天屋と改めた。もとは村北五町にあったがいつ頃かここに移した。北条時頼がこの村を通った時(陸奥の満田の山の束松千代の齢を家つとせん)と詠んだと村人たちは伝えている」と記されている。
村中の街道は明治初年までの越後街道で、白河街道の一部、さらには幕府の佐渡道であり、新発田藩・村上藩の参勤交代路でもあった。
江戸時代、会津藩は宿駅制度を定めると、束松峠の峻険を控えた天屋本名は、片門・野沢両駅所の「間の宿」として荷物の輸送や旅宿で賑わった所でもある。名物は生蕎麦で、片門の宿に止まった人たちも、わざわざ天屋蕎麦を食いに登ってきたという。
明治十五年、会津三方道路は、束松峠の険を避け、藤峠経由となってしまった。さしも殷賑(いんしん)を極めた越後街道も人影まばらに、天屋本名は生活の道を失うに至った。
地元民は再び昔の賑やかさを取り戻そうとして、独力で束松峠に長さ四十間余(約二五〇メートル)の洞門を掘り車馬の通行を可能にした。しかし、ときは車・鉄道の時代となり、夢は潰れたが、村人の努力と団結心は今に受け継がれ豊かな集落となっている。束松峠を護る会 会津坂下町教育委員会」とあった。

阿弥陀堂;14時34分
天屋集落の北、只見川に向かって一段低いところに阿弥陀堂。創建時期、延長元年(923)とも言われるが不詳。現在の御堂は昭和18年(1913b)の火災称焼失後建てられたもの。
御堂には像高54㎝の木造坐像。11世紀前半の作と比定され、町の文化財に指定されている。火災により膝前の損傷が激しいこの仏さまは、薬師如来とも考えられている(「主催者資料」)。

束松事件跡;15時12分
本名集落の南に鎮座する諏訪神社を見遣り道を進み、只見川に注ぐ小さな川を渡った先に「束松事件」の現場がある。
案内を大雑把にまとめると、「束松事件は越前藩士久保村文四郎が会津藩士に殺害された事件で、ここ片門新田場が現場である。ここは越後街道に交差して柳津藤(私注;この地の南)から西羽賀(私注;この地の北)に通じる十字路で逃走には絶好の場所であった。
敗戦の若松に置かれた民生局の役人久保村文四郎は、会津藩士を侮辱したり、罪のない会津人を偽札の罪人と言って投獄したり、平生から藩士の恨みを買っていた。
明治2年任終わって故郷の福井に帰郷することとなり、駕篭で新田場滝沢橋近くにさしかかったとき、藪から二人の刺客が現れ殺害される。刺客は西羽賀方面に逃げた。
刺客は剣の達人で高潔の士、伴百悦と高津忠三郎。伴は翌年追われて大安寺村で割腹して果て、高津は明治政府転覆の思案橋事件に加わり断罪された。高寺地区地域づくり協議会」
伴百悦
戊辰戦争後、町野主水(『その名は町野主水;中村彰彦』に詳しい)のもと、「埋葬方」として討死した会津藩士の埋葬に尽力。阿弥陀寺、長命寺など16の寺に1700人弱の藩士の遺体を埋葬した。埋葬後も続いた久保村の嫌がらせへの遺恨が事件の引き金、かと。
思案橋事件
明治9年(1876年)に東京思案橋(現東京都中央区日本橋小網町)で起こった明治政府に対する士族反乱未遂事件。同年山口県士族の前原一誠らが起こした萩の乱に呼応する形で、旧会津藩士永岡久茂らにより起こった。
千葉県庁を襲撃し県令を殺害したのち、佐倉の東京鎮台歩兵第2連隊を説得して日光から会津若松を襲い、前原に呼応して挙兵する予定で、東京・思案橋から千葉に向けて出航しようとするも、新政府の知るところとなり駆け付けた警官隊と切りあいとなり、計画は未遂に終わった。

そば畑
道を進む。道の南北、道路から一段下ににソバ畑が広がる。結構美しい。で、「主催者資料」に「この付近で南を見ると、磐越道が見えます。今から四十年ほど以前は、この道路とほぼ並行に繋がっていたが、以下は道路だけが高くなっている」とあり、「此の河成段丘堆積物は、沼沢湖浮石質左岸、会津シラス層などと言う火山の噴出物の堆積です。大沼郡金山町に巨大なカルデラ湖の田沢湖があるが、その噴出物の堆積です」とある。
パラグラフのつながりがよくわからなかったのだが、地図を見ると、道の南、磐越道との間のソバ畑の区画が如何にも人工的に「カクカク」と削られている。堆積物を掘り返し、その後をソバ畑としたのだろうか。

諏訪神社;15時33分
ソバ畑を見遣りながら道を進み、道が只見川に近づき右に坂を下りる手前に諏訪神社がある。
案内には、「『新編会津風土記』に村西一町十間余にあり勧請の年代知らず」とある、伝説によれば、永仁元年(1293)、黒川城主芦名盛宗が新宮助成を河沼郡の笈川に破ったとき、諏訪大明神の神徳に感謝して、これを信濃から勧請したという。
このとき神輿のお休みになられ所、お泊りになられたところにこの神社をまつったといわれる。
上野尻、野澤、天屋、坂下など越後街道に沿って諏訪神社がみられる。 高寺ふるさとを興す会」とある。
境内に入り拝殿にお参り。境内には神仏混淆の痕跡だろうか、大日如来、三体の仏の顔が刻まれた馬頭観音(?)らしきものが祀られた小祠があった。
高寺
先ほどから案内に、「高寺」という名称が登場する。明治22年(1889)町村制の施行により成立した片門村、束松村、高寺村が昭和29年(1954)合併し、改めて高寺村となる。昭和30年(1955)周辺の村と合併し河沼郡高郷村(現喜多方市)となるも、昭和35年(1960)高郷村のうち旧村域の高寺・片門および束松村)が会津坂下町に編入され、現在に至る(Wikipedia)。案内に年代の記載がないので、はっきりしないが、この辺りを総称して、現在も「高寺地区」と言うのだろうか。

片門集落;15時45分
諏訪神社から段丘崖を下る「諏訪の坂」を進み、只見川の堤防に近づく。対岸下流は川の侵食により大きく崩れた崖が見える。『新編会津風土記』などに、「慶安2年(1649)3月煙霧掻き曇り大地鳴りわたって岡阜陥り」、地欠けとなったとある(「主催者資料)。
只見川に架かる片門橋南詰を東に越えると片門の集落に入る。
片門
「主催者資料」をもとに、片門の概要をメモ;
片門は只見川を挟んで、舟渡の集落と向かい合う。藩政時代、片門は野澤組、舟渡は坂下組と行政区域が異なるが、相まって越後街道の相駅であった。月の半分は舟渡、後半分は片門と交互に駅所の務めを果たした。
天屋本名が間の宿であり、舟渡片門は本宿であるにもかかわらず、商いの荷の多くは天屋本名にかかり、舟渡片門は利の薄い公用の荷であったため、その改善を代官所に訴えている。
片門は、只見川の1キロほど上流の元村にあったが、いつのころからか、此の地に移った。元村にあった鎮守の住吉神社は、諏訪神社境内に遷宮している。 片門の地名の由来は、只見川に面した道半分には家がなかったため。暴れ川である只見川の治水工事が完成した昭和30年頃まで、洪水被害が多かったとのことである。
片門は舟渡とともに本宿として荷物や人の往来で賑わったが、先述の天屋本名同様、明治に開かれた三方道路が藤峠経由となったため、往来が途絶え、生活に窮する。
これを救ったのが渡辺新八郎。養蚕を奨励し、上野原にスモモを栽植し自力更生を図った。片門桃は有名だった。
戦後は、只見川からの揚水により、十文字原は美田となり、豊かな村に一変した」とある。
また、明治11年(1878)、此の地を通ったイギリス人女性紀行家イザベラ・バードは「私は片門の集落で米俵に腰を下ろしてしていた。阿賀野川(私注;只見川の誤認)を臨んだ高処にあるこの集落には急勾配の屋根をもつ家がごちゃごちゃと集まっていた。ここには二〇〇頭以上の駄馬が群れをなし、かみ合ったり激しく鳴いたり跳ねたりしていた。
私が馬から降りる前に一頭の質の悪い馬が激しくぶつかってきたが、木製の大きな鐙(あぶみ)に当たっただけですんだ。しかし馬に蹴られたりかまれたりしないですむ場所を見つけるのは難しかった。
私の荷物を乗せた馬も荷物を下ろすと、歯をむき出して攻撃して人々を右往左往させたり、前脚で激しく突っかかったり後脚で蹴ったりと、大暴れし、果ては〈馬子〉が壁を背に身動きできないよう追い詰める始末だった(『日本奥地紀行』)」とその賑わいを書き残す。

片門の渡し跡;15時46分
片門橋を東に進み「片門の渡し跡」に。川の侵食により大きく崩れた崖の対面辺りである。この渡しは船橋も架けられたようで、舟を繋いで作った橋は天保(1830‐86)の頃から幾度か架橋されるも、洪水の度に流されている(「主催者資料」)。
明治元年(1868)には舟橋が新調され、明治11年(1878)にはイギリス人女性紀行家イザベラ・バードもこの船橋を渡り、著書である『日本奥地紀行』に「私たちは阿賀野川(私注;只見川の誤認)という大きな川にかけてある橋をわたったが、こんなひどい道路にこんなりっぱな橋があるとは驚くべきことである。これは十二隻の大きな平底船から成る橋で、どの船も編んだ藤憂の丈夫な綱に結んである。だからそれが支えている平底船と板の橋は、水量が一ニフィートの増減の差ができても、自由に上下できるようになっている」と記してある。
この船橋も昭和2,3年頃をもって終了し、昭和9年には永久橋が架橋され渡し舟は任務を終えた。
渡し守安堵状(塩田家)
『新編会津風土記』によれば、「此の渡し場は往古よりありしと見え、北条時頼この所を過ぎしとき渡し守に与えし文書ありという。今も毎歳元日に白衣を着て渡しはじむという。その後、芦名修理太夫盛高より与えし文書なりとて今に渡し守次郎兵衛が家に蔵む」とある。
時頼は、渡守のこぐ船が速かったため、「早川」の姓を与えたといい、今でも早川姓の家がある。次郎兵衛の子孫塩田家には、永正3年(1506)芦名盛高の安堵状、烏帽子直垂が伝えられる、とある(「主催者資料」)。
北条時頼
鎌倉幕府五代執権である北条時頼は、康元元年(1256)その職を辞し出家し、最明寺入道となったあと、水戸黄門ではないけれど、諸国を巡ったとされる廻国伝説が残る。上野国佐野荘を舞台にした謡曲『鉢の木』などが知られるが、廻国真偽のほどは不明。

実のところ、諏訪神社の辺りでGPSの電池が切れ、替えもなく、集落内のトラックログがとれず、薄れゆく記憶を呼び覚ましの体ではあるが、塩田家は渡し跡から南に二筋入った道にあったと思う(?)。100均で4,5本セットの単三電池では初日も二日目も終盤に電池が切れた。100均故の嘆きである、

戊辰戦争時の片門・舟渡
只見川という天然の要害があるとすれば、この片門・舟渡の辺りで会津藩兵と西軍の攻防があったので、とチェック:
戊辰戦争の際、会津軍にとって只見川が西軍越後方面軍に対するの最終防衛ラインと想定され、対岸の船渡宿に布陣。対する山形有朋率いる西軍は片門宿に布陣し砲撃戦が繰り広げられる。両軍は只見川を挟み10日間戦うも、若松城下に進軍した西軍の一派が会津軍の背後を突き会津藩兵は撤退、西軍は一気に鶴ヶ城まで進軍することになるようである。
片門・舟渡の攻防戦の詳細
上記まとめの元となった資料は臨場感もあり、以下掲載しておく;
八月二十六日、津川より退却したるが我が軍は只見川を渡り舟渡を扼し、胸壁を築き船橋を扼し、胸壁を築き舟橋を切断し沿岸の舟筏を収む、遊撃隊、白虎一番寄合組隊は舟橋を守り、純義隊は東羽賀(舟渡の西北北半里強)を守る〔続国史略後篇、遊撃隊日記、白虎隊十高木八郎談〕。
この時に当り、陣将上田学太輔は大原(舟渡の東北北半里許)の本営に在り、純義隊総督大竹主計、同隊長小池周吾は東羽賀に在り、軍事奉行飯田兵左衛門は窪村(舟渡の北にて近し)軍事局に在り、純義隊付属兼務望月辰太郎、白虎一番寄合組隊中隊頭原早太等窪村の胸壁を守る〔望月辰太郎筆記〕。
八月二十八日、東西両軍川を隔てゝ相持す、東兵は大砲を装填し四もに撒兵してこれに備へ、西兵は前岸片門(舟渡の対岸に在り)の山上に大砲を袈置し舟渡を俯して連弾す、すなわち塞を海岸に連ね地を鑿ち穴居して弾を避く、舟渡は若松を距る五里にして砲声雷のごとく聞ゆ〔続国史略後篇、遊撃隊日記〕。
朱雀四番士中隊、並付属隊、砲兵隊、結義隊は高久より軍を返し舟渡に来る、時に令ありて山三郷(南は日橋川、西は越後国東蒲原郡、北は羽前と岩代の界なる山脈、東は喜多方平野に限られたる山間の地域を俗に山山郷と称しき、この地域は藩政の比木曽、大谷、吉田の三組ありしを以て三郷と称せしなるべし)方面に赴く〔累及日録、横山留総日記〕。
同二十九日西兵早朝より砲銃を発して戦を挑む、東兵胸壁に據りて戦う、弾丸雨注す〔遊撃隊日録〕。
九月五日連日胸壁に據りて砲戦するのみにして戦勢発展せず、これにおいて軍事局は議を決し純義隊と山三郷方面に赴きたる諸軍と保成峠より退却せる大鳥圭介の兵とを以て進撃せしめんとし、樋口源介を館原の陣営(山三郷方面に赴きたる諸軍の陣営地にて日橋川と只見川と合流する所となり)に遣わし交渉して方略を定めしめたるが、樋口未だ帰らざるにたまたま西軍南より若松城下に入りし者兵を分つて坂下を略し進んで舟渡の背を衝く、諸隊、軍事局ことごとく出でゝしきりに発砲して防戦す、前岸の西兵は喊声を発し大砲を連発して来撃し勢甚だ猛烈なり、東軍支えず諸隊、軍事局と共に陣将上田学太輔に従い大原より山を越え宇内村(大原の東一里弱)に退く、片桐喜八は兵を督し止まりて防戦したるも、ついに衆寡敵せずして退く、上田陣将以下全軍山崎(宇内の東北半里)の渡頭を渡り戍の刻頃鹽川に退却し陣将萱野権兵衛の兵に合す〔続国史略後篇、望月辰太郎筆記〕。

肝煎・渡辺家;15時54分
集落を進む。渡し守安堵状のある塩田家の東北側に立派な屋敷が建つ。片門村の肝煎・問屋であった渡辺家とのことである。塩田家にしても、渡辺家にしても、またそれ以外にも片門の集落には結構立派な建屋が並ぶ。

片門の薬師堂・薬師如来:16時
実際にルートは上述の如くGPS が電池切れのためはっきりしないが、写真の時刻から次は片門の薬師堂に向かったようだ。集落の東端、杉林の中にお堂があった。
お堂の前に「県指定文化財 木造薬師三尊及び十二神将立像」の案内;
「薬師如来坐像
像高135センチメートル、ケヤキ材の一木造。目は彫眼。頭の螺髪は大きく、顔はやや面長で、瞳・眉・口ひげを墨で描き、唇に朱を入れています。両肩から腹部、両袖、膝に流れる衣文は太くて素朴であり、ある種 たくましさを感じさせますが、写実性に欠けるところがあり、鎌倉時代末期の地方作であることを示してる。
日光・月光菩薩立像
像高146センチメートル及び147センチメートル。ケヤキ材の一木造。彫眼。顔が面長で、人間くささがにじみでている。**(私注;ピンボケ)を二段にまとめ、大づくりであるが、やや**(私注;ピンボケ)を曲げて、上半身と下半身のバランスが崩れていることなど、鎌倉時代末期から室町時代初期の特徴が現れています。月光像の背面に延元元年(1339年)の墨書がある 十二神将立像
像高いずれも65センチメートル前後。小型ながら写実的であり、躍動的。三尊とはやや趣を異にするので、別人の作で、少なくとも南北朝時代を下ることはないと思われる」とある。

堂内に入り、薬師三尊(薬師如来・日光菩薩・月光菩薩)、十二神将立像を拝観。個人の散歩では堂宇内の仏さまを拝顔することなどほとんどないので、ありがたい経験であった。「主催者資料」には「高寺に八薬師あって、大同年中(806-809)そのひとつの月光薬師を移したものと伝わる。
マムシ除けの薬師として有名で、その守り札を出している。三尊とも*彫りで、地方仏らしい素朴さがあり、月光菩薩の記念銘によって、延元元年(1336)の作と伝わるが、十二神将は躍動的なモデリングから、本尊より若干古いと考えられる。
堂舎は堂内の由緒書によって、大工、結縁の人々などが判明し、建築費用などが記されている。これによると、寛政8年(1796)の落慶であることがわかる」とあった。
高寺
「主催者資料」に「高寺に八薬師ありて」とある。何のこと?チェックする; 高寺は片門から只見川を隔てた舟渡の北東、標高401mの高寺山一帯に、往時 三千余の堂宇を従えた総本山のお寺さま。舟渡から進む会津・越後街道の鐘撞堂峠も、高寺由来のものである。
欽明天皇元年(540)、中国。梁の国から渡来した僧青巌が阿賀野川を遡上し、会津坂下町にある山を聖地とし、草庵を結んで仏教布教の拠点とした、山のふもとの村人は、高い所に寺が建ったため高寺と言い、いつしか山の名前が高寺山となった。
高寺山には立派な七堂伽藍が建ちならび並び、繁栄するも8世紀後半に内紛で堂宇すべて焼失。9世紀初頭には再興され、子院「高寺三十六坊」が建立され、「高寺三千坊」と呼ばれるほどの全盛期を取り戻す。
その後、徳一(会津街道散歩の第一回でメモ)の開いた恵日寺と勢力争いが始まり、ついに戦火を交えることとなり、結果高寺山は敗れ建物は全部焼かれ、建久元(1190)年、滅亡、高寺は"伝説"となる。今は随所に残る寺所以の地名以外、何一つ寺の跡は残っていない。

長龍寺;16時19分
薬師堂を離れ、マムシが生息したという湿地跡を辿り、長龍寺に向かい、ここで西会津町・上野尻からはじめ、一泊二日で野澤宿、束松峠をへて会津坂下町片門までの「会津街道探索ウォーク」を終える。

特に会津街道に対する思い入れもなく、お気楽に参加したのだが、ガイドの先生方の予想以上に「ディープ」な解説に、問題意識・背景知識皆無のわが身には、散歩当日は何が何やらさっぱりわからず、歩けるだけで十分と当日を楽しんだ。
で、メモする段になり、常の如く、あれこれ問題意識が生じメモも長くなってしまった。いつもは自力で資料探しからはじめるわけだが、今回は主催者である「にしあいづ観光交流協会」のこの企画のために用意して頂いた30ページにも及ぶ詳細な資料の助けもあり、助けとなった。
資料つくり、旧道の藪刈りなど主催者スタッフの皆さまに感謝。
第四回「会津街道探索ウォーク:一泊二日」の初日は、西会津町上野尻の西寺からはじめ、往昔の野澤宿を巡り、西会津縄沢まで歩いた。おおよそ13キロ、休憩も含め6時間半ほど歩いただろうか。
Google earthをもとに作成
散歩のメモは常の如く、実際にその地を訪ねて、あれこれ気になることが現れ、メモも多くなってしまい、結局2回に分けることになった。
二日目は初日のゴールである西会津町縄沢からはじめ、束松峠を越え、会津坂下町天屋・本名の集落を経て、只見川手前の会津坂下町片門集落まで歩くことになる。
メモをはじめるこの時点では、実際に歩いたという事実と、ガイドの先生方から受けた詳しい説明の「断片的」理解だけ。常の散歩では、実際歩いたトラックログと位置情報の着いた写真だけから、都度気になったことをメモしていくのだが、この度の散歩には、既述の如く、探索ツアー主催の「にしあいづ観光交流協会」作成の詳しい資料(「以下「主催者資料」」が手元にある。その資料を参考・引用させていただきながら、メモをはじめることにする。

本日のルート:出発地点・国道49号(縄沢)>兜神社>甲石の採石場とネズミ岩>ガラメキ橋と一里塚跡>大畑茶屋跡>旧会津街道に>軽沢新道>軽沢>旧越後街道道標>舗装道とクロス>戊辰戦争塹壕跡>束松峠

束松峠>子束松>切通し>束松洞門>天屋一里塚>地辷(地滑り)点>旧街道石畳跡>旧越後路木標>「旧道入口」木標>天屋の束松>峠の六地蔵>松原屋>津川屋>阿弥陀堂>束松事件跡>そば畑>諏訪神社>片門集落>片門の渡し跡>肝煎・渡辺家>片門の薬師堂・薬師如来>長龍寺

縄沢から束松峠

出発地点・国道49号(縄沢):8時25分
2日目のスタート地点は、初日のゴール地点である、西会津町縄沢集落からの道が国道49号に合流した地点。宿泊ホテルからマイクロバスで初日ゴール地点まで向かう。
それにしても、企画ツアー参加の移動は楽である。先月、先々月と5回に渡り「予土国境 坂本龍馬脱藩の道」を歩いたが、単独行。予土国境の幾つもの峠を越えるため、車を谷筋にデポし、峠を越えて次の谷筋に着くと、ピストンでデポ地に戻り、車を山を越えた谷筋に移す。このプロセスを5日に渡り繰り返す。その苦労を考えれば「天国」である。

国道49号を進む
不動川に沿って国道49号を進む。国道49号は、福島県いわき市から新潟県新潟市へ至る一般国道。太平洋と日本海を結ぶ。この内、会津地方と越後を結ぶ道は、経路変更はあるものの、概ね会津三方道路のひとつを核に整備された。 明治15年(1882)福島県令に就任した三島通庸は、明治17年(1884)会津三方道路を竣工。福島県会津若松市の大町札の辻から 西(新潟側)、 北(米沢側)、 南(日光側)の三方に向かう新道整備・道路改良工事が実施される。
新潟側は、経路の変更はあるものの、会津・越後街道をベースにしたものである。とはいえ、その道路は砂利道以下、といった状況。現在の国道なるのは昭和39年(1964)の一級国道昇格を機に、改良工事が進められた後のことである。
盲淵
道すがら、ガイドの先生より「盲淵」のお話:縄沢村の民が不動川の「盲淵」の辺りで馬に水を呑ます。そのとき、何故かわ知らねど、河童も掬い上げ、胡乱な姿に打ち殺そうとする。が、命乞いを聞き届け、河童を淵に返すと、それ以降水難に遭うことはなくなった、と。
伝説は伝説でいいのだが、気になったのは、淵で馬に水を呑ませた、という件(くだり)。現在国道は不動川から少し離れたところを進んでいるが、かつての道・街道は、現在よりずっと川寄りの地を通っていた、ということだろう。地図を見ても、両岸に岩壁、間隔の狭い等高線が谷筋に迫る。土木技術が進めば道もできようが、それ以前は、ほとんど沢筋を進む、または大きく尾根を進むしか術(すべ)はない。実際、国道と不動川の間には会津三方道路の痕跡も残るという。

兜神社;9時
北から沢筋が不動川に合流する箇所の少し上流に架かる兜橋を渡り兜神社に。Google Steet Viewでチェックすると兜橋のゲートが閉じられている。山菜などを取る不埒者の侵入を防いでいるのだろうか。当日は、地元の方が社の清掃を行っていた。ために、ゲートが開いていたのか主催者が事前にアレンジしてくれていたのか不明ではあるが、ともあれ、橋を渡り参道を上り、岩壁を掘り抜いた神社に御参り。



◆甲岩
神社に上る狭い参道脇に大岩がある。それが甲岩。天喜5年(1057)、源義家が前九年の役で奥州に赴く途中、ここで甲を脱いで休憩。甲を忘れ出立し、引き返すと岩となっていた、と。
現在の岩を見て、甲(兜)の姿は想起できないのだが、これは慶長年間(1611年)の地震で「しころ」部分が欠け落ちた、ため。崖の下にはその欠けた部分が落ちている、と言う(「主催者資料」)。
源義家の伝説
散歩の折々で、源頼義・義家親子の奥州遠征にまつわる伝説の地に出合う。鎌倉の源氏山からはじまり、大田区の六郷神社、多摩丘陵の百草八幡、杉並区の大宮神社周辺、板橋区の熊野神社、足立区の竹ノ塚神社、炎天寺など枚挙に暇ない。
最初は、所詮は伝説、またか、などと思っていたのだが、足立区の奥州古道歩きをきっかけに、その道筋を調べたのだが、伝説の地を結ぶと「奥州古道」と重なることが多かった。物事にはそれなりの理由がある、ということだろう。

兜石観音岩
兜橋から兜神社が祀られる岩壁を眺める。ガイドの先生の説明によれば、兜石観音岩と呼ばれる、と。兜神社周辺の岩は切り出され石材として利用された時期もあったようだが、この観音岩だけは村民の人々の信仰により守られてきた、という(「主催者資料」)。
この辺りは「甲岩」と地名にあるが、集落があるように思えない。「村人」とは縄沢の村民と言うことだろう。



切石川(不動川)に沿って国道49号を進む;9時40分
兜神社で「スズメバチ」騒動もあり、兜神社出発は9時40分。兜神社に架かる橋に「切石川」とあった。これから上流は切石川と呼ばれるのだろう。岩盤石材を切り出した故の川名ではあろう。
道の右手に兜神社でみた岩壁が見えてくる。これだけの規模であれば石材切り出しも頷ける。一面岩壁ではあろうが、草木で覆われ岩壁の全容を見ることはできない。

甲石の採石場とネズミ岩;9時52分
道を進むと、国道から左手の小径に入る。往昔の会津街道の道筋ではあろうか。小径を進むと正面に岩壁とネズミ岩と呼ばれる大岩が見える。
グリーンタフ
対岸の岩壁は緑色凝灰岩でできている。2500万年から1500万年前頃、大規模な海底火山の噴火が起こり、そのとき海底に堆積したものである。グリーンタフと呼ばれるようだ。
グリーンタフは柔らかで切り出しやすく、墓石や階段石などに利用できるため、大正4-5年頃、新潟の事業家が大量に切り出すことになった。採石場をつくり、野澤停車場まで馬車で運び、そこからは大正3年(1914)に全面開通した岩越線(1917に磐越西線と改称)を使い、新潟へと運ばれた。
会津産の石は「若草石」として、兵・蔵・墓石・石畳などとして重宝されたが、 現在は他用材の登場により、採掘されることはない(「主催者資料」)。
ネズミ石
「ネズミ石」は、言われてみれば「ネズミ」のようでもある。「主催者資料」には、「グリーンタフで壊れやすく、採石時多くの犠牲者が出たようで、ねずみ岩の下に観音様が祀られている」とある。

ガラメキ橋と一里塚跡;10時7分
ネズミ岩から10分弱、切石橋に架かるガラメキ橋を渡り、国道は川の右岸に移る。橋の東詰め近くに一里塚があったようだが、今はその痕跡もない。三方道路改良工事の折に潰されてしまったのだろう。また、東詰めから切石川右岸を下ると、採石場に続く道があるようだ。
ガラメキ
「ガ1ラメキ」は表記は異なるが、全国に散見する。歌で名高い江戸川の「矢切の渡し」は「ガラメキの瀬」とも言う。浅瀬で石が「ガラガラ」と音をたてるから、とか。「がらめく」とは「ガラガラ鳴り響く」の意、とのことである。

大畑茶屋跡;10時27分
ガラメキ橋から20分ほど進むと、右手、青坂村・青坂峠からの沢筋が切石川に合流する少し先に「大畑茶屋跡」がある。道の左手の平地がその跡とのことだが、痕跡は何もない。
「主催者資料」に拠ると、「縄沢村の東約2-3㎞の所の街道傍に家が一軒あり、大畑という。縄沢端村・甲石から片門村端村・軽沢間の約2.8㎞区間に人家なく、冬の吹雪に苦労する旅人のため、安永8年(1779)に、青坂村の農民がこの茶屋を開いた(『新編会津風土記』)とある。
その願いに対し、大畑村を領分とする縄沢村は異議を唱え、茶屋開設の条件として縄沢村に「駅所」開設を求める。この反論・駅所開設願いが延享3年(1746)であるから、願い出て開設まで30年以上かかったことになる」ととことである。
青坂村・青坂峠
会津街道・越後街道の道筋をチェックしていると、その道筋は「束松峠を越え、青坂峠を経て野澤宿に」といった記事も多い。普通に考えれば、束松峠を下り、この大畑から沢筋を南に上り、青坂峠から尾根道を走沢川が不動川に合わさる手前の縄沢村に下りていったのだろう。
昔の街道は、土砂崩れなどの危険を避け、安定した尾根筋を通るのが普通である。川筋を街道が通るようになったのは、土木技術が進んだ江戸の頃から。東海道の箱根越えの道も、中世は芦ノ湖畔から尾根筋を箱根湯元まで下るが、江戸の頃には早川に沿って箱根湯本まで街道が通っている。
会津街道のこの青坂峠越えの道も、狭隘な渓谷を進むよりはるかに安全であろうから、ある時期このルートを通っても、違和感は、ない。

甲石の山賊
この話はガイドの先生が、兜神社の辺りで説明してくれた伝説であるが、登場人物の山賊が甲石から東に0.7kmの横沢という小さな沢の側、入小屋という字のあたりの住んでいたというから、この大畑茶屋跡あたりだろうと、ここでメモする;
話はこの辺りに住む山賊・伊藤掃部が旅の僧に出合い、その法力に接し改心し百姓として入小屋を開墾して暮らした、というものであり、話そのものはよくあるプロットである。
が、気になったのは、その旅の僧が会津若松徒町・浄光寺開基の教尊であり、この伝説を踏まえて甲石は浄光寺の檀家という説明。
教尊は越後・会津で浄土真宗の大寺院を建てた僧であり、その高僧の法力・功徳の話として、趣旨はわかるのだが、気になるのは「甲石は浄光寺の檀家という件(くだり)。甲石に集落といっても国道沿いに数軒目にしただけなのだが、昔は街道沿いに、もっと多くの人が住んでいたのだろうか?
浄光寺
浄光寺は、もと後鳥羽院の第二子が信濃に下ったとき、親鸞に帰依し開基したお寺さま。その縁もあり、12世教尊は信長の石山本願寺攻めの際、信濃・越後・美濃・尾張・近江の信徒に本願寺への兵糧米供出を策し、自らも石山本願寺に籠る。
が、寺は焼け落ち。教尊は越後に落ち、浄光寺を建て、末寺42を建てるに至る。会津には文禄元年(1592)、城主蒲生氏郷に乞われ坂下に。そこに浄光寺を建て、これも40以上の末寺をもつ大寺院となった、と言う。

旧会津街道に;10時36分
大畑茶屋跡から国道を10分ほど歩くと、左手の崖へと道を折れる。昔の会津街道の道筋のようである。茅の野を過ぎ、桐畑脇を20分弱歩き、束松峠手前の軽沢集落への車道(県道341)に戻る。
別茶屋(わかれちゃや
地図で見ると、旧道を歩いた辺りは「別茶屋」と記されている。旧道に入らず国道49号を進むと、藤峠へと向かう国道49号と束松峠へと向かう道に分かれる。旧来の会津街道・越後街道と、会津三方道路として明治17年(1884)県令三島通庸の指示で竣工した分岐点である。会津三方道路は従来の束松峠を抜けるルートを避け、藤峠を越える「藤村新道」を開削した。
当初別茶屋は会津街道と会津三方道路の「別れ」を意味していたのかと思っていたのだが、藤峠ルートは明治17年(1884)の会津三方道路開削以前、人も通わぬ間道であり、この「別れ」は、藤峠ではなく、藤峠手前で更に南に下り只見川筋・柳津に抜ける「柳津道(現在県道342号)」のことであった。近年まで重要な往還であったようだ。

軽沢新道
束松地区で旧道から舗装された道(県道341号)に戻り、軽沢集落に向かう。ガイドの先生から軽沢新道開削の話があった。概要をまとめると;
この切石川両岸は浸食谷で河岸段丘もなく、道は川底を通るしかなく、雪崩や大水に襲われると逃げ場がなかった。元文4年(1739)、軽沢から切石川右岸約1080mの岩壁を掘り抜く工事が行われた。
砂岩・凝灰岩の岩壁を穿つこの工事費用の三分の一は野澤原村の篤志家が負担。藩普請ではなく民間篤志家がお金や労力を負担する『寸志人足』と呼ばれる会津藩の制度である。

『寸志人足』と会津藩の財政状況
ここでちょっと疑問。勘ぐり過ぎかもしれないが、会津藩って、普請を民間に託すほど財政が厳しかったのだろうか?Wikipediaに拠れば、「第4代藩主の容貞の時代である寛延2年(1749年)に、不作と厳しい年貢増徴を原因として会津藩最大の百姓一揆が勃発する(中略)宝暦年間(私注;1751‐1764)における会津藩の財政事情は借金が36万4600両であり、毎年4万2200両の返済を迫られていたが財政的に返済は困難であり。。。」とある。
「主催者資料」に藩内巡見の4代藩主・松平容貞の御下問に、この軽沢新道の話が出る。Wikipediaの記事と併せ、藩の財政が危機に陥る頃かとも思う。上位「勘繰り」は強ち「妄想」だけではない、かも。

軽沢;11時13分
軽沢の集落に。民家は10軒弱?空き家らしき民家もある。「主催者資料」には、「この集落は、現在は西会津町であるが、以前は片門(現在会津坂下町)の端村。山林・原野に乏しい片門は、集落の北の鳥谷山(私注;580m)が草刈場・薪採集場」とあった。



旧越後街道道標;11時34分
道を20分程度上ると「旧越後街道道標」が建つ。指示に従い道を右に折れ旧道を進む。因みに、Google Street Viewで見ると、「道標」は見当たらない。「にしあいづ観光交流協会」の方が整備してくれたのだろうか。






舗装道とクロス;11時43分
10分ほど進むと舗装された道とクロス。地図を見ると、先ほどの道標を真っ直ぐ進み、磐越自動車道を越えた先から分岐し、この地を通り、その先で切れている。
この舗装道ってなんだろう?チェックすると、どうも先ほど歩いてきた県道341号別舟渡(わたりふなと)線のようである。県道341号は束松峠の東、会津板下町にも表記があり、その間が不通区間となっている。その事情など知りたいところだが、深堀利するとメモが先に進まない。取り合え巣思考停止としておく。

戊辰戦争塹壕跡;11時58分
県道341号から再び土径に入り、主催者の方が藪を刈り込んで整備してくれた様子の残る道を15分ほど上ると戊辰戦争塹壕跡。小振りな造りである。
いつだったか、尾瀬を歩いたとき、尾瀬沼・大江湿原に戊辰戦争の会津軍陣地があったことを思いだした。会津口の福島・檜枝岐に陣を張る幕府・会津軍が群馬・片品村に陣をはる新政府軍を急襲し、群馬県片品村の戸倉が戦いの舞台となったが、尾瀬の地が戦いの場となることはなかったようだ。


束松峠;12時2分
戊辰戦争塹壕跡からほどなく束松峠に。見晴らしが素晴らしい。「主催者資料」には、「イザベラ・バードがその著『日本奥地紀行』に、「こんどは山岳地帯にぶつかった。その連山は果てしなく続き、山を越えるたびに視界は壮大なものになってきた。今や会津山塊の高峰に近づいており、ふたつの峰をもつ磐梯山、険しくそそり立つ糸谷山、西南にそびえる明神岳の壮大な山塊が、広大な雪原と雪の積もっている渓谷をもつ姿を、一望のうちに見せている。
これらの峰は、岩石を露出させているもののあり、白雪を輝かせているものもあり、緑色に覆われている低い山々の上に立って、美しい青色の大空の中にそびえている。これこそ、私の考えるところでは、ふつうの日本の自然風景の中に欠けている個性味を力強く出しているものであった」と抒情的に描く地をこの束松峠では、とある。

明神岳から延びる山稜の向こうにかすかに見えるのが会津盆地ではあろう。糸谷はどこか特定できなかった。

峠には「峠の茶屋跡」の案内、秋月悌次郎の詠じた『北越潜行の詩』を刻む石碑とその案内が建つ。

峠の茶屋跡
「標高465メートルのこの束松峠頂上には昭和三十年代まで二軒の茶屋があった。「寛政4年(1792)片門・本名の両村よりこの頂に茶屋二軒(『新編会津風土記』)」を構え、お助け小屋を設けて、険阻なこの峠を越える人の便宜を図った。
十返舎一九の『奥州道中金草鞋』に記されているように、焼き鳥・あんこ餅が名物であった。茶屋からは高寺山塊を隔てて、会津盆地が一望され、彼方に秀峰磐梯山を望むことのできるこの峠は、会津に向かう人にとっては、はじめてみる若松城下であり、去る者は別離を流す峠であった。
「戊辰戦争敗軍の将」秋月悌次郎が越後に奥平謙輔を尋ね、会津の行く末を託しての帰途、雪の束松峠から遥かに若松城下を望み「行くに輿無く返るに家なし」と会津の行く末を想い「いづれの地に君を置き、また親を置かん」と慟哭の詩「北越潜行の詩」を詠じたのもこの峠であった(会津坂下町教育委員会)」とある。

二軒の茶屋があったこの峠は、街道の「間の宿」で、旅人の休憩・一泊の宿泊は許されていた(「主催者資料」)。焼き鳥・あんこ餅ではないが、「甘口で 行かぬ世渡りなればとて ここの汁粉の塩の辛さよ」と呼んだ十返舎一九もこの茶屋で休憩でもとったのだろうか。

「北越潜行の詩」碑
「北越潜行の詩」を刻んだ石碑の脇に「漢詩」の書き下し文と秋月悌次郎の人となりを解説した案内がある。併記する。
「故ありて北越に潜行し帰途得る所
 〈詩碑〉       〈案内板〉
行無輿兮帰無家 行くに輿(こし)なく帰るに家なし
國破孤城乱雀鴉 国破れて孤城雀鴉(じゃくあ)乱る
治不奏功戦無略 治は功を奏せず戦いは略無し
微臣有罪復何嗟 微臣罪あり復(ま)た何をか嗟(なげ)かん
聞説天皇元聖明 聞くならく天皇元より聖明

我公貫日発至誠 我が公貫日(かんしつ)至誠に発す
恩賜赦書応非遠 恩賜の赦書(しゃしょ)応(まさ)に遠きに非ざるべし
幾度額手望京城 幾度(いくたび)か手を額にして京城を望む
思之思之夕達晨 之(これ)を思い之を思うて夕(ゆうべ)より晨(あした)に達す
憂満胸臆涙沾巾 愁い胸臆(きょうおく)に満ちて涙巾(きん)を沾(うるお)す
風淅瀝兮雲惨澹 風は淅瀝(せきれき)として雲惨憺(さんたん)
何地置君又置親 何れの地に君を置き又親を置かん
秋月韋軒胤永

◆簡単に意訳をしようとも思ったのだが、詩心も無く、どうも「詩格」が失われそうである。以下注をメモする。おおよその意味はこれでわかるかと。

輿;乗り物
雀鴉;スズメと烏
貫日(かんしつ):日々を貫く行い
赦書; お赦しの書状
京城;天皇のいる京都

秋月悌次郎のひととなり
漢詩の書き下し文の後に、秋月悌次郎のひととなりについての解説が続く; 「秋月悌次郎は通称で諱(いみな・本名)は胤永(かずひさ)、字(あざな)は子錫(ししゃく)、韋軒(いけん)と号した。
戊辰戦争時には藩の公用人として各藩との外交交渉を通して、始めから終わりまでつぶさに関わってきた。敗戦開城式をとり行ったのち、かねて旧知の西軍参謀である長州藩士奥平謙輔を越後に追って、幽閉先の猪苗代を密かにぬけだし、会津藩の善処を願うとともにその未来を託す若者の教育をたのんだ。その帰途雪の束松峠で詠んだのが、この「北越潜行の詩」である。
また、これによって束松峠を越えて学問をうけた若者の一人が、後の東京・京都帝大などの各大学の総長を歴任した白虎隊総長山川健次郎である。
後年、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は秋月を「神のような人」と敬愛した。 よって、この地、束松峠茶屋跡に誌碑を建てる。一八二四生、一九〇〇没。」
石碑は平成二十五年十月吉日とある。大河ドラマ「八重の桜」でその存在を知られたこともあり、秋月の功績を伝えようと、顕彰会や愛好家が建立したと、「主催者資料」にあった。戊辰戦争の頃の会津の士、特に山川健次郎の兄、山川大蔵を主人公に描く『獅子の棲む国:秋山香乃』を思い出した。

ここでお昼。山道を四駆でお弁当を運んで頂きた主催者である「にしあいづ観光交流協会」の方に感謝。

また、二日目のメモも途中ではあるが、ここで終える。束松峠から会津坂下町の片門までのメモは次回にまわす。

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