古道を辿るの最近のブログ記事

先回の散歩のメモでは、高知城下から参勤交代初日の宿泊地、布師田までをメモした。繰り返しになるが、今回の土佐北街道ルートハンティングの元となる『土佐の道 その歴史を歩く;山崎清憲(高知新聞社)』にある、布師田から權若峠取り付き口の釣瓶までのルートを記しておく;
布師田から先で市域は高知市から南国市に入るが、ここでルートはふたつにわかれる。ひとつは国分川南岸の中島を経由し国分川を八幡渡瀬で渡り返し北進し南国市岡豊町八幡に向かう。この道筋は初期の参勤交代道である野根山街道、通称「東街道」への道筋でもあったようだ。 そしてもうひとつは高知大学医学部の北を進み、右手に長曾我部氏の居城・岡豊城の建つ丘陵地を見遣りながら岡豊町八幡に出て、ここでふたつのルートは合流する。八幡は長曾我部氏ゆかりの別宮岡豊八幡宮由来の地名だろう。
合流点から先も二つのルートに分かれる。ひとつは現在の県道384号を領石に向かうもの。もうひとつは合流点から直ぐ、笠ノ川川を越え比江を経由して領石に向かうもの。比江経由の道は北街道が参勤交代に開かれた当初の道筋。比江の高村家を初日の宿泊所とした頃のもの。布師田に布師田御殿ができて以降は、直接領石を目指すようになったという。
領石川右岸の地にある領石で合流したルートは領石の送り番所を経て北進。一の瀬渡瀬で領石川を左岸に渡り、その先楠木渡瀬で右岸に、更に亀の本渡瀬で再び左岸に渡り直し、谷筋の小さな渡瀬を経て最後に梼山川の「下着渡瀬(私注;「着」はママ)を北に渡ると權若坂の登山口に着く、とある。
亀の本渡瀬から先は、過日土佐北街道・權若峠越えのとき、上述『土佐の道』に記載のないふたつの渡瀬を確認しており、そのルートを補足すると、亀の本渡瀬で領石川左岸に移った土佐北街道は、「左手渡瀬」で中谷川の右岸に移り、その先中渡瀬で左岸に渡った後、中谷川に合わさる梼山川の左岸から下り付け渡瀬で右岸(北)に渡り權若坂の登山口に着くことになる。

ルートは以上の通りである。計画では『土佐の道』に記載されるポイント、Google Mapに記載される「土佐北街道」、それと別の機会に既に確認済のポイントを頼りに道を繋ぐつもりであったのだが、思いがけなかった賜り物が布師田御殿跡にあった土佐北街道の詳しいルート図。この地図のおかげで、布師田から八幡合流点までは、ほぼ往昔のルートを辿れたと思う。
また当初渡瀬や送り番所など見つかるかどうか不安であったが、ほぼ見つかった。ために領石から釣瓶まではほぼ往昔のルートを辿れたとは思うのだが、八幡の合流点から領石まで、特に比江経由の北山道はあれこれ調べた上ではあるが、それでも推定の域を出ていない。八幡合流点から領石までのルートは参考程度と考えて頂きたい。
ともあれメモを始める。



本日のルート;
高知城下から布師田御殿跡まで
高知城>追手筋>山田橋・山田番所>茂兵衛道標(100度目)>比島橋>掛川神社>鳥付橋>土佐神社お旅所>お堂>石淵送り番所>岡村十兵衛先生住居跡>社>一木権兵衛先生の墓所>布師田御殿跡
布師田から岡豊町八幡の北岸・南岸ルート合流点まで
国分川北岸ルート
権兵衛井流>前田元敏先祖の墓所>奥官慥斎・奥宮健之父子の屋敷跡>西山寺>葛木橋>>葛木男神社>丘陵切通し>国分川筋に右折>山崎川・蒲原橋>山崎川橋>県道384号に出る>岡豊城跡>岡豊別宮八幡宮>県道を右に逸れ県道252号に出る
国分川南岸ルート
葛木橋を渡り国分川左岸に>郡境石>県道252号を左折し国分川に向かう>岡豊橋>県道252を北進し北岸ルートと合流
□地図に記載された「土佐北街道」ルート
山崎川・蒲原橋>山裾を水路に沿って東進>岡豊橋北詰めに出る
北岸・南岸ルート合流点から領石まで
□直接領石を目指すルート□
県道252号を右に逸れる道に>県道384号右手に笠ノ川地蔵>県道384号を左に逸れ丘陵土径に>県道384号をクロス>高知道インター高架下を進みルート合流点に
□比江経由のルート□
笠ノ川川渡河地点>検地帳>左折・検地帳>県道256号に出る>左折し国分小学校東の道に>国府小学校の東の里道を北進>阿波塚神社>道のえき風良里(ふらり)>丘陵地の土径を進み国道32号に出る>高知道インターの北のルート合流点に
領石より権若峠取り付き口の釣瓶まで
県道384号に出る>領石の送り番所>天満宮>一の瀬渡瀬>楠木渡瀬>清川神社>県道33号に出る>亀(瓶)の本渡瀬>県道を右折し林道釣瓶線に>左手渡瀬>中渡瀬>下り付きの渡瀬>権若峠・釣瓶取り付き口



布師田から岡豊町八幡の北岸・南岸ルート合流点まで

布師田から先で市域は高知市から南国市に入るが、ここでルートはふたつにわかれる。国分川北岸ルートと南岸ルートがそれ。まずは北岸ルートから。上述の如く布師田から国分川にそって北岸を進み、高知大学医学部キャンパス辺りから道を北に変え、キャンパス敷地北側を進み 右手に長曾我部氏の居城・岡豊城の建つ丘陵地を見遣りながら岡豊町八幡に出てるルートである。 当初、Google mapに「土佐北街道」と記載される、高知大学医学部キャンパス南を進む計画であったが、布師田御殿跡に土佐北街道の詳しいルート図があり、この道を辿ることにした。

国分川北岸ルート

権兵衛井流
布師田御殿跡を離れ案内にあった北街道の道筋のひとつ、国分川北岸ルートを進む。布師田ふれあいセンターの直ぐ先は国分川。堤防に沿った道を少し北に進むと左に逸れ山裾を進む道がある。北街道はこの左へと逸れる道に入るが、その分岐点に「権兵衛井流(ゆる)」の案内。 「布師田の国分川北岸の用水路に設けられた水門施設。通常は水量の調節を行うが、洪水など増水時には用水路の水門は閉めて下流への浸水を防ぎながら、近くに設けた別の水門を開けて国分川に水を流し、上流を浸水から守ったり堤防の崩壊を防ぐための仕組みです。 同じような施設が約 520m 離れた場所に一ヶ所ずつ計二ヶ所設けられていて一本権兵衛先生が発案して普請した水門として、権兵衛井流"と呼ばれています。布師田の誇る義人で一領具足出身の一木先生が野中兼山に抜擢され活躍されるきっかけとなったと言われる水門です。 現在も普請された当時とほとんど同じ場所にあって、当初の目的通りの運用を基本として地域で管理されています。
当時土佐藩の基盤を拡大強固にするため、土木・灌漑・干拓・港湾事業等を強力に進めていた執政野中兼山は物部川の山田堰工事の検分に行く途中布師田でこの"権兵衛井流"を目にして驚き、村人に問いただして一木先生を呼び出し、どのような考えでえこの水門を作ったか述べさせました。
一木先生は上記のような機能を考えて普請したことを話しました。それは兼山が山田堰から多くの用水路を作る計画の中で考えていた仕組みと正に符号するものでした。
すぐに郷士に取り立てられ一族百名ぐらいとともに山田堰に関係して用水路の建設に関わり、技 術の確かさや有能さが証明されたそうです。
その後兼山の計画する重要な工事で責任者を務めました。山田堰の工事をはるかに上回る仁淀川の治水灌漑工事や手結港の浚渫・津呂港の工事などがあります。兼山失脚後多くの部下が責任を問われる中で一木先生は珍しくお咎めなしとされ、土佐藩を挙げての三年がかりの大工事、室津港拡張工事の普請奉行として着任し、延宝七年(1679 年)六月工費十万三千五百両・役夫百七十三万人を投入して完成しました。
一木先生は難工事着手に当たって海神にわが身を捧げることを誓って成功を祈り、工事が無事完成した六月十七日夜、港上に場を構え、鎧・兜・太刀を海神に献じた後、未明に自ら人柱となり 切腹して亡くなられました。予算を何倍も越えた工事の責任を取ったと言われていますが、生前の 兼山からの、「御普請には存分の金銀を費やしても構わぬ、ただ、完全なものに仕上げることだ。」 を正に実践したのであって、また、郷士として取り立てられた恩を忘れずに、兼山一族に対する処 置への抗議の意思も込められていたとも言われています。
野中兼山の偉大な業績は失脚によって色あせるものではなく、兼山の元で実際に多くの工事に関わり現在の布師田や室戸方面・仁淀川流域等の発展の基礎を作って下さった一木権兵衛先生の業績を出身地のこの布師田から長く語り継いでいきたいものです。 布師田の未来を考える会」とあった。

前田元敏先祖の墓所
權兵衛井流に沿って道を進むと、道の左手に「前田元敏先祖の墓所」の案内;
「前田元敏は、幕末から明治大正にかけて活躍した日本を代表する英学者の一人です。安政4年(1857年)土佐藩士前田元幸(致道館槍術取立役、歌人)の嫡男として高知市廿代町に生まれました。致道館(植木枝盛や奥宮建之と同窓)、共立学舎英語学校にて英国人教師マイヤーらの指導のもと英学を修め、明治7年に上京。東京外国語学校等にて英語を修業後、東京開成学校に優秀な成績で合格。明治10年、東京大学理学部に入学(千頭清臣等と共に高知県貸費生)。明治14年、大学卒業まで数カ月というところで病により退学しましたが、高い学識と抜群の語学力が認められ、帰郷直後から教壇に立ちます。
高知共立学校(現土佐女子高等学校)、高知中学校(現高知追手前高等学校)、嶽洋社学課局、第五高等中学校(現熊本大学)、鹿児島高等中学造士館(現鹿児島大学)、岐阜県尋常中学校大垣分校(現岐阜県大垣北高等学校)校長。明治24年、従七位。明治29年、思想家・教育者の杉浦重剛に招かれて上京、私立日本中学校、同文書院(教頭)、私立郁文館中学校(激石『ぼっちゃん』の舞台)、同中学校教頭などを歴任。野武士のような風格と威厳があったと伝えられています。昭和2年没、享年71歳、墓所は東京都多磨霊園にあります。
教え子の中には、明治の文豪・大町桂月、内間総理大臣・濱口雄幸(濱口家への養子縁組を取持つ)などがいます。新渡戸稲造、内村鑑三、宮部金吾等と机を並べて英語を学び、英国人 (John.N. Penlington) が主宰する英字新聞(The Far East)に特別記事 (Japanese Views and Reviews) を寄稿するなど、殊に英語に優れており、日本英学史にその名を残しています。主な業績に『英和対訳大辞業』明治18年、『訂正増補 英和対訳大辞彙』明治19年、ベストセラーの教科書 Kambe's Readers 明治29年などがあります。
前田家は長宗我部元親家臣初代前田利國に始まり元敏は12代で、布師田西谷には4代から6代までの初期の墓所があり、布師田では珍しい古い時代の大きいお墓で、これ以降は筆山や秦泉寺山へと移っていっています。2代平兵衛利益は、元親が四国統一の途上の讃州引田の合戦時、敵の武将仙石勘解由を打ち取ったとの記録があり、妻は布師田・金山城主石谷民部少輔の息女で金山城と深い関係があります。3代源十郎利春は、長宗我部地検帳に多数の所領が記されており豊臣秀吉の命により薩摩軍と戦った豊後戸次川の合戦で長宗我部信親等と共に討ち死にしています。また4代彦九郎家勝は、万々城主吉松十衛門に嫁した元親の第四息女の孫娘を妻に迎えていて長宗我部氏とも深い関係があります。
また、上記説明文中の元敏と同窓の奥宮健之については、"奥宮慥斎・健之父子の住居跡"がここより約150m東方にあるのも何かの縁です。(奥宮慥斎は土佐藩の陽明学者で安政元年(1858年)江戸に出る時、後に三菱財閥の基礎をつくった岩崎弥太郎を従者として連れて行っています。)
前田元敏先祖の所へは説明板に向って右手の山道を道しるべに従って道なりに約3分上った左側にあります。 布師田の未来を考える会」とあった。
大町桂月
教え子の中に大町桂月の名があった。東京都文京区散歩の折、大町桂月の旧宅跡を訪ねたことがある。詩人・随筆家・評論家として知られる、というが、散歩フリークとしては紀行文しか知らない。誠に、いい。終世酒と旅を愛し、大雪山系にはその名からとった桂月岳が残る。与謝野晶子の「君死にたもうことなかれ」に対して、「皇室中心主義の眼を以て、晶子の詩を検すれば、乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なりと絶叫せざるを得ざるものなり」などと非難し戦後は少々評価をさげてはいたようだ。が、紀行文は誠に、いい。田山花袋の紀行文に『東京の近郊 一日の行楽』がある。これも、いい。同じく桂月に明治40年に書かれた「東京の近郊」がある。これもまた、いい。「一日に千里の道を行くよりも 十日に千里行くぞ楽しき」は桂月の言。

奥官慥斎・奥宮健之父子の屋敷跡
更に続けて「奥官慥斎・奥宮健之父子の屋敷跡」の案内。
「奥宮値姦(1811~1877)
幕末明治初期の思想研究家。藩吏奥宮正樹の長男で、土佐藩主山内容堂の特講の陽明学者です。儒学を岡本寧浦に学び、文政12年(1829年)に江戸に出て陽明学者佐藤一斎にも学びました。
土佐へ帰った後に私塾「蓮池書院」を興し、藩校致道館の儒官や教授館教授をつとめました。土佐藩伝統の南学(土佐の朱子学)から排撃されながらも陽明学の土佐の地での中心的な存在となりました。
明治2年(1869年) 12月、板垣退助が高知県大参事となった時、協力して学制の改革や宣教の事務を担当、明治6年立志社の民選議員設立建白書起草案の修正などにもかかわっています。慥斎は、平井善之丞・佐々木高行・武市半平太・大石弥太郎らと交わり勤王の影響を与えています。門人に長岡健吉・中江兆民・河田小龍・淡中新作・北代正臣・島本伸道ら勤王の志氏を輩出しています。墓所は東京谷中墓地にありますが、父奥宮弁三郎正樹や母・妻などの墓所はこの屋敷跡より少し東方の西山寺の右手階段上にあります。(徒歩7分)
(陽明学とは中国の王陽明のとなえた哲学です。)《儒学とは孔子に始まる中国古来の政治・道徳の学問です。)
実業家で三菱財閥の創始者岩崎弥太郎は少年時代、それまで師事していた叔父で儒学者の岡本寧浦が没した後、奥宮慥斎にも師事し、安政元年(1854年)慥斎に従いこの屋敷跡前の道を通って江戸に出て行きました。奥宮慥斎は左遷のような形で老母梶子と従者伊太郎を伴って江戸藩邸詰めに出張して当代一流の佐藤一斎や安積艮斎らと交わりました。
この江戸行きの時、師として岩崎弥太郎を最初に江戸に連れていった人物です。布師田を発って安芸の岩崎の家で宿泊し室戸方面から徳島を通って江戸までの日記が残っています。慥斎の日記によると安政元年九月二十五日に出発し、六十日目の十一月二十三日築地の土佐藩下屋敷に到着しています。互いに詩を吟じ冗談を言いながらの楽しい旅だったようです。出発に際して弥太郎は裏の妙見山に登り、星神社の扉に"吾志得ずんは再びこの山に登らず"と大書した逸話はよく知られています。
弥太郎は三菱を創立した後も奥宮家を気に掛けていて何かと援助をしたと言われています。自らの漢詩の素養は慥斎の影響も大きいと言っていたようです。
慶応三年(1867年)二月、山内容堂に四侯会議出席を求めるため島津久光の命で土佐に来ていた西郷隆盛を訪問、意気投合して互いに漢詩を交換する仲となり、この時の漢詩は後に高知市民図書館に寄贈されています。
慥斎の長男正治は後に宮城控訴院検事長になりますが、弟の奥宮健之が大逆事件で罪を問われた時、健之を支えますが責任を感じてか辞職しています。
また、岩崎東山先生傳記(岩崎弥太郎の伝記)の編集もおこなっています。
慥斎の父正樹は藩の下役人でしたが、文化五年(1808年) 幕府測量使伊能忠敬一行が土佐を測量に来た時、土佐藩の案内役として普請方宮崎竹助と共に甲浦から伊予宇和島に出るまで約一カ月余り随行して測量の世話をしています。
〇奥宮健之
明治期の社会運動家・英学者。安政4年陽明学者奥宮慥斎の三男として土佐郡布師田村に生まれました。慶応3年(1867年) 致道館で漢学を学び、明治3年(1870年)上京し英人メーカーに英学を学びました。明治5年から湯島の共慣義塾に学び、同塾の教師や山内家の海南私塾の教師をつとめ、自ら英学塾育英舎も開いています。
一時三菱に勤めていますが、明治13年頃から政談演説に深く関わるようになり、明治14年(1881 年) 自由党結成に参加し、入党して全国各地で遊説しました。明治15年(1882年)には6月創刊の「自由新聞」に入社しています。また、同年に馬車鉄道の出現で失業した人力車夫を組織化し、自由民権論者と共に「車界党」(車会党)を結成、反資本主義的な運動も展開しています。
その後、政談演説などで植木枝盛と各地遊説も行っています。演説中止や集会条例違反などでたびたび投獄されたりもしました。幸徳秋水に爆弾製造法を教えたという罪で明治44年(1911年) 明治天皇暗殺計画という大逆事件に巻き込まれ、無罪を主張しましたが刑死となりました。
絞首刑 12名無期懲役12名を出した大逆事件は、社会主義者や無政府主義者への時の政府の大思想弾圧事件でした。現在は冤罪が定説になっています。奥宮健之や植木枝盛は布師田自由党の結成にも大きな影響を与えたのではないでしょうか。
明治17年3月25日布師田自由党は一宮村自由党と協力し、時の太政大臣三条条実美宛てに住民402 名の署名と共に 43 ページにもわたる『減租請願書』を提出したりしています。健之と同じ布師田西谷に先祖の墓所のある高知出身の英学者前田元敏とは致道館で同窓でした。」とあった。

「西山六本松(旧布師田橋の所在地の一つ)」の案内
直ぐに「西山六本松(旧布師田橋の所在地の一つ)」の案内;「布師田橋の位置(「南路志」の解釈) 布師田橋の位置については「南路志」に、『七つ城に長さ三十三間(60m)・幅二間(3.64m)の橋が川の東から西にかかっている。万治三年(1660年)に現在の場所(七つ城)に架け替えられた。以前は西山六本松に架かっていた。更に明暦年間(参考:明暦元年=3D1655年)には東山(場所不明)の端に架かっていた。』とあります。
"七つ城の布師田橋"=現在の布師田橋の少し上流付近と思われます。
万治三年(1660年)以前には布師田橋はここ西山六本松に架かっていて、甲浦まで陸路を通る場合や北山道を取って国分川を渡るときは、この橋を利用したと思われます。1660年以降はここより約600m下流にある"七つ城の布師田橋"が利用されました。
"西山六本松"は現在の地蔵堂部落の"地蔵堂"から国分川を隔てた北側。現在は土手上が道路になっているが、以前の土手(昭和35年頃)は上部の幅員が狭くて車は通行できませんでした。その土手の"西山六本松"と思われる付近は二十畳ぐらいの広場になっていて、昔からの地名を残すような形でちょうど松の木が六本ぐらい植えられていました。
ホノギで"西谷"の北の山裾の小川に沿った西谷部落の道から分岐して斜めに"スカ"を横切り土手を上がってきた所(この道は現在も大部分が残っている)が西山六本松"でした。ろっぽん"と呼んで子供の遊び場所でもありました。
また、国分川の河原に置かれていたという葛木男神社のお神輿の休む畳二畳ぐらいの御旅所 の石(現在は少し下流の左岸道路わきに移されている)が中心に置かれていました。
西山六本松付近の国分川は現在も浅瀬で、昔から歩いて往来できたそうで、秋祭りのお神演も 川の中を担がれて渡っていたそうです。 布師田の未来を考える会」とある。

現在は中島経由の北街道は葛木橋を渡ることになるが、往昔は葛木橋の少し下流にあった古布師田橋を渡り国分川左岸に移ったようである。この旧布師田道を渡り中島に向かう道は土佐北街道南岸ルートであると共に、土佐北街道が開かれる以前の土佐藩参勤交代道である野根山街道をを越えて甲浦に出る、通称「東街道」のルートでもある。

西山寺の案内
さらに直ぐ、「西山寺:の案内;「真言宗善通寺派に属し、正式名称は普門山観明院西山寺といい本尊は聖観音です。江戸時代に成立した土佐の歴史・地理書である。南路志にもその名が見られる古いお寺です。尚、南路本では西山寺は五台山の末寺で本尊同弥陀 運慶作となっています。
明治初年の廃仏稀釈運動により廃寺となり一時私塾「球磨学舎」として使われたこともありましたが、昭和5年に再興され同21年宗教法人となり現在に至っています。第6番西国観音場(私注:土佐三十三観音霊場)としての参拝者もあります。
近くに石渕送番所や布師田御殿があった関係でしょうか、土佐山内家の藩政下では西山寺は、 他藩からの使者等をここでお迎えして城下に案内などもする重要な役割を担っていました。 事実、山本周五郎の「桜の木は残った」で有名な原田甲斐の登場する"伊達騒動"で、土佐藩預かりになっていたの騒動当事者の伊達兵部が延宝七年十一月四日に亡くなった時、江戸からの検使が西山寺で土佐藩の出迎えを受けた記録があります(有路志第八巻p246)。
〇西山寺主要な所蔵物
本尊聖観音菩薩立像; ヒノキ材の一木造り、彫眼の彩色像、平安時代作 ふくよかで伏し目の思やかなお顔
黑沙門天立像 ;ヒノキ材の寄木造り、玉眼の彩色像、鎌倉時代作 目を見開き正面を見据えたりりしいお顔
弘法大師像; ヒノキ材の寄木造り、玉眼の彩色像、江戸時代作 西山寺の棟札により意政6年(1794)五台山法印慶隆の導師で開眼供養が執り行われていることがわかります。
記録で確認のできる西山寺
「南路志」の布師田村の項には、応永 15年(1408)山田氏が西山寺の聖観音菩の厨子を寄進したことが記されています。
「長宗我部地検帳土佐國土佐那布師田村地検」天正16年(1588)に「西山寺」の記述があります。
〇江戸時代の西山寺の役割
現在布師田地区の氏神である墓木男神社の棟札からこの神社を管轄していたことが窺えます。 地区を複家として管轄し、「南路志」の記述から土佐藩政の一旦を担っていたことも競えます。 境内の石造物
境内には地蔵仏や五輪塔・供養塔など多数あり歴史の古さを物語っています。見かけることの少ない遍路の墓石も発見されました。(三頭のカラス天時は室内収納)
〇周辺情報
西山寺下の市道少し西の用水路北側には、奥官慥斎の住居跡があります。
西山寺の東側山道を道なりに進み階段を登った少し上段に「布師田奥宮家の墓所」があります。伊能忠敬測量隊を土佐藩の命により案内したうちの一人で、奥宮弁三郎三部正樹一族の墓所があります。正樹の妻や正樹の父、忠蔵正性、奥官慥斎の妻等です。正樹は奥宮慥斎、奥宮暁峰兄弟の父親です。 布師田の未来を考える会」とあった。

西山の六本松とか西山寺とあるように、石淵の送り番所にあった龍馬青春の道、「布師田橋は渡らずに国分川北岸を、西谷・折越峠・蒲原・小蓮と通って、藩境の立川番所をめざした」とある西山がこの辺りである。

国分川堤防道に出る
山裾の道は国分川添いの道に合流。合流点付近には水門や堰がある。上述権兵衛井流の案内のあった水門から距離も500m強。このあたりにふたつあった水門のひとつがあったのだろうか。本音を言えば、この規模の用水路で説明にあった洪水調節機能、土手崩壊を防ぐ機能を果せるのだろうかとの疑問もある。洪水調節機能、土手崩壊を防ぐ機能は国分川ではなく井流域というのであればそれは納得できるが、この辺り西山の丘陵から国分川の間の耕作地もそれほど広くなく井流が灌漑用に大きなインパクトを与えるとも思えない。水門での調節といった仕組みの有り難さはわかるのだが、その距離が500m強という井流自体の役割のポイントは門外漢にはいまひとつわからなかった。

葛木男神社
葛木橋を越え先に進むと、北山道はほどなく堤防沿いの道から左に逸れる。道の左手に葛木男神社。葛木男神社由緒には、「祭神 高皇産霊大神 葛木男大神 葛木咩大神
勸請年月日縁起沿革等は未詳であるが第六十代醍醐天皇延喜七年(皇紀一五六七年)神祇官の延喜式神明帖に登録せられた延喜式内社で土佐国二十一座の一座である。
古来より布師田の総鎮守で中古高結大明神と称す。即葛木氏は高皇産霊神(私注;たかみむすびのかみ)五世孫劍根命(私注;つるぎねのみこと)の後裔布師臣武内宿禰の男葛城襲津彦を祖とする。葛城氏族は布としての仕事を営む傍ら生活の糧を得るため布師田の原始林を開始し。永住の地と定め太祖高皇産霊神を氏神として奉祀したものである。
近世は布師田全山城主源信も太祖神を斎き祀りしものである
布師田は布師の人の住む里なるか故に布師と号け昔より田地の多い処なるが故に布師田と唱へ今の地名となりたりと伝えられる
縁起式内社葛城襲津彦命妃命を奉祀する葛木神社は昭和四十七年十二月合祀しました」とある。
葛木男大神は葛城襲津彦、 葛木咩大神は葛城襲津彦妃命とWikipediaは云う。伝承では、元は両社とも現社地の南東方において同じ境内に鎮座したが、葛木咩神社は東南方に移り、葛木男神社も国分川の増水を避け北西方の現在地に移ったが、昭和47年に葛木咩神社は合祀された。
由緒丘陵はともあれ、この社が布師田の地名の由来ではある。

丘陵の切通し
左に逸れた道は丘陵を切通しで抜ける。石淵の案内にあった龍馬青春の道「布師田橋は渡らずに国分川北岸を、西谷・折越峠・蒲原・小蓮と通って、藩境の立川番所をめざした」とある折越峠がこのあたりかもしれない。
道の左手は高知刑務所。切通を抜けて先に進むと高知県警交通機動隊の建屋前に出る。布師田御殿跡にあった北街道ルートによると、道は高知県警交通機動隊の建屋の先辺りで右折し国分川t堤防に向かう。


山崎川・蒲原橋北詰めに
右折というが、右折点の先は道と言うより水路沿いのブッシュ。取敢えず土手まで進み、堤防上の道を進むみ山崎川・蒲原橋北詰めに出る。
龍馬青春の道にあった「布師田橋は渡らずに国分川北岸を、西谷・折越峠・蒲原・小蓮と通って、藩境の立川番所をめざした」の蒲原がこの辺りだろう。


山崎川橋手前で左に逸れ山崎川右岸を進む
北街道は蒲原橋北詰めをそのまま直進し、山崎川右岸を進み山崎川橋。橋の手前に左に逸れる道がある。布師田御殿跡にあった地図によれば、この道が土佐北街道のようでもある。
左に逸れ山崎川右岸を進み、水路が山崎川に合流する先で左岸に渡り返し、水路に沿って東進し山崎川橋を渡ってきた道に出る。



高知大学医学部附属病院北を県道384号に抜ける
土佐北街道は道をクロスし高知大学医学部敷地の北を進み、医学部敷地東を走る道路を横切り更に東進し、道が岡豊城跡のある丘陵に当たる手前で左折し県道384号に出る。
高知大学の北に岡豊町小蓮の地名がある。龍馬青春の道にあった「布師田橋は渡らずに国分川北岸を、西谷・折越峠・蒲原・小蓮と通って、藩境の立川番所をめざした」の小蓮がこの辺りだろう。
補足メモ
当日は上述の如く山崎川橋を渡り先に煤んdのだが、メ。モの段階で山崎川橋手前で左に逸れ山崎川右岸を進み、水路が山崎川に合流する先で左岸に渡り返し、水路に沿って東進し山崎川橋を渡ってきた右折点の水路に続く道がある。確証はないが、この道筋のほうが旧路っぽい

岡豊別宮八幡の先で県道384号を右に逸れ県道252号に出る
県道384号を東進すると道の左手に岡豊別宮八幡。布師田御殿跡にあった地図には、そのすぐ先で県道を右に逸れ、「谷泰山先生先塋の地」の傍に出るとある。
「谷泰山先生先塋の地」は道の右手の丘陵地にあるようだ。岡豊八幡宮の直ぐ先にある右に逸れる道に入り、丘陵裾の道を辿ると県道252号に出る。ここで布師田から国分川を渡り中島経由の北山道と合流する。
岡豊別宮八幡
元親の信仰が篤く、出陣にあたっては必ず戦勝を祈願したといわれている。八幡宮の宮司谷氏の祖である大神氏は、大和の国三輪山から土佐に移り、その子孫は谷左近、谷秦山、谷干城などにつながる。
谷左近
長曾我部元親に仕えた。左近の伝えた八幡大菩薩のご神託が元親の阿波出陣のきっかけとなった、と。長宗我部盛親の改易後は浪人となる。
谷泰山
江戸前・中期の儒学者,神道家。名は重遠,秦山は号。土佐(高知県)に生まれる。17歳で京都に出て,山崎闇斎や浅見絅斎に学ぶ。土佐に帰ったのち,さらに闇斎門下の渋川春海に書簡を送り,天文・暦算や神道を学ぶ。藩主山内豊房に用いられて,藩士に学を講じるが,宝永4(1707)年豊房死後の政変で蟄居,10年余におよぶ。朱子学に神道をあわせた学問を展開し,一時絶えていた土佐南学派を再興した。その国体論は,幕末の勤皇倒幕運動にも影響を与えた。
谷干城
幕末から明治にかけて活躍したの武人。幕末は、土佐藩の勤皇派として、乾退助(板垣退助)の片腕を為し、薩摩藩・小松帯刀、西郷隆盛らと「薩土討幕の密約」を締結する。戊辰戦争に際し、軍事の才能、智略に秀で最前線で戦った武将。熊本鎮台司令長官であった西南戦争においては、熊本城攻防戦の官軍指揮者として手腕を発揮し、更に武名を挙げた。後に政治家となる。

国分川南岸(中島経由)ルート

布師田御殿跡にあった国分寺川南岸のルートを辿る。国分川南岸の中島を経由し国分川を八幡渡瀬で渡り返し北進し南国市岡豊町八幡に向かう。
八幡渡瀬」は大雨などの時は渡河できず、この道筋は敬遠されることが多かった、と言う。では何故にこの南岸ルートが開かれたのだろう。距離が大幅に短縮されるようにも思えず、北岸ルートに難所といった箇所も見受けられない。
あれこれチェックすると、この中島への参勤交代道は、土佐北街道が開かれる以前の参勤交代道である土佐の城下から甲浦に出る野根山街道、通称「東街道」への道筋であった。その名残りかと思える。この道筋は初期の参勤交代道である野根山街道、通称「東街道」への道筋でもあったようだ。北街道のルートとしても初期の頃利用されたものかと思える

葛木橋を渡り国分川左岸に

往昔は上述、「西山六本松(旧布師田橋の所在地の一つ)」の案内にあった、現在の葛木橋の少し下流、旧布師田橋を渡ったのだろうが、現在その橋はない。葛木橋を渡り国分川左岸に移る。






郡境石
左岸に移り県道249号を国分川左岸に沿って進むと、国分川・小山橋から下ってきた道がT字に合流。その合流点に郡界石が立つ。「是東長岡郡」・「是西土佐郡」と刻まれる。現在は高知市布師田と南国市岡豊町中島の境となっている。








県道252号を左折し国分川に向かう
郡境石より更に西進し県道252号を左折し北へと国分川へと向かう。少し北に進むと、県道を左に逸れる道がある。布師田御殿跡にあった北街道はこの左に逸れる道のように思える。 左に道を逸れ北に進む道筋には水路が流れる。水路に沿って北に進むと国分川の土手にあたる。布師田にあった「ぬのしださんぽ」案内には、この辺りに国領の水越跡が記されていた。
水越
高知大悪の資料
水越とは越流堤のこと。洪水時には水が堤防を越えることをあらかじめ想定し、その下流を水没させ、中堤(水張堤)により一帯を遊水池とすることを目する。河川上流部を水没されることにより河口部の洪水を抑制し、下流域、国分川、久万川、鏡川などの河川が織りなすかつての氾濫平野、三角州に普請した高知の城下町を護る治水対策のひとつである。国分川水系の洪水をそのまま河口部まで流すと鏡川などの城下町を流れる川の水位が上がり、逆流現象が起き水が城下に流れ込むのを防ぐこととも意図しているのではないだろうか。
参考に高知大学の飼料「高知の藩政期の水防災対策の再評価平成 25 年自然災害フォーラム論文,2013」を掲載しておく(高知城下の治水事業に興味があるかたはこちらの記事をご覧ください)。
「伊奈流」とも関東流と呼ばれる越流堤の治水施策は埼玉の見沼などで出合った。

岡豊橋を左折し県道252を北進し北岸ルートと合流
土手に出た北街道は国分川左岸を進み岡豊橋の南詰めに出る。岡豊橋南詰を左折し県道252号を北進し、上述国分川北岸ルートと合流する。
合流点手前の丘陵地側に「谷泰山先生先塋の地」の案内。先塋(せんえい)とは先祖の墓の意である。



地図に記載された「土佐北街道」ルート

ついでのことでもあるので、Google Mapに記載された「土佐北街道」のルートもメモしておく。国分川北岸ルートではあるが、高知大学医学部の北を通ることなくその南、国分川に沿って進むルートであり、29番札所国分寺から30番札所善楽寺へと向かう遍路道でもある。

山崎川・蒲原橋
山崎川・蒲原橋で北岸ルートと分かれ国分川に沿って高知大学キャンパス南を東進する。しばらく進み国分川の支流に架かる橋を渡ると、道は岡豊城の建つ丘陵南裾に入る。




山裾を水路に沿って東進
山裾に入った北街道は、国分川から少し離れしばらく木立が日陰をつくる水路脇の道を進む。ほどなくして集落の里道出ると、その先は国分川に沿って進む。




岡豊橋北詰めに出る
道は岡豊橋北詰めに出る。遍路道はそのまま直進するが、北街道はこの地で中島を経由してきた南岸ルートと合流し県道252号を北進し、北岸・南岸ルート合流点に向かう。




北岸・南岸ルート合流点から領石まで

この間の土佐北街道もふたつのルートがあったようだ。布師田御殿跡の案内に「北山道を取る場北街道合、発駕後一泊目は主として比江高村家に宿しましたが、天保頃から布師田に転じ、天4(1833)年 12代豊資以降は布師田御殿泊が中心となります」とあったように、参勤交代初期の頃は比江戸経由のルート、天保頃からは布師田御殿に泊まりそのまま領石へと向かったようである。 資料が少なくはっきりしないが、とりあえずこの二つのルートを追っかけてみる。

直接領石を目指すルート

県道252号を右に逸れ旧道を県道384号に

布師田御殿跡にあった地図に拠れば、北街道は北岸・南岸ルート合流点辺りから県道252号を右に逸れ笠ノ川川方向に向かっている。水路に沿ってほとんど畦道といった道を進み。県道32号の少し手前で左折し県道384号に向かう。



比江ルート渡河地点
布師田御殿にあった地図には、土佐北街道は県道32号を越え、その先で笠ノ川川にあたる。
笠ノ川川の対岸が国分でありその東が比江である。これが初期の比江経由のルートの渡河地点であろうと思い込む。







県道384号右手に笠ノ川地蔵
道より一段高いところにあるお堂にあった案内には、土佐の殿さまも参勤交代の途次立ち寄り参拝されたとの言い伝えが残り、通称笠取地蔵、特に首から上に御利益あらたかとされるお地蔵さまとのことであった。首から上って頭痛や目の病に霊験あらたか、ってことだろうか。

県道384号を左に逸れ丘陵土径に
布師田御殿跡にあった地図に拠れば、北東に進む県道が高知道南国インター手前で北に向きを変える手前で土佐北街道は県道を左に逸れている。はっきりしないが、なんとなくそれらしきところ、民家の間の細路を進み小さな丘陵を越える。


県道384号をクロス
道はすぐ県道に合流する車道に出るが、布師田御殿跡にあった地図に従えば、道は県道手前で北に進み高知道南国インター手前で県道を越えている。地図にあるルートに従い進むことにしたが、道はなく畑跡といった場所を進み、民家の裏手を越えた先で県道に合流。なりゆきで県道を渡る



高知道インター高架下を進みルート合流点に
県道を渡り高知道の高架下を潜り、その先集落の細い里道を進むと右手から細い道が合流するところに出た。はっきりしないが、そこが比江経由の北山道の合流点と思い込む。






比江経由のルート

比江経由の北山道をトレースしてみようと思ったのだが、はっきりとしたルート図がわからない。ポイントとなる宿泊地である比江の高村家でもわかれば、それなりに道筋もわかるだろうが、それも検索でヒットしない。あれこれチェックすると、上述笠ノ川川の渡河地点から先は、ジグザグに県道256まで進み、国府小学校の裏を通り阿波塚神社前を抜けて高知道インター北のふたつのルート合流点まで進んだようである。
以下はっきりしたルートであるとの確証はないが、それらしき道筋を歩いてみることにする。

笠ノ川川渡河地点
上で布師田御殿跡にあったルートに従い笠ノ川川の土手までメモした。現在そこに橋はない。少し右岸を上流に進み、県道256に架かる無名の橋を渡り、笠ノ川川左岸を下り、渡河地点(実際渡河したのかどうか不明だが)まで戻る。
そこからは田圃の中の道を成り行きでジグザグに進み県道256号に出る。




県道256号に出る
途中道筋に長曾我部検地帳の案内が立つ。このあたりには随所に長曾我部検地帳の案内が立っていた。
長曾我部検地帳
豊臣政権期に土佐国主であった長宗我部氏が実施した、土佐一国の総検地帳。天正15(1587)年から数カ年かけて行われた検地の成果で、土佐七郡全域にわたる368冊が現存する。初代土佐藩主山内一豊は慶長6(1601)年の土佐入国時、長宗我部氏の居城浦戸城に入城し、地検帳を接収。七郡の郡奉行がそれぞれ保管し、初期の土佐藩政に利用した。その後写本を作成し、原本は実務的な使用からは離れるが、近代まで土佐一国の基本台帳として大きな意義を持った(「文化遺産オンライン」より)。

府小学校の東の里道を北進
県道256号に出るとそのまま東進。その先で北に向かう県道を離れ、県道より少し東、国府小学校裏を進む道に入る。先に進むと道は少し小高い丘に上る。




阿波塚神社
成り行きでそれらしき道を進むと道の左手に阿波塚神社。長曾我部氏ゆかりの社、というか小洞といったお堂である。お堂のまわりには幾多の小さな五輪塔が並んでいた。
この祠の由来は鎌倉時代まで遡る。当時、長宗我部家7代目兼光のころ、大豊町豊永地域を本拠とした小笠原左近太夫という豪族がいた。左近太夫は阿波の一部まで領地をもち、香長平野に進出する好機を窺い、時を得て阿波兵を配下として南に下り岡豊に向かって一挙に進撃を開始。守戦一方の兼光は、日頃から信心する岡豊八幡宮に戦勝を祈願。 と、あら不思議にも一振の金の鉾が飛び 出し、阿波勢の陣の上を縦横無尽 に飛びまわった、と。
長曾我部勢は金の鉾に恐れおののく阿波兵を追撃し多くの阿波兵を打ちとった。阿波塚は討死した阿波の兵士を埋葬したところ。が、それ以降も怪異な現象が続くため、永禄年間、元親は長門国(今の山口県)壁雲寺の高僧通安が、土佐の山野を行脚して法力を見せているのを知り、魂鎮めの法会を行ったところ怪奇な事件はぱったりと止んだといわれている。

道のえき風良里(ふらり)東北端の駐車場

阿波塚神社の先は双葉台の中央木材工業団地となっており、古い道は消える。工業団地内を成り行きで進み、「道のえき風良里(ふらり)」の東北端の駐車場に出る。



丘陵地の土径を進み国道32号に出る
「道のえき風良里(ふらり)」から先、旧路はないかと地図をチェックすると丘陵地を北に進む道筋が見える。それが土佐北街道かどうは不明だが、とりあえずそこを進むことにする。 道の法面に斜めに上る道に入る。直ぐに竹林の中を北に進む土径が分岐。なりゆきで北に進む。

高知道インターの高架を潜り北進
丘陵を出て里道を下り国道32号の陸橋を渡り国道西側に出る。国道に沿って北進するが道は高知道インターへの出入り口アプローチ道に阻まれ先に進めない。しかたなく、迂回しアプローチ道高架下を潜る。迂回したため直ぐ下の道は先ほど歩いた直接領石を目指す道筋〈推定)。


合流点に
高架を潜りアプローチ道に阻まれたであろう道の続き箇所らしきところまで進む。そこから旧路を北進するとほどなく、上でメモした「直接領石を目指すルート」との合流点らしきところに出る。

以上、北岸・南岸ルート合流点から、領石で直接領石を目指すルートと比江経由のルートが合流する箇所までをトレースしたが、資料がなくはっきりした道筋とは言い難い。取敢えず、それらしき道筋を辿った、といったところである。




領石より権若峠取り付き口の釣瓶まで

南国市の図書館まで行ってチェックした『土佐の道 その歴史を歩く;山崎清憲(高知新聞社)』にも領石より権若峠取り付き口の釣瓶までの詳しいルートは記されていない。ただ、領石の送り番所とか、領石川の浅瀬を渡河した一の瀬渡瀬、楠木渡瀬、亀の本渡瀬、下着(私注;ママ)渡瀬といったルートの目安となる地名が記されている。
また同書には記載されていなかったが、過日土佐北街道・權若峠越えのとき、確認隅のふたつの渡瀬、左手渡瀬と中渡瀬を加え権若峠の取り付き口を目指すことにする。

ルートは領石川右岸の地にある領石の送り番所を経て北進。一の瀬渡瀬で領石川を左岸に渡り、その先楠木渡瀬で右岸に、更に亀の本渡瀬で再び左岸に渡り直し、「左手渡瀬」で領石川支流中谷川の右岸に移り、その先中渡瀬で左岸に渡った後、中谷川に合わさる梼山川の左岸から下り付け渡瀬で右岸(北)に渡ると權若坂の登山口に着く。
これらのポイントを追っかけて領石より権若峠取り付き口の釣瓶まで進むことにする。
領石
領石の由来は「根曳峠への登り口の集落。地検帳には龍石。竜に似 た奇岩?竜石寺という寺名に由来?(土佐地名往来)」とある。

領石の送り番所
領石へ直接進むルートと比江経由の北街道合流点とおぼしき箇所から少し北に進むと直ぐ県道384号に出る。そこから少し北に進み県道384号が国道32号に合流する手前に左に逸れる道がある。北街道はここを左に逸れる。
ゆるやかな坂を上るとすぐ左手に天満宮の鳥居があり、そのすぐ先に「領石の送り番所跡」と刻まれた石碑が立つ。割と新しい。
天満宮と石灯籠
天満宮鳥居前に天満宮と石灯籠の案内があった。
天満宮
「天満宮 領石部落の氏神、産土神である。「天神様」とも呼ばれ、祭神は菅原道真である。鳥居は参道入り口と、急な石段の下の二基、狛犬も大正八年に建立され、変遷を物語る棟札も数枚残されている。文化十二年(一八一五)南路志には「天満天神社岡屋敷祭九月二五日・僧壱人社地三十代林八十間 横十間」とある。
菅原道真(八四五~九〇三)平安時代の貴族、学者、政治家 朝廷で右大臣まで上ったが、藤原時平との政争に敗れ、太宰府へ左遷され、二年後にその地で失意のうちに病没した。その後、藤原時平は早世、天皇家では皇子が相次いで病死、京で疾病がはやり、天変地異が続いた。道真公のたたりを恐れた朝廷は、身分を戻し、京都「北野天満宮」を建立、神号を「天満大自在天神」とした。やがてそのような記憶の風化と共に道真が生前優れた学者だったことから、学問の神様として信仰されるようになった。
天満宮の境内の中に三基の小さなお社が祀られ、まとめて「小宮さま」と呼ばれている。右から「白山神社」「竃戸神社・山神社」「清川神社」「大神宮」と書かれている。勸請の時期などは不明である。
鳥居の下に、明治四十三年に建立された「日露戦役記念碑」には植野・領石から従軍した人々の名前が刻まれている。 平成二十三年一月吉日 久礼田地区史談会」

天晴の石灯籠
この石灯籠には「天晴 丁卯 十月吉日」と刻まれている。
『天晴』という年号は存在しない。丁卯とは、幕末最後の年、慶応三年(一八六七)のことで翌慶応四年には明治に改元されている。
朝廷の定めたものでない年号は「私年号」といわれるが、「天晴」という年号は土佐に限られて使われ、現在確認されている石灯籠は、領石のものを含めて四ヵ所しかなく、非常に貴重である。 慶応三年十月、領石の住民がこの石灯籠に、「天晴」の年学を刻んだいきさつについては一説がある。参勤交代北山道の要所であった領石には、中央の情報もいち早く伝わっていたことから「国内不穏につき改元する。新しい年号は天晴である」という話が誤って伝わり、住民は「来年は天晴という年号になる」と信じたに違いない。
翌年は「明治」に改元された。領石の住民はどのような思いで明治元年を迎えたのであろうか。 平成二十三年一月吉日」とあり、またその下には
「天晴の棟札
領石で作られた「天晴」の石灯籠に続いて棟札が新たに見つかりました。この棟札は、これまで領石天満宮境内社の小宮さま(大神宮)に納められていましたが、平成二十七年六月の調査の折に発見され、領石での「天晴」年号二例目として貴重であることから保存・管理のため高知県立歴史民俗資料館に寄いたしました。
(表)
天下太平国家安全氏子安全 奉建立 弁才天客
(裏)
「天晴元年丁卯 九月十七日 願主北村金次郎」と記される。

一の瀬渡瀬
「領石の送り番所」の石碑から里道を北進する。先に進むと民家がありそこで道はふたつにわかれる。右へと川筋に下る道をとり国道32号の高架下、更には高知自動車道の高架下を潜り、大きく曲がる領石川右岸の道を進む。山裾を流れる水路に沿って少し進むと「一の瀬渡瀬」と刻まれた石碑が立っていた。これも比較的新しいものであった。
往昔、ここから領石川を左岸へと浅瀬を渡っていったのだろう。
この渡瀬に石碑があった、とすれば、その他の渡瀬にも石碑か標識などが立つ可能性が高い。ここで渡瀬のポイントハンティングのモチべーションが結構高まった。

楠木渡瀬
一の瀬渡瀬で領石川左岸に渡り宍崎に出る。北山道は領石川左岸を北進し楠木渡瀬で再び領石川を右岸に渡り清川神社前を進むと『土佐の道』にある。地図をチェックし領石川右岸の清川神社へ向かう道をチェックすると、楠木橋を渡る道筋がそれに一番近い。取敢えずその地に向かう。 一の瀬渡瀬辺りに橋はないため、一度引き返し県道384号が領石川を渡る領石橋まで戻り領石川左岸に移る。高知自動車道の高架を潜ってすぐ領石川左岸に沿って進む道筋に入る。道の左手に南国市立たちばな幼稚園を見遣りながら道を進むと楠木橋がある。
橋を渡ると「楠木渡瀬」と書かれた木の標識が立っていた。ここがかつての楠木渡瀬であった。楠木渡瀬のゆらいは、かつて川岸に対岸にまで枝が届く大きな楠木があり、身軽な者は枝につかまり川を渡った故、と『土佐の道』は記す。
標識の傍に「北山越え」と刻まれた石碑があり、裏面には「律令制度の昔、都と土佐の国府は南海道で結ばれていた。古代文献よると、勅によって北山越えの開かれたとある。山また山の険しい道だけに、のち海路とってか知られた
この北山越えは近世なり享保三年(一七一八)第六代藩主山内豊高公が参勤交代道に利用する。それ以後土佐上方 江戸を結ぶ幹道して参勤交代また文物や人々の交流の舞台となった 根曳越えの新道の開通などにより機能を失うこととなるが、地域に残貴重な歴史的遺産であり(後略)」といった文字が刻まれていた。
尚、国道32号から分かれた県道33号から楠木橋に分かれる分岐点にも「参勤交代北山道」の標識が立っていた。

県道33号に出る
楠木橋を渡り丘陵へのゆるやかな坂を上り、切通しを抜けると亀岩の集落へと下る坂道となり、左手に清川神社を見遣りながら里道を進むと領石川右岸を走る県道33号に出る。





亀ノ本(瓶の本)渡瀬
次の目安は領石川を左岸に渡る亀ノ本(瓶の本)渡瀬。県道33号を少し進むと県道33号右手に「亀ノ本渡瀬 領石川を左岸に渡る」と書かれた木の標識があった。
標識には「対岸の左方にハンド岩 坂道の右下にクツヒキ岩」と記された写真も張り付けられていた。
標識脇からスロープを下りる。そこは水草栽培をしている民家敷地。丁度家の方がいらっしゃったのでお話しを聞く。クツヒキ岩はスロープ脇にある岩とのこと。岩の窪みには祠が祀られていた。「クツヒキ」とは蝦蟇ガエルのこと。


「ハンド岩」は領石川対岸、樹木の間に見える大岩のこと。「ハンド」はこの辺りで「水瓶」のことを言う。この辺りの地名、亀岩の由来となった岩である(瓶>亀に転化)。
この「ハンド岩」と「クツヒキ」岩にまつわる伝説が伝わる;はるか昔、木花之開耶姫(このはなさくやひめ)がこの地に住い、瓶石川(領石川)の水で酒をつくる。が、出来上がる頃には瓶は常に空っぽ。どうも蝦蟇ガエルが酒を飲みほしているようだ。で、 木花之開耶姫は酒が飲めないようにハンド(瓶)を逆さにしてこの地を離れ、朝峯神社のある地に移った、とか。高知市介良にあるこの社は酒造りの人々からの信仰篤き社と聞く。
よく見ればハンド岩は酒瓶〈水瓶)を逆さにした形になっている、と。また、悪さをしたクツヒキ(蝦蟇ガエル)をハンド岩の傍に祀るって、なんだか、いい。

県道を右折し林道釣瓶線に
亀ノ本(瓶の本)渡瀬の標識のある領石川は、現在浅瀬でもなく渡ることはできない。県道33号を少し進み、領石川に奈路川が合流する箇所にある橋を渡り、領石川左岸に移る。
取敢えず亀ノ本(瓶の本)渡瀬を領石川左岸に渡った箇所から道を繋いでおこうと渡河点に向かう。川沿いは採石工場があり道らしきものは続かない。少し山際を走る里道を渡河点まで戻る。渡河点から川沿いに道筋らしきものは残っておらず、林道釣瓶線に戻り次の目安である左手渡瀬に向かう。
奈路
土佐を歩くと奈路(ナロ)に出合う。「四万十町地名辞典」には「山腹や山裾の緩傾斜地を表す地名地名を高知県ではナロ(奈路)という。奈路(なろ)の全国分布は高知県だけで、それも中西部に多い。ナロ地形にふさわしい地名がこの地「奈路」である 『愛媛の地名』の著者・堀内統義氏はナロ・ナル地名について「東北の平(たい)、九州の原(はる)、四国の平(なる)と同じ地名の群落。奈良も千葉県の習志野も、ナラス、ナラシの当字で、平らな原野を表現している。」と書かれている。 ちなみに「奈路」地名も愛媛県に越せば「成・平(なる)」が断然多くなり、四万十町内でも成川・鳴川がよく見られる。

左手渡瀬
林道釣瓶線を進み、領石川に支流中谷川が合わさる辺り、道の左手に「左手渡瀬 中谷川を西岸に渡る」の木の標識が立つ。
川との段差があるが川は渡れなくもない。下りてみようと思った矢先、近くから作業音がする。確認すると左手渡瀬の直ぐ先に橋があり、対岸に工場があり作業中。左手渡瀬を渡っても工場敷地に出るようで渡河は断念。

中谷川西岸(右岸)に渡る箇所を探すと、工場に渡る橋の直ぐ先にも橋が架かっている。林道用の橋かと思う。橋を渡り中谷川右岸に沿って続く林道を進む。
ほどなく林道は左へと曲がり山に向かう。曲がり角から先、川沿いに道は無くブッシュを掻き分けて進むことになる。



中渡瀬
次の目指すポイントは中渡瀬。この渡瀬は過日土佐北街道権若峠を歩くときに見つけたもの。権若峠釣瓶取り付き口には中谷川に合流する梼山川左岸にある「下り付きの渡瀬」から渡河するとあり、とすれば左手渡瀬で中谷川右岸に渡った北街道は、下り付き渡瀬までの間で中谷川左岸に渡る渡瀬があったはずとチェックしておいた。その時はそれだけのことであったのだが、今回誠に役立つこととなった。中渡瀬の右岸は藪で中渡瀬を示す標識もなく、右岸を進んでもどこが渡瀬かわからなかっただろう。
中谷川左岸にあった中渡瀬の標識までGPSを頼りに中谷川右岸を進む。途中まで林道が続き結構快適。が、林道が左手の山に大きく曲がる辺りから先は踏み込まれた道はない。中谷川に沿っての藪漕ぎ、岩場をクリアしながら先に進む。
中谷川左岸、林道釣瓶線に立つ「中渡瀬」の木の標識のある辺りまで力任せんに右岸を進む。大岩が転がる中谷川であるが、中渡瀬の標識のあたりは浅瀬となっており水に濡れることもなく左岸に渡り、崖を這い上がり「中渡瀬」の標識までの道を繋ぐ。はじめて渡瀬を徒河した。なんとなくの達成感がある。

下り付きの渡瀬
中渡瀬で中谷川左岸に移り、林道釣瓶線を先に進む。途中林道釣瓶線は中谷川の谷筋から離れそのまま梼山川の左岸を進むことになる。
ほどなく林道左手の梼山川側に「下り付きの渡瀬 梼山川を渡る飛石あり」の木の標識。川床に岩が転がるがどれが飛石かわからない。林道から川床まで結構段差もあり、ロープも持ってなかったため直ぐ先にある梼山川に架かる橋を右岸に渡る。

橋への分岐点には「釣瓶登り口左手200m」「梼方面右」の標識が立つ。

「ゆすの木」が多くある地ではあるのだろう。龍馬脱藩の道を梼原から歩いた、その梼原も同じ由来である。
釣瓶
釣瓶の由来は不明。瓶は「かめ・びん」のことだろう。途中亀石川があったが、その由来は瓶の形をした岩があることに拠る。地検帳では亀石だが、州郡志には瓶岩とある。で、釣瓶だが、「釣瓶落とし」というフレーズがある。一直線に落ちていく様を表す。垂直な大岩でもあった故の命名だろうかと妄想。 因みに,『高知の地名;角川書店』の亀石村の項に、「梼山の西に菎蒻坂を隔てて釣瓶落山がある」とする。上述の妄想、あながち妄想とは言えない、かも。

権若峠・釣瓶取り付き口
梼山川を右岸に渡ると「下り付きの渡瀬」の標識の立つ対岸あたりが権若峠・釣瓶取り付き口。「権若峠登山口」「峠まで二千三百三十米 約2時間半かかる 標高五百五十米」とある。


下り付きの渡しの案内
標識の手前の立ち木に登山者のために竹の杖が用意されている。なにか手頃なものは無いかと寄ってみると、手書きで「ここが「下り付の渡瀬」です。昔のとび石が残っています。ゴンニャク峠までは2㎞430m」と書かれたプレートが立ち木に括られていた。この案内によってひ左手渡瀬からこの下り付き渡瀬の間に「渡瀬」がなければ辻褄が合わないと、中渡瀬を見付けた(といっても林道に立っていただけなのだが)わけである。


これをもって土佐北街道のほぼすべての道筋を歩き終えた。新宮から四国中央市に抜ける法皇山脈横峰越、笹が峰越え、国見越えなどの険路もあったが、印象に強く残るのが権若峠越えと立川川谷筋の山腹を進む道。どちらもそれほど険しくもないのだが、権若峠越えでは倒木やブッシュに阻まれ、立川川谷筋の山腹道は道が「消え」、ともに途中撤退。再訪しなんとか道を繋いだ。 簡単に行けそうと高を括っていた箇所で痛い目にあった。
さて次はどこを歩こう。松山から高知の佐川に抜ける土州街道(松山街道)、龍馬脱藩の道散歩で予土国境の峠道部分といった脱藩の道中間部はクリアしたが、前半部と後半部が残っている。そこにしようか。それとも土佐北街道の本山で出合った野中兼山の残した上井、下井、また本山近くの行川にも残る兼山の井流といった用水路散歩がいいか、膝と相談しながら歩くことにする。
土佐北街道散歩も高知城下から権若峠への取り付き口である釣瓶までを残すのみになった。今回も『土佐の道 その歴史を歩く:山崎清憲(高知新聞社)』に記されるポイントとなる地名、史跡を追っかけてその道筋をトレースする。詳しいルートは記載されていないが、ポイントさえ見つかればなんとかなるだろう、との想い。
同書に記される土佐北街道の道筋は、お城を出て大手筋を進み、江ノ口川・山田橋南詰めの山だ番所、久万川に架かる比島橋を渡り掛川神社前を進む。
それより東に転じ、鳥付橋を渡り石淵の送り番所を経て布師田の布師田御殿に入る。布師田から先で市域は高知市から南国市に入るが、ここでルートはふたつにわかれる。ひとつは国分川南岸の中島を経由し国分川を八幡渡瀬で渡り返し北進し南国市岡豊町八幡に向かう。この道筋は初期の参勤交代道である野根山街道、通称「東街道」への道筋でもあったようだ。
そしてもうひとつは高知大学医学部の北を進み岡豊町八幡に出て、ここでふたつのルートは合流する。
合流点から先も二つのルートに分かれる。ひとつは現在の県道384号を領石に向かうもの。もうひとつは合流点から直ぐ、笠ノ川川を越え比江を経由して領石に向かうもの。比江経由の道は北街道が参勤交代に開かれた当初の道筋。比江の高村家を初日の宿泊所とした頃のもの。布師田に布師田御殿ができて以降は、直接領石を目指すようになったという。
領石で合流したルートは領石の送り番所を経て北進。一の瀬渡瀬で領石川を左岸に渡り、その先楠木渡瀬で右岸に、更に亀の本渡瀬で再び左岸に渡り直し、谷筋の小さな渡瀬を経て最後に梼山川の「下着渡瀬(私注;「着」はママ)を北に渡ると權若坂の登山口に着く、とある。 亀の本渡瀬から先は、過日土佐北街道・權若峠越えのとき、同書に記載のないふたつの渡瀬を確認しており、亀の本渡瀬で領石川左岸に移った土佐北街道は、「左手渡瀬」で中谷川の右岸に移り、その先中渡瀬で左岸に渡った後、中谷川に合わさる梼山川の左岸から下り付け渡瀬で右岸(北)に渡り權若坂の登山口に着くことになる。

ルートは以上の通りである。メモは途中郷土の偉人の案内なども多く結構長くなった。今回は城下から布師田までと布師田から釣瓶まで2回に分けてメモする。



本日のルート;
高知城下から布師田御殿跡まで
高知城>追手筋>山田橋・山田番所>茂兵衛道標(100度目)>比島橋>掛川神社>鳥付橋>土佐神社お旅所>お堂>石淵送り番所>岡村十兵衛先生住居跡>社>一木権兵衛先生の墓所>布師田御殿跡
布師田から岡豊町八幡の北岸・南岸ルート合流点まで
国分川北岸ルート
権兵衛井流>前田元敏先祖の墓所>奥官慥斎・奥宮健之父子の屋敷跡>西山寺>葛木橋>>葛木男神社>丘陵切通し>国分川筋に右折>山崎川・蒲原橋>山崎川橋>県道384号に出る>岡豊城跡>岡豊別宮八幡宮>県道を右に逸れ県道252号に出る
国分川南岸ルート
葛木橋を渡り国分川左岸に>郡境石>県道252号を左折し国分川に向かう>岡豊橋>県道252を北進し北岸ルートと合流
地図に記載された「土佐北街道」ルート
山崎川・蒲原橋>山裾を水路に沿って東進>岡豊橋北詰めに出る
北岸・南岸ルート合流点から領石まで
直接領石を目指すルート
県道252号を右に逸れる道に>県道384号右手に笠ノ川地蔵>県道384号を左に逸れ丘陵土径に>県道384号をクロス>高知道インター高架下を進みルート合流点に
比江経由のルート
笠ノ川川渡河地点>検地帳>左折・検地帳>県道256号に出る>左折し国分小学校東の道に>国府小学校の東の里道を北進>阿波塚神社>道のえき風良里(ふらり)>丘陵地の土径を進み国道32号に出る>高知道インターの北のルート合流点に
領石より権若峠取り付き口の釣瓶まで
県道384号に出る>領石の送り番所>天満宮>一の瀬渡瀬>楠木渡瀬>清川神社>県道33号に出る>亀(瓶)の本渡瀬>県道を右折し林道釣瓶線に>左手渡瀬>中渡瀬>下り付きの渡瀬>権若峠・釣瓶取り付き口


高知城下から布師田御殿跡まで


高知城
参勤交代のスタート地点として高知城を訪れる。土佐北街道のルート探しにどの程度時間がかかるかわからないため、足早に取り合えず「足跡を残す」といった思い出はある。
比較的新しそうな初代藩主山内一豊公の騎馬像を見遣り先に進むと追手門手前に「野中兼山先生邸跡」の石碑が立つ。宿老ゆえ、追手門すぐ傍に屋敷があったのだろう。
追手門を潜り城内に。板垣退助銅像(昭和31年(1956)造立)を見遣り石段を上ると、左手石垣から石樋が突き出る。なんだか面白い。これだけは案内をメモしておく;
石樋(いしどい)
高知県は全国でも有数の多雨地帯のため、高知城も特に排水には注意が払われている。 石樋は、排水が直接石垣に当たらないように石垣の上部から突き出して造られており、その下には水受けの敷石をして地面を保護している。このような設備は雨の多い土佐ならではの独特の設備で、他の城郭では見ることのできない珍しいものである。
石樋は本丸や三ノ丸などを含め現在16ヶ所確認されているが、下になるほど排水量が なるため、この石樋が一番大きく造られている」とあった。


三の丸へ。往昔、年中行事や儀式を行う大書院・裏書院・藩主の控えの間である御居間などからなる三の丸御殿が建っていたところ。いまは広場となっている。
二の丸は藩主の居住空間である二ノ丸御殿があったところ。高知城下を眺める。
天守には本丸御殿が接している。天守と本丸御殿が残るのは高知「城だけとのことである。本丸御殿は二の丸御殿ができるまでは一豊公とその妻、賢妻で知られる千代の居宅であったと言う。
高知城
愛媛に育った者として折に触れ高知城は訪れている。 とはいうものの、過日、歩き遍路の過程で高知城が国分川、久万川、鏡川などの河川が織りなすかつての氾濫平野、三角州に立地することに初めて気づいた。で、そのメモにデルタ地帯に城下町ができた経緯と治水対策が気になりメモをまとめておいたのだが、ここには城下町普請の経緯を再掲しておく(治水施策に興味のある方はこちらの記事をご覧ください)。
元は大高坂山城
高知城は北は久万川、南は鏡川、東は国分川に囲まれた氾濫平野、三角州からなる低湿地帯のほぼ中央、標高44mほどの大高坂山に築かれている。大高坂山に城が築かれた、といっても砦といったののではあろうが、その初出は南北朝の頃、南朝方についた大高坂松王丸の居城であったとされるが、北朝方の細川氏に敗れ廃城となった。
長曾我部氏の城普請
戦国時代に入り、四国統一を目前に秀吉に敗れた長曾我部元親は、秀吉の命により居城を岡豊城からこの地に移すことになった。
デルタ地帯の水はけの悪さに加え、度重なる洪水被害に城普請は難渋を極め、城を本山氏の城塞のあった浦戸に移し浦戸城を整備したとの記事もある。が、地図で見る限りその地で本格的城普請が行われたとは考にくい。浦戸湾口に西から東に突き出た狭い岬に家臣団の住む城下町は考えられない。使われた瓦も安普請であり,浦戸城は朝鮮出兵に際しての出城であったとする説に納得感がある。事実、朝鮮出兵中も大高坂山城の整備が続けられていたとの説もある。
山内氏の城普請
長曾我部氏は関ヶ原の合戦で西軍に与し改易。山内一豊が土佐一国を与えられ掛川城から転封し、浦戸城に入るも、大高坂山を居城と定め城普請を始める。築城に際し、織田信秀の家臣として西軍に与し蟄居処分となっていた百々綱家(どど-つないえ)の登用を幕府に願い出でる。 百々綱家は元は浅井家の家臣であり、近江坂本の石工集団「穴太衆」との繋がりが強く、石垣普請の名手と称されていたようだ。幕府の許しを得た山内氏は6千石で百々氏を召しかかえ、総奉行に任じ、築城と城下町整備の全権を委ね、大高坂山に本丸の造営と、城下町の整備のために鏡川・江ノ口川など川の治水工事に着手した。石垣は浦戸城のものを流用したという。
慶長8年(1603年)1月、本丸と二ノ丸の石垣が完成。旧暦8月には本丸が完成し、一豊は9月26日(旧暦8月21日)に入城した。この際、城の名を河中山城(こうちやまじょう)と改名された。 普請開始は慶長6年(1601)9月といった記事もあるのでおよそ2年の工期。人足として山内家臣団も加わったという。
慶長15年(1610年)、度重なる水害を被ったことで2代目藩主忠義は河中の表記を変更を命じ、竹林寺の僧の助言を受け高智山城と改名した。この時より後に省略されて高知城と呼ばれるようになり、都市名も高知と呼称されるようになった。
慶長16年(1611年)、難関であった三ノ丸が竣工し、高知城の縄張りが全て完成した。

追手筋を東進
追手筋の高知城を出ところに県立高知城歴史博物館がある。高知北街道に関する資料はないものかと訪れるが、特にそれらしき資料は展示されていなかった。上述の書、『土佐の道』にある記事だけ(ルートは概要図のみ)を頼りにルートハンティングするしか術はない。仕方なし。 高知のお城を出た参勤交代の列は大手筋を東進したようだ。藩政時代の高知はお城を囲む一帯は重臣の居宅のある郭中、お城の西側は家臣・商人・職人の住む上町、郭中の東も家臣・商人・職人の住む下町といった3つのゾーニングに分かれていた。
郭中の追手筋を東進した参勤交代の一行は現在の廿代橋から南に下る道を境に下町に入る。「寛政七年(1667)高知城下図」には東西に走る追手筋の南に水路が見える。外堀の役割を果たしていたのだろうか。
郭中から下町に入り、かつての西蓮池町、播磨屋町、蓮池町と進み現在の国道32号を横切り県道249号の一筋手前を左に折れ北進しかつての山田町方面に向かう。ちなみにこれら旧地名は現在「はりまや町」となっている。

山田橋
北進すると江ノ口川に架かる山田橋にあたる。この橋は伊予の川之江に出る土佐北街道・北山越え、室戸岬東岸の甲浦に出る野根山越えの、通称「東街道」の起点でもある。「東街道」は土佐北街道が開かれる以前の初期の参勤交代道。野根山街道を甲浦に抜ける。
山田橋の南詰めは少し広くなっているが、そこにはかつって山田橋番所があった、と言う。 この山田橋は遍路道筋でもある。真念はその著『四国遍路道指南』に「過ぎてひしま橋山田橋という。次番所有、往来手形改。もし町に泊まる時は、番所より庄屋にさしづにて、やどをかる」と記す。 山田橋の由来は長曾我部氏が城下町を建設するにあたり、土佐山田の人が移り住んだ故と言う。
江ノ口川
細藪山地西端近くの山裾(高知市口細山辺り)に源を発し、西から東へと流れ高知城の直ぐ北を経由して更に東進し国分川に合わさり浦戸湾に注ぐ。江ノ口川はその流路故に、江戸時代の早い段階から浦戸湾と城下を結ぶ運河として利用され、高知城北側、江ノ口川に面する北曲輪は城に物資を運び込むための重要な場所であったとみられる。
江ノ口川の名前の由来は、現在の高知駅、入明駅周辺にあった江ノ口村に由来するようだ。

旧道に茂兵衛道標(100度目)
山田橋を渡ると現在の相生町に入るが、直ぐ先に土讃線の高架があり旧路らしき道筋は残っていない。次のポイントは久万川に架かる比島橋であるので、そちら方向に成り行きで進み一度県道249号に出る。
しばらくすると右に逸れる如何にも旧道らしき道がある。県道を逸れゆるやかに曲がる道を進むと道の左手に茂兵衛道標が立つ。手印と共に「安楽寺 左 高智 左国分寺 明治二十壱年」といった文字が刻まれる。茂兵衛100度目巡礼時のもの。
安楽寺は明治の神仏分離令に際し、廃寺となった善楽寺に替わり明治8年(1875年)に札所となったお寺さま。当地より南西5.5kmの所に建つ。

茂兵衛道標の直ぐ先、道の左手の古き趣のお屋敷端に「久保添家伝薬発売元」と刻まれた石碑が立つ。旧家には「クボゾエ外科科胃腸科」の看板がかかっていた。「*家伝来」は 家業意識の高さを示すもの。かつて家業として薬を販売していたのだろう。
この辺りの土佐北街道は高知城下を経由する遍路道と同じである。

久万川に架かる比島橋を渡る
旧道は旧家の先で県道249号にあたる。合流点である三差路を北進すると久万川に架かる比島橋。
比島は「山の形がひ;箕のこと)に似ている島の意味(「土佐地名往来」より)。箕は穀物の餞別に使われていた農具だろうと思うのだが、それを裏返した形に似ていたということだろうか。とはいうものの、往昔湿地に浮かんでいたであろう島の痕跡は今はない。
久万川
国分川水系の川と言う。が、東から西へ、物部川の発達した扇状地に阻まれ高知市内に注ぐ国分川とは真逆、高知市の北の細藪山地にその源を発し西から東へと流れ浦戸湾河口部で国分川に合流する。 現在は陸地化されているが、かつての久万川は氾濫平野を流れ、河口部は三角州であったわけで、とすれば両河川の浦戸湾への注ぎ口は現在より上流点であったろうし、であれば往昔は国分川と久万川は合流することもなく浦戸湾に注いでいたようにも思う。
それが国分川水系とされるのは?水系の定義である分水界を同じくする、を元にチェック。国分川と久万川の共通点は、東を土佐山田台地で物部川との分水界を画し、北は細藪山地が吉野川水系との分水界となり、西も南に突き出した細藪山地により鏡川と分水界を画している。要は北と西は細藪山地、東は土佐山田台地によって囲まれた流域であるということだ。
この定義にもとり、両河川は同一水系と考えてもよさそうだ。国分川水系とされたのは国分川も久万川も共に2級河川であるが、その流路距離や流路面積が一見して国分川が圧しているためだろうか。上述江ノ口川も国分川水系とされるもの、このゆえのことだろう。
国分川
国分川は、その源を高知県香美市土佐山田町 と平山 の甫喜 ケ峰 (標高 611m)に発し、領石川 、 笠 ノ川川等の支川を併せながら香長平野を南西に流れた後、下流部において久万川、江ノ口川 、舟入川等の支川を合わせ、浦戸湾に注ぐ。

掛川神社
久万川を渡り土讃線・薊野(あぞの)駅手前、県道249号の左手に掛川神社がある。遠州掛川5万石の藩主であった山内一豊が関ヶ原の合戦での功により土佐20万石の藩主に封 ぜられたわけだが、この社は二代目藩主忠義が掛川より勧請したもの。鳥居傍の石碑には「合殿 龍宮神社、東照神社、海津見神社」と刻まれる。
案内には「掛川神社 江戸時代の寛永十八年(一六四一)、第二代土佐藩主山内忠義が、その産土神であった牛頭天王を遠州掛川 (静岡県)から勧請して、高知城東北の鬼門守護神として建立したのがはじめである。
以来、代々藩主から特別の崇敬を受けていた。明治元年(一八六八)現社に改称した。 合祭神社→龍宮神社、海津見神社は、現境内地付近に鎮祭の古社で、何れも明治三十二年(一八九九) 合祭した。
東照神社は延宝八年(一六八〇)、四代藩主豊昌が徳川家康の位牌殿を設けたのが始まりで、文化十一年(一八一四)には、十二代藩主豊資が境内に社殿を築造し、東照大権現と称していたが、 明治元年東照神社と改称、明治十三年(一八八〇) 合祭した。祭神が徳川家康であることから、県下の神社では唯一、社殿の軒下や手水鉢に徳川家の家紋、三つ葉葵がつけられている。 社宝として、国の重要文化財に指定されている「糸巻太刀 銘国時」(山内忠義奉納)、「錦包太刀 銘康光」(山内豊策奉納)がある。いずれも、現在東京国立博物館に寄託されている。
飛地境内社として椿神社・秋葉神社がある。 高知市教育員会」とあった。
江戸の頃、澄禅もこの社に詣でており、その著『四国遍路日記』に「(観音院)・ 夫与西ノ方ニ一里斗往テ小山在、美麗ヲ尽シタル社也。是ハ太守、天正ノ昔、遠州懸川ノ城主夕リシ時ノ氏神ヲ、当国ニ勧請セラレタリ、天王ニテ御座ト云ウ」と記す。
このような由来ゆえか、藩主は掛川神社前で駕篭から下りて礼拝していたようだが、寺の僧が気をきかせ、駕篭を下りることなく「そのまま」で礼拝を勧めたため、以降掛川神社前では、「そのまま そのまま」と言う俚諺が出来たと『土佐の道』にある。俚諺(里人の言葉)、「そのまま そのまま」ってどういうコンテキストでつかわれたのだろう。
江戸の頃、牛頭天王と称していた社が明治に改名しているところが結構多い。一説には天王>天皇の連想から不敬に当たるとしての対処とも言われる。
国清寺
神社参道左手にお寺さま。牛頭天王の別当寺であった国清寺。案内には「陽貴山見龍院国清寺は、元和三年(一六一七)比島の龍乗院の開基でもある日讃和尚の開基で、寛永一八年(一六四一)牛頭天王宮 (現掛川神社) の別当寺となった。
二代快彦・三代快充・四代黙堂と次々に高僧が出て、藩主の帰依を得、上級武士や学者文人などとの交流が深かったといわれる。
もとは天台宗で、徳川将軍家の菩提寺である上野寛永寺門主支配の寺であった。慶安四年(一六五一)には三重の塔、続いて護摩堂が建立されるなど、藩主山内家の尊崇が篤かったが、明治 維新後の廃仏毀釈によって廃寺となった。
この廃寺に、明治四年(一八七一)四月から六年五月まで、明治政府によるキリシタン弾圧のため土佐に預けられた、長崎県浦上の信徒と家族九十人前後の人たちが、赤岡と江ノ口の牢舎から移されて生活していた。
明治一三年(一八八〇)、京都相国寺の独園大禅師が参禅道場を開き、退耕庵と名付けた。二代実禅大禅師も参禅を広め、門下の坂本則美・中山秀雄・弘田正郎らの協力を得て再興し、寺号 も旧に復して国清寺となった。臨済宗相国寺派に属する禅寺で、本尊は釈迦如来である。 高知市救向要員会」とあった。
〇明治政府のキリシタン弾圧
幕末、キリシタン禁止政策のもと、隠れキリシタン弾圧を受けた長崎の浦上村は「浦上四番崩れ」と世にいう4度目の弾圧により、一村全体、およそ3000名(3400名とも)が捕縛・拷問を受ける。幕府崩壊後もその政策を受け継いだ明治政府は村民すべてを流罪とし、流罪先は21藩に及んだ。ここ高知では当初赤岡(香南市)と江ノ口(高知市街)の牢舎に停め置かれたが、その後廃寺となっていた国清寺に移された。
キリシタン禁制が廃止されたのは明治6年(1873)。不平等条約改正のため欧州に赴いた遣欧使節団一行が、キリシタン弾圧が条約改正の障害となっていると判断し、その旨本国に打電通達し廃止となった。
獄中は劣悪な状態であり、おおよそ三分の一が帰らぬ人となったとのことである。
●薊野(あぞうの)
野アザミの里が通説。莇は薬草のクコ。別説は海が 入り込む浅海・あさみ説。崩れた岸や崖のあず (?)説も(「土佐地名往来」)

鳥付橋
掛川神社を離れた土佐北街道・県道249号は北東に進み 薊野東町で右折。県道384、44号、高知東部自動車道の高架を潜る。この高架下に水路がありそこに架かるのが『土佐の道』にあった鳥付橋であった。






土佐神社お旅所
をクロスし土讃線に沿って東進。一宮中町2丁目、川の西詰に社と、川沿いの道に鳥居が建つ。 何故に境内横の川沿いの道に鳥居が?ちょっと気になり境内に入る。案内には、「土佐神社お旅所 明治十三年建立 土佐神社の大祭「志那禰祭」の神幸祭に際して神輿が仮に鎮座する場所です。
神殿造りのお旅所は珍しく一宮ならではの建物です。古くは、須崎市浦ノ内に祀られる鳴無神社をお旅所とし、江戸時代からは、高知市五台山の小一宮様(現在の土佐神社離宮)をお旅所としていずれも海路御神挙しました。初般の都合により明治十三年当地に建立し徒歩にて御神幸するようになったものです。
お旅所祭は祭儀上重要なもので現在も鳴無神社に向かい巫女により神楽を奉納しています」とある。
現在御神幸は海路を進むことなく、このお旅所まで神輿神幸が行われているようである。川沿いにある鳥居を潜り北進すると土佐神社がある。
土佐神社
土佐神社の礫石
先般、歩き遍路で30番札所善楽寺を打ったとき、お隣にある土佐神社に参拝した。土佐一の宮、 『日本書紀』や『土佐国風土記』にも記される古代から祀られた古社で、中世・近世には土佐国の総鎮守として崇敬された神社である。
その境内を彷徨っているとき、上述お旅所の経緯に関係する「礫石」に出合った。畳二畳ほどの自然石の傍に案内があり「古伝に土佐大神の土佐に移り給し時、御船を先づ高岡郡浦の内に寄せ給ひ宮を建て加茂の大神として崇奉る。或時神体顕はさせ給ひ、此所は神慮に叶はすとて石を取りて投げさせ給ひ此の石の落止る所に宮を建てよと有りしが十四里を距てたる此の地に落止れりと。
是即ちその石で所謂この社地を決定せしめた大切な石で古来之をつぶて石と称す。浦の内と当神社との関係斯の如くで往時御神幸の行はれた所以である。 この地は蛇紋岩の地層なるにこのつぶて石は珪石で全然その性質を異にしており学界では此の石を転石と称し学問上特殊の資料とされている。 昭和四十九年八月 宮司」とあった。古くはこの礫石を磐座として祭祀が行われたとする説がある。
鳴無(おとなし)神社
高岡郡浦の内、現在の須崎市内の浦に鳴無神社がある、古代「しなね祭り」という土佐神社の重要な神事が海路、この鳴無神社へ神輿渡御されていたようだ。土佐神社を別名「しなね様」と称するわけだから、重要な神事ではあったのだろう。
それもあってか海辺に鳥居が建ち、参道は海に向かっている。

岩を投げたかとうかは別にして、鳴無神社の祭神は一言主。土佐神社の祭神と同じである。Wikipediaの鳴無(おとなし)神社の社伝によれば、葛城山に居た一言主命と雄略天皇との間に争いがあり、一言主命は船出して逃れた。雄略天皇4年の大晦日にこの地に流れ着き、神社を造営したのが始まりであるとし、土佐神社は鳴無神社の別宮であったとされる。 一方、土佐神社の社伝には祭神は、古くは『日本書紀』に「土左大神」とする。地方神としては珍しく「大神」の称号を付して記載されるが、この土左大神の祭祀には、在地豪族である三輪氏同族の都佐国造(土佐国造)があたったと考えられている。
その後、710年代から720年代の成立になる『土佐国風土記』の逸文(他書に引用された断片文)には「土左の郡。郡家の西のかた去(ゆ)くこと四里に土左の高賀茂の大社(おほやしろ)あり。その神の名(みな)を一言主の尊(みこと)とせり。その祖(みおや)は詳かにあらず。一説(あるつたへ)に曰はく、大穴六道の尊(おほあなむちのみこと)の子、味鋤高彦根の尊なりといふ」と神名が「土佐大神」から変わっている。
この記事の意味するところは、大和葛城地方の豪族である賀茂氏が土佐に勢力を及ぼすに際し、都佐国造の祀る土左大神に賀茂氏祖先神の神格を加えるべく、土左大神の鎮座譚に雄略天皇の葛城説話を組み込んだとされる。
賀茂氏とその祖先神一言主神と味鋤高彦根神
奈良県御所市に高鴨神社、葛城一言主神社がある。この社の祭神は共に味鋤高彦根神、一言主神。 大和葛城地方(現・奈良県御所市周辺)で賀茂氏が奉斎した神々とされる。
『古事記』や『日本書記』には、雄略天皇が葛城山で一言主と問答をした、といった記述があるようだ。また、『続日本紀』天平宝字8年(764年)条では、大和葛城山で雄略天皇(第21代)と出会った「高鴨神」が、天皇と猟を争ったがために土佐に流された、といった記述と変わる、さらに『釈日本紀』(鎌倉時代末期成立)には、葛城山で「一言主神」が雄略天皇と出会ったとし、一言主は土佐に流されて「土佐高賀茂大社」に祀られた、となっている。
しなね様の語源
しなねの語源は諸説あり、七月は台風吹き荒ぶことから風の神志那都比古から発したという説、新稲がつづまったという説、さらに当社祭神と関係する鍛冶と風の関連からとする説等がある(土佐神社の解説より)。

四国霊場遍路道
土佐神社の隣に四国霊場30番札所善楽寺がある。善楽寺から31番札所竹林寺への遍路道は大きく分けて2つある。一つは高知城下を経て竹林寺へ向かうもの。もうひとつは城下を経由することなく善楽寺・土佐神社から南下し直接竹林寺を目指すもの。
高知城下経由の道は善楽寺・土佐神社の表参道を南に下り、県道384号を南西に進み、途中土佐北街道へと道を分ける県道249を越え掛川神社前を通り、久万川に架かる比島橋、江ノ口川に架かる山田橋を渡り、橋詰の番所で札改めを受け下町を南に下り鏡川に沿って南東に進み青柳橋を渡って五台山にある竹林寺に向かう。遍路は城下の郭中に泊まることは許されなかった。
もう一つの直接竹林寺へ向かう遍路道は、土佐神社の表参道を南に下り、土佐神社お旅所のあるこの地で左折、少し東に進んだ後土讃線一宮駅の東から南進し竹林寺に向かったようである。 土佐藩は遍路に対し厳しく城下町を経由する遍路道を避けこの道を進んだ遍路も多いと言う。

石淵送り番所
お旅所横の鳥居にフックがかかり、あれこれと寄り道メモが多くなった。お旅所を離れ土佐北街道を進む。Google Mapにはこの辺りから県道249号に「土佐北街道」と記される。 県道を東に進み土讃線土佐一宮駅を越えると直ぐ、道の左手にお堂が建つ。その直ぐ東に南に下る道がある。この道は30番札所から高知の城下を避けて直接竹林寺に向かう遍路道である。 この道の先、道幅が一車線に狭くなり石渕の集落に入る。

集落に入ると直ぐ、道の右手民家の前に案内が立つ。案内には「「石渕送り番所・参勤交代の道筋」とあり、「江戸時代初期の資料と推測される「御国村数名書帳」(皆山集)によると、高知城下より東方江ノロ村の次一里の場所に布師田村があり、「布師田村・大道筋・馬継」という記載が見られます。

「大道筋」は土佐藩内の東方面の他国に出る一番大きな道で、幅三間(約5.4m)と定められており、布師田は重要な交通の要所であったことが伺われます。 「馬継」とあるのが"石渕送り番所"です。他の地域に比べてとても多くの馬が飼われていた記録も残されています。送り番所は村役人待遇の送番頭が常勤し、通行手形のチェックや出張役人の対応、また馬や駕籠などをそなえて公用の書状や荷物の搬送などにあたりました。たびたび夫役として農民が労働を課され、地域村民の負担となったこともありました。
参勤交代が北山道を通るようになり、藩主第一泊目の布師田御殿がヒツ城(現在の布師田ふれあいセンター付近)に作られると、石渕送り番所の重要性はいっそう増していきました。
坂本龍馬や武市半平太など幕末に活躍した多くの人々もこの送り番所で通行手形のチェックを受けて旅立って行き、往来していたことでしょう。
※石送り番所の位置には諸説ありますが、この地であるという説が有力です。
龍馬青春の道
嘉永6年(1853年)3月17日、当時19歳の龍馬は藩から15ヶ月の国暇を得て私費での剣術修行のため、溝渕広之丞と江戸へ出立して行きました。城下を離れて最初の石淵送り番所で通行手形のチェックを受けたことでしょう。その後は参勤交代の北山道を通って、布師田橋は渡らずに国分川北岸を、西谷・折越峠・蒲原・小蓮と通って、藩境の立川番所をめざしたと思われます。『龍馬青春の道』とも言えるのではないでしょうか」とあった。
折越峠はどこか不明だが、西谷と蒲原の間とすれば、後ほど歩く県警交通機動隊の建屋前に抜ける丘陵切通しのあたりかもしれない。西谷・蒲原・小蓮は龍馬も後程その道筋を歩くことになる。

岡村十兵衛先生住居跡
山裾に沿った石淵の集落を進むと、道の左手に「岡村十兵衛先生住居跡」の案内があり、「岡村十兵衛先生住居跡 岡村十兵衛の先祖は、戦乱の京を逃れて土佐に下向した一条教房の従者として土佐に入国しましたが、主家が長宗我部元親に滅ぼされた後浪人し、後に土佐に入国した山内氏の中村城主(山内修理大夫)に仕えることになります。
布師田に在住した十兵衛は、天和元年(1681年)羽根浦(私注;室戸市羽根町)分一役を命ぜられ、羽根浦に着任しました(同郷布師田の大先量一本権兵衛が亡くなったわずか二年後)。分一役"とは軽格の武士が任命され、諸税の徴税や民生に当たりました。
当時土佐藩の疲弊は激しく、特に安芸の東部沿岸は相次ぐ野中兼山の殖産興業策が民力を削ぎ、浦奉行の苛政も加わり、身売りや逃散が続いていました。羽根村も例外ではなく、十兵衛赴任の前から風水害が相次ぎ、漁もなく凶作で村人の生活は困窮の極に達していました。
十兵衛は民情を詳しく視察し、惨状を救うのに心を砕きました。売掛米を貸し付けたり、藩に願って黒見(私注;羽根川上流に黒見の地名が地図に記される)の御留山を明けてもらい、松材を上方方面に売り、その利益を地下に用立てたりして滞人の救済を図りました。こうした努力にもかかわらず、十兵衛赴任後の天和の三年間も災害や凶作・不漁は続き、その後も事態好転の兆しは一向に現れませんでした。
十兵衛は御米蔵の年貢米を施すより外はないと判断し、再三にわたって藩庁に窮状を報告し、御米蔵の米を救い米として放出することの許しを願い出ました。一ヶ月が過ぎても藩からの沙汰は一向になく、十兵衛は責任を一身に負う覚悟を決め、庄屋を呼び尾僧(私注;室戸羽根町の国道55号傍に尾僧の地名が記される)の米蔵を開いて餓死寸前の村人に施米をして人々を救いました。 許可なく藩の米蔵を開いた罪は軽くなく、追っての沙汰を待つように謹慎を命ぜられた十兵衛は、事務整理を終え、貞享元年(1684年)七月十九日未明、罪を一身に背負って役宅で切腹して果てました。
村民は嘆き悲しみ、八幡宮の傍らに募って香華を絶やすことはなかったと伝えられています。また、死後、時を置かず庄屋や年寄りたちが連名で十兵衛の罪に対する願書を提出しています。 天保四年(1833年)七月十八日、百五十年祭が挙行されています。
弘化四年(1847年)第十三代藩主山内豊熈は東巡の折、参拝して十兵衛の忠義を称える漢詩を贈っています。また、豊熈は高知に帰り、十兵衛の子孫を探し出して召抱えようとしましたが、跡目が絶えていて果たすことができませんでした。
明治四年(1871年)組頭・地下惣代十数名が願い出て"神社"として祀り、明治七年正遷宮の儀を営んでいます。
昭和二十七年(1952年)十一月、羽根十兵摘会は二百七十年祭を村と共催で盛大に行って遺徳を偲び、その仁政を顕彰しました。
毎年11月第2日曜日には鑑雄神社境内で岡村十兵衛先生追善相撲大会が盛大に開催され、布師田の子供も参加しています。また米をかたどった"お蔵饅頭"が羽根名物として百年以上線く老舗で販売されており、平成7年4月からは"十兵衛手打ちうどんのお店も営業しています。
高知の作家田岡典夫は、小説「武辺土佐物語」の中の"羽根浦救民記"で、岡村十兵衛が住民が藩に一揆などおこすことのないよう気を配り、「皆の者、やっとのお許しが出たのでお倉の米を配給する。」と告げて御米蔵を開放し、住民がに大いに感謝したとして著わしています。当時の想像を絶する状況と人物の大きさが伝わってきます。
以上を引用した"室戸市史 上巻第九章 二人の義人の二人とは、岡村十兵衛《貞喪元年(1684年)許可を得ずに御米を開放して自刃》と一木権兵衛《延宝七年(1679年)室津港大改修完成後自刃》であり、いずれも布師田に在住した藩の役人でした。
ここ住居跡と言われる場所の庭には、先生の心を和ませたと思われる"十兵衛牡丹"が伝えられていて季節には美しい花を咲かせています。狩野様のご厚意により布師田小学校にも株分けされています」とあった。

一木権兵衛先生の墓所
岡村十兵衛先生住居跡を越えると道は山裾を北東に進む。道の左手に社が建つ辺りから道は東進するが、土佐北街道は最初の四つ角を左折し北進する。道の右手に建つ布師田小学校を越え右折すると直ぐ、道の左手に「一木権兵衛先生の墓所」の案内があり、一木権兵衛先生の肖像画と共に記事があった。
「豊臣氏が滅んでわずか2年後の元和三年(1617年)現在の高知市布師田に長宗我部氏の元家臣(一領具足)の家に生まれた一本権兵衛先生は、布師田の権兵衛井流を造ったことを山田堰工事の検分に向かっていた野中兼山に認められて、正保二年(1645年) 29 歳頃百人並み郷士に取り立てられます。野中兼山は家老として二代藩主山内忠義の信任を一身に受け土木灌漑新田開発・港湾工事・産業奨励等土佐藩の基盤づくりの大改革を進めていましたので有能な者は身分を問わず取り立てていたのです。
物部川の山田堰関連工事に参加した一木先生は確かな業績が認められ、慶安元年(1648年)32歳の時、異例の大抜擢を受けて初めて普請奉行に任ぜられます。仁淀川に八田堰を造り用水路を整備して春野地方に広大な水田を拓く大工事の現場最高責任者として着任します。
堰は"糸流し工法"や"四つ枠工法"等で、 用水路は"提灯測量"や"千本突き"等で、"ずいき" を 焼いての削岩法"いもじ十連"等の言葉も残る岩山を切り裂く『行当(ゆきとう)の切り抜き」と呼ばれ る難工事もありましたが、承応元年(1652年)五ヶ年に及ぶ大工事は完成し広大な水田が出現しました。
その後も宿毛の大堤や幡多方面の堰や用水路工事にも関わり、寛文元年(1661年)の津名港や室津港改修等の港湾事業にも関わっていきます。これら大きな功績により"御馭初式"(おのりぞめしき)という毎年正月に藩主の閲兵を受ける武士としての晴れ舞台に参加できるようになり、寛文四年(1664年)48歳の時には郷士7組中最高の189人を従えていた記録が残っています。
三代藩主山内忠豊に変わったのを機に、工事続きでの財政難や民衆の苦しみを失政として訴えられついに野中兼山は寛文三年(1663 年)失脚し同年49歳で急死します。兼山の多くの部下は一緒に失脚しますが、一木先生などわずか数名が特に罪に問われることはありませんでした。一木先生 47歳の時でした。技術面や資金面で常に支えてくれた最大の理解者兼山を失って大きな落胆と悲しみのどん底にありました。
兼山失脚から十四年、延宝五年(1677年)3月になってようやく江戸幕府の許可を得て土佐藩を挙げての室津港大改修工事が始まります。普請奉行として61歳の一木権兵衛先生が再び重責を背負って"延宝の堀次"と言われる難工事に着任することになります。湾内は完成間近でしたが、港の入り口になかなか砕けない大岩があり、一木先生は工事の成功を自身の命にかえて海神に祈願しました。ツチやノミを持って皆でかかったところ大岩は血のようなものを吹きだして砕けていき、延宝七年(1679年) 三ケ年に及ぶ難工事は完成します。
一木先生は報告のため城下へ行こうと浮津のあたりまで来ますが体がしびれて動けません。室津に帰ると楽になります。何度かこのようなことがあって海神との約束を果たすのは今だと確信します。城下から人を呼んで引き継ぎを済ませ、家族を呼び寄せ後のことを託しました。
延宝七年(1679年)六月十七日の夜、海上に祭壇を設け鎧兜並びに太刀を海神に献じたのち、未明に自ら人柱となって切腹して亡くなりました。
一木先生は大幅な出費の責任を取り亡くなったと言われていますが墓碑には病死"となっています。 一木先生は公儀からの借財を支払うため延宝六年四月十四日付で、自身の約五町歩の土地を藩に売り渡し、室津港改修の莫大な支払いに当て自ら全てを投げ打って責任をとっていることがわかります。いつもバックアップしてくれていた兼山はすでになく、孤軍奮闘一木先生の想像を絶した苦悩のほどが察せられます。
工費と人役には諸説がありますが、『室津港忠誠伝』によると、役夫は約百七十三万人、工費は約十万一千三百両とも見積もられていました。
港内面積はそれまでのほほ二倍の約一町九反となり、参勤交代の御座舟や五百石積み廻船が停泊可能等航海が安全になり皆に大変喜ばれました。
一木先生の死は、日頃野中兼山から「御普請には存分の金銀をついやしてもかまわぬ、ただ完全なものを仕上げることだ。」と教えられていて予算以上の莫大な費用となったのでその責任を取ったとも言われています。また兼山に取り立ててもらった大恩を忘れずにいて、藩による兼山の失脚や遺族に対する厳しい処置への抗議の意味も含まれていたとも言われています。
一木先生は野中兼山の国中に於ける土木工事を補佐し、七人扶持二十四石となり、延宝年中には永年の功により分限七百石となっていて三男二女にも恵まれていました。 三男市三郎さんが家督を継ぎ、二男市之助さんは横山新兵衛として一木先生の奥さん"福"さんの里の横山家を継いでいます。
室津港はその後拡張整備され、土佐古式捕鯨や近代鰹鮪漁業の基地となり、世界の海に雄飛しました。今日、その基盤を作った先人の偉業を長く顕彰し忘れられないよう語り伝えて行かねばなりません。 室津港を見下ろす高台にはお墓も建てられ立派な一木神社も建立されています。高知県漁協室戸統括事業所(旧室戸漁協)を中心に篤くお祭りが引き継がれています。室津港のすぐ上の太田旅館では宴会時の皿鉢料理の中の一品として"権兵衛寿司"が伝わっています。散らし寿司の上にあらかじめ味付けされた3~4種類の新鮮な刺身がふんだんに散りばめられ、大きな海鮮丼のような豪快で大変おいしいお寿司です」と記される。

案内には記事と共に、その下に《室津の一木神社≫、≪ 一本権兵衛先生布師田の墓所≫、《一木先生(右)と福さん(のお墓)≫、《一木先生室津の墓所≫、《 権兵衛寿司≫などの写真、また《 権兵衛井流(ゆる)≫の現在の写真と解説(一本権兵衛先生が指揮して造ったといわれる用水路の水門。増水時に国分川に水を流して下流域の浸水や土手の崩壊を防ぐための仕組み。現在もほぼ当時のままの位置に2ヶ所残っていて機能を果たしています)といった写真と記事が補足されていた(室津漁港の写真と記事もあったのだが、写真がうまく撮れていなかったので省略する)。
 
過日歩き遍路や土佐北街道散歩の折、物部川仁淀川(ほんの一部),さらには春野の利水・治水の事績に出合った。その時は野中兼山のことのみをメモしたが、それらの事績は一木權兵衛といった腹心の存在があったればこそという事を改めて認識した。

布師田御殿跡
道を東進し国分川にあたる手前、道の右手に布師田ふれあいセンターがあり、その敷地内に「布師田御殿跡」と刻まれた石碑、「参勤交代 北山道 布師田御殿跡の案内と北街道のルート図があった。石碑台座の石は取り壊された布師田御殿の石垣の石を残したものである。






案内には「参勤交代制度」、「師田御殿跡」「野中兼山と一木権兵衛」が記される;
参勤交代制度
参勤交代制度は3代将軍徳川家光の時代寛永12 (1635)年の"武家諸法度"で制度化されました。江戸に妻子を住まわせ、1年交代で江戸と領国を往復させ諸大名の財力をそぐという大名統制政策で、幕末まで維持されます。一方この制度で各ルートは公道として整備され、往来も盛んになり、産業・学問・文化の交流窓口ともなって行きました。

参勤交代の規模は、大名の石高に応じた従者の数が定められていました。土佐藩では1,500~2,700人・元禄元(1688)年には総勢2,531人で片道30日ぐらいを掛けて往復した記録が残っていて道中の大変さが偲ばれます。
当初は高知からの海路を利用していました。17世紀後半以降、甲浦まで陸路でここから海路を取ることも多かったようです。しかしながら天候に左右されることや遭難もあり、享保3 (1718)年6代藩主山内豊隆から"北山越え"の利用が始まり、次第にこのルートが整備されて主流になって行きます。
北山道を取る場合、発駕後一泊目は主として比江高村家に宿しましたが、天保頃から布師田に転じ、天保4(1833)年 12代豊資以降は布師田御殿泊が中心となります。
北山道は愛媛県側からは、「土佐街道」「立川街道」と呼ばれていました。文久2(1862) 年、16代豊範の時にはそれまでの隔年から3年に一度となり、在府日数も削減され妻子の帰国も承認されるようになりました。この政策は、15代豊信(容堂)が政事総裁職松平春嶽と計って進めたものでした。
宿泊地 (ルート)
布師田御殿または比江高村家⇒本山土居⇒立川番所 ⇒ 馬立本陣 ⇒ 川之江⇒ 丸亀又は仁尾 ⇒海路本州へ
布師田御殿
布師田は国庁のあった国分の地に隣接した土佐郡の主要な中心地として古くから交通の要所でした。
江戸時代になって山内氏が入国後、参勤交代制度が始まった時、古代から交通の重要な拠点であった布師田に第一泊目の藩主の泊まる"本陣"やお供の泊まる"脇本陣"などが置かれたのも当然のことでした。
江戸に上る「参勤」の場合は、布師田で高知城を発した時の正装を解き長期の旅支度に着替えて出発して行きました。土佐に帰る「交代」の場合は、この布師田での最終泊後、正装して行列を整え城下に入って行きました。
「宿場としての布師田橋付近は非常に繁昌し、商店は軒を並べ旅館あり料亭あり、明治になっても人力車は梶棒を並べて客を呼び、清流国分川には屋形船を浮かべて風雅を楽しむ客などもあり、その賑わいぶりは御殿宿場としての名に恥じないものがありました。」と「布師の里」に記されています。
野中兼山と一木權兵衛
土佐藩は江戸時代初期から、幕府から申し付けられる普請役や参勤交代の出費などにより財政が行き詰ってきていました。そのような中、野中兼山は、若干17歳で藩の奉行職となり2代藩主山内忠義の強力な後ろ盾のもと藩政の基礎を確かなものにするために、約30年に及ぶ大改革に取り組むことになります。物部川や仁淀川・四万十水系などに堰を造り、用水路を引いて広大な 水田を開き米の増収を図りました。海路船での参勤交代の安全や海運・漁業などを盛んにするため、室津港や津呂港・手結港などの整備も行いました。
布師田出身の義人一木権兵衛は、国分川からの用水路に"権兵衛井流"を造った功績で野中兼山に郷士として取り立てられます。兼山の代表的な政策である土木灌漑港湾事業の多くの場合に於いて、権兵衛は普請奉行など現場の技術責任者として約35年間にも及び強力に兼山を支えていくことになります。兼山失脚後も遺志を継ぎ海神に一命を捧げる覚悟で最重要な難工事の室津港大改修を完成(延宝7(1679)年)した後、自ら人柱となるため自刃して63歳の生涯を閉じました。今は室戸市の一木神社に祀られており、又その墓所は西谷地区にあります。
このように、参勤交代の経路となる海港の整備も進められましたが天候不順や危険性の心配の伴う海路ルートよりは、陸地を進む山越えのルートが、徐々に主流となって行きました。

記事は今まで処々でメモしたおさらい、といったものではあるが唯一疑問となっていたことが解消されたことが有り難かった。それは何故に布師田(ないしは比江)を初日の宿泊地にしたのか?ということである。城下からあまりに近く、二日目の本山までの距離はあまりに遠い。その理由が城下を進む正装を解き旅支度にするため、また逆に旅装束から正装に威儀を正して城下入りをするためであったようである。

北街道ルート図
それよりなにより有り難かったのが北街道ルート図。上述お旅所の辺りから南国市岡豊町八幡あたりまでのルートが記されている。そのルート図に拠れば、布師田までは今まで辿ったルートの他、土佐一宮・土佐神社に参拝しお旅所まで南下し布師田に向かうルートもあったようだ。 また、布師田から先は二つに分かれ、ひとつは国分川の北、現在の高知大学医学部の北を向かうもの、もうひとつは布師田の先で国分川を渡り中島を経由し現在の岡豊橋辺りで国分川を北岸に渡り、岡豊町八幡でふたつの道は合流する。


実のところ、この地図を見るまではGoogle Mapに「土佐北街道」と記された道があり、その道を辿るつもりであった。その道は29番札所国分寺からの遍路道でもあり、高知大学医学部手前の川崎川蒲原橋で、案内にあった北に進む北街道と分かれ医学部の南を国分川に沿って岡豊橋北詰で中島経由の北街道と合流する。遍路道はその先、笠ノ川川の下乃橋を渡り29番札所国分寺に続く。



布師田金山城跡
布師田ふれあいセンター敷地内に「布師田金山城跡」の案内。「「土佐川郡誌」(※1)に「古城蹟 在布師田山東峯或日元親置斥候所」と記され、『南路志』(※2)には「古城石谷民部少輔(領千石一宮社職)後号執行宗朴為元親落城其後久武内蔵助居之」と記録に残るように、城主は細川氏の末流と伝えられる石谷民部少輔 源重信 で、後に長宗我部元親に降伏して執行宗林と名乗り、一宮にある土佐神社の神職になったといわれています。その後元親は当城を久武内蔵助に与えたと伝えられています。
また、「土佐物語」(※3)では、すぐ南に見える大津城やその南の下田城などが激しい戦いの末、長宗我部氏によって相ついで滅ぼされてゆくのを間近に見て、金山城主石谷民部は重臣たちと計って長宗我部氏に降伏した様子が記されています。以後、岡豊城を中心に東方の久礼田城と西方の金山城などが連携して、岡豊城の防御と周辺進出の拠点となっていたことがうかがえます。 金山城は国分川を眼下にする要害の地で、周辺が遠く見渡せる好位置にあって小規模ながら遺構のよく残る中世・戦国時代の城跡の一つであります。元親の本拠地である岡豊城は2.5kmのすぐ東方に望めます。

標高113.6mの山頂の詰ノ段はややいびつな楕円形をなし、高さ 1.3~1.6m の土塁がめぐらされています。
詰ノ段下の二ノ段は一部に土塁を残して東から南~西と広がっています。
ニノ段から急斜面の約10m 下には三ノ段が配置され、幅は5mから広い所で9m ほどあります。 三ノ段から下は急斜面が東から西方に裾を広げているが一か所東方下の尾根に向かって降りる道があります。
三ノ段の南方下には四ノ段が認められます。
詰ノ段北の二ノ段西側下には珍しい遺構の深い空堀が残り、更に周辺には竪堀・堀切や曲輪跡が認められます。
北西に延びる北山の尾根には峰を平坦に削った防御施設としての曲輪がそれぞれ堀切に区切られて二つ連なっています。

眺望としては、遠くは高知龍馬空港・太平洋・岡豊城・高知大学医学部・岡豊高校・大津城・五台山・浦戸湾・筆山・高知市街など、近くは国分川・あけぼの街道・RKC アンテナ広場・JR 布師田駅・サンピアセリース・じばさんセンターなどが一望できます。
※1・・・・・・土佐藩政中期に藩の儒学者緒方宗哲の編纂した歴史・地理・統計等 藩政史の重要資料 全47 冊
※2......文化 12 年(1815 年)高知城下豪商美濃屋の武藤父子が学者を動員して編纂した歴史・地理・故実等の資料
※3.......戦国時代初期から江戸時代初期頃までの主に長宗我部元親の生涯を中心にした軍記物語
金山城へは、当ふれあい広場西北側のフェンス出入口からお登りください。」とあった。

詳細な案内板の解説が多くメモが長くなった。高知城下から權若峠取り付き口・釣瓶までの土佐北街道メモの第一回はここまでとしう、次回布師田から權若峠取り付き口・釣瓶までのルートをメモする。
先回の散歩では国見山を越えた下山口から立川川の谷筋にある柳瀬集落までをメモした。国見山()下山口から四国山地の真ん中、北嶺地域の要衝の地である本山を経て吉野川を下り、川口で吉野川の支流・立川川の左岸に入り、現在の県道5号を北上、往昔立川川右岸に渡り山麓の道を進むことになる土佐北街道を柳瀬集落までを辿った(現在は柳瀬で右岸に渡る橋が崩壊しており、土佐北街道はひとつ手前一の瀬集落の金五郎橋で右岸に渡ることになる)。
今回は法皇山脈・横峰越えの下山口集落、四国中央市半田平山より川之江までをメモする。

柳瀬で立川川右岸に渡り、立川番書院まで進んだ土佐北街道は、そこから笹ヶ峰を越え新宮の谷筋に一度下り、再び法皇山脈を上り返し堀切峠近くを抜け.下った先で最初に出合う集落である。 
平山より先の土佐北街道は金生川支流に沿って山裾まで下り、金生川との合流点辺りからはその左岸を少し進んだ後、大きく蛇行する川筋から離れ北進し、蛇行し西流してきた金生川を渡り返し川之江の町に入ることになる。
法皇山脈・横峰越えは平山集落よりスタートし峠を越えて新宮に下りたのだけれど、今回は横峰越えのスタート地点であった平山集落から逆方向、山を下り川之江へと向かう。



本日のルート;平山集落の土佐北街道と遍路道分岐点>お小屋倉屋敷跡と旅籠屋・嶋屋跡の石碑>県道5号に下りる>県道5号を右に逸れ土径に入る>枝尾根突端部に土佐北街道標識>東金川集落(金田町金川)の茂兵衛道標>標石>大西神社南の道標>東金川バス停(金田町金川)傍の道標>土佐北街道分岐点>金生川に沿って「四つ辻」へ>槍下げの松>四つ角に標石と常夜灯>上分を離れ金生町下分に入る>金生橋を渡り川之江町に>陣屋跡>大標石>御本陣跡>高知藩陣屋跡>川之江八幡


新宮から平山;土佐北街道横峰越え



■平山集落からスタート■

平山集落の土佐北街道と遍路道分岐点
上掲ルート図の如く、法皇山脈・横峰越えの土佐北街道が堀切峠傍を下り平山の集落に下りてくる。T字路となった下り口には土佐街道の石碑、それと並んで地蔵丁石と茂兵衛道標が立つ。(念のため新宮から平山集落の土佐北街道委と遍路道分岐点までの土佐北街道横峰越えルートを上に載せて置)く。









土佐街道石碑
石碑には「是より 南 水ケ峰 新宮村を経て高知に至る  北 川之江に至る」と刻まれる。
茂兵衛道標と地蔵丁石
地蔵丁石には「奥の院まで四十八丁」と刻まれ、茂兵衛道標は手印で雲辺寺を示す。
遍路道
この道標の立つ地は伊予の最後の札所65番札所三角寺から、讃岐の最初の札所66番雲辺寺へと向かう三つの遍路道の合流点でもある。
一つは三角寺から一度金田町金川まで山を下り再び平山へと上るルート。金川から平山までは土佐北街道と重なる。今回平山から下る土佐北街道のルートでもある。
もう一つは三角寺から麓に下ることなく、佐礼を経由して山腹を進みこの地に達する。
三番目の道は三角寺の奥の院経由の道()。三角寺から法皇山脈の地蔵峠を越えて、銅山川の谷筋に下り奥の院・仙龍寺を打ち終え、一部往路を戻った後、北東へと法皇山脈を上り峰の地蔵尊で法皇山脈の尾根を越え北東に少し下った後、土佐北街道に合流し、平山のこの地へと下りてくる。地蔵丁石に「奥の院まで四十八丁」と刻まれるのは、このルートを示す。

お小屋倉屋敷跡と旅籠屋・嶋屋跡の石碑
T字路より少し西に進むと、比較的新しい石碑が立ち、南面には「お小屋倉跡」、西面には「旅籠屋・嶋屋跡」の案内が刻まれる。。眼下一望の場所である。
お小屋倉跡
「土佐の国主が参勤交代の時、休み場が此処より1400米登ったところにあり、お茶屋と呼ばれここで休息される時、倉に格納してある組立式の材料を運びあげて臨時の休息所とされた」と書かれていた。
土佐街道横峰越えの折、このお小屋倉跡を訪ねた。その場所の案内には「この場所に泉があり土佐藩主山内公の参勤交代中の休み場であった。延べ50余mの石垣で三方を囲み、上段に70平方メートル余りの屋敷を構えた。
先触があると1400メートル下の平山のお小屋倉から組立式の材料を運び上げて休息所を建てた」とあり、その傍ブッシュの中の泉の跡には「お茶屋跡」との案内があり、「一般に「お茶屋」と呼ばれたこの地には、泉があり、すぐそばに大きな松の木があった。そのため、古くから旅人たちの休み場となっていた」とあった。
旅籠屋・嶋屋跡
案内には「薦田の家譜で約5アール(150坪余)の土地に広壮な建物があり、街道は屋敷の東(現在の谷)を下り隅で西に曲がり石垣の下を通っていた。石垣は土佐の石工が宿賃の代わりに積んだと言われ、兼山の鼠面積(長い石を奥行き深く使い太平洋の荒波にも強い)として有名である」とある。
兼山とは土佐北街道・本山の町や土佐の遍路歩きの途次でメモした通り、利水・治水の河川改修、港湾整備など土木工事の実績で名高い土佐藩家老の野中兼山のこと。で、その石垣は何処に、と周辺を下り探したのだが、特に案内もなく、それらしき石垣も見当たらない。実際は、今は無いとのこと。石碑下の、今は畑となっている北側に石垣があったようで、往昔の土佐街道・遍路道はその石垣下を廻り上ってきたようだ。なお、嶋屋に土佐のお殿様は泊まることはなく、川之江の本陣に滞在したとのことである。
平山
「えひめの記憶」には、「この集落は法皇山脈の標高200mを超す山腹に形成され、交通の要所として、かつては宿屋・居酒屋・うどん屋などが建ち並んで、ごく小規模ながら宿場町の形態をなしていた。その平山で最も大きな宿屋が嶋(しま)屋だったが、現在その跡地は畑になっている」とある。

県道5号に下りる
石碑の左手の坂を下ると県道5号に出る。県道5号に出たところにある民家右手に「土佐北街道」の案内石碑が立つ。





県道5号を右に逸れ土径に入る
県道を右に逸れトンネルを潜る
大きく北へと向きを変える県道を進むと、道の右手に「四国のみち」の指導標が立ち、「三角寺」「椿堂」への案内。椿堂はこの地より東、金生川の谷筋にある平山の集落から雲辺寺を目指すお遍路さんが多く立ち寄るお堂である。
土佐北街道はここで県道を右に逸れ県道下のトンネルを潜り、県道西側を下る土径に入る。トンネルは県道改修工事の際にでも造られたものだろう。
実のところ、金田町金川から平山までは三角寺からの遍路道をトレースする際に一度歩いたことがある。その道筋が土佐北街道と重なっていたため、このトンネルを潜り「椿堂」の標識を見ていたこともあり迷うことなくルートをメモしたが、はじめて歩くとしたら結構難儀するところかと思う。注意必要。

枝尾根突端部に土佐北街道標識
土径を少し進むと簡易舗装の道となり、その先で民家の間を抜けるとT字路に出る。角の民家のコンクリート塀には「土佐北街道」の標識が今来た道を指す。
「土佐北街道」の標識のある民家の辺りは、枝尾根突端といったところ、この角を左に折れ5mから10mほどの急坂を下り東金川の集落に向かう。
地図に記載された土佐北街道
左に折れ金田町金川の集落に向かう土佐北街道のルートは、三角寺から一旦西金川の集落まで下り、三角寺川に沿って西金川バス停まで進み、そこを右折し東金川の集落から平山に進む遍路道を辿った折、西金川バス停傍に「立川街道」の標石が立っており、その案内に従い遍路道と重なるルートを辿り、この地の「土佐北街道」の標識まで進んだわけだが、地図を見ると金田町金川の辺りから南に進む道筋に「土佐北街道」と記載されている。地図上では途中で「土佐北街道」の名は消えるが、その消えた辺りはこの枝尾根から真っすぐ下ったところにある。
なにか名残り、案内はないものかと林の中の土径を下り地図に示される「土佐北街道」と繋いだが、特段の案内はなかった。また地図に記載された「土佐北街道」が消えるあたりから東金川の集落に入る道筋もあるいたが、特段の案内はなかった。
メモは遍路道との重複ルートを案内するが、枝尾根部から北に下るルート、東金川の集落と繋ぐルートも一応記載しておく。

東金川集落(金田町金川)の茂兵衛道標
枝尾根突端部を左に進むと東金川の集落に入る。道の左手、石垣上にある東金川集会所を少し先に進むと四つ辻に茂兵衛道標が立つ。南に向かう面には「奥の院 土佐高知」の文字が刻まれる。


標石
茂兵衛道標が示す先がどうなっているのか南へと坂を上ると車道に合流。そこに標石が立ち、左は「雲辺寺 箸蔵寺」 、南方向は「奥之院」と刻まれる。左に進むと上述県道5号の「四国のみち 三角寺 椿堂」の立っていた地点に合流するが、南を示す方向には道らしきものはなかった。
新土佐街道
「えひめの記憶」には「茂兵衛道標から右折すると、いわゆる新土佐街道である。新土佐街道は、主として四国山地の楮(こうぞ)・三椏(みつまた)などの運搬道として明治時代を中心に使われた道である。遍路が利用することもあったらしく、街道沿いにあたる西方(さいほう)のバス停留所前にも道標が立てられているが、現在はその大部分が廃道の状態である」とする。新土佐街道のルート詳細は不詳。

標石
茂兵衛道標の立つ四つ辻から少し進み、東金川集落のはずれに標石が立つ。天保(1831‐1845)と記された道標には、手印と共に「遍んろみち」と刻まれる。

大西神社南の道標
更に緩やかな坂を下ると道の右手の小高い丘にに大西神社が建つ。その東南、白石川に神社の丘が突き出す車道右手に道標がある。文久(1861-1864)と記された道標には「右 金毘羅道 此方 へんろ道」の文字が刻まれる。
「此方」の面の手印は南を示す。「右 金毘羅道」は境目峠をトンネルで抜け徳島に向かう国道192号沿いの金比羅さんの奥の院である箸蔵寺()への道を指すのかもしれない。
尚「えひめの記憶」には、江戸時代の遍路道は、この少し先、東金川橋袂の道標までは行かず、三角寺川の北傍にある正善寺を過ぎたあたりで三角寺川・白石川を渡って現在の大西神社南麓に出て、北から来る土佐街道(笹ケ峰越えルート)と合流していたようである。その合流地点のあたりに道標が立っている、とする。この道標が江戸時代の遍路道との合流地点ということだろう



東金川バス停(金田町金川)傍の「立川街道 」標石
先に進み白石川が三角寺合流した先、橋を渡ると東金川バス停。その角に標石がある。大正の銘が刻まれる道標は「左 奥の院 「右 立川街道」と読める。土佐北街道はここを右折する。
立川街道
立川(たじかわ)街道とは土佐北街道の別名。土佐北街道のルート上、高知県長岡郡大豊町立川下名に立川口番所がある。藩政時代は土佐藩主参勤交代の際の本陣であり、遥か古代に遡れば古代官道の立川駅のあった地でもある。土佐北街道を立川街道とも称する所以である。
金川
金川の由来は近くの淵から金の仏像が彫り出された故とのこと。もっとも、この辺り、後程出合う金生川とか銅山川筋の金砂とか、金を冠する地名が多いが、これら川筋で砂金が採れた故との話はよく聞く。この川から金の仏像云々も、砂金故?といった妄想も膨らむ。

地図に記載の「土佐北街道」分岐点
地図に記載の土佐北街道分岐点
道を先に進むと地図上に記載される「土佐北街道」の分岐点にあたる。道は南へと向かい途中で記載が消えるのは既に述べた。記述メモに示したように、念のため分岐点を右折し南に進み、東金川の集落へと続く道、上述「土佐北街道」の標識のある枝尾根突端部へと辿ってはみたが、特段の標識・案内はなかった。常識的に考えれば、直接枝尾根突端部と繋がる道が土佐北街道であったようにも思える。
道を進むと前面に松山道の高架が見える。古き趣の商家といった風情の建屋が残る。

古き趣の残る街道を進み松山道高架を潜る

古き趣の商家の残る道筋を進み三角寺川などの支流が金生川に合わさる松山自動車道の高架あたりで金田町を離れ上分町に入る。




国道を右に逸れ金生川に沿って「四つ辻」へ
国道を右に逸れる
松山道を潜ると一瞬国道192号に入るが直ぐ右に逸れる金生川沿いの道が土佐北街道。 道を進み金沢橋の西詰で川沿いの道を離れ、川筋より一筋西の「四つ辻」へ向かう。
「四つ辻」
「四つ辻」は藩政期の頃、上分(町)の商業の中心地であったところ。「四つ辻」から北は本町、南の道筋は土手城下と呼ばれ、金生川を背にした片側町となっている。「えひめの記憶」には昭和初期の街並みとして「土手城下の上手は片側町であり、金生川ぞいには馬のつなぎ場があった。そこには近在の農家が副業として営む馬方が、嶺南地区から馬の背によって、楮皮・葉たばこ・木炭・材木などを運搬してきた。
四つ辻付近
一方、上分からは、日用雑貨品、食料、肥料などが運搬されていった。街道ぞいには日用雑貨品店が多いが、その顧客には山間部の住民が多かった。また旅館、飲食店が多いのも物資の集散地である街村の特色をよく反映している」と記す。本町には紙問屋など商家が建っていた。
上分
上分について「えひめの記憶」には「上分は川之江市を潤す金生川の谷口に立地し、川之江市域では川之江に次ぐ商業集落である。この地点は土佐街道と阿波街道の分岐する交通の要衝であり、近世以降背後の山間部の物資の集散地として栄えてきた集落であり、典型的な谷口集落といえる。
天保一三年の『西条誌』には、当時の上分の状況が次のように記載されている。「......川あり上分川と言う。此の川に土佐と阿波とへの道二筋あり。南へ向き金川村の方へ入れば土佐路也。川を渡り東へ行けば阿波路也。阿波境まで二里余、上佐境まで五里余あり。阿波の三好郡の内十ヶ村余、土佐の本山郷の内十ヶ村程の者、楮皮、櫨実を始め色々の物産を出すには、必ず当所を経、三島・川之江等の町にひさぐ。近来当所に商家多く出来、かの物産を買取る内に、土地自然と繁昌し屋を並べて街衢の如し。留まるもの少なかららず見ゆ。土佐侯江戸往来の路すじあり.........」。
当時の上分は、土佐本山郷と阿波三好郡を後背地に控えた物資の集散地として大いに賑い、街村が形成されていたことがよくわかる」とある。
明治期似入っても土佐・阿波・嶺南地区などの山間部の物資-葉たばこ、楮皮などの集積地として栄え 明治17年(1884)の最盛期には120戸もあったと言われる商業地区であった上分も、大正から昭和にかけて整備されていった交通網の発達により、山間の地からの往来交通の要衝の地としての利点を失うことになり、現在静かな街並みをとどめている。
上分と下分
散歩の折々に上分と下分という地名の出合う。あれこれチェックしたのだが、なんとなく納得できるものに出合わなかった。少し寝かせておく。
上分町と金生町下分
地図を見ると、上分町は金生川支流三角寺川が金生川に合流する辺り、現在の松山道高架のあたりでは金生川右岸も一部町域に含まれれるがおおよそ金生川左岸にあり、北は金生町下分と、西は妻鳥町と、南は松山道の南で金生町金川に接する。
また金生町下分は金生川右岸の上分町の北側では金生町山田井に接し、金生川左岸の上分町の北側では蛇行し西進してきた金生川を境に川之江町に接する。
上分町に対し下分は金生町下分となっている。その理由は?下分町は下分村が町制施行し上分町となったのに対し、下分村は山田井村と合併し金生町となり、その後上分町、金生町などが合併し川之江市となったのがその因だろう。
金生川
金生川は伊予と阿波の国境、境目峠辺りを源流点とし、旧川之江市(現四国中央市)川滝・金田町と下り、松山道の先で左岸を上分町、右岸を金生町下分を分けて下り、川之江町を南北に分けて瀬戸の海に注ぐ。
「えひめの記憶;愛媛県生涯教育センター」に拠れば、「川之江は金生川とその支流の流れによる堆積作用により形成された沖積平野にあり、(金生)川の畔故の地名である。室町の頃から「かわのえ」と呼ばれたようである。
金生川は暴れ川であったようで洪水被害に見舞われることが多く、その暴れ川故、地味が豊かであり古代より開け、本川・支川流域には有力豪族の古墳が点在する。
その古墳石室に使用される巨石は、金生川の流れを利用して運ばれた、とされる。流域には金川、金生などの地名が残るが、これは、かつて流域で砂金が採れたことに由来する、とも。7世紀初め、渡来人である金集史挨麻呂(かねあつめのふひとやからま ろ)の存在も認められ、古来より砂金等が採取されていたようである」とある。

槍下げの松
「四つ辻」を北進するとほどなく道の左手に堂宇があり、その門傍に「槍下げの松と土佐街道」の案内:
「川之江市指定記念物 槍下げの松と土佐街道 この位置は昔の土佐街道の一部で、土佐の山内公の行列が参勤交代でここを通ったときのことである。
道にはり出している松の枝が邪魔で、家来たちが枝を切ろうとしたとき、山内公が「良い枝ぶりの松である 捨て置け」と言われ、以来ここでは槍を下げ、馬上の武士は身をかがめて通ったと伝えられている。これがこのや松の名づけられた由来である。
橋下げの松 目通り 二・七m 高さ 七m 樹齢数百年 川之江市教育委員会 松月庵」とあった。
松月庵
槍下げ松のある松月庵はお堂といったこじんまりとした堂宇。境内には石仏やミニ四国霊場、新四国は八十八ヵ所のいくつかの石仏が並ぶ。結願の八十八番大窪寺もあれば、二番、四番、五番や二十番代のいくつかの札所石仏も並び、何となくこの庵を含めた一帯にミニ四国霊場が広がる予感がする。本堂にはかつての槍下げの松の写真が飾られていた。


境界石
松月庵の北隣に境界石が建ち、「従是南 西条領」とある。この地の南が西条藩領となったのは新居浜市の別子銅山の歴史と関係がある。これを知ったのはつい先日別子銅山の遺構散歩の折のこと。四国山地銅山峰の南、天領の地に開かれた別子銅山であるが、峰の北は西条藩領。ために別子銅山で採掘された粗銅は峰を越えて北に運ぶことができず、大きく東に廻り宇摩郡土居町(現在の四国中央市)の天満まで運び瀬戸の海を大阪の鰻谷にある住友の製銅所まで運ぶしか術はなかった。
峰を越え西条藩領を運べば16キロ、土居への天領運搬路は36キロ。西条藩に運搬路を開くことができれば20キロの短縮となる。西条藩領を運ぶ住友の願いは財政難解消に腐心する幕閣の支援もあり、寶永元年(1904)西條藩に對して、幕府は新居郡下の大永山、種子川山、立川山 (立川銅山)、両角野(西、東角野) 、 新須賀の五個村を公收し、その替地に宇摩郡内の幕領蕪崎、小林、長田、西寒川、東寒川、中之庄、上分、金川の八個村を与へ、次いで寶永3年(1906)に宇摩郡の津根、野田兩村を替地として、同郡上野村を幕府の領地とし、さらに後ち一柳直增侯に對して、さきに上野村の替地として與へたる津根五千石を公收するため、播州美嚢郡高木(三木町外) 五千石に移封するというものであった。

これが上分が天領から西条藩領となり、境界石が立つ因ではある。が、ここでちょっと疑問。これも過日遍路歩きで四国中央市を歩いていたとき、天領・西条藩・今治藩領を示す案内板に出合った。 その図によれば西条藩領と天領の境界は上分と下分となっている。その図に従えば、この境界石から南が上分となるが、地図によれば現在の上分と金生町下分の境はもう少し北の川原田橋の辺りとなる。往昔の上分と下分が現在の街域と同じがどうか不明だが、ひょっとするとこの境界石は往昔はもう少し北にあったものが何等かの事情でこの地に移されたものかとも妄想する。
特段のテーマはないものの、あれこれ歩いていると、あれこれのものが繋がってくる。面白い。

四つ角に標石と常夜灯
槍下げの松から直ぐ、唐突に「土佐北街道」の標識が立つ古き風情のお屋敷前を過ぎると、四つ角(上述「四つ辻」と区別するため四つ辻とする)。上分大橋から西に新町商店街交差点に続く道筋を交差する。
その交差点の東北角に常夜灯。西北角に標石。南面には「左 みしま 五十町 西条 十里 八和多浜 三十六里」 東面には「右 川之江 二十五丁 こんぴ羅 二十五里 丸がめ(?)十里二十五丁」と読める。四つ角を横切り直進する。
新町
一筋西の新町筋は上分町の商業の中心地。大正15年(1926)に道が整備され第二次大戦後は商店街が栄えたが、その後の新たな道路整備により交通路の重点が西に移ることになったため商業の重心も西に移ることになる。新宮往還の交通の要衝地であった谷口集落としての上分のポジショニングが変わってしまった、ということだろう。

上分を離れ金生町下分に入る
四つ角を直進、ほどなく金生川筋に出る。道の右手に地蔵。「新四国霊場八十七番長尾寺」とある。川原田橋西詰あたりで大きく左に蛇行する金生川から離れ北西する。この川原田橋の辺りが現在の地図にある上分と金生町下分の境界である。
ほどなく道の左手にお堂と常夜灯。お堂は近年修築されたものだろうか。お堂には台座に「萬霊」と刻まれた地蔵座像が祀られる。お堂の傍には常夜灯が立つ。
三界萬霊
散歩の折々に「三界萬霊」と刻まれた石仏に出合う。
三界萬霊(さんがいばんれい)とは三界のすべての精霊を供養するもの。三界とは欲界、色界、無色界。
欲界は三界の最下層のレイヤー。 淫欲・食欲・睡眠欲など、人の本能的な欲望が強い世界であり、20から36階層に分けられる。
色界は欲界の上位レイヤー。欲望は超越したが、物質的(色)な束縛はまだ残っている段階です。 16~18の段階に分けらる。
無色界は、欲望も物質的な面も超越した、精神的な要素(無色)のみからなる世界。四段階に分かれ最上位は「有頂天」。有頂天を軽々しく使うことを躊躇うべきか。
この三界の上のレイヤーが仏の世界となる。

とすれば、三界とは、仏の世界ではなく、「この世」のあらゆる生命あるものの霊を、その先祖も含め供養するためのもの、またはこの世にある人の修養の発達レベル、仏の世界に達するためのメルクマールといったような気もする。単なる妄想ではある。
国道11号バイパス
土佐北街道とはまったく関係ないのだけど、旧伊予三島市(現四国中央市)中之庄町の通称、「遍路わかれ」辺りから海岸線を走る国道11号から離れ内陸部を抜ける国道11号バイパスが川原田橋近くまで通じている。国道11号の混雑緩和と松山自動車道へのアプローチルートであることはわかるのだが、川原田橋辺りでルートは終点となり一般道に合流し、国道11号に戻るには一般道を北に走らなければならない。これってバイパス?前々から気になっていたのでメモのついでにチェック。どうも現在の終点から金生川右岸に進み、宇摩向山古墳を避けJR川之江駅の東へと抜ける計画があるようだ。前々からの疑問はこれで解決。

金生橋を渡り川之江町に
古き趣の屋敷が時に残る金生町下分の街を進むと、道の右手に地蔵座像。台座に「三界萬霊」と刻まれる。
その先で道は川原田橋辺りで、大きく右に蛇行した後西進してきた金生川に架かる金生橋を渡り川之江町域に入る。



陣屋跡
金生橋を渡ると直ぐ、左に逸れる道がある。それが土佐北街道。先に進むと四差路があり、そこに常夜灯が立つ。土佐北街道はここを北東に向かう道をとり、ほどなく予讃線の踏切を越えて東進。二つ目の角を右折し北進する。東西に走る二つ目の通りで土佐北街道から離れ、陣屋跡にちょっと立ち寄る。
栄町商店街を右に折れスーパーフジ川之江店を少し東に進みすスーパーフジ納入業者駐車場の東隣にひっそりと「一柳直家公御陣家跡」の石碑(注;「陣家」はママ)。その傍に「一柳陣屋の広さは約88,000平方メートル以上の広さを誇り、東は栄町通り、西は新町沿いの区間まで、また、南は愛媛銀行やフジ川之江店、北は吉祥院や天神ノ森あたりまでを含む規模であった。
一柳家が播磨小野に去ったあと、陣屋は半分に縮小され、新たに松山藩御預かり代官陣屋、幕府直轄代官陣屋となってからも、川之江は旧宇摩の政治の中枢として海陸交流の要衝とし、発展を続けた」との解説があった。
場所は少し分かり難いが道を隔てた南側に愛媛銀行川之江支店がある。
一柳直家
慶長4年(1599年)、一柳直盛の次男として伏見に生まれる、父の直盛は関ケ原の戦いで戦功をあげ伊勢神戸5万石の所領を賜り、また大坂の陣でも戦功を挙げ寛永13年(1636年)6月に直盛は1万8000石余の加増を受けて伊予国西条に転封される、石高は計6万8000石余。このとき直家は加増分の中から播磨国加東郡内5000石を分け与えられている。
同年8月、西条に向かう途上で直盛が死去。直盛の遺領6万3000石余は3人の子(直重、直家、直頼)で分割されることとなった。直家が相続したのは2万3600石で、さきに与えられていた磨国加東郡内5000石と合わせ、伊予国宇摩郡・周敷郡にまたがる2万8600石の大名となった。
直家は伊予川之江に陣屋(川之江陣屋)を定め、川之江藩を立藩。播磨国は分領とし小野に代官所を置いた。直家は川之江の城山(川之江城跡)に城を再建する構想もあったようだが、実現しなかった。
翌寛永14年(1637年)に初の国入りが認められるが、同年播磨小野の代官所を陣屋に改めて拠点を移しており(『寛政重修諸家譜』では当初から小野に居したとある)、実質的に小野藩が成立した。
寛永19年(1642年)に死去、享年44歳。直家には娘しかいなかったため、末期養子がまだ許されていなかった事情もあり、家督相続は認められたものの伊予国内の1万8600石が没収されることとなった。これにより小野藩の所領は播磨国内のみとなり、川之江藩はわずか6年で消滅した。その後は天領となり、陣屋跡に川之江代官所が設けられた。
直重と直頼
なお、長男の直重は直盛の遺領3万石を継ぎ二代目西条藩主。三男の直頼は小松藩1万石を立藩した。
西条藩の直重は正保二年(1645)に死去し、遺領は二人の息子が分割相続する。兄の直興は西条藩を相続した。弟の直照は5000石を分知され、のちに津根村八日市に陣屋を構えた。旗本一柳家の始まりである。旧土居町(現四国中央市)津根八日市に「一柳公陣屋跡」の碑が残る。
寛文五年(1665)に兄の直興は不行跡により改易となり、領地を召し上げられる。西条藩はその後、徳川御三家の一つ紀州徳川家(紀州藩)の一族(御連枝)が入り、その支藩として廃藩置県まで存続した。
津根の八日市陣屋の分家2代目の直増は、宝永元年(1704)に播磨高木へ移封となり、八日市陣屋もその役割を終えた。因みに、この旗本一柳家9代目が浦賀奉行の直方。 ペリー来航の7年前浦賀軍艦2隻を率いて現れたアメリカのビッドル提督に対応した浦賀奉行である。

大標石
陣屋跡を離れ土佐北街道に戻る。少し東に戻り北進。ほどなく道の右手に大きな標石。「左 阿波とさ 於久の似んミち」「右 満津やま」「左 こんぴら道」と読める。「於久の似んミち」は奥の院道。この奥の院って金毘羅さんの奥の院箸蔵寺のことだろうか。 「満津やま」は松山だろうが、そうとすれば、 なんとなく指示方向と場所が合っていないように思える。どこかららか移されたのだろうか。

 

御本陣跡
大標石から直ぐ、道の左手の古き趣のお屋敷のブロック塀の内に「御本陣跡」と刻まれた石碑が立つ。土佐藩参勤交代時藩主の5日目の宿泊地である。




高知藩陣屋跡

本陣跡のお屋敷の斜め向かい、民間前に石碑が立ち「高知藩陣屋跡」とある。これって何だ? 思うに、明治維新の政変の折、朝敵となった幕府方の高松藩、松山藩に土佐藩兵の征伐軍が進軍している。この川之江は松山藩預かりの幕領でもあり、土佐軍兵が進軍。松山藩、高松藩共に恭順の意を示し戦端が開かれることはなかった。

川之江に進駐した土佐藩は厳しい軍律のもと軍政を実施し不安におののく人心は安定した。その役所名jは川之江陣屋のほかに土州鎮撫所、御陣屋などを使用している。また明治初年の土佐藩の正式名称は高知藩となっている。とすれば、この「高知藩陣屋跡」は土佐藩進駐下の役所跡のように思える。
軍制下によって人心が落着くと、土州政府は川之江の経済発展や生活安定のための民生策を実施。陣屋は慶応四年七月ごろに川之江政庁と改められ、その後川之江出張所、川之江民生局と名称を変え、「その治政は廃藩までの僅かな期間ではあったが、明治以降の宇摩地方発展の大きな布石となった。(中略)高知藩の役人は善政を行った話が語り継がれている。廃藩置県の動きが起きると、川之江の有力者たちが高知県へ入りたいとの血判した嘆願書を中央政府へ提出したほどである」と「えひめの記憶」にある。
それにしても、参勤交代の土佐北街道が松山藩預かりの川之江、高松藩征伐(実際は慶喜追討の東征軍として土佐を出たようであるが、途中で高松・松山藩征伐の追討令を受けたようである)の進軍路となったことは、歴史の流れとは言え、ちょっとした感慨を覚える。

川之江八幡
地図に「土佐北街道」とある道筋を北に進むが、途中地図から「土佐北街道」の記載が消える。 後は成り行きで土佐藩主が参勤交代の旅の安全を祈願した社である川之江八幡に進む。
太鼓橋を渡る。この橋は天明の昔、煙草屋喜兵衛、竹屋清兵衛を中心として村人達は、山田郷総鎮守川之江八幡神社に太鼓橋を奉納したものだが、近年懸け替えられた、と。
最近随身門を潜り境内に。
土佐灯籠と陣屋門
境内には海路の安全をお礼に土佐藩主が寄進した土佐灯籠も立つ。また、境内には新町の陣屋門が移され解体しその材料を使って復元されている。石碑に刻まれた案内には「この建物は旧川之江藩一柳陣屋門」の遺構である。江戸初期に乳児門様式を知る上からも極めて重要で、末永く後世に伝えるものとしてこの度文化庁より登録有形文化財に指定された」とあった。
乳児門様式はあれこれチェックするもヒットしなかった。


土佐北街道標識
社を彷徨い何気に境内北東より道に出る。と、そこに「土佐北街道」の標識。西を指す。案内に従い道を進むと道の左手に標石が立つ。「こんぴら道」と読める。


大鳥居
その対面に鳥居が建ち、案内には「川之江八幡大鳥居 川之江市指定文化財 この鳥居は畠山から現在地に奉遷されたとき、大庄屋三宅七郎右衛門家経が献じたものである。慶安四年〈1651)の作で一石づくりの笠石が特徴となっている。規模、古さともに現存する鳥居としては全国二番目である。
型式 明神形 高さ 約5メートル 幅 約3メートル」とあった。 この八幡様って、アプローチが多くどこが正面かはっきりしなかったが、ここが正面のようだ。なんとなく落ち着いた。
奉納者として記載される、川之江村大庄屋三宅家には川之江藩陣屋門が移されているとのことである。
八幡神社由緒
神社由来に拠ればこの社は推古天皇6年(598年)に 宇佐本宮より勧請し、当地切山にお祀りしたのが始まりとされている。その後、源頼義により康平7年(1064年)が畠山山頂に遷宮されたが、長宗我部元親の手で焼かれた。現在地の遷宮されたのは正保3年(1646年)のことと言う。
畠山って何処にあるのかはっきしないが、予讃線が川之江駅を越えた少し先、海に突き出た丘陵裾の海岸線を走る丘陵に畠山城跡がある。築城年代ははっきりしないが、川之江城の支城であったよう。その辺りだろうか。切山は金生川中流、下川町の北の阿讃山脈の峰にほど近い山中に切山と冠する地名がある。町域は金生町山田井となっている

常夜灯から土佐北街道を繋ぐ
大鳥居から先、土佐北街道の案内はないのだが、地図上に記載された「土佐北街道」へと繋ぐ、最も自然と思われる道を進む。と、ほどなく常夜灯。なんとなく旧街道のエビデンス。そこを西進しう、地図に記載された「土佐北街道」と繋いだ。これで本陣跡からなんとなくもやっとした土佐北街道の八幡様への道筋がちょっと見えてきたように思える。




■川之江から先の土佐藩参勤交代道■

高知の城下を発し、初日は布師田本陣(ぬのしだほんじん)、二日目は本山本陣、三日目は立川番所院、四日目は新宮の馬立本陣、五日目は川之江本陣と土佐北街道を進んだ土佐藩参勤交代の一行は、ここから船に乗ったわけではないようだ。
川之江八幡で旅の安全祈願をした後、海岸線に沿って讃岐に入り観音寺市豊浜町の和田浜を経て三豊市仁尾に進み、初期の頃はそこから船に乗り播磨の室津に向かったようである。後になって更に丸亀まで進み、そこから船出したともある。実際、丸亀には丸亀本陣もあったようだ。 土佐藩参勤交代道をトレ-スするには仁尾、丸亀までも進むべきかとも思うが、なんとなく土佐北街道と言うには違和感もあり、土佐北街道散歩の瀬戸内側はこの川之江で打ち止めとする。 残るは高知の城下から権若峠への上り口までを繋ぐ道筋だけとなった。

ちょっと寄り道;川之江城
土佐北街道とは直接関係ないが、市街の西の城山に建つ川之江城がちょっと気になり訪ねてみた。
天守を構える城ではあるが、これは川之江市制施行30周年を記念して建設されたもので史実に即した城ではないようだ。天守は犬山城を模したとも言われる。
城は歴史を踏まえたものではないが、伊予・讃岐・土佐・阿波を結ぶ交通の要衝であり、南北朝から戦国時代にかけて山城、というか砦が築かれていたようである。
南北朝時代、南朝方の河野氏の砦が築かれた。その後北朝方、四国の守護と称する讃岐の細川頼春氏の攻撃を受けて落城するも、その後もこの城をめぐる攻防が幾たびかあり、河野氏の所領に復する。
河野氏の所領に復した川之江城は、元亀3年(1572年)に阿波の三好勢の攻撃を受けている。その後、、川之江城を預かる河野氏重臣は土佐の長宗我部氏へ寝返るが、河野勢の攻撃を受けて落城。が、天正13年(1585年)に土佐の長宗我部氏の攻撃を受けて、川之江城は再び落城する。
長宗我部氏の攻略からわずか数ヶ月後、豊臣秀吉の四国平定軍が四国へ侵攻を開始(四国攻め)。川之江城も豊臣軍による攻囲を受け、長宗我部氏は降伏し川之江城は開城となった。 以後の川之江地方は小早川氏、福島氏、池田氏、小川氏と目まぐるしく領主が変わり、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後に伊予国に移封された加藤嘉明が川之江を領すると、慶長7年(1602年)に城を織豊系城郭へと改築した。しかし、嘉明が居城を伊予松山城へ移すと川之江城は廃城になった。
一柳直家が寛永13年(1636年)に川之江藩を立藩し、城を再築しようとしたが、寛永19年(1642年)に死去。領地は収公され、以後の川之江は天領になったため再築されることはなかった。



先回、少々難儀したが立川川の谷筋を柳瀬から旧立川番書院跡まで辿った。これで高知城下を発し、伊予の川之江で瀬戸の海に舟出するまでの土佐藩の参勤交代道・土佐北街道の途次にある権若峠、国見越え()、笹ヶ峰法皇山脈・横峰越えなどの山道を歩き終え、残すは土佐城下から権若峠まで、国見峠越えから立川川筋の柳瀬まで、そして法皇山脈を越えた金田集落から川之江までの里道のみとなった。
今回は 国見山を越えた下山口から立川川筋の柳瀬まで、実際は柳瀬で立川川左岸から右岸に渡る橋が大雨で落橋しているため柳瀬のひとつ南の集落、一の瀬に架かる金五郎橋を渡ることになるのだが、ともあれ立川川右岸山道に入る土佐北街道までを繋ぐこととする。

ルートを想うに、いまひとつはっきりとした道筋がわからない。あれこれチェックすると『土佐の道 その歴史を歩く;山崎清憲(高知新聞社)』という書籍があり、そこに土佐北街道の記事が載っているようである。内容を見たいのだが愛媛の田舎の家のある近隣の公立図書館にはなく、高知の南国市立図書館に蔵書があることがわかった。
どの程度詳しくルートが記載されているのかわからないが、取り合えずその書籍を頼りに南国市まで車で走り、内容を確認。大雑把ではあるが国見越えから立川川筋までの記載があった。 それによれば、国見越えの後は樫ノ木川右岸の吉延集落まで下り、そこで樫ノ木川左岸に移り、本山の町に。参勤交代の一行は本山に一泊した後、現し在の国道439号を吉野川右岸に沿って本山東大橋辺りまで進み、そこで吉野川を渡り吉野川左岸、現在の県道262号を立川川が吉野川に合流する川口まで進み、現在の新川口橋下流の立川川の渡しで立川川左岸に移り、現在の県道5号に沿って柳瀬(実際は一の瀬)まで北進したようである。
途中土佐北街道筋のお堂、石仏、燈明台、藩主休憩所など比定されたポイントの記載はあるが、詳細なルートの記載はない。ポイントとポイントの間は「感」を頼りに行くしかないか、と思い乍らGoogle mapを見ると、本山への道筋には「土佐北街道」と記載された道筋が見える。なんとなく「見えて」きた。依然「空白」部分もあるが、そこは「感」を頼りに進むべしと南国市図書館を後にし、一路スタート地点の国見越え下山口まで急ぐことにした。



本日のルート;
国見越え下山口>参勤交代道標識>分岐点>燈明台>>大杉と阿弥陀堂>石仏>大吉橋の西詰・東詰に見渡し地蔵>地図に記された「土佐北街道」と繋ぐ>展望所>十二所神社>「本山城跡周辺史跡めぐり」案内>下井>上井>土居屋敷跡>上の坊>山内刑部夫妻の墓所>本山の町を離れ国道439号に乗る>下津野>上関の渡し>本村の旧山下家薬医門>>奈路の切通し>葛原>立川川の渡し>一の瀬・金五郎橋>柳瀬


国見越え下山口
いつだったか国見山を越えた下山口、と言うか車で乗り入れられることができたピストンデポ箇所に。そこに「参勤交代道」の標識。国見方向と、車道下り方向を示す標識が立つ。車道に沿って吉延集落へと下る。
道の左手は崖。右手山側に標識などないものかと注意しながら車道を下る。

参勤交代道標識
しばらく車道を下ると道の右手にあらぬ方向を向いた木標が立つ。車道から右に逸れる道もあり、とりあえず右に入るが直ぐに行き止まり。元に戻り車道を下る。標識は左、車道道なりを示していたのだろう。

分岐点
そこからしばらく車道を下ると右に逸れる道がある。標識はないのだが、国土地理院の地図をチェックすると、如何にも吉延の集落へと下る旧道のように思える。地図にも??延集落へと実線が描かれている。取敢えず車道を右に逸れて集落の中を抜ける道を進む。

燈明台
標識もなくちょっと不安になった頃、道の左手に常夜灯が見える。ひょっとしてオンコース?常夜灯傍に「参勤交代道・北山越えの道 カバヶ岡の燈明台」とあった。特に案内はなく「カバヶ」の意味不詳。鰻の蒲焼(かばやき)は「蒲の穂(がまの穂)」に由来するけど、「蒲の穂」と関係あるのかな、などと妄想する。
燈明台と道を隔てた反対側に広い平坦地がある。上述書籍には街道筋に「大休場」があり、参勤交代の隊列を整え、また茶店や宿屋も数軒建っていたとの記事がある。この平坦地は休耕田のようにも思えるが、国見山から下る途次、大休場らしき場所を見ることはなかった。「大休場」何処にあるのだろう?平坦地から国見山方面を借景に写真を一枚。なかなか、いい。

大杉と阿弥陀堂
灯明台からほどなく右手に仁井田神社。その直ぐ先に大きな杉の木とその根元に阿弥陀堂が建つ。阿弥陀堂の周りは古き石仏が並び、その雰囲気は、いい。
杉は樹齢千年、高さ40mhどの古木。「オリドの杉」とも称される。「オリド」は地名のようだ。この大杉は土讃線大杉駅近く、八坂神社境内の樹齢三千年とも称される、日本一の大杉に次ぐ古木のようである。
仁井田神社
仁井田神社にはじめて出合ったのは浦戸湾の渡しに向かう途次。仁井田という地に鎮座する。由来をチェックすると、社の由緒には「古くは五社大明神とも言われていた。天正15年(1587)頃、高岡郡の仁井田明神(現四万十町窪川の高岡神社)を勧請して祀ったのが当社という」とあった。この説明だけでははるか離れた仁井田(現在の窪川一帯)と浦戸湾にほど近い仁井戸由神社の関りなどがわからない。さらにチェック。

あれこれデータを調べていると、『四万十町地名辞典』に、「仁井田」の由来については、浦戸湾に浮かぶツヅキ島に仁井田神社があり、由緒書きには次のように書かれてある。
伊予の小千(後の越智)氏の祖、小千玉澄公が訳あって、土佐に来た際、現在の御畳瀬(私注;浦戸湾西岸の長浜の東端)付近に上陸。その後神託を得て窪川に移住し、先祖神六柱を五社に祀り、仁井田五社明神と称したという。
神託を得て窪川に移住とは?、『四万十町地名辞典』には続けて、「『高知県神社明細帳』の高岡神社の段に、伊予から土佐に来た玉澄が「高キ岡山ノ端ニ佳キ宮所アルベシ」の神勅により「海浜ノ石ヲ二個投ゲ石ノ止マル所ニ宮地」を探し進み「白髪ノ老翁」に会う。「予ハ仁井ト云モノナリ(中略)相伴ヒテ此仕出原山」に鎮奉しよう。この仁井翁、仁井の墾田から、「仁井田」となり。この玉澄、勧請の神社を仁井田大明神と言われるようになったとある」と記す。
仕出原山とは窪川の高岡神社(仁井田五社明神)が鎮座する山。仁井田の由来は「仁井翁に出合い里の墾田」とする。
物語の主人公である伊予の小千玉澄公は『窪川史』に新田橘四郎玉澄とあるわけで、普通に考えれば仁井田は、「新田」橘四郎玉澄からの転化でろうと思うのだが、仁井翁を介在させることにより、より有難味を出そうとしたのだろうか。
もっとも、新田橘四郎玉澄も周辺の新田開発を行ったゆえの小千(後の越智)から「新田」姓への改名とも思えるし。。。?ともあれ、土佐を歩くと仁井田神社に時に出合う。

石仏
大杉の残る阿弥陀堂前から道は幾筋か分かれる。西へと下る道は新しそう。南に向かう道を進むと先ほど逸れた車道に合流。その合流点に石仏が立つ。石仏が佇むとすれば、ひょっとしたらこの道筋が土佐北街道のオンコースかも。






大吉橋の西詰・東詰に見渡し地蔵
『土佐の道』には、参勤道はここから樫ノ川を渡り本山に向かったとする。道を下ると樫ノ川に大吉(おおよし)橋が架かり、その東詰め・西詰に見渡地蔵と彫られた石仏が祀られていた。嘉永六年と刻まれる。1853年に祀られたということだ。
往昔、この地は飛び石により渡河したとのことである。

地図に記された「土佐北街道」と繋ぐ
樫ノ川を渡ると大岩地区。その先、土佐街道はどう進む?地図をチェックすると北東に突き出た尾根筋を廻り込んだ辺りまで「土佐北街道」と記載されている。橋からその間のルートは不詳だが、地図に記載されている「土佐北街道」まで成り行きで、それらしき道を進む。特段の標識はない。ともあれ、地図に記載の「土佐北街道」と繋げた。

展望所
北東に突き出た尾根筋をぐるりと廻り先に進むと、道脇に本山の町を見わたす展望所があった。そこで少し休憩。本山の町は吉野川によって形成された河岸段丘に開かれたような景観を呈する。
本山の町
地図を見ると本山周辺では吉野川が大きく蛇行して流れる。そのため河岸段丘が発達し、四国山地の中に位置するにもかかわらず古くより人々が暮らしていた。町内には上奈路遺跡、永田遺跡、銀杏ノ木遺跡、松ノ木遺跡と縄文・弥生時代の遺跡が残る。中でも松ノ木遺跡(本山町寺家周辺)はほぼ完全な土器が出土し注目を集めている、という。古代、四国山地を越えて土佐の国府に通じる官道の駅、吾椅(あがはし)がこの地に比定されるのも故無きことではないように思える。  
大岩
上述『土佐の道』には本山に廻り込んだ道筋には高さ9m、幅18mほどの大岩が道筋にあるとのことだが、気がつかなかった。大岩地区の地名由来の岩である。

十二所神社
地図に記される「土佐北街道」、といっても舗装された快適な道ではあるが、本山の町並みの少し高台を走る山裾の道を西進する。山側には道に平行して水路が続く。道と水路が北に向きを変えるところに鳥居が建つ。参道を南に進めば十二所神社が鎮座する。
社の由来案内に拠れば、沿革は「長徳寺文書」に承元2(1209)年の「十二所、供田」が初見とあるように古き社である。また弘安11(1288)年2月の文書には「土佐国吾橋山長徳寺若王子古奉祀熊野山十二所権現当山之地主等為氏伽藍経数百歳星霜之処也(以下略)」と、ある。熊野十二所権現を勧請したものだろう。平安末期、この地は熊野社領の荘園・吾橋(あがはし)荘が設置されており、熊野十二社権現が勧請されることは至極自然なことであろうかと思える。
「土佐州郡志」に「帰全山、或は之を別宮山と謂う 旧(もと)十二所権現社有り今は無し」と記し、当社が古代から中世にかけて、??野川対岸の帰全山に鎮座して居たが、戦国乱世の永禄年中、本山氏と長宗我部氏との合戦で兵火に罹災し、帰全山から永田村今宮に移り、慶長15(1610)年5月に再建され、寛永15(1638)年12月、領主野中兼山公のとき、現在地に遷った。
明治元(1868)年、十二所大権現を十二所神社と改称。
十二所権現
熊野の神々のことを熊野権現(くまのごんげん)と称する。熊野三山(本宮・新宮・那智)のそれぞれの主祭神をまとめて呼ぶ場合は熊野三所権現といい、熊野三所権現と熊野三山に祀られる他の神々(五所王子・四所明神)を合わせて熊野十二所権現と称する。
領主野中兼山
領主野中兼山?本山は野中兼山の領地であった。江戸時代初期の土佐藩家老。藩政改革を実践し、港湾修築、河川の利水・治水事業による新田開発など功績を上げるも、その過酷とも言われる施策により政敵との対立を深め、後年は罷免・失脚し失意の中虚しくなった。 残された家族への処遇も過酷であり、男系が絶えるまで幽閉生活が40年以上続いたという。この間の事は『婉という女;大原富枝』に詳しい。婉は兼山の娘。4歳で幽閉され、以降40年間外部との接触を禁じられ、43歳で幽閉を解かれた。

過日遍路歩きの途次、折に触れた兼山の事績に出合った。津呂の港の改修工事新川川・唐戸の切通し物部川流域の治水・利水事業春野の治水・利水事業などが記憶に残る。

「本山城跡周辺史跡めぐり」案内
十二社神社を離れ本山の藩主宿泊所であった土居屋敷跡、別名本山御殿に向かって南へと向かう。途中西進する水路と分かれ坂道を下りると四つ辻があり、そこに」本山城跡周辺史跡めぐり」案内があった。
実のところ、この案内を見るまで本山町のことは何も知らず、何故にこの山間の町が古代官道の駅・吾椅(あがはし)として開けたのだろう、などと思っていたのだが、本山城跡や十二所神社、土居屋敷や上の坊といった史跡案内をみて古代より近世に至るまで要衝の地として開けていたことがわかり、この町が古代官道の駅と比定されたことも少しリアリティをもって感じることができた。
上井と下井
土佐北街道沿いの下井
十二社神社前を流れる下井
それはともあれ、案内で最もフックがかかったのはそこに描かれたふたつの水路。上井(ゆわゆ)の道、下井(したゆ)の道と記され、野中兼山が作った水路沿いの道、とある。しかも土佐北街道に沿った水路は下井の流れであった。 「疏水萌え」としては見逃してはならじと、知らず歩いた疏水へと引き返すことに。
坂を上り返し十二社神社鳥居まで引き返し、道の山側を流れる下井を少し戻る。水路は途中土佐北街道から上側に逸れ先に続く。また、十二社神社傍の下井から少し山を上ると上井の流れが東西に走る。時間があれば上井も下井もどこからどこまでとカバーしたいのだが、残念ながら本日はその時間がない。心残りではあるが元に戻る。

上井
上井から見た本山の町
途中地元の方にお聞きすると、上井は樫ノ川の??延、下井は同じく樫ノ川の高角に取水堰(頭主工)があり、本山の天神前へと進むとのこと。あれこれチェックするが、まったく記事がヒットしない。流路がわからない。樫ノ川に架かる大吉橋の上流と下流に取水堰らしき(思い込みだろうが)記号が見えるが、標高の関係でうまく流路が繋がらない。これはもう、機会をみて再訪すべしと今回はここで思考停止としておく。ともあれ、兼山の領地にも疏水があったことがわかっただけでよしとしておく。

土居屋敷跡
上井、下井の疏水から「本山城跡周辺史跡めぐり」案内の立つところまで戻る。案内図の地図に従い土井屋敷跡に成り行きで向かう。ほどなく土居屋敷跡。現在は公園となっていた。
案内には、「史跡 土居屋敷跡 Remains of the Doi Residence 土居屋敷跡は戦国時代に本山地方を本貫とした本山氏の土居(館)であった。近世初頭には本山に封ぜられた山内刑部・但馬父子、続いて野中玄番・兼山父子の4代にわたる屋敷となった。兼山時代の土居は上段・中段・下段からなり、入り口下段に文武館、中段に長屋門の諸建物があり、上段に本宅があった。(皆山集)
兼山失脚後は藩士の在番が置かれ、享保3(1718)以降は本山倉番、土居門番が配置された。 参勤交代に土佐街道(北街道)が用いられるようになると参勤交代時の藩主の宿泊所にあてられ、以後「本山御殿」と称されるようになる。この土居屋敷を中心に周辺に「土居下町」と呼ばれる小規模な町場が形成されていた。明治になって建物は取り壊され、跡地は桜の公園として整備されている。(史跡) 本山町教育委員会」とあった。
少し昔の「本山土居跡」案内
Google Street Viewで土井館跡を見ていると、現在の案内ではない古い案内が立っていた。説明が少し詳しいので掲載しておく:
「本山土居跡土地の豪族本山氏の土居の一つで 天正十七年(1586)長宗我部検地当時は本山采女が住んでいた。山内一豊の土佐入国後 慶長六年(1601)山内刑部 (永原一照)が本山千 三百石を与えられてここに住んだが、その子但馬は私曲の罪によって元和六年(1620)知行を没収されて 佐川の深尾家に預けられたためそれ以来本山土居はしばらく領主不在となった。
寛永七年(1630)野中直継が本山土居を預けられて千石を加増せられ養嗣子兼山も当然これを受けついだ。 兼山は藩主忠義の厚い信頼をえて藩奉行職として敏腕を発揮したが本山領主としても吉野川の支流の樫ノ川や本能津川に下津野堰、トドノ堰、ノボリ立堰、カタシ山堰 井口堰を設けて用水をひいて多くの新田を開発し、その余沢を現在にまで及ぼしている。又寛永二十年(1643)に発せられた「本山掟」は兼山と領民をつなく歴史的文書といえよう。
寛文三年(1663)兼山失脚後本山土居は山内下総に次いで孕石頼母らによって管理されたが明治になってすべての建物が取りこわされ、今はその石垣にわずかに面影をしのぶばかりである」。
下津野堰は樫ノ川にあったようだが、その他は不詳。
本山掟
兼山は、本山掟とか、国中掟、広瀬浦掟などを作って、農政を行っている。本山掟(643 )の内容は;
〇お上や法律にそむかないこと。
〇荒地が少しでも残らないように開き、田地にせよ。精を出して開けば開 けばほうびをあたえる。3年・5年・7年の間は年貢を取らない。
○年貢は全部11月までにおさめよ。畑作の年貢分は6月までに全部おさめよ。
○作った米の3分の1は百姓のとり分であるが、秋冬はぞうすいを食べよ。春までたくわえずに、めしや酒にして食べてしまったものは死刑にする。
庄屋はよく調べて、そむいているものがないようにせよ。かくしておいてあとでわかったら、庄屋もともに処分する。
○酒を買って飲んだり、朝ねをしてはならない。そむく者があれば銀三匁(およそ6000円)の罰金をとる。赤面三匁〉赤面三匁、生酔い五匁、千鳥足十匁。
○家や着物がそまつなことはかまわない。法で定めているより良くすることは許さない。 このおきてにそむく者があれば、本人はもちろん庄屋も罰する」といったもの。

厳しい施策をとったと言われるが、実際にこんな掟を見ると農民の怨嗟を買ったということも頷ける。
土居
土佐では城館のことを「土居」と称していた。幕府の一国一城制により支城は破却されるが支城のあったところは要衝の地。山内氏も土佐入国に際し、佐川、窪川、本山、宿毛、中村、安芸といった要衝の地に土佐入国以前の掛川以来の重臣を配し、破却された城近くに館を構え領国経営にあたった。これが土居制度であり、本山土居、安芸土居などと称された。
参勤交代の人数
ところで20万2600石余りとされる土佐藩の参勤交代の人数はどのくらいだったのだろう。「二文研叢書;ヴァポリス コンスタンチン」には。「初期の記録によると、正保2年(1645)には、1,477人であつたが、次第に増加して、元禄一10年(1,697)には、2,813人に上った。(中略)享保元年の改革(私注;将軍吉宗による幕政改革:1716)で一 時急に528人までに減って、享保三3年(1,718)に部分的に取り戻し1,799人に上った。それ以後、数字は見たらないので、よくわからない。それにしても、天明頃(1781-1789)には土佐藩の大名行列の評判はまだ高いように思われる。天明の革命に参加した役人によると、「 所々にて評す、今に西国四国諸侯の御人数土州ほど大勢なるはなし」とのことだ」とある。
なお、上述供揃えの人数に占める士分の数は正保2 年(1645)の、1,477人中、198名。行列に占める割合は13.4%,全士分1,695人に占める割合は11.7%となっている。記録に残るその他のケースをみうと、行列に占める割合は4.6%から13.4%,全士分に占める割合は4.5%から11.7%となっていた。
それにしても供揃えの数が多い。参勤交代は常在戦場を表すため、旅装というより軍装であり、享保6年(1721年)、幕府は参勤時の従者の数を定めた。その『御触書寛保集成』に拠れば、1万石の大名は騎馬侍3~4騎、足軽20人、人足30人。10万石の大名は騎馬侍が10騎、足軽80人、人足140~150人、合計で240人。20万石以上で、騎馬侍15-20、足軽120-130、人足250-300と定められている。
これからすれば20万2600石の土佐藩は500名ほどとなる。が、実際はその4倍もの人が動いているときもある。この数には先遣隊も含めたものであり、実際の参勤交代時に動く人数はずっとすくなかったともいうが、それにしても多い。
あれこれチェックすると、参院交代に際しては幕府の定めた数は守られなかった、という。その因は、大名が己が格を世間にアピールするため、とのこと。
これでは世に喧伝される参勤交代は各藩の経済力を削ぐための施策という話と辻褄が合わない。 新田開発に努め幕末の頃は20万2600石余りという本石高と同等の新田収穫があり、実勢石高は49万40007石余に達していた豊かな藩となっていた土佐藩ゆえの「西国四国諸侯の御人数土州ほど大勢なるはなし」ということだろうか。よくわからない。

上の坊
西進する下井
「本山城跡周辺史跡めぐり」案内にあった上の坊は土居館跡からそれほど離れていない。案内に兼山が山崎闇斎を招いて土佐南学を講究したとあった。ちょっと立ち寄る。

土居館跡前の道を西進。下井の流れを跨ぎ少し山に入ると小さな祠があり、その脇に「上の坊」の案内があり、「史跡 上の坊 本山南学寮跡 野中兼山が儒学者山崎闇斎を招いてこの場所にあった古寺で土佐南学を講究したといわれる。兼山は禅学より儒学に転向し、勉学に励み南学(海南朱子学)といわれるまでにその学問を発展させた」とあった。
南学
土佐を歩いていると、、雪蹊寺の案内にもあったように時に「南学」という朱子学派が顔を出す。歩き遍路で三十三番札所を打ったとき、そこには「江戸時代初期には「南学発祥の道場」といわれ天室僧正が朱子学南学派の祖として活躍、野中兼山などの儒学者を生み出した」との案内もあった。コトバンクによれば「天文 17 (1548) 年南村梅軒により南海の地土佐に興った朱子学派。海南学派ともいう。京学,東学に対する称。四書を重んじ,道学者的態度を固持するとともに実践躬行を尊び,実際政治に参与した。
梅軒のあと,吸江庵の忍性,宗安寺の如淵,雪蹊寺の天室らを経て,谷時中にいたって仏教から完全に独立し,基礎を固めた。その門人に野中兼山,小倉三省,山崎闇斎が出た。のち三省の門下から,谷一斎,長沢潜軒,大高坂芝山らが出,また闇斎の門弟,谷秦山が帰国して,南学を振興した。
人間系譜は以上のようにたどれるものの,三省が世を去り,兼山が失脚して藩府より南学派は弾圧を受けて両人の門人や闇斎も土佐を去り,土佐における南学派は一時中絶した。秦山が復興した教学は三省,兼山までの本来の南学と質を異にし,京,江戸の学風の移入とみることができる。もっとも秦山は大義名分論に立つ尊王思想を説き,幕末勤王運動に影響を与えたが,こうした政治と結びついた強い実践性の点では,広い意味での南学は一貫している」とあった。
山崎闇斎
江戸時代前期の儒学者・神道家・思想家。朱子学者としては南学派に属する。闇斎によって論じられた朱子学を「崎門学」または「闇斎学」という。君臣の厳格な上下関係を説き、大義名分を重視した。
闇斎は朱子学だけでなく神道についても論じた。吉川惟足の吉川神道を発展させて神道と儒教を合わせた「垂加神道」を創始し、そこでも君臣関係を重視した。垂加神道は、神を信仰し、天皇を崇拝するというもの。天照大御神に対する信仰を大御神の子孫である天皇が統治する道を神道であると定義づけ、天皇への信仰、神儒の合一を主張し、尊王思想の高揚をもたらした 以上のような闇斎の思想は、水戸学・国学などとともに、幕末の尊王攘夷思想(特に尊王思想)に大きな影響を与えた。

山内刑部夫妻の墓所
上の坊から山道を少し上ったところに山内刑部墓所があるとのこと。土居屋敷の案内にもあった山内氏が土佐藩に入国後、本山に封ぜらえた山内家家老。ここにもちょっと立ち寄り。案内には「山内家の家老であった。山内一豊の土佐入国に際して、その軍功から本山千三百石知行本山城に配され、本山土居初代藩主として慶長6年(1601)に本山に入っている。
慶長8年の瀧山一揆の鎮定に努め、元和元年(1615)の大阪の役には高知城の城代を務めた。元和6年、63歳で病没」とあった。
瀧山一揆
土佐に入国した山内家に対し、改易された長曾我部氏の遺臣、下級武士である郷士に扇動されて起きた百姓一揆。年貢の納入を拒み北山の瀧山に籠り抵抗するも鎮圧される。首謀者は断罪とするも百姓らの罪を不問に伏す。但し、一領具足とも言われ、長曽我部氏の兵農未分離の農兵隊でもあった百姓より武器を召し上げるのが条件でもあった。
この一揆は山内家に対する長曽我部遺臣の最後の抵抗とも言われ、この事件以降、長曽我部氏の影響下にあった一領具足衆は弱体化することになる。
本山町の吉野川対岸の山中に北山の地名がある。瀧山はその辺りなのだろう。
本山城跡
時間がなく上ったわけではないのだが、案内にあった本山城跡をメモしておく;
「本山の東西にそびえる田井山北東尾根の先端部にある。戦国時代以降、本山郷を中心に勢力を伸ばした本山氏の居城跡。本山氏は弘治2年(1556)の長曽我部国親との泰泉寺攻撃に始まる攻防で高知平野の支城潮江城、長浜城、朝倉城を失い本山に退いた後、本山での戦いに敗れ親茂の時、長曽我部氏の軍門に下った。土佐における戦国群雄中の城であった本山氏の居城は今もその遺構を留め、堀切や詰めの段、二の段、三の段、郭などの遺構が残っている」と。

本山氏は長岡郡本山を拠点に勢力を伸ばし、土佐郡の山地を越えて南下し「東は一宮を堺、西は二(仁)淀川、南は浦戸を限り二郡の主也。朝倉の城を居城に持つ」と『元親記』に記されるまでになり、吾川郡や高岡郡までも進出することになる。
朝倉城を中心に土佐の中原に覇を唱え、東の長曾我部氏、西の一条氏と対峙するも、永禄5年(1562)その存亡をかけた朝倉城の合戦で長曽我部氏に敗れ本山に退却した。
案内には本山の戦いに敗れとしているが、本山では利あらずと瓜生野谷口の要害の地まで退き4年間の抵抗の末、長曽我部の軍門に下ったとのことである。

本山の町を離れ国道439号に乗る
「本山城跡周辺史跡めぐり」案内のところに戻る。地図には、そこから国道439号を繋ぐ道筋に「土佐北街道」と記される。
土佐北街道を東進し国道439号に合流。国道北に蛇行する吉野川が流れる。南に突き出しU字に吉野川の流れをなす丘陵は兼山ゆかりの帰全山と称する。
帰全部山・秋田夫人の墓
帰全山は現在公園となっており、兼山廟、また兼山の母である秋田夫人の墓がある。兼山廟は兼山の徳を偲び嶺北地方の町村長が中心となり呼びかけ、昭和27年に竣工したもの。それほど古いものではない。
廟の右奥に兼山の母である萬、姓より秋田夫人と称される墓がある。慶安4年(1651)4月4日、66歳でこの世を去った母のため儒学の礼に従って直方体のひつぎに母の遺体を葬り土葬した。それまで火葬の風習があった土佐において、それは特異なことでもあった。

墓穴は、千人ともいわれる人々によって掘られ、穴の壁も石で築かれた立派なもの。台上にある石碑は、高さ六尺五寸(約一・八メートル)、幅二尺五寸(約七五センチメートル)、厚さ一尺(三〇センチメートル)で、柵を巡らせ屋根が造られている。兼山は、高知から本山まで、約七里(約二七・五キロメートル)の山道を母のひつぎとともに歩き、帰全山に葬った後は、三年間の喪に服した、とのことである。これは、兼山の母親に対する孝心(こうしん)を精いっぱい表現したものと言われる。「孝心(こうしん)を精いっぱい表現した」との意味合いは、友人の山崎闇斎が墓所を中国の古典「 父母全生之、子全而帰之、可言孝矢」より引用し「帰全山」と名付けた如く、「父母の五体を完全なまま大地に帰すのが子の第一の孝行である」とすれば、火葬ではなく土葬にしたことをもって精いっぱいの孝心であり、帰全>全部を(大地に)」帰すということではと妄想する。
ただ、礼を尽くして盛大に営まれた母の葬儀は、幕府への謀反の嫌疑をかけられることになる。 上述大原富江の『婉という女』には、「それは父上が無上に敬愛した母万女の死に遭って、純粋な儒葬を営んだことで、吉利支丹と謀叛の疑惑を受けたときである。
問題の墓地は父上の采邑本山に、二ヵ月の日数と千人の夫役を使って、雁山と呼ばれるやさしい丘陵の美しい雑木林の静寂の中に完成した。十数里の山路を、父上は粗衣、裸足で棺側に従った。すべては晋の文公の家例にならい、荘厳純粋な儒葬であった。殆ど恋しあうほど慕いあった母のためにならば、父上は許されるなら帝王の墓にも劣らぬものを、構築したかったにちがいない。自分の憧れる美の最高のもののなかに母を眠らせたいと思ったにちがいない。
規模構築の壮大さと、儀式の儒礼による珍奇さとで、この葬儀は天下の評判になった。それはやがて「野中大夫、吉利支丹に帰依し、采邑本山に築城し、謀叛の気配がある」という流言になって江戸表まで聞えていった。
幕府の不審の詮議を受けて、参観中の藩公は愕然とし、国許の父上に出仕を命ずる急使が立てられた。 |十余年前、島原の吉利支丹一揆があって以来、吉利支丹は厳禁され、隠れ吉利支丹はいまも執拗に捜索されている。発見されれば打首、磔 は免れない。吉利支丹の流説はいつの場合も不吉な運命の予告に似ていた。破滅を導く白い箭(や)であった。
父上は、喪服のまま夜を日についで江戸に到き、儒葬の形式と精神とを説明、流説の反駁に努めた。幕府では、お抱えの儒者、林羅山に命じて、父上の弁明の真偽を吟味させた。羅山は、「土佐国老の母の葬儀は、儒葬礼の正道に従ったものと考えます。邪宗門の習俗とは異にいたします」と言上した。
こうして父上は嫌疑を晴らすことができ、将軍にも謁を賜り帰国した」とある。
が、続けて
「無事―果して無事だったのであろうか」とあり、長兄はわずか3歳で「人質」として江戸に止まることになったとし、
更に続けて「この年慶安四年四月は、三代将軍薨去、四代家綱公の立たれた八月前後から、何とはなしに人心に不安動揺の兆しがあって、七月、由井正雪、丸橋忠弥など浪人の謀叛の発覚があり、父上の事件はその直後であった。そして父上は不幸にもすでに経世家として高名になっていたのであった。
「土佐二十四万石は実収三十余万石」といわれ、それが父上の器量が招いたものであると噂され、しかも国老の地位にある父上が、仮にも「吉利支丹」「謀叛」などいまわしい言葉によって将軍家の心象に照らしだされたということは、不吉なことであった。
かねて父上が堺その他から刀鍛冶、鞘師、飛道具など技術に優れたものを破格に抜擢したこと、土佐の治安にいつも支障となっていた、困窮して自棄的になっている一領具足(長宗我部の遺臣である浪人たち)一万人を郷士にとりたてて、世上の不安を除いた「郷士制度」をも、父上を快からず思う者どもには、いざの場合に意のままに動かすことのできる「野中の手勢」と噂されていること、なども将軍家は知っていた。これらはすべて藩松山の松平勝山公から将軍家に注進されたという」と書かれる。
事件後も兼山はその功により得意の絶頂期ではあったが、婉のつぶやいた「果たして無事だったのだろうか」との不安は現実のものとなるのは、歴史の知るところである。
嶺北
高知県長岡郡大豊町、長岡郡本山町、土佐郡土佐町、土佐郡大川村の4町村を言う。四国中央部の吉野川源流地域にあり、高知平野から望むと分水嶺の北に位置し、四国の水瓶「さめうらダム」がある。地域の北側には四国山地の峰々が連なり、吉野川の流れが北東に渓谷をなし徳島県側に開いているのみで、周囲を山々に囲まれた特異な地形となっている(れいほくNPOWeb siteより)。
地域面積は965平方キロメートルと高知県の13.6%を占め、標高は200mから1800mの山岳地形です。土地利用状況は地域の89.6%を森林が占め、農用地面積は1.4%、宅地面積は0.4%と、典型的な山村地域となっています

下津野
樫ノ川を渡り国道を東進すると下津野で北に突き出た丘陵に遮られ吉野川は大きくU字を描いて流れる。参勤交代はこの下津野で吉野川を対岸の渡津に渡ったとの説もある。『土佐の道』には、参勤交代の吉野川渡河地点はもう少し下流、東本山大橋の少し下流、上関で渡河下と記される。今回は『土佐の道』の記述に従い進むことにする。
吉野川と早明浦ダム
地図をみていると、本山の直ぐ上流に早明浦ダムがあった。四国の水瓶とも称されるダムである。思いがけないところで早明浦ダムと出合った。
いつだったか銅山川疏水を歩いたとき、吉野川水系銅山川の水を求める愛媛とそれを拒む徳島との「水争い」の歴史をメモしたことを思い出した。その長年の「水争い」を落ち着かせたのが早明浦ダムであり、吉野川総合開発である。
その経緯を再掲する;
〇吉野川水系の水を巡る「水争い」の歴史
吉野川は四国山地西部の石鎚山系にある瓶ヶ森(標高1896m)にその源を発し、御荷鉾(みかぶ)構造線の「溝」に沿って東流し、高知県長岡郡大豊町でその流路を北に向ける。そこから四国山地の「溝」を北流し、三好市山城町で吉野川水系銅山川を合わせ、昔の三好郡池田町、現在の三好市池田町に至り、その地で再び流路を東に向け、中央地溝帯に沿って徳島市に向かって東流し紀伊水道に注ぐ。本州の坂東太郎(利根川)、九州の筑紫次郎(筑後川)と並び称され、四国三郎とも呼ばれる幹線流路194キロにも及ぶ堂々たる大河である。
吉野川は長い。水源地は高知の山の中。この地の雨量は際立って多く、下流の徳島平野を突然襲い洪水被害をもたらす。徳島の人々はこういった大水のこととを「土佐水」とか「阿呆水」と呼んだとのこと。吉野川の洪水によって被害を蒙るのは徳島県だけである。
また、その吉野川水系の特徴として季節によって流量の変化が激しく、徳島県は安定した水の供給を確保することが困難であった。吉野川の最大洪水流量は24,000m3/秒と日本一である。しかし、これは台風の時期に集中しており、渇水時の最低流量は、わずか20m3/秒以下に過ぎない。あまりにも季節による流量の差が激しく、為に徳島は、洪水の国の水不足とも形容された。
さらにその上、徳島県の吉野川流域の地形は河岸段丘が発達し、特に吉野川北岸一帯は川床が低く、吉野川の水を容易に利用することはできず、「月夜にひばりが火傷する」といった状態であった、とか。
つまるところ、吉野川によって被害を受けるのは徳島県だけ、しかもその水量確保も安定していない。その水系からの分水は他県にはメリットだけであるが、徳島県にとってのメリットはなにもない、ということであろう。銅山川分水をめぐる愛媛と徳島の協議が難航した要因はここにある(「藍より青く吉野川」を参考にさせてもらいました)。

以上銅山川からの分水事業の歴史を見るに、基本は分水を求める愛媛県と、それを是としない徳島県の鬩ぎあいの歴史でもある。「分水問題とは分水嶺の遥か彼方に水を持って行こうとするものである。分水は愛媛の農民を助けることかもしれないが、分水のせいで徳島の農民が水不足にあえぐことは認められない。また、愛媛側が水を違法に得ようとした場合、下流の徳島側は絶対的に不利である。一度吉野川を離れた水は二度と戻らない」。これは銅山川分水に反対する徳島県議の発言であるが(『銅山川疏水史;合田正良』)、この基本にあるのは銅山川も含めた吉野川水系全体の分水事業が徳島県に与えるその影響と、その他の愛媛・香川・徳島に与える影響が全く異なることにある。
早明浦ダムおよび吉野川総合開発計画
この各県の利害を調整し計画されたのが吉野川総合開発計画。端的に言えば、吉野川源流に近い高知の山中に早明浦ダムなどの巨大なダムをつくり、洪水調整、発電、そして香川、愛媛、高知への分水を図るもの。高知分水は早明浦ダム上流の吉野川水系瀬戸川、および地蔵寺川支線平石川の流水を鏡川に導水し都市用水や発電に利用。愛媛には吉野川水系の銅山川の柳瀬ダムの建設に引き続き新宮ダム、更には冨郷ダムを建設し法皇山脈を穿ち、四国中央市に水を通し用水・発電に利用している。
そして、池田町には池田ダムをつくり、早明浦ダムと相まって水量の安定供給を図り、香川にはこのダムから阿讃山脈を8キロに渡って隧道を穿ち、香川県の財田に通し、そこから讃岐平野に分水。徳島へは池田ダムから吉野川北岸用水が引かれ、標高が高く吉野川の水が利用できず、「月夜にひばりが火傷する」などと自嘲的に語られた吉野川北岸の扇状地に水を注いでいる。(「藍より青く吉野川」)。

上関の渡し
上関に向け木能津と国道439号を東進する。東本山大橋を越え、その下流辺りに上関の渡しがあったというので、なにか痕跡でもないかと吉野川右岸を助藤手前、如何にも渡河点らしきところまで進むが特段のものはなし。見渡地蔵も立っていた、とのことだが、「過去形」であり現在はないのだろう。
東本山大橋まで戻り、橋を渡り吉野川左岸に移る。橋の北詰めに仁井田神社。土佐北街道はここから立川川との合流点まではおおむね県道262号を進むことになるが、橋を渡るとほどなく右に逸れる道があり吉野川へと接近する。何気に右に逸れ旧道をを進むと、道の右手に「上関の渡し」の案内があった。大河である吉野川は飛び石ではなく、舟で渡ったようである。
木能津
「土佐地名往来」には、「木能津 筏の組み立て地に由来(坂本正夫)。「木の津 (港)」。木材水運の拠点」とある
助藤
「介当」「介藤」「助任」などとも書いた。戦国時 代、阿波国助任村から来た開拓者の集落。「菅の 峠」説も、と「土佐地名往来」にある。

本村の旧山下家薬医門
県道に戻り行川を渡る。この行川(なめかわ)の谷筋にも兼山の井筋が残る。上関、下関の辺りと言う。林業盛んな頃の森林鉄道跡に岸壁を穿った隧道も残るとのこと。本山の上井、下井再訪の折、この行川筋も歩いてみたいものである。
それはともあれ、行川を越えると右手に立派な灯明台。その先、道の左手に「旧山下家薬医門」の案内。坂を少し上ると薬医門。2本の本柱の背後だけに控え柱を立て、切妻屋根をかけた門であり、社寺だけでなく城郭や邸宅など門の形式としてよくみるもの。薬医の由来は門扉の隣に出入りが簡単な戸を設け患者の出入りを楽にした故とも、敵の矢の攻撃を食い止める「矢食い」からとも所説ある。
この山下家は参勤交代の折の藩主の休憩所となっていた。薬医門と石垣が往昔の名残を留める。 吉野川対岸は田高須。「元鷹巣村とて大鷹の巣を構へりしより地名」と郷土史。「たかす」は川の蛇行地に土砂堆積の「高い砂州」と「土佐地名往来」にある。





奈路の切通し
山下家を離れると奈路。吉野川は南に突き出た丘陵に阻まれU字に大きく蛇行する。『土佐の道』には県道は大きく弧を描き進むが、土佐北街道は切通の道を抜けるとあるが、現在の県道は切通となって奈路の丘陵部を抜けていた。
少し進むと道の道手に「井内の渡し」の標識が立っていた。
対岸は山崎。「長岡郡介当名に山サキ。阿州山崎村から麻の種を移植栽培、集落も山崎。助藤も阿波の開拓者」と「土佐地名往来」は記す。
奈路
土佐を歩くと奈路(ナロ)に出合う。「四万十町地名辞典」には「山腹や山裾の緩傾斜地を表す地名地名を高知県ではナロ(奈路)という。奈路(なろ)の全国分布は高知県だけで、それも中西部に多い。ナロ地形にふさわしい地名がこの地「奈路」である 『愛媛の地名』の著者・堀内統義氏はナロ・ナル地名について「東北の平(たい)、九州の原(はる)、四国の平(なる)と同じ地名の群落。奈良も千葉県の習志野も、ナラス、ナラシの当字で、平らな原野を表現している。」と書かれている。 ちなみに「奈路」地名も愛媛県に越せば「成・平(なる)」が断然多くなり、四万十町内でも成川・鳴川がよく見られる。

葛原
割木、葛原と進む。『土佐の道』には葛原の名本である久保家で休憩したとある。名本(なもと)は土佐藩における民衆支配の職制のひとつのようだ。『日本大百科全書』には「民衆支配は町・郡(こおり)・浦の奉行がおり、その下で地域の行政事務を助けたのが庄屋(しょうや)である。高知城下には町会所が置かれ、総年寄、庄屋、年寄、総組頭などの町役人が町政をつかさどったが、豪商が総年寄となって庄屋以下を統率した。
郡奉行は村役人を監督したが、村には庄屋・老(としより)(年寄)・組頭が置かれた。山間部の小村には名本(なもと)・老・組頭がおり、小村をあわせたものを郷といい、郷には大庄屋(おおじょうや)・総老・総組頭が置かれた。国境には道番所(関所)が設置され、大庄屋が番頭(ばんがしら)を、名本が番人を兼ねることが多く、国境を警備し、商品の移出には口銀(くちぎん)を取り立てた。農民の年貢米は村方役所に置かれた納所(なっしょ)に集められた」とあった。

立川川の渡し
県道を進み川口大橋の木田詰めを過ぎると「川口の送り番所」があったと言う。更に東進すると新川口橋。この橋の下流に立川川の渡しがあったとのこと。橋の少し下流、道の川側に常夜灯があり、そこから下に行けそうにも思える。当日は先を急ぐあまり素通りしたのだが、今となってちょっと残念。
新川口橋の直ぐ下流にかかる古い橋を渡り立川川左岸に渡る。『土佐の道』には「川口」には長瀬酒屋があり藩主の昼食場となっていたため「川口御殿」と称されたとある。
川口の送り番所、立川川の渡し、川口御殿も特段の案内もなく、どこにあったのか不明であろう。
 
柳瀬へ
柳瀬集落の橋は崩壊
一の瀬集落の金五郎橋を渡り立川川右岸へ
参勤交代の一行はここから立川川左岸を柳瀬まで進み、そこからは先回歩いた立川川右岸の山道を立川番書院へと進むことになる。
但し現在は柳瀬の土佐北街道に入る橋が落ちており、ひとつ手前の集落に架かる金五郎橋を渡り立川川右岸に入るしかない。また、その立川川右岸の土佐北街道は千本しらや橋手前の斜面が大規模崩壊しており、通行禁止となっている(2021年1月現在)。
大規模崩壊地は崩壊斜面ごとずり落ちた幾多の杉の大木が行く手を阻むが、20分ほど倒木を潜りまた乗り越えるつもりで崩壊斜面をトラバースするれば通れないことはない(関係者の方、ごめんなさい)。

これで土佐北街道散歩も残すところ、法皇山脈を越えた四国中央市の川之江までの里道、高知城下から権若峠までの道を残すのみとなった。次回はさてどちらを歩こうか。
何時だったか、銅山川疏水の資料がないものかと訪ねた四国中央市の市役所にあった「龍馬も歩いた土佐街道」のパンフレットにあった「土佐街道」という文字に惹かれ、四国中央市の市街と新宮を隔てる法皇山脈・横峰越えを辿った。
そのときはそれで終わりと思っていたのだが、メモをする段階で土佐藩主の参勤交代の道である土佐北街道は、高知の城下を発し四国中央市の川之江で瀬戸の海に船出する街道の途次、笹ヶ峰越え、国見峠越え()、権若峠越えといった「峠越え」で道を辿ったことを知った。「峠越え」フリークには惹かれる文字である。
法皇山脈・横峰越えをきっかけに土佐北街道の「峠越え」にフックがかかり、笹ヶ峰を越え、国見峠を越え、権若峠と途次ある峠を歩き終えた。笹ヶ峰も国見峠も結構険しい道ではあったが、最も苦労したのが権若峠。一見すると最も簡単そうなルートと思えたのだが倒木、ブッシュの難路・険路。一度目は途中撤退し、二度目に逆からのアプローチで何とかリベンジを果した。 で、少し時間は空いてしまったが、ついでのことでもあるので、高知城下から川之江まで、既に辿った峠と峠の間の道を繋いでみようと思った。
さてどこから。あれこれルートをチェックすると国見峠を越え笹ヶ峰越えにと進む立川川の谷筋、右岸の山腹を進み旧立川(たじかわ)番所書院までのルートが目に入った。高知の城下から權若峠まで、国見越えから柳瀬まで、また法皇山脈を抜け金田から川之江までの里道よりなんとなく面白そう。とりあえずこの谷筋をさっさと歩き終え、次いで里道歩きで土佐北街道を繋ごうと、立川川谷筋に沿った山道歩きに出かけた。
峠と峠の間の谷筋の山道。どうということはないだろうとお気楽に出かけたのだが、これが結構大変。スタート地点の立川川に架かる橋が数年前の大雨で崩落という状況からはじまり、道筋もあまり人も歩いていないのか踏み込まれた跡が見つからず山中を右往左往。結局第一回は日没時間切れで途中撤退とし、千本集落の立川川支流に下り浅瀬を渡り成川集落から県道5号を車デポ地まで戻った。
痛めた膝の養生に1週間ほど間隔をあけリベンジに。計画は権若峠と同様「逆」から攻め、道迷い地点を繋ぐことにした。スタート地点は「千本しらや橋」。土佐北街道でよく聞く橋名である。比定された場所から迷い道箇所まで繋ごうとの想いである。
さて踏み込まれた道あれかし、と願いながら歩き始めると突然前面の斜面が地滑りで大規模に抉られている。これが案内にあった「崩落」箇所だろう。出だしから強烈なパンチに見舞われたが、抉られ倒れた杉の大木を乗り越えたり潜ったりしながら崩落部を東側の枝尾根に這い上がる。
枝尾根に乗ると左下に林道が見える。国土地理院に破線で描かれたルートである。尾根筋から林道に下り少し先に進むがなんとなく落ち着かない。で、途中から斜面を?mほど這い上がると踏み込まれた道があった。崩落斜面をクリアした尾根筋から続いているようだ。この道を先に進み、先回道が消えた箇所までつなぐことができた。
メモでは便宜上、道が消えた箇所からピストンで戻った千本しらや橋までをメモする。時刻もピストンでの戻り所要時刻を参考に、1回目の時刻に続けて記すことにする。

ピストン復路は往路でほぼルートをカバーしているため特段の苦労もなく、といっても大崩落斜面部のトラバースは結構大変ではあったが、ともあれ千本しらや橋に戻り大休止。そこから立川までは特段の道迷いもなく順調に進み、立川(たじかわ)から県道5号を車デポ地の千本しらや橋傍に戻り散歩を終えた。
実際は2回かかった柳瀬から立川までの散歩ではあるが、メモでは一気通貫、「迷い道くねくね」のない散歩の記録として記すことにする。



本日のルート;
柳瀬から千本しらや橋
柳瀬の土佐北街道入口>落橋>一の瀬集落・金五郎橋>柳瀬集落・落橋西詰に>木橋を渡る>「参勤交代道」標識>「北山越え」標識>高知自動車道下り線高架を潜る>高知自動車道上り線高架を潜る>木橋を渡る>虎ロープ>展望所>開けた場所に建屋>建屋の先を右に折れる>木橋を渡ると「北山越え」の標識>沢を2箇所渡る>虎ロープ>「北山越え」標識>「参勤交代道」標識>「北山越え」標識>道が消える>沢に倒木>沢で道が消える>前面が開ける>枝尾根に>林道に合流>大崩落斜面東端部に>大崩落部西端部に>千本しらや橋>「土佐北街道・北山越え」標識
千本しらや橋から旧立川番所書院 へ
杏谷橋>「北山越え」標識>「北山越え」標識>分岐点先に「北山越え」標識>分岐点先に「北山越え」標識>土砂崩れ防止工事箇所>土径に入ると「北山越え」標識>「土佐街道」標識>高知自動車道保線路(?)>荒れた沢>茶畑>立川川に架かる橋を渡る>旧立川番所書院>荷宿跡

柳瀬から千本しらや橋



柳瀬の土佐北街道入口;午前10時2分
家を出発し松山自動車道、高知自動車道を乗り継ぎ大豊ICで下車。吉野川水系立川川に沿って走る県道5号を北に戻り、県道筋より立川川を渡り土佐北街道に入る橋があると言う柳瀬集落のスタート地点に到着。
文字も消えた古い木製の街道案内標識のすぐ北に「土佐北街道」は左の案内がある。が、その下には「参勤交代道は災害による落橋、崩落等があり現在通行できません 立川番所保存会」とある。 さてどうしたものか。とりあえずどの程度の状況なのか行けるところまで進み、危険であれば引き返そうと県道から左に折れ立川川に集落の坂道を下る。

川まで下ると橋がない。落橋ってここ。出だしから躓いた。浅瀬を探し渡河しようか、などと橋傍に佇んでいると集落の方が「橋は数年前の大雨で落ちた。少し南に戻り一の瀬の金五郎橋を渡れば対岸に道があり、崩落橋の近く迄進める」と。
国見峠より一の瀬までの土佐北街道
国見峠を下りた土佐北街道は県道267号筋、??延に出る。そこから樫ノ川の左岸に渡り本山に。そこで宿泊した後、吉野川に沿って国道439号を東進。現在の本山東大橋で左岸に渡り県道262号を川口まで進み、立川川左岸に移り柳瀬へと北進する。

立川川右岸を柳瀬集落・落橋西詰に;午前10時33分
県道を南に一の瀬まで戻り、金五郎橋を渡り右岸細路を進む。道は簡易舗装されている。車一台ギリギリの幅であり、車の回転できる場所を探し乍ら進む。最初の沢を過ぎた先に少し広いスペースがあり車をデポ。そこから歩くことにする。

デポ地から先、簡易舗装が切れているところもあったが、概ね簡易舗装の道を進むと民家があり、そこから先は車は通ることができない。偶々ではあるがいい所にデポしたと思いながら民家前の細い道を進み柳瀬集落・落橋西詰に到着。
柳瀬集落に架かる橋が当面架け直す「積極的理由」も見つけられないので、今後このルートを歩く方は、一の瀬の金五郎橋から立川川右岸に入るしかないだろう。




木橋を渡る;午前10時41分
橋の西詰めより上る道の交差部に長年の風雨に晒されたためか、まったく文字の読めない案内板。先に進み右手に立川川を見遣り10分弱進むと小さな沢に木橋が架かる。



参勤交代道」標識;午前10時43分
木橋から数分歩くと「参勤交代道」の標識。左を指す。川筋から離れ山に入っていく。その先に石垣があり舗装道に出る。高知道の作業道だろうか。コンクリート擬木の手摺のついた石段を上る。


「北山越え」標識;午前10時48分
石段を上ると再び舗装道。作業道がカーブしてここに続いているようだ。そこに「北山越」の標識。標識に従い石段を上る。「北山越え」とは高知の城下より北に聳える四国山地を越える、といった意味のようである。






高知自動車道下り線高架を潜る;午前10時50分
石段を上ると直ぐ高知自動車道下り線を潜る。その先で擬木の手摺がある石段を上る。上り切るとよく踏み込まれた土径。前方に高知自動車道上り線の高架を見遣り先に進む。




高知自動車道上り線高架を潜る;午前10時55分
5分ほど歩き高知自動車道上り線を潜る。高架を潜った先は今までと一変。杉の木立に囲まれた山道に入る。






木橋を渡る;11時29分
高架を過ぎると土佐街道は左に折れて山に向かう。標識もなく、人も通らず道が踏まれてもおらず なんとも説明しようがないのだが、左に折れ先に進むと木橋があればそれがオンコースである。
注意点
さらっと道筋をメモしたが、当日は高架を潜りその先道筋らしきフラットな場所があったため直進した。が、その先で道が消える。踏み分け道を探して右往左往。川の岩壁に当たり岩場と川の間の崖を進む?。こんなところを参勤交代道が通るわけもないだろうと、山肌を這い上がり、道らしき箇所に復帰した。結局道に復帰まで20分ほどかかっただろうか。
念のために道に復帰した箇所から逆に直進した箇所まで戻ると、途中木橋があった。木橋を越えてその先も踏み込まれた道筋は残っていない。
高速の高架を越えると左の山側に入るとしか説明のしようがない。とりあえず「木橋」を見付けてください。

虎ロープ;午前11時36分
復帰した道を進む。急峻な崖の上を道は進む。高所恐怖症のわが身には結構辛い。途中危険箇所には虎ロープが張られていた。気持がずっと楽になる。




展望所;午前11時43分
虎ロープの先も、10分弱急峻な崖上の道を進むと尾根筋にあたり、そこに展望台があった。道迷いで山肌を上り下りしたため痛めている膝が結構キツイ。小休止。



開けた場所に建屋;午前11時51分
展望台から数分森の土径を進むと突然前方が開ける。藪が激しくはっきりとした道筋はないのだが、成り行きで進み道に出る。道は県道から続いているようだ。
道に出ると辺りは森の中に大きく開かれており、道の前方には石垣が組まれ、そこに建屋が見え里る。なにかの作業場のようにも思える。

建屋の先を右に折れる;午後12時5分
石垣のある敷地の中に入り建屋を越えた所で道を逸れて草の茂る広場を横切る。その先に見える木の橋が目印。
注意
石垣の中の敷地に入った道は山に向かって上ってゆく。右に折れる箇所には何も標識がないため、知らず先に進んでしまう畏れあり。実際私も道をしばらく上り、なんとなく「これは違うよな」と作業所辺りまで戻り、遠めに見える橋を見付けルートに入った次第。開けた場所に出てからオンコースの右折までに時間がかかっているのはそのためである。


木橋を渡ると「北山越え」の標識;午後12時7分
橋を渡ると「北山越え」の標識。杉林の中の道を進む。途中虎ロープが張られた箇所もあるが。道筋は何となく踏まれた感がありオンコースであることを感じる。



沢を2箇所渡る;午後12時40分:12時46分
標高400mから450mの間、国土地理院の地図に描かれた破線に沿って進む。しばらく進み西に台形型に切れ込んだ沢筋に入り、沢を2箇所渡る。




虎ロープ;午後12時50分
沢を越えるとちょっと厄介な箇所に。虎ロープが張られており慎重に岩場を上る。虎ロープが張られているということは道筋であるということ。標識はしばらく何も無いが、虎ロープがあるということはオンコースであろうと一安心。





「北山越え」標識;午後13時2分
虎ロープを過ぎると支尾根筋に。道は尾根筋と尾根を廻り込むものと二手に分かれる。標識は何もない。とりあえず尾根筋へと左折し少し上るが、なんとなくしっくりこない。で分岐点まで戻り、尾根筋を廻り込むと前方が草地となって少し開ける。

その地に下りると草地端に「北山越え」の標識。そこから再び山道に入る。









「参勤交代道」標識;午後13時6分
数分で「参勤交代道」の標識。オンコースを確認。










「北山越え」標識;午後13時9分
更に数分、今度は「北山越え」の標識。








道が消える;午後13時25分
踏み込まれた道をしばらく進むと杉林で道が消える。杉の枝葉が一面に落ち道筋が全くわからない。特に標識もない。ここは左手山側に向かい踏み込まれたような道に出るまで我慢するしかない。要点としては国土地理院の地図に描かれた破線の山側に進むこと。


一回目の道迷い・撤退箇所
この箇所が一回目の道迷い撤退決定箇所。直進方向がそれらしき道に見え、先に進むと上述道迷い同様大岩が先を塞ぐ。岩場の下を通るわけもいだろうし、何んとか岩場を抜ける道を探すがそれらしき道筋は見つからない。それではと、岩場の上を抜ける?と崖を這い上がるが踏み込まれた道は見つからなかった。
正確に言えば這い上がったときに道筋に出たのだが、後述道が崩れた沢筋であり、道筋らしき「風情」はなく、そこを越え更に上に這い上がったのだが岩場が切れそうもなく、結局再び道を探して下った。
その後は成りゆきで岩場を抜け尾根筋に出た。が、既に日没時間切れ。獣防止柵か崩壊危険個所への侵入防止柵か不明だが、その柵に沿って尾根筋を力任せで下山し高知自動車道高架下で立川川支流の浅瀬を渡り成川集落を経て一の瀬の車デポ地へと向かった。
二回目の道繋ぎでわかったのだが、土佐北街道は一回目に出た40mほど上で尾根筋を廻り、そこから尾根の西側をトラバース気味に下山箇所に進んでいた。

沢に倒木;13時30分
道が消えた箇所から左手山側に上る。杉の枝葉が一面を覆い踏まれた道は見えない。とりあえず国土地理院に描かれた「破線」の上側を進むと、少し踏まれたような道筋に出る、そこを進むと沢に大きな倒木が二本行く手を塞ぐ。大木の下を潜り沢のを渡る。ここに進めばオンコース。


沢で道が消える;13時35分
その先に比較的広い沢筋が拡がり、道は消える。道は消えるが水平に抜ければその先で踏まれた道に繋がるのは往路で確認済。
この箇所が一回目道を探して這い上がったところ。偶々斜面が崩れ道が消えていたため、更に上に這い上がり道を探したが見つからず、結局撤退とした。


前面が開ける;13時45分
道の消えた荒れた沢筋を抜けるとぼどなく尾根筋に。おおよそ等高線530m辺りを廻り込み、沢筋から8分ほどで杉林を抜け前面が開ける。
沢筋からおおよそ10分、眼下には高知自動車道が走る。いい眺め。道の谷側にはネット柵が張られている。道はネット柵に沿って下る。

この辺りから獣防止柵なのか崩落箇所侵入防止柵なのかよくわからないがネット柵が道に沿って張られている。先回撤退し30mから40m下った尾根筋に出たときも尾根の上から川の流れのところまで柵がはられていた。柵の前面の斜面は結構荒れており、その斜面を囲むように柵が造られているようにも思える。

枝尾根に;14時2分

支尾根よりトラバース気味に枝尾根に進む。道はしっかり踏み込まれ迷うことはない。途中倒木が道を塞ぐ。遠景を楽しんだところから15分ほど歩くと左手下に林道が見えてくる。往路で這い上がりこの道筋を見付けた林道だ。
20分弱で枝尾根に。その左手は往路難儀した大崩落箇所が切れ落ちる。

林道に合流;14時5分
枝尾根を下ると林道に合流。途中、なんとなく「ノイズ」を感じ、林道から這い上がり土佐北街道の道筋に出合ったが、もしそのまま先に進んでいたら、先回同様「迷い道くねくね」状態になってしまったかもしれない。

大崩落斜面東端に;14時7分
数分で大崩落斜面東端に。往路は国土地理院地図に破線で描かれた箇所に向かって、斜面に倒れ落ちた杉の大木を潜り、跨ぎで崩落斜面西端から東端の枝尾根へと這いずり回ったが、復路は西端部は既に往路で確認済であるのでそのポイントに向かってこれも這いずり回る。



大崩落部西端部に;14時33分
斜面をおおよそ30分弱かけて斜面大崩落部西端に這い上がる。そこから数分、藪の茂る道を下ると林道とその先、川に橋が架かる。





千本しらや橋;14時35分
林道手前に小さな木橋が架かる。これが千本しらや橋。往路、この地が土佐北街道であることを知り、先回撤退した道迷い箇所まで繋げることができた。イントロでもメモしたが道迷いで撤退した時は、逆側のはっきりした地点より逆から攻める手法で道を繋げることが多い。土佐北街道の権若峠越えのときも、同様の手法で道を繋ぐことができた。

「土佐北街道・北山越え」標識;午後14時35分
千本しらや橋を渡ると林道鰐に「土佐北街道・北山越え」標識の案内。方向の指示がいまひとつはっきりしない。千本しらや橋の横に広い作業道が開かれ工事作業車が止まる。Google Street Viewでこの標識をチェックした時は周囲は木々に覆われていたのだが、斜面崩落のため補強工事を進めるために開かれたのだろうか。
標識の方向だけを見れば、千本しらや橋を見落とし、工事作業道を土佐北街道と思うかもしれない。もっとも、どうしたところで大崩落斜面に出るわけで、それよりなにより「参勤交代道は災害による落橋、崩落等があり現在通行できません」とあるわけで、本来歩いてはいけないのではある。
千本
土佐地名往来」には「北山越えの官道が通る傾斜のきつい山地。崩壊を恐 れ千本の杭を打ち込んだ苦労を刻んだ地名」とあった。大崩落斜面を見るにつけ、地名はその地形を表すことを実感する。

当初予定した崩落橋から千本しらや橋までおおよそ3時間。予想以上に時間がかかった。道迷い、大崩壊斜面のトラバース、というか倒木や大岩を潜り、跨ぎ、乗り越えに時間がかかったのがその因ではある。
2回目のリベンジではこの千本しらや橋傍に車をデポし、道迷い地までピストン往復したわけで、車で大休止したのだが、メモではその時間を省き、当日の所要時間を勘案し時刻表示を示す.

千本しらや橋から立川集落へ




杏谷橋;午後14時36分
千本しらや橋のすぐ前に立川川の支流に架かる橋がある。杏谷橋とある。橋桁に刻まれた橋名は「きょうやはし」と読める。最初はこの橋が千本しらや橋と思い込み、林道脇に立つ「土佐北街道」「北山越え」の標識傍、藪に隠れた千本しらや橋を最初見逃していた。標識から左に逸れる工事作業道から偶々木橋が目に入り、それが千本しらや橋と思い、そこから土径を進み大崩落斜面西端まで進んだ次第である。

「北山越え」標識;午後14時27分
橋を渡ると直ぐ、車道の左手に斜めに上る坂がある。その上り口に「北山越え」の標識。その数分先にも「北山越え」の標識。水路や古い石段などが残り、千本集落の生活道の一部のようにも思える。


「北山越え」標識;午後14時35分
車道から上り始めて8分ほど、「北山越え」の標識が立つ。その先、獣防止柵に沿って道を進むと千本集落の民家が建つ。民家脇を更に上ると土径に入る。




分岐点先に「北山越え」標識;午後14時42分
 土径に入ると数分で分岐点。左に上る道と真っすぐ進む道。なんとなく直進であろうと進むと直ぐ「北山越え」の標識。オンコースを確認。その先に舗装された道が見える。 



 舗装された道が切れ土径に;午後14時47分
北山越えの標識から直ぐ舗装された道に出る。高知自動車道の下り線の先から車道を逸れて続いているようだ。
道を進むと左手山側に「土佐北街道」と書かれた木の標識が無雑作に置かれている。その直ぐ先に工事用プレハブがありそこで舗装が切れ、その先は土径に戻る。土径に入ったところに「土佐北街道」の標識がある。

土砂崩れ防止工事箇所;午後14時50分
土径を進むと直ぐ土砂崩れ防止の大規模工事箇所に出る。当初、リベンジ2回目のスタート地点に向かう途中、高知自動車道から大規模土砂崩れ防止工事箇所が左に見え、そこが柳瀬の集落にあった「参勤交代道は災害による落橋、崩落等があり現在通行できません」とあった「崩落」箇所かと思い、ここで道が切れると気になっていたのだが、工事箇所に人が通行できる水平通路が造られており、通り抜けることができた。ここも工事完了前は崩落箇所ではあったのだろう。
工事箇所からの眺めは結構、いい。
ふと思う。先ほどの舗装道はこの工事作業用に造られた道であったのだろう、と。

土径に入ると「北山越え」標識;午後14時53分
土砂崩れ工事箇所を抜け再び土径に入る。ほどなく「北山越え」の標識。数分進むと前面が開け茅の原っぱに。道筋はほとんどわからないが、成りゆきで進むと踏み込まれた道に出た。




「土佐街道」標識;午後15時6分
杉林の中の道はしっかり踏み込まれており何となく安心。道を進み木橋を渡り、そこから数分、杉の木に土佐北街道でよく見る「龍馬くん(?)」イラストが描かれた「土佐街道」標識がくくられていた。 茅が茂っていた辺りから立川トンネルの上を進んでいるようである。


高知自動車道保線路(?);午後15時12分
道を進むと木々の間から立川ンネルを出た高知自動車道が見えて来た。その先、道の右手に鉄の梯子が下に続く。高知自動車道保線路だろうか。




荒れた沢;午後15時17分
保線路(?)から5分ほどで荒れた沢に出る。沢筋の道を遮る倒木を潜り抜け道筋に戻る。その先はよく踏み込まれた道が続く。




茶畑;午後15時28分
しばらく進むと突然前面が開け茶畑の中を進む。往昔このあたりには警護屋敷があったようだが、今は何も残ってはいない。茶畑の中には作業小屋があり、その先道に沿って廃屋が残っていた。

 

立川川に架かる橋を渡る;午後15時33分
茶畑から5分ほどで立川川に架かる橋に出る。橋の南詰に「土佐北街道」の標識。橋のあったところは、往昔の「刈屋の渡し」があったようである。
また、その少し上流のには「藤川の渡し」もあったようであり、なんらかの痕跡がないものかと少し彷徨ったが特段の案内もなく、橋へと引き返した。


道5号出口に「「土佐北街道」標識;午後15時35分
橋を渡り成り行きで進むと数分で県道5号に出る。出たところのガードレールに「土佐北街道」の標識が立っていた。
千本しらや橋傍の上り口からおおよそ1時間15分ほどかかった。柳瀬からここまでは4時間強かかったことになる。結構かかった。大崩落箇所もさることながら、千本しらや橋からこの地まではそうでもないが、柳瀬から千本しらや橋まで肝心なところに標識がなく、どちらにルートをとるか見通しで結構時間がかかったようにも思う。とはいえ、「参勤交代道は災害による落橋、崩落等があり現在通行できません」とある以上、黙るしかない。

今回の目的である土佐北街道の柳瀬から(実際は柳瀬の橋が落ちていたので、ひとつ下流の金五郎橋から立川番所のあるこの地までカバーした。メモの時刻は初回の行程に合わせて調整しており午後3時35分となっているが、リベンジ2回目はもっと早く2時前に到着しており近くある立川番所書院跡に立ち寄ることにした。
立川
上に「この地」としているのは、立川川の橋を渡ったこの地をどう表示すればいいのかちょっと困ったためである。立川と書きたいのだが地図で確認すると立川川左岸は立川川が??野川に合流する辺りから笹ヶ峰の県境尾根まで立川下名とあり、右岸も一の瀬の少し南から笹ヶ峰県境まで立川上名とある。
正確に言えば一の瀬で金五郎橋を渡った辺りは立川上名(かみみょう)だが、少し北に進むと立川川右岸も立川下名(しもみょう)となっており高知自動車道から先が立川上名となっている。今回の散歩は立川下名からはじめ立川上名を辿り、立川橋を左岸に橋を渡り立川下名に戻ったわけである。結局大雑把に言えば「立川」を歩いているわけであり、到着地点を「立川」と書くのを躊躇ったわけである。上名、下名の由来は不詳。なお、立川は道。イタドリの古名「タジヒ」に拠る、と。愛媛ではタシッポだが、スカンポと呼ぶところもあると聞く。子供の頃、よく食べた。

旧立川番所書院
県道5号を少し北に進むと右折指示があり、坂を上ると旧旧立川番所書院が建っていた。落ちついたいい雰囲気である。
案内には「重要文化財 旧立川番所書院 山内治政の時代になって、参勤交代は海路をとっていたが、風浪や天候のため日数が定かでないので、六代藩主豊隆公が享保三年(一七一八)始めてこの陸路によった。高知を出発して布師田―領石―穴内―本山―川口を経て、立川から伊豫の馬立、川之江に出たので、立川番所(御殿)は土佐最後の宿所であった。又国境警備の要衝の一つ^として、野根山の岩佐口番所、池川口番所と共に三番所といわれ中でも立川番所は首位をしめていた。
現在の立川番所跡の建物は、番所役人、川井惣左衛門勝忠が寛政年間に建てたものといわれ、 すでに百七十年以上経た古い建物である。明治時代になって鈴木氏の手に渡り、旅人宿となって一部改装せられている。昭和四十八年町が鈴木氏より譲り受け、昭和四十九年、旧立川番所書院として、国の重要文化財に指定された。
その後建物の傷みが激しく、昭和五十五年より三ヶ年で、国県の助成を得て総工事費約一億円あまりをかけて解体復元工事がなされた。正面九間半(一七・七二五米 奥行六間半二・九九八米)七室からなり、藩主の寝所は一段高く書院づくりとなっている。 昭和五十六年度文化財保存事業 大豊町教育委員会」とあった。
立川の歴史
またその横に「立川の歴史」の案内。「古代律令制度のもとで和同四年(七一一)頃の南海道は紀伊~阿波~讃岐~伊豫~幡多~長岡の国府に至る遠回りの行程が想定されている。 奈良時代の続日本紀に養老二年(七一八)「...その道は 伊豫國を経る。行程は迂遠にして山谷険難なり」とあって國府からの奏請をうけ、この年阿波の国から土佐に通ずる道を選び路程を短縮したとあるが宿駅はあきらかにされていない。
降って平安時代「日本後記」に延暦十六年(七九六)「甲寅(きのえとら) 廃阿波國驛家  伊豫國十一、土佐國十二 新置土佐國吾橋 舟川驛」とあってそれまで敬遠されていた四國山脈の横断が始めて試みられている。 吾橋(あがはし)は今の本山であり、舟川は立川である。 伊豫の川之江から入るこの道の開設で都から土佐への距離は大巾に短縮され驛の設置によってこの地方は文化の流入経路となったのである。
延喜式兵部省の条に「土佐國驛馬 馬 頭驛 吾橋 丹治川 各五匹」とあり、又、土佐國(行程丗五日 下十八日 海路廿五日」と出ている。
このように立川は延暦十六年(七九七)には都と国府を結ぶ官道が置かれる古い歴史をもつ地である」とあった。

延喜式兵部省の条にある「丹治川」は「立川」だろう。モ─タリゼション全盛の時代は山間の僻地ではあろうが、歩いて峠を越えて往くしか術はない時代、土佐藩最初の物流・文化の経由地として今とは違ったポジショニングを持つ地であったのだろう。

荷宿跡
旧立川番所書院より県道5号に沿って500mほど立川川支流を進んだところに荷宿跡がある、という。地図に龍馬・水戸藩士会見の地のピンが立つ。写真には川に鉄橋が架かり、背後に高知自動車道の高架橋が立つ。それらしき場所に行くが、WEBの写真にある「坂本龍馬会見の地」といった案内は見当たらない。鉄橋を渡ると平坦地がある。そこが荷宿跡ということだろうか(当日はこの地が荷宿跡とはわからず、写真を撮らなかった。掲載写真はGoogle Street Viewで作成したもの。そこには案内掲示が写っていた)。
高知県の坂本龍馬記念館の記事に拠れば、この地は藩政期、産物や商品の荷物の集散地であり、この付近が坂本龍馬らが水戸浪士と会見した地とされている所とのこと。
安政5(1858)年。尊王攘夷の水戸浪士住谷寅之助と大胡聿蔵は10月17日立川番所まで来るも、入国手形を持たなかったため入国できず、立川荷宿の木屋や岩吉の家で坂本龍馬に入国の周旋を依頼した。坂本龍馬は、川久保為助、甲藤馬太郎らと共に23日夜、雨中を駆けて立川まで来て会談したと言う。
この会談について住谷寅之助は『廻国日記』の中で「龍馬誠実可也ノ人物、併撃剣家」、そして「事情迂闊、何も不知トソ」と記す。誠実で剣に優れるが、政治情勢には疎く何も知らないとちょっと失望しているようだ。
龍馬は24歳。江戸の剣術修行から戻ったばかりで、未だ本格的に政治に目覚めてもおらず、期待に応える権限もなかったのだろう。協力を約して別れたがその後龍馬からの連絡はなかった。 土佐入国の理由は大老井伊直弼に対し諸藩の決起を促すため。土佐への入国ができなかった住谷は宇和島藩に向かうも、ここでも協力を拒まれ、予定していた薩摩藩行きを止め失意のうちのい江戸に戻ったようだ。
Wikipediaに拠ると「その後、安政6年(1859年)11月、安政の大獄に伴い住谷も職を免ぜられ蟄居処分を受けた。翌安政7年(1860年)2月、高橋多一郎らを中心とする大老井伊直弼の暗殺計画が藩に察知されると、住谷はその一味として投獄され禄を奪われた。3月3日に同志が井伊暗殺を実行し(桜田門外の変)、この変の後、幕府は水戸藩に対する弾圧を弱め、10月に住谷は罰を解かれている」とあった。

お気楽に出かけちょっと辛い目に遭った。権若峠の時と同じパターンである。ともあれ立川谷筋の土佐北街道はカバーした。次回は、国見の下山口から立川筋まで、または法皇山脈を越えた金田から川之江までのどちらにしようか。その時の気分で決めることにする。



先回国見峠を越え、土佐の城下から伊予の川之江を結ぶ土佐藩参勤交代の道・土佐北街道を遮る峠は南国市から国見登山口のある香美市穴内を繋ぐ権若峠(コンニャク・ゴンニャク)を残すだけとなった。標高1000mほどの国見越えを2回にわけて道を繋いだ後でもあり、標高は600mほど、距離は国見越えの三分の一といったもの。しっかりしたルート記録は見当たらないが、この程度ならなんとかなろうかとお気楽に取りついたのだが、これが大誤算。標高1000mクラスの法皇山脈・横峰越え笹ヶ峰越え、国見越え()といった土佐北街道の峠越えで一番難儀することとなった。

Google Earthで作成
難儀した要因は、「半端ない」荒れた道、その結果としての途切れたルート。季節柄伸び放題のブッシュ。クリティカルな箇所に見当たらなかった標識、そして何よりも、誠にお気楽に取りついた心の持ちようといったところだろうか。
一度で軽く終わると思ってはじめた権若峠越えではあるが、初回は穴内ダム湖側から取りつき、荒れて消えた道と雨のため撤退。2回目は南国市側の登山口から取りつき、結構難儀しながらも初回撤退箇所となんとか繋いだ。
初回は途中撤退ではあったが、撤退箇所までは土佐北街道をトレースしており、2回目も峠からその撤退箇所をターゲットに、倒木で荒れそして消えたルートを辿ればよかったわけで、それがなければ目標となる箇所がないまま消えた道で途方に暮れたであろうから、それはそれでよしとして、2回にわたる権若峠越えの記録をメモする。


今回のルート
初回;穴内ダム湖側から権若峠を目指す(途中撤退)
車デポ:10時53分>登山口・参勤交代北山道の標識>参勤交代北山道の標識>参勤交代北山道の標識>参勤交代北山道の標識と土佐街道イラスト>倒木が道を塞ぐ・撤退

2回目;南国市釣瓶の登山口から権若峠を越え、一回目の撤退地点を繋ぐ
釣瓶登山口へ>左手渡瀬>釣瓶登り口>「歴史の道 北山道 権若峠まで2㎞」標識>「歴史の道 北山道 権若峠まで1.5km」標識・中休場>「歴史の道 北山道 権若峠まで1000m」の標識>沢場>東西に延びる尾根筋が見える>峠手前の藪漕ぎ>権若峠>山路に向け藪に入る>境界標石>堀割道に出る>土佐北街道の標識>沢筋右岸を進む>鶏石>沢筋に下り左岸に渡る>先回撤退地点>参勤交代北山道の標識と土佐街道イラスト;>「参勤交代北山道」の標識>参勤交代北山道の標識>登山口・参勤交代北山道の標識


初回:穴内ダム湖側から権若峠を目指し、雨と荒れた道のため撤退

車デポ:10時53分
権若峠越えの第一回は国見越えの登山口のあった穴内ダム湖側から取り付くことにした。権若峠の下山口側からの取り付きであり、遍路道で言うところの「順打ち」の三倍困難とされる「逆打ち」であるが、標高も550mほどの峠でもあるし、ピストンで戻れば、「順打ち」での峠への上り口となる南国市の釣瓶まで行くこともないだろうしなあ、といった想いであった。
取り付き口は、先回の国見越えの登山口のあった穴内ダム湖北岸を更に西に進み、赤荒谷橋を越え、両国橋を渡りダム湖南岸に移った地点で県道268号を離れ林道を少し進んだ辺りのようだ。
両国橋を渡るまでは舗装された県道を進み、左に分岐する林道分岐箇所に。分岐箇所の林道は簡易舗装ではあるが、なんとなく舗装もすぐ切れそうであり、県道脇の空きスペースに車をデポし林道を歩きはじめる。
穴内
「土佐地名往来」には「大豊の集落。"助ける"を意味する古語あななう。この地を助け合って開拓した歴史に由来。
両国橋
両国橋の由来は?国を跨るわけでもないのだが、この橋の少し西からダム湖の南へと延びる尾根が香美市と南国市、昔の香美郡と長岡郡の境となっている。それに関係あるのだろうか。不明である。

登山口・参勤交代北山道の標識:11時4分(標高430m)
車をデポし、県道から左に分かれて林道をすすむ。途中から簡易舗装も切れていた。10分ほど歩き、南に入り込んだ等高線に沿った林道の南端をグルリと廻ったあたり、右手に伐採された杉林が広がるところの狭い沢筋(水は流れていない)脇に「参勤交代北山道 権若峠登り口(六八九米)」の標識があった。「六八九米」は権若峠まで689mということだろう。このときは楽勝気分ではあった。



参勤交代北山道の標識;11時16分(標高450m)
標識はあったのだが、足を踏み入れると直ぐに伐採で荒れた杉林の中。踏み跡もなく途方に暮れる。どうしたものかと、それらしき道筋を探していると杉に巻かれた青色のリボン(11時9分)が目に入った。このリボンが土佐北街道の案内かどうか不明であるが、とりあえずリボンの巻かれた杉の先へと進む。
ほとんど成り行きで5分ほど進むと、杉に巻かれた赤いリボンとともに「参勤交代 北山道」の標識を発見。オンコースであることが分かり一安心。

参勤交代北山道の標識;11時23分(標高460m)
標識はあったが、その先も明確な踏み跡はない。杉の伐採箇所を抜け、少し落ち着いた山相の中、踏み跡らしき道筋5分ほど進むと右手は青、左手は赤と青の里リボンが巻かれた立木があり、その先に「参勤交代 北山道」と書かれたプレートが木に巻き付けられていた。
この辺りまで進むと、登山口標識辺りでは掘り込まれてはいるが水が消えた沢筋に水が現れてくる。

参勤交代北山道の標識と土佐街道イラスト;11時25分(標高480m)
沢の左岸(と言うほど大きな沢ではないのだが)を数分進むと赤いリボンと「参勤交代北山道」の案内が立木に巻き付けられており、またその直ぐ先にも坂本龍馬のイラストの描かれた「土佐街道」の標識が大岩手前の立木に巻き付けられていた。

倒木・藪が道を塞ぐ・撤退;11時26分(標高490m)
結構標識も増え、これは楽勝かと思いながら踏み分けられた道を進むと細い立木に赤いリボンが巻かれている。が、その先は倒木で道が塞がれる。一本だけならなんとかなるのだろうが、折り重なった倒木でその先は藪。「半端ない」荒れ具合である。
何処かに踏み跡などないものかとあちらの藪、こちらの藪とルートを探すが、それらしきものは全く残っていない。また間が悪いことに晴れの天気予報にも関わらず雨が降り出す。雨具は用意していなかったのだが、なんとなく空模様が怪しいので杖替わりにもっていたビニール傘で雨を凌ぐが、傘をさしての藪漕ぎは少々難儀。
権若峠まで比高差80mほどで、這い上がるだけならなんとかなりそうだが、今回の目的は土佐北街道のルート探し。このまま悪戦苦闘しても土佐北街道のルートに出合うかどうかわからない。ということで、ここで撤退決定。次回、オーソドックスに南国市釣瓶の登山口から権若峠に向かい、今回の散歩でルート確定した坂本龍馬のイラスト地点までを繋ぐことにする。

初回撤退ルート



2回目;南国市釣瓶の登山口から権若峠を越え、一回目の撤退地点を繋ぐ


釣瓶登山口へ
南国市は国分川が四国山地を抜け高知平野に顔を出す地。ほとんど高知市まで来たよ、などと思いながら高知道の南国インターを下り、国道32号を領石川に沿って少し北に戻り、国道が高知道の真下で領石川(りょうせき)を渡った少し先、宍崎辺りで県道33号に乗り換える。県道33号の分岐点に「権若峠登り口まで3.8km」の標識がある。
領石
「土佐地名往来」には「根曳峠への登り口の集落。地検帖には龍石。竜に似た奇岩?竜岩寺という寺名に由来する?」とある。
宍崎
「土佐地名往来」には、「猪狩りが盛んに行われた戸山郷の入り口の集落。 また猟犬のことをシシザキと言う」とある。
県道33号を亀石まで進み、そこで奈路川に沿って直進する県道にから離れ右折し、領石川に沿った道に入る。分岐点には「ここが釣瓶橋です。権若峠釣瓶登り口まで2.3キロ」の標識がある。
奈路
「四万十町地名辞典」には「山腹や山麓の緩傾斜地を高知県では「ナロ」と言う。高知県だけの地名」とある。

左手渡瀬
領石川に沿って道を北に進むと道の左手に「左手渡瀬」の標識と「権若峠釣瓶登り口まで1.1km」の標識が立つ。
「左手渡瀬」が気になりちょっと立ち寄り。標識には「中谷川を西岸に渡る」との説明もある。何のことだろう?チェックする。 「左手が渡瀬」の意味だろうとおもったのだが、「左手渡瀬」という固有名詞であり、「西岸に渡る」とは、どうも往昔の土佐北街道が五良兵衛川(領石川)に北から合わさる中谷川の右岸へとこの地で渡ったようである。
土佐北街道のこの地までのルート
高知の図書館に行けば詳しい資料もあるのだろうが、ルートに関する資料がWEB上ではあまりヒットしなかった。唯一見つけた『土佐の自然』の記事「参勤交代道(領石‐ゴンニャク峠)の自然と地誌、山崎清憲」だけを頼りに推定すると、「土佐の城を出た街道は、比島・一宮・布師田・中島へと進む。中島で御免方面へと南下する土佐東街道と別れた北街道は領石へと北に道を取る。領石の天満宮の辺りには領石口番所があり参勤交代の休憩所でもあったようであるから、道は領石川の右岸を進んで来たのだろう。
天満宮を越えた北街道は国道32号と高知道が重なり合う辺りで「一之瀬」を渡り領石川左岸に出たようだ。一之瀬の場所は国道32号と高知道が重なり合う辺りにある二つの堰の内、上流側の堰辺りとのこと。
左岸を進む北街道は現在の楠木橋(同書には「楠本)とあるが楠木では?)辺りにあった楠木渡瀬を渡河し、右岸に。
右岸に渡った街道は、北から亀石川が領石川に合流する先で「瓶の本渡瀬」を渡河し再び左岸に移り、奈路川が領石川に合流する地点を領石川沿いに進み、この地で領石川(五良兵衛川)から離れ、中谷川を右岸に渡る」といったルートかと思われる。

釣瓶登り口と梼方面への分岐点;9時12分
土佐北街道が中谷川右岸を進んだ、というのはメモの段階で分かったこと。当日は「左手渡瀬」の標識横にあった「権若峠釣瓶登り口まで1.1km」の標識の案内に従い、中谷川左岸の車道を進む。
ほどなく中谷川に東側から梼山川が合わさる。車道は梼山川に沿って少し進むと釣瓶登り口と梼方面への分岐点に。分岐点には「釣瓶登り口左手200m」「梼方面右」の標識が立つ。道脇にスペースを見付け車をデポし、釣瓶登りへと左手の道を進む。

釣瓶登り口:9時14分(標高150m)
道を進むとほどなく右手に標識が見える。「権若峠登山口」「峠まで二千三百三十米 約2時間半かかる 標高五百五十米」とある。ここが峠への上り口である。



下り付の渡し
標識の手前の立ち木に登山者のために竹の杖が用意されている。なにか手頃なものは無いかと寄ってみると、手書きで「ここが「下り付の渡し」です。昔の飛び石が残っています。ゴンニャク峠までは2㎞430m」と書かれたプレートが立ち木に括られていた。
当日はなんのことかよくわからなかったのだが、メモの段階で梼山川左岸から右岸への渡瀬のことだろうということがわかった。
ということは、参勤交代道は、先ほど「左手渡瀬で中谷川の右岸」に渡ったわけだから、どこかで左岸に渡らなければならない。あれこれチェックすると場所は比定されていないが途中「中渡瀬」で中谷川を左岸に渡り、そのまま梼山川左岸へと進み、「下付の渡し」で梼山川を右岸に渡ったようである。川には飛び石で渡ったという適当な石が並ぶ。参勤交代の折には、板橋を架設したとのことである。

「ゆすの木」が多くある地ではあるのだろう。龍馬脱藩の道を梼原から歩いた、その梼原も同じ由来である。
釣瓶
釣瓶の由来は不明。瓶は「かめ・びん」のことだろう。途中亀石川があったが、その由来は瓶の形をした岩があることに拠る。地検帳では亀石だが、州郡志には瓶岩とある。で、釣瓶だが、「釣瓶落とし」というフレーズがある。一直線に落ちていく様を表す。垂直な大岩でもあった故の命名だろうかと妄想。 因みに,『高知の地名;角川書店』の亀石村の項に、「梼山の西に菎蒻坂を隔てて釣瓶落山がある」とする。上述の妄想、あながち妄想とは言えない、かも。

「歴史の道 北山道 権若峠まで2㎞」標識;9時25分(標高200m)
よく踏み込まれた道、掘り割りの道を10分ほど上り標高を50mほど上げたところに「権若峠まで2㎞」の標識が立つ。中谷川と梼山川の合流点に向けて南西に突き出た尾根筋を上って行くようだ。


「歴史の道 北山道 権若峠まで1.5km」標識・中休場:9時44分(標高370m)
「権若峠まで2㎞」標識から20分、高度を150mほど上げると道の左手に「歴史の道 北山道 権若峠まで1.5km」の標識があり、少し平場となっている。標識の先、道の右手にも標識が立ち「中休場」とある。参勤交代の休憩所といったところだろう。

「歴史の道 北山道 権若峠まで1000m」の標識:9時58分(標高410m)
比較的急な尾根筋の道を上ってきた土佐北街道は、「中休場」では等高線の間隔が広い平場となっており、その先も等高線をゆっくりと斜めに上る。10mほど高度を上げた後、等高線の間隔の広い尾根筋に入り、ゆっくりと高度を20mほど上げたところに「歴史の道 北山道 権若峠まで1000m」が立つ。

沢場;10時18分(標高530m)
「権若峠まで1000m」の標識から先、等高線の間隔も狭まり少し険しくなった尾根筋の道を等高線に垂直に60mほど高度を上げる。標高370m辺りからは尾根筋を離れ、592mピークの山を、トラバース気味に等高線を斜めに60mほど高度を上げると、雑草も幾分水気を帯びたものになり、その先で小さいながらも沢となって水を集める箇所に出る。谷側がちょっと崖っぽい。
登山の時期にもよるのだろうが、沢の前後に草が生い茂り道は見えない。踏み違えて崖に落ちるのは勘弁と、山側に道でもないものかと彷徨うが、それらしき踏み跡はない。結局ものと沢場に戻り、慎重に足元を確認しながら進むと、崖に沿って道が続いていた。草が茂ってなければ、道筋も見え、なんということもない道ではあろうと思う。

東西に延びる尾根筋が見える;10時33分
沢場のルート探しで時間をとったため、距離からすればほんの数分歩いたところで前面が開け、権若峠へと繋がる東西に延びる尾根筋が見えてくる。峠まであと少し。



峠手前の藪漕ぎ;10時36分
東西に延びる尾根筋を見たときには、峠に着いた、くらいのつもりでいたのだが、そのすぐ先で背丈より高い草が一面に拡がり道が消える。左手が一段低くなっており、そこを迂回するのかと取り付き口を探すが、足を踏み入れるようなアプローチもない。
地図には権若峠の表示もないため、目安として目指す方向もわからない。撤退?その言葉もちょっと頭をよぎる。が、もう少しもがいてみようと、地図を見る。登山口には権若峠は標高550mとあった。地図には西の592mピークと東の621mピークの間に結構広い鞍部があり、そこが標高550m。藪に阻まれた場所の目と鼻の先。そこが権若峠であろうと藪漕ぎに入る。
左手の一段低くなっているところに落ちないように、草を踏みしだき、撤退に備えてナイフで草を刈り、道を造りながら成り行きで藪を漕ぐ。と、進み始めて直ぐ草藪を抜け平場に出た。

権若峠;10時49分(標高550m)
平場は一部ぽっかりと草藪がないところがあり、そこに石標が立つ。「参勤交代 北山道」「歴史の道 北山道 権若峠」とあった。西端からは土佐が一望。太平洋まで見下ろせる。
帰りのルートの峠からの下り口をはっきりさせるため、藪から峠の平場に出た箇所の草を刈り込み、ピストン復路時の取り付き口を造る。藪から平場に出るときは問題ないのだが、平場から藪に復路で取り付き口がわからず苦労することが多いためである。刈込を終えて少し休憩をとる。
上記時刻では藪漕ぎから峠まで13分となっているが、これは逡巡・ルート探しなどあれこれ彷徨い、迷ったため。実際は数分、いや一分程度の距離かもしれない。
権若峠までの行動時間は釣瓶の登山口から実質1時間半といったところだろか。登山口には2時間半とあったが、結構ゆっくり歩いてもそれほどはかからないように思う。
権若峠
権若峠までのルート
「コンニャク峠」とも「ゴンニャク峠」ともある。「コンニャク峠」は「土佐地名往来」には「コン ニャクに類した食物の自生する峠」とも書かれており、『土佐の自然』の「参勤交代道(領石‐ゴンニャク峠)の自然と地誌、山崎清憲」の項には「土佐州郡誌には「菎蒻(コンニャクク」を当てている」とある。
コンニャクはゴンニャクとも言うとのことであるので、それなりに理解はできるのだが、『土佐の自然』には続けて「地名の由来はさだかでないが「国府村史」には、延喜官道の「五椅駅」を比定し、約音から転じたもので、頂上の広場を「オムマヤトコ」と記している」との記述がある。浅学のわが身にはこの説明がさっぱりわからない。

古代官道である南海道の駅には土佐の本山に「吾椅(あがはし)駅」があったとされる。五椅駅は「吾椅(あがはし)駅のことではあろうが、「あがはし」が約音(フランス語のリエゾンみたいなもの)から転じて(これも正確には「約音から転じた」の主語が何か不明ではある)、どうして「ゴンニャク」となるのか不明である。全国に「ゴンニャク」と称される山は他にもあるが、どれもその由来は不明となっている。
ついでのことながら、「転じたもので」と「頂上の広場を「オムマヤトコ」と記している」の繋がりも分からない。繋がりを無視すれば「ヤマトコ」は何となく「山床」のような気もするし、鞍部を表す美しい言葉と妄想する。なんの根拠があるわけでもない。
この権若峠を越えれば、土佐北街道に立ち塞がる峠はすべて越えることになるので、いつか土佐街道の峠と里道を繋ぐ折にでも高知の図書館を訪ねればなんらかの資料があることを期待する。

下山路に向け藪に入る;10時53分(標高550m)
水休憩をとり、穴内ダム側へと下ることにする。とはいいながら、下山側も背丈より高い草藪が茂る。草の向こうには木々が茂る。アプローチの目安はなにもない。根拠は何もないのだが、先回の撤退箇所から沢筋が伸びていたので、峠へと入り込んだ550m等高線の突端に向かうことにする。

境界標石;11時2分(標高550m)
強烈な藪を踏みしだき、戻りのために草を刈り先に進むと木立の茂る箇所に。草から木立に変わっただけで強烈な藪に変わりない。木の枝を折り、力任せに先に進むと標石がある(11時2分)。文字は読めないが頭部分が赤く塗られており境界標石のようにも思える。東西の尾根筋は北の香美市と南の南国市の境界である。

堀割道に出る;11時9分(標高550m)
こんな藪を延々と下るのか、などと気が滅入り始めた頃、突然目の前に掘割道が現れる。土佐北街道のルートであってほしいとの思いもさることながら、なんとなく藪漕ぎから解放されそうな予感が嬉しい。

土佐北街道の標識;11時11分
掘割道を下ると、すぐに道の左手に赤いリボンが巻きつけられた木立があり、「参勤交代 北山道」の標識も木に括られている。予想より簡単に土佐北街道に出合えた。こんなにしっかりと踏み込まれた道があるとは、先回の逆ルートの荒れ具合からして予想できず、外れた予想が誠に嬉しい。

沢筋右岸を進む;11時16分(標高540m)
よく踏み込まれほぼフラットな鞍部の道をゆるやかに下る。途中、龍馬をイメージしたような「土佐街道」の標識を見遣り、木に括られた赤いリボンに出合う辺りで南北を550m等高線で囲まれた鞍部を離れ、550m等高線まで切り込まれた沢筋上流端の右岸を540m等高線に沿って巻きながら進むことになる。 道から沢が見えるわけではないが、地図では沢筋との比高差は10mほどあるように思える。

鶏石;11時19分(標高540m)
沢筋右岸を数分進むと赤いリボンの道標があり、その先に大きな岩がみえてくる。「鶏岩」と書かれた標識が木に括られていた。由来などの説明はない。「鶏岩」を越えた土佐北街道は沢筋に向かって下ることになる。道はそれほど荒れてはいない。

沢筋に下り左岸に渡る;11時26分(標高500m)
沢筋へと、5分ほどかけて30mほど下ると右手に荒れた倒木地帯が見えてくる(11時25分)。周りは藪に覆われている。先回の撤退地点に近づいたようだ。
道はその先でささやかな沢を左岸に渡る、両岸には赤のリボンが木に括られたおり、沢を越えて先に進む。

先回撤退地点;11時31分
道が続いて欲しい、との思いは直ぐに消える。沢を越えてすぐ藪や倒木で道が完全に消えている。倒木で荒れた辺りに道が続いていたのだろうが、仕方なし。GPSを頼りに先回撤退地点まで藪漕ぎ、そしていくつもの倒木を乗り越え進むのみ。
藪漕ぎ・倒木乗り越え・倒木潜りではあるが、今回はターゲットポイントがはっきりしているため気持が楽である。先回はどちらに向かえば土佐北街道に出合えるかもわからないため撤退したが、今回は先回の撤退地点までは土佐北街道をトレースしているわけであり、力任せの藪漕ぎではあるが、先の見通しがついており、安心して進むことができた。
どこをどう進んだか、通りやすい箇所を進んだわけであり、このトラックログが土佐北街道とは思わないが、5分ほどで先回撤退した倒木に到着した。

参勤交代北山道の標識と土佐街道イラスト;11時40分(標高480m)
一応道は繋げた。いくつかの倒木の中で最も北にある倒木の北側には赤いリボンも木に括られており、この倒木まではオンコースとは思うのだが、ちょっと気になることがある。 先回この倒木で道が塞がれ、どこかにルートがあるものかと彷徨ったとき、倒木から少し戻った龍馬のイラストのある大岩の辺りから沢を右岸に進む方向にも赤だったか青だったか、ともあれリボンが木に括られていた。リボンの先にも大岩があるのだが、その先も荒れておりリボンもなく雨の中進む気力もなく元に戻った。今回も、なんとなく気になり再度チェック。結局道は見付からなかった。倒木へのルートが北街道のオンコースであるのだろ、と納得。

権若峠から穴内下山口まで

ルート繋ぎ地点から下山口まで

当時はこの地で土佐北街道のルートを繋ぎ終えたとし、ピストンで車デポ地に戻ったのだが、以下、下山口までを先回のメモの時刻を逆転し編集しなおして掲載する。なお、時刻は下山口から先回撤退地点まで実質20分もあったかどうか、といったものであり想定時刻は省略する。

以下は先回のメモの再掲。登山口から撤退地点まで20分程度でもあり、想定時刻は省略する。メモは時刻を逆転し編集し直し掲載する。

「参勤交代北山道」の標識
沢の左岸(というほどの沢でもないく、この辺りから水も消えるが)道を下ると「参勤交代 北山道」と書かれたプレートが木に巻き付けられている。その傍には赤と青のリボンもある。踏み跡らしき道を数分くだると次の標識に出合う。


参勤交代北山道の標識
杉に巻かれた赤いリボンとともに「参勤交代 北山道」の標識。杉の伐採地帯に入り踏み跡などはわからない。それらしき道を進むと杉に巻かれた青色のリボンがある、それを目安に道を下る。とはいうものの、道が消えているだけで、林道が目に入るわけでどちらにせよ、下山の心配はない。

登山口・参勤交代北山道の標識
荒れた杉林の伐採地を数分下り、水はながれてはいないが掘り込まれた沢筋に沿って下ると登山口・参勤交代北山道の標識のある下山口に着く。

これで土佐北街道の峠はすべてクリアした。後日、峠間を繋ぐ里道を辿り、土佐の城下町から愛媛の川之江まで続く土佐北街道を繋いでみようと思う。
四国霊場43番札所・明石寺から44番札所大宝寺までの80キロ近い遍路道を繋ぐ散歩も今回で最終回。当初、この遍路道の後半部、内子の辺りから大宝寺に辿るおおよそ40キロの途中のある峠越えだけのつもりではじめ、下坂場峠・鶸田峠越え、真弓峠・農祖峠越えルートで大宝寺に、更には44番札所大宝寺から45番札所・岩屋寺への打ち戻し無しの遍路道もカバーしたのだが、なんとなく収まりがよくない。
ついでのことならと、前半部40キロも歩き遍路道を繋ごうと43番明石寺のある卯之町から大洲、大洲から内子へと2回に分けて歩いたのだが、「接合箇所」手前で時間切れ。内子の町を離れ後半部の出発点である国道379号線・石浦バス停に抜ける水戸森峠越えの部分だけが残ってしまった。
遍路歩きの指南として活用させて頂いている「えひめの記憶:愛媛県生涯学習センター」では、水戸森峠越えの箇所は、高速道路建設の因もあるのだろうが、あまりはっきりとしたルートが記載されていない。さてどうしたものかと、ちょっと気になっていたのだが、先回の散歩で水戸森峠への取り付き口である、内子町五百木の松尾集会所を訪ねた時、集会所前に地域の方の努力で作られた水戸森峠越えのルート図案内板が建てられていた。

ルート図もわかり、距離も4キロ弱。標高も180mほどであり峠というか丘を越えるといったもの。ピストンで往復するといっても余裕だろう、とお気楽に歩を進めたのだが、これがとんでもない展開となってしまった。
ルート途中で獣除けフェンス外し・戻しに気をとられ、その傍にあった道標を見落としたため、水戸森峠からの下りは、あらぬ方向に進んでしまい、ために炎天下を遍路道探しに右往左往。最後には偶然に遍路道に出合い水戸森峠越えのルートもクリア。前半と後半部を繋ぎ終え、43番明石寺から44番札所大宝寺までのおおよそ80キロの遍路道を繋ぐことができた。



本日のルート;五百木・松尾集会所>水戸森大師堂>五百木農免道碑>道標に従い遍路道に入る>獣侵入防止のフェンス>水戸森峠>舗装道路に出る >遍路道>石浦大師堂(西光寺大師堂とも)>石浦バス停>舗装道と遍路道交差部に戻る>水戸森峠の切通箇所に戻る

五百木・松尾集会所;9時44分
松山道の内子・五十崎インターで下り、国道56号を少し北に進み、大洲の街並み、曽根城があったという丘陵先端部の切通し箇所で、中山川を渡る五城橋を渡り内子町五百木(いおき)の松尾集会所前に。
集会所の駐車場には長時間駐車はダメ、との告知があり、集会所前の道を、中山川に沿って少し北に進み、道が大きくカーブする辺りにある道脇のスペースに車をデポし、松尾集会所に戻る。

さて、遍路道確認のため城廻自治会文化部が平成27年(2015)に作成したとある「遍路道案内」を見ていると、地図作成者メンバーの方が声をかけてくれ、説明していただく。

上述の如く、遍路道指南として活用している「えひめの記憶」の遍路道案内には、この水戸森峠越えルートの説明は「現在の五城橋の50mほど下流で中山川を渡り、田の中の道を通って水戸森大師堂を過ぎると水戸森峠(みともりとう)の上り口に至る。(中略)ここから道は上りになる。ただ、水戸森地区は松山自動車道の通過点に当たり、道は場所により寸断、付け替えられているが、平成3年建立の遍路道標が峠を案内している。
その案内に従って進むと、やがて水戸森中腹の三差路に至る。ここに、元禄2年(1689)建立の県内で2番目に古い道標(内子町歴史民俗資料館保管)があった。右折すると富浦にある石浦へ通じる道である。ここから700mほどで峠の頂上に達するが、そこは眺望もよく、遍路が休憩するのに絶好の場でもあった。 水戸森峠の頂上から下っていくと石浦大師堂(西光寺大師堂ともいう)に至る。かつて接待や休息の場所として賑(にぎ)わったという大師堂の下段には、菅生山まで8里の徳右衛門道標⑩が他の石碑などと並んで立っている。
遍路道は石浦大師堂を過ぎ民家の間を抜けて進むと、バス停石浦で迂回(うかい)する小田川に沿って内子の町並みから進んできた遍路道(国道379号)と合流する」とある。

水戸森峠越えの遍路道
しかし、「平成3年建立の遍路道標が峠を案内する」といってもその場所が分からず、峠から700m手前の三差路に関しては、「えひめの記憶」に掲載の明治37年の地図にはそれらしき三叉路から石浦に続く道筋が見えるのだが、現在に地図にはその道筋は載っていない。
「水戸森峠を越えて小田川に至る山道は、明治40年(1907)発行の地形図からも、国道379号が開通するまで、人々にとっての重要な生活道であり、また遍路道でもあった(「えひめの記憶)」とあるように、当時は重要な往還道ではあったのだろうが、国道ができた現在、その存在意義が失われ、往還道は消え去り、その代わりに出来た林道・作業道が地図の主役となった故のことではあろう。

ことほど左様に、事前でのルート確認はできず、所詮は4キロ弱の峠、というか丘陵といったもので、成り行きで進んでも何とかなるだとうと思っていたのだが、ここにこんなにしっかりした道案内があり、しかも作成当事者からルート概要も説明頂いた。
これで何も心配なしと、お気楽に歩を進めたのだが、道途中にあった獣除けのフェンスに、獣ならぬ我が身がそのトラップに嵌り、遍路道を大きく逸れて、炎天下右往左往する始末となったのは後の話ではある。

水戸森大師堂;9時50分
松尾集会所から右に、集落の中に入り左に折れて坂道を少し上ると水戸森大師堂があった。
ふと思う。松尾集会所で見た地図には城廻自治会とあった。この中山川左岸は五百木地区、右岸が城廻地区である。何故に五百木地区に対岸の自治会名? ここからは単なる妄想。五百木村と城廻村は明治期の町村制施行時に両村から1字を取り、五城村となった。同じ村であったが故の「城廻自治会」との自治会名だろうか。
因みに、城廻は曽根城との関連でわかるのだが、五百木の由来は?部民制の五百部と関係あるのだろうか?不詳である。

五百木農免道碑;9時56分
ほどなく道は「八日市街並 1.0km 水戸森峠 1.2km」と書かれた木標の建つ箇所で左手から道がわ合わさる。松尾集会所脇から左手にぐるっと廻って来た道である(車をデポした川沿いの道は中山川に沿って上って行くので間違わないように)。
道を進むと立派な舗装道路に出る。松山道に沿って先に進むと、高速道路下を抜けるアンダーパスの手前に石碑があり、「五百木農免道」と刻まれていた。 脇にあった解説石碑には「国営大洲喜多農業開発事業により、四団地が達成され、これにより中山間地域を縦断する基幹農道を整備し、生産団地の高生産性農業を確立する目的で建設された」とあり、事業概要として「事業名 農業漁業用揮発税財源 身替農道整備事業(農免農道) 地区名;五百木地区 受益戸数;二百三戸」などとある。
農免道路って地域名を冠した道路名かとおもったのだが、上記、事業名からわかるように公共事業の事業タイプのことのようだ。えらく長い事業名だが、要は昭和28年(1953)に制定された「道路整備費の財源に関する臨時措置法」により揮発油(ガソリン)税の収入は、国道や県道の道路の整備に充てられる」とされたが、農林漁業用に使用されるガソリンは、仕事上の必要経費であるとして税金の「免除」が求められ、その要望に対し、税金の免除の替わりに農道の整備を行うということで発足した事業のようである。
道路は、昭和62年(1897)度着工、平成14年(2002)度完成。農業開発事業による生産団地の詳細は不詳だが、行政の資料に「大洲市を中心に実施された国営総合農地開発事業により開発された造成地については、落葉果樹及び草地等を主体とした利用を推進するほか、その他の山間部にある農用地についても、かき、 くり等の樹園地及び放牧地等を主体とした利用を確保していくことを基本とする」とある。このような造成地を繋いだ道と整備したということだろう。因みに解説にあった「中山間地域」とは「農村」と「農山村」を包括した呼称のようである。

道標に従い遍路道に入る;10時1分
高速道路のアンダーパスを潜り、道路に沿って農面道路を少し進むと、道の右手に石の道標があり、そこから農面道路の法面を斜めに進む道がある。「左 へんろ道」の側面には平成3年 城廻分・・(私注;以下、当日確認しなかった)」と刻まれている。先ほど松尾自治会で見た地図は平成27年(2015)よりずっと早い時期に道標を整備して頂いたようである。

獣侵入防止のフェンス:10時5分
ゆるやかな勾配の坂を上る。左手下に高速道路を見遣りながら坂をのぼると丘陵突端部となり、そこには「四国のみち」と「八日市街並み 1.5km 水戸森峠 0.7km」の木標が立つ。
丘陵突端を廻り込むと道は獣侵入防止のフェンスで遮られる。チェーンを外し・戻して先に進む。

水戸森峠;10時12分
道の左手下に果樹栽培の畑を見乍ら、道を辿ると、再び獣防止フェンスがあり、先ほどと同じくチェーンを外し・戻して先に進むと水戸森峠に着いた。
峠には四阿があり休憩もできる。四阿脇にあった案内には「水戸森峠 四国山地を東に眺めるこの山頂は、菅生山大宝寺(久万後)と、源光山明石寺(宇和町)のほぼ中間に位置します。水戸森峠は別名「安場の峠」とも呼ばれており、急峻な坂道を登りつめ、昔はこの辺りで一休みをしたものと思われます。
登り口の両地点には大師堂が祭られ、ゆきかう遍路さんが道中の無事を祈願したものと思われます。
この地は桜の名所でもあり、また山菜の豊富なところでもある為、憩いの場として親しまれています」とあった。

道標が見つからない
休憩するほど歩いてもいないので、ママ、峠から道を下ろうと、松尾集会所にあった四阿傍の道標を探す。が、見つからない。実のところ、道標は峠のすぐ手前、獣除けフェンスのすぐ傍に小さな切通しがあり、そこが東に下る道の分岐点であったのだが、フェンスのチェーン外し・戻しに気をとられ、そのすぐ右手にあった切通と道標を見逃していた。
この道標を見逃したため、炎天下の右往左往になってしまったわけである。

舗装道路に出る;10時25分
峠直ぐ手前にある石の道標、そこから東に下る道を見逃したため、結局道標が見つからないまま峠からの道を下る。結構立派な道が下っており、その時は、この道が遍路道と思い込み、道なりに下る。
北東に10分ほど下ると「たばこ栽培棟」だろう建物の場所に出る。建物の中を突き切る道と右へと廻り込む道がある。どちらもグルリと廻った後で合流するようであるので、とりあえず建物を迂回して下るとすぐに、立派な舗装道に出た。
炎天下の右往左往
舗装道路には下りたのだけど、松尾集会所にあった遍路道地図にある、道路を横切り国道379号沿いの石浦バス停に向かう遍路道が見つからない。今となっては、水戸森峠から下る道自体が間違い道であり、始まりの箇所から間違っているわけで遍路道が近くにあるわけはないのだが、その時はオンコースを下っているものと思っており混乱したわけである。
更に混乱に輪をかけたのが、舗装道路に下りたところにあった木標。「富浦バス停 0.7km 水戸森峠0.6km」と、西方向が富浦バス停、東方向が水戸森峠と示す。行きたいのは石浦バス停であり、富浦バス停ではないし、そもそもが、今下りて来た道が水戸森峠からの道であり、東に進むって、とういうこと?
これも後になってわかったことだが、石浦バス停には富浦バス停とも書かれてあり、同じところではあったわけで、それなら「富浦バス停」へと向かったのだろうが、その時は富浦バス停と石浦バス停が同じものと知る由もなく、富浦地区って結構広そうで、あらぬ方向に連れていかれそうで躊躇した(これもよく見れば富浦ではなく富長地区ではあったし、そもそもがバス停までの距離が0.7kmであり、冷静になれば「直ぐそこ」であることはわかったのだが。。。)。

ということで舗装道路に下りた辺りから道路を横断して国道に抜ける道があるはずと思い込み、右往左往。少し富浦バス停方向へと西に進むが道に沿って深い沢があり抜ける道はなさそうだ。東に戻るとタバコ栽培センター(これも前述生産団地のひとつだろか)がある。その敷地は台地端にあり、ひょっとすれば国道に抜ける道があるのではと敷地端をさ迷うが、抜ける道はまったく、ない。
松尾集会所で見た遍路道地図ではありえない場所ではあるが、たばこ栽培団地(仮称)を東に進むが、石浦バス停からどんどん離れてゆく。これはありえないと、峠から下りる途中で見たタバコ栽培棟まで戻り、建物の中を通る道を抜けるが、結局は地図にある通り、最初に下りた舗装道の少し東に戻るだけ。

炎天下1時間ほどの右往左往に疲れ果て、とりあえず富浦バス停まで下りて国道を石浦バス停まで戻ろうと、富浦バス停に向かって道を進む。しばらく歩くと沢筋から離れ東に突き出た丘陵突端を越えあたりに「遍路道」の案内があった。舗装同を横切り上下に踏み分け道があり、松尾集会所の地図にあった道標も道脇にあった。このルートが遍路道のオンコースであった。
その時は、峠から下る道のどこで踏み間違ったのか、と思っていたのだが、前述の如く水戸森峠のところで全く遍路道とは異なる作業道を下っていたことなど、その時は知る由もなし、ということであった。
師恩友愛碑
遍路道へのアプローチを探し右往左往しているとき、登り窯を見つけたり、「富浦バス停 0.9km 水戸森峠0.4km」の木標(この木標で水戸森峠への道は、国道379号側から前述農面道路などをへて水戸森峠に向かう道であろうということはわかったのだが、富浦バス停の疑問は残ったままであった)などに出合ったが、右往左往で唯一の成果といってもいい石碑に出合った。「師恩友愛碑」がそれである。
石碑脇にあった説明によると、「この地は旧五城村の中心地であった長岡山である。昭和十年五城青年学校が開校され、青年の鍛錬の場として県下の注目を浴びた。昭和十七年、愛媛県立女子拓殖訓練所が開設され、戦時(私注;汚れて読めなかった)の教育の場として全国に知られた。
昭和二十三年、義務教育六三制の実施により、村民の熱望と村当局(? 私注;汚れて読めず)の英断にて五城村立五城中学校が開校された。
昭和五十二年、八百余名の卒業生を送り出した学舎も町村合併により廃校となる。 ここに有志相図り記念の碑を建立し後世に残す 昭和五十四年」。

この石碑解説からわかることは、前述の明治期の町村制施行時に百木村と城廻村の両村から1字を取り成立した五城村の中心がこのあたりであった、ということ。その地に、「義務教育期間である尋常小学校(のちに国民学校初等科)6年を卒業した後に、中等教育学校(中学校・高等女学校・実業学校)に進学をせずに勤労に従事する青少年に対して社会教育を行う(Wikipedia)」青年学校が設立されたこと。
そしてなにより気になったのが女子拓殖訓練所。チェックすると、この女子拓殖訓練所とは満州開拓花嫁養成所として設置されたものと言う、満蒙開拓の定着推進のためには、開拓者の花嫁が欠かせなかったのだろう。実際一部の方は花嫁として渡満したとのことである。
こんな「中山間地域」で歴史の一端に触れるとは思わなかった。あたりまえだが、世の中にはまだまだ知らないことが多くある。

遍路道;11時19分
遍路道の案内があるところが見つかったのが、11時19分。おおよそ1時間ほど右往左往していたことになる。上に続く遍路道脇にある道標も確認し、とりあえず石浦バス停へと遍路道を繋ぐことにする。木立の中、遍路道の標識などを見遣りながら5分ほど下ると里に出た。

石浦大師堂(西光寺大師堂とも);11時24分
大師堂は扁額に「金栄山 西光寺」とある。西光寺大師堂とも称されるようである。素朴な造りの大師堂が多い中、この大師堂は細やかな木彫りの意匠で飾られていた。
お堂から美しい棚田を眺めながら一休み。お堂に佇む地元の方にお供えのお饅頭の御接待を受けた。毎月21日に地元の方が茶菓子を持ち寄り、大師堂に集うとのこと。当日は七月二十五一日。地域の方が三々五々おお堂に集まりはじめていた。子供の頃、祖母に連れられて近くの大師堂に行った記憶が蘇る。
徳右衛門堂標
お堂前には光明真言百万遍供養と並び徳右衛門道標が建つ。「是より菅生山迄はは八里」と刻まれる。菅生山は44番札所・大宝寺の山号である。手水鉢には天保十年の銘が刻まれる、とのことである。
●四国へんろ道案内 (4)
御堂の遍路道傍に「四国へんろ道案内 (4)」が建つ。「四国遍路の旅は阿波の"発心の道場"(1‐23番)に始まり、土佐の"修行の道場"(24番-39番)を経て、伊予の"菩提の道場"(40番‐65番)に入り、最後は讃岐の"涅槃の道場"(66番‐88番)を巡って結願となります。
水戸森峠を下ったお遍路さんは、この石浦大師堂に参拝し一休みしました。この大師堂では春の縁日には近郷の人びとがお米を持ち寄り、お接待をする習慣もあったようです。
また、旧暦3月21日と7月21日には、近在の力士達を集めて相撲が行われ、多くの客を集めていましたが、これらの風習もと絶え、近年は盆踊りが復活しています。
へんろさんはここからさらに歩を進め、小田川沿いに大瀬方面に向かい、曾我五郎・十郎の首塚を参詣した後、44番札所大宝寺(上浮穴郡久万町;私注;旧地名)をめざして足を運ぶのでした」とあった。

石浦バス停;11時32分
お堂で地元の方と少しお喋りし、ちょっと休憩の後、道なりに進み国道379号に出る。国道に面した福岡酒店の前に「四国の道案内図」があり、そこには現在地として「富浦バス停」とある。
小田川傍にある小屋建てのバス停には「石浦」と書いてある。石浦、富浦が混在なのか併在なのか、ともあれ、表記が統一されていなかった。山中での右往左往も「富浦バス停?石浦バス停」と分かっておけば、もう少し混乱がセーブできたかとも思う。
それはともあれ、本来はこれで43番明石寺から44番大宝寺までの後半と前半部を繋ぎ終えるはずではあったのだが、水戸森峠からの下り一部区間が抜けている。その部分をトレースすることになるのだが、車デポ地へのピストン行。いつもは少々ウザったいピストン行も、今回は誠にありがたく感じ、気持も軽く復路ルートを開始する。

舗装道と遍路道交差部に戻る;11時48分
国道379号から折り返し、石浦大師堂脇の「へんろ道案内」すぐ脇を進む。この箇所は左手にも道が伸びており、間違って進み途中で気づいて折り返した。ちょっと間違いやすいので注意が必要。
後は道なりに進むとほどなく舗装道と遍路道が交差する箇所の戻る。

水戸森峠の切通箇所に戻る;11時58分
道傍にある石の道標の「右 へんろ道」の案内に従い、斜めに上る踏み分け道に入る。杉木立の中を進むと林道にあたる。左に折れるとすぐに切通し。切通しを抜けると往路で出合った二番目の獣除けフェンス前。右には水戸森峠の休憩所に廻り込む道、足元の切通箇所には松尾集会所の地図にあったとおり石の道標があり、「右 へんろ道」と刻まれていた。

獣除けフェンスの開け閉めに気をとられ、この切通の道と道標を見逃したのが今回のドタバタのすべての因。よくみれば松尾集会所のへんろ道地図は、道標は水戸森峠あずまやに接してはいるが南に描かれている。休憩所あずまやの裏手にも廻り込み、道標や遍路道が見つからないと、あらぬ道を進んだのだが、まさか切通しがあったとは。切通から直ぐ上に水戸森峠の休憩(あずまや)が建っていた。
これで43番明石寺から44番大宝寺までの後半と前半部の未踏ルートも繋がった。あとは来た道を車デポ地に戻るだけ。

車デポ地に戻る
山道を下り、農免道路を下る。炎天下で結構疲れていたのか、知らず松尾集会所から農免道路に合流した箇所を見逃した。結局農免道路を下りきり、中山川に架かる田中橋を渡り、結構な遠回りでデポ地に着いた。峠越えのルート図があっただけで「勝った気になり」道を見落とし、散歩の最後でも合流点はわかるものと思い込み間違い道。気を抜いたらダメだよな、と改めて思った水戸森越えではあった。
難路・険路の馬道(炭の道)を悪戦苦闘し、なんとか小足谷川の谷筋に到着した。途中道を間違い40分ほどロスしたが、それでも4時間ほど歩いただろうか。聞いた話とは異なり、結構酷な道ではあったが、江戸の元禄の頃より明治の30年頃まで、別子銅山の中心として小足谷川に沿って開けた旧別子村の焼鉱・溶鉱に不可欠な薪炭を運ぶ道を実感できた。
往路は馬車道を大永山に向けて辿ることにしたのだが、この馬車道も数は少ないものの難所があり、谷筋の断崖箇所など危険度は馬道より高いルートではあった。
日も暮れ始め、どうなることやらと思い始めた頃、突然地図に記載のない林道に出合い、ギリギリセーフ。復路は3時間半ほどの散歩となった。




本日のルート;銅山峰登山道・目出度町分岐>トラス橋>ダイヤモンド水>高橋精錬所跡>劇場跡>徒河>石組で補強された平坦道に>木橋>朝日谷集落跡>広い平坦地・銅山川筋に出る>お地蔵さま>ロープ付の木橋>平坦地・下七番谷迂回地点>断崖>木橋>下七番谷を越える・最大危険個所>鉄塔巡視路標識>巡視路橋>巡視路橋標識と橋>鉄塔巡視路標識>藪道に>山側が開ける>植林帯に>林道に>県道47号に>車デポ地に戻る

小足谷川筋
銅山峰南嶺のこの谷筋は、元禄4年(1691)の開坑から大正4年(1915)に銅山の現地本部機能が東平に移るまで、別子銅山の中心として栄えた地である。開坑は元禄4年(1691)であるが、坑場整地のための森林伐採や人夫の小屋、金場(選鉱場)、勘場(事務所)、焼鉱の窯場、溶鉱のための床屋などの建設もさることながら、資材や食料、産銅の運搬路の開削に難儀したことだろう。 当時銅山峰北嶺は西条藩の立川銅山であり、天領の銅山峰北嶺からの往還はできない。ために開削道は「小足谷から弟地・筏津・保土野と銅山川を下り、海技一、二五六メートルの小箱越で法皇山脈を越え、勘場成から中ノ川・浦山を経て船着場の天満(現、宇摩郡土居町)に至る一三里余の山道で、岩石を削り谷を埋め、橋を掛ける難工事であった」、と言う(「えひめの記憶」)。

復路[馬車道)ルート
ところで、「旧別子」と言葉では子供の頃からよく聞くのだが、旧別子の別子銅山の概要についてはあまり知らない。いい機会でもあるので、以下「えひめの記憶」をもとに整理しておく;
「旧別子の藩政期の銅製錬;別子銅山は元禄四年(一六九一)に泉屋(住友)によって開かれた銅山で、はじめは嶺南の別子山村で稼行していたが、寛延二年(一七四九)嶺北の立川銅山を併合し、銅山峰一帯及び山麓地域で、採鉱や銅製錬が行われてきた。銅山川上流の足谷川に沿う谷あいは、元は無住の地域であったが、銅山の開坑により突如としてにぎやかな生産活動の場が出現した。

最初に開かれた坑道を歓喜坑といい、嶺北との境界をなす銅山越(標高一二九一m)から南へ少し下ったところ(同一二二〇m)である。選鉱場はこの歓喜坑前におかれ、歓喜坑付近が別子銅山の最初の本舗であった。また下財(鉱夫)小屋・砕女(鉱石を砕く女工)小屋・金場(選鉱場)・勘場(会計事務所)・御番所(山役人出張所)・銅蔵・米蔵・炭蔵などが建てられた。また製錬部門である窯場や床屋からは硫煙が立ちのぼり、険しい山道を越えて産銅を運ぶ仲持衆が往来した。
藩政期の別子銅山では、別子の山元で粗銅をとりだし、それを大阪に送って鰻谷の住友本家にある吹所で真吹して精銅を得ていた。精銅はさらに小吹により貿易用棹銅に加工され、また地売銅も作った。住友の業祖とされる蘇我理右衛門は、慶長年間(一五九六~一六一五)に開発した南蛮絞りの技術により、それまで日本では不可能であった銅と金・銀との分離に成功したことで知られる。

別子で行われた粗銅生産は三工程の作業からなり、それらは木方と吹方に大別された。木方は焼鉱を行う職種、吹方は製銅を行う職種で、いずれも後には製錬課とよばれた部門である。
工程の概要は、まず鉱夫が掘った鉱石を負夫が坑道から運び出すと、金場で品位八%程度以上の富鉱を選出し、これを約三cm角に砕く。これを焼窯に入れ、薪と砕鉱石を交互に敷き並べて三〇日~六〇日間蒸し焼きにする。これが木方の作業で、鉱石一三三〇㎏と薪五三〇kgから焼鉱一〇〇〇㎏が得られた。
こうして得た焼鉱を硅砂と混ぜて吹床(溶鉱炉)に入れ、木炭の火熱で溶解して銅分と不純物を分離する。溶鉱炉の中で不純物の鉄分は硅酸と化合して硅酸鉄となって浮き、炉の上部から流出する(鍰;という;私注「カラミ」と読む)。また銅分の硫化銅は炉床のくぼみにたまり、水で冷却すると皮状に固まるので鈹(私注;「カワ」と読む)とよばれた。鈹は銅分が三五~四○%で、吹大工が火箸で一枚ずつはぎとり、あとには床尻銅が残った。
鈹は再度硅砂と混ぜて真吹炉に入れ、木炭の火熱で不純物の鉄分や硫黄分を除くと、銅分九七%の粗銅が得られる。あとの二工程が吹方の作業で、焼鉱四〇〇〇㎏と木炭一〇〇〇㎏から鈹一〇〇〇㎏がとれ、また鈹二八五○kgと木炭二〇〇〇㎏から粗銅が一〇〇〇㎏得られた。このような製錬法を和式製錬といい、明治時代に洋式製錬法が導入されるまで続いた。
和式製錬では多量の薪炭を消費するため、それらの確保が銅山の経営上不可欠であった。このため幕府は、元禄一六年(一七〇三)に宇摩郡津根山村の一柳家五〇〇〇石を播州に転封して天領とし、別子銅山用薪炭材の給供地とした。しかし、製銅作業では粗銅一トンを得るのに約三トン(一五〇俵)もの木炭を消費したため、明治時代になると製炭の場は別子から二〇~三〇㎞も離れたところで行われた。西条市の笹ヶ峰登山道沿いにある宿は、こうした別子銅山用木炭の集散地であった。

明治期の旧別子
嶺南の足谷川一帯は別子銅山の発祥地で、鉱山集落はまず歓喜坑のある前山付近に成立した。明治時代中期には、山方・木方・風呂屋谷・永久橋・目出度町・見花谷・両見谷・裏門(炭方)・東延・高橋・小足谷などの部落があり、小足谷一帯は最も後にできた部落である。この地域を今は旧別子とよび、各部落は山腹の斜面を削り石垣を組んで、軒を接するように建っていた。 目出度町は旧別子の中心街で本舗ともよばれ、別子銅山支配人・役頭・舗方などが勤める重任局が、明治二五年(一八九二)までおかれた。旧別子地区の人口は、享保一〇年(一七二五)に三五一四人、明治二一年(一八八八)には四三八九人であったが、その後全盛期には一万三四〇〇人に達し、県内有数の大きな町であった。目出度町には別子山村役場・郵便局・接待館・駐在所・住友病院などがおかれ、養老亭や一心楼などの料理屋や料亭、小泉商店(伊予屋)・奥定商店(えびす屋)・雑貨屋・うどん屋などの商店が建ち並んで盛況をきわめた。
目出度町の対岸が木方で、尾根筋に焼鉱場、谷側の上手に木方部落、下手に溶鉱炉があった。焼鉱場の上の丘には元禄四年の開坑時に勧請した大山積神社が鎮座していたが、明治二五年(一八九二)目出度町に遷った。神社のあった丘を縁起(延喜)の端とよび、ここから旧別子の遺跡が見わたせるところから、現在はパノラマ展望台とよばれている。
木方製錬所から少し谷沿いに下ったところが高橋で、明治一二年(一八七九)に鈹をとる荒吹炉二基と、粗銅をとる真吹炉一基を建設した。この製錬所は、従来の吹子に代わって送風機を備えており、別子山中で初の本格的な洋式製錬所であった。また、吹床を洋式製錬では溶鉱炉というところから、高橋部落はヨーコロ部落とよばれた。なお、新居浜の惣開では訛ってヨーコロとなり、惣開に通う人をヨーコロ行きさんとよんだという。高橋の洋式製錬所は、明治三二年(一八九九)八月の大水害で溶鉱炉が倒壊し、事務所・作業所・倉庫なども流失して操業不能となったため閉鎖された(「えひめの記憶」)」とある。

嶺南の旧別子から嶺北の東平へ
これで旧別子の概要はわかった。次に別子銅山の中心が銅山峰南嶺の旧別子山村から、北嶺の東平に移る過程を整理する。馬道が不要となる時期を確認したいためである。

第一通洞(標高1110m)と「牛車道」で新居浜の口屋へと運ぶ;東延時代
開鉱わずか7年目の元禄11年(1698)には年間1521トンという藩政時代の最大の生産高(国内生産の28%を占める)に到った別子銅山は、財政不足の幕府の政策により決済を銀にかわって銅とした、長崎での交易の30%を占めるなど、幕政に大きく貢献するも、「深町深舗」と言う言葉で表されるように、坑道が深くなり採算が悪化。
幕末から明治にかけて閉山をも検討したと云われるが、住友は広瀬宰平翁などの努力により明治2年(1869)粗銅から精銅をつくる吹所を大阪から立川山村に移し輸送の無駄を省くなど合理化を進め、事業継続を決定。
明治7年(1874)、フランスより鉱山技師・ルイ・ラロックを招聘し鉱山近代化の目論見書を作成。論見書に従い鉱脈の傾斜に沿った526mもの大斜坑・東延斜坑(明治28)の開削、明治13年(1880)、別子山村と立川村、金子村惣開(現新居浜市)に精錬所を建設。そして明治15年(1886)には標高1110mの銅山峰の北嶺の角石原から嶺南の東延斜坑下の「代々坑」に抜ける燧道の開削着工し、明治19年(1882)に貫通。これが長さ1010mの「第一通洞」である。この通洞の貫通により銅山越(標高1300m)をすることなく鉱石・物資の輸送が可能になった。
第一通洞は、明治8年(1875)に着工し、明治13年(1880)に完成した新居浜の口屋と別子山村を結ぶ「牛車道」と角石原で結ばれ、さらには明治26年(1893)には第一通洞の銅山峰北嶺・角石原から石ヶ山丈までの5キロほどを繋ぐ日本最初の山岳鉱山鉄道(上部鉄道)が敷設され、鉱石の新居浜の口屋への輸送ルートが大きく改善される。

明治初期から開始された鉱山近代化により、別子銅山は窮地から脱し産銅量も明治30年(1897)には3065トンまで増え、第一通洞の南嶺口から高橋地区にかけの東延地区には運輸課、採鉱課、会計課、調度課などの採鉱本部や選鉱場や多くの焼く鉱路炉(高橋精錬所)などが並んだ。明治28年(1895)には別子山村の人口は12000人に達したとのことである。この時代のことを別子銅山の「東延時代」と称する。

第三通洞と索道そして下部鉄道により惣開へ;東平時代
明治32年(1899)8月、台風による山津波で大被害を被ったことを契機に別子村での精錬を中止し精錬設備を新居浜市内の惣開にまとめ、また明治35年(1902)に銅山峰の嶺北の東平より開削し東延斜坑と結ばれた「第三通洞(標高765m)」、明治44年(1911)に東延斜坑より嶺南の日浦谷に通した「日浦通洞」が繋がると、嶺北の東平と嶺北の日浦の間、3880mが直結し、嶺北の幾多の坑口からの鉱石が東平に坑内電車で運ばれ、東平からは、明治38年(1905)に架設された索道によって、明治26年(1893)開通の下部鉄道の黒石駅(端出場のひとつ市内よりの駅;現在草むしたプラットフォームだけが残る)に下ろし、そこから惣開へと送られた。
この鉱石搬出ルートの変化にともない東平の重要性が高まり、大正5年(1916)には、標高750mほどの東平に東延から採鉱本部が移され、採鉱課・土木課・運搬課などの事業所のほか、学校・郵便局・病院・接待館・劇場などが並ぶ山麓の町となった。その人口は4000とも5,000人とも言われる。

かくして別子銅山の中心は銅山峰南嶺の旧別子山村から、北嶺の東平に移った、ということで旧別子の整理メモを終え、復路のスタート地点があるという、別子銅山の劇場跡に向けて小足谷を下ることにする。

銅山峰登山道・目出度町分岐;13時21分(標高1,069m)
「木方・目出度町」分岐のある橋から少し下ると銅山の遺構案内。当時の写真と共にあった説明文に拠ると;
「木方吹所と裏門;足谷川に面して右の山側に建ち並ぶのは木方吹所(製錬所)である。この時点では高橋製錬所よりもこちらの方が産銅量は勝っていた。明治13年から生産が始った最初の湿式製錬所(沈澱銅)の施設であろう。巨大な両面石積の向こうは木炭倉庫で、その真上にも石積が天に突き出ている。当時の和式製錬では1トンの銅を作るのに4トンもの木炭を使っていた。木炭は食糧に次ぐ貴重な物で、従って銅蔵や木炭倉庫の建ち並ぶ鉱山の心臓部の入口は石垣や柵で厳重に囲まれていた。因みにこの辺りを裏門と呼んでいた」とあった。
木方集落
多くの焼鉱炉や建屋・住宅がびっしりと建っていたという。明治25年(1892)には目出度町から移った重任局(事務所)や勘場(会計)が建ち、小足谷川のは対岸と結ぶ多くの橋や暗渠があった、とのこと。
目出度集落
銅山の商店街といった場所で、今日のデパートにあたる伊予屋を始め料亭一心楼、鰻頭の奥定商店等々軒を連ね、更に郵便局や小学校まであり、銅山本部の下町的存在であった、と。

トラス橋;13時27分(標高1,057m)
数分道を下ると橋があり、銅山遺構の案内が;
「トラス橋の焼鉱窯群;この辺りの地名はトラスバシという。 正面にせり出している熔岩の様なものは製錬をして銅を採った残りの酸化鉄である。これをカラミ(鍰)という。
カラミがあるということは、ここにも製錬所があったという何よりの証である。 無数の焼窯が建ち並び、その前は溶鉱炉があった。このように別子銅山では古いものが新しいものへと、しばしば入れ替わっていた。
焼鉱の工程は、焼窯という石囲いの中に多量の薪と生の鉱石を交互に積み重ねて燃やすと1ヶ月ぐらいで硫黄が燃えて発散し、後に銅と鉄からなる焼鉱が残る。
続いてこれを荒吹炉に入れて、更に次の間吹炉に入れて淘汰すると、銅の含有率が90%ほどの粗銅となる。岩山の上に焼鉱用の薪が高く積まれていた」とあった。

ダイヤモンド水;13時35分(標高1,019m)
更に数分下り、ベンチや休憩所、お手洗い(冬期は利用不可)のある広場に着く。そこに勢いよく噴出する水がある。ダイヤモンド水と称される。案内には; 「高橋熔鉱炉とダイヤモンド水;古くはこの辺りの地名はタカバシであったが、明治12年(1879)頃この対岸に洋式の熔鉱炉が建設されてからはヨウコウロと呼ばれるようになった。
ところが戦後(昭和20年代)、別子鉱床の他にもう一層ある釜鍋鉱床というのを探し当てるためにボーリング探査を始め、ここでも昭和26年に掘削を行った。
予定深度まであと僅かの82mほどの所で水脈に当たり多量の水が噴出し、ジャミングという事故が起きてロッドの先端部分がネジ切れ、掘削不能となった。 ダイヤモンドを散りばめた先端部が今も孔底に残っているので、誰言うともなくダイヤモンド水と呼ばれるようになった。
明治10~20年代にかけて対岸の絶壁の上に焼窯という鉱石を焼く所があって、硫黄を取り去った後の鉱石は箱状の桶でこのレベルまで落とし、熔鉱炉に入れて粗銅を採っていた。最盛期にはこの辺り一帯に製鉱課の施設や木炭倉庫がひしめいていた」とあった。

高橋精錬所跡;13時42分(標高985m)
道を数分下ると対岸に立派な石垣が見える。下段石垣には「住友病院跡」と記された案内もあり、その対岸の石垣から崩れた暗渠も残っていた。
道脇の遺構案内に拠れば:
「高橋製錬所と沈澱工場;対岸の高い石垣は高橋製錬所跡である。この石垣は更に300m上流まで統いているが、この対岸には明治20年代になって建設された洋式熔鉱炉(左)と沈澱工場(正面)があった。
明治28年から政府は環境問題に規制を設け、製錬の際に出る鉱滓を直接川に流さないことにした。そこで製錬所前には暗渠を築いて流水を伏流させ、その上に鉱滓を捨てていたので、一時前の谷は鉱滓堆積広場になっていた。
それが、明治32年(1899)の風水害で堆積広場は流され、暗渠も大半が潰れて元の谷川に戻った。ここに残る暗渠は当時の様子をかすかに伝えている。
正面には沈澱工場といって、銅の品質が低い鉱石を砕いて粉末にし、水を使って処理する湿式収銅所があったが、明治32年の水害以降その設備が小足谷に移ってからは、目出度町の近くにあった住友病院が一時期移転していた。
※鉱滓:鉱石を精錬する際に生ずる不用物」とあった。

劇場跡;13時52分(標高953m)
深山幽谷、夏は沢登にいいところだなあ、などと思いながら先に下るとフラットな場所となり、その先は道に沿って石垣が組まれる。坂となっているためか石垣南端は結構な高さとなり、そこに登る石段も30段ほどもある。
道脇の案内には;「土木課(劇場)と山林課;別子銅山の近代化が軌道に乗りだすと、採鉱・製錬の生産部門と平行して、それを支える部門も増強されていった。
つまり、製炭と土木部門が大きなウエイトを占めるようになり、明治10年頃にはこの辺りの用地が造成され明治14年(1881)には、ここを起点とする車道が中七番まで開通し、夥しい坑木や建築資材・木炭等が牛馬車によって運び込まれた。
明治22年(1889)山林係が山林課に昇格し、左の石垣群が山林課、右の広い造成地が土木課になった。
土木課では明治22年に棟行20間、桁行10間、下屋を入れて延べ350坪もある巨大な倉庫を建てた。明治23年5月の別子銅山200年祭には、ここを劇場として解放し、上方から歌舞伎の名優を招いて盛大に祝った。以来、ここが毎年5月の山神祭には劇場として使われ、山内唯一の娯楽場となっていた」とある。

ここに記されている「車道」が往路の「馬車道」のことであろう。明治14年(1881)には中七番まで通じたとある。場所は劇場より少し上、小足谷川の対岸から進むとのことである。


復路[馬車道)


徒河;14時2分(標高956m)
小足谷川右岸に踏み跡を探し、それらしき場所を見つけ河原に下りる。橋はない。雨の翌日ということもあり、水嵩も増している。徒河できそうな場所を探し、河原の岩を投げ込み、飛び石をつくり川を渡る。
渡河地点は馬車道らしき踏み跡より少し上流。沢登りの高巻ではないが、斜面を上に向かって巻き気味に進み、安定した地点を川筋傍の踏み跡に下りる。

石組で補強された平坦道に;14時8分(標高950m)
少し進むと道は石組で補強された比較的広い道となる。道には電柱らしき柱も倒れている。馬車道沿いの集落に電気を送っていたのだろうか。






木橋が3つ続く;14時12分(標高950m)
広く安定していた道に木を渡した橋が現れる。木は朽ちており迂回。その先にも同じく2本の木を渡した橋(14時15分)がある。沢に下りて迂回。更にその先にも朽ちた木橋(14時16分)。地図を見ると等高線が山側に少し切り込んでいた。



木橋;14時27分(標高952m)

広い道が消えた樹林の中の山道を、川に向かって突き出した支尾根突端部に沿って進むと木橋が現れる。ここは山側を難なくクリア。その先には広い道が見える。






朝日谷集落跡:14時28分(標高955m)

広くなった道を進み、支尾根突端部を迂回すると前方に立派な石組みが見える。支尾根突端部を迂回した先では広い道が消え、台形状に切れ込んだ谷を道なりに迂回すると、石組みの馬車道下にも幾段もの石垣が谷に向かって続いている。 その時は、なにか集落でもあったのだろうか、などと話しながら進んだのだが、メモの段階で『山村文化』などを参考にチェックすると、そこは朝日谷集落跡であった。
朝日谷集落
明治5年(1872)前後より集落が形成された、と言う。元禄に開かれた別子銅山は小足谷川の上流部から集落が形成され、この朝日集落は最後にできた小足谷集落の一部とのこと。
小足谷川を挟んだ左岸の上前地区には職員が住み、左岸川沿いから右岸にかけての下前地区(朝日谷集落)には山林・土木関係の請負人や人夫、商人など30戸の家があったと言う。この石垣の上に棟割長屋が並んでいたのだろう。 この集落は別子銅山の機能が銅山峰南嶺の別子山村から北嶺の東平に移った大正5年頃(1916)から人が減り大正10年頃(1921)には集落はなくなったとのことである。
ちなみに先ほど見た電柱は、この朝日集落と関わりあるものだろか?

広い平坦地・銅山川筋に出る;14時38分(標高956m)
朝日集落跡の谷を抜け、少し荒れた広い道、石組みのしっかりした広い道(14時32分)、道の上下が石組みで補強された広い道を、おおよそ等高線950m等高線に沿った水平道を進む。道が小足谷川の谷筋から銅山川筋に出る辺りに小さな木橋(14時35分)があり、その先は広い平坦地となる。

お地蔵さま;14時41分(標高960m)
木々の間から左手に別子ダムの湖面をみやりながら、安定した道を進むと岩肌にお地蔵様が祀られる。「三界」とは読める。とすれば「三界万霊」と刻まれているのだろう。欲・色・無色界に彷徨うあらゆる霊を供養するお地蔵さまではあろう。
別子ダム
Wikipediaに拠れば、「高さ71メートルの重力式コンクリートダムで、工業用水・発電を目的とする、住友共同電力の多目的ダムである。
水、発電を主な目的とし、1965年(昭和40年)に竣工。ダム事業者は、住友グループの住友共同電力。ダムに貯えた水は同社の水力発電所・東平(とうなる)発電所に送水され、最大2万キロワットの電力を発生したのち、鹿森ダムに放流される」とある。
地図をチェックするとダム堰堤の少し上流から銅山峰を越え、一直線に国領川を堰止めた鹿森ダムの上流に点線が延び、足谷川(国領川の上流の呼称)とあたる箇所に発電所のマークがある。そこが東平発電所だろう。
また、点線は東平付近、唐谷川・柳谷川・寛永谷川方面からも延び、別子ダムからの線に合わさる。唐谷川・柳谷川・寛永谷川にも取水口があるとのことであり、その水も合して東平発電所に落としているのだろう。
因みに東平発電所の水圧鉄管は全国第二位の高低差と言う。端出場発電所の後を受け、別子銅山に電力を供給する目的ではあったようだが、別子銅山の閉山は昭和48年(1973)であるから、銅山とのかかわりは短期間であったことになる。端出場発電所導水路跡の崩壊路を辿ったことが懐かしい。
ついでのことではあるが、子供の頃この川筋にあった石組みの七番ダムに父と一緒に来たことがある。昭和4年(1929)に建設されたこのダムは、別子ダムのため水没したとのことである。

ロープ付の木橋;14時48分(標高965m)
石組で補強された道、左手に崖が迫る細路、右手に岩壁のある比較的広い道など、安定した道を進むと大きな沢が現れ、ロープが張られた木橋が架る。木橋はしっかりしており、ロープをしっかり握り橋を渡る。




その先の沢にも木橋(14時50分)が架かる。この橋もしっかりしており、足元に注意しながら橋を渡る。







平坦地・下七番谷迂回地点;14時57分(標高950m)
10分弱歩くと広い平坦地に出る。ここから深く切れ込む下七番谷を迂回するわけだが、これが結構厳しいルートであった。







断崖;15時7分(標高966m)
谷迂回のスタート地点は比較的楽な道ではあったが、10分ほど進むと岩壁に沿った細路となる。左手は比高差80mほどの断崖。高所恐怖症の我が身は道に這える草木を握りしめ先に進む。時に左手が開け迂回先の対岸が見えるのだが、先は長い。



木橋;15時13分(標高965m)
その先で小沢を渡るが、岩場と崖の間の道が狭まり足元が危うい。谷の最奥部に近づくと一瞬、比較的広い安定した道となるが、その先に木橋が架かる。木は朽ちており、沢を迂回。ここも結構厳しかったのだが、最大の難所がその先の下七番谷を渡る箇所に待っていた。


下七番谷を越える・最大危険個所;15時19分(標高970m)
谷最奥部、谷の左岸から右岸に渡る箇所に木橋が架る。木は朽ちており、谷を流れる水量も多く、岩場も滑りやすそう。結局、右側の岩壁に這える木立を見つけ、道の少し上段に上がり木橋の上流部を「高巻」。岩場の木を握り足元を確保しながら進むわけだが、結構緊張した。


鉄塔巡視路標識;5時20分(標高970m)
今回の散歩での最大の危険個所を渡り終えると、その先に住友共同電力の鉄塔巡視路標識がある。「高萩西線 31 32」とあり、地図を見ると送電線は最大危険個所の真上を進んでいる。鉄塔巡視路があり、ということは道も安定するだろうと期待。もう危険個所は結構。


巡視路橋1;15時22分(標高948m)
石組で補強された安定した道を進むと沢に橋が架かる。鉄塔巡視路として整備されており、橋も鉄のしっかりしたものであり、安心して沢を渡る。
その先にも木橋中央に鉄板を渡した巡視路橋がある。安心して進む。



巡視路橋標識2と橋3;15時27分(標高944m)
その直ぐ先にある鉄塔巡視路標識2(「高萩西線31 32」)を見遣りながら(15時25分)進むと、岩場を勢いよく水が落ちる沢がある。鉄塔巡視路故か、この沢も鉄の橋が架かり、安心して先に進む。




鉄塔巡視路標識3;15時29分(標高953m)
橋を渡ると右手の山が伐採され大きく開かれていた。その先、下七番谷が別子ダム向かって開ける辺りに鉄塔巡視路標識があった。「高萩西線 31 32」と共に別子ダム方向に「30」と記される。地図を見ると、この辺りから県道47号に向かって線が記される。鉄塔巡視路のようだ。

日も暮れ始め、先の展開が分からないため、ここで県道に下りる、という選択肢もあったのだが、パーティリーダーである弟はそのまま進むことを選択。4時半頃になって、どうしようもなければ県道に下りるとのことである。


藪道に;15時30分(標高949m)
そのすぐ先で道は藪となる。先ほど鉄塔巡視路から外れたわけで、仕方なし。藪を抜け、木立が遮る道を進む。
ザレた箇所を越えると植林地帯(15時34分)に入る。暗くて足元が危うい。道は倒木で塞がれる(15時41分)



山側が開ける;15時42分(標高956m)
その先で山側が崖崩れといった状態で山肌が露わとなり、右手山側が大きく開ける。








植林帯に;15時45分(標高948m)
明るくなった道も一瞬で終り再び暗い植林地帯に入る。暗く、そろそろライトを出そうかと思いながら進むと藪に入る。この先、車デポ地まで結構距離がある。さてどうしたものか、と思った時、道は突然林道に当たる。




林道に;15時53分(標高960m)
馬車道から林道に出る。地図に林道は記されていないので、思いがけないご褒美といった心境である。思わず笑みがこぼれる。







県道47号に;16時16分(標高874m)
林道を道なりに20分ほど進むと県道47号に出た。馬車道は?馬車道は林道に合流した後、二つ目の支尾根を廻りこんだ辺り(16時頃)で右に分岐し、中七番に向かって支尾根突端部・沢筋を迂回しながら中七番に向かって進むようである。
分岐点を見落としたが、わかったとしても、馬車道を進むことはできなかったように思う。県道を歩いても車デポ地まで30分ほどかかったわけで、曲がりくねった山道であれば1時間ほどかかるだろうから、日も暮れ危険だったかと思う。結果オーライ。歩き残した馬車道は後日カバーの予定

車デポ地に戻る:16時41分(標高986m)
県道を気持ちも楽に30分ほど歩き車デポ地の大永山トンネル南口に。これで本日の馬道・馬車道周回散歩を終える。繰り返して云うが、往路・復路共に平坦な水平路とは程遠い、難路・険路であった。

今回の馬道・馬車道散歩で、旧別子の土地勘がついた。幾度か銅山峰への登山道を上ってはいるのだが、旧別子の基礎的なことも知らず遺構を見遣り通り過ぎていた。いくつかある馬道といった燃料の道だけでなく、旧別子に残る、であろう鉱山経営のロジスティックス(補給)の道、例えて言うならば、生活に欠かせない水の道などを歩いてみようと思う。

暮れも押し迫った頃、弟から別子銅山の馬道(炭の道)を歩こうとのお誘い。馬道は江戸の頃から明治にかけて、粗銅精錬の焼鉱・溶鉱に欠かせない炭を運んだ道と言う。西条の笹ヶ峰北嶺から尾根筋を進み、大永山辺りから尾根をはずれ、水平道として旧別子の小足谷川筋に設けた粗銅精錬のための焼鉱・溶鉱所に薪炭を運んだ、とのこと。
馬道と馬車道(Google Earthで作成)
弟は笹ヶ峰から大永山辺りまでの馬道は歩き終えているようなのだが、それ以東は未だ歩いていないとのこと。既にその道を歩き終えた山仲間からの情報によると、平坦な水平路とのことで誠にお気楽に出かけたのだが、実際はとんでもない難路・険路ではあった。
また、復路は明治の頃開削された馬車道を小足谷川から車デポ地である大永山トンネル南口に向けて歩く、と。馬車道と言う言葉の響きから、これも平坦な道をイメージしていたのだが、難所・険路の数は馬道に比べて少ないものの、その危険度は馬車道が勝る、結構怖い道であった。よくよく考えれば、馬道は百年も前に廃道となったものであり(馬車道がいつ頃まで使われたか不明)、道が崩壊していても何も不思議ではなかった。

それはともあれ、廃道といえば、いつだったか明治の頃開削された青梅街道を歩いたことがあるのだが、東京では奥多摩の山奥、山梨近くまで行かなければ出合えない。そんな結構しびれる廃道歩きが、実家から1時間弱のところで少々怖くはあるが楽しめた。旧別子にはいくつもの馬道コースがある、という。来年のお楽しみがまたひとつ増えた。



本日のルート;大永山トンネル南口>小滝>尾根筋>馬道分岐>広い道に出る>最初の沢>2番目の沢>沢>広い道が現れる>沢と朽ちた木橋>沢>沢>登山道に合流>沢と朽ちた木橋>沢と朽ちた木橋>沢>平坦地>沢と木橋>鉄塔巡視路分岐点>間違い道を戻る>鉄塔巡視路を下る>右手に大きな滝が見える>銅山峰登山道に出る・目出度町分岐

大永山トンネル南口・車デポ地:7時43分(標高986m)
午前7時、かつて別子銅山の鉱山社宅・新田社宅のあった山根グランドに集合。国領川上流の別子ラインに沿って県道47号・新居浜別子山線を進む。鹿森ダムの上流で小女郎川を分け足谷川と名を変えた川筋を走る。川は支流を分け、西鈴尾谷川となった川筋に中鈴尾谷川が合わさる手前辺りから、山肌をヘアピンカーブでグングン上ってゆく。
昔走った頃に比べて気持ち道が広くなったように思うのは気のせい?などと考えている間にトンネルに入る。大永山トンネルだ。総延長1159.0 m、幅6.5 m、高さ4.5 m、平成2年(1990)11月開通。もっと昔からあったように思ったのだが結構最近のことであった。このトンネルの開通によって、陸の孤島であった銅山川筋の別子山村が愛媛の東予、西に下って徳島・高知と結ばれることになった。

長いトンネルを抜け銅山川の谷筋に出る。笹ヶ峰山麓の「宿」から尾根筋を進む「馬の道(炭の道)への取り付口は、この大永山トンネルの南口から。トンネルを出たすぐの広いスペースに車をデポし尾根筋へと向かう。

小滝;7時58分(標高1.003m)
銅山川上流部、中七番川に沿って進む。等高線にほぼ平行に平坦な植林の中を10分強進むと、中七番川のナメ滝脇に出る。 沢に沿って等高線を斜めに、緩やかな傾斜の道を10分強歩き沢右岸に渡る(8時16分)。その先も等高線を斜めに緩やかな山道を20分ほど進むと尾根筋に出る。



尾根筋・馬道合流8時35分(標高1,185m)
登山道と尾根道はT字に合わさる。その尾根道は西条方面から続く馬道でもある。馬道は「炭の道」とも呼ばれる。銅山嶺南麓の別子銅山の粗銅精錬(当初山元でつくられた粗銅は大阪の吹屋に送られ銅とした)に必要な炭を運ぶ道である。当時、粗銅1トンを作るには鉱石?トン、薪6トンと木炭4.8トンを要したという。

「遠町」
元禄3年(1690)、旧別子山村の足谷山に銅の大鉱脈を見つけ、翌元禄4年より開坑された別子銅山は、江戸中期(17世紀中頃から18世紀中頃まで)には「遠町深舗」と称される鉱山固有の現象のうち、特に「遠町」と呼ばれる状況に直面する。「遠町」とは周辺の森林が伐採され尽くし、焼鉱・溶鉱に必要な薪炭が不足することを意味する(「深舗」は坑道が深くなること)。
旺盛な焼鉱(窯場)・溶鉱(床屋)のため、開坑の地、旧別子村の森林が薪炭の確保のため伐採され、またその焼鉱の過程で発生する煙害(流煙;亜流酸ガス岳による森枯れにより、「遠町」の状況に直面し、新たに薪や炭の供給地が必要となった。

加茂川最奥部からの炭の道
西条から旧別子までの馬道(Google Earthで作成)
供給地はいくつもあったろうが、その一つが西条の加茂川最奥部の集落。中之池、黒代、川来須、笹ヶ峰周辺で焼かれた炭を、天ヶ峠を越え、笹ヶ峰北麓の「宿」の集積所に集める。そこからチチ山北麓を巻き、西山越から大阪屋敷越を経てこの地に至り、複数の道を辿り奥窯谷(目出度町分岐先の小足谷川の谷筋だろう)から高橋精錬所(この精錬所は明治にできたもの)辺りにあった溶鉱炉、というか焼鉱のための窯場・溶鉱のための吹床屋に運ばれたようである。
宿
炭の集積所であった「宿」には馬方人足の長屋が建ち並んだとのこと。二百名もの人足が八十頭もの馬を使い、一日一往復の行程で炭を銅山に運び、帰りは銅山子購買所で味噌・醤油を持ち帰った(「親子三代笹ヶ峰物語」)とのこと。 ◆炭の道の終焉
江戸中期よりはじまった馬道(炭の道)も明治30年代にはチチ山北麓が大崩壊し道が寸断され、明治38年(1905)には焼鉱・精錬所が瀬戸内の四阪島に移るに及び、馬道(炭の道)はその役割を終えた。

大阪屋敷越
馬道のルートに登場した大阪屋敷越は、地図をみると登山道と尾根筋合流点のすぐ西にある。当初、馬道途中の中継地かと思ったのだが、チェックすると、この地名は別子銅山ではなく、立川銅山に関りのある地名であった。
大阪屋とは大阪屋久左衛門という立川銅山の経営者の屋号。別子銅山開坑の数十年前に綱繰山西麓に開坑し、その小屋がけを大永山トンネル北の稜線にした、とのこと。その場所が大阪屋敷越辺りのようである。
別子銅山開坑の頃は、尾根の稜線の北は西条藩、南は天領であり、立川銅山は西条藩内にあった。その後、宝永元年(1704)立川銅山のある立川村は幕領になり、立川銅山も宝暦12年(1762)別子銅山に吸収合併された。
なお、大阪屋は拠点を東北に移し、明治まで鉱山を経営し、大商人として活躍したようである。

馬道分岐;8時49(標高1,198m)
登山道とのT字合流点から尾根筋を5分程度進むと「銅山越え 笹ヶ峰」と書かれた木標が立つ。ここが馬道分岐とのこと。
ひとつは道なりに進み尾根筋の少し南や北を巻き気味に、金鍋越を経て綱繰山(標高1466m)に向かい、西山(標高1428m)手前から銅山嶺北嶺を小足谷川筋に向かって下ってゆく。
もうひとつのルートは今回我々が辿る道。標識の右手の藪に入り、おおよそ等高線1200mから1250m辺りを「水平」に進み、最後に小足谷川筋に下る。小足谷川の谷筋の上流部は奥窯谷と呼ばれるようだし、明治に造られたものではあるが高橋精錬所などがあるので、一帯に焼鉱(窯場)・溶鉱(吹床屋)があったのだろう。

広い道に出る:8時55分(標高1,197m)
木標から数分はしっかり踏み込まれた道ではあるが、藪となっている。藪が切れると道が切れ、ザレ場(8時53分)となる。馬道は平坦な水平道との話であり、イメージでは別子銅山上部鉄道跡の道を思い描いていたのだが、ちょっと話が違うようだ。
が、ほどなく平坦な広い道に出る。雪が残る広い道は5分以上続き、これが続くのか、とは思ったのだが、残念ながら再び道が切れる(9時4分)。

最初の沢;9時15分(標高1,194m)
切れた道を自然林の中、斜面を進む。10分弱進むと、沢というか岩場から水の落ちる箇所に出る。昨日の雨の影響だろうか。尾根筋とは比高差100mほどあるのだが、岩場の上は開けて見えた。









2番目の沢;9時27分(標高1,207m)
支尾根を岩場に沿って迂回し進む。10分ほど難路を進み、沢を越える。先ほどの沢というか、岩場よりは「沢」っぽい。







沢と朽ちた木橋;9時46分(標高1,190m)
倒木で塞がれた道を進み、支尾根を廻り込み進む。笹に覆われた箇所、豪快に根元から抉れた樹木などバリエーション豊かな難路を20分ほど進むと、比較的広い道に出る。
広い道のその先に木橋があった。木は朽ちており、沢に下りて木橋を迂回。橋の両端はしっかりと石が組まれていた。

広い道が現れる;10時2分(標高1,194m)


木橋を迂回した先はザレの度合いが酷くなってくる。時に右手が谷に切れ込んだ箇所もあり、気が抜けない。平坦な水平路とは程遠い難路である。10分強歩き、支尾根を廻り込むあたりでしっかりとした広い道に出る。




沢と朽ちた木橋;10時9分(標高1,201m)
5分ほどしっかりした道を進む。
先に木橋がある。2本の木を渡しているが、朽ちており、沢に下りて迂回することになる。








沢;10時14分(標高1,208m)
5分ほど進むと沢。これも、前日の雨水が岩場を落ちている、といったものではある。沢の先は難路と平坦路が交互に登場。ザレた斜面あり、岩壁下の道あり、しかりした平坦路あり、岩場と急斜面のザレ道コンビネーションありと、バリエーション豊かではあるが、楽にはさせてくれない。


沢;10時34分(標高1,247m)
20分ほど難路・平たん路混在の道を進むと木橋の架かる沢に出る。二本の木を渡した橋はこれも朽ちており、沢を迂回。







登山道に合流;10時39分(標高1,240m)
沢筋から5分ほどで登山道に合流。登山道は左手に進むが、右手の支尾根があり、そちらに馬道があるかどうか確認する。支尾根突端に出るも、それらしき道もなく、合流点に戻り、左手の登山道を進むことにする(10時54分)。



沢と朽ちた木橋;11時2分(標高1,263m)
ここからは等高線1250mに沿って、少し南を進むことになる。比較的平坦な道を5分強進むと二本の木を渡した木橋があった。ここも木は朽ちており、沢に下りて迂回。





沢と朽ちた木橋;11時15分(標高1,225m)
沢を迂回した先は結構厳しい道となるが、数分で結構平坦な道(11時6分)となる。平坦な道は10分弱続いただろうか。その先の平坦な道に木橋が架かる。いままでのパターンでは、沢に近づくと道が崩壊していたのだが、ここは道が残り、そこに橋が架かる。二本渡された木橋は、朽ちており沢に下りて迂回する、

沢;11時22分(標高1,241m)
厳しい斜面のザレ道を5分ほど進むと再び二本の木を渡した橋がある。なお、定かな場所は不明だが、この辺りに中七番から上ってくる「炭の道」が合流していたようである。





平坦地;11時32分(標高1,202m)
そこから10分ほど厳しい斜面のザレ道を、木々につかまりながらクリアすると、広い平坦な箇所に出る。地形図で見ると1200mと1210m等高線の間隔が結構広くなっている。馬も一息つけるようなスペースである。




沢と木橋;11時44分(標高1,191m)
平坦地から5分ほどおだやかな道を進むと、三本の木を渡した木橋がある。ここは結構しっかりした木橋のようだが、安全のためここも沢を迂回する。






鉄塔巡視路分岐点;11時57分(標高1,185m)
その先もしっかりした広い道が続く。石組で補強された箇所もある。10分強歩くと送電線鉄塔標識が見えてきた。住友共同電力の標識で、「34号 35号 と記されていた。高萩西線送電線の鉄塔であろう。
何時だったか端出場発電所導水路跡を歩いたとき、「住友共同電力高萩西線48番鉄塔」があったので、北に向かうほど鉄塔番号が増えるようである。
ここで道が複数現れる。上側にしっかり踏み込まれた道、その下に鉄塔巡視路といった道がある。どちらを進むか少々迷う。結局上の道を進んだのだが、オンコースは鉄塔巡視路道であった。

間違い道を戻る;12時47分
上段の道はしっかり踏み込まれている。幅も広く安定しているのだが、道は1200m等高線に沿って少し上り気味に進んでゆく。大雑把なルートとしては小足谷川の谷筋に向かって下っていくはずではあるのだが、これでは谷筋と同じ比高差を保ったままである。
小雪も舞ってきた12時20分頃、弟が先の支尾根辺りを偵察に行き、無難に谷筋に下りルートは無いと判断し撤退を決める。来た道を20分ほどかけて元の鉄塔巡視路分岐点まで戻る。鉄塔巡視路分岐点で少し休み、13時前に鉄塔巡視路を下る。

鉄塔巡視路を下る;12時50分(標高1,185m)
石組みで補強された道を数分下る。小雪舞い散る道脇には鉄塔巡視路標識が3つ現れる(12時51分、12時58分、13時2分)。3番目の巡視路標識には「35 36」と記されていた。





右手に大きな滝が見える;13時16分(標高1,086m)
等高線に沿って、または斜めに緩やかに10分強、比高差100mほど下ると右手樹林の間に比高差のある巨大な滝が見えてくる。小足谷川も指呼の間となった。






銅山峰登山道に出る・目出度町分岐;13時21分(標高1,069m)
と、坂の下に建屋らしきものが見える。確認のため下るとそこは用水施設跡といったものであった。それよりなにより、そこまで下りてはじめて、弟達は、そこが見知った銅山峰登山道であることがわかったようであった。
小足谷川筋に出ると橋が架かる。小足谷川を渡ると「木方・東延」ルートでの銅山越えの登山道、川の右岸をそのまま左に上ると「大山積神社・目出度町」ルートでの銅山越えの道。右手にも橋が架かっているが、この沢が奥窯谷かもしれない。ともあれ、この谷筋が元禄4年(1691)、泉屋(住友)によって開かれた別子銅山発祥の地である。
江戸から明治・大正初期まで別子銅山の採掘・選鉱・焼鉱・溶鉱がこの谷筋の各所で行われ、それ故にいくつものルートを通り、焼鉱・溶鉱に必要な薪炭がこの谷に向かって運ばれてきたわけである。

今回そのうちのひとつのルートを辿ってきたのだが、話に聞いていた平坦な水平路とは程遠い難路の馬道(炭の道)であった。明治30年(1897)頃には燃料も炭からコークスに変わり、明治32年(1899)に新居浜市内の惣開に移るに及び馬道(炭の道)もその役割を終えたわけで、廃道となって100年以上経過しているとすれば、当然といえば当然のことではあった。
今回のメモはこれでお終い。復路のメモは次回に廻す。
先回のメモは河口集落から峰入りし、今宮登拝道から尾根筋、そして今宮登拝道に戻る王子社道を辿り第七王子社から第二十王子社を辿り石鎚神社中宮・成就社まで登った。当初単独行での計画では、成就社からロープウエイで西之川谷筋の下谷まで下り、河口の車デポ地まで徒歩で戻る予定であったが、弟や山仲間はそんな軟な行動を考えるはずもなく、戻りは黒川登拝道を下るとのことになった。
事の成り行きで一緒に黒川道を下ることにしたのだが、道らしき道は里に近づくまで一切なく、黒川谷のガレ場、ザレ場を延々と下るルートであった。黒川道は小松藩領・横峰寺の信徒の登拝道であり、往昔、西条藩・前神寺や極楽寺の信徒が登る今宮道や三十六王子社ルートより多くの人が登った道とのことだが、今となっては、道を踏み固める人も無く、安全確保の虎ロープのオンパレードといった荒れた道ではあった。
比高差1200mの往路での上りに5時間ほどかかったが、下りであるにもかかわらず4時間程かかってやっと下山。メモをしようにも、王子社といったポイントも何もなく、蔵王権現の石像が残る行場跡が一カ所のみ。時に沢(黒川)に落ちる滝が現れるものの、その他はガレ場・ザレ場、崩壊地が延々と続く。といったルートであり、果たしてメモができるものかどうか少々心もとないが、ともあれメモを書き始めることにする。



本日のルート;石鎚神社中宮・成就社>>八大龍王社>展望台に:11時52分>展望台出発;12時26分>黒川道アプローチ地点;12時50分>笹からガレ沢に;12時54分>成就社への道標:13時7分>第一リフト交差;13時9分>支尾根の間の沢に水管>右手に黒川が滝のように下る;13時29分>石組の道;13時35分>正面に滝が落ちる;13時39分>蔵王権現の石仏;13時55分>王子道の尾根筋が見える;13時58分>崩壊地;14時10分>成就社2.5㎞の標識;14時18分>沢を渡る;14時41分>成就社まで2,750m標識;14時45分>杉林が見えてくる;14時55分>上黒川集落;15時25分>石灯籠とお地蔵様;15時34分>「成就社 5.0km標識」;15時39分>下黒川集落;15時42分>下山;15時58分>烏帽子岩;16時4分>横峰寺別院;16時12分>河口の車デポ地;16時12分

石鎚神社中宮・成就社
八大龍王社の傍にある第二十稚児宮鈴之巫王子社の左手にある見返遥拝殿から石鎚のお山・弥山に拝礼し本殿に。本殿は昭和55年(1980)の火災で焼失。昭和57年(1982)に再建されたようである。本殿の前に立つ少々小ぶりな鳥居は二の鳥居のようである。
既に何度かメモしたように、ここはもと前神寺の石鎚山修験道の根本道場であった。「常住」と称されたとのことであるので、通年で修験行者できる拠点ではあったのだろう。石鎚神社中宮成就社となったのは明治3年(1870)の神仏分離令により蔵王権現号を廃し石鉄神社が誕生してからのこと。明治8年(1875)には前神寺所管の土地建物など一切が石鎚神社の所有となった。
このことにより、奈良時代より石鎚山信仰の中心であった別当寺・前神寺は廃され、里前神寺は石鎚神社の本社となり、石鎚中腹にあり信仰の重要拠点でもあったこの地、「常住・奥前神寺」も石鎚神社に移され、名も「成就」と改められ、成就社となった。

石鎚のお山には子供の頃から幾度となく上っている。成就社も幾度も訪れている。しかし、この社と前神寺の関係、この地が小松藩と西条藩の境であるが故の横峰寺との争い、横峰寺信徒による「常住」打ちこわし事件など、今回の石鎚三十六王子社散歩を終えてメモする段階になるまで、まったく知らなかった。ちょっと「深堀り」すれば、あれこれと知らないことが登場する。実際散歩の後のメモは少々時間が取られはするのだけれど、散歩の原則「歩く・見る・書く」を改めて思い起こす。
常住
石鎚のお山は、本邦初の説話集である日本霊異記に「石鎚山の名は石槌の神が座すによる」とあるように、山そのものが神として信仰される山岳信仰の霊地であった。山岳信仰伝説の祖・役行者が開山との伝説もある。その霊山に役行者の5代の弟子・芳元(讃岐の生まれ)が大峰山で修行の後、石鎚山に熊野権現を勧請し、石槌の神は石鎚蔵王権現として信仰されることになる。奈良時代のことという。
その芳元と同じ頃、『日本霊異記』では「寂仙」、『文徳実録』では「上仙」、また前神寺や横峰寺の縁起には常仙とも石仙とも称される高僧が山に籠もって修行に努め登拝路を開き、前神寺(横峰寺も)開いたと云う。この場合の前神寺とは「常住」の地に開いたお寺ではあろう。
現在石鎚神社本社・口之宮は、もとは里前神寺のあった場所であるが、これは江戸の頃建立されたもの。前神寺は石鎚山の別当寺であり、また四国霊場の札所でもある。その前神寺が石鎚山腹にあるのは、参拝に少々不便なため、庶民の参詣が盛んとなった江戸時代に新居郡西田村(現西条市)の山麓に新たに前神寺を建立したわけである。
神仏分離令により一時廃寺となった前神寺であるが、明治11年(1889)現在の地に前記寺、後に前神寺として旧名に復し石土蔵王権現信仰を継承した。
石鎚神社常住社(現成就社)となった常住・旧奥前神寺も、前神寺が復したため再建されることになる。一時河口と成就を結ぶ登山道脇に再建されたようだが、ロープウェイ開通によって登拝の流れが変わったため、昭和45年(1970)前神寺奥の院として現在地に移したとのことである。
常住から成就
『石鎚 旧跡三十六王子社』には「古伝に石鎚山開祖、役の行者が、今宮の八郎兵衛を道案内として、此所に登山し久しく参籠し池を掘り(宮川旅館裏にあり)毎日この池で禊(みそぎ)をして心身を清め、石鎚大神の神霊を拝さんと祈願したが其の霊験なく、力つきて下山しようとした時白髪の老人が現はれ斧を砥石で磨いているので、その故を問うと老人答えて曰く「之は砥いで針にするのだ」この言葉に感じ挫折してはならない、成せばなると心に言い聞かせ再び行を続け石鎚大神の霊験を得て、石鎚山を開山し此所に帰り、(遥かにお山を見返し、吾願い成就せり)と、仰ぎ拝したと云う。故を以って以来成就社と名づけられ、見返り遥拝殿の由緒でもある」とある。
ここには「常住」の文字はない。が、上のお話は少々「出来過ぎ」のように思える。「常住」>「成就」、「音」が似通っていることからの後世の創作であろうか。
十亀宮司の像
境内にメガネをかけた銅像が立つ。江戸の末期には既に踏まれることもなくなった石鎚三十六王子社に再び光をあてた人物、石鎚神社宮司・十亀和作氏の像である。「石鎚信仰は里宮本社、中宮成就社と石鎚山奥宮頂上社からなる。その道中石鎚霊山にちなむ三十六王子社が祀られるが、現在は唯掛け声として唱えられている伝語であるが、両部神道(「仏教の真言宗(密教)の立場からなされた神道解釈に基づく神仏習合思想(Wikipedia)」)の名残をとどめ、将来も石鎚信仰から消え去ることはない。
しかしそれだけではなんの意味もなく、これを究明するのが責務。各方面からの要望もあり、往古役行者より代々の修験者の、足跡を足で歩いて直に踏み訪ねる(『石鎚信仰の歩み』)」と昭和38年(1963)に企画し、社蔵の古文書や、古老の口碑、各王子社に建つ昭和六年十一月と記した石標(大十代武智通定宮司の時代)を元に現地踏査し、「何百年かの間、時代の変遷とともに登山道が逐次変更され、一部の王子を除いて殆ど日の目を見ない辺鄙と化していたため、探し当てるのは容易でなかった」王子社を46年(1971)に調査し、昭和47年(1972)に『石鎚山旧跡三十六王子社』として発行された。今回歩く石鎚三十六王子社はこの調査の結果比定された王子社である。

アプローチ地点を探す

八大龍王社
さて、黒川道へのアプローチ地点を探す。弟が昔黒川道を上ってきたときは、展望台のあるスキー場第一リフト辺りに這い上がってきたようであり、沢筋を辿ったわけではないようで、第二十稚児宮鈴之巫王子社の横にあった八大龍王の御池の水が黒川の源流と云う事でもあり、八大龍王の祠周辺になにか痕跡はないものかとチェックに動く。
地形図で見る限り、八大龍王の裏手、スキー場第一リフト(普段はロープウエイから成就社に向かう観光リフト)から成就社に続く遊歩道の途中から、如何にも沢筋らしき切れ込みが丁度黒川を示す「実線」辺りまで続いている。遊歩道のどこからか下れる箇所を探したようだが、見つからなかった、と。
八大龍王社
神社の案内に拠ればその由緒には、「石鎚山中では〔水〕は大変貴重であり、ここ成就社では、往古より八大龍王神が水を司る神として奉斎されてきた。開山の祖、役行者の勧進とも伝えられる。


ご祭神故か女性参拝者も多く、厳しい天候の中も祈願を行う方が絶えない。脱皮から再生復活、水遠の命や若返りのご神徳、七生報国の由来ともされる。 古来の八大龍王社殿横には御神水の湧き出る泉がある。砲台地形の成就社境内での不思議の一つと数えられる。この泉は役行者が襖(みそぎ)をした、とも伝えられ、黒川谷の源流でもある。
昭和55年の成就社大火にて八大龍王社は焼失したが翌年再建立され、平成21年春には再び建立された。八大龍王社のおかげ話を始め、成就社大火後の御遷座時にまつわる不思議な出来事などは、現在でも当時の方かち直接伺い知ることが出来る。霊峰石鎚山 総本宮 石鎚神社」とあった。

本殿廻りの遊歩道から展望台に;12時37分
八大龍王社から本殿をグルリと一周する遊歩道もあるようだが、我々はその遊歩道の逆回り、本殿北端を崖下に注意しながら進む。ほとんど本殿裏といった場所を進み、スキー場第一リフト方面からの道が遊歩道に当たるところに小さな鳥居が建つ。



展望台に:11時52分(標高1414m)
遊歩道の鳥居に向かってスキー場リフト方面から家族連れが道を上ってくる。右手の崖から下りる道は無いかとチェックしながら進むが、そのような箇所は見当たらない。結局スキー場第一リフトまで進み、リフト職員に黒川道のアプローチを尋ねるが、崩壊地が多く通行止めとのこと。
弟にしてみれば、スキー場第一リフトに沿って斜面を下れば黒川道に出ることはわかっているのだが、通行止めと伝えられた職員の眼の前を、リフトに沿って下るわけにもいかず、昼食も兼ねて展望台で大休止することにして、別のアプローチ地点を探すことにしたようだ。
展望台から瓶ヶ森の美しい稜線を眺めながら、同行したご夫妻の奥様による手料理をごちそうになる。単独行の場合は、粒あんのアンパンか柿の種がメーンディッシュのわが身には、卵焼きなど誠に美味しい昼食となった。

展望台出発;12時26分
お昼を済ませ展望台を出発。黒川道への手掛かりは依然不明ではあるが、弟は成就社からロープウエイ乗り場までの遊歩道から下る道を探す方針だったようである。






黒川道を下る


黒川道アプローチ地点;12時50分(標高1,393m)
12時44分、成就社境内を離れ遊歩道を下る。5分程度お気楽に道を下っていると、突然弟が何か「ノイズ」を感じたらしく、道の左手の笹の中に入る。
しばし様子眺めの状態のあと、笹から姿を現し、「どうもこのルートらしい」と。僅かに踏み込まれた笹の中に、ルートを示す「誘導ロープ」を見つけたようだ。お見事。
アプローチが見つからなければロープウエイで下山という話もあり、膝に故障を抱えるわが身は、本心では「目出度さも中位なり」といった心持ではあったが、黒川道を下ることにする。

笹からガレ沢に;12時54分(標高1,355m)
下り口は一面の笹。笹の中の踏み跡を、時に誘導ロープに従い高度を50mほど下げると笹が切れ、ガレた沢に出る。水は何もないが、これが黒川の上流端辺りではあろう。





成就社への道標:13時7分(標高1,280m)
足元の危うい沢筋を10分程度下ると「成就社 愛媛の森林基金」が沢筋に立つ。標識の方向は下って来たルートを示している。後日衛星写真で確認すると、成就社の北、遊歩道とスキー場に囲まれた谷の自然林の中を下っていたように見える。



第一リフト交差;13時9分(標高1,278m)
道標から数分、ガレた沢を下ると前方にリフトが見えてきた。先に進むと道は リフトの下、防御カバーの下を潜る。リフトは先ほど休憩した展望台近くに続く第一リフトのようである。右手から下り左手で展望台方面に向かって上ってゆく。リフトのお客さんと軽口のキャッチボールを楽しみながら、数分の間は沢を離れルートを進む。

支尾根の間の沢に水管(標高1,165m)
リフト付近で落ち着いた道は黒川に近づき、少しの間沢に沿って進むが、次第に沢筋から離れ支尾根筋に向かう。リフト交差部から15分ほど歩き支尾根の間の小さな沢筋にかかると、沢を跨ぐ水管が現れる、水管は何処に向かうのだろう。




右手に黒川が滝のように下る;13時29分(標高1,125m)
支尾根の間に入り、黒川の沢筋から結構離れたため自然林に阻まれ姿を消していた黒川であるが、支尾根が合わさり、沢筋が消えたあたりで右手に現れる。まるで滝のように下っていた。
あまりに急勾配で下るため、当日は黒川とは思っていなかったのだが、メモの段階で地形図を見ると、黒川筋の等高線が狭まっていた。
道を左手から下り黒川に合わさる辺りに下りる途中に水槽らしきものがあった。先ほどの水管は一旦ここに貯められ、ここから更に下に向かって下っていた。

石組の道;13時35分(標高1,064m)
右手に近づく黒川の急勾配の沢を見遣りながら進むと、左手から沢筋が黒川道と交差する。水は少なく濡れた岩盤状で道に合わさるが、水が多ければ滝といった風情である。その先の捻じれた鉄板で沢を渡る。





右手が谷に切れ落ちた箇所を虎ロープで安全を確保しながら進むと、右手に滝が見えてくる。その滝を見遣りながら進むと石組みのしっかりした道が現れる。その石組みも一瞬で終える。






正面に滝が落ちる;13時39分(標高1,054m)
石組みの道から沢筋に下りる。眼前に滝が落ちる。これも当日は黒川に注ぐ支流の滝かと思っていたのだが、どうも崖を落ちる黒川そのもののようである。水量が多ければ、結構迫力のある滝であろう。







蔵王権現の石仏;13時55分(標高958m)
沢筋に下りてしばらくは、左岸のゆるやかな傾斜の道を進む。ただ、ガレ場、ザレ場が続き虎ロープが張られた足元の危うい道ではある。
(補足;地図の川のラインはトラックログの左にあり、右岸を進んだようになっている。左岸を下っているのは間違いない。弟のログも同じく右岸を進んでいる。2012年の黒川谷を上った時のログも右岸である。谷筋の電波状態と一言で片づけていいのだろうか。この規則的なエラーの原因が何か調べてみたいものである)

滝を正面に見た沢筋から15分ほど歩くと大きな岩壁があり、その前に石像が立つ。かつての行場跡のようだ。石像は蔵王権現の石像だろう。右足を上げたそのお姿は、石鎚の神と伊曽乃神(女神)とのエピソードを思い起こすと、結構微笑ましい。
石鎚大神と伊曽乃神(女神)
第十七女人返王子社のところでメモしたが、太古、石鎚大神がお山山頂に上る時、伊曽乃神(女神)が、いつまでも後を慕ってくる。霊山にて修行する石鎚大神は少々困惑し、再び会う日(12月9日)を約束し、修行のお山に登って投げる石の落ちた所で待ってほしいとお願いする。
が結局石鎚大神は、その約束を守らなかった。右足を上げた石鎚大権現(蔵王)の像もあるというが、それは約束を破られ怒った伊曽乃神が現れたとき、天に逃げあがろうとする姿といったお話もあるようだ。少々「出来過ぎ」の感はあるが、それであれば、それなりに「坐り」は、いい。

王子道の尾根筋が見える;13時58分(標高958m)
行者場を越える辺りから右手が開け、往路で王子社を辿った尾根筋が見える。位置から見て第十五矢倉王子社から第十六山伏王子社当たりの尾根稜線ではないだろうか。






崩壊地;14時10分(標高900m)
道は未だ落ち着かない。行者堂跡から先で道は沢筋から離れて行く。右手の谷が切れ落ちており、虎ロープのオンパレードである。進んだ後で振り返ると、崖がすっぱりと切れ落ちていた。崩壊地の上を迂回して進んだようだ。





成就社2.5㎞の標識;14時18分(標高894m)
崩壊地の先もザレ道、ガレ道にトラロープが張られる。トラバース気味に進んだ道が、等高線に沿って垂直に下る箇所の岩場に「成就社2.5㎞の標識」が 立つ。黒川道を1時間半ほど下ったが、まだ2.5㎞しか進んでいない。それより、崩壊地からこの木標まで地図ではほとんど距離がないのに、18分もかかっている。ガレ・ザレ場に難儀して距離が稼げていないようだ。

沢を渡る;14時41分(標高773m)
急な斜面を虎ロープを頼りに高度を60mほど下げた後、支尾根を巻くように進み、支尾根を廻り切った辺りで沢を渡る。地形図を見ると支尾根左側に切れ込んだ等高線が見える。そこからの沢水だろう。




成就社まで2,750m標識;14時45分(標高958m)
そのすぐ先に「成就社まで2,750m標識」が倒れていた。標識の前後は少し緩やかな道。黒川から比高差90mほどの処であり、黒川道の中では黒川から最も離れた箇所を進むことになる。





杉林が見えてくる;14時55分(標高673m)
緩やかな下りも、ほどなく等高線に垂直に70mほど自然林の中を下り、小さな沢を越えた先で杉林が見えてくる。植林地が見えると、里に近づいた気持ちになる。
道も踏まれたものになるかと思ったのだが、ガレ、ザレ、更に虎ロープの張られている箇所(15時4分)を越えた後、道は次第に落ち着き、15時17分頃には結構踏み込まれた道となる。

上黒川集落;15時25分(標高454m)
杉林の中を進む。道も結構踏み込まれて安定した頃、道脇に石垣が現れる。そのすぐ先、道の右手、左手に廃屋が残る。上黒川の集落跡だろうか。






今は数軒の廃屋と石垣、コンクリートの水槽などが残るだけではあるが、大正初期には黒川道を辿る登拝者のための季節宿が11軒もあったとのことである。






石灯籠とお地蔵様;15時34分(標高432m)
廃屋の地から5分ほど下ると道脇に石鎚山と刻まれた石灯籠が立ち、その傍にお地蔵様と小祠が祀られる。







「成就社 5.0km標識」;15時39分(標高400m)
踏み込まれた道を5分ほど進むと「成就社 5.0km」と書かれた木標と「成就社」の方向示す木標。3時間半ほどで5キロ下ってきた。残りはほぼ1キロか。






下黒川集落;15時42分(標高378m)
平坦な道を更に進むとほどなく、立派な石垣が現れる。その先には倒壊した廃屋が残る。下黒川集落跡ではないだろうか。この地にも大正初期には登拝者の季節宿が11軒あったとのこと。
「えひめの記憶」に拠ると、昭和33年(1958)の調査時点では黒川村(上黒川と下黒川集落からなるのだろう)に24世帯もあったとのこと。
この時点では季節宿は黒川村で7軒と大正初期から比べると減少しているが、その因は、登拝者の多くは成就社の宮川旅館や白石旅館や常住屋に泊まるようになっていた、とのこと。
半井梧菴の著「愛媛面影」に文久2年(1862)の登拝記が記されるが、そこには「(前略)板摺(虎杖)瀬と名づく。橋を渡って登ること十五町ばかりで下黒川村につく。今日は常住まで行きたいと思ったがそこは客を泊めることを許さない掟なるよし、さればとて此所に宿る」とあり、かつては成就社では一般客は宿泊できなかったようである。

下山;15時58分(標高237m)
下黒川集落の先もしばらく平坦な道を進み、虎杖(いたずり)に向けて突き出た支尾根を廻りこみ、そこからは等高線を斜め、平行、斜めとゆっくり虎杖に下りてゆく。右手に川が見えてみた。
当日は黒川かと思っていたのだが、河口に下る加茂川であった。舗装された県道142号道路に下りた時間は15時58分となっていた。4時間もの長丁場。踏まれた道は1時間弱、3時間ほどはザレ場、ガレ場を下る少々荒れた道であった。下山口には「成就社まで6km」の案内とともに、「通行止め」の標識が立っていた。

虎杖(いたずり)
下山口の虎杖集落の加茂川には虎杖橋が架かる。虎杖を「いたずり」と呼ぶのはなぜだろう?チェックすると、虎杖は「イタドリ」の中国での表記のよう。「イタズリ」は「イタドリ」の転化ではあろうが、それは我々が子供のときによく食べが「タシッポ」のことである。
野に生えるありふれた「イタドリ」が「虎杖」とは大層な、と思うのだけど、それは平安時代の清少納言も感じたらしく、「格別のことはないのに文字で表すと大袈裟になるものがあるとして、覆盆子(イチゴ)、鴨頭草(ツユクサ)、山もも(楊梅)などを挙げた後で、「イタドリ」は特に異様で「虎の杖」と書くようだが、虎は杖などなくても平気な顔をしているのに」と「虎杖」を挙げている。
「イタドリ」が虎杖と表記されたのは「茎が杖になり茎に虎の斑点があるから」といったその形状から、中国の人が斯く表記したとの説もあるが、日本で虎杖と同じ植物と比定され「イタドリ」とされたその由来は。この植物の根が虎杖根などと呼ばれ漢方で痛み止め、「痛取り(いたどり)」として重宝された故といった説もあるようだ。
イタドリとタシッポ
それはそれでいいのだが、我々が呼ぶ「タシッポ」と「イタドリ」の関係は? チェックすると、「イタドリ」の古名は「タヂイ(タヂヒ)」と呼ばれたことが日本書紀や古事記に記載されているとのこと。「多遅花は今の虎杖花(いたどりのはな)なり」と記される。蝮は「たぢひ」と呼ばれたようであり、中国と異なり虎のいない日本では、その斑点を蝮(まむし)と見たのだろか。
イタドリのことを近畿ではタジナ・タジンボ・ダンジなどと呼ばれるようだが、我々が子供の頃、酸っぱい茎を食べていた「タシッポ」も「タジヒ」の音韻転化の一つではあろう。

烏帽子岩;16時4分
下山口から虎杖橋の逆方向、河口方面に向かう加茂川対岸に巨大な岩が川床に屹立する。「天狗の屏風岩」とも「烏帽子岩」とも呼ばれるようだ。「烏帽子石あり其大さ立五間巾六間」ということで、おおよそ縦9m横幅11mといったもの。岩の後ろの山稜を借景に、誠に美しい眺めである。

横峰寺別院;16時12分(標高204m)
下山箇所から県道142号を10分弱歩き、黒川に架かる黒川橋を渡る(16時11分)と河口の集落に入る。道の右側に鳥居の建つ建物がある。同行の皆さんは何度も訪れているのだろう、そのまま通り過ぎたのだが、気になりメモの段階でチェックするとそこは横峰寺別院であった。鳥居が建つのは神仏混淆の名残ではあろう。
平成16年(2004)の台風で四国霊場60番札所横峯寺への道が寸断され参拝が困難となったとき、本院への登山林道が開かれる5ケ月は黒瀬峠の京屋旅館付近に仮札所・納教所を設けたが、後にこの別院に仮札所を移し、お遍路さんに便宜を図ったようである。
もっとも弟の記事に拠れば、平成24年(2012)の段階でも、虎杖からモエ坂を経て横峰寺に登る登拝古道は結構荒れたままのようである。

河口の車デポ地;16時12分
河口の種楽を抜け、今宮道取り付口の車デポ地に戻る。下り4時間半ほどの長丁場となっていた。
これで第一福王子社から第二十稚児宮鈴巫王子社までを歩いた。次回は西之川谷筋の第二十一番札所から第三十四夜明峠王子社まで。標高450mから1600mの比高差1200mほどの登りとともに、入り込んだ複雑な順路の「謎」が実際に歩けば少しは実感できるか否か、結構楽しみではある。積雪次第だが、できれば今年中に歩ければとは思う。

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