古甲州道 大菩薩を超える;そのⅡ

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本日のコースは石丸峠から牛の寝通り(尾根)を進み小菅村に下りる道。江戸時代、奥多摩を経て甲斐の国に進む道はふたつ。そのひとつは丹波山村から大菩薩上峠を越える丹波大菩薩道。昨日歩いた旧大菩薩峠がこれ。で、もうひとつが、小菅村から大菩薩下峠、現在の石丸峠を越える道。「牛の寝道」と呼ばれる。
江戸時代は相模川に沿った甲州街道が開かれていたが、距離が2里ほど少ないといったメリットもあり、甲州裏街道として活用された。関所がなかったこともそのメリットかもしれない。これら大菩薩峠を越える道は、明治11年、現在の柳沢峠を開削し車道、といっても馬車ではあろうが、ともあれ道が開けることにより、物流幹線と してのその役割を終えることになる。

牛の寝の由来は、尾根筋が牛の寝姿に似ている、とか、牛の寝(1352m)という山というか、場所があるから、とか、ともあれ、名前からすれば、それほど厳しいルートでもないような印象である。ともあれ、小菅に向かう。





2日目;大菩薩峠から牛の寝通りを辿り小菅まで
二日目のルート:介山荘>熊沢山>石丸峠>牛ノ寝と小金沢山の分岐>牛ノ寝通り入口>榧ノ尾山>棚倉小屋跡に棚倉・大ダワ>モロクボ平・川久保分岐>田元バス停・小菅の湯分岐>登山口>小菅の湯>田元バス停

熊沢山
早朝、富士のご来光を見るため親知らず頭に。運良くご来光をGET。朝食を済ませ小菅村へと向かう。介山荘を出発。すぐ南に熊沢山。左右に笹原が広がる北の稜線とは異なり熊沢山は針葉樹に覆われている。道もあるような、ないような。最後の上りは結構きつい。20分弱でピークらしき場所に。標高は1978m。大菩薩峠から比高差100m弱といったところ、である。

石丸峠
尾根道を進むと南が開けてくる。南に続く稜線は笹子峠方面に続く山並み。稜線に連なる小金沢山とか湯の坂峠とか大蔵高丸といった山や峠は、笹子峠を越えたとき、そして日川に沿って天目山を歩いたときにはじめて知った地名ではあるのだが、なんとなく懐かしく、心嬉しくなる。富士も顔をだしている。これもなんとなく心躍る。
先に進むと鞍部が見えてくる。石丸峠。大菩薩峠と同じく笹の原が美しい。笹に囲まれた峠に下りる。標高1930m。介山荘から40分程度の行程ではあった。
江戸時代、この峠は大菩薩下峠と呼ばれていた。江戸から奥多摩を経て甲斐の国に進む道はふたつあり、そのひとつは丹波山村から大菩薩上峠を越える丹波大菩薩 道。昨日歩いた旧大菩薩峠から荷渡し場に下る道筋、だろう。で、もうひとつが、小菅村から大菩薩下峠、現在の石丸峠を越える道。「牛の寝道」と呼ばれる。賽の河原のおかげか、介山文学碑のおかげか、大菩薩峠の名前は大菩薩上峠に占有されてしまったが、この石丸峠もれっきとした大菩薩峠。往古、旅人はここから現在の県道218号線の石丸峠登山口へと下り、上日川峠へと続いていたのだろう、か。

牛の寝通り分岐
石丸峠を離れ牛の寝通りに向かう。少し上り10分程度で道は分岐。右に折れると天狗棚山。標高1970m。こちらを先に進むと狼平、小金沢山、牛奥ノ雁ガ腹摺山、黒岳、湯ノ沢峠へと笹子峠方面に続く。今回歩く牛の寝通りは直進。小金沢連峰の縦走路から別れて下ってゆく。10分も歩かないうちに「長峰の尾根」への分岐。南西へと続く稜線上には白草の頭(1326m)がある。

ミズナラやダケカンバの自然林の中を行く。広葉樹林帯が続く。標高1720mあたりに熊笹が広がる。玉縄山のあたりらしいが、よくわからないままに通り過ぎてしまった。

榧ノ尾山
道はどんどん下る。「山道」の道標。いったいどんな道なのだろう、などと思いながら先に進む。やがて小さな伐採地の丘のようなところに出る。榧ノ尾山。標高1420m。南側が開け、長峰の稜線はほぼ同じ高さ、その先の小金沢山や雁ヶ腹摺山方面が高く聳える。ということは結構下ってきた、ということ、か。時間を見ると、石丸峠から1時間半弱歩いていた。

大ダワ
ここから小菅村への分岐点である大ダワまで穏やかな道が続く。標高1300~1400mの間で緩い下りと登り、まっすぐだったり曲がったり、を繰り返す。牛の寝(1352m)も知らずに通り過ぎる。狩場山(1376m)はピークを巻く。「ショナメ」と呼ばれる、なんとなくいわくありげな鞍部を過ぎて、10分弱で大ダワに。ここは小菅への分岐点。直進すれば松姫峠へと続く。牛の寝通りは一応、ここまで、らしい。「ショナメ」の意味不明。
大タワって、「大きなたわみ=鞍部」ということだが、実際はそれほど大きなスペースではない、ちょっとした伐採地といったもの。南北が開けている。道標には「棚倉」とある。小菅に折れず直進すれば大マテイ山(1409.2m)を経て松姫峠へと続く。
松姫は武田信玄の娘。悲劇の主人公としてなんとなく気になる。頼朝の娘大姫と木曽義仲の嫡子義高との悲劇とダブル。松姫の場合は相手は織田信長嫡子信忠。
松姫は幼くして織田信長の嫡子信忠と婚約。が、信玄上洛の途上、三方ヶ原で徳川と武田が合戦。織田は徳川に援軍。ために、武田と織田は手切れ。両家の婚約は解消。信玄亡き後、織田軍甲斐の国へ侵攻。総大将は嘗ての婚約者織田信忠。
武田軍形勢不利。松姫は兄の姫君を護り、道なき道を八王子方面へと逃れる。そのルートも諸説あり、松姫峠もそのひとつ、と言う。織田信忠は嘗ての婚約者の安否を心配したとか、しないとか。松姫は、幼き姫を育て、武田家滅亡後、家康に仕官した旧武田家の遺臣(八王子千人同心)の心の支えとして、八王子の心源院、その後信松院で一生を過ごした、と言う。

モロクボ平
ここから大マテイ山へ続く稜線を離れて左へ下る。モミジやカエデ、ミズナラなどの広葉樹林の木立の中、高指山(1274m)を巻くように30分強歩くと分岐点。モロクボ平である。ほどなく道標。右は「小菅の湯」方面。左は「小菅村」の道。川久保地区に下りてゆく。いずれにしても小菅村ではあるが、小菅の湯に下ることに。

小菅の湯
白樺らしき木も見える木立のノ中を15分程度下ると再び分岐点。直進すれば田元。右に折れると小菅の湯。植林地帯のジグザグの急な坂を下るとく登山口に。登山口には立派な道標が立っていた。大菩薩峠の介山荘から4時間強の行程であった。

山沢川に架かる橋を渡り舗装道路を道なりに進み小菅の湯に。一風呂浴び、田元のバス停に。小菅の湯から町までは結構下ることになる。途中、田元からの登山口などを見やりながら、小菅川にかかる田元橋を渡り田元橋のバス停に。バスの時間に余裕もあったので、町を歩くと川久保からの登山口もあった。バスを待ち、奥多摩駅へと、一路家路に向かう。念願の大菩薩峠は越えた。後は、早々に奥多摩から小菅への道をカバーしようか、と、  

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