讃岐 歩き遍路:七十二番札所 曼荼羅寺から七十三番 出釈迦寺、七十四番 甲山寺を打ち七十五番札所 善通寺へ

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七十一番札所 弥谷寺から七十二番札所 曼荼羅寺に至る二つの遍路道(海岸寺道曼荼羅道)をカバーし終え、七十三番 出釈迦寺、七十四番 甲山寺、七十五番 善通寺へと遍路道を辿る。距離は4キロほど。田舎の愛媛県新居浜市を朝に出たとしても十分に時間の余裕がある。
出釈迦寺奥の院禅定御行場の護摩壇
どこか立ち寄るところはとあれこれチェック。と、出釈迦寺の近くに西行ゆかりの庵がある。また、出釈迦寺の裏に聳える、といっても標高481mほどなのだが、その山・我拝師(がばいし)山に出釈迦寺の奥の院がある、という。地図を見るとヘアピンではあるが道は奥の院まで続いている。2時間もあればこの2か所もカバーできそう。
ということでルーティング。曼荼羅寺を出て、出釈迦寺、出釈迦寺奥の院、西行庵と辿り、道を東に折り返し甲山寺、そして善通寺へと向かうことにした。 出釈迦寺奥の院の行場は、高所恐怖症のわが身には少々キツイところではあったが、その眺望も含め結構な達成感を感じることになった。 そのため、というわけでもないのだ、出釈迦寺や奥の院のメモが結構長くなり、当日訪れた七十五番札所 善通寺のあれこれは次回に回し、今回は札所・善通寺到着までの遍路道のメモとする。

本日のルート;
七十二番札所 曼荼羅寺から七十三番 出釈迦寺へ
茂兵衛道標(151度目)>七十二番札所 出釈迦寺(しゅっしゃか)
出釈迦寺から奥の院禅定へ
奥の院禅定参道口駐車場>与謝野晶子・寛庭園>柳の水>西行法師禅定御遺跡>参詣道 世坂>西行法師腰掛石>西行法師腰掛石>風穴>奥の院参拝者駐車場
奥の院から御行場へ
奥の院山門>摩崖摩崖五輪塔>鐘楼>根本御堂>御行場入口>鎖場>>捨身ケ嶽の御行場
七十四番札所・甲山寺へ
出釈迦寺に戻る>西行庵西行庵分岐点の自然石道標>茂兵衛道標(88度目)>県道48号沿いの茂兵衛道標(241度目)>広田川沿いの標石>七十四番札所 甲山寺
七十四番 甲山寺から七十五番札所 善通寺へ
弘田川の用水路施設傍に標石>T字路の標石>国立病院機構こどもとおとなの医療センター>仙遊寺>犬塚>七十五番札所 善通寺の廿日橋


七十二番札所 曼荼羅寺から七十三番 出釈迦寺へ

茂兵衛道標(151度目)
曼荼羅寺を離れ、七十三番札所 出釈迦寺に向かう。南へおおよそ500mほどのところにある。境内を出てお接待のあるうどん屋さん前の三叉路に茂兵衛道標。 南へと上る緩やかな坂を示す手印と共に出釈迦寺の文字が刻まれる。明治29年(1894)、茂兵衛151度目の四国巡礼時のもの。手印の案内に従い舗装された道を南に向かう
茂兵衛道標(140度目)
上述舗装道の一筋東、耕地の間を南に抜ける簡易舗装がある。この道は少し進んだところで上述茂兵衛道標から上る舗装道と合わさるが、こちら道を歩く遍路もいたようで、途中道の右側に茂兵衛道標が立つ。
「右 彌谷寺」、手印と共に「七十三番 七十二番」と刻まれる。明治28年(1895)、茂兵衛140度目の四国巡礼のときのもの。コンクリート塀の前に立ち、裏面は読めないが、「鶴多ちしあとへ往きて徒む若菜可那(つゆたちし あとへゆきてつむ わかなかな)」と添歌が刻まれるとのこと。
ところで「右 彌谷寺」とあるのだが、右は耕地でそれらしき道はない。どこから移されたのかチェックする。どうもこの辺りにあった遍路宿・坂口屋前に立てられていたようである。坂口屋は茂兵衛定宿ではあったとのことである。

七十二番札所 出釈迦(しゅっしゃか)寺

簡易舗装の道と舗装道路が合わさるすぐ先に出釈迦寺がある。舗装道路の東側に大きな駐車場。山門への参道は舗装道の西側に続く緩やかな坂道を上る。
山頭火句碑
山門への坂道を上りはじめた一番手前に大きな石碑が建つ。結構新しいその石碑には「山あれば山を観る」と刻まれる。山頭火の句集『山行水行』の冒頭にある「山あれば山を観る 雨の日は雨を聴く 春夏秋冬 あしたもよろし ゆうべもよろし」からとられたものだろう。大きな句碑の前に小さな石碑がある。「飲みたい水が音をたてていた」といった句が刻まれるようだ。
山頭火は昭和3年(1928)、46歳の時と昭和14年(1839)57歳の時の二度、四国遍路の旅に出ている。が、『山行水行』は「昭和9年の秋、其中庵にて」とあり、そこに収められている句は「昨年の八月から今年の十月」までに詠んだ句の中から選んだものとある。昭和8年から9年にかけて山頭火は広島、神戸、京都、名古屋をへて木曽を旅しているが、四国遍路にはでていない。石碑の句は四国遍路とも出釈迦寺ともかかわりはなく、その描く光景ゆえに選ばれたもののようだ。実際、「飲みたい水が音をたてていた」も『山行水行』の木曽三句のひとつであった。
修行大師立像
石段の途中には「四国霊場 第七十二番 我拝師山 出釈迦寺」と刻まれた寺名碑と大きな修行大師立像が二体。山頭火の句碑同様、それほど古いものではないようだが、我拝師山を「借景」にした姿はなかなか、いい。
子宝の三鈷の松
参道脇に「子宝の三鈷の松」。「この松は雄の松で、『子宝の三鈷の松』と呼ばれています。親の大樹から、たくさんの小松が生まれ、また葉は三鈷の松になっている、珍しい松です」とある。
Wikipediaによれば、「三鈷」とは「密教の法具としての金剛杵は,この武器が堅固であらゆるものを摧破(さいは)するところから,煩悩を破る悟りの智慧の象徴として採り入れられたもので,両端の刃先の形によって,1本だけ鋭くとがった刃先の独鈷(独股)(とつこ),その刃先に両側から勾(かぎ)形に湾曲した刃を2本備えた三鈷(三股)」とあった。
それはそれでいいのだが、それでは通常の松の葉って、どんな形状だったっけ。 チェックすると二本で一組となっているのが多いとある。三鈷の松は三本で一組となっている松の葉のようだ。
当日は特に気にすることもなく通り過ぎたため、二本なのか三本なのか確認はしていないのだが、本家本元の高野山の三鈷の松も通常は二葉であるが、中に三葉のものも見つかるという。
そもそも、三鈷の松の由来は、空海が真言密教を中国で習得した後、日本のどこに道場を開いたものやらと、密教法具の三鈷杵を明州の浜より空高く投げたところ、帰国後空海が修行の地を探して訪れた高野山にて松にひっかかっている三鈷杵を見つけ、故にその地を真言密教の道場としたということにある。
ということは、三葉の松というより、三鈷杵がひっかかっていた故の「三鈷の松」の比重のほうが重い、ということだろう。それがいつしか高野山の三鈷の松にあやかって、この地に限らず各地に「三鈷の形をした松葉」となって広まったのだろう、かと。傍には安産地蔵尊も立つ。
山門手前の道標
坂を上ると山門手前、右手にひらべったい石に刻まれた道標がある。手印と共に「七十三番ココデス 捨身ケ嶽十三丁 七十二番ソコデス 七十四番十六丁」と刻まれる。
結構多くの道標を見てきたが、「ココデス ソコデス」はじめてのような気がする。

「捨身(シャシン)ケ嶽禅定」の案内
小ぶりな山門を潜ると、境内左手に「捨身(シャシン)ケ嶽禅定」の案内がある。断崖絶壁を落ちる稚児とそれを受け止めようとする天女の絵と共に、「第七十三番 出釈迦寺 奥の院 捨身(シャシン)ケ嶽禅定 弘法大師(幼名 真魚 まお)七才の時救世の大誓願を立て、五岳の随一たる当山に登り三世の諸仏十方向の薩埵を念じ、「我仏法に入りて一切のの衆生を済度せんと欲す。吾願成就するものならば釈迦牟尼世尊影現して證明を与え給へ成就せざるものならば一命を捨てて此身を諸仏に供養し奉る」と唱え断崖絶壁の頂より白雲も迷う谷底に身を跳らし飛び給いし紫雲の湧き起せらる中に大光明を放って釈迦牟尼仏百宝の蓮花に座しご出現せられ羽衣を身に纏うた天女天降り大師を抱き止め「一生成仏」と宣り玉ふ。
この神秘不可思議なる仏陀の霊光に感謝し霊験を併給に記念し、世の人々に仏縁を結ばしめんが為に捨身ケ嶽(しゃしんがだけ)に寺を建立し、ご本尊釈迦牟尼仏を安置せられ捨身誓願の霊場として多くの善男善女の信仰の中心となっている霊山です」とある。
捨身飼虎(しゃしんしこ)説話
この稚児捨身のベースは有名な法隆寺の玉虫厨子に描かれる「捨身飼虎」の説話にあるとする。お釈迦さまがその前世にて薩埵王子と称された時、山中にて餓死しかかっていた親子の虎を救うべく、高所より身を投げ飢えた虎にその身を供した。このおこない故に王子は生まれ変わってお釈迦様となった言う。 幼き大師が身を投じた我拝師山も、かつては倭斯濃山と称されたと言う。「わしのやま」とはお釈迦さまゆかりの霊鷲山(りょうじゅせん)の和名である。この倭斯濃山も後付けの命名かもしれない。
捨身飼虎説話、山名が相まって、空海とお釈迦様の「つながり」を強める意図をもって後世に「つくられた」お話ではあろうか。

本堂・大師堂・地蔵堂(虚空蔵菩薩堂とも)
境内に入ると西側に本堂、その右手に大師堂、一段高いところに地蔵堂(虚空蔵菩薩堂?)が建つ。すべて東に向く。
寺名は我拝師山求聞持院出釈迦寺と称す。寺伝によれば、空海が釈迦如来出現の霊験により我拝師山頂(捨身ケ嶽)の少し下、現在の奥の院の地に堂宇を建て、自ら釈迦如来を刻み本尊となす。これが出釈迦寺の由来だろう。
山号となる我拝師山も釈迦如来出現をもって、倭斯濃山(これも後付けの命名かもしれないが)を改め我拝師山、私(空海)が御師である釈迦如来を拝した山としたのだろう。
求聞持院については、境内に「出釈迦寺は弘法大師七歳の捨身誓願の霊跡であるとともに大師は四国八十八ヶ所ご開創の砌り、再度当地に巡錫、虚空蔵求聞持の法を修行されました。故に当山院号を求聞持院と号します。この求聞持の法とは虚空蔵菩薩のご真言を二百遍お唱えする法でそのご修行のお姿が当山求聞持大師です。
この求聞持の法を修する事によって一切の教法の文義悉く暗記する事が出来るといわれています。故に学業成就又物忘れの多い方は是非ご利益をいただいて下さい」といった案内もあった」との求聞持院の由来も案内していた。
西行法師歌碑
求聞持大師像の横に西行法師歌碑の案内。小ぶりな石碑に「西行法師歌碑(江戸時代1779)七十三番出釈迦寺當山奥之院弘法大師道所禅定場江是ヨリ十三丁 南無阿弥陀佛行導所(梵字)西行上人
めぐりあはん ことのちぎりぞ たのもしき きびしき山の ちかいみるかな 安政八年(後略)施主 和州(後略)美野田弥八郎(後略)」と刻まれる。江戸時代に大和の国の美野田弥八郎さんによって建てられたもの。

歌は『山家集』に次の詞書とともに載る(注;原文はひらがな書):「曼荼羅寺の行道所へ登るは、世の大事にて、手を立てたるやうなり。大師の、御経書きて埋ませおはしましたる山の峯なり。坊の外は、一丈ばかりなる壇築きて建てられたり。それへ日毎に登らせおはしまして、行道しおはしましけると、申し伝へたり。巡り行道すべきやうに、壇も二重に築き廻されたり。登るほどの危ふさ、ことに大事なり。構へて這ひまはり着きて

めぐり逢はんことの契りぞありがたき厳しき山の誓ひ見るにも

歌の意味は「その昔弘法大師は、この地で釈迦如来にめぐりあわれたという。その契りのありがたさと同じく、自分も今大師行道の跡にめぐり逢うことのできた因縁をありがたく思う。この嶮しい山をよじ登り行道を行われた大師誓願の跡に立ち、大師を偲ぶにつけても」とのこと。
仁安3年(1168)、西行法師は白峰御陵を訪ね、その後善通寺の弘法大師の遺跡を巡り、この地に庵を結んだ。その折に詠まれた歌であろう。
曼荼羅寺奥の院
現在本堂、大師堂は山裾の地に建つが、上述の如く当初の堂宇は現在の奥の院の地にあり曼荼羅寺の奥の院であったようだ
承応2年(1653)、澄禅の『四国遍路日記』には「出釈迦山エ上ル(中略)少シ平成所在、是昔ノ堂ノ跡ナリ、釈迦如来石像、文殊菩薩石像ナト在、近年堂ヲ造立シタレバ、魔風起テ吹崩ナルト也。(中略)曼荼羅寺ノ奥院ト可云山也」とあり、山腹のお堂を曼荼羅寺の奥の院と記している。
寂本の『四国遍礼霊場記』。山上に堂跡。
麓に銅はあるが寺名はない。
元禄2年(1689)に書かれた寂本の『四国遍礼霊場記』にも出釈迦寺を我拝師山山上とし、堂はなく、これも曼荼羅寺奥の院とした上で、「宗善という入道が麓に寺を建立したそうだ」の一文を付けている。
同じ頃の真念の『四国遍路道指南』にも、「この寺の札所は山上にあるが、由緒あって堂宇はない。そのため近年になって麓に堂、寺を建て、札を納める」とある。
曼荼羅寺の奥の院から出釈迦寺として札所となったのは、この頃以降のことのようであり、上述西行の歌碑に「七十三番出釈迦寺當山奥之院」とあるように安永8年(1779)にはこの地に出釈迦寺が建ち、山上の堂宇は出釈迦寺奥の院となっている。
捨身ケ嶽遥拝所
本堂より一段高い地蔵堂(虚空蔵堂?)へと石段を上ると、捨身ケ嶽遥拝所がある。大師像の横に石碑があり、そこには身を投げる空海とそれを救う釈迦如来と天女の図が描かれるとのことだが、風雨に晒され絵柄を見ることができなかった。我拝師山をよく見れば、奥の院らしき建物も見える。遥拝所横に立つ石仏は虚空蔵菩薩と言う。




出釈迦寺から奥の院禅定へ

奥の院禅定に向かう;10時10分
境内から成り行きで山へと向かう簡易舗装の道を奥の院禅定へと向かう。道端には舟形石仏が立つ。四国遍路の札所の本尊石像のようだ。道はほどなく出釈迦寺東の駐車場と出釈迦寺の間を南に上ってきた車道と合流する。

奥の院禅定参道口駐車場;10時13分
割と新しい石灯籠の建ち並ぶ駐車場入口に、これも新しく立てられたような西行歌碑がある。「筆の山 かき登りても見つるかな 苔の下なる岩のけしきを」と刻まれるこの歌は、出釈迦寺で見た西行の歌と同じく『山家集』におさめられたものである。 
西行法師歌碑
詞書には「やがてそれが上は、大師の御師(釈迦如来)に逢ひまゐらせさせおはしましたる峯なり。「わがはいしさ」と、その山をば申すなり。その辺の人は「わがはいし」とぞ申しならひたる。山文字をば捨てて申さず。また筆の山とも名付けたり。遠くて見れば、筆に似て、まろまろと山の峯の先のとがりたるやうなるを、申し慣はしたるなめり。
行道所より、構へてかきつき登りて、峯にまゐりたれば、師にあはせおはしましたる所のしるしに、塔を建ておはしましたりけり。塔の礎はかりなく大きなり。高野の大塔などばかりなりける塔の跡と実。苔は深く埋みたれども、石大きにして、あらはに見ゆ。筆の山と申す名につきて」とあり歌(筆の山にかき登りても見つるかな苔の下なる岩の気色を)に続く。

歌に筆の山と記される山は、当時我拝師山のことを筆の山とも称したとある(西行の思い違いかもしれない)。現在我拝師山と並び北東に「筆ノ山」があり、詞書を読まなければ少々混乱しそう。

現在の奥の院のあるところには、かつて高野山の大塔のような塔が建っていたようだが、西行道行の頃には既になく、苔むしたその跡が残るのみ、であったようだ。
歌の意味は「筆の山に、筆で字を書きつけるごとくかきついて登り、見たことだ。今は苔の下に埋もれてしまっている塔の礎である大きな岩のさまを」。
なお、「やがてそれが上」とは上述境内の西行歌碑の詞書を踏まえたものである。

土径であろうとの予想に反し、舗装された奥の院参道を進む。寄進された石灯籠の多さに、このお寺さまへの信仰のほどが知られる。石灯籠は結構新しいが、四国遍路札所の舟形石仏は古い趣。19番札所、立江寺の本尊延命地蔵菩薩らしき石仏を見遣りながら進むと、参道左手に与謝野晶子・寛庭園がある。

与謝野晶子・寛庭園;10時15分
石碑には「讃岐路は 浄土めきたり 秋の日の五岳のおくに おつることさへ   晶子
昭和6年(1931)に善通寺で詠んだ歌。当時の善通寺高等女学校で講演を行った。この歌には善通寺五岳と讃岐の風土が想いを込めて詠まれている。晶子自筆の色紙は当時善通寺高等女学校の教諭であった武内正躬氏が所蔵していたもので、平成18年に発見された」といったことが刻まれていた。
石碑の横には与謝野晶子・寛の歌碑が立つ。
「讃岐路は浄土めきたり秋の日の五岳のおくにおつることさへ 晶子」
「たもとふり西行上人も見しるらん飯能の山のわが道に立つ  寛」
と刻まれるようである。
この公園は平成18年(2006)に造られたという。ということは、比較的新しめの石灯籠や舗装された参道はこの頃に建立・整備されたのだろうか。
●讃岐五岳
讃岐五岳とは札所・善通寺の裏から連なる山並み。香色山〔こうしきざん〕、筆の山、我拝師山、中山、火上山〔ひかみやま〕という五つの山のことを指す。なお、善通寺の山号は五岳山とする。大師修行の場とされる五岳ゆえの山号ではあろう。

参道を上る
石灯篭の間に菩提樹。「昔、お釈迦さまが、この樹下に座して覚りを開らかれた為にこの名がついた、神聖な木」といった案内を見やりながら参道を上る。右手には札所名は読めないが大日如来の石仏。
左手の石灯篭の竿を見ると、「秋風や 空海法師をさなくて 見たる讃岐の碧瑠璃の空 秋風遍路」と与謝野晶子、「善通寺 秋のゆうべに我が立つも 大師若くてふみませる土 秋風遍路」と与謝野寛の句が、家内安全や先祖供養などを記す石灯篭の中に見える。
さらに右手には御神木 ひのき(香川の保存木) の案内があり、次いで澤田ふじ子さんの『遍照の海』より選句された句碑が立てられ、「わが許に大師(ひと)ありますや遍路道」と刻まれる。なんだかもりだくさん。

柳の水;10時22分
その先に柳の水。禅定手水場 薬師瑠璃光如来と書かれた石碑が建つ。大師御加持水とも伝わるこの水場、当日目にすることはなかったのだが、「この柳の水は古くより多くの不治の病の人々を救った寺伝にもある霊験水です。現在も癌等病気の方が薬を飲む為に他県よりこの霊水に対し、三礼、おつとめをして水をくみにこられます。霊験水の近くでは決して不浄なことはしないで下さい。霊験水の病苦がつきます。禅定信徒総代」といった案内もある(あった?)ようだ。薬師瑠璃光如来の石碑が建つ所以である。

西行法師禅定御遺跡;10時23分
柳の水のすぐ上に西行法師禅定御遺跡。特段の説明はない。その右手には鎌倉時代の高野山の碩学の僧、道範阿闍梨の歌碑が立ち、 「鷲の山つねにすむなる夜半の月 きたりて照らす峯にぞありける」とある。寛元元年(1243)に禅定参拝の際に詠んだ句。一時期讃岐に流されたというからその折のことだろう。ということは、この頃、我拝師山は上述、鷲の山(倭斯濃山)と呼ばれていたのだろう。


参詣道 世坂;10時28分
道に「参詣道 世坂」と刻まれた石碑が建つ。その下に「大師行道所に至る 世に世坂と号す  道範阿闍梨 寛元元年(1243)九月二十一日参詣 同阿闍梨「南海流浪記」より」とある。
それはそれでいいのだが、何故世坂が不明。五来重氏によると、お接待の施物が置かれていたので「施坂」。それが転化しえ「世坂」とも。もっとも空海の出自である佐伯氏の氏寺である曼陀羅寺は、その昔「世坂寺」と称されたようであり、また前述の道範阿闍梨も『南海流浪記』には、「大師の御行道所に至る。世に世坂参詣と号す」と「世坂参詣」と記す。なんらか空海との繋がりをい感じる「世坂」ではある。単なる妄想。

世坂を上ると里の景色も見えてくる。石仏を見やりながら進むと「出釈迦寺祥桜」の案内。一木に一重と八重が咲く珍しい桜のようだ。
その先に「六甲の名花 幻の「七段花」の案内。江戸時代にオランダ人シーボルトが『日本植物誌』で紹介して以来、誰もがその実物を見たことがなく、幻の花と呼ばれていたが、昭和34年(1955)神戸の六甲山で見つかり栽培されている花とのこと。花音痴には吉祥桜共々、その有難さはあまりわからない。
里を背にした六十番札所・横峰寺の石仏(10時29分)を越した先で舗装道から右に折れる土径がある。







西行法師腰掛石;10時33分
そろそろ舗装も切れるのかと土径を進む。六十一番札所・香園寺の石仏の佇む道を進むと、ほどなく舗装道に合流。一瞬の土道であった。そこに西行法師腰掛岩があった。誰それの腰掛岩は散歩をはじめていくつ出合っただろう。


風穴
道の右手に高野杉を見遣りながら進むと、同じく道の右手に「風穴」の案内。とりたてて穴はみえないのだが、案内石碑を囲む石垣の間から風が送られてくるのだろうか。風穴の先には稚児桜があった。







の遠望;10時39分
急坂をこの辺りまで上ると里の景色が広がる。讃岐平野と瀬戸の海、先般、弥谷寺から海岸寺道を辿る途中に立ち寄った天霧山が一望。古き遍路札所の石仏が趣を添える。



奥の院参拝者駐車場;10時43分
左手には奥の院の堂宇もはっきりと見えてくる。結構急峻な岩場の上に建っている。ほどなく前方に山門、左手に参詣者駐車場が見えてくる。毎月、旧暦の5日に奥の院で法要があるとのこと。そのために車道、駐車場が整備されたのだろうか。山道を想定していたのだが、結局奥の院まで舗装された道が続いていた。
それにしても、この急坂を車で上るにはちょっと「勇気」がいるかも。昔神戸の御影辺りで歩いた屏風のような急坂を思い出した。


奥の院

奥の院山門;10時45分
奥の院山門に到着。出釈迦寺の境内を離れ歩きだしてからおおよそ30分かかった。山門には「捨身ケ嶽禅定」、石碑には「四国奥の院第一 禅定」とあった。
禅定
禅はサンスクリットの音訳、定は漢訳。禅すなわち定ということだろうか、意味は、精神を集中し、三昧(さんまい)に入り、寂静の心境に達すること、霊山に上り修行すること」と「コトバンク」にあった。
五岳山縦走ルート
山門右手に五岳山縦走ルートの案内がある。香色山、筆ノ山、我拝師山、中山、 火上山と続く大師ゆかりの聖域を辿るルート。善通寺のお供えや寺の造営以外に草木の伐採、また狩猟は禁じられていたとある。善通寺の山号が五岳山とされる所以を再確認。
我拝師山の説明に、「奥の院から50mほど岩場をよじ登った捨身ケ嶽は、弘法大師が身を投げたところと伝えられている。現在は岩場の上に護摩壇と稚児大師が祀られている」とある。高所恐怖症には少々キツイが、ちょっと寄ってみようと思う。 案内板脇には南に下るような「有坂方面 程坂下山道」の案内に「出釈迦寺迄2時間」とある。程坂は大日峠を超えてきた県道49号の辺りにある。そこから有岡方面へと北東に向かい、我拝師山と筆の山の鞍部を抜けて出釈迦寺に出るルートなのだろうか?案内の意図がわかりにくい。


摩崖摩崖五輪塔:10時48分
山門を潜り奥の院のお堂に進む。ここも道は舗装されていた。道の右手の大岩には張り付くように石仏が祀られている。その大岩の傍に「摩崖 五輪塔 室町時代初期」とある。どこだろうと探すと、大岩の表面に「五輪塔」らしきものがうっすら見える。これって、弥谷寺での摩崖五輪塔を見ていたので、なんとなくわかったが、そうでなければわからなかった、かも。


鐘楼;10時52分
お堂手前の岩場に鐘楼。先日高屋神社で天空の鳥居を見たが、これも天空の鐘楼といったもの。屹立する崖端に建つ。
鐘楼の隅、崖際に「層塔 奈良時代-平安時代中期」とある。古い趣。笠を三層に重ね、笠の上に相輪が立つ。相輪の上部が欠けているように見える。


鐘楼を乗せる大岩の表面には南北朝時代の摩崖五輪塔が刻まれる。これも初めて見る人には、よくわからない、かも。
五輪塔
下から四角の方形、球形、宝形屋根型、半球形、宝珠型の石が積まれるが、それぞれ、地・水・火・風・空といった古代インドで宇宙を構成する五大要素のことを象徴する、という。もっとも、五輪塔は本家インドにも、経由地中国にも存在しないようであり、平安時代後半に供養塔として日本で造立がはじまったようである。



粟島社・石鉄大神宮
鐘楼を支える大岩下に粟島社と石鉄太神宮の祠があった。石鉄とは石鎚神社のことだろうが、「太神宮」という名称はあまりみたことがない。また、粟島社とこの奥の院のかかわりも、よくわからない。少し寝たしておく。













根本御堂(ねもとみどう);10時53分
鐘楼の石段を下り、お堂にお参り。根本御堂(ねもとみどう)と称される。お堂の正面に「弘法大師捨身誓願遺跡」「釈迦如来出現之霊場」大書された表札が左右に懸る。お堂は通夜堂お堂は通夜堂にもなっており、毎月15日の法要には泊まる信者で賑わう、と。
このお堂は昭和の初め頃、点在していた小堂を統合して建てられたとWikipediaにある。ここが300年頃前に麓に寺が移されるまでは札所であった。


弘法大師建立大塔の跡
お堂の前に石碑が建ち、「弘法大師建立大塔の跡」とある。裏には上述、西行の『山家集』の詞書の一部、「師にあはせおはしましたる所の標に、塔を建ておはしましたりけり。塔の礎はかりなく大きなり。高野の大塔などばかりなりける塔の跡見ゆ。苔は深く埋みたれども、石大きにして、露に見ゆ。西行法師『山家集』より 仁安二年(1167年)禅定参拝」が刻まれる。
釈迦如来出現の標として、大師は大塔を建立したが、その建物は今はなく、礎石が苔むして埋もれている、と。


中務茂兵衛の名を刻んだ水盤
お堂の前に立つ水盤には正面に「奉納 中務茂兵衛」と刻まれていた。
〇中務茂兵衛
中務茂兵衛。本名:中司(なかつかさ)亀吉。弘化2年(1845)周防(すおう)国大島郡椋野村 (現山口県久賀町椋野)で生まれた中務茂兵衛は、22歳の時に四国霊場巡礼をはじめ、大正11年(1922)に78歳で亡くなるまで生涯巡礼の旅を続け、実に280回もの巡礼遍路行を行った。四国遍路はおおよそ1,400キロと言うから、高松と東京を往復するくらいの距離である。一周するのに2カ月から3カ月かかるだろうから、1年で5回の遍路行が平均であろうから、280回を5で割ると56年。人生のすべてを遍路行に捧げている。

奥の院から御行場へ

御行場入口;10時54分
奥の院山門傍の五岳山縦走ルートの我拝師山の案内にあった,大師捨身の捨身ケ嶽に向かう。アプローチを探すと、お堂の下に通路が抜けており、「御行場入口」の案内があった。
岩倉大師 
お堂の下を潜り堂裏に。お堂を裏に出たところに、岩倉大師という稚児大師が祀られる岩窟があったようだが見逃した。行場までは険路のためこの地にも稚児大師を安置した、と。禅定行場の篤信者からの寄進によるとのことである。


鎖場;10時55分
奥の岩場に偶然、
目治篭彫不動尊が写っていた
お堂の裏手に出ると眼前に岩場が広がる。岩場の入口には注連縄が張られ、いかにも修行の行場といった趣。スタートするとほどなく鎖場に。斜度はキツイが鎖を助けに岩場を進む。
目治篭彫不動尊(めなおしかごほりふどうそん)
当日は気づかなかったのだが、岩場南面の岩壁に目治篭彫不動尊(めなおしかごほりふどうそん)が彫られている、と。
明治の頃、重い目の病に冒された石工がこの捨身ケ嶽で行により病は回復、 石工はお大師さんへのお礼へと捨身ケ嶽の崖上から籠を吊るし、年月をかけてお不動さんを崖に彫り上げた、とのこと。メモの段階で写真を見ていると、偶然にも岩壁に彫られたお不動さまが鬱っていた。

捨身ケ嶽の御行場:11時
稚児大師
護摩壇
第一の鎖場を抜け、左手が切り立った崖の箇所(2,3mといったほんの僅かな距離)をへっぴり腰で山肌の小枝を握り、そこから岩場に這い上がる。岩場には鎖が整備されており、鎖を握ってやっと一安心。
岩場を上ると狭い平場に出る。北の崖面には稚児大師像。西に向かって護摩壇となっている。ここが幼き大師が身を投げたと伝わる「捨身ケ嶽の御行場」である。
「弘法大師旧跡 護摩壇」と刻まれた石碑の碕、崖際に小さな大師像が佇む。東は我拝師山頂に遮られ見通しはよくないが、南北と西の眺望は誠に、いい。高所恐怖症であり少々おっかなびっくりの岩場上りであったが、来てよかったと思う。
記事などを見ると、御行場をその厳しき岩場ゆえにパスしている方も多いようだが、わたしでもなんとか行けるので、大概の方は問題なく登れると思う。
捨身ケ嶽誓願の聖地
護摩壇のある平場のすぐ上に「捨身ケ嶽誓願の聖地」の石碑と共に幾多の石仏が並ぶ。何となく厳かな雰囲気を感じる。我拝師山頂はその先に見えるが、行場で十分とここで長めの休憩をとる。


出釈迦寺に戻る;12時
休憩を済ませ、再びおっかなびっくりで鎖を握りしめて岩場を下り、切り立った崖の箇所を右手を見ないように進み、鎖場を下り奥の院へ戻る。 後は来た道を下り出釈迦寺に戻る。時間は12時。往復おおよそ2時間の奥の院禅定散歩となった。

西行庵
出釈迦寺を離れ次の札所に向かう前、出釈迦寺の近くにある西行庵に立ち寄る。 出釈迦寺から遍路道を少し北に戻り、𠮷原大師堂対面に西に向かう道がある。その角にある「西行庵」の案内に従い道なりに西南に進む。途中、分岐に案内がなくちょっと戸惑ったが、なんとか西行庵に着く。おおよそ1キロ弱といったところだろうか。庵は竹藪の中に建つ。銅板葺きの庵は比較的新しい。再建されたもの。二間四方の広さであった。
庵の傍にあった案内には「平安時代を代表する歌人西行法師は、元永元年(1118)武士の家に生まれ俗名を佐藤義清(のりきよ)と名乗りました。
十八歳で京都御所を警護する「北面の武士」となり文武両道で活躍していましたが、二十三歳の時、突然出家して仏門に入り、僧「西行」となり諸国行脚の旅を重ねました。
仁安二年(1167)五十歳の頃、讃岐への旅に出、恩顧を受けた崇徳上皇の白峰御陵に参拝したあと、弘法大師の遺徳を偲んで善通寺を訪れ、大師が修行を積んだ我拝師山を仰ぐ当地に庵を結び(水茎の岡)、数年間(「西讃府志」では五年間)逗留しました。また、曼荼羅寺境内にも昼寝石や傘懸桜など西行に関わる伝承地が残されています。
曇りなき 山にて海の 月見れば 島ぞ氷の 絶え間なりける(山家集) 庵の跡は荒廃していましたが、地元有志が浄財を集め、西行法師800年忌にあたる平成元年(1989)、現在の「西行庵」を再建しました。 吉原地区連合自治会、吉原郷土研究か会、監修 善通寺市教育委員会」とあった。

歌に「島ぞ氷の 絶え間なりける」と詠まれる。氷と瀬戸の海は結びつき難い。どこか別の地で詠まれたものだろうか。チェックする。
『山家集』に「大師のおはしましける御あたりの山に庵結びて住みけるに、月いと明くて、海の方曇りなく見えければ
曇りなき山にて海の月見れば島ぞ氷の絶え間なりける」とある。
どうやらこの地で詠んだ歌のようだ。
庵の前面には天霧山が聳え、瀬戸の海は見えないが、どこか近くの山に上り詠んだのだろう、

この歌に続いて「山家集」は、次の歌を載せている。
「住みけるままに、庵いとあはれに覚えて
今よりはいとはじ命あればこそかかる住まひのあはれをも知れ」
厳しい庵の日々も、命あればこそ、と詠う。

更に、この歌に続けて
「庵の前に松の立てりけるを見て
ここをまたわれ住み憂きてうかれなば松はひとりにならんとすらん」とある。
この庵を去った後、松が取り残されてしまう、と詠っている。

西行の歌碑
庵の左手、なにかの台石の正面と側面に3首の歌が刻まれる。 「山さとにうき世いとわむ友もがな くやしくすぎし昔かたらむ」 「山里に秋の来にしと思ひしか 苦しかりける木枯の風」 「山里に人来る世とは思わねど とはるることのうとくなり行く」 とのことである。
石碑
庵の脇には「西行上人いほり跡」と刻まれた古い石碑も残っていた。

七十四番札所 甲山寺へ


西行庵へと寄り道したが、七十三番札所 出釈迦寺から七十四番札所 甲山寺への道ははっきりしない。手掛かりとしては海岸寺道を廻り曼陀羅寺へと進む遍路道、県道48号を南に折れ、曼陀羅寺へと向かう途中道端に立つ、茂兵衛道標(88度目)に「右 甲山寺」とあった。この道標まで戻り、甲山寺を目指すことにする。

西行庵分岐点の自然石道標
西行庵を離れ、少し西に進んだ後、北に丘を下る舗装された道を進み、曼陀羅道を曼陀羅寺へと歩いた途中にあった西行庵分岐点の自然石道標まで戻る。







茂兵衛道標(88度目)
西行庵分岐点の自然石道標を右に折れ、曼陀羅寺を目指し山門前の道を北に向かい茂兵衛道標(88度目)へと戻る。

県道48号沿いの茂兵衛道標(241度目)
県道48号へと北に進み、県道を右折ししばらく県道48号を東に進む。県道48号に県道217号が北から合流するT字路に茂兵衛道標(241度目)。この道標には「曼陀羅寺 出釈迦寺 弥谷寺」が刻まれ、特段甲山寺への遍路道を示すものではない。
甲山寺までおおよそ1キロ。甲山寺たる所以の標高87mの小高い独立丘陵である甲山も見える。現在では県道48号をそのまま東に進み甲山寺に向かうお遍路さんも多いようだが、甲山北麓の広田川傍に標石があるとのこと。その場所へと続く道を進むことにする。


弘田川沿いの標石
県道217号とのT字路を越えてすぐ、県道から左に入る道がある。左に折れると直ぐ「四国のみち」の石標があり、そこから東へ0.9キロの表示がある。甲山北麓へと真っすぐに東に続く道を進むと、弘田川へとあたる。その角に「甲山寺0.1km 出釈迦寺2.9km」と記された四国のみちの石標。この道筋が出釈迦っ寺からの遍路道であったようだ。
「四国のみち」の脇に「弥谷寺 へん路みち 弘化四年」と刻まれた標石があった。上述弘田川傍の標石がこれである。

七十四番札所 甲山寺

弘田川にそって少し上流に進むと、右手に甲山寺がある。甲山寺脇の水門から取水した用水路を斜めに覆うコンクリート蓋の先に「四国霊場 第七十四番」 「医王山多宝院 甲山寺」と刻まれた比較的新しい寺名碑が左右に並ぶ。
中門
境内へと進むと右に直角に曲がるように中門がある。なんとなく不自然なアプローチ。昔の境内図には弘田川から真っすぐにこの門へのアプローチがある。
この中門が昔の山門ではなかろうか。平成20年(2008)に、境内南の砕砂工場側、広い駐車場がある側に山門が建てられた、と言う。そのために現在では中門とされているのではないだろうか。




中門の2基の標石
中門(旧山門)前に2基の標石。右手は手印と共に「出釈迦寺 善通寺 大正四年」と刻まれる。手印からすれば、今回辿った甲山北麓裾を辿るルートが 遍路道のようだ。
門の左手には茂兵衛道標。「是ヨリ善通寺ㇸ十丁 明治廿一年」と刻まれる。茂兵衛100度目の四国巡礼のもの。







本堂
正面石段を上ると本堂。天正年間の兵火により伽藍焼失。『四国遍礼巡礼記(1689)』には「昔の大伽藍の所いえども荒涼せり」とあるが享保20年(1735)に再建された。本尊は薬師如来。弘仁12年(821)、空海が満濃池の築池別当の勅命を受けこの地に。工事完成を祈願し薬師如来を刻み仮堂に安置。工事が完成し朝廷よりくだされた銭二万をもって堂塔を建て、薬師如来を安置した、と。


香台
本堂前にある香台は「伊藤萬蔵寄進、周旋人中務茂兵衛 明治三十年」と刻まれる。札所観音寺では伊藤万蔵寄進の石灯篭に出会った。また、57番札所永福寺では同じく萬蔵寄進の香台を見た。
伊藤萬蔵
伊藤 萬蔵(いとう まんぞう、1833年(天保4年) -1927年(昭和2年)1月28日)は、尾張国出身の実業家、篤志家。丁稚奉公を経て、名古屋城下塩町四丁目において「平野屋」の屋号で開業。名古屋実業界において力をつけ、名古屋米商所設立に際して、発起人に名を連ねる。のち、各地の寺社に寄進を繰り返したことで知られる。

大師堂・毘沙門洞窟
本堂の左、一段高いところに鐘楼と大師堂。大師堂は寛保2年(1742)再建されたもの。
大師堂の左に毘沙門天を祀る洞窟がある。洞窟に入ると中央に石の毘沙門天が祀られる、と。

寺伝に拠れば、空海が善通寺と曼陀羅寺の間に霊地を探していると、この岩窟から老婆が現れ、この地に堂塔を建てよと告げたため、大師は毘沙門天を刻み洞窟に安置した。これがこのお寺のはじまりとのこと。 後年、この寺を甲山寺と名付けたのは、山容が毘沙門天の甲に似ていた故、という。





西国三十三所石造巡礼道
毘沙門洞窟の左に石碑があり、「従是 西国三十三所石造巡礼道」と刻まれる。江戸末期に開かれたという甲山を巡る巡礼道に上る。土径に並ぶ西国霊場の観音様にご挨拶しながら進むと表参道と裏参道と記された分岐。
とりあえず表参道を進むと独立丘陵頂上の平坦地に出る。頂上の草叢の中に菊の御紋とともに「神武天皇孝明天皇震儀」と刻まれた石が立っていた。
神武天皇孝明天皇震儀石
震儀の意味は不詳。漢語には「帝王の儀容」とある。儀礼にのっとったお姿といった意味だろうか。それがなにか分からないが、天皇の退位の折などに、祖先神である初代神武天王と高祖父、祖父などペアでその御陵に報告されるようだ。この石碑の建立時期は明治時代ともされるので、明治天皇の即位か退位の折に、祖先神の神武天皇と父の孝明天皇をお祀りしたのだろうか。単なる妄想。根拠なし。
朝比奈弥太郎
この甲山には天霧城の出城があり、香川氏の武将朝比奈弥太郎が居を構えた、と。元禄年間三好氏との元禄合戦において勇猛ぶりを発揮するが、武運つたなく虚しくなった。

山頂から巡礼道を戻り、途中から裏参道に入る。道なりに進むが麓に下りる直前の竹林で道が消える。里が見えるため成り行きで進むと運よく石段があり、里道に戻る。そこは甲山北麓を廻る道であり、甲山寺の境内から少し北に下りていた。


七十四番 甲山寺から七十五番札所 善通寺へ

甲山寺から善通寺に向かう。距離にして1キロほど。境内を離れ、弘田川に架かる橋に向かう。と、橋の少し北、用水路取水水門や取水施設のあるところに標石が立つ。

弘田川の用水路施設傍に標石
標石には「弘法大師御誕生所善通寺伽藍 東 高松・仏生山、瀧宮」「南 金毘羅・善通寺道」「北 丸亀 多度津 金倉寺 塩屋御坊」と刻まれる。その位置は前述中門の真東。昔の境内図には弘田川から真っすぐに山門(現在の中門)に進む参道が描かれる。現在は塀で閉ざされ、山門も南の駐車場に移っているが、ここがかつての三門へのアプロ―チだろう。
駐車場の石柱
また昔の記事には、山門へは瑠璃光橋という石橋を渡ったという。その石橋だが、善通寺第十一師団の火薬庫があったという現在の駐車場に、唐突な感じで3基の石柱が並べられていた。確かめたわけではないのだが、いかにもかつての石橋らしき「雰囲気」を醸し出していた。





T字路の標石
橋を渡り先に進むとT字路にあたる。その角に標石。手印と共に「へんろ」の文字が刻まれる。手印に従い右に折れ弘田川に注ぐ支流を渡り、道なりに左折。更に道なりに右折し「国立病院機構こどもとおとなの医療センター」前の通りに出る。



国立病院機構こどもとおとなの医療センター
かつての遍路道はここから南へと善通寺に向かったのだろうが、この地の南には明治(1897)に善通寺第十一師団の衛戍病院が建ち、現在も国立南病院機構こどもとおとなの医療センターの敷地となり通り抜けはできない。医療センターの敷地の北に沿う道を進み、敷地が切れる東北端角から南へ進む道へと迂回する。
国立病院機構こどもとおとなの医療センター
「こともとおとなの」って、あたりまえのことをわざわざ明記したようで、なんだか面白い。陸軍の衛戍病院が戦後国立善通寺病院と国立療養所小児病院と分かれたものが、平成25年(2013)に両病院が統合されるに際し、「合わせ技」の命名としたのだろうか。

仙遊寺
医療センターの少し東に仙遊寺がある。野木将軍ゆかりのお堂ともあるので、ちょっと立ち寄り。医療センター北端の道を進み、敷地に沿って南に曲がることなくそのまま東に少し入ると最近建て替えられたような新しいお堂が建つ。平成26年(2014)のGoogle Street Viewにはお堂がない。それ以降に建てられたということだろう。
境内入り口には「弘法大師幼児霊場 仙遊寺」とある。お堂の傍にあった案内は昭和の半ばころに書かれたもののようで、今風にまとめてみる。
仙遊寺縁起
「仙遊寺縁起 この寺は大師幼少の頃の霊場であり、幼くして崇仏の念のつよかった大師は、5,6歳の頃から泥土で仏像、御堂をつくり礼拝したと伝わる。
ある日、屏風ヶ浦の辺りを巡視した問民苦使(もんみんくんし、地方監察官)が、遊ぶ大師の姿を見て、跪づく。随員がその訳を尋ねると、「この子は凡人にあらず、四天王が白蓋(びゃっかい)を捧げてこれを護れと聞き伝える」と言った。
里人は大師を神童と称えて、後世にこの礼拝した土地を仙遊ヶ原として、此処に本尊・地蔵菩薩を安置して旧跡としたとされている。なお、この本尊は「夜泣地蔵」と申し、各所より沢山の人が礼拝に訪れる」とある。弘法大師幼児霊場の所以である。白蓋とは白い絹で張った天蓋のこと。
乃木将軍
案内には続けて、「また、かつて日本軍の第十一師団の練兵場を造るに際し、仙遊ヶ原の旧跡も他に移転したが、当時の師団長・乃木将軍は霊夢によって直ちに元の位置に戻すべしと、練兵場の中央に仙遊ヶ原の霊跡を保存し、現在に至る。
世界広しといえど、練兵場内に仏堂があったことは耳にしないとは。なお、昭和26年7月7日を以って寺名を旧跡に因んで仙遊寺と呼称することになった」とあった。
お堂の左手には「仙遊原古跡」の石碑と、その横に「第十一師団官下日露戦争戦病没者奉安殿」と書かれた小さなお堂が建っていた。

旧練兵場跡遺跡
練兵場でチェックしていると、頻繁に「旧練兵場跡遺跡」が登場する。西は上述医療センターから東は「国立研究開発法人農業・食品産業技術開発研究機構 西日本農業研究センター 四国研究センタ‐までの東西1キロ、南は四国学院大学辺りまでの0.5キロのおよそ45万平方キロという広大な地域に広がる縄文時代から中世にかけて、特に弥生時代前期から古墳時代にかけて栄えた大集落跡。大集落跡を示す数多くの建物遺構(竪穴式住居跡、掘立柱建物跡など)と共に、周辺地域との交流を示す物品・土器、鍛冶炉のある竪穴式住居といった鉄製品の加工をおこなった遺跡などが見つかっている、とのこと。
有岡古墳群
この善通寺地区、旧練兵場跡遺跡に限らず五岳山の南麓、弘田川が山間に流れ出る有岡地区には3世紀末から7世紀にかけての有岡古墳群があり、中でも野田古墳は全長44.5m.後円部径21mの前方後円墳。前方後円墳といえば大和朝廷、ということで、中央との深い関係が示される。
出釈迦寺の奥の院禅定でのハイキングコースの案内に、「有岡はこちらに下る」といった案内があり、有岡って何か見どころでもあるにだろか、などと思っていたのだが、古墳の里であったわけだ。

犬塚
医療センター北東角に戻り、ほんの少し進むと、東に入る細い道があり、その入り口に総本山善通寺の案内とともに「犬塚」右の矢印があった。 入り口には犬塚の案内があり、「この犬塚は、角礫凝灰岩製の笠塔婆で高さ2.5メートル、四方には風化しているが大日如来を示す梵字の"バンが刻まれている。作者は不明で鎌倉時代の作と推定される。
空海が唐から持ち帰った薬草(麦の種子)にまつわる義犬伝説があり、昭和六十二年七月二十一日、善通寺市の史跡として指定され、古くからの信仰を今に伝えている。善通寺市教育委員会」とある。

細路を奥に進むと屋根を葺いた小屋の中、玉垣に囲まれた笠塔婆が建っていた。 案内にあたように塔身に金剛界大日如来を示す「種子(しゅうじ、しゅじ)」が刻まれている。
種子は仏教において、仏尊を象徴する一音節の呪文(真言)。大日如来を示す種子(日本では種子梵字でもって表すことが普通のよう)の音読みが「バン(vam)]ということのようだ。
笠塔婆
種子が刻まれた笠塔婆は台の上に角柱の塔身を置き、その上に笠を乗せ、笠の上に宝珠・相輪を立たせる。板碑の先駆けとなる石塔と言われ、平安後期にはじまり、鎌倉後期に広まった。当初供養塔として建てられた笠塔婆も、時代とともにその目的も変わり、五穀豊穣などの民間信仰の対象となっていったようである。
義犬伝説
で、この笠塔婆にまつわる義犬伝説って? 「讃岐の伝説(草薙金四郎)」を参考に概略をまとめると;「空海が唐に留学していた時のこと。空海はある薬草を求めて天竺まで 行く。その薬草は厳しく管理され、薬草の畑には番人や番犬がいた。
空海は3粒の種を採取するも隠すところがない。仕方なく自分の股の肉を裂いてその中に隠すが、一匹の番犬が吠え立てる。番人は空海の体を調べるが、何も見つからない。怒った番人はその犬をたたき殺してしまった。
空海はその死骸を もらい受け、長安まで持ち帰り、真言密教の秘法をもってその犬を生き返らせた。犬は空海を慕い、仏教経典、薬草の種と共に帰朝する空海の供をし、その後も常に空海のそばを離れることなく、死んだあとはここに祀られた」。
どこが義犬かちょっとわかりにくいが、それよりなにより薬草の「種子」という言葉にフックがかかる。笠塔婆の「種子」と薬草の「種子」。このアナロジーにより「種子」にかかわるお話ができたのだろうか。何の根拠もないが、そうであれば誠に面白い。
ちなみに持ち帰った薬草は麦とある。ビタミン不足からくる脚気やくる病に効果があった「薬草」だったのだろう。その麦が讃岐名物のうどんのルーツでもある、とするのはあまりに空海贔屓となるのだろうか。

七十五番札所 善通寺の廿日橋
犬塚を出て道を南にくだり、右に本坊境内、左に善通寺伽藍を分ける廿日橋に到着。
本日は距離が短いわりに、あれこれ気になることも多くメモが長くなった。本日はここで打ち止め。札所善通寺のあれこれは次回のメモに回す。


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