鳩ノ巣渓谷散歩

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何年ぶりだろう、奥多摩の鳩ノ巣渓谷を歩くことにした。秋に会社の人たちとのハイキングに鳩ノ巣渓谷もその候補となったのだが、わずかに「数馬の切り通し」を除いて、それ以外の景観が全く以て思い浮かばない。渓谷に沿って岩場を歩き、それなりに景観を楽しんだとは思うのだが、それがハイキングデビューの皆さんにインパクトを与え、山ガール・山ボーイへのフックとなるほどのものか、今ひとつ自信がない。これはもう、もう一度歩いて判断するに莫若(しくはなし)、これが鳩ノ巣渓谷再訪の理由である。
それにしても、すっかり忘れてしまうものである。散歩の後はメモするのを基本とするのだが、鳩ノ巣渓谷はあまりにポピュラーなハイキングコースであり、「まあいいか」などとメモをしないでいた。やっぱりお散歩メモは必要である。砂時計の如く消え去る記憶に抗いながら、これからも「歩く・見る・書く」をお散歩の基本にすべし、と。



本日のコース;JR青梅線・古里駅(11時17分)>小丹波熊野神社>小丹波のイヌグズ>愛宕神社>古里附のイヌグス>寸庭橋(11時57分)>越沢>松の木尾根(12時27分)>鳩ノ巣・雲仙橋(12時38分)>玉川水神社>鳩ノ巣小橋(12時55分)>白丸ダム(13時12分)>数馬峡橋(13時30分)>数馬の切り通し(13時40分)>海沢(14時19分)>もえぎの湯(14時41分)>JR青梅線・奥多摩駅(15時26分)

青梅線
日曜日、成り行きで起き、ゆったりと朝を過ごし、井の頭線、中央線、青梅線と乗り継ぎ奥多摩へ向かう。青梅線は各駅停車。しかも途中での待ち時間が結構多い。ホリデー快速であれば中央線からの直通もあり、段取りもいいのだが、のんびりゆったり青梅を進む。
青梅線は立川から奥多摩駅を結ぶ。はじまりは青梅鉄道。明治27年(1894)、立川・青梅間が開通する。翌明治28年(1895)には青梅・日向和田間が貨物区間として開通。明治31年(1898)になって青梅・日向和田の旅客サービスもはじまった。日向和田・二俣尾間が開通したのは大正9年(1920)のことである。
昭和4年(1929)、青梅鉄道は青梅電気鉄道と名前が変わる。この年に二俣尾・御嶽間が開通した。昭和19年(1944)、青梅電気鉄道は御嶽・氷川(現在の奥多摩駅)間の開通を計画していた奥多摩電気鉄道とともに国有化となる。国有化となったこの年御嶽・氷川間も開通。これで立川・氷川間(奥多摩駅となったのは昭和46年;1971年)のこと)が繋がった。
青梅鉄道が造られたのは石灰の運搬がその目的。石灰を運んだ貨車の一番後ろに1両か2両の客車がつながれていた。「青梅線、石より人が安く見え」といった川柳もある(『青梅歴史物語;青梅市教育委員会』。いつだったか青梅の山稜を辛垣城へと辿ったとき、辛垣城跡が崩れていたのだが、それは石灰をとったため、などとの説明があった。それを挙げるまでもなく青梅は往古より石灰の産地である。江戸城のお城の白壁の原料として青梅の石灰を運ぶ道、それが青梅街道の始まりでもある。
青梅鉄道が早い時期に日向和田にのばしたのは、そこが石灰の積み出し場所であったから。実際、宮の平駅と日向和田駅の間に石灰採掘場跡が残るという。全山掘り尽くし山が消えた、とか。Google Mapの航空写真でチェックすると、山稜が南に張り出し青梅線が大きく湾曲するあたりの山中に緑が消えている箇所がある。御嶽から氷川へと路線を延ばしたのは、この地の石灰を掘り尽くし、更に奥多摩の産地からの積み出しが必要となったからである。こんなことをあれこれ考えながら最初の目的地である古里につく。

JR青梅線・古里駅
古里で下車。鳩ノ巣渓谷であれば鳩ノ巣駅が最寄りの駅ではあるが、渓流だけでは少々味気ないかと、途中に松の木尾根越えをコースに入れた、ため。それにしても、忘れている。古里の駅前には店などあるのか、などと心配していたのだが、民家も多く、駅前のすぐ南を国道411号線に出たところにはコンビニもあった。
古里って、なかなかいい地名。「こり」と読む。由来は御嶽参詣に水垢離(みずこり)したから、との説がある。御嶽山から大塚山を経て古里に下る御嶽裏参道があるわけで、それはそれなりに説得力をもつのだが、そもそも古里という村の名前ができたのは明治22年。近辺の村々が合併して古里村ができたとのことである。
ということで、なんとなくしっくりこない、などと思っていたのだが、たまたま読んでいた『奥多摩歴史ものがたり;安藤精一(百水社)』表2(表紙の裏)の古地図に「コリツキノ滝」があった。古地図には「調布玉川絵図;相沢伴主著・長谷川雪堤画」とのクレジットがある。相沢伴主が多摩川の水源を探索し、その上流から下流まで写生し、それを名所図会で有名な長谷川雪堤が浄書した。江戸の頃、文化6年(1809)製作されたものである。すでに名所として描かれているとすれば、水垢離説に軍配を上げる。ちなみに相沢伴主は聖蹟桜ヶ丘散歩のとき出会った。なんとなく、懐かしい。

小丹波熊野神社
駅を離れて小丹波熊野神社に向かう。駅から線路を隔てて北側にある。前回この神社を訪れて、その楼門に惹かれていた。入母屋造り・茅葺屋根の楼門というか「床下」を抜け神社境内に入る。楼門を見返すと、そこには舞台がある。江戸時代から戦前にかけて農村歌舞伎が上演されていた、という。こういった農村歌舞伎の舞台は奥多摩にはいくつもあったと伝わる。本殿は御嶽の熊野神社から分祀されたとのこと。本殿右手には塩かまど神社。安産の神様として女性の体に似せた自然石が祭られている。残念なことに、楼門は現在修築工事中であった。

小丹波のイヌグズ
小丹波熊野神社から西に200mほど進むと、線路の北の斜面に巨大な樹冠が見える。これが奥多摩町指定の天然記念物である「小丹波のイヌグス」。案内によれば;目通り幹囲4.55m、元の名主原島家の屋敷林となっています。正式名を「タブノキ」といい、暖地に自生する常緑喬木で、樹皮は染色原料となり、材は装飾器具の材料として用いられます。樹勢は極めて旺盛です(奥多摩町教育委員会)」、とある。
原島家は奥多摩の旧家。16の村の内6カ村の名主であった。原島家のことを知ったのは先日、日原から仙元峠を越えて秩父に抜けたとき。今をさる500年の昔、天正というから16世紀後半、戦乱の巷を逃れ原島氏の一族が武蔵国大里郡(埼玉県熊谷市原島村のあたり)より奥多摩・日原の地に移り住む。原島氏は武蔵七党、丹党の出。日原の由来は、新堀、新原といった、新しい開墾地といった説もあるが、原島氏の法号「丹原院」の音読みである「二ハラ」からとの説もある。以来、奥多摩の地に勢をのばしていったのだ。

愛宕神社
国道411号線を進む。夏休みは既に終わっているのだが、車の往来が激しい。道脇に山側へと伸びる参道と鳥居が見える。祠は山の中腹にある。急な、狭く誠に急な石段を上る。息があがる。やっとのこと到着。愛宕社と脇のお稲荷さんに。愛宕神社は火伏せの神様。修験道の道場でもある京都の愛宕神社からはじまり、修験者により全国に広まる。現在全国に1000ほどの愛宕社がある、と言う。お詣りを済まし、石段を戻る。足元が危うい。慎重に里に下り国道411号線に。

国道411号線
国道411号線は東京の八王子と山梨の塩山を結ぶ。東京都八王子から青梅の谷筋を辿り、奥多摩町を経由し武甲国境の柳沢峠を越えて山梨県甲府市に至る。自動車が通行できるようになったのはいつの頃だろう。推論してみる。
大正の末には奥多摩の氷川と鳩ノ巣の間に横たわる数馬の岩壁に隧道が抜けた。この頃には奥多摩の氷川までは自動車でいけたのかもしれない。奥多摩から西は中世以来の甲州街道、所謂古甲州道が通っていた。奥多摩から小菅をへて大菩薩峠を越え塩山に下る道である。明治になって道路改修を計画するも、大菩薩越えはあまりに困難であり、柳沢峠の開削が計られる。丹波山村民など民力を結集した成果、とか。道はできたが、道幅も狭くとても車が通れるようなものではなかったようである。車道が開通したのは昭和34年頃。昭和14年から始まった東京市主導の小河内ダム建設に際し、山梨県としての協力のバーターとして、丹波山村鴨沢から柳沢峠までの24キロの工事を東京市が行うことになった。これが難工事であったようで、結局着工以来20年をかけて完成したと言う。ということで、全線開通は昭和34年あたりであろう。

古里附のイヌグス
成り行きで国道に戻り西に進む。「ウオーキングトレール;寸庭橋方面」との案内がある。案内に従えば道は国道に沿って集落の中を道が進むが、ここは古里附のイヌグスを見るためそのまま直進。入谷川を越えたところ、国道の山側に小さな祠とともに「古里附のイヌグス」があった。青梅線と国道に挟まれ少々窮屈な感じ。こちらは東京都指定の天然記念物:奥多摩街道の北側、街道と国鉄青梅線路敷との間の地で春日祠の境内にある。敷地は街路より約2メートル高く、この崖に接して立つ樹の根元約1メートルは崖の法面に露出している。地上1メートルの幹囲は約6.5メートル、樹高約23メートル。幹は地上約1.5メートルのところで南北二本に分かれ、北の枝は、さらにその上約3メートルのところで二本に分岐し、樹勢は旺盛である。イヌグスの皮は黄八丈の樺色染色の原料となる。正式名は「タブノキ」。
暖地に自生する常緑喬木。花は秋に咲き、果実は翌年の七月ごろに至って熟す(東京都教育委員会)」。とはいうものの、一見するところでは、樹勢旺盛とは見えず。

清身橋
国道から離れ分岐の小径を寸庭橋へと下る。橋に向かう手前で左手から道が合流。先ほどの「ウオーキングトレール;寸庭橋方面」から続く道である。この道を左に折れ、道を少し戻り入谷川に向かう。川に架かる橋は「清見橋」。「古里附橋」とも、更に昔には垢離尽橋とも呼ばれたようだ。橋の北側に滝、というか堰があり、「清身滝」と呼ぶそうだ。下流には「古里附の滝」もあるようだが、どこかわからなかった。ともあれ、この「清身滝」あたりが古地図の「コリツキノ滝」。橋が「清見」、滝が「清身」とちょっと字が異なるが、どちらにしても「浄い>清い」であるには変わりがない。ここが古里の名前の由来となった滝であろう。





寸庭橋
清身橋を離れ寸庭橋に向かう。橋のたもとに駐車場。お手洗いも容易されている。「ウオーキングトレール」の案内によれば、このあたりを「おたぎ下」と呼ぶようだ。「御滝下」のことでありましょう。「河原には多くの家族。行く夏を惜しんでか水浴びをしている。上路アーチ式の寸庭(すんにわ)橋を渡る。「寸庭」って面白い名前。「ちょっとした小庭」といった意味が庭造りでの使い方ではあろうが、この川がそんな小洒落た由来があるとは思えない。実際、大塚山から流れ出す寸庭川という川があるわけで、はてさて、どんな由来があるのだろう。

越沢
橋を渡ると道は左手に曲がる。道なりに行くと多摩川南岸を丹三郎地区へと向かうようだ。丹三郎は上でメモした原島一族、原島丹三郎友連の由来の地名。この地を開き代々名主であった、とか。
遊歩道は右に折れ、多摩川に沿って上流へ進む。程なく美しい沢に当たる。これが寸庭川。さらに進むとまたまた気になる沢にあたる。これが越沢。「こいざわ」と読む。あまりにいい感じの沢筋でもあるので、ちょっと沢を上ってみる。よさげ、である。足元を沢登りスタイルとして遡行してみたくなった。後からわかったことではあるが、この沢の上流にはあことに越沢ガーデンキャンプ場とか越沢バットレスキャンプ場といったアウトドア施設もあるようだ。バットレス(buttress)は「垂直な岩壁」の意味。ロッククライミングの練習場として有名なところ。金比羅渓谷遊歩道などという美しい沢沿いの道もある、と言う。そのうちに言ってみよう。沢を戻り小橋を渡る。「ホタル橋」と呼ばれる。看板にはホタルの生息地とあった。きれいな沢のはずである。

松の木尾根
橋を渡ると山道となる。杉林の中を進む。山中に民家が一軒。このあたりは小名沢と呼ばれている。山道を上ること20分弱。松の木尾根に上がる。尾根の西に鳩ノ巣の街並みが見えてくる。尾根道を進むとほどなく分岐点。左手の山道を進むと、大楢山を経て御嶽山に続く。先ほどのキャンプ場も、この道を進み途中から沢に下るようだ。ますます、行きたくなってきた。今回のルートは、この分岐を右に坂を下ることになる。分岐点にある東屋で鳩ノ巣方面の展望を楽しみながら少し休憩。

鳩ノ巣
休憩を終え、坂を下る。ほどなく坂下地区の集落。言いえて妙なる地名である。多摩川にかかる雲仙橋を渡り多摩川北岸に。坂を上り道なりに進めば国道411号線や青梅線の鳩ノ巣駅に向かうが、本日のお散歩コースは坂の途中、民宿雲仙屋の脇を左に折れ、鳩ノ巣渓谷のほうに進む。実のところ、後になってわかったのだが、鳩ノ巣駅の東、山塊が多く競り出し多摩川や国道が大きく湾曲するあたり、急坂を10分程度上ったところに将門神社があった。青梅・奥多摩には数多くの将門伝説が残る。そういえば青梅だけでなく五日市・あきる野の平井川流域でも将門ゆかりの地にであった。将門が青梅や奥多摩に来たことはないわけで、青梅・秋川筋に勢をはった三田氏が将門の後裔と称したことがその一因であろう、か。青梅の金剛院にはその地名の由来となった、とも伝わる「将門誓いの梅」が残る。また、鳩ノ巣の南岸に城山と呼ばれる標高750mほどの山がそびえるが、その山名の由来は、将門の館があったとの伝説から。かくほど左様に将門伝説は数多い。

玉川水神社
渓谷に向かって坂を下ると、途中で双竜の滝の案内。右に折れてちょっと寄り道。国道下だろうが、岩盤から滝が落ちていた。坂道に戻り渓谷わきの
旅館一心亭に。前回来た時は川傍の休憩所で食事をとったのだが、今回は店は閉まっていた。一心亭前の小高い岩塊上に玉川水神社がある。大和国丹生川上神社の中社の祭神で水神の「みずはのめのかみ」を祀る。岩盤に鳩ノ巣の由来の案内。明暦の大火で焼け野原となった江戸の復興のため木材の切り出しがはじまる。奥多摩・青梅は秩父の名栗筋の西川材とともに、木材の一大供給地。水神社のあたりに切り出し・搬出のための木材番所ができたという。そこに祀った水神社につがいの鳩が止まり来る。そのまことに仲睦まじい姿ゆえに一同心なごみ、霊鳥として大切に扱った。地名も「鳩ノ巣のところ」ということから鳩ノ巣と呼ばれるようになった。

棚沢
しばし休憩の後、散歩に出かける。渓流に沿った岩場を進む。切り立った岩場も見える。まさしく「棚沢」である。実のところ鳩ノ巣は正式な地名ではない。正確にはこのあたりは棚沢と呼ばれる。棚沢とは、「谷間が棚のような垂直な断崖になっている沢。多くの場合沢は滝となる」といった意味(『奥多摩風土記(大館勇吉著;有峰書店新社刊)』)。地形を見るにつけ、まことにもって言いえて妙である。巨岩・奇岩の間に清流が流れる。川筋は狭い。この鳩ノ巣のあたりまでは谷幅が狭いため、切り出した木材は一本一本バラバラに多摩川に流した鳩ノ巣には「魚留滝(明治の末に崩壊)」があったこともあり、多摩川の筏流しの上限は古里附の「音が淵」が上限であった、とか。

白丸ダム
渓谷に沿ってアップダウンを繰り返し、次第に高度を上げていく。白丸ダムの堤防へと高度を上げダム脇に到着。ダムの堤防に降りると魚道の説明。多摩川を遡上する魚のためにダムの横に階段状の水の道がつくられている。ジグザグに続く魚の道は地下のトンネルを通りダム湖・白丸調整池に繋がる。
堤防の南側には取水口がある。水は地下を通り5キロほど下流の多摩川第三発電所に送られる。通常ダムから下流は干涸らびた河床が多い。しかし、ここは事情が異なる。鳩ノ巣渓谷の狭隘部を堰き止めるダム建設に際して鳩ノ巣渓谷の景観を守るために反対運動が起こったようだ。で、交渉の末、3月中旬から11月中旬までは渓谷の景観維持、つまりは豊かな水量確保のために放水がなされている、と。白丸ダム直下にある白丸発電所ではその放水を利用し発電を行っている。
この白丸ダムは東京都交通局の管轄という。通常ダムの管轄は水道局であり、東京電力といったものであろうが、どういった事情であろう。好奇心でチェック。昭和7年、当時の東京市水道局は水道需要に応えるため小河内ダム建設を計画。その計画を受け、東京市電気局は軌道事業(電車)だけでなく、市が必要とする電力の供給事業を計画。戦前のあれこれの経緯は省くとして、戦後になり都は発電事業を開始。所管は電気局が組織を変更し、新たにできた交通局が担当することになった。電気局は、戦時の電力事業の国家統制もあり、発電事業を廃止し軌道部門だけとなったため、交通局と改名した。発電した電気は東京電力に卸している、とか。はじめ交通局の管轄、と聞いたときは、てっきり地下鉄の電気確保のためか、などとお気楽に考えていたのだが、掘れば歴史が現れるものである。

数馬峡橋
エメラルド色のダム湖湖畔を進む。湖面に遊ぶカヌーが多い。どこから入り込むのやら、などと思っていたのだが、進むにつれて数カ所湖面へのアプローチ地点があった。湖畔にカヌーの置き場もあった。緑の小径を15分ほど歩き数馬峡橋に。渡りきったところに「楓渓・数馬峡の碑」と「河合玉堂歌碑」があった。
「楓渓・数馬峡の碑」には田山花袋が数馬峡を「多摩川の楓渓は、ことにすぐれている・・・・渓もよければ谷の形もよい 水の岩にふれて瀬をなしているのも面白い 道は楓渓と相対して秋は美観である」と描く。つい最近探し求めていた田山花袋の『東京の近郊 一日の行楽』を手に入れたばかりであり、なんたる奇縁。田山花袋のほか、河合玉堂、山田早苗が「楓渓・数馬峡の碑」に描く楓渓・数馬峡も、「楓渓・数馬峡の原風景は、白丸ダムの完成で半ば失われたが、 国道411の直上約20メートルの「数馬の切り通し」(江戸時代に硅岩の岩盤を切り開いた青梅街道)からの眺望は絶景である」というフレーズで結ばれていた。
「河合玉堂歌碑」には「山の上の はなれ小むらの 名を聞かむ やがてわが世を ここにへぬべく」と書く。日本画の巨匠である河合玉堂は奥多摩の自然を愛し、昭和19年(1944)から昭和32年(1957)まで御嶽で過ごした。現在御嶽橋の袂に玉堂美術館がある。
橋を渡って数馬の切り通しに向かうのだが、先ほどの鳩ノ巣と棚沢と同じく、この地も地籍は数馬ではなく白丸と言うようだ。白丸の由来は、多摩川南岸、白丸の対面に聳える城山(じょうやま)が転じたもの、との説がある。「じょうやま」も、もとは「しろやま」であったものが代官のお達しで読みを変えた、とか。しろやま(城山)>しろまる(城丸)>しろまる(白丸)、ということだろう。また、しろ=田畑または区画を示す「しろ=代」。「その畑地が球形に区切られている」から「しろまる」との説もある(『奥多摩風土記(大館勇吉著;有峰書店新社刊』)。いつものことながら、地名の由来って、諸説あり定まることなし。

数馬の切り通し
数馬の切り通しへと向かう。橋を渡り国道に向かい、手作り味噌のお店の脇から数馬の切り通しへの小径へ入る。民家の脇を通り昔歩いた切り通しへの道を進むが、どうも最近大幅な道路工事が行われている。古き良き古道へのアプローチは消えてしまった。国道からも直接上る道が造られている。切り通しにはこの車道から直接上るのが早そうだ。
車道を越えると昔ながらの小径に戻る。杉林の中を進み、沢を過ごすと切り通しに到着。前面の巨岩がきれいに穿ち抜かれている。18世紀初頭、江戸の元禄の頃、岩に火を焚き水で冷やし、脆くしたうえで石ミノやツルハシで切り抜いた。江戸のはじめまで、白丸と氷川との往来は急峻な山越えの道しかなかった。白岩の集落から根岩越えという尾根越えの道を進み、山上はるか上まで続く大岩塊・根岩を迂回し、ゴンザス尾根の鞍部、標高770mあたりで尾根を越え、逆落としの如く氷川集落の裏山へと下る道であった、よう。
で、この切り通しができることによって氷川との往来が少し容易になった。物流が盛んになった。どこで読んだか覚えてはいないが、切り通しのできる前後で氷川集落の家屋個数が200戸から300戸に増えた、とのうろ覚えの記憶がある。
切り通しの手前に「数馬の切り通し案内図」があった。切り通しを越える道は大正の頃まで四回にわたりルートが変更されている。今歩いてきたのが元禄期の道筋、その道の少し下、沢に沿って18世紀中頃の宝永の頃のルート、元禄の頃の道筋から途中で別れ沢を橋で越えて切り通しの先に続く19世紀中頃・嘉永の頃のルート。現在の国道411号線の川側を進み数馬隧道を通る大正の道。あれ?ということは、数馬の切り通しが使われたのは元禄から宝永の頃までの半世紀ということ?
切り通しを越えて先に進む。と、道は180度に近い角度で曲がる。しかも石段があり段差となっている。元禄の頃の切り通しの道跡とすれば誠に不自然。ひょっとすると先ほどの案内でみた嘉永の頃の橋を渡したルートとの繋ぎではなかろうか。であればぴったりと道筋が一致する。
先に進むと再び切り通し。その先は岩壁に沿って細路が続く。切り通しも大変だったと思うが、この岩壁を切り崩し、道を穿つのも大変だったと思う。ということは、数馬の切り通しって、イントロ部分の大岩塊の部分だけでなく、この断崖を穿った開鑿すべてを含んだ言葉なのであろう。
崖下に大正時代の道が見える。足元を抜ける数馬隧道の完成によって、奥多摩・氷川と青梅との車での往来が可能となったのではないだろう、か。大正期の道路の遙か下には多摩川の流れが見える。「楓渓・数馬峡の碑」にあった「数馬の切り通しからの眺望は絶景である」、とはこのことであろう。「楓渓・数馬峡の碑」にも名前のあった山田早苗の数馬の切り通しの描写を挙げておく; ゆく道の大厳の山をさながら切割りて、牛馬の通うばかりに道を造れる処、一町ばかりの程は石敷きたる廊(わたどの)の如くにて、入口に石の門の如く岩立ちたりし所あり(天保12年の山田早苗の『玉川訴源日記』より)。
ところで「数馬」の由来であるが、これまたはっきりしない。秋川筋に数馬の集落がある。これは中村数馬が開いたところ、とか。まさか、秋川筋から中村さんが青梅筋まで遠征したとも思えない。奥氷川神社の神官に河辺数馬藤原永義がいた。この人物が数馬の切り通しを開いたとの説もある(『奥多摩歴史物語;安藤精一(百水社)』)。由来としてはわかりやすい。そのほか、すまは「隅」、かは「かど、かき、かぎり」、の「か」であっり、かずまとは「障壁によって限られるところ」との説も紹介されている(『奥多摩風土記(大館勇吉著;有峰書店新社刊』)。例によって、定説は、ない。

氷川発電所
再び遊歩道に戻る。数馬峡橋を渡り直し、橋の南詰め脇から上流へ向かう。道脇にある森のカフェ・アースガーデンの横を抜けて先に進む。岩壁に沿った遊歩道を進むと隧道があり、そこを抜けるとあたりが開ける。道なりに進むと東京電力氷川発電所と水圧鉄管が見えてくる。平成19年に東電の100%子会社である東京発電に譲渡されているので、正確には東京発電氷川発電所と言うべきか。島嶼部を除いて唯一の水力発電所であった東京電力氷川発電所も水力発電専門の東京発電に移った。東京発電の発電所は先日箱根の深良用水散歩のとき出会った。関係ないけど、なんだかうれしい。
100m強の水圧鉄管が山から下っている。水は小河内ダム直下の多摩川第一発電所で使った余水。水じょく池にたまった水は大半が多摩川に放水されるが、一部が5.3キロの隧道水路を通り氷川発電所に送られてくる。Google MAPをみていると、水圧鉄管の伸びる山中に如何にも人工的な池が見える。これって氷川発電所の調整池だろうか。

海沢
氷川発電所を左にみながら海沢川にかかる小橋をわたる、上りきったところを右に折れ、多摩川にかかる海沢大橋を渡ると国道411号線に出る。左に折れ都道184号線にそって歩けば多摩川南岸を通り奥多摩・氷川に続く。
それにしても奥多摩の山中に「海沢」とは面妖な。チェックすると、往古この地には湖があったと伝わる。交差点を少し山に向かったところにある向雲寺とか海沢神社の西側一帯がそうであった、とか。いつの頃か決壊し現在の地形になったのだが、地名は残った。それが海沢の由来とのこと(『奥多摩風土記(大館勇吉著;有峰書店新社刊』)。

JR奥多摩駅
あとは都道184号線を進み、もえぎの湯への案内を目安に都道から別れ、橋を渡り一風呂浴び、JR奥多摩駅に向かい家路へと。本日はポピュラーなハイキングコース。特にメモすることなど、なにもないかとお思っていたのだが、あれこれ面白そうなところが現れてきた。越沢の渓流に沿っての沢上りに備えて、早速渓流シューズを探し、防水バックを整え始めた。越沢に限らず、御嶽の周辺はなかなか面白そうである。

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