相模 サバ神社散歩 そのⅠ:境川水系や引地川沿いに鎮座するサバ神社を大和市から横浜市、そして藤沢へと辿る

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初冬のとある週末、散歩に出かけようと思うのだが、何処といって散歩の地が思い浮かばない、で、本棚にあった『県北をいく;横浜銀行産業文化財団(西北社)』を取り出し、どこか適当なところはないかとスキミング&スキャニングをしていると、「大和市周辺の民俗(鈴木通大)」の記事の中に、相模国と武蔵国の境にある境川の流域に鎮座する「サバ神社」の記事が目に入った。
流域に12社鎮座する「サバ神社」の「サバ」の字には鯖、左馬、佐馬、8佐婆、佐波が当てられ、バラバラ。由来も左馬頭であった源義朝との結びつきの説があったり、「サバ」とは分割を現す意味であり境の神では、との説があったり、「さわ」といった地形からくるとの説があったりと、はっきりしない。佐波、鯖を冠する社は他の地にも見えるが、左馬を冠する社はこの地域にしかないようだ。また、江戸の頃は「七鯖参り」の信仰があり、流域の人々の信仰を集めていたようである。
誠にはっきりしないことが多い神社群である。実際に歩いてみて、地形などを踏まえながら、なんらか自分なりに納得できる解釈ができればと、急ぎ家を飛び出した。いつもながら、成り行き任せの散歩であり、出発が遅く冬の早い日暮のため1回で終えることができず、2回に渡る散歩となった



本日のルート;小田急江ノ島線・大和駅>大和天満宮>深見神社>境川>西福寺>左馬社(橋戸)>蔵のある民家>宗川寺>左馬神社(上和田)>長屋門の民家>薬王院>左馬神社(下和田)>長屋門の民家>飯田神社(上飯田)>佐婆神社(神田)>和泉川>中之宮左馬神社>左馬神社(下飯田)>東勝寺>今田鯖神社>小田急江ノ島線・湘南台駅

■『源義朝を祀る サバ神社その謎に迫る;江本好一(武田出版)』
2回の散歩を終えて、さて散歩のメモを、と思うのだがサバ神社のことがさっぱりわからない。唯一実感したのは、相模国と武蔵国の境を流れる境川やその支流の和泉川、境川の西を下る引地川によって浸食された洪積台地の裾に鎮座する、ということ。それ以外の鯖、左馬、佐婆、佐馬、佐波の名称の違いや、そもそものサバ神社の由来も左馬頭であった源義朝と関係あるらしい、といったこと以外は全くわからない。また、それ以上に、それぞれの社の名称が左馬神社から鯖社となり、その鯖社がまた左馬社に戻るなど、社の名称が時代によって結構変わっており、ますます混乱してしまった。
このままではメモなどなあ、などとWEBであれこれ調べても、なんとなくしっくりこない。そんな時WEBで『源義朝を祀る サバ神社その謎に迫る;江本好一(武田出版)』という書籍があるのがわかった。何らかの手がかりが、と思い地元の杉並図書館で検索するも該当なし。結局広尾の都立中央図書館に蔵書があることがわかり、そこを訪れ数時間本を読み、なんとなく自分なりに「しっくり」する筋立てがちょっとわかってきたように思う。以下、大雑把ではあるが、その書籍から得た「サバ神社」に関するあれこれをまとめ、それを軸に散歩のメモをはじめようと思う。

同書によれば、サバ神社のはじまりは、境川や和泉川、そして引地川により浸食された洪積台地の川沿いに祀られた祠、里神様といった素朴な祭祀信仰ではないかと説く。そしてその祭祀圏は上流より一気に下った河川が緩勾配の地区に出るところであり、水が溢れやすく洪水地帯であることより、その祠は水害から耕地や家族の命を守ることを主眼とする祠・里神さまではなかった、とのこと。「川」、というか、乱流し流路定まることのない「沢」それ自体を祀ったとの説もあるようだ。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)

その里神さまである小祠が「サバ神社(神社は明治以降の名称であり、サバの社とかサバ明神などと呼ばれたのだろうが、ここでは便宜的に神社と呼ぶ)」となった時期は江戸初期の頃と説く。サバ神社12社の内、鎌倉・室町期の創建との伝承がある社は3社あるが、その内2社は単なる伝承であり、文書が残るのは飯田神社(この社もサバ神社のひとつ)だけ。とは言っても、それは飯田氏の氏神としてはじまったのが鎌倉期ということであり、サバ神社は江戸初期に合祀されたとする。

では、江戸の初期、サバ神社を最初に創建したのは誰。同書では、瀬谷を領地とした長田氏と説く。長田氏とは源義朝を誅殺した長田忠到の一族の後裔。社を祀り怨霊を鎮め疫病退散のためなのか、源氏の後継を称した徳川家へのエクスキューズなのか、左馬頭であった源義朝の官名をとり「左馬社」を祀った。

瀬谷の領主である長田氏が「左馬社」を祀ると、堺川や和泉川、そして引地川流域に領地をもつ他の清和源氏を祖とする旗本領主を中心に、どうせ鎮守をもつなら疫病退散に効力があり、かつまた徳川=源氏ゆかりの源義朝を祀るようにと、里の小祠をサバ神社としてバージョンアップしていった。が、祭神は源義朝であるにしても、その名称は源氏系の領主は別にして、社の名称は地形から来る「佐波」「佐婆」などと「左馬」には必ずしもこだわりがなかったようである。

こうしてはじまった「サバ神社」であるが、ある時期そのサバ神社のうち10の社が鯖神社と名を変える。それは病気退散に功徳がある民間信仰の鯖信仰の流行に便乗したものか、とも。しかし一時期「鯖」とした「サバ神社」、もその後、鯖を残したり、佐波や佐婆としたり、左馬と戻したと現在の社の名前に戻った。その場合、左馬に戻したのは義朝の出自である清和源氏の系統を誇る領主の地の社であり、それ以外の清和源氏と関わりのない領主の地は左馬にこだわることなく、佐波とか佐婆、また鯖をそのまま残したりしたとのことである。

それともうひとつ、和泉川沿いの3つの社の祭神は源義朝ではなく、源満仲となっている。その理由は、その地の領主は源氏の系統ではるが、義朝の系統ではなく、義朝より以前に分かれた源氏の一党であり、故に義朝を祀るのを潔しとせず、清和源氏繁栄の祖ともいえる満仲を祭神とした、と説く。

以上、サバ神社の「謎」は同書を元に自分なりに納得できたと思う。少々後付けの「理論武装」ではあるが、同書の説明を手掛かりに、サバ神社散歩のメモをはじめる。

小田急江ノ島線・大和駅
家を出て、小田急線を乗り継ぎ、サバ神社群の北端に鎮座する橋戸の「左馬社」最寄り駅である江ノ島線・大和駅に。大和駅がある大和市は東西3キロ強、南北10キロ弱の南北に細長い市域となっている。大和市域は律令体制下では現在の相模原、藤沢、綾瀬、海老名、座間、寒川を含む相模国高座郡の一部であり、10世紀の頃は13郷よりなる高座郡のうち、深見郷と高座郷(たかくら;市域南部)が現在の大和市域と関連するとのことである。
現在は高座郡を構成した自治体や横浜市に周囲を囲まれ、曲線や直線の境界域が入り組み、なんともわかりにくい市域であるが、唯一市の東は境川の流れによって区切られており、市域を分けるメルクマールとしてわかりやすい。
因みに「大和市」の地名の由来は、散歩の折々で出会う、「大和」の由来と同じく「大いに和するべし=なかよくやっていきましょう」から。明治22年(1889)の町村制の施行時に市域は鶴見村(下鶴間村、深見村、上草柳村、下草柳村、上和田村の一部が合併してできた村名)と渋谷村となったが、その後鶴見村で分村問題が発生し、その紛争を収拾するため明治24年(1891)に「大和村」が登場した、ということである。その後昭和34年(1959)、大和町が渋谷村(一時期渋谷町となるが南部の高倉、長後が藤沢市に編入され一時期渋谷村に戻った)が編入・合併し大和市となった。

大和天満宮
駅を下り、境川方面へと道なりに東へと向かう。と、道脇に大和天満宮。ちょっとお参り。この社のもとは昭和19年(1844)に海軍厚木航空隊の飛行場に造営された「厚木空神社」とのこと。厚木航空隊の社には殉職者・戦没者を祀る社殿と天照大神の二つの社殿があったが、終戦後、前者は次に訪れる深見神社に靖国社として鎮座。後者は昭和20年(1945)にこの地に安置され、太宰府から天満宮を勧請し大和天満宮となった。
祭神がこの地に移された理由は、大体予測はつくものの、一応チェックすると、厚木航空隊士が武運長久を祈った社が、終戦により米軍によって取り壊されるのを怖れた部隊関係者の発案に拠る。地域住民に御霊を移す協力を求め、祠を馬車やリヤカーで密かに運び出した、とか。天照大神が天神様となった経緯は不明であるが、皇国史観の核になる天照大神では進駐軍に対して具合悪いといったところだろう、か。単なる妄想。根拠なし。

深見神社
道を進むと、境川に下る台地端に深見神社。広い境内を進むと拝殿左に「なんじゃもんじゃの木」。樹齢400年のハルニレである。結構な拝殿にお参り。説明によれば、延長5年(927)の『延喜式神名帳』に相模国の延喜式内社13社のひとつ、と。小田原北条氏、武田信玄、渋谷庄司重国、源頼朝等の信仰も篤き古き社である。
祭神は、闇神(クラオカミ;雨神)、武甕槌神(タケミカズチ;武運長久の神)、建御名方神。この祭神のラインアップには歴史的経緯が反映される。『総風土記』には「雄略天皇22年(478)に祀る所、闇?神なり」とある。創建時期は不詳ではあるが、創建当初の祭神は闇?神であった。そこに武甕槌神が加わったのは、当地の領主であった坂本氏が鹿島神宮の祭神である武甕槌神を勧請したことによる。ために、一時期、鹿島社と称されたこともある(『新編相模国風土記稿』)。その当時、闇神は御倉稲荷神社に合祀されていたとのことである。
当社の縁起に武甕槌神が東国鎮撫のため、常陸鹿島より伊弉諾神(イザナギ)の御子、倉稲魂神と闇?神の二神を遣わし深海を治め、美田を拓き、郷を開いた、それが深海の由来であるとするが、元の神を旨く配し、筋の通ったストーリーに仕上がっている。

それはともあれ、以来、本殿の祭神は武甕槌神となっていたが、明治の頃、地域の末社である諏訪神社より建御名方神が合祀され、平成24年(2012)には創建当初の闇神が御倉稲荷神社より合祀され、現在の祭神ラインアップとなった。
境内社には前述の御倉(おくら)稲荷神社、その隣りに靖國社。大和天満宮でメモした厚木海軍航空隊の戦没者を祀った厚木空神社である。また、道に面して富澤稲荷神社。深見で製糸会社を開いた富澤家の屋敷神であった、とか。
ところで、「深見」の由来であるが、古代にはこの辺りまで海が深く入り込んでいた入り江であり「深海」または「深水」と記載されてもいる。相模原の東辺の境川流域一帯の総称であった、とか。また、「奥まったところ」の意味との説もあり、相模湾の奥まったところの意、との説もある。ともあれ、地形由来の名称である。

境川
坂を下り境川の川筋に。かつては深見=深海と呼ばれ、古く海進期には海が入り込んでいただろうし、護岸工事が成される前は流路定まることなく、湿地の美しい谷戸ではあった境川の谷筋は、一面住宅で覆われている。
境川は、その名の通り、武蔵國と相模國の境(正確には境川上流部では稜線、町田より下流部は東京湾と相模湾の分水界が境界;Wikipediaより)を画する川。町田市相原の草戸山にその源を発し、多摩丘陵と相模原台地の間を穿ち、東京都と神奈川県の境界に沿って南東に流れ、大和市から南に流路を変え藤沢市の江ノ島付近で相模湾に注ぐ。
相模原台地は、古相模湾の浅海に、相模川によって堆積された沖積地。厚さ30mの砂利と粘土の地層であり、その上にローム層と呼ばれる赤褐色の粘土が堆積されて形成された洪積台地となっている。境川は断層線とか旧相模川の流路説とか諸説あるも、ともあれその相模原台地を穿つわけで、川の両側の浸食側壁は20mから30mの急崖のところもあり、上流部は急な傾斜で水が一気に下るが、相模原台地の南部を占める大和市辺りでは緩傾斜となるため、かつては水が溢れやすく洪水地帯となっていた、と。
普段は水量は少ないが、一旦大雨が降ると氾濫し水田を水没させ、また排水も悪く、一時的湖沼が10日から15日も帯水することも多かった、とのことである。『源義朝を祀る サバ神社その謎に迫る』に説くように、沢に水難を避ける小祠を祀る所以である因みに境川はかつて相模國高座郡由来の「高座川(たかくら)」と呼ばれていた。文禄3年(1594)の検地に際し、「高座川を相武の国界とし、境川と称す」とあり、以降、堺川と呼ばれるようになった(Wikipedia)。

西福寺
堺川に架かる堺橋を越えると大和市域を離れ横浜市瀬谷区橋戸に入る。県道40号を少し東に進み、成り行きで南に折れ橋戸の佐馬社に向かう。その道筋に西福寺。天文3年(1534)創建と伝わる真義真言宗のお寺さま。本堂の他、境内に瀬谷八福神のひとつ布袋尊の祠がある。いつだったか、瀬谷の八福神を辿ったことを思い出した。八福神は通常の七福神にダルマ太子が加わったもので、昭和59年(1984)に散歩コース整備の一環として設けられたとのことである。八福神参りでは、毘沙門天を祀る徳善寺(瀬谷区本郷)の堂々とした山門が印象に残る。




左馬社(橋戸;横浜市瀬谷区橋戸三丁目20-1)
西福寺の南隣りに左馬社。「左馬社」の扁額のある鳥居正面にトタン屋根の少々「渋い」社屋。本殿ではなく神楽殿であり、拝殿は鳥居から向かって左手にあった。拝殿は結構新しく造り直されているようであった。そして境内で目についたのは鐘楼。神社に鐘楼が残るのは神仏習合の名残ではあろう。
案内によれば、「その昔、境川流域の村々では、疫病が流行すると境川の東西に点在する神社をまわり、厄除けをする民俗信仰である「七サバ参り」が盛んであった。 当左馬社も「七サバ神社」と呼ばれるうちのひとつであり、祭神は左馬頭源義朝である。
隣接の真言宗西福寺が、この左馬社の別当職であったので、当時の神仏混淆の姿が今日に残り、神社の境内にある吊鐘は区内唯一のもので、厄除け、虫除けに鐘をついて祈願した」、とあった。

この説明では全体像とかサバ神社に占める位置づけとかわからない。前掲『源義朝を祀る サバ神社その謎に迫る』を参考にメモすると、この社がサバ神社のはじまりの社とのことである。創建年代は不詳であるが、同書によると、創建は江戸初期の頃、と。当時の瀬谷村は数名の旗本の相給地(おなじ領地に複数の領主が同時期に存在)であったが、その中に長田忠勝、白政の2名が記録にあり、そのうちの長田忠勝が沢に祀ってあった里神をもとに源義朝を祀る左馬社を祀った、とする。
その動機は既にメモしたように、長田氏の先祖の長田忠到は源義朝を誅殺した人物であり、怨霊・疫病退散の御霊信仰からか、はたまた清和源氏の後裔を称する徳川家康に対し、その旗本が家康の先祖を殺した人物では具合が悪いと義朝の霊を祀る社をつくり、一種のエクスキューズをおこなったのか、その理由は定かではないが、ともあれ、里の人が代々祀ってきた小祠を発展させ左馬頭であった義朝の官職名を冠した社をつくった、とのことである。
神奈川県の神社史によると、「当社近くの境内の岸に古宮と呼ぶ森があり、往昔その社を源家縁りの人等が当地に移し、源義朝公を斎ったものと伝えられる」とあるが、この古宮が沢に祀った里神様であり、現在の地図では左馬神社の少し南にあるタウンハウスの辺りとのことである。瀬谷区の歴史によれば、享和4年(1804)に「左馬明神宮」と称されたとの記録が残る。天保12年(1841)の『新編相模国風土記稿』には他のサバ社の大半が「鯖社」としたにも拘らず、この社は「左馬明神社」とある
その「左馬明神社」であるが、上にメモしたとおり「当左馬社も「七サバ神社」と呼ばれるうちのひとつであり」とされる。左馬頭の怨霊退治、はたまた、清和源氏の後裔を称する徳川家への「配慮」よりも、厄除けをする民俗信仰である「七サバ参り」の影響に服し、鯖社としたのであろう。文久元年(1861)の鐘銘にその記録がのこる。なお、この件につき誠に興味深い記録がある。この社の梵鐘に刻まれた文字が「鮪」となっている。「サバ」ではなく、「マグロ」である。単なるケアレスミスではあろうが、誠に面白い。この梵鐘は戦時に供出され今は既に、無い。そのサバ神社もその後本来の名称である「左馬社」に戻り、現在に至る。

宗川寺
かつての瀬谷、現在の橋戸の左馬神社を離れ、次のサバ社である上和田の左馬神社に向かう。蔵のある民家などを眺めながら南に道なりに進むと日蓮宗宗川寺。開基は石川宗川。ここもいつだった瀬谷の八福神巡りで訪れたことがある。山門のある境内には福禄寿が祀られていた。
境内には「中原街道瀬谷問屋場跡」の案内。「中原街道瀬谷問屋場は天正6年(1578)、小田原北条氏の関東経営の駅路として、中原街道瀬谷に問屋場が設けられ、のち徳川氏の江戸開府により駿河の住人石川彌次右衛門重久が問屋場の運営を委託され、江戸―平塚間5駅の仲宿、瀬谷駅の問屋場として、江戸時代270年に渡って、中原往還の道筋の人馬諸貨物の運送、継立てにその役割を果たした。これより東方80m、桧林がその跡である」とあった。

中原街道
いつだったか大田区の六郷用水を散歩したときに出合った中原街道の案内をメモする。「中原街道は、江戸から相州の平塚中原に通じる道で、中原往還、相州街道とも呼ばれた。また中原産の食酢を江戸に運ぶ運送路として利用されたため、御酢街道とも呼ばれた。すでに近世以来存在し、徳川家康が江戸に入国した際に利用され、その後、部分改修されて造成された街道である。江戸初期には参勤交代の道としても利用されたが、公用交通のための東海道が整備されると、脇往還として江戸への物資の流通や将軍の鷹狩などにもしばしば利用された。 また、平塚からは東海道よりも近道だったため、急ぎの旅人には近道として好まれたという(大田区教育委員会)」。


左馬神社(上和田;大和市上和田1168)

中原街道を東に渡り、再び大和市に。境川が開析した相模台地の坂道を上り左に折れると左馬神社。鳥居正面に拝殿が建つ。文献によれば、「桃園天皇の1764(宝暦14年)、徳川九代将軍家重の代に当村の名主渡辺兵左衛門・小川清右門がこの地に宮を建立したと伝えられる。左馬頭義朝の霊を勧遷し村民の精神修養道場となるや漸次庶民の崇敬の的となる。1816(文化13)年、上和田信法寺十四世住職の憧挙上人が氏子の賛同を得て、五穀豊穣の祈願をなしたところ其の御神徳の偉大さに武家・一般庶民に深い感銘を与え、以来五穀豊穣はもとより家内安穏の守護神として広く庶民の崇敬をえて来た。境内三社殿の祭神は天照大皇大神、神武天皇、須佐之男命」、と。また、「古くより相模の七鯖神社のひとつに数えられ、境川流域を挟んで位置しており、神社名も鯖大明神(1764(宝暦14年)・佐馬大明神(1816(文化13)年)・和田左馬大明神(1866(慶応2年)と変遷し、1909(明治42年)に現在の左馬神社となり村社に列せられる」といった説明もある。


○『源義朝を祀る サバ神社その謎に迫る』をもとに整理すると、鯖大明神(宝暦14年;1764)、佐馬大明神 (文化13年;1816)・佐馬大明神(文政11年;1828)、佐馬明神社(天保12年;1841)と変遷し、現在は左馬神社となっている。上記文献と少し異なるが、興味深いのは、この社は「左馬」ではなく「佐馬」となっていること。)「鯖」が「鮪」と梵鐘に刻まれたことを考えれば、誤差の範囲か。
また、江戸時代のこの地の領主は石川勘八郎とあり、清和源氏系と称する。あれこれの変遷はあったものの、最終的には清和源氏の義朝を祀る「左馬」に戻ったということではあろう。

信法寺

左馬神社から台地上の道を道なり南に進むと道脇に信法寺。境川の川筋を見下ろすところに位置する。浄土宗のこのお寺さまの開山は上和田村を領した旗本の石川興次右衛門永正。この地域は幕末まで石川氏の所領となっている。宗川寺から左馬神社、そしてこの信法寺まで「石川氏」の影響が印象に残る。

薬王院

信法寺の横に薬王院。南北朝から室町初期にかけてつくられたと伝わる薬師如来像が祀られる。鎌倉時代、和田義盛が眼病治癒を如来に祈ったところ全快したため、一堂を建て薬師如来を祀ったと伝わる。この地の領主である石川氏もこの薬師如来の霊験により眼病が治癒した、と。
また、この薬王院で祭礼で行われる双盤念仏は鎌倉の光明寺から伝わったものとされ、二個一組にした鉦(かね)三組と太鼓を使い「南無阿弥陀」の念仏を唱える行事は市の重要無形文化財に指定されている(大和市の資料より)。現在は信法寺の管理となっているが、もとは200mほど北東の境川に架かる下分橋の北側にあり、堂屋敷と呼ばれ、薬師如来像は行基の作とも伝えられる(『源義朝を祀る サバ神社その謎に迫る』より)。

この薬王院に関し興味深い話が『源義朝を祀る サバ神社その謎に迫る』にあった。同書によると、上にメモした瀬谷・橋戸の左馬社の伝承に、「左馬の宮さんと和田の薬師さんとは仲が悪い」と。和田の宮さんとはこの薬王院のことであるが、その所以は義朝誅殺の地である愛知の長田氏の屋形まで遡るとの示唆がある。
都を落ち延びた義朝が、頼りにした長田忠致に騙され殺害された湯殿は法山寺という寺の境内にあり、その本尊は行基作の薬師如来であった、と言う。義朝が薬師の湯殿で殺された=義朝と薬師さんは相性が悪い、というストーリーが義朝殺害の地から遙か離れたこの地に、そのパターンがそのままコピーされている。また、殺害された長田の地の湯殿脇の湧水が眼病に効能ありと「四方丹」という名で販売されたようだが、そのストーリーも和田義盛や領主・石川氏の眼病治癒という話となってストーリーが展開している。同書ではこのような瀬谷・橋戸の左馬社の伝承も同社と義朝との関連の強さのエビデンスとしている。サバ社発祥の社が瀬谷・橋戸の左馬社とする所以である。

左馬神社(下和田;大和市下和田1110)
上和田の左馬神社を離れ台地の道を道なりに進み台地裾の左馬神社(下和田)に。谷戸の景観の名残の田圃も見かけるが、境川の両岸は宅地化が進んでいる。
鳥居を潜り石段の先の拝殿にお参り。境内の端から境川の谷筋を眺めながら案内などを探すが境内には、由緒などは見あたらない。大和市の案内によると「鯖明神社、村内鎮守とす。1670(寛文10)年の棟札あり。眞福寺持、鐘楼・鐘は1670(寛文10)年造」とある。1789(寛政元)年銘の常夜燈には「鯖大明神」と記されている。
『新編相模国風土記稿』に記述がある眞福寺は鯖宮山と号する真言宗の寺で、かつては左馬神社と深いつながりがあったようだが、大正末期に廃寺となり、詳しいことはわかっていない。左馬頭義朝を祭神とし七サバ参りの一社にあたる」とあった。


○『源義朝を祀る サバ神社その謎に迫る』をもとに整理すると、 寛文10年(1670)の棟札には「鯖明神社」、宝暦4年(1750)の鐘銘には「鯖宮山」、寛政元年(1789)銘の常夜燈には「鯖大明神;同書には鯖明神社となるが実際は鯖大明神と刻まれている写真がある」、天保12年(1841)の『新編相模国風土記稿』には「鯖明神」、そして現在は「左馬神社」となっている。
そして、この地の領主は辻忠兵衛。清和源氏の流れではあるが本流ではなく支流とのこと。同書ではこの社が鯖信仰の影響を受け、最初に「鯖明神」と「鯖」を表記した社とする。その根拠は「鯖」と表記した初出文書がある、ということと、領主が清和源氏の支流であり、鯖信仰の高まりをうけ、名称を変更することにそれほど抵抗がなかったのでは、とのことである。

長屋門の民家
道を進むと結構な構えの長屋門が見えてきた。案内を簡単にメモすると、「大津家長屋門 ;長屋門は封建時代にあっては家格の象徴であり、通常村役人層の屋敷に設けられた。大津家当主は幕末の頃、組頭や名主をつとめていた。建築時期は幕末と推定。現在は瓦葺ではあるが当時は茅葺であった。また、正面の板張りも当時は土壁であった」といった説明があった。

飯田神社(上飯田;横浜市泉区上飯田町2517)
道を進み再び境川を東に渡る。そこは横浜市泉区となっている。宅地化された一帯に、微かに残る耕地を身ながら飯田神社に向かう。鳥居を潜ぐり拝殿にお参り。境内には新しい造りの社殿や庚申塔群、またこの神社にも神仏習合の名残か鐘楼が残る。

境内の案内によれば、「境川や和泉川沿いに見られるサバ神社の一社で祭神は源義朝を主神に、宇迦之御魂神(うかのみたまの かみ)、大山咋神。伝承によると、飯田五郎家義がお祀りしたと。縄文時代、境川沿いは入海で、神社の境内土手から縄文後期の人々がつくった注口土器が出土。境内の神楽殿は、明治20年(1887)頃、飯田学校校舎として使われていた、鳥居前には、地蔵像・七観音像・庚申塔・道祖神が立っている」、とある。
また、新編相模風土記稿には「飯田明神社、鯖明神とも唱ふ、村の鎮守なり、稲荷、山王を合祀す、村持。」と記され、鯖明神とあるように昔から境川沿いに多く祀られているサバ神社の一社で、「相模七鯖」のひとつに数えられている」と記載されている。

○『源義朝を祀る サバ神社その謎に迫る』をもとに整理すると、寛政12年(1800)の神号額には「飯田大明神」、天保12年(1841)の『新編相模国風土記稿』には「飯田明神社、鯖明神(同書には飯田神社とあるが、神社の名称は明治以降であり、飯田明神社が適切かと)」、そして現在は飯田神社と称される。この社も一時期「鯖信仰」に鯖神社と呼ばれたようだが、現在は開基者である当地の地頭・飯田五郎家義ゆかりの名前に戻っている。
創建者は延応元年(1239)、飯田郷の地頭に就任した飯田三郎能信(飯田五郎家義の子で飯田郷を継いだ)との説もあるが、どちらにしても他のサバ神社が江戸の初期に祀られたのとは異なり、鎌倉時代に飯田氏が祀ったものである。場所は元は上飯田村の一番北にある柳明辺りにあったとも伝わり、小田原北条氏の時代には上飯田を治めた平山源太郎も信仰していた小祠であったようある。この社は他の里の小祠がサバ神社となった経緯とは異なり、鎌倉期に飯田氏が祀った祠が江戸の頃、サバ信仰故に、一時気「鯖明神」とは称されたが、他のサバ神社の成立とは性格が異なるように思う。また、江戸の頃のこの地は旗本の相給の地であり、その領主も清和源氏非本流や支流、宇多源氏系そして藤原秀郷系などさまざまで、特に左馬頭の名称に拘ることもなく「飯田神社」にもどしたのだろう、か。単なる妄想。根拠なし。

飯田五郎家義
平安末から鎌倉初期の武将。渋谷重国の5男として相模国高座郡長後(藤沢市)に生まれ、鎌倉郡飯田郷(横浜市泉区)を治める、一時大場御厨の管理を行っていた大場景親と争うも、その後景親の娘を娶り和睦。
頼朝の石橋山の戦い(1180)に際しては、頼朝に加勢の計画であったが、景親とその弟の俣野景行に挟まれ思うに任せず、意志に反して平家側として参戦。しかし戦いに敗れた頼朝を助け、その後も富士川の戦いで頼朝方に馳せ参じ、その論功行賞において飯田郷を安堵されその地頭に任じられた。飯田郷は鎌倉の北に位置する重要な地域。鎌倉往還の街道沿いの要衝の地に地頭として任じられた家義は頼朝の信任篤き武将であったのだろう。

渋谷重国
桓武天皇の曽孫である高望王の後裔である秩父別当武基を祖とし、後三年の役での大功により武蔵河崎荘を賜り河原冠者と称された基家の流れ。重国が渋谷を称したのは、禁裏の賊を退治したことにより堀川天皇より渋谷の姓を賜った。一説にはその賊の領地が相模国高座郡渋谷荘辺りであり、それ故に渋谷姓とその領地を賜ったとか。渋谷庄司とも称した。因みに東京都の渋谷区も重国の領地が武蔵国豊嶋郡谷盛(東京都渋谷区・港区)であったことによる。

佐婆神社(横浜市泉区和泉町4811)
飯田神社を離れ、かつては谷戸の景観がみれたであろう一帯、今では宅地化が進み微かに残る耕地を眺めながら進み、相鉄いずみ野線の高架下を潜るとその先にささやかな社が目に入った。高架線脇の少々風情のない境内に拝殿が建つ。境内は崖線の端にあり、崖の石段下に鳥居が見える。
境内に社の案内はなにもない。 神奈川県神社誌によれば、「勧請年代は不詳であるが、伝承では、寛文年中(1661~72)に伊予河野氏の後裔、石川治右衛門が当地に往来した時、一統の守護神として奉斎したのが創祀という。また1878(明治11)年に当地に伝わる伝承類をまとめた「和泉往来」の文書には「慶長年中(1596~1615)の勧請という」とある。
おそらく当社も境川の両岸に祀られている「境の神」としての性格を持つ古い社と思われる。当地字名の「神田(かみだ)」は当社の「神饌田(しんせんでん)」があったからという。1835(天保6)年に社殿修復をした時の棟札が残されている。境内の「たぶのき」は推定樹齢380年で、横浜市の名木古木に指定されている。 通称「へっついさま」といわれ、むかし社殿がへっつい(竈)のように土塁に囲われていたからだといわれている。
199(平成11)年に湘南台まで延伸した相鉄いずみ野線の線路が、社殿の背後を高架で通っているため、神社の環境は著しく変わった」とある。祭神は左馬頭源満仲と木花咲那姫命。

○『源義朝を祀る サバ神社その謎に迫る』をもとに整理すると、天保6年(1835)の棟札には「佐婆」の文字が見える。「佐婆、佐波、沢、佐和」は、谷川や湿地を意味すると同書にあるが将にその言葉の通り崖線下には和泉川が開析した谷筋が広がる。天保の頃、「鯖」と表したとの記述もあるが、現在は元の地形に由来する「佐婆神社」となっている。
祭神が源満仲に関しては、江戸期の和泉村の領主は松平勝左衛門昌吉とある。この松平勝左衛門昌吉は満仲>頼信>頼義>義家と続く清和源氏の系統ではあるが、義朝は義家から義親>為朝>義朝と続く系統、一方松平勝左衛門昌吉を含めた徳川一門は義家から義国>義重(新田系)の系統であり、徳川家の十八松平氏のひとつである松平勝左衛門昌吉は、彼らにとっては傍系である義朝を祀るのを本流としてのプライドが許さず、義朝の祖であり徳川松平の祖でもある清和源氏隆盛のきっかけをつくった満仲を義朝の替わりに祀ったとする。和泉川沿いの三社は松平勝左衛門昌吉の領地であり、おなじく満仲を祀ることになる。

和泉川
佐婆神社の崖に造られた石段を下り、和泉川の川筋に出る。宅地化も進むが境川筋に比べて比較的緑も多いように感じる。和泉川に沿って進みむと相鉄いずみ野線・いずみ中央駅。親水公園のような川筋を和泉川に沿って下る。
和泉川は瀬谷区東端にある瀬谷市民の森に源流を発し、間に挟まれた台地によって境川の谷筋と分け、瀬谷区、泉区を南に下り、戸塚区俣野町で境川に合流する全長10キロ弱の二級河川(1級河川は国、二級は都道府県管理)である。

中之宮左馬神社(横浜市泉区和泉町3253)
いずみ中央駅から500mほど下ると右手に豊かな緑。鳥居をくぐり石段を上ると団子鼻の狛犬が迎える。石段を上りきると結構広い境内、この中之宮左馬神社は中和泉地区の鎮守さま。慶長年間(16世紀末から17世紀初冬)に郷士清水・鈴木両家の氏神として勧請したとの説がある。昔から「相模七サバ」の一社と崇められた社で、新編相模風土記稿にも「鯖明神社」と記している。1625(寛永2)年に三河松平氏の分家・能見松平(のみまつだいらけ)の勝左衛門昌吉が和泉村の領主になった時に村の鎮守として再興、また能見松平家累代の祈願所とした。また代々の領主は氏子と共に社の護持や社殿の修復に尽力しており、1816(文化13)年、1835(天保6)年の棟札が残されている。
○『源義朝を祀る サバ神社その謎に迫る』をもとに整理すると、文化13年(1816)の棟札には「佐馬」、天保6年(1835)の棟札にも「左馬」、前述『新編相模国風土記稿』には「鯖」の文字が記録されている。祭神は領主能見松平昌であり源満仲であることは言うまでもない。

左馬神社(下飯田;横浜市泉区下飯田町1389)
中之宮左馬神社から和泉川と境川を隔てる台地を横切り下飯田の左馬神社に向かう。相鉄いずみ野線を再び潜り、市域は再び大和市に戻る。一帯は宅地化は進んでおらず、昔ながらの耕地が残る。
道なりに進むと豊かな緑の中に左馬神社。日もとっぷりと暮れ暗闇の中に素朴な社が佇む。境内には案内はない。泉区の資料などによると、伝承では飯田郷の地頭、飯田五郎家義が勧請したといい、小田原北條の時代に下飯田を治めた川上藤兵衛も武運長久の祈願をしたという。また1590(天正18)年に下飯田の領主になった筧助兵衛(かけいすけひょうえ)為春は、地域の鎮守として信仰し、社殿の修復をしたという。社殿右手前の銀杏は横浜市の名木古木に指定されている。
またこの近くの神社の近くには鎌倉古道のひとつである「上ノ道」または「西の道」が通っている。

○『源義朝を祀る サバ神社その謎に迫る』により整理すると、天保12年(1841)の『新編相模国風土記稿』には「鯖」の記録が残る。また、江戸初期の領主は上でメモした通り筧助兵衛為春であり、藤原氏の支流とする。今までの論から推測すれば、里神を厄除け、疫病退散のためサバ社としたのだろうが、「左馬」の表記に拘る理由はないことになる。実際、同書では「鯖」社とし、現在も「鯖社」と説明している。が、実際は現在の表記は「左馬神社」となっており、記述とは異なっていた。はてさて。

鎌倉街道・上道
上に、下飯田の左馬神社の近くを鎌倉古道のひとつである「上ノ道」または「西の道」が通っているとメモした。この古道は既に訪れた宗川寺から境川に沿って南に下り、飯田神社辺りを経て境川と和泉川が合流する俣野を通り鎌倉に続く。
鎌倉街道とは世に言う、「いざ鎌倉」のときに馳せ参じる道である。もちろん軍事面だけでなく、政治・経済の幹線として鎌倉と結ばれていた。鎌倉街道には散歩の折々に出合う。武蔵の西部では「鎌倉街道上ノ道」、中央部では「鎌倉街道中ノ道」に出合った。東部には千葉から東京湾を越え、金沢八景から鎌倉へと続く「鎌倉街道下ノ道」がある、と言う。
鎌倉街道山ノ道、別名秩父道は鎌倉と秩父、そしてその先の上州を結ぶもの。いつだったか、高尾から北へ、幾つかの峠、幾つかの川筋を越えて秩父に向かったことが懐かしい。その山ノ道は高尾から南は、七国峠から相原十字路、相原駅へと進み、南町田で鎌倉街道上ツ道に合流し、鎌倉に向かう。

鎌倉街道といっても、そのために特段新しく造られた道というわけではないようだ。それ以前からあった道を鎌倉に向けて「整備」し直したといったもの。当然のこととして、上ノ道、中ノ道といった主要道のほかにも、多くの枝道、間道があったものと思える。
で、今回出合った鎌倉街道上ノ道の鎌倉からの大雑把なルートは以下の通り;
八幡宮>俣野>飯田>上瀬谷>町谷>町田>本町田>小野路>府中>恋ヶ窪>小平>東村山>所沢>入間>女影>町屋>苦林>笛吹峠>奈良:>塚田>花園>広木>児玉>鮎川>山名>高崎

また、今回の散歩の地の周辺に限定したルートは、いくつかバリエーションはあるものの、以下のルートもそのひとつ、とか。散歩の順に北からポイントをメモする。

町田>町谷交差点((東京都町田市鶴間))>田園都市線>鶴間公園(東京都町田市鶴間)>東京女学館(東京都町田市鶴間)>246号>東名高速>八幡神社(瀬谷区上瀬谷町)>妙光寺(瀬谷区上瀬谷町)>相沢交差点から「かまくらみち」>相鉄線>宗川寺>さくら小学校>羽田郷土資料館>新幹線>本興寺>飯田神社>ブルーライン>富士塚公園>琴平神社>東泉寺>境川遊水池公園>俣野神社>明治学院グランド>龍長院(戸塚区東俣野)>八坂神社(戸塚区東俣野)>国道1号>柄沢神社(藤沢市柄沢)>慈眼寺(藤沢市柄沢)>長福寺(藤沢市村岡東3町目)>日枝神社(藤沢市渡内)>村岡城址公園(藤沢市村岡)>東海道線>町屋橋で柏尾川を渡る>上町屋天満宮(鎌倉市上町屋)>大慶寺(鎌倉市寺分)>駒形神社(鎌倉市寺分)>御霊神社(鎌倉市梶原)>葛原岡神社(鎌倉市山の内)

東勝寺
下飯田の左馬神社を離れ境川を渡る。市域は此の辺りは藤沢市となっている。上で大和市の成り立ちをメモしたとき、渋谷町の南部の高倉、長後が藤沢市に編入されたと延べた藤沢市の高倉地域に入る。地図に東勝寺が目に入り、既に日も暮れ境内には入ることなく、道より見やる。
境川の川筋を見下ろす台地に建つこのお寺さまは、秋雄和尚によって南北朝時代に創建され、阿弥陀仏を本尊とする臨済宗円覚寺派の禅寺。北条一族が鎌倉の東勝寺で滅亡したのを悼み、密かにこの地に建立された、とのこと。山号は点燈山と称されるのも意味深い。江戸後期寺は焼失するも、「点燈山」の額を持つ山門は残った。再建された本堂には北条氏の三つ鱗の紋がある、と言う。

鎌倉の東勝寺
鎌倉を彷徨ったとき北条一族が滅んだ東勝寺跡を訪れたことがある。そのときのメモ;「北条高時の「腹きりやぐら」 下り切ったところに北条高時の「腹きりやぐら」。新田義貞の鎌倉攻めのとき、十四代北条高時一族郎党この地で自刃。「今ヤ一面ニ焔煙ノ漲ル所トナレルヲ望見シツツ一族門葉八百七十余人ト共ニ自刃ス」、と。北条家滅亡の地である。近くに東勝寺跡地。北条一門の菩提寺。三代執権泰時が建立した臨済宗の禅寺。北条一族滅亡の折、焼失。室町に再興され関東十刹の第三位。その後戦国時代に廃絶。いまは石碑のみ」


今田鯖神社(藤沢市湘南台七丁目201)

東勝寺を離れ、境川に沿って南に下る。日は完全に落ち、辺りは真っ暗。こんなに時間がかかるとも思っていなかったためライトの用意もなく、街灯もなく闇の中をGPSの地図だけを頼りに進む。
地下鉄ブルーラインを越え先に進む。ライトもなく、目的の今田の鯖神社など簡単に見つからないだろな、などと思いながら進むと、道の右側にライトアップされた社が見えた。それが今田鯖神社であった。一安心。
真っ暗闇に煌々とライトで照らされた社が見える。結構新しい。平成18年(2006)に再建された、とのこと。平成7年(1995)に放火で焼失。昭和8年(1933)改築された社殿が再び焼失。再建されるも、平成13年(2001)に不審火で再び焼失したものを再建した。これほど明るいライトアップは、参拝者のため、というより、不審者への予防の意味合いが強いの、かと。
案内によれば、「祭神源義朝公。創立元禄15年(1702)当地井上瀬兵衛により造立。祭神源義朝公が佐馬守であったことから鯖神社と称する。文政9年(1826)に再建し、昭和8年に本殿、拝殿が改築」とある。
○『源義朝を祀る サバ神社その謎に迫る』をもとに整理すると、天保12年(1841)の『新編相模国風土記稿』には「鯖明神」との記録が残る。江戸時代のこの地は細井氏と川勝氏の相給の地。細井氏は藤原氏、川勝氏は秦氏の後裔であり、清和源氏と直接関係なく、「左馬」に拘ることなく、流行の鯖信仰所以の鯖明神としたのであろう。
これで本日の散歩は終わり、暗闇の中を小田急江ノ島線・湘南台駅に向かい、一路家路へと。

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