四国の最近のブログ記事

過日、土佐藩の参勤交代道である土佐北街道を辿った時、四国山地のど真ん中、嶺北の地・長岡郡本山町で土佐藩家老野中兼山の利水事績・灌漑用水路である上井と下井に出合った。
土佐の遍路歩きの途次、香長平野を流れる物部川や高知市の春野町(かつての吾川郡春野町)の利水・治水事業、足摺の呂津の湊造成などで野中兼山の事績メモは していたのだが、本山が野中家の所領地であったことも知らず、上井(うわゆ)、下井(したゆ)のことなど何も知らず、街中にあった案内によりはじめて知ることになった。
水路フリークには上井、下井という言葉の響きも相まって水路を辿ってみたいと思いながらも、当日は時間に余裕がなく水路歩きは後日を期し、案内にあった略図を頼りに上井と下井の流れる場所の確認に留めた。
案内図の概略図を頼りに流路を探すと、ふたつの流れは本山町の山裾、少し高台に鎮座する十二所神社の参道を横切っていた。上井は神社の二の鳥居辺りで参道を東西にクロスし、下井は一の鳥居傍をクロスしていた。土佐北街道散歩で十二所神社の一の鳥居前を辿っており、知らず下井に沿って歩いていたわけである。
本山の街中を流れる上井、下井の手掛かりとなる場所はわかった。また、地元に方にお話を聞き、取水口は土佐北街道歩きで渡った樫ノ川にあること、上井の取水堰は吉延、下井の取水堰は高角にあり、本山の町へと東流し天神地区で??野川支流に落ちるということも教えて頂いた。
で、土佐北街道をすべて歩き終えた後、日も置かず上井、下井歩きに出かけることにしたのだが、情報がまったく検索でヒットしない。兼山の事績であるからには、情報に困ることなないだろうとの思惑が外れてしまった。
仕方なく、当初のプラニングでは上井、下井ともその流れを確認した十二所神社の参道口から水路を追っかけ取水堰まで辿り、折り返し支流に落ちるところまで歩くか、上井に関しては土佐北街道散歩の参考にした『土佐の道 その歴史を歩く:山崎清憲(高知新聞社)』にあった、吉延で樫ノ川を渡ると兼山の造った用水路の取水堰が見えるとある記事を頼りに、その取水堰からスタートする選択肢はこのふたつ。 あれこれ考え、結局上井は取水堰が見付かればそこから下流に十二所神社まで下る。そこから下井に乗り換え取水堰まで追っかけ、十二所神社まで戻り、今度はそこから上井に乗り換え用水路が落ちる吉野川支流まで辿り、再び十二所神社まで戻り下井を下るという段取りとした。
上井の取水堰からスタートとしたのは、国土地理院の地図をチェックすると樫ノ川に架かる大吉橋の少し上流に堰らしき記号が記されていたためである。実際はこの地図に記された場所とは異なっていたのだが、すぐに取水堰は見つかりおおよそ上述の計画通りで歩けた。また、水路が天神地区で吉野川支流に落ちるという情報も、散歩に途次出合った地元の方に上井は伊勢谷川に落ち、下井はその手前の八郎谷に落ちる、といったことをお聞きした。この情報がなければ終点がはっきりせず相当混乱することになったかと思う。誠にありがたかった。
で、当日。水路歩きであれば手堀り隧道もあるだろう、とすれば隧道部迂回路で藪漕ぎもあるだろう、場合に拠れば高巻きする必要があるかもしれないとロープなども用意し散歩にでかけたのだが、下井で一箇所だけ大岩下を抜けるといった箇所があったがその横には鉄の桟道がつけられており、なんの問題もなし。藪漕ぎも高巻も必要なく、ロープの出番もない。距離も上井が5キロ強、下井が4キロ強ほどの誠に快適な水路歩きであった。

なお当日は行きつ戻りつの水路トレースではあったが、水路メモはそれぞれ取水堰から落ち口まで一気通貫に記することにする。



本日のルート;
上井を辿る
上井堰>土佐北街道の右手、谷側を進み最初の沢を越える>石橋のある沢を越える>土佐北街道の左手に移る>土佐北街道を左に逸れる>車道を逸れて山に入る獣防止柵>沢に水門>本山の町並みが見えてくる>「城山の森」の標識>沢を越える>歌碑2基>工事箇所>十二社神社の二の鳥居傍をクロス>散策路案内>山裾の生活道を西進>上の坊への道をクロス>八郎谷を渡る>天神参道クロス>沢をクロス>里の舗装道をクロス舗装された道をクロス>伊勢谷川に落ちる
下井を辿る
下井堰>分水門>分水門>沢と分水門>隧道と桟道分水門>沢と水門>土佐北街道筋に出る>土佐北街道から逸れ山側を水路は進む>2基の歌碑>土佐北街道筋に出る>十二所神社一の鳥居前を横切る>俳句の道の標識>崖手前で南に折れる>崖を旧道に下る坂道を左に逸れる>分水門>八郎谷に落ちる


高知県長岡郡本山町の上井と下井を辿る

吉延の樫ノ川・大吉橋へ
高知自動車道の大豊インターで下り、国道439号を東進し、本山の町並の手前、井窪で国道を左折し県道267号を樫ノ川に沿って北進し吉延の集落に。そこから樫ノ川の谷筋へと右に逸れ大吉橋を渡り、橋の西詰に車を停める。
この道筋は先日歩いた土佐藩参勤交代道である土佐北街道。その時は気づかなかったのだが、道の右手、谷側に水路が流れる。上井の流れのようである。
上流に目を転じると、橋の西詰、水路が土佐北街道を潜った先、樫ノ川に沿って水路が南に延びている。この水路を辿れば取水堰に向かえそうだ。取水堰から手堀り隧道などに入ればトレースが厄介だなあ、などと思っていたのだがその心配はなかった。もっとも、自然水路は高きから低きに流れるわけで、等高線から考えれば隧道を抜いた場合、その理屈に合わなくなり、とすれば水路は樫ノ川に沿って流れるだろうとの予測はしており、その予測があたったようだ。




■上井を辿る■

上井堰
大吉橋西詰から人工水路に沿って先に進む。水路は補強され往昔の面影はない。橋から10分弱歩くと分水門があり、その先に川に堰が設けられ水門へとコンクリートの導水路が続く。そこが上井の取水堰であろう。
国土地理院に記載された堰らしき記号はその少し上流。堰の場所の予測は外れたが、結果オーライではあった。標高は329m。

土佐北街道の右手、谷側を進み最初の沢を越える
大吉橋西詰ではおおよそ土佐北街道直ぐ傍(標高327m)を流れていた水路は、樫ノ川に沿って進むにつれて道との比高差を増す。
18分ほど歩き、おおよそその比高差が20mほどのギャップとなったところで最初の沢とクロスする。水路には簡易水門が設けられている。下は直ぐ川であり時に応じ水を川に放流するのだろう。

水路橋のある沢を越える
沢を越えると左手から一時離れていた土佐北街道が水路に接近してくる。最初の沢から数分、土佐北街道との比高差が10mを切った辺りで二番目の沢。水路はコンクリート造りの水路橋で沢を渡る。標高はおおよそ319m。ゆるやかな傾斜で下っている。

土佐北街道の左手に移る
更に数分歩くと上井は土佐北街道筋に出て、道を潜りその山側、道の左手に移る。ここからしばらく上井は土佐北街道に沿ってその山側を進むことになる。標高は317m。
下井堰との連絡道
上井が土佐北街道に合わさりその下を潜る地点から右手に下りる簡易舗装の道がある。そこを下ると田圃に出るが、その畦道を樫ノ川に向かって進むと下井堰の近くに出る。
下井は取水堰の場所がはっきりせず、上述の如く十二所神社から下井堰まで追っかけたのだが、その戻りに上を通る土佐北街道に出る道として利用した。下井堰傍から杉林を這い上がろうかとも思ったのだが、国土地理院地図に上述、土佐北街道合流点から樫ノ川に向かって実線が描かれている。川の近くで線は途切れるが、なんとかなるだろうと歩いてみたら土佐北街道に出た。軽々に杉林を這い上がらなくてよかった。なお、国土地理院の地図に記載されていない部分は田圃の部分である。

土佐北街道を左に逸れる
土佐北街道の山側を側溝といった趣の上井とお付き合いしながら15分ほど歩くと、水路は土佐北街道から左に逸れる。標高はおおよそ312m。水路の山側には大石の集落を結ぶ道が走る。




車道を逸れて山に入る
水路は数分で大石の集落と繋がる道の下を潜り(標高309m)、道の山側に移る。その直ぐ先、水路は車道を離れ山へと入っていく(標高307m)。




獣防止柵
車道を逸れると直ぐ獣防止柵が行く手を防ぐ。初めて獣防止柵に出合ったときは、どうしたものかと結構驚いたのだが、基本、柵の開け閉めはでき、柵内に入った後はちゃんと閉め戻すことがマナーである。
水路の谷側にも柵が設けられていたが、それも直ぐに無くなり、竹林や杉林の中を10分ほど歩くと南に切れ込んだ沢に出合う。

沢に水門
水路は南に切れ込んだ沢の突端部をコンクリート補強されて渡る。鉄製水門が設けられ沢の水も含め、水は沢に落ち、水門から先水路に水は無くなる。標高は305m程だろうか。沢を越えると直ぐ、山側に貯水槽といった施設(標高300m辺り)。



本山の町並みが見えてくる
そこから数分歩くと木々の間から本山の町並み、吉野川に架かる橋が見えてくる。貯水槽の辺りから水路に水がかすかに現れ始める。どこかで養水されているようには思えない。自然に溜まったものだろうか。



「城山の森」の標識
貯水槽から5分弱、「城山の森」と書かれた木の標識が立つ(標高298m)。標識は水路進行方向を指す。地図を見ると水路の20mほど下を走る土佐北街道の道筋から標識まで実線が記される。町からこの道筋を上井筋まで上り、水路に沿って先に進み十二所神社のあたりから城山へと上るようである。
城山
本山城。本山氏の居城。全盛期は土佐郡、吾川郡そして高岡郡の東部までをその領地とした。勢力の拡大により居城を本山城から朝倉城に移るも、永禄3年(1560)長曾我部勢が本山城を攻撃。本山氏は朝倉城を焼き本山城に戻り長曾我部勢と対峙。が、長曾我部勢の攻勢に抗せず城を開き東の瓜生野に退くも元亀年間に本山氏は長宗我部氏の軍門に降った。
Wikipediaに拠れば、「江戸時代には既に城は廃れており、山内一豊は家老の山内刑部(永原一照)に本山一帯の支配を任せ、本山市街の西側の丘に邸(土居)を作りこれを支配した。これが現在の上街公園であり、本山城とは別の場所である。ここには奉行職野中兼山も住んだと言われている」とあった。

沢を越える
「城山の森」の標識の先、前面が開け本山の町並み、北へと突き出た枝尾根を迂回する上井筋の走る「筋」が山肌に見える。なんだか、いい。
水路を進み南に入り込んだ沢筋に。ここで沢水が水路へと養水する。標高299m。


歌碑2基
沢を越えた先に2基の歌碑。標高297m。「ぽんかんの 皮のぶあつさ 土佐の国 桂信子」「朝の雨 あらくて 夏に入りにけり 日野草城」と石碑に刻まれる。平成10年(1998)建立。歌碑の傍から土佐北街道へと下る道があった。
その先、北に突き出た枝尾根を水路が廻り込む手前にも歌碑。「みちにしく 花吹雪とはなりにけ理 阿波野青畝」とあった。平成12年(2000)建立。標高296m。
俳句の道
本山町には同町出身の俳人右城暮石先生を顕彰し、著名俳人の句碑を20基ほど町の各所に建てて巡れるようにしているようだ。

砂防工事箇所
枝尾根の先端部を回り込んだ水路は、南に切れ込んだ沢筋に向かう。沢は砂防対策の工事中。コンクリート砂防堰らしきものが造られていた。水路はこの工事箇所の前後は地中に埋まり、沢を渡るところで顔を出す。標高294m。


十二社神社の二の鳥居傍をクロス
沢を渡ると前方に鳥居が見えてくる。過日、土佐北街道散歩の折、町中にあった案内図で上井の場所を確認したところである。標高288m。
鳥居手前には地神さまらしき幾多の祠が並ぶ。どこかからか移されたのだろうか。 水路は二の鳥居傍をクロスし西に抜ける。

鳥居前には「↑66m 十二所神社」「→495m本山城跡」「→594m 上の坊」「→662m 山内刑部墓所」といった散策案内があった。
本山城は上述した。上の坊、山内刑部墓所は後程メモする。
十二所神社
社の由来案内に拠れば、沿革は「長徳寺文書」に承元2(1209)年の「十二所、供田」が初見とあるように古き社である。また弘安11(1288)年2月の文書には「土佐国吾橋山長徳寺若王子古奉祀熊野山十二所権現当山之地主等為氏伽藍経数百歳星霜之処也(以下略)」と、ある。熊野十二所権現を勧請したものだろう。
平安末期、この地は熊野社領の荘園・吾橋(あがはし)荘が設置されており、熊野十二社権現が勧請されることは至極自然なことであろうかと思える。
「土佐州郡志」に「帰全山、或は之を別宮山と謂う 旧(もと)十二所権現社有り今は無し」と記し、当社が古代から中世にかけて、吉野川対岸の帰全山に鎮座して居たが、戦国乱世の永禄年中、本山氏と長宗我部氏との合戦で兵火に罹災し、帰全山から永田村今宮に移り、慶長15(1610)年5月に再建され、寛永15(1638)年12月、領主野中兼山公のとき、現在地に遷った。
明治元(1868)年、十二所大権現を十二所神社と改称。
十二所権現
熊野の神々のことを熊野権現(くまのごんげん)と称する。熊野三山(本宮・新宮・那智)のそれぞれの主祭神をまとめて呼ぶ場合は熊野三所権現といい、熊野三所権現と熊野三山に祀られる他の神々(五所王子・四所明神)を合わせて熊野十二所権現と称する。 
領主野中兼山
本山は野中兼山の領地であった。江戸時代初期の土佐藩家老。藩政改革を実践し、港湾修築、河川の利水・治水事業による新田開発など功績を上げるも、その過酷とも言われる施策により政敵との対立を深め、後年は罷免・失脚し失意の中虚しくなった。
残された家族への処遇も過酷であり、男系が絶えるまで幽閉生活が40年以上続いたという。この間の事は『婉という女;大原富枝』に詳しい。婉は兼山の娘。4歳で幽閉され、以降40年間外部との接触を禁じられ、43歳で幽閉を解かれた。

散策路案内
参道をクロスした水路は北に突き出た山裾に沿ってすすむ。町から繋がる道が合わさるあたりに十二所神社参道にあった散策路と同じ案内。↑370m本山城跡」「→469m 上の坊」「→537m 山内刑部墓所」「←190m 十二所神社」とあった。 山裾を進む水路は町に近づく。


山裾の生活道を西進
山裾の生活道を西進し、舗装された山裾の道に出る。水路は周囲に民家の建つ生活道路を進む。標高283m。






上の坊への道をクロス
西進すると「上の坊」への道をクロスする。上の坊への道を交差した先は崖。水路は南に廻り崖上を進むことになる。標高275m。




上の坊
水路がクロスする箇所から山に上る道を少し進むと、「史跡 上の坊 本山南学寮跡 野中兼山が儒学者山崎闇斎を招いてこの場所にあった古寺で土佐南学を講究したといわれる。兼山は禅学より儒学に転向し、勉学に励み南学(海南朱子学)といわれるまでにその学問を発展させた」とある。
南学
土佐を歩いていると、、雪蹊寺の案内にもあったように時に「南学」という朱子学派が顔を出す。歩き遍路で三十三番札所を打ったとき、そこには「江戸時代初期には「南学発祥の道場」といわれ天室僧正が朱子学南学派の祖として活躍、野中兼山などの儒学者を生み出した」との案内もあった。コトバンクによれば「天文 17 (1548) 年南村梅軒により南海の地土佐に興った朱子学派。海南学派ともいう。京学,東学に対する称。四書を重んじ,道学者的態度を固持するとともに実践躬行を尊び,実際政治に参与した。
梅軒のあと,吸江庵の忍性,宗安寺の如淵,雪蹊寺の天室らを経て,谷時中にいたって仏教から完全に独立し,基礎を固めた。その門人に野中兼山,小倉三省,山崎闇斎が出た。のち三省の門下から,谷一斎,長沢潜軒,大高坂芝山らが出,また闇斎の門弟,谷秦山が帰国して,南学を振興した。
人間系譜は以上のようにたどれるものの,三省が世を去り,兼山が失脚して藩府より南学派は弾圧を受けて両人の門人や闇斎も土佐を去り,土佐における南学派は一時中絶した。秦山が復興した教学は三省,兼山までの本来の南学と質を異にし,京,江戸の学風の移入とみることができる。もっとも秦山は大義名分論に立つ尊王思想を説き,幕末勤王運動に影響を与えたが,こうした政治と結びついた強い実践性の点では,広い意味での南学は一貫している」とあった。
山崎闇斎
江戸時代前期の儒学者・神道家・思想家。朱子学者としては南学派に属する。闇斎によって論じられた朱子学を「崎門学」または「闇斎学」という。君臣の厳格な上下関係を説き、大義名分を重視した。
闇斎は朱子学だけでなく神道についても論じた。吉川惟足の吉川神道を発展させて神道と儒教を合わせた「垂加神道」を創始し、そこでも君臣関係を重視した。垂加神道は、神を信仰し、天皇を崇拝するというもの。天照大御神に対する信仰を大御神の子孫である天皇が統治する道を神道であると定義づけ、天皇への信仰、神儒の合一を主張し、尊王思想の高揚をもたらした 以上のような闇斎の思想は、水戸学・国学などとともに、幕末の尊王攘夷思想(特に尊王思想)に大きな影響を与えた。
山内刑部夫妻の墓所
上の坊から山道を少し上ったところに山内刑部墓所がある。山内氏が土佐藩に入国後、本山に封ぜらえた山内家家老。
案内には「山内家の家老であった。山内一豊の土佐入国に際して、その軍功から本山千三百石知行本山城に配され、本山土居初代藩主として慶長6年(1601)に本山に入っている。
慶長8年の瀧山一揆の鎮定に努め、元和元年(1615)の大阪の役には高知城の城代を務めた。元和6年、63歳で病没」とあった。
瀧山一揆
土佐に入国した山内家に対し、改易された長曾我部氏の遺臣、下級武士である郷士に扇動されて起きた百姓一揆。年貢の納入を拒み北山の瀧山に籠り抵抗するも鎮圧される。首謀者は断罪とするも百姓らの罪を不問に伏す。但し、一領具足とも言われ、長曽我部氏の兵農未分離の農兵隊でもあった百姓より武器を召し上げるのが条件でもあった。
この一揆は山内家に対する長曽我部遺臣の最後の抵抗とも言われ、この事件以降、長曽我部氏の影響下にあった一領具足衆は弱体化することになる。
本山町の吉野川対岸の山中に北山の地名がある。瀧山はその辺りなのだろう。

八郎谷を渡る
舗装された生活道から離れた水路は再び木々に覆われた山裾部の少し上を進むことになる。「上の坊」への道から9分ほど歩くと、南に切れ込んだ谷筋を渡る。
後程記すことになるが、この谷へと「下井」が落ちる。水路歩きの途中出合った地元の方より「上井」は「伊勢谷」に落ち、「下井」は「八郎谷」に落ちるとお聞きしていた。音だけで表記は確認しなかったのだが、この谷が「八郎谷」だろう。
沢には鉄製の水門が設けられていた、時に応じ水門を閉じ先に水を流したり、水門を開け沢に排水したりと調節しているのだろう。標高273m。

天神参道クロス
八郎谷から先に進むと水路の周囲の木々が伐採されている。6分くらい歩くと水路は天神参道の石段をクロスする。水路は木々が切り開かれた参道の石段下に見える町並みからおおよそ10mほど高いところを流れているようだ。標高272m。


沢をクロス
木々が伐採された箇所を越えると、水路は再び木々に覆われた中を進む。数分歩くと南に切れ込んだ沢をクロスする。標高270m。
その先で水路は山を離れ里に向かう。



里の舗装道をクロス
里に出た水路は舗装された里道をクロスする。その先水路は竹林の中を抜ける。標高268m。竹林を抜け里の民家の傍を水路は進む。




舗装された道をクロス
なんだか、いい。その先で水路は舗装された道をクロスする。標高261m。舗装された道を越えると水路は急な傾斜で落ちる。




伊勢谷川に落ちる
その先に谷筋が見える。舗装された道から急な傾斜を田圃の畦道といったところに下り、水路に沿って少し進むと水路は谷筋に落ちる。これが地元の方に教えて頂いた伊勢谷川であろう。標高は260m。
上井は𠮷野川本流ではなく、その支流に落ちる、という事を知らなければこの谷筋を越えた先に水路を求め彷徨うことになったかと思う。偶々上井筋で出合った地元の方に挨拶し、何気ない話の中で教えて頂いた情報が誠に役立った。感謝。

上井散歩はここまで。予想に反し、手堀り隧道の迂回や藪漕ぎもなく結構快適に歩くことができた。距離はおおよそ5キロほどだろうか。樫ノ川の上井堰での取水口の標高は329m。この地が280m。5キロを70m、ということは100mで1.4mほど下ることになる。傾斜角は0.80度といったところだろうか。


下井を辿る


上井のトレースを終え、下井に移る。上井の取水口・上井堰は『土佐の道 その歴史を歩く;山崎清憲(高知新聞社)』に、樫ノ川に架かる大吉橋辺りにあるといった、大雑把ではあるが何となくそれらしき場所は予測でき、また取水堰もすぐ見つかり上井堰より下ることができたのだが、下井堰の場所は全く予測がつかない。
地元の方の話では高角に取水堰があるとのことで国土地理院の地図をチェックすると高角に堰らしき記号が記される。が、この記号、上井堰の辺りにもあり、当初はその記号箇所が上井堰と予測していたのだが、結果的には上井堰はその記号よりずっと下流であり堰とは一致しなかった。ために、下井堰の場所の参考にはなりそうもない。
ということで、下井を辿るスタート地点は町にあった史跡案内図をもとに確認した十二所神社一の鳥居傍を流れる下井からはじめ、上流へと水路を追っかけ取水口・下井堰を確認。そこから十二所神社まで折り返し、地元の方にお聞きした八郎谷に落ちる地点まで水路を辿った。八郎谷がどこかは分からないが、取敢えず水路が落ちる谷が八郎谷であろうとの思いで下流へと下ったわけである。上井のメモで八郎谷の沢と記したが、それは下井が落ちた沢を確認したゆえの記載ではある。
で、下井のメモであるが、当日の行きつ戻りつを時系列でメモすることはやめ、取水口・下井堰からはじめ、八郎谷に落ちるところまでを上流から下流まで順をおってメモすることにする。そのほうがわかりやすいだろう、といった便宜上の「編集」ではある。

下井堰
下井堰は地元の方がおっしゃった通り、高角地区にあった。場所は樫ノ川に架かる大吉橋の西詰より、土佐北街道の谷側を進んだ上井の流れが土佐北街道に合わさる地点を少し北東に下った辺りである。
上井のメモで上井と下井の連絡道(私注;私が勝手につけた名称)と記したが、上井は土佐北街道に合わさり道の山側に移る地点に川に向かって下りる簡易舗装の道があり、そこを下ると田圃に出るが、その畦道を進むと樫ノ川筋に下りることができ、その少し上流が下井堰である。
堰はコンクリート造り。左岸側に導水路がつくられ水が下る。下井のはじまりの地点である。標高272m。

分水門
導水路の少し下流に水門があり、余水はそこで樫ノ川に戻されていた。水門部は自然地形を石組で補強したものか、石組だけで造られたものか水路を覆い梯子で下りなければならないようになっている。何故にこのような造りにしたのだろう。素人考えでは、洪水時にこの石組で大量の水や砂から水路を護っていたようにも思える。そういえば、上井も取水堰からの導水路水門のある辺りは、今は鉄製のゲートとはなっているが、その隧道と水路の間は小高く築かれた堤状になっていた。

分水門
数分で水路谷側に分水門。下は樫ノ川。時に応じて水路の水を川に落とすようにしているのだろう。
ほどなく水管を通り地中に入るが直ぐ地表に現れる。何故に少々唐突にこの箇所だけ水管で抜ける?地図をチェックするとこの水管部に小さな沢が落ちていた。沢を水管で越えているのだろう。

沢と分水門
5分程歩くと大きな沢とクロスする。そこには水路下流に流れる水を堰止める水門、樫ノ川に水を落とす水門が設けられる。沢水の下井への養水、時によっては川に水を落とすなどの水量調節をおこなっていたのだろう。標高270m。


大岩と桟道
沢をクロスし数分歩くと水路をが阻む。水路は大岩の下を潜る。大岩の谷側には鉄製の桟道が設置されており、難なく大岩を迂回できた。標高269m。



分水門
大岩を越えると右手、木々の間から谷側に耕地が見えてくる。大岩から数分で分水門。このあたりから分水された水は灌漑用に落とされているように思える。
その先、数分歩き、水路が枝尾根を廻り込む突端部にも分水門。標高267m。


沢と水門
数分歩くと小さな沢にあたり、そこに分水門。更に数分先にも水門。上井に比べて分水門の数が多いように思える。これは単なる素人の妄想ではあるが、上井と下井の役割がちがっていたのではないか、とも思えてきた。下井から水を落とせない本山の西部に灌漑用の水を供するために上井が掘られたことは自明のことではあろうが、それと共に傾斜角度の緩い下井への養水の機能も上井にはあったようにも思える。とすれば、上井と下井の掘られた時期も、上井のほうが遅い時期であったのだろうか。
あれこれと疑問が生じてきた。本山町史でもチェックすれば記録はあるのだろうか。本山町から吉野川を少し下った行川(なめかわ)にも兼山の遺構水路が残るとのこと。その井流も歩いてみたいので、その時にでもどこかの図書館で調べてみようとも思い始めた。
なお、この辺りから標高表示を止める。あまりに緩やかな傾斜のため、GPSのデータでは下流が上流より標高が高くなる。後述するが傾斜角が全体で0.12度程度といったものであり、標高270m弱を誠に緩やかな傾斜で下って行くといった状態である。

土佐北街道筋に出る
先に進むと水路左手上に道路が見えてくる。過日歩いた土佐北街道の道筋である。ほどなく水路は土佐北街道下を潜り、道の山側に移る。




土佐北街道から逸れ山側を水路は進む
土佐北街道を潜り道の山側に出た水路は、道を左に逸れて山側、一段高いところを進む。
前方、一段低いところにに本山の町並みが見えてくる。用水路が開かれらた当時は一面の田圃ではあったのだろう。

2基の歌碑
ほどなく水路傍に2基の歌碑。「秋の暮れ 山脈いづこへか帰る 山口誓子」「長き日の なお永かれと野に遊ぶ 山口渡津女」と刻まれる。平成9年(1997)建立。標高266m。
水路はその先で土佐北街道へと緩やかに下ってゆく。


土佐北街道筋に出る
水路は土佐北街道筋にあわさる。そこに「俳句の道 山口誓子」と書かれた木の標識が立つ。水路は道の山側を溝となって先に進む。土佐北街道を歩いた時、道脇に水路を見ながら歩いたのだが、その時は兼山遺構の水路なとど知る由もなかった。水路の周囲には家屋が多くなってくる。

十二所神社一の鳥居前を横切る
土佐北街道に沿って流れる水路は十二所神社一の鳥居に向かう。下井の取水口の場所が分からず、元山の街中にあった下井、上井の案内をもとに下井の流れる場所を比定し、上流へと遡った場所に戻ってきた。
ここからはその先、地元の方が落ちるという八郎谷(表記は推定)まで辿ることになる。
一の鳥居下を潜った水路は北に流れを変えその直ぐ先で町中に落ちることなく、町並みより一段高い山裾を西進する。

俳句の道の標識
西進し、本山の町並みを見下ろす地に石碑が立つ。川村一族を顕彰する碑のようだ。嶺北地方の郷族であったよう。
その先、「俳句の道 青々・暮石・和生句」と書かれた木の標識が立つ。水路沿いには歌碑は見当たらなかった。
西進する下井の少し上を平行して上井が進む。
歌碑
「日盛りに蝶のふれあう音すなり 早梅に見し向上の一路哉 松瀬青々」「いつからの一匹なるや水馬 天上へ赤消え去りし曼珠沙華 右城暮石」「つばめかと 思う速さに 土佐の蝶 茨木和生」といった歌碑が土居屋敷跡(上街公園)の東に並ぶようである。
土居屋敷跡
案内には、「史跡 土居屋敷跡 Remains of the Doi Residence 土居屋敷跡は戦国時代に本山地方を本貫とした本山氏の土居(館)であった。近世初頭には本山に封ぜられた山内刑部・但馬父子、続いて野中玄番・兼山父子の4代にわたる屋敷となった。兼山時代の土居は上段・中段・下段からなり、入り口下段に文武館、中段に長屋門の諸建物があり、上段に本宅があった。(皆山集)
兼山失脚後は藩士の在番が置かれ、享保3(1718)以降は本山倉番、土居門番が配置された。 参勤交代に土佐街道(北街道)が用いられるようになると参勤交代時の藩主の宿泊所にあてられ、以後「本山御殿」と称されるようになる。この土居屋敷を中心に周辺に「土居下町」と呼ばれる小規模な町場が形成されていた。明治になって建物は取り壊され、跡地は桜の公園として整備されている。(史跡) 本山町教育委員会」とあった。
少し昔の「本山土居跡」案内
Google Street Viewで土井館跡を見ていると、現在の案内ではない古い案内が立っていた。説明が少し詳しいので掲載しておく:
「本山土居跡土地の豪族本山氏の土居の一つで 天正十七年(1586)長宗我部検地当時は本山采女が住んでいた。山内一豊の土佐入国後 慶長六年(1601)山内刑部 (永原一照)が本山千 三百石を与えられてここに住んだが、その子但馬は私曲の罪によって元和六年(1620)知行を没収されて 佐川の深尾家に預けられたためそれ以来本山土居はしばらく領主不在となった。
寛永七年(1630)野中直継が本山土居を預けられて千石を加増せられ養嗣子兼山も当然これを受けついだ。 兼山は藩主忠義の厚い信頼をえて藩奉行職として敏腕を発揮したが本山領主としても吉野川の支流の樫ノ川や本能津川に下津野堰、トドノ堰、ノボリ立堰、カタシ山堰 井口堰を設けて用水をひいて多くの新田を開発し、その余沢を現在にまで及ぼしている。又寛永二十年(1643)に発せられた「本山掟」は兼山と領民をつなく歴史的文書といえよう。
寛文三年(1663)兼山失脚後本山土居は山内下総に次いで孕石頼母らによって管理されたが明治になってすべての建物が取りこわされ、今はその石垣にわずかに面影をしのぶばかりである」。
下津野堰は樫ノ川にあったようだが、その他は不詳。
本山掟
兼山は、本山掟とか、国中掟、広瀬浦掟などを作って、農政を行っている。本山掟の内容は;
〇お上や法律にそむかないこと。
〇荒地が少しでも残らないように開き、田地にせよ。精を出して開けば開 けばほうびをあたえる。3年・5年・7年の間は年貢を取らない。
○年貢は全部11月までにおさめよ。畑作の年貢分は6月までに全部おさめよ。
○作った米の3分の1は百姓のとり分であるが、秋冬はぞうすいを食べよ。春までたくわえずに、めしや酒にして食べてしまったものは死刑にする。
庄屋はよく調べて、そむいているものがないようにせよ。かくしておいてあとでわかったら、庄屋もともに処分する。
○酒を買って飲んだり、朝ねをしてはならない。そむく者があれば銀三匁(およそ6000円)の罰金をとる。赤面三匁〉赤面三匁、生酔い五匁、千鳥足十匁。
○家や着物がそまつなことはかまわない。法で定めているより良くすることは許さない。 このおきてにそむく者があれば、本人はもちろん庄屋も罰する」といったもの。

厳しい施策をとったと言われるが、実際にこんな掟を見ると農民の怨嗟を買ったということも頷ける。

土居
土佐では城館のことを「土居」と称していた。幕府の一国一城制により支城は破却されるが支城のあったところは要衝の地。山内氏も土佐入国に際し、佐川、窪川、本山、宿毛、中村、安芸といった要衝の地に土佐入国以前の掛川以来の重臣を配し、破却された城近くに館を構え領国経営にあたった。これが土居制度であり、本山土居、安芸土居などと称された。

崖手前で南に折れる
町並みの中を西進する水路は時に上に鉄網やコンクリートで蓋をされる。少し進むと鉄網の下、水路から下に分流する箇所がある。昔は一面の田圃であったのだろうが、は家並みが軒を連ねる。
ほどなく水路は崖の手前で南に道路に沿って流路を変える。流路を変える地点の道の反対側に「←上の坊・山内刑部の墓」「土居屋敷 170m→」の標識が立つ。

崖を旧道に下る坂道を左に逸れる
南に流路を変えた水路は直ぐ、崖を旧国道へと下る坂道に沿ってゆるやかに下ってゆく。ほどなく水路は坂道を左に逸れ先に進む。




分水門
草に覆われた水路脇の土径を進むと水路崖側に鉄製の手摺が現れる。何のために手摺が設けられたのか、その理由はよくわからない。手摺が切れるその先、分水門が設けられ、コンクリート補強された分水路から猛烈な勢いで水が旧国道筋へと落ちてゆく。
旧国道へ落ちた水は何処へ
余りに勢いのいい分水が何処に流れ落ち、何処に向かうのか、ちょっと気になる。いい塩梅、というか水門調整の作業道が旧国道へと下りている。作業道を下りると旧国道へと下る坂道を潜り、旧国道に沿って町へと東進していた。


八郎谷に落ちる
分水門の先は一瞬水路脇に土盛はなく、コンクリート水路枠上をバランスを取りなながら進む。直ぐ水路に沿った土径が現れ先に進むと水路が急傾斜となった先で水が谷に落ちる。この谷が地元の方に教えて頂いた八郎谷(表記は「はちろうだに」の音から推測)だろう。これで樫ノ川の取水口、下井堰から下った下井はお終いとなる。
下井堰の標高は272m、八郎への落ち口は標高261mだが、八郎谷に急斜面で落ちる地点の標高は265mほど。おおよお4キロを7mから8mといった落差で流れてきたことになる。角度は0.12程度といった超緩やかな傾斜で下ってきたことになる。
八郎谷の西
地元の方の話では兼山が造った下井はこの八郎谷に落ちてお終いのようであるが、水路は八郎谷を越えて西に進むという。
下井とは関係ないのだが、どのようにして谷を越えて西進するのかと、一度旧国道に下り八郎谷に足を踏み入れる。直ぐ八郎谷に落ちる水路確認。

一度谷に落ちた水はその直ぐ下流にある堰で分流され旧国道に沿って西進。少し進んだところで民家裏手に入り込み、その直ぐ先で水路に落ちて終わっていた。

これで、土佐北街道散歩の時に出合った野中兼山の遺構、水路歩きフリークには少々萌えながらも時間がなく辿ることのできなかった上井と下井をカバーした。イントロでもメモしたように、藪漕ぎもなく隧道迂回にと念のために用意したロープを使うこともなく、至極快適な水路歩きであった。
次回は、本山町の少し下流、行川(なめかわ)筋にも残るという兼山の利水遺構を辿ってみようと思う。この井筋もほとんど詳しい資料がない。一応ロープは用意するが、今回の上井、下井のような快適な井流歩きであることを願う。
先回の散歩のメモでは、高知城下から参勤交代初日の宿泊地、布師田までをメモした。繰り返しになるが、今回の土佐北街道ルートハンティングの元となる『土佐の道 その歴史を歩く;山崎清憲(高知新聞社)』にある、布師田から權若峠取り付き口の釣瓶までのルートを記しておく;
布師田から先で市域は高知市から南国市に入るが、ここでルートはふたつにわかれる。ひとつは国分川南岸の中島を経由し国分川を八幡渡瀬で渡り返し北進し南国市岡豊町八幡に向かう。この道筋は初期の参勤交代道である野根山街道、通称「東街道」への道筋でもあったようだ。 そしてもうひとつは高知大学医学部の北を進み、右手に長曾我部氏の居城・岡豊城の建つ丘陵地を見遣りながら岡豊町八幡に出て、ここでふたつのルートは合流する。八幡は長曾我部氏ゆかりの別宮岡豊八幡宮由来の地名だろう。
合流点から先も二つのルートに分かれる。ひとつは現在の県道384号を領石に向かうもの。もうひとつは合流点から直ぐ、笠ノ川川を越え比江を経由して領石に向かうもの。比江経由の道は北街道が参勤交代に開かれた当初の道筋。比江の高村家を初日の宿泊所とした頃のもの。布師田に布師田御殿ができて以降は、直接領石を目指すようになったという。
領石川右岸の地にある領石で合流したルートは領石の送り番所を経て北進。一の瀬渡瀬で領石川を左岸に渡り、その先楠木渡瀬で右岸に、更に亀の本渡瀬で再び左岸に渡り直し、谷筋の小さな渡瀬を経て最後に梼山川の「下着渡瀬(私注;「着」はママ)を北に渡ると權若坂の登山口に着く、とある。
亀の本渡瀬から先は、過日土佐北街道・權若峠越えのとき、上述『土佐の道』に記載のないふたつの渡瀬を確認しており、そのルートを補足すると、亀の本渡瀬で領石川左岸に移った土佐北街道は、「左手渡瀬」で中谷川の右岸に移り、その先中渡瀬で左岸に渡った後、中谷川に合わさる梼山川の左岸から下り付け渡瀬で右岸(北)に渡り權若坂の登山口に着くことになる。

ルートは以上の通りである。計画では『土佐の道』に記載されるポイント、Google Mapに記載される「土佐北街道」、それと別の機会に既に確認済のポイントを頼りに道を繋ぐつもりであったのだが、思いがけなかった賜り物が布師田御殿跡にあった土佐北街道の詳しいルート図。この地図のおかげで、布師田から八幡合流点までは、ほぼ往昔のルートを辿れたと思う。
また当初渡瀬や送り番所など見つかるかどうか不安であったが、ほぼ見つかった。ために領石から釣瓶まではほぼ往昔のルートを辿れたとは思うのだが、八幡の合流点から領石まで、特に比江経由の北山道はあれこれ調べた上ではあるが、それでも推定の域を出ていない。八幡合流点から領石までのルートは参考程度と考えて頂きたい。
ともあれメモを始める。



本日のルート;
高知城下から布師田御殿跡まで
高知城>追手筋>山田橋・山田番所>茂兵衛道標(100度目)>比島橋>掛川神社>鳥付橋>土佐神社お旅所>お堂>石淵送り番所>岡村十兵衛先生住居跡>社>一木権兵衛先生の墓所>布師田御殿跡
布師田から岡豊町八幡の北岸・南岸ルート合流点まで
国分川北岸ルート
権兵衛井流>前田元敏先祖の墓所>奥官慥斎・奥宮健之父子の屋敷跡>西山寺>葛木橋>>葛木男神社>丘陵切通し>国分川筋に右折>山崎川・蒲原橋>山崎川橋>県道384号に出る>岡豊城跡>岡豊別宮八幡宮>県道を右に逸れ県道252号に出る
国分川南岸ルート
葛木橋を渡り国分川左岸に>郡境石>県道252号を左折し国分川に向かう>岡豊橋>県道252を北進し北岸ルートと合流
□地図に記載された「土佐北街道」ルート
山崎川・蒲原橋>山裾を水路に沿って東進>岡豊橋北詰めに出る
北岸・南岸ルート合流点から領石まで
□直接領石を目指すルート□
県道252号を右に逸れる道に>県道384号右手に笠ノ川地蔵>県道384号を左に逸れ丘陵土径に>県道384号をクロス>高知道インター高架下を進みルート合流点に
□比江経由のルート□
笠ノ川川渡河地点>検地帳>左折・検地帳>県道256号に出る>左折し国分小学校東の道に>国府小学校の東の里道を北進>阿波塚神社>道のえき風良里(ふらり)>丘陵地の土径を進み国道32号に出る>高知道インターの北のルート合流点に
領石より権若峠取り付き口の釣瓶まで
県道384号に出る>領石の送り番所>天満宮>一の瀬渡瀬>楠木渡瀬>清川神社>県道33号に出る>亀(瓶)の本渡瀬>県道を右折し林道釣瓶線に>左手渡瀬>中渡瀬>下り付きの渡瀬>権若峠・釣瓶取り付き口



布師田から岡豊町八幡の北岸・南岸ルート合流点まで

布師田から先で市域は高知市から南国市に入るが、ここでルートはふたつにわかれる。国分川北岸ルートと南岸ルートがそれ。まずは北岸ルートから。上述の如く布師田から国分川にそって北岸を進み、高知大学医学部キャンパス辺りから道を北に変え、キャンパス敷地北側を進み 右手に長曾我部氏の居城・岡豊城の建つ丘陵地を見遣りながら岡豊町八幡に出てるルートである。 当初、Google mapに「土佐北街道」と記載される、高知大学医学部キャンパス南を進む計画であったが、布師田御殿跡に土佐北街道の詳しいルート図があり、この道を辿ることにした。

国分川北岸ルート

権兵衛井流
布師田御殿跡を離れ案内にあった北街道の道筋のひとつ、国分川北岸ルートを進む。布師田ふれあいセンターの直ぐ先は国分川。堤防に沿った道を少し北に進むと左に逸れ山裾を進む道がある。北街道はこの左へと逸れる道に入るが、その分岐点に「権兵衛井流(ゆる)」の案内。 「布師田の国分川北岸の用水路に設けられた水門施設。通常は水量の調節を行うが、洪水など増水時には用水路の水門は閉めて下流への浸水を防ぎながら、近くに設けた別の水門を開けて国分川に水を流し、上流を浸水から守ったり堤防の崩壊を防ぐための仕組みです。 同じような施設が約 520m 離れた場所に一ヶ所ずつ計二ヶ所設けられていて一本権兵衛先生が発案して普請した水門として、権兵衛井流"と呼ばれています。布師田の誇る義人で一領具足出身の一木先生が野中兼山に抜擢され活躍されるきっかけとなったと言われる水門です。 現在も普請された当時とほとんど同じ場所にあって、当初の目的通りの運用を基本として地域で管理されています。
当時土佐藩の基盤を拡大強固にするため、土木・灌漑・干拓・港湾事業等を強力に進めていた執政野中兼山は物部川の山田堰工事の検分に行く途中布師田でこの"権兵衛井流"を目にして驚き、村人に問いただして一木先生を呼び出し、どのような考えでえこの水門を作ったか述べさせました。
一木先生は上記のような機能を考えて普請したことを話しました。それは兼山が山田堰から多くの用水路を作る計画の中で考えていた仕組みと正に符号するものでした。
すぐに郷士に取り立てられ一族百名ぐらいとともに山田堰に関係して用水路の建設に関わり、技 術の確かさや有能さが証明されたそうです。
その後兼山の計画する重要な工事で責任者を務めました。山田堰の工事をはるかに上回る仁淀川の治水灌漑工事や手結港の浚渫・津呂港の工事などがあります。兼山失脚後多くの部下が責任を問われる中で一木先生は珍しくお咎めなしとされ、土佐藩を挙げての三年がかりの大工事、室津港拡張工事の普請奉行として着任し、延宝七年(1679 年)六月工費十万三千五百両・役夫百七十三万人を投入して完成しました。
一木先生は難工事着手に当たって海神にわが身を捧げることを誓って成功を祈り、工事が無事完成した六月十七日夜、港上に場を構え、鎧・兜・太刀を海神に献じた後、未明に自ら人柱となり 切腹して亡くなられました。予算を何倍も越えた工事の責任を取ったと言われていますが、生前の 兼山からの、「御普請には存分の金銀を費やしても構わぬ、ただ、完全なものに仕上げることだ。」 を正に実践したのであって、また、郷士として取り立てられた恩を忘れずに、兼山一族に対する処 置への抗議の意思も込められていたとも言われています。
野中兼山の偉大な業績は失脚によって色あせるものではなく、兼山の元で実際に多くの工事に関わり現在の布師田や室戸方面・仁淀川流域等の発展の基礎を作って下さった一木権兵衛先生の業績を出身地のこの布師田から長く語り継いでいきたいものです。 布師田の未来を考える会」とあった。

前田元敏先祖の墓所
權兵衛井流に沿って道を進むと、道の左手に「前田元敏先祖の墓所」の案内;
「前田元敏は、幕末から明治大正にかけて活躍した日本を代表する英学者の一人です。安政4年(1857年)土佐藩士前田元幸(致道館槍術取立役、歌人)の嫡男として高知市廿代町に生まれました。致道館(植木枝盛や奥宮建之と同窓)、共立学舎英語学校にて英国人教師マイヤーらの指導のもと英学を修め、明治7年に上京。東京外国語学校等にて英語を修業後、東京開成学校に優秀な成績で合格。明治10年、東京大学理学部に入学(千頭清臣等と共に高知県貸費生)。明治14年、大学卒業まで数カ月というところで病により退学しましたが、高い学識と抜群の語学力が認められ、帰郷直後から教壇に立ちます。
高知共立学校(現土佐女子高等学校)、高知中学校(現高知追手前高等学校)、嶽洋社学課局、第五高等中学校(現熊本大学)、鹿児島高等中学造士館(現鹿児島大学)、岐阜県尋常中学校大垣分校(現岐阜県大垣北高等学校)校長。明治24年、従七位。明治29年、思想家・教育者の杉浦重剛に招かれて上京、私立日本中学校、同文書院(教頭)、私立郁文館中学校(激石『ぼっちゃん』の舞台)、同中学校教頭などを歴任。野武士のような風格と威厳があったと伝えられています。昭和2年没、享年71歳、墓所は東京都多磨霊園にあります。
教え子の中には、明治の文豪・大町桂月、内間総理大臣・濱口雄幸(濱口家への養子縁組を取持つ)などがいます。新渡戸稲造、内村鑑三、宮部金吾等と机を並べて英語を学び、英国人 (John.N. Penlington) が主宰する英字新聞(The Far East)に特別記事 (Japanese Views and Reviews) を寄稿するなど、殊に英語に優れており、日本英学史にその名を残しています。主な業績に『英和対訳大辞業』明治18年、『訂正増補 英和対訳大辞彙』明治19年、ベストセラーの教科書 Kambe's Readers 明治29年などがあります。
前田家は長宗我部元親家臣初代前田利國に始まり元敏は12代で、布師田西谷には4代から6代までの初期の墓所があり、布師田では珍しい古い時代の大きいお墓で、これ以降は筆山や秦泉寺山へと移っていっています。2代平兵衛利益は、元親が四国統一の途上の讃州引田の合戦時、敵の武将仙石勘解由を打ち取ったとの記録があり、妻は布師田・金山城主石谷民部少輔の息女で金山城と深い関係があります。3代源十郎利春は、長宗我部地検帳に多数の所領が記されており豊臣秀吉の命により薩摩軍と戦った豊後戸次川の合戦で長宗我部信親等と共に討ち死にしています。また4代彦九郎家勝は、万々城主吉松十衛門に嫁した元親の第四息女の孫娘を妻に迎えていて長宗我部氏とも深い関係があります。
また、上記説明文中の元敏と同窓の奥宮健之については、"奥宮慥斎・健之父子の住居跡"がここより約150m東方にあるのも何かの縁です。(奥宮慥斎は土佐藩の陽明学者で安政元年(1858年)江戸に出る時、後に三菱財閥の基礎をつくった岩崎弥太郎を従者として連れて行っています。)
前田元敏先祖の所へは説明板に向って右手の山道を道しるべに従って道なりに約3分上った左側にあります。 布師田の未来を考える会」とあった。
大町桂月
教え子の中に大町桂月の名があった。東京都文京区散歩の折、大町桂月の旧宅跡を訪ねたことがある。詩人・随筆家・評論家として知られる、というが、散歩フリークとしては紀行文しか知らない。誠に、いい。終世酒と旅を愛し、大雪山系にはその名からとった桂月岳が残る。与謝野晶子の「君死にたもうことなかれ」に対して、「皇室中心主義の眼を以て、晶子の詩を検すれば、乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なりと絶叫せざるを得ざるものなり」などと非難し戦後は少々評価をさげてはいたようだ。が、紀行文は誠に、いい。田山花袋の紀行文に『東京の近郊 一日の行楽』がある。これも、いい。同じく桂月に明治40年に書かれた「東京の近郊」がある。これもまた、いい。「一日に千里の道を行くよりも 十日に千里行くぞ楽しき」は桂月の言。

奥官慥斎・奥宮健之父子の屋敷跡
更に続けて「奥官慥斎・奥宮健之父子の屋敷跡」の案内。
「奥宮値姦(1811~1877)
幕末明治初期の思想研究家。藩吏奥宮正樹の長男で、土佐藩主山内容堂の特講の陽明学者です。儒学を岡本寧浦に学び、文政12年(1829年)に江戸に出て陽明学者佐藤一斎にも学びました。
土佐へ帰った後に私塾「蓮池書院」を興し、藩校致道館の儒官や教授館教授をつとめました。土佐藩伝統の南学(土佐の朱子学)から排撃されながらも陽明学の土佐の地での中心的な存在となりました。
明治2年(1869年) 12月、板垣退助が高知県大参事となった時、協力して学制の改革や宣教の事務を担当、明治6年立志社の民選議員設立建白書起草案の修正などにもかかわっています。慥斎は、平井善之丞・佐々木高行・武市半平太・大石弥太郎らと交わり勤王の影響を与えています。門人に長岡健吉・中江兆民・河田小龍・淡中新作・北代正臣・島本伸道ら勤王の志氏を輩出しています。墓所は東京谷中墓地にありますが、父奥宮弁三郎正樹や母・妻などの墓所はこの屋敷跡より少し東方の西山寺の右手階段上にあります。(徒歩7分)
(陽明学とは中国の王陽明のとなえた哲学です。)《儒学とは孔子に始まる中国古来の政治・道徳の学問です。)
実業家で三菱財閥の創始者岩崎弥太郎は少年時代、それまで師事していた叔父で儒学者の岡本寧浦が没した後、奥宮慥斎にも師事し、安政元年(1854年)慥斎に従いこの屋敷跡前の道を通って江戸に出て行きました。奥宮慥斎は左遷のような形で老母梶子と従者伊太郎を伴って江戸藩邸詰めに出張して当代一流の佐藤一斎や安積艮斎らと交わりました。
この江戸行きの時、師として岩崎弥太郎を最初に江戸に連れていった人物です。布師田を発って安芸の岩崎の家で宿泊し室戸方面から徳島を通って江戸までの日記が残っています。慥斎の日記によると安政元年九月二十五日に出発し、六十日目の十一月二十三日築地の土佐藩下屋敷に到着しています。互いに詩を吟じ冗談を言いながらの楽しい旅だったようです。出発に際して弥太郎は裏の妙見山に登り、星神社の扉に"吾志得ずんは再びこの山に登らず"と大書した逸話はよく知られています。
弥太郎は三菱を創立した後も奥宮家を気に掛けていて何かと援助をしたと言われています。自らの漢詩の素養は慥斎の影響も大きいと言っていたようです。
慶応三年(1867年)二月、山内容堂に四侯会議出席を求めるため島津久光の命で土佐に来ていた西郷隆盛を訪問、意気投合して互いに漢詩を交換する仲となり、この時の漢詩は後に高知市民図書館に寄贈されています。
慥斎の長男正治は後に宮城控訴院検事長になりますが、弟の奥宮健之が大逆事件で罪を問われた時、健之を支えますが責任を感じてか辞職しています。
また、岩崎東山先生傳記(岩崎弥太郎の伝記)の編集もおこなっています。
慥斎の父正樹は藩の下役人でしたが、文化五年(1808年) 幕府測量使伊能忠敬一行が土佐を測量に来た時、土佐藩の案内役として普請方宮崎竹助と共に甲浦から伊予宇和島に出るまで約一カ月余り随行して測量の世話をしています。
〇奥宮健之
明治期の社会運動家・英学者。安政4年陽明学者奥宮慥斎の三男として土佐郡布師田村に生まれました。慶応3年(1867年) 致道館で漢学を学び、明治3年(1870年)上京し英人メーカーに英学を学びました。明治5年から湯島の共慣義塾に学び、同塾の教師や山内家の海南私塾の教師をつとめ、自ら英学塾育英舎も開いています。
一時三菱に勤めていますが、明治13年頃から政談演説に深く関わるようになり、明治14年(1881 年) 自由党結成に参加し、入党して全国各地で遊説しました。明治15年(1882年)には6月創刊の「自由新聞」に入社しています。また、同年に馬車鉄道の出現で失業した人力車夫を組織化し、自由民権論者と共に「車界党」(車会党)を結成、反資本主義的な運動も展開しています。
その後、政談演説などで植木枝盛と各地遊説も行っています。演説中止や集会条例違反などでたびたび投獄されたりもしました。幸徳秋水に爆弾製造法を教えたという罪で明治44年(1911年) 明治天皇暗殺計画という大逆事件に巻き込まれ、無罪を主張しましたが刑死となりました。
絞首刑 12名無期懲役12名を出した大逆事件は、社会主義者や無政府主義者への時の政府の大思想弾圧事件でした。現在は冤罪が定説になっています。奥宮健之や植木枝盛は布師田自由党の結成にも大きな影響を与えたのではないでしょうか。
明治17年3月25日布師田自由党は一宮村自由党と協力し、時の太政大臣三条条実美宛てに住民402 名の署名と共に 43 ページにもわたる『減租請願書』を提出したりしています。健之と同じ布師田西谷に先祖の墓所のある高知出身の英学者前田元敏とは致道館で同窓でした。」とあった。

「西山六本松(旧布師田橋の所在地の一つ)」の案内
直ぐに「西山六本松(旧布師田橋の所在地の一つ)」の案内;「布師田橋の位置(「南路志」の解釈) 布師田橋の位置については「南路志」に、『七つ城に長さ三十三間(60m)・幅二間(3.64m)の橋が川の東から西にかかっている。万治三年(1660年)に現在の場所(七つ城)に架け替えられた。以前は西山六本松に架かっていた。更に明暦年間(参考:明暦元年=3D1655年)には東山(場所不明)の端に架かっていた。』とあります。
"七つ城の布師田橋"=現在の布師田橋の少し上流付近と思われます。
万治三年(1660年)以前には布師田橋はここ西山六本松に架かっていて、甲浦まで陸路を通る場合や北山道を取って国分川を渡るときは、この橋を利用したと思われます。1660年以降はここより約600m下流にある"七つ城の布師田橋"が利用されました。
"西山六本松"は現在の地蔵堂部落の"地蔵堂"から国分川を隔てた北側。現在は土手上が道路になっているが、以前の土手(昭和35年頃)は上部の幅員が狭くて車は通行できませんでした。その土手の"西山六本松"と思われる付近は二十畳ぐらいの広場になっていて、昔からの地名を残すような形でちょうど松の木が六本ぐらい植えられていました。
ホノギで"西谷"の北の山裾の小川に沿った西谷部落の道から分岐して斜めに"スカ"を横切り土手を上がってきた所(この道は現在も大部分が残っている)が西山六本松"でした。ろっぽん"と呼んで子供の遊び場所でもありました。
また、国分川の河原に置かれていたという葛木男神社のお神輿の休む畳二畳ぐらいの御旅所 の石(現在は少し下流の左岸道路わきに移されている)が中心に置かれていました。
西山六本松付近の国分川は現在も浅瀬で、昔から歩いて往来できたそうで、秋祭りのお神演も 川の中を担がれて渡っていたそうです。 布師田の未来を考える会」とある。

現在は中島経由の北街道は葛木橋を渡ることになるが、往昔は葛木橋の少し下流にあった古布師田橋を渡り国分川左岸に移ったようである。この旧布師田道を渡り中島に向かう道は土佐北街道南岸ルートであると共に、土佐北街道が開かれる以前の土佐藩参勤交代道である野根山街道をを越えて甲浦に出る、通称「東街道」のルートでもある。

西山寺の案内
さらに直ぐ、「西山寺:の案内;「真言宗善通寺派に属し、正式名称は普門山観明院西山寺といい本尊は聖観音です。江戸時代に成立した土佐の歴史・地理書である。南路志にもその名が見られる古いお寺です。尚、南路本では西山寺は五台山の末寺で本尊同弥陀 運慶作となっています。
明治初年の廃仏稀釈運動により廃寺となり一時私塾「球磨学舎」として使われたこともありましたが、昭和5年に再興され同21年宗教法人となり現在に至っています。第6番西国観音場(私注:土佐三十三観音霊場)としての参拝者もあります。
近くに石渕送番所や布師田御殿があった関係でしょうか、土佐山内家の藩政下では西山寺は、 他藩からの使者等をここでお迎えして城下に案内などもする重要な役割を担っていました。 事実、山本周五郎の「桜の木は残った」で有名な原田甲斐の登場する"伊達騒動"で、土佐藩預かりになっていたの騒動当事者の伊達兵部が延宝七年十一月四日に亡くなった時、江戸からの検使が西山寺で土佐藩の出迎えを受けた記録があります(有路志第八巻p246)。
〇西山寺主要な所蔵物
本尊聖観音菩薩立像; ヒノキ材の一木造り、彫眼の彩色像、平安時代作 ふくよかで伏し目の思やかなお顔
黑沙門天立像 ;ヒノキ材の寄木造り、玉眼の彩色像、鎌倉時代作 目を見開き正面を見据えたりりしいお顔
弘法大師像; ヒノキ材の寄木造り、玉眼の彩色像、江戸時代作 西山寺の棟札により意政6年(1794)五台山法印慶隆の導師で開眼供養が執り行われていることがわかります。
記録で確認のできる西山寺
「南路志」の布師田村の項には、応永 15年(1408)山田氏が西山寺の聖観音菩の厨子を寄進したことが記されています。
「長宗我部地検帳土佐國土佐那布師田村地検」天正16年(1588)に「西山寺」の記述があります。
〇江戸時代の西山寺の役割
現在布師田地区の氏神である墓木男神社の棟札からこの神社を管轄していたことが窺えます。 地区を複家として管轄し、「南路志」の記述から土佐藩政の一旦を担っていたことも競えます。 境内の石造物
境内には地蔵仏や五輪塔・供養塔など多数あり歴史の古さを物語っています。見かけることの少ない遍路の墓石も発見されました。(三頭のカラス天時は室内収納)
〇周辺情報
西山寺下の市道少し西の用水路北側には、奥官慥斎の住居跡があります。
西山寺の東側山道を道なりに進み階段を登った少し上段に「布師田奥宮家の墓所」があります。伊能忠敬測量隊を土佐藩の命により案内したうちの一人で、奥宮弁三郎三部正樹一族の墓所があります。正樹の妻や正樹の父、忠蔵正性、奥官慥斎の妻等です。正樹は奥宮慥斎、奥宮暁峰兄弟の父親です。 布師田の未来を考える会」とあった。

西山の六本松とか西山寺とあるように、石淵の送り番所にあった龍馬青春の道、「布師田橋は渡らずに国分川北岸を、西谷・折越峠・蒲原・小蓮と通って、藩境の立川番所をめざした」とある西山がこの辺りである。

国分川堤防道に出る
山裾の道は国分川添いの道に合流。合流点付近には水門や堰がある。上述権兵衛井流の案内のあった水門から距離も500m強。このあたりにふたつあった水門のひとつがあったのだろうか。本音を言えば、この規模の用水路で説明にあった洪水調節機能、土手崩壊を防ぐ機能を果せるのだろうかとの疑問もある。洪水調節機能、土手崩壊を防ぐ機能は国分川ではなく井流域というのであればそれは納得できるが、この辺り西山の丘陵から国分川の間の耕作地もそれほど広くなく井流が灌漑用に大きなインパクトを与えるとも思えない。水門での調節といった仕組みの有り難さはわかるのだが、その距離が500m強という井流自体の役割のポイントは門外漢にはいまひとつわからなかった。

葛木男神社
葛木橋を越え先に進むと、北山道はほどなく堤防沿いの道から左に逸れる。道の左手に葛木男神社。葛木男神社由緒には、「祭神 高皇産霊大神 葛木男大神 葛木咩大神
勸請年月日縁起沿革等は未詳であるが第六十代醍醐天皇延喜七年(皇紀一五六七年)神祇官の延喜式神明帖に登録せられた延喜式内社で土佐国二十一座の一座である。
古来より布師田の総鎮守で中古高結大明神と称す。即葛木氏は高皇産霊神(私注;たかみむすびのかみ)五世孫劍根命(私注;つるぎねのみこと)の後裔布師臣武内宿禰の男葛城襲津彦を祖とする。葛城氏族は布としての仕事を営む傍ら生活の糧を得るため布師田の原始林を開始し。永住の地と定め太祖高皇産霊神を氏神として奉祀したものである。
近世は布師田全山城主源信も太祖神を斎き祀りしものである
布師田は布師の人の住む里なるか故に布師と号け昔より田地の多い処なるが故に布師田と唱へ今の地名となりたりと伝えられる
縁起式内社葛城襲津彦命妃命を奉祀する葛木神社は昭和四十七年十二月合祀しました」とある。
葛木男大神は葛城襲津彦、 葛木咩大神は葛城襲津彦妃命とWikipediaは云う。伝承では、元は両社とも現社地の南東方において同じ境内に鎮座したが、葛木咩神社は東南方に移り、葛木男神社も国分川の増水を避け北西方の現在地に移ったが、昭和47年に葛木咩神社は合祀された。
由緒丘陵はともあれ、この社が布師田の地名の由来ではある。

丘陵の切通し
左に逸れた道は丘陵を切通しで抜ける。石淵の案内にあった龍馬青春の道「布師田橋は渡らずに国分川北岸を、西谷・折越峠・蒲原・小蓮と通って、藩境の立川番所をめざした」とある折越峠がこのあたりかもしれない。
道の左手は高知刑務所。切通を抜けて先に進むと高知県警交通機動隊の建屋前に出る。布師田御殿跡にあった北街道ルートによると、道は高知県警交通機動隊の建屋の先辺りで右折し国分川t堤防に向かう。


山崎川・蒲原橋北詰めに
右折というが、右折点の先は道と言うより水路沿いのブッシュ。取敢えず土手まで進み、堤防上の道を進むみ山崎川・蒲原橋北詰めに出る。
龍馬青春の道にあった「布師田橋は渡らずに国分川北岸を、西谷・折越峠・蒲原・小蓮と通って、藩境の立川番所をめざした」の蒲原がこの辺りだろう。


山崎川橋手前で左に逸れ山崎川右岸を進む
北街道は蒲原橋北詰めをそのまま直進し、山崎川右岸を進み山崎川橋。橋の手前に左に逸れる道がある。布師田御殿跡にあった地図によれば、この道が土佐北街道のようでもある。
左に逸れ山崎川右岸を進み、水路が山崎川に合流する先で左岸に渡り返し、水路に沿って東進し山崎川橋を渡ってきた道に出る。



高知大学医学部附属病院北を県道384号に抜ける
土佐北街道は道をクロスし高知大学医学部敷地の北を進み、医学部敷地東を走る道路を横切り更に東進し、道が岡豊城跡のある丘陵に当たる手前で左折し県道384号に出る。
高知大学の北に岡豊町小蓮の地名がある。龍馬青春の道にあった「布師田橋は渡らずに国分川北岸を、西谷・折越峠・蒲原・小蓮と通って、藩境の立川番所をめざした」の小蓮がこの辺りだろう。
補足メモ
当日は上述の如く山崎川橋を渡り先に煤んdのだが、メ。モの段階で山崎川橋手前で左に逸れ山崎川右岸を進み、水路が山崎川に合流する先で左岸に渡り返し、水路に沿って東進し山崎川橋を渡ってきた右折点の水路に続く道がある。確証はないが、この道筋のほうが旧路っぽい

岡豊別宮八幡の先で県道384号を右に逸れ県道252号に出る
県道384号を東進すると道の左手に岡豊別宮八幡。布師田御殿跡にあった地図には、そのすぐ先で県道を右に逸れ、「谷泰山先生先塋の地」の傍に出るとある。
「谷泰山先生先塋の地」は道の右手の丘陵地にあるようだ。岡豊八幡宮の直ぐ先にある右に逸れる道に入り、丘陵裾の道を辿ると県道252号に出る。ここで布師田から国分川を渡り中島経由の北山道と合流する。
岡豊別宮八幡
元親の信仰が篤く、出陣にあたっては必ず戦勝を祈願したといわれている。八幡宮の宮司谷氏の祖である大神氏は、大和の国三輪山から土佐に移り、その子孫は谷左近、谷秦山、谷干城などにつながる。
谷左近
長曾我部元親に仕えた。左近の伝えた八幡大菩薩のご神託が元親の阿波出陣のきっかけとなった、と。長宗我部盛親の改易後は浪人となる。
谷泰山
江戸前・中期の儒学者,神道家。名は重遠,秦山は号。土佐(高知県)に生まれる。17歳で京都に出て,山崎闇斎や浅見絅斎に学ぶ。土佐に帰ったのち,さらに闇斎門下の渋川春海に書簡を送り,天文・暦算や神道を学ぶ。藩主山内豊房に用いられて,藩士に学を講じるが,宝永4(1707)年豊房死後の政変で蟄居,10年余におよぶ。朱子学に神道をあわせた学問を展開し,一時絶えていた土佐南学派を再興した。その国体論は,幕末の勤皇倒幕運動にも影響を与えた。
谷干城
幕末から明治にかけて活躍したの武人。幕末は、土佐藩の勤皇派として、乾退助(板垣退助)の片腕を為し、薩摩藩・小松帯刀、西郷隆盛らと「薩土討幕の密約」を締結する。戊辰戦争に際し、軍事の才能、智略に秀で最前線で戦った武将。熊本鎮台司令長官であった西南戦争においては、熊本城攻防戦の官軍指揮者として手腕を発揮し、更に武名を挙げた。後に政治家となる。

国分川南岸(中島経由)ルート

布師田御殿跡にあった国分寺川南岸のルートを辿る。国分川南岸の中島を経由し国分川を八幡渡瀬で渡り返し北進し南国市岡豊町八幡に向かう。
八幡渡瀬」は大雨などの時は渡河できず、この道筋は敬遠されることが多かった、と言う。では何故にこの南岸ルートが開かれたのだろう。距離が大幅に短縮されるようにも思えず、北岸ルートに難所といった箇所も見受けられない。
あれこれチェックすると、この中島への参勤交代道は、土佐北街道が開かれる以前の参勤交代道である土佐の城下から甲浦に出る野根山街道、通称「東街道」への道筋であった。その名残りかと思える。この道筋は初期の参勤交代道である野根山街道、通称「東街道」への道筋でもあったようだ。北街道のルートとしても初期の頃利用されたものかと思える

葛木橋を渡り国分川左岸に

往昔は上述、「西山六本松(旧布師田橋の所在地の一つ)」の案内にあった、現在の葛木橋の少し下流、旧布師田橋を渡ったのだろうが、現在その橋はない。葛木橋を渡り国分川左岸に移る。






郡境石
左岸に移り県道249号を国分川左岸に沿って進むと、国分川・小山橋から下ってきた道がT字に合流。その合流点に郡界石が立つ。「是東長岡郡」・「是西土佐郡」と刻まれる。現在は高知市布師田と南国市岡豊町中島の境となっている。








県道252号を左折し国分川に向かう
郡境石より更に西進し県道252号を左折し北へと国分川へと向かう。少し北に進むと、県道を左に逸れる道がある。布師田御殿跡にあった北街道はこの左に逸れる道のように思える。 左に道を逸れ北に進む道筋には水路が流れる。水路に沿って北に進むと国分川の土手にあたる。布師田にあった「ぬのしださんぽ」案内には、この辺りに国領の水越跡が記されていた。
水越
高知大悪の資料
水越とは越流堤のこと。洪水時には水が堤防を越えることをあらかじめ想定し、その下流を水没させ、中堤(水張堤)により一帯を遊水池とすることを目する。河川上流部を水没されることにより河口部の洪水を抑制し、下流域、国分川、久万川、鏡川などの河川が織りなすかつての氾濫平野、三角州に普請した高知の城下町を護る治水対策のひとつである。国分川水系の洪水をそのまま河口部まで流すと鏡川などの城下町を流れる川の水位が上がり、逆流現象が起き水が城下に流れ込むのを防ぐこととも意図しているのではないだろうか。
参考に高知大学の飼料「高知の藩政期の水防災対策の再評価平成 25 年自然災害フォーラム論文,2013」を掲載しておく(高知城下の治水事業に興味があるかたはこちらの記事をご覧ください)。
「伊奈流」とも関東流と呼ばれる越流堤の治水施策は埼玉の見沼などで出合った。

岡豊橋を左折し県道252を北進し北岸ルートと合流
土手に出た北街道は国分川左岸を進み岡豊橋の南詰めに出る。岡豊橋南詰を左折し県道252号を北進し、上述国分川北岸ルートと合流する。
合流点手前の丘陵地側に「谷泰山先生先塋の地」の案内。先塋(せんえい)とは先祖の墓の意である。



地図に記載された「土佐北街道」ルート

ついでのことでもあるので、Google Mapに記載された「土佐北街道」のルートもメモしておく。国分川北岸ルートではあるが、高知大学医学部の北を通ることなくその南、国分川に沿って進むルートであり、29番札所国分寺から30番札所善楽寺へと向かう遍路道でもある。

山崎川・蒲原橋
山崎川・蒲原橋で北岸ルートと分かれ国分川に沿って高知大学キャンパス南を東進する。しばらく進み国分川の支流に架かる橋を渡ると、道は岡豊城の建つ丘陵南裾に入る。




山裾を水路に沿って東進
山裾に入った北街道は、国分川から少し離れしばらく木立が日陰をつくる水路脇の道を進む。ほどなくして集落の里道出ると、その先は国分川に沿って進む。




岡豊橋北詰めに出る
道は岡豊橋北詰めに出る。遍路道はそのまま直進するが、北街道はこの地で中島を経由してきた南岸ルートと合流し県道252号を北進し、北岸・南岸ルート合流点に向かう。




北岸・南岸ルート合流点から領石まで

この間の土佐北街道もふたつのルートがあったようだ。布師田御殿跡の案内に「北山道を取る場北街道合、発駕後一泊目は主として比江高村家に宿しましたが、天保頃から布師田に転じ、天4(1833)年 12代豊資以降は布師田御殿泊が中心となります」とあったように、参勤交代初期の頃は比江戸経由のルート、天保頃からは布師田御殿に泊まりそのまま領石へと向かったようである。 資料が少なくはっきりしないが、とりあえずこの二つのルートを追っかけてみる。

直接領石を目指すルート

県道252号を右に逸れ旧道を県道384号に

布師田御殿跡にあった地図に拠れば、北街道は北岸・南岸ルート合流点辺りから県道252号を右に逸れ笠ノ川川方向に向かっている。水路に沿ってほとんど畦道といった道を進み。県道32号の少し手前で左折し県道384号に向かう。



比江ルート渡河地点
布師田御殿にあった地図には、土佐北街道は県道32号を越え、その先で笠ノ川川にあたる。
笠ノ川川の対岸が国分でありその東が比江である。これが初期の比江経由のルートの渡河地点であろうと思い込む。







県道384号右手に笠ノ川地蔵
道より一段高いところにあるお堂にあった案内には、土佐の殿さまも参勤交代の途次立ち寄り参拝されたとの言い伝えが残り、通称笠取地蔵、特に首から上に御利益あらたかとされるお地蔵さまとのことであった。首から上って頭痛や目の病に霊験あらたか、ってことだろうか。

県道384号を左に逸れ丘陵土径に
布師田御殿跡にあった地図に拠れば、北東に進む県道が高知道南国インター手前で北に向きを変える手前で土佐北街道は県道を左に逸れている。はっきりしないが、なんとなくそれらしきところ、民家の間の細路を進み小さな丘陵を越える。


県道384号をクロス
道はすぐ県道に合流する車道に出るが、布師田御殿跡にあった地図に従えば、道は県道手前で北に進み高知道南国インター手前で県道を越えている。地図にあるルートに従い進むことにしたが、道はなく畑跡といった場所を進み、民家の裏手を越えた先で県道に合流。なりゆきで県道を渡る



高知道インター高架下を進みルート合流点に
県道を渡り高知道の高架下を潜り、その先集落の細い里道を進むと右手から細い道が合流するところに出た。はっきりしないが、そこが比江経由の北山道の合流点と思い込む。






比江経由のルート

比江経由の北山道をトレースしてみようと思ったのだが、はっきりとしたルート図がわからない。ポイントとなる宿泊地である比江の高村家でもわかれば、それなりに道筋もわかるだろうが、それも検索でヒットしない。あれこれチェックすると、上述笠ノ川川の渡河地点から先は、ジグザグに県道256まで進み、国府小学校の裏を通り阿波塚神社前を抜けて高知道インター北のふたつのルート合流点まで進んだようである。
以下はっきりしたルートであるとの確証はないが、それらしき道筋を歩いてみることにする。

笠ノ川川渡河地点
上で布師田御殿跡にあったルートに従い笠ノ川川の土手までメモした。現在そこに橋はない。少し右岸を上流に進み、県道256に架かる無名の橋を渡り、笠ノ川川左岸を下り、渡河地点(実際渡河したのかどうか不明だが)まで戻る。
そこからは田圃の中の道を成り行きでジグザグに進み県道256号に出る。




県道256号に出る
途中道筋に長曾我部検地帳の案内が立つ。このあたりには随所に長曾我部検地帳の案内が立っていた。
長曾我部検地帳
豊臣政権期に土佐国主であった長宗我部氏が実施した、土佐一国の総検地帳。天正15(1587)年から数カ年かけて行われた検地の成果で、土佐七郡全域にわたる368冊が現存する。初代土佐藩主山内一豊は慶長6(1601)年の土佐入国時、長宗我部氏の居城浦戸城に入城し、地検帳を接収。七郡の郡奉行がそれぞれ保管し、初期の土佐藩政に利用した。その後写本を作成し、原本は実務的な使用からは離れるが、近代まで土佐一国の基本台帳として大きな意義を持った(「文化遺産オンライン」より)。

府小学校の東の里道を北進
県道256号に出るとそのまま東進。その先で北に向かう県道を離れ、県道より少し東、国府小学校裏を進む道に入る。先に進むと道は少し小高い丘に上る。




阿波塚神社
成り行きでそれらしき道を進むと道の左手に阿波塚神社。長曾我部氏ゆかりの社、というか小洞といったお堂である。お堂のまわりには幾多の小さな五輪塔が並んでいた。
この祠の由来は鎌倉時代まで遡る。当時、長宗我部家7代目兼光のころ、大豊町豊永地域を本拠とした小笠原左近太夫という豪族がいた。左近太夫は阿波の一部まで領地をもち、香長平野に進出する好機を窺い、時を得て阿波兵を配下として南に下り岡豊に向かって一挙に進撃を開始。守戦一方の兼光は、日頃から信心する岡豊八幡宮に戦勝を祈願。 と、あら不思議にも一振の金の鉾が飛び 出し、阿波勢の陣の上を縦横無尽 に飛びまわった、と。
長曾我部勢は金の鉾に恐れおののく阿波兵を追撃し多くの阿波兵を打ちとった。阿波塚は討死した阿波の兵士を埋葬したところ。が、それ以降も怪異な現象が続くため、永禄年間、元親は長門国(今の山口県)壁雲寺の高僧通安が、土佐の山野を行脚して法力を見せているのを知り、魂鎮めの法会を行ったところ怪奇な事件はぱったりと止んだといわれている。

道のえき風良里(ふらり)東北端の駐車場

阿波塚神社の先は双葉台の中央木材工業団地となっており、古い道は消える。工業団地内を成り行きで進み、「道のえき風良里(ふらり)」の東北端の駐車場に出る。



丘陵地の土径を進み国道32号に出る
「道のえき風良里(ふらり)」から先、旧路はないかと地図をチェックすると丘陵地を北に進む道筋が見える。それが土佐北街道かどうは不明だが、とりあえずそこを進むことにする。 道の法面に斜めに上る道に入る。直ぐに竹林の中を北に進む土径が分岐。なりゆきで北に進む。

高知道インターの高架を潜り北進
丘陵を出て里道を下り国道32号の陸橋を渡り国道西側に出る。国道に沿って北進するが道は高知道インターへの出入り口アプローチ道に阻まれ先に進めない。しかたなく、迂回しアプローチ道高架下を潜る。迂回したため直ぐ下の道は先ほど歩いた直接領石を目指す道筋〈推定)。


合流点に
高架を潜りアプローチ道に阻まれたであろう道の続き箇所らしきところまで進む。そこから旧路を北進するとほどなく、上でメモした「直接領石を目指すルート」との合流点らしきところに出る。

以上、北岸・南岸ルート合流点から、領石で直接領石を目指すルートと比江経由のルートが合流する箇所までをトレースしたが、資料がなくはっきりした道筋とは言い難い。取敢えず、それらしき道筋を辿った、といったところである。




領石より権若峠取り付き口の釣瓶まで

南国市の図書館まで行ってチェックした『土佐の道 その歴史を歩く;山崎清憲(高知新聞社)』にも領石より権若峠取り付き口の釣瓶までの詳しいルートは記されていない。ただ、領石の送り番所とか、領石川の浅瀬を渡河した一の瀬渡瀬、楠木渡瀬、亀の本渡瀬、下着(私注;ママ)渡瀬といったルートの目安となる地名が記されている。
また同書には記載されていなかったが、過日土佐北街道・權若峠越えのとき、確認隅のふたつの渡瀬、左手渡瀬と中渡瀬を加え権若峠の取り付き口を目指すことにする。

ルートは領石川右岸の地にある領石の送り番所を経て北進。一の瀬渡瀬で領石川を左岸に渡り、その先楠木渡瀬で右岸に、更に亀の本渡瀬で再び左岸に渡り直し、「左手渡瀬」で領石川支流中谷川の右岸に移り、その先中渡瀬で左岸に渡った後、中谷川に合わさる梼山川の左岸から下り付け渡瀬で右岸(北)に渡ると權若坂の登山口に着く。
これらのポイントを追っかけて領石より権若峠取り付き口の釣瓶まで進むことにする。
領石
領石の由来は「根曳峠への登り口の集落。地検帳には龍石。竜に似 た奇岩?竜石寺という寺名に由来?(土佐地名往来)」とある。

領石の送り番所
領石へ直接進むルートと比江経由の北街道合流点とおぼしき箇所から少し北に進むと直ぐ県道384号に出る。そこから少し北に進み県道384号が国道32号に合流する手前に左に逸れる道がある。北街道はここを左に逸れる。
ゆるやかな坂を上るとすぐ左手に天満宮の鳥居があり、そのすぐ先に「領石の送り番所跡」と刻まれた石碑が立つ。割と新しい。
天満宮と石灯籠
天満宮鳥居前に天満宮と石灯籠の案内があった。
天満宮
「天満宮 領石部落の氏神、産土神である。「天神様」とも呼ばれ、祭神は菅原道真である。鳥居は参道入り口と、急な石段の下の二基、狛犬も大正八年に建立され、変遷を物語る棟札も数枚残されている。文化十二年(一八一五)南路志には「天満天神社岡屋敷祭九月二五日・僧壱人社地三十代林八十間 横十間」とある。
菅原道真(八四五~九〇三)平安時代の貴族、学者、政治家 朝廷で右大臣まで上ったが、藤原時平との政争に敗れ、太宰府へ左遷され、二年後にその地で失意のうちに病没した。その後、藤原時平は早世、天皇家では皇子が相次いで病死、京で疾病がはやり、天変地異が続いた。道真公のたたりを恐れた朝廷は、身分を戻し、京都「北野天満宮」を建立、神号を「天満大自在天神」とした。やがてそのような記憶の風化と共に道真が生前優れた学者だったことから、学問の神様として信仰されるようになった。
天満宮の境内の中に三基の小さなお社が祀られ、まとめて「小宮さま」と呼ばれている。右から「白山神社」「竃戸神社・山神社」「清川神社」「大神宮」と書かれている。勸請の時期などは不明である。
鳥居の下に、明治四十三年に建立された「日露戦役記念碑」には植野・領石から従軍した人々の名前が刻まれている。 平成二十三年一月吉日 久礼田地区史談会」

天晴の石灯籠
この石灯籠には「天晴 丁卯 十月吉日」と刻まれている。
『天晴』という年号は存在しない。丁卯とは、幕末最後の年、慶応三年(一八六七)のことで翌慶応四年には明治に改元されている。
朝廷の定めたものでない年号は「私年号」といわれるが、「天晴」という年号は土佐に限られて使われ、現在確認されている石灯籠は、領石のものを含めて四ヵ所しかなく、非常に貴重である。 慶応三年十月、領石の住民がこの石灯籠に、「天晴」の年学を刻んだいきさつについては一説がある。参勤交代北山道の要所であった領石には、中央の情報もいち早く伝わっていたことから「国内不穏につき改元する。新しい年号は天晴である」という話が誤って伝わり、住民は「来年は天晴という年号になる」と信じたに違いない。
翌年は「明治」に改元された。領石の住民はどのような思いで明治元年を迎えたのであろうか。 平成二十三年一月吉日」とあり、またその下には
「天晴の棟札
領石で作られた「天晴」の石灯籠に続いて棟札が新たに見つかりました。この棟札は、これまで領石天満宮境内社の小宮さま(大神宮)に納められていましたが、平成二十七年六月の調査の折に発見され、領石での「天晴」年号二例目として貴重であることから保存・管理のため高知県立歴史民俗資料館に寄いたしました。
(表)
天下太平国家安全氏子安全 奉建立 弁才天客
(裏)
「天晴元年丁卯 九月十七日 願主北村金次郎」と記される。

一の瀬渡瀬
「領石の送り番所」の石碑から里道を北進する。先に進むと民家がありそこで道はふたつにわかれる。右へと川筋に下る道をとり国道32号の高架下、更には高知自動車道の高架下を潜り、大きく曲がる領石川右岸の道を進む。山裾を流れる水路に沿って少し進むと「一の瀬渡瀬」と刻まれた石碑が立っていた。これも比較的新しいものであった。
往昔、ここから領石川を左岸へと浅瀬を渡っていったのだろう。
この渡瀬に石碑があった、とすれば、その他の渡瀬にも石碑か標識などが立つ可能性が高い。ここで渡瀬のポイントハンティングのモチべーションが結構高まった。

楠木渡瀬
一の瀬渡瀬で領石川左岸に渡り宍崎に出る。北山道は領石川左岸を北進し楠木渡瀬で再び領石川を右岸に渡り清川神社前を進むと『土佐の道』にある。地図をチェックし領石川右岸の清川神社へ向かう道をチェックすると、楠木橋を渡る道筋がそれに一番近い。取敢えずその地に向かう。 一の瀬渡瀬辺りに橋はないため、一度引き返し県道384号が領石川を渡る領石橋まで戻り領石川左岸に移る。高知自動車道の高架を潜ってすぐ領石川左岸に沿って進む道筋に入る。道の左手に南国市立たちばな幼稚園を見遣りながら道を進むと楠木橋がある。
橋を渡ると「楠木渡瀬」と書かれた木の標識が立っていた。ここがかつての楠木渡瀬であった。楠木渡瀬のゆらいは、かつて川岸に対岸にまで枝が届く大きな楠木があり、身軽な者は枝につかまり川を渡った故、と『土佐の道』は記す。
標識の傍に「北山越え」と刻まれた石碑があり、裏面には「律令制度の昔、都と土佐の国府は南海道で結ばれていた。古代文献よると、勅によって北山越えの開かれたとある。山また山の険しい道だけに、のち海路とってか知られた
この北山越えは近世なり享保三年(一七一八)第六代藩主山内豊高公が参勤交代道に利用する。それ以後土佐上方 江戸を結ぶ幹道して参勤交代また文物や人々の交流の舞台となった 根曳越えの新道の開通などにより機能を失うこととなるが、地域に残貴重な歴史的遺産であり(後略)」といった文字が刻まれていた。
尚、国道32号から分かれた県道33号から楠木橋に分かれる分岐点にも「参勤交代北山道」の標識が立っていた。

県道33号に出る
楠木橋を渡り丘陵へのゆるやかな坂を上り、切通しを抜けると亀岩の集落へと下る坂道となり、左手に清川神社を見遣りながら里道を進むと領石川右岸を走る県道33号に出る。





亀ノ本(瓶の本)渡瀬
次の目安は領石川を左岸に渡る亀ノ本(瓶の本)渡瀬。県道33号を少し進むと県道33号右手に「亀ノ本渡瀬 領石川を左岸に渡る」と書かれた木の標識があった。
標識には「対岸の左方にハンド岩 坂道の右下にクツヒキ岩」と記された写真も張り付けられていた。
標識脇からスロープを下りる。そこは水草栽培をしている民家敷地。丁度家の方がいらっしゃったのでお話しを聞く。クツヒキ岩はスロープ脇にある岩とのこと。岩の窪みには祠が祀られていた。「クツヒキ」とは蝦蟇ガエルのこと。


「ハンド岩」は領石川対岸、樹木の間に見える大岩のこと。「ハンド」はこの辺りで「水瓶」のことを言う。この辺りの地名、亀岩の由来となった岩である(瓶>亀に転化)。
この「ハンド岩」と「クツヒキ」岩にまつわる伝説が伝わる;はるか昔、木花之開耶姫(このはなさくやひめ)がこの地に住い、瓶石川(領石川)の水で酒をつくる。が、出来上がる頃には瓶は常に空っぽ。どうも蝦蟇ガエルが酒を飲みほしているようだ。で、 木花之開耶姫は酒が飲めないようにハンド(瓶)を逆さにしてこの地を離れ、朝峯神社のある地に移った、とか。高知市介良にあるこの社は酒造りの人々からの信仰篤き社と聞く。
よく見ればハンド岩は酒瓶〈水瓶)を逆さにした形になっている、と。また、悪さをしたクツヒキ(蝦蟇ガエル)をハンド岩の傍に祀るって、なんだか、いい。

県道を右折し林道釣瓶線に
亀ノ本(瓶の本)渡瀬の標識のある領石川は、現在浅瀬でもなく渡ることはできない。県道33号を少し進み、領石川に奈路川が合流する箇所にある橋を渡り、領石川左岸に移る。
取敢えず亀ノ本(瓶の本)渡瀬を領石川左岸に渡った箇所から道を繋いでおこうと渡河点に向かう。川沿いは採石工場があり道らしきものは続かない。少し山際を走る里道を渡河点まで戻る。渡河点から川沿いに道筋らしきものは残っておらず、林道釣瓶線に戻り次の目安である左手渡瀬に向かう。
奈路
土佐を歩くと奈路(ナロ)に出合う。「四万十町地名辞典」には「山腹や山裾の緩傾斜地を表す地名地名を高知県ではナロ(奈路)という。奈路(なろ)の全国分布は高知県だけで、それも中西部に多い。ナロ地形にふさわしい地名がこの地「奈路」である 『愛媛の地名』の著者・堀内統義氏はナロ・ナル地名について「東北の平(たい)、九州の原(はる)、四国の平(なる)と同じ地名の群落。奈良も千葉県の習志野も、ナラス、ナラシの当字で、平らな原野を表現している。」と書かれている。 ちなみに「奈路」地名も愛媛県に越せば「成・平(なる)」が断然多くなり、四万十町内でも成川・鳴川がよく見られる。

左手渡瀬
林道釣瓶線を進み、領石川に支流中谷川が合わさる辺り、道の左手に「左手渡瀬 中谷川を西岸に渡る」の木の標識が立つ。
川との段差があるが川は渡れなくもない。下りてみようと思った矢先、近くから作業音がする。確認すると左手渡瀬の直ぐ先に橋があり、対岸に工場があり作業中。左手渡瀬を渡っても工場敷地に出るようで渡河は断念。

中谷川西岸(右岸)に渡る箇所を探すと、工場に渡る橋の直ぐ先にも橋が架かっている。林道用の橋かと思う。橋を渡り中谷川右岸に沿って続く林道を進む。
ほどなく林道は左へと曲がり山に向かう。曲がり角から先、川沿いに道は無くブッシュを掻き分けて進むことになる。



中渡瀬
次の目指すポイントは中渡瀬。この渡瀬は過日土佐北街道権若峠を歩くときに見つけたもの。権若峠釣瓶取り付き口には中谷川に合流する梼山川左岸にある「下り付きの渡瀬」から渡河するとあり、とすれば左手渡瀬で中谷川右岸に渡った北街道は、下り付き渡瀬までの間で中谷川左岸に渡る渡瀬があったはずとチェックしておいた。その時はそれだけのことであったのだが、今回誠に役立つこととなった。中渡瀬の右岸は藪で中渡瀬を示す標識もなく、右岸を進んでもどこが渡瀬かわからなかっただろう。
中谷川左岸にあった中渡瀬の標識までGPSを頼りに中谷川右岸を進む。途中まで林道が続き結構快適。が、林道が左手の山に大きく曲がる辺りから先は踏み込まれた道はない。中谷川に沿っての藪漕ぎ、岩場をクリアしながら先に進む。
中谷川左岸、林道釣瓶線に立つ「中渡瀬」の木の標識のある辺りまで力任せんに右岸を進む。大岩が転がる中谷川であるが、中渡瀬の標識のあたりは浅瀬となっており水に濡れることもなく左岸に渡り、崖を這い上がり「中渡瀬」の標識までの道を繋ぐ。はじめて渡瀬を徒河した。なんとなくの達成感がある。

下り付きの渡瀬
中渡瀬で中谷川左岸に移り、林道釣瓶線を先に進む。途中林道釣瓶線は中谷川の谷筋から離れそのまま梼山川の左岸を進むことになる。
ほどなく林道左手の梼山川側に「下り付きの渡瀬 梼山川を渡る飛石あり」の木の標識。川床に岩が転がるがどれが飛石かわからない。林道から川床まで結構段差もあり、ロープも持ってなかったため直ぐ先にある梼山川に架かる橋を右岸に渡る。

橋への分岐点には「釣瓶登り口左手200m」「梼方面右」の標識が立つ。

「ゆすの木」が多くある地ではあるのだろう。龍馬脱藩の道を梼原から歩いた、その梼原も同じ由来である。
釣瓶
釣瓶の由来は不明。瓶は「かめ・びん」のことだろう。途中亀石川があったが、その由来は瓶の形をした岩があることに拠る。地検帳では亀石だが、州郡志には瓶岩とある。で、釣瓶だが、「釣瓶落とし」というフレーズがある。一直線に落ちていく様を表す。垂直な大岩でもあった故の命名だろうかと妄想。 因みに,『高知の地名;角川書店』の亀石村の項に、「梼山の西に菎蒻坂を隔てて釣瓶落山がある」とする。上述の妄想、あながち妄想とは言えない、かも。

権若峠・釣瓶取り付き口
梼山川を右岸に渡ると「下り付きの渡瀬」の標識の立つ対岸あたりが権若峠・釣瓶取り付き口。「権若峠登山口」「峠まで二千三百三十米 約2時間半かかる 標高五百五十米」とある。


下り付きの渡しの案内
標識の手前の立ち木に登山者のために竹の杖が用意されている。なにか手頃なものは無いかと寄ってみると、手書きで「ここが「下り付の渡瀬」です。昔のとび石が残っています。ゴンニャク峠までは2㎞430m」と書かれたプレートが立ち木に括られていた。この案内によってひ左手渡瀬からこの下り付き渡瀬の間に「渡瀬」がなければ辻褄が合わないと、中渡瀬を見付けた(といっても林道に立っていただけなのだが)わけである。


これをもって土佐北街道のほぼすべての道筋を歩き終えた。新宮から四国中央市に抜ける法皇山脈横峰越、笹が峰越え、国見越えなどの険路もあったが、印象に強く残るのが権若峠越えと立川川谷筋の山腹を進む道。どちらもそれほど険しくもないのだが、権若峠越えでは倒木やブッシュに阻まれ、立川川谷筋の山腹道は道が「消え」、ともに途中撤退。再訪しなんとか道を繋いだ。 簡単に行けそうと高を括っていた箇所で痛い目にあった。
さて次はどこを歩こう。松山から高知の佐川に抜ける土州街道(松山街道)、龍馬脱藩の道散歩で予土国境の峠道部分といった脱藩の道中間部はクリアしたが、前半部と後半部が残っている。そこにしようか。それとも土佐北街道の本山で出合った野中兼山の残した上井、下井、また本山近くの行川にも残る兼山の井流といった用水路散歩がいいか、膝と相談しながら歩くことにする。
土佐北街道散歩も高知城下から権若峠への取り付き口である釣瓶までを残すのみになった。今回も『土佐の道 その歴史を歩く:山崎清憲(高知新聞社)』に記されるポイントとなる地名、史跡を追っかけてその道筋をトレースする。詳しいルートは記載されていないが、ポイントさえ見つかればなんとかなるだろう、との想い。
同書に記される土佐北街道の道筋は、お城を出て大手筋を進み、江ノ口川・山田橋南詰めの山だ番所、久万川に架かる比島橋を渡り掛川神社前を進む。
それより東に転じ、鳥付橋を渡り石淵の送り番所を経て布師田の布師田御殿に入る。布師田から先で市域は高知市から南国市に入るが、ここでルートはふたつにわかれる。ひとつは国分川南岸の中島を経由し国分川を八幡渡瀬で渡り返し北進し南国市岡豊町八幡に向かう。この道筋は初期の参勤交代道である野根山街道、通称「東街道」への道筋でもあったようだ。
そしてもうひとつは高知大学医学部の北を進み岡豊町八幡に出て、ここでふたつのルートは合流する。
合流点から先も二つのルートに分かれる。ひとつは現在の県道384号を領石に向かうもの。もうひとつは合流点から直ぐ、笠ノ川川を越え比江を経由して領石に向かうもの。比江経由の道は北街道が参勤交代に開かれた当初の道筋。比江の高村家を初日の宿泊所とした頃のもの。布師田に布師田御殿ができて以降は、直接領石を目指すようになったという。
領石で合流したルートは領石の送り番所を経て北進。一の瀬渡瀬で領石川を左岸に渡り、その先楠木渡瀬で右岸に、更に亀の本渡瀬で再び左岸に渡り直し、谷筋の小さな渡瀬を経て最後に梼山川の「下着渡瀬(私注;「着」はママ)を北に渡ると權若坂の登山口に着く、とある。 亀の本渡瀬から先は、過日土佐北街道・權若峠越えのとき、同書に記載のないふたつの渡瀬を確認しており、亀の本渡瀬で領石川左岸に移った土佐北街道は、「左手渡瀬」で中谷川の右岸に移り、その先中渡瀬で左岸に渡った後、中谷川に合わさる梼山川の左岸から下り付け渡瀬で右岸(北)に渡り權若坂の登山口に着くことになる。

ルートは以上の通りである。メモは途中郷土の偉人の案内なども多く結構長くなった。今回は城下から布師田までと布師田から釣瓶まで2回に分けてメモする。



本日のルート;
高知城下から布師田御殿跡まで
高知城>追手筋>山田橋・山田番所>茂兵衛道標(100度目)>比島橋>掛川神社>鳥付橋>土佐神社お旅所>お堂>石淵送り番所>岡村十兵衛先生住居跡>社>一木権兵衛先生の墓所>布師田御殿跡
布師田から岡豊町八幡の北岸・南岸ルート合流点まで
国分川北岸ルート
権兵衛井流>前田元敏先祖の墓所>奥官慥斎・奥宮健之父子の屋敷跡>西山寺>葛木橋>>葛木男神社>丘陵切通し>国分川筋に右折>山崎川・蒲原橋>山崎川橋>県道384号に出る>岡豊城跡>岡豊別宮八幡宮>県道を右に逸れ県道252号に出る
国分川南岸ルート
葛木橋を渡り国分川左岸に>郡境石>県道252号を左折し国分川に向かう>岡豊橋>県道252を北進し北岸ルートと合流
地図に記載された「土佐北街道」ルート
山崎川・蒲原橋>山裾を水路に沿って東進>岡豊橋北詰めに出る
北岸・南岸ルート合流点から領石まで
直接領石を目指すルート
県道252号を右に逸れる道に>県道384号右手に笠ノ川地蔵>県道384号を左に逸れ丘陵土径に>県道384号をクロス>高知道インター高架下を進みルート合流点に
比江経由のルート
笠ノ川川渡河地点>検地帳>左折・検地帳>県道256号に出る>左折し国分小学校東の道に>国府小学校の東の里道を北進>阿波塚神社>道のえき風良里(ふらり)>丘陵地の土径を進み国道32号に出る>高知道インターの北のルート合流点に
領石より権若峠取り付き口の釣瓶まで
県道384号に出る>領石の送り番所>天満宮>一の瀬渡瀬>楠木渡瀬>清川神社>県道33号に出る>亀(瓶)の本渡瀬>県道を右折し林道釣瓶線に>左手渡瀬>中渡瀬>下り付きの渡瀬>権若峠・釣瓶取り付き口


高知城下から布師田御殿跡まで


高知城
参勤交代のスタート地点として高知城を訪れる。土佐北街道のルート探しにどの程度時間がかかるかわからないため、足早に取り合えず「足跡を残す」といった思い出はある。
比較的新しそうな初代藩主山内一豊公の騎馬像を見遣り先に進むと追手門手前に「野中兼山先生邸跡」の石碑が立つ。宿老ゆえ、追手門すぐ傍に屋敷があったのだろう。
追手門を潜り城内に。板垣退助銅像(昭和31年(1956)造立)を見遣り石段を上ると、左手石垣から石樋が突き出る。なんだか面白い。これだけは案内をメモしておく;
石樋(いしどい)
高知県は全国でも有数の多雨地帯のため、高知城も特に排水には注意が払われている。 石樋は、排水が直接石垣に当たらないように石垣の上部から突き出して造られており、その下には水受けの敷石をして地面を保護している。このような設備は雨の多い土佐ならではの独特の設備で、他の城郭では見ることのできない珍しいものである。
石樋は本丸や三ノ丸などを含め現在16ヶ所確認されているが、下になるほど排水量が なるため、この石樋が一番大きく造られている」とあった。


三の丸へ。往昔、年中行事や儀式を行う大書院・裏書院・藩主の控えの間である御居間などからなる三の丸御殿が建っていたところ。いまは広場となっている。
二の丸は藩主の居住空間である二ノ丸御殿があったところ。高知城下を眺める。
天守には本丸御殿が接している。天守と本丸御殿が残るのは高知「城だけとのことである。本丸御殿は二の丸御殿ができるまでは一豊公とその妻、賢妻で知られる千代の居宅であったと言う。
高知城
愛媛に育った者として折に触れ高知城は訪れている。 とはいうものの、過日、歩き遍路の過程で高知城が国分川、久万川、鏡川などの河川が織りなすかつての氾濫平野、三角州に立地することに初めて気づいた。で、そのメモにデルタ地帯に城下町ができた経緯と治水対策が気になりメモをまとめておいたのだが、ここには城下町普請の経緯を再掲しておく(治水施策に興味のある方はこちらの記事をご覧ください)。
元は大高坂山城
高知城は北は久万川、南は鏡川、東は国分川に囲まれた氾濫平野、三角州からなる低湿地帯のほぼ中央、標高44mほどの大高坂山に築かれている。大高坂山に城が築かれた、といっても砦といったののではあろうが、その初出は南北朝の頃、南朝方についた大高坂松王丸の居城であったとされるが、北朝方の細川氏に敗れ廃城となった。
長曾我部氏の城普請
戦国時代に入り、四国統一を目前に秀吉に敗れた長曾我部元親は、秀吉の命により居城を岡豊城からこの地に移すことになった。
デルタ地帯の水はけの悪さに加え、度重なる洪水被害に城普請は難渋を極め、城を本山氏の城塞のあった浦戸に移し浦戸城を整備したとの記事もある。が、地図で見る限りその地で本格的城普請が行われたとは考にくい。浦戸湾口に西から東に突き出た狭い岬に家臣団の住む城下町は考えられない。使われた瓦も安普請であり,浦戸城は朝鮮出兵に際しての出城であったとする説に納得感がある。事実、朝鮮出兵中も大高坂山城の整備が続けられていたとの説もある。
山内氏の城普請
長曾我部氏は関ヶ原の合戦で西軍に与し改易。山内一豊が土佐一国を与えられ掛川城から転封し、浦戸城に入るも、大高坂山を居城と定め城普請を始める。築城に際し、織田信秀の家臣として西軍に与し蟄居処分となっていた百々綱家(どど-つないえ)の登用を幕府に願い出でる。 百々綱家は元は浅井家の家臣であり、近江坂本の石工集団「穴太衆」との繋がりが強く、石垣普請の名手と称されていたようだ。幕府の許しを得た山内氏は6千石で百々氏を召しかかえ、総奉行に任じ、築城と城下町整備の全権を委ね、大高坂山に本丸の造営と、城下町の整備のために鏡川・江ノ口川など川の治水工事に着手した。石垣は浦戸城のものを流用したという。
慶長8年(1603年)1月、本丸と二ノ丸の石垣が完成。旧暦8月には本丸が完成し、一豊は9月26日(旧暦8月21日)に入城した。この際、城の名を河中山城(こうちやまじょう)と改名された。 普請開始は慶長6年(1601)9月といった記事もあるのでおよそ2年の工期。人足として山内家臣団も加わったという。
慶長15年(1610年)、度重なる水害を被ったことで2代目藩主忠義は河中の表記を変更を命じ、竹林寺の僧の助言を受け高智山城と改名した。この時より後に省略されて高知城と呼ばれるようになり、都市名も高知と呼称されるようになった。
慶長16年(1611年)、難関であった三ノ丸が竣工し、高知城の縄張りが全て完成した。

追手筋を東進
追手筋の高知城を出ところに県立高知城歴史博物館がある。高知北街道に関する資料はないものかと訪れるが、特にそれらしき資料は展示されていなかった。上述の書、『土佐の道』にある記事だけ(ルートは概要図のみ)を頼りにルートハンティングするしか術はない。仕方なし。 高知のお城を出た参勤交代の列は大手筋を東進したようだ。藩政時代の高知はお城を囲む一帯は重臣の居宅のある郭中、お城の西側は家臣・商人・職人の住む上町、郭中の東も家臣・商人・職人の住む下町といった3つのゾーニングに分かれていた。
郭中の追手筋を東進した参勤交代の一行は現在の廿代橋から南に下る道を境に下町に入る。「寛政七年(1667)高知城下図」には東西に走る追手筋の南に水路が見える。外堀の役割を果たしていたのだろうか。
郭中から下町に入り、かつての西蓮池町、播磨屋町、蓮池町と進み現在の国道32号を横切り県道249号の一筋手前を左に折れ北進しかつての山田町方面に向かう。ちなみにこれら旧地名は現在「はりまや町」となっている。

山田橋
北進すると江ノ口川に架かる山田橋にあたる。この橋は伊予の川之江に出る土佐北街道・北山越え、室戸岬東岸の甲浦に出る野根山越えの、通称「東街道」の起点でもある。「東街道」は土佐北街道が開かれる以前の初期の参勤交代道。野根山街道を甲浦に抜ける。
山田橋の南詰めは少し広くなっているが、そこにはかつって山田橋番所があった、と言う。 この山田橋は遍路道筋でもある。真念はその著『四国遍路道指南』に「過ぎてひしま橋山田橋という。次番所有、往来手形改。もし町に泊まる時は、番所より庄屋にさしづにて、やどをかる」と記す。 山田橋の由来は長曾我部氏が城下町を建設するにあたり、土佐山田の人が移り住んだ故と言う。
江ノ口川
細藪山地西端近くの山裾(高知市口細山辺り)に源を発し、西から東へと流れ高知城の直ぐ北を経由して更に東進し国分川に合わさり浦戸湾に注ぐ。江ノ口川はその流路故に、江戸時代の早い段階から浦戸湾と城下を結ぶ運河として利用され、高知城北側、江ノ口川に面する北曲輪は城に物資を運び込むための重要な場所であったとみられる。
江ノ口川の名前の由来は、現在の高知駅、入明駅周辺にあった江ノ口村に由来するようだ。

旧道に茂兵衛道標(100度目)
山田橋を渡ると現在の相生町に入るが、直ぐ先に土讃線の高架があり旧路らしき道筋は残っていない。次のポイントは久万川に架かる比島橋であるので、そちら方向に成り行きで進み一度県道249号に出る。
しばらくすると右に逸れる如何にも旧道らしき道がある。県道を逸れゆるやかに曲がる道を進むと道の左手に茂兵衛道標が立つ。手印と共に「安楽寺 左 高智 左国分寺 明治二十壱年」といった文字が刻まれる。茂兵衛100度目巡礼時のもの。
安楽寺は明治の神仏分離令に際し、廃寺となった善楽寺に替わり明治8年(1875年)に札所となったお寺さま。当地より南西5.5kmの所に建つ。

茂兵衛道標の直ぐ先、道の左手の古き趣のお屋敷端に「久保添家伝薬発売元」と刻まれた石碑が立つ。旧家には「クボゾエ外科科胃腸科」の看板がかかっていた。「*家伝来」は 家業意識の高さを示すもの。かつて家業として薬を販売していたのだろう。
この辺りの土佐北街道は高知城下を経由する遍路道と同じである。

久万川に架かる比島橋を渡る
旧道は旧家の先で県道249号にあたる。合流点である三差路を北進すると久万川に架かる比島橋。
比島は「山の形がひ;箕のこと)に似ている島の意味(「土佐地名往来」より)。箕は穀物の餞別に使われていた農具だろうと思うのだが、それを裏返した形に似ていたということだろうか。とはいうものの、往昔湿地に浮かんでいたであろう島の痕跡は今はない。
久万川
国分川水系の川と言う。が、東から西へ、物部川の発達した扇状地に阻まれ高知市内に注ぐ国分川とは真逆、高知市の北の細藪山地にその源を発し西から東へと流れ浦戸湾河口部で国分川に合流する。 現在は陸地化されているが、かつての久万川は氾濫平野を流れ、河口部は三角州であったわけで、とすれば両河川の浦戸湾への注ぎ口は現在より上流点であったろうし、であれば往昔は国分川と久万川は合流することもなく浦戸湾に注いでいたようにも思う。
それが国分川水系とされるのは?水系の定義である分水界を同じくする、を元にチェック。国分川と久万川の共通点は、東を土佐山田台地で物部川との分水界を画し、北は細藪山地が吉野川水系との分水界となり、西も南に突き出した細藪山地により鏡川と分水界を画している。要は北と西は細藪山地、東は土佐山田台地によって囲まれた流域であるということだ。
この定義にもとり、両河川は同一水系と考えてもよさそうだ。国分川水系とされたのは国分川も久万川も共に2級河川であるが、その流路距離や流路面積が一見して国分川が圧しているためだろうか。上述江ノ口川も国分川水系とされるもの、このゆえのことだろう。
国分川
国分川は、その源を高知県香美市土佐山田町 と平山 の甫喜 ケ峰 (標高 611m)に発し、領石川 、 笠 ノ川川等の支川を併せながら香長平野を南西に流れた後、下流部において久万川、江ノ口川 、舟入川等の支川を合わせ、浦戸湾に注ぐ。

掛川神社
久万川を渡り土讃線・薊野(あぞの)駅手前、県道249号の左手に掛川神社がある。遠州掛川5万石の藩主であった山内一豊が関ヶ原の合戦での功により土佐20万石の藩主に封 ぜられたわけだが、この社は二代目藩主忠義が掛川より勧請したもの。鳥居傍の石碑には「合殿 龍宮神社、東照神社、海津見神社」と刻まれる。
案内には「掛川神社 江戸時代の寛永十八年(一六四一)、第二代土佐藩主山内忠義が、その産土神であった牛頭天王を遠州掛川 (静岡県)から勧請して、高知城東北の鬼門守護神として建立したのがはじめである。
以来、代々藩主から特別の崇敬を受けていた。明治元年(一八六八)現社に改称した。 合祭神社→龍宮神社、海津見神社は、現境内地付近に鎮祭の古社で、何れも明治三十二年(一八九九) 合祭した。
東照神社は延宝八年(一六八〇)、四代藩主豊昌が徳川家康の位牌殿を設けたのが始まりで、文化十一年(一八一四)には、十二代藩主豊資が境内に社殿を築造し、東照大権現と称していたが、 明治元年東照神社と改称、明治十三年(一八八〇) 合祭した。祭神が徳川家康であることから、県下の神社では唯一、社殿の軒下や手水鉢に徳川家の家紋、三つ葉葵がつけられている。 社宝として、国の重要文化財に指定されている「糸巻太刀 銘国時」(山内忠義奉納)、「錦包太刀 銘康光」(山内豊策奉納)がある。いずれも、現在東京国立博物館に寄託されている。
飛地境内社として椿神社・秋葉神社がある。 高知市教育員会」とあった。
江戸の頃、澄禅もこの社に詣でており、その著『四国遍路日記』に「(観音院)・ 夫与西ノ方ニ一里斗往テ小山在、美麗ヲ尽シタル社也。是ハ太守、天正ノ昔、遠州懸川ノ城主夕リシ時ノ氏神ヲ、当国ニ勧請セラレタリ、天王ニテ御座ト云ウ」と記す。
このような由来ゆえか、藩主は掛川神社前で駕篭から下りて礼拝していたようだが、寺の僧が気をきかせ、駕篭を下りることなく「そのまま」で礼拝を勧めたため、以降掛川神社前では、「そのまま そのまま」と言う俚諺が出来たと『土佐の道』にある。俚諺(里人の言葉)、「そのまま そのまま」ってどういうコンテキストでつかわれたのだろう。
江戸の頃、牛頭天王と称していた社が明治に改名しているところが結構多い。一説には天王>天皇の連想から不敬に当たるとしての対処とも言われる。
国清寺
神社参道左手にお寺さま。牛頭天王の別当寺であった国清寺。案内には「陽貴山見龍院国清寺は、元和三年(一六一七)比島の龍乗院の開基でもある日讃和尚の開基で、寛永一八年(一六四一)牛頭天王宮 (現掛川神社) の別当寺となった。
二代快彦・三代快充・四代黙堂と次々に高僧が出て、藩主の帰依を得、上級武士や学者文人などとの交流が深かったといわれる。
もとは天台宗で、徳川将軍家の菩提寺である上野寛永寺門主支配の寺であった。慶安四年(一六五一)には三重の塔、続いて護摩堂が建立されるなど、藩主山内家の尊崇が篤かったが、明治 維新後の廃仏毀釈によって廃寺となった。
この廃寺に、明治四年(一八七一)四月から六年五月まで、明治政府によるキリシタン弾圧のため土佐に預けられた、長崎県浦上の信徒と家族九十人前後の人たちが、赤岡と江ノ口の牢舎から移されて生活していた。
明治一三年(一八八〇)、京都相国寺の独園大禅師が参禅道場を開き、退耕庵と名付けた。二代実禅大禅師も参禅を広め、門下の坂本則美・中山秀雄・弘田正郎らの協力を得て再興し、寺号 も旧に復して国清寺となった。臨済宗相国寺派に属する禅寺で、本尊は釈迦如来である。 高知市救向要員会」とあった。
〇明治政府のキリシタン弾圧
幕末、キリシタン禁止政策のもと、隠れキリシタン弾圧を受けた長崎の浦上村は「浦上四番崩れ」と世にいう4度目の弾圧により、一村全体、およそ3000名(3400名とも)が捕縛・拷問を受ける。幕府崩壊後もその政策を受け継いだ明治政府は村民すべてを流罪とし、流罪先は21藩に及んだ。ここ高知では当初赤岡(香南市)と江ノ口(高知市街)の牢舎に停め置かれたが、その後廃寺となっていた国清寺に移された。
キリシタン禁制が廃止されたのは明治6年(1873)。不平等条約改正のため欧州に赴いた遣欧使節団一行が、キリシタン弾圧が条約改正の障害となっていると判断し、その旨本国に打電通達し廃止となった。
獄中は劣悪な状態であり、おおよそ三分の一が帰らぬ人となったとのことである。
●薊野(あぞうの)
野アザミの里が通説。莇は薬草のクコ。別説は海が 入り込む浅海・あさみ説。崩れた岸や崖のあず (?)説も(「土佐地名往来」)

鳥付橋
掛川神社を離れた土佐北街道・県道249号は北東に進み 薊野東町で右折。県道384、44号、高知東部自動車道の高架を潜る。この高架下に水路がありそこに架かるのが『土佐の道』にあった鳥付橋であった。






土佐神社お旅所
をクロスし土讃線に沿って東進。一宮中町2丁目、川の西詰に社と、川沿いの道に鳥居が建つ。 何故に境内横の川沿いの道に鳥居が?ちょっと気になり境内に入る。案内には、「土佐神社お旅所 明治十三年建立 土佐神社の大祭「志那禰祭」の神幸祭に際して神輿が仮に鎮座する場所です。
神殿造りのお旅所は珍しく一宮ならではの建物です。古くは、須崎市浦ノ内に祀られる鳴無神社をお旅所とし、江戸時代からは、高知市五台山の小一宮様(現在の土佐神社離宮)をお旅所としていずれも海路御神挙しました。初般の都合により明治十三年当地に建立し徒歩にて御神幸するようになったものです。
お旅所祭は祭儀上重要なもので現在も鳴無神社に向かい巫女により神楽を奉納しています」とある。
現在御神幸は海路を進むことなく、このお旅所まで神輿神幸が行われているようである。川沿いにある鳥居を潜り北進すると土佐神社がある。
土佐神社
土佐神社の礫石
先般、歩き遍路で30番札所善楽寺を打ったとき、お隣にある土佐神社に参拝した。土佐一の宮、 『日本書紀』や『土佐国風土記』にも記される古代から祀られた古社で、中世・近世には土佐国の総鎮守として崇敬された神社である。
その境内を彷徨っているとき、上述お旅所の経緯に関係する「礫石」に出合った。畳二畳ほどの自然石の傍に案内があり「古伝に土佐大神の土佐に移り給し時、御船を先づ高岡郡浦の内に寄せ給ひ宮を建て加茂の大神として崇奉る。或時神体顕はさせ給ひ、此所は神慮に叶はすとて石を取りて投げさせ給ひ此の石の落止る所に宮を建てよと有りしが十四里を距てたる此の地に落止れりと。
是即ちその石で所謂この社地を決定せしめた大切な石で古来之をつぶて石と称す。浦の内と当神社との関係斯の如くで往時御神幸の行はれた所以である。 この地は蛇紋岩の地層なるにこのつぶて石は珪石で全然その性質を異にしており学界では此の石を転石と称し学問上特殊の資料とされている。 昭和四十九年八月 宮司」とあった。古くはこの礫石を磐座として祭祀が行われたとする説がある。
鳴無(おとなし)神社
高岡郡浦の内、現在の須崎市内の浦に鳴無神社がある、古代「しなね祭り」という土佐神社の重要な神事が海路、この鳴無神社へ神輿渡御されていたようだ。土佐神社を別名「しなね様」と称するわけだから、重要な神事ではあったのだろう。
それもあってか海辺に鳥居が建ち、参道は海に向かっている。

岩を投げたかとうかは別にして、鳴無神社の祭神は一言主。土佐神社の祭神と同じである。Wikipediaの鳴無(おとなし)神社の社伝によれば、葛城山に居た一言主命と雄略天皇との間に争いがあり、一言主命は船出して逃れた。雄略天皇4年の大晦日にこの地に流れ着き、神社を造営したのが始まりであるとし、土佐神社は鳴無神社の別宮であったとされる。 一方、土佐神社の社伝には祭神は、古くは『日本書紀』に「土左大神」とする。地方神としては珍しく「大神」の称号を付して記載されるが、この土左大神の祭祀には、在地豪族である三輪氏同族の都佐国造(土佐国造)があたったと考えられている。
その後、710年代から720年代の成立になる『土佐国風土記』の逸文(他書に引用された断片文)には「土左の郡。郡家の西のかた去(ゆ)くこと四里に土左の高賀茂の大社(おほやしろ)あり。その神の名(みな)を一言主の尊(みこと)とせり。その祖(みおや)は詳かにあらず。一説(あるつたへ)に曰はく、大穴六道の尊(おほあなむちのみこと)の子、味鋤高彦根の尊なりといふ」と神名が「土佐大神」から変わっている。
この記事の意味するところは、大和葛城地方の豪族である賀茂氏が土佐に勢力を及ぼすに際し、都佐国造の祀る土左大神に賀茂氏祖先神の神格を加えるべく、土左大神の鎮座譚に雄略天皇の葛城説話を組み込んだとされる。
賀茂氏とその祖先神一言主神と味鋤高彦根神
奈良県御所市に高鴨神社、葛城一言主神社がある。この社の祭神は共に味鋤高彦根神、一言主神。 大和葛城地方(現・奈良県御所市周辺)で賀茂氏が奉斎した神々とされる。
『古事記』や『日本書記』には、雄略天皇が葛城山で一言主と問答をした、といった記述があるようだ。また、『続日本紀』天平宝字8年(764年)条では、大和葛城山で雄略天皇(第21代)と出会った「高鴨神」が、天皇と猟を争ったがために土佐に流された、といった記述と変わる、さらに『釈日本紀』(鎌倉時代末期成立)には、葛城山で「一言主神」が雄略天皇と出会ったとし、一言主は土佐に流されて「土佐高賀茂大社」に祀られた、となっている。
しなね様の語源
しなねの語源は諸説あり、七月は台風吹き荒ぶことから風の神志那都比古から発したという説、新稲がつづまったという説、さらに当社祭神と関係する鍛冶と風の関連からとする説等がある(土佐神社の解説より)。

四国霊場遍路道
土佐神社の隣に四国霊場30番札所善楽寺がある。善楽寺から31番札所竹林寺への遍路道は大きく分けて2つある。一つは高知城下を経て竹林寺へ向かうもの。もうひとつは城下を経由することなく善楽寺・土佐神社から南下し直接竹林寺を目指すもの。
高知城下経由の道は善楽寺・土佐神社の表参道を南に下り、県道384号を南西に進み、途中土佐北街道へと道を分ける県道249を越え掛川神社前を通り、久万川に架かる比島橋、江ノ口川に架かる山田橋を渡り、橋詰の番所で札改めを受け下町を南に下り鏡川に沿って南東に進み青柳橋を渡って五台山にある竹林寺に向かう。遍路は城下の郭中に泊まることは許されなかった。
もう一つの直接竹林寺へ向かう遍路道は、土佐神社の表参道を南に下り、土佐神社お旅所のあるこの地で左折、少し東に進んだ後土讃線一宮駅の東から南進し竹林寺に向かったようである。 土佐藩は遍路に対し厳しく城下町を経由する遍路道を避けこの道を進んだ遍路も多いと言う。

石淵送り番所
お旅所横の鳥居にフックがかかり、あれこれと寄り道メモが多くなった。お旅所を離れ土佐北街道を進む。Google Mapにはこの辺りから県道249号に「土佐北街道」と記される。 県道を東に進み土讃線土佐一宮駅を越えると直ぐ、道の左手にお堂が建つ。その直ぐ東に南に下る道がある。この道は30番札所から高知の城下を避けて直接竹林寺に向かう遍路道である。 この道の先、道幅が一車線に狭くなり石渕の集落に入る。

集落に入ると直ぐ、道の右手民家の前に案内が立つ。案内には「「石渕送り番所・参勤交代の道筋」とあり、「江戸時代初期の資料と推測される「御国村数名書帳」(皆山集)によると、高知城下より東方江ノロ村の次一里の場所に布師田村があり、「布師田村・大道筋・馬継」という記載が見られます。

「大道筋」は土佐藩内の東方面の他国に出る一番大きな道で、幅三間(約5.4m)と定められており、布師田は重要な交通の要所であったことが伺われます。 「馬継」とあるのが"石渕送り番所"です。他の地域に比べてとても多くの馬が飼われていた記録も残されています。送り番所は村役人待遇の送番頭が常勤し、通行手形のチェックや出張役人の対応、また馬や駕籠などをそなえて公用の書状や荷物の搬送などにあたりました。たびたび夫役として農民が労働を課され、地域村民の負担となったこともありました。
参勤交代が北山道を通るようになり、藩主第一泊目の布師田御殿がヒツ城(現在の布師田ふれあいセンター付近)に作られると、石渕送り番所の重要性はいっそう増していきました。
坂本龍馬や武市半平太など幕末に活躍した多くの人々もこの送り番所で通行手形のチェックを受けて旅立って行き、往来していたことでしょう。
※石送り番所の位置には諸説ありますが、この地であるという説が有力です。
龍馬青春の道
嘉永6年(1853年)3月17日、当時19歳の龍馬は藩から15ヶ月の国暇を得て私費での剣術修行のため、溝渕広之丞と江戸へ出立して行きました。城下を離れて最初の石淵送り番所で通行手形のチェックを受けたことでしょう。その後は参勤交代の北山道を通って、布師田橋は渡らずに国分川北岸を、西谷・折越峠・蒲原・小蓮と通って、藩境の立川番所をめざしたと思われます。『龍馬青春の道』とも言えるのではないでしょうか」とあった。
折越峠はどこか不明だが、西谷と蒲原の間とすれば、後ほど歩く県警交通機動隊の建屋前に抜ける丘陵切通しのあたりかもしれない。西谷・蒲原・小蓮は龍馬も後程その道筋を歩くことになる。

岡村十兵衛先生住居跡
山裾に沿った石淵の集落を進むと、道の左手に「岡村十兵衛先生住居跡」の案内があり、「岡村十兵衛先生住居跡 岡村十兵衛の先祖は、戦乱の京を逃れて土佐に下向した一条教房の従者として土佐に入国しましたが、主家が長宗我部元親に滅ぼされた後浪人し、後に土佐に入国した山内氏の中村城主(山内修理大夫)に仕えることになります。
布師田に在住した十兵衛は、天和元年(1681年)羽根浦(私注;室戸市羽根町)分一役を命ぜられ、羽根浦に着任しました(同郷布師田の大先量一本権兵衛が亡くなったわずか二年後)。分一役"とは軽格の武士が任命され、諸税の徴税や民生に当たりました。
当時土佐藩の疲弊は激しく、特に安芸の東部沿岸は相次ぐ野中兼山の殖産興業策が民力を削ぎ、浦奉行の苛政も加わり、身売りや逃散が続いていました。羽根村も例外ではなく、十兵衛赴任の前から風水害が相次ぎ、漁もなく凶作で村人の生活は困窮の極に達していました。
十兵衛は民情を詳しく視察し、惨状を救うのに心を砕きました。売掛米を貸し付けたり、藩に願って黒見(私注;羽根川上流に黒見の地名が地図に記される)の御留山を明けてもらい、松材を上方方面に売り、その利益を地下に用立てたりして滞人の救済を図りました。こうした努力にもかかわらず、十兵衛赴任後の天和の三年間も災害や凶作・不漁は続き、その後も事態好転の兆しは一向に現れませんでした。
十兵衛は御米蔵の年貢米を施すより外はないと判断し、再三にわたって藩庁に窮状を報告し、御米蔵の米を救い米として放出することの許しを願い出ました。一ヶ月が過ぎても藩からの沙汰は一向になく、十兵衛は責任を一身に負う覚悟を決め、庄屋を呼び尾僧(私注;室戸羽根町の国道55号傍に尾僧の地名が記される)の米蔵を開いて餓死寸前の村人に施米をして人々を救いました。 許可なく藩の米蔵を開いた罪は軽くなく、追っての沙汰を待つように謹慎を命ぜられた十兵衛は、事務整理を終え、貞享元年(1684年)七月十九日未明、罪を一身に背負って役宅で切腹して果てました。
村民は嘆き悲しみ、八幡宮の傍らに募って香華を絶やすことはなかったと伝えられています。また、死後、時を置かず庄屋や年寄りたちが連名で十兵衛の罪に対する願書を提出しています。 天保四年(1833年)七月十八日、百五十年祭が挙行されています。
弘化四年(1847年)第十三代藩主山内豊熈は東巡の折、参拝して十兵衛の忠義を称える漢詩を贈っています。また、豊熈は高知に帰り、十兵衛の子孫を探し出して召抱えようとしましたが、跡目が絶えていて果たすことができませんでした。
明治四年(1871年)組頭・地下惣代十数名が願い出て"神社"として祀り、明治七年正遷宮の儀を営んでいます。
昭和二十七年(1952年)十一月、羽根十兵摘会は二百七十年祭を村と共催で盛大に行って遺徳を偲び、その仁政を顕彰しました。
毎年11月第2日曜日には鑑雄神社境内で岡村十兵衛先生追善相撲大会が盛大に開催され、布師田の子供も参加しています。また米をかたどった"お蔵饅頭"が羽根名物として百年以上線く老舗で販売されており、平成7年4月からは"十兵衛手打ちうどんのお店も営業しています。
高知の作家田岡典夫は、小説「武辺土佐物語」の中の"羽根浦救民記"で、岡村十兵衛が住民が藩に一揆などおこすことのないよう気を配り、「皆の者、やっとのお許しが出たのでお倉の米を配給する。」と告げて御米蔵を開放し、住民がに大いに感謝したとして著わしています。当時の想像を絶する状況と人物の大きさが伝わってきます。
以上を引用した"室戸市史 上巻第九章 二人の義人の二人とは、岡村十兵衛《貞喪元年(1684年)許可を得ずに御米を開放して自刃》と一木権兵衛《延宝七年(1679年)室津港大改修完成後自刃》であり、いずれも布師田に在住した藩の役人でした。
ここ住居跡と言われる場所の庭には、先生の心を和ませたと思われる"十兵衛牡丹"が伝えられていて季節には美しい花を咲かせています。狩野様のご厚意により布師田小学校にも株分けされています」とあった。

一木権兵衛先生の墓所
岡村十兵衛先生住居跡を越えると道は山裾を北東に進む。道の左手に社が建つ辺りから道は東進するが、土佐北街道は最初の四つ角を左折し北進する。道の右手に建つ布師田小学校を越え右折すると直ぐ、道の左手に「一木権兵衛先生の墓所」の案内があり、一木権兵衛先生の肖像画と共に記事があった。
「豊臣氏が滅んでわずか2年後の元和三年(1617年)現在の高知市布師田に長宗我部氏の元家臣(一領具足)の家に生まれた一本権兵衛先生は、布師田の権兵衛井流を造ったことを山田堰工事の検分に向かっていた野中兼山に認められて、正保二年(1645年) 29 歳頃百人並み郷士に取り立てられます。野中兼山は家老として二代藩主山内忠義の信任を一身に受け土木灌漑新田開発・港湾工事・産業奨励等土佐藩の基盤づくりの大改革を進めていましたので有能な者は身分を問わず取り立てていたのです。
物部川の山田堰関連工事に参加した一木先生は確かな業績が認められ、慶安元年(1648年)32歳の時、異例の大抜擢を受けて初めて普請奉行に任ぜられます。仁淀川に八田堰を造り用水路を整備して春野地方に広大な水田を拓く大工事の現場最高責任者として着任します。
堰は"糸流し工法"や"四つ枠工法"等で、 用水路は"提灯測量"や"千本突き"等で、"ずいき" を 焼いての削岩法"いもじ十連"等の言葉も残る岩山を切り裂く『行当(ゆきとう)の切り抜き」と呼ばれ る難工事もありましたが、承応元年(1652年)五ヶ年に及ぶ大工事は完成し広大な水田が出現しました。
その後も宿毛の大堤や幡多方面の堰や用水路工事にも関わり、寛文元年(1661年)の津名港や室津港改修等の港湾事業にも関わっていきます。これら大きな功績により"御馭初式"(おのりぞめしき)という毎年正月に藩主の閲兵を受ける武士としての晴れ舞台に参加できるようになり、寛文四年(1664年)48歳の時には郷士7組中最高の189人を従えていた記録が残っています。
三代藩主山内忠豊に変わったのを機に、工事続きでの財政難や民衆の苦しみを失政として訴えられついに野中兼山は寛文三年(1663 年)失脚し同年49歳で急死します。兼山の多くの部下は一緒に失脚しますが、一木先生などわずか数名が特に罪に問われることはありませんでした。一木先生 47歳の時でした。技術面や資金面で常に支えてくれた最大の理解者兼山を失って大きな落胆と悲しみのどん底にありました。
兼山失脚から十四年、延宝五年(1677年)3月になってようやく江戸幕府の許可を得て土佐藩を挙げての室津港大改修工事が始まります。普請奉行として61歳の一木権兵衛先生が再び重責を背負って"延宝の堀次"と言われる難工事に着任することになります。湾内は完成間近でしたが、港の入り口になかなか砕けない大岩があり、一木先生は工事の成功を自身の命にかえて海神に祈願しました。ツチやノミを持って皆でかかったところ大岩は血のようなものを吹きだして砕けていき、延宝七年(1679年) 三ケ年に及ぶ難工事は完成します。
一木先生は報告のため城下へ行こうと浮津のあたりまで来ますが体がしびれて動けません。室津に帰ると楽になります。何度かこのようなことがあって海神との約束を果たすのは今だと確信します。城下から人を呼んで引き継ぎを済ませ、家族を呼び寄せ後のことを託しました。
延宝七年(1679年)六月十七日の夜、海上に祭壇を設け鎧兜並びに太刀を海神に献じたのち、未明に自ら人柱となって切腹して亡くなりました。
一木先生は大幅な出費の責任を取り亡くなったと言われていますが墓碑には病死"となっています。 一木先生は公儀からの借財を支払うため延宝六年四月十四日付で、自身の約五町歩の土地を藩に売り渡し、室津港改修の莫大な支払いに当て自ら全てを投げ打って責任をとっていることがわかります。いつもバックアップしてくれていた兼山はすでになく、孤軍奮闘一木先生の想像を絶した苦悩のほどが察せられます。
工費と人役には諸説がありますが、『室津港忠誠伝』によると、役夫は約百七十三万人、工費は約十万一千三百両とも見積もられていました。
港内面積はそれまでのほほ二倍の約一町九反となり、参勤交代の御座舟や五百石積み廻船が停泊可能等航海が安全になり皆に大変喜ばれました。
一木先生の死は、日頃野中兼山から「御普請には存分の金銀をついやしてもかまわぬ、ただ完全なものを仕上げることだ。」と教えられていて予算以上の莫大な費用となったのでその責任を取ったとも言われています。また兼山に取り立ててもらった大恩を忘れずにいて、藩による兼山の失脚や遺族に対する厳しい処置への抗議の意味も含まれていたとも言われています。
一木先生は野中兼山の国中に於ける土木工事を補佐し、七人扶持二十四石となり、延宝年中には永年の功により分限七百石となっていて三男二女にも恵まれていました。 三男市三郎さんが家督を継ぎ、二男市之助さんは横山新兵衛として一木先生の奥さん"福"さんの里の横山家を継いでいます。
室津港はその後拡張整備され、土佐古式捕鯨や近代鰹鮪漁業の基地となり、世界の海に雄飛しました。今日、その基盤を作った先人の偉業を長く顕彰し忘れられないよう語り伝えて行かねばなりません。 室津港を見下ろす高台にはお墓も建てられ立派な一木神社も建立されています。高知県漁協室戸統括事業所(旧室戸漁協)を中心に篤くお祭りが引き継がれています。室津港のすぐ上の太田旅館では宴会時の皿鉢料理の中の一品として"権兵衛寿司"が伝わっています。散らし寿司の上にあらかじめ味付けされた3~4種類の新鮮な刺身がふんだんに散りばめられ、大きな海鮮丼のような豪快で大変おいしいお寿司です」と記される。

案内には記事と共に、その下に《室津の一木神社≫、≪ 一本権兵衛先生布師田の墓所≫、《一木先生(右)と福さん(のお墓)≫、《一木先生室津の墓所≫、《 権兵衛寿司≫などの写真、また《 権兵衛井流(ゆる)≫の現在の写真と解説(一本権兵衛先生が指揮して造ったといわれる用水路の水門。増水時に国分川に水を流して下流域の浸水や土手の崩壊を防ぐための仕組み。現在もほぼ当時のままの位置に2ヶ所残っていて機能を果たしています)といった写真と記事が補足されていた(室津漁港の写真と記事もあったのだが、写真がうまく撮れていなかったので省略する)。
 
過日歩き遍路や土佐北街道散歩の折、物部川仁淀川(ほんの一部),さらには春野の利水・治水の事績に出合った。その時は野中兼山のことのみをメモしたが、それらの事績は一木權兵衛といった腹心の存在があったればこそという事を改めて認識した。

布師田御殿跡
道を東進し国分川にあたる手前、道の右手に布師田ふれあいセンターがあり、その敷地内に「布師田御殿跡」と刻まれた石碑、「参勤交代 北山道 布師田御殿跡の案内と北街道のルート図があった。石碑台座の石は取り壊された布師田御殿の石垣の石を残したものである。






案内には「参勤交代制度」、「師田御殿跡」「野中兼山と一木権兵衛」が記される;
参勤交代制度
参勤交代制度は3代将軍徳川家光の時代寛永12 (1635)年の"武家諸法度"で制度化されました。江戸に妻子を住まわせ、1年交代で江戸と領国を往復させ諸大名の財力をそぐという大名統制政策で、幕末まで維持されます。一方この制度で各ルートは公道として整備され、往来も盛んになり、産業・学問・文化の交流窓口ともなって行きました。

参勤交代の規模は、大名の石高に応じた従者の数が定められていました。土佐藩では1,500~2,700人・元禄元(1688)年には総勢2,531人で片道30日ぐらいを掛けて往復した記録が残っていて道中の大変さが偲ばれます。
当初は高知からの海路を利用していました。17世紀後半以降、甲浦まで陸路でここから海路を取ることも多かったようです。しかしながら天候に左右されることや遭難もあり、享保3 (1718)年6代藩主山内豊隆から"北山越え"の利用が始まり、次第にこのルートが整備されて主流になって行きます。
北山道を取る場合、発駕後一泊目は主として比江高村家に宿しましたが、天保頃から布師田に転じ、天保4(1833)年 12代豊資以降は布師田御殿泊が中心となります。
北山道は愛媛県側からは、「土佐街道」「立川街道」と呼ばれていました。文久2(1862) 年、16代豊範の時にはそれまでの隔年から3年に一度となり、在府日数も削減され妻子の帰国も承認されるようになりました。この政策は、15代豊信(容堂)が政事総裁職松平春嶽と計って進めたものでした。
宿泊地 (ルート)
布師田御殿または比江高村家⇒本山土居⇒立川番所 ⇒ 馬立本陣 ⇒ 川之江⇒ 丸亀又は仁尾 ⇒海路本州へ
布師田御殿
布師田は国庁のあった国分の地に隣接した土佐郡の主要な中心地として古くから交通の要所でした。
江戸時代になって山内氏が入国後、参勤交代制度が始まった時、古代から交通の重要な拠点であった布師田に第一泊目の藩主の泊まる"本陣"やお供の泊まる"脇本陣"などが置かれたのも当然のことでした。
江戸に上る「参勤」の場合は、布師田で高知城を発した時の正装を解き長期の旅支度に着替えて出発して行きました。土佐に帰る「交代」の場合は、この布師田での最終泊後、正装して行列を整え城下に入って行きました。
「宿場としての布師田橋付近は非常に繁昌し、商店は軒を並べ旅館あり料亭あり、明治になっても人力車は梶棒を並べて客を呼び、清流国分川には屋形船を浮かべて風雅を楽しむ客などもあり、その賑わいぶりは御殿宿場としての名に恥じないものがありました。」と「布師の里」に記されています。
野中兼山と一木權兵衛
土佐藩は江戸時代初期から、幕府から申し付けられる普請役や参勤交代の出費などにより財政が行き詰ってきていました。そのような中、野中兼山は、若干17歳で藩の奉行職となり2代藩主山内忠義の強力な後ろ盾のもと藩政の基礎を確かなものにするために、約30年に及ぶ大改革に取り組むことになります。物部川や仁淀川・四万十水系などに堰を造り、用水路を引いて広大な 水田を開き米の増収を図りました。海路船での参勤交代の安全や海運・漁業などを盛んにするため、室津港や津呂港・手結港などの整備も行いました。
布師田出身の義人一木権兵衛は、国分川からの用水路に"権兵衛井流"を造った功績で野中兼山に郷士として取り立てられます。兼山の代表的な政策である土木灌漑港湾事業の多くの場合に於いて、権兵衛は普請奉行など現場の技術責任者として約35年間にも及び強力に兼山を支えていくことになります。兼山失脚後も遺志を継ぎ海神に一命を捧げる覚悟で最重要な難工事の室津港大改修を完成(延宝7(1679)年)した後、自ら人柱となるため自刃して63歳の生涯を閉じました。今は室戸市の一木神社に祀られており、又その墓所は西谷地区にあります。
このように、参勤交代の経路となる海港の整備も進められましたが天候不順や危険性の心配の伴う海路ルートよりは、陸地を進む山越えのルートが、徐々に主流となって行きました。

記事は今まで処々でメモしたおさらい、といったものではあるが唯一疑問となっていたことが解消されたことが有り難かった。それは何故に布師田(ないしは比江)を初日の宿泊地にしたのか?ということである。城下からあまりに近く、二日目の本山までの距離はあまりに遠い。その理由が城下を進む正装を解き旅支度にするため、また逆に旅装束から正装に威儀を正して城下入りをするためであったようである。

北街道ルート図
それよりなにより有り難かったのが北街道ルート図。上述お旅所の辺りから南国市岡豊町八幡あたりまでのルートが記されている。そのルート図に拠れば、布師田までは今まで辿ったルートの他、土佐一宮・土佐神社に参拝しお旅所まで南下し布師田に向かうルートもあったようだ。 また、布師田から先は二つに分かれ、ひとつは国分川の北、現在の高知大学医学部の北を向かうもの、もうひとつは布師田の先で国分川を渡り中島を経由し現在の岡豊橋辺りで国分川を北岸に渡り、岡豊町八幡でふたつの道は合流する。


実のところ、この地図を見るまではGoogle Mapに「土佐北街道」と記された道があり、その道を辿るつもりであった。その道は29番札所国分寺からの遍路道でもあり、高知大学医学部手前の川崎川蒲原橋で、案内にあった北に進む北街道と分かれ医学部の南を国分川に沿って岡豊橋北詰で中島経由の北街道と合流する。遍路道はその先、笠ノ川川の下乃橋を渡り29番札所国分寺に続く。



布師田金山城跡
布師田ふれあいセンター敷地内に「布師田金山城跡」の案内。「「土佐川郡誌」(※1)に「古城蹟 在布師田山東峯或日元親置斥候所」と記され、『南路志』(※2)には「古城石谷民部少輔(領千石一宮社職)後号執行宗朴為元親落城其後久武内蔵助居之」と記録に残るように、城主は細川氏の末流と伝えられる石谷民部少輔 源重信 で、後に長宗我部元親に降伏して執行宗林と名乗り、一宮にある土佐神社の神職になったといわれています。その後元親は当城を久武内蔵助に与えたと伝えられています。
また、「土佐物語」(※3)では、すぐ南に見える大津城やその南の下田城などが激しい戦いの末、長宗我部氏によって相ついで滅ぼされてゆくのを間近に見て、金山城主石谷民部は重臣たちと計って長宗我部氏に降伏した様子が記されています。以後、岡豊城を中心に東方の久礼田城と西方の金山城などが連携して、岡豊城の防御と周辺進出の拠点となっていたことがうかがえます。 金山城は国分川を眼下にする要害の地で、周辺が遠く見渡せる好位置にあって小規模ながら遺構のよく残る中世・戦国時代の城跡の一つであります。元親の本拠地である岡豊城は2.5kmのすぐ東方に望めます。

標高113.6mの山頂の詰ノ段はややいびつな楕円形をなし、高さ 1.3~1.6m の土塁がめぐらされています。
詰ノ段下の二ノ段は一部に土塁を残して東から南~西と広がっています。
ニノ段から急斜面の約10m 下には三ノ段が配置され、幅は5mから広い所で9m ほどあります。 三ノ段から下は急斜面が東から西方に裾を広げているが一か所東方下の尾根に向かって降りる道があります。
三ノ段の南方下には四ノ段が認められます。
詰ノ段北の二ノ段西側下には珍しい遺構の深い空堀が残り、更に周辺には竪堀・堀切や曲輪跡が認められます。
北西に延びる北山の尾根には峰を平坦に削った防御施設としての曲輪がそれぞれ堀切に区切られて二つ連なっています。

眺望としては、遠くは高知龍馬空港・太平洋・岡豊城・高知大学医学部・岡豊高校・大津城・五台山・浦戸湾・筆山・高知市街など、近くは国分川・あけぼの街道・RKC アンテナ広場・JR 布師田駅・サンピアセリース・じばさんセンターなどが一望できます。
※1・・・・・・土佐藩政中期に藩の儒学者緒方宗哲の編纂した歴史・地理・統計等 藩政史の重要資料 全47 冊
※2......文化 12 年(1815 年)高知城下豪商美濃屋の武藤父子が学者を動員して編纂した歴史・地理・故実等の資料
※3.......戦国時代初期から江戸時代初期頃までの主に長宗我部元親の生涯を中心にした軍記物語
金山城へは、当ふれあい広場西北側のフェンス出入口からお登りください。」とあった。

詳細な案内板の解説が多くメモが長くなった。高知城下から權若峠取り付き口・釣瓶までの土佐北街道メモの第一回はここまでとしう、次回布師田から權若峠取り付き口・釣瓶までのルートをメモする。
先回の散歩では国見山を越えた下山口から立川川の谷筋にある柳瀬集落までをメモした。国見山()下山口から四国山地の真ん中、北嶺地域の要衝の地である本山を経て吉野川を下り、川口で吉野川の支流・立川川の左岸に入り、現在の県道5号を北上、往昔立川川右岸に渡り山麓の道を進むことになる土佐北街道を柳瀬集落までを辿った(現在は柳瀬で右岸に渡る橋が崩壊しており、土佐北街道はひとつ手前一の瀬集落の金五郎橋で右岸に渡ることになる)。
今回は法皇山脈・横峰越えの下山口集落、四国中央市半田平山より川之江までをメモする。

柳瀬で立川川右岸に渡り、立川番書院まで進んだ土佐北街道は、そこから笹ヶ峰を越え新宮の谷筋に一度下り、再び法皇山脈を上り返し堀切峠近くを抜け.下った先で最初に出合う集落である。 
平山より先の土佐北街道は金生川支流に沿って山裾まで下り、金生川との合流点辺りからはその左岸を少し進んだ後、大きく蛇行する川筋から離れ北進し、蛇行し西流してきた金生川を渡り返し川之江の町に入ることになる。
法皇山脈・横峰越えは平山集落よりスタートし峠を越えて新宮に下りたのだけれど、今回は横峰越えのスタート地点であった平山集落から逆方向、山を下り川之江へと向かう。



本日のルート;平山集落の土佐北街道と遍路道分岐点>お小屋倉屋敷跡と旅籠屋・嶋屋跡の石碑>県道5号に下りる>県道5号を右に逸れ土径に入る>枝尾根突端部に土佐北街道標識>東金川集落(金田町金川)の茂兵衛道標>標石>大西神社南の道標>東金川バス停(金田町金川)傍の道標>土佐北街道分岐点>金生川に沿って「四つ辻」へ>槍下げの松>四つ角に標石と常夜灯>上分を離れ金生町下分に入る>金生橋を渡り川之江町に>陣屋跡>大標石>御本陣跡>高知藩陣屋跡>川之江八幡


新宮から平山;土佐北街道横峰越え



■平山集落からスタート■

平山集落の土佐北街道と遍路道分岐点
上掲ルート図の如く、法皇山脈・横峰越えの土佐北街道が堀切峠傍を下り平山の集落に下りてくる。T字路となった下り口には土佐街道の石碑、それと並んで地蔵丁石と茂兵衛道標が立つ。(念のため新宮から平山集落の土佐北街道委と遍路道分岐点までの土佐北街道横峰越えルートを上に載せて置)く。









土佐街道石碑
石碑には「是より 南 水ケ峰 新宮村を経て高知に至る  北 川之江に至る」と刻まれる。
茂兵衛道標と地蔵丁石
地蔵丁石には「奥の院まで四十八丁」と刻まれ、茂兵衛道標は手印で雲辺寺を示す。
遍路道
この道標の立つ地は伊予の最後の札所65番札所三角寺から、讃岐の最初の札所66番雲辺寺へと向かう三つの遍路道の合流点でもある。
一つは三角寺から一度金田町金川まで山を下り再び平山へと上るルート。金川から平山までは土佐北街道と重なる。今回平山から下る土佐北街道のルートでもある。
もう一つは三角寺から麓に下ることなく、佐礼を経由して山腹を進みこの地に達する。
三番目の道は三角寺の奥の院経由の道()。三角寺から法皇山脈の地蔵峠を越えて、銅山川の谷筋に下り奥の院・仙龍寺を打ち終え、一部往路を戻った後、北東へと法皇山脈を上り峰の地蔵尊で法皇山脈の尾根を越え北東に少し下った後、土佐北街道に合流し、平山のこの地へと下りてくる。地蔵丁石に「奥の院まで四十八丁」と刻まれるのは、このルートを示す。

お小屋倉屋敷跡と旅籠屋・嶋屋跡の石碑
T字路より少し西に進むと、比較的新しい石碑が立ち、南面には「お小屋倉跡」、西面には「旅籠屋・嶋屋跡」の案内が刻まれる。。眼下一望の場所である。
お小屋倉跡
「土佐の国主が参勤交代の時、休み場が此処より1400米登ったところにあり、お茶屋と呼ばれここで休息される時、倉に格納してある組立式の材料を運びあげて臨時の休息所とされた」と書かれていた。
土佐街道横峰越えの折、このお小屋倉跡を訪ねた。その場所の案内には「この場所に泉があり土佐藩主山内公の参勤交代中の休み場であった。延べ50余mの石垣で三方を囲み、上段に70平方メートル余りの屋敷を構えた。
先触があると1400メートル下の平山のお小屋倉から組立式の材料を運び上げて休息所を建てた」とあり、その傍ブッシュの中の泉の跡には「お茶屋跡」との案内があり、「一般に「お茶屋」と呼ばれたこの地には、泉があり、すぐそばに大きな松の木があった。そのため、古くから旅人たちの休み場となっていた」とあった。
旅籠屋・嶋屋跡
案内には「薦田の家譜で約5アール(150坪余)の土地に広壮な建物があり、街道は屋敷の東(現在の谷)を下り隅で西に曲がり石垣の下を通っていた。石垣は土佐の石工が宿賃の代わりに積んだと言われ、兼山の鼠面積(長い石を奥行き深く使い太平洋の荒波にも強い)として有名である」とある。
兼山とは土佐北街道・本山の町や土佐の遍路歩きの途次でメモした通り、利水・治水の河川改修、港湾整備など土木工事の実績で名高い土佐藩家老の野中兼山のこと。で、その石垣は何処に、と周辺を下り探したのだが、特に案内もなく、それらしき石垣も見当たらない。実際は、今は無いとのこと。石碑下の、今は畑となっている北側に石垣があったようで、往昔の土佐街道・遍路道はその石垣下を廻り上ってきたようだ。なお、嶋屋に土佐のお殿様は泊まることはなく、川之江の本陣に滞在したとのことである。
平山
「えひめの記憶」には、「この集落は法皇山脈の標高200mを超す山腹に形成され、交通の要所として、かつては宿屋・居酒屋・うどん屋などが建ち並んで、ごく小規模ながら宿場町の形態をなしていた。その平山で最も大きな宿屋が嶋(しま)屋だったが、現在その跡地は畑になっている」とある。

県道5号に下りる
石碑の左手の坂を下ると県道5号に出る。県道5号に出たところにある民家右手に「土佐北街道」の案内石碑が立つ。





県道5号を右に逸れ土径に入る
県道を右に逸れトンネルを潜る
大きく北へと向きを変える県道を進むと、道の右手に「四国のみち」の指導標が立ち、「三角寺」「椿堂」への案内。椿堂はこの地より東、金生川の谷筋にある平山の集落から雲辺寺を目指すお遍路さんが多く立ち寄るお堂である。
土佐北街道はここで県道を右に逸れ県道下のトンネルを潜り、県道西側を下る土径に入る。トンネルは県道改修工事の際にでも造られたものだろう。
実のところ、金田町金川から平山までは三角寺からの遍路道をトレースする際に一度歩いたことがある。その道筋が土佐北街道と重なっていたため、このトンネルを潜り「椿堂」の標識を見ていたこともあり迷うことなくルートをメモしたが、はじめて歩くとしたら結構難儀するところかと思う。注意必要。

枝尾根突端部に土佐北街道標識
土径を少し進むと簡易舗装の道となり、その先で民家の間を抜けるとT字路に出る。角の民家のコンクリート塀には「土佐北街道」の標識が今来た道を指す。
「土佐北街道」の標識のある民家の辺りは、枝尾根突端といったところ、この角を左に折れ5mから10mほどの急坂を下り東金川の集落に向かう。
地図に記載された土佐北街道
左に折れ金田町金川の集落に向かう土佐北街道のルートは、三角寺から一旦西金川の集落まで下り、三角寺川に沿って西金川バス停まで進み、そこを右折し東金川の集落から平山に進む遍路道を辿った折、西金川バス停傍に「立川街道」の標石が立っており、その案内に従い遍路道と重なるルートを辿り、この地の「土佐北街道」の標識まで進んだわけだが、地図を見ると金田町金川の辺りから南に進む道筋に「土佐北街道」と記載されている。地図上では途中で「土佐北街道」の名は消えるが、その消えた辺りはこの枝尾根から真っすぐ下ったところにある。
なにか名残り、案内はないものかと林の中の土径を下り地図に示される「土佐北街道」と繋いだが、特段の案内はなかった。また地図に記載された「土佐北街道」が消えるあたりから東金川の集落に入る道筋もあるいたが、特段の案内はなかった。
メモは遍路道との重複ルートを案内するが、枝尾根部から北に下るルート、東金川の集落と繋ぐルートも一応記載しておく。

東金川集落(金田町金川)の茂兵衛道標
枝尾根突端部を左に進むと東金川の集落に入る。道の左手、石垣上にある東金川集会所を少し先に進むと四つ辻に茂兵衛道標が立つ。南に向かう面には「奥の院 土佐高知」の文字が刻まれる。


標石
茂兵衛道標が示す先がどうなっているのか南へと坂を上ると車道に合流。そこに標石が立ち、左は「雲辺寺 箸蔵寺」 、南方向は「奥之院」と刻まれる。左に進むと上述県道5号の「四国のみち 三角寺 椿堂」の立っていた地点に合流するが、南を示す方向には道らしきものはなかった。
新土佐街道
「えひめの記憶」には「茂兵衛道標から右折すると、いわゆる新土佐街道である。新土佐街道は、主として四国山地の楮(こうぞ)・三椏(みつまた)などの運搬道として明治時代を中心に使われた道である。遍路が利用することもあったらしく、街道沿いにあたる西方(さいほう)のバス停留所前にも道標が立てられているが、現在はその大部分が廃道の状態である」とする。新土佐街道のルート詳細は不詳。

標石
茂兵衛道標の立つ四つ辻から少し進み、東金川集落のはずれに標石が立つ。天保(1831‐1845)と記された道標には、手印と共に「遍んろみち」と刻まれる。

大西神社南の道標
更に緩やかな坂を下ると道の右手の小高い丘にに大西神社が建つ。その東南、白石川に神社の丘が突き出す車道右手に道標がある。文久(1861-1864)と記された道標には「右 金毘羅道 此方 へんろ道」の文字が刻まれる。
「此方」の面の手印は南を示す。「右 金毘羅道」は境目峠をトンネルで抜け徳島に向かう国道192号沿いの金比羅さんの奥の院である箸蔵寺()への道を指すのかもしれない。
尚「えひめの記憶」には、江戸時代の遍路道は、この少し先、東金川橋袂の道標までは行かず、三角寺川の北傍にある正善寺を過ぎたあたりで三角寺川・白石川を渡って現在の大西神社南麓に出て、北から来る土佐街道(笹ケ峰越えルート)と合流していたようである。その合流地点のあたりに道標が立っている、とする。この道標が江戸時代の遍路道との合流地点ということだろう



東金川バス停(金田町金川)傍の「立川街道 」標石
先に進み白石川が三角寺合流した先、橋を渡ると東金川バス停。その角に標石がある。大正の銘が刻まれる道標は「左 奥の院 「右 立川街道」と読める。土佐北街道はここを右折する。
立川街道
立川(たじかわ)街道とは土佐北街道の別名。土佐北街道のルート上、高知県長岡郡大豊町立川下名に立川口番所がある。藩政時代は土佐藩主参勤交代の際の本陣であり、遥か古代に遡れば古代官道の立川駅のあった地でもある。土佐北街道を立川街道とも称する所以である。
金川
金川の由来は近くの淵から金の仏像が彫り出された故とのこと。もっとも、この辺り、後程出合う金生川とか銅山川筋の金砂とか、金を冠する地名が多いが、これら川筋で砂金が採れた故との話はよく聞く。この川から金の仏像云々も、砂金故?といった妄想も膨らむ。

地図に記載の「土佐北街道」分岐点
地図に記載の土佐北街道分岐点
道を先に進むと地図上に記載される「土佐北街道」の分岐点にあたる。道は南へと向かい途中で記載が消えるのは既に述べた。記述メモに示したように、念のため分岐点を右折し南に進み、東金川の集落へと続く道、上述「土佐北街道」の標識のある枝尾根突端部へと辿ってはみたが、特段の標識・案内はなかった。常識的に考えれば、直接枝尾根突端部と繋がる道が土佐北街道であったようにも思える。
道を進むと前面に松山道の高架が見える。古き趣の商家といった風情の建屋が残る。

古き趣の残る街道を進み松山道高架を潜る

古き趣の商家の残る道筋を進み三角寺川などの支流が金生川に合わさる松山自動車道の高架あたりで金田町を離れ上分町に入る。




国道を右に逸れ金生川に沿って「四つ辻」へ
国道を右に逸れる
松山道を潜ると一瞬国道192号に入るが直ぐ右に逸れる金生川沿いの道が土佐北街道。 道を進み金沢橋の西詰で川沿いの道を離れ、川筋より一筋西の「四つ辻」へ向かう。
「四つ辻」
「四つ辻」は藩政期の頃、上分(町)の商業の中心地であったところ。「四つ辻」から北は本町、南の道筋は土手城下と呼ばれ、金生川を背にした片側町となっている。「えひめの記憶」には昭和初期の街並みとして「土手城下の上手は片側町であり、金生川ぞいには馬のつなぎ場があった。そこには近在の農家が副業として営む馬方が、嶺南地区から馬の背によって、楮皮・葉たばこ・木炭・材木などを運搬してきた。
四つ辻付近
一方、上分からは、日用雑貨品、食料、肥料などが運搬されていった。街道ぞいには日用雑貨品店が多いが、その顧客には山間部の住民が多かった。また旅館、飲食店が多いのも物資の集散地である街村の特色をよく反映している」と記す。本町には紙問屋など商家が建っていた。
上分
上分について「えひめの記憶」には「上分は川之江市を潤す金生川の谷口に立地し、川之江市域では川之江に次ぐ商業集落である。この地点は土佐街道と阿波街道の分岐する交通の要衝であり、近世以降背後の山間部の物資の集散地として栄えてきた集落であり、典型的な谷口集落といえる。
天保一三年の『西条誌』には、当時の上分の状況が次のように記載されている。「......川あり上分川と言う。此の川に土佐と阿波とへの道二筋あり。南へ向き金川村の方へ入れば土佐路也。川を渡り東へ行けば阿波路也。阿波境まで二里余、上佐境まで五里余あり。阿波の三好郡の内十ヶ村余、土佐の本山郷の内十ヶ村程の者、楮皮、櫨実を始め色々の物産を出すには、必ず当所を経、三島・川之江等の町にひさぐ。近来当所に商家多く出来、かの物産を買取る内に、土地自然と繁昌し屋を並べて街衢の如し。留まるもの少なかららず見ゆ。土佐侯江戸往来の路すじあり.........」。
当時の上分は、土佐本山郷と阿波三好郡を後背地に控えた物資の集散地として大いに賑い、街村が形成されていたことがよくわかる」とある。
明治期似入っても土佐・阿波・嶺南地区などの山間部の物資-葉たばこ、楮皮などの集積地として栄え 明治17年(1884)の最盛期には120戸もあったと言われる商業地区であった上分も、大正から昭和にかけて整備されていった交通網の発達により、山間の地からの往来交通の要衝の地としての利点を失うことになり、現在静かな街並みをとどめている。
上分と下分
散歩の折々に上分と下分という地名の出合う。あれこれチェックしたのだが、なんとなく納得できるものに出合わなかった。少し寝かせておく。
上分町と金生町下分
地図を見ると、上分町は金生川支流三角寺川が金生川に合流する辺り、現在の松山道高架のあたりでは金生川右岸も一部町域に含まれれるがおおよそ金生川左岸にあり、北は金生町下分と、西は妻鳥町と、南は松山道の南で金生町金川に接する。
また金生町下分は金生川右岸の上分町の北側では金生町山田井に接し、金生川左岸の上分町の北側では蛇行し西進してきた金生川を境に川之江町に接する。
上分町に対し下分は金生町下分となっている。その理由は?下分町は下分村が町制施行し上分町となったのに対し、下分村は山田井村と合併し金生町となり、その後上分町、金生町などが合併し川之江市となったのがその因だろう。
金生川
金生川は伊予と阿波の国境、境目峠辺りを源流点とし、旧川之江市(現四国中央市)川滝・金田町と下り、松山道の先で左岸を上分町、右岸を金生町下分を分けて下り、川之江町を南北に分けて瀬戸の海に注ぐ。
「えひめの記憶;愛媛県生涯教育センター」に拠れば、「川之江は金生川とその支流の流れによる堆積作用により形成された沖積平野にあり、(金生)川の畔故の地名である。室町の頃から「かわのえ」と呼ばれたようである。
金生川は暴れ川であったようで洪水被害に見舞われることが多く、その暴れ川故、地味が豊かであり古代より開け、本川・支川流域には有力豪族の古墳が点在する。
その古墳石室に使用される巨石は、金生川の流れを利用して運ばれた、とされる。流域には金川、金生などの地名が残るが、これは、かつて流域で砂金が採れたことに由来する、とも。7世紀初め、渡来人である金集史挨麻呂(かねあつめのふひとやからま ろ)の存在も認められ、古来より砂金等が採取されていたようである」とある。

槍下げの松
「四つ辻」を北進するとほどなく道の左手に堂宇があり、その門傍に「槍下げの松と土佐街道」の案内:
「川之江市指定記念物 槍下げの松と土佐街道 この位置は昔の土佐街道の一部で、土佐の山内公の行列が参勤交代でここを通ったときのことである。
道にはり出している松の枝が邪魔で、家来たちが枝を切ろうとしたとき、山内公が「良い枝ぶりの松である 捨て置け」と言われ、以来ここでは槍を下げ、馬上の武士は身をかがめて通ったと伝えられている。これがこのや松の名づけられた由来である。
橋下げの松 目通り 二・七m 高さ 七m 樹齢数百年 川之江市教育委員会 松月庵」とあった。
松月庵
槍下げ松のある松月庵はお堂といったこじんまりとした堂宇。境内には石仏やミニ四国霊場、新四国は八十八ヵ所のいくつかの石仏が並ぶ。結願の八十八番大窪寺もあれば、二番、四番、五番や二十番代のいくつかの札所石仏も並び、何となくこの庵を含めた一帯にミニ四国霊場が広がる予感がする。本堂にはかつての槍下げの松の写真が飾られていた。


境界石
松月庵の北隣に境界石が建ち、「従是南 西条領」とある。この地の南が西条藩領となったのは新居浜市の別子銅山の歴史と関係がある。これを知ったのはつい先日別子銅山の遺構散歩の折のこと。四国山地銅山峰の南、天領の地に開かれた別子銅山であるが、峰の北は西条藩領。ために別子銅山で採掘された粗銅は峰を越えて北に運ぶことができず、大きく東に廻り宇摩郡土居町(現在の四国中央市)の天満まで運び瀬戸の海を大阪の鰻谷にある住友の製銅所まで運ぶしか術はなかった。
峰を越え西条藩領を運べば16キロ、土居への天領運搬路は36キロ。西条藩に運搬路を開くことができれば20キロの短縮となる。西条藩領を運ぶ住友の願いは財政難解消に腐心する幕閣の支援もあり、寶永元年(1904)西條藩に對して、幕府は新居郡下の大永山、種子川山、立川山 (立川銅山)、両角野(西、東角野) 、 新須賀の五個村を公收し、その替地に宇摩郡内の幕領蕪崎、小林、長田、西寒川、東寒川、中之庄、上分、金川の八個村を与へ、次いで寶永3年(1906)に宇摩郡の津根、野田兩村を替地として、同郡上野村を幕府の領地とし、さらに後ち一柳直增侯に對して、さきに上野村の替地として與へたる津根五千石を公收するため、播州美嚢郡高木(三木町外) 五千石に移封するというものであった。

これが上分が天領から西条藩領となり、境界石が立つ因ではある。が、ここでちょっと疑問。これも過日遍路歩きで四国中央市を歩いていたとき、天領・西条藩・今治藩領を示す案内板に出合った。 その図によれば西条藩領と天領の境界は上分と下分となっている。その図に従えば、この境界石から南が上分となるが、地図によれば現在の上分と金生町下分の境はもう少し北の川原田橋の辺りとなる。往昔の上分と下分が現在の街域と同じがどうか不明だが、ひょっとするとこの境界石は往昔はもう少し北にあったものが何等かの事情でこの地に移されたものかとも妄想する。
特段のテーマはないものの、あれこれ歩いていると、あれこれのものが繋がってくる。面白い。

四つ角に標石と常夜灯
槍下げの松から直ぐ、唐突に「土佐北街道」の標識が立つ古き風情のお屋敷前を過ぎると、四つ角(上述「四つ辻」と区別するため四つ辻とする)。上分大橋から西に新町商店街交差点に続く道筋を交差する。
その交差点の東北角に常夜灯。西北角に標石。南面には「左 みしま 五十町 西条 十里 八和多浜 三十六里」 東面には「右 川之江 二十五丁 こんぴ羅 二十五里 丸がめ(?)十里二十五丁」と読める。四つ角を横切り直進する。
新町
一筋西の新町筋は上分町の商業の中心地。大正15年(1926)に道が整備され第二次大戦後は商店街が栄えたが、その後の新たな道路整備により交通路の重点が西に移ることになったため商業の重心も西に移ることになる。新宮往還の交通の要衝地であった谷口集落としての上分のポジショニングが変わってしまった、ということだろう。

上分を離れ金生町下分に入る
四つ角を直進、ほどなく金生川筋に出る。道の右手に地蔵。「新四国霊場八十七番長尾寺」とある。川原田橋西詰あたりで大きく左に蛇行する金生川から離れ北西する。この川原田橋の辺りが現在の地図にある上分と金生町下分の境界である。
ほどなく道の左手にお堂と常夜灯。お堂は近年修築されたものだろうか。お堂には台座に「萬霊」と刻まれた地蔵座像が祀られる。お堂の傍には常夜灯が立つ。
三界萬霊
散歩の折々に「三界萬霊」と刻まれた石仏に出合う。
三界萬霊(さんがいばんれい)とは三界のすべての精霊を供養するもの。三界とは欲界、色界、無色界。
欲界は三界の最下層のレイヤー。 淫欲・食欲・睡眠欲など、人の本能的な欲望が強い世界であり、20から36階層に分けられる。
色界は欲界の上位レイヤー。欲望は超越したが、物質的(色)な束縛はまだ残っている段階です。 16~18の段階に分けらる。
無色界は、欲望も物質的な面も超越した、精神的な要素(無色)のみからなる世界。四段階に分かれ最上位は「有頂天」。有頂天を軽々しく使うことを躊躇うべきか。
この三界の上のレイヤーが仏の世界となる。

とすれば、三界とは、仏の世界ではなく、「この世」のあらゆる生命あるものの霊を、その先祖も含め供養するためのもの、またはこの世にある人の修養の発達レベル、仏の世界に達するためのメルクマールといったような気もする。単なる妄想ではある。
国道11号バイパス
土佐北街道とはまったく関係ないのだけど、旧伊予三島市(現四国中央市)中之庄町の通称、「遍路わかれ」辺りから海岸線を走る国道11号から離れ内陸部を抜ける国道11号バイパスが川原田橋近くまで通じている。国道11号の混雑緩和と松山自動車道へのアプローチルートであることはわかるのだが、川原田橋辺りでルートは終点となり一般道に合流し、国道11号に戻るには一般道を北に走らなければならない。これってバイパス?前々から気になっていたのでメモのついでにチェック。どうも現在の終点から金生川右岸に進み、宇摩向山古墳を避けJR川之江駅の東へと抜ける計画があるようだ。前々からの疑問はこれで解決。

金生橋を渡り川之江町に
古き趣の屋敷が時に残る金生町下分の街を進むと、道の右手に地蔵座像。台座に「三界萬霊」と刻まれる。
その先で道は川原田橋辺りで、大きく右に蛇行した後西進してきた金生川に架かる金生橋を渡り川之江町域に入る。



陣屋跡
金生橋を渡ると直ぐ、左に逸れる道がある。それが土佐北街道。先に進むと四差路があり、そこに常夜灯が立つ。土佐北街道はここを北東に向かう道をとり、ほどなく予讃線の踏切を越えて東進。二つ目の角を右折し北進する。東西に走る二つ目の通りで土佐北街道から離れ、陣屋跡にちょっと立ち寄る。
栄町商店街を右に折れスーパーフジ川之江店を少し東に進みすスーパーフジ納入業者駐車場の東隣にひっそりと「一柳直家公御陣家跡」の石碑(注;「陣家」はママ)。その傍に「一柳陣屋の広さは約88,000平方メートル以上の広さを誇り、東は栄町通り、西は新町沿いの区間まで、また、南は愛媛銀行やフジ川之江店、北は吉祥院や天神ノ森あたりまでを含む規模であった。
一柳家が播磨小野に去ったあと、陣屋は半分に縮小され、新たに松山藩御預かり代官陣屋、幕府直轄代官陣屋となってからも、川之江は旧宇摩の政治の中枢として海陸交流の要衝とし、発展を続けた」との解説があった。
場所は少し分かり難いが道を隔てた南側に愛媛銀行川之江支店がある。
一柳直家
慶長4年(1599年)、一柳直盛の次男として伏見に生まれる、父の直盛は関ケ原の戦いで戦功をあげ伊勢神戸5万石の所領を賜り、また大坂の陣でも戦功を挙げ寛永13年(1636年)6月に直盛は1万8000石余の加増を受けて伊予国西条に転封される、石高は計6万8000石余。このとき直家は加増分の中から播磨国加東郡内5000石を分け与えられている。
同年8月、西条に向かう途上で直盛が死去。直盛の遺領6万3000石余は3人の子(直重、直家、直頼)で分割されることとなった。直家が相続したのは2万3600石で、さきに与えられていた磨国加東郡内5000石と合わせ、伊予国宇摩郡・周敷郡にまたがる2万8600石の大名となった。
直家は伊予川之江に陣屋(川之江陣屋)を定め、川之江藩を立藩。播磨国は分領とし小野に代官所を置いた。直家は川之江の城山(川之江城跡)に城を再建する構想もあったようだが、実現しなかった。
翌寛永14年(1637年)に初の国入りが認められるが、同年播磨小野の代官所を陣屋に改めて拠点を移しており(『寛政重修諸家譜』では当初から小野に居したとある)、実質的に小野藩が成立した。
寛永19年(1642年)に死去、享年44歳。直家には娘しかいなかったため、末期養子がまだ許されていなかった事情もあり、家督相続は認められたものの伊予国内の1万8600石が没収されることとなった。これにより小野藩の所領は播磨国内のみとなり、川之江藩はわずか6年で消滅した。その後は天領となり、陣屋跡に川之江代官所が設けられた。
直重と直頼
なお、長男の直重は直盛の遺領3万石を継ぎ二代目西条藩主。三男の直頼は小松藩1万石を立藩した。
西条藩の直重は正保二年(1645)に死去し、遺領は二人の息子が分割相続する。兄の直興は西条藩を相続した。弟の直照は5000石を分知され、のちに津根村八日市に陣屋を構えた。旗本一柳家の始まりである。旧土居町(現四国中央市)津根八日市に「一柳公陣屋跡」の碑が残る。
寛文五年(1665)に兄の直興は不行跡により改易となり、領地を召し上げられる。西条藩はその後、徳川御三家の一つ紀州徳川家(紀州藩)の一族(御連枝)が入り、その支藩として廃藩置県まで存続した。
津根の八日市陣屋の分家2代目の直増は、宝永元年(1704)に播磨高木へ移封となり、八日市陣屋もその役割を終えた。因みに、この旗本一柳家9代目が浦賀奉行の直方。 ペリー来航の7年前浦賀軍艦2隻を率いて現れたアメリカのビッドル提督に対応した浦賀奉行である。

大標石
陣屋跡を離れ土佐北街道に戻る。少し東に戻り北進。ほどなく道の右手に大きな標石。「左 阿波とさ 於久の似んミち」「右 満津やま」「左 こんぴら道」と読める。「於久の似んミち」は奥の院道。この奥の院って金毘羅さんの奥の院箸蔵寺のことだろうか。 「満津やま」は松山だろうが、そうとすれば、 なんとなく指示方向と場所が合っていないように思える。どこかららか移されたのだろうか。

 

御本陣跡
大標石から直ぐ、道の左手の古き趣のお屋敷のブロック塀の内に「御本陣跡」と刻まれた石碑が立つ。土佐藩参勤交代時藩主の5日目の宿泊地である。




高知藩陣屋跡

本陣跡のお屋敷の斜め向かい、民間前に石碑が立ち「高知藩陣屋跡」とある。これって何だ? 思うに、明治維新の政変の折、朝敵となった幕府方の高松藩、松山藩に土佐藩兵の征伐軍が進軍している。この川之江は松山藩預かりの幕領でもあり、土佐軍兵が進軍。松山藩、高松藩共に恭順の意を示し戦端が開かれることはなかった。

川之江に進駐した土佐藩は厳しい軍律のもと軍政を実施し不安におののく人心は安定した。その役所名jは川之江陣屋のほかに土州鎮撫所、御陣屋などを使用している。また明治初年の土佐藩の正式名称は高知藩となっている。とすれば、この「高知藩陣屋跡」は土佐藩進駐下の役所跡のように思える。
軍制下によって人心が落着くと、土州政府は川之江の経済発展や生活安定のための民生策を実施。陣屋は慶応四年七月ごろに川之江政庁と改められ、その後川之江出張所、川之江民生局と名称を変え、「その治政は廃藩までの僅かな期間ではあったが、明治以降の宇摩地方発展の大きな布石となった。(中略)高知藩の役人は善政を行った話が語り継がれている。廃藩置県の動きが起きると、川之江の有力者たちが高知県へ入りたいとの血判した嘆願書を中央政府へ提出したほどである」と「えひめの記憶」にある。
それにしても、参勤交代の土佐北街道が松山藩預かりの川之江、高松藩征伐(実際は慶喜追討の東征軍として土佐を出たようであるが、途中で高松・松山藩征伐の追討令を受けたようである)の進軍路となったことは、歴史の流れとは言え、ちょっとした感慨を覚える。

川之江八幡
地図に「土佐北街道」とある道筋を北に進むが、途中地図から「土佐北街道」の記載が消える。 後は成り行きで土佐藩主が参勤交代の旅の安全を祈願した社である川之江八幡に進む。
太鼓橋を渡る。この橋は天明の昔、煙草屋喜兵衛、竹屋清兵衛を中心として村人達は、山田郷総鎮守川之江八幡神社に太鼓橋を奉納したものだが、近年懸け替えられた、と。
最近随身門を潜り境内に。
土佐灯籠と陣屋門
境内には海路の安全をお礼に土佐藩主が寄進した土佐灯籠も立つ。また、境内には新町の陣屋門が移され解体しその材料を使って復元されている。石碑に刻まれた案内には「この建物は旧川之江藩一柳陣屋門」の遺構である。江戸初期に乳児門様式を知る上からも極めて重要で、末永く後世に伝えるものとしてこの度文化庁より登録有形文化財に指定された」とあった。
乳児門様式はあれこれチェックするもヒットしなかった。


土佐北街道標識
社を彷徨い何気に境内北東より道に出る。と、そこに「土佐北街道」の標識。西を指す。案内に従い道を進むと道の左手に標石が立つ。「こんぴら道」と読める。


大鳥居
その対面に鳥居が建ち、案内には「川之江八幡大鳥居 川之江市指定文化財 この鳥居は畠山から現在地に奉遷されたとき、大庄屋三宅七郎右衛門家経が献じたものである。慶安四年〈1651)の作で一石づくりの笠石が特徴となっている。規模、古さともに現存する鳥居としては全国二番目である。
型式 明神形 高さ 約5メートル 幅 約3メートル」とあった。 この八幡様って、アプローチが多くどこが正面かはっきりしなかったが、ここが正面のようだ。なんとなく落ち着いた。
奉納者として記載される、川之江村大庄屋三宅家には川之江藩陣屋門が移されているとのことである。
八幡神社由緒
神社由来に拠ればこの社は推古天皇6年(598年)に 宇佐本宮より勧請し、当地切山にお祀りしたのが始まりとされている。その後、源頼義により康平7年(1064年)が畠山山頂に遷宮されたが、長宗我部元親の手で焼かれた。現在地の遷宮されたのは正保3年(1646年)のことと言う。
畠山って何処にあるのかはっきしないが、予讃線が川之江駅を越えた少し先、海に突き出た丘陵裾の海岸線を走る丘陵に畠山城跡がある。築城年代ははっきりしないが、川之江城の支城であったよう。その辺りだろうか。切山は金生川中流、下川町の北の阿讃山脈の峰にほど近い山中に切山と冠する地名がある。町域は金生町山田井となっている

常夜灯から土佐北街道を繋ぐ
大鳥居から先、土佐北街道の案内はないのだが、地図上に記載された「土佐北街道」へと繋ぐ、最も自然と思われる道を進む。と、ほどなく常夜灯。なんとなく旧街道のエビデンス。そこを西進しう、地図に記載された「土佐北街道」と繋いだ。これで本陣跡からなんとなくもやっとした土佐北街道の八幡様への道筋がちょっと見えてきたように思える。




■川之江から先の土佐藩参勤交代道■

高知の城下を発し、初日は布師田本陣(ぬのしだほんじん)、二日目は本山本陣、三日目は立川番所院、四日目は新宮の馬立本陣、五日目は川之江本陣と土佐北街道を進んだ土佐藩参勤交代の一行は、ここから船に乗ったわけではないようだ。
川之江八幡で旅の安全祈願をした後、海岸線に沿って讃岐に入り観音寺市豊浜町の和田浜を経て三豊市仁尾に進み、初期の頃はそこから船に乗り播磨の室津に向かったようである。後になって更に丸亀まで進み、そこから船出したともある。実際、丸亀には丸亀本陣もあったようだ。 土佐藩参勤交代道をトレ-スするには仁尾、丸亀までも進むべきかとも思うが、なんとなく土佐北街道と言うには違和感もあり、土佐北街道散歩の瀬戸内側はこの川之江で打ち止めとする。 残るは高知の城下から権若峠への上り口までを繋ぐ道筋だけとなった。

ちょっと寄り道;川之江城
土佐北街道とは直接関係ないが、市街の西の城山に建つ川之江城がちょっと気になり訪ねてみた。
天守を構える城ではあるが、これは川之江市制施行30周年を記念して建設されたもので史実に即した城ではないようだ。天守は犬山城を模したとも言われる。
城は歴史を踏まえたものではないが、伊予・讃岐・土佐・阿波を結ぶ交通の要衝であり、南北朝から戦国時代にかけて山城、というか砦が築かれていたようである。
南北朝時代、南朝方の河野氏の砦が築かれた。その後北朝方、四国の守護と称する讃岐の細川頼春氏の攻撃を受けて落城するも、その後もこの城をめぐる攻防が幾たびかあり、河野氏の所領に復する。
河野氏の所領に復した川之江城は、元亀3年(1572年)に阿波の三好勢の攻撃を受けている。その後、、川之江城を預かる河野氏重臣は土佐の長宗我部氏へ寝返るが、河野勢の攻撃を受けて落城。が、天正13年(1585年)に土佐の長宗我部氏の攻撃を受けて、川之江城は再び落城する。
長宗我部氏の攻略からわずか数ヶ月後、豊臣秀吉の四国平定軍が四国へ侵攻を開始(四国攻め)。川之江城も豊臣軍による攻囲を受け、長宗我部氏は降伏し川之江城は開城となった。 以後の川之江地方は小早川氏、福島氏、池田氏、小川氏と目まぐるしく領主が変わり、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後に伊予国に移封された加藤嘉明が川之江を領すると、慶長7年(1602年)に城を織豊系城郭へと改築した。しかし、嘉明が居城を伊予松山城へ移すと川之江城は廃城になった。
一柳直家が寛永13年(1636年)に川之江藩を立藩し、城を再築しようとしたが、寛永19年(1642年)に死去。領地は収公され、以後の川之江は天領になったため再築されることはなかった。



先回、少々難儀したが立川川の谷筋を柳瀬から旧立川番書院跡まで辿った。これで高知城下を発し、伊予の川之江で瀬戸の海に舟出するまでの土佐藩の参勤交代道・土佐北街道の途次にある権若峠、国見越え()、笹ヶ峰法皇山脈・横峰越えなどの山道を歩き終え、残すは土佐城下から権若峠まで、国見峠越えから立川川筋の柳瀬まで、そして法皇山脈を越えた金田集落から川之江までの里道のみとなった。
今回は 国見山を越えた下山口から立川川筋の柳瀬まで、実際は柳瀬で立川川左岸から右岸に渡る橋が大雨で落橋しているため柳瀬のひとつ南の集落、一の瀬に架かる金五郎橋を渡ることになるのだが、ともあれ立川川右岸山道に入る土佐北街道までを繋ぐこととする。

ルートを想うに、いまひとつはっきりとした道筋がわからない。あれこれチェックすると『土佐の道 その歴史を歩く;山崎清憲(高知新聞社)』という書籍があり、そこに土佐北街道の記事が載っているようである。内容を見たいのだが愛媛の田舎の家のある近隣の公立図書館にはなく、高知の南国市立図書館に蔵書があることがわかった。
どの程度詳しくルートが記載されているのかわからないが、取り合えずその書籍を頼りに南国市まで車で走り、内容を確認。大雑把ではあるが国見越えから立川川筋までの記載があった。 それによれば、国見越えの後は樫ノ木川右岸の吉延集落まで下り、そこで樫ノ木川左岸に移り、本山の町に。参勤交代の一行は本山に一泊した後、現し在の国道439号を吉野川右岸に沿って本山東大橋辺りまで進み、そこで吉野川を渡り吉野川左岸、現在の県道262号を立川川が吉野川に合流する川口まで進み、現在の新川口橋下流の立川川の渡しで立川川左岸に移り、現在の県道5号に沿って柳瀬(実際は一の瀬)まで北進したようである。
途中土佐北街道筋のお堂、石仏、燈明台、藩主休憩所など比定されたポイントの記載はあるが、詳細なルートの記載はない。ポイントとポイントの間は「感」を頼りに行くしかないか、と思い乍らGoogle mapを見ると、本山への道筋には「土佐北街道」と記載された道筋が見える。なんとなく「見えて」きた。依然「空白」部分もあるが、そこは「感」を頼りに進むべしと南国市図書館を後にし、一路スタート地点の国見越え下山口まで急ぐことにした。



本日のルート;
国見越え下山口>参勤交代道標識>分岐点>燈明台>>大杉と阿弥陀堂>石仏>大吉橋の西詰・東詰に見渡し地蔵>地図に記された「土佐北街道」と繋ぐ>展望所>十二所神社>「本山城跡周辺史跡めぐり」案内>下井>上井>土居屋敷跡>上の坊>山内刑部夫妻の墓所>本山の町を離れ国道439号に乗る>下津野>上関の渡し>本村の旧山下家薬医門>>奈路の切通し>葛原>立川川の渡し>一の瀬・金五郎橋>柳瀬


国見越え下山口
いつだったか国見山を越えた下山口、と言うか車で乗り入れられることができたピストンデポ箇所に。そこに「参勤交代道」の標識。国見方向と、車道下り方向を示す標識が立つ。車道に沿って吉延集落へと下る。
道の左手は崖。右手山側に標識などないものかと注意しながら車道を下る。

参勤交代道標識
しばらく車道を下ると道の右手にあらぬ方向を向いた木標が立つ。車道から右に逸れる道もあり、とりあえず右に入るが直ぐに行き止まり。元に戻り車道を下る。標識は左、車道道なりを示していたのだろう。

分岐点
そこからしばらく車道を下ると右に逸れる道がある。標識はないのだが、国土地理院の地図をチェックすると、如何にも吉延の集落へと下る旧道のように思える。地図にも??延集落へと実線が描かれている。取敢えず車道を右に逸れて集落の中を抜ける道を進む。

燈明台
標識もなくちょっと不安になった頃、道の左手に常夜灯が見える。ひょっとしてオンコース?常夜灯傍に「参勤交代道・北山越えの道 カバヶ岡の燈明台」とあった。特に案内はなく「カバヶ」の意味不詳。鰻の蒲焼(かばやき)は「蒲の穂(がまの穂)」に由来するけど、「蒲の穂」と関係あるのかな、などと妄想する。
燈明台と道を隔てた反対側に広い平坦地がある。上述書籍には街道筋に「大休場」があり、参勤交代の隊列を整え、また茶店や宿屋も数軒建っていたとの記事がある。この平坦地は休耕田のようにも思えるが、国見山から下る途次、大休場らしき場所を見ることはなかった。「大休場」何処にあるのだろう?平坦地から国見山方面を借景に写真を一枚。なかなか、いい。

大杉と阿弥陀堂
灯明台からほどなく右手に仁井田神社。その直ぐ先に大きな杉の木とその根元に阿弥陀堂が建つ。阿弥陀堂の周りは古き石仏が並び、その雰囲気は、いい。
杉は樹齢千年、高さ40mhどの古木。「オリドの杉」とも称される。「オリド」は地名のようだ。この大杉は土讃線大杉駅近く、八坂神社境内の樹齢三千年とも称される、日本一の大杉に次ぐ古木のようである。
仁井田神社
仁井田神社にはじめて出合ったのは浦戸湾の渡しに向かう途次。仁井田という地に鎮座する。由来をチェックすると、社の由緒には「古くは五社大明神とも言われていた。天正15年(1587)頃、高岡郡の仁井田明神(現四万十町窪川の高岡神社)を勧請して祀ったのが当社という」とあった。この説明だけでははるか離れた仁井田(現在の窪川一帯)と浦戸湾にほど近い仁井戸由神社の関りなどがわからない。さらにチェック。

あれこれデータを調べていると、『四万十町地名辞典』に、「仁井田」の由来については、浦戸湾に浮かぶツヅキ島に仁井田神社があり、由緒書きには次のように書かれてある。
伊予の小千(後の越智)氏の祖、小千玉澄公が訳あって、土佐に来た際、現在の御畳瀬(私注;浦戸湾西岸の長浜の東端)付近に上陸。その後神託を得て窪川に移住し、先祖神六柱を五社に祀り、仁井田五社明神と称したという。
神託を得て窪川に移住とは?、『四万十町地名辞典』には続けて、「『高知県神社明細帳』の高岡神社の段に、伊予から土佐に来た玉澄が「高キ岡山ノ端ニ佳キ宮所アルベシ」の神勅により「海浜ノ石ヲ二個投ゲ石ノ止マル所ニ宮地」を探し進み「白髪ノ老翁」に会う。「予ハ仁井ト云モノナリ(中略)相伴ヒテ此仕出原山」に鎮奉しよう。この仁井翁、仁井の墾田から、「仁井田」となり。この玉澄、勧請の神社を仁井田大明神と言われるようになったとある」と記す。
仕出原山とは窪川の高岡神社(仁井田五社明神)が鎮座する山。仁井田の由来は「仁井翁に出合い里の墾田」とする。
物語の主人公である伊予の小千玉澄公は『窪川史』に新田橘四郎玉澄とあるわけで、普通に考えれば仁井田は、「新田」橘四郎玉澄からの転化でろうと思うのだが、仁井翁を介在させることにより、より有難味を出そうとしたのだろうか。
もっとも、新田橘四郎玉澄も周辺の新田開発を行ったゆえの小千(後の越智)から「新田」姓への改名とも思えるし。。。?ともあれ、土佐を歩くと仁井田神社に時に出合う。

石仏
大杉の残る阿弥陀堂前から道は幾筋か分かれる。西へと下る道は新しそう。南に向かう道を進むと先ほど逸れた車道に合流。その合流点に石仏が立つ。石仏が佇むとすれば、ひょっとしたらこの道筋が土佐北街道のオンコースかも。






大吉橋の西詰・東詰に見渡し地蔵
『土佐の道』には、参勤道はここから樫ノ川を渡り本山に向かったとする。道を下ると樫ノ川に大吉(おおよし)橋が架かり、その東詰め・西詰に見渡地蔵と彫られた石仏が祀られていた。嘉永六年と刻まれる。1853年に祀られたということだ。
往昔、この地は飛び石により渡河したとのことである。

地図に記された「土佐北街道」と繋ぐ
樫ノ川を渡ると大岩地区。その先、土佐街道はどう進む?地図をチェックすると北東に突き出た尾根筋を廻り込んだ辺りまで「土佐北街道」と記載されている。橋からその間のルートは不詳だが、地図に記載されている「土佐北街道」まで成り行きで、それらしき道を進む。特段の標識はない。ともあれ、地図に記載の「土佐北街道」と繋げた。

展望所
北東に突き出た尾根筋をぐるりと廻り先に進むと、道脇に本山の町を見わたす展望所があった。そこで少し休憩。本山の町は吉野川によって形成された河岸段丘に開かれたような景観を呈する。
本山の町
地図を見ると本山周辺では吉野川が大きく蛇行して流れる。そのため河岸段丘が発達し、四国山地の中に位置するにもかかわらず古くより人々が暮らしていた。町内には上奈路遺跡、永田遺跡、銀杏ノ木遺跡、松ノ木遺跡と縄文・弥生時代の遺跡が残る。中でも松ノ木遺跡(本山町寺家周辺)はほぼ完全な土器が出土し注目を集めている、という。古代、四国山地を越えて土佐の国府に通じる官道の駅、吾椅(あがはし)がこの地に比定されるのも故無きことではないように思える。  
大岩
上述『土佐の道』には本山に廻り込んだ道筋には高さ9m、幅18mほどの大岩が道筋にあるとのことだが、気がつかなかった。大岩地区の地名由来の岩である。

十二所神社
地図に記される「土佐北街道」、といっても舗装された快適な道ではあるが、本山の町並みの少し高台を走る山裾の道を西進する。山側には道に平行して水路が続く。道と水路が北に向きを変えるところに鳥居が建つ。参道を南に進めば十二所神社が鎮座する。
社の由来案内に拠れば、沿革は「長徳寺文書」に承元2(1209)年の「十二所、供田」が初見とあるように古き社である。また弘安11(1288)年2月の文書には「土佐国吾橋山長徳寺若王子古奉祀熊野山十二所権現当山之地主等為氏伽藍経数百歳星霜之処也(以下略)」と、ある。熊野十二所権現を勧請したものだろう。平安末期、この地は熊野社領の荘園・吾橋(あがはし)荘が設置されており、熊野十二社権現が勧請されることは至極自然なことであろうかと思える。
「土佐州郡志」に「帰全山、或は之を別宮山と謂う 旧(もと)十二所権現社有り今は無し」と記し、当社が古代から中世にかけて、??野川対岸の帰全山に鎮座して居たが、戦国乱世の永禄年中、本山氏と長宗我部氏との合戦で兵火に罹災し、帰全山から永田村今宮に移り、慶長15(1610)年5月に再建され、寛永15(1638)年12月、領主野中兼山公のとき、現在地に遷った。
明治元(1868)年、十二所大権現を十二所神社と改称。
十二所権現
熊野の神々のことを熊野権現(くまのごんげん)と称する。熊野三山(本宮・新宮・那智)のそれぞれの主祭神をまとめて呼ぶ場合は熊野三所権現といい、熊野三所権現と熊野三山に祀られる他の神々(五所王子・四所明神)を合わせて熊野十二所権現と称する。
領主野中兼山
領主野中兼山?本山は野中兼山の領地であった。江戸時代初期の土佐藩家老。藩政改革を実践し、港湾修築、河川の利水・治水事業による新田開発など功績を上げるも、その過酷とも言われる施策により政敵との対立を深め、後年は罷免・失脚し失意の中虚しくなった。 残された家族への処遇も過酷であり、男系が絶えるまで幽閉生活が40年以上続いたという。この間の事は『婉という女;大原富枝』に詳しい。婉は兼山の娘。4歳で幽閉され、以降40年間外部との接触を禁じられ、43歳で幽閉を解かれた。

過日遍路歩きの途次、折に触れた兼山の事績に出合った。津呂の港の改修工事新川川・唐戸の切通し物部川流域の治水・利水事業春野の治水・利水事業などが記憶に残る。

「本山城跡周辺史跡めぐり」案内
十二社神社を離れ本山の藩主宿泊所であった土居屋敷跡、別名本山御殿に向かって南へと向かう。途中西進する水路と分かれ坂道を下りると四つ辻があり、そこに」本山城跡周辺史跡めぐり」案内があった。
実のところ、この案内を見るまで本山町のことは何も知らず、何故にこの山間の町が古代官道の駅・吾椅(あがはし)として開けたのだろう、などと思っていたのだが、本山城跡や十二所神社、土居屋敷や上の坊といった史跡案内をみて古代より近世に至るまで要衝の地として開けていたことがわかり、この町が古代官道の駅と比定されたことも少しリアリティをもって感じることができた。
上井と下井
土佐北街道沿いの下井
十二社神社前を流れる下井
それはともあれ、案内で最もフックがかかったのはそこに描かれたふたつの水路。上井(ゆわゆ)の道、下井(したゆ)の道と記され、野中兼山が作った水路沿いの道、とある。しかも土佐北街道に沿った水路は下井の流れであった。 「疏水萌え」としては見逃してはならじと、知らず歩いた疏水へと引き返すことに。
坂を上り返し十二社神社鳥居まで引き返し、道の山側を流れる下井を少し戻る。水路は途中土佐北街道から上側に逸れ先に続く。また、十二社神社傍の下井から少し山を上ると上井の流れが東西に走る。時間があれば上井も下井もどこからどこまでとカバーしたいのだが、残念ながら本日はその時間がない。心残りではあるが元に戻る。

上井
上井から見た本山の町
途中地元の方にお聞きすると、上井は樫ノ川の??延、下井は同じく樫ノ川の高角に取水堰(頭主工)があり、本山の天神前へと進むとのこと。あれこれチェックするが、まったく記事がヒットしない。流路がわからない。樫ノ川に架かる大吉橋の上流と下流に取水堰らしき(思い込みだろうが)記号が見えるが、標高の関係でうまく流路が繋がらない。これはもう、機会をみて再訪すべしと今回はここで思考停止としておく。ともあれ、兼山の領地にも疏水があったことがわかっただけでよしとしておく。

土居屋敷跡
上井、下井の疏水から「本山城跡周辺史跡めぐり」案内の立つところまで戻る。案内図の地図に従い土井屋敷跡に成り行きで向かう。ほどなく土居屋敷跡。現在は公園となっていた。
案内には、「史跡 土居屋敷跡 Remains of the Doi Residence 土居屋敷跡は戦国時代に本山地方を本貫とした本山氏の土居(館)であった。近世初頭には本山に封ぜられた山内刑部・但馬父子、続いて野中玄番・兼山父子の4代にわたる屋敷となった。兼山時代の土居は上段・中段・下段からなり、入り口下段に文武館、中段に長屋門の諸建物があり、上段に本宅があった。(皆山集)
兼山失脚後は藩士の在番が置かれ、享保3(1718)以降は本山倉番、土居門番が配置された。 参勤交代に土佐街道(北街道)が用いられるようになると参勤交代時の藩主の宿泊所にあてられ、以後「本山御殿」と称されるようになる。この土居屋敷を中心に周辺に「土居下町」と呼ばれる小規模な町場が形成されていた。明治になって建物は取り壊され、跡地は桜の公園として整備されている。(史跡) 本山町教育委員会」とあった。
少し昔の「本山土居跡」案内
Google Street Viewで土井館跡を見ていると、現在の案内ではない古い案内が立っていた。説明が少し詳しいので掲載しておく:
「本山土居跡土地の豪族本山氏の土居の一つで 天正十七年(1586)長宗我部検地当時は本山采女が住んでいた。山内一豊の土佐入国後 慶長六年(1601)山内刑部 (永原一照)が本山千 三百石を与えられてここに住んだが、その子但馬は私曲の罪によって元和六年(1620)知行を没収されて 佐川の深尾家に預けられたためそれ以来本山土居はしばらく領主不在となった。
寛永七年(1630)野中直継が本山土居を預けられて千石を加増せられ養嗣子兼山も当然これを受けついだ。 兼山は藩主忠義の厚い信頼をえて藩奉行職として敏腕を発揮したが本山領主としても吉野川の支流の樫ノ川や本能津川に下津野堰、トドノ堰、ノボリ立堰、カタシ山堰 井口堰を設けて用水をひいて多くの新田を開発し、その余沢を現在にまで及ぼしている。又寛永二十年(1643)に発せられた「本山掟」は兼山と領民をつなく歴史的文書といえよう。
寛文三年(1663)兼山失脚後本山土居は山内下総に次いで孕石頼母らによって管理されたが明治になってすべての建物が取りこわされ、今はその石垣にわずかに面影をしのぶばかりである」。
下津野堰は樫ノ川にあったようだが、その他は不詳。
本山掟
兼山は、本山掟とか、国中掟、広瀬浦掟などを作って、農政を行っている。本山掟(643 )の内容は;
〇お上や法律にそむかないこと。
〇荒地が少しでも残らないように開き、田地にせよ。精を出して開けば開 けばほうびをあたえる。3年・5年・7年の間は年貢を取らない。
○年貢は全部11月までにおさめよ。畑作の年貢分は6月までに全部おさめよ。
○作った米の3分の1は百姓のとり分であるが、秋冬はぞうすいを食べよ。春までたくわえずに、めしや酒にして食べてしまったものは死刑にする。
庄屋はよく調べて、そむいているものがないようにせよ。かくしておいてあとでわかったら、庄屋もともに処分する。
○酒を買って飲んだり、朝ねをしてはならない。そむく者があれば銀三匁(およそ6000円)の罰金をとる。赤面三匁〉赤面三匁、生酔い五匁、千鳥足十匁。
○家や着物がそまつなことはかまわない。法で定めているより良くすることは許さない。 このおきてにそむく者があれば、本人はもちろん庄屋も罰する」といったもの。

厳しい施策をとったと言われるが、実際にこんな掟を見ると農民の怨嗟を買ったということも頷ける。
土居
土佐では城館のことを「土居」と称していた。幕府の一国一城制により支城は破却されるが支城のあったところは要衝の地。山内氏も土佐入国に際し、佐川、窪川、本山、宿毛、中村、安芸といった要衝の地に土佐入国以前の掛川以来の重臣を配し、破却された城近くに館を構え領国経営にあたった。これが土居制度であり、本山土居、安芸土居などと称された。
参勤交代の人数
ところで20万2600石余りとされる土佐藩の参勤交代の人数はどのくらいだったのだろう。「二文研叢書;ヴァポリス コンスタンチン」には。「初期の記録によると、正保2年(1645)には、1,477人であつたが、次第に増加して、元禄一10年(1,697)には、2,813人に上った。(中略)享保元年の改革(私注;将軍吉宗による幕政改革:1716)で一 時急に528人までに減って、享保三3年(1,718)に部分的に取り戻し1,799人に上った。それ以後、数字は見たらないので、よくわからない。それにしても、天明頃(1781-1789)には土佐藩の大名行列の評判はまだ高いように思われる。天明の革命に参加した役人によると、「 所々にて評す、今に西国四国諸侯の御人数土州ほど大勢なるはなし」とのことだ」とある。
なお、上述供揃えの人数に占める士分の数は正保2 年(1645)の、1,477人中、198名。行列に占める割合は13.4%,全士分1,695人に占める割合は11.7%となっている。記録に残るその他のケースをみうと、行列に占める割合は4.6%から13.4%,全士分に占める割合は4.5%から11.7%となっていた。
それにしても供揃えの数が多い。参勤交代は常在戦場を表すため、旅装というより軍装であり、享保6年(1721年)、幕府は参勤時の従者の数を定めた。その『御触書寛保集成』に拠れば、1万石の大名は騎馬侍3~4騎、足軽20人、人足30人。10万石の大名は騎馬侍が10騎、足軽80人、人足140~150人、合計で240人。20万石以上で、騎馬侍15-20、足軽120-130、人足250-300と定められている。
これからすれば20万2600石の土佐藩は500名ほどとなる。が、実際はその4倍もの人が動いているときもある。この数には先遣隊も含めたものであり、実際の参勤交代時に動く人数はずっとすくなかったともいうが、それにしても多い。
あれこれチェックすると、参院交代に際しては幕府の定めた数は守られなかった、という。その因は、大名が己が格を世間にアピールするため、とのこと。
これでは世に喧伝される参勤交代は各藩の経済力を削ぐための施策という話と辻褄が合わない。 新田開発に努め幕末の頃は20万2600石余りという本石高と同等の新田収穫があり、実勢石高は49万40007石余に達していた豊かな藩となっていた土佐藩ゆえの「西国四国諸侯の御人数土州ほど大勢なるはなし」ということだろうか。よくわからない。

上の坊
西進する下井
「本山城跡周辺史跡めぐり」案内にあった上の坊は土居館跡からそれほど離れていない。案内に兼山が山崎闇斎を招いて土佐南学を講究したとあった。ちょっと立ち寄る。

土居館跡前の道を西進。下井の流れを跨ぎ少し山に入ると小さな祠があり、その脇に「上の坊」の案内があり、「史跡 上の坊 本山南学寮跡 野中兼山が儒学者山崎闇斎を招いてこの場所にあった古寺で土佐南学を講究したといわれる。兼山は禅学より儒学に転向し、勉学に励み南学(海南朱子学)といわれるまでにその学問を発展させた」とあった。
南学
土佐を歩いていると、、雪蹊寺の案内にもあったように時に「南学」という朱子学派が顔を出す。歩き遍路で三十三番札所を打ったとき、そこには「江戸時代初期には「南学発祥の道場」といわれ天室僧正が朱子学南学派の祖として活躍、野中兼山などの儒学者を生み出した」との案内もあった。コトバンクによれば「天文 17 (1548) 年南村梅軒により南海の地土佐に興った朱子学派。海南学派ともいう。京学,東学に対する称。四書を重んじ,道学者的態度を固持するとともに実践躬行を尊び,実際政治に参与した。
梅軒のあと,吸江庵の忍性,宗安寺の如淵,雪蹊寺の天室らを経て,谷時中にいたって仏教から完全に独立し,基礎を固めた。その門人に野中兼山,小倉三省,山崎闇斎が出た。のち三省の門下から,谷一斎,長沢潜軒,大高坂芝山らが出,また闇斎の門弟,谷秦山が帰国して,南学を振興した。
人間系譜は以上のようにたどれるものの,三省が世を去り,兼山が失脚して藩府より南学派は弾圧を受けて両人の門人や闇斎も土佐を去り,土佐における南学派は一時中絶した。秦山が復興した教学は三省,兼山までの本来の南学と質を異にし,京,江戸の学風の移入とみることができる。もっとも秦山は大義名分論に立つ尊王思想を説き,幕末勤王運動に影響を与えたが,こうした政治と結びついた強い実践性の点では,広い意味での南学は一貫している」とあった。
山崎闇斎
江戸時代前期の儒学者・神道家・思想家。朱子学者としては南学派に属する。闇斎によって論じられた朱子学を「崎門学」または「闇斎学」という。君臣の厳格な上下関係を説き、大義名分を重視した。
闇斎は朱子学だけでなく神道についても論じた。吉川惟足の吉川神道を発展させて神道と儒教を合わせた「垂加神道」を創始し、そこでも君臣関係を重視した。垂加神道は、神を信仰し、天皇を崇拝するというもの。天照大御神に対する信仰を大御神の子孫である天皇が統治する道を神道であると定義づけ、天皇への信仰、神儒の合一を主張し、尊王思想の高揚をもたらした 以上のような闇斎の思想は、水戸学・国学などとともに、幕末の尊王攘夷思想(特に尊王思想)に大きな影響を与えた。

山内刑部夫妻の墓所
上の坊から山道を少し上ったところに山内刑部墓所があるとのこと。土居屋敷の案内にもあった山内氏が土佐藩に入国後、本山に封ぜらえた山内家家老。ここにもちょっと立ち寄り。案内には「山内家の家老であった。山内一豊の土佐入国に際して、その軍功から本山千三百石知行本山城に配され、本山土居初代藩主として慶長6年(1601)に本山に入っている。
慶長8年の瀧山一揆の鎮定に努め、元和元年(1615)の大阪の役には高知城の城代を務めた。元和6年、63歳で病没」とあった。
瀧山一揆
土佐に入国した山内家に対し、改易された長曾我部氏の遺臣、下級武士である郷士に扇動されて起きた百姓一揆。年貢の納入を拒み北山の瀧山に籠り抵抗するも鎮圧される。首謀者は断罪とするも百姓らの罪を不問に伏す。但し、一領具足とも言われ、長曽我部氏の兵農未分離の農兵隊でもあった百姓より武器を召し上げるのが条件でもあった。
この一揆は山内家に対する長曽我部遺臣の最後の抵抗とも言われ、この事件以降、長曽我部氏の影響下にあった一領具足衆は弱体化することになる。
本山町の吉野川対岸の山中に北山の地名がある。瀧山はその辺りなのだろう。
本山城跡
時間がなく上ったわけではないのだが、案内にあった本山城跡をメモしておく;
「本山の東西にそびえる田井山北東尾根の先端部にある。戦国時代以降、本山郷を中心に勢力を伸ばした本山氏の居城跡。本山氏は弘治2年(1556)の長曽我部国親との泰泉寺攻撃に始まる攻防で高知平野の支城潮江城、長浜城、朝倉城を失い本山に退いた後、本山での戦いに敗れ親茂の時、長曽我部氏の軍門に下った。土佐における戦国群雄中の城であった本山氏の居城は今もその遺構を留め、堀切や詰めの段、二の段、三の段、郭などの遺構が残っている」と。

本山氏は長岡郡本山を拠点に勢力を伸ばし、土佐郡の山地を越えて南下し「東は一宮を堺、西は二(仁)淀川、南は浦戸を限り二郡の主也。朝倉の城を居城に持つ」と『元親記』に記されるまでになり、吾川郡や高岡郡までも進出することになる。
朝倉城を中心に土佐の中原に覇を唱え、東の長曾我部氏、西の一条氏と対峙するも、永禄5年(1562)その存亡をかけた朝倉城の合戦で長曽我部氏に敗れ本山に退却した。
案内には本山の戦いに敗れとしているが、本山では利あらずと瓜生野谷口の要害の地まで退き4年間の抵抗の末、長曽我部の軍門に下ったとのことである。

本山の町を離れ国道439号に乗る
「本山城跡周辺史跡めぐり」案内のところに戻る。地図には、そこから国道439号を繋ぐ道筋に「土佐北街道」と記される。
土佐北街道を東進し国道439号に合流。国道北に蛇行する吉野川が流れる。南に突き出しU字に吉野川の流れをなす丘陵は兼山ゆかりの帰全山と称する。
帰全部山・秋田夫人の墓
帰全山は現在公園となっており、兼山廟、また兼山の母である秋田夫人の墓がある。兼山廟は兼山の徳を偲び嶺北地方の町村長が中心となり呼びかけ、昭和27年に竣工したもの。それほど古いものではない。
廟の右奥に兼山の母である萬、姓より秋田夫人と称される墓がある。慶安4年(1651)4月4日、66歳でこの世を去った母のため儒学の礼に従って直方体のひつぎに母の遺体を葬り土葬した。それまで火葬の風習があった土佐において、それは特異なことでもあった。

墓穴は、千人ともいわれる人々によって掘られ、穴の壁も石で築かれた立派なもの。台上にある石碑は、高さ六尺五寸(約一・八メートル)、幅二尺五寸(約七五センチメートル)、厚さ一尺(三〇センチメートル)で、柵を巡らせ屋根が造られている。兼山は、高知から本山まで、約七里(約二七・五キロメートル)の山道を母のひつぎとともに歩き、帰全山に葬った後は、三年間の喪に服した、とのことである。これは、兼山の母親に対する孝心(こうしん)を精いっぱい表現したものと言われる。「孝心(こうしん)を精いっぱい表現した」との意味合いは、友人の山崎闇斎が墓所を中国の古典「 父母全生之、子全而帰之、可言孝矢」より引用し「帰全山」と名付けた如く、「父母の五体を完全なまま大地に帰すのが子の第一の孝行である」とすれば、火葬ではなく土葬にしたことをもって精いっぱいの孝心であり、帰全>全部を(大地に)」帰すということではと妄想する。
ただ、礼を尽くして盛大に営まれた母の葬儀は、幕府への謀反の嫌疑をかけられることになる。 上述大原富江の『婉という女』には、「それは父上が無上に敬愛した母万女の死に遭って、純粋な儒葬を営んだことで、吉利支丹と謀叛の疑惑を受けたときである。
問題の墓地は父上の采邑本山に、二ヵ月の日数と千人の夫役を使って、雁山と呼ばれるやさしい丘陵の美しい雑木林の静寂の中に完成した。十数里の山路を、父上は粗衣、裸足で棺側に従った。すべては晋の文公の家例にならい、荘厳純粋な儒葬であった。殆ど恋しあうほど慕いあった母のためにならば、父上は許されるなら帝王の墓にも劣らぬものを、構築したかったにちがいない。自分の憧れる美の最高のもののなかに母を眠らせたいと思ったにちがいない。
規模構築の壮大さと、儀式の儒礼による珍奇さとで、この葬儀は天下の評判になった。それはやがて「野中大夫、吉利支丹に帰依し、采邑本山に築城し、謀叛の気配がある」という流言になって江戸表まで聞えていった。
幕府の不審の詮議を受けて、参観中の藩公は愕然とし、国許の父上に出仕を命ずる急使が立てられた。 |十余年前、島原の吉利支丹一揆があって以来、吉利支丹は厳禁され、隠れ吉利支丹はいまも執拗に捜索されている。発見されれば打首、磔 は免れない。吉利支丹の流説はいつの場合も不吉な運命の予告に似ていた。破滅を導く白い箭(や)であった。
父上は、喪服のまま夜を日についで江戸に到き、儒葬の形式と精神とを説明、流説の反駁に努めた。幕府では、お抱えの儒者、林羅山に命じて、父上の弁明の真偽を吟味させた。羅山は、「土佐国老の母の葬儀は、儒葬礼の正道に従ったものと考えます。邪宗門の習俗とは異にいたします」と言上した。
こうして父上は嫌疑を晴らすことができ、将軍にも謁を賜り帰国した」とある。
が、続けて
「無事―果して無事だったのであろうか」とあり、長兄はわずか3歳で「人質」として江戸に止まることになったとし、
更に続けて「この年慶安四年四月は、三代将軍薨去、四代家綱公の立たれた八月前後から、何とはなしに人心に不安動揺の兆しがあって、七月、由井正雪、丸橋忠弥など浪人の謀叛の発覚があり、父上の事件はその直後であった。そして父上は不幸にもすでに経世家として高名になっていたのであった。
「土佐二十四万石は実収三十余万石」といわれ、それが父上の器量が招いたものであると噂され、しかも国老の地位にある父上が、仮にも「吉利支丹」「謀叛」などいまわしい言葉によって将軍家の心象に照らしだされたということは、不吉なことであった。
かねて父上が堺その他から刀鍛冶、鞘師、飛道具など技術に優れたものを破格に抜擢したこと、土佐の治安にいつも支障となっていた、困窮して自棄的になっている一領具足(長宗我部の遺臣である浪人たち)一万人を郷士にとりたてて、世上の不安を除いた「郷士制度」をも、父上を快からず思う者どもには、いざの場合に意のままに動かすことのできる「野中の手勢」と噂されていること、なども将軍家は知っていた。これらはすべて藩松山の松平勝山公から将軍家に注進されたという」と書かれる。
事件後も兼山はその功により得意の絶頂期ではあったが、婉のつぶやいた「果たして無事だったのだろうか」との不安は現実のものとなるのは、歴史の知るところである。
嶺北
高知県長岡郡大豊町、長岡郡本山町、土佐郡土佐町、土佐郡大川村の4町村を言う。四国中央部の吉野川源流地域にあり、高知平野から望むと分水嶺の北に位置し、四国の水瓶「さめうらダム」がある。地域の北側には四国山地の峰々が連なり、吉野川の流れが北東に渓谷をなし徳島県側に開いているのみで、周囲を山々に囲まれた特異な地形となっている(れいほくNPOWeb siteより)。
地域面積は965平方キロメートルと高知県の13.6%を占め、標高は200mから1800mの山岳地形です。土地利用状況は地域の89.6%を森林が占め、農用地面積は1.4%、宅地面積は0.4%と、典型的な山村地域となっています

下津野
樫ノ川を渡り国道を東進すると下津野で北に突き出た丘陵に遮られ吉野川は大きくU字を描いて流れる。参勤交代はこの下津野で吉野川を対岸の渡津に渡ったとの説もある。『土佐の道』には、参勤交代の吉野川渡河地点はもう少し下流、東本山大橋の少し下流、上関で渡河下と記される。今回は『土佐の道』の記述に従い進むことにする。
吉野川と早明浦ダム
地図をみていると、本山の直ぐ上流に早明浦ダムがあった。四国の水瓶とも称されるダムである。思いがけないところで早明浦ダムと出合った。
いつだったか銅山川疏水を歩いたとき、吉野川水系銅山川の水を求める愛媛とそれを拒む徳島との「水争い」の歴史をメモしたことを思い出した。その長年の「水争い」を落ち着かせたのが早明浦ダムであり、吉野川総合開発である。
その経緯を再掲する;
〇吉野川水系の水を巡る「水争い」の歴史
吉野川は四国山地西部の石鎚山系にある瓶ヶ森(標高1896m)にその源を発し、御荷鉾(みかぶ)構造線の「溝」に沿って東流し、高知県長岡郡大豊町でその流路を北に向ける。そこから四国山地の「溝」を北流し、三好市山城町で吉野川水系銅山川を合わせ、昔の三好郡池田町、現在の三好市池田町に至り、その地で再び流路を東に向け、中央地溝帯に沿って徳島市に向かって東流し紀伊水道に注ぐ。本州の坂東太郎(利根川)、九州の筑紫次郎(筑後川)と並び称され、四国三郎とも呼ばれる幹線流路194キロにも及ぶ堂々たる大河である。
吉野川は長い。水源地は高知の山の中。この地の雨量は際立って多く、下流の徳島平野を突然襲い洪水被害をもたらす。徳島の人々はこういった大水のこととを「土佐水」とか「阿呆水」と呼んだとのこと。吉野川の洪水によって被害を蒙るのは徳島県だけである。
また、その吉野川水系の特徴として季節によって流量の変化が激しく、徳島県は安定した水の供給を確保することが困難であった。吉野川の最大洪水流量は24,000m3/秒と日本一である。しかし、これは台風の時期に集中しており、渇水時の最低流量は、わずか20m3/秒以下に過ぎない。あまりにも季節による流量の差が激しく、為に徳島は、洪水の国の水不足とも形容された。
さらにその上、徳島県の吉野川流域の地形は河岸段丘が発達し、特に吉野川北岸一帯は川床が低く、吉野川の水を容易に利用することはできず、「月夜にひばりが火傷する」といった状態であった、とか。
つまるところ、吉野川によって被害を受けるのは徳島県だけ、しかもその水量確保も安定していない。その水系からの分水は他県にはメリットだけであるが、徳島県にとってのメリットはなにもない、ということであろう。銅山川分水をめぐる愛媛と徳島の協議が難航した要因はここにある(「藍より青く吉野川」を参考にさせてもらいました)。

以上銅山川からの分水事業の歴史を見るに、基本は分水を求める愛媛県と、それを是としない徳島県の鬩ぎあいの歴史でもある。「分水問題とは分水嶺の遥か彼方に水を持って行こうとするものである。分水は愛媛の農民を助けることかもしれないが、分水のせいで徳島の農民が水不足にあえぐことは認められない。また、愛媛側が水を違法に得ようとした場合、下流の徳島側は絶対的に不利である。一度吉野川を離れた水は二度と戻らない」。これは銅山川分水に反対する徳島県議の発言であるが(『銅山川疏水史;合田正良』)、この基本にあるのは銅山川も含めた吉野川水系全体の分水事業が徳島県に与えるその影響と、その他の愛媛・香川・徳島に与える影響が全く異なることにある。
早明浦ダムおよび吉野川総合開発計画
この各県の利害を調整し計画されたのが吉野川総合開発計画。端的に言えば、吉野川源流に近い高知の山中に早明浦ダムなどの巨大なダムをつくり、洪水調整、発電、そして香川、愛媛、高知への分水を図るもの。高知分水は早明浦ダム上流の吉野川水系瀬戸川、および地蔵寺川支線平石川の流水を鏡川に導水し都市用水や発電に利用。愛媛には吉野川水系の銅山川の柳瀬ダムの建設に引き続き新宮ダム、更には冨郷ダムを建設し法皇山脈を穿ち、四国中央市に水を通し用水・発電に利用している。
そして、池田町には池田ダムをつくり、早明浦ダムと相まって水量の安定供給を図り、香川にはこのダムから阿讃山脈を8キロに渡って隧道を穿ち、香川県の財田に通し、そこから讃岐平野に分水。徳島へは池田ダムから吉野川北岸用水が引かれ、標高が高く吉野川の水が利用できず、「月夜にひばりが火傷する」などと自嘲的に語られた吉野川北岸の扇状地に水を注いでいる。(「藍より青く吉野川」)。

上関の渡し
上関に向け木能津と国道439号を東進する。東本山大橋を越え、その下流辺りに上関の渡しがあったというので、なにか痕跡でもないかと吉野川右岸を助藤手前、如何にも渡河点らしきところまで進むが特段のものはなし。見渡地蔵も立っていた、とのことだが、「過去形」であり現在はないのだろう。
東本山大橋まで戻り、橋を渡り吉野川左岸に移る。橋の北詰めに仁井田神社。土佐北街道はここから立川川との合流点まではおおむね県道262号を進むことになるが、橋を渡るとほどなく右に逸れる道があり吉野川へと接近する。何気に右に逸れ旧道をを進むと、道の右手に「上関の渡し」の案内があった。大河である吉野川は飛び石ではなく、舟で渡ったようである。
木能津
「土佐地名往来」には、「木能津 筏の組み立て地に由来(坂本正夫)。「木の津 (港)」。木材水運の拠点」とある
助藤
「介当」「介藤」「助任」などとも書いた。戦国時 代、阿波国助任村から来た開拓者の集落。「菅の 峠」説も、と「土佐地名往来」にある。

本村の旧山下家薬医門
県道に戻り行川を渡る。この行川(なめかわ)の谷筋にも兼山の井筋が残る。上関、下関の辺りと言う。林業盛んな頃の森林鉄道跡に岸壁を穿った隧道も残るとのこと。本山の上井、下井再訪の折、この行川筋も歩いてみたいものである。
それはともあれ、行川を越えると右手に立派な灯明台。その先、道の左手に「旧山下家薬医門」の案内。坂を少し上ると薬医門。2本の本柱の背後だけに控え柱を立て、切妻屋根をかけた門であり、社寺だけでなく城郭や邸宅など門の形式としてよくみるもの。薬医の由来は門扉の隣に出入りが簡単な戸を設け患者の出入りを楽にした故とも、敵の矢の攻撃を食い止める「矢食い」からとも所説ある。
この山下家は参勤交代の折の藩主の休憩所となっていた。薬医門と石垣が往昔の名残を留める。 吉野川対岸は田高須。「元鷹巣村とて大鷹の巣を構へりしより地名」と郷土史。「たかす」は川の蛇行地に土砂堆積の「高い砂州」と「土佐地名往来」にある。





奈路の切通し
山下家を離れると奈路。吉野川は南に突き出た丘陵に阻まれU字に大きく蛇行する。『土佐の道』には県道は大きく弧を描き進むが、土佐北街道は切通の道を抜けるとあるが、現在の県道は切通となって奈路の丘陵部を抜けていた。
少し進むと道の道手に「井内の渡し」の標識が立っていた。
対岸は山崎。「長岡郡介当名に山サキ。阿州山崎村から麻の種を移植栽培、集落も山崎。助藤も阿波の開拓者」と「土佐地名往来」は記す。
奈路
土佐を歩くと奈路(ナロ)に出合う。「四万十町地名辞典」には「山腹や山裾の緩傾斜地を表す地名地名を高知県ではナロ(奈路)という。奈路(なろ)の全国分布は高知県だけで、それも中西部に多い。ナロ地形にふさわしい地名がこの地「奈路」である 『愛媛の地名』の著者・堀内統義氏はナロ・ナル地名について「東北の平(たい)、九州の原(はる)、四国の平(なる)と同じ地名の群落。奈良も千葉県の習志野も、ナラス、ナラシの当字で、平らな原野を表現している。」と書かれている。 ちなみに「奈路」地名も愛媛県に越せば「成・平(なる)」が断然多くなり、四万十町内でも成川・鳴川がよく見られる。

葛原
割木、葛原と進む。『土佐の道』には葛原の名本である久保家で休憩したとある。名本(なもと)は土佐藩における民衆支配の職制のひとつのようだ。『日本大百科全書』には「民衆支配は町・郡(こおり)・浦の奉行がおり、その下で地域の行政事務を助けたのが庄屋(しょうや)である。高知城下には町会所が置かれ、総年寄、庄屋、年寄、総組頭などの町役人が町政をつかさどったが、豪商が総年寄となって庄屋以下を統率した。
郡奉行は村役人を監督したが、村には庄屋・老(としより)(年寄)・組頭が置かれた。山間部の小村には名本(なもと)・老・組頭がおり、小村をあわせたものを郷といい、郷には大庄屋(おおじょうや)・総老・総組頭が置かれた。国境には道番所(関所)が設置され、大庄屋が番頭(ばんがしら)を、名本が番人を兼ねることが多く、国境を警備し、商品の移出には口銀(くちぎん)を取り立てた。農民の年貢米は村方役所に置かれた納所(なっしょ)に集められた」とあった。

立川川の渡し
県道を進み川口大橋の木田詰めを過ぎると「川口の送り番所」があったと言う。更に東進すると新川口橋。この橋の下流に立川川の渡しがあったとのこと。橋の少し下流、道の川側に常夜灯があり、そこから下に行けそうにも思える。当日は先を急ぐあまり素通りしたのだが、今となってちょっと残念。
新川口橋の直ぐ下流にかかる古い橋を渡り立川川左岸に渡る。『土佐の道』には「川口」には長瀬酒屋があり藩主の昼食場となっていたため「川口御殿」と称されたとある。
川口の送り番所、立川川の渡し、川口御殿も特段の案内もなく、どこにあったのか不明であろう。
 
柳瀬へ
柳瀬集落の橋は崩壊
一の瀬集落の金五郎橋を渡り立川川右岸へ
参勤交代の一行はここから立川川左岸を柳瀬まで進み、そこからは先回歩いた立川川右岸の山道を立川番書院へと進むことになる。
但し現在は柳瀬の土佐北街道に入る橋が落ちており、ひとつ手前の集落に架かる金五郎橋を渡り立川川右岸に入るしかない。また、その立川川右岸の土佐北街道は千本しらや橋手前の斜面が大規模崩壊しており、通行禁止となっている(2021年1月現在)。
大規模崩壊地は崩壊斜面ごとずり落ちた幾多の杉の大木が行く手を阻むが、20分ほど倒木を潜りまた乗り越えるつもりで崩壊斜面をトラバースするれば通れないことはない(関係者の方、ごめんなさい)。

これで土佐北街道散歩も残すところ、法皇山脈を越えた四国中央市の川之江までの里道、高知城下から権若峠までの道を残すのみとなった。次回はさてどちらを歩こうか。
何時だったか、銅山川疏水の資料がないものかと訪ねた四国中央市の市役所にあった「龍馬も歩いた土佐街道」のパンフレットにあった「土佐街道」という文字に惹かれ、四国中央市の市街と新宮を隔てる法皇山脈・横峰越えを辿った。
そのときはそれで終わりと思っていたのだが、メモをする段階で土佐藩主の参勤交代の道である土佐北街道は、高知の城下を発し四国中央市の川之江で瀬戸の海に船出する街道の途次、笹ヶ峰越え、国見峠越え()、権若峠越えといった「峠越え」で道を辿ったことを知った。「峠越え」フリークには惹かれる文字である。
法皇山脈・横峰越えをきっかけに土佐北街道の「峠越え」にフックがかかり、笹ヶ峰を越え、国見峠を越え、権若峠と途次ある峠を歩き終えた。笹ヶ峰も国見峠も結構険しい道ではあったが、最も苦労したのが権若峠。一見すると最も簡単そうなルートと思えたのだが倒木、ブッシュの難路・険路。一度目は途中撤退し、二度目に逆からのアプローチで何とかリベンジを果した。 で、少し時間は空いてしまったが、ついでのことでもあるので、高知城下から川之江まで、既に辿った峠と峠の間の道を繋いでみようと思った。
さてどこから。あれこれルートをチェックすると国見峠を越え笹ヶ峰越えにと進む立川川の谷筋、右岸の山腹を進み旧立川(たじかわ)番所書院までのルートが目に入った。高知の城下から權若峠まで、国見越えから柳瀬まで、また法皇山脈を抜け金田から川之江までの里道よりなんとなく面白そう。とりあえずこの谷筋をさっさと歩き終え、次いで里道歩きで土佐北街道を繋ごうと、立川川谷筋に沿った山道歩きに出かけた。
峠と峠の間の谷筋の山道。どうということはないだろうとお気楽に出かけたのだが、これが結構大変。スタート地点の立川川に架かる橋が数年前の大雨で崩落という状況からはじまり、道筋もあまり人も歩いていないのか踏み込まれた跡が見つからず山中を右往左往。結局第一回は日没時間切れで途中撤退とし、千本集落の立川川支流に下り浅瀬を渡り成川集落から県道5号を車デポ地まで戻った。
痛めた膝の養生に1週間ほど間隔をあけリベンジに。計画は権若峠と同様「逆」から攻め、道迷い地点を繋ぐことにした。スタート地点は「千本しらや橋」。土佐北街道でよく聞く橋名である。比定された場所から迷い道箇所まで繋ごうとの想いである。
さて踏み込まれた道あれかし、と願いながら歩き始めると突然前面の斜面が地滑りで大規模に抉られている。これが案内にあった「崩落」箇所だろう。出だしから強烈なパンチに見舞われたが、抉られ倒れた杉の大木を乗り越えたり潜ったりしながら崩落部を東側の枝尾根に這い上がる。
枝尾根に乗ると左下に林道が見える。国土地理院に破線で描かれたルートである。尾根筋から林道に下り少し先に進むがなんとなく落ち着かない。で、途中から斜面を?mほど這い上がると踏み込まれた道があった。崩落斜面をクリアした尾根筋から続いているようだ。この道を先に進み、先回道が消えた箇所までつなぐことができた。
メモでは便宜上、道が消えた箇所からピストンで戻った千本しらや橋までをメモする。時刻もピストンでの戻り所要時刻を参考に、1回目の時刻に続けて記すことにする。

ピストン復路は往路でほぼルートをカバーしているため特段の苦労もなく、といっても大崩落斜面部のトラバースは結構大変ではあったが、ともあれ千本しらや橋に戻り大休止。そこから立川までは特段の道迷いもなく順調に進み、立川(たじかわ)から県道5号を車デポ地の千本しらや橋傍に戻り散歩を終えた。
実際は2回かかった柳瀬から立川までの散歩ではあるが、メモでは一気通貫、「迷い道くねくね」のない散歩の記録として記すことにする。



本日のルート;
柳瀬から千本しらや橋
柳瀬の土佐北街道入口>落橋>一の瀬集落・金五郎橋>柳瀬集落・落橋西詰に>木橋を渡る>「参勤交代道」標識>「北山越え」標識>高知自動車道下り線高架を潜る>高知自動車道上り線高架を潜る>木橋を渡る>虎ロープ>展望所>開けた場所に建屋>建屋の先を右に折れる>木橋を渡ると「北山越え」の標識>沢を2箇所渡る>虎ロープ>「北山越え」標識>「参勤交代道」標識>「北山越え」標識>道が消える>沢に倒木>沢で道が消える>前面が開ける>枝尾根に>林道に合流>大崩落斜面東端部に>大崩落部西端部に>千本しらや橋>「土佐北街道・北山越え」標識
千本しらや橋から旧立川番所書院 へ
杏谷橋>「北山越え」標識>「北山越え」標識>分岐点先に「北山越え」標識>分岐点先に「北山越え」標識>土砂崩れ防止工事箇所>土径に入ると「北山越え」標識>「土佐街道」標識>高知自動車道保線路(?)>荒れた沢>茶畑>立川川に架かる橋を渡る>旧立川番所書院>荷宿跡

柳瀬から千本しらや橋



柳瀬の土佐北街道入口;午前10時2分
家を出発し松山自動車道、高知自動車道を乗り継ぎ大豊ICで下車。吉野川水系立川川に沿って走る県道5号を北に戻り、県道筋より立川川を渡り土佐北街道に入る橋があると言う柳瀬集落のスタート地点に到着。
文字も消えた古い木製の街道案内標識のすぐ北に「土佐北街道」は左の案内がある。が、その下には「参勤交代道は災害による落橋、崩落等があり現在通行できません 立川番所保存会」とある。 さてどうしたものか。とりあえずどの程度の状況なのか行けるところまで進み、危険であれば引き返そうと県道から左に折れ立川川に集落の坂道を下る。

川まで下ると橋がない。落橋ってここ。出だしから躓いた。浅瀬を探し渡河しようか、などと橋傍に佇んでいると集落の方が「橋は数年前の大雨で落ちた。少し南に戻り一の瀬の金五郎橋を渡れば対岸に道があり、崩落橋の近く迄進める」と。
国見峠より一の瀬までの土佐北街道
国見峠を下りた土佐北街道は県道267号筋、??延に出る。そこから樫ノ川の左岸に渡り本山に。そこで宿泊した後、吉野川に沿って国道439号を東進。現在の本山東大橋で左岸に渡り県道262号を川口まで進み、立川川左岸に移り柳瀬へと北進する。

立川川右岸を柳瀬集落・落橋西詰に;午前10時33分
県道を南に一の瀬まで戻り、金五郎橋を渡り右岸細路を進む。道は簡易舗装されている。車一台ギリギリの幅であり、車の回転できる場所を探し乍ら進む。最初の沢を過ぎた先に少し広いスペースがあり車をデポ。そこから歩くことにする。

デポ地から先、簡易舗装が切れているところもあったが、概ね簡易舗装の道を進むと民家があり、そこから先は車は通ることができない。偶々ではあるがいい所にデポしたと思いながら民家前の細い道を進み柳瀬集落・落橋西詰に到着。
柳瀬集落に架かる橋が当面架け直す「積極的理由」も見つけられないので、今後このルートを歩く方は、一の瀬の金五郎橋から立川川右岸に入るしかないだろう。




木橋を渡る;午前10時41分
橋の西詰めより上る道の交差部に長年の風雨に晒されたためか、まったく文字の読めない案内板。先に進み右手に立川川を見遣り10分弱進むと小さな沢に木橋が架かる。



参勤交代道」標識;午前10時43分
木橋から数分歩くと「参勤交代道」の標識。左を指す。川筋から離れ山に入っていく。その先に石垣があり舗装道に出る。高知道の作業道だろうか。コンクリート擬木の手摺のついた石段を上る。


「北山越え」標識;午前10時48分
石段を上ると再び舗装道。作業道がカーブしてここに続いているようだ。そこに「北山越」の標識。標識に従い石段を上る。「北山越え」とは高知の城下より北に聳える四国山地を越える、といった意味のようである。






高知自動車道下り線高架を潜る;午前10時50分
石段を上ると直ぐ高知自動車道下り線を潜る。その先で擬木の手摺がある石段を上る。上り切るとよく踏み込まれた土径。前方に高知自動車道上り線の高架を見遣り先に進む。




高知自動車道上り線高架を潜る;午前10時55分
5分ほど歩き高知自動車道上り線を潜る。高架を潜った先は今までと一変。杉の木立に囲まれた山道に入る。






木橋を渡る;11時29分
高架を過ぎると土佐街道は左に折れて山に向かう。標識もなく、人も通らず道が踏まれてもおらず なんとも説明しようがないのだが、左に折れ先に進むと木橋があればそれがオンコースである。
注意点
さらっと道筋をメモしたが、当日は高架を潜りその先道筋らしきフラットな場所があったため直進した。が、その先で道が消える。踏み分け道を探して右往左往。川の岩壁に当たり岩場と川の間の崖を進む?。こんなところを参勤交代道が通るわけもないだろうと、山肌を這い上がり、道らしき箇所に復帰した。結局道に復帰まで20分ほどかかっただろうか。
念のために道に復帰した箇所から逆に直進した箇所まで戻ると、途中木橋があった。木橋を越えてその先も踏み込まれた道筋は残っていない。
高速の高架を越えると左の山側に入るとしか説明のしようがない。とりあえず「木橋」を見付けてください。

虎ロープ;午前11時36分
復帰した道を進む。急峻な崖の上を道は進む。高所恐怖症のわが身には結構辛い。途中危険箇所には虎ロープが張られていた。気持がずっと楽になる。




展望所;午前11時43分
虎ロープの先も、10分弱急峻な崖上の道を進むと尾根筋にあたり、そこに展望台があった。道迷いで山肌を上り下りしたため痛めている膝が結構キツイ。小休止。



開けた場所に建屋;午前11時51分
展望台から数分森の土径を進むと突然前方が開ける。藪が激しくはっきりとした道筋はないのだが、成り行きで進み道に出る。道は県道から続いているようだ。
道に出ると辺りは森の中に大きく開かれており、道の前方には石垣が組まれ、そこに建屋が見え里る。なにかの作業場のようにも思える。

建屋の先を右に折れる;午後12時5分
石垣のある敷地の中に入り建屋を越えた所で道を逸れて草の茂る広場を横切る。その先に見える木の橋が目印。
注意
石垣の中の敷地に入った道は山に向かって上ってゆく。右に折れる箇所には何も標識がないため、知らず先に進んでしまう畏れあり。実際私も道をしばらく上り、なんとなく「これは違うよな」と作業所辺りまで戻り、遠めに見える橋を見付けルートに入った次第。開けた場所に出てからオンコースの右折までに時間がかかっているのはそのためである。


木橋を渡ると「北山越え」の標識;午後12時7分
橋を渡ると「北山越え」の標識。杉林の中の道を進む。途中虎ロープが張られた箇所もあるが。道筋は何となく踏まれた感がありオンコースであることを感じる。



沢を2箇所渡る;午後12時40分:12時46分
標高400mから450mの間、国土地理院の地図に描かれた破線に沿って進む。しばらく進み西に台形型に切れ込んだ沢筋に入り、沢を2箇所渡る。




虎ロープ;午後12時50分
沢を越えるとちょっと厄介な箇所に。虎ロープが張られており慎重に岩場を上る。虎ロープが張られているということは道筋であるということ。標識はしばらく何も無いが、虎ロープがあるということはオンコースであろうと一安心。





「北山越え」標識;午後13時2分
虎ロープを過ぎると支尾根筋に。道は尾根筋と尾根を廻り込むものと二手に分かれる。標識は何もない。とりあえず尾根筋へと左折し少し上るが、なんとなくしっくりこない。で分岐点まで戻り、尾根筋を廻り込むと前方が草地となって少し開ける。

その地に下りると草地端に「北山越え」の標識。そこから再び山道に入る。









「参勤交代道」標識;午後13時6分
数分で「参勤交代道」の標識。オンコースを確認。










「北山越え」標識;午後13時9分
更に数分、今度は「北山越え」の標識。








道が消える;午後13時25分
踏み込まれた道をしばらく進むと杉林で道が消える。杉の枝葉が一面に落ち道筋が全くわからない。特に標識もない。ここは左手山側に向かい踏み込まれたような道に出るまで我慢するしかない。要点としては国土地理院の地図に描かれた破線の山側に進むこと。


一回目の道迷い・撤退箇所
この箇所が一回目の道迷い撤退決定箇所。直進方向がそれらしき道に見え、先に進むと上述道迷い同様大岩が先を塞ぐ。岩場の下を通るわけもいだろうし、何んとか岩場を抜ける道を探すがそれらしき道筋は見つからない。それではと、岩場の上を抜ける?と崖を這い上がるが踏み込まれた道は見つからなかった。
正確に言えば這い上がったときに道筋に出たのだが、後述道が崩れた沢筋であり、道筋らしき「風情」はなく、そこを越え更に上に這い上がったのだが岩場が切れそうもなく、結局再び道を探して下った。
その後は成りゆきで岩場を抜け尾根筋に出た。が、既に日没時間切れ。獣防止柵か崩壊危険個所への侵入防止柵か不明だが、その柵に沿って尾根筋を力任せで下山し高知自動車道高架下で立川川支流の浅瀬を渡り成川集落を経て一の瀬の車デポ地へと向かった。
二回目の道繋ぎでわかったのだが、土佐北街道は一回目に出た40mほど上で尾根筋を廻り、そこから尾根の西側をトラバース気味に下山箇所に進んでいた。

沢に倒木;13時30分
道が消えた箇所から左手山側に上る。杉の枝葉が一面を覆い踏まれた道は見えない。とりあえず国土地理院に描かれた「破線」の上側を進むと、少し踏まれたような道筋に出る、そこを進むと沢に大きな倒木が二本行く手を塞ぐ。大木の下を潜り沢のを渡る。ここに進めばオンコース。


沢で道が消える;13時35分
その先に比較的広い沢筋が拡がり、道は消える。道は消えるが水平に抜ければその先で踏まれた道に繋がるのは往路で確認済。
この箇所が一回目道を探して這い上がったところ。偶々斜面が崩れ道が消えていたため、更に上に這い上がり道を探したが見つからず、結局撤退とした。


前面が開ける;13時45分
道の消えた荒れた沢筋を抜けるとぼどなく尾根筋に。おおよそ等高線530m辺りを廻り込み、沢筋から8分ほどで杉林を抜け前面が開ける。
沢筋からおおよそ10分、眼下には高知自動車道が走る。いい眺め。道の谷側にはネット柵が張られている。道はネット柵に沿って下る。

この辺りから獣防止柵なのか崩落箇所侵入防止柵なのかよくわからないがネット柵が道に沿って張られている。先回撤退し30mから40m下った尾根筋に出たときも尾根の上から川の流れのところまで柵がはられていた。柵の前面の斜面は結構荒れており、その斜面を囲むように柵が造られているようにも思える。

枝尾根に;14時2分

支尾根よりトラバース気味に枝尾根に進む。道はしっかり踏み込まれ迷うことはない。途中倒木が道を塞ぐ。遠景を楽しんだところから15分ほど歩くと左手下に林道が見えてくる。往路で這い上がりこの道筋を見付けた林道だ。
20分弱で枝尾根に。その左手は往路難儀した大崩落箇所が切れ落ちる。

林道に合流;14時5分
枝尾根を下ると林道に合流。途中、なんとなく「ノイズ」を感じ、林道から這い上がり土佐北街道の道筋に出合ったが、もしそのまま先に進んでいたら、先回同様「迷い道くねくね」状態になってしまったかもしれない。

大崩落斜面東端に;14時7分
数分で大崩落斜面東端に。往路は国土地理院地図に破線で描かれた箇所に向かって、斜面に倒れ落ちた杉の大木を潜り、跨ぎで崩落斜面西端から東端の枝尾根へと這いずり回ったが、復路は西端部は既に往路で確認済であるのでそのポイントに向かってこれも這いずり回る。



大崩落部西端部に;14時33分
斜面をおおよそ30分弱かけて斜面大崩落部西端に這い上がる。そこから数分、藪の茂る道を下ると林道とその先、川に橋が架かる。





千本しらや橋;14時35分
林道手前に小さな木橋が架かる。これが千本しらや橋。往路、この地が土佐北街道であることを知り、先回撤退した道迷い箇所まで繋げることができた。イントロでもメモしたが道迷いで撤退した時は、逆側のはっきりした地点より逆から攻める手法で道を繋げることが多い。土佐北街道の権若峠越えのときも、同様の手法で道を繋ぐことができた。

「土佐北街道・北山越え」標識;午後14時35分
千本しらや橋を渡ると林道鰐に「土佐北街道・北山越え」標識の案内。方向の指示がいまひとつはっきりしない。千本しらや橋の横に広い作業道が開かれ工事作業車が止まる。Google Street Viewでこの標識をチェックした時は周囲は木々に覆われていたのだが、斜面崩落のため補強工事を進めるために開かれたのだろうか。
標識の方向だけを見れば、千本しらや橋を見落とし、工事作業道を土佐北街道と思うかもしれない。もっとも、どうしたところで大崩落斜面に出るわけで、それよりなにより「参勤交代道は災害による落橋、崩落等があり現在通行できません」とあるわけで、本来歩いてはいけないのではある。
千本
土佐地名往来」には「北山越えの官道が通る傾斜のきつい山地。崩壊を恐 れ千本の杭を打ち込んだ苦労を刻んだ地名」とあった。大崩落斜面を見るにつけ、地名はその地形を表すことを実感する。

当初予定した崩落橋から千本しらや橋までおおよそ3時間。予想以上に時間がかかった。道迷い、大崩壊斜面のトラバース、というか倒木や大岩を潜り、跨ぎ、乗り越えに時間がかかったのがその因ではある。
2回目のリベンジではこの千本しらや橋傍に車をデポし、道迷い地までピストン往復したわけで、車で大休止したのだが、メモではその時間を省き、当日の所要時間を勘案し時刻表示を示す.

千本しらや橋から立川集落へ




杏谷橋;午後14時36分
千本しらや橋のすぐ前に立川川の支流に架かる橋がある。杏谷橋とある。橋桁に刻まれた橋名は「きょうやはし」と読める。最初はこの橋が千本しらや橋と思い込み、林道脇に立つ「土佐北街道」「北山越え」の標識傍、藪に隠れた千本しらや橋を最初見逃していた。標識から左に逸れる工事作業道から偶々木橋が目に入り、それが千本しらや橋と思い、そこから土径を進み大崩落斜面西端まで進んだ次第である。

「北山越え」標識;午後14時27分
橋を渡ると直ぐ、車道の左手に斜めに上る坂がある。その上り口に「北山越え」の標識。その数分先にも「北山越え」の標識。水路や古い石段などが残り、千本集落の生活道の一部のようにも思える。


「北山越え」標識;午後14時35分
車道から上り始めて8分ほど、「北山越え」の標識が立つ。その先、獣防止柵に沿って道を進むと千本集落の民家が建つ。民家脇を更に上ると土径に入る。




分岐点先に「北山越え」標識;午後14時42分
 土径に入ると数分で分岐点。左に上る道と真っすぐ進む道。なんとなく直進であろうと進むと直ぐ「北山越え」の標識。オンコースを確認。その先に舗装された道が見える。 



 舗装された道が切れ土径に;午後14時47分
北山越えの標識から直ぐ舗装された道に出る。高知自動車道の下り線の先から車道を逸れて続いているようだ。
道を進むと左手山側に「土佐北街道」と書かれた木の標識が無雑作に置かれている。その直ぐ先に工事用プレハブがありそこで舗装が切れ、その先は土径に戻る。土径に入ったところに「土佐北街道」の標識がある。

土砂崩れ防止工事箇所;午後14時50分
土径を進むと直ぐ土砂崩れ防止の大規模工事箇所に出る。当初、リベンジ2回目のスタート地点に向かう途中、高知自動車道から大規模土砂崩れ防止工事箇所が左に見え、そこが柳瀬の集落にあった「参勤交代道は災害による落橋、崩落等があり現在通行できません」とあった「崩落」箇所かと思い、ここで道が切れると気になっていたのだが、工事箇所に人が通行できる水平通路が造られており、通り抜けることができた。ここも工事完了前は崩落箇所ではあったのだろう。
工事箇所からの眺めは結構、いい。
ふと思う。先ほどの舗装道はこの工事作業用に造られた道であったのだろう、と。

土径に入ると「北山越え」標識;午後14時53分
土砂崩れ工事箇所を抜け再び土径に入る。ほどなく「北山越え」の標識。数分進むと前面が開け茅の原っぱに。道筋はほとんどわからないが、成りゆきで進むと踏み込まれた道に出た。




「土佐街道」標識;午後15時6分
杉林の中の道はしっかり踏み込まれており何となく安心。道を進み木橋を渡り、そこから数分、杉の木に土佐北街道でよく見る「龍馬くん(?)」イラストが描かれた「土佐街道」標識がくくられていた。 茅が茂っていた辺りから立川トンネルの上を進んでいるようである。


高知自動車道保線路(?);午後15時12分
道を進むと木々の間から立川ンネルを出た高知自動車道が見えて来た。その先、道の右手に鉄の梯子が下に続く。高知自動車道保線路だろうか。




荒れた沢;午後15時17分
保線路(?)から5分ほどで荒れた沢に出る。沢筋の道を遮る倒木を潜り抜け道筋に戻る。その先はよく踏み込まれた道が続く。




茶畑;午後15時28分
しばらく進むと突然前面が開け茶畑の中を進む。往昔このあたりには警護屋敷があったようだが、今は何も残ってはいない。茶畑の中には作業小屋があり、その先道に沿って廃屋が残っていた。

 

立川川に架かる橋を渡る;午後15時33分
茶畑から5分ほどで立川川に架かる橋に出る。橋の南詰に「土佐北街道」の標識。橋のあったところは、往昔の「刈屋の渡し」があったようである。
また、その少し上流のには「藤川の渡し」もあったようであり、なんらかの痕跡がないものかと少し彷徨ったが特段の案内もなく、橋へと引き返した。


道5号出口に「「土佐北街道」標識;午後15時35分
橋を渡り成り行きで進むと数分で県道5号に出る。出たところのガードレールに「土佐北街道」の標識が立っていた。
千本しらや橋傍の上り口からおおよそ1時間15分ほどかかった。柳瀬からここまでは4時間強かかったことになる。結構かかった。大崩落箇所もさることながら、千本しらや橋からこの地まではそうでもないが、柳瀬から千本しらや橋まで肝心なところに標識がなく、どちらにルートをとるか見通しで結構時間がかかったようにも思う。とはいえ、「参勤交代道は災害による落橋、崩落等があり現在通行できません」とある以上、黙るしかない。

今回の目的である土佐北街道の柳瀬から(実際は柳瀬の橋が落ちていたので、ひとつ下流の金五郎橋から立川番所のあるこの地までカバーした。メモの時刻は初回の行程に合わせて調整しており午後3時35分となっているが、リベンジ2回目はもっと早く2時前に到着しており近くある立川番所書院跡に立ち寄ることにした。
立川
上に「この地」としているのは、立川川の橋を渡ったこの地をどう表示すればいいのかちょっと困ったためである。立川と書きたいのだが地図で確認すると立川川左岸は立川川が??野川に合流する辺りから笹ヶ峰の県境尾根まで立川下名とあり、右岸も一の瀬の少し南から笹ヶ峰県境まで立川上名とある。
正確に言えば一の瀬で金五郎橋を渡った辺りは立川上名(かみみょう)だが、少し北に進むと立川川右岸も立川下名(しもみょう)となっており高知自動車道から先が立川上名となっている。今回の散歩は立川下名からはじめ立川上名を辿り、立川橋を左岸に橋を渡り立川下名に戻ったわけである。結局大雑把に言えば「立川」を歩いているわけであり、到着地点を「立川」と書くのを躊躇ったわけである。上名、下名の由来は不詳。なお、立川は道。イタドリの古名「タジヒ」に拠る、と。愛媛ではタシッポだが、スカンポと呼ぶところもあると聞く。子供の頃、よく食べた。

旧立川番所書院
県道5号を少し北に進むと右折指示があり、坂を上ると旧旧立川番所書院が建っていた。落ちついたいい雰囲気である。
案内には「重要文化財 旧立川番所書院 山内治政の時代になって、参勤交代は海路をとっていたが、風浪や天候のため日数が定かでないので、六代藩主豊隆公が享保三年(一七一八)始めてこの陸路によった。高知を出発して布師田―領石―穴内―本山―川口を経て、立川から伊豫の馬立、川之江に出たので、立川番所(御殿)は土佐最後の宿所であった。又国境警備の要衝の一つ^として、野根山の岩佐口番所、池川口番所と共に三番所といわれ中でも立川番所は首位をしめていた。
現在の立川番所跡の建物は、番所役人、川井惣左衛門勝忠が寛政年間に建てたものといわれ、 すでに百七十年以上経た古い建物である。明治時代になって鈴木氏の手に渡り、旅人宿となって一部改装せられている。昭和四十八年町が鈴木氏より譲り受け、昭和四十九年、旧立川番所書院として、国の重要文化財に指定された。
その後建物の傷みが激しく、昭和五十五年より三ヶ年で、国県の助成を得て総工事費約一億円あまりをかけて解体復元工事がなされた。正面九間半(一七・七二五米 奥行六間半二・九九八米)七室からなり、藩主の寝所は一段高く書院づくりとなっている。 昭和五十六年度文化財保存事業 大豊町教育委員会」とあった。
立川の歴史
またその横に「立川の歴史」の案内。「古代律令制度のもとで和同四年(七一一)頃の南海道は紀伊~阿波~讃岐~伊豫~幡多~長岡の国府に至る遠回りの行程が想定されている。 奈良時代の続日本紀に養老二年(七一八)「...その道は 伊豫國を経る。行程は迂遠にして山谷険難なり」とあって國府からの奏請をうけ、この年阿波の国から土佐に通ずる道を選び路程を短縮したとあるが宿駅はあきらかにされていない。
降って平安時代「日本後記」に延暦十六年(七九六)「甲寅(きのえとら) 廃阿波國驛家  伊豫國十一、土佐國十二 新置土佐國吾橋 舟川驛」とあってそれまで敬遠されていた四國山脈の横断が始めて試みられている。 吾橋(あがはし)は今の本山であり、舟川は立川である。 伊豫の川之江から入るこの道の開設で都から土佐への距離は大巾に短縮され驛の設置によってこの地方は文化の流入経路となったのである。
延喜式兵部省の条に「土佐國驛馬 馬 頭驛 吾橋 丹治川 各五匹」とあり、又、土佐國(行程丗五日 下十八日 海路廿五日」と出ている。
このように立川は延暦十六年(七九七)には都と国府を結ぶ官道が置かれる古い歴史をもつ地である」とあった。

延喜式兵部省の条にある「丹治川」は「立川」だろう。モ─タリゼション全盛の時代は山間の僻地ではあろうが、歩いて峠を越えて往くしか術はない時代、土佐藩最初の物流・文化の経由地として今とは違ったポジショニングを持つ地であったのだろう。

荷宿跡
旧立川番所書院より県道5号に沿って500mほど立川川支流を進んだところに荷宿跡がある、という。地図に龍馬・水戸藩士会見の地のピンが立つ。写真には川に鉄橋が架かり、背後に高知自動車道の高架橋が立つ。それらしき場所に行くが、WEBの写真にある「坂本龍馬会見の地」といった案内は見当たらない。鉄橋を渡ると平坦地がある。そこが荷宿跡ということだろうか(当日はこの地が荷宿跡とはわからず、写真を撮らなかった。掲載写真はGoogle Street Viewで作成したもの。そこには案内掲示が写っていた)。
高知県の坂本龍馬記念館の記事に拠れば、この地は藩政期、産物や商品の荷物の集散地であり、この付近が坂本龍馬らが水戸浪士と会見した地とされている所とのこと。
安政5(1858)年。尊王攘夷の水戸浪士住谷寅之助と大胡聿蔵は10月17日立川番所まで来るも、入国手形を持たなかったため入国できず、立川荷宿の木屋や岩吉の家で坂本龍馬に入国の周旋を依頼した。坂本龍馬は、川久保為助、甲藤馬太郎らと共に23日夜、雨中を駆けて立川まで来て会談したと言う。
この会談について住谷寅之助は『廻国日記』の中で「龍馬誠実可也ノ人物、併撃剣家」、そして「事情迂闊、何も不知トソ」と記す。誠実で剣に優れるが、政治情勢には疎く何も知らないとちょっと失望しているようだ。
龍馬は24歳。江戸の剣術修行から戻ったばかりで、未だ本格的に政治に目覚めてもおらず、期待に応える権限もなかったのだろう。協力を約して別れたがその後龍馬からの連絡はなかった。 土佐入国の理由は大老井伊直弼に対し諸藩の決起を促すため。土佐への入国ができなかった住谷は宇和島藩に向かうも、ここでも協力を拒まれ、予定していた薩摩藩行きを止め失意のうちのい江戸に戻ったようだ。
Wikipediaに拠ると「その後、安政6年(1859年)11月、安政の大獄に伴い住谷も職を免ぜられ蟄居処分を受けた。翌安政7年(1860年)2月、高橋多一郎らを中心とする大老井伊直弼の暗殺計画が藩に察知されると、住谷はその一味として投獄され禄を奪われた。3月3日に同志が井伊暗殺を実行し(桜田門外の変)、この変の後、幕府は水戸藩に対する弾圧を弱め、10月に住谷は罰を解かれている」とあった。

お気楽に出かけちょっと辛い目に遭った。権若峠の時と同じパターンである。ともあれ立川谷筋の土佐北街道はカバーした。次回は、国見の下山口から立川筋まで、または法皇山脈を越えた金田から川之江までのどちらにしようか。その時の気分で決めることにする。




田舎の実家というか生家は愛媛県新居浜市、国領川が四国山地から平地に流れ出す山裾にある。
毎日1時間ほど散歩することを常としているのだが、特にどこと言って散歩ルートが想い浮かばないときは、山間の渓谷・名勝別子ラインを国領川の右岸県道47号、時には左岸旧道に沿って端出場方面へと辿ることが多い。片道1時間弱といったところだろうか。
端出場は昭和5年(1930)、銅山峰北嶺の標高750mの地、大正5年(1916)以来別子銅山の採鉱本部であった東平(とうなる)より採鉱本部が移され、昭和48年(1973)の閉山ま別子銅山の銅山現場運営の中心地となったところであるが、現在マイントピア別子という道の駅という名称の観光施設として多くの人を集めている。

Google Earthで作成
それはともあれ、その途中立川集落の国領川(上流部は足谷川とある)に架かる龍河橋、通称眼鏡橋の東詰、県道47号山側に「牛車道跡・眼鏡橋跡」の写真と案内があり、「The Ruins of ox carts road and Meganebashi Bridge 牛車道は、開抗以来の人肩運搬に代わる新車道。明治9年(1876)に着手したが、明治10年(1877)に勃発した西南の役により労働者や火薬の確保が困難になったことと、技術力の限界から一時開盤を中断した。
明治11年(1878) に開盤を再開し、明治13年(1880)に目出度町から銅山峰・石ケ山丈を経由して立川仲宿までの約20kmが完成した。翌年から立川仲宿から新居浜口屋までの約8kmが使用され、別子山の目出度町から新居浜口屋までの約28kmが使用された。牛車の牛は、広瀬宰平の故郷である近江牛が連れてこられた。(後略)」とある。 その案内板の傍、県道から逸れ山肌へとジグザグで上る道がある。何度かその案内前を通りながら素通りしていたのだが、あるとき、ひょっとしてこの地から案内にある牛車道が標高850mの石ヶ山丈、更には銅山峰を越えて旧別子まで続いているのではと思い至った。

で、地図でルートらしき目安はないものかとチェックすると、立川集落の上り口から龍河神社を経てその先までルートらしき実線が描かれている。実線は途中消えているのだが、更にその先に石ヶ山丈の下、いつだったか歩いた旧端出場発電所へと水を落とす水圧鉄管路の沈砂池近くまで、いかにも牛車が山を上るように等高線に抗うことなく緩やかに上り、結果山肌を長い距離進み蛇行を繰り返す実線が描かれている。
沈砂池付近からは実線は消え石ヶ山丈までのルートははっきりしないが、石ヶ山丈から先は、これもいつだったか歩いた、明治26年(1893)開業の別子銅山上部鉄道にそって角石原まで続いてようである。角石原から先は明治19年(1886)開通し、銅山峰の南嶺と北嶺を繋いた第一通洞を牛車道も利用したようであり、銅山峰を越える道は藪に消えてしまっているようである。

なんとなくルートがわかった。歩いてみよう、と。上り口から石ヶ山丈辺りまで片道3時間強かかるだろう。往復の時間を考えれば沈砂池あたりまで歩きピストンで上り口まで戻ることとし、ルート実線の消えた部分は道があればよし、無ければ藪漕ぎも如かずと散歩に出かけることにした。
結果は沈砂池の下までは順調に辿れたのだが、その先、谷筋が南に切り込む辺りで道が消えている。当日は事前準備もせずお気楽に出かけたため、消えた道のその先の切り替えし地点がわからない。で、当日はそこで撤退決定。旧端出場発電所導水路跡を沈砂池まで戻り、沈砂池の下の牛車道に復帰した。 当初の予定では牛車道を戻るつもりであったのだが、沈砂池下の牛車道から下を見ると旧端出場発電所に続く水圧鉄管跡が一直線に山肌を切り開いている。結構惹かれる。頃は冬。藪もそれほど激しくはないだろうし、直滑降で下りるわけで1時間半もあれば下山できるかと水圧鉄管跡を下ることにした。
これが思わぬ誤算、ザレ場、藪、茨などが厄介で結局3時間ほどかけて下山できた。
計画とは大きく異なる散歩とはなったが、山肌を大きく迂回しながら緩やかに、しかし単調な往路の単調な牛車道、崩落を避けてか尾根筋を一直線に下る険しい復路の旧端出場発電所水圧鉄管跡とそのテイストが大きく異なる往路・復路を楽しめた散歩となった。



本日のルート
立川中宿から龍河神社経由の谷筋牛車道
龍川橋>牛車道上り口>犬返し尾根筋への山入道龍河神社(りゅうがわじんじゃ)>最初の沢;「おんな こどもは無理」の標識>旧端出場発電所水圧鉄管道分岐>二番目の沢を下り、牛車道に復帰>鉄製桟道を渡り尾根に向かう牛車道に出る
山稜へと上る牛車道
最初のカーブ>第二のカーブ>3番目のカーブ>4番目のカーブ>ブ5番目のカーブ>6番目のカーブ>7番目のカーブ>稜線部に>種子川林道に合流>8番目のカーブ>9番目のカーブ>沈砂池下の尾根突端部に>道が消え、撤退>旧端出場発電所導水路跡を沈砂池に戻る>沈砂池下の牛車道に戻る
旧端出場発電所水圧鉄管跡を端出場へ下る
導水管跡1>導水管跡2>導水管跡3>導水管跡4>導水管跡5>牛車道交差A>牛車道交差B>導水管跡6>導水管跡7>導水管跡8>牛車道交差C>牛車道交差D>導水管跡9>牛車道交差E>導水管跡10>>牛車道交差F>>導水管跡11>>導水管跡12>送電線鉄塔>導水管跡13>導水管跡14>導水管跡15>>牛車道交差G>>導水管跡16>>導水管跡17>>導水管跡18>牛車道交差H>水圧鉄管跡への石段>導水管跡19>導水管跡20>導水管跡21>導水管跡22>旧端出場発電所


往路;牛車道

龍川橋
牛車道のスタート地点は国領川に架かる龍川橋東詰、県道47号の山側に立つ「牛車道跡・眼鏡橋跡」の傍。案内には「眼鏡橋は、明治11年(1878)に牛車道の一環として立川仲宿入口の国領川に一部花崗岩づくりで架けられた。その堅牢さから不朽橋と命名された。明治32年(1899)の別子大水害のときに、頑強であるが故にダムの役目を果たし、濁流を受け止めた後に流出した」とある。眼鏡橋は現在の龍川橋の少し上流に架かっていたようである。
立川中宿
『別子銅山〈合田正良;新居浜観光協会』
この辺りの集落名は立川。説明にあるようにかつて立川中宿があった。立川中宿は元祿15年(1702)に開かれた、とある。中宿を開いた理由は銅の運搬路の中継地を必要としたためである。
当時この地、銅山峰北麓の立川山村は西条藩領であった。この地に幕府天領の銅運搬路が開かれるまでの顛末をまとめておく(以下、散歩の雑文以外のデータは偶々家にあった『別子開坑百五十年史話;編集兼発行人 平塚正俊』より引用させて頂いた);
銅の運搬路
第一次泉屋道

元禄3年(1690)に鉱床が見つかり、翌元禄4年(1691)より操業をはじめた別子銅山の懸念のひとつにその運搬路があった。銅山峰を越え立川に下れば新居浜浦まで16キロであるが、銅山峰の北嶺は西条領であり、幕府天領に開かれた別子銅山の銅をこのルートで運ぶことは叶わず、銅鉱石は銅山峰北嶺足谷から弟地、保土野と吉野川水系銅山川を下り、小箱峠、出合峠を越え勘場平を通り土居(現在四国中央市)の天満浦までの36キロ、所謂「おばこ越え」で運ぶしか術はなかった(第一次泉屋道(あかがねの道;伊藤玉男)。 ために住友家は運搬路の打開策に腐心し、足谷より北方の分水嶺(銅山峰)を越え、立川山村を經て新居濱へ出る道路の建設使用方を、川之江(四国中央市)の幕府代官所および西條藩へ歎願した。この計画道筋はすべて西條藩の領内を通ることになるが、実現すると里程は大幅に短縮されることになる。
その道筋、銅山峰の北嶺には別子銅山より古い歴史をもつ立川銅山が稼働していたといった事情もあり、当初西条藩からの許可が出ることはなかったが、後に領内といへども新道を開設すれば許可するとの意向を傳へられたがため、元禄13 年(700)、川之江代官に対し新道普請の西条藩藩への斡旋を依頼し、翌元禄14年(701)六月に、西條藩の有司(役人)に下の歎願書を提出した。
「かうと谷と申山と赤太郎尾と申山の間に種子川へ過る小路あり、此小路を作り廣け種子川村に通じ、夫より新須賀村浜へ往來仕候へば、私共勝手にも能く候、然る上は山里の道筋作毛等少も痛不 申樣に可仕候、則一ヶ年金武百兩宛指上可、申、其外銅山仕候内は一ヶ年に御米三千石宛當座直段にて御買上可 仕候、中宿、 濱宿普講並に兩宿人馬或は買物、濱手借舟、私共勝手支配に被仰付度候
右之通御聞濟被寫仰付候はゞ難有奉存候、以上  元禄十四年巳六月 矢野十郎右衛門様」
この願書面「かうと谷」とあるは兜山であり、「赤太郎尾」は赤石山である。そこに記すルートは、別子本鋪(ほんじき;歓喜坑・歓東坑ふたつの坑(間歩)をあわせた一帯)より銅山峰へ出ることなく、斜めに西赤石山の南側に沿ひ西赤石、上兜の中間の峰を北へ渓谷に沿って小道を改修援張して運搬路となし、それより種子川村に下り、ここより新須賀村濱に進むものである。

当面の課題である運搬道は確保できた。しかし道路が他藩の領分であり、且つ銅山峰北嶺の立川銅山が他銅山師の請負であり、住友の銅山経営についてその徹底を期すことは困難であった。
そのような折、住友家に対し幕閣勘定奉行荻原重秀よりの召状。逼迫する幕府財政建て直しのための鉱業振興政策の諮問を受ける。当時の外国貿易の決済に銅が使われており、銅産出は幕政の重要案件でもあった。
その諮問奏上の助けもあり、西条藩へ出願の新道開削は幕府勘定奉行のお声がかりで急遽解決。新道建設が認められた。
そのルートは西条藩に申請したルートに若干の變更を加へ、西赤石、上兜の両山の間を縫へる樵徑を取り拡げて、西赤石の山腹を回つて石ヶ山丈(記録には石ヶ休場)に出で、そこより立川山村渡瀬へ下り、新居濱浦に到るもので、この年6月には渡瀬(眼鏡橋の西詰め)に中宿を設け、新居濱に口屋(浜宿)を建てた。これが立川中宿開設までの経緯である。上に掲載の「第一次泉屋道」にある地名より、なんとなく推察はできるが、このルートの詳細不明。
このとき、中宿、口屋ともに所在地は依然西條領であるが、幕領別子銅山附の施設として、その支配は川之江代官所に屬するものとなった。
翌年、元祿16年(1703)には、幕府は先づ立川銅山を別子同樣,その支配下に移すと同時に、両銅山の薪炭に要する山林、出銅運搬路等に関係ある村々をも幕領に収むるに決し、西條藩および宇摩郡津根陣屋一柳直增侯にその旨を傳へ、寶永元年(1904)中にその手続きを完了した。
その内容は、西條藩に對して、幕府は新居郡下の大永山、種子川山、立川山 (立川銅山)、両角野(西、東角野) 、 新須賀の五個村を公收し、その替地に宇摩郡内の幕領蕪崎、小林、長田、西寒川、東寒川、中之庄、上分、金川の八個村を与へ、次いで寶永3年(1906)に宇摩郡の津根、野田兩村を替地として、同郡上野村を幕府の領地とし、さらに後ち一柳直增侯に對して、さきに上野村の替地として與へたる津根五千石を公收するため、播州美嚢郡高木(三木町外) 五千石に移封するというものであった。

こうして立川銅山は別子銅山と共に、幕領として川之江代官所の所管に移り、行政上の統一を見たが、しかし住友の積年の臨みである立川・別子銅山一手稼ぎの願望を達して、大別子の經營を實現するのは、寛延2年(1749)12月、当時の立川銅山経営者である大阪屋久左衛門代理より立川銅山の引き渡しを受けるのを待つことになる。
牛車道

銅山峰北嶺の別子銅山(旧別子)より立川までの銅の運搬路はできた。が、江戸時代、立川中宿と別子銅山間の険しい山道は、立川中持ちと呼ばれる人々によって、生活物資の荷揚げと粗銅の荷下げが行われており、立川中宿がこれを統括した。そのため、立川中宿は銅蔵や米蔵など諸物資を一時保管するための蔵で囲まれていたようである。
この中持ちさんが背負った粗銅は男性45キロ、女性30キロであったと言う。それを牛車での運搬にするため開いた道が牛車道である。

その原案は明治7年(1874)、別子に招いた仏人鉱山技師ルイ・ラロック氏の作成した「目論見書」、すなわち「一、坑間の施設、すなはち坑道の開掘に關するもの、二、運搬上の施設、道路の建設および鐵道布設に關するもの、三、製錬上の施設、熔解所の設置および之に要する煉瓦製造等に關するもの、四、探鉱上の施設、礦石粉砕機その他洋式新機械器具の整備に關するもの」について提言されており、運搬路については、寛延年間立川銅山合併以來、百二十有餘年の長きにわたり使用しつっあった運搬路である、銅山峰より馬の背の険を伝って、三十三曲りの坂をり経て、国領川の崖に沿うて立川に出づる道路の、その難路の甚しきに驚き、別子の發展は、これを改修するより急務なるはなしと考え、特に道路の設計に意を用いた。「目論見書」の劈頭にも『彼地には......所謂道なるもの無し』。また『別子山中第一の問題は道路也』と記している。

ラロックの立案した別子・立川間車道の設計は、高橋より銅山峰の西を迂回しつつ、峰を越えて立川村に下り、金子川の右岸傅ひに久保田に出で、橋梁を架して左岸へ渡り、再び川に沿うて川口すなはち現在の惣開に到り、ここに新たに設置すべき大製錬所に達せしむるにあつた。高橋を起点としたのは、将来來ここに溶鉱炉を置くことを前提としたためである。
その提言を踏まえ牛車道の敷設工事にかつたのは、明治9年(1876)中であつた。 元治2年・慶応元年(1865年)、僅か37歳で別子銅山の総支配人に任ぜられた廣瀬宰平はラロックの設計を踏まえにながらも独自のルートを計画。その因はラロックの設計通りにすれば、勾配は極めて緩やかで車馬の通行には適するものの、その距離が長くなるためであった。そのため一部迂回線を廃し勾配を急にして七里余に短縮することにした。
施工に際しても、特に專門技師を使用せず、すべて在來旧式の測量法に依り、或ひは断崖絶壁に縄を懸け、或は大木を倒し、巨岩を砕いて足場を作る等、幾多の困難を貸して敢行した。この新設計に依る工事予算はほとんど十萬圓(明治の1円は現在の3,800円といった説もある。とすれば3億8000万円。)に上り、これを一時に支出する余裕がなかつた爲め、工事を分つて新居濱立川間を第一期、立川別子間を第二期とし、5個年の継続事業として明治13年( 1880 )中に竣成せしめた。 工事中、新道開通によりこれまで荷物の運搬に從事せる村民が、その生業を奪はれむことを怨むのあまり、一日、廣瀨を馬脊越の瞬より駕籠もろとち鉛底へ突き落さうとした話がある。それほどに従来難渋を極めた別子新居濱間の交通が改善され、牛馬車に依る物資の運搬が自由になって、沿道の住民達にも、非常な衝動を與へたことが知られよう。
牛車道の開通により坦々とした道路が山稜まで開通したため「、立川村や、角野泉川両村から三人五人と、牛車をひっ張り出して貨物の運搬に當ったが、當時此の辺りの地牛は体が小さいが、性の荒い牝牛であったためで使ひにくく、一人が牛の手綱をとって前に立ち、一人が車の台の後方につけた撞木形の棒を、両手で握って後押しをし、少々牛があばれても車が転覆しないように用心した。こうして二人がかりでないと牛車は使用出來なかった。それを広瀬が見て、早速故郷の江州から、使ひ馴らされた大津牛を多數取り寄せた。大津牛は一名コッテ牛といひ、昔から京送りの江州米運搬に用いられた。
立川精錬所
明治2年(1869)、政府が山元での最終精錬を認めたため、別子銅山支配人広瀬宰平は、立川精銅所を新設し、大阪鰻谷の銅精錬にとって代わった。これは、徳川幕府が滅亡したため専売機関である銅座がなくなり、自由に企業活動ができるようになったため、とある。明治9年(1876)、組織改革によって立川出店となり、さらに明治15年(1882)、立川分店となって、精銅方・会計方・運輸方を置いた。
しかし、別子鉱山鉄道の完成(明治26年;1893)を間近に控え、明治24年(1891)4月、端出場-石ヶ山丈間の複式索道が完成すると、立川分店の運輸業務は、その役割を終える。
さらに、明治24年(1888)に操業を開始した惣開精錬所の型銅生産が軌道に乗ると、粗銅はすべて同所で型銅に精製されることになり、明治24年(1891)5月、立川分店は新居浜分店の出張所となった。

立川精錬所の痕跡でもないものかと眼鏡橋西詰の集落、かつて保育園のあった広場を彷徨っていると、その遺構は見当たらなかったが、広場傍に明治32年(1899)の別子大水害の供養塔が立っていた。

国領川の谷筋に沿って進む牛車道
立川中宿からしばらくは国領川、というかその上流部足谷川にそって牛車道は進む。
足谷川は悪(あし)谷川、銅採掘により濁り鉱毒を含んだ故の名前であろう。
因みに国領川は西条にある保国寺の領地であった故と聞いたことがある。


牛車道上り口(標高98m)

県道47号を逸れ、牛車道に入る。県道を折り返して山肌を上る坂を進むと直ぐ道はヘアピン状に曲がる。角には舟形地蔵石像が佇んでいた。ここから先、牛車道で舟形地蔵や石仏に出合うことはなかった。
道は舗装されており、立川集落の生活道となっている。
石仏から5分ほど歩くと再びヘアピンカーブ。カーブを曲がると集落から離れ、木々で覆われた道を進むことになる。
更に6分ほど歩くと三番目のヘアピンカーブ。標高は140mほどになっている。道を進むと右手下に立川集落が見える。県道47号から見るより結構大きな集落であった。牛車道筋には1,2軒の家が建つのみではあった。



犬返し尾根筋への山入道
カーブから5分ほど歩くと沢に架かる橋があり、そのすぐ先に山に入る土径がある。犬返し(標高579m)のある尾根筋に上る道のようだ。いまから進む牛車道は、この尾根筋まで上ることになる。
そういえば、いつだったか、鹿森ダム脇、遠登志(おとし)から東平(とうなる)へと上り、そこから上部鉄道跡を石ヶ山丈まで進み、一度魔戸の滝まで下った後尾根筋まで上り返し、犬返しの少し北、龍河神社分岐標識から立川に下りたことがある。その時の記事()を読み返すと、この地に下りてきたとあった。

沢に架かる橋を渡り10分強あること再び山入道。これも犬返しの尾根筋に上るルートが国土地理地図に描かれていた。前述山入り道とは途中、送電線鉄塔の建つところで合流する。そういえば、犬返しから立川に下りるときも、その送電線鉄塔を目印に下ったことを想いだした。山歩きでは送電線鉄塔は位置確認の有り難い標識ではある。

龍河神社(りゅうがわじんじゃ;標高175m)
上り始めておおよそ40分ほど、牛車道は龍河神社石段参道を横切る。舗装された道は参道まで。参道の先は土径となった道が続く。
龍河神社は散歩折、時に訪ねる社である。
今回はパスしたが概要をメモしておく; 参道口は県道47号沿い。鳥居傍には大正15年(1926)別子鉱業所支配人となった鷲尾勘解治翁揮毫の「龍河神社」の石が立つ。翁は青年鉱夫を訓育する私塾「自彊舎」の塾長としても知られる別子銅山経営の功労者。因みに「自彊舎(じきょうしゃ)」の命名は当時の住友総理事鈴木馬左也氏で、易経の「自彊不息(じきょうふそく)」(自ら彊〔つと〕めて息〔や〕まず)による。新居浜市を単に銅鉱業のみの地とすることなく、現在の工業都市としての基盤を整備した人物としても知られる。

285段とも言われる急な石段を上り、途中参道をクロスする牛車道を見遣り境内に。石段を上り詰めたところに「天然記念物 龍河神社社叢(りゅうかわじんじゃ しゃそう)」の案内。「昭和63年(1988)5月12日 市指定  面積(約1万平方メートル) 社叢(しゃそう)の特色  ツガ、ヒノキ等の針葉樹とコジイ、コバンモチ、アラカシ、アカガシ、ウラジロカシ、ツクバネカシ、サガキ、クスノキ、ヤブツバキ等のまじり合った照葉樹の自然林です。また、このように大木の多い自然の林は、数百年前ごろ、このあたりにどのような樹木が生えていたかどうかを、推理できる生きた植物資料として貴重な林です。この社叢(しゃそう)に生えているいろいろな植物を大切に保存することにつとめましょう」とある。
実のところ、子の案内を見るまで「龍河神社」を「たつかわ神社」と思い込んでいた。「りゅうかわじんじゃ」が正式な呼び名のようだ。
社殿祭神は「龍古乃別君(たつこのわけぎみ)」。 代々新居郡立川山の産土神とし祀られてきた神である。
龍古乃別君(たつこのわけぎみ)
「龍古乃別君(たつこのわけぎみ)」の遠祖は景行天皇の第十二皇子武国凝別命(たけくにこりわけのみこ)と伝わり、封をうけ伊予国御村に宮居し、その後裔は奈良朝に新居郡(旧神野郡)を中心にますます栄え、一族を御村別君(みむらわけぎみ)と称した。
御村氏のその後裔は奈良朝に入って新居郡(旧神野郡)を中心にますます榮え、その一族を御村別君(みむらわけぎみ)と稱した。
この「御村」は尊称のため、「三村(みむら)」とも書き、西条の伊曽乃神社のある中野村と、かつて隣接して存在した上野村・下野村の三村(さんそん)を指すとの説、新居・宇摩・周敷(しゅふ)の三郡のことなど諸説あるが、上述、新居郡(旧神野郡)を中心に覇を唱えたようである。実際、宇摩郡土居町(現在四国中央市)の延喜式内社・村山神社には天照大神、百済救援の途次、この社を仮宮としたとする斉明天皇、そして天智天皇が合祀されているが、共に武国凝別命も祀られているとの説もある。

この御村別君(みむらわけぎみ)より十數世の後孫が加彌古乃別君(かにこのわけぎみ)。その孫がこの社の祭神「龍古乃別君(たつこのわけぎみ)」である。 で加彌古乃別君(かにこのわけぎみ)であるが、「加彌」は鑛土(かに)の意味であり、金屬の古語である。
金属を意味する神名を称することから、この時代には既に御村の氏族によりその領地である新居郡下で鉱山が開き、立川山村においても後に立川銅山とも長谷(ながたに)坑とも称される鉱床掘鑿がおこなわれていたことが推察される。
別子
なほ龍河(たつかわ)の河(かわ)は訓讀の古で、龍古(こ)すなはち龍河(たつかわ)であり、龍河は後ち、立川の文字に代へられた。また加彌古乃別君、龍古乃別君などの、その別君(わけぎみ)の呼称は、景行天皇が七十皇子を諸國に分封せしめた時に始まり、以來、別君は一種の姓となったものであるが、かやうに立川の地は加彌古、龍古の別君(わけぎみ)に依って鉱業を創始せられたため、村人は永くその縁故を尊び別子(わけのこ)と呼び、次いで別子(べっし)と音読し、古代新居郡東部の鉱山地帶を「別子」と称するに至った。
新居郡と神野郡
現在の旧西条市と新居浜市の地域は、おおむね大正時代以前は新居郡(にいぐん)と呼ばれていた。この地域が新居郡と呼ばれるようになったのは、平安期、嵯峨天皇の時代である。それまでの西条・新居浜の地域は神野郡(かんののこおり、かんのぐん)と呼ばれていたのだが、嵯峨天皇の諱(いみな)「加美野」に触れるため、大同4年(809年)9月に新居郡に郡名変更されたようである。


地図上からルート実線が消える
牛車道散歩に戻る。龍河神社参道を横切り牛車道を進む。よく踏み込まれた比較的広い道幅である。このような快適な道が続いて欲しいと思う間もなく5分弱歩くと道は荒れてくる。小さな沢筋を越え、木々の間から道の駅マイントピアの施設を見ながら荒れた道を進むとしっかりと組まれた石垣なども残る。その先、比較的大きな沢。参道口からおおよそ20分程度のところ。
沢筋を越えると地図上からはルートを示す実線が消える。さて、この先どうなることやらと思いながら先に進んだ。

最初の沢;「おんな こどもは無理」の標識(標高235m)
地図上からはルート実線は消えるが道は続く。と、沢から4分程度歩いたところで突然道が切れる。そこには「おんな こどもは無理」の文字と共に道を沢に下る方向指示がある。かつては橋か桟道かといった沢を跨ぐものがあったのだろうが、それが崩壊したのだろう。沢筋の向こうには道が見える。
指示に従い沢筋に下りる。道筋から沢まで結構深く少し険しいが、といってロープが必要といったほどでもない。少し危険ではあるが慎重に下れば「おんな こどもは無理」とは思えなかった。
5分ほどかけて沢を下り、上部に見える牛車道らしき辺りに崖に成り行きで取り付き上り牛車道に復帰する。


旧端出場発電所水圧鉄管跡と交差
牛車道に復帰するとほどなく道の左にコンクリート構造物があり「端出場水力発電所 水管跡 明治45年ー昭和45年」とあり、右には道に埋め込まれた鉄管がふたつ残る。道の上を覗くと急斜面にコンクリートの支持台が見える。

その遺構の直ぐ先、進行逆方向に下に下る道が分岐する。道を下ると旧端出場発電所に水を落とす水管道跡にあたる。
旧端出場発電所
明治45年(1912)完成。明治時代の後期、大量出鉱体制を整えつつあった別子銅山では、電力増強を急務の課題であった。そのため、銅山峰の南を流れる銅山川とその支流の水を利用した水力発電を行うこととした。銅山峰南麓、銅山川筋の日浦に集められた水は、日浦通洞(明治44年(1911) 貫通)と第三通洞 (明治35年(1902) 貫通)を通り、水路で石ヶ山丈(海抜約730m)の煉瓦造の水槽(沈砂地)まで引水し、当時日本一の落差 597.18mの水力を利用して発電を行った。
大正時代に入り、水路の拡張と発電機の増設を実施。この増設により、大正10年(1921)から始まった四阪島製錬所の大改造計画で急務とされた、蒸気動力の電気転換のための電気供給が可能となり、同11年新居浜-四阪島間 20kmの海底ケーブルが敷設され、送電が開始された。
昭和45年(1970)、発電所は廃止されたが、煉瓦造の建物内には、運転開始時のドイツ国シーメンス社製の発電機や同国フォイト社製の水車などが残っている。

この発電所建設は明治35年(1902)に工事着手するも、水力発電の許可申請が滞り、ために計画を変更し火力発電所として稼働を始めたようである。その後、明治41年(1908)9月には許可を得て、端出場の火力発電(90キロワット)裝置を水力発電に改むることとなり、これに要する導水路工事を起すと共に、第三通洞斜坑底附近の地点より延長し、日浦谷に通ずる大隧道を開鑿し発電所への水を供した。 因みに、落差597.18mの水圧鉄管は、水を落とすというより、鉄管は常に水で満たされ、その水圧をもって発電装置を動かしたようである。

二番目の沢を下り、牛車道に復帰
少し荒れてはいるが牛車道の風情を残す道を10分ほど進むと再び沢筋で道が途切れる。最初の沢ほど深くはないが、「足元注意」の標識に従い沢に下りる。上部に砂防ダムらしき下の岩場から小滝が落ちる。
沢からの上りは急。用意されていた「虎ロープ」を掴み牛車道に這い上がる






鉄製桟道を渡り尾根に向かう牛車道に出る(標高260m)
牛車道に復帰すると直ぐ鉄製桟道。桟道を渡ると木々に覆われた道筋から一転、空が大きく開けた道に出る。合流した道は県道47号より続いている。
この合流点まで龍河神社からおおよそ50分、標高を80mほど上げたことになる。牛に優しい緩やかな傾斜道である。国領川(足谷川)に沿って等高線に抗うことなく上って来た牛車道は、ここから石カ山丈への尾根筋に向かって上って行くことになる。
大斜坑跡
この合流点から少し下ったところに大斜坑跡がある。前述マイントピアの国領川(足谷川)を隔てた正面山肌、大送電線鉄塔の真下にコンクリート大構造部が見えるのだが、それってなんだろうとチェックすると別子銅山の大斜坑とのことであり、いつだったかGoogle mapにプロットされている場所に探しにでかけたのだが見つからない。プロットされている場所が大送電線鉄塔傍になっており、藪の中を探し回ったのだがそれらしきものが残っていなかった。マップにプロットされている場所が全然違っていたわけだ。
興味を持つ方がいらっしゃるかどうかわからないが、正確な場所を案内しておく: 県道47号を第四通洞を越えて進むと進行逆方向に上る道がある。道には「住友林業」の私有地であり立ち入り禁止の柵がある。申し訳ないのだが大斜坑見たさに柵の脇より中に入り、三つ目の曲がり角に曲がることなく直進する道があり舗装されている。
そこを進むと大斜坑コンクリート構造物の上部、粗鉱ビンと呼ばれる大斜坑から運ばれた鉱石を一時貯蔵していた貯鉱庫の上に出る、4,000トンの貯鉱能力があったようだ。
藪となった粗鉱ビン上部を先に進むと大斜坑の坑道跡も残っていた。

大斜坑は上部鉱床を掘り尽し、深部開発をもって銅山起死回生を図り昭和35年(1960)より着手されたもの。工期8年昭和43年(1968)9月に完成した大斜坑は約15度の傾斜、延長4,455メートル、海面下約1,000メートルに達したとのこと。大斜坑の完成により、鉱石はすべてスチール・コンベアーで運ばれ、46人乗りのケーブルカーも走るなど、人や機材の運搬活用された。
大斜坑は完成するも、鉱況、作業環境の悪化、地熱や盤圧の上昇からこれ以上の稼業は無理と判断し元禄4年(1691)操業開始した別子銅山は昭和48年(1973)閉山決定。282年にも及ぶその歴史の幕を閉じた。




山稜へと上る牛車道■




最初のヘアピンカーブ(午前8時34分;標高268m)

道に出て少し進むと道が二つに分かれる。外側の道は大送電鉄塔への保守化管理のために造られたようだ。牛車道は内側のヘアピン状の道を進むことになる。
この送電線鉄塔、他を圧する大きなもの。南北、東西からの送電線のジャンクションとなっていることもその一因なのだろうか。
前述マイントピアより足谷川を隔てた正面山肌に屹立するこの大鉄塔、大斜坑を示すピンがGoogle mapにこの大送電線鉄塔傍に立てられていたため、大斜坑跡を求めて彷徨った記憶が残る。

第二のヘアピンカーブ(午前9時3分;標高356m)
次のカーブまで30分かけて高度を80mほど上げることになる。「牛」にも優しい緩やかな道である。
途中、開けた道に出る前に渡った鉄製桟道が架かっていた沢の上流部であろう橋を渡る。道の上下に石組も残る。また、その時は気づかなかったのだが、道の途中で旧端出場発電所水圧鉄管が牛車道とクロスしていた。復路水圧鉄管跡を下った時にクロスしわかったことではあるが、道の下、道の上の藪を見ればすぐわかったのだろうが、お気楽に通り過ぎていた。

3番目のヘアピンカーブ(9時28分;標高426m)
次のカーブまでおおよそ30分弱、高度を70mほど上げる。緩やかな道とするため等高線に抗うことなく山肌を大きく廻り込むことになる。
牛車道上を通る送電線を仰ぎ見ながら道を進むと、時に木々の間から東の辻ヶ峰(標高958m)から北に続く稜線、稜線の先には新居浜市の里に落ちる稜線が見える。
また途中旧端出場発電所水圧鉄管路とクロスるのだが、この時もまた気付くことは無かった。

4番目のヘアピンカーブ(午前9時41分;標高463m)
稜線部に大分近づいたのか、九十九折れまでの距離が大分短くなり、16分弱歩き高度を40mほど上げるとヘアピンカーブに。ここもまた牛車道と交差する旧端出場発電所水圧鉄管ルートに気付くことなく通り過ぎてしまった。

5番目のヘアピンカーブ(午前9時53分;標高492m)
10分強歩き、高度を30m上げると5番目のカーブ。途中、東の辻ヶ峰(標高958m)から北に続く稜線、稜線の先には新居浜市の里に落ちる稜線の先に新居浜の街が見える。
ここでも旧端出場発電所水圧鉄管ルートが牛車道と交差するのだが、緩やかな道をのんびりと歩いていたため気付くことなく通り過ぎてしまった。

6番目のヘアピンカーブ(午前10時6分;標高534m)
10分ほど歩き高度を40mほど歩くと6番目のカーブを曲がる。途中、石ヶ山丈の稜線に突起状の山稜が見える。犬返しだろう。いつだったか、犬返しの少し北から立川へと下ったこと、途中下山道がはっきりせず藪を漕ぎ龍河神社に続く牛車道に出たことを想いだした。カーブする辺りはほとんど稜線部。そのすぐ北に538mピークがある。ここでも旧端出場発電所水圧鉄管ルートは気づかず通り過ぎた

7番目のヘアピンカーブ(午前10時16分;標高560m)
10分弱歩き、高度を30m弱上げると7番目のカーブ。途中、「犬返し」の標識。標指揮部で牛車道から分岐すれば犬返しへと続く稜線部に出るのだろう。旧端出場発電所水圧鉄管は曲がり角の直ぐ傍で牛車道とクロスするのだが、をここでお気づかず通り過ぎた。

稜線部に(午前10時23分;標高582m)
10分弱歩き、20m強高度を上げると石ヶ山丈に続く稜線部に出る。7番目のカーブを曲がると直ぐ旧端出場発電所水圧鉄管ルートが牛車道を交差するのだが、ここでも気がつくことはなかった。藪に隠れているとは言え(これは後でわかったことだた)、結局水圧鉄管路ルートとの交差箇所は一箇所も気付くことなく通り過ぎた。 その気で見なければ、見れども見えずではあったのだろうか。



種子川林道に合流(午前10時33分;標高593m)
稜線部を越えた牛車道は北に突き出た石ヶ山丈から犬返しに連なる尾根筋をほぼ等高線に沿って迂回し進む。10分ほど進むと牛車道は種子川の谷から上ってきた林道の合流する。








8番目のヘアピンカーブ(午前10時43;標高625m)
林道を10分弱歩くと尾根筋にあたる。道は尾根筋をぐるりと迂回することなく、尾根筋でヘアピン状に曲がり650m等高線辺りを東に向かう。地図を見ると尾根筋の西側には鋭く切り込んだ谷筋がある。道の崩落を避けての尾根筋でのヘアピンターンなのだろうか。





9番目のヘアピンカーブ(午前11時2分;標高667m)
650m等高線の辺りを東へと引っ張られた牛車道は、魔戸の滝が落ちる種子川(西谷川)の谷筋手前まで進みそこでヘアピン状に曲がる。石ヶ山丈から摩戸の滝へと下りる登山ルートの直ぐ手前である。この下山ルートも結構険しい道だった。

沈砂池下の尾根突端部に(午前11時19分;標高714m)
種子川谷筋手前のヘアピンカーブから17分ほど歩くと尾根筋突端部に。上を見るといつだったか旧端出場発電所導水路跡を辿った終点である沈砂池、その下の水圧鉄管支持台が見える。牛車道には「停車場」の文字と沈砂池方向を示すサインが木に打ち付けられている。石ヶ山丈にあったかつての別子銅山上部鉄道駅跡へのサインであろう。
ここまでの所要時間は立川上り口からおおよそ4時間といったところだろうか。

道が消え、撤退(午前11時35分;標高733m)
沈砂池下で少し休憩し、尾根筋をぐるりと廻り先に進む。牛車道らしき踏み込まれた道が続く。尾根筋を廻り込むと左手に、いつだったか歩いた沈砂池に続く旧端出場発電所導水路()の石垣らしきものが見える。東平から沈砂池まで途中崩壊部を迂回しながら導水路跡を辿ったときのことを想いだす。
踏み込まれた道を進むと石垣下に水路が走る。沈砂池からの排水路跡かと思う。排水路に沿って少し進むと道は排水路と交差する。その先、道がはっきりしない。地形図を見ると谷が南へと切れ込んでおり、土砂崩れで崩壊したのだろうか。沈砂池への導水路散歩の折も、途中土砂崩れで崩壊した導水路部の迂回で難儀したことを想いだした。

さてどうしたものかと考える。で、先の目安もなく進んでも仕方がないと。次回、東平から上部鉄道跡を石ヶ山丈まで進み、そこから牛車道を逆に辿り道を繋ぐのがいいかと思い撤退決定、ここで折り返すことにした。 実の所、家に戻り上述旧端出場発電所導水路を辿った時の記事を読むと、この谷筋のの先に導水路排水門があり、その先導水路トンネルが抜ける北に突き出た尾根筋にしっかり踏み込まれた牛車道があった。石ヶ山丈から逆に進めば消えた牛車道のがり角が見つかりそうに思えてきた。次回のお楽しみ。

旧端出場発電所導水路跡を沈砂池に戻る(午前11時49分;標高735m)
撤退を決め沈砂池排水路に沿って沈砂池に戻る。が、進むに連れて藪や倒木が水路を塞ぐ。ちょっと厄介。で、エスケープルートを探そうと排水路から這い上がると旧端出場発電所導水路に出た。
導水路の中を歩いたり、水路を跨いだり、バランスを取りながらコンクリート水路枠上を歩いたりと、15分ほどかけて沈砂池に戻る。
沈砂池の水門はふたつある。砂を落とし水圧鉄管に落とす沈砂池への水門と、もうひとつは余水吐の水門とも言われる。
沈砂池を囲む煉瓦の上を歩き沈砂池の出口に。鉄格子のごみ除去フィルターが残る。


沈砂池下の牛車道に戻る(午前11時52分;標高714m)
沈砂池下の牛車道に戻る。沈砂池から旧端出馬発電所水圧鉄管を通すため水圧鉄管の左右が大きく開削されている。
沈砂池直ぐ下の水圧鉄管の支持台がある。水圧鉄管だけの支持台、丸い鉄管を通す穴と四角の作業人の通路と言われる支持台を見遣り牛車道に戻る。






復路;旧端出場発電所水圧鉄管跡




沈砂池下の牛車道より水圧鉄管跡に入る(午前11時55分;標高714m)
沈砂池下の牛車道の下を見ると旧端出場発電所水圧鉄管跡ルートが一直線に下っている。結構惹かれる。当初の計画では復路も牛車道を戻るつもりであったのだが、水圧鉄管跡のルートを下ってみようかと少し考える。
このルートを這い上がった弟の話では結構な藪とのこと。が、時は冬。藪もそれほどではなかろうと、結局水圧鉄管跡を下ることにした。



牛車道A・B交差(午後12時19分;標高565m) 
水圧鉄管跡ルート中央部は道との段差が高くとても下りることはできない。左右を探り、結局右手より水圧鉄管跡ルートに入り込む。道からの見た目よりザレが激しく倒(こ)けつ転(まろ)びつルート中央部に。保守用の石段が下っており、その横に鉄管支持台(水圧鉄管1とする;以下同じ)がある。
目を上の向けるとコンクリートに〇と□の窪み。水圧鉄管は牛車道の下を抜けていたようだ。□は作業用の通路跡なのだろう。
40mほど下ると鉄管支持台(水圧鉄管2)。鉄管を通す支持台の横には四角の作業用通路を抜いた構造物がある。10mほど下ると水圧鉄管だけを通す支持台(水圧鉄管3)があった。
40m下ると地中に埋まった水圧鉄管があった(水圧鉄管4)。更に20mほど下ると上部の欠けた支持台が2つ並ぶ(水圧鉄管5)。
その先10mほど下ると突然道に出た。牛車道である。往路ではまったく気づかなかったのだが、旧端出場発電所水圧鉄管は牛車道を交差していたわけだ。地図で確認すると往路ヘアピンカーブ7曲がり角傍であった。すぐ先、ヘアピンカーブ7手前の牛車道に出る。
35分かけて標高50mほど下げた。思った以上に時間がかかりそう。
旧端出場発電所水圧鉄管ルートはこの先も牛車道と交差を繰り返し下っていくことになる。


牛車道交差C・D(午後12時47分;標高507m 午後12時52分;標高491m)
牛車道を離れ水圧鉄管道跡に入る。アプローチは簡単であったが、藪というか立ち枯れの木立が道を防ぐ。茨のついた小枝が厄介。牛車道から10mほど下ると水圧鉄管支持台と(水圧鉄管6)作業用石段を抜く四角い通路の設けられた構造物が並ぶ。この前後は結構強烈な立ち枯れ木立。茨を避けて折り敷き下る。
その先20mほど下ると水圧鉄管支持台(水圧鉄管7)があり、更に20mほど高度を下げたところに水圧鉄管支持台(水圧鉄管8)があり、その先が開いている。牛車道Bとの交差部である。標高50m下げるのに25分ほどかかったことになる。思った以上に大変だ。
この交差部は往路5番目ヘアピンカーブの辺りであり、交差部Cの直ぐ先で牛車道D(午後12時52分/標高490m)に出る。


牛車道交差E(午後12時58分;標高442m)
牛車道から10mほど下ると水圧鉄管支持台(水圧鉄管9)と作業用通路ががひとつになった構造物がある。山側が木々に覆われた支持台を抜ける。コンクリート面に水圧鉄管の通る○穴と人の通る□穴のコントラスがちょっと魅せる。
その下、水圧鉄管を支えた四角の支持台だけがいくつか残り、その先で牛車道(牛車道交差点E)に出る。10分弱で50mほど高度を下げる。この先もこのような道筋であれかし,と願う。


牛車道交差F(午後13時10分;標高414m)
牛車道から水圧鉄管跡にはそのまま下りることはできない。アプローチを探すと右手から入るのがよさそう。立ち枯れ木立、茨のついた木立、結構厄介。木々を踏みしだき水圧鉄管筋に出る。高度を20mほど下げたところに水圧鉄管を通す〇穴のついた支持台があった(水圧鉄管10)。
そこかから10mほど高度を下げると牛車道に出る(牛車道交差点F)。
10分強で高度を30mほど下げた。

送電線鉄塔(午後13時41分;標高385m)
牛車道から水圧鉄管筋を見ると結構荒れている。ブッシュ、木立が行く手を遮る。地図を見ると次の牛車道交差(牛車道交差点G)までは標高110mほど下ることになる。ちょっと厄介かな、などと思いながらも水圧鉄管ルートに入り込む。
20mほど下ると水圧鉄管支持台が2基続く(水圧鉄管11、12)。支持台脇に作業用石段があるのだが、藪や茨に覆われ楽はさせてくれない。
その下には上部が水圧鉄管を通す上部が欠けた支持台が2基連なる。

そこかから20mほど下ると送電線鉄塔がある。水圧鉄管筋すぐ傍。ちょっと立ち寄る。山道歩きに送電線鉄塔は心強い目安。今でこそGPSがあるので昔ほどでないにしても、ルート確認には欠かせないし、通常送電線保守道が続いてあろうから、そのことも道迷い時の「安心標識」ではある。

牛車道交差点G(午後13時56分;標高306m)
送電線鉄塔から水圧鉄管跡に戻る。直ぐ水圧鉄管支持台(水圧鉄管13)。そこから10mほど下ると水圧鉄管と作業用通路がひとつになった構造物(水圧鉄管14)。 通路を抜け、作業用石段を10mほど下ると水圧鉄管支持台(水圧鉄管15 )。 そこから50mほど下ると牛車道(牛車道交差点G)に出る。

牛車道交差点Fからこの牛車道交差部Gまで60分弱をかけ標高110mを下げた。結構時間がかかった。冬だからこの程度だがブッシュの激しい夏場であればどうなったのだろう。



牛車道交差点H(午後14時35分;標高240m)
旧端出場発電所水圧鉄管と尾根に上る牛車道との交差はここでお終い。次は龍河神社から国領川(足谷川)に沿って進む途次に出合った水圧鉄管交差部(牛車道交差点H)に下ることになる。比高差はおおよそ70m。
牛車道から水圧鉄管跡に直接下りることは難しそう。左右をチェックし結局右手から水圧鉄管筋に下りることにした。これが結構キツイ。大きな倒木が道を防ぐ。倒木を潜り抜けると今度は茨の木立。木立を折敷き水圧鉄管筋に入ると下半分が土砂に埋もれた水圧鉄管支持台(水圧鉄管16)
そこから10mほど下ると水圧鉄管支持台(水圧鉄管17)と作業用通路がひとつになった構造物。通路は人が通れそうもない。これも下半分が埋もれてしまっているのだろう。
そこから20mほど下ると水圧鉄管の穴を通した巨大な構造物が2基続く(水圧鉄管18)。支持台以外の用途もあったようにもおもうのだが、何だろう。なんだか気になる。
あれこれチェックすると、Wikipediaに「流体の過剰な流入量を一時的に蓄えることで流量を緩和して増減を平準化することを目的に備えられる各種の貯槽類」のことをサージタンクと呼ぶ、とあった。水圧鉄管にもサージタンクを設け、流量を調節していたようだ。門外漢のため的外れかもしれないが、この2基の構造物はサージタンクかもしれない。
その先は藪というか木立が行く手を遮る。藪の中には水圧鉄管部が欠けた支持台をふたつほど見遣り、藪漕ぎというか立ち木を折敷き?mほど下ると牛車道に出る(牛車道交差点H)。40分弱かけて比高差70mを下りてきた。

牛車道から水圧鉄管跡に下る作業用石段を下る(午後14時41分;標高240m)
ここから先、旧端出場発電所前の県道47号までは数回歩いている。比高差100mほどほぼ全部作業用石段が整備されているが、藪が激しく結構難儀した。今回は冬枯れの時期。少し楽に下れるだろうと牛車道交差点Hを少し先にある牛車道と水圧鉄管跡を繋ぐ石段を下りる





旧端出場発電所前に下りる(午後15時2分;標高152m)
石段を下りると水圧鉄管を通す〇穴を残す支持台(水圧鉄管19)。そこから山側を見ると牛車道の通る道筋は石垣が築かれ、そこには水圧鉄管を通す〇穴が開いていた。道の下を潜っていたわけだ。
そのすぐ下にも水圧鉄管の穴のついた支持台(水圧鉄管20)。作業用石段横、藪に隠れている。その先も藪に隠れた水圧鉄管支持台が続く(水圧鉄管21)。 作業用石段を下ると上に水圧鉄管を支える構造物の先に水圧鉄管を通す穴のついた支持台(水圧鉄管22)。これが最後の水圧鉄管支持台であった。

その先、網状の鉄橋を渡り作業用石段を下り、網状に組まれた鉄の橋を渡ると県道47号に出る。道を隔てた反対側、石垣下に現在修理中の旧端出場発電所が建っていた。
沈砂池下の水圧鉄管跡スタート地点から3時間強。570mほどを一直線に下りてきた。下りはじめるときは、直滑降に下りるわけだから1時間半もあれば十分かと思っていたのだが、痛めた膝のせいにするわけではないけれどちょっと甘かった。

計画した牛車道は当初予定の石ヶ山丈までは途中撤退のため行くことはできなかったが、復路何気に思った旧端出場発電所水圧鉄管跡を下り切った。往路は単調な道、復路は険路・難路。結構楽しめた。
次回は東平から別子銅山上部鉄道跡を辿り、終点の石ヶ山丈から逆に牛車道を辿り撤退地点まで繋ごうと思う。
時は冬。東平までの車道は冬季封鎖中。春を待たねばならない。

付記;立川銅山について
ふと思う。別子銅山についてはあれこれチェックしたことはあるのだが、よくよく考えると立川銅山については何も知らない。今回歩いたのは銅山峰北嶺、往昔の立川銅山のあったと言うところである。いい機会でもあるので,前述『別子開坑百五十年史話;編集兼発行人 平塚正俊』立川銅山をもとにまとめてみる;
場所
まずは、立川銅山ってどの辺りにあったのだろう。立川銅山の坑口として大黒間俯、都間符、大平坑、寛永谷や、寛永坑といった坑口名が記してある。場所をチェックすると東平から第三通洞のあるところから寛永谷川を遡上した源頭部の先、標高1,230mの辺りに大黒間符があり、その少し南に都間符、大平坑があるようだ。銅山峰は標高1294m。稜線部の直ぐ北といった場所である。寛永坑の場所は不詳だが寛永と名付く以上、寛永谷筋にあったのではないだろうか。坑口ではないが、寛永谷川筋に寛永谷横坑と称する取水坑がある。文字面から類推すれば寛永坑が昔あったとしてもおかしくはない(ちょっと強引)。
因みにこの寛永谷横坑は東を流れる柳谷川の「柳谷取水口」から水を通しい寛永谷川に落とし、別子ダムから導水した水と合わさり、旧端出場発電所導水路の水を養水しているようである。
歴史
開山から別子銅山に併合されるまでの経緯を上述『別子開坑百五十年史話;編集兼発行人 平塚正俊』をもとに概要をまとめる;
龍河神社の縁起にあるように、この地を治めた御村氏の祖である加彌古乃別君(かにこのわけぎみ)の「加彌」は鑛土(かに)であって、これは金屬の古語。この時代既に御村の氏族に依って、その領地であった新居郡下に鉱山が開かれていたことが推察される。
〇17世紀中頃には西条藩領内に立川山村に
時代は下り戦国乱世の頃、諸国の豪族はその武力を養う財源を得るため領内の鉱山開発に着目したというがその記録は無いようだ。
続く德川幕府の成立後、鉱業奨励政策の遂行を計るにおよび、立川もまたこの機運に乗じ、上代龍古乃別君以來、約九百年目にふたび稼行の日を迎へた、という。宝暦11年(1761)住友家より幕府巡見使に提出せる「立川御銅山仕格覚書」に『伊豫國新居郡立川山村之内長谷御銅山者百餘年以前一柳監物監物御領地之節始相稼』とある。河野氏の一族と言われる一柳監物監物伊予西条藩を封ぜられたのが寛永13年(1636)。17世紀中頃には既に立川山村に長谷御銅山(立川銅山)が稼行してたことがわかる。別子銅山の稼行が翌元禄4年(1691)であるから、それに先立つこと50年から60年も先のことである。
また新居郡立川山庄屋神野家の文書にも、立川山村が寛永13年(1636 )以来、西條藩主一柳侯(初代直盛、二代直重、三代 直興の領地であって、領内最初の稼行請負人は西條在の戸左衞門であると記録されてゐる。
立川銅山初代の請負人戸左衛門は、いくばくもなくその稼行を土佐の寺西喜助に譲り、さらに喜助の後ち、紀州の熊野屋彦四郎、大阪の渡海屋平左衛門、大阪屋吉兵衞と時に中絶しながら講負人は点々として変わると共に、領主もまた易つて寛文5年()に一柳侯は除封となり、同十年紀州藩の分家松平頼純侯がその後ちを承けた。
かやうに稼行者が、永續し難いのは、とりもなほさず鑛山經營の容易でないことを示すもので、開鑛當初は、極めて地表に近い富鉱帶のみを選んで稼行し得たものが、上鑛を探掘し盡くすと、掘場はしだいに行詰まり、せつかく採取せる多量の鉱石も銅分が少いため、製錬の結果は、到底稼行の経費を償ふことの出來なくなるからだ。殊に坑道が深所へ進むにつれて、地下水の湧出はますます激しくなり、その排水の労力と費用とが、探鑛のそれに何倍かするやうになると、いかに豐富な資本を以てするも、遂には損失に堪へ切れぬばかりか、官府(藩または幕府)へ納付すべき運上や、炭代の出どころもなくなつて、結局その稼行者は倒産してしまふのである。

寛永以來六人目の立川銅山経営が眞鍋彌一右衛門。西條藩の長者として事業經營の資力においては住友に譲るものではなかったが、立川銅山は開坑以來年を經て、謂はゆる老山深舖となりはじめている状況に加え、立川銅山にはその盛衰を左右する根本的な自然の條件が圧倒的に不利あつた。すなはち別子山の鉱床は、その上部において北四十五度の傾斜を以て、西北より東南へ斜めに落してゐるので、その大部分が別子側に偏つてをり、富鉱帶もまた走向に對して四十五度の傾斜をなして、底部へ延びてゐるため、別子側が非常に恵まれてゐるのに反し、立川側はいかに努力するも早晩鑛脈を掘り盡くして、没落するの外なき運命に置かれてみたのである(掲載図参照ください;「別子開坑百五十年史話」より)。
このように別子・立川銅山の盛衰が目立ち始め、両鉱山に反目が起きた頃、元禄7年(1694)四月二十五日、別子銅山で大火が起きる。尾根を越えて逃げる別子の鉱夫を待ち受けていたのは、沈火の為立川銅山が起こした迎え火。逃げ場を失なった別子の人々は火に包まれ、稼行依頼4年を迎えた別子銅山は灰燼に帰した。

翌元祿8年(1695)別子銅山と立川銅山の境界争いが起こる。境界爭ひは、現在の太平坑から遙か上手の大黑間符より掘り進んで來た立川方の廻切夫と、峰に近い大和間符から掘り込んで來た別子方の廻切夫とが、偶然その坑道を拔きあひ、互ひにぶつかつたのが發端となつて勃發した。元祿8年(1695)四月二十五日のことである。 この境界争いは幕府の評定所にもちこまれ、幕府の現地調査、3年越の大裁判となるも元禄10年(1699)2月4日、別子山村の勝訴となった。
立川中宿を抜ける別子銅山の運搬路
上述の如く、別子銅山の長年の願いであった銅山峰を越え立川に下りる中持さんによる運搬路が西条藩に打診されたのがこのような時期。別子大火の際に立川側からの迎え火で多くの人命を失ったことへの配慮も込め、領内といへども別に新道を開設すれば許可するとの意向を傳へられたが爲め、翌元祿3年(1700)、川之江代官西条藩への斡旋方を依頼し、さらにその翌元禄14(1701)年六月に、西條藩の有司へ歎願書を提出した。
〇立川山村、立川銅山が西条藩から幕府天領に
交渉は停滞するも折からの幕閣勘定奉行荻原茂秀の幕府財政立て直し策として鉱業振興策施行のため、交渉は急転直下解決。元禄15年(1702)10月中宿、口屋ともに所在地は西條領であるにしても、幕領別子銅山附の施設として、その支配は川之江代官所に屬するるものとなった。
次いで元祿16年(1703)に至りて、幕府は先づ立川銅山を別子同樣おのが支配下に移すと同時に、両銅山の薪炭に要する山林、出銅運搬路等に關係ある村々をも幕領に収むるに決し、西條藩および宇摩郡津根陣屋一柳直增侯にその旨を傳へ、寶永元年(1704)中に悉皆その手続きを完了した。
立川銅山を別子銅山が併する
この間立川銅山を10年経営してきた真鍋彌一衛門も稼行を断念、京都の糸割賦(幕府指定の生糸輸入商組合)に譲る。こうして元禄14年の頃と言う。
その京都の糸割賦も4年で資力枯渇し運上金も払えなくなり西条藩に公収されたようである。
その後享保12年(1727)に大阪屋久左衛門が稼行。いつだったか歩いた別子銅山に薪を運ぶ馬の道の尾根筋、大永山トンネルの西に「大阪屋敷越」の地名があり何だろうと思っていたのだが、大阪屋ゆかりのものだろう。この大阪屋、幕府より銅輸出の特許を得た銅商人22名のひとりという豪商ではあったが多くの困難に面することになる。
ひとつは鉱夫離山。折からの幕府財政立て直しのため悪化鋳造した賃金を支払うことにより170名の工夫が離山し別子に移る。元文3(1738)4年のことである。
次いで大阪屋と立川山村民との騒動。立川銅山の中持を担った村民の賃金値下げと入会地の出入り禁止がその発端。
また鉱山の状況も村民嘆願書に「上げ下げの荷物も数無く」「ただ今の銅山師、荷物の数なく」とあるように衰微極度に達していたようである。
寛延年間(1748-1751)には幕府への運上金未納の状態となり幕府に公収のおそれが生じる。ために大阪屋から住友に銅山引継ぎ打診。享保5年(1720)、伊予の幕府領のうち、宇摩、新居、伊予三郡を領することになった松山藩領に幕府に願書伝達。鉱毒による河川汚染を憂う新居郡西条藩の数ヶ村の反対を受け、住友は一時引継ぎを断る旨を伝える。鉱床の枯渇した古い銅山を敢えて引き継ぐ強い理由もなかった。 が、大阪屋も必死。幕府も住友の一山稼ぎを願い、松山藩と西条藩に命じ村民慰撫し寛延2年(1749)12月、大阪屋久左衛門代理より立川銅山の引き渡しを受けることになる。
当時としては銅山としての価値はなかった立川銅山を併したことは後の別子銅山にとっては大きな意味を持つように思える。と
銅山峰の南嶺より採鉱本部を北嶺の東平に移し得たのもそこが別子銅山の地となっていたからだろうし、当時その構想があったとも思えないが、明治の頃になってラロックをはじめとする別子銅山発展の大計画を作り得たのも、銅山峰の北嶺・南嶺の一手稼ぎとなっていたことがあってこそのことであったかと思える。







今回は金剛福寺を打ち、土佐最後の札所、宿毛の第三十番延光寺を目指す。金剛福寺から延光寺への遍路道は大きく分けて2つある。ひとつは既述の市野瀬の真念庵近くの金剛福寺・延光寺遍路道分岐点まで打ち戻り、幡多郡三原村を経由して宿毛市の延光寺に進むもの。真念はこのルートを歩いている。
もうひとつは足摺岬より西岸の道を進み、幡多郡大月町に建つ番外霊場として知られる月山神社を経て延光寺を目指すもの。月山神社は元は月山霊場・守月山月光院南照院と称せられた神仏混淆の霊場であったが、明治の神仏分離令で月山神社となった。澄禅はこのルートを辿っている。
今回は真念庵まで打ち戻り、幡多郡三原村を経て延光寺を目指す。大雑把なルートは真念庵 近くの金剛福寺・延光寺遍路道分岐点まで打ち戻り、そこから県道346号を辿り土佐清水市から 幡多郡三原村に入り、途中山越えの道となる県道346号より道なりに繋がる県道46号に乗り換え、 三原村の上長谷(ながたに)で県道を離れ山越えの道を上り地蔵峠に。そこから四万十市の江ノ村に下り、西行し宿毛市の延光寺に至るものである。

延光寺を打ち終えれば長かった四国遍路歩きも一巡したことになる。遍路歩きのきっかけは、田舎の愛媛に帰省の折時間を見付けて伊予の遍路道にある峠越え。いくつかの峠越えを楽しんだ後、どうせのことなら峠と峠の間の遍路道を繋いでみようか、で、ついでのことなら伊予の遍路道を繋いでしまおうと想い、予土国境の延光寺からはじめ四国中央市の第陸十五番札所三角寺まで辿り終えた。
これで大団円と思っていたのだが、どうせのことなら讃岐もカバーしよう、讃岐まで来なら阿波も、 せkっかく阿波を打ち終えたのであれば土佐もカバーしようということになり、結果的に四国八十八箇所霊場を一巡することになったわけである。
もとより深き信仰心があるとは言い難く、好きな峠越えからはじまった四国遍路歩きではあったのだが、四国遍路のあれこれ、また四国各地のあれこれをちょっとだけ「深く」知ることができた。また、道標、標石を目安に旧遍路道の道筋のトレースは結構し得たと思う。路傍に佇む古き道標、標石、丁石を探すのはなかなか大変ではあったが、「宝探し」ゲームのようでもあり楽しいものでもあった。
一巡し終え、事前準備は最小限、出たとこ勝負、少々格好良くいえば、セレンディユピティ(serendipity)、素敵な偶然に出合ったり、予想外のものを発見する喜びを基本とする散歩ではあったが、それはそれなりに得るものの多かったのだが、事前準備不測故の「後の祭り」も多かった。
時間をみつけ、見落としたところを再び訪れる楽しみを残し、とりあえず四国遍路歩きのメモは一応お終いとする。



本日のルート;
第三十八番札所金剛福寺 
■市野瀬の遍路道分岐点まで打ち戻り三原村の地蔵峠を越えて延光寺へ 第三十八番札所金剛福寺>(市野瀬の遍路道分岐点まで打ち戻り)>金剛福寺と延光寺への遍路道分岐点>下ノ加江の標石>( 成山峠越えの遍路道・成山峠) >狼内の「狼内城跡」の案内>真念道標>地蔵峠>江ノ村大師堂>西ノ谷集落>上土居川橋>中筋川を渡り国道56号に戻る>住吉神社手前四つ辻の自然石標石>39番札所延光寺参道口に標石2基>9番札所延光寺 
■月山神社経由の遍路道 第三十八番札所金剛福寺>松尾>中浜>清水(志水)>三原への分岐点>三崎>川口>具ノ川(具ノ河)>大津(粟津)>才角(サイツ野)> 月山神社 >西泊(西伯)>小筑紫(コヅク)>七日島>伊与野(イヨ野)滝厳寺>三倉坂または御鞍坂(ミクレ坂)>宿毛>9番札所延光寺 



 第三十八番札所金剛福寺

山門前の標石
三門前左側、大きな石灯籠傍に3基の標石。1基は最近のもの。金剛福寺本堂、岩本寺、延光寺などへの距離が刻まれる。延光寺へは真念庵まで打ち戻り三原経由では五五、一粁、海岸廻りの月山経由は七五、二粁、とある。
その前に立つ標石は風化は激しいが「従是寺山江打抜十三里 月山へ九り」と刻まれる。その左の標石は徳衛門道標。「是より寺山迄十二里」と刻まれる。
寺山は延光寺のこと。月山は元は月山霊場・守月山月光院南照院と称せられた神仏混淆の霊場であったが、明治の神仏分離令で月山神社となった。西海岸廻りの高知県幡多郡大月町に建つ。
山門
山門は仁王像が並ぶ。寛永十年(1633)の作。扁額「補陀落東門」は元は嵯峨天皇の揮毫。現在のものは江戸初期に模写された、と。
奇岩を配した庭園風境内
山門を潜ると池、そして奇岩を配した庭園風境内となる。造作はそれほど古くない。平成26年(2014)が弘法大師四国霊場開場1200年記念の年であり、それを踏まえての平成の大修理によるのではないだろうか。
石灯籠
当日は見落としたのだが、山門を潜ると左手に元和の石灯籠と称される古い灯籠があるとのこと。元和4年(1618)松平土佐守(2代藩主山内忠義)の奉納したもので、「元和四戌午四月十七日」と刻まれている。元和2年(1616)東照大権現(徳川家康)菩提のために奉納したもの。伊豆半島の輝石安山岩で造られ、船でこの地まで運ばれたと言う。




奇岩に囲まれた手水場の左手、池の向こうに鐘楼堂と朱色の六角堂。正面に本堂、右手に護摩堂と多宝堂、その先に和泉式部の逆修塔。左手に愛染堂、十三重石塔、行者堂、権現堂、文殊堂、大師堂と並ぶ。 Wikipediaには「金剛福寺(こんごうふくじ)は、高知県土佐清水市にある真言宗豊山派の寺院。蹉?山(さだざん)、補陀洛院(ふだらくいん)と号す。本尊は千手観世音菩薩。
寺伝によれば、弘仁13年(822年)に、嵯峨天皇から「補陀洛東門(ふだらくとうもん)」の勅額を受けた空海(弘法大師)が、三面千手観世音菩薩を刻んで堂宇を建てて安置し開創したという。空海が唐から帰国の前に有縁の地を求めて東に向かって投げたといわれる五鈷杵は足摺岬に飛来したといわれている。寺名は、五鈷杵は金剛杵ともいわれそれから金剛を、観音経の「福聚海無量」から福を由来したとされている。
六角堂と鐘楼堂
本堂前庭園と愛染堂

金峰(きんぽう)上人が住持の時、修行を邪魔する魔界のもの達を呪伏すると、そのもの達が蹉?(私注;サダ)した(地団太を踏んだ)ことから、山号を月輪山から蹉蹉?山に改めたといわれる。 歴代天皇の祈願所とされたほか、源氏の信仰が篤く、源満仲は多宝塔を寄進、その子頼光は諸堂を整備した。平安時代後期には観音霊場として信仰され、後深草天皇の女御の使者や和泉式部なども参詣している。
鎌倉時代後期(建長から弘安期)には南仏上人が院主となって再興したと伝えられ、また阿闍梨慶全が勧進を行ったとも伝えられている。南仏を「南仏房」と記す史料もあり、南仏(房)は慶全の別名であったとみられる。

権現堂
室町時代には尊海法親王が住職を勤め、幡多荘を支配していた一条家の庇護を受けた。戦国期に一時荒廃したが江戸時代に入っても土佐藩2代藩主山内忠義が再興した。
境内には亜熱帯植物が繁っている。足摺岬の遊歩道付近には、ゆるぎ石、亀石、大師一夜建立ならずの華表、亀呼場、大師の爪書き石の「弘法大師の七不思議」[1]の伝説が残されている。山号の文字「蹉」も「?」もともに「つまづく」の意味で、この地が難所であったことを示していて、当寺は俗に足摺山という。また、大師御遺告の25条の第1条の中に「名山絶嶮の処、嵯峨孤岸の原、遠然(えんねん)として独り向ひ、掩留(おんる)して苦行す」とあるのは当地であるといわれる」とある。
弘法大師は寺建立に際し、「この地たるや、四国の南極に位し、うしろに大悲の山そびえ、前に弘誓の海漫々として観音菩薩の生の霊地たり」と述べたと言う。四国の南極と称される如く土佐の辺地にありながら、嵯峨帝ののちも代々天皇家の勅願所として、又、藤原氏や源氏一門はおろか、徳川時代には諸大名から帰依者も多くあったとのことであり、この岬一帯には、堂塔十六、二十二社が建ち並び、末寺十堂社二十七を支配するほどの大寺であった、と。
明治初年の排仏毀釈には一時衰えるも後に復興し、現在に至っている。
補陀落渡海信仰
那智参詣曼荼羅図全景(正覚寺本)
扁額に「補陀落東門」とあるように、また、弘法大師が「観音信仰の霊地」と讃えた如く、この寺は観音菩薩の補陀落浄土をめざして大海に漕ぎいだした紀州熊野と同じく、補陀落渡海信仰の地として知られる。此の金剛福寺のある足摺岬もまた補陀落渡海の行場であった。金剛福寺の本尊千手千眼観音菩薩が、熊野補陀落山寺の本尊と同じ三面形式であることは、熊野との強い結びつきを示しているといえる。
補陀落渡海の様子は、後深草天皇の中宮であった二条(藤原公子)の『とはずがたり』という日記文の一節に「土佐の足摺の岬と申す所がゆかしくて侍るときに、それへ参るなり。かの岬には、堂一つあり。本尊は、観音におはします。隔てもなく、また坊主もなし。ただ、修行者、行きかかる人のみ集まりて、上もなく、下もなし。・・・・一葉の舟に棹さして、南を指して行く。坊主泣く泣く『われを捨てていずくへ行くぞ』と言ふ。小法師、『補陀洛世界へまかりぬ』と答ふ。見れば、二人の菩薩になりて、舟の艫瓶に立ちたり。心愛く悲しくて、泣く泣く足摺をしたりけるより、足摺の岬といふなり。・・・・・」とある。
また熊野より木の葉のような小舟に身を託した補陀落渡海について『吾妻鏡』は、に「彼は船に乗り家形に入って後、外より釘をもって皆打付、一扉も無し、日月光をみることあたはず、ただ燈びによるべし。三十余日のほどの食物ならびに油等をわずかに用意す」と記される。



足摺由来の変化
承応二年(1653)に書かれた澄神の『四国遍路日記』には、「足摺山当寺ハ大師ノ開基、嵯峨天皇ノ御願也。往古ハ此山魔所ニテ人跡絶タリ、然ヲ大師分入玉イ悪魔ヲ降伏シ玉フニ、咒力ニヲソレテ手スリ足スリシテニゲ去リケル間、元ト月輪山ト云シヲ改テ蹉?山ト号シ玉フ。二字ヲ足スリフミニジルト訓ズル故也。其訓ヲ其儘用ヒテ足摺山ト云也」とある。
女西行とも云われた上述後深草院二条の『とはずがたり』が書かれたのは嘉元四年(1306)のこと。このときは補陀落渡海の様より「心愛く悲しくて、泣く泣く足摺」とその由来を記すが、それから350年ほど後には、弘法大師が 修行を邪魔する魔界のもの達を呪伏し蹉?せしめたとする

Wikipediaには修行を邪魔する魔界のもの達を呪伏し蹉?せしめたの金剛福寺の上人とあったが、それが空海に置き換わっている。四国遍路における弘法大師一元化の一端が垣間見れて面白い。
多宝塔
金剛福寺多宝塔は、伝承(蹉?山縁起)では清和天皇の菩提のため源朝臣多田満仲が建立したとされる。
創建時の九輪の露盤銘文によると、南北朝時代の応安8年(1375)、九輪は摂州堺の鋳物師山川助頼が鋳造し、院主・南慶の歓進により建立されたと記される。その後、江戸時代の貞享3年(1686)には4代土佐藩主山内豊昌が本堂とともに多宝塔を修造される。
現在の多宝塔は、明治13年(1873)に地域の人々の寄進で建て替えられ、清松村大浜の大工棟梁市川安太郎の建築。九輪頂上の宝形中には水晶の五輪塔1基が納められ、その中には5粒の仏舎利が入ってい。近年、破損により取替えられた創建当初の九輪は、現在、多宝塔前に建てられている(土佐清水市HPより)。
天灯竜灯の松
室町時代専海法親王の磋?山縁起の中に「天灯松樹に輝き竜灯備前を照す云々」とあり、本堂前に松の大木があったが現在はそのあとをとどめるのである(土佐清水市HPより)
逆襲の塔
金剛福寺多宝塔前の宝篋印塔は、砂岩で作られたもので、室町時代前期の作と言われる。 上部の相輪が3つに割れ、笠の部分の四隅につけられた「方立」は1つが破損してが、他は完全に保存されている。また、和泉式部の黒髪をうめた逆修の塔とも言い伝わる。
宝篋印塔(ほうきょういんとう)とは、宝篋印阿羅尼経(ほうきょういんだらにきょう)を納める塔を摸して造られた塔のことで、墓標や供養のために建てられる塔。形は下部に方形の石を置き、下から種々の形に積み上げ最上部に棒状の相輪をおく。
笠は上下に幾段にも積み重ねられ、最も広い部分の四隅に「方立(ほうだて)」という三角形の飾をつけている。
逆修
「コトバンク」には
1 煩悩に身を任せ、真理から遠ざかること。⇔順修。
2 生前に、自分の死後の冥福(めいふく)のために仏事をすること。予修(よしゅ)。逆善。逆修善。
3 年老いた者が、年若くして死んだ者の冥福を祈ること。
4 生前に、墓石に戒名を刻むこと。朱書きとする。また、その戒名。逆修の朱。
とある。和泉式部の黒髪をうめた逆修の塔の「逆修」は、はるばるこの地を訪れ死後の冥福を祈り建立した、との記事があるので、2の意味であろう。
五鈷杵
弘法大師留学先の唐より帰国の際、三種の鈷杵を投げ「密教の栄えるところに鈷杵とどまる」と諭された。五鈷杵はこの金剛福寺の松にとどまった、とも伝わるが、その他のふたつ、三鈷杵は高野山に、独鈷は三十六番青龍寺にとどまったとされる。

足摺の七不思議
時間に余裕がなく、また愛媛が田舎でもあるため足摺岬には時に応じて訪れており、足摺岬などや周辺の見どころは今回パスした。メモの段階で土佐清水市のHPに、「弘法大師が建立した四国八十八ヶ所第三十八番札所「金剛福寺」があり、それにまつわる数々の「不思議」が遊歩道沿いに点在しています。それを総じて「足摺七不思議」と呼んでいます。足摺岬灯台や椿のトンネルを通る遊歩道沿いにありますのでぜひ見つけて下さい。
※七不思議とは、不思議が七つあるという意味ではなく、多くの不思議があるという意味です」とあった。弘法大師とゆかりのある話でもあり、写真と共に説明文も掲載されて頂く。
ゆるぎ石
弘法大師が金剛福寺を建立した時発見した石。乗り揺るがすと、その動揺の程度によって孝心をためすといわれています。
不増不滅の手水鉢
賀登上人と弟子日円上人が補陀落に渡海せんとしたとき、日円上人が先に渡海していったので非常に悲しみ、落ちる涙が不増不滅の水になったといわれています。
追記;『蹉?山縁起』には、「長保頃にや賀登上人補陀落渡海のために難行苦行積功累徳し侍りしに、弟子日円坊奇瑞によりて先に渡海ありしに、上人嗟嘆のあまり五体投地し、発露涕泣し給ひし、其涙不増不減水となれりといへり。此外秘所秘窟久住老僧面受口伝せしむと云々」と記されている。
亀石
この亀石は自然石で、弘法大師が亀の背中に乗って燈台の前の海中にある不動岩に渡った亀呼場の方向に向かっています。
汐の満干手水鉢
岩の上に小さなくぼみがあり、汐が満ちているときは水がたまり、引いているときは水がなくなるといわれ、非常に不思議とされています。
根笹
この地に生えている笹はこれ以上大きくならない笹だといわれています。
大師一夜建立ならずの華表
大師が一夜で華表(とりい)を造らせようとしたが、夜明け前にあまのじゃくが鳥の鳴真似をしたため、夜が明けたと勘違いし、やめたといわれています。
亀呼場
大師がここから亀を呼び、亀の背中に乗って前の不動岩に渡り、祈祷をされたといわれています。
大師の爪書き石
これは弘法大師の爪彫りといって、「南無阿弥陀仏」と六字の妙号が彫られています。
地獄の穴
今は埋まっていますが、この穴に銭を落とすと、チリンチリンと音がして落ちて行き、その穴は金剛福寺付近まで通じるといわれています。






市野瀬の遍路道分岐点まで打ち戻り
幡多郡三原村経由で地蔵峠を越え宿毛市の延光寺に至るへの遍路道

今回は真念庵まで打ち戻り、幡多郡三原村を経て延光寺を目指す。大雑把なルートは真念庵 近くの金剛福寺・延光寺遍路道分岐点まで打ち戻り、そこから県道346号を辿り土佐清水市から 幡多郡三原村に入り、途中山越えの道となる県道346号より道なりに繋がる県道46号に乗り換え、 三原村の上長谷(ながたに)で県道を離れ山越えの道を上り地蔵峠に。そこから四万十市の江ノ村に下り、西行し宿毛市の延光寺に至るものである。
このルートは真念が『四国遍路道指南』(貞享四年(1687)に「(足摺山)・・・ 是より寺山迄十二里。右真念庵へもどり行。○真念庵〇成山村○おほうめうち村、真念庵より是迄山路、渓川。○上長谷村、しるし石、いにしへハ左へゆきし、今ハ右へゆく、但大水のときハ左よし。○ゑ の村、川有。水ましの時ハ庄屋并村翁遍路をたすけわたす。〇いその川村、やきごめ坂。〇ありおか村〇やまだ村。三十九番寺山院山をうしろにし南むき。はた郡中村。本尊薬師秘仏、御作。南無薬師諸病悉除の願こめてまひるわが身をたすけましませ」ルと記すートを辿ることになる。
「おほうめうち」は狼内(おおかみうち)、 「ゑ の村」は江ノ村、「いその」は磯ノ川のこと。

市野瀬の金剛福寺と延光寺への遍路道分岐点
金剛福寺から市野瀬の金剛福寺と延光寺への遍路道分岐点までは前回メモを参照して頂くこととして(金剛福寺から分岐点までのルートマップは参考のため再掲しておく)

県道346号、市野瀬川に架かる市ノ瀬橋北詰に道案内などと共に6基の標石が立つ。
道案内は「県道右折は三原、左折は真念庵前(へんろ道0.2km)、38番金剛福寺29km」とある。三原は宿毛市の39番札所延光寺への途中の集落であり、多くのお遍路さんは金剛福寺を打った後、この地まで打ち戻り土佐最後の札所である延光寺へと向かったようだ。
北詰に残る標石は左端に自然石標石。多数の文字が刻まれれるがはっきりしない。その隣、最も大きな板状標石には「あしずり三百五十丁 五社十四里 寺山へ五里 弘化二」といったも文字が読める。その横は手印だけが見える。その横の標石は形から見て真念標石のように思えるがはっきりしない。その横の標石には「左 三十八番 左足摺道七里打戻り 寺山道 昭和七年」といった文字が刻まれる。右端の自然石標石の文字は読めない。
寺山は宿毛の延光寺のこと。五社は札所岩本寺の前身、五社(高岡神社)のこと。

下ノ加江の標石
遍路道分岐点より県道346号を左折し、下ノ加江川水系の市野瀬川に沿って進む。ほどなく道の左手に「伊豆田神社社叢」の木標、伊豆田神社と刻まれた標石。「鳴谷川に沿って0.8キロ、高知山背に鎮座。文化財・木彫ご神像」とある、そしてその傍に自然石の標石。手印だけが見える。
加江
植物の茅に由来。燃えやすい茅の字を嫌い霜栢に変 わり、明治には下ノ加江村(土佐地名往来)
伊豆田神社
市野瀬の遍路道分かれまでは伊豆田峠を越えてきたわけで、伊豆田神社って、なんらかこの辺りの由緒ゆかしき社かとチェック。
標石はあるのだが、参道の案内はない。道の北側に山に入る土径がある。それが参道だろうか。当日は時間に余裕がなく参拝することはできなかったのだが、メモの段階で伊豆田神社のことをチェックする;
創祀年代は不詳であるが、式内社・伊豆多神社に比定され、明治元年に伊豆田神社と改称されたようだ。現在は無社格。明治の頃由緒ある社として県社格を願い出たが叶わなかったようである。中世以降は伊津多大明神、伊都多大明神と呼ばれていた、との記事もあった。
伊豆多はイデユタ(出湯田)に由来すると。湯は冷水の湧き水も含む。市野瀬の市(イチ)も湯地(ユチ)の変化し たもの。また市野々は伊豆田神社の祭礼時の市に由来するとの記事もあった。 『土佐物語』にも長曽我部元親が「伊豆田神社は、當國廿一社の一つなればとて、立寄らせらる」とあるのでこの地の人々に深く信仰されていた社であったのだろう。

狼内の「狼内城跡」の案内
成川、家路川と川の名の付く集落を進むと土佐清水市から幡多郡三原村の成山集落に入る。その先で県道346号は市野瀬川の源頭域から離れ丘陵を上り長谷(ながたに)川の谷筋に下りる。 長谷川の谷筋に下りた県道346号は谷筋を北に四万十川水系中筋川の谷筋に下り四万十市の具同に向かうが、遍路道は長谷川の谷筋で県道346号から県道42号に乗り換え、長谷川を渡り川の右岸を狼内(おおかみうち)へと進む。
道の右手に「狼内城跡」の案内。「狼内城跡 城主・江口六太夫  天正十七~十八年領主として地検帳に記されているもと一条家の家臣であったが、天正三年一条氏亡びて長宗我部元親に仕えて帆(浦)奉行を勤めるなど政事にたずさわった。そして城の麓の土居館に領主として居住していた。中村市鍋島の豪族江口と一族と目され、三原村内に其の給地三町六反余をもっていた。城跡は二段にわかれ、前後三条の空堀が残っており、本丸は約二00平方メートルある。 」と記されている。
成山峠越えの遍路道
メモの段階で成山の先、分水界を越える県道から左に逸れる旧遍路道がある、という。Google Street Viewでチェックすると、成山集落の道の左手、県道から左に逸れる一段高い所に小祠、道標、案内板が見える。そこが成山峠越えの旧遍路道取り付き口だろう。
案内には「へんろ道跡 この道標から山腹の植林の中を登り成山峠越えて、狼内、川平郷の分岐にある指差造務まで、昔のへんろ道の姿が残る。
この道は昭和のはじめまで三原の百性が下ノ加江へ米売りに馬で通った道であり、魚を担うた浜の魚売りが越えた道である。江戸時代の遊路記に「谷間い長く木重なり、淋し」とある。 平成十年三月 三原村教育委員会」とある。
市野瀬の真念庵から市野瀬川を遡り、この道を通り江ノ谷から地蔵峠越え、江ノ村、有岡を経て三十九番寺山延光寺へ至るへんろ道で「寺山道」とも言われていたようである。
道はおおよそ県道に沿って丘陵を進み成山峠を越え、長谷川の左岸の道を西進し、下に記す真念道標のところに出るとの記事があった。峠を越えて里に出たところに手印だけの指指道標が残るようである。

上長谷の真念道標
長谷川の支流・木和田川に架かる木和田橋を渡り少し行くと右側に天満宮、その鳥居より西へ約30メートルほど進むと北に逸れる道があり案内板と標石2基と石仏らしきものが立つ。
案内には、「真念法師の道標 「右遍路みち左大ミつのときハこのみちよし」願主 眞念  為父母六親・貞享四年(六八七)丁卯三月廿日 施主大阪西浜町てらしま五良衛(私注;字がでないので「衛」で代用)門建之とある。真念法師はへんろみち道標の創始者と伝へられる。  平成十年三月三原村教育委員会」とある。

右端一番大きな標石には「へんろ道 右寺山道 左足摺山 願主 愛媛縣」と刻まれる。愛媛県ができたのは明治6年(1873)であるのでそれほど古いものではない。寺山は延光寺、足摺山は金剛福寺。その横の標石は案内にある「右遍ん路みち 左 大ミつのときハこのみちよし」と刻まれる。 

大水の時は遍路道の先、北を遮る山稜を越えた中筋川の谷筋が氾濫する、ということだろうか。 真念道標の隣、左端は風化激しく標石か石仏かの区別もできない。
中筋川洪水の特徴
中筋川地溝帯(Google Earthで作成)
国土交通省の資料に拠れば、「中筋川は、その源を高知県宿毛市白皇山(標高458m)に発し、ヤイト川、山田川、横瀬川等の支川を合わせ中筋平野を東流し、河口の四万十市実崎地点において四万十川と合流している1級河川である。
中筋川周辺の地形は、四万十川下流部と宿毛湾奥部をほぼ東西に連続する「中筋川地溝帯」と呼ばれる低地および丘陵地帯と、その南北両側に分布する起伏山地よりなっている。
・中筋川は低平地を流れ、洪水時に本川水位の影響を受けることから、内水被害が発生し やすい。
中筋川洪水の特徴として
中筋川流域の平均年降水量は2,200~2,600mmで日本有数の多雨地帯。
・降雨のほとんどが台風に起因し、大規模な洪水がしばしば発生。
・中筋川は、四万十川合流点から約11kの区間の河床勾配は約1/8,000と非常に緩やかであるため、沿川では四万十川の背水の影響により、度々内水被害が発生」と記される。
度重なる洪水対策として昭和4年(1929)よりはじまった改修工事によ り洪水被害が次第に減少してはいる」とある。
中筋川地溝帯
中筋川周辺の地形は、四万十川下流部と宿毛湾奧部をほぼ東西に連続する「中筋川地溝帯」と呼ばれる低地及び丘陵地帯と、その南北両側に分布する起伏山地より成っている。
地溝とは、ほぼ平行に位置する断層(中筋川の場合は北の国見断層と南の江ノ村断層)によって区切られ、峡谷の形状をなしている地塊および地形のこと。侵食によってできた谷とは異なり、基本的に正断層の活動によって形成される。
地殻において水平方向に伸張力が働くと、その地域には正断層が発達する。この断層線が、水平面においてほぼ平行に複数発達すると、一部地塊は沈降し、峡谷の形状を成す地溝となる。

大ミつのときハこのみちよし
洪水の時は左へとある。どのような道筋なのだろう。ちょっとチェック。県道44号を西行し、途中宗賀で下ノ加川に沿って南下する県道とわかれ、県道21号に乗り換え下ノ加江川水系の宮ノ川などの支流に沿って三原村役場のある村の中心部に。
村の中心部を越えた県道21号は下ノ加江川水系の分水界を越え、四万十川水系中筋川の支流である清水川に沿って中筋川ダム(洪水対策などの多目的ダム)を経て宿毛市平田に出る。
微妙な分水界
下ノ加江川水系と四万十川水系中筋川支流清水川の源頭部は急接近している。境は船ヶ峠と記された、峠というよりちょっとした「高み」といった箇所。船ヶ峠の標高は170mほど。両水系の谷筋の標高は150mほど。ちょっとした地殻変動で河川争奪が起こりそうに思える。






江ノ谷川を渡り北進し地蔵峠へ
真念道標を右折し天満宮の鎮座する丘陵西裾を進み、道なりに江ノ谷川を渡り車道に合流し、東西の丘陵に挟まれた江ノ谷川に沿って北進する。道は舗装されており古き趣はない。 真念道標からおおよそ50分弱、地蔵峠に出る。
上長谷(ながたに)城跡
遍路道の左手、県道に突き出た丘陵上は上長谷城跡。武元真季(敦いは武光兵庫ともいう)の居城。戦国時代天正のはじめ頃(一五七三)柚木城主敷地官兵衛、下長谷城主大塚八木右衛などと共に一条氏に仕えた。天正三年栗本城(具同村)にて一条勢と共に長宗我部元親軍と戦って破れ降伏、一命と領地は安堵されたが、その後の消息は不明とのこと。城の本丸と目される所330平方メートル、下段に三条の空堀あるようだ。

地蔵峠
坂を上り切ったところ、尾根道も舗装された道が走る。四万十市と幡多郡三原村を結ぶ県道344号だ。峠は四万十市と三原村の境となっている。
県道とのT字路交差点、正確には土径が北に下るため四つ辻といったほうがいいかもしれない。
その四つ辻の北西側、一段高いところに舟形石仏が3基佇む。その内1基は三体が刻まれたもの。なんだか惹かれる。この地蔵尊ゆえの地蔵峠ということだろうか。
県道344号
宿毛線・四万十くろしおライン国見駅の少し東で国道56号と分かれ間集落から山間のジグザグ道を上り、この地蔵峠を経由して三原町に抜ける。



江ノ村大師堂
地蔵尊を左上に見遣りながら、地蔵峠の四つ辻から土径となった遍路道を下る。峠の標高は260mほど。等高線に沿うように、250m、200mと緩やかに坂を下り、標高150m辺りの平坦地を過ぎ100m、50mと坂を下る。時に崖が崩れたところもあるが虎ロープなどでサポートされており、それほど危険な箇所はない。
峠から40分強で江ノ村大師堂。新しく建て直されたのだろうか、少し新しい建屋となっていた。林間から里が除く。

西ノ谷集落で里に出る
遍路墓のような石碑に頭を下げ数分歩くと西ノ谷集落の里道に出る。里道を進み東西に走る中村宿毛道路の高架手前に遍路休憩所と安らぎ大師像。高架を潜り中村宿毛道路の北を走る道に遍路道案内のタグ。西を指す。
中筋川を渡り国道56号に戻る 中村宿毛道路に沿って丘陵裾を西行すると水路が行く手を遮る。北に迂回し上土居川橋を渡るとその先、中筋川を渡る道筋と山裾を西行する道の分岐点。

中筋川を渡り国道56号に
橋を渡るところまでは遍路道タグがあったのだが、分岐点をどちらに進むかわからない。真念の『四国遍路道指南』には「○ゑ の村、川有。水ましの時ハ庄屋并村翁遍路をたすけわたす。〇いその川村、やきごめ坂。〇ありおか村〇やまだ村。三十九番寺山院山をうしろにし南むき。はた郡中村。本尊薬師秘仏、御作。南無薬師諸病悉除の願こめてまひるわが身をたすけましませ」とある。 この記事に拠れば、中筋川を渡り磯の川村から有岡村へと向かっている。
分岐点の対岸は磯ノ川、有岡の集落がある。はっきりしないが、この辺りで中筋川を渡り磯ノ川、有岡へと向かったのだろう。分岐点を北に国道56号に戻る。

住吉神社手前四つ辻の道標
磯ノ川、有岡と進み中筋川支流横瀬川、山田川を渡ると四万十市から宿毛市に入る。先に進むと道の右手に住吉神社。その手前の四つ辻に自然石標石が立つ。「右 日本勧請始金毘羅宮 廿丁 宮ヨリ打チ抜ケ五十丁  左 三拾九番寺山寺 六十五丁 文政治十丑龍 山田村講中」と刻まれる。ということは、真念の記事にある「やまだ村」とはこの道標の立つ辺りであろうか。東には山田川も流れている。「右 日本勧請始金毘羅宮 廿丁 宮ヨリ打チ抜ケ五十丁」は何処を指すのか不明。

39番札所延光寺参道口に標石2基

国道を西行し平田、寺尾を越えると延光寺参道口に至る。参道口に大きな標石2基。高いほうの標石には「四国霊場第三十九番札所延光寺」とあり、線で彫られた矢印と共に、是ヨリ一キロ 約八丁 中村二十キロ 宿毛六キロ」 「文化財 本尊薬師如来・笑不動、銅鐘、いぶき」 「昭和三十九年三月一日 施主 滋賀県長浜 中尾多七・高田金二」と刻まれる。
中尾多七さんたちが建てた標石には遍路道の途次多く出合った。線彫りの矢印での方角指示が特徴的な角型標石をその典型とする。
もう一基の標石は茂兵衛道標。「東 中村 西 宿毛 」、手印と共に「寺山延光寺 足摺山江十一里 大正五年十二月」。茂兵衛227度目巡礼時のもの。またこの道標には添歌も刻まれており、「花の香や いと奥深き法の声」と刻まれる、と言う。

39番札所延光寺
標石を右に折れ、左折・右折で北に進み途中、左に分ける「40番 観自在寺 歩き遍路道」に入る土径の角に茂兵衛道標。正面には「第三十九番」、歩き遍路道側には「四十番 是ヨリ七里」と刻まれる。延光寺はすぐ。




市野々より県道21号を辿る遍路道

金剛福寺より真念庵近くの遍路道分岐点に打ち戻る途中、下ノ加江から県道21号を進み宿毛に出るお遍路さんもいるようだ。特段古くからの遍路道というわけでもないが、ちょっとメモしておく。距離は30キロほどだろうか。
市野々で県道21号に乗り換え、下ノ加川に沿って進み大川内の集落を越えると土佐清水市から幡多郡三原村に入る。芳井、久繁、下長谷と進む。下長谷の対岸、宮奈路の丘陵に下長谷城跡がある。
下長谷城跡
「下長谷城跡 大塚八木右衛生門の居城で一条氏に仕え、天正二年(一五七四)一条氏の家老(安並、羽生、為松)などが謀って其の主君兼定を豊後(大分県)に追放するも、是れに憤り加久見城(加久見左衛門)などと共に兵を挙げ三家老を亡した。
翌天正三年、一条兼定が中村に復帰を試み、伊予の援を得て栗本城において長曽我部勢と抗したがたが破れて降伏、一命と領地は安堵されたが、数年にして亡んだ。本丸は約100平方メートル、一条の空堀のあとが残る」、と。
奈路
四万十町地名辞典には、「東北の平(たい)、九州の原(はる)、四国の平(なる)と同じ地名の群落。奈良も千葉県の習志野も、ナラス、ナラシの当字で、平らな原野を表現している。」と書かれている。 成川・鳴川も同じ。

下長谷城跡のある丘陵を廻り込むとそして宗賀の集落。この地で県道21号は下ノ加川筋からその支流長谷川筋に入り三原村の中心をなす来栖野と進む。
来栖野を越えた県道21号は、長谷側源頭部の船ヶ峠を越え、四万十川水系中筋川の支流である清水川に沿って下り、多目的ダムである中筋川ダムを越え県道56号の平田へと下る。遍路道は平田で国道を右折し延光寺へと向かう。
藤林寺
県道が国道56号に合流する手前、沖前の丘陵裾に曹洞宗藤林寺がある。境内には一条家の房良、房冬、房基を弔う五輪塔・卵塔などの墓石がある。


月山経由延光寺への遍路道

金剛福寺から西へと海岸廻りの遍路道を記す。実際に歩いたわけではないので、このルートを歩いた澄禅の『四国遍路日記』 (承応二年=一六五三)をもとに遍路道をトレースする。金剛福寺前の案内では、三原経由55.1キロ、月山経由が73.2キロである;
澄禅の『四国遍路日記』
「六日逗留ス(金剛福寺)。 七日、寺ヲ立テ足摺山ノ崎ヲ往廻リテ、松尾 ・志水・三崎ナド云所ヲ経テ行ニ、海辺ノ事ナレバ、厳石ノ刃ノ如ナル所モ有リ、平砂泙々タル所モ在、カカル所ニ、三崎ノ浜ニテ高野・吉野ノ辺路衆、阿波國ヲ同日ニ出テ逆ニメグルニ行逢タリ。互二荷俵ヲ道ノ傍ニ捨置テ、半時斗語居テ泪ヲ流シテ離タリ。夫ヨリ川ロト云所ニ正善寺ト云浄土宗ノ寺二一宿ス。 八日、寺ヲ立テ海辺ヲ十町斗往テ、大坂ヲニツ上リ下リテ貝ノ河ト云所ニ至ル。夫ヨリ坂ヲ上リテ粟津・サイツ野ナド云所、坂ヲ上リテ浜ヲ下リ下リテ御月山ニ至ル。
御月山ハ、樹木生茂リタル深谷を二町斗分入テ其奥ニ厳石ノ重タル山在リ、山頭ニ半月形ノ七尺斗ノ石有、是其仏像ナリ、誠ニ人間ノ作タル様ナル自然石也。
御前ニ二間三間ノ拝殿在リ。下ニ寺有、妻帯ノ山伏ナリ住持ス、千手院ト云。当山内山永久寺同行ト云。此寺ニ一宿ス。
九日、御月ヲ出テ西伯ト云浦ニ出ツ。又坂ヲ越テ大道ヲ往テコヅクシト云所二出。爰ニ七日島ト云小島在リ、潮相満相引ノ所ナリ、由来在リ。夫ヨリイヨ野滝厳寺ト云真言寺ニ一宿ス。御月山ヨリ是迄四里ナリ。
十日、寺ヲ出テミクレ坂ト云坂ヲ越テ宿毛ニ至ル。爰ハ土佐・伊与両國ノ境目ナリトテ、太守一門 山内左衛門佐ト云仁ヲ置タリ。七千石ノ城下也。城ハ無テ屋舗カマエナリ、侍小路町如形也。真言・禅・浄土・一向宗都テ四ケ寺浄土寺ト云。浄土寺ニ宿ヲ借リ荷ヲ置テ寺山エ往ク。宿毛ヨリ二里也、五十町一里ナリ。
寺山本堂東向、本尊薬師。二王門・鐘楼・御影堂・鎮守ノ社、何モ太守ヨリ再興在テ結構ナリ。寺ハ近所ニ南光院ト云妻帯ノ山伏在リ」。

松尾・志水(清水)
寺を西に白山神社、白山洞門、県道27号を進む。大戸を過ぎると澄禅の記す松尾。大浜を越え、中浜に。この地にはジョン万次郎の生家がある。
中浜を越えると清水。澄禅が志水と記した地である。この地、県道右手に「清水の名水」。土佐清水の地名の由来ともなった湧水である。

三原への分岐点
土佐清水市で県道27号と分かれ町並みを抜け国道321号に乗り換える。養老を越え益野川を渡ると三原への分岐点。「宮ノ川経由36.8キロ 下川口経由41.8キロ」の遍路案内があるようだ。 宮ノ川への道は益野川の源頭部を詰め、山稜を越えて下ノ加川の谷筋に下り三原の中心部来栖野の傍に宮ノ川へと辿るのかと思うが、結構な山越えのよう。

三崎・川口・具ノ川(具ノ河)
分岐点から浜に下ると澄禅が記す三崎。その先、奇岩で知られる竜串がある。国道を西に進むと下川口。澄禅の記す川口正善寺は廃寺となり現在は大師寺となっている。下川口は上述遍路案内にあった地名。
下川口の先には国道に二つのトンネルがあるが遍路道は海岸線に沿った旧道。二つ目のトンネル出口で国道に戻り、澄禅が「貝ノ河」と記す貝ノ川を越え大津へ。大津は澄禅の記す粟津と比定される。

才角(サイツ野)
大津の先にもトンネルふたつ。トンネルを迂回する旧道を進むと小才角。土佐サンゴ発祥の地として知られる。
ここから幡多郡大月町となる。その先才角。澄禅の記す「サイツ野」である。才角の先、大浦分岐で国道321号から離れ大浦に向かう。切り込んだ谷筋を北に進み廻り込み、再び南に下ると朴碕(ほうざき)の岬の断崖の上に出る。「月山神社1.4キロ」と記された「四国のみち」指導標が立つ、という。
土佐サンゴ発祥の地
ここ月灘沖を含めた渭南海岸には, 徳川時代からサンゴのあることがわかっていました。一人の漁師が桃色サンゴを釣り上げた偶然が日本サンゴ史の始まりとされて います。
土佐藩では厳重に採取を禁止し, その所在を口にすることを固く禁じました。このことは今なお残る童唄

お月さんももいろ だれんいうた あまんいうた
 あまのくちひきさけ
  (注:だれん=誰が いうた=言った あまん=あま)

にうかがい知ることができます。この唄は口をとざされた漁師や子供たちによって唄いつがれたものでここ小才角はこの唄の故郷であります。
明治維新後この禁令は解かれ, 明治七年にこの付近の海域ではじめてサンゴ船による採取が行なわれその後は急速に発展し, 明治三十年代には七百隻の採取船が出漁し, 愛媛県からも多数の船が沖の島周辺に来て採取しました。乱獲の結果資源が涸渇, ついに大正十二年頃には ほとんど中止の状態となりました。
その後, 五島, 台湾, 奄美大島, 小笠原諸島周辺やミッドウェー沖にて多くとれ, 当地方では今もなお, その 加工が盛んです。最近また月灘沖の赤サンゴが大変注目されています」と案内にある。 赤サンゴ、または「血赤珊瑚」は「トサ」の代名詞で世界中から注目されているとの説明もある。ヨーロッパのバイヤーは血赤珊瑚のことを「トサ」と呼び、高知県で生産される宝石珊瑚は「土佐珊瑚」と別格視され、またイタリア産カメオの原木は日本(高知)より供給されています、といった記事もあった。

月山神社
「月山神社 当神社は、月夜見尊、倉稲魂尊(うかのみたまのみこと)を祭神とし、表筒男(うわ つつお)、中筒男(なかつつお)、底筒男(そこつつお)の三神と事代主尊を合祀し、もと月山霊場「守月山月光院南照寺」と称せられ、神仏混合の霊場であったが、明治元年に月山神社と改称され現在に至っている。
月山の名は、神社の御神体が月形の石であり、月夜見尊を奉斎したことによる。伝承によれば、遠く白鳳の世、後世に修験道の開祖といわれる役小角がはじめて此の山に入り、月影の霊石を発見し、月夜見尊、倉稲魂尊を奉斎したのが開基といわれる。後、僧空海が此の霊石の前に廿三夜月待の密供を行い、それより陰暦一月二十三日を例祭とされた。
由来、サンゴの名産地で知られる大月一帯の護り神として、また四国八十八ケ所番外札所として今も参詣する人が絶えない。
特に家内繁栄、海上安全、大漁祈願などに霊験ありとする。
なお、当神社は昭和三十三年、大月町有形文化財に指定されている」との案内がある。
境内の大師堂は文政五年頃の建築と推定されており、現社殿は明治二十二年の建築という。

西泊(西伯)・小筑紫(コヅクシ)
月山神社から先、澄禅の記事には「御月ヲ出テ西伯ト云浦ニ出ツ。又坂ヲ越テ大道ヲ往テコヅクシト云所二出。爰ニ七日島ト云小島在リ、潮相満相引ノ所ナリ、由来在リ。夫ヨリイヨ野滝厳寺ト云真言寺ニ一宿ス。御月山ヨリ是迄四里ナリ」としごく大雑把に記されている。 あれこれ記事をチェックする。月山神社を出た遍路道は一度赤泊の浜に出て、澄禅の記す西伯(西泊ではあろうに進み、赤泊の音無神社から谷筋を北に向かい、国道321号に合流し、北上。馬路を越えた先、福良川が海に注ぐ河口域に出ると行政区域幡多郡大月町から宿毛市に変わる。地名は小筑紫。澄禅の記す「コヅクシ」であろう。

七日島
福良川を渡った先、道の左手に天満宮があり、その横に「七日島」と地図にある。澄禅記す「七日島」がそれ。菅原道真が大宰府に配流される途次、嵐のため宿毛漂着し、「筑紫はここか」と問うたのが、小筑紫の地名の由来。また嵐がおさまるまで七日間船をこの地に留めた故の「七日島」であった。

伊与野(イヨ野)滝厳寺
国道を北に少し進むと、澄禅が「イヨ野滝厳寺ト云真言寺ニ一宿ス」と記す滝厳寺が国道右手、伊与野川右岸の丘陵に建つ。

三倉坂または御鞍坂(ミクレ坂)
滝厳寺を出た澄禅は「寺ヲ出テミクレ坂ト云坂ヲ越テ宿毛ニ至ル」と記す。 ミクレ坂は三倉坂または御鞍坂)、宿毛市小筑紫町小浦から同市坂ノ下に下る道であったよう。現在の国道321号は海岸線を走っているが、往昔は海岸線の小筑紫町から山越えの道に入り、松田川が宿毛湾に注ぐ河口部の坂ノ下に出る道を辿ったのであろうか。
この後、宿毛市内から延光寺を目指したようである。


これで四国霊場を一巡し終えた。古の標石を目安に旧遍路道を辿る散歩は母親の介護に6年ほど毎月帰省した折の気分展開ではじめたものではあったが、山あり谷あり、里や海辺を辿る旅となり変化の富む四国の景観を知るいい機会となった。 旅の途中、見逃した旧遍路道、バリエーションルートも結構多い。暇を見付け「後の祭り」フォローアップの散歩にでかけようと思う。



旧土佐中村市(現四万十市)の四万十川右岸より足摺岬突端に建つ金剛福寺までをメモする。その距離おおよそ50キロ弱だろうか。四万十市と土佐清水市を画する伊豆田峠を越えた市野瀬に真念庵がある。そこまでおおよそ12キロ。この地は足摺岬にある38番金剛福寺と土佐最後の札所、宿毛市の39番延光寺への分岐点。多くのお遍路さんは真念庵より金剛福寺を打ち、此の地まで打ち戻り宿毛の延光寺を目指すと言う。
その真念庵から先、時に「あしずり遍路道」の案内が立っていた。真念庵にあった案内には、 「真念庵から足摺三十八番札所金剛福寺までは、約十四キロメートルの遍路道が残っています」とのみの案内があった。当日は「あしずり遍路道」の標識が旧遍路道として残る道筋の指導標とは思わず、単に金剛福寺への遍路道標識と思っていた。
「あしずり遍路道」の標識が旧遍路道への指導標とわかったのは、メモの段階で土佐清水市の「あしずり遍路道」の案内を知ったことによる。そこには、真念庵から金剛福寺までの間に、10余の遍路道名とともにマークが示されていた。国道改修工事から逃れ、現在に残された旧遍路道が約14キロ整備されているようである。
遍路名とマークだけでルートが示されていないのが少々残念ではあるが、遍路道マークの場所から推測すると、それは国道筋を逸れた山道・沢筋といったルートのようである。「あしずり遍路道」の標識は旧遍路道への出入り口指導標であった。
当日は知らず、いくつかの「あしずり遍路道」を辿ったが、ほとんどが後の祭り。 「あしずり遍路道:標識をもとにGoogle Street Viewでそのルートを推測するという為体(ていたらく)であった。 事前準備なし、ほとんど成り行き任せのお散歩をその基本としているため、思いがけない出合いの楽しみもあるが、残念!との想いも多くある。室戸岬東岸でも多くの旧遍路道を見逃したが、足摺岬東岸でも同様の想いを残すことになった。
共に土佐を代表する岬の東岸。この2地域はもう一度しっかり旧遍路道をトレースしようと思う。 ともあれ、メモを始める。



本日のルート;
■四万十川の渡しから伊豆田峠へ
四万十大橋>県道321号を南下>県道343号を南下し旧遍路道に入る>津蔵渕川左岸を国道321号に>津蔵渕集落西端で津蔵渕川を渡り国道321号に>徳右衛門道標
伊豆田峠越え
国道を右に逸れ旧道に>伊豆田峠への山道に入る>伊豆田峠>峠から林道へ>金剛福寺と延光寺への遍路道分岐点
真念庵からあしずり遍路道を金剛福寺へ
真念庵への標石>真念庵>真念庵より「あしずり遍路道;真念道」を進む>市野々・あしずり遍路道分岐点>国道321号に戻る>小方から旧路に逸れ下ノ加江川左岸を進む>下ノ加江大橋を渡り鍵掛へ>鍵掛(かいかけ)>久百々(くもも)>ふた浜>大岐東道>大岐浜>下港山へのあしずり遍路道>以布利>窪津分岐>県道27号と県道347号分岐点>窪津>津呂道>あしずり遍路道・赤碆東道分岐点>舟形標石>第三十八番金剛福寺


●旧土佐中村市(現四万十市)四万十川右岸より金剛福寺への遍路道●

■四万十川の渡しから伊豆田峠へ■

四万十大橋
先回の散歩では往昔の遍路道は下田の渡しへの道筋であろうと四万十川河口部の渡船場へと向かったのだが、事前の準備不足で渡船は予約制とのことで渡船できず、また、それよりなにより下田の渡しは昭和初期から開始されたとのことを知り、往昔の四万十川の渡しがあったとされる高島の渡し、現在の竹島大師堂まで辿った。
現在は高島の渡し・竹島の渡しは運行されておらず、お遍路さんは上述下田渡しを利用するか、四万十大橋を渡り四万十川右岸に移ることになるわけだが、今回の散歩は澄禅や真念も辿ったであろう竹島・山路の渡しにより近い四万十大橋を渡り、四万十川右岸に移る。
山路の渡し跡
四万十大橋の南北に、四万十川と中筋川を分ける砂洲・河川敷が続く。高島の渡し・竹島から四万十川右岸に渡る山路の渡し跡は、四万十川に沿って走る国道321号を北に進み、国道が中筋川右岸から中州・河川敷に入り、四万十川に後川が合流するあたりにあった。
この河川敷のどこかに往昔の竹島・山路の渡しの船着き場があったのだろう。
旧中村市
更に上流、四万十川・中筋川・後川により形成された沖積平野にかつての幡多郡の中心地であった旧中村市(現在四万十市)がある。
平成17年(2005)に西土佐村と合併し四万十市となる。Wikipediaには「国造が割拠した7世紀には、中村は、都佐国造ではなく波多国造の領土に属していた。律令制が敷かれると、都佐国造と波多国造が合併して土佐国となり、旧の波多国造の領土は幡多郡となった。
戦国時代には土佐一条氏の城下町となり、「土佐京都」と呼ばれるように京都をモデルとした都市造りが行われ、幡多郡の中心地へと発展した。しかし、土佐一条氏は、天正時代になると、高知を本拠地とする長宗我部氏によって倒され、長宗我部氏の領内に入れられた。
江戸時代になると、長宗我部氏から山内氏に統治者が変わり、中村は山内氏が治める土佐藩の領内に入った」とある。
土佐一条氏
一条氏の土佐下向とは、応仁の乱を避けた前関白一条教房公は京を離れ家領の中村に移り、京に模した町作りを行なった。町並みも中村御所(現一条神社)を中心に碁盤状に整備し、土佐国にありながら高い官位を有し、戦国時代の間、土佐国の主要七国人(「土佐七雄」)の盟主的地位にあった。次第に武家化し伊予国への外征も積極的に行うが、伸長した長宗我部氏の勢いに呑まれ、断絶した。

県道321号を南下
四万十川と中筋川を跨ぐ四万十大橋を渡り、橋の西詰で左折し国道321号に乗る。中州によって四万十川と分けられた中筋川の右岸に沿って実崎(さんざき)地区を南下。中州も切れ中筋川を合わせた四万十川の右岸を進むと、道の左手に「間碕の枕状溶岩」の案内。道の右手の岩盤を指す。
枕状溶岩
マグマが水中で噴出する際にできるもの。西洋枕が積み重なったように見えこの名が付く。おもに玄武岩質のマグマに寄る、と言う。



四万十川
何時だったか訪ねた四万十川源流・松場川の一滴の水は下田・初崎間では1.2キロの大河となっている。
全長196キロという四万十川には、大小合わせると70ほどの一次支流、200以上の二次支流、支流に流れ込む300以上沢があると言われる。それゆえの「四万十」とされるが、その中でも幹線となるのが、高岡郡津野町の不入山から南下し窪川に下る松葉川、四国カルストの山地から下り四万十町田野野で本流に注ぐ梼原川、愛媛の北宇和郡の山間部にその源を発し、四万十市西土佐の江川崎で本流に注ぐ広見川の三川とのこと。その三つの幹線支流を繋ぐのが「渡川」とも呼ばれる四万十川の川筋である。
現在、海から最も遠い地点ということで源流点となっている、不入山の源流点から南下してきた四万十川は窪川の辺りでその流れを西に変え、その後北西に大きく弧を描き、山間の地を、蛇行を繰り返しながら、田野野で梼原川、江川崎で広見川を合せ四万十市中村で土佐湾に注ぐ。
東流から西流へ
現在は上述の如く、窪川辺りで西に流れ、山地を大廻りする四万十川の流れではあるが、はるか昔には、松葉川も梼原川も広見川も、その流れは窪川盆地から、そのまま太平洋に注いでいた、と言う。梼原川や広見川は現在の流れとは逆に、「東流」していたことになる。その流れが西に向かうことになったのは、南海トラフの跳ね返りで、海岸線に山地が現れ(興津ドーム)、南下を阻まれた流れは西に向かうことになった、とか。
興津ドームの隆起によって太平洋に注ぐ流れを妨げられた四万十川は、何故に、このように海に背を向けて大きく弧を描く特異な流れとなったかについて『誰でも行ける意外な水源 不思議な分水;堀淳一(東京書籍)』は「四万十川が山地の中を激しく蛇行していることから、この流域を含む一帯はむかし、海面に近い平坦な低地だった、と考えられる。そこを川は自由気ままに蛇行していたのである。
しかし、その後土地が隆起したため、川は侵食力を回復して、その流路を保ちながら谷を削り込んでいった。その結果、現在のような穿入蛇行(山地にはまりこんだ蛇行)の状態が出来上がった。但し、この隆起は全体的に一様に起こったのではなく、たまたま四万十川の流域の中央部が最も高くなるように起こった」とあった。このことは時系列で言えばV字谷>U字谷>準平原の順で地形が形成されるとするが、四万十川上流部に近い窪川辺りの谷底低地は開析最終プロセスの準平原状態となっており、下流部がU字・V字と通常の地形生成プロセスと逆転していることからもわかる。
四万十川・渡川
地図を見ると四万十川(渡川)と記される。かつては四万十川とも渡川とも呼ばれていたが、明治になり河川法が作られた際に、正式名称は「渡川」、俗称四万十川とされた。 それが「四万十川となったのは、昭和58年(1983)、NHKが放送した「土佐・四万十川~清流と魚と人と~」がきっかけ。この放送により「清流四万十川」が世に広まり、平成6年( 1994年)には法改正により四万十川を正式名称とすることにした。もっともこの四万十川は本流を指す名称であって、支流310とも言われ、またその支流に中筋川と後川いう1級河川をももつ水系のことは渡川水系と称されている。四万十川は渡川水系四万十川と言うことだ。

県道343号を南下
左手、四万十川の大きな中州を見遣りながら間碕(まさき)地区の丘陵裾を回り込むと、ほどなく県道343号が国道から南に分かれる。分岐点手前に、「初崎分岐」バス停、分岐点には「四国のみち」の指導標があり県道直進は「大文字山」、左折『初崎」とある。遍路道はここで左折し県道343号に乗り換える。


県道343号を右に逸れ旧遍路道に入る
少し南下し、道の右側の作業小屋から右に入る道がある。遍路道の案内はないが、遍路道はここを右に折れて西進する。
ここは下田の渡しで四万十川を渡り初崎から県道343号を北進してきた遍路道との合流点でもある。



初崎からの遍路道
下田渡船場から1.2キロ、四万十川河口部の初崎からの遍路道は上述、県道343号を北進するコースと、南の海岸沿いを歩く二つのコースに分かれる。海岸沿いの立石・布浦経由下ノ加江まで17キロ、澄禅や真念も歩き、今回辿る山越えの遍路道はその距離14キロである。
〇初碕
中世にさかのぼる地名で、古くは福崎村。いわば 「地域の果てとなるところの崎」河口の岬(土佐と銘往来)

津蔵渕川左岸を国道321号に
作業小屋で県道343号を右折し旧路に入る。左右草で覆われた道を進むと右手に「四万十川野鳥自然公園」。道端に立つ使途不明の石碑を見遣りながら津蔵淵川左岸を進むと国道321号とクロスする。
大文字送り火
この交差箇所から国道を北に戻り、四万十川野鳥自然公園の北西端北に見得る小丘陵に「大」の跡が残る。この丘陵で、大文字送り火が行われるとのこと。
国道脇にあった案内には 「大文字の送り火 今から五百有余年前、前関白一条教房公は京都の戦乱を避けて家領の中村に下向され、京に模した町作りを行なった。東山、鴨川、祇園など京都にちなんだ地名をはじめ町並みも中村御所(現一条神社)を中心に碁盤状に整然と整備し、当時の中村は土佐の国府として栄えた。
此の大文字山の送り火も、土佐一条家二代目の房家が祖父兼良(かねら)、父教房の精霊を送ると共に、みやびやかな京都に対する思慕の念からはじめたと、この間崎地区では云い伝えられている。現在も旧盆の十六日には間崎地区の人々の手によって五百年の伝統は受け継がれている」とある。
四国のみちの指導標には「大文字山」とあったが、十代地山と呼ばれているようである。

しかし、である。旧中村市内に館を持つ一条氏が何故に、館より結構離れたこの地を選んだのだろう?また、一条氏の威を示すにはあまりに規模が可愛らしすぎる。
あれこれチェックすると、平成2年(1990)6月13日の高知新聞に「中村市の大文字送り火 市文化財保護審が確認 一条公ゆかり説覆る 起源250年遅い享保年間」という記事があり、それによると、同審議会が確認したとする原典は、江戸後期の文化八年(一八一一年)に山之内家の家老だった深尾氏の家臣で、国学者の岡宗泰純が著した『西郊余翰』(「南路志翼四十二」に原本収容)の記述。
幡多地域一帯を見聞した泰純は同書に「間崎村西山の山腹に大文字あり」と記し、続けて「享保年中見善寺の僧侶江翁良邑京都東山に模して作りたりとそ」とし、更に「世々一条公の名残といへとも左にあらす」と一条公との関りを否定している。
見善寺は現在の間碕の薬師堂近くにあったとされる。澄禅の『四国遍路日記』にも「真碕ト云所二見善寺トテ妙心寺流ノ禅寺有リ。是二一宿ス」とあるので見善寺があったのは間違いないだろう。 尚、真念は『四国遍路道指南』に「ま崎村、薬師堂有」と記す。
僧侶江翁良邑についてははっきりしないし、そもそも原典となっている書籍が確認されていないようではある。
とはいうものの、一条公ゆかりとする文書も残らず口伝であり、なんとなく享保説のほうにリアリティを感じる。素人妄想。真偽のほど不明。
間碕
四万十川の下流右岸。南の初崎と北の実崎との間が 間崎(土佐地名往来)

津蔵渕集落西端で津蔵渕川を渡り国道321号に
国道をクロスし、津蔵渕左岸を進み津蔵渕集落西端部で橋を渡り国道321号に戻る。国道に出た山側にお堂がある。寺庵と書かれていた。




徳右衛門道標
しばらく国道を進むと、道の右手に赤いエプロンをつけた石仏と石碑。石碑は大師像より下が埋まった徳右衛門道標。徳右衛門道標に特徴的な梵字と大師像、文字は「是*足*」と言った文字が残る。





■伊豆田峠越え■


国道を右に逸れ旧道
国道をしばらく進むと右に逸れる道がある。旧国道のようである。現在の国道321号の伊豆田峠を抜ける新伊豆田トンネルが開通したのが平成6年(1994)というから、それほど遠い昔ではない。 
尚、伊豆田峠越を避け国道321号を進むと全長1650mの新伊豆田トンネルを抜け市野瀬川の谷筋に出る。トンネル手前に覇今大師が建つ。
今大師
今大師の由来には、「この「今大師堂」には弘法大師、不動尊、玉還喜伝坊の三体をお祀りしている。最初のお堂は玉還喜伝坊を祀って明治5年(1872)に建てられた。その後昭和28年(1953)に規模を広めて改築し、新たに弘法大師、不動尊もお祀りするようになった。
さて玉還喜伝坊を「今大師」と称するのは、信者達が坊の並々ならぬ人徳と霊力に敬服して「今大師」とよび、高野山もそれを認めて許していたからだと言う。
坊の出身地は信州筑摩郡瀬波村(長野県諏訪郡富士見町瀬波)である。徳川時代の文化6年(1809)この地に出生、若くして出家し、本州、四国、九州と日本全国を巡歴して50年近くも修行を重ねた。
そして明治4年(1871)四国巡礼のとき幡多郡八東村高野谷にあった植田常蔵宅に宿をとるが、滞在中に病におかされ同年旧10月9日に逝去した。享年63歳。墓碑は坊の希望した現本堂のそばに建てられた。
然し間もなくはるばる泉州堺より「六根祈念行者大菩薩」と刻まれた石塔が送られてきた。つまり坊には二つの法名があり、この法名のもと本州に多くの信者がいたことになる。この石塔は現本堂内にまつられている。
今大師の念忌は明治5年より毎年旧10月9日植田家を先達に多くの信者の協力をえて行われている。平成8年旧10月9日には第126回忌がとり行われた。平成9年3月吉日」とあった。
             
伊豆田隧道
旧国道を進むと右に逸れる道があり、遍路道案内も右への道を示す。遍路道案内を見遣り、旧 国道に残るという伊豆田隧道をちょっと見に行く。遍路道分岐点からほどなく道が突然藪に遮られ、その先に閉鎖された旧国道・伊豆田隧道の入り口が藪の中に残っていた。






伊豆田峠への山道に入る
伊豆田隧道から遍路道の案内のあった場所に戻り、林道へと右に逸れる。ほどなく道の右手に「伊豆田道」の案内。林道を逸れて山道に入る。




伊豆田峠
10分弱歩き、標高を50mほど上げると稜線鞍部に。特に案内はないが伊豆田峠であろう。文字は読めないが標石らしき自然石の石柱が立つ。「七里半」の文字がかすかに読める。足摺山との文字も刻まれているようだ。
峠には茶屋があったようで、如何にも小屋跡といった一画が残る。峠を境に四万十市から土佐清水市に変わる。共にかつての幡多郡に属した地域である。

峠から林道へ
峠からの下りは等高線に沿って少し少し険しい坂を50mほど高度を下げ、その先少し緩くなった垢を更に50mほど高度を下げた後は、緩やかな坂を50mほど高度を下げた、最後にトラバース気味に50mほど高度を下げると舗装された林道に出る。峠からおおよそ1時間弱といったところだろうか。

澄禅は『四国遍路日記』に「イツタ坂トテ大坂在、石ドモ落重タル上二大木倒テ横タワリシ間、下ヲ通上ヲ越テ苦痛シテ峠ニ至ル。是ヨリ坂ヲ下リテ一ノ瀬ト云所ニ至ル」とある。大雨大嵐の後であるとは言え、歩いた感じではそれほど厳しい峠越えではなかったように思えた。地元の方の道整備の御蔭かと感謝。

剛福寺と延光寺への遍路道分岐点
市野瀬川の支流に沿って山裾の林道から里道を南に進み、市ノ瀬川に架かる市ノ瀬橋北詰で県道346号に合流。その北詰に道案内などと共に6基の標石が立つ。

道案内は「県道右折は三原、左折は真念庵前(へんろ道0.2km)、38番金剛福寺29km」とある。三原は宿毛市の39番札所延光寺への途中の集落であり、多くのお遍路さんは金剛福寺を打った後、この地まで打ち戻り土佐最後の札所である延光寺へと向かうことになる。この地が金剛福寺と延光寺への遍路道分岐点ということだ。
案内には「ここより三十八番札所金剛福寺(足摺岬)まで七里の遍路道には、三百五十基の丁石(道標石)が設けられていましたが、道路工事や開発等でその数が少なくなり、現在、約十四キロメートルの遍路道と道沿いには五十五基の丁石が残っております」とあった。
北詰に残る標石は左端に自然石標石。多数の文字が刻まれれるがはっきりしない。その隣、最も大きな板状標石には「あしずり三百五十丁 五社十四里 寺山へ五里 弘化二」といったも文字が読める。その横は手印だけが見える。その横の標石は形から見て真念標石のように思えるがはっきりしない。その横の標石には「左 三十八番 左足摺道七里打戻り 寺山道 昭和七年」といった文字が刻まれる。右端の自然石標石の文字は読めない。


真念庵からあしずり遍路道を金剛福寺へ■

真念庵への標石
市野瀬川を渡り県道を少し進むと、道の右手に2基の石碑。小さいほうには「日本第一霊場 真念庵 昭和十二年」、高いほうは標石。「番外霊場 真念庵一八〇米 三原村経由延光寺二五、六粁 窪津経由金剛福寺 二九、八粁」とある。
その横に真念の案内。 「真念 大阪寺島で活躍していた真念法師は、四国八十八ヶ所札所中 三十七番札所岩本寺から三十八番札所金剛福寺、三十九番札所延光寺までは距離が長く難行道程であるため三寺を結ぶ中間地(市野瀬)に、天和(一六八一から一六八三年)の頃、地蔵大師堂を建立しました。
この地蔵大師堂はいつしか真念庵と呼ばれるようになり庵の前に四国八十八ヶ所札所の本尊仏を設置し、三十八番札所足摺金剛福寺巡礼の打戻りの宿や荷物置場として利用されるようになりました。
この庵から三十八番札所金剛福寺までの七里の遍路道に、一丁間隔で三百五十丁の丁石(道標石)が設けられています。これを「足摺遍路道三百五十丁石」と呼んでいます。
足摺の地は古くから「補陀落東門」(観音菩薩の住む山の東門)と呼ばれ、各地から多くの遍路 (巡礼者)が巡礼に来ています。地図のない時代、知らない土地で、この丁石を頼りに金剛福寺への巡礼をしたと思われます。
これらの丁石の大部分は作州(岡山県)や播州(兵庫県)摂州(大阪府)の遍路と地元の人々によって建てられています
最近、道路などの開発工事で遍路道や丁石が少なくなっていますが、真念庵から足摺三十八番札所金剛福寺までは、約十四キロメートルの遍路道が残っています」とあった。

真念庵
真念庵の案内前の自然石でできた石段を上る。境内右側に最近建て直された風情の新しい大師像が建つ。その対面には二列になった88基の舟形石仏がミニ霊場として並ぶ。ミニ霊場右手の2基の舟形地蔵に囲まれた角柱石碑には正面梵字の下に「真念法師 中開(?)實道」の文字が読める。実道は明治初期の庵主であり、四国巡拝をおこない浄財を集め88体のミニ霊場を造ったとのことである。
舟形石仏の前に自然石の標石。「是よ里足摺山江 三百四十九丁 弘化二」の文字が読める。その右手、地蔵立像の彫られた小さいがなんとなく印象深い石仏の前に、手印と友に「此の方 あしずり道」と刻まれた標石がある。
真念は『四国遍路道指南』に、「市野瀬村、さが浦より是まで里で八里。此村に真念庵といふ大師堂、遍路にやどをかす。これよりあしずりへ七里。但さ々やまへかけるときハ、此庵に荷物をおき、あしずりよりもどる。月さんへかけるときハ荷物もち行。初遍路ハさ々やまへかへるといひつたふ。右両所の道あないこの庵にてくハしくたづねらるべし」と記す。
『下茅の歴史』には、「真念が、お大師さんの遺蹟を訪ねて巡錫中、成川にさしかかったところ、音瀬寺という三十三間堂を模ねたお堂が荒れ放だいになっているので、本尊の地蔵菩薩を市野瀬に移し、弘法大師の像と薬師如来の二体とともに祭り、真念がイオリを結んだ跡」と記す。寺伝には真念が高野山より等身大の大師像を背負い安置したともあるが、この地に伝わる三度栗の話、また「くわず梨」の話と同じく伝説は伝説として聞き置くべし、か。
さ々やま
さ々やまは「篠山(ささやま)神社・篠山観自在寺のこと。愛媛県南宇和郡愛南町正木の標高1065mの篠山に建つ。札所ではないが、往昔より多くのお遍路さんが巡拝した番外札所である。

真念庵より「あしずり遍路道;真念道」を進む
あしずり遍路道標識A
真念庵より先へと「あしずり遍路道」の標識がある。県道に沿った丘陵を10分ほど歩くと県道346号と国道321号が合流する辺りで遍路道は舗装道路に下りる。
石段を下り切ったところに「道標アリ あしずり遍路道」の標識(便宜的に、「あしずり遍路道標識A」とする、以下の標識も同様)があり、その横に丸い自然石がある。標石かもしれない。
メモの段階でわかったことではあるが、この箇所の「あしずり遍路道」は「真念道」と称される。 ここからしばらく国道321号を辿ることになる。

市野々・あしずり遍路道分岐点
あしずり遍路道標識B
国道を少し南下すると右に逸れる道があり、その分岐点に「あしずり遍路道」の標識(あしずり遍路道標識B)が立ち、「真念庵水車口(国道1,7km)-市野々分岐=長野道北口(県道約1.2km)」の案内もある。
国道を右に逸れ旧道に入る。ほどなく道の右手、民家の角に「道標あり(あしずり遍路道)」の標識と共に板状の大きな標石が立つ。文字は読めなかった。
あしずり遍路道
分岐点のあしずり遍路道の標識に「長野道北口」と記されれていた。「長野道」って何だ?チェックすると土佐清水市観光協会のページにあしずり遍路道として「出発点>真念道>長野道>鍵掛道>久百々(くもも)道>ふた浜道>大岐東道>大岐浜道北口>ジンべー道駄馬口>以布利浜道駄馬道>ホウノ谷道>窪津鯨道>下駄馬道>権現道>津呂道>つばき道>赤碆道>赤碆東道>切詰道>足摺岬道>第38番札所金剛福寺」の地図が示されていた。
真念庵の案内にあった「真念庵から足摺三十八番札所金剛福寺までは、約十四キロメートルの遍路道が残っています」とあるのがそれだろう。
出発点は伊豆田峠を越え県道346号に合流した地点、6基ほどの標石の立っていた金剛福寺と延光寺への遍路道分岐点であった。
金剛福寺まで、あしずり遍路道の区間道を頭に入れ乍ら進むことにする。

国道321号に戻る
左折分岐点(遍路タグ
分岐点から少し進むと左を指す遍路タグがある。上述標識にあった長野は未だずっと南。直進すれば上述あしずり遍路道にあった、長野道>鍵掛道と続く。直進べきか、左折すべきか躊躇。
真念の『四国遍路道指南』に「〇市のゝ村〇をがた村、しるし石有。川有、洪水の時ハ下ノかやうら舟渡り有り。此かやうら太郎左衛門其外やどかすなり。常にはをがわしるし石より右へ渡る」とある。 をがた村(小方村)は下ノ加江川左岸。とりあえず、真念の記述に従い左に折れ国道321号に戻る。

小方から旧路に逸れ下ノ加江川左岸を進む

国道321号に戻り、すぐ左に逸れ旧路に入り直ぐ国道に復帰。このあたりで市野瀬川は下ノ加江川に合わさり、下流は下ノ加川として南流する。
下ノ加江川に沿って南に進み小方から左に逸れる旧路に入る。旧道を進み左八坂神社のあるところで右折し下ノ加江大橋に向かう
下ノ加江
植物の茅に由来。燃えやすい茅の字を嫌い霜栢に変 わり、明治には下ノ加江村(土佐地名往来)
小方
下ノ加江川の河口左岸、昔は小さな入り干潟。やが て土地となり集落となる小潟が小方(土佐地名往来)

初崎より東海岸廻り遍路道との合流点
初崎より伊豆田峠を越えることなく、東海岸を歩くお遍路さんもいる。初崎・立石・布経由・下ノ加江まで17キロほど。伊豆田峠越えより3キロ長い。海岸線とはいいながら山が海岸に迫り、前線舗装ではあるが、山道といった道筋ではあるという。

下ノ加江大橋を渡り鍵掛へ
八坂神社で右折し下ノ加江大橋を渡り対岸の鍵掛へ。上述真念の『四国遍路道指南』には、市野々村から下ノ加江川を左岸の小方村に移り、下ノ加江浦で舟で鍵掛村に渡ったように読める。ゆえに、このルートを辿ったのだがなぜ市野々から長野・鍵掛と下ノ加江川右岸を進まなかったのだろう。歩けるような道がなかったのだろうか。



あしずり遍路道:長野道
あしずり遍路道標識C
メモの段階で少し気になり土佐清水市の「あしずり遍路道」を参考にGoogle Street Viewでチェックすると、左折することなく下ノ加川右岸を進むと「道標有り(あしずり遍路道)」の標識(あしずり遍路道標識C)が立っていた。傍に道標は見えなかったが、長野道はこのコースのようだ。 真念の『四国遍路道指南』にも、「 つねにはをがたしるし石より右へわたる」とある。小方から下ノ加江川を渡ればこの「道標有り(あしずり遍路道)」の辺りに出る。長野道が下ノ加江川の右岸を直進するのか、一度左岸に渡り小方村から再度川を渡り直して右岸に出たのか不明ではある。

鍵掛(かいかけ
あしずり遍路道標識Dと標石
下ノ加江大橋を渡ると、橋の西詰、四国霊場巡拝案内所 御接待の一心庵の前に標石と「あしずり遍路道」の標識(あしずり遍路道標識D)。少し新しい標石には「延光寺 金剛福寺 岩本寺」の方向が示される。
この辺りが「 鍵掛道の始点かとも思う。ルートははっきりしないが、国道から逸れる旧道が通る。それが鍵掛道かもしれない。旧路から国道に戻り、左に浜を見遣りながら久万地岬を進む。
鍵掛(かいかけ)
中世以前の地名で古くはかぎかけ、かぎがけ。カケ は崩壊地名。カイは欠きから転じたもの

久百々(くもも
あしずり遍路道標識E
あしずり遍路道標識F

久万地岬を廻り込むと久百々の浜に出る。遍路道は浜を走る国道を右に逸れ山裾を進む。直ぐ久百々に架かる橋。橋の北詰に「あしずり遍路道」の標識(あしずり遍路道標識E)。ここが「あしずり遍路道」の久百々道の始点かとも思う。
旧道を進み再び国道に合流する手前に「あしずり遍路道」の標識(あしずり遍路道標識F)。そのまま国道に戻る。
あしずり遍路道・久百々道
当日はそのまま国道に出たのだが、メモの段階で標識をよく見ると山に向かって進むようにも見える。久百々道は標識から道に折れ山道に入り双浜に向かうのかとも思える(推定)。

ふた浜
あしずり遍路道標識G
当日は山道に入ることなく国道321号に戻り「ふた浜」に進む。浜の南端、小川を渡ると「あしずり遍路道」の標識(あしずり遍路道標識G)。当日はそのまま蟻碕の岬へと先に進んだ。





あしずり遍路道・ふた浜道
あしずり遍路道標識H
これもメモの段階で標識を見ると、国道を進むことなく山道に入る案内ではないかと思えてきた。その根拠は、蟻碕の岬にある漁港の辺り、旧道が国道に合流する箇所に「あしずり遍路道」の標識が立っていたため(あしずり遍路道標識H)。「あしずり遍路道・ふた浜道」は山側の道を進み国道合流点の標識に出て来たのかもしれない(標識たけからの推測)



大岐東道
あしずり遍路道標識I
蟻碕に入ると国道から法面壁手前から右に逸れる道がある。入り口左側には舟形地蔵。右側には」あしずり遍路道」の標識(あしずり遍路道標識I)が立つ。遍路道はここで右に逸れ旧道に入る。

 

旧道に入ると右手に標石。さらには地蔵を祀る小祠、欠けた石造物などが目に入る。国道の山側を進む「あしずり遍路道」はほどなく国道32号に合流する。
この箇所は土佐清水市の「あしずり遍路道」にある「大岐東道」だろう。

大岐浜
国道に合流するとほどなく道の左手、海側に展望・休憩スペース。「大岐松原」の案内。「大岐松原は官有地であったが、上灘村三代目村長の十年の長きにわたる運動により終に払下に成功した。当時は今の倍位あったものが半分は開墾し畑にして部落民にわかち与え、現在残っているのは部落共有である。
松原の由来は不詳でであるが古老の言によれば江戸時代野中兼山の植林せものが樹齢三百年、三年、高さメートルの松になったものという。
天空に聳え林立して壮観なものであったが、昭和三十年頃、マツクイムシのために括れて、長さ十八メートル、節悪しの見事な木材として浜より高知市種崎の造場所に運ばれた、現在は古本は 一本もなく、海寄りの松の内、大きいものは七十年位前に大岐青団の手により植林されたものである」とある。
砂浜に沿って続く松林がそれだろう。

下港山へのあしずり遍路道
あしずり遍路道標識J
遍路道は直ぐ先、国道を右に逸れ浜垣集落に入る旧路を進んだ後国道に戻り南下、大岐浜が切れる辺り、大岐南橋を渡ると左に逸れる旧道がありそこに「あしずり遍路道 大分岐2.1km」の標識(あしずり遍路道標識J)が立つ。国道を逸れ下港山の集落へと進む。




大岐浜道北口
あしずり遍路道標識K
上述、展望・休憩所で大岐浜を見ていると、大野川と大岐川が合わさり海に注ぐ流れに橋が架かる。この橋を渡り浜を進むお遍路さんもいるようだ。どこから浜に入るの探してみる。
展望・休憩所より少し先に進むと浜に出る道があり、そこに「あしずり遍路道」の標識(あしずり遍路道標識K)が立つ。「あしずり遍路道」にあった「大岐浜道北口」がこのあたりかもしれない。 大岐浜道は上述大岐南橋を渡り下港山集落に進む旧路に上がってくるのだろう。当日はその上り口を見逃した。

以布利
「四国のみち」指導標X
「四国のみち」指導標Y
下港山の旧道を進み国道に合流。その先旗陽小学校の先で遍路道は国道56号を離れ以布利の町に入る。道なりに進み、以布利港を越えると道は上りとなる。その上りはじめる道の左手に「四国のみち」の指導標。坂を上り北へと大きく蛇行する北端に「四国のみち 大岐 窪津」の指導標が立つ。その先で県道27号に合流。ここが窪津への分岐点。窪津へはこの分岐点を左に折れる
あしずり遍路道・ジンべー道駄馬口
あしずり遍路道標識L1
あしずり遍路道標識L2
土佐清水市の「あしずり遍路道・ジンべー道駄馬口」はこの道筋の辺り。メモの段階でGoogle Street Viewでチェックすると国道321号から以布利の町に左に折れる分岐の少し北に「あしずり遍路道」の標識(あしずり遍路道標識L1)があった。位置からすればこの辺りがジンべー道駄馬口ではあろう。
更にGoogle Street Viewでチェックすると、国道から逸れた旧道から港へと左に折れる道を進むと左に逸れる分岐点に「あしずり遍路道」の標識(あしずり遍路道標識L2)が立つ。
道を左に逸れ、再び旧路車道に合流し港へと向かうと、切通状の道の左手に「遍路道」の案内があった。これが「ジンべー道駄馬口」の道筋かどうか不明だが、海岸を進む遍路道ではあったのだろう。
また、当日は由布利の町を抜け、「四国のみち」の標識を見遣りながら車道を県道27号・窪津分岐へとすすんだのだが、遍路道は坂を上る手前、道の左手にあった「四国のみち 大岐 窪津」の指導標(「四国のみち」指導標X)からから車道を左に逸れ坂を上る。すぐ蛇行して上ってきた車道とクロス。そこが上述「四国のみち 大岐 窪津」の指導標(「四国のみち」指導標Y)が立つところ。そこから車道を横切り更に上り県道27号窪津分岐に数むようである。
駄馬
駄馬は河岸段丘の意味との記事があった。

窪津分岐
あしずり遍路道標識M
窪津への分岐点には舟形地蔵など3基の石造物。道を左に入り先に進むと「あしずり遍路道」(あしずり遍路道標識M)の標識。道は海岸側から合流している。







あしずり遍路道標識N
さらにその先、南西に切り込む沢筋を大きく迂回すると突端に「あしずり遍路道」の標識(あしずり遍路道標識N)と「四国のみち 以布利1km 窪津4km」の指導標、そして「金剛福寺」と刻まれた結構新しい道標が立つ。






あしずり遍路道標識O
あしずり遍路道標識P
沢を迂回し、更にもうひとつ沢を迂回するとその先、道の左右に「あしずり遍路道」の標識が立つ。 谷川の標識には「四国のみち 以布利1.5km 窪津3,7km」(あしずり遍路道標識O)とあり谷筋から上ってきている。また山側の「あしずり遍路道」の標識(あしずり遍路道標識P)は車道を逸れて山側に入っている。
はてさて、これはどういうこと?あれこれチェックすると今まで辿ってきた遍路道とは異なる「あしずり遍路道」が現れた
海岸廻りの遍路道
ジンべー道駄馬口もそうだが、それ以外にもGoogle Street Viewでチェックすると以布利港の西に窪津分岐へと辿った道を左に折れ浜方面に向かう遍路道案内がある。
漁港を越え砂浜を少し歩き山道に入る。山道を上り切ったところが上述、窪津分岐の先で出合った「あしずり遍路道」の標識(あしずり遍路道標識M)のところのようだ。
そこから車道を歩き、これも上述金剛福寺の石碑があったところに進むが、この石碑のあるところいが「あしずり遍路道ほうの谷道」のスタート地点(あしずり遍路道標識N)。あしずり遍路道はここから沢に下り、上り返したところが、これも上述「四国のみち 以布利1.5km 窪津3,7km」の「四国のみち」指導標(あしずり遍路道標識O)の箇所。

あしずり遍路道標識Q
ここから遍路道は車道をクロスし、山側にあった「あしずり遍路道」(あしずり遍路道標識P)の標識から山道に入り伊予駄馬へと向かうようだ。車道を進むと尻貝の浜の先、民家の建傍で大きく道が弧を描く道の山側に「あしずり遍路道」の標識(あしずり遍路道標識Q)が立っていた。伊予駄馬道の出口ではあろう。
上記「あしずり遍路道」はその標識を基にしたあくまでも推定コース。当日は「あしずり遍路道」の標石が旧路を案内するものとは思わず、ルートがオンコースである目安程度であろうとに歩いていたのだが、もう少しちゃんと調べておけば結構面白そうな遍路道を歩けたのに、と常の如く後の祭り。今回は残念な思い強し。

県道27号と県道347号分岐点
あしずり遍路道標識R
海岸沿いの鬱蒼とした樹林帯の中、道を進むと県道27号と県道347号が左右に分かれる分岐点に出る。分岐点には「四国のみち」の指導標。「窪津1.9km  以布利3,3km」とある。
遍路道は左へと県道27号に折れる。そこには「あしずり遍路道」の標識(あしずり遍路道標識R)が立っていた。
当日は、遍路道オンコースの案内であろうと海岸沿いの道を進み窪津の町へと入った。
あしずり遍路道・窪津寺下道
メモの段階でチェックすると、県道分岐点の「あしずり遍路道」標識の直ぐ先から山に入るようだ。Google Street mapでチェックすると右手に山に入る道が見える。ルートははっきりしないが、窪津寺下道と称されるように、山中を進み窪津の町にある海蔵院辺りで里に出るようだ(推定)。




窪津
窪津鯨道が象徴するように、窪津は東海岸最大の漁港。藩政時代は捕鯨、と言うか、鯨の生け捕りで栄えた町とのこと。このあたりの古名は「伊佐」とのことだが、それは鯨(いさな)由来と言う。昭和初期まで伝統的捕鯨が続いたようだ。
当日は窪津を抜け海岸沿いの県道27号を津呂へと向かった。
あしずり遍路道・下駄馬道
あしずり遍路道標識S
四国のみち」の指導標と遍路道案内
窪津漁港の南端、窪津の旧道が県道に合流する箇所に「四国のみち」の指導標が立つ。その傍に遍路道案内があり、県道と逆方向を指す。この県道を右に逸れる旧道から山道に入る遍路道があるようだ。清水市観光教会の資料にある「下駄馬道」がそれだろう。地図にも窪津碕をぐるりと廻る県道をショートカットし、丘陵部を進み県道に続く実線が描かれている。その県道合流部には「あしずり遍路道」の標識(あしずり遍路道標識S) が立っていた。
あしずり遍路道・権現道
あしずり遍路道標識T
あしずり遍路道標識U
下駄馬道が県道に合流するところ(推定)から更に南に進むと権現という地名がある。Google Street Viewでチェックすると松碆の辺り、道の右手に「あしずり遍路標識」(あしずり遍路道標識T) があった。更に南、柳駄馬辺りで道の左手から県道に合流する箇所に「あしずり遍路道」(あしずり遍路道標識U)の標識があった。
想定するに、北の標識より県道を右に逸れた遍路道は南下し県道を横切り柳駄馬にあったあしずり遍路標識のところに出るのだろう。

津呂道
あしずり遍路道標識V
県道27号を進み左に金毘羅宮を見遣り先に進むと、道の分岐点に3基の石仏が立つ。遍路道はここで県道を離れ右に逸れる道に入る。分岐点には「四国のみち」指導標、「あしずり遍路道」(あしずり遍路道標識V)の標識も立つ。





2基標石
道を進むと右手に「道標あり(あしずり遍路道)」の標識。傍に自然石の標石2基。大きな標石には「六十五丁」の文字、また「七ふしぎ」の文字も刻まれる。「七ふしぎ」って何だろう。 その横、誠に小さな標識には「五十六丁」と刻まれる。


3基石造物
右手の竈戸神社社の先に遍路墓。少し進むと「道標あり(あしずり遍路道)」の標識があり石造物3基。右端は「五十五丁」、その横は「五十*丁」と読める。左端は文字は読めなかった。
先に進むと石造物の並ぶ覆屋。その先で遍路道は県道27号に戻る。県道合流点には「遍路道」案内が立っていた。
この遍路道はあしずり遍路道・津呂道である。
津呂
津呂は山間で川水の淀んで波静かなところを指すトロ(瀞)の土佐での転化とも言われる。この地の津呂も自然の浦曲の状をなし、内部に侵入した海水もここでは穏やかな淀みになっていたものと考えられる、と「四万十町地名辞典」にある。

あしずり遍路道・赤碆東道分岐点
あしずり遍路道標識W
津呂道から県道に戻った遍路道は県道27号を駄馬、大谷、赤碆、赤碆東へと進み県道から左右に道が分岐する箇所に「あしずり遍路道」の標識(あしずり遍路道標識W)が立つ。土佐清水市のあしずり遍路道の案内と比較すると、この分岐点が「あしずり遍路道・赤碆東道」への分岐点かと推定する。
あしずり遍路道
津呂からこの赤碆東道分岐点までにもあしずり遍路道がある。津呂道を出た先、駄馬地区のあたりに「つばき道」があると言う。標識はみつからなかった。つばき道とは、この辺り河岸段丘面に強風を避けるために椿を植えたゆえではあろう。
「つばき道」の先に「赤碆道」があると言う。赤碆地区を下り、白碆と黒碆の岩礁部の間、赤碆東地区の海側に「赤碆道」のマークが示されるが、県道にはその出入口の標識は見るからなかった。

舟形標石
あしずり遍路道・赤碆東道分岐点から海岸に沿って県道27号を南下。右に伊勢宮の小さな社を過ぎると道の右手に舟形地蔵。横に消えかけた手書きの案内があり、「この石地蔵は金剛福寺への 道しるべ"として建てられたものです。県道開通以前の旧道には、足摺のお山にかかる切詰の谷から金剛福寺までの約八百八十メートルの間にこのような石地蔵が一丁(約百十メートル)ごとに八体建てられおり、ここからはお寺まで一丁あります」とある。
あしずり遍路道・切詰道と足摺岬道
この案内に拠れば、海岸沿いの県道ができる前は赤碆東道分岐点を右に折れた後、丘陵の中を抜けこの舟形地蔵のところに出て来たようだ。その遍路道が切詰道であり、足摺峠道ではあったのだろう。土佐清水市の案内にはあしずり遍路道・赤碆東道分岐点から県道を離れ右に折れると道は南下しヘアピン状で曲がる突端あたりに「切詰道」のマークがあり、道から離れた南に「足摺岬道」のマークがある。
国土地理院の地図には県道の山側に破線が描かれている。この破線に沿って遍路道は続いているのだろうか。

第三十八番金剛福寺
舟形標石の先、足摺岬を廻ると第三十八番金剛福寺に着く。 本日のメモはここまで、次回は金剛福寺から土佐最後の札所延光までの遍路道をメモする。

岩本寺を打ち終え次の札所はあし足摺岬突端に建つ金剛福寺。真念の『四国遍路道指南』には「別当岩本寺くぼ川町に居。是よりあしずり迄廿壱里」とある。単純に一里4キロで計算すると84キロとなるが、事実は少し異なる。
「みちのりは、あハととさハ(私注;阿波と土佐は)五十一丁一り、いよとさぬきは、三十六丁一り」といった記録もあり、阿波では一里48丁(5.2km)、土佐50丁(5.5km)、伊予と讃岐は36丁(4km)ともあった。現在では一里4㎞とするが、それが通用するのは伊予と讃岐だけ。理由は不詳だが、かつては国によって一里の距離が異なっていたようだ。
これをもとに計算すると 21(里) X 51(丁) X 109(m)=116,735(メートル)、つまり117キロ弱となる。昔のお遍路さんは3泊4日の遍路行であったよう。
メモは2回に分ける。今回は岩本寺から旧土佐中村市(現四万十市)の左岸、往昔渡しのあった竹島大師堂までをトレースする。距離はおおよそ50キロほどだろうか。
途中、知らずはるか昔の四万十川(古四万十川)が太平洋に注いだ伊与木川の谷筋を歩くことができた。現在四万十川は源流より東流し大きく弧を描き旧土佐中村市で太平洋に注いでいるが、それは南海トラフの地殻変動で海岸部が盛り上がり(興津ドーム)、海に落ちることができなくなり、東へと流路を求めた結果であった。
遍路歩きとは全く関係はないのだが、地形フリークのわが身には誠にありがたい出合い、セレンディユピティであった。
ともあれ、メモを始める。



本日の散歩;
■第三十七番札所 岩本寺>水車亭の標石群>国道56号を峰ノ上・片坂越え分岐点に
■片坂越え;(旧遍路道土径に>片坂第一トンネル東口上を歩き国道56号に下りる>市野瀬に下る)>市野瀬で伊与木川筋に出る
■荷稲>伊与喜>熊越坂>徳右衛門道標と地蔵堂>土佐佐賀の石地蔵群>横浜トンネル南口で国道に戻る>井の岬を廻る>松山寺跡>安政地震の碑>有井で国道に合流>王迎浜の碑>浮鞭(うきぶち)の大師堂>入野松原>県道42号を馬越分岐へ>県道20号を左折し下田の渡しへ>高島の渡し・竹島大師堂



岩本寺から片坂越えに

第三十七番札所 岩本寺
岩本寺を離れ山裾を東に向かう。すぐに土佐くろしお鉄道中村線の高架を潜り、山裾をぐるりとまわり国道56号へと向かう。
土佐くろしお鉄道中村線
土佐くろしお鉄道は高岡郡四万十町の窪川駅と四万十市の若井駅を結ぶ。途中、四万十町の若井駅から全長2134mの若井トンネルを抜けた先、川奥信号所で予土線が分岐する。土佐くろしお鉄道は川奥信号所からすぐループ式トンネルの第一川奥トンネルに(2031m)に入りグルリと円を描き50mほど高度を下げて伊与木川支流の渓谷に沿って南下する。
一方、川奥信号所で分岐した予土線はすぐ先でトンネルに入り、家地川の谷筋を北へ進み四万十川近くの家地川駅に向かい、北宇和島駅で予讃線に繋がる。予土線は北宇和島・川奥信号所までの72.7キロがその路線ではあるが、川奥信号場と若井駅 間は土佐くろしお鉄道中村線・予土線共に属する重複区間となっており、宇和島と窪川駅が直接結ばれている。

水車亭の標石群
国道56号に合流する手前、大きな水車がトレードマークの水車亭の駐車場脇に5基の標石。「八十八ヶ所道標 明治四十互年頃、近郷の有志が建立した道しるべである。その志を後世に伝えたい。合掌 平成四年」と書かれた案内も立つ。
大岩に置かれた3基は右から「順 四国三十八 二十一り 逆三十七番へ四丁 三十六番まで十三里 明治四十五年」、その横、猫脚台に乗る標石には大師座像と「右 左 四国」と言った文字が残る。左端の標石の文字は読めない。
大岩の横に2基の標石。右手の上部破損の標石には「拝みちしる志 七番 八番」といった文字、左手の自然石標石には「右ハへんろみち 左よつしわ道」といった文字が刻まれる。「よつしわ道」は与津や志和を指すのだろうか。

国道56号を峰ノ上・片坂越え分岐点に
国道56号と合流するとすぐに東から流れてくる見付川が吉見川と合流する地点に。共に窪川台地の南に連なる五在所の峰(標高658m)より流れ出す四万十川の支流。
遍路道は吉見川が開析した谷筋を南下する国道56号をその最奥部まで進み、五在所の峰から西に繋がる丘陵鞍部を上る。丘陵鞍部といっても谷筋との比高差は30mほど。それでもこの丘陵を境に水系が四万十川水系の若井川へと変わる。若井川の源流部の流れに沿って進み峰ノ上に。 遍路道はここで国道を逸れ片坂越えの道に入る。


■片坂越え■

旧遍路道土径に
国道分岐点から峰ノ上集落の中を進む。途中、溜池から若井川に注ぐ水路を横切り。右手に天満宮の鎮座する小丘陵を見遣り、さらに丘陵より若井川に注ぐ沢を越え、丘陵に切り込んだ谷の最奥部まで進む。ここまで続いた舗装も切れ土径へと入る。
行政区域も高岡郡四万十町から幡多郡黒潮町に変わる。

片坂第一トンネル東口上を歩き国道56号に下りる
土径を15分弱歩くと国道56号に抜かれた片坂第一トンネル東口上に出る。東口端のフェンスよりに片坂第二トンネル西口を見遣りながら片坂第一トンネル東口、国道南側に出る。




市野瀬に下る
片坂第一トンネル東口、国道南側に下り切ったところに遍路道案内のタグと比較的新しい標石。「南大師遍照金剛 金剛福寺七五粁」と刻まれる。




市ノ瀬の国道56号に合流
案内に従い遍路道はそのまま土径を伊与木川支流の谷に向かって下り市野瀬集落で国道56号に合流する。国道56号は片坂第一、片坂第二トンネルを抜け、ヘアピンカーブを経てこの地に至る。
市野瀬
「中世以前からの地名で一の瀬・一野瀬・市ノ瀬。川の上流の坂を下ったところ。市は一番目の瀬(桂井) (土佐地名往来)

四万十川の流路変遷
上述の如く、現在峰ノ上の丘陵を境に四万十川水系と伊与木川はその分水界を分けるが、太古の昔、不入山にその源を発した古四万十川は土佐を大きく西龍することなく峰ノ上・片坂越えで出合った若井川から伊与川へと流れ太平洋に注いでいた、という。
四万十川流路の変遷をちょっとまとめておく;
全長196キロという四万十川には、大小合わせると70ほどの一次支流、200以上の二次支流、支流に流れ込む300以上沢があると言われるが、その中でも幹線となるのが、高岡郡津野町の不入山から南下し窪川に下る松葉川(現在目にしている流路)、四国カルストの山地から下り四万十町田野野で本流に注ぐ梼原川、愛媛の北宇和郡の山間部にその源を発し、四万十市西土佐の江川崎で本流に注ぐ広見川の三川とのこと。その三つの幹線支流を繋ぐのが「渡川」とも呼ばれる四万十川の川筋である。
現在、海から最も遠い地点ということで源流点となっている、不入山の源流点から南下してきた四万十川は窪川の辺りでその流れを西に変え、その後北西に大きく弧を描き、山間の地を、蛇行を繰り返しながら、田野野で梼原川、江川崎で広見川を合せ四万十市中村で土佐湾に注ぐ。 これが現在の四万十川の流路であるが、上述の如く、太古の昔不入山にその源を発した古四万十川は土佐を大きく西龍することなく峰ノ上・片坂越えで出合った若井川から伊与川へと流れ太平洋に注いでいた、という。
いつだったか偶々図書館で見つけた『誰でも行ける意外な水源 不思議な分水;堀淳一(東京書籍)』にあった「海に背を向けて流れる川 四万十川の奇妙なはじまり(高知県高岡郡窪川町・中土佐町)」というトピックにあった、「四万十川は奇妙な川である。その最東部の支流である東又川は、土佐湾の岸からたった二キロしか離れていない地点からはじまっているのに、海にすぐ入らず、海に背を向けてえんえんと西へ流れ。。。」といった記事に惹かれ、二度に渡って訪れた散歩チェックした四万十川の流路変遷のメモ以下再掲する(「四国四万十川の後期第四系,特に形成史に関して(満塩大洸・山下修司;高知大学理学部地質学教室)」の記事を参考に作成)。
約70万年から40万年前;若井川経由で伊与木川から土佐湾に注ぐ
約70万年から40万年前、まだ南海トラフの跳ね返りによる海岸線の山地(興津ドーム)の影響を受ける前、古四万十川は与津地川から興津に落ちるものと若井川を経由して伊与木川から土佐湾に落ちるものがあった。
因みにその頃は、江川崎から現在の四万十川河口までには河川は存在していなかったか,あるいは,存在していても小規模のものであった、と。
私注:若井川経由の伊与木川とは、片坂越えで市野瀬に下った伊与木川支流の谷筋がその流路だろうか。その伊与木川支流の源頭部は片坂の尾根を境に若井川源頭部と誠に短い距離で近接している。
約40万年前から10万年前;興津ドームの影響を受け、若井川・羽立川経由で伊与木川から土佐湾に落ちる
興津ドーム隆起の影響を受け始めた約40万年前から10万年前には、古四万十川の西方への逆流が始まり、興津への出口を失いはじめた川は,窪川町付近における湖沼の時代を経て,若井川に加えて羽立川を排出口にした、とある(私注;羽立川か家地川のどちらかを経由して現在立っている伊与木川の谷筋を経て土佐湾に注いだということだろう。羽立川と家地川は後述)。 江川崎あたりから四万十川河口までの河川は, いまだ小規模であり,本格的なものではなかったようだ。
約10万年前から1万年前
この時期では,さらに興津ドームの隆起の影響を受け,古四万十川が西流をはじめたため、伊与木川にも水は流れなくなった。
いっぽう十和村付近(現在は四万十町;梼原川の合流点の少し下流)から江川崎,また,江川崎から現在の四万十川河口までの範囲が本格的に形成さしれ始めた.ただし,時期的には後者の方が前者より早く河川として成立していた。
約1万年前から現在
四万十川は現在みられるような流れとなった。

川の生成史では、流域は時間軸に従えば、V字谷>U字谷>準平原となるところ、四万十川では窪川盆地が準平原、その下流にV字谷やU字谷がある。とすれば、初期の流れは窪川辺りから南へ土佐湾に注いでいたであろうことは納得できる。 現在の「海に背を向けて流れる」四万十川の流れは、海岸線に出来た山地・興津ドームに南下を阻まれ、西流することになった「新しい」流れのようだ。「新しい」とは言え、はるか、はるか昔、10万前年から1万年の事ではある。


片坂越えから四万十川の渡しへ

市野瀬で伊与木川筋に出る
思わず知らずではあったが、はるか、遥か昔の四万十川の流路跡らしきルートを辿り市野瀬で伊与木川本流の谷筋に出る。
遍路道は国道56号を横切り伊与木川左岸の旧道を進む。しばらく歩き大前橋で国道56号をクロスし伊与木川右岸の旧道に移り、拳の川(こほ(ぶ)しのかわ)で国道56号に合流する。
伊与木の由来
「イオ、イヨ」は土佐で魚を指す。「木」は場所の意であるので、魚の豊富な場所、といった説がある。

荷稲 
国道56号をしばらく下ると荷稲。「かいな」と読む。荷稲とは「カイ(峡)は山と山の間、両方から山が迫ってくる地形。荷稲は峡野の転訛では(桂井氏)(土佐地名往来)」とある。
「稲をかうる(になう)」といった地名由来もあるが、伊与木川が形成する渓谷を「佐賀谷三里」と称し、荷稲はその中ほど。『四国遍礼名所図解』にも「是(市野瀬)より佐賀町、四里の間谷合にして家少なく用心悪し」と記されているので、「峡野の転化」が納得感が高い。
渓谷と言えば、伊与木川本流筋も渓谷ではあるが、上述川奥信号所でループして南下し土佐くろしお中村線の荷稲駅に至る谷筋も結構な渓谷である。土佐の片峠・四万十川の源流を辿る散歩の折り、この渓谷を走ったことがあるが、誠に狭隘な谷筋であった。
古四万十川の流路
この狭隘な谷筋を下り荷稲で伊与木川本流に注ぐ伊与木川支流の川奥川は、遥か、はるか昔、上述の如く古四万十川が西流することなく太平洋に注いだ流路である。
ループ線のある峠を境に北は四万十川水系の家地川と羽立川、南には伊与木川支流・川奥川の最奥部の谷筋が近接している。いまでもちょっとした近く変動が起これば、南北が繋がり四万十川の流れが伊与木の谷筋に流れ込みそうである。
この峠も片峠となっており、片峠の姿を時間すべく家地川そして羽立川の源頭部を辿り歩いたことが思い出される。

伊与喜
荷稲からしばらく国道56号を伊与川に沿って進み伊与喜の町に。伊与喜はこの辺り、伊与木郷の中心であったところ。一条教房が応仁二年(1468)に幡多中村に入国の後、文明二年(1470)に京都から堀川大炊助藤原信隆を招き、文明十年(1478)に伊与木城を築城した。藤原信隆は1200石を給され初代城主となり以来伊与木氏を名乗る。伊与木城跡は伊与木川の左岸、川に突き出た丘陵上に残る。
戸たてずの庄屋
この地の大庄屋の家に泥棒が入り込み、コメを盗んで逃げようとするも足が動かず捕まってしまった。この話が近郷に伝わり庄屋屋敷の敷居を削り持ち帰る村人が絶えなかった、と。これが前述岩本寺に伝わる大師の由来の七不思議のことだろうか。場所の比定はできなかった。
同様の話は愛媛の南予・愛南町正木にもあり、そこでは「戸たてずの庄屋」とも「戸たてずの楠」として伝わる;庄屋屋敷の楠に上り悪さをしていた天狗が家人の放った矢にあたり地に落ちる。家人は翼を返してやったところ天狗は喜び、「以降家に泥棒が入らぬようにする」と言い残し去っていった。天狗ではなく篠山権現のご加護といった話もあるが、それはともあれ、その後泥棒がこの家に入るも足が動かなくなり捉えられた。以降、近郷の村人は盗難除けに庄屋屋敷の敷居を持ち帰るようになった、と。
篠山権現
篠山(ささやま)神社・篠山観自在寺のことだろう。愛媛県南宇和郡愛南町正木の標高1065mの篠山に建つ。札所ではないが、往昔より多くのお遍路さんが巡拝した番外札所である。

熊越坂
土佐くろしお鉄道中村線・伊与喜駅を越えて少し下ると国道左に熊野神社。遍路道はここから国道56号を左に逸れ熊井の集落に入り熊越坂の旧路に入る。残念ながら散歩当日は旧路にあるトンネル先で工事通行止めのため国道56号を南下することにした(注;ルート図には熊井トンネル経由の道を記す)。
熊井トンネル
旧路にある熊井トンネルは情緒のある古いトンネルのようである。トンネル傍の案内には「熊井 トンネル 明治三十八年(一九六五)十二月に工事が完成し、長さ九十メートルあり、『トンネルというものは入口は大きいが、出口は小さいものじゃのう』と云った人があるという。
レンガは佐賀港から一個一銭の運び賃で小学生などが一~二個づつ運び、熊井側入口の石張は二人の職人が右と左に分かれ腕前を競ったといわれる。
昭和十四年(一九三九)までは県道として利用されたが、現在はわずか土地の人の通行に利用されているのみである」
熊井
上述熊野神社の由来には、「寿永年間 源平戦乱の後 弁慶の父別当田辺湛増は紀州より舟で熊野浦に上陸。文治二年末 熊居に移り 熊野三所権現を鎮座する」とある。熊居>熊井と転化したのだろう。

徳右衛門道標と地蔵堂
国道を進み上分集落で国道を左に逸れる旧道に入る。熊井トンネルを抜けた熊坂越えの遍路道との合流点に徳右衛門道標。「是より足ずり迄十六里」とある。傍には地蔵堂も。
遍路道は旧路を南下しほどなく国道に合流する。




土佐佐賀の石地蔵群
国道に合流した遍路道はほどなく国道を左に逸れる旧道に入る。丘陵裾に沿って進み道の右手に土佐佐賀駅を見遣りながら丘陵南裾に廻り込んだところに石地蔵堂。百基ほどもあるだろうか。 中に遍路墓らしき石碑も見える。

横浜トンネル南口で国道に戻る
佐賀の町を進み伊与木川に架かる佐賀橋を渡り、鹿島ヶ浦やその沖合に鹿島を見遣りながら道を進み横浜トンネル南口の先で国道56号に戻る。かつては鹿島ヶ浦と呼ばれていたようである。
土佐佐賀
伊与木川の河口に開けた町。ブリ大敷網漁業や足摺岬沖のカツオの一本釣り漁業の基地。江戸時代は捕鯨で知られた。かつての幡多郡佐賀町。現在は平成18年(2006)佐賀町の西に隣接する大方町と合併し幡多郡黒潮町佐賀となっている。
幡多郡
地図を見ていると現在幡多郡に属する町はこの黒潮町、三原町、大月町と飛び地のように離れている。かつての幡多郡はこの三町に加え、現在の宿毛市、四万十市、土佐清水市、高岡郡四万十町の一部を含む土佐最大の行政域であった。

国道56号を逸れ井の岬を廻る
遍路道は国道56号を南下する。海に落ちる山地と海岸の間を走る国道は、今でこそ整備されているが、往昔海岸線を辿る遍路道は結構大変だったことだろう。土佐白浜駅の先で山地を穿つ「井田第一トンネル」と分かれ、国道は更に南下し灘に至る。この辺りはかつての大方町。現在は佐賀町と合併し黒潮町となっている。
国道56号は灘から山地の東西幅最短部を「井の岬トンネル」で黒潮町井田に抜けるが、遍路道は国道を離れ更に南下し、井の岬を廻り井田に向かう。分岐点には「四国のみち:指導標が立つ。「土佐 入野松原へのみち」と刻まれる。
もっとも、分岐点とは記したのだが。「四国のみち」の示す方向がよくわからない。国道を直進するようも見える。その先「井の峠トンネル」があるが、その辺りはそれほどキツイ丘陵越えでもなさそう。往昔トンネル上を辿る遍路道があったのかもしれない。井の峠を廻るより結構なショートカットになる故の妄想である。


松山寺跡
岬を廻り切ったところに右に折れる道。岬を廻ってきた道と「井の岬トンネル」を出た国道56号を繋ぐこの道を右に折れたところに多くの石仏とともに松山寺跡の案内、「松山寺跡 清岸山東光院松山寺、真言宗 本尊薬師如来、並に地蔵菩薩。開山は空海と伝えられる。
往時はこの寺山に伽藍が聳え立ち、法燈は栄え、藩政時代にはお馬廻り三百石権大僧都の格式で、夕陽に映える寺山は古き頃『幡東八景』の一つでもあった。明治初年廃仏棄釈の政策により廃寺となる。
寺宝として土佐守紀貫之の『月字の額』が伝承され、古来南路志をはじめ多くの文献により京師の月郷雲客の間に喧伝され、その観賞価値は次第に高まっていった。寛政二年、中村の郡奉行尾池春水の『月字額之記』及び弘化二年、京の歌人一人一首読み人百三十七人による『月字和歌集」など原本のまま今も残り、寺跡には歌碑もある」とある。
月字額
国司館跡の「月字」
案内の後半がよくわからない。チェックする;ある年、松山寺の煤払いのとき梁上にあった扁額を無用のものと焼き棄てようとしたが、途中で思いなおし焼け残りの「月」の一文字を取り上げて残し置いた。その話を聞き及んだ尾池春水が紀貫之の真筆と相違ないと京都の日野大納言資枝に鑑定を依頼。資枝は真筆と認めた。紀貫之が土佐守として国府にで書いたものが松山寺に移されたものか、松山寺に立ち寄った折に書いたものかと伝わる。
『月字額之記』はそのままだが、それ以降の「京の歌人。。。」は、尾池春水没後30年ほどした紀貫之没後900年忌に合わせ、一橋家の執事野々山市郎左衛門包弘が,貫之の月字の搨本(とうほん;拓本)を入手・感激し,それを模刻して諸方の文筆愛好家に贈り,それらの人々から和歌を求めて一帖を作った、これが「月字和歌集」。百三十七人が皆月字の額を詠む。
参道を上ると歌碑などが残るのことだが、当日は参道口を見付けることができなかった。案内あたりからジグザグの参道があるようだ。
と、ここまでmemoした後、この話どこかでメモしたように思えて来た。そう、第二十九番札所国分寺近くの国司館跡(紀貫之邸跡)に上述と同じメモをしていた。そこには「月」の字のレリーフも造られていた。

安政地震の碑
松山寺跡から少し西に進んだ道の右手に自然石の「安政地震の碑」がある。石碑に刻まれた文字の最後に「松山寺住文瑞」の文字が読める。松山寺住職文瑞和尚の建立とのことである。





有井で国道56号に合流
遍路道は伊田川に架かる橋を渡り伊田漁港前を進み、その先で国道56号に合流する。この地には伊田第一トンネルを抜けてきた土佐くろしお鉄道中村線が近接し、すぐ西に有井川駅がある。
有井庄司
駅の北の丘に有井庄司の墓がある。有井庄司は元弘の乱(1331年)で敗れ土佐に流された尊良親王(後醍醐天皇の第一皇子)をかくまった鎌倉時代の勤王家。鎌倉幕府後滅亡後、帰京した親王が病死した有井氏を悼み送られた五輪塔と言う。
○元弘の乱
元弘の乱(げんこうのらん)は、鎌倉時代最末期、元徳3年4月29日(1331年6月5日)から元弘3年6月5日(1333年7月17日)にかけて、鎌倉幕府打倒を掲げる後醍醐天皇の勢力と、幕府及び北条高時を当主とする北条得宗家の勢力の間で行われた全国的内乱。

王迎浜の碑
有井川を渡り上川口に。蜷川(みながわ)に「王迎橋」が架かる。橋を渡った先は「王迎」地区。土佐くろしお鉄道中村線の「海の王迎駅」の南、国道脇の海岸線に、台石の上に置かれた自然石の「王迎浜の碑」が立つ。
「尊良親王御上陸地 侯爵佐佐木行忠謹書」と刻まれた石碑の脇にある手書きの案内には「王無浜 元弘二年二年・三月(1332)北條氏の専横により、後醍醐天皇第一皇子一の宮尊良親王は土佐の畑に遠流の身となられ、若宮は佐佐木判官時信らに警護され「一の宮はたゆとう波にこがれ行く、身を浮船に任かせつつ土佐の畑へ赴かせ給」(太平紀巻四)同月下旬この浜に御上陸なされた。時に奥湊川の領主大平弾正一族がお迎え申し上げ、程なく馳参じた有井庄の庄司有井三郎左衛門門尉豊高らに警護され山路踏みわけ今に残る「弾正横通り」を踏破して弾正の館にお着きになった。
以来若宮は北條方の監視厳しい中を「王野山」に「米原の里」にと移り変わる行在所で京の都を恋いつつ、二歳近い配所の日々をお過ごしになられたのである」とあった。
王無
王無浜の王無は「王待」の転化とも、有井三郎が到着したときは若宮は既に立ち去った後であったためとか諸説。また王無浜も北條氏をはばかってか「玉無浜」と称されたとの記事もあった。

いのちの泉碑
Google Street Viewに写る井戸
王迎浜の碑より国道は少し上りとなる。上り切ったあたりで遍路道は国道を左に逸れ旧道に入る。 王無の浜をぐるりと廻り国道56号を潜り東分川に架かる東分橋を渡る。
古い資料にはその先に「いのちの泉碑」があると言う。水の乏しいこの地の民は慶長の頃というから17世紀初頭に井戸を掘りあて、昭和31年(1957)に水道網が整備されるまで生活用水として使われた。それを感謝し「いのちの泉碑」を建てたとのことであるが、道の左手にコンクリートで固めらられた一画があり、台石の上のに破損した石が載る。訪れた時にはこの石碑以外に何も残っていなかったのだが、Google Sreet Viewには井戸らしき囲いとその横に標石らしき石碑が横倒しで写る。最近になって井戸跡も潰され、標石も撤去されたのだろうか。

浮鞭(うきぶち)の大師堂
その先で旧道は国道に合流。少し進むと大師堂があり、お堂の横に標石。「足摺山十二里」と刻まれれる。
浮鞭(うきぶち)
浮鞭は東の浮津と西の鞭地区の間にあり、両地名を足して二で割った地名。鞭は急に険しくなった山地、急傾斜地が崩壊してできた地といった意味のようである。

入野松原
遍路道は湊川手前で国道56号から左に逸れ入野松原に向かう。ここは元々は大きな潟の海中にできた砂洲に自然生の松が育ち松原となったもの。砂洲の内側の潟はこの地を領していた入野氏による代々の干拓事業により埋め立てられ、室町期には既に現在のような入野平野となっていたようであり、砂洲は砂浜となり砂丘の松原となっている。
入野松原は公園現在となっており、砂浜に沿った道、松林の中を通る遊歩道、キャンプ場、野球場などが整備されている。松林の中の道を歩き成り行きで砂浜に出る。長さ4キロにも及ぶという砂浜・松林が続く。
松林の起源については一般にいわれているのが、長宗我部元親の中村城代・谷忠兵衛が天正四年(1567)から四年間、防風林のために囚人を使って松を植えさせたという説である。否、全体の植林ではなく、松原の両端部である吹上川と蛎瀬川河口部を捕植したとの説もある。また、宝永四年(1707)の大地震による津波の復旧策として、住民各戸から松を六本持ちより防潮を目的として植樹させたのが始まりだという説もあるようだ。
谷中兵衛
谷忠兵衛は元は土佐神社の神職であったが、元親に仕えて重臣となった。豊臣秀吉が元親掃討の兵を起こす前、京都・伏見城で秀吉と会い、秀吉を「天下の盗人」と放言したとの話も伝わる。秀吉をして「珍しき男かな」と評価された人物であり、長宗我部が秀吉に屈した後も一國を治めることができたのは、忠兵衛の力に負うところが多かったという。
〇入野氏
応仁の乱を避けて一条家が土佐中村(現在の四万十市)に下向する以前、この入野一帯を治めていたのが入野氏(元藤原氏)と言う。公家大名として、勢力を拡大させてきた一条家により、幡多荘管理に組み込まれ、その後親子ともども殺害され滅した。


入野から四万十川の渡しへの遍路道■

往昔の遍路道は入野から現在の国道56号筋を進み、田の口から逢坂峠を経て古津賀へと進み、古津賀で国道を離れ古津賀川を下り四万十川左岸の井沢から渡し舟のあった高島へ向かったとも言う。
とはいうものの、澄禅はその著『四国遍路日記』に「入野ナド云所ヲ過テ田浦ト云浜ニ出タリ(中略)猶浜辺ヲ行キテ高島ト云所ニ出ズ爰ニ高島ノ渡迚大河在リ」と田野浦から浜辺を進み高島に進んだと記す。
また真念も「うきつ村、是より海ばたを行、ふきあげ川わたりて、塩干の時ハすぐにゆく、ミち塩の時ハ右へ行。〇入野村、かきぜ川引舟有。○たの浦、これより七八町はまを行。標石有。むかふ山はなハ下田道、こなたハ舟わたし。少まわり道○いでぐち村、此間小川・坂あり〇たかしま村、大河舟わたし、さね碕村天まというところに引舟あり」と田野浦から出口まで進み、そこから高島村に出て四万十川を渡ったとする。
澄禅は田野浦の先は「浜辺ヲ行キテ高島ト云所ニ出ズ」とありその間のルートは不詳である。また真念は田野浦から出口まで海岸線を進むとあるが、これも出口村から高島までのルートの記述はない。
因みに高島という地名は地図に無いが、四万十川沿いの井沢の南に竹島という地名があり、その地が高島では、とのことである。

澄禅、真念の歩いたルートははっきりしない。さてどうしよう。上述国道56号を辿るルート以外に出口から県道339号を進み「沢の峠」を経て上述古津賀に出た後古津賀川を下り四万十川左岸に向かうルートもある。実際このルートを歩くお遍路さんもいるようだ。
この国道56号、県道339号を抜けるふたつのルートは四万十川左岸の竹島にあった高島の渡しで四万十川を渡る遍路道としては理屈に合うが、現在高島に渡しは無い。
はてさて。あれこれチェックすると四万十川の渡しは河口の下田にあると言う。で、結局、出口から先の遍路道ははっきりしないけれども渡しのある四万十川河口の下田へと向かうことにした。

県道42号を馬越分岐へ
入野松原を抜け蛎瀬(かきせ)川に架かる蛎瀬橋を渡り、県道42号をを澄禅や真念の日記にもあった田野浦を抜け、出口の横浜。こまじり浜を左手に見遣り県道を進むと幡多郡黒潮町を離れ旧中村市域、現在の四万十市に入る。
双海を過ぎ金ヶ浜で平野への海岸線の道を分ける県道42号をそのまま進み、馬越えの分岐から山裾の道を辿り四万十川右岸の下田へ向かう。

県道20号を左折し下田の渡しへ
県道42号は四万十川左岸に建つ貴船神社角で県道20号に合流する。下田の渡しはここを左折し下田漁港をぐるりと廻る。漁港の突端辺りに「四国のみち」の指導標が立ち、「下田の渡し」の文字と共に四万十川に向かって道筋が示されている。特に待合所といった施設は無い。 改めてチェックすると、現在は予約制(202010月現在)で運行されているよう。下田の渡し保存会という有志の善意によるものである。予約もしておらず渡船叶わず。
下田の渡し
かつて四万十川には昭和の頃まで20以上の渡しがあったようだが、現在はこの下田の渡しが唯一残る、と。下田の渡しは昭和初期から運行が開始され、昭和40年頃までは個人の申し合わせで運営されその後平成17年(2005)までは旧中村市(現在の四万十市)が運営した。2005年からしばらく廃止されたが平成21年(2009)、上述の如く地元有志によって再開された、という。


高島の渡しへの旧遍路道再考
あれ?下田の渡しは昭和初期に開始された?ということは澄禅や真念の頃は下田の渡しはない。ふたりの日記に下田の渡しが記載されていないはずである。
であれば、そのルートは?更にルートをチェックすると『江戸初期の四国遍路 澄禅「四国辺路日記」の道再現;柴谷宗叔(法蔵館)』に推定ルートが載っていた。オリジナルの日記には田野浦の浜の次は高島とあるわけで、推定の域は出ないかとも思うが、そのルートは可能性として2つ示されている。
ひとつは出口のこまじり浜から丘陵部に入り高島(竹島大師堂)に向かうもの。もうひとつは出口の南、双海の集落から西の丘陵部に入り高島へと向かうもの。 真念の高島へのルートはみつからなかったが、日記に「○いでぐち村、此間小川・坂あり〇たかしま村」とあるので、上述澄禅の推定ルートをあるいたのかとも思える。そのルートは共にピタッと合う道は現在残らない。出口から丘陵を越えて竹島にある高島の渡しに向かった、といった理解で??よし、とする。



高島の渡し・竹島大師堂
予約もしておらず下田の渡しで四万十川を渡ることはできない。対岸に渡るには四万十川大橋を渡るしか術はなし。県道20号を歩きながら竹島大師堂をチェック。四万十大橋の少し北にそれはある。
ついでのことでもあるので、竹島にある往昔の高島の渡しを見ておこうと四万十大橋を越え県道20号を北進する。四万十大橋を越え丘陵部が四万十川に突き出たところまで進む。堤防の道は切れるが、少々荒れてはいるが川岸へtと下りる道があり、その先に高島大師堂があった。大師坐像が祀られる。この辺りが往昔の高島の渡しであろうと言われる。
記録には昭和51年(1976)までは竹島と対岸の山路(竹島の上流。後川が四万十川に合流する四万十川右岸に『山路の渡し」の碑がある)を結ぶ渡し「竹島・山路の渡し」があったと言う。昭和40年代までは船頭も常駐する渡し場であったようであるが、澄禅の頃は渡しとは言うものの、渡し舟も渡し守も常駐していたわけでなく、澄禅が「爰ニ高島ノ渡迚大河在リ。渡舟トテモ無シ。上下する舟ドモに合掌シテ三時斗咤言シテ舟ヲ渡シ得サセタリ」と、三時というから6時間ほど手を合わせ、咤言(大声で)お願いしてやっと渡河したとのことである。

本日のメモはここまで。次回は下田の渡しで四万十川を越えた初碕から先の遍路道をメモする。

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