四国の最近のブログ記事

今回は31番竹林寺より34番種間寺までを常の如く遍路標石を目安に旧遍路道を辿る。全行程23キロ程度だろうか。 
竹林寺から南の大畑山地を越え32番禅師峰寺までおおよそ7キロ。道は山地に深く切り込んだ侵食谷を辿るため、緩やかな坂道を上り標高20mほどの鞍部を越えるだけであり険しい山越えではない。
鞍部を越えると市域は高知市から南国市と変わる。大畑山地北麓を東西に走る仏像構造線の南は構造体としては四万十帯であり、山地は中生代後半(中生代白亜期)から新生代前半頃(新生代古第三期)の地層である砂岩・泥岩、砂岩泥岩互層などをその特徴とするが、国土地理院の地形図を見ると、山を越えた先、海岸線との間は形成時期を新生代第四期とする堆積岩、海岸・砂丘堆積物の岩質となる。打ち寄せる波により形成されたものだろうか。その海岸線の平坦地を辿り大畑山地の支尾根が海岸線に迫る丘陵にある禅師峰寺に。寺の標高は80mほど、山道参道もきつくない。
禅師峰寺から雪蹊寺まではおおよそ9キロ。大畑山地南の海岸・砂丘堆積物で造られた地を西に進み、南国市から再び高知市に入る。さらに西に進み浦戸湾に中州状に延びた先端部で渡海船に乗り、浦戸湾西岸に渡る。実際は散歩当日、何故か「欠航」となっていたが、それは稀なことのようであり、ルート図は海を渡ったこととして描いた。
浦戸湾西岸に渡るとその地形は烏帽子山山地から延びたいくつもの支尾根からなる長浜丘陵。幾筋もの支尾根奥に深く切り込まれた侵食谷は新世紀第四期の谷底平野の岩質を呈す。 遍路道は長岡丘陵を西に新川川に沿って進み雪蹊寺に。新川川は野中兼山によって開削された人工水路であった。 
雪蹊寺から次の種間寺までの距離は大よそ7キロ。新川川を西に進むと長浜丘陵を切り抜いた唐音の切抜。仁淀川から取水した新川川の水を浦戸湾に流すため切り抜いたもの。唐音の切抜を抜けると高知市長浜から、高知市春野町に入る。
春野は「墾る野」から。仁淀川東岸の新田開発のため野中兼山により開削された利水・治水の水路に知らず出合い種間寺にたどり着く。
跡付け、付け焼刃ではあるが、散歩の途次に出合った兼山開削の新川川と諸木井の水路図を地図にマッピングしておいた。遍路歩きに役立つとも思えないが、水路フリーク故の好奇心ではある。興味のある方はご覧ください。


本日のルート;
竹林寺から第三十二番禅師峰(ぜんじぶ)寺へ
坂本の茂兵衛道標(185度目)>下田川・遍路橋を渡る>県道247号を南下>武市半平太旧宅>>石土トンネルを抜け南国市に>石土神社>自然石標石を左折>禅師峰寺参道口に>三丁・二丁石>第三十二番札所 禅師峰寺
第三十二番禅師峰寺から第三十三番札所 雪蹊寺へ
青石板状標石>県立高知高等技術学校西端に標石>標石?>仁井田の聖神社>仁井田の仁井田神社・一の鳥居と御旅所>種崎の御座大師堂>県営渡船種崎待合所>(迂回)>渡船長浜待合所>人工水路・新川川(長浜川)に沿って西進む>鶴田熟跡>第三十三番札所 雪蹊寺>秦神社
第三十三番札所 雪蹊寺から第三十四番種間寺へ
日出野>唐音の切抜>一つ橋>丘陵鞍部で右に逸れる>標石が続く>甲殿川・諸木井水路橋>西諸木の標石>新川川に架かる新川川橋>第三十四番札所 種間寺に



■竹林寺から第三十二番禅師峰(ぜんじぶ)寺へ■

坂本の茂兵衛道標(185度目)
今回のメモは竹林寺より禅師峰道を下り、参道が県道32号にあわさる地点に立つ茂兵衛道標からスタートする。茂兵衛道標の「峯寺」への手印に従い道標を左折し、下田川に沿って県道32号を東進する。 
下田川
下田川(しもだがわ)は、高知県を流れる延長約14kmの二級河川。江戸時代には、稲生鉱山で採掘された石灰を運び出すための航路として利用されていた。
高知県南国市包末付近に源を発し、物部川から取水された農業用水を集めながら南西へ流れる。源流部を地図をチェックすると28番札所大日寺から29番国分寺に向かう途中に出合った松本大師堂の近く、野中兼山が物部川から水を引き開削した舟入川のすぐ傍。舟入川と同様兼山が開削した人工用水路のようだ。
下田川は小さいながら下田川水系とし、支流として樋詰川・介良(けら)川が合流し高知市五台山で浦戸湾に注ぐ。介良川は後述遍路橋の少し東で北の介良から注ぎ、樋詰川は更に上流で南から注ぐ。 流域はどの河川も物部川が形成した扇状地低地に流れを発し、香長平野平野の西に残る鉢伏山、五台山と、その南に東西に連なる大畑山丘陵山地に挟まれた一帯である。
樋詰川は海岸線を東西に流れる川筋と繋がっているように見える。地図に見える溜池を境に東西に流れがわかれているのだろうか。
介良
「土佐国長岡郡の九郷の一つ「気良郷」。のち源希義 の流摘の地が「介良庄」。キク科の古名ウケラの自 生地?(『土佐地名往来』)」

下田川・遍路橋を渡る
コンクリート護岸補強された下田川に沿って東進。右手護岸コンクリートに「ヘンロ橋跡」と書かれたプレートが埋め込まれている。かつての遍路橋が架かっていた箇所だろう。 その直ぐ東に遍路橋。遍路道はこの橋を渡り下田川左岸に移る。前面は直ぐ南に大畑山(標高143m)の丘陵が東西に繋がる。地区名は「唐谷」。「地検帳にはカラ谷。日影地のカウラが転訛しカラ、日 当たりの良くない谷」と『土佐地名往来』にある。

県道247号を南下
遍路橋を渡るとそのまま唐谷の集落を南下。大畑山から東に延びる丘陵の山裾まで進むと突き当りに遍路道案内。「禅師峰寺3.5km」とある。案内に従い左折、山裾の集落の細い道を東進し県道247号に合流。右折直ぐ「高知南国道路」の高架。遍路道は高架を潜り県道247号を南進する。 県道は大畑山山地を南に切り込んだ低地を進み(侵食谷?)、標高30m弱の鞍部を越えて南に抜ける。

武市半平太旧宅
ほどなく県道の左手に「武市半平太 旧宅と墓」の案内。ちょっと立ち寄り。県道を左折し、侵食・開析され(?)東西に分かれた大畑山山地の東側山裾に「武市半平太 舊宅及墓」の石碑があり、古家がその左に建つ。
武市半平太
旧宅傍にあった案内には「国史跡武市半平太旧宅及び墓 【1936(昭和11)年9月3日指定】 武市半平太は、幼名鹿衛、諱は小楯、瑞山は号。別に吹山、?茗の号があります。(1829(文政11)~1865(慶応元)年)
半平太は、こちらの旧宅に22歳まで居住していました。宅地225坪で、その頃の規模が残っています。屋根は、元は藁葺でしたが、現在は銅板葺となっています。 (現在は民家として使用されていますので、旧宅は非公開させていただいております。ご見学はご遠慮ください。)
武市半平太の墓は、ここから南に接する丘陵にあります。墓碑には、武市半平太小楯と刻してあり、妻富子の墓と並んでいます。」とあった。
旧宅の逆を進むと瑞山神社と墓がある。

Wikipediaで補足。「優れた剣術家であり、黒船来航以降の時勢の動揺を受けて攘夷と挙藩勤王を掲げる土佐勤王党を結成。参政・吉田東洋を暗殺して藩論を尊王攘夷に転換させることに成功した。京都と江戸での国事周旋によって一時は藩論を主導し、京洛における尊皇攘夷運動の中心的役割を担ったが、八月十八日の政変により政局が一変すると前藩主・山内容堂によって投獄される。1年8か月20日の獄中闘争を経て切腹を命じられ、土佐勤王党は壊滅した」とある。 龍馬も元は土佐勤王党に参加するも、脱藩後は勝海舟の影響もあり「開国思想」と変わってゆく。

石土トンネルを抜け南国市に 
県道に戻り南下。緩やかな坂を大畑山地の鞍部に向かって上り、右手に刈松神社の社が建つ辺りより県道を離れ右手に逸れる道に乗り換える。
直ぐ石土トンネル。トンネルが高知市と南国市の境。トンネルを抜けると南国市緑ヶ丘となる。トンネル出口には神保神社が鎮座する。

石土神社
宅地開発されたような街並みを道なりに進み石土池西岸に出る。結構大きな池だ。場所から見て農業用溜池とは思えない。どうも宅地開発された十市パークタウンの雨水調整池のようだ。 名前の由来は、池の西南端にある石土神社からだろう。
石土神社
『続日本後紀(しょくにほんこうき)』に、延喜式内社と記載される古社。読みも「(いしつちじんじゃ」「 いわつちじんじゃ」などの名が見える。それもあってか石土池も「いわつちいけ」「いしどいけ」「いしづちいけ」、地名をとって「十市の池」とも呼ばれるようだ。

縁起を読んでいると、ちょっと気になる箇所があった。「三百有余年前修験者此神社より 伊豫國新居郡瓶ヶ森に勧請し延喜式社なりと衆人に呼かけても朝庭 に於せられては御記録の通りにて此郡此村にして寸分の紛れなしとて御変更なかりしとか其の後伊豫新居岡市の境なる伊豫の地高嶺に遷座してより本名高嶺の名は次第に廃れ現在の石鎚山となる石鎚神社は延喜式社に非ず、(中略)石鎚神社は元土佐の國より分霊したるものにして土佐長岡の石土毘古の命と原祠を稱すと記せり(石鎚山先達記に有り)」とする。古来伊予の石槌(いしづち)神社を奥の院に、当社を前の宮とも称する、と。
要は、伊予の石鎚神社は土佐から分霊されたとのこと。そういえば石鎚山のお山開き祭事の際、土佐の信者が供奉するとも聞く。また、当社裏手の石灰洞は伊予の吉田(私注;南予にある)まで続くといった話も残る。伊予との繋がりの深堀にフックが架かりそうだが、ここはちょっとセーブ。

自然石標石を左折
石土川から注ぎだす十市川に架かる石土橋を渡ると県道14号。遍路道は県道合流点を右折し、すぐ県道を左に折れる。そこに「32 禅師峰寺1.2km」と刻まれた新しい標石があり、「すぐ先左折」の矢印が記される。
指示に従い県道より南下すると、二筋南の四つ辻に自然石の標石。手印と共に「へんろミち」と刻まれる。
十市(とおち)
この一帯は十市地区。「海辺に延びた砂洲。遠く突き出ている「遠洲」、門戸のよ うな「戸洲」がとおつ、とおちに転訛」と『土佐地名往来』にある。



              第三十二番札所 禅師峰寺

禅師峰寺参道口に
集落の間の生活道を東進すると、前が広場となり道の左手に大きな石仏と小振りな石仏群、標石そして「四国第三十二番霊場 八葉山禅師峰寺」と刻まれた寺標石が立つ。 遍路道案内に従い広場を左折れ参道口に向かう。
参道口はふたつに分かれる。左は車道参道、歩き遍路は直進する。参道口には手印と共に「禅師峰本堂 三四〇米」と刻まれた標石が立つ。

三丁・二丁石
ジグザグの遍路道を上る。比高差は60mであり、それほどキツイ坂ではない。道の途中には三丁、二丁の舟形丁石、1基の石仏が立っていた。
尾根道散策コース
お気楽に山道参道を進んでいると、なんとなく違和感。地図をチェックすると寺から東へと離れている。引き返し、地図に記される寺への道筋と思しき実線まで戻る。
よく見ると分岐点には「尾根道散策コース」の案内。峰寺>栗山>札場へと独立丘陵の尾根道を進むハイキングコースの案内が雑草に埋もれるように置かれていた。少し注意しなければならない分岐点だ。
栗山は丘陵部、札場は丘陵の東、海岸に面した平地にその地名が見える。

境内
山道を出ると四十八段の石段。石段を上ると仁王門。仁王門の右手に本坊。仁王門を潜ると右手に石灰岩の奇岩を背に峰寺不動明王が立つ。




右手に奇岩を見遣りながら三十一段の石段を上り、右に曲がると正面に本堂、右手に鐘楼、左手に大師堂。大師堂前面には地蔵堂が建つ。
本堂も大師堂も香台の置かれたところにも覆屋が建っている。あまり見ない様式のように思う。本堂は昭和45年(1970)の台風で被害を受け、修築に際し時の住職がコンクリートでの再建案を避け木造を決断。美しい屋根のフォルムを楽しむことができるのもそのおかげである。

境内にあった「禅師峰寺略縁起」には、「寺伝によれば平城天皇の大同二年(八〇七)に、弘法大師が一宇を建て海上安全祈願のため自刻の十一面観音菩薩像を当寺の本尊として、安置せられ四国八十八ヶ所のうち第三十二番札所と定められた。
当山は観音の浄土天竺補陀洛山さながらの霊域にしてその山容八葉の蓮台に似たりとして八葉山と号し、大師当山に於いて求聞持の法を修せられたので求聞持院と称す。 藩政時代藩主が浦戸港出帆の際必ずこの寺の観音に海路平安を祈ったこのことから船観音ともよばれている。
金剛力士像二体は仏師定明の作(正応四年)で重要文化財に指定されている。(保管庫で保存)」とあった。
Wikipediaを基に補足すると、「禅師峰寺(ぜんじぶじ)は、高知県南国市にある真言宗豊山派の寺。寺伝によれば、聖武天皇の勅命を受けた行基が海上安全を祈願して堂宇を建立したのを起源とし、行基菩薩の開基された峰の寺ゆえに禅師峰寺と空海が名付けたとの話も残こる。

第三十二番禅師峰寺から第三十三番札所 雪蹊寺へ

次の札所雪蹊寺は浦戸湾を渡った西側、直線距離にして9キロほどである。直線距離と言ったのは、浦戸湾を渡る渡船を利用した場合のこと。如何なる理由か不詳だが、散歩の当日は欠航となっていた。仕方なく当日は浦戸大橋を渡り桂浜のある竜頭岬経由で雪蹊寺へと向かった。
結構大廻りとなったが、渡船は通常は欠航することがないようであり、メモもそのルートを組み込んでの 雪蹊寺への遍路道を記す。

青石板状標石
禅師峰寺を下り参道口に。遍路道は禅師峰寺への往路に辿った道筋より一筋南の道を西進する。 道は大畑山地の丘陵の南、太平洋に面した海岸堆積物を岩質とした堆積岩よりなる。 道の右手に小さな独立丘陵が見える阿戸地区の先、四つ辻左角に標石。青石で造られた板状標石には「へんろ道」。手印と共に「三十二番峯寺 三十三番興福寺」の文字が刻まれる。雪て蹊寺の旧寺名は高福寺。それゆえの「興福寺」ではあろう。
阿戸
「土佐日記の「大湊」十市説?オド(大門=門は水の 出入り口)が転じてアド(『土佐地名往来』)」

県立高知高等技術学校西端に標石
白石神社の建つ丘陵を越えると遍路道は県道14号とクロスし、そのまま直進する。県道を越えた道は地図に県道14号とある。交差して海岸部に向かう道も県道とある。遍路道は旧路というこtだろうか。
県道を境に南国市から高知市仁井田に行政域が変わる。

道を西進、砂地といった如何にも海岸堆積岩よりなる地形を表す地区を越え大平山(標142.8m)の山裾、県立高知高等技術学校の校庭西端の道の左手に標石らしき石柱。記録ではこの辺りに「へんろ道 三十二番へ十二丁 三十三番へ一里十六丁」と刻まれた遍路標石があると言う。その標石かもしれない。

三里
大平山の山裾を進み大平山を抜けて来た県道376号・高知南インター線を越えると、南に折れる県道14号と分かれ直進すると三里(みさと)小学校や三里中学校と、三里を冠する施設名が多くある。この辺りは仁井田??
現在は仁井田であるが、明治22年(1889)の町村制の施行により、種崎村・仁井田村・池村の区域をもって長岡郡三里村が発足したと言う。そういった歴史を踏まえての「三里」だろう。その後、高知市に合併し三里村一帯は高知市仁井田となったようだ。

仁井田の聖神社
道を進むと山側に聖神社がある。鬱蒼とした社叢に社が鎮座する。
鳥居傍の狛犬、阿吽一対の狛犬の姿が少し異なる。阿の狛犬台座には大正6年〈1917)とあるが、吽の狛犬には台字不明で、少し新しいようである。後年の作であろうか。
境内に由緒案内は無く、御祭神等は全て不明だが、昔は聖観音堂と称されていたようである。 聖神社境内前、道を防ぐように巨大な御神木が残る。
聖神社
聖神社の名前に惹かれ、あれこれチェックすると、結構全国に分布しているようである。秩父の黒谷、和同開珎の史跡を訪ねた時にも聖神社があり、そのご神体は採掘された自然銅を御神体にしていた。
高知にも他に聖神社が見受けられるが、高岡郡越知町にある聖神社が面白そう。断崖絶壁の洞窟に鎮座する社は鳥取県の三徳山三佛寺奥の院「投入堂」(平安時代後期:国宝)を思わせる景観であり、土佐の投入堂とも称されるようだ。江戸時代後期頃には造られたようだが、詳細は不明。一度訪れてみたい社である。

仁井田の仁井田神社・一の鳥居と御旅所
聖神社境内前の御神木脇を抜け西進。仁井田の街並みの中を進むと、道の左手にスペースが現れ、そこに鳥居と石造物が見える。チェックするとこの地の北、太平山南麓に鎮座する仁井田神社の一の鳥居と、石造物は御旅所であった。
仁井田神社
仁井田神社は道の右手に立つ注連柱の間の参道道を北に進み社頭に。そこに二の鳥居。社殿までには三の鳥居、四の鳥居を潜り進むことになる。社殿は入母屋造り千鳥破風付きの屋根を持つ大きな拝殿と、春日造りの本殿からなり、落ち着いた雰囲気を漂わせている。
社の由緒には「古くは五社大明神とも言われていた。天正15年(1587)頃、高岡郡の仁井田明神(現四万十町窪川の高岡神社)を勧請して祀ったのが当社という」とある。この説明だけでははるか離れた仁井田(現在の窪川一帯)と当地の仁井戸由神社の関りなどがわからない。ちょっとチェック。
浦戸湾と窪川の仁井田神社
あれこれデータを調べていると、『四万十町地名辞典』に、「仁井田」の由来については、浦戸湾に浮かぶツヅキ島に仁井田神社があり、由緒書きには次のように書かれてある。
伊予の小千(後の越智)氏の祖、小千玉澄公が訳あって、土佐に来た際、現在の御畳瀬(私注;浦戸湾西岸の長浜の東端)付近に上陸。その後神託を得て窪川に移住し、先祖神六柱を五社に祀り、仁井田五社明神と称したという。
この縁から三年に一度、御神輿を船に乗せ浦戸湾まで"船渡御(ふなとぎょ)"が行われた。この御神幸は波静かな灘晴れが続くときに行われるため、"おなバレ"と土佐では言われる。この時の高知での御旅所が三里(現在の仁井田)の仁井田神社であるといわれる。窪川の仁井田五社から勧請されたのが高知の仁井田神社であると伝えられている。(ツヅキ島の仁井田神社は横浜地区の総鎮守で地元では"ツヅキ様"と呼ばれる)」とある。
窪川移住の神託は「投げ石」
神託を得て窪川に移住とは?、『四万十町地名辞典』には続けて、「『高知県神社明細帳』の高岡神社の段に、伊予から土佐に来た玉澄が「高キ岡山ノ端ニ佳キ宮所アルベシ」の神勅により「海浜ノ石ヲ二個投ゲ石ノ止マル所ニ宮地」を探し進み「白髪ノ老翁」に会う。「予ハ仁井ト云モノナリ(中略)相伴ヒテ此仕出原山」に鎮奉しよう。この仁井翁、仁井の墾田から、「仁井田」となり。この玉澄、勧請の神社を仁井田大明神と言われるようになったとある」と記す。
仕出原山とは窪川の高岡神社(仁井田五社明神)が鎮座する山。仁井田の由来は「仁井翁に出合い里の墾田」とする。
土佐神社遷座の神託も「投げ石:
上述神託のプロットってどこかで出合った気がする。薄れゆく記憶に抗い思い起こすと、それは土佐神社の「礫岩の謂れ」とほほ同じプロットであった。
「礫岩の謂れ」を再掲すると、「古伝に土佐大神の土佐に移り給し時、御船を先づ高岡郡浦の内に寄せ給ひ宮を建て加茂の大神として崇奉る。或時神体顕はさせ給ひ、此所は神慮に叶はすとて石を取りて投げさせ給ひ此の石の落止る所に宮を建てよと有りしが十四里を距てたる此の地に落止れりと。
是即ちその石で所謂この社地を決定せしめた大切な石で古来之をつぶて石と称す。浦の内と当神社との関係斯の如くで往時御神幸の行はれた所以である」とあった。
物語の成り立ちを妄想
時代から考えて、仁井田神社の遷座に関わる物語は土佐神社のプロットを借用したのであろうか。 仁井田神社の物語に登場する仁井翁は、仁井田の地名に神性を付加するためのものだろうか。物語の主人公である伊予の小千玉澄公は『窪川歴史』に新田橘四郎玉澄とあるわけで、普通に考えれば仁井田は、「新田」橘四郎玉澄からの転化でろうと思うのだが、仁井翁を介在させることにより、より有難味を出そうとしたのだろうか。
もっとも、新田橘四郎玉澄も周辺の新田開発を行ったゆえの小千(後の越智)から「新田」姓への改名とも思えるし。。。?ともあれ、上述石土神社に限らず、土佐と伊予がはるか昔には結構強い繋がりがあったようである。
船渡御
ツヅキ島の仁井田神社由緒に「小千玉澄公が訳あって、土佐に来た際、現在の御畳瀬(私注;浦戸湾西岸の長浜の東端)付近に上陸。その後神託を得て窪川に移住し、先祖神六柱を五社に祀り、仁井田五社明神と称したという。この縁から三年に一度、御神輿を船に乗せ浦戸湾まで"船渡御(ふなとぎょ)"が行われた。(中略)この時の高知での御旅所が三里(現在の仁井田)の仁井田神社であるといわれる。窪川の仁井田五社から勧請されたのが高知の仁井田神社であると伝えられている」と記されるのだが、これがよくわからない。この船渡御ってコンテキストから考えれば窪川の仁井田五社明神からはるばると浦戸まで運ばれ船渡御で御旅所の当地仁井田神社に渡り、さらにツヅキ島の仁井田神社に船渡御された、と読めるのだが???
土佐神社もはるか昔には、西に大きく離れた浦の内湾の西端にある鳴無(おとなし)神社に土佐神社の神輿が渡御する「しなね祭り」が神事としてと行われた言うし、であれば、窪川と浦戸を結ぶ神事があったのだろうか。「高知での御旅所が三里(現在の仁井田)の仁井田神社」とあるわけで、 であれば神輿は高知以外のどこかから渡御あれたとしか読めない。とはいえ、少々遠すぎる感あり。

種崎の御座大師堂
道脇の御旅所にフックがかかり、仁井田神社で結構メモが長くなった。先に進む。遍路道は浦戸湾手前で県道278号に合流。浦戸湾入り口へと南西に延びるかつては砂礫洲といった趣の種崎地区を進む。道の意右手、浦戸湾側には造船所のクレーンが建ち並ぶ。
しばらく進むと道の右手に小堂。種崎の御座大師堂。33番札所雪蹊寺の奥の院とも言われる。弘法大師四国御巡錫の砌り種崎に足を泊めここを開基したと伝わる。


県営渡船種崎待合所
御座大師堂から少し南に進み、右に折れると浦戸湾の護岸壁前に県営渡船種崎待合所。人は無料で対岸の長浜地区の長浜渡船場までに渡る。その距離575m。およそ5分の乗船と言う。 が、何故か当日は「欠航」のサイン。結構、ガックリ。
浦戸の渡し
この通称浦戸の渡しは、その昔お遍路さんも使っていたようであり澄禅はその著『四国遍路日記』に、「「(禅師峯寺より)山ヲ下テ浜伝ニ一里斗往テ浦戸ト云所ニ至ル、爰ニ(私注;ここに)大河在リ、材木米等ノ舟出入スル所ナリ、大裏焔上ニ付テ、太守与進上ノ材木ノ舟トテ三十余艘、順風ヲ待テツナキ置タリ、此河二太守与渡シ舟ヲ置テ、自由自在ニ旅人渡ル也、夫与浜伝ニ一里余行テ高福(雪蹊寺)ニ至ル」と記す。
種碕
岸壁より対岸を眺める。6キロ弱と誠に狭い。種崎は、「戸の崎、ト(門・戸)は土地が両方迫り狭くなった水運 路?刀禰(船長)の居る崎、刀禰崎」と『土佐地名往来』とあった。

浦戸大橋経由で長浜渡船場に
渡船欠航のため仕方なく歩いて対岸に向かう。ルートをチェック。と、種崎から海を隔てた南の竜頭岬に浦戸大橋が架かっている。浦戸大橋を渡り竜頭岬経由で種碕渡船場対岸の長浜渡船場に向かうのが最短コースのようだ。
浦戸大橋を渡ると浦戸城跡、龍馬像で知られる桂浜、長曾我部元親の墓などちょっと気になるところはあるのだが、とりあえず長浜渡船場に向かうべしと途中の旧跡はすべてカットし、成り行きで進み長浜渡船場に「戻る」。
浦戸湾の地形
浦戸湾(Google Earthで作成)
歩きながら浦戸湾の地形を見ていると、高知平野と浦戸湾の境、仏像構造線が東西に走る線にある西の烏帽子山山地と東の大畑山山地がバッサリと切り開かれ海峡となり高知平野と浦戸湾を繋いでいる。
また、大雑把に言えば浦戸湾の高知平野への開口部と浦戸湾が太平洋に繋がる部分も南北に一直線に切り開かれているようにも見える。川が切り開くにはちょっと不自然。これってなに? あれこれチェックしていると、「寺田虎彦博士東西方向の山脈が南北方向の断層によって分断された結果ではないかという科学者としての文章を残している。高知県の地質には南北方向の断層線がほかにも多く分布している」といった記事を目にした。はるか、はるか昔の地殻変動の所産なのだろう。


●渡船長浜待合所から雪蹊寺へ●

渡船長浜待合所
渡船場の場所を確認し、遍路道歩きのスタート。地図に渡船場の北に御畳瀬(みませ)の地名が見える。上述、伊予の小千(後の越智)氏の祖、小千玉澄公が訳あって、土佐に来た際、最初に上陸したとされる所である。
烏帽子山地と長浜丘陵(Google Earthで作成

左右に見える低山は烏帽子山山地から南に突き出した幾つもの支尾根からなる長浜丘陵ではあろう。
笑ヶ浦(わらいがうら)
渡船長浜待合所の道を隔てた丘陵側に庭園風の門構え。門は締め切られているが、門傍に「長浜史跡コース 笑ヶ浦(わらいがうら)」の案内。「明治二十三年(一八九O) 当時笑ヶ浦の住人、森九郎右衛門、号笑浦の書いたこの地の由来記の一節に、『山嶺ニハ一小茅亭ヲ建テ爰ニ笑ヶ浦ノ八景ヲ題シ、笑浦夜雨、西法寺晩鐘、浦戸帰帆、種崎晴嵐、桂濱秋月、藻洲潟落雁、桟嶋夕照、仁井田寮雪、ト云。」と書いてあります。
また明治二十年漢詩人で吾川郡長を勤めた三浦一竿の詩碑と、翌二十一年清人馬仲?の詩碑が山上に残されています。
両詩碑とも山上の見晴亭から浦戸湾の美を称えた詩であります。さらに由来記には、「漁船等ヲ繋泊スル一小湾二シテ安政年間故太田儀左衛門氏ノ物語ル二地名ハ「和合ヶ浦」ナニト。」と書いてあります。
天正十七年長宗我部地検帳には、「「わラヵ浦』一所拾六代下畠(ひとところじゅうろくだけのはたけ)「わラヵ浦村」宮崎強力扣(ごうるりきひかえ)」とあります」とある。
これだけではなんのことかよくわからなかったが、後述する雪蹊寺駐車場にあった「長浜史跡コース」にこの丘陵東端部に笑ヶ浦とあtった。門が閉まりここからは入れないが、丘陵に上る道があり、笑ヶ浦八景を愛でるところがあるのだろう。

人工水路・新川川(長浜川)に沿って西進む
遍路道は新川川の北岸を西進する県道278号を辿る。この新川川は野中兼山によって開削された人工水路。仁淀川の八田堰から取水し、弘岡井(ひろおかゆ)、新川川により一帯を灌漑した後、浦戸湾と結ばれた。
仁淀川の八田堰から概略図を書いてみる。地図を見ると人工的に開削された水路と仁淀川の自然分流の川筋を繋ぎ合わせ浦戸湾に続けているようだ。特に南北に流れる甲殿川などは人工的に開削した人工水路(新川川)を落とした自然水路のように思える。人工水路と自然水路を組み合わせた治水・利水事業はよく見る。利根川の東遷事業で源頭部を失い廃川となった古利根川の流路を改修し葛西用水の流路として活用した大落古利根川などが記憶に残る。

「広谷喜十郎:野中兼山と春野」より
この新川川は灌漑、仁淀川と浦戸を結ぶ舟運〈木材)のほか洪水対策として排水の機能も備えるようだ。地図に新川川の流れを落とした甲殿川が土佐湾に注ぐ手前(西戸原)で大きく西に向き変える箇所があるが、そのためもあってかこの甲殿川の河口が土砂で埋まり諸木地区が洪水に見舞われたようだ。そのため、甲殿川が西に向きを変える地点(西戸原)から人工的に水路を開削し、唐音の丘陵(後述)を切り抜き、長浜川と繋ぎ浦戸に水を流した。開削された新川川筋が唐音へと河口付近で不自然に東進、さらに北進し唐戸の切抜に繋がりるのは排水・洪水対策でもあったわけだ。
仁淀川からこの地を流れる新川川(長沢川)に繋がる人工水路には新川川のほか、諸木井などもある。諸木井を浦戸に繋げたのは灌漑用水の用途の他、新川川と同じく排水の機能もあったのだろうか。
(流路概要はGoogle Mapと共に掲載地図を参照ください;「広谷喜十郎:野中兼山と春野、高知市広報「あかるいまち」2007 年 12 月号」より)。
この利水・治水工事は慶安元年(1648 年)、まず弘岡堰(現八田堰の前身)と八田川(一名弘岡井筋)の工事に着手し、5カ年を要して承応2年(1653 年)に完成したとのことである。

鶴田熟跡
新川川に沿って県道278号を西進。しばらく歩くと道の右手、T字路を少し北に入った石垣の前に石碑があり
「鶴田熟跡 幕末の土佐藩政吉田東洋が蟄居中に開いた熟跡 熟生に岩崎弥太郎、、後藤象二郎、福岡孝弟などがいた」と刻まれる。傍に手書きの案内。「鶴田熟跡 幕末の土佐藩政吉田東洋が蟄居中に開いた熟跡である。東洋は安政元年(一八五四)、江戸出府中に、酒癖の悪い山内家親戚の幕府役人を接待していて、頭をなぐったため罰せられた。翌年四月、長浜の鶴田に塾を開き、安政五年(一八五八)一月、参政に復帰するまで、ここで子弟の教育につとめ、後藤象二郎、福岡孝弟、岩崎弥太郎らの門弟を養成した」とあった。
石垣上の熟跡は更地となっていた。
吉田東洋
武市半平太の土佐勤王党の郷士により暗殺された土佐藩執政ということは知るが、暗殺に至る経緯などは知らない。ちょっとチェック。
Wikipediaをもとにまとめると、「先祖は土佐の土豪名家。戦国期は長宗我部元親に仕えた。土佐在郷の名家ゆえ山内一豊の入国後、一豊から三顧の礼をもって仕官を勧められ、土佐藩上士として迎え入れられた家柄に生まれる。
東洋は藩の重臣として仕えるも、上述事件により蟄居。この地で若手藩士を教育するが、その子弟が「新おこぜ組」と称される一大勢力となり、幕末期の土佐藩の動向に大きな影響を与えることになる。
安政4年(1857年)12月に蟄居赦免。翌年1月には参政として藩政に復帰し、法律書『海南政典』を定め、門閥打破・殖産興業・軍制改革・開国貿易等、富国強兵を目的とした改革を遂行する。然し、このような革新的な改革は、保守的な門閥勢力や尊皇攘夷を唱える土佐勤王党との政治的対立を生じさせる結果となり、文久2年4月8日(1862年5月6日)、帰邸途次の帯屋町にて武市半平太の指令を受けた土佐勤王党の那須信吾などによって暗殺された」とあった。


第三十三番札所 雪蹊寺

更に西に進むと深い叢が県道まで延びている。その直ぐ先、左手が大きく開ける。雪蹊寺参拝の駐車場となっている。駐車場の境内玉垣の前に前述「笑ヶ浦」でメモした「長浜史跡コース」が案内されていた。

境内への8段ほどの石段の前、左手に寺標石。「四国三十三番霊場」の左右に「みね寺二り 是よりたねま寺二り 明治四十年十月」と刻まれ、標石を兼ねている。

境内に入ると右手に鐘楼、左手に安産地蔵、馬頭観音堂と並び、正面に本堂、その右手に大師堂が建つ。本堂に置かれたなで仏(おびんずるさま)は患部治癒の願いからよく磨かれ、真鍮色に輝いていた。
曾我部信親公の墓所
本堂右裏には長曾我部信親公の墓所がある。宝篋印塔、五輪塔、宝塔などが立つ。長曾我部信親公は元親の嫡男。秀吉の軍門に下った後、九州攻めに参陣。無謀とされる戸次川(へつぎかわ)の合戦で島津勢の大軍に敗れ戦死。信親に殉じた家臣の供養塔も残る、と言う(基本、墓所撮影は遠慮しており、写真なし)


境内にあった「長浜史跡コース」には「高福山雪蹊寺(四国霊場三十三番札所) 延暦年間(七八二~八〇六)弘法大師が開基されました。もとは高福寺といいましたが、鎌倉時代に運慶と湛慶作の毘沙門天の仏像など(国重文)が安置されたところから、慶雲寺と改称された経緯があります。
戦国時代、月峰和尚を中興の祖とし臨済宗に改宗され、長宗我部元親の菩提寺となり、元親の法号にちなみ雪蹊寺と改称されました。

慶長五年盛親の敗戦で山内一豊公の入国となり、七十石を拝領しました。歴代の住職やその弟子に朱子学を学んだ天質と小倉三省、谷時中などを輩出し、南学の中心地ともいわれています。 明治二年廃仏毀釈により廃寺となりましたが、同十二年山本太玄和尚を住職とし復興され、その弟子山本玄峰和尚は昭和の傑僧といわれました。本尊薬師如来三立像」とある。

Wikipediaにより補足すると、「雪蹊寺(せっけいじ)は、高知県高知市長浜にある臨済宗妙心寺派の寺院。高福山(こうふくざん)、高福院(こうふくいん)と号する。
『土佐国編年紀事略』には嘉禄元年(1225年)、右近将監定光なる人物が高福寺を創建したとする。天正16年(1588年)の長浜地検帳には「慶雲寺」とあり、この頃までに慶雲寺と改称していたことが窺える。
雪蹊寺改名の元となる長曾我部元親の法名は「雪蹊恕三大禅定門」。江戸時代初期には「南学発祥の道場」といわれ天室僧正が朱子学南学派の祖として活躍、野中兼山などの儒学者を生み出した。
明治時代になると廃仏毀釈により明治3年(1870年)廃寺となり、翌年、後方に隣接して当寺所蔵の長宗我部元親坐像を神体とした秦神社が建立された。その後、大玄和尚により復興した。なお、明治12年(1879年)に再興されるまで納経は、31番竹林寺で「高福寺」の名でされていたという。
太玄和尚
境内を入るとすぐ左手に「太玄塔」と刻まれた石碑が立つ。「長浜史跡コースの案内には「太玄塔  雪蹊寺が廃仏毀釈の後、再興に尽力した十七世山本太玄宜點和尚のために、養子嗣法となった玄峰和尚が建立した塔で碑文は裏側に刻まれています。
碑文の一節には、「文政九丙戌年(一八二六)京都ノ公家二生マル幼時花園桂春院ノ徒トナリ長ジテ岡山国清寺月珊和尚二師事シ三十餘歳ニシテ茨木本源寺二住ス明治十二年本山妙心寺ノ特命二ヨリ當寺再興ノ為来ル。(中略)明治三十六年六月二十八日當寺二於テ遷化ス世寿七十八歳」 昭和廿八年七月吉辰 前妙心寺派管長嗣法比丘般若窟玄峰謹志」とあった。





山本玄峰老師
太玄塔の横に2基の石碑。そのうち1基が上述、明治の頃寺の復興に努めた山本玄峰師の石碑。上半身像が載る。石碑に人物の説明も刻まれているのだが、当日は篤志家のひとりでもあろうかと注意を留めず「太玄塔」の案内写真の端に偶々石碑が写るが解説は半分だけしか読めない。あれこれとチェック。と、検索ヒット多数。「長浜史跡コース 雪蹊寺」の案内に、「昭和の傑僧といわれました」とある所以である。
慶応2年(1866年)和歌山の生まれ。十代で目を患い四国遍路にでる。裸足での遍路だったと。 7回目の途上、雪蹊寺の門前で行き倒れとなっていたところを住職の山本太玄師に救われる。24歳の時という。
この出会いにより出家を決意。妻と離別し翌年雪蹊寺で出家。修業を重ね83歳で京都の妙心寺管長、最後は江戸期臨済宗中興の祖・白隠禅師創建の三島龍沢寺の住職となり、昭和36年(1961年)96歳で遷化した。生涯四国遍路すること17回。最後の遍路は95歳の時と言う。
で、気になる「昭和の傑僧」の所以だが、若き頃参禅会で玄峰を慕った田中正玄、井上日昭といったいわゆる右翼、昭和のフィクサーとの交流ゆえか(5.15事件では井上日昭の弁護を引き受けている)、また三島龍沢寺に師を頼った多くの著名人との交流ゆえではあろう。
天皇の玉音放送にある「 堪え難きを耐え忍び難きを忍び」の文言は終戦時の首相である鈴木貫太郎への終戦を勧める書簡の中の一文とも言う。また、書簡には象徴天皇制への示唆も書かれているとか。
月峰和尚
戦国時代、雪蹊寺の中興の祖、月峰和尚には妖怪とのやりとりの伝説(歌詠み幽霊の伝説)、所謂「雪蹊寺物語」がある。
ある日、ひとりの旅僧が寺での一夜の宿を村人に願う。村人は「妖怪が出るので近づかないほうがよい」と。が、僧は一人寺にて座禅を組む。と、夜更けにどこからともなくむせび泣く声。耳をすますと「水も浮き世という所かな」と聞こえる。
旅の僧は、和歌の下の句と聞き取り、上の句がないため成仏できず悲しんでいるのだろうと思い至る。
翌晩、同じくむせびなく声。僧は「墨染めを洗えば波も衣きて」と上の句を詠み、続けて「水も浮き世という所かな」と繋ぐと、むせび泣く声はハタと止んだ。
この話をきいた長宗我部元親はその僧に雪蹊寺の住職になるように頼み、元親は雪蹊寺を立派に建て直し、今に至るという。その僧こそが月峰和尚であった、と。
南学
土佐を歩いていると、、雪蹊寺の案内にもあったように時に「南学」という朱子学派が顔を出す。コトバンクによれば「天文 17 (1548) 年南村梅軒により南海の地土佐に興った朱子学派。海南学派ともいう。京学,東学に対する称。四書を重んじ,道学者的態度を固持するとともに実践躬行を尊び,実際政治に参与した。梅軒のあと,吸江庵の忍性,宗安寺の如淵,雪蹊寺の天室らを経て,谷時中にいたって仏教から完全に独立し,基礎を固めた。その門人に野中兼山,小倉三省,山崎闇斎が出た。のち三省の門下から,谷一斎,長沢潜軒,大高坂芝山らが出,また闇斎の門弟,谷秦山が帰国して,南学を振興した。
人間系譜は以上のようにたどれるものの,三省が世を去り,兼山が失脚して藩府より南学派は弾圧を受けて両人の門人や闇斎も土佐を去り,土佐における南学派は一時中絶した。秦山が復興した教学は三省,兼山までの本来の南学と質を異にし,京,江戸の学風の移入とみることができる。もっとも秦山は大義名分論に立つ尊王思想を説き,幕末勤王運動に影響を与えたが,こうした政治と結びついた強い実践性の点では,広い意味での南学は一貫している」とあった。
土居楠五郎 (保) 墓
境内の長浜史跡コース案内に掲載されていた。案内には「土居楠五郎 (保) 墓 坂本龍馬の剣の師、長岡郡十市村字系木の郷士(現南国市十市)高知築屋敷の日根野弁治道場の師範代として、龍馬が十四歳の時から指導し、人間形成にも深い影響を与えたようです。慶応三年九月二十三日、龍馬最後の帰郷の時、種崎中城家に上陸、小島家にて二人は劇的対面をしています。十市の土居家墓所を移転の時一族の墓石とともに当寺へ移したようです」とあった。

秦神社
雪蹊寺の東、寺に隣接して建つ。長宗我部元親の菩提寺である雪蹊寺が廃仏毀釈により明治3年(1870年)に一時廃寺となった。そのため、雪蹊寺に安置していた元親公の木像を移し、ご神体としたのがこの社のはじまり。明治4年(1871年)4月7日(新暦5月25日)に建立された。戸次川の戦いで戦死した長宗我部兵の霊璽板(大位牌)も祀るとのこと。
秦神社の社名の由来は長宗我部氏が中国秦王朝の始皇帝の子孫とされる秦河勝の後裔と称したことによる。河勝は聖徳太子に仕え京都の太秦(うずまさ)を開いたことでも知られるが、その後裔が信濃国に移り、26世の孫能俊(よしとし)の代に、土佐国庁役人として赴任し土佐に入ったとする(異説もある)。
土佐入部の経緯ははっきりしないが、長曾我部氏の祖はこの能俊(よしとし)とすることは一致しているようだ。
秦が長曾我部となったのは、居住した地が長岡郡宗部郷(宗我部郷)であったため。能俊は地名をとって宗我部氏を称したが、隣の香美郡にも宗我部氏を名乗る一族があったため、香美郡の曽我部氏を香曽我部氏、長岡郡の曽我部一族を長曾我部氏したとのことである。
長浜城址
長浜史跡コース」案内には「長浜城址 秦神社と雪蹊寺の背後の山が長浜城址であり、二カ所の竪堀跡がありました。しかしながら現在は、四百有余年の星霜により風化し、樹木に覆われ容易に目にすることはできません。
戦国時代に、土佐、吾川の両郡を支配していた本山梅慶(茂宗)の子茂辰の支城で、大窪美作守(弁作)が城主でした。
長宗我部国親は、父の兼序の死と岡豊落城の首謀者であった本山氏の討滅を決意していましたが、その機会ができたので、国親の元家臣であった福留右馬允の手引きによって日時を定め、永禄二年(一五六〇)五月二十六日の雨風激しき夜、種崎から海を渡り御畳瀬より、長浜城を奇襲して攻略しました。今も城山の北西の谷を夜討が谷と伝えています。
戸の本古戦場跡
秦神社から少し西、新川川の南の「戸の本一号公園」の中に「古墳勿毀」と刻まれた石碑が立つ。 「こふんなり。こぼつなかれ」と読むようだ。戦死者を弔う塚であるので、こわしたらダメ:ということだろう。
ここは長浜城攻防戦の時、長曾我部と本山氏が戦った古戦場跡。国親急襲の報を受け、本山氏の居城である朝倉城(高知市西郊)より本山茂辰が二千の兵を率いて長浜に攻め寄せ、長曾我部勢一千と激突した。
このとき長曾我部元親は22歳。この合戦が初陣であった。「姫和子」と呼ばれていた元親はこの合戦での働きにより以降、「鬼和子」「土佐の出来人」と称されるようになった、とか。 四国制覇を目した戦国の雄である長曾我部氏であるが、元々強大な力をもっていたわけではなかったようだ。土佐七雄(本山、吉良、安芸、香曾我部、大平、長曾我部)の中でも最弱であったようで、居城岡豊を本山氏に奪われ一族存続の危機に瀕している。
岡豊城の落城際し、兼序の嫡子千雄丸は一条房家を頼り中村に逃れ、一条房家の下で元服して長宗我部国親を名乗った。そして房家の配慮により永正15年(1518年)岡豊城に帰還して長宗我部氏を復興、20代当主となっている。このような経緯を踏まえての長浜城急襲ということである。
一条房家
文明9年(1477年)、関白・一条教房の次男として誕生。土佐一条氏は、父・教房のとき所領の土佐国幡多郡に下向して在地領主化した公家大名である。房家自身も正二位の高位に昇り、その名門の権威をもって土佐の国人領主たちの盟主として勢力を築き、土佐一条氏の最盛期を築き上げた。本拠地の中村には「小京都」と呼ばれるほどの街を建設した。なお、現在の四万十市にある東山や鴨川という地名は、房家が京都にちなんで名づけた地名であるといわれる(Wikipedia)。


■第三十三番札所 雪蹊寺から第三十四番種間寺へ■

次の札所種間寺までの距離はおおよそ7キロほど。高知市長浜から高知市春野町となる。春野町は野中兼山が開削した水路が幾筋も流れる。春野の地名の由来は「墾る野」。野中兼山への敬愛は、兼山を祭る春野神社 となり、昭和32年の合併では春野町」と『土佐地名往来』にある。散歩の途次、兼山開削の水路に知らず出合うことになる。

日出野
雪蹊寺を離れ県道278号を東進する。右手の日出野地区は「中世の悲田院(病人貧者の救護施設)由来の地名。「土佐 幽玄考」に悲田院野の訛り」とあると『土佐地名往来』は記す。『続日本記』には、土佐には幡多郡と吾川郡長浜に造るとあるようだ。悲田院の場所は比定されていない。
悲田院
聖徳太子が隋にならい、大阪の四天王寺に四箇院の一つとして建てられたのが日本での最初とする伝承がある。
日本では養老7年(723年)、皇太子妃時代の光明皇后が興福寺に施薬院と悲田院を設置したとの記録があり(『扶桑略記』同年条)、これが記録上最古のもの。また、奈良時代には鑑真により興福寺にも設立された。
平安時代には、平安京の東西二カ所に増設され、同じく光明皇后によって設立された施薬院の別院となってその管理下におかれた。
鎌倉時代には忍性が各地に開設し、以降、中世非人の拠点の一つとなった。 大阪市天王寺区の南端に位置する悲田院町(JR・地下鉄天王寺駅近辺)など、地名として残っているところもある(Wikipedia)。

唐音の切抜
唐音の切抜(Google Earthで作成)
日出野地区過ぎると前面を丘陵地が防ぎ、県道・水路はその丘陵地を堀割った切通しを抜ける。ここが前述唐音の切抜(切通し)。県道が2車線に整備され切り抜きの風情はあまりない。
左右の丘陵を見遣りながら歩くと、法面補強された北岸の一段高いところに石碑。「唐音の切抜」とあり。「土佐藩の奉行職野中兼山は吾南平野の灌漑と水運のため弘岡用水と新川川の水路の開発に1648(慶安元)年より5年の歳月を費やして完成した。
唐音の切抜は新川川と浦戸湾を結ぶ水路として開発されたもので長さ50間(90m)高さ15間 5尺(27m)幅7間(12m)に及ぶ大工事であった。





この切抜の開通により仁淀川流域と高知城下町とが内陸水路によって結ばれ産業は発展した。兼山苦心の遺跡である。春野町教育委員会  昭和63年3月建之」とあった。
開削工法は里芋の茎(ずいき)を干した物を岩盤の上で燃やして、その熱で岩盤に亀裂を入れては、金槌と石ノミで割る、このプロセスを繰り返す気の遠くなるような作業であったよう。
記念石碑の対面、新川川(長浜川)に門扉が設けられている。高潮対策のためのようだ。西に進むと道は急に1車線、昔ながらの道となっていた。唐戸の切抜を境に行政区域は高知市長浜から高知市春野町に変わる。
唐音
唐音の由来は「勾配の緩やかな切り通しの道「空峠」の転訛。同地名が各地にある。兼山ゆかりの春野治水の旧跡が 「唐音」」と『土佐地名往来』にあった。
亀割
切抜辺りの地図をみていると、切抜南の丘陵の南に亀割といった地名が見える。『土佐地名往来』には、「地検帳には亀ハリ。"川目"は網の目の水路、開墾を ハリ(墾リ)。川目墾りが「亀割」と転訛」とある。灌漑水路と結果生まれた新田開発の名残を示す面白い地名だ。

一つ橋
唐戸の切抜を抜けると北から下る「内の谷川」に架かる「一の橋」を渡る。橋の西詰に角柱が立ち、「三界萬霊」と刻まれる。
橋の下流は新川川。この地で新川川と内の谷川が合流(鉢合わせ?)する。当日は北から流れる内の谷川の一部が唐戸の切抜を抜けて新川川(長浜川)に流れ、残りが下流の新川川へと流れるのだろうなどと思っていたのだが、上述新川川のメモの如く、新川川(甲殿川)が土佐湾に注ぐ手前(西戸原)で人工水路を開削し北上、この地で内の谷川を合わせて唐戸の切抜へと流れているようだ。




新川川
内の谷川
前もって分かっていれば当日、この一の橋あたりの水の流れをチェックしたのであろうが、こんなことがわかったのはメモをはじめてから。常の如く後の祭りである。
それにしても、仁淀川支流筋であった川筋(甲殿川)を浚渫し(たのであろう)、人工水路である新川川を落とし新川川水路の本流となった甲殿川が土佐湾に注ぐ手前(西戸原)からこの地へと水を通すということは、高きから低きに流れる水ゆえの勾配、内の谷川の水が下流にながれることなく新川川に「含まれ」唐戸に向かう「仕組み」なと気になることが多い。
もっとも、現在でも新川川が往昔と同じ機能を果たしているということが大前提。そのあたりのことも気になるが、これも後の祭り(国土交通省の「新川川水系河川整備」の資料には、「唐戸で内の谷川が新川川に合流し」浦戸へ注ぐ、とあるから、現在の新川川・内の谷川の流れも浦戸湾へと流れているようにも読める。。。)

丘陵鞍部で右に逸れる
県道278号は左折し南下するが遍路道は直進し、前面に見える独立丘陵へと向かう。遍路道に入る道のガードレルには種間寺を指す歩き遍路のタグがある。
ビニールハウスの並ぶ田圃の中を一直線に進み丘陵山裾で2車線の車道に合流。正面の春野保育園の壁面には「種間寺4.4km」左折の案内。指示に従い左折し山裾の道を進むとほどなく丘陵鞍部へのゆるやかな上りとなる。
上り切った辺りに右に逸れる道があり、新しい遍路標石と供に「遍路タグ」が右折を告げる。2車線の車道を離れ右折し丘陵裾の道を辿る。
丘陵の地質
Google Earthで
この辺りの丘陵は烏帽子山地から南に突き出した支尾根といったもの。長浜地区は長浜丘陵と呼んだが、この辺りも長浜丘陵なのだろうか。烏帽子山地を走る仏像構造線を境に北の秩父帯と画した四万十帯の地質からなるのだろう。
秩父帯は中生代中頃(中生代ジュラ紀)、四万十帯は中生代後半(中生代白亜期)から新生代前半頃(新生代古第三期)の地層とのこと。はるかはるか昔の頃であり、とりあえず四万十帯は秩父帯より新しく、砂岩・泥岩からなるといった程度を理解しておくことにする。
ただし、丘陵を取り巻く低地は新生代第四期の河川平野堆積物の岩質。仁淀川により形成された沖積地が四万十帯の岩質の上に被さっているのだろうか。門外漢ゆえ不明。
真偽のほどは別にしても、秩父帯とか四万十帯と言われてもピンとこないのだが、実際に歩いてみると、地溝帯を画する仏像構造線を境に、南に新しい層(四万十帯)、北にそれより古い地層(秩父帯)、秩父帯の北の御荷鉾構造線を境に、さらに古い地層三波川変成帯といった、いままで頭に入らなかった地層、構造線のことがちょっとわかったような気になった。

標石が続く
丘陵南裾の道を少し進むと民家脇に出る。そこで一筋南から来た道と合流するが、その角に標石が立つ。ちょっと傾いた板状標石にには手印と共に、「三十四番 へんろ道 大正九年」といった文字が読める。
手印に従い西進し弧を描き南に向かう。T字路を越え三差路角に2基の標石。少し大きき角柱標石には手印と共に「種間寺 橋迄十五丁  雪蹊寺」といった文字が読める。もう一基の板状標石には手印と共に「へんろ道 明治廿六」といった文字が刻まれる。

甲殿川・諸木井水路橋
諸木井を越える遍路道
諸木井の水路橋
道なりに進み、前面に見える烏帽子山地の支尾根丘陵裾に出る。丘陵手前の芳原川に架かる高田橋を渡ると県道278号に出る。と、すぐ下流、県道278号に架かる橋(落山橋)の南に水路橋が架かる。これってなんだ?
チェックすると、この水路は新川川と同じく野中兼山が開削した仁淀川東岸に開削した人工水路・諸木井筋であった。



諸木井
『春野町誌』より

水路をトレースする。仁淀川の八田堰から取水し、開削水路・井岡井を南下、行当の切抜を越え現在の井岡井筋分岐公園で南下する新川川筋と分かれ東進。国道56号を越え、そのまま県道36号を東進し。久万で県道278号交差。水路はここで流路を南に向きを変え、県道278号に沿って下り、新川川の水を合わせた甲殿川と北山川が合流する辺りで東に向きを変え、大用川に架かる中筋橋を水路橋で渡り、中筋地区の先で丘陵部を切抜で通し丘陵西側山裾を県道278号に沿って当地に至る。
なおこの先の流路は、同じく県道278号に沿って進み、東諸木の丘陵南裾を進み禰宜谷(「地検帳にもネキカ谷・ネキヤシキ。禰宜=神官に給 された田が由来。禰宜の原意は「祈ぐ・労ぐ (ネ)」で労う(土佐地名往来)」)で新川川に合流し、浦戸に向かうようである。
『春野町誌』に掲載されていた用水路をみると、仁淀川東岸だけでも新川川、諸木井すじだけでなくいくつもの開削水路が記されていた。春野が「墾る野」たる所以である。

西諸木の標石
遍路道は県道をクロスし、諸木井の水路を渡り、丘陵裾への道に入る。道は直ぐ丘陵部を離れ西諸木を南下。道が少し左にカーブする手前に2基の自然石の標石。少し小さな標石には「右 へん**」、もう一基は左右を指す手印が見える。
さらにその先に3基の地蔵が佇む小堂脇に標石。「へんろ道 種間寺右へ二十丁二十間 昭和六年」といった文字が刻まれる。
諸木
「白鳳地震で海に没した黒田郡。深井戸を掘ると大き な木材が出土するそれら諸々の木々が埋まった土地 から諸木」と『土佐地名往来』は云う。
黒田郡は実際の郡名には登場せず、「地震のために陥没したる面は、東の方、室戸岬より、西の方、足摺岬にわたる、黒田郡と称する一円の田島にして(『土佐大震記(作者年代不詳)』)」などと大よそ土佐の一円を指しているようだ。

新川川に架かる新川川橋
直ぐ先、新川川に架かる新川川橋の東詰、道の左手に自然石に刻まれた大きな石仏、その前に小さな舟形地蔵、道路改修記念碑などが並び、椅子も置かれた休憩所ともなっている。 少し休憩し新川川に架かる新川川を渡る。
新川川・甲殿川?
橋には新川川とある。Google Mapには甲殿川とある。地図をトレースすると人工的に開削された新川川が広岡下で北から下る流れに合流するが、その上流部はGoogle Mapでは甲殿川となっている。以下は妄想であるが、仁淀川から浦戸へと抜いた人工水路の総称が新川川。途中、人工的に開削するだけでなく、既にあった仁淀川の支線(往時、流路定まることはなかっただろうから)を浚渫し新川川水路として活用したのが甲殿川。人工水路新川川の水を落とした甲殿川は新川川水路の本流となたため、新川川ともまた本来の流れである甲殿川とも呼ばれるのではないかと思う。


第三十四番札所 種間寺に

新川川橋をわたり、県道279号まで進み、県道を右折し西進する。右手には独立丘陵、左手には高森山(標高143m)を主峰とする妙見山脈の支尾根丘陵が見える。県道は南北の丘陵の間を進む。支尾根丘陵の間には発達した侵食谷が奥へと入り込む。
丘陵の間を抜けると道の左手に第三十四番札所 種間寺の寺標石。左に折れて境内に進む。

本日のメモはここまで。次回は種間寺から三十五番清滝寺、三十六番青龍寺へと向かう。



30番札所善楽寺から31番札所竹林寺へ向かう。ルートは大きくかけてふたつある。ひとつは善楽寺から南下し五台山を目指し山腹にある竹林寺を目指すもの。おおよそ7キロ、といったところだろうか。もうひとつは高知城下を経由し竹林寺を目指すもの。おおよそ10キロほど。
『四国遍路道指南』を書いた真念や『四国辺路日記』の著者である澄禅は城下町を廻り竹林寺に向かっているが、多くの遍路は厳しい遍路政策をとる土佐藩の番所での詮議を避け、直接五台山に向かったとの記事もある。真念にしても城下町の中核である城近くの武家区域(郭中)に入ることはできず、現在のはりまや町あたり、かつての下町(しもまち)に宿をとったとのことである。
で、今回の遍路歩きは城下町経由を選んだ。その理由は真念や澄禅の辿った道といったことではなく、高知平野の地形に惹かれたゆえのことである。
国土地理院・高知地形概念図

先回の散歩で物部川流域の広大な扇状地に地形フリークのわが身にフックがかかり高知平野のことをあれこれチェックした。
今回歩く高知市街は物部川の大扇状地を含めた広義の高知平野ではなく、狭義の高知平野を指す。その地の特徴は国分川、久万川、鏡川などの河川により形成された低湿地、三角州のデルタ地帯である。何故にこのような湿地帯に城下町を普請したのか、実際に歩けばなにかにフックがかかり、普請のプロセス、低湿地ゆえの治水対策などにアテンションが向くのではと思った次第。
それともうひとつ、高知平野を囲む地形が面白い。北は四国山地の北端の細藪山地が走り、南の海岸線にも四国山地と並行して山地が東西に走り、その間に高知平野が嵌っている。どのようにしてこのような地形ができたのだろう。あれこれチェックすると、高知平野は地質学的には地溝性盆地状沖積低地と称されるようである。地溝とは両側の断層崖間にある低地のことで、高知平野は断層間が陥没し低地となったようだ。
Google mapで作成
国土地理院の地質図でチェックすると、高知平野北端部の細藪山地には東西に御荷鉾(みかぶ)構造線が走り、南の太平洋岸に東西に連なる山地には仏像構造線が走る。この構造線に沿ってプレートの沈み込みが起き、その時に形成された断層の間が陥没したのが高知平野であろうか。通常仏像構造線とに御荷鉾(みかぶ)構造線の間は秩父帯と呼ばれる中世代の地層が挟まれているのだが、高知平野は五台山など一部の小山が中生代の地層を残す以外、低湿地の高知平野は形成時期は新生代の河川平野堆積物の岩質となっていた。陥没した中世代の秩父層の上に、川によって運ばれてきた泥や砂礫が積み上がり、現状新生代の地層となっているのだろうか。
門外漢の妄想であり大いなる誤認の恐れあるも、自分としてはこれでよし、とし高知平野を取り巻く地質・地形などを思い描きながら散歩を始めることにする。



本日の散歩;土佐神社参道口・県道384号角の標石>掛川神社>久万川に架かる比島橋を渡る>比島の茂兵衛道標>江ノ口川の山田橋を渡る>はりまや町(かつての下町区域)を南下>はりまや町1丁目交差点>北光社移民団出航の地>松ヶ鼻番所>青柳橋
五台山竹林寺への遍路道
土径遍路道に入る>独鈷水分岐点>伊達兵部宗勝の墓>車道をクロスした先に遍路道案内>五台山展望台公園に出る>竹林寺西門(裏門)に下る>第三十一番札所竹林寺
竹林寺から五台山を下りる>徳右衛門道標>貞亨元年法華經塔>南吸江の茂兵衛道標

土佐神社参道口・県道384号角の標石
第30番札所善楽寺横の土佐神社の長い参道を歩き、県道384号との合流点に。土佐神社参道口交差点西北角の電柱脇に標石。「三十一 左へんろ 昭和六年」と刻まれる。
この遍路標識はこの交差点を南下し、第三十一番札所竹林寺を目指す最短コース。今回は、高知平野の地形の面白さに惹かれ、真念も歩いたと言う高知の城下町経由の遍路道を歩く。今は埋め立てられ何らかの痕跡もなかろうとは思うのだが、国分川、久万川、鏡川の形成した三角州に立地する高知市街の雰囲気を感じたい、との思いからである。

五台山竹林寺への直進コース
旧城下を廻ることなく直接竹林寺を目指すお遍路さんも多いと聞く。一応ルートのみをメモしておく(マップにもプロットしておく)。
土佐神社参道口交差点を標石に従い県道251号を南下>一宮東小学校を左に見遣り土讃線土佐一宮駅前で県道249号に合流>県道249号を少し東に向かい、県道を右に折れ土讃線の踏み切路を越え田圃の中の道を進み国分川へ>国分川に架かる錦功橋を渡り更に南下>舟入川に架かる新木橋を渡る>新木橋を渡ると直ぐ、県道195号を右折し西進>とさでん交通御免線の文殊通駅手前を左折(文殊通駅の駅名は竹林寺本尊文殊菩薩より)>南下し大規模農業用水池・絶海(たるみ)池に架かる大島橋を渡る>橋を渡って最初のT字路左折>高須大島集落の標石を右折(その少し東にも遍路道右折指示の案内がある)>案内に従い山麓に取り付き牧野植物園を経て竹林寺へ

掛川神社
県道384号を南西に進む。県道44号高知北環状線を越えた先で久万川大橋へと向かう県道384号を離れ、県道249号に乗り換え土讃線北側に沿って直進。薊野(あぞの)駅を越えた先、道の右手に掛川神社がある。
遠州掛川5万石の藩主であった山内一豊が関ヶ原の合戦での功により土佐20万石の藩主に封 ぜられた。この社は二代目藩主忠義が掛川より勧請したもの。
案内には「掛川神社 江戸時代の寛永十八年(一六四一)、第二代土佐藩主山内忠義が、その産土神であった牛頭天王を遠州掛川 (静岡県)から勧請して、高知城東北の鬼門守護神として建立したのがはじめである。
以来、代々藩主から特別の崇敬を受けていた。明治元年(一八六八)現社に改称した。 合祭神社→龍宮神社、海津見神社は、現境内地付近に鎮祭の古社で、何れも明治三十二年(一八九九) 合祭した。
東照神社は延宝八年(一六八〇)、四代藩主豊昌が徳川家康の位牌殿を設けたのが始まりで、文化十一年(一八一四)には、十二代藩主豊資が境内に社殿を築造し、東照大権現と称していたが、 明治元年東照神社と改称、明治十三年(一八八〇) 合祭した。祭神が徳川家康であることから、県下の神社では唯一、社殿の軒下や手水鉢に徳川家の家紋、三つ葉葵がつけられている。
社宝として、国の重要文化財に指定されている「糸巻太刀 銘国時」(山内忠義奉納)、「錦包太刀 銘康光」(山内豊策奉納)がある。いずれも、現在東京国立博物館に寄託されている。
飛地境内社として椿神社・秋葉神社がある。 高知市教育員会」とあった。
江戸の頃、澄禅もこの社に詣でており、その著『四国遍路日記』に「(観音院)・ 夫与西ノ方ニ一里斗往テ小山在、美麗ヲ尽シタル社也。是ハ太守、天正ノ昔、遠州懸川ノ城主夕リシ時ノ氏神ヲ、当国ニ勧請セラレタリ、天王ニテ御座ト云ウ」と記す。
江戸の頃、牛頭天王と称していた社が明治に改名しているところが結構多い。一説には天王>天皇の連想から不敬に当たるとしての対処とも言われる。
国清寺
神社参道左手にお寺さま。牛頭天王の別当寺であった国清寺。案内には「陽貴山見龍院国清寺は、元和三年(一六一七)比島の龍乗院の開基でもある日讃和尚の開基で、寛永一八年(一六四一)牛頭天王宮 (現掛川神社) の別当寺となった。
二代快彦・三代快充・四代黙堂と次々に高僧が出て、藩主の帰依を得、上級武士や学者文人などとの交流が深かったといわれる。
もとは天台宗で、徳川将軍家の菩提寺である上野寛永寺門主支配の寺であった。慶安四年(一六五一)には三重の塔、続いて護摩堂が建立されるなど、藩主山内家の尊崇が篤かったが、明治 維新後の廃仏毀釈によって廃寺となった。
この廃寺に、明治四年(一八七一)四月から六年五月まで、明治政府によるキリシタン弾圧のため土佐に預けられた、長崎県浦上の信徒と家族九十人前後の人たちが、赤岡と江ノ口の牢舎から移されて生活していた。
明治一三年(一八八〇)、京都相国寺の独園大禅師が参禅道場を開き、退耕庵と名付けた。二代実禅大禅師も参禅を広め、門下の坂本則美・中山秀雄・弘田正郎らの協力を得て再興し、寺号 も旧に復して国清寺となった。臨済宗相国寺派に属する禅寺で、本尊は釈迦如来である。 高知市救向要員会」とあった。
〇明治政府のキリシタン弾圧
幕末、キリシタン禁止政策のもと、隠れキリシタン弾圧を受けた長崎の浦上村は「浦上四番崩れ」と世にいう4度目の弾圧により、一村全体、およそ3000名(3400名とも)が捕縛・拷問を受ける。幕府崩壊後もその政策を受け継いだ明治政府は村民すべてを流罪とし、流罪先は21藩に及んだ。ここ高知では当初赤岡(香南市)と江ノ口(高知市街)の牢舎に停め置かれたが、その後廃寺となっていた国清寺に移された。
キリシタン禁制が廃止されたのは明治6年(1873)。不平等条約改正のため欧州に赴いた遣欧使節団一行が、キリシタン弾圧が条約改正の障害となっていると判断し、その旨本国に打電通達し廃止となった。
獄中は劣悪な状態であり、おおよそ三分の一が帰らぬ人となったとのことである。

久万川に架かる比島橋を渡る
掛川神社を離れ、県道44号をクロスした県道249号は久万川に架かる比島橋を渡る。比島は「山の形がひ;箕のこと)に似ている島の意味(「土佐地名往来」より)。箕は穀物の餞別に使われていた農具だろうと思うのだが、それを裏返した形に似ていたということだろうか。とまれ、往昔湿地に浮かんだ島の痕跡は今はない。
久万川
国分川水系の川。東から西へ、物部川の発達した扇状地に阻まれ高知市内に注ぐ国分川とは真逆、高知市の北の細藪山地にその源を発し西から東へと流れ浦戸湾河口部で国分川に合流する。 現在は陸地化されているが、かつて高知平野を流れた久万川は氾濫平野であり、河口部は三角州であったわけで、とすれば両河川の浦戸湾への注ぎ口は現在より上流点であったろうし、であれば往昔は国分川と久万川は合流することもなく浦戸湾に注いでいたようにも思う。
それが国分川水系とされるのは?水系の定義である分水界を同じくする、を元にチェック。国分川と久万川の共通点は、東を土佐山田台地で物部川との分水界を画し、北は細藪山地が吉野川水系との分水界となり、西も南に突き出した細藪山地により鏡川と分水界を画している。要は北と西は細藪山地、東は土佐山田台地によって囲まれた流域であるということだ。
この定義にもとり、両河川は同一水系と考えてもよさそうだ。国分川水系とされたのは国分川も久万川も共に2級河川であるが、その流路距離や流路面積が一見して国分川が圧しているためだろうか。
国分川
国分川は、その源を高知県香美市土佐山田町 と平山 の甫喜 ケ峰 (標高 611m)に発し、領石川 、 笠 ノ川川等の支川を併せながら香長平野を南西に流れた後、下流部において久万川、江ノ口川 、舟入川等の支川を合わせ、浦戸湾に注ぐ。

比島の茂兵衛道標(100度目)
比島橋を渡った県道249号は西進し、すぐ南下するのだが、遍路道は西に折れることなく直進し、ゆるやかなカーブの道を進む。途中道の右手の古き趣のお屋敷端に「久保添家伝薬発売元」と刻まれた石碑が立つ。旧家には「クボゾエ外科科胃腸科」の看板がかかっていた。「*家伝来」は 家業意識の高さを示すもの。かつて家業として薬を販売していたのだろう。
その直ぐ先、道の右手に茂兵衛道標。手印と共に「安楽寺 左 高智 左国分寺 明治二十壱年」といった文字が刻まれる。茂兵衛100度目巡礼時のもの。
安楽寺は明治の神仏分離令に際し、廃寺となった善楽寺に替わり明治8年(1875年)に札所となったお寺さま。当地より南西5.5kmの所に建つ。
安楽寺
土讃線高知駅の西、千年の昔、辺り一帯が海であった名残を地名に残す洞ヶ島町に建つ寺院。Wikipediaには「高知県高知市にある真言宗豊山派の仏教寺院。山号は妙色山(みょうしきざん)。 妙色山 金性院 安楽寺と号する。
伝承によれば、延喜年間(901年-923年)、菅原道真の長子である菅原高視が配流先の土佐国潮江で菅原道真逝去の知らせを受け、筑紫にある道真の菩提寺の安楽寺にちなんで、当地に安楽寺と潮江天満宮とを建立したという。寺は当初の潮江から升形を経て久万に移転した(潮江、升形、久万はいずれも現・高知市内)。(中略)その後、12坊を有する大寺院となったが応仁の乱(1467年-1477年)の兵火を受けて焼失し衰退。(中略)明治時代初頭の廃仏毀釈の影響でついに廃寺となったが、明治8年(1875年)に、長宗我部氏の菩提寺であった旧瑞応院跡に再興された」。
廃寺となった善楽寺は昭和5年(1930年)に埼玉県与野町(現さいたま市中央区)にあった東明院を現在地に移転し、また国分寺に預けられていた弘法大師像を移し、本尊は有縁の江戸期作の阿弥陀如来坐像を迎えて30番札所東明院善楽寺として再興した。
そのため、30番札所が2箇所並立することになり、30番札所の正統性について善楽寺と安楽寺の間で論争が起こった。
昭和39年(1964年)四国開創1150年を機に両寺代表が協議し、善楽寺を「開創霊場」、安楽寺を「本尊奉安霊場」と称することになるも混乱は続いたが、平成6年(1994年)1月1日、札所は善楽寺、安楽寺は奥の院とすることで最終決着した」とある。

江ノ口川の山田橋を渡る
次の遍路道の目安は江ノ口川に架かる山田橋。真念はその著『四国遍路道指南』に「過ぎてひしま橋、次に丸山有。かうち城下入口に橋あり。山田橋という。次番所有、往来手形改。もし町に泊まる時は、番所より庄屋にさしづにて、やどをかる」と記す。
茂兵衛道標の立つ旧路を進み県道249号に復帰、南下し土讃線の踏切を渡ると江ノ口川。県道に架かる橋は平成橋。山田橋はそのひとつ上流に架かっていた。
この橋は伊予の川之江に出る北山越え、室戸岬東岸の甲浦に出る野根山越えの起点。橋の南詰めは少し広くなっているが、そこが真念の記す城下三番所のひとつ山田橋番所の跡だろうか。 山田橋の由来は長曾我部氏が城下町を建設するにあたり、土佐山田の人が移り住んだ故と言う。
江ノ口川
この川も久万川と同じく細藪山地西端近くの山裾(高知市口細山辺り)に源を発し、西から東へと流れ高知城の直ぐ北を経由して更に東進し国分川に合わさり浦戸湾に注ぐ。この川も久万川同様に国分川水系である。
江ノ口川はその流路故に、江戸時代の早い段階から浦戸湾と城下を結ぶ運河として利用され、高知城北側、江ノ口川に面する北曲輪は城に物資を運び込むための重要な場所であったとみられる。
江ノ口川の名前の由来は、現在の高知駅、入明駅周辺にあった江ノ口村に由来するようだ。

高知城

「カルポート(後述)前公園石碑にあった城下町図」より
真念が山田橋を「かうち城入口」と言うように、この地から1キロ強西に高知城がある。遍路道から周少し逸れるし、愛媛に育った者として折に触れ高知城は訪れているので今回はパス。 とはいうものの、今回の歩き遍路の過程で高知城が国分川、久万川、鏡川などの河川が織りなすかつての氾濫平野、三角州に立地することに初めて気づいた。で、そんなデルタ地帯に城下町を造った経緯とその後の治水施策をちょっと整理しておこうと思う。
元は大高坂山城
高知城は北は久万川、南は鏡川、東は国分川に囲まれた氾濫平野、三角州からなる低湿地帯のほぼ中央、標高44mほどの大高坂山に築かれている。大高坂山に城が築かれた、といっても砦といったののではあろうが、その初出は南北朝の頃、南朝方についた大高坂松王丸の居城であったとされるが、北朝方の細川氏に敗れ廃城となった。
長曾我部氏の城普請
戦国時代に入り、四国統一を目前に秀吉に敗れた長曾我部元親は、秀吉の命により居城を岡豊城からこの地に移すことになった。
デルタ地帯の水はけの悪さに加え、度重なる洪水被害に城普請は難渋を極め、城を本山氏の城塞のあった浦戸に移し浦戸城を整備したとの記事もある。が、地図で見る限りその地で本格的城普請が行われたとは考にくい。浦戸湾口に西から東に突き出た狭い岬に家臣団の住む城下町は考えられない。使われた瓦も安普請であり,浦戸城は朝鮮出兵に際しての出城であったとする説に納得感がある。事実、朝鮮出兵中も大高坂山城の整備が続けられていたとの説もある。
山内氏の城普請
長曾我部氏は関ヶ原の合戦で西軍に与し改易。山内一豊が土佐一国を与えられ掛川城から転封し、浦戸城に入るも、大高坂山を居城と定め城普請を始める。築城に際し、織田信秀の家臣として西軍に与し蟄居処分となっていた百々綱家(どど-つないえ)の登用を幕府に願い出でる。
百々綱家は元は浅井家の家臣であり、近江坂本の石工集団「穴太衆」との繋がりが強く、石垣普請の名手と称されていたようだ。幕府の許しを得た山内氏は6千石で百々氏を召しかかえ、総奉行に任じ、築城と城下町整備の全権を委ね、大高坂山に本丸の造営と、城下町の整備のために鏡川・江ノ口川など川の治水工事に着手した。石垣は浦戸城のものを流用したという。
慶長8年(1603年)1月、本丸と二ノ丸の石垣が完成。旧暦8月には本丸が完成し、一豊は9月26日(旧暦8月21日)に入城した。この際、城の名を河中山城(こうちやまじょう)と改名された。 普請開始は慶長6年(1601)9月といった記事もあるのでおよそ2年の工期。人足として山内家臣団も加わったという。
慶長15年(1610年)、度重なる水害を被ったことで2代目藩主忠義は河中の表記を変更を命じ、竹林寺の僧の助言を受け高智山城と改名した。この時より後に省略されて高知城と呼ばれるようになり、都市名も高知と呼称されるようになった。
慶長16年(1611年)、難関であった三ノ丸が竣工し、高知城の縄張りが全て完成した。


高知城下を護る治水対策
「高知の藩政期の水防災対策の再評価平成 25 年自然災害フォーラム論文,2013」

香川大学の資料にあった「高知の藩政期の水防対策の再評価平成25年自然災害フォーラム論文,2013」ラム論文,2013」の図およびその記事をもとにまとめると、 高知城下を洪水から防ぐ施策は大きくふたつのタイプに分類されるようだ。ひとつは城下の北から浦戸湾に流れ込む河川への治水事業。久万川、国分川、舟入川がこれにあたる。もうひとつは城下町の南を流れる鏡川の対策である。


国分川、舟入川、久万川の治水対策
資料図を見ると国分川や舟入川には霞堤とか水越(越流堤)が目につく。これらの堤は洪水を防ぐというより、洪水時には水が堤防を越ることをあらかじめ想定し、その下流を水没させ、中堤(水張堤)により一帯を遊水池とすることを目する。河川上流部を水没されることにより河口部の洪水を抑制し、城下町を護るといった治水施策をとっているようだ。国分川水系の洪水をそのまま河口部まで流すと鏡川などの城下町を流れる川の水位が上がり、逆流現象が起き水が城下に流れ込むのを防ぐこととも意図しているのではないだろうか。
久万川には洪水を防ぐ中堤(水張堤)が見られる。支流からの洪水が久万川に流れ込み久万川の水位が上がるのを防いでいるのだろうか。
洪水に対しては防ぐというよりは、堤防を越水させて遊水池となし、洪水が一挙に流下するのを抑え、それにより下流域の被害を少なく抑える「伊奈流」関東流と呼ばれる越流堤の治水施策は埼玉の見沼などで出合った。
■鏡川の治水対策
参考図には堤などは無いが、香川大学の記事によれば鏡川の城下町に対する治水対策は極めてシンプルである。洪水になれば鏡川右岸(南側)の堤が決壊し(いざとなれば人為的にでも「切る」)、鏡川の南一帯を水没させることにより、北側の城下町を洪水から防ぐ、というもの。
記事には寛文 1 年(1661 年)から安政4 年(1857 年)の約 200 年間に 17 回、鏡川南岸の潮江堤防の決壊記録が残っている。一方、鏡川北岸の堤防決壊の記録はない。記事には「城下町を守るため、潮江の堤防を鏡川左岸堤防なみに強く高く築くことをせず、城下側堤防よりも低く強度もいくらか弱めに築いていたと推察することができる」と記す。事実、鏡川北岸には下述の上町あたりから「大堤防」、郭中から下町にかけては「郭中堤防」が築かれているが。南岸にはこれといって名前のついた堤防は見当たらなかった。
城下町の水防体制
上町(家臣と商人・職人)・郭中(城と重臣)・下町(家臣と商人・職人)からなる城下町を12の区画に分け、水帳場と呼ばれる受け持ち区画には標柱が立っていたとある。高知市鷹匠町(柳原橋西)に残る標柱の案内には「この石柱は、江戸時代、鏡川流域の洪水による災害を防ぐために設けられた受け持ちの区域(丁場)の境界を示す標柱です。
西は、上町の観音堂より、東は喉場に至る鏡川沿いの堤防に、この丁場を示す標柱が建てられ、出水時には武士、町人らが協力して、十二に分かれた丁場を十二の組が出動して水防にあたりました。各組の長は家老があたり、その下に組頭がおり、組を率いていました。水丁場には、目盛りをつけた標本も建てられており、これで増水状態を確認しながら、その程度に応じて、出勤の人数を決めていたといわれています。他に同様の標柱が、上町二丁目・上町五丁目にのこっています」とある。標柱には「従是西六丁場、従是東七ノ丁場」 と刻まれる。
上町上流端に中堤(水張堤)、上町と郭中の間には升形堤防と呼ばれる中堤(水張堤)、郭中と上町の間にも中堤(水張堤)、さらにその東、下町の下流端にも比島中堤、宝永堤といった中堤(水張堤)が築かれ城下町への浸水に対処しているようである。

はりまや町(かつての下町区域)を南下
山田橋がフックに、高知城へ、さらには江ノ口川、国分川に挟まれた低湿地・デルタ地帯に城普請をした高知城のあれこれの寄り道が長くなった。遍路道に戻る。
山田橋を渡った遍路道は城下町を南下する。現在は西の国道32号から東の県道249号、北を江ノ口川、南を国道56号に囲まれた一帯が「はりまや町」となっているが、江戸時代の城下町の図(寛文七年(1667))から見ると、藩政重臣が住む「郭中」区域の少し東、「下町(しもまち)」区域を下っているようであり、町名も北から山田町、蓮池町、新市町、材木町、種﨑町と続き、東端の県道249号の辺りには新堀川、南の国道56号あたりには堀川の流れが見える。
新堀川と堀川
「高知城下町読本 土佐史談会編 明治初期
新堀川は江ノ口川と鏡川を結び高知城の東の外堀としての機能をもっていたようだ。現在ははりまや小学校の南辺りから、国道56号あたりまでが開渠となっている。
堀川は城下と浦戸湾を繋ぐ船運の水路。寛文七年(1667)の図(後述する「松ヶ鼻番所」の地図を参考にしてください)では新堀川が堀川に合流する地元では東が閉ざされ、南の鏡川筋に向かって水路が伸びるが、貞享4年(1687)には両水路合流点の東側も開削され、堀川をとおして城下と浦戸湾が一直線につながった。「高知城下町読本 土佐史談会編 明治初期」には開削され新堀川合流点から南東に延びる堀川の水路が描かれている。
横堀川と新堀川
新堀川や堀川のことをチェックしていると、江ノ口川と鏡川を南北に結んだ堀川を横堀川とし、寛文七年(1667)の図に、堀川の北、現在のはりまや小学校南辺りから「新堀川」に繋がる堀を「新堀」とする記事があり少々混乱。
チェックすると現在の新堀川は藩政期初期に開削された堀川。郭中から東西に流れる堀川を縦堀と呼ぶゆえに、南北に流れ縦川に交差する堀川を横堀(川)とした。新堀(川)は性格には上述、材木町(現在のはりまや小学校南)に東西に開削し横堀(川)に繋いだ水路。が、どのような経緯か、現在では横(川)を新堀(川)と呼ぶようになっていた。
〇城下町の縦と横
竪川(縦川)と横川って普通に考えると南北にはしるのが縦川、東西に走るのが横川って気がするけど、江戸の街歩きで同じケースに出合ったことがある。江戸の下町を東西に通るのが竪川(たてかわ)、南北に通る水路が横十間川などとあった。縦か横かはお城からみての縦横ということのようであった。

はりまや橋
高知といえば「はりまや橋」でしょう。、というわけでちょっとメモ。「はりまや橋」」は何処かとチェック。現在はりまや町域が広くなっているが、江戸期のはりまや町は郭中と下町の境の少し東、現在の国道32号と56号が交差する辺り。国道32号と56号のはりまや交差点の一筋北に朱に塗られた「はりまや橋」が造られ、下に水路が整備されていた。
元のはりまや橋は堀川に架かり、堀の南北に建つ高知の豪商である播磨屋と櫃屋(ひつや)の本店の往来の為に架けられた私設の橋であったようだ。
よさこい秘話
はりまや橋を有名にしたお話は、先回27番札所神峯寺を下りた山裾、安田の地にその案内があった。簪を買ってもらったお馬さんが騒動の後に働いた旅籠のあった地である。そこにあった案内をコピー&ペーストする。
「土佐の高知のはりまや橋で坊さん かんざし買うをみた
ヨサコイヨサコイ
よさこい節に登場する坊さんかんざし騒動の主人公お馬さんが、ここ安田、東谷の旅籠「坂本屋」で働いていた。幕末の土佐に、恋の自由を求めて奔放した 「よさこい、かんざし騒動」は、維新の志士達より早く自由精神を実践した。
由来
五台山、竹林寺の学僧、百余名を預る指導僧の純信と五台山麓、鋳掛屋の娘、お馬との恋の「かけおち」のため純信がお馬に花かんざしを買い求めたもので、安政元年(一八五四)の大地震の直後の翌二年、五月十九日の夕刻、純信、お馬と土佐山田出身の道先案内として安右衛門の三人で、物部村から国抜けし、讃岐の金比羅、百段目の旅籠「高知屋」で捕えられ、高知の山田町奉行所で取調べられた。
この時の奉行は、ここ安田に生まれ育った儒学者、岡本寧浦の門下生である松岡毅軒であった。 この取調べの際、松岡奉行が「なぜ年が二〇も違う親の様な人と好きで逃げたのか」との問いに、お馬は平然として「好きになったら、年の差などどうでもよい。」と答えたと毅軒は後世に書き残している。
やがて裁きが終り、お馬は安芸川以東へ追放、この安田・東谷の神峯登り口、旅籠「坂本屋」で奉公をする身になった。
一方、純信は仁淀川以西へ追放となったが、自らの意志で国外追放を願い、伊予国、川之江の 塩屋の三軒屋炒娚石の亀吉の世話により、学問一筋の家柄、井川家の私塾の教授となって、子弟の教育に専念する。
一方、お馬は、ここ坂本屋で奉公中、突然、追放先の変更を受けた。理由は、純信がお馬を連れもどしに来たとのことであった。
事実不明のままお馬は、今度は高岡郡、須崎池ノ内の百姓に、預けられ、のちに土地の大工と 世帯を持ち、二男二女をもうけた。
当時の坂本屋
安田の神峯は、よさこい節の一節にも登場している。
思うてかなわにや 願かけなはれ 流行る安田の神峯」
当時、安田の神峯は「流行る安田の神峯」と歌われたように、近郷近在の信仰と遊びの中心であった。神峯寺の前札所の発心庵(現在廃寺)がここ東谷集落の岡にあり参拝客相手の大きな料亭旅館がひしめき、繁華な場所であった。美人のお馬は大人気であっただろうと、想像される。
その後の「お馬」
お馬の子供達もそれぞれ成長し、明治一八年(一八八五)お馬夫婦は、長男の住む東京小石川に引越し、更に明治二一年(一八八八)に「二男の家で余生を送り、お馬は煙草屋の店先で店番をしていたという。東京都北区豊島で明治六年(一九〇三)六五歳で病没し、北区の西福寺で出かに眠っている。(お馬さんの眠る西福寺の写真)」

はりまや町1丁目交差点
山田橋より旧城下町の下町地区を南に下り県道249号が国道32号に合流する「はりまや町1丁目交差点」に。かつて北の江ノ口川と南の鏡川を繋ぐ横堀川(現在の新堀川)と郭中から下町を抜き浦戸湾へと東西に通じる堀川がクロスしていたところ。現在両堀の交差するところは暗渠となり、かつての面影は交差点北の新堀川の一部と暗渠となった交差点から東南に延びる堀川に残るのみ。
木屋橋跡
交差点北側には「木屋橋」の橋柱。北に新堀川の水路が見えるが、南は高知市の市民文化センター・かるぽーと(カルチャーとポートの合わせ技での命名)の敷地となり橋柱は残らない。
かるぽーと前の公園にあった石碑案内には、「江戸時代、城下町の外堀に架橋された。当時の呼称は菜園場橋。明治以降は橋のたもとにあった豪商木屋の名で呼ばれた。電車通りの拡張により大きく姿を変えている。橋長15m」とあった。
幡多倉橋跡
橋の名残は何もないのだが、かるぽーと前公園石碑に「幡多倉橋」の案内。「1687(貞享4年)菜園場農人町間の掘割が開通、掘割が交差した。この後掘割交差西側に架橋された。
周辺設備のため姿を消した橋は全長15.9m,幅員7.4m」とある。
菜園場橋跡
公園石碑に「1930(昭和5年)、九反田中央卸売市場開設の年、掘割交差東側に架橋された。現在では珍しいトラスト橋であった」とある。
納屋堀橋跡
公園にある橋に関する石碑を見て居いると、掘割の交差点を「四ツ橋」とある。であれば、交差部に四つの橋があったはず。木屋橋の石碑の平成10年(1998)の写真があり、掘割交差部南に納屋堀橋の名があった。納屋堀橋の南は既に埋め立てられているが、その他の橋は水路と共に残って見える。四ツ橋が覆われたのはそれほど昔のことではなかった。

北光社移民団出航の地
遍路道は四ツ橋の交差点から堀川に沿って浦戸湾に向かう。堀川北岸は農人町、堀川の南は九反田。ほどなく、道の右手に「北光社移民団出航の地」の案内。「北光社移民団出航の地 北海道北見開拓への経緯
北光社は、明治三十年(一、八九七年)、北海道北見(当時のクンネップ原野)に新天地を開く ため、坂本直寛、沢本楠弥、前田駒次ら高知県の有志によって組織され、この地の向い側にある高瀬屋(当時、旅館)に開拓移住民の募集事務所を開設し、応募者を集めた。
移民団の第一陣となった百十二戸は、明治三十年(一、八九七年)三月、この岸壁より船に乗り、 須崎港で再編成した後、関門海峡を通って日本海に出て北上し、はるばる小樽港へと向った。それから引きつづき北進し、宗谷岬を迂回して網走港に入港し、ここから今の北見市へと、移住の第一歩をしるした。
これらの人たちは、この人跡未踏の原野で想像を絶する苦闘に耐えて開発の成果をあげ、今の北見市発展の基礎を築いたのである。 昭和六十一年四月二十七日 高知市 高知ライオンズクラブ 高知市・北見市姉妹都市提携委員会」とあった。
農人町
北光社移民団出航の地の案内の直ぐ東に農人町の案内。
「高知城下町名今昔 旧農人町 
寛永二年(一六二五)、藩が城下の東外側の下知村に外輪堤を築き、堤内の耕地を御手先農民に耕作させ、長屋を貸与して住まわせたことに由来する町名。その後、元禄十一年(一六九八)には鉄砲方足軽が鉄砲町から移住してきた。
町の東端には、城下三番所の一つの三ッ頭番所と船着場があり、堤に松並木があったことから松ケ鼻とも呼ばれた」と。
御手先農民って?他の記事に「藩主の御手先農民」といった記述がある。藩主直属の農民ってこと?

松ヶ鼻番所
道を進み国道56号が鏡川を鏡川大橋で渡る少し手前、道の右手に「松ヶ鼻番所」の案内。「松ヶ鼻番所は、高知城下三番所の一つです。松ヶ鼻は、堀川沿いに植えられていた松並木の突端に位置していたので、この地名がつきました。また、堀川・鏡川・潮水(浦戸湾)の水が交わることから、三ッ頭とも呼ばれました。こうした地理的条件であることから、藩政時代から水上交通の要衝として栄えました。
東は物部川流域、西は仁淀川流域の産物が野中兼山によって整備された用水路網によって浦戸湾に集められ、さらにここ松ヶ鼻を通って城下町の七町方面まで運ばれました。ここに置かれた番所は、主にこうした水上交通を取り締まるためのもので、明治期以降は水上警察署も置かれました。また、浦戸湾内を走る巡航船も付近で発着し、松ヶ鼻は高知の海の表玄関として賑わいました。
城下町を読みこんだ「高知廻り歌」も、「高知松ヶ鼻・番所を西へ行く...」という歌い出しで歌い継がれてきました。
安政2年(1855)、駆け落ちしながらも捕らえられた純真とお馬がここでさらしの刑に処せられたときには、多くの見物人が集まったと伝えられています。
鏡川大橋の通りを東に渡った界隈は、幕末から明治にかけて開発され、明治期以降は有名な料亭が建ち並び、大いに賑わいました。明治44年(1911)には土佐電気鉄道株式会社の電車路線が新たに整備されたほどでした。
このように、河川や堀割を中心に水の都として発展してきた高知城下町の表玄関であった松ヶ鼻界隈も、現在では鏡川大橋に代表される大きな道路が通る地区として賑わっています。
近辺の史跡
① 北光社移民団出航の地 北海道北見クンネップの開拓団
②開成館跡 幕末の藩近代化の中枢機関」とあった。

七町
高知城下の二十五町」の中で「唐人町、掛川町、弘岡町、種崎町、浦戸町、蓮池町、朝倉町を築城頃からある古町として他の町とは別に「七町」と称される。城下町の地図を見ると、すべて下町、郭中に近い現在のはりまや町の中に見える。
開成館跡
「東九反田公園にある。慶応2(1866)年、土佐藩が殖産・富強を目的に設置した技術教育機関。維新後は、接客所となり、明治4(1871)年には西郷・木戸・大久保ら、政府の重鎮が来訪し、板垣・福岡らとの会談を行っている」と高知市のHPにある。ゲストハウスは現在取り壊され更地になっているようだ。
「城下町高知の成り立ち」案内図と説明
番所案内の傍に高知の城下町を案内した地図と説明があった。上述城下町に関するあれこれのメモ作成に際しては結構この図が助けになった。説明はダブルところもあるが、おさらいを兼ねて掲載しておく。
「この地図は、高知城を中心とした藩政時代の城下町と現在の高知市を重ね合わせています。 高知城の築城開始とともに、本格的な城下町の建設が慶長6年(1601)から始められ、お城を中心とした武家の住む郭中は、南の鏡川と北の江ノロ川との間、東は堀詰(地図の新京橋付近)、西は升形までの区域に設定されました。
町人街は、郭中を挟んで東西に設けられました。郭中の西側には武家の奉公人が多く住んでいたので、北奉公人町・南奉公人町などの町名が見られ、東側のはりまや橋界隈には、移住者の出身地を示す掛川町・堺町・京町や、商工業者の職業名をとった細工町・紺屋町などがありました。 また、地図のように、ほとんどの街区は現在よりも藩政時代のほうが大きく、その中央には水路が流れているところも多くありました。城下町には、この水路で区切られた細長い町が数多くつくられました。
歴史の道沿いには、藩政時代の名残があちこちに顔をのぞかせています。皆さんも街並みをよく観察してみてください」と解説されていた。

青柳橋
青柳橋(Google mapで作成)
堀川北岸の遍路道を進み久万川や江ノ口川、そして舟入川の水を集めた国分川に架かる青柳橋に至る。真念もこのルートを辿ったようで、『四国遍路道指南』には「さゑんば橋、過ぎて農人まち、町はずれをミつがしらという。これよりつゝミ、ひだりハ田也。右は入うミ、行きてたるミの渡」と記す。
現在は松ヶ鼻番所のあった三ッ頭より東へ、国分川の手前まで堀川の堤が伸びるが、松ヶ鼻番所にあった「寛永7年高知絵図(1667)」では、番所のある三ッ頭辺りで堀川の堤が切れ鏡川と合わさり浦戸湾との汽水域となっている。ひだりは田とは三角州を埋め立てた新田が広がっていたのだろうか。
絶海(たるみ
絶海池(Google mapで作成)
で、たるミの渡だが、明治初期に青柳橋が架かる前は国分川に橋が架かる前は、このたるみの渡しで対岸に渡っていたのだろう。が、国分川西岸に「たるみ」の地が見つからない。と、ふと札所善楽寺から竹林寺へと城下町を経ることなく南下する遍路道のメモで、竹林寺のある五台山の北にある農業用ため池が絶海池であり、地名が高須絶海であることを思い出した。この絶海は「たるみ」と読む。この絶海(たるみ)に渡る故の「たるみの渡し」ではあろう。『土佐地名往来』にも、「古くは"垂水"。タルミはハラミ・孕と対の地名ともいう。にちなんで字を充てる」とあった。
吸江寺絶海とは竹林寺のある五台山西麓の名刹吸江寺(ぎゅうこうじ)」ゆかりの名僧絶海中津のこと。絶海中津は「ぜっかい ちゅうしん」と読む。絶海(ぜっかい)を「たるみ」に充てたと所以など興味を惹かれるのだが、城下町のメモで結構寄り道し、これではいつまでたっても竹林寺に辿りつけない。ここは一旦、音の転化であろう、ということにして、ちょっと思考停止としておく。
絶海中津
絶海 中津(ぜっかい ちゅうしん、建武元年11月13日(1334年12月9日)- 応永12年4月5日(1405年5月3日))は、南北朝時代から室町時代前期にかけての臨済宗の禅僧・漢詩人。道号は絶海のほかに要関、堅子、蕉堅道人など多数ある。中津は諱。義堂周信と共に「五山文学の双璧」と併称されてきたが、20世紀後半から義堂より詩風の高さを評価され、五山文学ひいては中世文芸史の頂点を為すと論じられている。 南北朝時代を代表する禅僧夢窓疎石の弟子として疎石ゆかりの吸江庵を再興した。」


五台山竹林寺への遍路道

五台山竹林寺参道口
青柳橋を渡ると青柳橋東詰に五台山に上る自動車道。竹林寺への五台山西麓からの自動車参道口でもある。参道口に寺標石。「四国丗壱番霊場五台山竹林寺参道 昭和十一年四月吉日 参道完成記念」とある。この時は、この道が古くからの表参道で、その道が自動車参道となったのだろうと思っていたのだが、どうも違ったようだ。が、それは後になってわかったことであり、当日はこの参道を上った。
吸江十景
参道口の少し北、国分川に面した五台山山裾に吸江十景の案内。
「吸江十景について
「心あらん人に見せばや 吸江の 岸の向ひの 夕べあけぼの」
夢窓国師
群鳥静かに碧波に浮かぶ吸江湾みはるかす浦戸の入江、玉島を望むこの地に文保二年(一三一八)夢窓国師(疎石)は鎌倉幕府の執権、北条高時の母覚海夫人の招請をさけて土佐に来国した。 そして、五台山に吸江庵を開創して住んだが夢窓はこの地の景観を愛し、「見国領、独鈷水、白鷺洲、粋適庵、呑海亭、雨華巌、泊舶岸、玄夫島、潮音洞、磨甎」の吸江十景を選んだと伝えられている。
高知県立美術館蔵

しかし長い歳月の間に取り壊されたりその場所の面影がまったく変わったがため判定に困難な所もあるが、古来文人墨客が来遊し、詩歌、絵画の作品が残されており、中でも河田小龍の吸江 図志によりその場所をここに記した。
1.見国領 2 独鈷水 3.白鷺洲 4. 粋適庵 5. 呑海亭 6. 雨華巌 7. 岩船岸 8.玄夫島 9.潮音洞 10. 磨就堂」とあった。
青柳橋と新青柳橋の間が吸江湾と記あり、五台山西麓の吸江寺を含めた一帯に10の名所跡が記されていた。

土径遍路道に入る
車道を進みとすぐヘアピンカーブ。ヘアピンカーブ、道の右手に立つ「農民の友 山崎豊吉翁」の等身大像。元参議院議員。この像の直ぐ先に「伊達兵部墓、独鈷水」と書かれた案内と車道を逸れる石段がある。石段下に標石があり、手印と共に「近道上り 三十一番十丁」と刻まれる。
遍路道は石段を上り、敷石の旧道を進むことになる。


兼山神社
石段上り口の直ぐ先、道の右手に鳥居があり兼山神社とある。野中兼山を祀るのであろうとちょっと立ち寄り。境内敷地の石碑には、野中兼山を徳とするある修養団が建てたものとあった。石碑の日付も昭和46年(1971)、昭和58年(1983)とありそれほど古いものではないようだ。
吸江病院
兼山神社はそれとして、かつてこの地には高知では初めての西洋医学病院である吸江病院が建っていたようだ。明治3年(1870)、土佐藩最後の藩主、第十六代山内豊範が建てたもの。高給で外国人医師を招き治療にあたった。木造ではあるが明治初期を代表する西洋建築の様式を取り入れられており、その白堊巍然として偉觀を呈した建物は、明治7年(1874)頃にこの地から移された後、病院をへて明治17年(1884)から大正6年(1917)までは高知県庁の建物の一部として使われたそうである。

独鈷水分岐点
数分歩くと「独鈷水」への分岐点に至る。遍路歩きの各所で出合う弘法水。地図をチェックすろと、分岐点のある標高30mあたりから等高線に沿って五台山西麓を廻り、緩やかに高度を上げて標高60m地点までおよそ250ほど歩くことになる。ちょと立ち寄り。
少し歩くと木々に遮られていた浦戸湾が現れる。更にその先、道の下にパゴダの尖塔が見える。名刹吸江寺の境内に建てられた戦没者供養の塔と言う。独鈷水までに吸江寺へ下りる道でもあれば寄ってみようと思ったのだが、それらしき案内はなかった。

厳島神社・独鈷水
ほどなく、道の山側に木に書かれた、かろうじて読める厳島神社・独鈷水の案内。注意していなければ見落としてしまう。実際私も見落としだいぶ先まで行ってしまった。
案内のある箇所から道を離れ山道を10mほど上ると厳島神社の鳥居と、その先に厳島神社の小社、そして独鈷水が流れ出す、というか浸み出す岩があった。
寺伝弘仁6年(815)、空海が竹林寺を訪れた際、投げた独鈷杵で大岩が割れ、水が湧き出した、とか。周囲には細いパイプがひきまわされているが、山裾の集落の生活用水となっているのだろうか。
吸江寺
独鈷水への道下にに吸江寺のパゴダ

Wikipediaには「文保2年(1318年)、夢窓疎石が北条高時の母・覚海尼による鎌倉への招請から逃れるために四国に渡り、土佐国の五台山の山麓に結んだ草庵を起源とする。夢窓が草庵の前に広がる浦戸湾を「吸江」と命名したことで、草庵は吸江庵と称するようになった。
夢窓が足利尊氏の政治顧問に就いたこともあって、室町幕府の厚い庇護の下に隆盛し、海南の名刹と呼ばれた。室町時代には長宗我部氏が代々当寺の寺別当を務めた。江戸時代は、土佐藩主山内一豊の命を受けた義子の湘南宗化により中興され、このとき寺号を吸江寺と改めて現在に至っている」とある。 疎石の去った吸江庵には五山文学を代表する絶海中津、義堂周信といった高僧が法灯を継いだ。

伊達兵部宗勝の墓
独鈷水から遍路道まで戻り、幅広の石の敷かれた石段を上ると道の左に「伊達兵部宗勝墓」と刻まれた石碑が立つ。傍の案内には「独眼龍政宗で著名な仙台藩主伊達政宗の実子。歌舞伎の「先代萩」や山本周五郎著『樅の木は残った」に重要人物の一人として登場する伊達兵部宗勝の墓である。
彼は一の関3万石の城主で、三代藩主綱宗の実子亀千代の後見人となり藩政を補佐していたが、 側近の原田甲斐が刃傷事件をおこしたので、その責任を負って寛文11年(1671)に山内家預けとなり、延宝7年(1679)11月4日58歳で病死した。 平成2年3月 高知市教育委員会」とあった。 山本周五郎著『樅の木は残った」では藩内におけるお家騒動というより、幕府による仙台藩取り潰しから藩を守る中心として原田甲斐が描かれ、宗勝は藩を壟断する人物として描かれていたように思う。伊達騒動についてはいろんな解釈があるようだ。
お墓は基本撮らないことにしているので写真はなし。途次、浦戸湾が時に顔を出す。

車道をクロスした先に遍路道案内
石段を上ると車道参道に出る。車道を越えた道の反対側に木標が立つ。遍路道案内かと思ったのだが「至展望台」とあった。さてどうしよう。取り敢えず展望台への道を進んでみる。と、ほどなく道の右手に遍路道案内が立っていた。遍路案内に従い展望台への道を右に逸れ土径に入る。

五台山展望台公園に出る
土径を道なりに進むと何だか公園というか、崖面を岩や植物で整備したような場所に出る。五台山展望台下の椿園の辺りのようだ。遍路道といった雰囲気ではない。整備された区域とその南を通る木々の間にそれらしき道はないかと探すが見つからず、結局椿公園から五台山展望台前の公園を抜けて、その先にある公園駐車場傍に出た。前面にNHKの電波塔が立ち、その敷地に繋がったかたちで竹林寺の塀が南に続いていた。

竹林寺西門(裏門)に下る
竹林寺塀の北端、NHKとの境に「(左方を指す矢印 山頂 (右下方向を指す矢印) 本尊 知恵の文殊菩薩 五台山竹林寺」の案内があり下りの石段がある。石段の下り口に2基の標石。大型の標石には右手を指す手印と共に「三十一番 二丁 京都 田中亀吉 森藤輿三郎」と刻まれ、もう1基の標石には「三十一番 後藤」といった文字が刻まれる。
標石案内に従い石段を下りると竹林寺西門(裏門)に出る。


遍路道再考
遍路道の車道合流点
結果オーライで竹林寺まで来たのだが、途中の椿園の中を辿る道はどう考えても遍路道とは思えない。また竹林寺塀傍に標石2基があったので、そこは遍路道筋には間違いないのだろうが、それは五台山北麓を上りいくつかに分かれる遍路道案内のようにも思う。
で、あれこれチェックしていると、展望台下にある椿園の整備された公園の手前で右に逸れ車道に出るルートが国土地理院の山地図に描かれる。そのルートが車道に合流した地点をGoogle Street Viewで見ると、車道に出る土径があり、車道合流点には丁石らしき標石も見える。
青柳橋東詰めからの遍路道としては展望台に向かうことなく、伊達兵部宗勝の墓を越え車道をクロスし遍路道案内に従い右に逸れる土径に入った後、更に右に逸れる道に乗り換え再び車道に出て、そのまま車道を進み竹林寺西門に向かうルートがオンコースではないのだろうかと思う。

第三十一番札所竹林寺

西門から入ることなくとりあえず表門から境内に入るべく、車道を辿り土産物屋のある表門前の広場に出る。東側には牧野植物園温室が建ち、その脇を北に上ると牧野植物園に至る。植物園方面から下りてくるお遍路さんが多い。車参拝の駐車場も植物園の駐車場と共有しているようだ。

札所巡礼者は土産物屋前から石段を上る。山門手前、右側に鐘楼、虚空蔵菩薩堂、さらにその奥に本坊があり本坊に合わさって客殿と書院、その前面に伝夢想疎石作の庭園が広がる。
書院
江戸時代後期・文化13年(1816年)建立、玄関は切妻造り、車寄せは唐破風造り、主屋は入母屋造り。藩主参詣の際の接待殿として造営された。




五重塔
五重塔戻って仁王門を潜り境内に入ると左手高台に五重塔が見える。昭和55年(1980)再建されたもの。石段を上ると左手に大師堂、右手に本堂が建つ。
大師堂
寛永21年(1644)藩主山内忠義によって建立されたもの。
本堂
まことに美しい風情。入母屋造、柿(こけら)葺き。細部には禅宗様建築の意匠が用いられている。建立年代は室町時代と推定されている。重要文化財指定。


船岡堂
本堂と大師堂の間を抜け西門に向かう。五智如来像にお参りし先に進むと船岡堂。明治の廃仏毀釈により荒廃した寺を再興した明治・大正期の住職である船岡芳信師を祀る。師はこの地で生きながら入定した。船岡堂を先に進むと竹林寺西門に出る。





竹林寺(ちくりんじ)は、高知県高知市五台山にある真言宗智山派の寺院。本尊は文殊菩薩。京都の切戸文殊、奈良の安倍文殊とともに日本三文殊の一つに数えられる。四国霊場のうち文殊菩薩を本尊とするのは本寺だけである。
寺伝によれば、神亀元年(724年)に聖武天皇が唐の五台山で文殊菩薩に拝する夢を見た。天皇は行基に五台山に似た山を捜すように命じたところ、この地が霊地であると感得し栴檀の木に文殊菩薩像を刻み、山上に堂宇を建立して安置したという。その後、大同年間(806 - 810年)に空海(弘法大師)が滞在、瑜伽行法を修法し、荒廃した堂塔を修復したと伝えられる。
実際の創建年代等について不詳である。中世以降は武家の信仰も厚く寺運も隆盛し、1318年(文保2年)には臨済宗の僧夢窓疎石もこの寺に滞在している。その後、寛永年間(1624年 ? 1644年)空鏡によって再興された。江戸時代には土佐国における真言宗の触頭を勤める寺院のひとつであった。また、本尊の文殊菩薩の出開帳を江戸や大坂で行っている。
本尊文殊菩薩
渡海文殊(竹林寺HP)より

本尊文殊菩薩座像(高さ六センチ)は宝物殿の四眷属とともに一組をなしたもので、獅子にまたがった「騎獅子文殊」 であり、唐代の様式を伝える我が國最古の文殊菩薩像とされている。慈覚大師円仁が承和五年(838)に入唐の際に中国五台山よりもち帰ったものと同形とされ、後に「渡海文殊」とも呼ばれるようになった。
渡海文殊とは、騎獅の文殊が四眷属を従えて雲に乗り水上を進む像姿を言う。









竹林寺から五台山を下りる

下山口
参拝を終え、第三十二番禅師峰寺へと五台山を下りる。遍路道は仁王門石段を下りたところ、土産物屋の西側から下る石段がある。これが下山道だろうと石段を下りる。

徳右衛門道標
急な石段道を下ると直ぐ左手に標石が立つ。梵字と大師座像が刻まれた典型的な徳右衛門道標。「是ヨリ峯寺迄一里半」と刻まれる。この標石のところで左に下る石段もあり、禅師峰寺への案内もあったようなのだが、その時は全く気にすることなくそのまま石段をまっすぐ下る。



貞亨元年法華經塔
道を5,6分下ると右手少し高い所に石塔が立つ。道脇の案内には、「貞亨元年法華經塔 貞享元年(1004)、柏島法蓮寺の僧日教が建立。宿毛市、東洋町甲浦にも同形同大の経塔が存在する。方柱状の身部に笠を置き、上に宝珠を載せるもので題目式許と呼ばれる。総高2.98m、
石質は砂岩。身部正面に題目一尊を刻し、四面に経塔建立の願文、
法経経の功徳、塔下に法華経を経函に入れ収納していることを刻す。日蓮四百遠忌直感を意識して建立したものであろう。 平成2年3月 高知市教育委員会」とあった。

「土佐遍路道 竹林寺道・禅師峰道 高知市教育員会」に拠れば、柏島は現在の幡多郡大槻町栢島。この高知の最西端(南端とも)いえるところの寺僧が3基もの石塔を建てたのは、幡多郡が土佐における日蓮宗布教はじまりの地であることもさることながら、この栢島が船運の要衝の地として栄え、経済力があったからでは、とする。
また土佐入国・出国の地・交通の要衝である東洋町甲浦、宿毛市市山、そして土佐中央部の竹林寺に経塔を建立したのは土佐の人だけでなく、お遍路さんへの日蓮宗の布教を目したのでは、とも記す。実際、建立時期は、年間3万とも4万名とも言われる四国遍路のもっとも多い時期であるとする。
なおまた土佐藩主が土佐転封以前より日蓮宗要法寺を菩提寺とし、土佐転封に際しては、寺を土佐に移している。こういったことも真言宗の名刹参道に日蓮宗の法華塔が立つ所以だろうか。もっとも、法華経はすべての経典の中心となるとされるわけで、その観点からいえばそれほど特異なことではないのかもしれない。

南吸江の茂兵衛道標(100度目)
法華教塔から10分ほど下ると南吸江の集落に出る。下山口の石段東側に茂兵衛道標が立つ。手印と共に「五臺山伽藍」と刻まれる。道標には「右 高野寺 安楽寺」の文字も刻まれる。高野寺は高知市内にある四国遍路別格霊場、また安楽寺は廃仏毀釈で廃寺となった善楽寺にかわって明治8年(1875年)に30番札所となったお寺様。明治21年(1888)。茂兵衛100度目巡礼時のもの。


遍路道再考
五台山の遍路道
当日はこれで高知の城下町経由の竹林寺遍路道のトレースは終わったと思っていたのだが、メモの段階で上述貞亨元年法華經塔のところでメモした「土佐遍路道 竹林寺道・禅師峰道 高知市教育員会」を読んでいると、タイトルの如く竹林寺道・禅師峰道の案内があり、そのルートは当日辿った竹林寺への上り・下り道とは異なる案内が記されていた。
城下町経由の遍路道は国分川に架かる青柳橋まではおなじなのだが、上りの表参道は竹林寺道とされ、それは今下りてきた参道道。下りは禅師峰道と称し、下田川に面した坂本へと下るとする。
同レポートによると、国分川を渡った遍路道はそのまま国分川に沿って五台山西の山裾の道を進み吸江寺前を通り上述茂兵衛道標の建つ参道口に至る。同レポートではこの参道口から竹林寺に上る道を竹林寺道とし、竹林寺を打った後は、これも前述下山時に参道脇に立っていた徳右衛門道標のところから左に逸れ、石段道を下途中車道参道をクロスしながら坂本の集落に下りる。この禅師峰道と称する遍路道の下山地点、坂本小学校の東には茂兵衛道標が立ち、遍路道は茂兵衛道標を左に折れて下田川に沿って先に進む、とあった。
遍路道に特段の決まりはないわけで、どのルートを辿ってもいいわけだけど、国土地理院の山地図には竹林寺からの下山道として禅師峰道が描かれている。前述の如く、当日は青柳橋東詰から上る遍路道が竹林寺への表参道かと思っていたのだが、ひょっとするとレポートにある竹林寺道が往昔の城下町から竹林寺に上る表参道であり、そして禅師峰道が五台山を下るメーンルートかとも思い直し、とりあえず同レポートにあったルートを確認する;
徳右衛門道標の分岐点
当日は気づかなかった、というか気にしなかったのだろうが、確かに徳右衛門道標から左に下る石段があり、「禅師寺道」の案内もある。




車道クロス地点
国土地理院の山地図にある実線ルートが車道参道と交差する箇所をGoogle Street Viewで確認すると車道の両側に車道とクロスする土径が見える。
その先、車道を離れた遍路道をGoogle Street Viewでは確認できなきが、Google Mapには下山道らしき筋が透明の帯として山裾に下り、坂本小学校東側の道と繋がっていた。この道筋が禅師峰道だろう。 
坂本の茂兵衛道標(185度目)
坂本小学校東の道が下田川に沿って進む県道32号に合わさる地点、坂本小学校東南端に鉄骨で補強された標石が見える。茂兵衛道標だろう。
東面には手印と共に「五臺山 京都三条通東洞院西へ入 施主中井三郎兵衛」、北面には「峰寺 為中井氏先祖代々菩提」、南面には「左 高知 壱百八十五度目為供養 周防国大島郡椋野村在 発願人 中司茂兵衛義教」、西面には「明治三十四年 見わたせハ罪もき?ルリ法の道」と添歌も刻まれている、と。
中井三郎
中井三郎氏が施主となった茂兵衛道標には86番志度寺から87番長尾寺ねの途次で出合った。そこにあった案内には「(願主茂兵衛の説明に続き)施主は京都三条通東洞院西入の中井三郎兵衛とその妻ツタである。明治三三年三月にここに建てた道標は、中井氏先祖代々供養のためとして、長尾寺と志度寺の道しるべとなっている。 中井氏と中務氏が組んで建てた道標は、明治二四年に高知市坂本に、明治三年に徳島県平等寺の近くに、明治三四年に愛媛県新宮村に建てられている。四国の四県に各一基ということになるが、いずれも、二か寺を案内する道標になっている。
中井三郎兵衛氏は、京都府会議員で、観光都市京都の発展に貢献した実業家である」とあった。
添歌
添歌が刻まれたも茂兵衛道標も、遍路歩きの途次、時に目にする。現在比定されているも茂兵衛道標263基ほどの道標のうち、37基に句歌が刻まれる、と。 句歌は臼杵陶庵の作。本名臼杵宗太郎。明治9年、12歳で第七十六番札所金蔵寺に入寺。以来俳句を学び、茂兵衛とは巡礼時に金蔵寺納経所にて知己を得、後に茂兵衛建立の道標に句を添えた。
26番札所金剛頂寺から27番札所神峯寺への途次、不動岩の茂兵衛道標には「迷う身越教へ天通す法の道」の添歌と大正七年九月吉辰」の文字が刻まれていた。

今回のメモはこれでお終い。次回は茂兵衛道標の立つ坂本から次の札所へのメモから始める。



今回は28番札所からおおよそ9キロ歩き29番札所国分寺へ、そしてそこから更に7キロほど歩き30番札所善楽寺へとおおよそ16キロほどの行程。市域は大日寺のある香南市から物部川を渡り、ほんの一瞬香美市の南端部をかすめた後南国市に入り国分寺へ。国分寺からはゆるやかな逢坂峠を越えて高知市域に入り第30番札所善楽寺に至る。
地形は大日寺の建つ野市台地を離れ物部川を渡るとそこは広大な扇状地。かつては川床が低く水利に恵まれなかった荒れ地を江戸の頃、野中兼山の施策により物部川から取水した水路が開削され新田となった平坦な道を進み国分川に当たる。その辺り一帯は土佐山田台地を物部川との分水界として流れてきた国分川によって形成された氾濫平地が広がり、そこに国分寺が建つ。 国分寺から善楽寺への道は、国分川により形成された三角州を抜け細藪山地と平地の境に建つ善楽寺へ。善楽寺の前面は国分川、久万川、さらには鏡川の合作による複合三角州に高知の市街が見える。紀貫之が書いた『土佐日記』の頃、西暦930年から934年の頃、現在高知市街となっている三角州の大部分は海面下にあったようであり、その陸地化には藩政時代の埋め立てによるところが多いとされる。
本日の散歩はおおむね広義の土佐平野、土佐平野の東部に広がる香長(かちょう)平野、かつての香美郡(かつての香美郡のうち、香美平野は香美市の大部分)と長岡郡域(南国市の大部分・高知市と香美市の一部)を歩くことになる。


本日のルート;
第28番札所大日寺から第29番札所国分寺へ■
大日寺旧参道口に自然石標石>烏川に架かる佐古川橋を渡る>>上井(うわゆ)川>高天原・霊験地蔵>物部川を渡り香美市に入る>右折点に標石>自然石標石>松本集落に標石2基>真念道標>松本大師堂>南国市に入ると左折標石>旧国道195号・土讃線手前に標石>茂兵衛道標>バス停へんろ石>国分川を渡り標石を左折>第二十九番札所国分寺
>総社
 ■国分寺周辺
県道45号右折点に自然石標石>国司館跡(紀貫之郎跡)>比江廃寺塔跡>国丁跡
第29番札所国分寺から第30番善楽寺へ
寺より南進し田圃の中で右折>農道T字路を左折し南下>国分川手前を右折し西進>国道32号を潜り笠ノ川川を渡る>岡豊山裾の道に入る>水路に沿って進む>高知市域に入り逢坂峠へと上る>逢坂峠への先で県道384号を逸れる>県道384号をクロスし善楽寺へ>第三十番札所 善楽寺>土佐神社


第二十八番札所大日寺から第二十九番札所国分寺へ

大日寺旧参道口に自然石標石
大日寺を離れ次の札所二十九番国分寺に向かう。距離はおおよそ9キロ。旧参道の石段を下り県道22号に出るとると自然石の標石。手印と共に「右へん路道 二十八番大日寺」と刻まれる。 歩道参道の北には昭和39年(1964)に開かれた車道参道。参道口には自然石に刻んだ大きな碑。「四国霊場開場千百五十年記念 四国第廿八番大日寺参道 昭和三十九年二月新設」と刻まれる。

烏川に架かる佐古川橋を渡る
県道を渡ると、徒歩参道対面の少し左手に遍路道の案内石碑。案内に従い烏川に架かる佐古川橋南詰に出る。
橋を渡った遍路道は北西へと進む。地名は野市町母代寺。先に進むと野市町父養寺で県道237号に当たる。
遍路道は県道237号をクロスし直進、民家の間の細路を西進する。
母代寺・父養寺
なんだかいわくありげな地名。チェックすると貞観8年(866年)応天門の変に連座して土佐に流された紀夏井ゆかりの地であった。父養寺、母代寺という地名は、夏井が父母を弔うために建てた寺があったことがその由来。母代寺には県の史跡紀夏井住居跡が残るとのこと。
紀夏井(きのなつい)
平安時代前期の官人。善岑の子。廉直な国司として有名。書を小野篁 (たかむら) に学ぶ。天安2 (858) 年右中弁から讃岐守に任じられる。善政をしいたため,人民の要請により2年間留任。貞観7 (865) 年肥後守となったが,応天門の変で異母弟豊城の罪に縁坐,土佐に流された。
土佐国へ護送中、肥後国の百姓等は父母を失うがごとく嘆き夏井の肥後国外への移送を拒もうとしたり、讃岐国の百姓等は讃岐国内から土佐国の境まで夏井に付き随い別れを惜しんだという。中央・地方を問わず人望のあった夏井の失脚は、武内宿禰以来の名家である紀氏の政界における没落を決定的なものとした。この事件の後、同氏は宗教界や歌壇において活躍する氏族となっていく。
数年後母が死去したが、夏井は草堂を建立して亡骸を安置し、母が生きているときと同じように朝晩の礼を欠かさなかった。以前から仏教への信仰心は篤かったが、3年間の喪が明けるまで毎日、この草堂の前で大般若心経50巻を唱えたという。その後の動静は伝わらないが、配所で没したとされる。
夏井が讃岐守の任期を終えて20余年後に、菅原道真が讃岐守として現地に赴任した際、讃岐国の百姓は紀夏井の善政を忘却しておらず、道真は何かと夏井と比較され国政運営で難渋したという(「Wikipedia」、「コトバンク」参照)。

上井(うわゆ)川
民家に挟まれた車一台幅の細路を抜けると川というか水路を渡り物部川の堤防を走る県道234号に出る。県道の眼前には田畑が広がり、その先に物部(ものべ)川が流れる。田畑は県道より5mほど低い。物部川はそれより5mほど低いところを流れる。
田畑の広がる一帯は物部川により流されてきた土砂が堆積された地のように思える。国土地理院の地質図を見ると、物部川東岸だけてなく、西岸も広大な堆積層が広がる。山地の狭隘部から解放された物部川が香美市土佐山田町あたりを扇の要とし、その下流一帯が扇状地といった形状を呈する。
で、県道手前で渡った川というか水路は、物部川により形成された河岸段丘下を流れている。物部川の支流?チェックするとこの水路は野中兼山により開削された上井川と称される用水路であった。
野中兼山の物部川流域の水路開削と新田開発
地図をチェックすると上流、町田橋の辺りで取水されている。往昔町田堰と称された取水堰設けらていたようだ。
この上井川の流れをトレースしていると、少し下流に「三又」とマークされたポイントが地図に掲載されていた。上井川は三又で十善寺溝、町溝、東野溝の三つの大きな溝(用水路)と原田溝、武市溝の小さな用水路に分水されていた。
この用水路の開削は野中兼山の手によるもの。先回のメモで、野市の由来が「野中兼山らの開発により"野原のなかに新しい市町 ができた。土佐の"三野地"の最初が野一、その 転訛野市」と記したように、野中兼山が荒れ地であったのこの地を新田となすべく水路を通したわけだ。就任当時24歳。父の後を継ぎ奉行職としてその任にあたった。

右側が物部川扇状地(Google mapで作成)
兼山の治水事業は物部川東岸だけでなく、物部川西岸の広い堆積地にも及ぶ。町田橋の更に上流、物部川が山地より平地に流れ出す少し下流に設けた山田堰より取水し上井、中井、舟入の流れを開削し新田を開発した(山田堰からは東岸に父養寺溝も開削されている)。 また舟入川は西の大津川と結び物部川と高知の舟運の便に供した。山間部で伐採された木材は山田堰で集積されたようである。
このような水路開削による新田開発の結果、石高24万石とも言われた土佐藩に新たに8万石の増収をもたらしたとのことである。 とはいえ、兼山の普請施策は厳しく、藩内で反発をかい罷免され、山田堰近くに隠棲し、その数カ月後にむなしくなった。因みに、山田堰の完成には25年もかかったと言う。兼山は、その完成をみることはなかったようである。

高天原・霊験地蔵
遍路道は河岸段丘と物部川の堆積地を画する県道234号を逸れ田畑として開墾されている堆積地に下りる。と、物部川の傍に杉や雑木が茂る一角がある。そこにちょっと古い小堂とお堂が建つ。小堂には自然石にも文字が刻まれる。文字ははっきりしない。
大きなお堂は二つ区切られ共に地蔵尊が祀られる。お堂横には「高天原 霊験地蔵 八王山蓮光院」と刻まれた石碑が立つ。地蔵尊由来書によると、天明五年巳(1785)五月に建てられたようだ。 往昔この辺りには戸板の渡しがあり、遍路もこの地から物部川を渡ったと言う。

物部川を渡り香美市に入る
県道に戻り物部川に架かる戸板島橋を渡り物部川西岸に移る。市域は香南市から香美(かみ)市となり、香美市土佐山田町戸板島。
香美市
香美市は平成18年(2006)、香美郡香北町・土佐山田町・物部村が合併してできたもの。

戸板島集落の右折点に標石
戸板島橋を渡った遍路道は西詰で左折し、物部川の堤を走る県道372号の一筋西の道に入り、民家の間を抜け、田圃の中を東西に走る道にあたる。
合流点に少し傾いた標石とその後ろに石造物多数。標石には「右へんろ道」と刻まれる。遍路道はここを右折し、西進する。

立石の自然石標石
西進すると四つ辻に集会所のような建物。その西側に自然石の標石。中央に「へんろ道」、左右に「国分寺」「大日寺」の文字が手印と共に刻まれる。








松本集落に標石2基
更に一直線に西進し、県道31号を越え先に進むと田圃の先に土佐山田町松本の集落が見えてくる。集落入り口の民家生垣の前に少し傾いた標石。風化激しく文字は読めない、さらに道が南に折れる角にも小さな自然石の標石。「左邊路道 明和」といた文字が刻まれる。



真念道標
左折し少し南下すると、道の右手、民家の壁にくっつくように標石が立つ。「右 へん路みち 願主真念 為父母六親」と刻まれた真念道標。正面が側面より幅広い真念道標には珍しいタイプ。 遍路道はこの角を右に折れ、土径を直進する。






松本大師堂
土径を進むと大師堂に出る。お堂の周囲には多くの石造物が並ぶ。近年建て替えられてのだろうか。結構新しい。
大師堂の先で水路を渡る。メモの段階でチェックすると舟入川であった。


舟入川
既述の如く、野中兼山が奉行として物部川西岸に開削した人工水路。物部川の山田堰で取水し、荒れ地であった地を潤し新田となし多くの恵みをもたらした。舟入川葉は新田開発だけでなく、紀貫之が土佐を離れるとき船出した大津で大津川と繋ぎ、物部川と高知城下の舟運に供した、と。 土佐の石高は、江戸初期には20万2千6百石(幕府朱印状石高)とも24万2千石とも言われるが、幕末の廃藩置県前には49万4千石余に達していたと言われる。物部川流域の治水事業だけでも8万石の増収を可能としたと言われるが、兼山は土佐全土で主要河川16か所で堰を築き利水事業をおこなったとのことであるの石高倍増に貢献したのではあろう。

南国市に入ると左折標石
舟入川を越えると直ぐ三差路。市域は香美市を離れ南国市となる。分岐点に「四国のみち」の指導標と2基の標石。上部が破損した標石には「*ん路* 文化五* 国分寺迄三」、もう一基には「左国分寺三十五町 大正五年」といった文字が刻まれる。遍路道は「四国のみち」の案内に従い、左折する。
南国市
北部は四国山地の南端、また南部は高知平野が広がり、太平洋に面して東西約8キロメートルの海岸線を有する。香南市と物部川で市境を画す。野中兼山の新田開発によって作られた舟入川、また国分川が市の中央部を東から西に流れ、高知市で浦戸湾に注いでいる。
奈良時代の天平13年(741年)、この地に国分寺が建立され、前後して土佐国府が置かれ、土佐の中心地となった。戦国時代には長宗我部氏が本拠地として岡豊城を構え、長宗我部元親はここを四国統一の足がかりとした。
江戸時代初期、土佐藩家老として活躍した野中兼山によって新田開発が行われた。新田の中心部に商業圏を作り、その町作りに関わった入植者には年貢・役務を免除(御免)し、やがてこの地の名が「後免」と呼ばれるようになった。
昭和34年(1959)、長岡郡後免町・香長村・野田村・岡豊村・香美郡岩村が合併して発足。その後香美郡山田町の一部を編入し現在の市域をなす(Wikipedia)。

車道左折点に標石
「四国のみち」の指導標に従い道を左折、さらにその先、道なりに右折し北に少し進むと道に車道にあたる。その合流点にも標石。手印と共に明治二十年」といった文字が刻まれる。刻まれた文字ははっきり読むことはできなかった。






旧国道195号・土讃線手前に標石
T字路を左折し南西に直進する道を進む。途中、道の右手に「大将軍」の石額のかかる鳥居が建つ。その南に大将軍神社が鎮座する。名前に惹かれるが由緒不詳。であるが、他の大将軍神社には経津主命・タケミカヅチ命が祀られている。この地の産土神という。
その先、旧国道195号の手前、道の左手のお屋敷西破端のブロック塀前に4基の石造物が並ぶ。 そのうち2基が標石との記事もあるが、はっきりしなかった。

茂兵衛道標
遍路道は国道を横切り直進するが、その先には土讃線が走っており直進はできない。少し北に進み踏切を渡り線路横断地点に戻る。
遍路道は西進。左手に南国市鳶ヶ池中学校を見遣り進むと県道45号に合流。合流地点に茂兵衛道標。「大日寺」、手印と共に「国分寺」、「明治三十一年」といった文字が刻まれる。茂兵衛160度巡礼時のもの。
遍路道はここを右折し、県道45号を北上する。


バス停へんろ石
県道45号を北に進むと現在の国道195号とクロス。国道を横断し更に北に歩くと「へんろ石」バス停。バス停の西側には「へんろいしまんじゅう」の看板がかかる。老舗のおまんじゅう屋さんだ。子供の頃に食べた田舎饅頭のテイスト。
「へんろ石」の由来だが、かつて、と言ってもそんなに昔のことではないのだが、店の直ぐ北の四つ辻、水路に面して茂兵衛道標が立っていた。が、令和2年(2020)初夏に訪れたときは如何なる理由か、道標は撤去されていた。

国分川を渡り標石を左折
国分川に架かる国分橋を渡ると左に折れる道。その角に標石。手印はかすかに見えるが文字は読めない。左折すれば、国分寺までほぼ400メートルである。
国分川
香美市西部の山地にその源を発し、南西に流れ高知市街で浦戸湾に注ぐ、全長21キロjほどの二級河川。上流部では新改川と称される。上流部に休場ダムがあり、平山発電所、新改水力発電所で発電が行われる。
ところで、この新改川は水量が多くなく、??野川水系穴内川に建設された穴内ダムから四国山地を穿ち、その導水路を通して新改川に水を供給している。どうも休場ダムは一種の調整池としての機能を果たしてようである。
甫喜峰(ほきがみね)疏水路
で、導水路のルートをチェックしていると、野中兼山の事績に出合った。穴内ダムから導水路で下流の繁藤ダムに流した水は、繁藤ダム湖より山地を穿つ導水路を通して休場ダムに水を流し、ダムすぐ下流の平山水力発電所、また山地を穿った導水路と通して新改水力発電所に水を供給してている。
と、休場発電所の北に発電所マークがある。チェックするとそこはどうも旧平山水力発電所のようである。明治42年(1909)完成した高知ではじめての水力発電所。発電所がこの地に選ばれたのは既述穴内川の繁藤ダムあたりから国分川に分水する甫喜峰(ほきがみね)疏水路があり、その水を発電に利用しようと計画された。当時の県予算に匹敵するほどの予算規模であったが、県知事宗像政の強い指導力のもと明治39年(1906)工事着工に至り、2年の歳月をかけて完成した。
この甫喜峰(ほきがみね)疏水路は水量が乏しい新改川へ吉野川水系の水を通し、香長平野の灌漑用水を増やすべく野中兼山が指揮をとり開削をはじめたもの。難工事のため藩政時代に完成をみることはなかったが、明治に入り幾度も深刻な水不足に見舞われた住民の訴えにより、明治33年(1900)疏水路の完成をしており、その疏水路を活用できたわけである。
偶然の「出合い」を深堀すればあれこれ面白い話がでてくるものだ。


第二十九番札所国分寺

高知平野の東部、香長平野(旧香美郡と長岡郡)に建つ。境内は白壁の土塀に囲まれる。
山門
南側に山門(仁王門)。「摩尼山」の扁額が架かる。入母屋造楼門、金剛力士(仁王)像が安置される。明暦元年(1655)、土佐藩主山内忠義公の建立とのこと。
この山門は鐘楼と兼用されていた。その梵鐘は創建当時、平安時代前期の作と伝わり、国の重要文化財に指定されている。
山門を潜り境内に入ると右手に現在使われている鐘楼。建立年は不明だが、 寛永11年(1634年)最初の改築が行われたとあるので結構古いものだろう。
開山堂・酒絶地蔵
境内左手には当寺開創と伝わる行基菩薩を祀る開山堂。その脇に酒断地蔵尊を祀る小堂。正面に金堂(本堂)、その左に大師堂が並ぶ。

Wikipediaに拠れば、土佐国分寺(とさ こくぶんじ)は高知県南国市にある真言宗智山派の寺院。摩尼山(まにざん)、宝蔵院(ほうぞういん)と号す。本尊は千手観世音菩薩。国の史跡に指定されている。
聖武天皇が発した「国分寺建立の詔」により全国に建立された国分寺(金光明四天王護国之寺)の一つである。当寺は寺伝によれば天平13年(741年)に行基が千手観世音菩薩を刻み本尊として安置し開創したとされる。
その後弘仁6年(815年)空海(弘法大師)が毘沙門天を刻んで奥の院に安置、また、星供の秘法を修めたことから、当寺は星供の根本道場となり、大師像は「星供大師」と呼ばれている。そして、その頃真言宗の寺院となったという。史実としては、『続日本紀』に天平勝宝8年(756年)、土佐を含む26か国の国分寺に仏具等を下賜したことがみえるため、この年以前には創建されていたとみられる。
国分寺周辺は古代から中世まで土佐国の国府の所在地であり、「土佐日記」の作者紀貫之も国司として4年間当地に滞在した。国府の中心である国庁は国分寺から徒歩15分の位置にあり、かつてその近くにあった土佐国総社は現在当寺境内に移されている。
寺はたびたび兵火に遭ったが、永禄元年(1558年)には長宗我部国親、元親によって金堂が再建。明暦元年(1655年)に土佐藩2代藩主山内忠義が山門を寄進した。大正11年(1922年)に境内全域が国の史跡に指定されている」とある。

柿茸き(こけらぶき)、永禄元年(1558年)建立の金堂(本堂) -は明治37年(1904)、国の重要文化財に指定されている。また本堂に祀られる平安時代中期作 と鎌倉時代作 と伝わる木造薬師如来立像2躰も -共に明治44年(1911)、大正2年(1913)に国の重要文化財に指定されている。

境内の標石
境内には2基の標石。1基は大師堂左の石造物群の中にあり、自然石でつくられ、「これよりみきへへんろみち 元禄二」といった文字が刻まれる。
もう1基は山門を潜って左側に徳右衛門道標が立つ。常と異なり大師坐像が彫られていない。梵字と共に、「右一ノ宮*里半 二十九**」、手印と共に「三十ばん 願主 豫州越智郡朝倉上村  徳右衛門」といった文字が刻まれる。
土佐一ノ宮は第三十番札所善楽寺横にある土佐神社のことだろう。

総社
境内西隣に国分総社神社 。土佐国総社で大型の祠。土佐国21社を国庁所在地に勧請して一社にまとめたもので、当初は国分新町の南にあったが1669年(寛文9年)に移された、とWikipediaにある。
日本の律令制下、国司着任後の最初の仕事は赴任した国内の定められた神社(式内神社)を順に巡って参拝することであったが、手間が大変であり、平安時代になると国府の近くに総社を設け、そこを詣でることで巡回を省くことが制度として認められた。この総社には土佐国21社(安芸郡3、香美郡4、長岡郡5、土佐郡5、吾川郡1、幡多郡3)が勧請された。

国分寺周辺の国府関連史跡

次の札所第三十番善楽寺に向かう前に国分寺周辺の国府関連史跡にちょっと立ち寄り。先ず国司館跡(紀貫之郎跡)に向かう。

県道45号右折点に自然石標石
国分寺から東に県道45号まで戻り北進。500mほど進むと国府小学校。その校庭南西端から道が東に続く。国司館跡(紀貫之郎跡)はここを右折するが、その角、小学校のブロック塀の上に自然石。なんとなく気になりチェックすると、「紀子旧邸、国分寺、比江山親興城址」といったも文字が刻まれ、「東方約三町」などそれぞれの地への方向と距離も示されている。位置からするとこの地より3方向の地を示す標石であろう。
比江山親興
比江山親興は長曾我部元親の従兄弟の城。親興は一門として重きをなす。元親が秀吉の軍門に下った後、天正十六年(1588)、元親の嫡男信親が戸次川の戦いで討ち死。その後継者問題で讒言などもあり元親によって切腹を命ぜらた。比江山氏の断絶により、比江山城も廃城となった。 国分寺の西に長曾我部氏の居城である岡豊城がある。この比江山城は東の備えの城であったのだろう。

国司館跡(紀貫之郎跡)
右折し、道なりに進むと国司館跡(紀貫之郎跡)がある。入り口に「古今集の道」といった案内もあり、一帯が公園風に整備されている。「古今集の道」は30歳の若さで古今和歌集の撰者に任ぜられ王朝屈指の歌人でもあった紀貫之所以の命名だろう。

古今和歌集の道
公園に整備された「古今和歌集の道」には古今集に出てくる植物を歌と対比して掲載している。 「秋の菊 にほふかぎりは かざしてん  花よりさきと 知らぬわが身を 菊 276 紀貫之」。藤袴は「やどりせし ひとの形見か 藤袴 わすられがたき 香ににほひつつ」、また「秋の野の 草の袂か 花すすき穂に出でて招く 袖と見ゆらむ」はすすきを詠む、といった趣向である。

国司館跡(紀貫之郎跡)
公園を南へと進むと国司館跡(紀貫之郎跡)の案内。「奈良天平の時代から比江の地に土佐の国庁が置かれた。貫之は延長八年国司として来任。この地に住居した。地名を内裏(ダイリ)という。
承平四年在満ちて京都へ帰る時の船旅日記「土佐日記」は特に名高く、歌人として第一人者であると共に、国司としても極めて優れく々に敬慕せられた。
ここに建つ碑は天明五年(寛政元年竣工)のものと大正九年及び平成元年建立のものがあり、何れも後人が紀氏の徳を慕いその業績を讃えたもので、また俳人(高浜虚子の句碑もある」とあった。 年号から考えれば紀貫之が国司に任ぜられ土佐に赴いたのは60を過ぎてからのようだ。
比江
「土佐地名往来:には、「国司が都を懐かしんで後山を比叡山に見立て比江山 と名付。山裾に日吉神社(ひえじんじゃ)」とある。
高浜虚子の句碑
案内にあった虚子の句碑は紀貫之郎跡の東角に立つ。「土佐日記 懐にあり散る桜」と刻まれる。虚子は2度土佐を訪れているとのことだが、この句は初回昭和6年(1931)に浦戸湾から土佐入りし、この地を訪ね折からの満開の桜を詠んだとのこと。
この句碑は和19年(1944年)に虚子の古希祝いとして、土佐出身の俳人が集まり建立したもの。

高浜虚子の句碑に限らず敷地内にはいつくかの石碑が立つ。





「月」字の額
左が紀子舊跡碑
「紀貫之が土佐の守の任にあった時、自ら書いて庁舎に掲げてあった「松月庵」という額が幡多郡黒潮町伊田の松山寺 (現在は廃寺)に移されたものと伝えられている。その額を寺の僧が不要物と思い、捨て置いていたものを、当時、幡多の郡奉行であった「尾池春水」が寺に立ち寄り、紀貫之の真筆に間違いないとして世に広めた。
世々遠くあるかなきかの影とめて 月をかたみの水くきのあと 
この和歌は、尾池春水が月の字の鑑定を依頼した京都の日野大納言資枝が真筆に相違ないとして一首の和歌に託したもの。 平成二十五年十一月十日 国府史跡保存会」との案内があり、その横の石碑に「月」の文字が刻まれる。これが紀貫之の残した「月」字のレプリカであろう。

紀子舊跡碑
「月」字の額の案内の横に石碑。案内には「碑文 東面 あふく世に やとりしところ 末遠く つたへんためと のこすいしふみ 權大納言資枝」「南面 侍従 藤原豊雍 篆」「西面 文略 天明五年」といった説明があった。
何のことやらとチェック。上述尾池春水が天明五年に紀貫之の旧跡を顕彰すべく建てたもの。歌は「月」字と同様、尾池春水の和歌の師である日野資枝が呼んだもの。 「侍従 藤原豊雍 篆」とは 土佐藩の歴代藩主の中で、最高の名君とされる山内豊雍による揮毫であるということのようだ。
尾池春水
土佐藩士・歌人。天明6年(1786)2月、山奉行から幡多奉行中村定詰に任じられたのを機に、中村に移住。7年、9代藩主・豊擁のもとで天明の改革に取り組んだ。その後、教授方頭取兼帯・御馬廻組頭・側用役奥向用役兼帯・御馬廻組頭御仕置役格を歴任。
歌を日野資枝に就いて学ぶ。また旧国府の里に紀貫之を顕彰する「紀子旧跡碑」を建立し。紀貫之の書と言われる「月」字を広く紹介し、藩内はもとより、京都の公家にまで広めた功績は大きい(コトバンク)。

土佐日記の碑
石碑には二首の歌が刻まれる
「みやこへと、おもふをもののかなしきは、 かへらぬひとの、あはれなりけり」
「さおさせどそこひもしらぬわたつみのふかきこころをきみにみるかな」
「都へと思ふもものの悲しきは帰らぬ人のあればなりけり」は都へ帰る直前に、 京から連れてきた愛娘(6~7歳)を急病で亡くして、共に帰れない嘆き、 哀しみを詠う。
「棹させど底ひも知らぬわたつみの深き心を君に見るかな」は土佐を離れる船出に際し、名残を惜しんでくれる人の心を詠んだもの。日記では感傷に浸る間もなく、酒をくらった船頭が潮も満ち、風も吹いきたと乗船をせかした、と記される。
この碑は平成元年に建てられたもの。


「国府の碑」
「土佐のまほろば ここに 都ありき」 国府の碑について 明治30年国府村が生まれた。藩政時代の国分、比江、左右山の3村が、明治22年合併した国比左村を改称したもので、国府の名は、この地に奈良平安の古代、土佐の都国府が置かれたことに由来する。
当時の村人たちが熱い愛郷の誇りを現したものであって、爾来、行政区域は合併により、後免町から南国市へと変わったが、国府の名は地区名として連綿と受け継がれてきた。
国府史跡保存会は、昭和34年7月創立。地区内全戸が会員となり,土佐のまほろばの中核をなす史跡群の維持顕彰につとめ、史跡の傷みを心の痛みとして守り続けてきた。
ここに創立40周年を迎え、記念として国府の名を永く後世に伝えんと、この碑を建立する。 碑表の書 南国市長 浜田 純 平成11年9月25日」

千載不朽碑
「千載不朽 碑文 
麝香間祇候陸軍歩兵少佐従三位勲三等功五級侯爵 山内豊景  題額
はかなき道にのみ名をとどむるこそいとくちをしき わさならめ。
此君土佐の守たりし時、萬わたくしなかりしかは、そのいこい給ひし所をさへ後の世にもしたいものし侍るとこそ聞えける。
かくてこそ 花さへ実さへ、とことはに、そのかくはしさをのこすとこそいふへけれ。
近き世の守なる君、ここに石ふみたてて千とせ萬代にも伝へてんとはかり給ひし こころはせも、またくちしとこそおほゆれ、くはしきことはかきつくしてふみにゆつりてなん。
文化六年弥生 右近衛少将 源 定信 しるし侍りぬ
大正七年歳暮 御歌所寄人 大江正臣 筆とりぬ」と刻まれる。

源 定信とは松平定信。文化六年(1809)に定信の書き記した文を大正になって大江正臣さんが筆をとり、土佐藩主の後裔である山内豊景さんが千載不朽という題額をつけて紀貫之を顕彰するこの石碑を立てた、ということだろうか。

「貫之とはこんな人  ― 紀貫之と土佐 ―
奈良時代から平安時代を通じて、土佐に来任した国司(土佐の守)の数は、百十余人が文献に見えます。その国司の館跡が、現在「紀貫之邸跡」と称されるのは、歴代国司のうち、紀貫之が抜きんでて名の高かった故であります。
延長8年(930)1月、土佐の守に任された貫之は、当時60歳すぎでありましたが、都ではすでに王朝屈指の歌人として、その名を馳せており、30歳代の若き日に、醍醐帝の勅命による「古今和歌集」の撰者・序文の著者としての栄光を担っております。
4年間の国司の任務を無事に果たして、承平4年(934)12月には、京の都へ立ちますが、その時の船旅日記を綴ったのが、かな文字による日記文学として、後世に風韻を残した紀貫之の「土佐日記」であります。
この日記を通じて、貫之の、移りゆくものへの心くばり、情にあつい人となりが、よく分かりますが、なかでも都へ帰る直前に、京から連れてきた愛娘(6~7歳)を急病で亡くして、共に帰れない嘆き、いわゆる"帰らぬ人"への情愛・哀傷を、日記文のいたるところに滲ませております。
貫之は多情多恨、移りゆく心の持ち主であったことは、「土佐日記」や歌集などにもうかがわれますが、現在高知県安芸郡北川村に、貫之の寵を得たことを系図に記して、紀氏姓を名乗る家系があります。
貫之は土佐へ赴任する時、醍醐帝より「新撰和歌集」の撰進を命ぜられておりましたが、帝の崩御によって、作品は日の目を見ることはありませんでした。その痛恨・帰らぬ人へのおもいをこめて、「土佐日記」は創作されました。
こうした紀貫之であった故に、この邸跡に建つ新旧5つの碑は、みな紀貫之― 「土佐日記」 ― を敬慕し、讃えるものばかりであります。  (監修 岡林清水) 平成8年(1996)8月吉日  国府史跡保存会」

比江廃寺塔跡
紀貫之邸跡を離れ比江廃寺塔跡に向かう。道は紀貫之邸跡に来た東西の道を更に東に向かう。少し進むと四つ辻があり、その角、道の下に広場があり平たい石が置かれている。
その傍に「比江廃寺塔跡」の案内。「塔の心礎のみが残る古代寺院跡で、国史跡に指定されている。
礎石の大きさは、縦3.24m、横2.21mを測り、土佐では最大である。中央にある直径8.1cmの穴 は塔の心柱を支えるためのものであり、中心には、仏舎利(仏骨)を納めるための穴も開けられている。
当時の塔の高さは、心礎の柱径の約40 倍といわれることから30mを越す高さの五重の塔が 建っていたと推測されている。
発掘調体の成果から、この塔礎石が据えられたのは8世紀以降と判明しているが、周辺で出 土した古瓦から、寺の創建は白鳳時代後期と考えられている。 南国市教育委員会]とあった。 

 国丁跡
道を少し西に戻り、案内に従い左折し田圃の中を通る農道を少し南に下ると、ビニールハウスの脇に国丁跡の案内がひっそりと立っていた。案内には「国庁跡」とあり、「周辺に国丁、神ノ木戸、府中、内日吉、宝憧寺等の地名あり」の解説と昔の小字を記した周辺の地図が掲載されていた。 地図にはその他、内裏、クゲ、そして国庁跡の碑が立つあたりは「国庁」と如何にも国庁があった名残を示す小字が地図に記されていた。
国庁の広さは六丁四方、四丁四方の二説がある。現在発掘調査継続中で位置の推定はされていないが、昭和38年(1963)県指定の史跡となりここに「国庁跡」の標柱が立てられたようだ。東と南に国分川が流れ外敵からの守りに適し、かつ国分川を通じで国府の外港、紀貫之も船出したという大津湊に繋がる交通・軍事上の要衝であったのだろう。
大津(紀貫之船出の碑)
大津の紀貫之船出の碑は国分川に面する土讃線布師田駅の南、舟入川に面した大津小学校の正門を入ったところに立つ。「貫之舟出の碑」と刻まれる。
近くには土佐電鉄舟戸停留所もあり、 かつての湊の名残を今に伝える。『土佐日記』の12月27日の条に「大津より浦戸をさして漕ぎ出づ」とされる地と比定されている。

現在は舟入川傍ではあるが、舟入川は既述の如く江戸期に野中兼山によって開削された人工水路。紀貫之の時代に舟入川はなく、この辺り一帯は流路定まらない国分川筋ではあったのだろう。 周辺は現在は埋め立てられ陸地とはなっているが、千年の昔、この辺りは海であり、 紀貫之の時代、 高知市の市街部の大部分は浦戸湾が広がり、五台山、かつら島、 比島、高知城のある山は、湾の中の島であったとされる。



第29番札所国分寺から第30番善楽寺へ

国庁跡を彷徨い、国分寺まで戻る。次の札所善楽寺への遍路道を歩き始めることにする。距離はおおよそ7キロ強ほど。

寺より南進し田圃の中で右折
山門を離れ少し西に進むと南に下る道がある。これが遍路道。田圃の中を南下する。ほどなく四つ辻に「四国のみち」の指導標。案内に従い右折し西進する。




農道T字路を左折し南下
右折し西進した道はほどなくちょっと広い道にT字で合流。合流点には「四国のみち」の指導標があり、国分寺、岡豊城跡(岡豊山)への案内をする。岡豊城跡(岡豊山)まで2.4kmとあった。 遍路道はここを左折し南下する。
長曾我部検地帳の案内
その合流点にあるお屋敷入り口付近に案内板が見える。ちょっと確認。「長曾我部検地帳 二階(二階孫右衛門)」とあり、「二階氏の土居屋敷四方堀藪あり」「東ニホリ、上ヤシキ光富千熊丸給地」「カチ屋敷、中ヤシキ山田主馬兵衛」「ムロヤシキ、片村源兵衛国分寺領」「二階/東ニ上ヤシキ竹崎兵衛。毛利氏御用の廻船商人で官途「藤左衛門尉」を与えられた二階氏の一族と思われる」との記述があり、その下に地図が掲載されていた。

検地帳といえば、場所を特定する小字、耕作地の面積、所有者名が書かれているのが普通だとい思うのだが、石高の基準となる耕作面積の説明もなく(地図をはっきり見なかったので見落としかもsれない)、案内の主旨がよくわからずチラ見で済ました。
メモの段階でもう一度チェックすると、地図には検地帳に記された小字名を地元の方の努力により反映されているとのこと。「市場」、「風呂ノ前」、「市頭」、「堂ノ前」、「国分ノ前」、「町頭」、「東古市」といった小字名が記載されており、現在ののどかな田園風景とは異なった門前町の姿が想像できる。「長曾我部検地帳」というより、 長曾我部検地帳に記載された二階一族の住んだこのあたりの往昔の姿の案内、といったほうが分かりやすかったのでは、とも思った。
長曾我部検地帳
豊臣政権期に土佐国主であった長宗我部氏が実施した、土佐一国の総検地帳。天正15(1587)年から数カ年かけて行われた検地の成果で、土佐七郡全域にわたる368冊が現存する。初代土佐藩主山内一豊は慶長6(1601)年の土佐入国時、長宗我部氏の居城浦戸城に入城し、地検帳を接収。七郡の郡奉行がそれぞれ保管し、初期の土佐藩政に利用した。その後写本を作成し、原本は実務的な使用からは離れるが、近代まで土佐一国の基本台帳として大きな意義を持った(「文化遺産オンライン」より)。
領国すべての検地帳が残るのは珍しいようである。

国分川手前を右折し西進
南に進み、国分川の一筋手前に西に向かう農道がある。分岐点には「四国のみち」の指導標とともに、「30番札所 善楽寺 6.4km」との歩き遍路案内もある。遍路道はここを右折、道なりに左折、そして右折し、その後は農道を一直線に西進する。前面には岡豊城のあった岡豊山(おこう)が見える。
国分川を水管橋が渡っていた。



岡豊城跡
Wikipediaには「岡豊城(おこうじょう)は、高知県南国市にある中世の日本の城(山城)跡。戦国時代に四国の覇者となった長宗我部氏の居城であった。城跡は国の史跡に指定されている。
概要
南国市街の北西部、香長平野(かちょうへいや)の北西端にあたる国道32号の西側の岡豊山(標高97メートル)に位置する。戦国時代末期に廃城となり、現在は石垣、曲輪、土塁、空堀、井戸などが残り高知県指定史跡を経て国の史跡として整備されている。また、城址の一角には高知県立歴史民俗資料館がある。
城の縄張りは最高所に本丸に当たる詰(つめ)があり、東に詰下段、二の段、南から西に三の段、四の段、更に西側丘陵に伝厩跡曲輪が配された連郭式の山城である。また、城の北東部には岡豊八幡があった。
沿革
鎌倉時代初期に、信濃より土佐へ移住した長宗我部能俊が、土佐長宗我部氏の始まりであるといわれる。長岡郡宗部郷(現在の南国市岡豊町)に定住した当初は、ただの宗我部氏であったが、隣の香美郡にも別系ながら同じ名字の宗我部氏があったため、それぞれは郡名の一字を付け加え、長宗我部氏と香宗我部氏と名乗るようになった。この頃、長宗我部氏によって築かれたと思われる岡豊城は、調査の結果では13世紀~14世紀の築城年代と考えられている。
室町時代、応仁の乱後の永正4年(1507年)に管領・細川政元が暗殺された以降の細川氏本家では家督・管領職争いの抗争を続けるあまり、その直轄領である土佐でも支配力を低下させてしまう。それが長宗我部氏、本山氏、山田氏、吉良氏、安芸氏、大平氏、津野氏の「土佐七雄」と呼ばれる有力国人の台頭につながり、戦乱の時代の始まりとなった。
七雄の抗争は翌年の永正5年(1508年)に早くも表面化すると、本山氏、山田氏、吉良氏などの連合軍によって岡豊城は落城する。
従来の通説では、この岡豊城攻めの際に当主・長宗我部兼序は自刃、土佐南西部の中村の一条氏のもとに落ち延びていた兼序の子・国親は永正15年(1518年)、一条氏の取り成しで旧領に復し岡豊城に入ったことになっている。
それが近年の研究では、兼序は本山氏などに岡豊城を攻められた際に自害せず土佐国内に亡命しており、永正8年(1511年)に本山氏や山田氏と和睦して岡豊城主に復帰、永正15年頃に息子・国親へ家督を譲ったことが明らかとなっている。 岡豊城を足掛かりに国親は土佐の有力大名へと成長し、一条氏、本山氏、安芸氏とともに土佐を四分するまでになった。

国親の子・元親の時代に長宗我部氏は飛躍した。天正2年(1574年)主家であった一条兼定を豊後に追放し土佐を平定。この城を拠点に天正13年(1585年)には四国を統一した。しかし同年、羽柴秀吉の進攻により降伏し土佐一国に押し込められた。この後、天正16年(1588年)大高坂山城(現在の高知城)に本拠を移したが治水の悪さから再び岡豊を本拠とした。しかし、天正19年(1591年)浦戸城を改築して移った為、長宗我部氏累代の本拠・岡豊城は廃城となった。
昭和30年(1960年)2月15日、高知県史跡に指定された。昭和60年(1985年)より平成2年(1990年)にかけて、1~6次にわたる発掘調査が行われ史跡整備がなされた。平成20年(2008年)7月28日、国の史跡に指定された」とある。

岡豊城の東と南は国分川が流れ、往昔は三角州であり、氾濫低地帯として自然の要害とはなっていたのだろう。また近くに国丁があるように古くから開けた一帯であり、国分川の自然堤防の後背湿地では弥生時代から稲作が行われていたという。また国分川の東、現在は広大な扇状地となっている物部川流域もその昔、三角州が形成されそこでは古くから稲作が行われていたことだろう。 物部川を境に西は長曾我部氏、山田氏(香宗我部氏の後見)、本山氏、東は香宗我部、安芸氏などが覇を競い、国分川・物部川流域一帯の豊かな恵みをもたらす地を巡り攻防を繰り広げたのではないかと妄想する。

国道32号を潜る
農道を西進すると、道の左手に「四国のみち」の石標。その石標より県道に上る坂を逸れ県道を潜るアンダーバスを抜ける。





笠の川川に架かる下乃橋を渡る
国道のアンダーパスを越える国分川支流の笠ノ川川に架かる下乃橋を渡る。
笠ノ川川
笠ノ川川って、川名であるが、いつだったか土佐の片峠と四万十川源流点を辿ったとき(ⅠⅡ);上八川川とか、枝川川、小川川、北川川、四万川川など「川川」と重なる川名が気になりチェックしたことがある。とlこういったケースは特に高知に限ったものではなく、5万分の一の地図で見るだけでも全国に100ほどある、という(「地名を解く6;今井欣一」)。
その記事に拠れば、この場合の「小川」とか「北川」は、川の名前ではなく、地名とのこと。地名に偶々「川」があり、そこを流れる川故の「川」の重複と見えているようだ。
また、「小川」など「川」がつく地名も、もともとは「岡端・岡側」であった「端・側」に川の字をあてたものが多いとある。岡の端の崖下には「川」が流れているから、「川」をあてたのでは、と。
関係ないけど、ナイル川やガンジス川も、ナイルもガンジスも川の意であり、「川川」ではある。 笠ノ川川の流域をチェックすると上流に岡豊町笠ノ川と言う地名があった。

岡豊山裾の道に入る
笠ノ川川を渡った遍路道は西詰で左折、笠ノ川川の土手に沿って進む。ほどなく県道352号とクロス。笠ノ川川はこの地で国分川に合流する。
遍路道は国分川に架かる岡豊橋を左に見遣り、国分川の堤を進む。ほどなく道は堤を離れ、岡豊山裾を進む道へと右手に逸れる。


水路に沿って進む
山裾の道に入った遍路道は、集落を抜け山裾を流れる水路に沿って進む。国分川から引いた灌漑用水だろう。しばらく木立が日陰をつくる水路脇の道を進むと岡豊山裾の道を抜け、岡豊山西側、国分川に注ぐ支流にあたる。
支流に架かる橋を渡ると前面に高知大学岡豊キャンパス。遍路道は橋を渡ると左折し、国分川に沿って西進する。

高知市域に入り逢坂峠へと上る
西進し再び国分川に注ぐ山崎川に架かる蒲原(かもはら)橋を渡ると、国分川を離れ丘陵の裾を進む道に進む。道は岡豊町蒲原を進むが、直ぐ南は高知市域。
右手に延命寺を越えるあたりから、ゆるやかではあるが次第に逢坂峠への上りとなる。南の丘陵との間には宅地開発が進んでるようだ。
南国市と高知市の境となるふたつの丘陵の間を抜ける道を進み、途中遍路休憩所を見遣りながら道を上る。

逢坂峠への先で県道384号を逸れる
道を上り切るきると県道384号に合流。少し西に進むと道の左手は山肌が削られている。採石場のように思える。逢坂峠に着く。逢坂峠は高知市一宮となる。
逢坂峠を少し西に進むと道の左手に、左方向を指す「30 善楽寺まで0.8km」の比較的新しい標石がある。標石の辺りから高知市街が目に入る。
標石に従い、国道を左に逸れ、一宮墓地公園の西端を下る。
毘沙門院
大阪峠の北東、国道284号より山に入ったところに国分寺奥の院毘沙門堂がある。高さ30mほどの滝は空海が斎戒沐浴し観念修行したときに毘沙門天王が現れ、故に毘沙門尊像を刻みお堂に安置し29番札所の奥の院と定めたとの由緒が伝わる。

県道384号をクロスし善楽寺へ
丘陵を下り、一宮東町の民家の間を西進すると県道384号にあたる。県道を少し下ると「一宮東門」バス停。その傍、県道東側に「30 善楽寺 0.3km」と刻まれた新しい石標や善楽寺方向を示す木の標識。遍路道は標識に従い、古き趣を残す一宮集落の中を通る道に入る。



第三十番札所 善楽寺

集落の道を抜けると広い車道と社叢。車道は県道384号から続く車道参道になっている。社叢の中には土佐神社。車道を左に折れ少し進むと道の左手に善楽寺、右は土佐神社が鎮座する。
こじんまりとした善楽寺境内に入ると、境内北側に本堂、その左手に大師堂が建つ。境内南側には水子地蔵、その東に子安地蔵。子安地蔵堂の東には露座の地蔵尊。梅見地蔵と称される。
梅見地蔵
子安地蔵脇にある梅見地蔵の案内には、「文化十三年(1816)年に作られたもので、首から上の病気に利益のあると云い伝えられている。以前は大師堂 梅の木の下にあり、梅の花を仰ぎ見る姿であったことから梅見地蔵」と名付けられました」といった説明があった。

Wikipediaには「善楽寺(ぜんらくじ)は、高知県高知市にある寺院。宗派は真言宗豊山派 。百々山(どどさん)、東明院(とうみょういん)と号す。本尊は阿弥陀如来。
寺伝によれば、大同5年(810年)空海(弘法大師)が高鴨大明神(土佐国一宮で現在の土佐神社)の別当寺として、神宮寺とともに創建したといわれている。また、空海はこの辺りの森厳幽遠なる霊域を気に入り渓谷が百谷あれば入定の地に定めようと谷々を調べたが99谷で足りない1つを当寺を開くことにより1山補い、山号を百々山と名付けたと伝えられている。 応仁年間(1467 - 1469)に兵火で焼失したが、土佐藩2代藩主山内忠義の庇護を受けて栄えた。

『四国辺路日記(澄禅1653年巡拝)』には観音院と記されているが、万治元年(1658年)に長福寺と改名、そして『四国遍礼霊場記(寂本1689年刊)』には一宮本殿への参道の向かって右に長福寺、左に神宮寺が描かれていて、この時点での札所は「一宮百々山神宮寺」であり、本尊は阿弥陀如来、脇仏は観音と勢至であった。享保6年(1721年)徳川家重の幼名(長福丸)をはばかって善楽寺と名称が変更され、『四国遍礼名所図会(1800年刊)』によると神宮寺は衰退し、当寺は参道中ほどより入る中門を通じて立派な方丈と大きな護摩堂と大師堂を有す祈祷寺として隆盛した。
明治初期の神仏分離まで、筆頭別当寺の神宮寺では「高鴨大明神 本地阿弥陀如来 神宮寺」と、次席別当寺の観音院善楽寺(本尊十一面観音)では「正一位高賀茂神社 一之宮 善楽寺」と両方で30番の納経をしていたが、廃寺に際し、神宮寺を善楽寺に合併させ、続いて善楽寺を廃寺とするという措置がとられ、札所権と神宮寺の本尊であった阿弥陀如来坐像(重要文化財)と善楽寺の弘法大師像は南国市にある29番札所国分寺に移され国分寺で納経を代行するようになった。なお、護摩堂不動明王像の所在はそれ以降不明となっている。

両寺の廃寺により明治8年(1875年)当地より南西5.5kmの所に再興された安楽寺に、その阿弥陀如来像が移され30番札所となった。神宮寺は再興されず、善楽寺は昭和5年(1930年)に埼玉県与野町(現さいたま市中央区)にあった東明院をこの地に移転し、また国分寺に預けられていた弘法大師像を移し、本尊は有縁の江戸期作の阿弥陀如来坐像を迎えて30番札所東明院善楽寺として再興したが、30番札所が2箇所並立することになり、30番札所の正統性について善楽寺と安楽寺の間で論争が起こった。昭和39年(1964年)四国開創1150年を機に両寺代表が協議し、善楽寺を「開創霊場」、安楽寺を「本尊奉安霊場」と称することになるも混乱は続いたが、平成6年(1994年)1月1日、札所は善楽寺、安楽寺は奥の院とすることで最終決着した」とある。
神仏分離令の伴う札所騒動
善楽寺に限らず、神仏分離令施行に伴う札所騒動は遍路歩きの途次、時に目にする。記憶に残っているのは、伊予の横峰寺、清楽寺、妙雲寺の札所を巡る騒動、また、讃岐の68番札所神恵院と69番札所観音寺は神仏分離令がもとで、同一境内にふたつの札所が建っていた。

百谷伝説
この寺の山号である百々山(どどさん)の縁起にある、百にひとつ足りない故に云々、といった逸話も散歩の途次出合う。いつだったか小田急線の新百合丘辺りを歩いていたとき、弘法松に出合った。弘法大師が百谷あれば寺を建てようとしたが、九十九谷しかなかったのでお寺のかわりに松を植えたとあった。この弘法大師の百谷伝説は全国各地にあるようで、中には999と千にひとつ足りない故に云々、といった話もある。
百とか千にひとつ足りない故にということが何を意味するのか不詳。
安楽寺
土讃線高知駅の西、千年の昔、辺り一帯が海であった名残を残す洞ヶ島町に建つ寺院
。Wikipediaには「高知県高知市にある真言宗豊山派の仏教寺院。山号は妙色山(みょうしきざん)。 妙色山 金性院 安楽寺と号する。
伝承によれば、延喜年間(901年-923年)、菅原道真の長子である菅原高視が配流先の土佐国潮江で菅原道真逝去の知らせを受け、筑紫にある道真の菩提寺の安楽寺にちなんで、当地に安楽寺と潮江天満宮とを建立したという。寺は当初の潮江から升形を経て久万に移転した(潮江、升形、久万はいずれも現・高知市内)。(中略)その後、12坊を有する大寺院となったが応仁の乱(1467年-1477年)の兵火を受けて焼失し衰退。(中略)明治時代初頭の廃仏毀釈の影響でついに廃寺となったが、明治8年(1875年)に、長宗我部氏の菩提寺であった旧瑞応院跡に再興された」とある。


土佐神社

善楽寺を離れお隣の土佐神社にお参り。善楽寺傍から南に長い参道が延びる。参道北側直ぐにある大きな木製鳥居を潜り境内に。
入蜻蛉(いりとんぼ)様式の土佐神社)(「土佐神社」HPより引用)

正面に社殿。本殿の前に幣殿、その前に拝殿。幣殿の左右に翼拝殿。本殿は入母屋造、その他は切妻造り。屋根は?葺き。優美で勇壮、幣殿の静と翼殿の動と、誠に美しい。多くの社殿を見てきたが、この社は、いい。
この社殿の造りを「入蜻蛉(いりとんぼ)」形式と称するようだ。本殿を頭としたトンボ(蜻蛉)が飛び込む形を表すといわれ、元亀元年(1570) 長曾我部元親の凱旋帰陣を象徴する、土佐神社独特なものである。これらの社殿全体が国の重要文化財に指定されている。
御神木・礫石
社殿を囲む社叢、社殿をぐるりと一周しながらそこに建つ巨大な御神木をお参りするのもまた、いい。
御神木を眺めながら社殿を一周していると畳二畳ほどの自然石があり、「礫岩」との案内。「礫石の謂れ 境内東北方にある畳二畳ほどの自然石。「礫石の謂れ」の案内には「古伝に土佐大神の土佐に移り給し時、御船を先づ高岡郡浦の内に寄せ給ひ宮を建て加茂の大神として崇奉る。或時神体顕はさせ給ひ、此所は神慮に叶はすとて石を取りて投げさせ給ひ此の石の落止る所に宮を建てよと有りしが十四里を距てたる此の地に落止れりと。
是即ちその石で所謂この社地を決定せしめた大切な石で古来之をつぶて石と称す。浦の内と当神社との関係斯の如くで往時御神幸の行はれた所以である。
この地は蛇紋岩の地層なるにこのつぶて石は珪石で全然その性質を異にしており学界では此の石を転石と称し学問上特殊の資料とされている。 昭和四十九年八月 宮司」とあった。

高岡郡浦の内は現在の須崎市内の浦。そこに鳴無神社がある、古代「しなね祭り」という土佐神社の重要な神事が海路、この鳴無神社へ神輿渡御されていたようだ。土佐神社を別名「しなね様」と称するわけだから、重要な神事ではあったのだろう。岩を投げたかとうかは別にして、土佐大神が祭神であった頃、高岡郡浦の内となんらか深い関係があったのだろう。古くはこの礫石を磐座として祭祀が行われたとする説がある。
しなね様の語源
しなねの語源は諸説あり、七月は台風吹き荒ぶことから風の神志那都比古から発したという説、新稲がつづまったという説、さらに当社祭神と関係する鍛冶と風の関連からとする説等がある(土佐神社の解説より)。
禊岩(みそぎいわ)
境内東方の神苑に禊岩(みそぎいわ)と称される岩があるようだ。かつて禊の斎場であった境内西方のしなね川にあったが、境内に移し祀られている、とある。

Wikipediaには、「土佐神社(とさじんじゃ)は、高知県高知市一宮(いっく)しなねにある神社。式内社(大社)、土佐国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。
高知市北東部、南国市へと通じる大坂越えの西麓に鎮座する。『日本書紀』や『土佐国風土記』(逸文)の記述で知られるように古代から祀られた古社で、中世・近世には土佐国の総鎮守として崇敬された高知県を代表する神社である。
代々の領主は土佐神社に対して崇敬が篤く、現在の主要社殿は戦国大名の長宗我部元親による造営、楼門(神光門)・鼓楼は土佐藩第2代藩主の山内忠義による造営で、いずれも国の重要文化財に指定されている。また祭事としては土佐三大祭の1つとして知られる例祭「志那禰祭(しなねまつり)」が古代から続き、神宝としては鰐口・能面・銅鏡等を伝世している。
祭神は。味鋤高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)と一言主神(ひとことぬしのかみ)。土佐神社の祭神は、古くは『日本書紀』に、「土左大神」とする。地方神としては珍しく「大神」の称号を付して記載されるが、この土左大神の祭祀には、在地豪族である三輪氏同族の都佐国造(土佐国造)があたったと考えられている。
その後、710年代から720年代の成立になる『土佐国風土記』の逸文(他書に引用された断片文)には「土左の郡。郡家の西のかた去(ゆ)くこと四里に土左の高賀茂の大社(おほやしろ)あり。その神の名(みな)を一言主の尊(みこと)とせり。その祖(みおや)は詳かにあらず。一説(あるつたへ)に曰はく、大穴六道の尊(おほあなむちのみこと)の子、味鋤高彦根の尊なりといふ」と神名が変わっている。

奈良県御所市に高鴨神社、葛城一言主神社がある、この社の祭神は共に味鋤高彦根神、一言主神。 大和葛城地方(現・奈良県御所市周辺)で賀茂氏が奉斎した神々とされる。
神名が変わった要因は、大和葛城地方の豪族である賀茂氏が土佐に勢力を及ぼし、都佐国造の祀る土左大神に賀茂氏祖先神の神格を加えたことにあると言う。

『古事記』や『日本書記』には、雄略天皇が葛城山で一言主と問答をした、といった記述があるようだ。が、『続日本紀』天平宝字8年(764年)条では、大和葛城山で雄略天皇(第21代)と出会った「高鴨神」が、天皇と猟を争ったがために土佐に流された、といった記述と変わる、また『釈日本紀』(鎌倉時代末期成立)には、葛城山で「一言主神」が雄略天皇と出会ったとし、一言主は土佐に流されて「土佐高賀茂大社」に祀られた、となっている。
賀茂氏祖先神の神格を加えるべく、、土左大神の鎮座譚に雄略天皇の葛城説話を組み込んだとされる。
これらの記述以後土佐神社祭神に関しては、賀茂氏祖先神である一言主説、味鋤高彦根説、一言主・味鋤高彦根同一視説などとなっているようである。
史実として国史に土佐神社の記載が見えるのは『日本書紀』天武天皇4年(675年)条が初見で、「土左大神」から天皇に神刀1口が献上されたという。これはレガリア(首長の政治的権力の象徴品)の献上、すなわち土左大神奉斎氏族の朝廷への服属を意味すると解されている。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では土佐国土佐郡に「都佐坐神社 大」と記載され、式内大社に列している。土佐国においては唯一の大社になる。
『百錬抄』元仁元年(1224年)条によると、大風(台風)によって「土佐国一宮」の神殿以下が一宇も残さずに顛倒したという(社伝では嘉暦元年(1326年)[。再建は不明)[1。中世以降に土佐神社は土佐国において一宮の地位にあったとされるが、それはこの記事を初見とする。元親は現在の本殿・幣殿・拝殿を、忠義(土佐藩第2代藩主)は現在の鼓楼・楼門を造営。
戦国時代には、永正6年(1509年)頃(諸説あり)の本山氏による岡豊城(長宗我部氏居城)侵攻で一宮村が焼かれ、土佐神社社殿も延焼により本殿以外ほとんどを焼失したという。これを受けて長宗我部元親は永禄10年(1567年)から社殿再建に着手し、元亀2年(1571年)に現在の本殿・幣殿・拝殿(いずれも国の重要文化財)が完成した。その再建工事の諸役には、高知平野の家臣が上下問わず課されている。また『長宗我部地検帳』によると、この頃の社領は一宮村を始めとして薊野・杓田・布師田・鴨部・石立・万々・朝倉・大高坂の各村に分布した。
江戸時代に土佐藩を治めた山内氏も土佐神社を崇敬し、第2代藩主山内忠義によって寛永8年(1631年)に楼門が、慶安2年(1649年)に鼓楼が造営されて現在に残っている(いずれも国の重要文化財)。

鼓楼
鼓楼 (重要文化財)-。拝殿南東に立つ。江戸時代前期の慶安2年(1649年)、土佐藩第2代藩主山内忠義による造営。二重で、屋根は入母屋造で柿葺。初層は「袴腰」と呼ばれる形式で、黒色の板を張り、中央に出入り口を設ける。上層は桁行三間・梁間二間で、彫刻・柱が彩色で彩られており、内部には時を知らせるための太鼓を吊るす。国の重要文化財に指定されている(Wikipedia)。


楼門(重要文化財)
参道を南に下り、県道384号との合流点に建つ。
楼門 - 境内入り口に立つ。「神光門」とも称され、江戸時代前期の寛永8年(1631年)、鼓楼同様に山内忠義による造営である。桁行三間、梁間二間の楼門(2階建て門で、初層・上層間に軒の出を造らないものをいう)で、屋根は入母屋造で銅板葺。初層は三間一戸(柱間三間で、中央の一間を通路とする意)で、左右間に随身を祀る。上層は初層に比して建ちが低く、勾欄を付した廻縁がめぐらされている。全体的に素木で、ほとんど装飾を付さない和様建築になる。国の重要文化財に指定されている。

本日のメモはこれでお終い。次回は第三十一番札所竹林寺へと向かう。
神峯寺から次の第二十八番札所大日寺へ向かう。遍路道は神峯寺の建つ安芸郡安田町の山麓より神峯寺道を折り返し、麓の神峯神社の鳥居が建つ地点まで戻る。大日寺への遍路道はそこから海岸線を西に向かい、安芸市域を抜け、飛び地のように残る安芸郡芸西村を歩き手結坂越えの取り付き口に向かう。
手結坂越えは安芸郡芸西村と香南市の境。手結越えを下った遍路道は香南市の海岸線を西に進み、赤岡の町から道を北西に変え野市の大日寺へ向かう。
神峯寺から山裾へと下った後は、ほぼフラットな道であり、唯一の山越えといった手結越えも時間は40分強ほど歩くが、比高差は20mから30mといったもので、どうということはないだろう。とはいえ距離は38キロほど。ちょっと長い。



本日のルート;第二十宇七番札所神峯寺から山裾へ下る>神峯神社の石の鳥居>龍円尼の記念碑>安田明神の標石>大山岬>浜千鳥公園>波切不動>伊尾木洞>寅さん地蔵>安芸市街>八流(やながれ)>安芸市から安芸郡芸西村へ>山頭火歌碑>手結(てい)坂越>旧路入口>土径へ>旧国道に出る>琴風亭跡>再び旧国道に出る>国道55号に合流>安芸郡芸西村から香南市域に>江見の馬車立場跡>絵金蔵と弁天座>赤岡橋の船着場跡>一本松と標石>野市の標石>大谷の標石>旧遍路道に標石>参道に標石>第二十八番札所 大日寺

神峯寺から山裾へ下る
神峰寺から大日寺への遍路道は、一旦山麓より神峯寺道を折り返し、麓の神峯神社の鳥居が建つ地点まで戻る。途次のメモは先回の散歩で既に記した。参考のためルート図とポイントのみを記す。





神峯神社の石の鳥居
神峯道を折り返し、土佐くろしお鉄道の高架傍の神峯神社の鳥居前に戻る。鳥居前に並ぶ標石を見遣り鳥居前を西に向かう。
くろしお鉄道高架脇の案内板
神峯神社の鳥居前は広場となっており、からそのまま西へと進めるのだが、一応道筋に従いくろしお鉄道高架を潜り西へと向かう道に載ると、高架下にふたつの案内板。
高知県蔬菜園芸発祥の地「唐ノ浜」
「詩人 野口雨情の民謡に「促成栽培 安田が本場 遠く関東、満州まで。とあるように、蔬菜園芸は郷土の誇る特産物として、古くから園芸安田の名は全国に響いた。その陰には郷土先輩の苦痛の歴史が秘められている。
大正二年(一九一三年) 郡役所の指導を得て主に「お多福豆」の栽培を始めたが販売方法 で失敗し、同七年には唐浜園芸組合が販売を引き受けるとともに「絹莢豌豆(きぬさやえんどう)」の栽培をも始め、高知市の市場に出荷した。これが高知県蔬菜園芸の始まりである。 大正十一年(一九二二年)には高知県園芸組合連合会が組織され生産から流通までの基礎 が作られ、現在に至っている」
よさこい秘話
「土佐の高知のはりまや橋で坊さん かんざし買うをみた
ヨサコイヨサコイ
よさこい節に登場する坊さんかんざし騒動の主人公お馬さんが、ここ安田、東谷の旅籠「坂本屋」で働いていた。幕末の土佐に、恋の自由を求めて奔放した 「よさこい、かんざし騒動」は、維新の志士達より早く自由精神を実践した。
由来
五台山、竹林寺の学僧、百余名を預る指導僧の純信と五台山麓、鋳掛屋の娘、お馬との恋の「かけおち」のため純信がお馬に花かんざしを買い求めたもので、安政元年(一八五四)の大地震の直後の翌二年、五月十九日の夕刻、純信、お馬と土佐山田出身の道先案内として安右衛門の三人で、物部村から国抜けし、讃岐の金比羅、百段目の旅籠「高知屋」で捕えられ、高知の山田町奉行所で取調べられた。
この時の奉行は、ここ安田に生まれ育った儒学者、岡本寧浦の門下生である松岡毅軒であった。 この取調べの際、松岡奉行が「なぜ年が二〇も違う親の様な人と好きで逃げたのか」との問いに、お馬は平然として「好きになったら、年の差などどうでもよい。」と答えたと毅軒は後世に書き残している。
やがて裁きが終り、お馬は安芸川以東へ追放、この安田・東谷の神峯登り口、旅籠「坂本屋」で奉公をする身になった。
一方、純信は仁淀川以西へ追放となったが、自らの意志で国外追放を願い、伊予国、川之江の 塩屋の三軒屋炒娚石の亀吉の世話により、学問一筋の家柄、井川家の私塾の教授となって、子弟の教育に専念する。
一方、お馬は、ここ坂本屋で奉公中、突然、追放先の変更を受けた。理由は、純信がお馬を連れもどしに来たとのことであった。
事実不明のままお馬は、今度は高岡郡、須崎池ノ内の百姓に、預けられ、のちに土地の大工と 世帯を持ち、二男二女をもうけた。
当時の坂本屋
安田の神峯は、よさこい節の一節にも登場している。
思うてかなわにや 願かけなはれ 流行る安田の神峯」
当時、安田の神峯は「流行る安田の神峯」と歌われたように、近郷近在の信仰と遊びの中心であった。神峯寺の前札所の発心庵(現在廃寺)がここ東谷集落の岡にあり参拝客相手の大きな料亭旅館がひしめき、繁華な場所であった。美人のお馬は大人気であっただろうと、想像される。
その後の「お馬」
お馬の子供達もそれぞれ成長し、明治一八年(一八八五)お馬夫婦は、長男の住む東京小石川に引越し、更に明治二一年(一八八八)に「二男の家で余生を送り、お馬は煙草屋の店先で店番をしていたという。東京都北区豊島で明治六年(一九〇三)六五歳で病没し、北区の西福寺で出かに眠っている。(お馬さんの眠る西福寺の写真)」

「土佐の高知のはりまや橋で坊さん かんざし買うをみた」のフレーズはペギー葉山さんの歌でよく知られた(我々団塊の世代には?)歌だが、その物語はこの案内ではじめて知った。フィクションかと思ってたのだが、実際の話であった。

龍円尼の記念碑
道に従い少し西に進み鉄道の高架を潜り山裾の道に向かう。遍路道が山裾を西に向かう角に石造物がある。
大きな石碑には「龍円尼記念碑」と刻まれる。神峯寺山門でメモした神峯寺再建に尽力した尼僧。山門を寄進したとあった。
石碑脇に標石。摩耗が激しくも文字は読めないが「従是神峰寺へ三拾丁」と刻まれているとのことである。



安田明神の標石
山裾の道を進み国道55号への合流点手前に安田明神。その鳥居下に標石。「左 神峯道 是ヨリ本堂迄三十*」といった文字が刻まれる。
安田明神から国道55号に出るとすぐ、安芸郡安田町から安芸市域に入る。
安田
平安時代の和名抄に安芸郡安田郷と記録。良田のあ る土地は全国に。"痩せ田"の逆の説も(『土佐地名往来』より)

大山岬
国55号を西に進み、くろしお鉄道下山駅を越えると遍路道は大山トンネルに入る国道を逸れ海岸線を走る旧道に入る。その突端が大山岬。岩礁部が広がる。
国土地理院の地質図を見ると、海生層 砂岩泥岩互層の堆積が海岸線まで突き出る。海岸部近くには大きくはないが海岸段丘の段丘堆積岩も見られる。海岸部に突き出した砂岩泥岩互層岩が海食により形成された奇岩が眼前に広がる。

浜千鳥公園
岬を抜けるとすぐ、道の左手に「浜千鳥公園」。四阿の傍に歌碑。「弘田龍太郎は明十五年安芸市土居に生る父正郎は高知中(現追手前高)校長でのち第九代県会議長で母総野は土佐一絃琴の名手であった、
龍太郎は年東京音楽学校(現東京芸大)ピアノ科及び作曲科に学び大正三年母校の助手助教授となり昭和三年ドイツ留学後放後教授となる
大正六年宮城道雄らの新日本音楽運動に参加、琴三味線を主体とした当時の日本舞踊に洋風の伴奏を組み入れ新分野を開拓す。
更に北原白秋らと童謡運動をおこしつぎつぎの名曲を生み大正から昭和にかけての童謡界一時代を画した。
その作品集をのぞいてみよう 。「叱られて」「靴が鳴る」「雀の学校」「お山のお猿」「春よ来い」「金魚の昼寝」「千曲川旅情のうた」等実に千数百曲、更に全国の数多くの民謡を握りおこし「木曽節」や「よさこい節」も採譜した。
彼の曲は島崎藤村、北原白秋、葛原しげる、野口雨情らの美しい詩と相まって日本全国に歌いづがれ語りつがれ永造に消えることはない 昭和三十六年没 六十才」とある。 公園から岩礁部の眺めが、いい。

波切不動
国道を少し進むと国道が上下二分され、その真ん中に大樹が立つ。その国道山裾にお堂がある。波切不動である。大樹は「なぎの木」であり、神木とされる。国道整備の折にも神木故に関係者の尽力によりこの一画だけが残された、と言う。
神木の由来は;漁師が沖で難破。波間に見付けた木にしがみ着き、彼ひとり無事に助かる。その木は漁師が普段信仰していた波切不動の「なぎの木」であったとのこと。
波切不動
不動明王はインド,中国には遺品が少ないが,日本では空海が密教の経典と共に日本に伝えて以来、密教の盛行とともに,種々の異形をも生じながら尊像が数多く作られた。大日如来の命を受け種々の煩悩を焼き尽くし,悪魔を降伏し,行者を擁護して菩提を得させる明王として信仰された。代表的な尊像として三不動(黄不動,赤不動,青不動)のほかに,弘法大師(空海)の持仏と伝えられる教王護国寺(東寺)西院御影堂安置の秘仏などがあるが,波切不動は弘法大師が唐からの帰路顕現したお不動さんとされる。
唐からの帰途、遣唐船が嵐に襲われた時、「空海」は自分が彫った「不動明王」を掲げて「不動真言」を唱えると、大波が剣で切り分けられたように別れ、無事に日本までたどり着くことができた、と。この霊験故に「空海」の彫った「不動明王」を「波切不動明王」とされ、高野山の「南院」に本尊として祀られているとのことである。全国各地の波切不動はこの南院よりの分祀ということだろか。

伊尾木洞
少し国道を進むと右に逸れる旧道。遍路道は旧道に入る。ほどなく、道の右手に「伊尾木洞のシダ群落」と地図にある。
旧道から少し北に入り伊尾木の洞に。道を進むとすぐ洞窟。高さ5m、幅は3m、長さは40mほどだろうか。洞窟を出ると崖にシダが茂る。
Wikipediaには「約300万年前に海の中で堆積した地層が隆起して、水成岩が渓谷からの水で浸食されてできた天然の洞窟である。年間を通して約20度の温度に保たれている。
洞窟を通り抜けると崖に囲まれ、シダ群落による神秘的な光景が見られる。
1926年10月20日、日本列島の温暖な地帯に広く分布するシダが1か所に生息していることは珍しいため、国の天然記念物に指定された。
洞窟の温度、湿度、明るさ、岩石の多い地形等がシダの生育条件に適しているため、約40種類もの多くのシダが共生している」とある。
水成岩
水成岩?火成岩はよく聞くけど水成岩はあまりなじみがない。 Wikipediaには「堆積岩(たいせきがん、英: sedimentary rock)は、既存の岩石が風化・侵食されてできた礫・砂・泥、また火山灰や生物遺骸などの粒(堆積物)が、海底・湖底などの水底または地表に堆積し、続成作用を受けてできた岩石。
かつては、火成岩に対し、水成岩(すいせいがん、英: aqueous rock)とよばれていたこともある。地球の陸の多くを覆い、地層をなすのが普通である。堆積岩のことであった。
伊尾木
由来は不明であるが、「イオ、イヨは魚の転訛したものであることが推察されるため、魚を獲るためのある種の仕掛けに適したところの意味ではないか」との記事があった(「土佐風物考」(桂井和雄))。

寅さん地蔵
伊尾木の洞から遍路道に戻り西に向かうと、ほどなく道の左手に石像が立つ。「寅さん地蔵」とのこと。『男はつらいよ』の寅さんの像が刻まれる。寅さんシリーズではじめてロケ地と決まった当地ではあるが、主演の渥美清さんがむなしくなったため撮影は中止。地元の方が菩提を弔い地蔵尊を建てたとのことである。


安芸市街

旧道は伊尾木川手前で国道55号に合流。その先、安芸川に架かる安芸大橋を渡ると遍路道は国道から逸れ市街地へと直進する。
右手に妙山寺を見遣ると、その先の大きな南北の道の交差点を左折、本町商店街筋まで南下し右折、西進し国道55号に再び合流する。
安芸
安芸氏は、壬申の乱(672年)で土佐へ追放になった蘇我赤兄の子孫として伝えられ、在地豪族として郡司から荘官、地頭となって安芸庄を支配し、繁栄の基礎をつくった。 延慶元年(1308)安芸親氏により安芸城(市街北の土居小学校裏に城山が残る)が築城され、この城を拠点に安芸郡の西半分と香美郡の一部を領し、土佐七豪族のひとりとして土佐の東部に覇を唱えた。
戦国時代に入ると土佐統一を進めていた長宗我部元親と対立し、激しい抗争を繰り返す。永禄12年(1569)7月には、7200人の長曾我部勢に対し、5300の安芸勢は海に面した自然の要害の地である八流(安芸市)で対峙するも、長曾我部勢の奇策で撤退し城に籠城。が、味方の内通により城を明け渡し当主は自刃した。
安芸氏を滅ぼした長宗我部氏は、「安芸」を「安喜」と改め、明治になるまで「安喜」が使わた。
安芸郡
安芸郡は現在室戸岬東岸の東洋町、西岸の奈半利町、田野町、安田町、北川村、馬路村、芸西村からなるが、明治期には現在の室戸市、安田町の西の安芸市を含めた地域が安芸郡であったが、その中から室戸市、安芸市が誕生し現在の安芸郡域となった。安芸市の西に芸西村が飛び地のように安芸郡として残る。

八流(やながれ
安芸市の市街を離れ海岸線に沿って西進する。くろしお鉄道の穴内駅を過ぎると「八流(やながれ)」に。岬の突端部への坂を上り切ったところ、往昔の峠辺り、国道左側にレストランがあり、その駐車場に「矢流古戦場跡 昭和四十八年」などと刻まれた石碑が立ち、その脇には新しい歌碑が立つ。歌碑には「矢流の古戦場なる碑に倚りて ここに敗れしみ祖を思う」とあり、黒崎越前守の末裔の手によるもの。
安芸市街で簡単にメモしたが、この地で土佐統一を図る長曾我部勢と安芸国虎勢が対峙。八流崩れ(やながれくずれ)と称されるほどの大敗を喫した安芸勢は退却し、城に籠城するも嫡子を阿波に、妻を里方の一条家に戻した後、国虎は自刃した。 ●八流
八流と矢流の地名由来。集落に八つの谷があった地形説、大雨で千束の矢を流した合戦説(『土佐地名往来』より)
極楽寺
「矢流古戦場跡」より海側に大正の頃開かれた極楽寺がある。往昔、弘法大師が修行した千丈岩の霊地に建つ。

安芸市から安芸郡芸西村へ

八流の峠を下り、途中国道を逸れて旧道に入り、直ぐ先で国道をクロスした遍路道はくろしお鉄道赤野駅の手前で国道合流する。国道を西に進むと安芸市から未だ安芸郡として残る芸西村に入る。
赤野
赤色珪岩礫の鮮紅色の地質によって命名された地 名。まさに赤く染まった原野「赤野」(『土佐地名往来』より)

山頭火歌碑
芸西村に入るとすぐ「和食(わじき)」駅。既述『土佐地名往来』には「和名類聚抄にも和食とある古名。葦の茂った沼地 「あしき」の転訛か、アシキ地名は全国に残る」といった地名由来があった。 和食駅を越え旧路を西進すると、道の左手に山頭火の歌碑が立つ。「高知に日に日に 近うなる 松原つづく 山頭火」と自由律俳句が刻まれ、台座には「山頭火遍路日誌抄 昭和十四年十一月九日
和食松原 恵比寿屋
七時前出発 橋を二つ渡るとすぐ安芸町 雨中を三里余り歩いて和食村松原の中のゑびすやにおちつく  ほんによい宿であった。きれいでしんせつでしずかでそしてまじめで 名勝和食の松原    名産和食笠 夕方はだしで五丁も十丁も出かけて 一杯ひっかけて 何んといふ うまさ ずぶぬれになった御苦労々々々
七時出立 松原がよろしい お弁当のおもいのも うれしかった 平成五年秋芸西文化推進協議会建立」とあった。
山頭火
自由律の俳句で知られる旅に生きた歌人。山頭火は2度四国遍路の旅に出ているが、この句は2度目のもの。昭和14年(1939)10月5日に松山を出て遍路するも、旅は11月16日に「行乞は辛い」と中断。松山に戻り松山在住の句人高橋一洵の奔走でみつけた「一草庵」を終の住処とした。「落ち着いて死ねさうな草枯れる」は一草庵で詠んだもの。 「うしろすがたのしぐれてゆくか」「分け入っても分け入っても青い山」「まっすぐな道でさみしい」などの句が、なんだか刺さる。
名勝 琴ヶ浜
既述『土佐地名往来』には、「文献では「和食浜松」。松風を琴の音に擬して命名。藩は八流から手結まで三万本の松を留林として保護した」とある。


●手結(てい)坂越●


山頭火の歌碑の先で国道に合流。西進し夜須町手結山に至る。現在国道は手結峠に突き出た丘陵をトンネルで抜けるが、旧遍路道は手結坂越えの旧路に入る。



旧路入口
手結越え遍路道のアプローチ地点は、峠近く、国道左側に建つ大きなリゾートホテルが目安。そのホテル対面の法面東端に細い坂道がある。そこが手結坂越え道の入り口。
舗装された坂を少し上ると道の左手に石碑。「琴風亭と江藤新平 この上」とあり、「佐賀の乱(1814)に敗れ土佐に潜入した江藤新平が耕地から脱出の途中琴風亭に立ち寄った」と刻まれる。 室戸東岸の甲浦には江藤新平が捕縛された地を示す石碑があった。
手結
「てい」と読む。「出っぱっている所"出居"を清音で呼んだとの説がある。海に出っぱっている、ということだろう。また、沖から見た岬の形が「手を結んだようにみえる」から、との記事もあった。
江藤新平
甲浦小学校の対面の平和塔敷地内に大きな石碑が立つ。傍の案内には「江藤新平・甲浦遭厄の碑。「明治5年司法郷や参議に就任。明治6年政変後に参議を辞し野に下る。明治7年、板垣退助・後藤象二郎らと民撰議院設立運動を起こす。これが後に自由民権運動となる。新平は、日本の近代的政治制度づくりに参画し、司法制度の確立、民権的法律の整備に貢献した。娼妓制度廃止など国民の基本的人権の礎を築いた。
佐賀の乱(明治7年)により政敵とみなされ、高知県に入り逃避行を続けたが、明治7年3月29日ここ甲浦の地で捕縛された。大正6年、「江藤新平君遭厄之地」石碑が甲浦青年団により建立されている」と記される。
明治政府に対する不平士族の乱に与し逆賊となった江藤新平であるが、大正5年(1916)には西郷隆盛らとともに名誉が回復され、正四位が贈位されている。記念碑建立はその状況を踏まえてのものだろう。江藤新平のあれこれは司馬遼太郎さんの『歳月』に詳しい。

土径へ
坂道を上り切ったところは平坦な地となる。が、周囲はブッシュで覆われ道は見えない。なんとなく道筋らしきブッシュを掻き分け進むとその先鬱蒼とした木々に覆われた土径があった。 道なりに進むと民家が現れる。民家の先は再び土径。ほどなく舗装道に出る。道脇には「琴風亭跡南へ二百メートル」とある。

旧国道に出る
道なりに進むと広い車道に出る。旧国道の道筋のようだ。旧国道の反対側に「茶屋跡 この上」と刻まれた石碑があり、その先に坂道が見える。旧道を交差し坂を上る。



琴風亭跡
舗装された民家脇の坂道を道なりに進むと生垣の前に石碑。「琴風亭跡」とあった。「琴風亭跡」から先は再び土径となる。途中「お茶屋跡」の石碑も立つ。
お茶屋跡
幕府巡検使接待のため建てられ、のち藩主の参勤交代や遠出の際の休憩所となった、とのこと。

再び旧国道に出る
道なりに進むと再び舗装された道に出る。旧国道だ。地図でチェックすると、旧国道は峠へと向かい、二つに分かれる、ひとつは先ほど出合った山側を抜ける道筋。もうひとつは海側を廻り手結岬から東進していた。






国道55号に合流
旧国道を道なりに進むと帝王地蔵菩薩の祠。この辺りから手結の港が見えてくる。道を下ると旧国道は手結港を越えた辺りで国道55号と合流する。




花取歩道トンネル
現国道55号を抜けるトンネルの山側に花取歩道トンネルがあった。現在の国道55号を抜ける手結山トンネルは歩道もないようで危険であり、旧手結山隧道を歩行者・自転車専用トンネルとしたようである。
花取歩道トンネルの手前には険路であった手結坂の峠の茶屋で売られていた「手結餅」を売る 和菓子店があった。
手結港
藩政時代野中兼山が開いた港。高知と室戸の中間にあり、漁港と共に風待ち港・避難港であったようである。

安芸郡芸西村から香南市域に

手結坂の峠を境に芸西村を離れ香南市域に入る。夜須町とある。地名に惹かれチェックするも、はっきりしない。鎌倉期に夜須市が領した夜須荘がこの辺りとのことだが、その由来は記されていない。
国道を西進すると右手、海岸に丘陵が迫る。月見山と呼ばれるこの山は土御門上皇ゆかりの地とされる。
承久の乱に敗れた父である後鳥羽上皇は隠岐に、兄の順徳上皇は佐渡に配流。討幕計画に加わることなく挙兵を諫めたといったスタンづであった土御門上皇も自ら配流を申し出、土佐に。行在所ははっきりしないが、後に阿波の守護である小笠原氏に迎えられ阿波に移る途次、この月見山にて、「かがみのや たがいつはりの 名のみして こふるみやこの かげもうつらず(鏡野や たが偽りのなのみして 恋うる都の影も うつさず)」。「鏡野」と称する所で月を仰ぎ海を眺めて、都を偲ばれた歌ではあろう。「かがみ」は今の香南市香我美町の由来のとのことである。
香南市
2006年(平成18年)3月1日 ? 香美郡赤岡町・香我美町、野市町、夜須町、吉川村が対等合併して誕生。市名の由来は市域が旧香美郡南部を占めていることによる(Wikipedia)。

香曽我部氏
往昔、香美(こうみ、かがみ)郡宗我郷を中心に覇をとなえた一族に香曾我部氏がいた。甲斐源氏武田氏の一族一条次郎忠頼に発する清和源氏の流れであるが、源平争乱記に活躍し、それゆえ頼朝に疎まれ一族は滅ぼされる。
香宗我部氏の祖は一条家当主の遺児。一条家の家臣であった中臣(中原)秋家が一命を助けられ頼朝に仕え、建久四年(1193)、香美郡宗我部・深淵両郷の地頭職に補任され、土佐へ入部した。
貞応二年(1223)、秋家は主の遺児でありみずからが後見する一条秋通に香美郡宗我部・深淵両郷の地頭職を譲り、秋通は香美郡宗我部・深淵両郷の地頭職となり、子孫は土佐の有力国人に成長していくことになる。
香宗我部と名乗るきっかけは、秋家・秋通が土佐に下向したころ、秦能俊が長岡郡宗我部郷に入部した。香美郡宗我部郷、長岡郡宗我部郷にはいった両氏はそれぞれ宗我部を名字としたが、のちに、区別するため郡名を冠して香宗我部、長宗我部を名乗るようになったとのことである。 香宗我部氏は後に長曾我部一門に下った。

江見の馬車立場跡
月見山越えると遍路道は国道から離れ、月見山を廻り込むように国道の一筋北の道筋に入る。香我美町岸本の道を西進し香宗川に架かる明神橋を渡ると赤岡の町に入る。
少し進むと道の右手に馬車立場跡の案内。「江見町の馬車立場跡と馬車会社 明治から大正にかけて、和食行の馬車の発着所がこの地にあり、一日三往復であった。
この発着書から道を挟んで、南側に馬車会社があった」とあった。
この辺りは香南市赤岡町。そこに江見町?チェックすると香南市赤岡町江見町とあった。町がダブルで続く地名って他にあるのだろうか。また、どういった経緯でそうなった?チェックしてもわからなかった。

絵金蔵と弁天座

道を少し西に進むと、道の右手、少し狭い道を北に入ると絵金蔵とその前に弁天座がある。絵金は絵師金蔵の略。江戸末期。もとは土佐藩家老桐間家の御用を勤める狩野派の絵師であったが、贋作事件に巻き込まれ、城下追放となり野に下った絵金は叔母を頼りにこの赤岡の町に定住し、酒蔵をアトリエに芝居絵を描いた。

絵金(赤岡町資料より)
芝居は、江戸時代、庶民の身近な娯楽。絵金は二曲屏風の大画面に独特の芝居絵を描いた。絵金蔵には、町内に残された23枚の屏風絵が収蔵、保存されているとのことである。
絵金蔵の対面に趣のある芝居小屋。弁天小屋とある。「絵師・金蔵の芝居絵屏風の世界が「絵金歌舞伎」として演じられている。明治期に住民が建て(私注;大正の終わり赤岡の旦那衆が建てたとの記事もあった)1970年に閉館していたものを、文化活動拠点として2007年に復活。花道もあり、枡席や桟敷席などを構えた本格的な造りとなっている」との案内記事があった。

赤岡橋の船着場跡
少し西に進み、国道55号一筋手前の道を右折、北進すると赤岡大橋。橋の南詰に「赤岡大橋と船着場跡と横町 江戸時代、香宗川に架かる唯一の橋で、幅二軒、長さ十六間で欄干と手摺のついた木橋であった。
赤岡には港が無く、満潮を待って三十石船が香宗川を遡り、船着場に着いた。水深四尺であったという。
船着場周辺には茶屋が点在し、横町は栗皮石を敷いた坂道で、車馬は通れず、与楽寺三門を中心に栄えた門前町である」とあった。

横町は赤岡大橋の南側一帯。与楽寺は国道55号脇、香南市赤岡支所辺りにあったお寺さま。赤岡で最初のできた大きなお寺であり本陣として使われたと言う。

栗皮石
「横町は栗皮石を敷いた坂道で、車馬は通れず」とあるが、栗皮石ってどんな石?あれこれチェックすると蔵の石垣に残る、と。こんな栗のような尖がった石を大通りの真ん中に並べられていたようだ。馬車が通れるはずもなく、人も通りにくそうだ。ゆっくりと商店街を歩き商品を買ってもらおうとの心根であったようである。







一本松と標石
赤岡大橋を渡り北進するとY字路があり、分岐点に「一本松と遍路の腰掛石」の案内があり、「昔、宿場町入り口に遠くから望めるように松がそびえていて、それが地名になった。 松は「待つ」につながり、宿場のある意味を持つという。戦後は大きい松だったが、松喰虫の被害にあい、これは数代目の松である。
また、この松から道を挟んで大日寺への道標があり、横に腰掛石が置いてある」とある。道標には手印と共に、「へんろみち 大日寺江四十丁 香宗村六久保忠兵衛」と刻まれる。その裏にある平たい石が腰掛岩ということだろうか。
香宗村はかつての香美郡にあった村。現在の香南市野市町中ノ村・土居にあたる。

野市の標石
三差路を左に進んだ遍路道はその先で国道55号に合流。旧香郡赤岡を離れ旧香美郡野市に入る。しばらく国道北西に進み、高知東部自動車道香南ICを越えた先、国道55号が西へ方向を変えるところで遍路道は国道を逸れそのまま北西へ進む県道22号に入る。 烏川を渡ると道の右手、植え込みに隠れるように標石。手印と供に「右遍んろ路 是より大日寺二十丁」、側面に「天保十二年」といった文字が刻まれる。

大谷の標石
遍路道は次の四つ角で右折、この道は県道22号のまま。野市の中心部を北に進む。烏川の右岸から左岸に移り,鍾乳洞で知られる龍河洞への右折道をやり過ごし少し先に進むと大谷の集落、道右手の民家前に丁石。手印と供に「八丁」と刻まれる。
野市
『土佐地名往来』に、「野中兼山らの開発により"野原のなかに新しい市町 ができた。土佐の"三野地"の最初が野一、その 転訛野市」とある。
野中兼山が荒れ地であったのこの地を、香宗我部の遺臣を郷士にとりたて新田を開発。物部川から水を引き水路を流し700町もの新田を開いたとのことである。

旧遍路道に標石
八丁石からほどなく、県道22号を右に逸れる舗装道があり、歩き遍路道案内の木の標識や遍路タグが立つ。
道を進むと舗装も消え土径となるがほどなく集落に出る。そこに標石2基。1基は手印と共に「右へんろ道」と刻まれる。もうひとつは自然石の標石。線彫りの手印が刻まれるようだが横倒しになっており、手印は確認できなかった。

参道に標石
道を進むと参道石段にT字であたる。その合流点に標石。「右邊路道 これより国分寺** 寛政九」といった文字が刻まれている、と。
参道を進むと土産物屋の手前、右手に小さな自然石の標石があり、「左大日寺」と刻まれていた。






第二十八番札所 大日寺


土産物屋を越えると左手に石段があり、中程に山門があり、斜面にそのまま建てられている。 左側に鐘楼。
境内正面に南面した本堂。本堂前に伊藤萬蔵寄進の香台。本堂左には東面した大師堂。本堂右手は六角の地蔵堂が西面して建つ。
地蔵堂手前を東に150mほど歩くと奥の院。「爪彫り薬師」が祀られる。弘法大師が薬師如来を刻んだ楠の木が霊木として祀られていたが、明治の台風宇で倒れ、現在はお堂荷安置されると言う。 お堂の前には大師お加持水がパイプから湧き出ていた。




Wikipediaには、「大日寺(だいにちじ)は、高知県香南市にある真言宗智山派の寺院。法界山(ほうかいさん)、高照院(こうしょういん)と号す。本尊は金剛界大日如来。
寺伝によれば天平年間(729年 - 749年)に聖武天皇の勅願により、行基が大日如来像を刻んで堂宇を建立して開創したという。弘仁6年(815年)に空海が楠の大木に爪で薬師如来像を彫って荒廃していた本寺を復興したとされる。
慶長年間(1592年 - 1615年)から土佐藩の祈願所となり栄えたが、明治に入って神仏分離令によって廃寺となったが、大日堂と改称した本堂に本尊を安置していたので助かった。その後、明治17年(1884年)再興された。
奥の院の爪彫薬師は首から上の病に霊験ありとされ、平癒を祈る参拝者が跡を絶たない。願いが叶うと穴の開いた石に氏名、年齢、快癒した身体の部位を書き奉納する習わしとなっている」とあった。
続いて、当寺の重要文化財として「木造大日如来坐像 - 平安時代後期、檜の寄木造、古色、144.5cm。行基作の伝承があるが、技法等から平安時代後期の作と考えられる。非公開。本堂に接続した背後の収蔵庫に安置され、2014年に下記の木造聖観音立像と共に開帳された。明治44年8月9日指定。
木造聖観音立像 ? 平安時代後期、檜の一木造、素地、170.5cm。かつて存在した観音堂の本尊。明治44年8月9日指定」とある。
大日如来は像高 144.5cm、県下第一の巨像とのことである。



本日のメモはここまで、次回は第二十九番札所である国分寺へと向かう。
今回は金剛頂寺から神峯寺まで,常の如く標石を目安に旧遍路道を歩く。距離は30キロほどだろうか。行当岬に突き出た海岸段丘の上部台地面に建つ金剛頂寺から段丘崖を下り、海岸線を進み往昔材木の商いで栄えた吉良川の町を抜け、河岸段丘の段丘崖と海岸に挟まれた道を羽根岬へと進む。 羽根岬は中山越えと称される旧遍路道をトレースする。中山越えの遍路道は海岸段丘に上り、台地面を辿り段丘崖を海岸線へと下りる。
海岸線に下りた遍路道は、かつて海陸の交通の要衝、材木の商いで栄えた奈半利、田野の街を抜け海岸段丘の段丘崖と海の間の道を進み安田に入り、安田からは海岸線を離れ、神峯寺の建つお山へと向かうことになる。
今回は、羽根岬の中山越えの遍路道で遍路道案内を見逃し結構時間をロスした。なんとなく遍路道では、とは思いながらも注意することなく草に覆われた遍路道案内を見逃した、お気楽に通り過ぎたため遍路道の案内を探し台地を彷徨うことになった。 諦めかけたときに何気に見たガードレールに貼られた小さな遍路道のタグを見付け、その遍路タグをキーポイントとして何とか遍路道を繋ぐことができた。「ノイズ」を感じた時は必ずチェックを再確認した散歩ではあった。
ともあれ、メモを始める



本日のルート
金剛頂寺から国道55号の下山口へ
金剛頂寺>金剛頂寺の西門>2基の遍路墓>自然石の標石と舟形地蔵>4丁石>不動岩道との分岐点>五輪塔と5丁石>地蔵尊と6丁石>平尾の下山口
不動岩経由の遍路道
不動岩道との分岐点>法満宮>不動岩
■平尾下山口から神峰寺への遍路道■
平尾>吉良川>羽根の中山越道右折点
中山越え
取り付き口>車道をクロスし再び車道に>>車道を逸れて坂を折り返す>車道をクロスし再び土径へ>遍路案内に従い生活道に出る>遍路案内に従い生活道に出る>段丘崖を下りる>加領郷の下山口
加領郷漁港>弘法大師霊石跡>奈半利の標石>高札場跡>奈半利川東詰めに2基の巨大石碑>田野の標石>岡御殿>丈丈川>六地蔵>不動の滝>安田の茂兵衛道標>土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線の高架を潜る
神峯道
神峯神社の鳥居前に標石2基>東谷川右岸に標石>道の右手に標石>22丁>21丁石>23丁>19丁>16丁石>遍路道分岐点>車道に出て再び土径に>9丁石>8丁石>7丁石>駐車場>第二十七番札所神峯寺




金剛頂寺から国道55号の下山口へ

金剛頂寺の西門
金剛頂寺から安芸郡安田町にある次の札所神峯寺まではおおよそ30キロ。金剛頂寺からの遍路道は大師堂の先から裏門(西門)から出て海岸沿いの集落である平尾に下りる。
西門に出ると舗装道路に当たる。遍路道はこの舗装道を西進する。




2基の遍路墓(13時12分)
舗装道は直ぐ北に折れるが、遍路道は少し狭くなった道へと直進する。舗装された道を少し進むと、道の右手に2基のへんろ墓が祀られる。共に「播州加西郡綱引村」とあり、没年月も「九月五日、八月廿八」と刻まれていた。同じ村を出て、この地で倒れるに至る、どのようなっドラマがあったのだろう。情感乏しきわが身にも少々感ずるところ有之。




自然石の標石と舟形地蔵(13時20分)
更に西に進み、南北に走る道に当たると遍路タグ。案内に従い左折。少し進むと道の右手に上部が壊れたような舟形地蔵と自然石の標石。少し大きい自然石の標石には「備後国:といった文字と共に「神峰寺六里」の文字が刻まれる。
簡易舗装された道はここまで。遍路道はここを右折し土径に入る。周囲は如何にも台地面といった風情。既述の海岸段丘の台地面を実感する。



4丁石(13時26分)
遍路タグの案内に従い、一時民家前の舗装道に出るも、直ぐに土径。遍路タグに従い進むと道の右手に舟形地蔵丁石。「四丁」と刻まれる。




不動岩道との分岐点(13時32分)
道なりに少し進むと道がふたつに分かれ、直進方向には「不動岩経由 第27番札所神峯寺」の案内。右に折れる道には「四国のみち」の指導標。共に遍路道ではあるが、直進ルートはしばらく台地面を進み段丘崖を不動岩へと下りるが、右折する遍路道は分岐点より台地面を離れ一直線に平尾の集落に下りてゆく。不動岩には惹かれるのだが、右折遍路道を選んだ。

五輪塔と5丁石(13時34分
少し進むと道の右手に五輪塔。小型ではあるが、下から方形=地輪(ちりん)、円形=水輪(すいりん)、(笠形)=火輪(かりん)、半月形=風輪(ふうりん)、宝珠形(団形?)=空輪(くうりん)という五輪塔の形式を備え、それぞれの部位には地、水、火、風、空を表す梵字の種子が刻まれていた。 五輪塔を越えると道は急斜面の段丘崖を一直線に下ることになる。途中、道の右手に「五丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(13時36分)が立っていた。

地蔵尊と6丁石(13時44分)
急斜面の遍路道を下ると右手に上部が欠けた地蔵尊らしき石造物。ほどなく「六丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(13時47分)。遍路道はこの辺りから等高線をトラバース気味に緩やかな傾斜で里へと下りてゆく。


平尾の下山口(13時59分)
前面に開ける土佐の海を見ながら緩やかな里道を下ると旧国道に出る。そこが平尾の下山口。下山口の前には「道のえき キラメッセ」があった。少し道に迷ったこともあるが、金剛頂寺を出ておよそ1時間弱で台地を下りた。段丘崖の比高差は150mほどではあったが、道が荒れており、等高線の間隔も狭い急坂であった。
行政区域は金剛頂寺のあった室戸市元乙から台地途中より室戸市吉良川町丙になっていた。

金剛頂寺道


不動岩経由の遍路道

下山口から西へと次の札所に向かおうとこのルートをとったのだが、なんとなく不動岩が気になり結局少し東へ引き返し行当岬突端の不動岩に行くことにした。で、お参りした後、次いでのことではあるので、上述不動岩道分岐点からの遍路道を確認しようと、不動岩から分岐点までピストン。 不動岩経由のお遍路さんも多いという。分岐点から不動岩への順でメモする。

不動岩道との分岐点
上述平尾に下りる道へと右折することなく直進する。しばらくは海岸段丘面を20分程度のんびり歩くことになる。






法満宮
道を進むと右手に社。法満宮とある。ここが段丘面の端。ここからは段丘崖のジグザク道を行当岬突端の不動岩に向かって下りてゆく。段丘崖から不動岩のある海岸部は再び室戸市元甲に代わる。



下山口
国道55号へと斜めに下るコンクリート舗装のアプローチの先、海側に不動岩の堂宇が見える。分岐点からおよそ30分弱。段丘崖の比高差は100m強だが、ジグザグ道であり、平尾に下りる急坂に比べれば少し楽かとも思う。


不動岩
茂兵衛道標
国道55号を渡りお不動さんの境内に。国道を渡ったところに道標が立つ。お色直しされた茂兵衛道標。正面には「西寺八丁 神峰へ六里余」、側面には常の如く茂兵衛在所である「周防国大島郡椋木村 願主中務茂兵衛義教」と共に「二百七十一度目供養」の文字、裏面には「迷う身越教へ天通す法の道」の添歌と大正七年九月吉辰」の文字が刻まれていた。
添歌
現在比定されているも茂兵衛道標263基ほどの道標のうち、37基に句歌が刻まれる、と。 句歌は臼杵陶庵の作。本名臼杵宗太郎。明治9年、12歳で第七十六番札所金蔵寺に入寺。以来俳句を学び、茂兵衛とは巡礼時に金蔵寺納経所にて知己を得、後に茂兵衛建立の道標に句を添えた。
空海(弘法大師)の足跡
境内を進むと岩の横に「空海(弘法大師)の足跡」の案内。「この岩は不動堂から金剛頂寺への遍路道にあったものを移設したものです」とある。
不動堂
石段を上ると不動堂。お堂の傍に案内。「お不動さん お堂は海の安全のため波切不動がまつられ、そばにある高さ約40mの岩(砂岩)は「不動岩」あるいは「お不動さん」と呼ばれています。
今でも漁師はこの岩の沖で航海の安全を願い、お神酒をあげた後、船を旋回させる儀式を行います。
この岩の周辺は、真言宗を開いた空海が修行した場所といわれ、古くより信仰の対象であります。 第26番札所の金剛頂寺は明治時代まで女人禁制のであったので、女性はここで納経を行っていました。
補足説明;海岸に広がる左岸は、何千年も前に深海に降り積もった海底の砂です。海底は、地震をともなう海底の盛り上がりによって陸になりました(後略)」とあった。
不動岩
六地蔵が並ぶ古い小社前を通り岩場に向かう。五輪塔や舟形地蔵が並ぶ岩場を進み不動岩に。巨石には大小の窟がある。室戸岬で見た御蔵洞の小型版といったもの。大師修行の窟なのだろう。 前面に広がる海と岩礁に砕ける浪は如何にも修行の地の趣を呈す。





平尾下山口から中山越取り付き口へ

平尾から吉良川に
平尾の集落から遍路道は旧国道を進み、黒耳集落の先で国道55号に合流するが、その直ぐ先で浜側への旧道に入る。この辺りの住所は吉良川町丙から吉良川町甲となる。
黒耳
黒耳の地名由来は、「海岸に黒松などを植えて日陰をつくり魚を集めるのが魚つき林。黒松の山の緑を「黒ミ」」とある(「土佐地名往来」高知新聞より。以下「土佐地名往来」)


吉良川
国道を逸れた旧道は吉良川漁港を抜け、その先で国道を斜めに横切り東の川左岸を進み、東の川橋(昭和11年架橋)を渡る。
橋を渡ると道の両側に古き趣の民家が並ぶ。その町並みは国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されているようだ。
Wikipediaには「吉良川町は古来より木材や薪などの森林資源の集積地として京阪神に出荷していた。鎌倉時代の「京都石清水八幡宮文書目録」にも木材産地として吉良川の名が記されている。明治時代より近郊で産出するウバメガシから備長炭が生産されるようになった。
大正時代になると製炭技術が発達し吉良川炭は日本を代表する良質な備長炭となっていった。京阪神を中心に海路で出荷され、帰りの船で日用品を持ち帰り、その交易で明治から昭和初期にかけて繁栄した。その経済力を背景に町並みが形成された」とあった。
遍路道の両側にも往時の繁栄を伝える商家や漆喰の壁が印象的な巨大な土蔵が現れた。
吉良川町の海岸段丘
Google mapで作成
旧町並みを抜け西の川に架かる吉良川橋(昭和11年架華僑)を渡ると吉良川町乙。旧い町並みの風情は乏しくなるが、集落の裏に控える河岸段丘に惹かれる。
室戸岬近くの河岸段丘は上部面が自然のままであり、山地との違いがあまりよくわからないのだが、金剛頂寺のある行当岬に面する台地もそうだったが、吉良川町の河岸段丘も上部面が開墾されており、いかにも段丘面といった景観を呈する。




羽根の中山越道右折点
しばらく段丘崖下の旧道を歩き立石の辺りで国道55号に合流。ここからしばらくは国道を歩くことになる。
立石からしばらく歩くと室戸市羽根町甲に入る。羽根町は室戸市の西端。安芸郡奈半利町と接する。
国道を進み羽根川手前で旧路に入るが、羽根川橋手前で国道に合流。橋を渡ると室戸市羽根乙。国道を少し進んだ遍路道は尾僧の辺りで国道を右に逸れ旧道に入る。 小川をふたつ越え右手に市営住宅が見え、ぞこに入る角に遍路道右折の案内がある。ここを右折して中山越えの道に入る。
羽根の由来
古くは波禰、八禰。鳥の羽のような地形説、跳ね石由来説、根は山裾で、八つの集落説もある(「土佐地名往来」より)


中山越え

中山越えルート図


中山越え取り付き口
市営住宅の中を抜け遍路タグの案内に従い舗装された狭い道を進む。前面にはこれも河岸段丘である中山越えの台地が見える。





車道をクロスし再び車道に
道なりに進むと土径となり、40mほど高度を上げると車道に出る。車道に出た遍路道は車道をクロスし土径を進む。ヘアピンで曲がる車道をショートカットする道であった。



車道を逸れて坂を折り返す
ートで補強された傾斜法面が見える。遍路道は車道から180度方向を折り返し、この法面斜面の道を上ることになる。
斜面方面が車道にあたることろには遍路道案内があるのだが、草に覆われ見落としてしまうので注意が必要(実際私も見落とし、結構台地を彷徨うことになった)。

車道をクロスし再び土径へ(10時46分)
ターン気味に折り返して斜面を上り木々に覆われた土径を進むと再び車道に。ガードレールに小さな遍路タグが張られる。上述の180度ターン部の遍路道案内を見逃し、台地を彷徨い諦めかけたとき、このガードレールに貼られた小さな遍路タグが目に入り、中山越えをトレースし得ることになった遍路タグである。
遍路道は車道を横切り土径へと進む。遍路道の案内は木に吊るされた遍路タグ。これも注意しないと見逃しそう。

遍路案内に従い生活道に出る(10時53分)
木々に囲まれた道を進み沢の源頭部を迂回すると背丈より高い草に覆われた平坦部に出る。その先に遍路道案内、案内に従い右折すると台地上集落の生活道に出る。生活道は舗装されていた。



土径に入る(11時)
案内に従い生活道を左折し、農家庭先に祀られた小祠を見遣りながら舗装された集落の生活道を進む。道なりに進むと遍路道案内。そこから先は土径に戻る。




段丘崖を下りる(11時4分)
ほどなく台地面の端となり、その先は木々に覆われた段丘崖を下りることになる。比高差は70mほどだろうか。それほどキツイ下りではなかった。




加領郷の下山口(11時13分)
民家の塀に挟まれた道を抜け下山口に。途中道に迷い時間をロスしたため上り付き口からの時刻表示は省き、オンコース地点へのタグ地点からの時刻だけ表示するが、そこから下山口までおおよそ30分。上り取り付口からオンコース遍路タグ地点までの推定時間は30分錫。1時間弱で中山越えはできるだろう。下山口は安芸郡奈半利町となる。



             ■中山越下山口から神峯寺へ

加領郷漁港
下山口の国道55号の壁面には遍路案内があり、右を指す。案内に従い旧国道を西進する。国道を挟んで海側に加領郷漁港。遍路道は国道に合流する。
加領郷の由来は「木材を伐り出す船曳場が漁業を営む地となり加漁郷となり、土地も開墾され加領郷と転訛」と「土佐地名往来」にある。

弘法大師霊石跡
国道に合流し加領郷漁港を越えると直ぐ、国道海側に4mほどの巨石が立ち「弘法大師霊石跡」と刻まれる。国道を挟んで海側と山側にお堂。海側のお堂が大師堂。
巨岩が大師堂に食い込み、お堂の中の岩(霊石?)の窪みに大師座像が祀られる。お大師さんが修行の途次、その法衣を洗われたと伝わる「御たらい岩」の霊石がこれだろうか。お堂から40mほど離れたところにある平たい岩がそれ、との記事もあった。
山側のお堂は台風のときなどに大師像を移すためのもの、とか。

奈半利の標石
国道を進み、海岸側の貯木場を過ぎたあたりで遍路道は国道55号を離れ旧道を奈半利の町並みに入る。
右手に三光院、八幡宮を見遣り道を進み、長谷川を渡るとその先、道が分岐する角、登録有形文化財濱田家住宅」の案内のある石積みの上に2基の標石が立つ。大きい標石には「峯寺江二里 奈半利住人 蔦屋松右衛門」といった文字、小さい標石には上部に梵字と大師像、その下に「従是 寛政二」といった文字が刻まれる。
分岐点の右手、運送会社の大型トラック駐車場の先に白壁の蔵が印象的な濱田家住宅があった。
奈半利
奈半利は奈半利川の下流三角州に開けた町。養老年間(717-724)には古代官道・野根山道が開かれ陸・海交通の要衝となった。『土佐日記』にも承平5年(953)1月10日の項に、「けふはこのなはのとまりにとまりぬ」と記される。難所である室戸沖を無事航行するための風待ち港でもあったのだろう。中世には室戸岬東側の甲浦港と並ぶ廻船港として栄えたと言う。
陸路も奈半利は室戸岬東岸の甲浦に出る野根山街道の起点。土佐の藩主も難所の室戸沖航行を避け、野根山街道を甲浦に向かった。奈半利は参勤交代時の宿場町でもあった。
陸海交通の要衝に加え、先ほど国道脇に見た大きな貯木場が示すように、この地は木材の集散地としても栄えた。奈半利川の上流にある日本三大美林のひとつ、簗瀬杉がこの地から海路で各地に運ばれた。明治から昭和初期にかけてがその全盛期と言う。材木で財をなした豪商の家が残るという、先ほどみた濱田家住宅も材木商ひとり?と思ったのだが、どうも造り酒屋・質屋であったようだ。
因みに奈半利の由来は「ナは魚、ハは庭、魚のいるところ、また田の物の生るところなど諸説ある(「土佐地名往来:より)

高札場跡
標石を直進しT字路にあたると右折。道の右手に正覚寺を見遣り国道55号をクロスし、最初の少し広い通りを左折。西進すると国道493号手前に「高札場」の案内。「野根山街道はここの高札場を起点として野根山連山を尾根伝いに、東洋町野根を結ぶ延々五十キロ余で、養老二年(718)には既に利用されていた歴史と伝説に富んだ自然遊歩道である」とある。
上述の如く野根山街道は藩政時代の参勤交代の道。装束峠を越える標高900mほどの尾根道を辿る道である。この参勤交代の道は後年愛媛の川之江に出る土佐北街道に変更した(1)。参勤交代の遅延には罰則もあったようで、紀伊水道の風待ちを避け、波の穏やかな瀬戸の海を浪速へと渡るようにしたのだろう。
高札場脇に小堂があり石仏が祀られる。その先民家の間を北へと延びる少し狭い道が往昔の野根山街道ではあろう。
安芸郡
野根山街道を地図で辿り東洋町までトレースする。と、室戸岬東岸の東洋町も西岸の奈半利と同じく安芸郡域であった。安芸郡は現在東洋町、奈半利町、田野町、安田町、北川村、馬路村、芸西村からなる。明治期には現在の室戸市、安田町の西の安芸市を含めた地域が安芸郡であったようだが、その中から室戸市、安芸市が誕生し現在の安芸郡域となった。それにしても安芸市の西に芸西村が飛び地のように安芸郡として残る。安芸ではなく西の香西市との合併の話があるという。なんらかの歴史的・文化的事情故のことだろうか。
正覚寺
行基菩薩開山、本尊も行基作と伝わる聖観音、また行基作と伝わる不動明王、毘沙門天が祀られていたようだが、天正11年(1582)に火災ですべて焼失。にもかかわらず藩政時代は陸路の幕府巡検上使の宿泊所、中老格式を保った真言宗のお寺さま

奈半利川東詰めに2基の巨大石碑
国道493号をクロスし西進。奈半利川に架かる奈半利川橋東詰に2基の巨大な石碑が立つ。共に5mほどもあるだろうか。
右側の石碑の表には「土佐日記 那浪泊」、裏面には「承平六年一月十日紀之貫之朝臣帰京の際此の地に泊まる」といった文字が刻まれる。
左の石碑は表に「維新志士 贈正五位 能勢達太郎成章生誕の地」の文字が刻まれ、裏面にはこの地に生まれ、蛤御門の戦いに敗れ屠服。若干二十二歳。十七烈士と称されたといったことが記されていた。

田野の標石
奈半利川橋を渡ると安芸郡田野町に入る。遍路道は奈半利川橋西詰ですぐ国道を逸れ旧道に入る。直ぐに三叉路。その角に自然石の標石。手印と共に「へんろ道」の文字が読める。手印に従い角を右折し田野の町並みに入る。




田野
田野は、安芸郡中央部に位置し、古代は那波郷に属し、鎌倉時代初め、高田法橋が奈半利川の治水に努め、"田野郷"を開いた。藩政時代、奥地、魚梁瀬の山林資源の開発により、"田野五(七)人衆"と称される藩御用商人達が富を持ち、"田野千軒ガ浦"として繁栄した。
幕末「安芸郡奉行所」「藩校田野學舘」が設置され、安芸郡下における政治、経済、文化の中心地として栄えてきた。明治21(1888)年田野村発足。大正9(1920)年に町制を敷いて田野町に改称し、現在に至る(「田野町」の資料より)。
奈半利の歴史をチラ見しているとき、奈半利浦には天保3年(1683)、奈半利の商人が所有する八端帆以上の大型廻船42、それに対しこの浦を利用した田野の「商人の大型廻船が奈半利を上回る60隻とあった。現在の静かな町からは想像できないが、往時の繁栄をメモの段階で理解できた。

岡御殿
町並み西進した道がその先少し狭くなる角、電柱に遍路道左折の遍路タグ。指示に従い右折し南に進むとT字路にあたる。そこに遍路道右折の案内。右折西進すると道の左手に趣のあるお屋敷。「岡御殿 藩政時代末期の面影が残る貴重な建物。格式高い書院造りが特徴で土佐藩主が東部巡視の際に本陣として使用した豪商岡家の屋敷(後略)」といった案内があった。
岡徳左衛門(米屋)
田野町の資料には「田野浦五(七)人衆の筆頭豪商で、藩主山内候の参勤交代時の宿泊所(本陣)指定を受ける(岡御殿)。藩の御用金を調達し、近隣の村々の馬を集め"一文銭"を積んだ馬が明神坂を上っているのに、後尾の馬はまだ岡の門前にいたと言う"大輸送話"が伝えられている。(※田野~明神の現距離約8km)」とあった。

丈丈川
岡御殿の先、T字路を左折し南進すると丈丈川に架かる新町橋。橋の南詰めに堂々として美しい蔵が見える。造り酒屋濱川商店の酒蔵。県の指定文化財。
丈丈川(安居掘)
上述田野町の資料にある地図には、この丈丈川は安居掘とある。人工的に開削された水路のようだ。安居(あんこ)掘りについて、田野町史には「嘉永元年から万延元年(1846~1860)まで田野浦庄屋を務めた辻斧之進(弘道)はその間、新町の裏、高礼場(旧役場あたり)の所を掘り割り、浜田・新町の北の田地を水害から救った。当寺、「辻が馬場食た岡の下の堀を見よ」と村人たちが歌ったのは、安居堀敷地が郷士岡家の馬場であったからである」といったことが書かれていた。
上述田野町の資料(町のおぼえがき帳)の地図をみると、旧役場は新町橋の南詰の東、その東に「高札場」の表示がある。新町はこの辺り、浜田は新町の西の地区。

六地蔵
新町橋を渡った遍路道は次の角を右折、浜田を抜け八幡宮を右手に見遣り国道55号(国道493並走区間)に接近。遍路道はそのまま国道の南を進む。浜側は墓地が広がる。ほどなく道の右手に六地蔵尊と書かれた木の標識。台石を含め80センチほどの高さ。案内には「六地蔵 人は死後、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六道を歩むという。その六道で衆生を救済するのが六体の地蔵尊である。
安永四年(1775)田野浦の商家米屋と福吉屋と地元の人々がそれぞれ二基ずつ計六体の地蔵を建てたものである。元は八幡宮の馬場にあった。
米屋は上述岡屋敷の主。福吉屋は米屋を含めた蔦屋・常盤屋・虎屋などの「田野五人衆」と呼ばれた豪商のひとりである。奈半利の標石に刻まれた「蔦屋」とはこの田野5人衆にある蔦屋であろうか。
田野の由来
田野の海岸段丘(Google mapで作成)
田野は棚、つまりは段丘が原義と『土佐地名往来』にある。GoogleMapで確認すると、なるほど開墾された海岸段丘面がはっきりわかる。六地蔵は段丘崖と海に挟まれたところにある、ということだ。









不動の滝
六地蔵を越えると安芸郡安田町に入る。安田町に入ると旧道は国道55号を斜めに横切り山側を進む道となる。
道の右手に不動堂。その傍に不動明王が祀られた小堂と段丘崖を落ちる滝がある、不動の瀧と呼ばれるようだ。地形図を見ると滝の部分の等高線が北に切れ込んでいる。海岸段丘面に集められた水が地下水となりここから落ちているのだろうか。



安田の茂兵衛道標
遍路道は安田川に架かる安田川橋を渡り、右手に八幡宮、さらに誓願寺を見遣り進むと四つ辻に。その角に茂兵衛道標が立つ。正面に「神峰道 古れより三十五丁阿ま里」、左面に「左 高知」などと刻まれた茂兵衛125度目巡礼時のもの。

土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線の高架を潜る
茂兵衛道標から旧国道を離れ、第二十七番札所の建つ山へと向かうことになる。茂兵衛道標から北西へと進み東谷川に架かる橋を渡り右折。その前に土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線の高架が見える。
土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線
正式名勝は阿佐線。当初徳島県海部町の牟岐駅から高知県南国市の後免を結ぶ「四国循環鉄道構想」のもと計画された路線の「名残り」。阿佐線は阿波と徳島を結ぶ線といった想いではあったのだろう。
旧国鉄の再建法などにより計画は凍結。高知側は高知県が主体となり土佐くろしお鉄道が節理され、平成14年(2002)に開業に至った。阿佐西線とも呼ばれる。
一方、徳島県側の区間(阿佐東線〈あさとうせん〉)のうち、牟岐駅 - 海部駅間がJR四国牟岐線(当時は国鉄牟岐線)として昭和48年(1973)に、海部駅 - 甲浦駅間は阿佐海岸鉄道阿佐東線として平成4年(1992)にそれぞれ開業している。残る甲浦駅 - 奈半利駅間は未成線であり、高知東部交通の路線バスが結んでいる。


神峯道〇

神峯神社の鳥居前に標石2基
土佐くろしお鉄道の高架を潜ると直ぐ、東谷川の西岸傍に神峯神社の鳥居が建つ。明治四十二年一月建立と鳥居に刻まれるが、「神峯神社」の石額は新しい。
鳥居前にはいくつかの石造物が並ぶが、その中、鳥居左右に標石。左側の標石には「従是神峯三十二丁 明治十三」といった文字が刻まれる。
右側の標石には「右 従是神峯 三拾八丁 明和五」といった文字が読める。



東谷川右岸に標石
鳥居から道を隔てた東谷川傍に自然石の標石。摩耗激しく文字は読めない。東谷川右岸の道を進むと右に分岐する橋があり、その直ぐ先、ガードレールに挟まれて標石が立つ。手印と共に「へんろ道 昭和三十九年」といった文字が刻まれる。



道の右手に標石
先に進み、民家を越えてた空地の先、道の左手草叢に隠れるように石造物と並び上部の欠けた舟形地蔵が立つ。「*九丁」とある。この辺りから札所まではおおよそ3キロというから、「二十九丁」なのだろう。
遍路道はその先で東谷川にかかる「さかもと橋」を渡ると、お山への取り付口となるが、道は舗装されており車も走る。




22丁・21丁石
舗装された道を上ると道の右手に舟形地蔵丁石。「廿二丁」と読める。さらにその先に上部の欠けた舟形地蔵。「*一丁」の文字が読める。廿一丁石だろう。




23丁・19丁
更にヘアピンカーブの手前、道の左手に「廿三」と刻まれた舟形地蔵。順が違うが道路整備などでよくあること。
その先、左手から登って来た比較的広い車道との合流点にある民家からちょっと下がったあたりに「十九」と刻まれた舟形地蔵丁石が立つ。
丸い小石の並ぶ地層
ほとんどが側面補強されてはいるが、時に残る地層面には丸い小石が列をなす。数百万年前海底が隆起した証左とのことである。
地図には山裾付近に「安田町化石体験場」といった場所もある。270万年前に隆起した海底部の地層に残る化石発掘体験ができるとのこと。上述丸石が海底から隆起した地層というエビデンス。


16丁石
車道合流部を先に進むと右手に「十六丁」と刻まれた舟形地蔵丁石。車道は参道道としてお山に登るが、遍路道はその先で車道を離れ土径へと入る。






遍路道分岐点(14時15分)
道の左に大きな石碑。その前に「神峯寺参道」「神峯寺徒歩道」左の案内。石碑の前には「十山丁」と刻まれた舟形地蔵丁石、「従是本堂*」といった標石が並ぶ。そのほか上部の欠けた舟形地蔵丁石らしき石造物が並んでいた。車道を離れ土径を進む。

車道に出て再び土径に
ジグザクな道を10分ほど歩き高度を30mほど上げると車道に出る(14時24分)。ヘアピンのカーブを曲がるとすぐ土径に入る遍路道案内(14時26分)。遍路道は蛇行する車道を一直線に突ききるルートとなっている。上り口に舟形丁石が立つ、「*丁」と丁数は読めない。

9丁石
5分ほど歩き高度を30mほど上げると車道に出る(14時31分)。車道に出た遍路道は少し左に歩き、カーブ手前で土径に入る(14時31分)。その上り口に「九丁」と刻まれた舟形地蔵丁石が立つ。


8丁石
等高線を垂直に5分ほど上ると車道に出る(14時37分)。車道をクロスし土径に入るところに「神峯寺本堂790米」と刻まれた新しい標石とその傍に「八丁」と刻まれた舟形地蔵が立つ。



7丁石(14時44分)
その先、車道を2度クロスし7分ほど歩き高度を20mほど上げると車道に出る(14時44分)そこには「七丁」と刻まれた舟形地蔵丁石が立っていた。7丁石から先は車道を歩きお寺さまに向かう。






駐車場(14時56分)
車道に入った遍路道ではあるが、この車道は比較的等高線の間隔が広くなった尾根筋を直線で登ると言った急こう配の坂。「注意 これより急坂、急カーブにつきご注意ください」と書かれた案内が立つ。駐車場までは300m。10分強坂を上り、高度を60mほど上げると駐車場に着く。休憩できるお店もあった。
駐車場脇には「神峯山観光案内図」と共に「神峯寺」の案内が立ち、「四国霊場第二十七番所「神峯寺」 竹林山と号し真言宗豊山派に属する。本尊は行基菩薩作と伝える十一面観音、開基は聖武帝の天平二年本尊を古屋谷(ふるやだに)に安置したと伝えられ、大同四年弘法大師が勅命により本尊を神峯神社に合祭して観音堂と称え、明治四年神仏分離のため廃寺、明治二十年二月住職間崎天竜師が現在地に再建竹林山地蔵院と改め、昭和十七年現在の神華寺となる。
四国八十八ヶ所のうち、当寺は屈指の難所とされていたが、自動車道が開設されて入山が安易となった」とあった。駐車場から山門まではまだ60mほど高度をあげなければならない。


第二十七番札所神第峯寺

山門
駐車場右手の坂を上ると山門前に着く。右手に神峯神社の参道口鳥居が建つ。
山門前に自然石に「第廿七番札処 神峰 法師龍円尼 安政四巳年生 時五十四才建立」と刻まれた文字の下に尼僧像が刻まれている。更にはその左に手印と明治四十三年六月」と刻まれる。 これってどういうこと? 


チェックすると山門はこの龍円尼の寄進したものとのこと。上述神峯寺の案内に、明治の神仏分離で一時廃寺となったが、明治二十年二月住職間崎天竜師が現在地に再建したとあったが、龍円尼はこのとき住職間崎天竜師と共に寺の再建に尽力したようである。 「時五十四才建立」とは、明治20年、54歳の時に山門を建立したということだろう。 で、「明治四十三年六月」は?龍円尼の徳を記念して山門の見えるこの場所に石碑を立てた日時のことではないだろうか。
そばには「四丁」と刻まれた舟形地蔵丁石も立っていた。

鐘楼
山門を潜ると鐘楼。この鐘楼も龍円尼の寄進と言う。龍円尼については全国を歩き資金を集め寺の整備に努めたといった記事があったが、それ以上のことははっきりしない。

本堂・大師堂
鐘楼脇より石段を上り正面に本堂、その右手に大師堂が並ぶ。
Wikipediaには、「神峯寺(こうのみねじ)は、高知県安芸郡安田町唐浜にある真言宗豊山派の寺院。竹林山(ちくりんざん)地蔵院(じぞういん)と号し、本尊は十一面観音。
真っ縦(まったて)と呼ばれる急な山道を登った神峰山(標高569.9m)の中腹(標高430m付近)にあり四国八十八箇所で9番目の高さで高知県では一番である。「土佐の関所」また「遍路ころがし」と呼ばれる屈指の難所として知られ、江戸時代は麓の前寺で遥拝し納経をすませる遍路もいたほどであった。
寺伝によれば神功皇后が朝鮮半島進出の戦勝を祈願し天照大神を祀った神社が起源とされ、天平2年(730年)に聖武天皇の勅を受けて行基が十一面観世音菩薩を刻み、本尊として神仏合祀し開創したという。その後大同4年(809年)に空海(弘法大師)が堂宇を建立し「観音堂」と名付けたとされている。

その後、堂塔が多くあったが、元和年間(1615~1624)火災によりすべて焼失、その後、本堂と大師堂と鎮守社のみ再建され、十一面観音も麓にあって廃寺になっていた別当の神峯寺から納めて復調する。しかし、険しい山中の札所ゆえ別当になっていた麓の常行禅寺や前札所の養心庵(明治の神仏分離時点でどちらも廃寺)で遥拝し納経するものも多かった。なお、江戸末期、常行禅寺での納経帳に「奉納 本尊十一面観音 土州竹林山 神峯」と記されている。
幕末、三菱財閥創始者岩崎弥太郎の母は弥太郎の開運を祈願して現在の安芸市より片道20キロメートルの道のりを素足で三七日(21日間)通い続けた逸話がある。
明治初年の神仏分離令によって神峯神社だけが残り寺院としての部分は廃寺となり、本尊と札所は金剛頂寺に預けられ、金剛頂寺で納経をしていたが、明治20年(1887年)もとの憎坊跡に堂舎を建立し本尊と札所を帰還させ再興した。大正元年には茨城県稲敷郡朝日村の真言宗地蔵院の寺格を移し、そして、昭和に入って、それまでの神峯から神峯寺と称するようになった」とあった。

境内には神峯の水、火炎を向背とした不動明王、伊藤萬蔵寄進の香台のみえる地蔵堂などもあtった。


●「真っ縦」
神峯寺への遍路道は「真っ縦」、「遍路ころがし」の難所と言う。現在は大半が車道となっており、往昔の「真っ縦」といった険しさを感ずることはなかったが、取りつき口が標高17mほど。お寺さまは標高430mほどであるので、比高差400m強上るわけで、キツイ上り遍路道には違いない。 現在大半が車道となった遍路道ではあるが、その道を開く物語がWikipediaに記されていた。簡単にまとめると;昭和50年(1975)、新住職に就いた南寛彦師が麓から寺に直接上る車道整備を発願。門徒総代を理事長とした神峯道整備事業団を結成し中心メンバ‐3名と4人作業員の7名で着手。2年後一応の完成を見るも、その後も住職が整備を続け、平成元年に神峯道は町道へと無償提供された。その後平成33年には麓から中腹まで片側1車線の広域農道が開通し神峯道とつながった、と。
広域農道とは遍路道に左から合流した広い道のことである。

神峯神社
鳥居脇に標石
標石には「県社 神峰神社 従是三丁 明治三十年」といった文字が刻まれる。
本日のメモはここまで。次回は第二十八番札所大日寺に向かう。

山門右手にあった鳥居を潜り300段以上もある石段を上ると本殿がある。Wikipediaには「 神峯山(標高569.9m)の山頂近くの標高500m付近にあり、神峯寺の約250m上った所に位置する。神峯寺の前身である観音寺との神仏習合の宗教施設であったが、明治初期の神仏分離令により仏教施設が廃され神社のみが残った。明治20年(1887年)に神峯寺が再興され、現在は神峯寺の奥の院という位置づけとなっている。
神峯神社日記によれば、神武天皇が東征の際、この山を神の峯とし石を積み神籬を立てて祀ったことが起源と伝えられている。
本殿の向かって右奥上方には燈明巌(とうみょういわ)と呼ばれる岩がある。この岩は太古から夜が更けると青白く光っていたと言われている。天変地異などの異変が起こる前兆として光ると言われており、日清戦争、日露戦争、関東大震災、太平洋戦争、南海地震の前に光ったと伝えられている;とある。
社務所から四国のみち」展望台へと向かうと。その下に大師腰掛岩がある。羽根、行当、室戸岬の 遠望が楽しめる。
室戸岬突端に立つ最御崎寺を打ち終えると、次の札所第二に十五番 津照寺は5キロほど。その次の札所第二十六番金剛頂寺は津照寺から6キロ程。今回は最御崎寺から金剛頂寺迄の11キロほどの遍路道をメモする。
最御崎寺は東寺、金剛頂寺は西寺と称される。金剛頂寺の建つ行当岬は行道からとも。若き時代の空海が最御崎寺の建つ室戸岬と、金剛頂寺の建つ行当岬を西から東、東から西へと修行にあけくれた道ゆえの行道ではあろう。
この間の遍路道で印象的であったのは、最御崎寺の建つ室戸岬の台地から海岸へと下るときに眺めた室地岬西岸部に延びる緩やかな傾斜の山地。海に向かって落ち込むような室戸岬東岸と対照的な景観を呈する。
海岸に沿って続く緩やかな山地景観、時には上部面が平坦な台地とも見えるその景観は海(生ま)岸段丘であった。地質学では結構有名な場所であったようだ。 遍路道は西に続く海岸段丘の眺めを楽しみながら室戸スカイラインを海岸線まで下り、海岸線に沿って行当岬手前まで歩き、海岸段丘が海に突き出した行当岬の上部台地面に建つ金剛頂寺へと向かった。寺への段丘崖の上りも30分ほど。それほど険しくもないルートであった。 ともあれ、メモを始める。


本日のルート;
第二十四番最御崎寺から第二十五番津照寺へ
御崎寺・室戸スカイライン側入口>室戸スカイライン>津呂の石碑と標石>室津港>徳右衛門道標と地蔵>願船寺>第二十五番札所 津照寺(しんしょうじ)
第二十五番札所津照寺から第二十六番金剛頂寺へ
奈良師橋>岩谷川傍の標石>伊藤萬蔵標石を右折>向江の自然石標石>廻国塚と川村与惣太の墓>4丁石>5丁石>六地蔵と常夜灯>七丁石>第二十六番札所 金剛頂寺



第二十四番最御崎寺から第二十五番津照寺へ

最御崎寺の次の札所は第二十五番札所 津照寺。おおよそ4キロほど。旧路は消え、室戸スカイラインを大きく蛇行しながら里に下りるしか術はない。

御崎寺・室戸スカイライン側入口
本堂左手を裏に回り石段を下りると室戸スカイラインに。「四国第廿四番霊場最御崎寺」と刻まれた寺標が立つ。その先、駐車場脇に標石。「へんろ道 大正十三年」といった文字が刻まれる。

室戸スカイライン
スカイラインを下りながら室戸岬の西海岸を眺める。海岸から急勾配でせり上がり、その上部面が平坦な台地状の景観が西に続く。切り立った海食崖からなる室戸岬東側と際立ったコントラストを呈する。
海岸(海成)段丘
国土地理院の地質図をチェックすると、海成層砂岩、砂岩泥岩互層の地層の中に、室戸岬からに西の奈半利にかけて、海岸線にそって大きな「段丘堆積物」と記された岩質の層が並ぶ。チェックすると、海岸段丘とも海成段丘とも呼ばれ、地質学では知られた地形のようである。
形成のプロセスは門外漢であるため正確なことは説明できながい、大雑把に言えば、台地上面はもともと海底にあったもの。それが室戸の沖合140kmともいわれる南海トラフの沈み込み時の「はねかえり」によって生じる地震により隆起し、その海岸部が波に浸食され平坦面が形成される。隆起した付加体の岩質が泥岩であり砂岩泥岩互層であることも浸食されやすい要因だろうか、 次いで、新たに生じた地震によって既に形成された平坦面が陸上に上位面として上がり、海岸線に新たな平坦面が形成される。素人にはわからないが、室戸岬西側には数段の海岸段丘が形成されているようだ。
「国土地理院地質図」
それはそれでいいのだが、何故に室戸岬の東岸と西岸ではかくも景観が異なるのだろうか。岩質は共にプレート沈み込み時に隆起した付加体の泥岩であり、砂岩泥岩互層が大半である。 チェックする、と、室戸岬東岸は沖合2-3キロのところで1000mも急激に落ち込む崖となっている。一方、西岸は沖合7キロほど行っても水深は100mを越えない浅い海とのこと。これに因があるのだろうか。
隆起し波に浸食され削られた岩質も海が浅ければ堆積できようが、崖となっていれば堆積することなく深い海底へと滑り落ち込むようの思える。素人の妄想。根拠はないが自分なりに腑に落ちた。




津呂の石碑と標石
スカイラインを国道55号まで下る。遍路道は国道55号と並行した山側の道を進む。ほどなく室戸漁港(津呂)に入る。深く掘り込まれた漁港。津呂の漁港は外海と狭い水路で結ばれた如何にも人工的な船泊となっている。
旧道が津呂の漁港に入ったところに大きな石碑が2基並ぶ。右の石碑には「紀貫之朝臣泊舟之処」、左のそれには「野中兼山先生開鑿之室戸港」と刻まれる。
石碑の脇の案内には「室戸岬港(津昌港) 室戸は、土佐の国司紀貫之が任満ちて京都へ帰る時、天候悪く、十日ほど滞在したところである。
津呂港は、風や波を待つ港として野中兼山が寛永十三年(一六三六)試掘、寛文元年(一六六一)一月着工し三月に竣工させた。
これに要した人夫は三十六万五千人、黄金千百九十両を要した確工事であった。それ以前にも小笠原一学(最蔵坊)が元和四年(一六一八)願い出し開削している。 この工事は、海中に土嚢で長い堤防を架き内部を池にして海水を汲み干した後、ノミと鎚(私注;ツチ)で岩を砕いて開削「する工夫で完成した港は、東西一一〇メートル、南北十二メートル、深さは満潮時二メートルあった。古くは室戸港といわれていた。 室戸市教育委員会」とあった。
石碑のへんろ標石も立つ。手印と共に「へんろ道 大正五年」といった文字が刻まれる。
土佐日記
土佐の国司として赴任していた紀貫之がその任期を終え、京への帰途の旅日記。承平4年(934 )12月21日から旅立ちの用意を整え、27日に出港。風待ち寄港を繰り返し、海賊に怖れながらの海路40日、その前後合わせ55日もの日数を重ね京に着いた。
『土佐日記』原文には1月12日室津の湊の記述はあり、風待ちの末1月21日に室津を出たとの記述があるが、津呂の記述はなかった。
津呂
津呂の湊は藩政時代、捕鯨の基地であったよう。津呂の由来は瀞(とろ)と同様の「波の穏やかなさま」と「土佐地名往来(高知新聞)。以下「土佐地名往来」と記す」にある。

室津港
津呂の漁港を抜けた旧道はその先で国道55号に合流。少し進むと国道を右に逸れて旧道に入る。右手に鈴木神社、光福寺を見遣りながら道を進むと耳碕辺りで再び国道に合流するも、遍路道はすぐ左に逸れて室津の港に入る。

徳右衛門道標と地蔵
室津の港北岸を進むと突き当りに「四国第二十五番霊場 津寺」と刻まれた津照寺の寺柱石。その傍に徳右衛門道標が立つ。「是ヨリ西寺迄一里」。次の札所金剛頂寺(西寺)を案内する。西寺は東寺(最御崎寺)に対するものである。
道標右手には天明元年の銘がある地蔵石仏。台座には「札所」の文字が刻まれる。






願船寺
津照寺は右に折れ参道に入るが、徳右衛門道標のすぐ右手、少し奥まったところに願船寺。「最蔵坊俗名小笠原一学之碑」と刻まれた石碑が建つ。案内には「本尊は阿弥陀佛で真宗東本願寺末である。慶長年間に泉州の商人が本尊佛を安置した。
慶長九年(1604)の地震、高潮の時不思議に助かり、正徳四年(1914)願船寺となった。最蔵坊(俗名小笠原一学)は寛永七年(1630)室津港の築港に当たった。その功により今の願船寺屋敷八十四坪を与えられ現在に至っている。境内には寛永古港の礎石や最蔵坊の墓がある 室戸市教育委員会」とある。
室津港は藩主山内忠義の支援を受け、東寺(最御崎寺)の最蔵坊が、それまで岩礁を利用した港の開削をはじめ、その後野中兼山に引き継がれた。
堀り込み港
呂津の港もそうだったが、この室津の港も道から7,8mも下にある。これだけの岩礁を彫り割った?チェックすると室戸岬の辺りは大地震のたびに土地が隆起しているようだ。最蔵坊の開削は1630年。室戸ジオパークの資料に拠れば、その後1707年の宝永地震で1.8m, 1854年の安政地震で1.2m, 1946年の昭和南海地震でも1.2mも陸地が隆起している。
ということは、最蔵坊開削時は陸地と海の差は3mから4mといったことろか。としても、地震の度に掘り込み、岩盤を掘り下げなければ船は海に浮かばないわけで、深く掘り込まれた港は先人の苦闘の証。港が違った風に見えてきた。


第二十五番札所 津照寺(しんしょうじ)

一の門
参道口を進み一の門を潜る。右手には「四国霊場第二十五番 万体地蔵尊奉安殿 津照寺:、左手には「御本尊楫取地蔵大菩薩」とある。







一木神社
左手に鳥居があり、境内に「一木権兵衛君遺烈碑」と刻まれた巨石碑が建つ。鳥居を潜った境内右手には木の覆屋の下に巨石が置かれている。
一木権兵衛正利は野中兼山の家臣。室津の港開削の命を受け、人夫延べ170万人、10万両を費やすも巨大な岩礁(釜礁)に阻まれ工事は難航。正利は人柱との願いをかけて自刃して果てる.。と、不思議にも岩礁が割れ築港が叶ったとのこと。人々は社を建て正利を祀った。
鳥居脇に置かれていた巨石は港を塞いでいた岩礁で、正利が一命を賭して砕いた「お釜巌」であった。
大師堂
一の鳥居を潜ると右手に大師堂。左手に金毘羅大権現。参道地蔵尊の前に伊藤萬蔵既存の香台があったようだが、見逃した。
楼門
100段近い石段を上ると竜宮門の様式の楼門がある。
本堂
更に石段を上ると本堂が建つ。本堂から室津の港が見下ろせる。本尊は延命地蔵尊。大師がこの地を訪ね、大漁と海の安全を祈り1mほどの延命地蔵を刻み、草堂に祀ったのが寺のはじまりと伝わる。
楫取地蔵
この延命地蔵は一の門の寺柱石にもあったように、「楫取地蔵」とも称される。その由来は、藩主山内一豊公が室戸の沖を航行中、俄かの暴風に見舞われあわや遭難。と、どこからともなく一人の小僧が現れ、楫を取り無事室津の港へと導き、いずくともなくかき消えた。
一豊公は神仏のご加護と津寺にお参り。と、そこには潮水をかぶり全身びしょ濡れとなったご本尊の延命地蔵が立っていた。
延命地蔵は『今昔物語』にも登場
この延命地蔵は火難にも霊験あらたか、と。平安時代末、院政時代に書かれた『今昔物語』の巻十七話第六話に「地蔵菩薩 値火難 自出堂語 第六」の項がある。私でも読めるので原文をそのまま掲載する。
「今昔、土佐の国に室戸津といふ所有り。其の所に一の草堂有り。津寺と云ふ。其の堂の檐(たる)きの木尻、皆焦(こが)れたり。其の所は海の岸にして、人里遥に去て通ひ難し。
而るに、其の津に住む年老たる人、此の堂の檐の木尻の焦れたる本縁を語りて云く、
「先年に野火出来て、山野悉く焼けるに、一人の小僧、忽に出来て、此の津の人の家毎に、走り行つつ叫て云く、『津寺、只今焼け失なむとす。速に里の人、皆出て火を消すべし』と。津辺の人、皆此れを聞て、走り集り来て、津寺を見るに、堂の四面の辺りの草木、皆焼け掃へり。堂は檐の木尻焦れたりと云へども焼けず。
而るに、堂の前の庭の中に、等身の地蔵菩薩・毘沙門天、各本の堂を出でて立給へり。但し、地蔵は蓮華座に立給はず、毘沙門は鬼形を踏給はず。其の時に、津の人、皆此れを見て、涙を流して泣き悲むで云く、『火を消つ事は天王の所為也。人を催し集むる事は地蔵の方便也』と云り。此の小僧を尋ぬるに、辺(わたり)に本より然る小僧無し。然れば、此れを見聞く人、『奇異の事也』と悲び貴ぶ事限無し。其れより後、其の津を通り過る船の人、心有る道俗男女、此の寺に詣でて、其の地蔵菩薩・毘沙門天に結縁し奉らずと云ふ事無し」。
此れを思ふに、仏菩薩の利生不思議、其の員有りと云へども、正く此れは火難に値て、堂を出て、庭に立給ひ、或は小僧と現じて、人を催して、火を消さしめむとす。此れ皆有難き事也。 人、専に地蔵菩薩に仕ふべしとなむ語り伝へたるとや」と。
全体のプロットからして、上述の 楫取地蔵霊験はこの今昔物語がベ-スにあるようにも思える。
紀貫之の風待ち
津呂でメモした如く、『土佐日記』には承平4年(934)12月27日に土佐の湊を船出し、1月12日に室津に入った記述がある。その後風待ちで待機し、1月17日に一度船を出すも悪天模様のため室津に引き返し、1月21日に再び出航したとあった。おおよそ10日室津滞在は記録上確認できた。


第二十五番札所津照寺から第二十六番金剛頂寺へ

津照寺を打ち終えると次の札所は第二十六番金剛頂寺。距離は5キロほど。室戸市室津から室戸市浮津、室戸市元甲から室戸市元乙へと市域も変わらない。

奈良師橋
津照寺門前の徳右衛門道標脇を西に進み室津川に架かる橋を渡り、道を進むと国道55号にあたる。遍路道は国道を斜めに横切り、国道山側の旧道を進む。ほどなく奈良師橋を渡る。『土佐日記』の1月12日の項に、「十二日(とをかあまりふつか)。雨降らず。(中略)奈良志津(ならしづ)より室津(むろつ)に来ぬ」とある。奈良師は金剛頂寺建立時、奈良より招いた番匠、とも。 奈良師橋を渡ると室戸氏浮津から室戸市元甲になる。

岩谷川傍の標石
岩戸川を渡り、右手に岩戸神社を見遣り岩谷川東詰に。そこに遍路道(旧国道)から海岸線を走る国道55号に通じる道があり、道の右手に巨大な標石が立つ。「従是西寺八兆丁女人結界 右寺道 左*道 貞享二」といった文字が刻まれる。
西寺(金剛頂寺)は女人禁制の寺であったため、女性遍路は西寺に上ることなく、道を東進し行当岬の不動堂を女人堂として目指した、という。
標石の立つ場所はなんだか釈然としない。どうも元は岩谷川に架かる岩谷橋東詰にあったとの記事があった。

〇金剛頂寺道〇

伊藤萬蔵標石を右折
少し進み元川に架かる元川橋を渡ると西詰に伊藤萬蔵寄進の標石が立つ。正面には「嵯峨天皇淳和天皇勅願所 第二十六番 西寺」、右側面には遍路道を示手印と共に「尾張国名古屋市塩町 伊藤萬蔵」の文字が刻まれていた。










向江の自然石標石(11時38分)
遍路道は元川に沿ってしばらく北進した後、北西に向きを変え西寺への山道取り付口のある向江の集落へ向かう。
向江の集落で右に大きく回る車道参道と分かれ、遍路道は集落の道を直進する。道の左手、ブロック塀に挟まれた自然石標石が残る。摩耗が激しく、「へんろミち **へでる」といった文字がかすかに残る。

廻国塚と川村与惣太の墓(11時55分)
集落を進み道が大きくヘアピン状に曲がる角に墓地があり、「川村与惣太の墓」の案内があり、「 『土佐一覧記』の筆者で貞佳または与三太と号し、享保五年(1720)元浦の郷氏の生まれで、儒学者の戸浦良照に学び、西寺別当職を五十二歳で辞した。
明和九年(1772)から土佐一国、東は甲浦から西は宿毛松尾坂まで巡遊し地名・故事を詠んだ三年間の行脚の記録として『土佐一覧記』を完成する。
天明七年(1787)正月十三日六十七歳で没する 室戸市教育委員会」と記される。
墓所は川村家のもののようだ。川村家は元は伯耆国の在。尼子氏の攻撃により当地に逃れ長曾我部氏に属した。与惣太は歌人でもあり、『土佐一覧記』は地名・故事を歌で綴った風土記とも称される。
墓所の端には「廻国塚」と刻まれた石碑。六部の廻国供養塔だろう。

4丁石(11時56分)・5丁石(12時1分)
川村家の墓所傍、ヘアピンカーブ左角に上部が折れた舟形地蔵丁石。「是ヨリ本堂江四丁」と刻まれる。
その先直ぐ、道の右手に舟形地蔵丁石「。「五丁」と刻まれる。



六地蔵と常夜灯(12時5分)・七丁石(12時10分)
5丁石から数分歩くと、道の左手、少し奥まったところに六基の大きな地蔵尊と常夜灯が立つ。気を付けていなければ知らず通り過ぎてしまうように思える。
六体とも個人の戒名が刻まれている。「享和二」とあるから1802に個人の菩提を弔うために建立されたものだろう。
地蔵尊像の数分先にも道の左手に七丁の舟形地蔵丁石が立っていた。



第二十六番札所 金剛頂寺

7丁石から5分ほど歩くと、金剛頂寺への車道参道に合流(12時15分)。取り付き口からおよそ30分ほどで着いた。右手は駐車場。左手には仁王門への石段が続く。金剛頂寺のある山地部は室戸市元乙地区となる。

石段下に標石(12時15分)
石段に向かう手前に丸い突き出しのある標石が立つ。手印?「施主」や「第六十三」といった文字ははっきり読めるが、「おくのみちひだり」といった文字も刻まれているようである。





仁王門
寺柱石と厄坂と刻まれた石碑の立つ石段を上ると仁王門。大正2年(1913)の再建。仁王像は昭和59年(1984)の造立。






徳右衛門道標と丁石
仁王門の左手に標石2基。1基は徳右衛門道標。「是ヨリ神峰迄六里」とある。もう1基は「八丁」と刻まれた舟形地蔵丁石。上部の欠けた地蔵と並ぶ。







本堂
仁王門から更に石段を上ると正面に本堂。弘法大師自作と伝わる薬師如来坐像が本尊として祀られる。本尊は自ら本堂の扉を開けて鎮座し、以来秘仏として誰の目にもふれたことがない、という。
霊宝殿
その右手に霊宝殿。霊宝殿には寺宝である六点の重要文化財や古美術が保存されている。



大師堂
大師堂は本堂参道に背を向けて建つ。その由来は『弘法大師行状絵詞』巻二「金剛定額」に描かれる。絵詞には、堂内で修行する大師と、その修行を妨げよう蠢く幾多の天狗、さらに楠の大樹に向かい筆をとる大師が描かれる。
楠に描かれた大師自画像の霊力により寺に棲みついた天狗は退散し足摺岬へと去ったとする。このくだりは『弘法大師天狗問答』として寺に伝わり、絵詞に描かれる大師修行中のお堂が大師堂の建つところ、とのこと。
『弘法大師行状絵詞』は京都の教王護国寺(東寺)に保存されているようだが、現在の大師堂、本堂参道に面した壁には『弘法大師天狗問答』のレリーフが架かる。 大師堂傍には空海が詠んだと言う「法性の室戸といえどわがすめば 有為の波風よせぬ日ぞなき」の歌碑も立つ。

一粒万倍釜
大師堂横にお釜が置かれた小堂がある。「一粒万倍釜」と称されるこのお釜は、大師がひと粒の米を入れて炊いたところ、万倍にも増え人々の飢えをみたした、と。往昔この寺を修行の場と定めた多くの僧の食事のためのお釜とも。
鐘楼と捕鯨八千頭精霊供養塔
大師堂対面に平成2年(2003)再建の鐘楼、その南北に捕鯨八千頭精霊供養塔が建つ。

護摩堂
鐘楼とは逆、信徒会館の西側の護摩堂があり、伊藤萬蔵寄進の香台があった。天皇の勅使を迎える勅使門跡も傍にある。

Wikipediaには「金剛頂寺は、高知県室戸市元乙に位置する寺院。龍頭山(りゅうずざん)、光明院(こうみょういん)と号す。宗派は真言宗豊山派。本尊は薬師如来。
寺伝によれば、空海(弘法大師)にとって最初の勅願寺の創建として、大同2年(807年)平城天皇の勅願により、本尊薬師如来を刻んで「金剛定寺」と号し、女人禁制の寺院であったという。 次の嵯峨天皇が「金剛頂寺」の勅額を下賜し、その寺名に改められた。
『南路志』(江戸時代の土佐の地誌)所収の寺記によれば、大同元年、唐から帰国途次の空海が当地に立ち寄り創建したとされる。同寺記によれば、さらに次の淳和天皇も勅願所とし、住職も10世まで勅命によって選定され、16世・覚有の頃まで寺運は栄え、多い時は180人余の修行僧がいた。
延久2年(1070年)の「金剛頂寺解案」(こんごうちょうじげあん、東寺百合文書のうち)によれば、当時の寺領は、現・室戸市のほぼ全域にわたっていた。
鎌倉時代になると無縁所となり、体制から逃れた人々をすべて受け入れ「西寺乞食(にしでらこつじ)」と呼ばれるようになり、侵すことのできない聖域として存在した。 文明11年(1479年)には堂宇を罹災したが、長宗我部元親が寺領を寄進しているほか、土佐藩主山内家の祈願所とされ、復興は早く整備された。その後、明治32年(1899年)の火災で大師堂・護摩堂以外の伽藍を焼失し、本堂ほか現存する堂宇は再建である」とある。
当寺は既述のとおり西寺と呼ばれる。室戸岬突端部にある最御崎寺を東寺と称するに対するものである。所以は青年空海が修行のため、金剛頂寺と最御崎寺を西へ東へと行道したため。金剛頂寺の建つ行当岬の地名も、行道>行当への転化とされる。 因みにこの寺の建つ台地は記述の海岸段丘である。木々に阻まれ視認はむつかしいが、衛星写真で見ると室戸岬へと続く海岸段丘が見て取れる。
本日のメモはここまで。次回は金剛頂寺から次の札所神峯寺へと向かう。
伊予の遍路道にある,よさげな峠越えの遍路道が,歩き遍路のそもそもの発端であった。で、どうせのことなら歩き終えた峠と峠の間の遍路道を繋いでみよう。それならば、どうせのことなら伊予の旧遍路道をすべてカバーしてみようかと思いたち、古き標石を目安に土佐と伊予の国境からはじめた旧遍路道トレース伊予で終えるはずが、どうせのことなら讃岐もカバーしてみよう。讃岐を歩き終えると、阿波まで進んでみようか。阿波まできたのであれば土佐もカバーして四国の遍路道をすべて繋いでみようかと、今、土佐に入った。
今回から土佐の遍路道を歩く。本日のルートは甲浦から室戸岬突端部にある第二十四番札所最御崎寺まで、その距離おおよそ30キロというところだろうか。
現在は山地が海に落ち込むような海岸線を国道が走る。江戸の頃、道もなく波しぶきを浴びながら、荒磯の岩を飛び跳ねて進んだであろう難路の名残は既になく、単調ではあるが雄大な大洋を見遣りながらの快適な遍路道であった。
遍路道には標石がほとんど見当たらない。道がないわけであるから、当然といえば当然であるが、そもそも山地と海に挟まれた荒磯・浜を進むわけで、標石の必要もないだろう。というわけで今回は標石を目安の旧遍路道トレースの要はない。その替わりといってはなんだが、山地が海にストンと落ち込むような室戸岬東海岸や室戸岬の乱礁部の地形・地質の成り立ちにフックが掛る。とはいうものの、この領域は全くの門外漢。好奇心旺盛のリタイア・ビジネスマンの戯言メモとお許しいただければと思う。


本日のルート;甲浦>東俣番所跡> 熊野神社 >江藤新平の遭厄記念碑>甲浦坂トンネル>野根大師〈明徳寺)>白小石の六部堂と里神社>野根の標石>国道493号に合流>地蔵堂(庚申堂)>伏越の鼻>ゴロゴロ休憩所>法海上人堂>飛び石地蔵(水尻仏海標石)>入木(いるき)の仏海庵>佐喜浜>鹿岡(かぶか)鼻の夫婦岩>椎名>日沖の大礁・大碆(おおばえ)>厄除弘法大師坐像〈中務茂兵衛建立)>三津漁港>青年大師像>御蔵洞>乱礁遊歩道>(ビシャゴ岩>弘法大師行水の池>エボシ岩>土佐日記御崎の泊碑>弘法大師目洗いの池)>国道55号に戻る>最御崎寺への旧遍路道>大師一夜建立の岩屋>捻岩>最御崎寺・室戸スカイライン分岐>第二十四番札所最御崎寺(ほつみさきじ)


甲浦
宍喰の町より海に突き出た半島丘陵部を抜けてきた県道309号は、丘陵部を穿つ水床トンネルを抜けて来た国道合流と合流。その直ぐ先が徳島と高知の県境となる。
遍路道は県境から右に逸れる道に入り甲浦の町へと進む。
丘陵部を抜けると甲浦の内港。内港はふたつにわかれ、北に入り込んだ内港を東俣と呼ぶ。藩政時代は土佐藩の船蔵や船大工小屋があったようだ。東俣を跨ぐ橋を渡り、港の最奥部に東俣番所跡があるとのこと、ちょっと立ち寄り。
東俣番所跡
民家が密集する漁港の堤防前に番所跡の石碑が立つ。「甲浦東股番所跡」と刻まれる。前回の散歩でメモした宍喰の古目番所から宍喰峠で阿波と土佐の国境を越えた土佐街道はこの地に下りて来た(ルートは後述元越番所の掲載図参照ください)。

熊野神社
東俣より湾に沿って南に下り湾の南端の岩場に建つ熊野神社手前で道は右に曲がる。この西に入り込んだ椀を西股と称する。この神社には鳥居がない。結構珍しい。鳥居を建てても直ぐ倒れる。それが繰り返されたことにより、鳥居をたてないことが神意であろうと、その後建てられることはなかった、と。その替わりこの社には鐘楼が建っている。これも珍しい。
甲浦の由来
この社の森は沖からの目安となったのか、「甲ヶ山」と呼ばれる。甲ヶ山のある浦ゆえだろうか、この地は昔より甲ヶ浦(かぶとがうら)と呼ばれていたようだ。甲のカタチに似た甲貝が採れた浦との設もある。
「かぶとがうら」が「こうのうら」となったのは、甲ヶ浦(かぶとがうら)>甲の浦(こうのうら)>甲浦(かんのうら)と転化した説、熊野神社に那智の熊野権現十二社のひとつが飛来したとの縁起より、「神が来た浦」>かみのうら>かんのうら、となったとの説などあるようだ。
西股
西に入り込んだ西股の北に沿って道は進む。西股の南岸に御殿跡と地図にある。土佐藩初代藩主山内一豊公が土佐に最初に上陸した地であり、参勤交代の折の御殿や船蔵があったようだ。御殿は宝暦の大地震の後は現在の甲浦小学校のある地に移った。
西股南の丘陵には藩政以前、この地に割拠した豪族の城跡が残るとのことである。甲浦の湊口には葛島、二子島、竹ヶ島(徳島県)が並び、沖の波浪を遮り、古くからの天然の良港。土佐と上方を結ぶ船運の要衝の地であったようだ。
参勤交代の道
藩政時代、土佐藩の参勤交代の道は土佐湾に面する奈半利から室戸岬への海岸沿いの野根に抜ける35㎞の野根山街道を進み甲浦から海路を利用した。が、そのルートは海任せ・天候任せ。順調に進めば20日ほどで江戸に着いたというが、潮待ちなどにより50日ほどかかることもあった、と言う。
江戸到着予定日の遅参は「一大事」であり、遅参により改易の沙汰もあり得るといったものであり、遅参の怖れある場合は逐次幕府に報告をしなければならない。そんな面倒なことをやってられない、と思ったのか、海路の安定した瀬戸内の湊への道が拓かれた。その道は土佐北街道と呼ばれる。
高知の南国市から愛媛県の四国中央市に抜ける山越えの道である。享保3年(1718)の頃、古代の官道である南海道跡を基本に整備された道その道を5回に分けて歩いた()。そういえば、一部抜けている箇所があることを想いだした。そのうちに歩かなけらば。

江藤新平の遭厄記念碑
西股最奥部を左折し南に進む。甲浦小学校の対面の平和塔敷地内に大きな石碑が立つ。傍の案内には「江藤新平・甲浦遭厄の標 東洋町民は、この標を建立し偉大な功績を顕彰する 平成21年3月31日」とあり「明治5年司法郷や参議に就任。明治6年政変後に参議を辞し野に下る。明治7年、板垣退助・後藤象二郎らと民撰議院設立運動を起こす。これが後に自由民権運動となる。新平は、日本の近代的政治制度づくりに参画し、司法制度の確立、民権的法律の整備に貢献した。娼妓制度廃止など国民の基本的人権の礎を築いた。
佐賀の乱(明治7年)により政敵とみなされ、高知県に入り逃避行を続けたが、明治7年3月29日ここ甲浦の地で捕縛された。大正6年、「江藤新平君遭厄之地」石碑が甲浦青年団により建立されている」と記される。

明治政府に対する不平士族の乱に与し逆賊となった江藤新平であるが、大正5年(1916)には西郷隆盛らとともに名誉が回復され、正四位が贈位されている。記念碑建立はその状況を踏まえてのものだろう。江藤新平のあれこれは司馬遼太郎さんの『歳月』に詳しい。

元越番所跡

町を抜けた遍路道は小池川橋を渡り左に折れて河内川を渡り国道55号に合流するが、地図に牟岐線の甲浦駅の北に元越番所跡が記される、ちょっと立ち寄り。
国道と逆方向、小池川橋を渡り右折し甲浦駅の高架を抜け三差路を右に。元越番所跡は耕地が広がるだけで特に案内もない。その先、道が山裾に当たるところに「元越番所跡」の碑が立っていた。




宍喰の馳馬(はせば)から元越を越え阿波から土佐に入る道に立つ番所であった。
番所跡とその記念碑が異なる場所に立つ理由は不明。

土佐藩の遍路政策
藩政時代、土佐藩の遍路政策は他国に比して厳しいものであったよう。遍路はこの甲浦で土佐に入り宿毛で土佐を出るか、その逆だけが入出国箇所として認められた。更に在所で発行された往来手形(身分証明書)は必携MUST。入国に際しては甲浦〈宿毛)で添手形(通行許可書)を受け取り、出国の際に返却する必要があった。
真念も『四国遍路路道指南』に、「かんの浦 これより土佐領。入口に番所有、土佐一こくの御かきかえ出る」と記し、宿毛の番所のある大ふか原村で「大ふか原村 番所有、土佐通路の切手ハこれへわたす」と書く。
この通行許可書の発行には厳しい制限があり、往来手形と共に、渡船証、所持金が求められ、老人や子供は入国を許されなかった。
通行証明書が発行されても、多くの制限があり、定められた遍路道だけを歩くこと、遅滞なく歩くこと、脇道に入り込む者を取り締まるといった政策がとられていたようである。

甲浦坂トンネル
国道55号を下ると甲浦トンネル。長さ150m、昭和43年(1968)完成。旧道はトンネル手前の道を右に逸れ、大阪と呼ばれた坂を上り、トンネルの上辺りから道を左に逸れて細い土径を進みトンネル南口辺りに下りるといった古い記事がある。真念さんも「四国遍路道指南」に「甲浦坂:という大阪を越え生見へと坂を下ったと書く。
記事に従い坂を上る。特段の遍路道案内もなく、トンネル真上辺りのミカン畑の境を少し下ってみたのだが行き止まり。国道へと下る土径が見つからず、結局甲浦トンネルを抜けて生見に入る。

野根大師〈明徳寺
遍路道は国道55号を下り、生見を抜け、相間トンネルは手前から国道を逸れる旧道を辿り、相間川を渡り野根に入る。野根への遍路道は国道55号を逸れて旧道に入る。右手に野根八幡を見遣り進むと、そのお隣に野根の大師(明徳寺)が建つ。

山門を上がると正面に本堂、横に通夜堂。本堂右横を抜けると「弘法の滝」がある。こじんまりとしたお寺さまである。
Wikipediaには、「明徳寺(みょうとくじ)は高知県安芸郡東洋町に所在する真言宗豊山派の寺院。山号は金剛山。本尊は弘法大師。別名、東洋大師。四国八十八箇所霊場番外札所。

寺伝によれば、平安時代前期に空海(弘法大師)が42歳の時に四国を巡錫中にこの地に立ち寄った。その際、この地の住人より水が涸れて大変困っていると訴えた。すると空海は谷を登った所に錫杖を突き立てて祈祷を行った。すると水が湧き出て滝となり、以来、涸れずに流れているという。この滝の前に寺院が建立されたのが始まりと伝えられている。
この寺院には通夜堂があり巡礼者は宿泊が可能である。今では寺院の前を国道55号が室戸岬まで延びている。しかし、国道が開通するまでは道なき海岸を通って室戸に向かうしかなかった。そこで、満潮時はこの寺院で一休みして室戸へと向かったといわれる。このため、この寺院で休憩することを「野根の昼寝」と呼んだ」とあった。

東洋町のWEBには野根大師について、「江戸時代、ここには観音寺があったが、明治維新の廃仏毀釈で退転し、跡地に弘法大師堂が建立された。昭和南海地震のあと、真言宗明徳寺が中村からこの地へ移転し、同居している。古くは「野根大師」いまは「東洋大師」と呼ばれ四国遍路の番外札所となっている。背後の山にはミニ八十八カ所がある」とする。

貞享4年(1687)の真念の『四国遍路道指南』には「のねうら 入口宮立有 并大師堂」(野根浦の入り口宮(野根八幡)が建ち、大師堂が並び合わさる(并)、とある。寛永18年(1641年)には既に番外札所としてあったとの記録もあり、その頃にはお遍路さんが立ち寄ったお寺となっていたのだろう。ということは観音寺が大師堂とみなされていた、ということか。
東洋大師
因みに、野根への国道に「東洋大師」の案内がいくつも立っていた。看板を見ながら、「なんのこと?」と思いながら道を辿ったのだが、この案内でやっとわかった。昭和34年(1959)甲t浦町と野根町が合併してできたのが東洋町ということであり、「東洋」という名には歴史的意味はなく、対等合併ゆえの妥協の産物であるとすれば、「東洋大師」と称するようになったのは、それ以降ということだろう。

白小石の六部堂と里神社
野根大師を南に、参道口に進む。道とT字に合わさる角に寺標があり、「高野山大師教会高知支教区野根支部」と刻まれる。
その斜め前、道の左手に六部堂があった。興味を惹かれあれこれチェックすると、この六部堂は白小石の六部堂と称される。
寛政12年(1800)の『四国遍礼名所図会(九皋主人写 河内屋武兵衛蔵本)』には「観音寺(松原に有) 六十六部廻国修行者石塔(武州深川人宝暦十年此所二て病死 観音寺の前 松原二有 人々此墓に願望をかけれバ成就致スといゝ 日々参詣不絶」とある。

それはそれでいいのだが、白小石は「城恋し」から、と東洋町の記事にあった。 「天正3年7月、長宗我部兵の野根城館奇襲により野根一族は阿波国へ落ちのびていった。その途中、野根国長は燃上する城を振り返って「ああ、城恋し」と嘆いたという。それで白小石(城恋し>白小石)という地名になった」と。ブロック塀に囲まれた六部堂の左の広場奥に誠に小さな祠が祀られる。里神社というこの小祠は「野根氏や安芸氏をはじめ、安芸郡下惟宗一族の始祖とされる曽我赤兄を祭っている(東洋町の記事)」と。

野根の標石
野根の街並みを進む。昔は豪商が軒を連ねる繁華街で、四国霊場二十三番札所日和佐薬王寺と二十四番札所室戸最御崎寺の真ん中に位置するため遍路宿も多かった。戦国時代のカギ曲がり道路桝型(ますがた=カギ曲がり)道路、、高札場(こうさつば)跡、送番所跡、ぶっちょう造り民家もある。カギ曲がり道路は戦国時代に野根領主が京都へ出兵して見聞した戦略道路を野根浦の町づくりに採用したらしい。上町(うわまち)のカギ曲がり道路に対し、下町(したまち)は直線道路。ほかに寺町、中町広小路(なかまちひろこうじ)、廐屋(うまなや参勤交代の馬)、船場(せんば)などの歴史的な地名もある」と東洋町の記事にある。道の右手に標石。「是ヨリ新四 明治三十一年 左遍路」と刻まれる。
野根
野根は戦国時代、天正3年(1575)長宗我部元親に滅ぼされるまで野根・甲浦を支配した野根氏の本貫地。元は野根川を少し上った内田の地に城郭を築いたが、天文年間に野根川下流域の中村地に「野根城館」を築き、そこを本拠とした。上述「城恋し」は長宗我部元親軍の奇襲攻撃をうけ戦わずして甲浦へ逃げ、さらに阿波国へと落ちのびていった野根一族が野根城館を想ってのことではあろう。

国道493号に合流
遍路道は野根の街を出て野根川手前で国道493号に合流する。この国道493号の道筋は往昔の野根山街道。土佐湾の奈半利から野根山連山を尾根伝いに進み、この野根に至る。上述土佐北街道が開かれるまでは土佐藩主参勤交代の道であった。
遍路道は直進し野根川に架かる「みなとくぼ橋」を渡る。昭和6年(1931)建設の橋は現在人道橋となっている。
野根山街道
Wikipediaには「野根山街道は奈良時代養老年間に整備された官道で、奈良と土佐国府を結ぶ街道「南海道」の一部である。高知県安芸郡奈半利町と東洋町野根を尾根伝いに結ぶ行程約36 km、高低差約1,000 m の街道で、古くは『土佐日記』の著者紀貫之の入国の道として、また、藩政時代には参勤交代の通行路として使用された。現在は「四国のみち」環境省ルートとして整備されている」とあった。

地蔵堂(庚申堂)

橋を渡ると正面に地蔵堂(庚申堂とも)が建ち、中に木食仏海上人が刻んだと伝わる舟形地蔵が祀られる。この地蔵は標石を兼ねており、「左へんろうみち さきのはまへ四り 願主木食仏海」と刻まれる。
仏海上人
伊予北条の生まれ。全国の霊場を巡り木食の境地に入る。四国霊場巡礼二十四度。三千体の地蔵尊を刻したと伝わる。
渡し場
野根浦の船場跡
往昔、野根川に架かる橋はなく、この地に渡しがあった。メモの段階でわかったことだが、東洋町の記事に「野根浦の船場(せんば)は、渡し舟の渡し場だった。昔の旅人は野根山街道が正規の旅行ルートだが、四国遍路はここから渡し舟で野根川を渡り、室戸岬の東寺へ向かった。現在船場に[武田徳右衛門標石]、旧野根川橋西岸の庚申堂に木食仏海作の石仏があり、いずれも「東寺へ何里」と刻まれた遍路石である。木食仏海作の遍路石は地蔵ケ鼻や仏ケ崎にもある」とあった。
徳右衛門道標
徳右衛門道標?今となっては再度のことながら後の祭りではあるが、チェック。東洋町の写真にも、徳右衛門道標の一覧表にも確かに徳右衛門道標が掲載されているのだが、GOOGLE Street VIEWで渡し場後をチェックしてもあるはずの道標が写っていない。どこかに移されたのだろか。

伏越の鼻
地蔵堂から国道55号を進み野根漁港を越えると上り坂となり、伏越(ふしごえ)の鼻に。国道海側に歌碑が立つ。「産みに寄す 伏越ゆ 行かましものを まもらふに うち濡らさえぬ 波数まずして」と刻まれる。万葉集1387番の和歌で、万葉仮名では「伏超従 去益物乎 間守尓 所打沾 浪不數為而」となっている。
意味は文字通り読めば「伏越を通って行けばよかったのだけど(行かましものを)、様子を窺っているうちに、波の間合いが計れず(まもらふ)濡らされてしまった」ということだが、恋の告白との意とする記事もあった。磯に打ち寄せる波が激しければ激しいほど浪への畏れはいや増す。それはちょうど自分の恋人に対する恋しさと恐れとの混じり合った心と同じであり、『恋の告白をためらっているいる間に周囲の事情が悪くなり、結局はその恋に破れてしまった嘆きを全体として表している』とする(私の万葉集ノート NO7 著名人それぞれの万葉集談義(日本の名随筆、万葉二より))。 石碑の裏には東洋町が万葉集に詠われることを誇りとする、とも刻まれるが、この伏越が東洋町のこの地と比定はされていないようではあるが、文字通りの解釈からすればこの先に待ち受ける道なき荒磯の難所を想起させ、此の地にぴったりの歌のようには思える。
伏越番所跡
歌碑の国道を隔てた山側、すぐ上に伏越番所があったようだ。東洋町の記事には「伏越ノ鼻、国道のすぐ上にある。江戸時代、甲浦東股番所で旅人は通行手形(自国発行の身分証明書)の確認を受け、土佐一国の通行許可証を発行してもらい、土佐路に入る。野根からは、一般の旅人は野根山街道を通るが、四国遍路は海岸線を通り、24番札所室戸最御崎寺をめざす。このとき伏越番所で通行許可証に裏書きをしてもらう。淀ケ磯はまともな道路もなく、波が荒いと通れない。そんな時、この番所役人が門を閉じて旅人の通行を禁止する」とある。
真念は『四国遍路道指南』に「こゝにてかんの浦切手は裏書いつる。ふしごえ坂、是より一里よは、とびいしとて、なん所海辺也」と書く。
あれこれチェックしたが伏越番所の写真は確認できなかった。
伏越
「フシ」は柴の古語であり、柴山(フシヤマ)・伏原(フシハラ)といわれるように、柴は山野に生える雑木の総称である(民俗地名語彙辞典)。ここ野根は紀州、日向とともに日本三大備長炭の産地である。土佐備長炭の原木はウバメガシであることから、柴山はまさにウバメガシの生い茂る山と云えよう。  「フシ」は「伏」でなく「柴(フシ=ウバメガシ)」と理解したい;との記事があった。

ゴロゴロ休憩所
伏越を過ぎると次の集落のある「入木」までおよそ12キロ。山地がそのまま海に落ち込むといった断崖と荒磯の間を国道が走る。しばらく進むと道の右手に「ゴロゴロ休憩所」。
多用させて頂く東洋町の記事には「ゴロゴロの浜(とび石はね石ごろごろ石) 丸い石ばかりのゴロゴロ浜は「土佐の音100選」の一つ。波が打ち寄せ引き返すたびに丸石が転がってゴロゴロと鳴る。四国遍路がゴロゴロ石を懐に入れると弘法大師のご利益を受けるとされる。淀ケ磯は俗に「とび石はね石ごろごろ石」という。岩から岩へ飛び移り、石から石へ跳ねながら、ゴロゴロ石で転ばぬよう、荒波よせる遍路道を通ったのであった」とある。

室戸岬東岸の地質
国土地理院・地質図
甲浦辺りからの地質を国土地理院の地質図でチェックすると、付加体・砂岩泥岩互層(地質図の薄緑部)と付加体・海成層砂岩(地質図の黄色部)の地層が相互に現れ、時に堆積岩・海岸平野堆積物物の岩質が見える。この構成はこの先、佐喜浜辺りから、付加体・砂岩泥岩互層に替わり付加体・海成層の泥岩質層(地質図の薄青部)が現れ、その構成が高岡辺りまで続く、その間、 大碆の辺りには付加体・玄武岩 海成岩質の帯が東西に走り、三津漁港の手前には海成岩・玄武岩貫入岩の層(後述;地質図の紫部)が見える。
高岡漁港から室戸岬にかけては付加体・砂岩泥岩互層(後述;地質図の薄緑部)、火成岩斑レイ岩(後述;地質図の赤紫部)、付加体・砂岩泥岩互層(後述;地質図の薄緑部)となっている。
基本的には海底に堆積した砂岩・泥岩がプレートの沈み込み時などに生じた地震活動によって隆起した砂岩・泥岩層にマグマ貫入により生じた斑レイ岩や玄武岩によって海岸線が構成されているようだ。
山地が崖となって海に落ちる
で、何故に山がすとんと海に落ち込むような姿になっているのだろう?以下は地質についての素養がないため妄想。通常大地が形成されるときは地震などにより隆起と沈降を繰り返す。東海岸は海底活断層が海岸に沿って延びており、この断層の運動によって陸側が隆起し、断層崖が形成されている、とする。
それはそれでいいのだけれど、河岸段丘ではないけれど、隆起した大地には海成段丘が形成されることも多い。室戸岬西岸の土佐湾側は東岸と一変した発達した海成段丘が見られる。 この違いって?室戸ジオパークの記事に「室戸岬東海岸には沖合2,3キロのところに1000mまで落ち込む崖がある。一方、西海岸の土佐湾では沖合7キロまで100mより浅い海が続く」とあった。 浅い海であれば隆起した大地が台地として残る余地はあるけれど、一気に1000mまで落ち込むような崖に台地ができる余地はないように思える。隆起が繰り返されたとしても、台地ができることなく海底崖にスベリ落ちてしまうように思う。再度繰り返すが、まったくの妄想。なんら根拠なし。

法海上人堂
しばらく道を進むと道の右手に地蔵堂と「法海」と書かれた木標。その奥、すこし上ったところにお堂が見える。お堂の中には 宝筐印塔が祀られていた。お堂横に手水場。その右手に沢が切れ込んでいる。庄屋谷と呼ぶようだ。
「淀ケ磯橋と御崎(オンサキ)との真中あたり、昔ここに木賃宿があった。この木賃宿に法海上人という廻国行者が泊まった。ちょうどその夜は野根の神祭りで、宿の家族達は野根へ招かれて法海だけが宿に残った。翌朝、家族が帰ると米ビツの中がカラッポになっていた。疑いは法海にかかったが、彼は知らぬ存ぜぬで水掛け論になった。ついに法海は「無実の証しに亭に入る」と言って裏山に穴を掘り、生きながら墓に入り即身仏になってしまった。
法海さんは大漁の神様で、昔は室戸岬、佐喜浜、野根方面の漁師や漁協がお参りにきて、たまにはブリ一本が奉納される時もあったという。法海上人のような廻国行者を六部様とか六十六部とも言う。それで、ここの浜を「六部の浜」と呼んでいる(「東洋町の記事」より)」」 とある。
お堂の宝篋印塔は法海上人の墓石とのこと。

堂内は一坪ほどの広さで畳敷き、線香やローソクもあり。お通夜(私注;宿泊)も出来そう。その昔、遍路の避難場、休憩場所でもあったのだろう。お堂は昭和31年(1956)に佐紀浜、平成6年(1994)から7年にかけ年には野根の篤志家の手により再建、平成10年(1998)には台風の被害を受け、愛媛のお遍路さんの尽力で修復されたという。そのお遍路さんは高野山より僧籍を授与され、この庄谷法海上人堂にて得度式をあげられたとのことである。

飛び石地蔵(水尻仏海標石)
国道を進み、室戸市に入ると巨岩が屹立する地蔵ヶ鼻がある。そこに舟形地蔵。仏海上人の「飛び石地蔵」と呼ばれ、「是よりさきのはまへ一り のねへ二り半 願主木食仏海」と刻まれた丁石を兼ねる。
国道はその先で少し開けてた平地となっている入木に入る。





江戸期の遍路道
現在は快適な海沿いの道を遍路するが、道路整備される以前の遍路道は道なき荒磯を辿る難路であったよう。波打ち際を荒磯の岩伝いに歩く危険な難路であった。『梁塵秘抄』には「衣は何時となし潮垂れて、四国の辺道をぞ常に踏む」とある。
伏越ノ鼻より入木までの四里を「淀ヶ磯」と呼ぶが、その間の遍路道を「ゴロゴロ休憩所」とあったように、「ゴロゴ石」と波打つ岩音を行きながら岩を飛び、跳ねて先に進む遍路第一の難所とする。「飛び石、跳ね石」の中を進む四国第一の難所としている。
淀ヶ磯;伏越ノ鼻より入木までの四里はかつての難所(Google Mapで作成)
此の難所について、真念は『四国遍路道指南』に「ふしごえ坂、これより一里よハとびいしとてなん所、海辺也」とのみ記すが、承応二年(一六五三)四国を遍路した澄禅はその『四国遍路日記』に、「六日早天宿ヲ立テ、彼ノ音ニ聞土州飛石・ハネ石ト云所ニ掛ル。此道ハ難所ニテ三里カ間ニハ宿モ無シ。陸ヨリ南エ七八里サシ出タル室戸ノ崎へ行道ナリ。先東ハ海上湯々タリ、西ハ大山也。京大坂辺ニテ薪ニ成ル車木ト云材木ノ出ル山也。其木ヲ切ル斧ノ音ノ幽ニ聞ユル斗也。其海岸ニ広サ八九間十間斗ニ川原ノ様ニ鞠ノ勢程成石トモ布キナラベタル山ヲ飛越ハネ越行也。前々通リシ人跡少見ユル様ナルヲ知ベニシテ行也。或ハ又上ノ山ヨリ大石トモ落重テ幾丈トモ不知所在リ。ケ様ノ所ハ岩角ニトリ付、足ヲ爪立テ過行。誠二人間ノ可通道ニテハ無シ。此難所ヲ三里斗往テ仏崎トテ奇襲妙石ヲ積重タル所在リ 爰二札ヲ納」と書く。
因みに、「仏崎トテ奇襲妙石ヲ積重タル所在リ 爰二札ヲ納」と「奇岩積み重なる仏碕。ここに(爰)札を納める」とするのは上述地蔵ヶ鼻の飛び石地蔵のことと思う。
伊能忠敬も、『伊能測量隊旅中日記』の文化5年4月21日に「一今六時頃過出立野根海辺より測量始。海岸即四国八十八ヶ所遍路道に而飛石筑(跳)石ころころ石といふ岩石上を歩行道あり。夫より佐喜浜浦に至る」と「ころころ石」を飛び跳ねながらの測量を伝える。

入木(いるき)の仏海庵
山地が海に落ち込んだ断崖と荒磯の間の一本道を辿った遍路道は、入木川の河口に開けた入木の集落に入ると国道55号を右に逸れ旧道に入る。少し進むと道の右手に仏海庵があった。お堂の右手には「仏海上人百五十年法会頌徳碑 大正七年」と刻まれた石柱、左手には「是より東寺迄五里」と刻まれた徳右衛門道標が立つ。
庵に入ると祭壇、そのまま庵を裏に抜けると宝篋印塔。即身成仏した仏海を弔う。
お堂の前にあった手書きの案内には、「仏海庵 仏海は伊予北条市の生まれ。宝暦一〇年(一七六○)この地に駐錫し仏海庵を起こして淀ヶ磯難渋の遍路を救い、衆生教化に尽した。宝篋印塔を建て、明和六年(一七六九)旧十一月一日、塔下暗室で即身成仏した、七十歳。
生前全国霊場を巡り修行して木食の境界に入り、四国八十八ヶ所巡拝二十四回に及び、地蔵尊像彫刻三〇〇〇躰に達したという」とあった。

徳右衛門道標を立てた武田徳衛門も伊予今治の朝倉村の生まれ。仏海の生まれた伊予北条猿川村とそれほど遠くない。遠く離れた土佐の地に同郷のふたりの事績が並ぶ。

佐喜浜
仏海庵からの旧道を進み国道55号に出る。少し国道を進み佐喜浜の町に入る手前で国道を左に逸れ旧道に入る。佐喜浜八幡、浜宮神社を見遣り佐喜浜川に架かる佐喜浜橋(昭和4年架橋)に。通行止めのため一度国道に迂回し旧道に戻り、佐喜浜の町を抜け佐喜浜漁港の先で旧道は国道に出。佐喜浜は崎浜とも書く。
「佐喜浜城主大野家源内奮戦跡」の石碑
国道に出る手前に大きな石碑。「佐喜浜城主大野家(私注;おおやけ)源内奮戦跡」の石碑。碑には「往古天正の戦雲にあたり此の地に奮戦せし豪将勇士の冥福を祈り明治三十一年生七十三歳の同士槍掛松跡に碑を立つ」と刻まれる。
石碑の脇に「源内槍掛けの松」の案内。「佐喜浜城主の大野家源内左衛門貞義が長宗我部元親の阿波侵攻の道を開くのをはばむため戦った佐喜浜合戦は有名である。寄手300人、佐喜浜方200人がこの戦で討死したと言われる。
源内は縦横無尽に戦い、えびす堂前、本陣の前の松の木に槍を打ち掛け、一息入れ寄せ手の沢田太郎右衛門と対決したが源内左衛門は突き伏せられ、佐喜浜勢は総崩れとなり、老人、子供までも殺されて、生き残りは20~24人であったと言われる。 松は昭和6年(1931年)3月20日に倒れて今は無い」とあった。

鹿岡(かぶか)鼻の夫婦岩
佐喜浜の集落を離れ国道55号に戻る。尾崎川が開いた尾崎の集落は国道を右に逸れ、直ぐ国道に戻り立岩を過ぎると道の先、屹立する4つの岩が見える。近づくと、山側の二つは道路工事で開削された切通であった。海側が旧道開削時のもの。山側の切通が現国道の切通し。真念も「かぶか坂」とその著『四国遍路道指南』に記す。
夫婦岩は岩礁部に並ぶふたつの大岩。波触・風蝕により蜂の巣構造と風紋の表面が見える。 夫婦岩碑には、「南路志に云う往古より大晦日の晩夫婦岩の間鵜の碆に「竜燈」がともるとこの神火を地元では「かしょうさま」と云い立岩の峯々を超えて大滝の上に舞い上がり四方山麓の家々に請じ入れられて六年を迎える浄火となったと云う」とある。
鵜の碆の「碆」はやじりの石の意と言うが、海水により見え隠れする岩の意とする記事もあった。「波」と「岩」の組み合わせでできる文字。言い得て妙である。

椎名
鹿岡、清水の集落を越え椎名の湊に。椎名はかつて捕鯨で栄えた漁港と言う。椎名に漁がはじまったのは藩政期。室戸岬西岸の室津、呂津に野中兼山により港が開かれてから。この椎名で鯨漁がはじまるのは、寛永初年(1624)津呂で突取捕鯨が始まり次いで津呂、室津両港が修築され捕鯨が始まり、漁労技術がこの地に伝えられたようである。
室戸には津呂組と、浮津組の二つの鯨組があり、江戸時代のはじめから明治の終わり頃まで網と銛で鯨を捕ってた。椎名は津呂組捕鯨が進出して冬漁の基地となった。
漁法は土佐古式捕鯨と称されるもの。鯨船には勢子船、網船、もっそう船があり全部で30そうの船で漁師達が力を合わせて鯨を捕り、鯨網に追い込んで何本もの銛を打って弱らせ、船にくくりつけてから剣でとどめをさしたという。
椎名捕鯨山見跡
椎名には捕鯨山見跡があり、明治末期の古式捕鯨終焉まで営々とその役割を果たしてきた、とのことである。





日沖の大礁・大碆(おおばえ)
捕鯨山見跡の先、国道を逸れ旧道に入り椎名川開いた椎名の集落を抜け国道に復帰。少し進むと岩礁部に「大碆」と地図にある。地図には日沖・丸山海岸とある。
その岩礁部に巨大な岩が重なる。これってなんだろう?「日沖の大礁」という記事がみつかった。「三津の岩屋から日沖港北にかけて、いわゆる日沖海岸は海底火山の活動を示す溶岩や、玄武岩質集塊岩がある。枕状溶岩は、海底火山の噴出物が水によって急激に冷却され、枕状に水中で形成されたものである。上部は丸く膨らみ下部は凹んで固まるものであるから、この大礁は上下が反転している。これは陸上部の岩が転がり落ち反転したものと考えられる」とある。

国土地理院・地質図
上述の如く国土地理院の地質図を見ると、大碆の西に聳える四十寺山辺りはすべて砂岩(地質図の黄色部)か泥岩(地質図の薄青部)の付加体であるが、この大碆に続く一筋の地層だけが付加体・玄武岩(地質図の濃緑部)と表示されていた。「四十寺山層は砂岸から成るが、その基盤は玄武岩類で、大碆などに有る柱状溶岩も四十寺山層の玄武岩分布域から海岸にもたらされた巨大な転石である」と言った記事もあった。
因みに、地質図の下部の紫部は玄武岩貫入岩ではあるが付加体ではなくマグマが冷え固まってできた火成層とある。














志賀丸遭難者慰霊碑
大碆の国道を隔てた山側に「志賀丸遭難者慰霊碑」案内が立つ。「昭和十九年五月三十日、この沖合約千五百米を高知より大阪に向けて航行中の貨客船、滋賀丸約九百トンは、アメリカ潜水艦の魚雷攻撃を受け瞬時にして沈没した。
当時は報道を禁止され、詳細は不明のまま三十年が過ぎた。室戸ライオンズクラブはこの痛ましい霊を慰めるべく、極力調査の結果、幼児を含む三十七名の遭難者を確認、その御霊を祭って昭和四十九年五月三十日、眼下の波打ち際に慰霊の碑を建立した。以来毎年この命日には遺族と共に慰霊祭を行っている。平成十四年五月三十日  室戸ライオンズクラブ」とあった。
石碑は案内板の国道を隔てた岩礁部に立つ。


厄除弘法大師坐像〈中務茂兵衛建立)
一本道の国道を進むと、山側の巨岩の下の窪みに、隠れるように石造が佇む。台座を含め1.5mほどもあるだろうか。台座には「厄除弘法大師」の文字と共に「為二百二十四度目供養 中務茂兵衛 明治四十一年」といった文字が茂兵衛の在所住所と共に刻まれていた。
海の美しさに気をとられていると見過してしまいそうな場所である。


三津漁港
山地が直接海に落ちたような地形の地を進んで来た国道が、山地と岩礁の間に少し平地が開けたところに三津の漁港がある。この漁港も藩政期享保3年(1718)港の改修が行われてから捕鯨漁が行われた。漁場は日沖の大礁から室戸岬一帯の海域であった、とのことである。
国土地理院の地質図を見ると、周囲が玄武岩・貫入岩、付加体・海成層泥岩であるが、この三津の辺りが東西に付加体・海成層砂岩とある。山地と海の間に開けた平地と関係あるのだろうか。

青年大師像
高岡漁港を越えると道の右手に巨大な大師像。「室戸青年大師像」とある。昭和59年(1984)開眼。高さ21mとのこと。弘法大師生誕千百五十年を記念してのもの。











御蔵洞
少し南、山側の岩壁の下に波の侵食作用でできた洞窟がjふたつある。標識には「みくろどう」 「御厨人窟と神明窟」とある。
御厨人窟と神明窟をあわせて「みくろどう」と称するようだ。左の洞窟が大師が修行された御厨人窟。「西の窟(くつ)」とも称されるようだ。洞窟は奥行6メートルくらいだろうか、広々としたスペースの奥に御所神社が祀られている。右側は神明窟。「東の窟」と呼ばれ祭神は大日愛貴(オホヒメノムチ=天照皇大神の別名を祀る。
洞窟の入口には海蝕による落石を防ぐため鉄製の防護屋根が設置されていた。

大師の虚空蔵求聞持法の修行成就の地
大師はこの洞窟で虚空蔵求聞持法の修行をおこない、幾度も挫折したその大願を成就したと言う。大師自ら著された『三教指帰』に、「爰(私注;ここ)に一沙門有り余(私注;われ)に虚空蔵求聞持の法を呈す」とあり、その修行について「阿國大滝岳にのぼり(私;注原文旧字)攀(私注;よ)ぢ、土州室戸崎に勤念す、谷響を惜まず、明星来影す。」とある。十九歳の大師は此の御厨人窟(御蔵洞)にこもって修行され、阿國大滝岳(私注;第二十一番札所太龍寺)でも得られなかった「求聞持の法」を苦行のすえ成就した。
虚空蔵求聞持法の修行
『弘法大師伝記集覧』には、「太龍寺舎心嶽の岩上での虚空蔵求聞持法の修行も、その悉地(祈願成就)を得ることなく、ために、一命を捨て三世の仏力を加えるべく岩頭から身を投げる(捨身)も諸仏によりその身を抱きかかえられ本願を成就した」とある。
虚空蔵求聞持法の修行のことだが、虚空蔵菩薩の真言「ノウボウ アキャシャキャラバヤ オンアリキャ マリボリソワカ」を百万遍唱えることにより、一切の教法を暗記できるとする難行苦行。大師も幾度か挫折したとある。
大師自らの『御遺告』には「名山絶瞼のところ、嵯峨たる孤岸の原、遠然として独り向い淹留(おんりゅう)して苦行す。或は阿波の大滝の嶽に上って修行し、或は土佐の室生門の崎に於て寂暫して心観すれば明星口に入り、虚空蔵光明考し来て菩薩の威を顕わし、仏法の不二を現す」とあり、 虚空蔵求聞持法の修行は太龍寺、舎心嶽での苦行の末、土佐の室戸において大願成就したようである。

空海の名
青年真魚が大学を中退し入唐までの足跡は不明なことが多い。優婆塞としての修行の時代というが定説はないようだ。名も「無空」。「教海」、「如空」と改名し、空海と改名したのはこの室戸の海と空に接したこの洞窟修行での大願成就との説もあるが、延暦23年(804)、東大寺戒壇院での得度受戒の時との説が有力視されている。31歳のときである。
「法性の室戸といえど われすめば 有為のなみかぜ たたぬ日ぞなし」。勅撰和歌集に載る弘法大師作として唯一残る和歌に室戸を詠んでいる。

海蝕崖
Wikipediaにはこの洞窟を「隆起海蝕洞である。洞窟前の駐車スペースとなっている場所は波食台であり洞窟上部の崖は海食崖である」とする。室戸ジオパークの記事には「御厨人窟」と「神明窟」は、共に約1500万年前~700万年前、マグマが地下の深いところで冷えて固まった「斑れい岩」が、プレートテクトニクスによる隆起運動によって地上に持ち上げられ、太平洋の荒波に曝された断崖に発生した「海蝕洞」である。
斑れい岩そのものは緻密であるが、隆起運動による複雑な営力を受けた結果、亀裂には数多くの亀裂が発達している。その結果、岩壁はもろくなっており、随所に岩盤崩壊の跡を見ることができる。
看板の左にある三角形の岩塊は、ひょっとするとすぐ左にある垂直の壁が剥がれたものかもしれないが、周囲に堆積している土砂の様子から、かなり古いもののようである(地質的年代では新しいかもしれない」とあった。
看板の左にある三角形の岩塊とは天狗岩のことだろうか。言われてよく見ると、天狗に見えて来た。

乱礁遊歩道
御蔵洞(みくろどう)に眼前に広がる岩礁部の見どころ案内があった。地形には興味あるものの、地質は門外漢には少々荷が重く、さてどうしたものかと思いながらも、歩けば奇岩・巨岩が並ぶ岩礁の成り立ちなどに少しはフックがかかるものかと、ちょっと立ち寄ることに。

ビシャゴ岩
御蔵洞の少し北の岩礁部に屹立する大岩・ビシャゴ岩へと向かう。国道を少し北に戻ると、海岸に乱礁遊歩道へのアプローチ。国道を逸れて遊歩道をビシャゴ岩へと向かう。
「ビシャゴ岩は斑レイ岩からできている。約1400万年前、マグマが地層に貫入(入り込むこと)して固まったとされる岩で、水平に貫入したものが、その後の地殻変動により、ほぼ垂直に回転したものである。左から順に駒細かい粒ー粗い粒とマグマが冷やされたマグマの時間の長さにより模様が変わる。この岩には「おさご」という絶世の美女にまつわる伝説がある」との案内があった。



国土地理院・地質図
国土地理院の地質図を見ると、このビシャゴ岩の北と室戸岬突端部の少し手前辺りは付加体・砂岩泥岩(地質図の薄緑部)の岩質とあり、それに囲まれるようにビシャゴ岩から後述烏帽子岩あたりまで火成岩・斑レイ岩の岩質の帯(地質図の赤紫部)が室戸岬西岸に帯となって斜めに延びていた。
室戸岬は、南海トラフからユーラシアプレートの下に沈み込むフィリピンプレート帯の沿って起こる巨大地震によって引き起こされた大地の隆起により形成されたとするが、上述 「約1400万年前、マグマが地層に貫入して固まった」とは海底下で起きた活動であり、その後隆起により眼前の姿を呈したということだろう。
なおまた、「地殻変動により垂直に反転した」とはビシャゴ岩のことであり、岩礁部の斑レイ岩層は反転することもなく、「水平」なままの姿を呈している、ということかと「読む」。
おさごの伝説
津呂の町におさごという漁師がいました。おさごは、このあたり一体で、比べもののない美人だったそうですその美しさはめっそうな評判になり、毎日あっちの村、こっちの村から若衆たちがおしかけてきたそうな。
おさご見物にあんまりたくさんの人たちがやってくるので、おさごは何をするにしても人の目を意識せずにはおられなかった。それでとうとう身も心も疲れ果ててしまった。(こんなに私がつらい目にあうのもみんな美しく生まれたせいだから、そうだ汚くしよう)
 こう思いついたおさごは、顔になべずみをぬり、わざと縞目もわからぬようなぼろの着物を身にまとうた。でも、こうしたおさごの苦心の変身も、おさごの美しさに魅せられた若衆達の心をそらす事はできなかった。あまりのうとましさに、おさごは、ある夜こっそり家をぬけだし岬へむかった。ここにはたくさんの大きな岩が海に向かってそそりたっているが、その一つ「びしゃご礁にあがると「これからは、私のように、つらい娘ができませんように」こう祈ると海の中に身をなげて死んだということである。(室戸市史 下巻より)

弘法大師行水の池

ここには隆起したノッチ(波食窪)。 波食窪は海水面近くで形成されるものだが、行水の池は標高6mほど。室戸岬は現在でも1000年に1,2m隆起していると言うから、3000年頃前には海水近くにあった、ということだろう。空海修行の頃は現在より1、2メートル程低いわけであろうから、ほとんど波しぶきのかかる辺りであったのだろう。
室戸岬の山頭火
夫山頭火はその日記に、「室戸岬の突端に立ったのは三時頃であったろう、室戸岬は真に大観である、限りなき大空、果しなき大洋、雑木山、大小の岩石、なんぼ眺めても飽かない、眺めれば眺めるほどその大きさが解ってくる、......ここにも大師の行水池、苦行窟などがある、草刈婆さんがわざわざ亀の池まで連れて行ってくれたが亀はあらわれなかった、婆さん御苦労さま有難う」と書く。 
行水池はこの地、苦行窟は御蔵窟。亀の池はどこだろう。 「波音しぐれて晴れた」、「かくれたりあらはれたり岩と波と岩とのあそび」、「海鳴そぞろ別れて遠い人をおもふ」などを詠む。

ウバメガシ・アコウ
遊歩道覆う高さ2,3mの常緑樹はウバメガシ。本来は真っすぐにのびる幹だが、強風のため屈曲している。土佐備長炭の原料ともなる。アコウの巨木は岩を抱えるように根をのばす。









エボシ岩
遠くから見ると「烏帽子」のように見えることから名付けられた。この岩も斑レイ岩。花崗岩に似ているが、黒い結晶の割合が多い。










火成岩・斑レイ岩の岩質帯から付加体・砂岩泥岩の岩質層に
烏帽子岩から南は付加体・砂岩泥岩の岩質層(上掲載地質図の薄緑部)となる。縦に縞模様が刻まれる奇岩があり、タービダイトとある。タービダイトとは乱泥流堆積物のこと。砂や泥が海水と混ざった流れによって海底に降り積もってできたシマシマの地層のことです。奇岩の縦じまは水平に堆積した後、回転して立ち上がったため縦向きの縞模様になったようだ。
タービダイト層が折れ曲がり、一部バラバラになっているのは、大陸プレートに押し付けられた際に変形したた、と言う。
タービダイト
「川によって運ばれる砂粒や泥は、河口から海に流れ出て近海の海底に堆積します。厚さが増すと自重の圧力により水分が抜けて堆積岩へと変化していきますが、海底の急斜面などに降り積もった不安定な堆積物は、地震などが引き金となって、一気に深海へと崩れ落ちて行くことがあります。砂や泥などが混ざりながら一気に落ちて行きますが、その粒子の大きさにより落下速度が異なるため(砂粒の方が早く落ちる)、砂と泥がわかれて深海底に堆積します。これを「砂泥互層」、または「タービダイト」と呼びます。室戸岬の白黒ストライブの岩礁は、四国沖の南海トラフの水深4000mの海底にたまったタービダイトだったのです(「室戸ジオパーク」の記事より)。
付加体
深海に降り積もったタービダイト層は、どのようにして地上に現れるのでしょう。 日本列島に沿うように走る海溝やトラフは、海洋プレートが大陸プレートの下に沈み込む場所にあたります。海洋プレートの上には、プランクトンやサンゴの死骸、大気中を漂う塵や火山灰などが堆積しています。さらにそこにタービダイト層が加わります。これら堆積物は、海洋プレートと一緒に大陸の下に潜ることはできず、リンゴの皮を剥くように、大陸のヘリによって海洋プレートからはがされてしまいます。
行き場のないこの堆積物は、そのまま大陸のヘリに次々と押し付けられていき、新たな陸地へと生まれ変わります。これを「付加体」と呼んでいます。海洋プレートが沈み込む場所にだけ見られる陸地化の現象です(「室戸ジオパーク」の記事より)。
ホルンフェルス
砂岩泥岩層と火成岩・斑レイ岩層の接するあたりに「ホルンフェルス」堆積岩層に斑レイ岩をつくった高温のマグマが貫入し、その溶岩によって堆積岩が焼かれて変成し固くなった変成岩である。
班レイ岩(一部は玄武岩)とホルンフェルスの境界には、泥が溶けて固まった花崗岩が見られる、と。






土佐日記御崎の泊碑
海食台の上に立つ碑に「土佐日記御崎の泊」と刻まれる。この石碑の建っている場所が少し、平らな岩になっているが、これは、『波食台』。
土佐日記には室津の港を出た船は、雲行き怪しきため引き返したが、その港が室津との説とこの浜との説があるようだ。
この辺りの浜は岩礁がなく、土佐日記の掛れた頃はもっと土地と海が近く、自然の港のようになっていたのでは、と言う。
「都にて やまのはに見し 月なれど なみより出でて なみにこそ入れ」と紀貫之が詠った句に月が海から出るとあるが、それは室戸の東側でなけらば見えないでしょうと、此の地に泊まったことのエビデンスとする説もあるようだ。
なお、この場所では南海地震によって土地が隆起した跡が見られる。

弘法大師目洗いの池
目洗いの池は、空海がこの水を使って、諸人の眼病を癒したと伝えられています。どんな晴天にも干上がることがなく、水位が一定だという伝説がある、と。








国道55号に戻る
この辺りで乱礁遊歩道から国道55号に戻り、少し南の中岡慎太郎の像を見遣り、国道を戻り最御崎寺への旧遍路道取り付き口に向かう。
中岡慎太郎象
中岡慎太郎は、海援隊長の坂本龍馬とともに活躍した明治維新の勤王の志士。慶応3年11月15日(1867年)京都河原町の近江屋で刺客に襲われ、龍馬とともに落命。この時慎太郎は30才。 この像は昭和10年安芸郡青年団が主体となって建てられた。








最御崎寺への旧遍路道

旧遍路道取り付口
国道山側に逸れる舗装された坂道。入り口にはいくつもの最御崎寺(ほつみさき)への案内が立つ。4mほどの石柱には「四国第廿四番霊場東寺最御崎寺」と刻まれる。「室戸岬灯台徒歩20分」、木標で「捻岩」、その他多くの歩き遍路タグが貼られる。その入り口の少し先に標石。手印と供に「へんろみち 大正五年」といった文字が刻まれる。


大師一夜建立の岩屋
坂を上ると直ぐ広場。岩場に洞窟が見える。洞窟入り口「第廿四番奥の院」の石碑が立ち、七観音と大師像が並ぶ。間口が幅1.2m,高さ2.3m,奥行き9mの洞内には小さ祠が祀られていた。
案内には「空海(弘法大師)が一夜で建立したと伝えられる岩屋で、現在、最御崎寺の奥の院。
寺伝では、空海が唐からお持ち帰りになった石像が安置されていた場所。
明治初年までは、女性の納経所はここにあって、本堂には登らず女道を通って25番行ったところです」とある。
空海が唐からお持ち帰りになったと伝わる石像は如意輪観音。江戸時代に発見されたと言う、地元の漁師が大量祈願で石を欠きとり一部破損しているようだが、平安時代作の大理石像は珍しく、重要文化財に指定され現在は最御崎寺の宝物殿に保管されているようだ。
最御崎寺は明治初年まで女人禁制であり、ここで札を納め室戸の岬を廻り次の札所に向かった。 尚、この地に求聞持堂があるとの記事が多いが、現在はお堂はなくかっていた。
寂本は「四国遍礼霊場記」 に「山下の岩窟口の広さ六七尺、奥へ入事六七間、内に如意輪観音の石像長二尺ばかり也。竜宮よりあがり玉ふとも云。人間のわざとは見えず、あやしむべしとなり。巨石にて厨子あり、内に二金剛を置。両とびらに天人あり、皆うけぼりにしたり。心目をまじゆるにあらずば、言語ののぶる所をもて察すべきに非ときこゆ。
東の大窟、奥へ入事十七八間、高さ1丈或は二丈三丈の所もあり。広さ二間三間或は五間十間の所もあり。太守巨石を以、五社を建立せられ、愛満権現と号す。是はむかし此窟中に毒竜ありて人民を傷害しけるを大師駆逐して、其迹に此神を鎮祠し玉ふとなり。
又其東に窟あり、天照大神の社あり、坂半に聞持堂あり。坂より上は女人禁制なり」と記す。

捻岩
広場の洞窟対面には忠魂碑。昭和40年建立。日清戦争以降の戦没者の霊を祀る。最御崎寺への遍路道はこの忠魂碑脇、ブロック塀の脇の道に入る。入り口には「最御崎寺 本堂 六九六米」と刻まれた標石が立つ。
コンクリートで固められた石段を数分のぼると「捻石」の案内。大師の母である玉依御前が、修行中の大師の身を案じてここを訪れた際ににわかに暴風雨となったため、大師がこの岩を捻じってその中に避難させた と伝えられる。

最御崎寺・室戸スカイライン分岐
山道途中に休憩もあるのだが、木々が邪魔して展望は効かなかった。捻岩から20分弱、コンクリート石段も切れ、石の敷かれてた山道を上り、高度を100m弱上げると最御崎寺と室戸スカイライン分岐の木標が立つ。その木標を最御崎寺方向に向かい数分、室戸岬への分岐点を越えて最御崎寺山門前に出る。



第二十四番札所最御崎寺(ほつみさきじ)

山門
山門は仁王門。4mほどの仁王像。寛永十年の作と伝わる。
岩見重太郎・薄田隼人の塚
山門右手に小堂。「岩見重太郎・薄田隼人の塚」とあり、「生没年 慶長20年5月6日 豊臣秀吉に馬廻衆として仕えたと伝わる。秀頼には三千石で仕えていた。剣の道を極めるため、諸国を武者修行の旅に出たが、天橋立での仇討の助っ人をした話や信州松本の吉田村で狒々退治をした話など著名。大阪冬の陣と言われる慶長19年11月には大いに戦って有名をとどろかし、さらに翌元和元年五月の夏の陣では、ついに惜しくも戦死したと伝えられる」とあった。 豪傑岩見重太郎の狒々(ひひ)退治伝説は、全国各地に残る。団塊の時代の我々世代はよく知る名前である。
薄田隼人は講談で名高い岩見重太郎のモデルと言わる武将。豊臣秀頼に仕え大阪冬・夏の陣に参戦した。岩見重太郎は薄田隼人をモデルに、各地に残る狒々や大蛇退治といって豪傑伝説を取り入れ、講談家の手により創り上げられた人物のようである。
お堂の中には宝篋印塔の石を活用した五輪塔が祀られている。

本堂・大師堂
仁王門を入ると右手に幾多の石仏が並ぶ。その先に袴腰造の鐘楼堂。慶安元年(1648)建立。次いで虚空蔵菩薩石像、多宝塔などが建る。
左に大師堂。大師堂右側に徳右衛門道標が立つ。「是ヨリ津寺迄一里」と刻まれる。この先左手に手水場、納経所があり正面に本堂が建つ。

本堂裏には霊宝殿、聖天堂、護摩堂などが並び、最奥の宿坊である遍路センターの建物内には遍路休憩所がある。

Wikipediaには「最御崎寺(ほつみさきじ)は、高知県室戸市室戸岬町にある真言宗豊山派の寺院。室戸山(むろとざん)、明星院(みょうじょういん)と号す。本尊は虚空蔵菩薩。土佐で最初の札所である。
室戸岬では東西に対峙している第二十六番札所の金剛頂寺を西寺(にしでら)と呼ぶのに対し、東寺(ひがしでら)と呼ばれる。寺号は「火つ岬」(火の岬)の意。
空海は都での学問に飽き足りず、19歳の延暦11年(792年)頃からの約5年間、山林修行を続けた。空海の『三教指帰』には「土州室戸崎に勤念す」(原文は漢文)とあり、室戸岬にほど近い洞窟(御厨人窟)で虚空蔵求聞持法に励んだとされる。
寺伝によれば空海は大同2年(807年)に、嵯峨天皇の勅願を受けて本尊の虚空蔵菩薩を刻み、本寺を開創したとされる。当初は奥の院四十寺のある四十寺山頂にあり、現在地に移ったのは寛徳年間(1044年 - 1055年)頃といわれている。
嵯峨天皇以降歴代天皇の信仰が篤かった。延久2年(1070年)の『金剛頂寺解案』(こんごうちょうじげ あん)によれば、現・室戸市域の大部分が金剛頂寺(西寺)の寺領となっており、最御崎寺(東寺)は金剛頂寺の支配下にあったことが窺われる。鎌倉時代末期から室町時代初期にかけては、金剛頂寺の住持が最御崎寺を兼帯していた。正安4年(1302年)には後宇多上皇から寺領を寄進されているが、これは京都槇尾西明寺住持で東寺・西寺の住持を兼帯していた我宝の尽力によるものであった。
暦応4年(1341年)、足利尊氏によって土佐の安国寺とされる。その後火災により焼失したが、元和年間(1615年 - 1624年)には土佐藩主山内忠義の援助を受け僧の最勝が再興する。堂塔を建立、七堂伽藍を有したという。明治に入って神仏分離令によって荒廃するが、大正3年(1914年)には再建された。また、女人禁制の寺で岬からの登山口脇にあった女人堂から拝んでいたが、明治5年に解禁された。阿南室戸歴史文化道の指定を受けている」とあった。
〇ほつみさき
Wikipediaに「寺号は「火つ岬」(火の岬)の意」とある。「火つ岬」>ほつみさき>最御崎ということだろうが、「ほつ」に「最」をあてる?あれこれチェックするが「最」を「ほつ」と読むのは「最手:ほて、ほって(優れた腕・技;横綱)」の一例しか見つからなかった。それも、何故「ほて、ほって」と読むかわからない。何故だろう。

クワズイモ畑
本堂すぐ横には空海の七不思議のひとつ「くわずいも」の伝説にちなんだクワズイモ畑がある。昔、土地のものが芋を洗っているところに弘法大師が通りがかり、その芋を乞うたところ「これは食えない芋だ」といって与えなかった。それ以来ほんとうに食べられなくなったと伝えられる。現在は胃腸の薬として利用される。


鏡岩
本堂参道左手に鏡岩。サヌカイトの石塊。握りこぶしほどの丸石で叩くと、その音は冥途まで届くと言う。
空海の七不思議
空海の七不思議としてつたわるのは上、くわずいも、 鐘石。既述の観音窟、行水の池、目洗いの池、 ねじれ岩。そして 明星石。
明星石には出合っていない。寂本の「四国遍礼霊場記」には、「大師修行の時、来影せる明星はき出し玉へば五色の石となり、いまにあり、今明星石といふ是也とかや。山下に光明石と云有、大師勧修の時竜
鬼障碍をなしける時、呪伏して涕唾し給ふに、傍の石に付て光明ありしかばいふとなん」と、星のように光を放ち、毒龍の妨げを防いだという伝説の石と記す。
あれこれチェックすると、特定の石ではなく、室戸岬に分布する斑レイ岩のことのようだ。別名は明星石と呼ばれるが、これは、空海が金星(明星)を見ながら修行をしたことと、斑レイ岩がキラキラと光って星のようだからということから名付けられた、と室戸ジオパークの記事にあった。

室戸岬灯台
仁王門まで戻り、少し坂をくだると岬突端に室戸岬灯台が立つ。眼前に広がる太平洋の眺めは、いい。案内には「室戸岬灯台 日本一の一等レンズ 四国の南東端に位置する室戸岬灯台は、明治32年(1899年)4月1日に完成した。その後、昭和9年(1934年)の室戸台風と戦災、昭和21年(1946年)の南海地震で灯台のレンズが破損し、修理を行いました。
鉄造りの灯塔はほとんど被害はなく、建設当時の姿を残しています。光源は、最初石油を使用しておりましたが、大正6年(1917年)12月に電化されました」とあり、光の届く距離は約49キロメートルで日本一の光達距離。日本一第1等レンズの「日本一」はこの光達距離を指すのだろう。
一等レンズ
第1等レンズとはレンズ直径 259 cm、焦点距離 92 cmのことを指す。を使用した灯台で、第1等レンズをもつ灯台を第1等灯台と呼び、日本では、現在5ヶ所しかない。
レンズの大きさには第一等から第六等まで(第三等は大・小二種)の計7種類に分けられる。

今回のメモはこれでお終い。次回は最御崎寺から室戸岬西海岸の土佐湾に面した札所を辿る。

阿波最後の札所・薬王寺の次は土佐の最御崎寺(ほつみさき)。薬王寺のある日和佐から最御崎寺のある室戸岬突端部まではその距離おおよそ80キロ。今回のメモは日和佐の薬王寺から阿波と土佐の国境まで、おおよそ50キロの遍路道をメモする。当日、実際にこの距離を歩いたということではない。メモの区切りとして国境という響きがよかろうというだけの理由である。
ルートは薬王寺を離れ、日和佐川に沿って県道36号を進む奥の院泰仙寺道を選んだ。薬王寺門前の自然石標石が「奥之院玉厨子山 是ヨリ二里」と刻み、茂平道標が「東寺へ二十一里」と北を指すその道筋が奥の院道である。
茂兵衛道標の手印に従い国道55号を少し北に戻り、日和佐川手前で県道36号に乗り換え、西河内集落を越え奥の院泰仙寺との道を分ける落合に。奥の院道を選びながら、時間の都合もあり奥の院泰仙寺をパスするという為体(ていたらく)ではあったが、落合から南に下り、日和佐川支流の山河内谷川を上流へと進み、山河内集落で国道55号筋に合流。
山河内からは国道55号に沿って山河内谷川の源流域まで詰め寒葉峠を越える。峠は分水界となっており、峠を越えると牟岐川水系の橘川に沿って国道55号を進み、川又で牟岐川に合流。海岸部に開けた牟岐の町へと牟岐川を下る。
牟岐から浅川までの12キロほどは、「土佐街道」の標識を目安に国道55号と「土佐街道」を出入りしながら進む。この区間はその昔、八坂八浜と称され八つの丘陵と浜を上り下りした遍路泣かせの難路であったとのことだが、それは今は昔のお話。いくつかはそれらしき風情の土径旧道が残るものの、現在は道路整備されており、どこが難所の八坂八浜かメモの段階で特定するのに苦労したほどではあった。
それはともあれ、浅川からは丘陵を越えて海部に入り、那佐、宍喰を経て甲浦手前の阿波と土佐の国境に着いた。

常のことながら、メモの段階でわかったことだが、今回も「後の祭り」が多くあった。薬王寺からの山河内集落に出る遍路道も、今回歩いた奥の院道のほか、現在の国道55号筋を進む「横子峠」越、丹前峠越のふたつのルートがあった。
また山河内から牟岐に出る遍路道も、丘陵を越えて海岸の集落である水落に下り、海岸線を牟岐に向かうルートもあった。『四国遍路日記』の澄禅の辿ったルートとも推定されている。
海部から宍喰への遍路道も今回歩いたルート以外に、馬路越、居敷越といった峠越えのルートがあった。
宍喰から土佐の甲浦への道も今回歩いた岬寄の道の他、宍喰峠越えのルートもあった。

歩く前は、今回は国道沿いの遍路道で少々味気ないなあ、なとど思っていたのだが、ちょっと調べれば「峠萌え」にはフックのかかるルートがいくつもあった。阿波の南東部は四国遍路を一巡した後、「後の祭り」フォローアップに出かけてもよさそう、なとど思っている。 ともあれ、メモを始める。

本日のルート;23番薬王寺>落合橋南に標石>国道55号交差箇所に茂兵衛道標(210度目)>打越寺>辺川集落の標石2基>小松大師>東川又地蔵堂の標石>山頭火歌碑>牟岐>大坂峠取り付き口( 八坂八浜:最初の坂 )>大坂峠>標石>草履大師>内妻の浜(八坂八浜:最初の浜)>内妻トンネル手前左に逸れ松坂峠取り付き口に(松坂;八坂八浜2番目の坂)>松坂峠>古江浜(八坂八浜;2番目の浜)>福良坂(八坂八浜;3番目の坂)>福良浜(八坂八浜;3番目の浜)>鯖江坂(八坂八浜;4番目の坂)>鯖大師>鯖瀬浜(八坂八浜;4番目の浜)>萩坂(八坂八浜;5番目の坂)>大綱浜( 八坂八浜;5番目の浜 )>鍛冶屋坂( 八坂八浜;6番目の坂 )>鍛冶屋浜( 八坂八浜;6番目の浜)>栗浦坂( 八坂八浜;7番目の坂 ) >栗ノ浜( 八坂八浜;7番目の浜 ) >仮戸坂( 八坂八浜;8番目の坂 ) >三浦浜(八坂八浜:8番目の浜 )>大郷の標石>海部の町に入る>那佐湾>宍喰(ししくい)>古目大師>宍喰浦の化石漣痕(国指定天然記念物)>金目番所跡


●第二十三番札所・薬王寺●

門前町である桜町通りを直進し、国道55号の交差点を渡ると正面に第二十三番札所薬王寺の山門が見える。
茂兵衛道標・自然石標石
山門手前、短い厄除橋の右側に茂兵衛道標。主面に「東寺へ二十一里 伊予国三角寺奥の院」、左面に「平等寺 五里余」 、右面には「明治山十六年」のも文字と共に添歌「鶯や法 ゝ 希経の乃りの聲」(うぐいすや ほうほけきょの 乃りのこえ)が刻まれる。
東寺とは次の24番札所最御碕寺のこと。26番札所金剛頂寺を西寺と呼ばれることと対をなす。手印は東寺へと北を指す。それはそれでいいのだが、ここに伊予の最後の札所三角寺奥の院()の案内がある理由はなんだろう?

厄除橋の左側には自然石の標石。「奥之院玉厨子山 是ヨリ二里」とある。玉厨子山とは薬王寺奥の院泰仙寺のことである。
山門
厄除橋を渡り石段を上ると山門。山門を潜り順路は左に折れ厄坂の石段を上る。最初は三十三段の女厄坂。
石段を上ると屋根のついた拝殿。中に臼と杵が置かれる。抹香臼、厄除杵と称される。臼の中には抹香が入っており、厄除杵で厄年の数だけ搗き厄を落としたとの話が残る。

本堂・大師堂
男厄坂四十二段を上ると境内。正面に本堂。本堂左に大師堂。大師堂から鍵型に曲がって繋がる地蔵堂、そして十王堂。十王堂には冥土で亡者の罪を判断する裁判官といった十王が祀られる。


十王
秦広王(初七日 不動明王)、初江王(二七日 釈迦如来)、宋帝王(三七日 文殊菩薩)、五官王 (四七日 普賢菩薩)、閻魔王(五七日 地蔵菩薩)、 変成王(六七日 弥勒菩薩)、泰山王(七七日 薬師如来)、平等王(百 ヶ日 観世音菩薩)、都市王(一周忌 勢至菩薩)、五道転輪王(三回忌 阿弥陀如来)。十尊に対応する不動明王などは、十尊の本地仏とするが、それは鎌倉時代に考えだされたもの。
生前に十王を祀れば、死して後の罪を軽減してもらえるという信仰ゆえの十王堂であろう。

肺大師
と大師堂の間には鎮守堂と肺大師の小祠。肺大師に祀られる弘法大師石像台座からは瑠璃の水と称される霊水が湧き出す。ラジウムを含んだ水であり、肺疾患に霊験あらたかと伝わる。そういえば、国道55号脇の薬王寺駐車場横に薬師の湯という温泉施設があった。このお山一帯からラジウム含有の水が涌くとのことである。
瑜祇塔
本堂右手、男女坂と称される厄坂であり61段の石段を上ると瑜祇塔。昭和39年(1964)の建立。弘法大師四国八十八ヶ所の霊場を開創1150年、また、翌40年(1965)は高野山開創1150年に当たることからこれを記念して建立されたもの、とあった。
瑜祇塔は高野山以外に例を見ないと言う。屋根の中央と四隅に立つ相輪を瑜祇五峰と称し、五智の象徴として金剛智を示し、周囲8柱が胎蔵の理論を表すようだ。そして屋根の下の円筒形と四角の一重の塔をして金剛・胎蔵両部不二を象徴すると、する。ふたつの相対するものが一つになることを建物で示している。門外漢にはよくわからないが、この両部不二という、真言密教の経典である瑜祇経を建物の姿で象徴しているの、かも。

瑜祇塔は正式名、「金剛峰楼閣瑜祇塔」。高野山の寺名金剛峰寺の由来となるものであり、弘法大師が重要視した瑜祇経を後世お堂の形で建立されたもののようである。






23番札所薬王寺から奥の院道を辿る

山門を出て次の札所へのルートを想う。薬王寺の門前の自然石標石が「奥之院玉厨子山 是ヨリ二里」と刻み、茂平道標が「東寺へ二十一里」と北を指す。
当日はこの薬王寺奥の院道を歩くことにした。薬王寺から奥の院泰仙寺を経て東寺(第24番最御崎寺へと向かう遍路道は、門前より国道55号を北に向かい日和佐川手前で左折し。日和佐川に沿って県道36号を進み、西河内の集落を経て山河内谷川合流点から県道を離れ、山河内集落に出る。
このルートは澄禅が辿った道と言う。薬王寺から先の記述は「右ノ道ヲ一里斗往テ貧シキ在家二宿ス」とあるだけであるが、この短文から泊まったのは日和佐川筋の西河内集落と推定してのことと言う。
その他の遍路道
当日は迷うことなく奥の院道を辿ったのだが、メモの段階で地図を見ていると、山河内集落への往還としては、どう見ても現在の国道55号筋が自然では?チェックするとそのルートは往昔の土佐街道・横子越えの往還であった。奥の院泰仙寺参詣を目することがなければ当然のこととしてこのルートを辿ったお遍路もいただろう。


横子峠越え・土佐街道の遍路道
現在の国道55号に沿って奥潟川の谷筋を進み、日和佐トンネル(昭和45年;1970年開通)を抜け山河内谷川筋に下ると山河内集落に出る。日和佐トンネルが出来る前は日和佐トンネル傍の横子峠を抜けていた。峠には弘法大師像とへんろ標石があtったようであり、へんろ道として利用されていた。標石には「是より東寺迄」と刻まれる、と。昭和7、8年(1932、1933)ごろまで横子越えの土佐街道は利用されていたようである。
昭和7、8年以降利用されなかった理由は?日和佐川に沿って西河内、山河内へと繋がる道路が整備されたということだろうか。単なる妄想。根拠なし。
奥潟川筋の真念道標
この道が遍路道であるとのエビデンスはないかとチェック。薬王寺から国道55号を南に進み、JR牟岐線と交差する傍の旧路に真念道標が立つ。真念が歩いた遍路道ということかと推測できる。
土佐街道・丹前峠越
チェックの過程で更にもうひとつの遍路道・土佐街道が見つかった。藩政時代の土佐街道は薬王寺から日和佐川を上り、丹前から山入りし丹前峠を越えて山河内谷側筋の府内におりてきたようである。上述横子越えの土佐街道が開かれる前の土佐街道である。
奥潟川筋ではなく尾根筋を進む道に街道が開かれた理由は不詳であるが、思うに往昔の街道道の定石を踏まえたものであろうか。土木建設技術が確立する以前の街道は、土砂崩れ・崖崩れの多い谷筋を避けて道の安定した尾根を通るのを基本とするケースが多い。
丹前峠の道筋には特段遍路標石は残らないようだが、土佐街道を歩いたお遍路もいたのでは、と選択肢に入れる。

落合橋南に標石
北河内谷川と日和佐川が合わさる辺りで国道55号を左に折れ、県道36号を日和佐川に沿って上流に向かう。左手に上述藩政時代の土佐街道への取り付口である丹前、澄禅が一夜の宿を借りたとされる西河内の集落と蛇行する川筋に沿って進む。
西河内からほどなく日和佐川と山河内谷川が合流する少し南に落合橋。落合橋を渡り県道を進むと薬王寺の奥の院。遍路道は山河内谷川にそって南に進む。
奥の院を訪ねようかどうしようかと思案。奥の院道を辿りながら奥の院にお参りしないって、それはないよな、などと少々悩みながらも、どうしても段取り上時間が足りず今回はパスする。

落合橋を少し南に進むと集落。道端、道路開通の石碑の横に2基の標石。1基は自然石の標石。手印だけが刻まれる。その横の標石には「二十三番薬王寺  玉厨子山 泰仙寺」と刻まれていた。
奥の院泰仙寺
本尊は如意輪観世音菩薩である。玉厨子山(標高540m)の中腹にあり、1188年薬王寺が焼失したとき本尊の薬師如来が飛び出し、この地にとどまり輝いたという。さらに約50mほど上ると大岩があり小さい祠が祀られていて、ここの奥之院がある。駐車場はあるが寺まで徒歩で約40分かかる(Wikipedia)。

国道55号交差箇所に茂兵衛道標(210度目)
山河内谷川上流に向かって南に進む。途中、藩政時代の丹前峠越えの土佐街道が下りてきたであろう府内の集落を越え、道は国道55号とクロスする。その角、南側に2基の標石。上述横子峠越えの遍路道はこの辺りに出てきたのだろう。
1基は茂兵衛道標。「薬王寺 左 東でら 左新道 明治四十年」といった文字が刻まれる。茂兵衛210度目巡礼時のもの。道標の手印の指す方向は間尺に合わない。手印と札所を合わすとすれば、180度回転させなければならない。道路建設に際し、どこかから移されたものだろう。それに合わせて道標にある「新道」の方向は傍の国道に抜いたトンネル方向を示す。グルリと丘陵を迂回する旧道をショートカットする道でもあったのだろうか。「東でら」は最御崎寺のこと。
もう1基は「是ヨリ三十丁 明和二年 左奥之院玉厨*」といった文字が刻まれる。

打越寺
国道トンネル南ををグルリと廻る旧道を進む。牟岐線山河内駅の傍、道の右手に「駅路山打越寺」の寺標石。三十段の石段を上ると庫裏というか、民家といった風情の建屋。境内(?)を歩くのはちょっと躊躇われ、すぐに石段を下りる。なんとなく狐につままれたように思いながらも、当日は旧道を進み打越寺の裏山を抜けるトンネル西口に出た。
打越寺大師堂
メモの段階で地図を眺めていると、国道55号傍に立派なお寺が建ち、打越寺とある。広い境内には堂宇が建つ。案内には「当山縁起 当山は約四百年の昔、慶長三年(1598)初代藩主蜂須賀家政公が藩内の重要な街道に沿った真言宗の八ヶ寺を当時困難を極めた遍路・旅人を助けることを願して、専ら慈悲を肝要とする駅路寺を制定され、それより駅路山打越寺を号しました、
当山では同行二人のご誓願を具現すべく弘法大師をご本尊としておまつりしています。
此所は、日和佐川上流、山河内字なかに所在し、川をはさんで山が両岸に迫り、左岸に一条の土佐街道が通じており、寺は街道を見下ろす高台に位置し交通の要衝関所でありました(江戸初期の澄禅遍路日記より)。
現在は土佐街道も国道55号線となり、寺の裏山を通ることになり、ここに駅路寺開創四百年を記念し檀信徒の協力を得て、大師の誓願、蜂須賀公の遺願に元く大師堂を建立、脇侍に不動・愛染の二大明王をまつり興王利生とこの街道を往来する人々の心身の安穏を日々護摩法を修し祈願するものであります(後略)」とあった。
堂宇は国道建設に伴い新築された大師堂のようである。当日訪れた民家風の建屋は本堂とのことではあるが、なんとなく駅路寺打越寺旧跡といった「立ち位置」のように思える。
澄禅
案内に澄禅の日記に打越寺の記述がある、とするが澄禅の『四国遍路日記』には打越寺の記述は全くない。真念の『四国遍路道指南』には「ここにうちこし寺、真言道場 遍路いたはりとして国主より御建立」とある。また、『四国遍礼名所図絵』には「打越寺(往還の右の山ノ側有 遍路人為大守様御建立)」とある。記載内容からすれば『四国遍礼名所図絵』の記事が最も近い。

辺川集落の標石2基
遍路道は国道55号を西に進む。山河内谷川の上流部に沿って国道を時に旧道に逸れながら源流部に。その先に寒葉坂。この坂は日和佐川水系と牟岐川水系の分水界となっており、坂を越えると牟岐川水系の支流・橋川が西に下る。峠は海部郡日和佐町と海部郡牟岐町の境となる。 遍路道は牟岐線返川駅の手前で国道55号から右に逸れ、段丘下の平地に下りる。その分岐点の傍に標石2基。右手の標石には「右 二十四」と読める。方角が真逆であり、道路工事の際にでも移されたものだろう。左手の標石らしき石柱の文字は読めなかった。
国道を逸れ段丘崖下の耕作地を進む、橋川に架かる返川橋を渡り道を進むと、民家石垣にも標石があった。

小松大師
段丘崖下の道が国道55号に合流する手前、右手の一段高いところに小松大師がある。小松はこの辺りの地名である。
境内にお堂。大師坐像が祀られる、と。縁起では、17世紀中頃大阪難波の石工が三尺の大師坐像の注文を受ける。と、夢枕に弘法大師が現れ、阿波の小松の里に送るようにと伝えた、とのこと。 境内には自然石、地蔵尊像が刻まれた六部供養碑。「六十六部回国供養塚 慶応二」といった文字が刻まれていた。

東川又地蔵堂の標石
国道55号を進み、橋川が牟岐川に合流する地点、現国道に架かる牟岐橋手前から左に逸れる旧道があり牟岐川に橋が架かる。人道橋であるその橋の手前にコンクリート造の祠。2基の地蔵が祀られたこの東川俣地蔵堂傍に標石。「右四国二十四番 東* 左牟岐町」と刻まれる。「東」は何度か登場した東寺と称される24番最御崎寺のこと。

山頭火歌碑
人道橋を渡り国道55号を進む。牟岐町川長関に入ると道の右手に石碑があり、「山頭火 宿泊の宿長尾屋」とある。石碑には、「山頭火 宿泊の宿長尾屋 「しぐれてぬれてまつかな柿もろた」 途中、すこし行乞、いそいだけれど牟岐へ辿り着いたのは夕方だった。よい宿が見つかってうれしかった、おじいさんは好々爺、おばあさんはしんせつでこまめで、好きな人柄で、夜具も賄もよかった、部屋は古びてむさくるしかったが、風呂に入れて貰ったのもうれしかった、三日ぶりのつかれを流すことが出来た。
御飯前、一杯ひっかけずにはいられないので、数町も遠い酒店まで出かけた、酒好き酒飲みの心裡は酒好き酒飲みでないと、とうてい解るまい、 昭和十四年十一月三日山頭火日記抄」と刻まれていた。
山頭火は自由律の俳句で知られる旅に生きた歌人。山頭火は2度四国遍路の旅に出ているが、この句は2度目のもの。歌碑に彫られた句は当日の日記にある16の句のひとつ。宿の夫婦の何気ない心配りが、いい。
山頭火2度目の遍路
昭和14年(1939)10月5日に松山を出て遍路するも、旅は11月16日に「行乞は辛い」と中断。松山に戻り松山在住の句人高橋一洵の奔走でみつけた「一草庵」を終の住処とした。「落ち着いて死ねさうな草枯れる」は一草庵で詠んだもの。
「うしろすがたのしぐれてゆくか」「分け入っても分け入っても青い山」「まっすぐな道でさみしい」などの句が、情感乏しきわが身にさえ、なんだか刺さる。

牟岐
国道55号を進み、牟岐線牟岐駅を越えた先で右にカーブする国道と分かれ直進し牟岐の町に入る。牟岐中央商店街とかかれた道筋が遍路道。時に往時の商家の風情を残す建屋を見遣りながら道を直進し、牟岐浦神社で右折し瀬戸川に架かる八坂橋を渡り、牟岐の街を出る。
牟岐川の左岸である牟岐浦は古くからの漁港・港町、一方牟岐川右岸の中村を中心とした地区は商業の町と性格を異にした。中世には牟岐川筋の木材を集めた積出港として賑わい、藩政期には公用船への水や薪を供給したり、加子役(船をこぐ者)を勤める、労役を課された浦、「加子浦」に指定され、藩営の水揚場が設けらえるなど、往時の陸海交通の要衝であったよう。

水落廻りの遍路道
メモの段階で澄禅の遍路日記を見ていると、澄禅は打越寺のある山河内から先は、今回歩いた寒葉峠越えの道ではなく海岸ルートをとったと推測する記事があった。ルートは山河内から南へ白沢(はくざわ)川筋を遡上し、白沢集落から山入。標高400mピークを越え海岸線に出て、海岸沿いの水落の集落を経て牟岐に向かったとする。「山河内から海にかかる」といった記述からの推定ルートではある。参考の為推定ルートを載せておく。



八坂八浜

大坂峠取り付き口(八坂八浜:最初の坂)
橋を渡った遍路道はそのまま直進し、右手下に国道55号を見遣りながら丘陵の坂を上る。ほどなく道の右手に「旧へんろ道 八坂八浜の大阪峠 草履大師へ」の案内と大阪峠から草鞋大師へのルート図があった。
傍にあった案内には「八坂八浜とへんろ道(旧土佐街道):牟岐町から浅川(海陽町)に至る「八坂八浜(やさかやはま)は、12kmの間に、八つの坂と八つの浜があり、駄馬も通れない「親不知子不知(おやしらずこしらず)」と言われ、波の荒い時は、道を洗い交通不便な難所であった。「草鞋大師」から内妻の浜に下る小道が昔の土佐街道である」といった記述があった。
八坂八浜(やさかやはま)
散歩当日はこの大坂での案内の他、時に現れる旧土佐街道の峠越えの標識を見る以外、特段八坂八浜と明記した標識はなかったように思う。地図には、後程訪ねる鯖江の手前の浜に「八坂八浜」と記されており、その辺りが八坂八浜かとも思いながら道を歩いたわけで、道路整備ゆえか難路・険路の風情は消え、当日は知らず八坂八浜を歩いていた。で、メモの段階で改めて八坂八浜って何処?とチェックした。
真念
真念は『四国遍路道指南』に「右、八坂々中、八浜々中の次第。○逢(大)坂。○うちすま(内妻)。○松坂。○古江。○しだ坂。○福良村。○福良坂。○鯖瀬村。○はぎの坂。○坂中大砂という浜。○かぢや坂。○粟ノ浦坂過ぎ、天神宮有り。伊勢田川、潮満ち来れば、河上へ廻りて良し。○伊勢田村。○浅川浦、大道より左に町有り。○いな村観音堂あり。この村市兵衛、宿を施す。○からうと坂。これまで八坂々中八浜々中」と書く。
高群逸枝
詩人で女性史学の創設者として知られ、大正7年(1918)に遍路に出た高群逸枝は、その著 『お遍路』に、「北から順に坂は、大坂、松坂、福良(ふくら)坂、 鯖瀬(さばせ)坂、萩(はぎ)坂、 鍛冶屋(かじや)坂、栗浦(くりうら)坂、 借戸(かりと)坂、であり、浜は、内妻(うちづま)浜、古江(ふるえ)浜、 福良浜、鯖瀬浜、大網(おおあみ)浜、鍛冶屋浜、 走(はしり)浜、三浦浜である」とする。 〇司馬遼太郎 また、司馬遼太郎は『空海の風景』に、「牟岐からむこうで、頻繁に小入江が連続している。海浜の崖や山をよじ登っては、小さな入江に すべり落ちてゆく。坂の名と浜の名とを挙げると、大坂を降りると内妻(うちづま) の浜である。松坂を降りれば古江の浜であり、歯朶(しだ)坂の急峻をおりれば 丸島の浜である。福良坂をおりれば福良浜があり、萩坂をおりればしろぼの浜になる。 鍛冶屋坂につづくのが苧綱(おつな)浜であり、楠坂のつぎが桶島浜、 借戸坂のつぎが三浦浜である。この連鎖してゆく小さな入り江ごとに何人かの人間が住んでいたかもしれないが、 しかしこんにちでも浜におりるとなお無人にちかい。この入り江群の沖はすでに外洋であり、その風濤の たけだけしさが、人の住まうことを拒絶しているのであろう。空海はときに無人の浜に出て海藻や貝を ひろったにちがいない」と書く。
Wikipedia
Wikipediaは、「牟岐浦から南へ、大坂・松坂・福良坂・鯖瀬坂・萩坂・鍛冶屋坂・粟浦坂・借戸坂の8つの坂と、内妻浜・古江浜・福良浜・鯖瀬浜・大綱浜・鍛冶屋浜・栗ノ浜・三浦浜の8つの浜からなる」とする。
それぞれ微妙に地名が異なるが、これらの地名を頭に入れ、少々後付けの感は否めないが、以下知らず当日歩いた道を八坂八浜と合わせながらメモすることにする。

大坂峠
取り付き口から道を上る。尾根筋に乗った辺りで左手に浜が見えてくる。上り始めて20分強で大坂峠に。案内に、「大坂峠は、八坂八浜の最初の峠で、街道がそのまま残っている。峠の高さは97mで、そこには内妻の一里松があり草鞋地蔵尊が祀られていたが、一里松は枯れ地蔵尊は移設されてしまった。峠から旧国道への下り坂は急で、さらに土地造成で急になっている」といったことが書かれていた。

標石
峠からほどなく「九拾」と刻まれた標石らしき石柱。その先で今から下る内妻浜が見える。八坂八浜で第一の坂である大坂に続く第一の浜である。「九拾」の指すことは不詳だが、九拾丁であれば牟岐の町なら距離が合う。妄想。
内妻の浜が近づいてくる。

草履大師
峠から下ること7分ほどで旧街道は大坂峠取り付き口で分かれた車道とクロスする。その角に草履大師。大坂峠にあった案内に拠れば、峠よりこの地に移したものである。台座には「草履供養」と刻まれる。これから始まる難路・険路を控えての草履供養であろうか。またこのお大師さんは盲目の相を呈する。眼疾に霊験あると伝わる。
道路をクロスした遍路道は草履大師脇の急坂を下る。坂はすぐ内妻の浜に続く舗装道に下りる。

内妻の浜(八坂八浜最初の浜)
道なりに進み浜の堤防に出る。堤防に沿って成り行きで先に進むと行き止まり。それらしき旧道は無いかと探す。少し離れた旧国道に松阪隧道が地図にあるが、そこに続く道は見当たらない。で、結局、行き止まり地点にある鉄製のステップを上り国道55号に出る。


内妻トンネル手前左に逸れ松坂峠取り付き口に(松坂;八坂八浜2番目の坂)
どうしたものかと思いながら国道を進むと内妻トンネル手前、左手に逸れる道。左折すると直ぐ「旧へんろ道 松2阪峠入口」の案内。メモの段階でわかったことがが、ここが八坂八浜2番目の坂ということだ。
取り付き口にはルート図と案内。松坂峠への峠道は約500メートル、標高は60mほどだろうか。頂上に「地蔵尊(」かずら地蔵)が祀られていたが、大正十一年、旧・国道の完成によりこの峠を通る人も耐え、旧国道松坂トンネル東口に移された。

松坂峠
案内から右に取り着き、上り口から7分ほど、比高差60m上ると峠。「松坂峠 これより古江浜」の案内がある。
峠からは切通し、ちょっとした急坂を10分ほど下り砂浜に出る。古江浜だ。八坂八浜第二の浜に出る。








古江浜(八坂八浜2番目の浜)
砂浜や海に突き出た丘陵突端、波を受ける岩礁を越えて先に進む。成り行きで進むと浜辺に道路下を潜る水路があり、その坂に遍路タグがあり、国道に戻る。
明治の頃に県道が整備され、昭和43年(1968)に国道55号に編入される以前、満潮時には海に入らないと通行できないといった八坂八浜の難所の一端を垣間見た。

岩礁部の遍路タグ
「歩く四国八十八カ所」より
当日は見落としたのだが、メモの段階で丘陵が海に突き出た突端の岩礁部に、岩場を上れ、といった遍路案内があるとの記事を見た。現在の古江トンネルの辺りだろうとは思うのだが、司馬遼太郎が『空海の風景』に言う「歯朶(しだ)坂」であり、急峻をおりたところ、古江トンネル東の浜が「丸島の浜」であったのだろうか。「 松坂を降りれば古江の浜であり、歯朶(しだ)坂の急峻をおりれば 丸島の浜である。福良坂をおりれば福良浜があり」との記述からすれば、ここしか既述に該当する丘陵地が見当たらない。




福良坂(八坂八浜3番目の坂)
国道を進むと、道の右手に「鯖大師本坊800m先右折」の大看板。そこに国道55号を逸れて右に逸れる舗装道がある。曲がり具合からして国道整備以前の旧道のよう。それほど急な坂でもないが、道は海岸線に突き出た丘陵部を越えた入り江の辺りで国道55号に合流する。この海に突き出た丘陵部に福良坂があったのだろうか。

福良浜(八坂八浜3番目の浜)
国道からちょっと浜に下りる。特に遍路道らしきものもなく、国道に戻る。
地図にはこの浜と岬を越えた南の浜に八坂八浜と載る。入り江の南北を囲む丘陵部が海に海に落ちるところがいくつもの入り江となり、その岩礁部に白浪が立つ。幾つもの尾根が海に沈み岬(坂)となり、谷が入り江(浜)となった、「沈水性」地形を呈す。
散歩当日は、これらの岩礁部をもって八坂八浜と称するのだろうと思っていた。特段の標識はないが、位置関係からしてこの浜が八坂八浜の福良浜であろう。



鯖江坂(八坂八浜第4番目の坂)
国道を進み福良トンネルの手前、道の右手に標識が見える。「いやしの古道 土佐浜街道 鯖大師から鯖瀬浜に至る」とある。道の左手、福良トンネルの海側を走るのが旧国道。道を右に逸れ土佐街道に入る。
牟岐線のトンネル入口を見遣り先に進むと道の途中に案内があり、「土佐浜街道〈馬ひき坂」とあった。幾度か引用させて頂いた奈佐和彦さんの「かいふのほそみち」の「馬曳坂」には、その由来として「弘法大師が鯖瀬に来たとき、馬子が馬の背に乗せてあった鯖を所望した。馬子はこれを断り、大師は歌を詠んだ。
大坂や八坂坂中 鯖一つ 大師にくれで 馬の腹痛む。
やがて坂道にさしかかると馬は急に腹痛を起こした。馬子はあの僧が大師と気づき、詫びて一尾の鯖を差し上げた。大師は
大坂や 八坂坂中 鯖一つ 大師にくれて馬の腹止むと詠むと馬は元気になった。
馬が腹痛を引き起こした坂は、今も「馬曳き坂」と呼んでいる(『海南町史』)とあった。
峠は海部郡牟岐町と海部郡海陽町の境。坂を下ると鯖大師に出る。




鯖大師
「四国霊場別格札所 鯖大師本坊」の寺柱から境内に入る。正面に本堂。鯖を右手にさげた大師立像が本尊。左手大師堂にも石造の鯖。絵馬に開運、子宝成就、病気平癒などの願い事を書いて奉納し3年間鯖を口にしないことを誓う、鯖断ちの祈願を行うと願いが成就すると伝わる。
Wikipediaには「八坂寺(やさかでら)は徳島県海部郡海陽町に所在する高野山真言宗の寺院。山号は八坂山。本尊は弘法大師。通称は鯖大師本坊または鯖大師。
空海の鯖伝説
鯖大師と呼ばれる由縁は、この地を訪れた空海(弘法大師)の伝説によるとする。その霊験は上述馬曳坂でメモしたとおりであるが、そのエピソードに続き、「空海が法生島(ほけじま)で先ほどの塩鯖に加持祈祷を行い、海に放ったところ塩鯖は生き返り泳いで行った。これに感服した馬子は空海の弟子となり、この地に小堂を建て行基の像を祀り「行基庵」と名付けた。また「鯖瀬庵」とも呼ばれた。空海が加持祈祷を行った海岸は鯖瀬(さばせ)と呼ばれている」とある。
行基の鯖伝説
大師堂
更にそれに続けて「行基にまつわる鯖伝説も残されている。これは、江戸時代前期の貞享4年(1687年)に真念という僧によって書かれた四国遍路の現存する最古のガイドブックである『四国遍路道指南』(しこくへんろみちしるべ)に記載されている伝説である。
これに拠れば、行基が四国を巡錫している時にこの地を訪れた際、鯖を馬に背負わせた馬追が通りがかった。行基が鯖を所望したところ、馬追はこれを断った。行基はこれに対し「大坂や八坂坂中鯖ひとつ 行基にくれで馬の腹や(病)む」と歌を詠んだ。すると、馬は急に腹痛で動かなくなった。困った馬追は行基に鯖を差し出した。行基は今度は「大坂や八坂坂中鯖ひとつ 行基にくれて馬の腹や(止)む」と、「くれで」を「くれて」と1文字変えて詠むだけで、馬の苦しみは治まった。 この行基の話は、江戸時代初期の寛永18年(1638年)賢明によって書かれた四国巡拝の記録誌『空性法親王四国霊場御巡行記』にも記載が見られる。また、江戸時代後期の寛政12年(1800年)に作製された四国巡礼ガイドブック『四国遍礼名所図会』にも記載がある。
行基が詠んだとされる歌は、弘法大師伝説では空海が「大坂や八坂坂中鯖ひとつ 大師にくれで馬の腹や(病)む」、「大坂や八坂坂中鯖ひとつ 大師にくれて馬の腹や(止)む」と詠んだとされている」とある。
行基から空海伝説へ
八角の護摩堂
なんだか縁起成立のプロセスが垣間見えて面白い。真念さんたちの記述に拠れば、行基菩薩と鯖の伝説は江戸初期には成立していた、ということである。元は行基庵と呼ばれていた、とも言う。 行基伝説が弘法大師伝説に変わったのは何時、何がきっかけであったのだろう。
江戸の頃、この寺は海部郡にある真言宗誓願寺の末であった。それが同じく海部郡の曹洞宗正福寺の末に変わる。それが昭和16年(1941)になって「鯖大師協会」に改めたという。
最後にWikipediaは「鯖伝説について 民俗学者の五来重は鯖大師伝説について、山姥が牛方や馬方の塩鯖を求めるという民話との関連を指摘している。これは山中や峠にさまよう荒ぶる祖霊に供物を捧げて道中の無事を祈る風習に基づくものと解釈し、またサバは仏教語で鬼神等への供物を意味する「生飯(さば・さんばん)」が同音である鯖へと変化したものではないかと考察している。 鯖大師伝説もこのような祖霊信仰が行基伝説へと変化し、大師信仰の隆盛と共に旅の僧が行基から弘法大師へと移り変わったものと指摘している」として締める。
本坊から八角の護摩堂にお参りし境内を離れる。

鯖瀬浜(八坂八浜;4番目の浜)
鯖瀬浜;Google mapで作成
境内を離れ、鯖瀬川に架かる鯖瀬大師橋を渡り先に進む。牟岐線の高架を潜り国道55号に。その前の浜が鯖瀬浜ということだろうか。










萩坂(八坂八浜5番目の坂)
萩坂;google mapで作成
浜を離れ丘陵部に上る。鯖江トンネルの手前に左手、海側に逸れる道がある。この旧道が萩坂のようだ。道は整備された故か険路・難路の名残はない。土佐街道の案内もないため、成り行きで道を進む。








大綱浜( 八坂八浜5番目の浜 )
放生島

道は鯖江トンネル出口で国道にあたる。理由は不明だが合流点は車止めとなっている。左手には大浜海岸が広がる。大砂は大綱の転化と言う。
大浜海岸の南端の岩礁部に立つ大岩は、鯖江大師でメモした塩鯖縁起の放生島ではないだろうか。


鍛冶屋坂( 八坂八浜6番目の坂 )
鍛冶屋坂・鍛冶屋浜;GoogleMapで作成
大浜海岸が切れる辺りから国道は、海に突き出た丘陵部突端を切り開き進む。この辺りが往昔の鍛冶屋ではないだろうか。地図にこの丘陵部越えた浜に「鍛冶屋」とあったことだけが、ここを鍛冶屋坂と推定した唯一の理由ではある。







鍛冶屋浜( 八坂八浜6番目の浜)
丘陵を抜けた所、海辺に「鍛冶屋」の地名が地図にある。往昔の八坂八浜の鍛冶屋浜と推定ではあろうが、現在は如 まpde何にも埋め立られた風情を呈す。
その浜の先に加島城跡が地図に載る。案内には「加島城跡 加島の山上に築城された浅川城は別名加島城ともいう。築上されたのは元亀の頃で今から約四百年前のことである。風雲急をつげる戦国の世においては自分の土地を外敵から守るために最大のエネルギーがつかわれた浅川においても加島の豪族浅川兵庫頭が城主となり加島のとりでを守った。しかし天正三年(一五七五年)土佐の長曾我部の大軍が侵入衆寡敵せずに落城した。
藩政時代に至り、加島の山に遠見番所がおかれた、これは異国船を監視するところで。今もなお遠見の松が昔の面影をとどめている。また山上に石火矢床という地名があるがこれは黒船来襲に備え砲台所が設けられていたところである。
城下の御屋敷の一角に現住している吉田利夫氏は加島の豪族の子孫でありこの家の墓地には戦国時代の五輪塔が数基みられる。
加島城(浅川城)は鞆城 海部城と共に大海を背景に築造された海部の名城であった」とある。

栗浦坂( 八坂八浜;7番目の坂 ) 
栗浦坂・栗ノ浜(Google mapで作
鍛冶屋浜の先で国道は丘陵切通しを抜ける。切通の先の集落が栗の浦とあるので、この辺りが栗浦坂があった丘陵越えの地ではないだろうか。

 栗ノ浜( 八坂八浜;7番目の浜
川が海に注ぎ、少し開けてた平地となっている栗ノ浦の集落の前の海岸が栗の浜ではないだろうか。栗之浦神社も建つ。





仮戸坂( 八坂八浜;8番目の坂 )
弥勒像脇の切通し
国道を進み伊勢田川を渡り、天神社を越すと山裾に弥勒菩薩など多くの石仏が並ぶ。台座には「弘法大師千季供養」。天保五年(1834)、地元の庄屋と淡路、堺、大阪、兵庫の商人、僧侶の寄進により立てられた。御影石の石仏の高さは3m強。県下最大の弥勒石仏」といった説明と共にこの石仏が「浅川湾に臨む三浦浜に造立された、との文字が読めた。
ということは、この石仏群の建つ丘陵がかつての「仮戸坂」があったこころだろうと推測できる。国道55号から分かれた丘陵部を切通して抜いた県道196号辺りを往昔の仮戸坂がくだってきたのだろうか。

三浦浜(八坂八浜;8番目の浜 )
借戸坂切通と三浦浜(Google map)
三浦浜浜は現在埋め立てられ、浜の名残はなにもない。

これで八坂八浜を全てカバーした。といっても、土佐街道の案内などしっかりした案内にあるところ以外は、浜と坂の順、その間の地名を勘案しての全くの推定ではある。 で、歩いた結論として、往昔の八坂八浜の風情を楽しめるのは、第一の大阪峠から第一の内妻の浜に下り、第二の松坂を越え第二の古江浜に下りて国道に戻るまでと、第四の坂である鯖江坂から鯖大師への旧遍路道だろう。そのほかの坂と浜は美しい景観は楽しめるが、道路整備のため往昔の難路・険路の名残はない。


大里の標石
浅川漁港に入る県道196号を進む。ほどなく分岐。漁港堤防を進む県道から分かれ右に逸れる道を進む。直ぐ先に遍路道案内があり、右折の指示。そのまま進むと国道55号に出てしまった。 なんとなく県道196号筋が旧道ではと、成り行きで県道196号に戻り、浅川橋を渡り丘陵を上る。 県道196号は浅川港で切れるため、この坂道のこと正式に何と呼ぶのか不明だが通称、スベリ坂とも称するようだ。が、整備され滑る余地はない。
分水界となる丘陵ピークを越え、南阿波ピクニック公園への分岐点、道の右手に標石が残る。正面に「左ともうら 右おくうら 不つ 天保十二」といった文字が刻まれる、と。 奥浦、鞆甫共に南の海部の町に見えるが、標石の指す「右」は道の左手の丘陵部を指す。道があるとも思えない。どこかから移されたのではあろう。

海部
丘陵をくだり大里を抜け善蔵川を渡る。川の手前、右手に大里古墳。5世紀から6世紀の頃、古代豪族海部氏の建造の横穴古墳とのことだが、いまひとつ「古墳萌え」感が乏しくパス。
道は県道299号に合流し左折し海部川に架かる海部川橋を渡り旧海部町域に入る。橋を渡った本町商店街は旧土佐街道。土佐街道は商店街を南進し、突き当りの江川橋の手前を右折し国道55号に出る。
海部城
南北を川に挟まれ、東に鞆奥漁港を臨む標高50mの独立丘陵に建つ。元亀2年(1571)海部友光の築城。天正5年(1577)土佐の長曾我部元親の侵攻により落城。長曾我部氏の四国制覇のはじまり、という。
天正13年(1585)羽柴秀吉の四国攻めにより元親が降伏。阿波は秀吉家臣の蜂須賀家政の所領となり、家政重臣の益田氏を城番とするもその子の分藩の動きの科ににより廃城となり、陣屋が置かれることとなる。
その後は国境警備を主目的に半形人と鉄砲衆が配置され、文化四年(1807)に郡代役所が日和佐に移されるまでは海部郡の中心地として栄えた。城跡には虎口、曲輪、主郭跡、石垣などが残る。
〇半形人
半形人とは阿波水軍の大将、森村春の家臣。朝鮮の役、大阪の陣にも出陣している。 陣屋には36名の半形人が配置された。

那佐湾
海部の街を離れ国道55号を進む。と、眼前に深い湾入の姿を見せる那佐湾が目に入る。何だか印象的な湾だ。どのようにして形成されたのかチェックすると断層破砕帯に沿って形成された、とある。
地質図を見ると東西に那佐断層破砕帯が走る。断層破砕帯はずれの生じた断層面に沿ってできた岩石破砕部のことのようで、 破砕帯は一般に軟弱で,浸食,崩壊が速く進む、とある。門外漢のためよくはわからないが、東西に長く延びる断層面が侵食・崩壊によりこの形を成した、ということであろうか。海に突き出た岬には国土交通省が「地すべり防止区域」と指定している。
それはともあれ、この那佐湾は古くからの天然の良港として知られ、伝説では三韓征伐の折り、神功皇后が風待ちでこの湊にはいったとの伝説、また『播磨風土記』には履中天皇が、和那散(わなさ;当時この那佐湾一帯を「和那佐」と称した)でシジミを食したとの記述もある。
藩政時代は塩の製造をこの湾でおこなっていたようである。
乳の崎狼煙台・ 島弥九郎事件跡
国道55号が那佐湾に入ってほどなく、道の左手に「乳の崎狼煙台・ 島弥九郎事件跡」の案内。その対面、切通で残された海側の小丘に沿って国道から左に逸れる道がある。そこを進むと。「乳の崎狼煙台・ 島弥九郎事件跡」の案内がある。
「乳の崎狼煙台 今から200年前、江戸時代後期になると、異国船が日本近海に出没するようになり、また異国船の漂流もあって徳島藩は主に海上警備のため県南海岸に10ヶ丘の狼煙台を設置した。竹ヶ島煙台を起点にこの乳ノ崎煙台に継がれ、次に牟岐大島へと順次狼煙をあげ、御城下へとつたえられた。この乳ノ崎煙台は那佐湾の対岸山頂にありほぼ全景が残っている。 海陽町教育委員会」
「島弥九郎事件跡 元亀二年(1571)春、長曽我部元親の末弟島弥九郎は、病気治療に有馬に出かける途中、風浪を避けて那佐湾に停泊していたが海部城主越前守の率いる軍勢の急襲を受け、土佐勢の奮戦も空しく弥九郎は家臣三名(三島小島)に上り自害して果てた。このことは元親阿波侵攻の口火となった。弥九郎の非業の最後を哀れみ、村人は島の上に小塚を建てて霊を弔った。後年、元親もこの地に三島神社を建立して、弥九郎の霊を祭った」

乳ノ崎煙台はさすがに遠すぎる。パス。島弥九郎事件は前述海部城のところでメモした。ここにある三島小島は湾に浮かぶ二子島?三島神社は那佐湾の少し西、地図には那佐神社ときされている、那佐三島神社がそれ。

馬路越・居敷越
那佐湾についてチェックしていると、馬路越の記事に出合った(何度も引用させて頂いている、奈佐和彦さんの「かいふのほそみち」)。それによると。「中世の初期から発達し始めた四国霊場巡拝の遍路道として馬路越土佐本道が開発されて海部郷-那佐-宍喰」が結ばれた、とあった。
さらに古い時代には、馬路越道より西の丘陵を跨ぐ居敷越の道があったよう。馬路越えのルートでなくこの居敷ルートが造られたのは単に道を開く技術上の問題なのか、経済的理由も含め単に那佐湾辺りに下りる強い理由がなかったためか、結構面白そうなトピックではあるが、あまりに本題からはなれてしまいそうであり、思考停止とする。
土佐街道
居敷下り口辺りをGoogle Streeet Viewでチェックしていると、下り口(推定)から少し西に進んだ道の左手に「古道旧土佐街道」の案内があった。あれこれチェックすると、結構危険なルートのようだ。特にルート案内もないようだ。
道を入ると直ぐに浜に出るが、ルートは浜の手前で右折する。牟岐線高架を潜る辺りまでは荒れてはいるが、なんとなく踏み跡らしきものもあるようだが、そこで行き止まり。あとは道なき道や崖を力任せで進むようだ。浜に出て進む方もいたが、こちらも結構危険なルート。
国道55号への出口は国道が海岸線に出る辺りに這い出る記事がほとんどだった。ともあれ、このルートには足を踏み入れないほうがいい、との記事が大半だった。

宍喰(ししくい)
国道55号を進み宍喰(ししくい)の街に入ると、遍路道は国道を右に折れ県道301号に入る。徳島最南端の町。現在は海部郡2町(海部町・海南町)と合併し海陽町となっている。
県道は藩政時代の土佐街道往還筋。阿波と土佐の国境の宿場として発展したと言う。
往還筋には藩政時代、慶長三年(1598)阿波藩主蜂須賀家政に駅路寺として指定された円頓寺があったようだが、現在は往還筋右の大日時に合併されている。寺町の往還筋左には願行寺も建つ。
今は静かな町ではあるその歴史は古い。Wikipediaの記事をまとめると「古墳時代の5世紀には大和朝廷から鷲住王(わしずみおう)が脚咋(あしくい)に派遣され近隣を治めたと伝わる。中世期には脚咋の地はを宍喰庄、海部郷に別れ、宍喰庄は1135年以降は鳥羽院の御領をへて1216年に高野山の蓮華乗院に寄進され寺領荘園になる。 本土への年貢や堺地方への木材の出荷を通じて、貨幣経済が発展した。また、海部刀などの刀鍛冶が発展していき、鎌倉時代には宋及び高麗との交易を行った。
戦国時代になると国司や郡司、荘園を治める荘官やその下で名田を治める名主が勢力を強めるが、宍喰地方においも鷲住王を祖とし、藤原姓を名乗る一族が宍喰城・愛宕山城・祇園山城などを築き、この地方を治めた。また、近隣の牟岐城・浅川城・野根城主とは同族で、高知県の安芸氏とも姻戚関係を結んで地盤を固めていた。 1578年土佐国を平定した長宗我部氏に侵攻され、城はことごとく落城する。秀吉の四国征伐後は、部将である蜂須賀氏が阿波国を治めるようになりその統治下に入る。
徳島藩政下では日和佐、後に海部に郡代官所が置かれ、宍喰では各村の庄屋と役人が年貢の徴収や政に当たった。 本町は土佐国との国境にあるため、国境警備目的の関所や鉄砲役を置いた鉄砲小屋、狼煙台、街道沿いの治安維持と旅人の宿泊施設として駅路地が置かれた。
「宍喰」の由来
「宍喰」の由来として、「宍喰(ししくい)は脚咋(あしくい)の転訛とされる。脚咋は「葦(イネ化の植物)をつくって主食とした住民」。履中天皇の時代に大和朝廷から鷲住王(わしずみおう)がこの地に遣わされ、宍喰川下流の平野部を利用した農耕が近隣地域に先立って発達した事による。時代とともに狩猟に纏わる宍(カン、しし、にく)が使われるようになり、鎌倉時代以降は宍喰と呼ばれるようになった」とあった。


古目大師
宍喰川を渡ると山際に古目大師堂。県道はここを左に折れ海に突き出た半島部を上り阿波と土佐の国境へと向かう。
古目番所跡
古目大師のある古目の地は藩政時代、国境の関所(古目番所)のあったところと言われる。阿波から土佐の甲浦への山越えの道の上り口。古目の由来も「古い目付」との説もある。番所後は古目大師堂から直ぐ先の四つ辻を右折し、少し南に進んだ先の三差路を右に折れた道の左手に標識だけが立っていた。

宍喰越の土佐街道
メモの段階でわかたことだが、古目から土佐の甲浦に抜ける山越えの土佐街道があった。あれこれチェックすると、古目番所跡から少し西に峠への取り付き口があるとのこと。Google Street Viewでチェックすると、道の左手に木標が立ち「旧土佐街道 へんろ道 古道」と書かれていた。「へんろ道」ともあるので、わかっておれば峠を越えて土佐に入ったのだが、今となっては後の祭りである。






























宍喰浦の化石漣痕(国指定天然記念物)
県道を進むと直ぐ道の左に案内ボード。「宍喰浦の化石漣痕(国指定天然記念物)」とある。案内はふたつあり、「約4500年頃前、この地域は深海にあった。地震などが発生したときに、土砂が一気に海底に引き込まれ、海底の表面に凹凸の模様を作って土砂がたまり、それが積み重なり地層となった。
その後、隆起して陸地となり、今のような状態になった。規模も大きく、わかりやすい状態で残されていることから学術上貴重である」とあり、もうひとつの案内には「宍喰浦の化石漣痕」は、約4500万年前、新世代第三紀の始新世中期に生成にされた水流漣痕で、露頭面積も広く、彫刻も深く、かつ数種の異型のものが別々の層をなしている。地層は四万十帯、室戸半島層群の奈半利川層に属し、泥岩と互層する細粒砂岩層に上面には、水流漣痕を見ることができます。
代表的なものは、波長数10cmの舌状漣痕です。水流漣痕は、断面の形態が非対称で、一定方向の流れによって形成され、当時の水流が海溝軸に沿って、東北東から西南西に向かっていたことが伺われます。下面には底生生物に生痕化石が見られ、日本海溝の水深4000mを超える陸側斜面で見られる生物の這い跡に比類されます。当時の海溝に至る陸側斜面深部の海底の様子を物語るものです 地層面は東西に延び、北側に高角度で傾いており、海洋プレートの大陸下への沈み込み伴い、大陸側に傾きながら押し上げられた付加運動によるものです」とあった。
いまひとつ「萌える」こともなく、説明と共にあった写真の粒粒の岩(土砂の固まり)が並ぶ地層がそれなのだろうと即場所を離れる。

金目番所跡を越え阿波・土佐国境へ
県道309号を進み半島を抜け入り江へと出る辺りに左の竹ヶ島方面へと向かう道が分かれる角に「金目番所跡」と刻まれた石柱が立つ。この番所は主に船の航行の警戒と海上警備の任にあった番所とのことである。
この先、県道は水床トンネルを出て来た国道55号に合流。そこが阿波と土佐の国境である。

 今回のメモはここまで。次回は阿波と土佐の国境から室戸岬突端に建つ第二十四番札所最御崎寺までをメモする。
四国遍路の難路と世に言う第に十番札所鶴林寺道、第二十一番札所太龍寺道をクリアし第二十二番 平等寺まで進んだ。
今回は平等寺からはじめ、阿波の最後の札所である第二十三番札所薬王寺へと向かう。 平等寺のある阿南市新野から薬王寺のある海部郡美波町奥河内までの距離はおおよそ25キロほどだろうか。那賀川水系の桑野川支流を上流部まで進み東西に延びる丘陵部に取り付く。桑野川水系の分水界となる標高80mほどの丘陵部ピーク越え福井川筋に。
福井川筋に下った往昔の遍路道は洪水対策のために建設された福井ダム底に沈む。ために、ダム湖に沿った国道を南に進み、ダム湖を越えて福井川上流部へと進み、由岐山地に入る。由岐山地、と言ってもそのピーク由岐峠は標高130mであり、ちょっとした丘陵といったものだが、峠を越えると海岸線にちょっと開けた由岐の街に出る。
由岐の町からは田井川により開かれた田井、苫越の岬、木岐の町を抜け山座峠(標高115m)を越えて日和佐の町に建つ第二十三番札所薬王寺に着いた。
メモの段階でわかったことだが、日和佐に抜けるには由岐峠経由ではなく、貝谷・松坂峠越えのほうがよさげ、であった。旧遍路道として整備もされているようだ。
常の如く後の祭り。ちょっと残念ではあった。アスファルト舗装の由岐峠ではなく貝谷・松坂峠道を歩くのもいいかと思う。
ともあれ、阿波最後の札所への遍路道メモを始める。



本日のルート;平等寺>茂兵衛道標〈159度目)>広重口の標石>月夜橋北詰の破損標石>手印標石>池手前に標石>月夜御水大師>破損標石>鉦打坂薬師堂>弥谷観音>茂兵衛道標〈153度目)>由岐坂峠(郡界標)>由岐町の「四国のみち」指導標>田井浜の遍路休憩所>木岐>白浜の安政地震津波石灯籠>山座越入り口のお堂と丁石>山座峠>えびす洞>24番薬王寺


●第二十三番札所平等寺●

石段を上ると山門。境内の左手に鐘楼、閻魔堂、大師堂と並ぶ。正面にふたつに分かれた石段。下段十三段の石段は女性の三十三歳、上段四十一段の石段は男性四十二歳の厄除坂と呼ばれる。歳数に足らない分は足踏みを歳数とみなし数を合わせていたようだ。
石段左手に御加持水。白水の井戸。弘法の霊水とも開運鏡の井戸とも呼ばれ、この水は万病に効くと伝わる。
石段を上ると本堂。本堂の左手に不動堂が建つ。本堂前の生垣に新聞記事のコピー。本堂の壇から遠くを見ると大師が寝ているような風景が見られる、と。言われてみれば、前面の丘陵がそのようにも見える。
本堂左手に「女厄除坂」。こちらは三十三段と歳と厄歳と合う。後年、平成3年(199)頃には既にできてたようで、さすがに足踏みでの調整は如何なものかと新しく造作されたのだろうか。
Wikipediaには「平等寺(びょうどうじ)は、徳島県阿南市新野町にある高野山真言宗の寺院。白水山(はくすいざん)、医王院(いおういん)と号する。本尊は薬師如来。
寺伝によれば、空海がこの地で厄除け祈願をすると五色の雲がわき金剛界大日如来の梵字が金色に現れた。さらに、その端相に加持すると薬師如来像が浮かび上がったので、錫杖でその場に井戸を掘ると乳白色の水が湧いた。その水で身を清め百日間の修行をした後薬師如来を刻み、堂を建てて本尊として安置したのに始まるという。
寺名は、この霊水により、人々の平等な幸せを願い、また、一切の衆生を平等に救済する祈りを込めて「平等寺」と称されたという。
七堂伽藍や12の末寺を持つまでに栄えたが、天正年間(1573年 - 1592年)に長宗我部元親の兵火で焼失した。享保年間(1716年 ? 1736年)になって照俊阿闍梨によって再興される」とある。 山号は御加持水である「白水」からのものであった。
茂兵衛道標
境内にちょっと唐突に標石が立つ。文字を読むと「平等寺  右立江寺 徳島 明治三十一年」といった文字と共に周防大島といった中努茂兵衛の在所が刻まれる。茂兵衛道標であった。施主は伊藤萬蔵。
この道標、茂兵衛道標の記録に見当たらない。チェックすると、阿南市福井町の鉦打トンネル付近の国道三差路に立っていたもの。昭和45年(1970)頃、道路整備の際に撤去され、近くの喫茶店に保管されていたものを譲り受け、この地に移設したとのこと。
平成27年(2015)8月16日付けの徳島新聞の記事にあるので、その頃に移されたのだろう。







第二十二番 平等寺から第二十三番札所薬王寺へ

平等寺から薬王寺までおおよそ20キロ。大洋に面した日和佐へと向かう。

平等寺新橋南詰に茂兵衛道標〈159度目)
門前、石段の左手に「これより薬王寺迄 五り」の標石。山門前より南に向かう道に入り桑野川に架かる平等寺新橋を渡る。
橋の南詰めに道標と石碑。左手のものは茂兵衛道標。「弐拾三番薬王寺へ五里 平等寺 明治三十一」と刻まれる茂兵衛159度目の巡礼時のもの。右手の大きな石碑は摩耗が激しく文字は読めなかった。



広重口バス停傍の標石
丘陵に挟まれた平地を進む。道は県道284号山口鉦打線。丘陵裾を進み桑野川支流が開く生谷を抜け、次いで現れる丘陵裾に入ると東から道が合流。「広重口」バス停のあるこの道の合流点の少し北、台座に三界萬霊と刻まれた片足を下した地蔵坐像の左手に標石。「左日和佐薬王寺 四 廣重」といった文字が読める。
新野の地形
平等寺からのルートを衛星写真でみていると、平等寺のある新野(あらたの)を取り巻く地域の奇妙な地形が気になった。桑野川本流が流れる平等寺辺りは谷底平野、というか山間盆地といった風情であるのはいいのだが、その周辺の丘陵が複雑に刻まれ、その間に谷底平野といった地が挟まれる。
Google Mapで作成
以前、櫛淵の地でみた三方を丘陵で囲まれたくさび型の平地、 櫛目状に連なった地形も見える。海岸近くの陸地には、はるか昔、隆起や沈降によりおぼれ谷状にできた入江とも思えるギザギザに入り込んだ多くの丘陵が見える。陸上にあった谷が、その地形を保ったまま何らかの理由で水面下に没し、またなんらかの事情陸地化して残った地形だろうか。
国土地理院の地質図には平地は堆積岩。形成時代は新世代。岩質は谷底平野・山間盆地・河川・海岸平野堆積物。丘陵地は付加体。形成時代は中生代。岩質は海成層、砂岩泥岩互層、とある。何となく惹かれる地形である。参考にGoogle Earthで作成した写真を掲載しておく。
付加体
付加体とは海洋プレートが海溝で大陸プレートの下に沈み込む際に、海洋プレートの上の物がはぎ取られ、陸側に付加したもの。平地・平野部の堆積岩は付加体・砂岩泥岩曹が川の開析・風化・侵食などにより礫・砂・泥として堆積したものかと思う。門外漢のため素人推量。


月夜橋北詰の破損標石
丘陵の間を流れる南川に沿って県道284号を進み、丘陵裾を抜け、西から流れてきた南川が北へと向きを変える辺りに架かる月夜橋を渡る。橋の北詰に上部の破損した標石。「*んろ道」と読める。








月夜御水大師傍、県道脇に手印標石
南川が流れる小振りの山間盆地といった平地の南には東西に連なる丘陵があり行く手を阻む。県道284号が丘陵に辺り、左に折れて丘陵越えの道となる箇所では大規模な道路工事が行われていた。丘陵を南北に切り開こうとしている。丘陵取り付き口部の県道が細く蛇行しており、その箇所の直線化工事なのだろうか。
で、その道路工事始点に遍路道の案内。歩き遍路は直進とあるのだが、どこをどう進めばいいのかよくわからない。結局、県道を進むことにした。
左に折れ大きく曲がった先に思いがけなく手印だけの標石に出合った。


池手前に標石
道を進むと右手の崖下に小堂が見える。チェックすると月夜御水大師とあった。お堂へと下る道を探しながら進むと池があり、県道から池に逸れる道の分岐点に、真ん中から折れた標石。「右」といった文字が読める。







月夜御水大師
その対面に一箇所ガードレールの切れ目。そこから大師堂に下る道がある。 坂を下ると月夜御水庵 (月夜のお水大師)。1間四方の古いお堂。境内には樹齢1000年と伝わる杉の巨木。
伝わるところに拠ると、この地で泊まった空海(弘法大師)が、水がない衆生の不便を感じて加持し清水を湧かせた。と、水底に光を放つ石。その石で仏をつくり祈願をこめると闇夜に光明現れ月夜となった。その光で薬師如来と地蔵菩薩石仏を刻み薬師如来を祀った一宇の庵が月夜御水大師と言う。道から見えた小堂は伝説にある加持水のお堂であった。
今回は道路工事のため、歩き遍路の道がはっきりせず県道を上り、結果お堂の裏側からお参りすることになったが、表からお堂に向かう道がどこかにあったのだろう。


桑野川と福井川の分水界丘陵を越える
月夜御水大師から先の県道284号は、東西に延びる丘陵を越える。地図で見るとこの丘陵は北の桑野川水系と南の福井川水系の分水界となっている。曲がりくねった道を進み丘陵を下りて福井川筋に下りる。


月夜坂
月夜坂取り付口
県道建設以前の往昔のこの丘陵越えは「月夜坂」越と呼ばれていたようだ。ルートは池の南西端あたりに法面を上るステップがあり、そこから南の尾根筋を通り現在の福井ダム手前の谷、その名も裂股と呼ばれるとろこに出てきたよう。道筋には遍路墓や標石も残ると言うが、道は荒れ通行はできないようである。






鉦打橋を渡り県道55号に
福井川に架かる鉦打橋を渡ると右折。国道55号と並行して少し西に進むと県道284号は左に折れて国道55号に合流する。
遍路道はそのまま西に進み法面とガードレールに挟まれた道を進み、右に折れて水路を渡り耕地の中の道を進み、竹林を上ると県道55号東鉦打橋の西詰に出る。橋の下にささやかな水路はあるが、橋と言うより丘陵と丘陵の間の平地を跨ぐための高架橋のようにも思える。


福井川の河川争奪
地図を見ていると牟岐線新野駅から阿波福井駅へと通る平地がなんとなく気になった。桑野川水系の支流上流域と福井川支流の上流域が平地で接近している。地形からみて河川争奪が起こりそうな風情。チェックすると往昔、福井川はこの牟岐線の走る平地を桑野川へと流れていたよう。福井川は桑野川の上流域であった、ということだ。
その後この流れは動々原(牟岐線阿波福井駅の北東)辺りで福井川に争奪され現在の流れとなったようである。動々原辺りに福井川に注ぐ支流が残るが、これは往昔の川筋跡でろうか。

鉦打坂薬師堂
遍路道は東鉦打橋の西詰で国道55号に出る。国道対面にお堂。右側の覆屋には3基の石仏。左はコンクリート造りのお堂。その間に案内があり、『 鉦打坂 薬師堂由来』とあり、「右側に安置する薬師堂は新国道北側の旧土佐街道沿いに鎮座されていたもので、平成二年福井治水ダム建設工事により裂股に仮安置し、平成七年三月十七日現在地に遷座されたものであります。
お堂の裏の山道は過去の歴史に名高い「土佐街道」で、街道随一の難所鉦打坂が延々と続いており、その昔これを越える旅人(特に四国八十八ヶ所巡礼)が険しい山道に行き暮れて病に倒れるもの少なからず、里人講中の人々甚しく哀れに思い、相計って養生所を建て手当をつくし、不幸病没後はねんごろに弔い供養塔を建立、のち享保四年(一七一七)、衆生の病苦を救い無明の病疾を癒すという「薬師瑠璃光如来」を灌頂祈願したのがはじまりと伝えられております。
宿借ら ん 行方も見えず久方の 天の河原の 行き暮れの空
時は移り明治となって新しい国道が敷設され、嘗ての土佐街道は通行人も絶え、従って講中以外の参詣者もなく寂しい佇まいとなっておりましたが、霊験灼かな如来の衆生済度の念の然らしめるものか、この度参詣至便、而も往時の由緒深き現在地に遷座、再び衆生の前に御影を現わし給う。 「願わくば無辺の慈悲により、除病厄難を消除し、息災延命の御加護を成し給え」
「オンコロコロセンダリマトオギソワカ」 平成七年三月吉日 鉦打講中」とあり。

鉦打大師堂
鉦打坂薬師堂の左手には鉦打 大師堂。「『鉦打 大師堂 由来』 には「左側に安置する大師堂は、宗祖弘法大師を祀る「鉦打坂のお大師さん」と諸人に親しまれ衆生の篤い信仰を集めていたもので、福井治水ダム建設工事により裂股に仮安置し、平成七年三月十七日現在地に遷座されたものであります。
大師が四国霊場開創遍歴のみぎり、第二十二番平等寺より月夜坂を越え土佐街道の現在地付近を通り、姥目崖を下り渓流を渡って七分蛇、怪猫の住むという弥谷渓谷に足を留められ、ここを奥の院修験の場と定め厳しい修行の末、霊験受得・三界万霊・森羅万象全ての自然界と自分の身と心が一体と感じ念ずる即身成仏を唱え、如意輪穴観音、七不思議の霊跡を遺す。傍らの碑に示すとおり
一、不二地蔵 二、ゆるぎ石 三、笠地蔵 四、御硯り石 五、四寸通し 六、日天月天 七、胎内くぐり、
その他種々多様の石仏を祀るのが秘境弥谷観音で、同行二人の誓願をたて八十八の遺跡によせて利益を成し給う内の一つである。
後世に至り里人斉しく大師の偉大な御遺徳を偲び御跡を崇め弘化二年(一八四五)堂を建てて弥谷観音の前堂として灌頂し、その御徳を礼賛し奉ったのが起源と伝えております。
「願わくば無明長夜の闇路を照し、二仏中間の我等を導き給え」
「南無大師遍照金剛」「平成七年三月吉日 鉦打講中」とあった。
土佐街道
案内にある土佐街道は、薬師堂・大師堂のあるところから南に進む道を少し進み、現在の福井トンエルの先で国道55号筋に出たようである。現在は藪で荒れており歩けそうにない、とのこと。「裂股」は旧遍路道である月夜坂を越え福井川筋に下りる谷間を含めた、福井川左岸の丘陵部を福井町裂股と呼ぶ。

福井ダム
県道55号を進むと鉦打トンネル。このトンネルは福井ダム建設に伴う国道の付け替え工事で掘られたもの。竣工昭和63年(1988)、開通平成11年(1999)。301mのトンネルを抜けると福井川を堰止めた福井ダムとダム湖が右手に広がる。
平成7年(1995年)に完成。高さ42.5メートルの重力式コンクリートダムで、洪水調節・不特定利水を目的とする、徳島県営の治水ダムである。福井町は日本第二の降水量を記録したこともあるようで、徳島県の資料に「この地域は,徳島県においても多雨地域であり,台風期以外でも他地域に類を見ない豪雨があり,急峻な山地からの水の流出は早く,鉄砲水となります。特に,昭和20年代の度重なる大雨により被害が発生し,昭和27年3月22日には時間雨量162mmという集中豪雨により,死者6名,被害家屋360戸,浸水農地111haという大きな被害が発生しています。
また,本川沿いの耕地は,かんがい用水を福井川に依存しており,しばしば用水不足を来しています」とある。これが洪水・多目的利水ダムの所以だろう。

名月橋
福井ダム湖の左岸に22番平等寺奥の院弥谷観音があると言う。上述鉦打大師堂での由来にあるように由緒あるお堂。ダム建設後の姿は如何なものかとちょっと立ち寄り。
国道55号を左折しダム湖に架かる名月橋を渡る。橋の西詰に案内。「名月橋という名について ここ弥谷(いやだに)の-自然石の岩肌に線刻手法彫りこまれた「弥谷七不思議」のひとつ......。日輪と月輪の天体像を日天月天さんと呼んできました......。古代の民俗信仰の神秘性と深い謎につつまれたまま永遠にダムの湖底に沈むことになりました。
その日天月天の淡い月影が湖面に映えて明るく、まさに「明」めいの文字どおり仲良く並んで、渡れるようにとの意味ですが、はるかなる幻想と歴史的イメージから「明月橋」と美称したものでありました」とあった。
上述、鉦打薬師堂に弥谷観音の七不思議とあった「日天月天」に由来するとのことだ。


遊歩道に笠地蔵と日天月天
遊歩道入り口

福井ダム湖左岸の道を進むと、道の左手に「弥谷観音堂 右へ200m」の案内と共に、「弥谷観音 夫婦地蔵 笠地蔵 日天月天」は左へ、の案内。


車道を逸れ遊歩道といった土径の道を進むと夫婦地蔵、笠地蔵、日天月天の石造物が道端に立っていた。
道を進み擬木を上ると弥谷観音堂の少し手前の車道に出る。


弥谷観音堂
ゆるぎ石
お堂は車道より一段高いところに建つ。「弘法大師様ゆかりの 阿波坂東観音霊場第壱番 弥谷観音 御本尊如意輪観音」と刻まれた寺標石を見遣りお堂へと上る。擬木の敷かれた坂の周囲には幾多の石仏が並ぶ。
上り切った平場に大岩。「ゆるぎ石」とある。前述弥谷観音七不思議のひとつ。「第二十二番平等寺奥の院」と書かれた木札の掛る堂宇は観音堂とあった。本尊は防犯のためか祀られていなかった。
弥谷観音堂旧地
かつての弥谷観音堂は、福井川の渓谷にあった。現在の弥谷観音はダム建設に伴い移設されたもので、旧地は現在ダム湖の底に沈む。
前述『鉦打大師堂』の由来に「姥目崖を下り渓流を渡って七分蛇、怪猫の住むという弥谷渓谷に足を留められ、ここを奥の院修験の場と定め(中略)如意輪穴観音、七不思議の霊跡を遺す」とあるように、渓谷の岩窟を修行の場と定め、岩場に如意輪観音を刻み、絶壁には大日如来を祀り「行場とした、と言う。上述七不思議の笠地蔵、日天月天、ゆるぎ石も渓谷に沿った道筋にあったものを遊歩道や現在の弥谷観音堂に移したものである。
旧遍路道
福井トンネル傍、旧土佐街道出口(推定)
福井ダムが建設される以前の遍路道は福井川に沿って弥谷の渓谷に入り、弥谷観音に詣でた後、 福井川右岸に渡り上述「姥目崖」を上り、現在の弥谷観音堂の対岸にある福井トンネルを迂回する旧国道筋に出たようである。上述土佐街道は福井トンネルの先で下りてきたとのことであるので、遍路道は土佐街道に合流したのであろう。
因みに平等寺で見た茂兵衛道標は「鉦打トンネル」付近の国道三差路に立っていた」とあったが、 場所の特定はできなかった。



由岐分岐
名月橋まで戻り、国道55号を右に折れ福井トンネルを抜ける。抜けた先で右手からトンネルを迂回する旧国道が合流する。また、左手から下りてくる藪道は鉦打薬師堂・大師堂の辺りから越えてきた土佐街道・鉦打坂の下口だろうか。
道を進むとほどなく右に逸れる右。ガードレールに「右薬王寺」との案内がある。右に逸れ県道200号に乗り換える。





小野集落の茂兵衛道標〈153度目)
県道200号を進むと橋を渡る。逆瀬橋と呼ばれダム上流部の福井川を跨ぐ。この地で北に大きく蛇行した福井川が、一瞬、逆流しているよう見える故の命名だろうか。
その先、国道55号を潜った県道200号はほどなく左に折れて進む。遍路道はそのまま直進し小野の集落に入る。三叉路に茂兵衛道標。「是ヨリ三里半 薬王寺二十三番 平等寺 徳島 明治三十年」茂兵衛153度目巡礼時のもの。

由岐坂峠(郡界標)
茂兵衛道標の三差路を左に折れ、福井川に沿って進む。道は県道20号となる。ほどなく国道55号バイパスの高架を潜る。この辺り東西、南北に流れてきた福井川の支流が合流する地点。右に曲がれば貝谷の谷筋、左に進むと辺川の谷筋。
地図を見ると辺川の谷筋を進む県道20号筋に遍路休憩所がある。とりあえず左に折れ、遍路休憩所を見遣りながら谷筋を進むと県道は丘陵を越えるべく右に折れ峠に向かう。
二車線の立派な県道を上り峠につくと右手に「阿南市」、左手に「美波(由岐)」の看板が立つ。阿南市と海部郡美波町の行政域のここが境。
峠の左手には郡界標が残る。「郡界標 北那賀郡 南海部郡 距徳島県庁十一里二十* 距海部郡役 三里三十一丁 大正十年」といった文字が刻まれる。
峠には特に峠名の表記はないが、地図には由岐坂峠とあった。峠を下り田井に下りる。

土佐街道・貝谷峠・松阪峠越え遍路道
メモの段階でわかったことなのだが、往昔の遍路道は由岐坂越えではなく、貝谷峠・松阪峠を越えて田井に出たようである。ルートは、福井川の支流が合流する地点で今回歩いた逆、右に曲がり貝谷の谷筋に入り、そこから貝谷峠・松阪峠を経て、現在の55号線バイパスのトンネル出口辺りに出たあと、里道に下ったようである。
道も地元の方の尽力で整備されているとのこと。このルートは往昔の土佐街道であり、『四国遍礼日記』を著した澄禅もこのルートを歩いたと記事にあった。
土佐街道・星越峠越え遍路道
上述、小野集落の茂兵衛道標〈153度目)を右に折れ、現在国道55号が通る道筋も藩政時代の遍路道。星越トンネルのある辺り、星越峠には地蔵尊があり、「「薬王寺 二里余 弘化二巳年(1845)七月二四日建」と刻まれていたようだ。
由岐町経由の貝谷峠・松阪峠越え土佐街道が星越峠ルートに変更になったのは明治34年(1901)。阿南市小野と日和佐町大戸を結ぶルートに変わり、峠越えのバスも走った、とか。星越トンネルが開通したのは昭和43年(1968)のことである。

由岐の町
Google mapで作成
峠道の途中に遍路休憩所を見遣り、牟岐線の手前を右折し、牟岐線由岐駅の山側の道を進む。駅の海側に由岐の街並み。リアス式海岸の入り江に港。かつては土佐や九州との海上交通の中継地点として栄えたとのことである。
『太平記』には「阿波の雪の湊と云浦には、俄に太山の如なる潮漲来て、在家一千七百余宇、悉く引塩に連て海底に沈しかば、家々に所有の僧俗・男女、牛馬・鶏犬、一も不残底の藻屑と成にけり。」とある。
太山の如なる潮漲来てとは、正平16年/康安元年(1361年)の正平・康安地震による津波のことであるが、この津波で1700余の家屋が津波に呑み込まれたとある。ここにある「雪の湊」は由岐の湊のことであっるが、当時既に1700戸の家が建つ大きな港であった、ということである。
『平家物語』には「権亮三位中将維盛は、(中略)忍びつつ屋島のたちを出で、阿波国雪の浦より鳴戸の沖をこぎ渡り、和歌の浦、吹あげの浜、玉津島明神、日前、国懸の御前を過ぎて、紀伊ぢの由良の湊といふ所に着給へり」とある。「雪の浦」とは由岐の湊のことであるが、船運中継地としての 性格を示す記述である。
海部郡由岐町は平成18年(2006)、日和佐町と合併し現在は海部郡美波町となっている。

苫越
県道を進みかつての由岐町の名残を残す美波町西由岐(対岸にも東由岐の地名がの残る)を越え、牟岐線田井の浜駅の山側を進む。ほどなく牟岐線の踏切を渡り海岸側に。そこは田井の浜。名の由来は、「定説を欠くが、「たい」は「田結い」からの語で農作業上の手間がえを意味し、漁村では共同で地引網を引く意であることから名付けられたという説がある」とWikipediaは言う。
田井の浜休憩所z8お遍路休憩所)を見遣り海岸に沿った県道を少し進むと、遍路道は木岐トンネルに向かう県道を右に逸れ、ほどなく県道高架下を潜った後、木岐トンネルの海側を迂回する旧道に入る。
道を上ると直ぐ、山側に「土佐街道」の標識。当日は、土佐街道を辿る散歩でもないしなあ、などと通り過ぎ木岐トンネル南口で県道25号と合流し次の入り江の町、木岐へと下る。
土佐街道苫越ルート
ちょっと考えれば、県道などの道路整備される以前の遍路道は土佐街道を利用したのだろう、といったことはわかるのだが、当日は先に進むことに気が急き苫越岬の上り口にあった「土佐街道」の標識を軽く往なした。
で、メモの段階で標識の写真をじっくり見ると」「土佐街道苫越登り口 一里松跡と薬王寺 二里の道しるべ(この上五十〈米))」とあた。チェックすると「道しるべ」とは徳右衛門道標のことのようだ。「従是薬王寺二里 本願主豫州 徳右ヱ門 施主 那賀郡答島郷 新浜善蔵」と刻まれrとある。峠への上り下りの道は荒れ果て現在は廃道となっているようだが、徳右衛門道標があるとわかっておれば、藪漕ぎで進んだではあろうが、今となっては後の祭りである。

苫とは歴史民俗用語で、「菅(すげ)・茅(かや)などで編んで作ったもの。船などを覆い、雨露をしのぐのに用いる」とある。昔地震による大津波のとき、苫がこの峠まで打ち上げられたところからつけられたとも伝わる。

木岐の四国千躰大師標石
苫越の県道を下り、木岐に(美波町木岐)。県道を道なりに進むと木岐駅の少し北、牟岐線の高架手前に照蓮の四国千躰大師標石が立つ。左を指す手印に従い道なりに進み、牟岐線木岐駅前をぐるりと左に廻り木岐の港に沿って進む。

この木岐(きき)を含め海部郡の海岸線には志和岐、木岐、由岐、牟岐など「岐」のつく町が目につく。地名の由来、特にこの場合の「岐」は何を意味するのだろう。
あれこチェックするが、それらしき記事がヒットしない。で、妄想を逞しくすると、最初に思いつくのは過日12番札所焼山寺から13番札所大日寺への道すがら出合った、船盡(ふなと)神社での「妄想」。
そこでは、船盡(ふなと)神社のベースには、阿波に多く残る「岐(ふなと)信仰」にあるのでは、メモした。その岐信仰は「来名戸(くなと)信仰」からの転化。「来名戸」は「来名戸祖先神(くなとさえの神)がそのベース。「くなと」は戸(家)に来るのを拒否する、の意。さえの神とは塞(さえ)の神。塞神とは疫病などが村々に侵入するのを防ぐ道祖伸である。
この岐神信仰に由来する?この海部郡にも岐神信仰由来の伝承があるとは言え、焼山寺を下った神山町に七百以上もあると言う岐神さまを祀る祠がの辺りに多数あるとの記録もない。岐信仰と結びつくエビデンスが見つからない。
別の説としては、古代豪族紀氏の傘下に組み入れらた海人由来のものといった記事もあった。紀>岐の転化ということだろう。
ともあれ、「岐」の由来は不明。少し寝かせて置く。

白浜の安政地震津波石灯籠
木岐漁港に突き出た丘陵裾を抜ける県道25号を進むと白浜の海岸に。ほどなく海岸沿いに遍路休憩所。遍路道はここで県道を逸れ海岸堤防に沿って進む。
少し進むと右手に木岐王子神社。ちょっとお参り。さっぱりとした境内に「木岐王子神社石灯籠 奉一燈 嘉永七年(1854)11月5日快晴の午後4時ごろ大地震が発生し、1時間ほどの間に津波が三度押し寄せ、家が流された。波の高さは12m以上にもなった。王子神社も流され翌年に移転した。大地震の節は油断なきようあらかた記しおく」の説明と、灯籠に刻まれた「嘉永七寅十一月五日清天七ツ時大地震、半時之内大汐三度込入軒家流失凡四丈余上リ、當宮流失明卯八月遷宮、大地震之節油断無之事荒方記置」の写しが掲載されていた。
地震の規模は現代風に言えばマグニチュード8.4。房総から九州まで被害を及ぼした大地震であるが、この木岐浦においても被害は甚大で230戸のうち190戸が津波で流失した、という。

山座峠越入り口のお堂と丁石
王子神社の先、遍路道は木岐浜から恵比須浜に抜ける山座峠越の道に入る。海岸際の取り付口にセメント造りのお堂と地蔵座像、お堂の左手に下半分が埋まった標石があり、手印と共に大師像が見える。照連の四国千躰大師標石だ。お堂の中に祀られる舟形地蔵も丁石を兼ねており、台座に「辺路道 薬王寺 七十五丁」と刻まれる、と。
如何にも海辺の樹林といった風情のウバメガシ(?)の木々の中をしばらく進むと、白浜で分かれた県道25号に合流する。比高差は70mほどだろうか。1キロ弱を緩やかに上る道であった。
土佐街道・殿さま道
往昔の土佐街道・殿さま道は、遍路道とは異なり、上述王子神社辺りから丘陵に取り付き、山座(さんざ)峠の西へと下りていたようだ。現在は廃道となり藪漕ぎMUSTの荒れたルートとなっているようだ。

山座峠
県道25号に合流点には「四国のみち」の木標。「山座峠1.0km」とある。県道とはいえ、ほとんど車が通ることはない。大型地震による津波浸水想定地帯を走る県道25号の代替ルートとして建設された国道55号バイパスを利用しているのだろう。

しばらく歩くと山座峠。峠といった風情はない。そこに山座休憩所(遍路休憩所)。ルート図があり、山座峠から県道を離れ恵比須浜に下りる道が示される。浜に下りた後は海岸に沿って日和佐の町へと向かうようにと示されていた。
擬木の敷かれたアプローチから下り、100mほど高度を下げると田井の集落に下りる。途中舟形地蔵丁石。「遍ろう道 是より五十丁 左日和佐浦 天明元」といった文字が刻まれる、と。
しばらく歩き、潟湖堤防前に遍路道は下りる。


田井の一石三体の石塔
Googke mapで作成
田井の集落に下り、田井湾に沿って道を進む。巾着の口のように締めた地形の田井の浦の地形は結構面白い。砂(礫)洲・砂(礫)堆によって造られた潟湖を活用した浦であろうし、外洋と結ばれた細い水路は砂(礫)洲・砂(礫)堆を掘りぬいたものではないだろうか。砂(礫)洲・砂(礫)堆は20mほど、その下にも6mほどのシルト層(沈泥)が堆積していると国土地理院の資料にあった。
県道が恵比須浜へと右に折れる角に一石三体の石塔。上部に役小角、右に不動明王、左に地蔵菩薩が刻まれる。


恵比須洞の岬上り口に四国千躰大師標石
田井の浦を過ぎ、恵比須浜に沿って南に突き出た岬に進む。岬への上り口、海側に標石が見える。 正面に大師坐像、側面には「真念再建願主」といった文字が刻まれた照蓮の四国千躰大師標石。
岬の突端に「恵比寿洞」の案内。「美波町周辺の海岸は、打ち寄せる太平洋の荒波に浸食されて、いたる所に大小の海蝕洞が見られる。中でもこの恵比須洞は標高52mの岩山に、内部が32m、高さ31mの半円状に貫通しており、県内では最大のものである。
荒波が押し寄せると洞窟の中で轟音を発し出口から噴出する様は実に壮観である。山上には展望台があり、傍らに夫婦和合の神として、恵比須洞神社が祭られている。洞穴には町指定天然記念物である「イワツバメ」が棲息している」とあった。

日和佐
ウミガメの産卵地で知られる大浜海岸北端辺りまで海岸線を走った県道25号は、日和佐八幡神社北側の道へと進み、三差路を西に向かう。道の右手に弘法寺、観音寺と続く。観音寺の道を隔てた北側には美波町役場。その前に日和佐御陣屋跡が立つ。
美波町役場の先はT字路。県道25号は左折し、北河内谷内川に架かる厄除橋を渡り、直ぐ桜町通を右折。門前町の桜町通りを直進すれは第二十三番札所薬王寺に至る。
弘法寺
弘法寺は法印さんで知られるようだ。法印さんは江戸末期の、日和佐で生まれた行者。栄寿法印と称し、荒行の末小松島での化け物退治なといくつもの霊験譚が伝わる。本尊は弘法大師坐像。境内には法印堂も建つ、と言う。
観音寺
観音寺には「二見千軒と寺屋敷」の話が残る。「日和佐町の西南端に小さい円い湾があって、そこを二見といっている。湾の周囲は険しい山であるが、その山の中腹に、一町四方程の平地があり、ここを寺屋敷といっている。この地が「二見千軒」と言う伝説のところであって、大昔、二見には千軒ほどの家があったが、陥没してなくなり、寺屋敷にあった寺も日和佐に移った。今の観音寺がその寺で、山号も二見というと伝えられている。
観音寺の縁起には「弘法大師が二見に来られた時、霊木得て十一面観音を造り、補陀落山観音寺を創立せられた。その後、440余年を経て正嘉二年(1258)八月、台風雨洪水大波のため、山下の町八百余家が一時に海となったので住居しがたく、檀家の人びとと共に現在の所に移って来て、村を開いた」と書かれている。
日和佐御陣屋跡
阿波藩は、地方行政の役所として明和6年(1769)郡奉行と代官の名を改め郡代と唱え、阿波国内を6区とした。那賀・海部が一区となり、3人の郡代はそこに常駐したが、時々管轄地を巡見するのが通例であった。
寛政11年(1799)海部郡鞆浦に、海部郡代所が新築されて新御陣屋と呼ばれた。海部郡は徳島より遠く、交通不便で異国船の警備や、国境に近い重要地などの関係で設置されたものと思われる。
更に文化4年(1807)御陣屋は日和佐のこの地に普請をして移転された。この日和佐御陣屋が最後の郡代役所となった。以来明治初年に至る約60年間、郡代役所の機能を十分に生かし、上は藩庁の指揮に随順し、また管轄6箇町・木頭4箇村の協力を得て、多事多難であった行政に有終の美を発揮したのである。今日も尚、遺跡は町役場・日和佐小学校として行政と文教の歴史を織りなしている。
いま、御陣屋の遺構として残っているのは、北西隅の土塀の一部と、遺物としては、ここにある蜂須賀氏の卍紋のついた瓦と的石である。
この役場庁舎の玄関横にある的石は、御陣屋の西北隅の射場に南面して立っていた矢見立岩である。日和佐小学校改築の際に移転してから、三度の移転を経て、平成9年現在地に設置したものである。
地上部は、高さ1.8メートル、巾2.0メートル、厚さが0.5メートルで、岩質は堆積岩(礫岩)で、日和佐町の宝木橋付近に産する珍しい石で出来ている。矢見立岩の名のとおり、この岩陰で、的を射とめたかどうか判定するのに使用したものである。
日和佐の町
日和佐の町についての記事を探していると、「美波町日和佐地区散歩絵地図」にわかりやすい説明があった。「門前町と港町 門前町である「寺前・桜町」と、古来より港町として発達した港町(川口町)として発達して来た日和佐浦(港町周辺の総称)よりなり、門前町は参詣者や陸上交通の発達で栄えた比較的新しい町。日和佐浦は江戸中期より台頭してきた廻船商人の活躍や、"御陣屋"(後の郡役所)が置かれた事もあり、明治に至るまで、海部郡の政治・経済・文化の中心として栄えてきました。とくに"谷屋" に代表される廻船(交易)によってもたらされた様々な文化が、この町の構成や人々の営みに多大な影響を与えていたことは、日和佐浦の古い町並みなどからも見てとることができます」とある。
桜町は上述の通り。日和佐浦は弘法寺や御陣屋跡があった、、北河内谷内川北側の地区。北河内谷川に架かる厄除橋も、元の橋は廻船業で財を成した谷甚助が総引受人となり、人々の浄財をもとに完成した。と言う。引船渡、木橋を経て石橋を架けた。
日和佐の由来
日和佐を中心とした上灘一円はその昔「和射(わさ)」郷と称していた。明治13年(1880)徳島県が調査した「阿波国村誌」には「古老伝に、往古、和佐(和射)と言いけるが、空海はじめてこの地へ着船、陸に上りし時、旭登れるに所の名を問う。土民「和佐」と答えけるが、朝日を受けて良き地なりとして「日和佐」と言しよし」と記される、と。

土佐街道・小田坂峠越
今回の散歩は田井の恵比寿浜から海岸に沿って大浜海岸を経て日和佐に入った。メモの段階で危険な海岸沿いの道ではなく山越えの道があるのではとチェック。と、田井から日和佐に抜ける土佐街道・小田坂峠越の道があった。
Wikipediaには「北河内側から登る際には、小田坂といい、田井側からはソロバン坂とも言われる。この峠は北河内田井から北河内札場へと抜ける、かつての土佐街道の本線で、阿波藩藩主である蜂須賀氏も通ったと伝わる。かつて道幅は6尺(1.8メートル)ほどあったが、昭和期には、3尺(90センチメートル) ほどになっており、現在は通行困難となっている」とあり、「峠には一本松があり、峠から200mほどの日和佐側には花折地蔵が祀られる」と記されていた。
北河内の真念道標
Wikipediaには現在通行困難とのことだが、WEBをチェックすると結構多くの方が歩いている。それはそれでいいのだが、この道が遍路道であった(当然そうだろうが)エビデンスはないものかと更にチェック。と、牟岐線北河内駅の少し北に真念の道標が残る。「右 大く巳んみち   左 やく巳う寺みち 十丁余」と刻まれると言う。
「大く巳んみち」って何だろう。これが小田坂峠越えとの関連があるのであれば、小田坂峠越えの遍路路のエビデンスになるのだが?そういえば徳島の十番札所の傍にあった真念道標にも「大くわん道」と刻まれていた。以下妄想。観音寺(かんのんじ)のことを真道標には「くわんおんじ」とあった。とすれば、大く巳んみち>大かんみち>おおかんみち>往還道?土佐街道・小田坂峠のことを指しているのだろうか?単なる妄想。根拠なし。

○日和佐浦の旧遍路道
小田坂峠越遍路道のエビデンスとなる標石をチェックしていると、上述「美波町日和佐地区散歩絵地図」に和佐八幡神社の西、通りを少し奥まったところに、遍路道標の記事。Google Street Viiewでチェックすると「日和佐町日和佐浦 旧険路道しるべ」と書かれた標識とその傍に舟形地蔵と角型石柱があった。
上述北河内谷に出る遍路道とも、澄禅が辿ったとする海岸沿いの遍路道ともルートが外れる。あれこれチェックすると、ここから奇岩・大岩から小田坂峠を経て田井に抜ける道があったようだ。この道標はその道を辿ったお遍路さんのために立てられたのではないだろうか。
尚、この記事作成に際しては、いわや道・平等寺道をメモする際、中山道の記事を参考にさせて頂いた「大瀧嶽記(奈佐和彦)」のお世話になった。地元の方の記事は、誠にありがたい。
今回のメモはこれでお終い。次回は第二十三番薬王寺から始める。

先回のメモは、那賀川筋の大井から第二十一番札所太龍寺までをメモした。今回は第二十一番太龍寺から第二十二番札所平等寺までの遍路道をメモする。全行程12キロほどだろうか。
ルートは太龍寺から阿瀬比の集落に下り、その後尾尾根峠を抜けて平等寺に向かう。太龍寺から阿瀬比の集落までのルートはふたつある。ひとつは黒河道。太龍寺仁王門の東にある遍路道分岐点から加茂谷川の谷筋に下り、黒河の集落を経て県道28号に合流し南に下り阿瀬比に向かう。誠に狭いながらも太龍寺への唯一の車参道だが、標石・丁石といったものは残らなようだ。
全体ルート図(Google Earthで作成)
もうひとつは太龍寺から加茂谷川の谷筋を隔てた南の稜線部を辿り阿瀬比の集落に下りるもの。このルートは「いわや道・平等寺道」と呼ばれ、標石や舟形丁石も残ると言う。標石を目安に旧遍路道をトレースするスタンスでの遍路道歩きであり、迷うことなく「いわや道・平等寺道」ルートを採る。 太龍寺からは山稜部を巻き気味に麓の集落・阿瀬比まで続く「いわや道・平等寺道」はその距離6キロほど。比高差は350mほど。
阿瀬比の集落に下りた後は大根峠を越えて平等寺までおおよそ6キロ。大根峠は、峠といっても取り付き口からの比高差は100mもない。それほどキツクはないだろう。普通に歩けば2時間もあれば十分ではあろうが、平等寺道の下りで膝が完全にダメになり3時間ほどかかってしまった。
実のところ、当日は阿瀬比の集落で膝がアウトになった時に備え、念のため阿瀬比集落を通るバスをチェックしていた。午後に2便(2時46分、4時26分)JR牟岐線の駅に繋がるバスの便を確認していたわけだが、なんとか騙しだまし平等寺までたどり着いたといった為体(ていたらく)ではあった。
以下、一応ポイント毎に当日の時刻表示はするが、そういった事情でのコースタイムであり、特に平等寺道の急坂以降のコースタイムは実際はもっと早く進めるかと思う。 メモをはじめる。


本日のルート;
那賀川筋水井橋から太龍寺道を第二十一番札所太龍寺へ
水井橋>地蔵座像と標石>中尾多七標石>10丁>11丁>12丁>休憩所>14丁>16丁>中尾多七奈標石1>17丁>中尾多七標石2> 中尾多七標石3 >遍路墓>19丁>20丁>21丁>23丁>24丁>25丁>尾根>27丁>21番太龍寺
第二十一番札所太龍寺からいわや道・平等寺道を阿瀬比集落へ下る
太龍寺>1丁石>舎心嶽>石仏と丁石〈4丁?)>茂兵衛道標>角柱標石>7丁>6丁?>9丁?>破損石仏>遍路墓>笠付標石>12丁>13丁>14丁>15丁>16丁>17丁>18丁>>19丁>20丁>阿瀬比3㎞>22丁>24丁>遍路墓>25丁>いわや道・平等寺道分岐点>阿瀬比集落1.6km>急坂>39丁>標石>平等寺5km>茂兵衛道標(169度目)
阿瀬比集落から大根峠を越えて第二十二番札所平等寺へ
中尾多七標石>標石2基>倒れた標石>大根峠>地蔵立像>角柱丁石(20丁)>休憩所>石仏群と15丁石>石仏群と11丁石>真言供養塔>岩戸橋北詰2基の標石>22番平等寺


太龍寺からいわや道・平等寺道・大根峠越え経由平等寺ルート


第二十一番札所太龍寺からいわや道・平等寺道を阿瀬比集落へ下る

太龍寺を離れいわや道、平等寺道を経て阿瀬比の集落へと向かう。地形図を見ると、太龍寺の建つ山稜の南、加茂谷川を隔てた山稜の稜線部を巻き気味に進み、阿瀬比の集落へと降りてゆく。南舎心嶽あたりから始まる「いわや道」は平等寺道分岐までおおよそ3キロ、そこから阿瀬比の集落までの「平等寺道」はおおよそ2.5キロ。6キロ弱歩くことになる。

太龍寺ロープウエイ乗り場;午前10時46分
境内に立つ「舎心ヶ嶽680米」の標石の手印に従い境内を左に逸れる。ほどなく太龍寺ロープウエイ山頂駅。舎心ヶ嶽への道は山頂駅脇を太龍寺山〈618m)方向へと向かうことになる。

太龍寺ロープウエイ
by 四国ケーブル〈株)
山麓駅から那賀川を跨ぎ山頂駅まで2,775m。西日本一の長さと言う。開業は平成4年(1992)と結構新しい。上述Wikipediaに「戦後は山中の山寺ゆえに困窮の時代を迎えたが、1992年に太龍寺ロープウェイ が運行するようになったため容易に参拝できるようになり、遍路ブームの到来もあって隆盛時を迎えた」とあった。
山中の山寺ゆえロープウエイが運行されるまで、太龍寺の困窮は大変なものだったのだろう。龍の窟の地は石灰鉱山会社に売却され、取り壊されてしまったと言うし、三重塔も四国中央市の興願寺に売却されたと聞く。また車参道といってもその黒河道は狭路・難路であり、気軽に参拝できるようには思えない。ロープウエイのおかげで太龍寺参拝は身近になったようだ。 運営は四国ケーブル〈株)。八栗ケーブル、雲辺寺ロープウエイ、箸蔵山ロープウエイ(現在は分社化)も運営しているとのこと。

1丁石;午前10時50分
南舎心ヶ嶽への道に入る。道に沿って四国88箇所霊場の本尊石仏が並ぶ。結構新しい。ほどなく舟形地蔵。「一丁」と刻まれる地蔵丁石が現れる。




南舎心ヶ嶽;午前11時2分
等高線500mに沿って少し進み、30mほど高度を上げると。不動明王などの小祠と「聖跡 舎心ヶ嶽」の石碑が立つ。「聖跡 舎心ヶ嶽 弘法大師二十四歳の時著された『三教指帰』にも「阿國大滝の獄にのぼりよじ、土州室戸の崎に勤念す。谷響を惜まず明星来影す」と記されており、この地において見事悉地成就なされ青年時代の思想形成に重要な役割を果たしたことは疑えない事実であります。
平成五年大師入山千二百年を記念し「求聞持法御修行大師像を造立致しました。虚空蔵菩薩の化身とされる東方の明けの明星(金星)を拝されている御姿です。「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おんありきゃ まりぼりそわか」百万遍 建立協賛者 河内金剛講」とある。
谷側の岩上に求聞持法御修行大師像が座す。説明の如く古き仏さまではないようであり、鎖場をちょっと上ることはパスし、道から拝礼。 


石造物と丁石:午前11時5分
舎心ヶ嶽の先で、ストンと10mほど高度を落とし平場に下りる。坂の途中「IWATAMICHI 22」の案内。「22」は第22番札所平等寺を指すのだろう。
平場には石造物6基。左の3基は摩耗し文字は読めない。その横は五輪塔の宝珠部分だろうか。宝珠(?)隣に坐像石仏、右端は自然石の丁石。上部が欠け「*四丁」の文字が読める。


茂兵衛道標;午前11時7分
左手に大師坐像の刻まれた角柱石。その直ぐ先、道が太龍寺山の尾根道の左右に分かれる箇所に、多くの道案内と茂兵衛道標が立つ。
左を指す案内には「22」、「ふだらく山 中山道」、「いわや道」、そして「阿波遍路道 いわや道」。右を指す案内には「北地」とある。
茂兵衛道標には「平等寺 明治二十一年」といった文字が刻まれる。茂兵衛100度目巡礼時のもの。臼杵陶庵の詠む「山中で嬉しきものは道教え」の添歌も。誠にその通り。
「ふだらく山 中山道」・「北地」
「ふだらく山 中山道」ってなんだ?唐突に現れた。チェックすると中山は太龍寺山の南、中山川の谷筋の集落。中山道とはこの辺りの集落の人が太龍寺にお参りする参詣道。集落にある地福寺から支尾根稜線部を上り太龍寺山南の峠から太龍寺山頂を経由して「いわや道」に下りてきたようだ。途中には自然石の丁石が並ぶ、と言う。
太龍寺山頂上には観音堂があり。阿波秩父観音霊場十一番札所であったよう。ために太龍寺山は通称「補陀落山」と称された、と。「ふだらく道」の所以である(WEBにあった「大瀧嶽記(奈佐和彦)」を参考にさせて頂きました)。
また、「北地」は中山川が那賀川に合流する辺り、太龍寺ロープウエイ山麓駅のある辺りの地。


中山道分岐点に角柱標石:午前11時9分
いわや道へと左に折れると道の右手に立つのは遍路墓のなのだろうか。その直ぐ先、道は上下に分かれる。その角に「へんろ道」と刻まれた角柱標石。
上段の道は前述の「中山道」。遍路道は下段の道を進むことになる。中山道の案内は特になかったように思う。


舟形地蔵;午前11時15分
等高線500mに沿って少し歩くと舟形地蔵(午前11時15分)。丁石だとは思うのだが摩耗激しく文字は読めない。







丁石2基
直ぐ舟形地蔵丁石(午前11時16分)。「丁」は読めるのだが数字は読めない。更に舟形地蔵丁石 (午前11時19分)。これも「九丁」のよう読めるのだが、確信はない。




破損石仏
数分歩くと道の左手、大岩の上に石仏台座が残る(午前11時22分)、なんとなく、いい。次いで遍路墓(午前11時25分)らしき苔むした石柱が立つ。





笠付道標・12丁
等高線480m辺りをほぼ水平に通る遍路道を少し進むと笠付道標(午前11時28分)。「右 ふだらく山道」のように読めるのだが、前述「ふだらく山』の刷り込み故だろうか。自信はない。 その先に舟形地蔵丁石(午前11時30分)。「十二」の文字がはっきり読める。


13丁・14丁
「十三丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午前11時33分)。傍に「よみがえった歴史の道 阿波遍路道」の案内。直ぐ先に「十四丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午前11時35分)。




15丁・16丁
山側に「十五丁」の舟形地蔵丁石(午前11時38分)。次いで谷側に「十六丁」の舟形地蔵丁石(午前11時40分)。







17丁・18丁
山側に「十七丁」の舟形地蔵丁石(午前11時44分)。同じく山側に「十八丁」の舟形地蔵丁石(午前11時47分)。






19丁・20丁
山側、平たい岩の上に「十九丁」の舟形地蔵丁石(午前11時50分)。岩も仏も苔むした「二十丁」の舟形地蔵丁石(午前11時54分)。




阿瀬比3㎞の案内: 午前11時58分
「国指定史跡 阿波遍路道(阿瀬比集落まであと3km)」(午前11時58分)の案内の先、左手谷側が開ける。谷を隔てた山稜に鉄骨構造の建屋がかすかに見える。太龍寺あたりだろうか。


22丁・24丁
「二十二丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午前11時59分)。次いで「廿四丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午後12時3分)。丁数の表示形式が異なる。





25丁
遍路墓らしき石造物(午後12時8分)の先に「廿五丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午後12時10分と続く。







いわや道・平等寺道分岐点;午後12時13分・標高430m
直ぐ先で道が上下に分かれる。分岐点に「左 へんろ道」の標石。標石に従えは遍路道は左、下段の道だが、通行止めのバーが道を塞ぐ。道も荒れている。
一方、上段の道には「国指定史跡 阿波遍路道「平等寺道」(阿瀬比集落まで2.5km」とある。特に案内はないのだが、ここが「いわや道」と「平等寺道」の分岐点であった。
で、当日は標石の指す遍路道って何?と少々??を感じながら、ここで平等寺道に乗り換えたのだが、メモの段階でチェックすると、この下段道は「いわや道」であった。往昔はこの道を辿り「龍の窟」へと向かったようだ。ここではじめて「いわや道」の由来がわかった。「龍の棲む岩屋」故だろう。 前述の如く、「龍の窟」の地は売却され。石灰岩の採掘によりその面影は既になく。採石場もあってか危険なため道は閉ざされているようだ。
この分岐点はほぼ中間、3キロほどを1時間、高度を40mほど下げたことになる。稜線巻道をゆるやかに高度を下げてきた。
いわや道のルート
往昔のいわや道は龍の窟を経てどちらに向かったのだろう?あれこれチェックすると、現鉱業権者であるヒロックス〈株)太龍鉱山(元の鉱業権者は住友石炭工業株式会社)へのアプローチ道が、県道28号に合流する地点に35丁の舟形地蔵丁石が立つ。丁数から考えて、ここに出たとしても違和感はない。
因みにこの丁石はあたりをつけてGoogle MapのStreet Viewでチェックし見つかった。





阿瀬比集落1.6km:午後12時29分
等高線430mに沿って稜線を巻くこと10分程、道は稜線鞍部に乗る。「阿瀬比集落1.6km」の案内を見遣り先に進む。ここから先は阿瀬の集落に向かって下ることになる。




急坂案内;午後12時40分
少し進むと「急坂」の案内。急斜面には虎ロープが張られている。那賀川筋から歩きはじめておよそ5時間。急坂を前に大休止。痛めた膝を休める。
休憩しながら地形図チェック。支尾根稜線をほぼ等高線と垂直に比高差250mを下ることになる。膝が心配。休憩を終え午後12時40分坂に向かう。


39丁;午後13時4分・標高250m
虎ロープを握り膝をかばいながら急坂を150mほど高度を避げると舟形地蔵。「三十九丁」と刻まれる。平等寺道ではじめての丁石。というか、結局平等寺道に残される丁石はこれだけであった。 ここまで150mほど高度を避げるため25分もかかっている。ふつうであればその半分程度で下れるだろう。






「平等寺5km」の案内:午後13時?分
39丁石より50mほど高度を下げると、木々の間から右手下に道路、その先に川が見えてくる。地図で確認すると中山川上流部の支流のひとつのようだ。川筋まで下りてくると「山道おつかれさまでした 阿波遍路道 平等寺まであと5km」の案内。里に下りてきた。案内の右手には廃屋が建つ。 


薬師庵;午後13時31分
里道を10分ほど歩くと、県道28号合流手前に一堂宇。「薬師庵」とあったり、WikipediaやGoogle Mapには「あせび観音堂」とあったりはっきりしない。上述「大瀧嶽記(奈佐和彦)」に「集落が近くなると成就院専念寺がある。成就院は太龍寺の七支院の一つで太龍寺の境内にあった。その後ここにうつされ、専念寺もこの地に創建された。成就院の本尊は虚空蔵菩薩で、不動明王、弘法大師を脇仏として祀っている。専念寺の本尊は薬師如来だ」とあった。薬師庵であれば納得できるが、観音堂と結びつくエビデンスは見つからない。


自然石標石;午後13時34分
遍路道は県道28号を右折。直ぐ先、県道から左に逸れる分岐角に納屋のような建屋。その道角に丸い自然石。何気にみると、手印が線彫りされており、「右 へんろ道」の文字も読める。印象的な標石だ。








中山川と加茂谷川の分水界
自然石標石あたりから周囲の景観を楽しんでいると、県道28号の東に小川が流れる。山を下るときに見た中山川上流部の支流だろうと地図をチェックする。と、この小川は北に流れ加茂谷川に合流し那賀川に注いでいる。一方、中山川支流は県道28号手前でグルリと廻り、支流を集め中山川となって西に流れ那賀川に注ぐ。県道28号が両水系の分水界となっていた。
分水界となる県道28号筋を挟んだ両水系の距離は100mも離れていない、標高差もほとんどない。両河川の最接近部からの上流部は加茂谷川筋が圧倒的に長い。加茂谷川筋が洪水などで流れを少し西に変えれば中山川の上流部は河川争奪され、中山川筋に流れることなく、加茂谷川となって北に下っただろうな、などと一時妄想にふける。




阿瀬比集落から大根峠を越えて第二十二番札所平等寺へ

阿瀬比の集落から大根峠まで2基キロ弱、大根峠から桑野川が開いた谷筋に下り平等寺まで4キロ弱。大根峠も取り付き口からの比高差は100mもない。普通に歩けば2時間もあれば十分ではあろうが、平等寺道の下りで膝が完全にダメになり3時間ほどかかってしまった。以下、一応ポイント毎に当日の時刻表示はするが、そういった事情でのコースタイムであり、実際はもっと早く進めるかと思う。

遍路休憩所;午後13時38分
県道28号は国道195号に合流しそこが終点。遍路道は国道を横切り先に進む。国道を渡ると真新しい標石。札所の案内と共に、英語・韓国語・中国語が刻まれる。"We are rooting for you(応援してるよ;頑張って)"と。
その先に遍路休憩所。なんだか素朴な手書き遍路道案内か、いい。少し休憩。


茂兵衛道標(169度目);13時46分
遍路道は遍路休憩所を先に進み、旧国道195らしき旧道をクロスし細路に入る。その角に歩き遍路タグや「22番札所平等寺へ 歩きへんろ道」の案内と共に茂兵衛道標。「平等寺 太龍寺 鶴林寺 明治三十二年」といった文字が刻まれる。茂兵衛169度目巡礼時のもの。


中尾多七標石;午後13時57分
簡易舗装された山裾の道を進むと加茂谷川支流の谷筋に入る。そこに「四国のみち」の木標と共に、上部に刻まれた両端矢印が特徴的な中尾多七標石。「へんろ道」と刻まれる。



標石2基;午後14時8分
先に進み遍路道は加茂谷川支流に架かる小橋を渡り右岸に移る。橋の手前に立つ「四国のみち」の円柱木標の脇に2基の標石。大型角柱標石には「二十二ばん 一里 二十一ばん」といった文字が刻まれる。その横の丸い自然石も標石。「へんろ道 平等寺四十丁」の文字が読める。





倒れた標石;午後14時14分
その先直ぐ右手に逸れる道。その分岐点のシキビに隠れるように倒れた標石。「右 へんろ路*」と刻まれる。
10分ほど歩くと「四国のみち」の木標、「右へんろ道」と書かれた歩き遍路タグ、近年立てられたような標石(午後14時24分)。「へんろ道 大根いやしの道を守る会」と刻まれていた。


大根峠;午後14時37分
標石の直ぐ先、遍路道は山道に入る。取り付き口に擬木。10分ちょっと擬木の敷かれた山道を上ると切通し。「大根峠・阿瀬比1km、大根峠・平等寺2.5km,大根峠・音坊山1km」の案内が立っていた峠の切通しはカラフルな五色の旗が飾られていた。
●音坊山(おとんぼ山)
遍路道とは関係ないのだが、音坊山の案内はあるけど、切通部からそれらしき道はない(なかったように思う)。どうも、峠から右手の尾根筋に上り南西に進むようだ。で、何故に案内が?
地図にも載らない山だが、山頂(333m)からの眺めがいいようだ。城跡(塁)も残るといい、往昔は丹生谷(にゅうだに;現在の国道195号筋の那賀町)を繋ぐ交通の要衝でもあったようだが、その後荒れ果てていたものを、地元の方の尽力で道を整備しといった記事があった(当然、この尾根道とは別ルートだろう)。

地蔵立像;午後14時44分
切通しを抜け下り道に。直ぐ「左 平等寺」と刻まれた標石(午後14時40分)。50mほど高度を下げた平場には石組の祠に地蔵立像。1mほどもあるだろうか。延享2年(1745)のものと言う。



角柱丁石(20丁); 午後14時51分
標高200m辺りまで下ると竹林が現れる。里が近づいた。道の右手に角柱標石(午後14時51分)。「二十二番 廿丁 大正九年」といった文字が刻まれる。
その先急坂を100mほど下り沢に架かる木橋(午後15時13分)を渡る。先に休憩所がある、との木柱が立つ。


休憩所;午後15時22分
右手に開けた里の景観を目にしながら歩くと遍路休憩所。傍にコンクリート造りの小堂が建つ。ちょっと休憩。






石仏群と15丁石:午後15時42分
遍路休憩所を離れ中山川に注ぐ小川を渡るとT字路。そこに「音坊山・へんろ道」の案内が立つ(午後14時34分)。音坊山頂まで2.3kmとある案内図には展望台、駐車場も記される。そのルートは地図にはない。大根峠でメモした、地元の方の尽力により開かれた道がこれだろうか。 T字路を左に折れ道を進むと道の右手に地神と標石。「右平等寺 十五丁 文政十五」といった文字が刻まれる。


石仏群と11丁石;午後15時49分
その先東西に通る道に合流する地点に「四国のみち」が立ち、その傍に石仏群と丁石。横長角柱には「二十二番平等寺 十一丁 右太龍寺 大正四年」といった文字が読める。
その横に並ぶ石仏群にも丁石1基。「是より平等寺へ十町 文化四」といった文字が刻まれる、と。





光明真言供養塔;午後15時59分
道が中山川に遮られ東に折れるところ、道の左手に笠付き石造物や地神小祠。笠付き石造物には「光明真言二百六十五萬遍供養塔」と刻まれる真言供養塔、その先田圃の中に少彦名碑。


岩戸橋北詰2基の標石;午後16時4分
少し東に進むと中山川に架かる岩戸橋。北詰に「四国のみち」の木標と2基の標石が立つ。左の標石には「二十一番太龍寺 二里二十四丁 二十二番平等寺六丁」「右轟神社 左へんろ道 大正十三」といったも文字が読める。
右の標石には「平等寺江六丁 天保二」といった文字が刻まれる。標石前にはお花が供えられている。この標石には地元の方の先祖戒名が刻まれており、その子孫が菩提を弔っている、と。
轟神社
轟神社って?ここらか南西、80キロほど離れたところ、徳島県海部郡海陽町に轟神社がある。 天正時代の建立。今もなお御滝を神霊の坐すところとして信仰し、阿波藩主蜂須賀家政侯が、朝鮮出兵にあたり海上安全を祈願したとも伝えられている社。
が、それにしても遠すぎる。ちょっと唐突。と、この橋を渡り桑野川右岸を少し東に向かったところに轟神社が建つ。弘仁5年(814)、奈良生駒の龍田神社を分霊したと由緒にある古社。樟の巨木で知られる、と。『延喜式』にある那賀郡の七座のひとつ、室比売神社がこの地にあった、とも伝わる。この神社を案内しいるのだろうかこの神社を案内しているのだろうか。


第二十二番札所平等寺に;午後16時21分
岩戸橋から中山川脇の道を15分ほど進むと第二十二番札所平等寺にやっと到着(午後16時21分)。

これで2回にわけた太龍寺越えから平等寺のメモを終える。メモは2回に分けたが当日は太龍寺越えから平等寺まで、おおよそ17キロをカバーした。膝を痛めてるということもあり、やっとこさ辿り着いたといった為体(ていたらく)であった。
プラニングの段階では鶴林寺道から一気に平等寺まで、おおよそ22キロをカバーしようか、などと考えていた。実際に当日、平等寺から鶴林寺を越えて勝浦川筋の生名まで歩いてる方にもお会いした。
 膝を痛めていなければどうという距離ではないのだが、もし途中の太龍寺越えで膝がアウトになった場合はどうしよう。阿瀬比の集落で撤退となるが、阿瀬比からバスはある?午後2時46分と4時26分にバスはある。これならJR牟岐線の駅に辿りつけそうだ、などとあれこれ思案してはいたのだが、結局は太龍寺越えから平等寺までを歩くことにした。 で、予想通りではあるが、後半はほぼ膝がアウト。結構キツイ1日となった。


最近のブログ記事

カテゴリ