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今回は天皇寺・高照院から白峰寺へ向かう逆打ち遍路道をカバーする。このルートが開かれたのは江戸の中期以降、と言う。国分寺から一本松峠へのへんろころがしの急登を避け、七十九番札所である天皇寺高照院から高家神社に向かい、八十一番白峰寺、八十二番根香寺を打ち、八十番国分寺へと下って行くルートである。高屋口ルートと称される。
国分寺仁王門前の標石は八十三番札所・一の宮へのルートを案内していた。この逆打ちコースは多くの遍路に利用されていたのだろう。

メモは天皇寺高照院から標石を目安にお高家神社に向かい、白峰神社参道への分岐点までとし、その先稚児ヶ嶽を左手に見遣りながら西行の道を白峰寺へと上るルートは既に歩き終えた国分寺・白峰寺・根香寺散歩のメモに託す。


高家神社経由の八十一番札所白峰神社への遍路道
衛士坂の遍路道>予讃線踏切>県道33号を交差>原集落四つ辻の標石>原集落の標石>民家塀角の石灯籠>茂兵衛道標(137度目)>長命寺跡碑>姫塚>中川原集落入口の標石>県道16号アンダーパス前に石灯籠>雲井御所>中川原集落の標石>県道脇に標石>田圃の畦道を白峰中学校北側の道に>県道16号北側の標石>神谷川東詰めの標石>遍照院分岐点の石柱と標石>石灯篭と標石>遍照院経緯の遍路道合流点の標石>(遍照院>遍照院東側の標石>防火用水池脇の標石)>高家神社>高家神社傍、県道180号脇の標石>高家神社から白峰寺参道分岐点へ


高家神社経由の81番札所白峰神社への遍路道


衛士坂の遍路道
前述の如く、天皇寺高照院の正面赤鳥居を左折し旧丸亀街道の四つ辻に。既述の如く、左手に石灯籠と標石、右手に茂兵衛道標、四つ辻から北に下る坂道の右角に舟形地蔵が立つ。
国分寺への遍路道はここを右に曲がったが、茂兵衛道標も舟形標石も四つ角を直進する高家神社への遍路道を指す。
舟形石仏の傍に「衛士坂の遍路道」とある。この坂道は「衛士坂」と呼ばれるようだ。案内には、行き倒れとなった遍路を弔う石地蔵とあり、時代は明治かそれ以前か定かではないが、石工の刻んだ「へんろ」の文字がかすかに残る、とあった。地蔵標石の手印に従い坂道を下る。

予讃線踏切
緩やかな坂を下ると予讃線の踏切。「遍路踏切」と称される、と。巡打ちルートである80番国分寺から81番白峰寺への「へんろころがし」の急登を避け、逆打ちルートである79番高照院から81番白峰寺・82番根来寺、そして80番国分寺を打つこのルートを辿った遍路道の名残だろうか。

県道33号を交差
右手に八十場駅を見遣り、踏切を渡ると県道33号。県道を越えた遍路道はちょっと右手、駅方向に進み、田圃を北に進む道へと左に折れる。
八十場
古くは矢蘇場、弥蘇場、八十蘇場とも書かれた、と。景行天皇の御代、南海の悪魚を制すべく出向いた讃留禮王子と八十人の軍勢が、王子の持参した泉(前述の八十場の泉)の水で蘇生したが故の地名であることは既に記した。



原集落四つ辻の標石
畑の中を北西に直線に進んだ道は、ほどなく北東へと進む比較的大きな車道に合わさる。遍路道はここを右に折れて東へと向かう。
しばらく進むとこれも比較的大きな車道と交差。遍路道は坂出市役所西庄公民館の少し北、西庄の原集落の四つ辻を直進するが、四つ辻右角の民家の壁前に標石がある。手印と共に「扁路う道 是与白峯寺五十丁 嘉永五」といった文字が刻まれる。



原集落の標石
原集落の中を少し進むと、道の右手、電柱の根元に小さな標石があり、手印と共に「へん**」と刻まれる、と。摩耗しほとんど読めない。遍路道はここを左折する。








民家塀角の石灯籠
ちょっと進むと塀に囲まれたお屋敷の角に石灯籠がある。火袋の下に、「金」、「白」と刻まれる。金毘羅さんと白峰寺への奉灯の意。文化十四年のもと、と言う。遍路道はここを右折する。







茂兵衛道標(137度目)
道を進むとT字路の突き当り。その正面電柱の前に茂兵衛道標がある。手印と共に「右 天王 明治に二十七年」といった文字が刻まれる。逆打ち遍路の道案内だ。茂兵衛137度目の巡礼時のもの。







長命寺跡碑
道は綾川の土手に向かう。土手に上る手前、道の右手に4mほどの大きな石柱。長命寺跡の石碑。大正時代に建てられたもの。
長命寺
保元の乱に敗れ讃岐配流となった崇徳上皇が住んだ雲井の御所(後述)との説もあるお寺さまであった。長曾我部勢の兵火により焼失し、現在はこの石柱だけが残る。




姫塚
道が綾川の土手に上る長命寺石碑から200mほど西、田圃の中に如何にも塚を想わせる緑が茂る。Google Mapでチェックすると「姫塚」とある。ちょっと立ち寄る。
四方をブロック塀で囲まれた中に自然石があり、「崇徳天皇姫塚」と刻まれる。 上述、前述の菊塚は男児であったが、こちらは崇徳上皇と綾高遠の息女の間に生まれた皇女の墓とのことであった。




中川原集落入口の標石
往昔の遍路道は長命寺跡の石碑から綾川の土手に出た辺りより川を渡ったようだが、そこには橋はない。左岸を少し、県道16号に架かる新雲井橋を渡り、橋の東詰めを右折した後、直ぐに中川原の集落へと、道を左に折れる。土手を下りるとすぐに標石。手印と共に「左扁ろ道 寛政十」といった文字が刻まれる。遍路道は左に折れる。





県道16号アンダーパス前に石灯籠
標石を左に折れた遍路道は、すぐに右に折れ県道16号に沿った旧道を進むが、右に折れず左に向かうと県道16号アンダーパス前に石灯籠があり、「白峯」と刻まれる。このアンダーパスを抜けると崇徳上皇ゆかりの「雲井御所」へと通じる。
雲井御所
県道16号に架かる新雲居橋の東詰め、堤防から少し離れた中川観音堂の隣に「雲井の御所」があった。 案内を簡単にまとめると;崇徳上皇が讃岐に配流されたとき、いまだ御所ができていなかったので、国府に勤める当地の庁官であった綾高遠(あやのたかとお)の邸宅を仮の御所としたと伝えられる。
上皇はこの御所で3年を過ごしながらも、都を恋しく思い詠んだ歌か「ここもまた あらぬ雲井となりにけり 空行く月の影にまかせて」。月の光が雲次第で思うに任せられないように、ここも思いもよらない住処(御所)になってしまったなぁ...、と言った意味。雲井の御所の名はこの歌に由来する、と。また里の名も雲井の里とも称されるが、上皇が愛でた「うずら」をこの里に離されたが故に「うずらの里」とも。
崇徳上皇は府中鼓ケ丘木ノ丸殿の完成をもって遷御され、時代が経るにつれこの雲井の御所の場所もはっきりしなくなったが、天保6年(18835)に,高松藩主松平頼恕(まつだいらよりひろ)公によって,この雲井御所の跡地が推定され,現在の林田の地に雲井御所之碑が建立された,とあった。

中川原集落の標石
道を少し東に進むと、道の右手民家のブロック塀の前に標石。手印と供に、「是ヨリ白峯江三十六里 弘化四」といった文字が刻まれる。
県道脇に標石
この標石の少し手前に県道16号に出る道があり、県道角に標石。「雲井御所跡 西二丁」とある。アンダーパスができる前は、ここから雲井御所へと向かったのだろう。と言うか、現在は新雲井橋を渡り、東詰めを直ぐに左折すると道なりに雲井御所があるが、新雲井橋ができたのが昭和54年(1979)と言うから、それ以前はこの標石の道筋が雲井御所へのメーンルートであったのかもしれない。




田圃の畦道を白峰中学校北側の道に
旧道を進むと道は左に折れ、県道16号に合流するが、遍路道は直進し、田圃の畦道を抜け、県道187号を横切り、白峰中学校北側の道に出る。中学校の敷地が切れるところで左折し、県道16号を横切る。







県道16号北側の標石
県道を越え50mほどのT字路角に標石。手印と共に「八十一番 八十二番 八十番 左へんろ逆べんり」と刻まれる。八十一番>八十二番>八十番と進む逆打ちがべんり、と示す。
遍路道はここを右折すると思うのだが、手印は更に北方向を示す。昔は電柱に南東面してもたれかかるようにあった、といった記事もある。それならルートに合うのだが、現在はシッカリ固定されている。据え付け直されたのだろう。




神谷川東詰めの標石
手印で少々混乱し、ひょっとしたら間違い、などと思いながら道を進むと神谷川にあたる。そしてその東詰めに誠に立派な標石が立つ。オンコースであることがわかり一安心。
笠石のついた標石には、手印と供に「すぐ扁ん路ミち 四国八十一番霊刹 これより弐拾五丁三拾間 南此方 国分寺 壱里弐拾四丁 瀧之宮 弐里弐拾四丁四拾間 高松 四里弐拾六丁 一之宮 三里弐拾八町二拾間 仏生山 四里拾八町五拾間 寛政六」といった文字が刻まれる。







遍照院分岐点の石柱と標石
神谷川を渡り少し進むと、道の左手に2基の石柱。ひとつは寺名石碑。「厄除大師御旧跡 納経御祈願所 慈氏山 松浦寺」とある。もうひとつは標石。手印と共に、「厄除大師**みち 当山ハ大師乃かいき 本尊ハ四十二歳自作のみゑい** 慈氏山遍照院 *門内より**」といった文字が刻まれる。
高家神社への遍路道はここで二つのルートに分かれる。ひとつは直進し白峰山の山裾を高家神社にすすむルート。もうひとつはこの標石を左に曲がり遍照院前を経由して高家神社に向かうもの。

ついでのことではあるので、ふたつのルートを辿ろうと思うが、先ずは標石から直進するルートを進むことにする。


石灯篭と標石
北東に道を進み比較的大きな車道・鴨川(停)五色台線を横切り山裾に。山裾を左に弧を描火袋がない石灯籠と標石がある。
石灯籠には「白峯大権現 天照皇大神宮 金毘羅大権現 氏神 嘉永七年」といった文字が刻まれる。
標石は二面の角に大師像を浮き彫りにする。あまり記憶にない造りだ。また手印は右手の山方向を指し、「志ろみ年江是与六丁」と刻まれる。ここから左に折れ山道を白峰寺への遍路道があったのだろう。それにしても六丁とは。700m弱ということはほぼ直登ルートとなるようだ。


遍照院経緯の遍路道合流点の標石
集落の中を進み、坂を上ると松井春日神社。道はそこから下りとなり、右から道が合わさるT字路。そこが遍照院経由の遍路道との合流点。そこに標石が立つ。手印と共に「扁んろミち 安政四年」といった文字が刻まれる。







遍照院経由の遍路道
遍照院への分岐点の標石を左に折れ道を直進すると遍照院の石段前に出る。石段は草に埋もれている。
遍照院
弘法大師が四十二歳の厄年のとき、この寺で修行されたと伝わる。その故に「厄除大師」として知られる。境内には大師修行の求聞持石と呼ばれる大石がある、と。かつては多くの遍路が立ち寄った寺と言う。
遍照院東側の標石
遍路道は石段前を右折。民家と田圃の間の細路を進み、車道・鴨川(停)五色台線に合流したところ、道の左に小さな標石。手印と共に「すぐ扁んへん** 文久三」といった文字が刻まれる。
防火用水池脇の標石
車道を分かれ斜めに数メートル進むと道に出る。前面に防火用水があり、その前に三角形の自然石標石がある。手印と共に「へんろミち」と刻まれる。 遍路道はここを左に折れ、道なりに進むと状上述遍照院経由の遍路道合流点の標石箇所に出る。




高家神社
遍照院経由のルートを合わせた遍路道は、ほどなく道を進むと県道180号にあたる。T字路を右に折れ県道180号を進むと高家神社に着く。
参道入り口に「血の宮」、鳥居には「崇徳天皇」、随身門にも「崇徳天皇 高家神社」とある。「国史見在之社 高家神社 崇徳天皇御舊跡 血ノ宮」と刻まれた古い石碑もあった。
坂出市のWEBサイトには「昔からここには高家首(たかやおびと)の一族が居住し,遠い祖先である天道根命(あめのこやねのみこと)をお祀りして氏神としました。里の人には森の宮とも呼ばれ,貞観九年従五位下を奉られています。 崇徳上皇崩御ののち,白峰山に遺体を運ぶ途中,高屋村阿気(あけ)という地に棺を休めた時,にわかに風雨雷鳴があり,棺を置いた六角の石に,どうしたことか血が少しこぼれていたといいます。
葬祭の後,里の人は上皇の神霊を当社殿に合祀し,また,血のしたたった石も社内に納めました。俗に血の宮と称される理由です。また,朱(あけ)の宮ともいわれています。
地名の阿気(揚)も,そこから出たことなのかもわかりません」とあった。 死後十数日が立つにもかかわらず鮮血が零れ落ちたという台石も境内に祀られている。

高家首とか天道根命などちょっと気になるのだが、本筋からはるか離れてしまいそうであり、高家神社は崇徳上皇と深く関係した由緒をもつ社ということを以て思考停止。隣の観音寺にお参りし境内を離れる。
国史見在之社
コトバンクには、「六国史(りっこくし)に神名、社名がみえるが、『延喜式(えんぎしき)』巻9、10の神名帳には登載されていない神社をいう。国史現在社(げんざいしゃ)、国史所載社(しょさいしゃ)、式外社(しきげしゃ)ともいった。式内社とともに朝廷の尊崇厚く、由緒ある神社として重んじられる。その数は60余か国390余社に及び、記載の事由は授位、奉幣(ほうへい)、祭祀(さいし)、祈請(きせい)、鎮祭などによる。著名な社(やしろ)として石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)、大原野(おおはらの)神社、香椎宮(かしいぐう)などがある。また所在未詳のものが少なくない」とある。


高家神社傍、県道180号脇の標石
県道180号と高家神社参道との分岐点の左右に標石がある。道の右手に3基。「二十七丁目」「左しろみね道 是より二十七丁 大正二年」、手印と共に「白峰御陵参道 昭和十年」とある。
県道左手、「四国のみち」の木標の脇に2基の標石。小さな標石には手印と共に 「志ろ*ね」、大きな標石は茂兵衛道標。手印と共に八十一番 旧道 へんろみち 明治二拾七年」といった文字が刻まれる。茂兵衛134度目巡礼時のもの。


高家神社から白峰寺へのルート
高家神社から先は旧遍路道はなくなっているようだ。県道180号・鴨川(停)五色台線を1.7 キロほど進み、左に「白峰寺(徒歩)1km」の木標で車道を離れ白峰寺へと向かうことになる。
正面には稚児ヶ嶽が見える。ここはいつだったか国分寺から根香寺、そして白峰寺へと歩き、麓の青海神社(煙の宮)へと下ったルートの途中。これから先は先回のルートメモに渡すことにして、今回のメモはこれで終了。
順打ち・逆打ちで天皇寺高照院と国分寺、白峰寺、根香寺への遍路道を繋いだ。次回は順打ちであれば八十二番・根香寺から八十三番・一の宮、逆打ちであれば八十一番・国分寺から八十三番・一の宮への旧遍路道を歩くことにする。
七十九番札所 高照院・天王寺を打ち終え八十番札所・国分寺へ。そしてその次は八十一番札所・白峰寺ということになるのだが、国分寺から白峰寺、更には八十二番札所である根香寺はすでに歩き終えている。
そのートは国分寺から北に向かい、一本松峠への急登を上り八十二番・根香寺から八十一番白峰寺を打ち、稚児ヶ嶽を右手に見遣りながら西行の道と称される長い石段を麓の青海神社へと下った。
その当時は特段遍路歩きといった想いもなく、山好きの弟に、どこか讃岐で面白い散歩道は?といってガイドしてもらったルートであった。
今回、遍路歩きというコンテキストでその時歩いたルートをチェックすると、そのルートは古い遍路道。江戸中期以降はこの急登ルートを避け、高照院・天王寺から白峰山西の山裾にある高家神社に向かい、そこから白峰寺へと向かう高屋口ルートが利用されという。国分寺から白峰寺へと向かう順路に対し、81白峰寺・82番根香寺・80番国分寺と辿る逆打ちルートである。天皇寺高照院から国分寺・白峰寺・根香寺を打つ遍路道はふたつあったようだ。
このふたつの遍路道のうち逆路ルートは次回に廻し、今回は順路ルートをカバーする。天皇寺高照院から国分寺を打ち、次いで白峰寺へと順路の遍路道を一本松峠に上る登山口までをメモし、その先は既に歩き終えた国分寺・白峰寺・根香寺散歩のメモに託す。

本日のルート;
七十九番天皇寺天照院から八十番札所国分寺へ
七十九番札所 天皇寺高照院>表参道の標石>旧丸亀道との四つ辻の標石>八十場駅前の六地蔵>城山(きやま)神社標石>開法寺>鼓岡神社>内裏泉>菊塚>椀塚>柳田の碑>讃岐国府跡>国府印鑰明神遺跡>綾坂橋西詰めの標石>綾坂説教所跡>国道11 号バイパス東の遍路墓と地蔵標石>日向王の塚>第八十番札所 国分寺
八十番札所国分寺から八十一番白峰寺への登山口へ
築地塀に沿って北に>地神と二丁標石>三丁目標石>四丁目標石>3基の標石>六丁標石>神崎池>神崎池東の標石>一本松峠への登山口に


七十九番札所 天皇寺高照院

当日は八十場の清水から裏参道を辿り白峰宮境内に。七十八番札所金華山天王寺高照院の本堂・大師堂は白峰宮境内につつましく建っていた。
崇徳上皇の霊を慰めるその歴史的経緯故か、院号より寺号が先にくる珍しい寺。元は天皇寺を抱く金山(標高280m)の中腹にあり、古くは金華山妙成就寺摩尼珠院と称された。金華も摩尼珠も空海ゆかりの縁起をもつ。
金華は金山権現が左右に持した金剛鈴と白蓮華より。空海が八十場の霊泉を閼伽井とし秘法修行のとき金山の守護神である金山権現(金山権現の化身である天童とも)が現前した、と伝わる。摩尼珠は大師修法の間、嶺に舎利(如意宝珠とも摩尼珠)を埋めた故。
大師は、その霊域にあった霊木で本尊十一面観音、脇侍阿弥陀如来、愛染明王の三尊像を刻造して安置。寺は霊場とされ、七堂伽藍が整い境内は僧坊を二十余宇も構えるほど隆盛したという。
その後、嵯峨天皇の御代になり、保元の乱(1156)に敗れ、讃岐に配流され更には誅された崇徳上皇の霊を慰めるため、この地に崇徳天王社が建立される。それに応じ院宣をもって摩尼珠院は崇徳天皇社の別当寺となり金山山麓よりこの地に移った。この故に、人は摩尼珠院を「天皇寺」とよび、崇徳天皇社を「天皇さん」と呼んだ
。 明治初年、神仏分離令によって摩尼珠院は廃寺となる。79番札所は筆頭末寺の奇香山高照院(約2km北の林田町にあった)が引き継いだ。崇徳天皇社は白峰宮と改称。また、明治天皇の宣旨により崇徳院御霊は京都白峯神宮へ戻った。 その後、高照院は、明治20年(1887)摩尼珠院跡の現在地に天皇寺高照院として移転した。

寺の歴史的経緯を眺めると、寺号が院号の先にあること、本堂や大師堂が白峰宮の境内につつましく建つ所以も納得できる。
札所
ところで、札所について、江戸時代、1653年に著された澄禅の『四国遍路日記』に、「大師御定ノ札所ハ彼金山ノ薬師也」とある。現在は荒れ果てているようだが、金山に当寺の奥の院である瑠璃光寺(金山薬師)がある。行基が薬師如来を本尊として堂宇を開創したとの縁起が残る。
空海の開いた摩尼珠院は、荒れ果てた行基開創の堂宇を再興したものとも伝わるが、それはともあれ、『四国遍路日記』に従えば、江戸の頃まで札所は現在地ではなく摩尼珠院の元地であったようにもとれる。

続けて『四国遍路日記』には、「子細由緒ヲモ知ラズ 辺路修行ノ者ドモガ、此寺ヲ札所ト思ヒ 巡礼シタルガ初ト成、・・・金山薬師ハ在テ無ガ如ニ成シ」とする。由緒を知らない遍路は、崇徳天皇社を札所と思い込み、いつしか金山薬師は在って無きが如し、となってしまった」とする。


七十九番天皇寺天照院から八十番札所国分寺への遍路道

天皇寺から白峰寺・根香寺へと辿る順路の遍路道である次の札所・国分寺へと向かう。

表参道の標石
朱に塗られた三輪鳥居を潜り境内を出る。表参道は東へと直進するが、鳥居を出てすぐ、境内に沿って北に進む道の角に標石。「白峯寺へんろみち 是ヨリ五十六丁 明治七」と刻まれる。八十番国分寺ではなく、八十一番白峰寺を案内する。
上述の如く、国分寺から白峰寺へと順路で進む、国分寺・一本松峠経由の遍路道ではなく、白峰寺から根香寺、そして国分寺へと進む遍路道の案内となっている。手印は表参道ではなく北を示す。標石に従い左折し境内に沿って北に進む。




旧丸亀道との四つ辻の標石
ほどなく道は旧丸亀街道に当たる。前回歩いた八十場の清水の標石を右折し裏参道に進むことな、標石を直進すればここに進む。表参道から向かう遍路道でもある。
この四つ辻に大きな自然石の灯籠、標石、舟形地蔵が立つ。自然石の燈篭前にある標石には、「天皇社 札所 摩尼珠院 寛政十二」といった文字が刻まれる。寛政十二年と言えば西暦1800年。1653年の澄禅の『四国遍路日記』では本来の札所は金山山麓の薬師堂であるのに、由来の知らない遍路は天皇社を札所と勘違いしている、などとの記述があったが、19世紀に入る頃には札所は摩尼珠院となっていたようだ。
四つ辻東角には茂兵衛道標。「明治二十七年」、茂兵衛135度目巡礼時の道標。指を二本伸ばす手印はあまり見ない。その指し示す方向は北。国分寺ではなく白峰寺への遍路道を示す。四つ辻北角の船形標石も「左 へんろ道」と白峰寺への遍路道を指すが、国分寺への遍路道はこの四つ辻を右に折れ、東へと向かうことになる。




八十場駅前の六地蔵
道なりに進むと八十場駅南の六地蔵堂脇に出る。駅前を南北に走る道を横切り白峰宮の赤鳥居に向かう表参道も横切り、国道11号バイパスの高架を潜り予讃線の南に沿って続く道を進む。別宮とか醍醐とか、別宮八幡や醍醐寺に因む地名が続く。別宮など如何にも崇徳上皇に関係ありそうな地名である。
3基の石仏が並ぶ民家を見遣りながら進むと、遍路道は予讃線鴨川駅手前で予讃線を越え県道33号に合流する。

城山(きやま)神社標石
国道を少し進み、弘法寺地区で県道33号を離れ右に折れ、再び予讃線の踏切を越え鼓岡神社への道を進む。
鼓岡神社手前の四つ辻に石碑があり、手印と共に「讃岐国之始祖 延喜式内当国廿四社之一明神大 県社城山神社」「此西鎮座 大正二年」といった文字が刻まれる。
その傍の石碑には「本村は古の甲知郷(こうちごう)仁にして国府のありし所也 仁和四年大旱仁当たり国主菅公が讃岐八十九郷二十萬蒼生の為仁雨城山(きやま)神仁祈りし処は是より二十二丁頂上にあり 昭和八年 府中村」とある。 ●菅公
菅公とは菅原道真公のこと。仁和四年(888)、43歳の頃讃岐守(讃岐国司)を拝任し、2年間讃岐に下向した。その後宇多天皇の信任を受け要職を歴任するが、異例の出世への妬みなのか、宇多天皇と醍醐天皇との確執なのか、ともあれ讒言により大宰府に左遷される。昌泰四年(901)というから56歳の頃だろう。



城山神社
なんとなく気になりちょっと立ち寄り。石碑を右に折れ道なりに進むと西山神社の先に城山神社が鎮座していた。こじんまりした社ではあるが社格は讃岐に三社ある式内社(明神大社)のひとつ。祭神は折に触れ登場する神櫛(かみくし)別命。景行天皇の御代、悪魚退治で知られ、讃岐国造の祖とされる




開法寺
遍路道に戻り、鼓岡神社へと向かうと、趣のある鐘楼が建つ。石碑には白鼓山開法寺とある。近くに奈良時代以前の古寺、讃岐最古の寺であったという開法寺跡があり、なんらかの関係があるのか?と思ったのだが、どうも関係はないようで、浄土真宗の寺とあった。




鼓岡神社
開法寺前の道を進むと鼓岡神社に着く。いつだったか白峰寺から根香寺を辿った時、崇徳上皇ゆかりの地ということで一度訪れたことはあるのだが再訪。 城山(標高162m)の山裾に鎮座する神社入口の石碑に「鼓岡神社 崇徳上皇行在所」とある。石段を上ると、広い境内、その奥に鳥居。鳥居から先に続く石段を上ると拝殿がある。
案内には、「鼓岡神社由緒 当社地は、保元平治の昔、崇徳上皇の行宮木の丸殿の在ったところで、長寛二年(1164年)八月二十六日崩御されるまでの六年余り仙居あそばされた聖蹟である。
建久二年(1191年)後白河上皇近侍阿闍梨章実、木の丸殿を白峰御陵に移し跡地に之に代えるべき祠を建立し上皇の御神霊を奉斎し奉ったのが鼓岡神社の創草と云はれている。伝うるに上皇御座遊のみぎり、時鳥の声を御聞きになり深く都を偲ばせ給い。
鳴けば聞き、聞けば都の恋しきに この里過ぎよ、山ほととぎす
と御製された。 時鳥 上皇の意を察してか、爾来この里では不鳴になったと云はれている。
境内には、木の丸殿、凝古堂、観音堂、杜鵑塚(ほととぎす塚)鼓岡行宮旧址碑、鼓岡文庫などがあり、付近には、内裏泉、菊塚、ワン塚などの遺跡がある」とあった。
境内には「瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞおもふ」と刻まれた石碑、案内にもあった「鳴けば聞き、聞けば都の恋しきに この里過ぎよ、山ほととぎす」由来の杜鵑塚(ほととぎす塚),「
などがあった。
擬古堂
また、境内には大正2年(1913)、崇徳上皇没後750年祭を記念し、木の殿を再現すべく建てられた「擬古堂」もあった。
案内には「保元元(1156)年、保元の乱に敗れた崇徳上皇は讃岐へと配流され、長寛2(1164)年、ここ鼓岡で四十五歳の生涯を終えます。
上皇が暮らしたところは御所(天皇が住む屋敷)であるにも関わらず、とても粗末な造りであったため「木の丸殿」と呼ばれ、上皇を慕って訪れた笛の師蓮如(結局上皇と会うことは叶いませんでした)にも次のように詠まれています。 朝倉や 木の丸殿に入りながら 君にしられで 帰る悲しさ
この建物は大正二(1913)年、崇徳上皇750年大祭が挙行された際に造られたものです。粗末だったとされる木の丸殿を偲び、その雰囲気を模して造られているため「擬古堂」という名称が与えられました。
また、『白峯寺縁起』によると、実際に上皇が暮らした木の丸殿は、上皇亡き後その菩提を弔うため、遠江阿闍梨章實という人物により御陵(上皇のお墓)近くに移され、これが今の頓証寺殿となったとされています」とあった。
御所としては粗末なのだろうが、田舎のどこにでもある民家といった風情。都に送った大部の写経をおこなったのもこの場所とのこと。大河ドラマでは、都に送ったものの、無残にもつき返され、怒りのあまり「われ魔王となり天下に騒乱を起こさん」と、日々凄まじい形相となって、後白河上皇らに深い怨みを抱きながら憤死する、ということであるが、それはどうも、『保元物語』や『雨月物語』の筋書きのようであり、実際は、この地で穏やかな日々を送ったとの説もある。
「鳴けば聞き、聞けば都の恋しきに この里過ぎよ、山ほととぎす」も、上皇の嘆きを察し、地元の人々がホトトギスの鳴き声が聞こえないように、追っ払っていた、とも伝わる。
また、木の丸殿は、その名の如く丸太で組まれた簡素な館との説とされるが、3年の歳月をかけたとの記録や古絵図にある上皇崩御後この御所を移した言われる頓証寺(白峰寺にある。現在のものは再建)の規模を示す古絵図などからして、立派な御所であったとの説もあるようだ。

ついでのことでもあるので、鼓岡神社の案内にもあった、付近の崇徳上皇の遺跡を巡る。


内裏泉
鼓岡神社北東端の四つ辻傍、擬古堂北側の斜面下に内裏泉(だいりせん)と称される水場がある。「内裏泉 木丸殿御井 崇徳上皇は長寛二年(1164)に崩御されるまで六年間、府中鼓ヶ岡の木ノ丸殿にお住いになられました。この泉はその頃に上皇の飲用に供された泉で、内裏泉と呼ばれ、地形上も谷筋に位置していることもあり、決して大旱魃にも枯れない泉であると伝えられています」とある。
この水で、目を洗うと目が悪くなる、との言い伝えがあるようだ。? チェックすると、高貴な人が飲んでいた水を大切に守るため、村人が意図して流した噂との記事もあった。
菊塚
内裏泉から開法寺方面に少し戻ると道に沿った民家敷地に「菊塚」がある。崇徳上皇の御子の墓と言う。崇徳上皇が雲井御所(後述)に居たとき、警護役の綾高遠(あやのたかとう)の息女との間になした男子。上皇の一字を与え顕末と称した、と。
椀塚
菊塚の先を右に折れると、道の左手、畑の中に「椀塚」がある。案内を簡単にまとめると、「讃岐配流となった崇徳上皇は松山の津という港に着船し、林田町にある仮の御所(雲井御所)で2年間過ごした後、国府に近い鼓岡の木の丸殿に移された。
国府の厳しい監視の中、人に会うことも、出歩くこともせず、淋しい日々の中この地で崩御し、白峯に祀られた。
この椀塚は、崇徳上皇が使用していた食器を埋めたとされる塚。年代不詳だが(?冢;わんづか))と刻まれた石が残る。
その真偽のほどは定かではないが、崇徳上皇の地域の与えた影響の程はわかる」といった案内があった。
松山の津
場所は県道161号・さぬき浜街道沿いにある。道は山稜の間をすり抜ける。道の左右の山は雄山(標高139m)と雌山(164m)。「松山の津」の案内は、その雄山を抜ける手前の道路脇にあった。案内には、崇徳院の讃岐配流までの経緯と、松山の津の説明がある。
「敗れた崇徳上皇は讃岐に配流となり、ここ松山の津に着いたとされる。津とは港のことであり、当時の坂出地域の玄関口となる場所であった。その頃は今よりも海が内陸部まで迫っており、この雄山のふもとも海であったと考えられる」、と。津=港ではあるが,松山は古くから条理制地割りの設けられているところで,海岸から府中の国府に至る重要な場所でもあったのだろう。
案内に「浜ちどり 跡はみやこへ かよへども 身は松山に 音(ね)をのみぞなく 保元物語」の歌も添えられていた。讃岐に到着した崇徳上皇が都を恋しく思って詠んだ歌とされるが、江戸時代に書かれた上田秋成の「雨月物語」では、讃岐配流の後、写経に勤しんだ上皇が、せめてお経の筆跡だけでも京の都に置いて欲しいと朝廷に送った歌ともされる。上で鳥羽上皇の弔いのために送った写経が都で受け取りを拒まれ、崇徳院が激怒し怨霊したとメモしたが、その写経と関係があるのだろう、か。単なる妄想。根拠なし。
柳田の碑
県道33号のJA香川の国道を隔てた対面にある自動車整備工場(?)の裏手の予讃線の線路脇に「柳田」の碑がある。誠にささやかなこの石碑は、崇徳上皇暗殺説にまつわる地。讃州府誌にも長寛ニ年八月二条帝陰に讃の士人に命じ弑せしめたり(二条帝は讃岐の武士・三木近安(保)というものに命じて、崇徳上皇暗殺を計画した)と記されている。
その説によると、刺客の知らせを聞いた上皇は木の丸殿から綾川方面へと逃れる。川沿いには柳が立ち並んでおり、上皇は柳の根元の穴に隠れるも、衣が川面に映り刺客に誅せられた。以来、この地では柳が育たなくなったとか、刺客が白馬の馬に跨り紫の手綱であったことから、「紫」は禁色とされた、とか。
いつだったか白峰寺を訪れた時、白峯寺の幕には五色あったにもかかわらず、頓証寺殿の幕には紫と白が除かれ、三色の幕となっていた。この暗殺話と関係があるのだろうか。単なる妄想。根拠なし。因みに現在の綾川は当時の流路と変わっているので、柳田の碑と川筋が離れている。

讃岐国府跡
内裏泉まで戻り四つ辻を東に進む遍路道に戻る。予讃線手前、道の右手に「讃岐国司庁」の木標が立つ。国司庁とは国府の中枢施設。国司が政務を執る施設である。大化の改新後、国ごとに設けられた方5町の国府跡が残る。
国府印鑰明神遺跡
国府関連の遺跡と言えば、崇徳上皇の遺跡を求め柳田に向かう途中、水田の真ん中に石碑が見えた。柳田の碑かと思い、畦道を進むに、石碑には「国府印鑰明神遺跡」とある。
印鑰(いんやく)とは国庁の印鑑や鍵の保管庫こと。印鑑や鍵の重要性に鑑み、明神として祀り、関係役人のモチベーション高揚に役した。石碑の別面には、"府中邨奨學義田" と刻まれる、と。大正4、5年(1915,16)の頃、"奨学義会"という組織が、この周辺の民有地を買い上げ、遺跡として、当時の府中村に寄付した、ということである。
この国府印鑰明神遺跡に限らず、この辺りの本町には帳次(ちょうつぎ:諸帳簿を扱った役所)、状次(じょうつぎ:書状を扱った所)、正倉(しょうそう:国庁の倉)、印鑰(いんやく:国庁の印鑑、鍵の保管所)、聖堂(せいどう:学問所)といった地名が残っている、との記事もあった。

綾坂橋西詰めの標石
予讃線、県道33号を横切り綾川に。綾川に架かる綾坂橋の西詰に標石が立つ。 「城山神社七丁 鼓岡神社五丁 国庁之跡 西四丁 綾坂橋架設記念 昭和十年」と刻まれる。
更に橋の少し上流に2基の標石が見える。手印と共に「左へん路道 是与国分寺十八丁」の遍路標識と「延喜式内明神大社 城山神社 是よ里西に御座 天保六」と刻まれる。

綾坂説教所跡
橋を渡ると道は緩やかな上りとなる。国道11号坂出丸亀バイパスに沿って上りつめたところでバイパスと最接近する。
道なりに下ると道の右手、民家の玄関前に綾坂説教所跡の石碑が立つ。 説教所とは一般的に言えば、宗教法人法に縛られることなく、一般の建物に仏像を安置し、定期あるいは随時に布教を行う場所とされるが、この綾坂説教所がどのような性格のものであったか不詳である。



国道11 号バイパス東の遍路墓と地蔵標石
説教所を後に東に下る遍路道は県道33号の北で左に折れ、国道11号坂出丸亀バイパスの高架下を潜る。国道の東側は細い急坂となる。坂を上り緩やかに下る道を少し進むと、道の左手に遍路墓と地蔵標石があった。
遍路墓には「四国遍路常次郎墓 安政五年」、地蔵の台座には「国分寺江五丁 天王江七十丁 文化九 世話人前谷講中」といった文字が刻まれる。

日向王の塚
北東に進む遍路道が県道33号に最接近するところに日向王の塚があった。松の木の下に小石が積まれているのがその塚のようだ。その名が刻まれた灯籠が傍に立つ。
『全讃史』に景行天皇の御代、南海に大魚があり船を呑み込むなどして人々を苦しめていたため、武穀王(たけかいおう)に命じて退治させた。
武穀王は讃留霊王(さるれおう)とも称され、讃岐の国造であったとも伝えられる。日向王は讃留霊王の七代目の子孫。古代に綾川流域を中心とした阿野郡に勢力を誇った綾氏の祖先とされる。この塚が王の墓跡とされる」とある。
この南海の悪魚、武穀王・讃留霊王は、折に触れて登場する。南海の悪魚とは海賊のことであろうか。その海賊を退治したのが景行天皇の御子である日本武尊の第五子である武穀王。武穀王は讃留霊王とも称されるとあるが、讃留霊王は景行天皇の御子である神櫛王ともある。はるか昔の伝説であろうから、どちらがどちらであっても門外漢にはかまわないが、ともあれその讃留霊王は讃岐国造の始祖であり、綾氏の祖先とするようだ。
で、讃留霊王って、讃岐に留まる霊なる王と読める。武穀王であれ、神櫛王であれ「讃岐に留まり国造の祖となったが故の讃留」か?と妄想したのだが、本居宣長はこの漢字は後世の当て字であり。「サルレ」の音のみが有意とするとある。妄想だった。


第八十番札所 国分寺

道なりに進むと四国霊場第八十番札所国分寺の仁王門前に着く。国分寺には一度訪れたことがあるのだが、記憶は薄れイメージしていた国分寺は、備中の国分寺ではあった。それはともあれ、結構な構えのお寺さまである。
仁王門脇の「縁起略記」によると、「天平13年(741)、聖武天皇の勅願、行基菩薩の開基により国ごとに建立された讃岐の国分寺(金光明四天王護国之寺)。創建当時は二町四方(東西3町、南北2町、とも)あり、南より南大門を入り、東に七重の塔、中央に中門・金堂、講堂などの諸堂があった。現在古義真言宗御室派の別格本山で四国第八十番の札所である」とのこと。
仁王門前の標石
仁王門前、左手に4基の標石が並ぶ。手前の摩耗激しい標石には「扁ん路道  是与り** 寛延元」といった文字が刻まれる。ついでちょっと縦長の標石には「是よ里白峯五十丁 一のミや七十五丁 文化八」、その隣は茂兵衛道標。「一之宮道 是ヨリ七十五丁 左高松 明治十九年」と刻まれる。茂兵衛88度目の四国霊場巡礼時のもの。四つめの標石は、仁王門前、左手に立つ常夜灯傍にあった。自然石の標石には「右一の宮」と刻まれていた。
一の宮
一の宮は第八十三番札所。ここで八十三番札所を案内するということは、七十九番札所から八十一番白峰寺、そして八十二番根香寺を討ち終え、八十番国分寺へと下り、八十三番一の宮寺へと辿る遍路が多くいた、ということだろう。この逆打ちの高屋口ルートは後述。
七重塔礎石
仁王門を潜り境内に。参道の左右に八十八ヶ所霊場の石仏が並ぶ。参道右手に千躰地蔵堂。その前に大きな礎石が並ぶ。仁王門前の案内にあった七重の塔跡。であろう。
境内にあった「国分寺由来」によれば、「創草寺の七重塔礎石。すべての国分寺は五重塔ではなく七重塔であった。この塔址は心礎(中心柱が乗る礎石)とともに合計17個の礎石があり、5間四方の塔で、京都の東寺の五重塔(高さ東洋一)以上の大塔であった」と。現在は礎石の上に鎌倉時代に造られた石造りの七重の塔が残る。
梵鐘
参道左手に鐘楼。当山創建当時、奈良朝鋳造の旧国宝・重要文化財との案内があった。歴史のある鐘だけに、その歴史に相応しい伝説・実説も伝わる。大蛇の伝説や高松城の時鐘がそれである。
大蛇の伝説とは、その昔讃岐のある淵に棲む大蛇が近隣の人々を苦しめていた。それを聞いた弓矢の名人が、国分寺の千手観音の御加護のもと鐘をかぶり、現れた大蛇を退治。その鐘は国分寺に奉納された、といった話である。
また、高松城の時鐘とは、国分寺の鐘の音が気に入った高松の城主生駒一正公が、田一町を寄進し、その代わりとして鐘を城内に運び時鐘にせんとした。が、その鐘は少しもならず、城下では怪異な出来事が起き、また殿様までが病にかかり、その夢枕に毎夜鐘が立ち「もとの国分にいぬ いぬ」と。
これは鐘の祟りかと、鐘を国分寺に戻すと元の平静な城下に戻った、といった話である。「鐘がものいうた 国分の鐘が 元の国分にいぬというた」。この歌はそのときつくられたもので、そのことを記した証文が残る、という。実説とされる所以である。
金堂礎石
正面に本堂。その手前、梵鐘の左手に閻魔堂、梵鐘と本堂の間に毘沙門堂が建つが、そのあたり一面に礎石が並ぶ。その数三十三個。その昔の金堂(本堂)跡である。「国分寺由来」には。「実測間口東西14間(1間=1.8m)。奥行(南北)7間の大堂」とあった。
本堂
池に架かる橋を渡ると本堂。創建当初の講堂跡に建てられたものであり、九間四面の入母屋造り、本瓦葺き。鎌倉中期の建築といわれ重要文化財に指定されている。本堂には本尊の千手観音が佇む。約5m、欅材の一本造りの観音さまは重要文化財である。
大師堂
本堂前の池の脇には弁財天の小祠と七福神の石像が並ぶ。国分寺は「さぬき七福神」の中、弁財天を主尊としている。願かけ金箔大師像にお参りし、右手に進むと大師堂と納経所があった。多宝塔のような二重の塔が大師堂、手前の建物が納経所。堂の前には千体地蔵が群立する。

国家鎮護、社会の安定を祈願し建立された国分寺ではあるが、古代律令国家体制の崩壊とともに、国家による管理・庇護が受けられなくなり衰退する。そしてその中興の祖が弘法大師空海とも伝わる。弘仁年間(810-824)に弘法大師が訪れ、行基作の5・3mの大立像(本尊)を補修した、と。
しかしながら、中興された堂宇も、天正年間(1573-1592)、土佐の長曽我元親軍の兵火に晒され、本堂と鐘楼だけを残し全て焼失。慶長年間(1579~1614)、讃岐国主である生駒一正によって再興され、江戸時代には、高松藩主松平家代々によって庇護された、とのことである。


国分寺より八十一番札所白峰寺登山口までの遍路道


国分寺を討ち終えれば次は八十一番札所白峰寺。何度かメモしたように国分寺から八十一番白峰寺、八十二番根香寺は既に歩き終えている。国分寺から北に進み一本峠への急登を上っていったわけだ。
国分寺から先はその時のメモに任せてもいいかとも思ったのだが、当時は「遍路歩き」といった想いはなく、山歩きの面白いコースとして弟にガイドしてもらったということもあり、標石を目安にした旧遍路道を捜し歩いたわけではない。
その時歩いたルートは国分寺仁王門前にあった「歩きへんろさんへ」に案内のある、仁王門から東に進み次いで北へと向かうコースであるが、遍路標石は逆方向、西に少し戻りそれから北に進むルートに残っているとのこと。
どうせのことなら、白峰寺への登山口までは標石の残る旧遍路道をトレースし、そこから先は、既に歩き終えたメモに託すことにする。

築地塀に沿って北に
仁王門から少し西に戻ると直ぐに理髪店があり、その手前に北に進む細路がある。理髪店手前を右に折れ、復元された国分寺の築地塀に沿って進む。




地神と二丁標石
田圃の中を進むと緑に茂る木立が前面に見える。その木立の下は塚状となっており地神の小祠と舟形地蔵、そして石仏があった。舟形地蔵は標石となっており、「二丁目」と刻まれる。


三丁目標石
二丁目標石を右に折れ、田圃の畦道を進み、用水路を渡ったところに舟形地蔵。標石となっており、「三丁目」と刻まれる。








四丁目標石
用水路に沿って先に進む。ほどなく用水路から離れ左に弧を描く道の先に車道が見える。遍路道は車道に出ることなく先に進む。と、水路に沿った道端に舟形地蔵。「四丁目」と刻まれる標石となっている。





3基の標石
遍路道はT字路に当たる。左に折れ車道に出ると、その四つ辻の少し南に3基の標石が並ぶ。「五丁目」「*丁目」、手印と共に「へん***」といった文字が刻まれる。道路整備の折、どこからか移されたものだろう。






六丁標石
四つ辻からほんの少し北に車道を進むと、道の右手に舟形地蔵。「六丁目」と刻まれる。





神崎池
車道を進むと神崎池。「四国のみち」の木標に従い、遍路道はここで右に折れ、この池の南堤を東に向かう。








神崎池東の標石
神崎池の土手を東に進み、集落に入る。途中、国分寺仁王門から東に進んだ後北へと向かう遍路道とT字路で合流。そこから少し東に進みT字路角に標石。「扁ん路道」と刻まれる


一本松峠への登山口に
遍路道はここを左に折れ登山口へと向かう。しばらく歩き、墓地の辺りで舗装が切れ一本松への山道となる。ここから先はいつだったか歩いた散歩のメモに任す。



もうひとつの遍路道
神崎池を左に折れて一本松経由の遍路道に進むルートとは別に、神崎池の西側に標石が続く。ここから北に進み国分台の中央を直登し白峰へと進む遍路道もあったようだ。
2基の標石
車道を少し北に進むと2基の標石が立つ。手印と共に「右へんろ道」と刻まれた標石と、「八丁目」と刻まれた舟形地蔵標石。遍路道はここで車道を離れ、田圃の中を進む。





九丁目
田圃の畦道に小さな覆屋のついた舟形地蔵。「九丁目」と刻まれる。







十丁目
舗装された道に出る。少し左に北に進む道。その角に「十丁目」と刻まれた舟形地蔵と手印と共に「へんろ道」と刻まれる。
比較的新し目の石柱。「新へんろ道 (四国のみち)へ」とあり、手印は東を指す。




十一丁目
北へと国分台へと進む道の右手に十一丁目と刻まれた舟形標石。標石はこれで終わる。昔はここから白峰へと這い上がる遍路道もあったのだろう。
道隆寺から天皇寺までの旧遍路道歩きの2回目。郷照寺から天皇寺までの旧遍路道を、件(くだん)の如く標石を目安にトレースする。
今回も、途中「ゆるぎ岩」といった言葉に惹かれ、ちょっと寄り道をしながらの歩き遍路メモ。
本日のルート;
七十七番札所・道隆寺から七十八番郷照寺へ
七十七番札所・道隆寺>地蔵堂傍の茂兵衛道標>天満宮傍、T字路角の標石>塩屋別院>正宗寺>寿覚寺南の金毘羅標石>(太助灯篭へ>寿覚院山門前の常夜灯と標石>太助灯篭)>丸亀市街を抜け宇多津に入る>県道左側に地蔵堂>誰袖(たがそで)の標石>誰袖(たがそで)の標石>本妙寺>郷照寺参道前の徳右衛門道標>七十八番札所郷照寺
七十八番札所・郷照寺から七十九番札所・天皇寺へ
七十八番札所郷照寺>閻魔堂>大束川手前、公園傍の標石>西光寺>聖通寺分岐点の標石>(聖通山のゆるぎ石)>県道33号との交差角に標石>巨石に刻まれた不動尊>白金町の本街道右側に標石>本街道を東へ>標石2基の分岐点で本街道から右に折れる>予讃線・瀬戸大橋線踏切先の標石>八十場の霊泉>茂兵衛道標(100度目)>裏参道への標石>第七十九番札所高照院


七十八番札所郷照寺

大吉地蔵尊の前に標石
細くゆるやかな坂を上る。山門前に「大吉地蔵」と呼ばれる地蔵尊。台座に刻まれる「大吉」は願主の名。備中の人。「四国廿一度巡拝供養」とも刻まれる。 地蔵前の道脇に標石。手印と共に「大師道 弘化三年」といった文字が刻まれる。
鐘楼
山門を潜り、道を進むと堂宇の一段低い広場に鐘楼がある。なんとなく唐突な感があるが、元は大師堂傍にあったものがここに移されたようだ。が、鐘楼からの宇多津の眺めは、いい。
案内に鐘楼の鐘にまつわる伝説が記されていた。江戸の頃、この鐘が割れた。折しも堺から遍路にきていた鋳物師に鋳造依頼。金を鋳直す材料として蓄えていた銅鏡を山から運ぶことに。
と、とみくま村の庄屋さんと一緒に銅鏡を運んでくれたお爺さんが突然姿を消す。人々はそのお爺さんを春日明神であろうと噂をした、と。造り直した鐘はよく鳴り本州まで聞こえ、あまつさえその音色に誘われて龍神までも現れた、とか。
この鐘はその歴史的価値ゆえに戦時の金属供出にも免れ、現在に至る」と言ったことが書いてあった。
そのお爺さんは龍神の化身とか、鐘は鋳直しではなく富熊村の庄屋の心願成就の祝いに境から鐘を鋳る名人を呼び、鐘を造ったとかいろいとバリエーションがあるようだ。
本堂
石段を上ると右手に納経所、正面は本坊。右に折れると本堂がある。寛保年間と言うから18世紀中頃の建立。本尊は阿弥陀如来。御詠歌は「踊りはね念仏唱う道場寺 拍子それえて鉦を打つなり」。
御詠歌は踊り念仏を想起させる。札所の宗派は今までもあまり気にしたことはないのだが、御詠歌が気になりチェックすると宗派は踊り念仏で知られる一遍上人の時宗とのこと。四国札所で唯一の時宗の寺ではないだろうか。
Wikipediaに拠ると、「寺伝によれば、行基が神亀2年(725年)に一尺八寸(55cmという説も)の阿弥陀如来を本尊として道場寺の名で開基した。大同2年(807年)に空海(弘法大師)が伽藍を整備した。その時に厄除の誓願を修し大師像を納め、それが「厄除うたづ大師」として信仰されていると云われている。 仁寿年間(851年から854年)には理源大師が阿弥陀三昧の行を修した。寛和年間(985年から987年)には恵信僧都が釈迦如来の絵図を納め釈迦堂を建立した。
正応元年(1288年)には一遍上人が遊行の折に3か月逗留し踊り念仏の道場を開いた。その後も栄えたが天正の兵火(1576年から1585年)で堂宇を焼失するも寛文4年(1664年)高松藩主松平頼重により再興、その時の住持と徳川家の関係により、時宗に属し郷照寺と改称した。しかし、『四国遍礼名所図会』(1800年刊)にも1826年の納経帳にも道場寺となっている。四国八十八箇所では珍しい異なる2つの宗派が共存する寺になっている」とあった。
説明にある「ふたつの宗派が共存する」の意味するところは門外漢には不詳だが、開基の頃は天台宗。空海の縁で真言宗、その後荒れ果てていた堂宇を一遍が直し時宗、江戸の頃は浄土宗の僧が住職をつとめ、現在は時宗と宗派は何度か変わっている。また、道場寺の名前の示す如く、この寺は高野聖の往来する修験道と関係深い寺であった、とも。
寺名といえば、道場場から郷照寺となる間に、江照寺と称される時期もあったとする。入り江が入り込んでいた地形からの命名。その後町屋が増えたため郷照寺とした、とか。宗派だけでなく、寺名も何度か変わっているようだ。

「ふたつの宗派が共存する」と言えば札所六十七番の大興寺を思い起こす。真言と天台のふたつの大師堂が建っていた。
ぽっくりさん
本堂右前に3基の石仏。讃岐の三大ぽっくりさん、とのことだが、少し大きな釈迦座像の他2基がぽっくりさんなのだろうか。はっきりしなかった。また、三大という、その他の二つのポックリさんは?特段、これに関する記事はヒットしなかった。

庚申堂
本堂右前に庚申堂。お寺の境内に庚申堂が建つのは珍しい。内部には見ざる、言わざる、聞かざるの三猿を従えた青面金剛像が祀られるとのこと。お堂傍には撫で仏も佇んでいた。
庚申信仰と三猿
庚申信仰と三猿の関係は?庚申(かのえさる)からとも、また庚申の夜、天帝に宿主の罪を告げ口する三尸(さんし)の虫に己が罪を見なかった、聞かなかった、そして告げ口しないで、との願いから、とも。
道教では人には魂(コン)、魄(ハク)、三尸(さんし)という三つの霊が宿る、と言う。宿主が亡くなると魂(コン)は天に、魄(ハク)は地下に戻る。幽霊の決まり文句「恨めしや~、コンパクこの世にとどまりて恨みはらさずおくものか~」のコンパクがそれ。
三尸は宿主が亡くなると自由になれるとされる。自由になりたいがため、宿主がむなしくなることを待ち望むわけだ。この三尸、旧暦の60日ほどで一回というから、年に6,7回巡りくる庚申(かのえさる)の日、人が眠りにつくと宿主の体を抜け出す。天帝に宿主の罪を告げるためだが、そのレポートにより天帝は宿主の寿命を決める、とか。
宿主をむなしくし、はやく自由になりたい三尸に、あることないこと告げ口されたらかなわんと、人は寝ないで朝を迎えた。これが庚申待ち。眠らなければ三尸は体を抜けだすことができないためである。
庚申信仰と青面金剛
で、庚申信仰と青面金剛の関係は? 道教の天帝を仏教では帝釈天とみなすようであり、青面金剛がその帝釈天の使者であるが故と。また三尸の語呂合わせでもないだろうが、伝尸病(でんし;結核)に霊験あらたかとされるのが青面金剛であった故、とも。
大師堂
本堂の左を歩き、石段を上ると大師堂。上述の如く、大同2年(807年)に空海(弘法大師)が伽藍を整備した。その時に厄除の誓願を修し大師像を納め、それが「厄除うたづ大師」として信仰されていると云われている。




万体観音堂
大師堂の左、地下に万体観音堂がある。地下の回廊の左右に3万を越す小さな観音像が並ぶ。
淡島明神
大師堂の左、少し上ると淡島明神。案内には「以空上人と天女のはなし」とあり、大雑把にまとめると「江戸の頃、この讃岐の地で疫病がはやり、お産の後に体を壊す女性があまた出た。で、高野山の高僧以空上人にお願いし、この寺で安産子宝・女病平癒・良縁成就の請願を立て、加多の淡島神社より本尊を勧請。淡島明堂を建て女性達の守護神となした」とあった。
天女さまの言及はないが、和歌山市加多にある全国の粟島神社の総本社である淡嶋神社の淡島神は、住吉神の女妃。夫人の病に霊験あらたかともされるので、天女とは淡島神のこと?
以空上人
上人は木食上人として知られる。コトバンクには、「肉類,五穀を食べず,木の実や草などを食料として修行することを木食といい,その修行を続ける高僧を木食上人といった。
高野山の復興に尽くした安土桃山時代の応其(おうご)(木食応其)は,広く木食上人の名で知られるが,江戸時代前期には摂津の勝尾寺で苦行を続け霊験あらたかな僧として知られた以空(いくう),中期には京都五条坂の安祥院中興の祖となった養阿,江戸湯島の木食寺の開基として知られる義高,後期には特異な様式の仏像を彫刻して庶民教化に尽くした五行(木喰五行明満)があらわれるなど,木食上人として崇敬された高僧は少なくない。
木食は苦修練行の一つで,それを行うことによって身を浄め,心を堅固にすることができるとされたが,経典や儀軌の中に木食の典拠は見いだせない」とあった。
このお寺様の本堂裏手に木食上人堂がある、との記録もあったが見つからなかった。
常盤明神
淡島堂の左手に小さな社。常盤明神とあり、案内には「狸が神様になったりんお話」とあり、簡単にまとめると「足利時代、この寺にいた臨阿という僧が傷ついた狸を助けた。
臨阿が主人である細川頼之公の供で都に帰る。やがて飢饉や兵火が起こり、この寺も悪者に襲われる。が、狸は寺を護るべく奮闘。これを見た地元民も協力し、寺を護り今に伝いた」とあった。
小さな社の傍に狸が祀られたのは、それゆえのことであった。
細川頼之
いつだったか、伊予の河野氏ゆかりの地を訪ね歩いたとき、折に触れて細川来之が登場してきた。南北朝の争乱記、同じ武家方の細川と伊予の河野が相争うことに最初は混乱した。
「えひめの記憶」には「足利尊氏は、すでに幕府開設以前の建武三年(一三三六)二月、官軍と戦って九州へ敗走する途中、播磨国室津で細川一族(和氏・顕氏ら七人)を四国に派遣し、四国の平定を細川氏に委任した(梅松論)。 幕府成立後も、細川一族は四国各国の守護職にしばしば任じられ、南北朝末期(貞治四年~応安元年)、細川頼之のごときは、四国全域、四か国守護職を独占し、「四国管領」とまでいわれている(後愚昧記)。
もちろんこの「四国管領」というのは正式呼称ではなく、鎌倉府や九州探題のような広域を管轄する統治機構ではない。四国四か国守護職の併有という事態をさしたものであろう。頼之の父頼春も「四国ノ大将軍」と呼ばれているが(太平記)、これも正式呼称ではあるまい。
ともかく幕府は細川氏によって、四国支配を確立しようとしたことは確かである。その結果、細川氏は四国を基盤に畿内近国に一大勢力を築き上げ、さらにその力を背景に頼之系の細川氏(左京大夫に代々任じたので京兆家と呼ぶ)が本宗家となり、将軍を補佐して幕政を主導した。
南北朝末期、細川氏は二度(貞治三年、康暦元年)にわたって伊予へ侵攻し、河野通朝・通堯(通直)父子二代の当主を相ついで討死させた。侵攻にはそれぞれ理由があるが、その根底には、細川氏による四国の全域支配への野望があったのではないだろうか」とあった。
偶々であるがその細川氏の四国の拠点である宇多津を歩けて、なんとなくあれこれが繋がってきたように思える。


七十八番札所・郷照寺から七十九番札所・天皇寺へ■

閻魔堂
郷照寺を販れ遍路道に戻る。参道を下り切ったところ、徳右衛門道標の斜め前に閻魔道がある。「四国一のえんま大王像」と書かれた看板に惹かれお参り。堂内には閻魔様を中央に、左右に大王像が並ぶ。十王像だろうか。
十王とは閻魔王を含めた十尊。亡者の罪の多寡を審判し、地獄へ送るなど六道輪廻を司る。生前に十王を祀れば死して後の罪を軽減してくれるとの信仰がある。お寺さまに十王堂があるのはそのためだろう。が、閻魔様以外の尊像はあまり知名度がなく、ひとり閻魔さまだけが知られる。

大束川手前、公園傍の標石
古い宇多津の街並みを抜け、大束川を渡る手前、道の左手にある公園の前に標石がある。「東 高松 西 丸亀 道 すぐ金毘羅道 すぐ かわぐち 天保二年」と刻まれる。
「かわぐち」の意味するところは不詳だが、大束川に架かる橋の辺りが往昔の「鵜多の津」であったというから、そこを指すのだろうか。





西光寺
水門のある橋の手前、なまこ塀・土塀に囲まれた一見、武家屋敷といった風情の寺がある。西光寺である。
城郭伽藍様式の境内に。本堂の前面の勾欄には龍の彫り物が目立つ。本堂にお参り。本堂

左手の境内に舟屋形茶室があった。周囲は板戸で覆われ内部を見ることはできない。
案内には「江戸時代末期に建造した旧多度津藩藩主の御座船と伝えられる船屋形である。 由来については定かでないが六十二艘立の「順風丸」とする説や三十五反帆を誇った御座船 「日吉丸」とみる説などがあってその伝承も一定していない。
廃藩置県後西光寺境内に移し一部改造が 加えられたが昭和五十七年の移築解体修理によって創建当初の姿に復元されたこの種の遺構は殊に少なく 現在確認されている船屋形は本件を除けば旧姫路藩の船屋形(相楽園内)と旧熊本藩の細川家船屋形(熊本城内)と数えるのみである」とあった。





聖通寺分岐点の標石
クロスする県道193号を直進、瀬戸大橋線の高架を潜ると、その先に県道33号。遍路タグの案内があり、指示に従い県道のアンダーパスを潜り抜けると五差路。五差路といっても左手は工場跡の更地。大型ショッピングセンターが建ちはじめている。ここを北に進むと聖通寺。
その角に手印と共に「七十九番 天**」と刻まれた標石が立つ。遍路道はここを右に折れる。ここに遍路道案内のタグがあり迷うことはない。指示に従い、聖通寺山と右手の角山の鞍部に向かって緩やかな坂を進む。
聖通山のゆるぎ石
聖通寺山に聖通寺城があった、と言う。麓に聖通寺もある。細川氏由ゆかりの寺、ないしは館跡でもあったのだろうかとちょっと立ち寄り。古いお寺さまではあるが細川氏の館ではなく、館は郷照寺の南西の円通寺、多門寺の辺りであったよう。調べて行けばいいものを、成り行き任せであり、いか仕方なし。
で、地図をチェックすると聖通寺山に「ゆるぎ岩」のマークがある。なんとなく気になりゆるぎ岩に向かう。

途中聖通寺城跡である常盤公園がある。特段の遺構はなし。展望も木々に遮られ宇、それほどよくもなかった。
ゆるぎ岩は巨石が並ぶ。どれがゆるぎ岩かよくわからなかった。適当に岩を揺らすが、揺れることもなかった。後からあれこれ記事を読むと、岩を動かしている方も多いので、もう少々真面目にすれば動いたの、かも。




県道33号との交差角に標石
遍路道に戻る。上述道標に従い、ゆるやかな坂を上り切った鞍部、県道33号と交差する山側に石碑と共に標石がある。石碑には「奥院岩薬師如来」、標石には「へんろ道 東坂出へ 西宇多津町へ 七十八番?二十一丁、二キロ半 七十九番へ一里 四キロ」と刻まれる。







巨石に刻まれた不動尊
県道を渡ると道の左手に田尾公園がある。ここにも遍路道案内のタグがある。公園内を抜けるようだ。
指示に従い車道を左に折れ、公園へのアプローチ道に入ると、道の左手、民家の前に巨大な岩に彫られた不動明王の像があった。

白金町の本街道右側に標石
田尾公園を抜け、そのまま東に進む本街道に入り直進。右手に大きな境内をもつ八幡社、進んで右手に州賀金毘羅社の小さな社にお参りし、八幡町から白金町に入る。道の右手に「すぐ邊路路 左こんぴら道」と刻まれた標石があった。



本街道を東へ、坂出市街を抜ける
遍路道は交差点を越え、そのまま本町のアーケード商店街に入る。アーケードを抜けると元町・京町、室町、旭町、横津町と直進し坂出市街を抜ける。

標石2基の分岐点で本街道から右に折れる
横津川を越え、本街道が金山の山裾に接する辺り、道の右手に2基の標石がある。手印と共に、「七十八番 七十九番 扁ん路道」「邊ろ道 右七十九番崇徳**」といった文字が刻まれる。遍路道はここで本街道と分かれ右に折れる。




予讃線・瀬戸大橋線踏切先の標石
細い道を進み予讃線・瀬戸大橋線の「金山国道踏切」を渡り、少し進むと、道の左手に標石がある。手印と共に、「崇徳天皇道 札所へ四丁」と刻まれる。









八十場の霊泉
金山(標高280m)の東山裾を進むとやがて八十場の霊泉に着く。森と泉とお堂。崇徳上皇ゆかりの地と思うだけで、なんだかちょっと身構える。
泉の脇に石碑があり、「崇徳上皇御殯*御遺跡 白峰宮」と刻まれる。その脇の案内には、「八十蘇場の清水
  やそばの水はドンドン落ちる  つるべでくんで ヤッコでかやせ
むかしから讃岐のわらべたちに唱われたこの泉は、いかなる早天にも濡れることなく、今も清冽に流れている。

景行天皇の御代、南海に征して悪魚の毒に悩んだ讃留霊皇子(讃留霊王)とその軍兵八十八人は童子の捧げるこの水によって蘇ったがゆえに、八十蘇場の水との伝説を持ち、芳甘清碧な水は古くより薬水として尊ばれ、茶人にも愛されて、遠くは阿波山中より求め来る人も多いという。
八百年のむかし、保元の乱 によって綾北に配流された崇徳上皇が南狩 9年にして鼓岡行在所に崩ぜられるや御殯*の地となり、御尊体をこの霊水にひたして損腐を防いだ聖地でもある。 老杉は天を覆って森厳の気を生じ、清水は酒々として行人の心を濯ぐ、やそばはまごとに霊泉の聖地である 坂出ライオンズクラブ」とあった。

現在は八十場、昔は矢蘇場、この案内には八十蘇場、Googleの地図には野沢井(崇徳上皇ゆかりの地)とある。清水の傍にある地蔵堂脇には「西国三十三所石物観音彌蘇場道、とあった。
讃留霊王
綾氏の祖先とする。讃留霊王は景行天皇の御子神櫛王ともいわれ、「讃岐の国造の始祖」の系と言う。

茂兵衛道標(100度目)
清水の前は金山と城山の間を進んできた道が合わさるT字路。その角に「道場寺 第七十九番霊場 左 高松 明治廿一年」と刻まれる。第七十九番霊場の手印は右(南)を指す。左に進む遍路道もあるが、今回は道標に従い右に折れる。






裏参道への標石
ほどなく道は分岐。分岐点に手印と共に「左へんろみち」と刻まれる。左に折れる道は第七十九番札所高照院、というか天王寺というか、白峰宮の裏参道。第七十九番札所高照院に着いた。

2回に分けてメモした七十七番札所道隆寺から七十九番札所までの旧遍路道散歩を終える。



仲多度郡多度津町の道隆寺から、丸亀市域を抜け綾歌郡宇多津町の郷照寺を打ち、坂出市市街を抜けて天王寺まで、おおよそ13キロの遍路道を辿る。 当日は道隆寺から天皇寺まで進んだのだが、道隆寺から郷照寺までの間、あれこれ寄り道しメモが結構長くなってしまった。
今回のメモは郷照寺までの遍路道のメモとし、その先は次回に廻す。

本日のルート;
七十七番札所・道隆寺から七十八番郷照寺へ
七十七番札所・道隆寺>地蔵堂傍の茂兵衛道標>天満宮傍、T字路角の標石>塩屋別院>正宗寺>寿覚寺南の金毘羅標石>(太助灯篭へ>寿覚院山門前の常夜灯と標石>太助灯篭)>丸亀市街を抜け宇多津に入る>県道左側に地蔵堂>誰袖(たがそで)の標石>誰袖(たがそで)の標石>本妙寺>郷照寺参道前の徳右衛門道標>七十八番札所郷照寺
七十八番札所・郷照寺から七十九番札所・天皇寺へ
七十八番札所郷照寺>閻魔堂>大束川手前、公園傍の標石>西光寺>聖通寺分岐点の標石>(聖通山のゆるぎ石)>県道33号との交差角に標石>巨石に刻まれた不動尊>白金町の本街道右側に標石>本街道を東へ>標石2基の分岐点で本街道から右に折れる>予讃線・瀬戸大橋線踏切先の標石>八十場の霊泉>茂兵衛道標(100度目)>裏参道への標石>第七十九番札所高照院


七十七番札所・道隆寺から七十八番郷照寺へ■

七十七番札所・道隆寺からスタート
道隆寺を打ち終え、次の札所に向かう。境内から出るのも、また境内から少し離れた本坊からでるのも、遍路道は境内北側を丸亀市街へと走る車道を進むことになる。
本坊は結構風格がある。総本山醍醐寺のもと、全国に六つある真言宗醍醐派の大本山のひとつ。
こじんまりとした境内を歩きながら、第三世が空海の実弟である法光大師、第四世が円珍こと智証大師、第五世が理源大師と高僧が住職を務めたということに何となく??を感じていたのだが、この本坊を見て納得。
本坊北角の標石を直進し遍路道にでる。


地蔵堂傍の茂兵衛道標
道隆寺を出て東に向かった道はすぐ丸亀市域に入る。丸亀に入って直ぐ、道の右手に地蔵堂があり、その脇に茂兵衛道標が立つ。「右どう里う寺 左道場寺 明治二十七年」と刻まれる。茂兵衛134度目巡礼時のもの。道場寺は七十八番札所・郷照寺の古い呼び名である。

天満宮傍、T字路角の標石
金倉川を渡り、讃岐塩屋駅を越えると道の左手に天満宮。その東側、T字路角に標石が立つ。「本派本願寺 塩屋別院 本願寺坊舎」の文字と「逆へん路通りぬけ道あり」と刻まれる。「抜け道云々」の指示するところは不明だが、ここでちょっと遍路道を離れ標石の指す塩屋別院に立ち寄る。
本派本願寺
本派本願寺とは西本願寺の異称。大谷派本願寺に対してのもの。西本願寺とは浄土真宗本願寺派の本山である本願寺の通称。大谷派は浄土真宗十派の一。第12世教如が、徳川家康の寄進を受けて烏丸に東本願寺を建立したのち、独立したもの。明治14年(1881)東派から大谷派に改称(「コトバンク」より)。

塩屋別院
予讃線を潜るとほどなく誠に大きな山門と広い境内、堂々とした伽藍をもつ塩屋別院がある。本堂前にあった案内には、「本願寺塩屋別院の起源は、江戸時代の慶長20(1615)年に播州赤穂(現 兵庫県赤穂市)の教法寺と門徒30戸が塩田開墾のため、集団移住したのが始まりである。
当初は教法寺道場と称し、寛永20(1643)年讃州那珂郡塩屋村総道場教法寺と称する寺号を賜わり、以来、念仏者の中心道場となっていった。
当時の敷地は東西二十五間、南北三十間(750坪)本堂は東向き七間四面、境内の地上げに必要な築石は丸亀城築城の残石で補ったと言われている。
享保19(1734)年に本願寺塩屋別院となり、延享2(1745)年面積を六段六畝十三歩(1993坪)に拡大し、現在の本堂の建設に入り、それまでの本堂を対面所とした。
現在の本堂は、寛延2(1749)年に起工し、上棟は安永(1775)年でおよそ30年の歳月を要した。さらに完工までに相当の年月を要し、大工棟梁も3人目にして完成したと言い伝えられている。
また本堂完工後、書院・奥座敷・学寮・講堂・表門・鐘楼・表納所・経堂・土蔵・輪番所・講中詰所・集会所・茶室等が順次建てられ、全ての完成まで50年余りを要したと推測される。
平成5年より平成大修復を策定実施し、平成7年に本堂屋根修復・大書院の修復を完了し、平成9年には研修会館を新築した」とあった。

それにしても立派な構えである。讃岐遍路歩きの折々に、曼荼羅道での蛇岩や善通寺の法然上人逆修の塔など、上人ゆかりの地に出合った。承元の法難により讃岐配流となった上人は放免されるまでの10ヶ月間、讃岐各地での布教をおこなったというから、上人の浄土往生の教えが広まったのだろうか。
もとより、この塩屋別院は浄土真宗であり、法然の開いた浄土宗ではないが、浄土真宗の開祖親鸞は法然の教えを継承し発展させたものである。浄土真宗とは浄土往生を説く真実の教え、ということのようだ。
ドイツ兵俘虜収容所
尚また、案内には「本願寺塩屋別院におけるドイツ兵俘虜収容所」の案内があり、「大正3(1914)年に勃発した第一次世界大戦。イギリスと交戦中のドイツに対して、日本は同盟関係にあったイギリスとともに中国領土内でドイツと戦火を交えた。数か月間の攻防が続いた後、ドイツ軍は最後の砦となっていた青島(チンタオ)が陥落し、降伏した。その際、捕虜として捕えられたドイツ兵4,627人が、日本にあった12か所(四国には松山、徳島、丸亀の3か所)の俘虜収容所に送られた。
同年11月16日、多度津港へ入港後、丸亀俘虜収容所(本願寺塩屋別院)に収容された俘虜324人は2年5か月もの長い間、丸亀で俘虜生活を送ることとなる。その間の塩屋別院門信徒との交流・俘虜たちの暮らしぶり等、当時の貴重な写真も残っている。
当時の俘虜の生活は、個人個人を尊重した収容所運営を図っており、運動する事やビールを飲むこと等を許可する運営が行われていた。やがて彼らの能力を活かす機会も増え始めソーセージを作ったり技術者として学校等で技能の指導を行ったりしていた。
また、俘虜のエンゲルを中心に楽団を結成し、26回もの演奏会を開催している。その中で、男性合唱団も2団体結成され「収容所合唱団」として独自のコンサートも開催し、活発に活動していた。彼らの音楽活動は、丸亀の収容所から始まり、その後、徳島の板東俘虜収容所へ移り、そこでも音楽活動が盛んになった」との説明が当時の写真と共にあった。

第一次大戦の捕虜収容所といえば、松江中佐が所長であった徳島の坂東俘虜収容所が有名だが、偶々訪れたこの丸亀にも同様の精神で運営された収容所があった。松山で出合った日露戦争でのロシア兵捕虜収容所の写真、市民と道後温泉で寛ぐ姿、三津浜で海水浴を楽しむ姿、将校は市内の民家を借りて住むことも認められていた、といったことなどを思い起こす。
松江中佐と坂東俘虜収容所は『ふたつの山河;中村彰彦著(文春文庫)』に詳しい。

正宗寺
遍路道筋に戻り少し東に進むと、道の右手に正宗寺がある。何気なく立ち寄る。と、ここも法然上人ゆかりの地であった。
法然上人櫂堀井戸
道を少し南に折れ、境内入口に。入り口に佇む北向地蔵にお参りし境内に。境内南端に覆屋があり、その下が井戸となっている。
法然上人が、讃岐の塩飽諸島の笠島浦(かさじまうら)から、讃岐金刀比羅宮の東麓、九条家の荘園である小松庄へ移ることになり、船でこの地・塩屋に上陸。この時、水を願って船の櫂で地面を掘ると、水が湧きだしてきた、と。 櫂堀井戸の名前の由来である。当時はこの辺りが海岸線であったということだろう。
なお、安政五年(1858)の『西讃府誌』には「棹の清水」として伝えられ、「信じられないことであるが誰もがこのことを知っているので、仕方なく載せた」という内容の添え書きまであるという。
舟つ奈き岩
井戸の東、木の下に二つの石碑がある。ひとつは「舟つ奈き岩」とある。法然上人上が讃岐上陸の折の岩だろうか。またその横に自然石。何か刻まれているようだがはっきりしない。自然石に「ほうねん上人かいの水 南無(なむ)は船阿弥陀(あみだ)のかいで堀(ほる)清水(しみず)末の世までも仏仏(ふつふつ)とわく」と刻まれるとの記事があったので、その石碑かもしれない。

法然堂もあるこのお寺さまは、法然上人が去ったあと、弟子の成阿坊が残り、草庵を守り教えを広めたとのことである。
北向き地蔵
散歩の折に触れて北向き地蔵に出合う。今までスルーしていたのだが、そもそも何故に「北向き」を特別視するのだろう。チェックする。 地蔵菩薩の住む浄土である?羅陀山(きゃらだせん;須弥山を囲む七金山のひとつ)は南にある。故におのずと地蔵は北を向くことになる、と言う。それはそれでいいのだが、北向き地蔵と敢えて挙げる説得力に乏しい。
北は鬼門など忌むべき方角とされる。それにも関わらず敢えて北を向くことが、逆に特別な霊威を感じるといった信仰故との説もある。また、中国には王者南面の思想がある、と言う。京都御所しかり、天皇陵(御醍醐帝を除き)しかりである。北は「下座」と言うことだろう。
で、何故に「北向き」を特別視するか、ということだが、それはお地蔵さまの「役割」をはっきりと表したもの故、と言う。釈迦入滅後、弥勒菩薩が現れるまでの気の遠くなるような間、この現世に仏が不在となる。その間仏に代わり六道を輪廻する衆生を済度するのが地蔵菩薩とされる。「一斉衆生済度の請願を果たさずば、我、菩薩界に戻らじ」と、地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道に現れ、下座にある我々に寄り添い済度するということだろう。
全国に北向き地蔵は400体ほどある、と言う。敢えて北を向く故の霊威なのか、民衆に寄り添う故の下座としての北向きなのか門外漢にはわからないが、何となく「北向き」を特別視する理由はわかったように思える。

寿覚院南に金毘羅標石
道を東に進み、西汐入橋に架かる塩屋橋を越え更に直進すると寺の境内に行く手を阻まれる。辺りはいくつもの寺が集まる寺町で寺のようだ。
T字路を右に折れ寿覚院の南、県道21号(丸亀宅間豊浜線)に入り、少し東に進むと県道33(交差点から北は県道204号)と交差する。その交差点の少し手前、県道21号の右側に金毘羅標石。
「左こんぴら道 すぐこんひら 右かわくち 明治十三」といった文字が刻まれる。
丸亀街道
金毘羅道標の脇に「こんぴら湊 丸亀街道」の案内が詳しいルート図と供にある。案内には「こんぴら湊 まるがめ街道  現在こんぴらさんとして親しまれている金刀比羅宮 は、古くから金毘羅大権現として広く信仰を集めていました。 特に江戸時代後期には金毘羅参詣が一般庶民の間で人気となり多くの人々が参詣に訪れるようになりました。
主な金毘羅街道として、丸亀街道 、高松街道 、多度津街道 、阿波街道 、伊予・土佐街道 の5街道 が知られています。この中でもっとも多くの参詣客が利用し、にぎわったといわれているのが丸亀街道です。 丸亀から金毘羅までの約3里(12km)の道筋には今も、道標 、丁石 (距離を表す単位である丁数が 刻まれている石造物 )、燈籠 が多く残され、往時のにぎわいを今に伝えています」とあった。

太助灯篭へ□

ルート図には随所に金毘羅標石が立っている。そのうちに歩いてみたい、などとルート図を辿っていると四国への上陸地点、金毘羅街道のスタート地点である丸亀湊に「太助灯篭」とある。何となく名前に惹かれちょっと立ち寄ることに。
寿覚院山門前の常夜灯と標石
ルート図を辿り金毘羅標石の道を隔てた北、寿覚院と民家の間の道を進む。と、ほどなく寿覚院山門前に金毘羅常夜灯と標石が立つ。常夜灯には「大阪講中」と刻まれる。標石には手印と共に、「こんぴら せんつじ へんろみち」「往昔金毘羅大権現 當山十一面観世音 明治五年」と言った文字が刻まれる。
京極家の前の丸亀藩主山崎氏の菩提寺である寿覚院の本尊は十一面観音である。
太助灯篭
予讃線・丸亀駅、更にみなと公園西側の道路脇にたつ常夜灯を見遣り丸亀港へ。港の太助灯篭は予想以上に大きくすぐわかった。傍にあった案内には「金毘羅講燈籠  丸亀 は金毘羅参詣客の上陸地で、門前みなととして栄えてきた。金毘羅講寄進のこの青銅燈籠は、天保九年 (一八三八)の製作で、高さ五・二八メート ル、蓮華をかたどり八角形である。
ここの船溜り(新堀湛甫)を築造するとき、当地の金毘羅宿の主人柏屋団次らが発起で江戸に行き、江戸および近国で千人講を作り、江戸本所相生町の富商塩原太助の奉納金八十両をはじめ、千三百五十七人が出し合った金でできた信仰と、航路標識とかねたもので、江戸講中の代表、八十両の最商領寄附者の名をととめて、一名「太助燈籠 」とも呼んでいる。
天保の昔、対岸にニ基・福島湛甫にニ基建てられたが、戦時中の金属回収で姿を消し、この一基だけが残っている。金毘羅街道 の「一の燈籠」である。 丸亀市教育委員会」とあった。
塩原太助
Wikipediaには「江戸の豪商。裸一貫から身を起こし、大商人へと成長。「本所に過ぎたるものが二つあり、津軽屋敷に炭屋塩原」と歌にまで詠われるほどの成功をおさめた」とある。
塩原太助には散歩の折々に出合った。隅田区では太助ゆかりの塩原橋に出合った。足立区の東陽寺では太助のお墓に出合った。群馬と新潟を隔てる三国峠を越えたとき、途中にあった猿ヶ京温泉の辺りは塩原太助の生まれたところ、と言う。長年歩いているとあれこれと繋がってくるものである。
因みに塩原太助を一躍有名人としたのは三遊亭円朝の『塩原太助一代記』と言う。

新堀湛甫・福島湛甫
湛甫(たんぽ)とは「船の停泊するところ」の意。太助灯篭の少し東、岸壁にあった石碑、「湛甫(しんぼりたんぽ)のみち」には、「天保3(1832)年、丸亀藩主は幕府の許可を得て、西平山の海岸に湛甫を築いた。東西80間(145,44m)、南北40間(72,72m)、入口15間(27,27m)の湛甫が完成された。
この湛甫を新堀湛甫(しんぼりたんぽ)と呼び、その付近一帯の地名を新堀と呼んだ。湛甫ができると、阪神、岡山からの金毘羅参拝の船が往来し、いままでにもまして丸亀はいっそう繁栄した」とある。
福島湛甫は新堀湛甫より以前、それまで船着場として使われていた内浦湛甫に代わり、文化三年(1806)に築造された。役夫およそ6万名弱が投入された、と言う。
上述太助灯篭は新堀湛甫築造に際し、夜間航行の標として十二基計画された灯篭の第一号。上述の説明に拠れば、太助灯篭を含め新堀湛甫には三基建てられた、ということになる。
港の公園には大阪と丸亀を結ぶ金毘羅参拝の定期舟船(月参船)である金参船をかたどった遊具などが造られていた。月参船は丸亀京極家の第六代藩主である京極高朗(在位1811‐1850)の頃就航した、と言う。
遍路道に戻る。

丸亀市街を抜け宇多津に入る
遍路道は上述金毘羅道標の先にある交差点を直進し丸亀市街を抜ける。右手には丸亀城が見える。
交差点を直進する四車線の道路は県道21号・県道33号重複路線。丸亀市街を抜ける遍路道には標識は残らない。道路整備により撤去され、お城近くの市立図書館の庭に道路元標識など他の石造物と共に集められているようである。
●丸亀城
丸亀城は以前訪れたこともあり、今回はパス。
標高66mの小山・亀山に築かれた城。「扇の勾配」と称される城壁のカーブが美しい。石垣の高さは日本一と言う。城は室町の頃、管領細川頼之の重臣である奈良元保安により築造。現在の構えは慶長2年(1598)から5年の歳月をかけ、生駒親正とその子・一正により、西讃防備のため高松城の支城として造られたもの、と。
後の寛永18年(1641)丸亀藩主として山崎家治が入城、次いで万治元年(1658)に京極高和が城主となり、明治まで京極六万石の城下町として栄えた。 因みに丸亀の由来は、城の築かれた亀山の姿より。円形のその姿より、生駒氏築城の頃は「円亀」と呼ばれたようだが、その後「丸亀」となった、とか。

県道左側に地蔵堂
土器川に架かる蓬莱橋を越え土器町にはいる。県道21号はここで終わり、この道は県道33号高松善通寺線となって東に進む。汐止めゲートらしき施設が海側にある新内橋を渡ると香川県綾歌郡宇多津町に入る。
道を進み、JR宇多津駅の駅前通りが県道にあわさるT字路に地蔵堂がある。地蔵堂の裏手は独立丘陵である青ノ山(標高224m)となっている。



誰袖(たがそで)の標石で県道を右折
地蔵堂から県道194号の高架を潜るとほどなく、道の左手に立派な標石がある。「西 丸亀道右 扁ん路道 文久三」が刻まれる。この標石は指にもった扇子が方向を示し、手元には袖が刻まれている。このような袖まで刻まれた標石のことを「誰袖(たがそで)の標石(しるべいし)」と呼ぶようだ。寄進者は宇多津の魚問屋の主人とのことである。
同様の「誰が袖道標」には愛媛県西条市丹原で出合った。





宇夫階(うぶしな)神社
標石を右折すると宇夫階神社の正面鳥居前に出る。趣のある社。Wikipediaには 「伝承では、宇夫階神社は紀元前から鵜多郡の郷に鎮座し、宇夫志奈大神として祀られている。景行天皇の皇子日本武尊の子、武殻王(たけかいこおう)が阿野郡に封ぜられた際に、瀬戸内海海岸を船で御巡視したが、暴風雨に遭遇し、王は驚いて宇夫志奈神に祈念すると、小烏が跳び風波を凌ぐ道しるべとなり王を導いた。 王は大変喜び、水夫に命じて烏に従い、泊島(丸亀市塩飽本島泊)に漂着し難を逃れた。これより宇夫志奈大神を一層篤く崇められ、小烏大神と称されるようになったとされる。現在でも「小烏(こがらす)さん」との別称が地域で受け継がれている。
また光仁天皇により、779年(宝亀10年)には社殿再興のことが伝えられている。 さらに平城天皇の806年(大同元年)10月、藤原鎌足四世の孫左京大夫藤麻呂の孫とされる、津の郷の長者、末包和直に宇夫志奈大神の託宣があり、末包は当時の国守に上申し、神主となり長く祭祀を行い来った。翌807年、平城天皇の治世に、社殿から光明が射すことが度々あり、勅命により現在の位置に遷座し社殿が造営された」とある。
古い社である。鉄筋コンクリート造りの拝殿は別として、境内の建物の多くは登録有形文化財に指定されていた。
本殿
本殿は伊勢神宮外宮の第一別宮である多賀宮の旧正殿を移している、と。当社の本殿・拝殿が昭和47年(1972)に火災により焼失。この年が伊勢神宮の式年遷宮の時期でもあったため、旧多賀宮を貰い受け本殿とした。20年毎にすべてを造り変え、本来であれば見ることのできない伊勢神宮の社が今に残る。
本殿を拝することができるのかどうか、伊勢様式を真似た神明造り鉄筋コンクリート造銅板葺の拝殿を奥へと回り込む。屋根全体が銅合金版で覆われており、元の白木屋根の多賀宮は奥に配されているのか、拝すること叶わず。本殿建物のどこまでが文化財の指定を受けているのか不明だが、昭和の建物が文化財指定を受けるのは珍しいようである。
巨石(いわさか)と御膳岩
本殿はともあれ、拝殿から奥へと回り込んでいると、「巨石(いわさか)と御膳岩」の案内があった。案内には「この巨岩は古代祭祀の遺跡である。いわさかは神座と呼ばれ、古代より信仰の対象としてあがめられていた。これに対し御前岩は神饌(私注;しんせん:神に供える酒食(しゅし))を置き献ったものである。
また、いわさかは巨石文化の遺構ともいわれ、その形状は高さ5.5m,直径4mであり、重さは三百トン以上と推定される」とある。




本殿裏手に巨大な岩があり、それが巨岩。本殿右手、これも巨大な石灯篭の立つあたりに御膳石があった。古代祭祀が行われていた場所に社が建てられた、ということだろうか。
宇夫階(うぶしな)
ところでこの宇夫階(うぶしな)神社に祀られる宇夫志奈大神って?チェックしてもヒットしない。が、なんとなく産土(うぶすな)神に関係ありそうな気がする。「産土神」とは、その地に生まれた人の守護神。地縁に基づく信仰である。谷川健一氏に拠れば、生まれ落ちて最初に触れる砂が産土の語源であり、その土地の霊が子供の守護神になるという信仰がその原点である、と。
実際、産土神を宇夫須那神、宇夫志奈神とも記すという。古代祭祀の頃まで遡る地域共同体の守護神といったところだろうか。単なる妄想。根拠なし。

□もうひとつの遍路道□

この鳥居前で、上述「誰袖の標石」ルートと合流するもうひとつの遍路道がある。そのルートは上述県道194号の高架を潜ると直ぐ県道を逸れ、右に折れる脇道に入る。ほどなく手印と共に「七十八番郷照寺」と刻まれた標石があり、そこを右折。緩やかな坂をのぼり、そして道なりに坂を下ると鳥居前に出る。遍路タグはこちらの道を示していた。



本妙寺
静かな佇まいの家並を進む。右手に建つ本妙寺。美しく整えられたアプローチ、その先に立つ2基の銅像に惹かれちょっと立ち寄り。銅像は日蓮大菩薩、日隆大聖人菩薩。山門を潜り本堂にお参り。
境内に大きな石柱。「日隆大聖人御舊跡 鳳凰霊水」とある。案内に拠ると「本妙寺はおよそ550年の昔、室町時代のはじめ後花園天皇の嘉吉2年、この地に布教に来られた法華宗中興の祖日隆聖人によって開かれた。聖人御歳五十八。秋山土佐守建立、日蓮大菩薩ゆかりの番神堂(私注;丸亀旧市街の番神宮)において法華教を説かれた。
当時この地は鵜足津と言い、将軍足利義満公を育てた細川頼之公の領国であり、居住地でもあったことから、讃岐の国の政治経済文化の中心地、港湾都市として大いに栄えていた。しかし、この地は海浜のため飲料に供する水が乏しく、人々は体調を損ね、大いに難渋しておりました。それを憐れんだ聖人は、自らの杖をもってこの地にあった桐の巨木の根本を掘られた。と、そこより清澄なる水が渾々と湧き出で、またその時、桐の巨木にはこの世の瑞鳥鳳凰が飛翔し舞い降りた。
人々は眼前の奇跡に驚き、聖人の教えに帰依し。 以来この水は、鳳凰霊水と呼ばれ、いかなる干ばつにも一日として涸れることなく 湧き続けており、御題目を唱えつつ戴くことによって、不老長寿、すなわち成人病等について霊験まこと にあらたかと伝えられる」と言いったことが書かれていた。
鵜足津
鵜足津は鵜足郡の津のこと。鵜足の津には古来、手置帆負命(たおきほおいのみこと)の子孫が代々、矛竿(ほこさお)を朝廷に献上するに際し、この津ヨリ船出した、との伝説が残る。
また、この矛竿の大和朝廷への貢物より古くは竿調国(さおつきのくに)と称され、それが「さぬき」に転化したとの説もある。讃岐国の由来である。 この地、津の郷が文献に現れるのは9世紀前半。このころ既に海上交通の要衝となっていた。
南北朝の頃、南朝方に与し阿波に下った従兄細川清氏が白峰城に陣を張ると、 室町幕府の管領細川頼之が宇多津に上陸。郷照寺裏の青ノ山に対陣し清氏を討つ。その後頼之は館を聖通寺城下に置き、宇多津は守護領国讃岐の政治の中心ともなり栄えることになる。聖通寺城は宇多津の東側、聖通寺山にあった。

郷照寺参道前の徳右衛門道標
本妙寺を離れ先に進むと、道の左手に自然石の門のような造作がある。壁はコンクリートブロックの上に古い屋根を被せたお堂。地蔵堂のようである。そこを少し東に進むと郷照寺の案内がある。
その角に「是より天の社まで一里半」と刻まれた徳右衛門道標がある。 天の社は七十九番札所 高照院天皇寺のこと。郷照寺はここを右に曲がり、ゆるやかな坂を上る。

あれこれ寄り道が多く、メモが結構長くなった。当日はこの先、天皇寺まで進んだのだが、今回のメモはここまで。郷照寺から先は次回に廻す。
先回は善通寺から七十六番 金倉寺までの旧遍路道をメモした。今回は金倉寺から七十七番札所 道隆寺への遍路道をメモする。
またついでのことでもあるので、善通寺から金毘羅さんを参拝し金倉寺への遍路道に戻るルートも加えた。善通寺から金毘羅さんはすぐお隣。これまた7キロほどである。善通寺から金毘羅宮を参詣し、七十六番 金倉寺への遍路道に戻る方も多いのでは、との想いではある。
更に追加。善通寺から道隆寺までの遍路道を歩いた後、善通寺赤門筋にある善通寺郷土館を訪れたのだが、そこで頂いた資料に善通寺市内、石神神社経由で金倉寺へと辿る遍路道があり、その遍路道のほうが先回歩いた金倉道への遍路道より古い、とのこと。
旧遍路道を辿る者としては、これをメモしないわけには、ということで元禄の頃の遍路道と郷土館の方がおっしゃる旧遍路道を最後に付け加える。

本日のルート;
第七十六番札所・金倉寺から第七十七番札所・道隆寺へ
76番札所・金倉寺>金倉寺駐車場入口の標石>県道33号手前に茂兵衛道標(115度目)>六条地蔵堂の標石>国道11号を越え葛原正八幡宮へ>お堂傍に標石>茂兵衛道標(143度目)>2基の標石>道隆寺南の標石>第七十七番札所・道隆寺

金毘羅経由、金倉寺への遍路道
多度津金毘羅道;善通寺から金毘羅宮
善通寺赤門>県道24号を右折>護国神社・乃木神社>県道47号に>南部小学校先で県道47号と分かれる>四つ辻の2基の標石(伽藍道が合流)>三界萬霊地蔵尊>原御堂>土讃線踏切手前の金毘羅標石>土讃線脇の金毘羅石灯籠>清少納言 史跡衣掛けの松跡>四国ガスのガスタンク>金倉川に沿って進む>39基の並び石灯籠>大宮橋東詰めに高灯籠>一の橋西詰の金毘羅宮参道口に
伽藍道(多度津金毘羅道の枝道)
南大門>鶴ケ峰西>樽池>四つ辻で多度津金毘羅道に合流
多度津金毘羅道・魚道・遍路道金毘羅宮から金倉寺;
四国ガスのガスタンクに戻る(多度津金毘羅道)>尽誠学園前の標石(魚道が寸断されており、国道319号・県道25号を進む)>金毘羅灯籠の標石へ>金倉寺への遍路道に

石神神社経由、金倉寺への遍路道
赤門>県道24号>旧多度津金毘羅道>県道48号>3基の標石>石神神社から高松自動車道へ>榎之木涌の標石>かりてい道>道隆寺



■第七十六番 金倉寺から第七十七番札所 道隆寺への遍路道■

金倉寺駐車場入口の標石
金倉寺を離れ、次の札所七十七番 道隆寺へ向かう。寺の西側にある金倉寺駐車場の入口、道脇に標石がある。手印と共に、「へん路みち 明治十九年」と刻まれる。






県道33号手前に茂兵衛道標(115度目)
駐車場を出て、境内西側の道を北に。道の対面にある御詠歌大和流の総本山・徳善寺を越えた先、県道33号の手前に徳善寺の境内に沿って左に弧を描く道があり、その角に茂兵衛道標が立つ。手印と共に「道隆寺 金倉寺 明治二十三年」の文字が刻まれる。茂兵衛115度目の巡礼時の道標である。

御詠歌大和流
詠歌とは元は和歌を詠むことを意味したが、御詠歌は巡礼歌の俗称として用いられる。平安期にその起源をもつという巡礼歌は、中世以降盛んとなり全国各地で発展した。大正10年(1921)になり各地に伝えられた巡礼歌を収集・編集し、従来の俗謡としての巡礼歌を近代的な理論に基ずく仏教音楽として巡礼歌を発展させたのが大和流と言う。
大和流は真言宗系ではあるも、特定宗派に属することはなかったが、その後徳的宗派に属する御詠歌流派が誕生した、と言う。

六条地蔵堂の標石
茂兵衛道標手前を左に折れ、弧を描く細路を50mほど西に進み県道を越える。県道を越えた処にある「へんろ道拡張整備」の竣工碑を見遣り北へと進むと、十字路北角に六条地蔵堂がある。その庵の前、石灯籠脇に「右 へんろミ* 明和」などと刻まれた標石がある。




国道11号を越え葛原正八幡宮へ
六条地蔵堂の十字路を直進し国道11号を抜けると畑の中を進む遍路道案内は右を示す。正面には清酒金陵の多度津工場があり、迂回するのだろう。右折点には標石らしき石が埋もれるが文字も読めず確証はない。
遍路道案内に従い右折し、畑の中の細路(軽自動車一台が通れる程度)を進み、成り行きで左折し鬱蒼と茂る森に向かう。森は葛原正八幡。玉垣に沿って道を進み、八幡の森ほたるの里とされる緑の中を歩くと立派な随身門がある。

葛原正八幡
随身門を潜り境内に入り拝殿にお参り。かつては一国一社と呼ばれた古い社である。延久五年(1073)、道隆寺住職の勧請による。往時は茶店、宿などで賑わったが、明治5年(1873)の大火により現状のものとなったようだ。
葛原八幡付近の旧遍路道
成り行きで随身門に進み拝殿から境内を北西に斜めに横切り出口へと向かった。出口は境内西側を北に向かう道に合流するが、その道が東西に走る道路と交差するところに2基の茂兵衛道標がある。
本来の遍路道、清酒工場が建つ前は、清酒工場前で左に折れることなく現在の工場敷地を横断し、この茂兵衛道標へと繋がっていたのではないかと思う。
延命地蔵尊
ということで手掛りでもないだろうかと社境内と清酒工場敷地が接するところまで戻る。途中には標石もあった。また清酒工場敷地が接する傍には延命地蔵堂が建っていた。
標石
延命地蔵堂から境内西側に沿う道を北に進み、右手に忠魂碑を見遣りながら進むと大木の下に「四国のみち」の石碑がある。そして、その横に標石が立つ。手印と共に「こんぞをじみち」と刻まれる。



2基の茂兵衛道標
上述境内出口の2基の道標。左手の道標には「こんぴら道 金倉寺道 明治十九年」、右手は「右丸亀 道隆寺 明治十九年」と刻まれる。共に茂兵衛88度目巡礼時のものである。






逆南無阿弥陀佛石碑
遍路標石ではないのだが、この社に逆南無阿弥陀佛石碑があると言う。逆文字、というか、裏側から見た南無阿弥陀佛の文字が刻まれる、と。八十八歳のお年寄りの女性が左手で書いたとのこと。物事は時に裏側から見ることも必要との教えのようだ。
これはおもしろそうと石碑を探す。最初は直ぐに見つかるだろうと高を括っていたのだが、これを見付けるのが結構大変だった。昔の資料にはお堂の傍にある、とのことだがお堂は延命地蔵堂だけ。その辺りには見つからない。
それではとグーグルで検索。写真が出て来た。曼珠沙華の花の中に立つとのコメント。お堂はない。曼珠沙華も花が咲いていればすぐわかるだろうが、その季節ではない。県指定天然記念物となっている社叢を彷徨い、それらしき草花が広がるところに石碑が立っていた。場所は上述忠魂碑の南側傍といったところであった。

お堂傍に標石
北にしばらく進むと、道の右手にお堂がある。その北側、畑の角に標石がある。「へんろ道」と刻まれる。






壊れた茂兵衛道標〈143度目

古い記録には、このお堂の東に破損した上部のみの茂兵衛道標が横倒しになって置いてある、と。あれこれ辺りを探すがそれらしにものは見つからない。 少し南に戻ると十字路角の民家にカーブミラーがあり、その傍に横倒しになった如何にも道標らしきものがあった。「道隆寺道 壱百四十三度目 中務」といった文字が残るとのことである。

茂兵衛道標(143度目)
北に道を進み豊原小学校を越えておおよそ100m、そこにも茂兵衛道標がある。 手印と共に「道隆寺 金倉寺 明治二十八年」といった文字が刻まれる。これも上述壊れた茂兵衛道標と同じく143度目の巡礼時のものである。

2基の標石
北に200mほど進むと、道の右手に2基の標石が立つ。ひとつは坐像の下に手印と共に「すぐへんろみち 是ヨリ札所江五丁」と刻まれた縦長の標石。もうひとつは舟形石仏であり、その台座に「北へん路道」と刻まれる。

道隆寺南の標石
道を少し進むと道の右手に「道隆寺右」の案内がある。そこを右に折れ先に進むと十字路に標石がある。手印と共に同じ面に「こんぴら こんさうじ せんつうじ 道」、また別の面には手印と共に「札所」と刻まれる。
札所への手印に従い左に折れると第七十七番札所 道隆寺の山門にあたる。


第七十七番札所・道隆寺

真言宗醍醐派大本山の寺院。詳しくは桑多山 明王院 道隆寺(そうたざん みょうおういん どうりゅうじ)と号する。本尊は薬師如来。

仁王門
山門となる仁王門を潜る。身の丈4mほどの仁王像は札所の中でも最大級のもの、とか。






ブロンズの観音像
境内に入ると参道脇に80センチほどのブロンズ製観音像が並ぶ。像は境内を縫って密門(裏門)までも続いていた。昭和49年(1974)、全国の観音霊場を参拝した信徒さんが発願いし、全国より浄財を集め昭和50年に完成した。その数200体弱とのことである。

本堂
境内を進むと正面に本堂。右手に鐘楼、大師堂、その奥に多宝塔と並ぶ。 本尊の薬師如来は秘仏で拝観できないが、脇佛として右に日光菩薩、左に月光菩薩と薬師三尊が並び、その他持国天、多聞天、増長天、広目天の仏法を守護する四天王が立つ。
薬師三尊
薬師如来を中尊とし、日光菩薩を左脇侍、月光菩薩(がっこうぼさつ)を右脇侍とする三尊形式。
日光菩薩・月光菩薩
日光菩薩・月光菩薩は、薬師如来の浄土である東方瑠璃光世界の主要な菩薩であるとして言及されるが、薬師如来の脇侍として造像される以外に、日光菩薩・月光菩薩単独での信仰や造像はないと言ってよい。
日光菩薩は、一千もの光明を発することによって広く天下を照らし、そのことで諸苦の根源たる無明の闇を滅尽するとされ、月光菩薩は月の様な清涼をもって衆生の生死煩悩の焦熱から離れるという意味がある(Wikipedia)。

Wikipediaには、「天平の頃この付近は桑園であった。寺伝によれば、和銅5年、当地の領主である和気道隆(私注:金倉寺を創建した和気道善の弟)が桑の大木が夜ごと怪しい光を放ったのでその方向に矢を射ると、矢が乳母に当たり誤って殺してしまった。これを悲しんだ道隆は桑の大木を切り、薬師如来を刻んで堂に安置したのが起源であるという。
道隆の子の朝祐は、大同2年(807年)唐から帰朝した空海に頼み、90cmほどの薬師如来を彫像し、その胎内に道隆の像を納め本尊とし、また、空海から受戒を受け第2世住職となって、七堂伽藍を建立し父の名から「道隆寺」と号した。
第3世は空海の実弟の真雅僧正(法光大師)が継ぎ23坊を建立、第4世は円珍(智証大師)で五大明王を彫像し護摩堂を建立し、第5世の聖宝(理源大師)の代には「宝祚祈願所」となり大いに栄えた。
しかし、貞元年間(976年から978年)の大地震による被害や、康平3年(1060年)の兵火や、天正の兵火による災難にあって興亡を繰り返した」とある。 「宝祚」とは天子、天皇の位のこと。天皇の祈願所ということだろ。 それほど大きなお寺さまでもないのだが、高僧が並ぶ。かつては大いに栄えたお寺様ではあったのだろう。

鐘楼
通常の鐘とは異なり、鐘の上部、音をためるための擬宝珠が無く梵字がついている、とのこと。それもあってか(?)戦時の供出を免れている。









大師堂・多宝塔・妙見宮
大師堂の傍には空海に許しを請う衛門三郎の像がある。多宝塔は二重塔。妙見宮は上述の寺伝にある、桑の木の光を妙見とみたて堂を建てた、と。この寺は妙見信仰で賑わったとのことである。
衛門三郎
伊予国荏原荘(現在の松山市恵原(えばら)町)に住む長者であった衛門三郎。性悪にして、ある日現れた托鉢の乞食僧の八日に渡る再三の喜捨の求めに応じず、あろうことか托鉢の鉢を叩き割る。八つに割れた鉢。その翌日から八日の間に八人の子供がむなしくなる。
子どもをなくしてはじめて己れの性、悪なるを知り、乞食僧こそ弘法大師と想い、己が罪を謝すべく僧のあとを追い四国路を辿る。故郷を捨てて四国路を巡ること二十一度目、阿波国は焼山寺の麓までたどりついたとき、衛門三郎はついに倒れる。
と、今わの際に乞食僧・弘法大師が姿を見せる。大師は三郎の罪を許し、伊予の国主河野家の子として生まれかわりたいとの最後の願いを聞き届ける。三郎を葬るにあたって、大師は彼の左手に「右衛門三郎」と記した小石を握らせた。 その後、河野家に一人の男子が生まれ、その子は左手にしっかりと小石を握っており、開こうとしない。そこで安養寺の住職に願い祈祷のおかげもあり、手を開くとそこには「右衛門三郎」の文字が記されていた、と。河野氏はこの不思議な石を寺に奉納し、寛平4年(892年)に、安養寺はその伝承にならって石手寺と改名した。五十一番札所石手寺の縁起である。

松山市の札所47番・八坂寺辺りから石手寺にかけて、幾たびか衛門三郎に「出合っ」た。邸宅があったとされる地区故のことではあろう。

粟島堂
境内左手にある。茶堂とある。かつては御接待所であったのだろうか。

潜徳院殿堂
本堂左手に京極家の御典医であった京極佐馬造高甫公を弔う五輪塔が祀られる。眼科医として知られ、死後も道隆寺に魂魄を留め眼病平癒を誓願した、と。潜徳院は戒名の一部。現在も目なおし観音として知られ、紙一面に「め」の字を書いたお札を納める。

密門(裏門)の標石
潜徳院殿堂を過ぎると裏門に出る。門脇に標石があり、「四国第七十七番 道隆寺 本尊薬師如来 是より右 宇多図津** 道場寺迄一里半**」とある。道場寺は78番札所郷照寺の別名である。
標石に従い、寺の北を東西に走る道を東へ、丸亀市街へと向かう。



本坊
現在の納経所はこの境内にあり、参拝を終えた遍路は裏門(密門)より次の札所へと向かう人もあるが、本来の札所のある本坊はこの境内から南東へと少し離れたところにある。
本坊へ向かう。
仁王門前の標石
仁王門の右手に標石があり、「是ヨリ七十八番ㇸ一里半」とある。手印は東を指す。手印に従い東に進む










湿地脇に標石
少し進むと水草の茂る湿地北に標石がある。「右金蔵寺 左うたつ道場寺・丸亀ミち 明治三年」と刻まれれる。この標石を南に折れる。
本坊
南に折れると誠に堂々とした土塀が続く。寺名碑には「大本山」と記される。真言宗醍醐派の大本山。総本山は醍醐寺。全国に六つある大本山のひとつ。
多くの高僧が住持したお寺さまにしては、こじんまりしているなあ、と思っていたのだが、大本山と書かれた本坊を目にし、また、かつてはこの本坊を含めた一帯が寺域ではあったのだろう。であれば納得。

本坊経由の遍路道は、湿地脇の標石まで戻り、そのまま北に進み、寺の裏門から出た道に合流して丸亀に向かう。

以上、金倉寺から道隆寺までの遍路道をメモした。これで善通寺から道隆寺への遍路道のメモを終え、次いで金毘羅さん経由の遍路道ルートをメモする。





■金毘羅宮経由、金倉寺への遍路道■

金毘羅道
善通寺市域から金毘羅宮へ続く、所謂金毘羅道は大きく分けて3ルートある。
そのⅠ;多度津金毘羅道
多度津港より南に下り、善通寺市内の中心部を抜け、市の南にある鶴ケ峰の東を上り、峠を越えて大麻山裾の集落に下り、おおよそ土讃線に沿って金毘羅さんへと続く道。
そのⅡ;伽藍道
上述多度津金毘羅道の枝道。善通寺市内から鶴ケ峰の西を上り、峠を越えた後、山裾に下る前に多度津金毘羅道に合流する。善通寺の伽藍境内から進む故の名ではあろうか。伽藍道から多度津金毘羅道を進むコースが善通寺と金毘羅さんの最短距離である。
そのⅢ;魚道
へんろ道とも呼ばれるように、多度津より南に道隆寺へと至り、そこからは遍路道を南下し、金倉寺への遍路道で出合った「左 こんぴら道五十丁」と刻まれた金毘羅灯籠まで進む。
ここから先は金倉川と土讃線の間を進み、土讃線が金倉川を渡る辺りで上述多度津金毘羅道に合流したようだが。現在ほとんど道は途切れている。尚、魚道は参詣人で賑わう琴平へ毎朝新鮮な魚を運んだ故の名である。

これを想うに、善通寺から金毘羅さん経由、金倉寺へのルートは、多度津金毘羅道またはその枝道である伽藍道を進み金毘羅さんへ。戻りは魚道を進み遍路道と魚道の分岐点、上述金毘羅灯籠を経て金倉寺へと向かうのがいいかと思う。


多度津金毘羅道を善通寺から金毘羅宮へ

県道24号を右折
善通寺から多度津金毘羅道へのアプローチは、善通寺赤門を出て赤門筋を進み県道24号を右折。右折した県道24号が多度津金毘羅道。
旧多度津金毘羅道
交差点を右折することなく、直進し本郷通りを少し進むと県道48号の一筋東に、旧多度津金毘羅道が残る。民家の間を縫う細い道筋である。

護国神社・乃木神社
道を進むと右手に護国神社、その手前に乃木将軍を祀る乃木神社がある。拝殿には乃木将軍と夫人の大きな写真が飾られていた。



県道47号に
陸上自衛隊善通寺駐屯地、元の陸軍第十一師団の敷地左に沿って南下しT字路に。県道24号は右に折れるが、金毘羅道はここを左折し少し進み、県道47号を右折。山麓への上りとなる。

南部小学校
南部小学校先で県道47号と分かれる 熊ヶ池の西、鶴ケ峰の東に沿って上る県道47号を進み峠を越え、南部小学校の南で県道から離れ南への道に入る。

四つ辻の2基の標石
道を少し進むと四つ辻があり、道の両側に標石が立つ。東側に立つのが金毘羅標石。手印と共に「金毘羅道 明治十」といった文字が刻まれる。
西側の標石は舟形地蔵標石。手印と共に「こんひらみち がらんみち」の文字が刻まれる。ここが多度津金毘羅道と伽藍道の合流点である。

地蔵池堤の三界萬霊地蔵尊
四つ辻を左に折れ道を進むと地蔵池の土手に。そこに三界萬霊地蔵尊が佇む。
三界萬霊
三界とは欲界、色界、無色界。欲界は食欲、睡眠欲、淫欲といった本能的欲望の世界。色界は形あるものの世界。欲界は越えるも、未だ物に囚われる世界。無色界は欲望も物へのこだわりからも自由になった精神世界のこと。三界萬霊はこれら三つの世界、すべての精霊を供養することのようだ。


原御堂
三界萬霊地蔵尊の手前で土手を下りる。直ぐ先に県道47号が走るが、県道に出ることなく、山裾の道を進み南光、西川の集落を抜ける。道なりに進むと県道47号に合流。道の反対側に原御堂がある。
原御堂には大師坐像が残る。文化二年と刻まれている、と。その右隣、小さな鐘堂前の石碑は芭蕉の句碑。「世を旅にしろかく小田の行もどり」と刻まれる、と。
「しろかく」は「代掻く」は田植え前の田をおこす作業のこと。田圃の中を行ったり来たりを、自分の往ったり来たりの漂白の旅に合わせているとのこと。 この句は各地に句碑として残り、尾張の医師で俳人である山本荷兮(やまもと-かけい)にあてたものともされるので、特段この地との関連はないようだ。
金毘羅石灯籠と金毘羅標石
原御堂から県道47号を少し善通寺方面へ戻ると、道の東側に金毘羅灯籠と金毘羅標石が立つ。標石には「左こんぴら道」と刻まれる。
金毘羅石灯籠には表に「金刀比羅神社」、裏に「出雲大社」と刻まれる。昔の記録に、県道47号に沿った多度津金毘羅道は、「金刀比羅神社」「出雲大社」と刻まれた金毘羅灯籠で左に折れ、広い道に出るとあるので、原御堂に出る手前、道なりに左の折れたあたりにあったものを移したものかもしれない。

土讃線踏切手前の金毘羅標石
県道47号を少し進むと土讃線踏切手前、日本独特(?)のホテルの脇に標石がある。「こんぴら せんつじ道 たきのみや道 大正三年」と刻まれたこの標石の指示に従い、県道47号を離れ右へと細路に入る。
たきのみや道は不詳だが、この地を東に向かったところに綾歌郡綾歌町瀧宮という地名があるので、そちら方面への道かもしれない。





土讃線脇の金毘羅石灯籠
昔の記録では県道47号から離れた道は現在土讃線のすぐ西に立つ金毘羅石灯籠の辺りで土讃線を渡り、その先、岩崎バス停のあたりで国道319号を越えた、とのこと。
左手の土讃線を注意しながら歩くと線路脇に立つ金毘羅石灯籠があった。踏切跡らしき風情はあるのだが、現在踏み切とはなっていないためそのまま先に進む。





清少納言 史跡衣掛けの松跡
道を進むとトンネルがあり、トンネルを抜けると道の左手に「清少納言 史跡衣掛けの松」の案内がある。石段もなにもないのだが、とりあえず崖をよじ登ると草に覆われた小さな平場があった。
松は枯れたのだろう、今は残らない。清少納言が金毘羅参拝の途中、この地で松に衣を掛け休息したとの伝承が残る。




四国ガスのガスタンク
道を進み大麻琴平買田線に合流する。この道を直進すれば琴平に着くのだが、古い記録では岩崎バス停あたりで国道を越えた多度津金毘羅道は、国道と金倉川の間を進み四国ガスのガスタンク辺りに向かったとのこと。
右手を見ると緑のガスタンクが見える。大麻琴平買田線と国道319号、そして金倉川に囲まれた場所である。目標を確認し、岩崎バス停あたりまで戻り、旧道を辿ろうとはしたのだが、用水路はガスタンクまで続くが、道らしきものはない。用水路に沿って進むプランは止めとしガスタンクへと向かう。このガスタンクの辺りで多度津金毘羅道と魚道が合流したようである。

金倉川に沿って進む
ガスタンクまで進むがそれから先に道はない。しかも土讃線で行く手が遮られる。仕方なく大麻琴平買田線まで戻り、土讃線を越えた先で金倉川の土手へと向かう。 古い記録に、金毘羅多度津道は金倉川の土手を進んだとあるのだが、現在は土手らしきものはない。また道も途中で切れる。さてこの先は? と、ガスタンクへと続いた用水路沿いに道がある。その道筋を進むと金倉川沿いの道に出た。
この路がオンコースかどうか不明だが、とりあえず先に進む。

39基の並び石灯籠
金倉川沿いの道を進み、昭和橋南詰め、次いで高薮橋南詰めを越えると道筋はカーブし、川から少し離れる。その曲がり角、道の右手民家の前に金毘羅石灯籠と39基の並び石灯籠が続く。
砂岩の軟質石材で造られた灯籠は文久、元治、慶応など幕末のものが目立つ。国も佐渡、越前、越後、甲州、松前、豊後など全国に及び、奉納講中には大阪陸尺(駕かき人足)、江戸の日雇い仲間一同といったものまである。金毘羅信仰の人気がこれだけでも十分確認できる。並び灯籠の間にある玄関から家人が出てくる。なんだか印象的な光景だ。国の重要有形民俗文化財に指定されている。
金毘羅鳥居跡の碑
並び石灯籠の南端に「金毘羅多度津旧街道遺跡並び灯籠及び鳥居跡 この地にありし粟島奉献の鳥居、昭和48年高灯籠前に移す」と刻まれた石碑が立つ。 この道筋が金毘羅道の御オンコースであることが確認でき、一安心。






大宮橋東詰めに高灯籠
道なりに進むと、金倉川の対岸、大宮橋の東詰めに高灯籠が見える。これが高灯籠だろう。上述高灯籠前に移すとあった鳥居を確認に向かう。琴電琴平駅横にある広場に高灯籠があり、それを囲む金毘羅宮北神苑と書かれた石碑横に鳥居があった。
高灯籠
慶応元年(1865)に建てられた高さ27mの灯籠。日本一高い灯籠であり、国の重要有形文化財に指定されている、瀬戸内海を航海する船の指標として建てられ、船人がこんぴらさんを拝む目標灯となっていた、とある。
内陸のこの地にある「灯台」が航海の標となるとは思えないが、その昔は10キ れています。ロほど離れた丸亀沖からもこの灯籠の「火」は見えたのだろう。電気も派手なネオンもなく、高い建物もない往時であれば可能かもしれない。 高い石の基壇の上に木製の灯台が築かれ内部は三階建て、壁に江戸時代の人々の落書きが今も残されている、とのことだが、現在内部には入れないようだった。

一の橋西詰の金毘羅宮参道口に
更に道なりに進み、左に金倉川に架かる一の橋。ここを右に折れると金毘羅さんの参道となる。






伽藍道;多度津金毘羅道の枝道

善通寺から金毘羅道への最短ルート。善通寺を出て、上述2基の標石のある四つ辻で多度津金毘羅道に合流し、その先は多度津金毘羅道を進む。

南大門を出て県道24号へ南下
善通寺伽藍境内の南大門を出て、道なりに南下。ゆうゆうロードと呼ばれる陸上自衛隊善通寺駐屯地の敷地の間を南下し、県道24号と交差する。




乃木館
交差点の少し東、自衛隊利駐屯地の中に乃木館がある。建物は第十一師団司令部であったもの。執務室には初代司令官の乃木希典以下、代々の司令官が座る。館内には山下奉文をはじめとした著名な軍人の軍服や日露戦争の資料なども展示されていた。

地蔵堂
県道24号を突き切り、山麓への上り道にはいる。完全舗装の車道を少し進むと道の右手にお堂がある。特に名は書かれていないが、このあたりに「身代わり地蔵」があったとの記録もあるので、そのお堂かもしれない。




樽池傍の地蔵尊
鶴ヶ峰の西を上り八丁原を越え樽池に。この辺りが峠のようだ。池の傍に地蔵尊が佇む。道は整備され昔の金毘羅道の面影はないが、地蔵尊、地蔵堂がその名残だろうか。八丁原は南大門から八丁が地名の由来、とか。


四つ辻で多度津金毘羅道に合流
峠を越えると道は東に下る。少し進み右に折れ、上述四つ辻の標石へと向かう。伽藍道はこの先は多度津金毘羅道の道筋となる。



金毘羅宮から第七十六番札所・金倉寺へ

今回は金毘羅道のルート確認。何度もお参りしている金毘羅さんは今回はパスし、金倉寺へと折り返す。多度津金毘羅道と魚道の合流点であったとされる、上述四国ガスのガスタンクまで多度津金毘羅道を戻るが、その先の魚道は寸断されといる。
行きつ戻りつの旧魚道探しも楽しそうではあるが、今回の主旨は遍路道歩き。現在の国道319号と金倉川の間を抜けたというさ魚道はパスし、国道319号。県道25号を進み、先回の善通寺から金倉寺への遍路道にあった県道25号の標標石まで戻り、その先は遍路道を進むルートをメモする。

四国ガスのガスタンクに戻る
上述四国ガスのガスタンクまでは同じルートを戻る。往昔はこのガスタンクから先は金毘羅道のひとつである魚道として、国道319号と金倉川の間を進んだようだが、現在では道は寸断されているようだ。ということで、国道319号を北に進む。

県道25号、尽誠学園前の標石
国道319号をしばらく進み、生野南交差点で左に折れる県道25号に乗り換え、尽誠学園前に。道の左手、斜めに県道に交わる箇所に標石。「右 金蔵寺道 左 善通寺道」とある。
この斜めに県道に合わさる道は、先回の散歩で善通寺から金倉道へと向かう道筋で、赤門筋、本郷通りを直進し神櫛神社で左折した箇所。
この道筋は遍路道とは逆に神櫛神社を右折し斜めに進み、善通寺駅のすぐ南で土讃線を越えてこの標石へと続く。善通寺から魚道をつなぐ道筋である。かつては県道25号を越え、県道と金倉川の間を通る魚道へと向かったのだろう。

県道25号左手の標石へ
誠学園を越え、赤門筋から本郷通りへと延びる道筋が県道24号となって県道25号に合わさるT字路を越え、先回の遍路道でであった県道25号左手にある標石に。

金毘羅灯籠の標石へ
標石を右折。「左 こんぴら道五十丁 右せんつじ道 十八丁 安政六」と刻まれた金毘羅石灯籠の標石に進む。そこが遍路道と金毘羅街道魚道の分岐点。ここから北へと先回メモの遍路道を金倉寺へと向かう。

これで金毘羅宮経由、金倉寺への遍路道を繋いだ。


■石神神社経由の金倉寺への遍路道■

善通寺の郷土館で偶々教えてもらった石神神社経由の遍路道をメモする。先回辿った金倉寺への遍路道より古い、という言葉だけでフックが掛った。

旧多度津金毘羅道へ
遍路道は赤門筋を進み、本郷通りにはいるとすぐに左折。県道48号の一筋東の細路が旧多度津金毘羅道という。

3基の標石
旧多度津金毘羅道もすぐに県道48号に合流。交差点を越え県道212号となった通りを北に進む.瓢箪池を越えた先で県道212号と分かれ道を北進。ほどなく道の右手に3基の標石。
標石は右から真念道標。右面には「南無大師遍照金剛」、正面には「右へん路道 願主真念」などの文字が刻まれる。
中央は大師坐像が刻まれ、「へんろミち 是寄り石神御社へ八丁 是ヨリ金倉寺へ十八丁」の文字。
左の標石には「石神社 文化二」といった文字が刻まれる。
真念
真念は空海の霊場を巡ること二十余回に及んだと伝わる高野の僧。現在我々が辿る四国霊場八十八ヶ所はこの真念が、貞亭4年(1687)によって書いた「四国邊路道指南」によるところが多い、とか。四国霊場八十八ヶ所の全容をまとめた、一般庶民向けのガイドブックといったものである。霊場の番号付けも行い順序も決めた。ご詠歌もつくり、四国遍路八十八ヶ所の霊場を完成したとのことである。四国では真念道標は 三十三基残るとのこと。
遍路そのものの数は江戸時代に入ってもまだわずかであり、一般庶民の遍路の数は、僧侶の遍路を越えるものではなかようだが、江戸時代の中期、17世紀後半から18世紀初頭にかけての元禄年間(1688~1704)前後から民衆の生活も余裕が出始め、娯楽を兼ねた社寺参詣が盛んになり、それにともない、四国遍路もまた一般庶民が辿るようになった、とのことである。

石神神社から高松自動車道へ
標石に従い右折すると、道の右手に石神神社、その南に吉田八幡宮がある。この石神神社から、高松自動車道を越えるまでは高速道路建設のため標石も残らず、これといった目安がない。
香川県教育委員会などの調査報告書のルートを参考に進む。ルートはゆるやかな坂、というか湧水地(出水)への窪みを下りそして上る。そこに用水路があり、その用水路に沿って進むとある。
その案内に従い用水路脇の土径を進むが、ほどなく道が切れ、田圃の畦道を歩くことになった。
この箇所は用水路の直ぐ先にある立派な車道まで進み、そこを右折し高松自動車道を潜るのがいいようだ。

榎之木涌の標石
古い記録には道を直進し東西に走る旧十一号線を越え、50mほどのところを旧11号に沿って東西に走る「かりてい道」を右折する、とある。
「かりてい」とは、地元では「おかるてんさん」との愛称で親しまれた、札所道隆寺にあった詞利帝(かりてい)堂のことだろう。やっと道隆寺への遍路道の手掛かりが見えて来た。
とはいうものの、旧国道11号がどの道か不明だが、現在の国道11号の南を進む道が旧国道ではと北に進む。
旧国道筋らしき道に到着。予想に反し細い道筋であるので地図をチェック。と、少し西に「榎之木涌」と如何にも湧水といったマークが地図に載る。遍路道とは関係ないのだが、湧水フリークとしては見逃すわけにいかず、少し西に進むと道の北側に「榎之木涌」があった。
湧水池といったイメージとは異なりコンクリートで囲まれている。近年工事がなされたようだ。昔の写真をチェックすると、まるで趣の異なる野趣あふれる出水であった。
案内には「善通寺市周辺には出水(ですい) ・ 湧 (ゆう) と呼ばれる泉がたくさんあり、旱魃のときにも枯れることなく地域の人々の生活を支えてきました。
そのひとつで、善通寺市の下吉田町にある「榎之木湧(えのきゆう)」は、出水の近くに榎の大木があったことからこう呼ばれるようになったとも言われています。
この「榎之木湧」の清涼で豊富な湧水(わきみず)は、古くは地域住民の飲料水として利用され、現在では下流に広がる約17町歩の水田を潤すと共に、水辺には多くの人が集まり世間話に花を咲かせたり、子供たちが水しぶきを上げるなど、地域の人々の憩いの場所となっています。
その昔、丸亀京極藩(まるがめきょうごくはん)のお殿様が休憩するために永榎亭(えいかてい)と名づけられた「お茶屋」と呼ばれる休憩所があり、ところてんの名所であったとも言われています。生活に根ざしたこの出水は、地域の人々によって大切に守られています」とあった。

それはそれとして、「榎之木湧」に大きな標石が立つ。「東 高松七里 西 観音寺五里」と共に「右 金倉寺詞利帝」と刻まれる。この辺りを東西に進む道が「かりてい道」であった。ふと立ち寄ったところで思わぬ遍路道の手掛かりがみつかった。

かりてい道
「榎之木湧」から東に旧国道らしき道を東に進む。古い記録には「かりてい道」は旧国道の一筋北とある。それらしき、更に細い道が東西に続く。その道筋に乗り換え田圃の中の道を東に進む。途中地蔵堂もあり、なんとなく「かりい道」らしき風情。
道を進むと土讃線金蔵寺駅手前で旧国道筋らしき道に合流。

金倉寺
踏切を渡り県道25号を越えると左手に見慣れた新羅神社、そして金蔵寺山門が現れた。

これで今回のメモを終える。次回は丸亀市内を抜け宇多津の第78番札所・郷照寺を打ち、坂出市内の第79番札所・高照院(天皇寺)を目指す。
先回のメモでは七十二番札所 曼荼羅寺からはじめ、七十三番 出釈迦寺、七十四番 甲山寺を打ち七十五番札所 善通寺までの道筋を辿った。
今回は善通寺参拝からはじめ、七十六番 金倉寺を打ち七十七番札所 道隆寺へ と旧遍路道を辿る。おおよそ7キロほどだろう。
メモは2回に分ける。ついでのことではあるので、2回目には善通寺から金毘羅宮までの金毘羅道もメモした。善通寺から金毘羅さんはすぐお隣。これまた7キロほどである。善通寺から金毘羅宮を参詣し、七十六番 金倉寺への遍路道に戻る方も多いのでは、との想いではある。
本日のルート;第七十五番札所善通寺>赤門>乳薬師>神櫛神社で左折>県道25号を越える>金毘羅石灯籠の標石>村上池西の標石>旅姿大師の標石>民家脇の標石>茂兵衛道標(121度目)>第七十六番札所 金倉寺



第七十五番札所・善通寺

先回は七十四番札所・甲山寺から南に下り、善通寺の境内を二分する道に入り、西の本坊境内脇の水路に架かる廿日橋までメモした。今回は善通寺のメモから始める。

五岳山屏風ヶ浦誕生院善通寺。真言宗善通寺派総本山。真言宗では高野山金剛峰寺、京都の東寺と共に大師三大遺跡のひとつとされる。西の本坊境内、東の伽藍境内からなり、共に結構大きい。四国で最大の寺域と言う。それでも往時の半分のスケールとのこと。
空海誕生の地ともされる。誕生院の所以である。ちなみに屏風浦とは善通寺の西に連なる五岳山(香色山、筆ノ山、我拝師山、中山、火上山)の峰々が海に向かって屏風の如く屹立する故。かつてはこのあたりまで海が迫っていた、と言う。

空海生誕の地ともれえるこの地であるが、空海の生家である佐伯氏は、代々讃岐の国造の家系。善通寺域一帯が空海の父である佐伯善通卿の邸宅であったとも、佐伯氏の氏寺であったとも言う。

弘法大師生誕の地は、以前歩いた海岸寺も、そう呼ばれる。どちらが生誕の地であるか門外漢には分からないが、どちらも共に空海ゆかりの地ではあるのことに変わりはないだろう。

寺伝によれば、唐より帰朝した空海は大同2年(807)、この誕生の地に唐の都長安の青竜寺を模した寺院建立を計画。空海の父である佐伯善通卿よりこの地の寄進を受け竣工。父の名をとり善通寺とした。敷地は現在の凡そ倍。15の堂塔、49の僧坊よりなる大寺院であった、と。

その後一時荒廃した時期もあったようだが、その都度朝廷や時の権力者の助けにより寺威は続くも、永禄の大火により伽藍は悉く灰燼に帰す。現在の伽藍はその後再建されたものである。
永禄の大火
戦国時代、主の細川氏を倒し阿波をその手におさめた三好氏は讃岐に侵攻。東讃を抑え、次いで西讃を窺うが、西讃に覇を唱える香川氏が天霧城を拠点にそれに抗する。
戦は膠着状態となり三好氏は善通寺をその本陣とし相対する。結局は天霧城を攻略できず和議を結び阿波に戻ることになるが、退陣の折の残り火が燃え広がり善通寺は焼失した。これを永禄の大火と言う。永禄元年(1558)のことである。

さてと、かつては誕生院と善通寺という二つの寺でもあったと言われる本坊境内と伽藍境内、どちらからお参りしようか?
と、小学校の修学旅行での思い出、漆黒の通路を歩いたお堂からはじめようと思い立った。チェックするとそのお堂は本坊境内の御影堂、所謂大師堂の地下の戒壇巡りと言う。ということでまずは西の本坊境内、誕生院からお参りをはじめる。


■本坊境内■

廿日橋
廿日橋、といっても用水路に架かる石橋ではあるが、橋を渡る。勅願寺であった当寺は、一般の参拝は二十日だけと限られていたその歴史が橋名の由来、とか。橋の少し南には勅使門がある。

仁王門
金剛力士像は南北朝時代・応安3年(1370)の作と言う。運慶につながる運長の作との記事もあるが門外漢にはわからない。わからないが、運長といえば江戸時代の京都の仏師である北川運慶だろうし、であれば時代は大きく変わる。 運長は、西大寺(奈良県)の愛染明王(あいせんみょうおう)坐像(重文)や、高野山真言宗総本山金剛峯寺(和歌山県)の金剛力士立像(吽形(うんぎょう)像、重文)などの作者として知られる。

御影堂回廊
仁王堂を潜ると屋根付き回廊が御影堂へと続く。大正4年(1915)に建てられたというから、それほど古いものではない。が、なかなか、いい。






御影堂
大師堂のことを当寺は御影堂と称する。御影堂は札堂・中殿供養殿・奥殿と分かれ、奥殿には大師直筆の「目引き大師」の絵像が祀られるとのことだが、興味関心は何十年ぶりの漆黒の通路歩き。
戒壇めぐり
お堂に入り右手より階段を下りる。すぐに真っ暗。漆黒とはこういうことを指すのだろう。空間感覚もマヒ。
通路の壁に手を付け、それを頼りに進むしかない。通路には曼陀羅の諸仏が描かれているとのことだが、見えるはずもない。恐る恐るすり足で歩を進めると薄明りに地蔵尊が浮かぶ。ここが凸となっている地下通路の先端部。センサーで感じるのか、突然流れる空海のお話をしばし聞き、そこからまた漆黒の通路を戻りお堂に出る。
うっすらとした記憶ではコンクリートの通路ではなく木であったようにも思うのだが、はっきりしない。ともあれおおよそ100mほどの距離だが結構懐かしい思い出を追体験できた。

親鸞上人堂
御影堂に向かって右手、親鸞上人堂がある。親鸞上人自作の親鸞上人尊像が祀られる。案内に拠ると、「鎌田の御影」と称されるこの尊像は、上人が下総国鎌田庄(現在の千葉県市川市)の信者宅に滞在し法談。帰洛を惜しむ信者のため上人自ら木像を彫ったもの。
その背に残された「讃岐善通寺は弘法大師生誕の霊地にてわが師法然上人は彼の地に詣でて自ら逆修の塔を建てたまえ、我も彼の寺へ詣でなんと思えど、その願いを果たさず。願わくはこの像を彼の地に送り、今生の願望を遂げしめよ」との遺命によりこの地に送られたものとある。




■伽藍境内■



中門
廿日橋に戻り、中門を潜り伽藍境内に入る中門を潜る。五重塔、楠の巨木が印象的。

金堂
中門から境内を直進すると左手に金堂。所謂本堂である。七間四面、二層のどっしりした建物。本尊は薬師如来。空海の作とされる永禄の戦火で破損した元の薬師如来をその胸に納める、と。3メートル弱の仏さま。上述運長の作との記録が残る。
戦国時代に金堂が消失して以後、善通寺には金堂も五重塔もない状態が続くが、江戸期の入り元禄年間に再建の動きが本格化する。
元禄7年(1694)に、仁和寺門跡が大師誕生之霊地として善通寺伽藍再興をうながす令旨を出し、元禄?年(1699)金堂が棟上され、翌13年本尊薬師如来坐像が、上述京都御室の大仏師北川運長の手によって完成した、とのことである。




五重塔
境内に三間半四方、およそ45mの五重塔が聳える。現在のものは四代目。弘化2年(1846)着工、明治17年(1884)完成、総けやき造りの塔と言う。
「はあ、大師慕って霞に中を 娘遍路の鈴が鳴る 夢を誘うような五重の塔に  偲ぶ想いに花が咲く(?;このあたりうろ覚え) 来なよ 寄りなよ おいでなよ ほんまに ええとこ 善通寺 善通寺」。
小学校での修学旅行の時バスガイドさんに教えてもらい、いまだに忘れずにいる善通寺の歌を思わず小声で歌う。



楠の巨木
南大門を潜って左、楠の巨木が残る。幹の周囲12m、高さ40m。香川県の天然記念物に指定されている。その西側、善通寺領の氏神である五社明神社を覆うように、さらに巨大と思える楠の巨木が残る。案内に拠れば、空海はその著『三教指帰』に「楠が日を遮る浦に住まう」といったことを書いている。また、『全讃史』にも「楠の巨木があり大師誕生の時よりある」といったことを記していた。
楠の巨木と言えば、田舎である愛媛県新居浜市の家の周りにもいくつもあった。今はすべて伐採されてしまっている。この歳になってそれを惜しむ。

佐伯祖廟
五社明神社を覆う楠の巨木の近くにこじんまりとした社が建つ。案内には「弘法大師は宝亀5年(774)、讃岐国多度郡屏風浦(善通寺)にお生まれになりました。
この地方の豪族、佐伯直田公(さえきあたいたきみ)・善通卿と玉寄御前(たまよりごぜん)の三男です。
この佐伯祖廟堂には父君善通卿と母君玉寄御前の御尊像を泰安してあり、「佐伯明神」、「玉寄明神」と称しております。なお五色山の頂上には佐伯家代々の霊廟がございます」とあった。
香色山
案内にある五色山とは、善通寺の西隣、標高157mほどの香色山(こうしきやま)のことだろう。山頂には「佐伯直遠祖神」と刻まれた石碑が立つ。

三帝御廟
伽藍境内西南隅に三帝御廟がある。「総本山善通寺に綸旨院宣を賜い御信心深い後嵯峨・亀山・後宇多三天皇の御遺言により御爪髪を納め、宝塔を三基建立したる三帝の御廟であります」とあった。





南大門
かつての正面。日露戦争の戦勝を記念して明治41年(1908)に再建された。屋根の四隅に四天王像を配する。

法然上人 逆修の塔
本坊境内の親鸞上人堂でメモした「法然上人逆修の塔」がこれである。五重塔のすぐ南にある。
逆修塔とは、死後の往生をねがって生前に自らが建立するもの。塔は高さ4尺(約130cm)の石造の五輪塔。四国に流された浄土宗の開祖・法然上人が自身の爪髪を埋めて立てたと伝わる。
が、五輪塔の部材は法然が活躍した鎌倉期より後の室町から戦国時代にかけてのもとと言う。現存する五輪塔は法然が建立したものではない、ということか。
法然上人と善通寺
法然上人は所謂「承元の法難」により土佐配流に処される。時に75歳であった、と。
京を離れ土佐へと、丸亀の塩屋の津に上陸した法然上人は、法然に帰依していた関白藤原兼実公の計らいもあり、讃岐に留まることに。その折に空海ゆかりの善通寺に訪れたとのことである。
先般、曼陀羅道を歩き、曼陀羅寺へ向かう途中、法然上人ゆかりの蛇岩に出合った。
□承元の法難
Wikipediaには「承元の法難(じょうげんのほうなん)は、後鳥羽上皇によって法然の門弟4人が死罪とされ、法然と親鸞ら7人が流罪にされた事件。法然は土佐だが、その弟子親鸞は越後に流されることとなる。
「南無阿弥陀仏を認めるか認めないか」という純粋な宗教的対立がきっかけとなった事件ではない。法然の門弟たちが後鳥羽上皇の寵愛する女官たちと密通したうえ、上皇の留守中に彼女たちが出家してしまったため、後鳥羽上皇の逆鱗に触れたという話で、密通事件さえ起きなければ、宗教がもとで人が死ぬことはなかったと言える」とあった。

利生塔
五重塔の南東、東院の境内隅にある石塔。元は暦応元年(1338)、南北朝の戦乱犠牲者の菩薩を弔い国家安泰を祈念すべく足利尊氏・直義が命じた、「国ごとに一寺・一塔の建立」の内、讃岐の一塔として建てられた五重塔であった。が、上述、永禄の大火より焼失したため、後に石造の利生塔がその替わりとして建てられたと伝わる。高さ2.8mの角礫凝灰岩(かくれきぎょうかいがん)の石塔である。
一寺一塔
暦応元年(1338年)、足利尊氏・直義兄弟は夢窓疎石(むそうそせき)のすすめで、南北朝の戦乱による犠牲者の霊を弔い国家安泰を祈るため、日本60余州の国ごとに一寺一塔の建立を命じた。
寺は安国寺、塔は利生塔と呼ばれ、讃岐では安国寺を宇多津の長興寺に、利生塔は善通寺の五重塔があてられた。
利生塔は興国5年(1344年)、善通寺の中興の祖とも称される宥範(ゆうばん)によってもうひとつの五重塔として建てられた。



善通寺から七十六番札所・金蔵寺への遍路道

赤門
善通寺参拝を終え次の札所・金倉寺への遍路道に向かう。遍路道は伽藍境内の東門、朱に塗らえる通称赤門口から進むことになる。







赤門七仏薬師(乳薬師)
善通寺の巡拝を終え、伽藍境内の東側にある赤門を離れ赤門筋に出る。美しく整備された道を直進すると、道の左手、善通寺郷土館の隣にお地蔵さま。赤門七仏薬師とも乳薬師とも称される。

案内によれば、「西に3キロ、??原大池のほとりに赤門七仏薬師(別名乳薬師)の本尊がある。弘法大師がお堂を建て、自ら薬師七体の石像を刻み、五穀豊穣と衆生の疫病退散を願う。
その後中世の戦乱で焼失するが、承応元年(1652)年、大池の工事中に石像が見つかり、現在の地にお祀りされ、安永八年(1779)には七仏薬師として再興された。
この七仏薬師にお参りするとお乳の出がよくなることから、乳薬師とも呼ばれ、昭和50年頃までは県外からのお参りもあったが、その後は訪れる人も減り、現在はその面影はない。
この赤門商店街の「赤門七仏薬師」は善通寺創建1200年を記念し、吉原七仏薬師寺より勧請された」とあった。

𠮷原の七仏薬師堂には、曼陀羅寺道を曼陀羅寺へと辿る途中で出合った。お堂はそれほど整備されているようには思えないが、案内に旧暦6月17日(十七夜)には本尊が公開されるとのことである。

神櫛神社で左折、細路に入る
赤門筋を進み県道48号を越えると、道は県道24号・本郷通りとなる。本郷通りを直進し神櫛神社まで進む。
神櫛神社の境内西端、本郷通りの左手に「76 金倉寺 2.7km」と刻まれた比較的新しそうな遍路標石がある。標石に従い左折し本郷通りを離れ細路に入る。
神櫛神社
社伝に拠れば、空海が勧請・創建。この地の産土神とする。祭神は神櫛王命、或は神櫛王の御子神、或は武國凝別皇子を祀るとも言われ、江戸時代までは皇子権現社と称された。
神櫛王
記紀に伝わる古代皇族。第十二代景行天皇の子とされる。『日本書記』では讃岐国造の祖とされる。讃岐の有力氏族がその祖とする所以だろう。墓は香川県高松市牟礼にある。

遍路道と金毘羅道分岐点
この地は金倉寺への遍路道と金毘羅宮への参拝道の分岐点でもあった。遍路道の逆、境内に沿って右に折れる道は金毘羅参拝道のひとつである「魚道」へとつながっていた。魚道を含めた金毘羅参拝道は次回のメモに廻す。

県道25号を越える
遍路道は北東へと進む。随所に遍路札の案内があり道を間違うことはないだろう。道なりに工場裏の細路を少し進むと右に折れて土讃線を越える。この右折点だけがちょっと注意必要。
土讃線を潜り県道25号に出る。県道対面に比較的新しい遍路標石があり、県道を渡り先に進む。

金毘羅石灯籠の標石
標石に従い軽自動車なら通れそうな細路を進むと、道は弧を描き先ほど分かれら県道24号に再びあたる。県道24号は県道25号に一時相乗りし東へとむかっているようだ。道の北側にも新しい遍路標石が整備されている。
ほどなく「四国のみち」の標石。遍路道を案内する。「七十六番 金倉寺 1.4km」とある。
その標石の対面、水路傍に金毘羅石灯籠。「左 こんぴら道五十丁 右せんつじ道 十八丁 安政六」と刻まれる。

こんぴら道
前述、金毘羅参拝道である「魚道」はこのあたりから琴平まで県道25号と金倉川の間を進んだという。今はその道筋は残っていないようだが、この金毘羅灯籠が記す「こんぴら道」は「魚道」のことだろう。
この道筋が多度津と琴平を結ぶ最短コースであり、金毘羅参りで賑わう琴平へと、多度津で水揚げされた魚が毎朝走ったのが、その名の由来とのこと。

村上池西の標石
金毘羅石灯籠からほどなく、右手に村上池の堤が見える道端、畑の角に標石がある。よく見ると彫られた僧の手が左を示す。注意深く見ると標石に刻まれた僧の姿もあれこれバリエーションがあるようだ。「右 まるかめ**」とも刻まれている、と。




旅姿大師の標石
遍路道はこの先で高松自動車道を潜る。道の左に山王地主権現の小石祠を認め、その先にある民家のブロック塀に張り付くように標石が立つ。笠を手にした、如何にも巡礼途中といった大師像が刻まれる。このような旅姿の大師像ははじめて見た。「是ヨリ金倉寺札所江三** 天保十五年」と刻まれる。



民家脇の標石
県道18号を越え先に進むと、道の左側、これも民家塀に張り付くように標石がある。「左 こんぞうじ道 四丁 右 ぜんつうじ道 廿五丁」と刻まれる。金倉寺まで400mほどになってきた。

集落の間の道を進むと、金倉寺の山門前に出る。門前前の名残を感じる昔風の家並も残る。

茂兵衛道標(121度目)
山門前T字路の道角に少し傾いた茂兵衛道標が立つ。手印と共に「善通寺 金毘羅 明治二十四年」の文字が刻まれる。
この道標には添句「真如乃月かゝや久や法の道 冷善」が刻まれる。茂兵衛121度目の巡礼時のものである。







第七十六番札所 金倉寺

鶏足山宝幢院(けいそくさんほうどういん)金倉寺。天台宗寺門派。本尊は薬師如来。

寺名石碑
山門前の左右に大きな石柱。右手の石柱には「四国第七十六番霊場 智証大師御誕生所 詞利帝母御出現之地 明治二十三年」、左手には「当山本尊薬師如来」と刻まれる。共に茂兵衛道標で知られる中務茂兵衛の周旋による。左手の石柱には「壱百拾五度目」と茂兵衛の巡礼時も刻まれる。

この寺は茂兵衛が得度を受け、法名義教をいただいた寺である。明治十年(1877)、茂兵衛30度目の巡礼の折、33歳のときのこと。
中務茂兵衛
中務茂兵衛。本名:中司(なかつかさ)亀吉。弘化2年(1845)周防(すおう)国大島郡椋野村 (現山口県久賀町椋野)で生まれた中務茂兵衛は、22歳の時に四国霊場巡礼をはじめ、大正11年(1922)に78歳で亡くなるまで生涯巡礼の旅を続け、実に280回もの巡礼遍路行を行った。
道標は、茂兵衛が厄年である42歳のとき、遍路行が88回を数えたことを記念して建立をはじめ、その数250基以上にも及ぶ(230基ほどは確認済、とか)。
文化遺産としても高く評価されている道標の特徴は、比較的太めの石の四角柱(道標高の平均約124cm)で、必ず建立年月と自らの巡拝回 数を刻んでいる、と。

鐘楼
仁王門を潜り境内へ。左手には高いところに鐘が吊られた鐘楼が建つ。高く延びた長い支柱が印象的。なんだか面白い。









本堂
境内を進むと正面に本堂。Wikipediaに拠れば、「774年(宝亀5年)景行天皇の子孫の和気道善(円珍の祖父)が金輪如意(如意輪観音)を祀って一堂を建立し自在王堂と呼ばれていた。 851年(仁寿元年)道善の子である和気宅成の上奏により、自在王堂を官寺とし道善寺と名付けた。
その後、宅成の子である円珍が846年(承和13年)に入唐、858年(天安2年)帰朝した後、故郷の当寺に訪れて長安の青龍寺に倣した伽藍を造営、薬師如来を彫像して本尊とした。
貞観3年(861)伽藍の造営を終え、落慶の斎会に円珍が再訪する。928年(延長6年)醍醐天皇の勅命により金倉郷(かなくらごう)から名前をとり現在の「金倉寺」、山号は釈迦十大弟子の迦葉尊者が入定した山名の「鶏足山」と改め隆盛をきわめた。
その後、幾多の兵火により重要文化財の自画像と本尊などの宝物以外は焼失、慶長11年(1606)それまで無住寺になっていたが、近くの真言寺院に後見してもらい一時期真言宗になるが、窮状を知った高松藩主の松平頼重により、天台宗に戻り再興、慶安4年(1651)には、智証大師御影堂を始め、諸堂や客殿、庫裏にいたるまで再建し現在に至る」とある。
智証大師円珍
山門前の石柱にあったように、この寺は智証大師円珍生誕の地。弘仁五年(814)のことである。母は空海の妹とも言われ、空海にとっては甥ということになる。空海の姪の子との説もあるが、ともあれ空海とは近しい縁者ではある。
十五歳で最長の弟子に師事。厳しい修行の後に入唐し在唐六年、帰朝後、天台宗第五代座主となる。

詞利帝堂
本堂左手に詞利帝堂。詞利帝母(かりていも)、所謂鬼子母神を祀る堂。円珍五歳の時現れたと伝わる。
詞利帝母
詞利帝母は夜叉を意味するサンスクリット語(ハーリーティー)の音写。500とも1000とも一万とも言われる子を持ち、その子たちを育てるため人の子供を食べていた。それをみかねた釈迦は詞利帝母の最愛の末子を隠す。半狂乱となり探すも見つからず、詞利帝母は釈迦に縋る。
釈迦は最愛の子を失う悲しみを説き、悔い改めた詞利帝母は仏法の守護神となった。子供の守り神との所以である。地元では「おかるてんさん」の愛称で呼ばれているとのこと。

大師堂
祖師堂とも呼ばれるこのお堂の扁額には中央に智証大師、右に弘法大師、左に神變菩薩とある。本堂に祀られるお像も、中央に智証大師、右に弘法大師、左に神變菩薩(役行者)と並ぶようだ。四国88箇所札所の中で、中央に弘法大師ではない像が祀られるのはこの寺だけとのことである。
大師号
「大師は弘法に奪われ、太閤は秀吉に奪わる」とのことばがある。大師=弘法大師と思い込んでしまいそうだが、大師は弘法大師だけでなく他にもたくさんいる。大師号は高徳な僧に朝廷から勅賜の形で贈られる尊称の一種で、多くは死後に賜る諡号である。
最初に大師号を賜ったのが最澄こと伝教大師であり、弘法大師がはじめてというわけでもなく、20名以上いる大師のひとりであるではあるのだが、お大師さんといえば弘法大師。空海の人気のほどが分かる。
茂兵衛道標
大師堂の右手に茂兵衛道標が立つ。明治廿一年の文字と共に、手印が大師堂を指す。また大師堂石段も茂兵衛の周旋による、と言う。









乃木将軍の銅像
大師堂左手前に羽織、袴姿の乃木希典将軍の像が立つ。元は軍服姿であったようだが、第二次世界大戦時に供出された。この銅像と軍馬の供出により、鐘楼の鐘が供出から免れた、とも。
●乃木将軍妻返しの松
このお寺様は乃木将軍の寓居であったとも言われ、境内には「乃木将軍妻返しの松」もあった。明治31年(1898)、善通寺第十一師団の師団長として着任。以来3年ほどこの寺を寓居としたが、訪れた婦人を玄関払いしたとのことである。寺に泊めるのを憚ってのこと、とも。

一太郎母子の松
戦前の軍国美談として小学校の国語読本にも載った、「一太郎やーい」の主人公岡田梶太郎とその母がこの寺に植えたものと言う。
日露戦争出征のため、多度津から軍船に乗る息子梶太郎の名を大群衆の中で叫び注目を浴びたため、照れ隠しで「天子さまに御奉公」と言ったことが、「一太郎」となって天皇への御奉公の美談として創られた。当の本人は長いことこの美談の主人公であったことを知らなかったようである。
明治生まれの祖父に連れられ、芝居小屋といった映画館に10円を払い、嵐寛寿郎主演の『明治天皇と日露大戦争』を見に行った世代にはわかるだろうが、今の世代に一太郎と言われても、なんこと、と思うだろうなあ。

金倉寺常接待処
境内を彷徨っていると奉納石に支えられた木造小屋の傍に何となく気になる石碑がある。見ると「金倉寺常接待処」と刻まれていた。かつて接待処として使われていたのだろうか。
結構札所を巡ったが、接待処の石碑ははじめて目にした。




神仏混淆の名残
境内には天満宮など神道の祠が残る。明治の神仏分離令以前の神仏混淆時代の名残だろう。境内の楠の巨木も印象的であった。






新羅神社
境内に接して新羅神社がある。境内はさっぱりとしたもの。渡来氏族である秦氏と関係深和気氏とのかかわりであろうか。チェックすると、和気氏ではなく智証大師との関りの社のようである。
唐より帰朝した智証大師こと円珍は、叡山に現れた老翁に導かれるまま山を下り、園城寺に。円珍は園城寺を再建し、そこにお堂を建て唐より持ち帰った経典を納めた。この老翁は園城寺の守護神である新羅明神であった。
かつての日本の朝廷は百済系、新羅系といった渡来系王族よりなる。壬申の乱の大友の皇子が百済系、大海皇子が新羅系とはよく聞く話である。
が、園城寺は百済系の大友皇子を弔うための寺。そこに新羅の神?これ以上はきちんと調べなければわからないが、円城寺のあるあたりには新羅系の渡来人が多く住んでいたようであり、園城寺建立以前からこの地の守護神として祀られていたのかもしれない。単なる妄想だが、道隆寺と新羅神社の繋がりを自分なりに納得。

善通寺のあれこれでメモが長くなった。今回はここまで。次回は金倉寺から道隆寺への遍路道をメモする。



七十一番札所 弥谷寺から七十二番札所 曼荼羅寺に至る二つの遍路道(海岸寺道曼荼羅道)をカバーし終え、七十三番 出釈迦寺、七十四番 甲山寺、七十五番 善通寺へと遍路道を辿る。距離は4キロほど。田舎の愛媛県新居浜市を朝に出たとしても十分に時間の余裕がある。
出釈迦寺奥の院禅定御行場の護摩壇
どこか立ち寄るところはとあれこれチェック。と、出釈迦寺の近くに西行ゆかりの庵がある。また、出釈迦寺の裏に聳える、といっても標高481mほどなのだが、その山・我拝師(がばいし)山に出釈迦寺の奥の院がある、という。地図を見るとヘアピンではあるが道は奥の院まで続いている。2時間もあればこの2か所もカバーできそう。
ということでルーティング。曼荼羅寺を出て、出釈迦寺、出釈迦寺奥の院、西行庵と辿り、道を東に折り返し甲山寺、そして善通寺へと向かうことにした。 出釈迦寺奥の院の行場は、高所恐怖症のわが身には少々キツイところではあったが、その眺望も含め結構な達成感を感じることになった。 そのため、というわけでもないのだ、出釈迦寺や奥の院のメモが結構長くなり、当日訪れた七十五番札所 善通寺のあれこれは次回に回し、今回は札所・善通寺到着までの遍路道のメモとする。

本日のルート;
七十二番札所 曼荼羅寺から七十三番 出釈迦寺へ
茂兵衛道標(151度目)>七十二番札所 出釈迦寺(しゅっしゃか)
出釈迦寺から奥の院禅定へ
奥の院禅定参道口駐車場>与謝野晶子・寛庭園>柳の水>西行法師禅定御遺跡>参詣道 世坂>西行法師腰掛石>西行法師腰掛石>風穴>奥の院参拝者駐車場
奥の院から御行場へ
奥の院山門>摩崖摩崖五輪塔>鐘楼>根本御堂>御行場入口>鎖場>>捨身ケ嶽の御行場
七十四番札所・甲山寺へ
出釈迦寺に戻る>西行庵西行庵分岐点の自然石道標>茂兵衛道標(88度目)>県道48号沿いの茂兵衛道標(241度目)>広田川沿いの標石>七十四番札所 甲山寺
七十四番 甲山寺から七十五番札所 善通寺へ
弘田川の用水路施設傍に標石>T字路の標石>国立病院機構こどもとおとなの医療センター>仙遊寺>犬塚>七十五番札所 善通寺の廿日橋


七十二番札所 曼荼羅寺から七十三番 出釈迦寺へ

茂兵衛道標(151度目)
曼荼羅寺を離れ、七十三番札所 出釈迦寺に向かう。南へおおよそ500mほどのところにある。境内を出てお接待のあるうどん屋さん前の三叉路に茂兵衛道標。 南へと上る緩やかな坂を示す手印と共に出釈迦寺の文字が刻まれる。明治29年(1894)、茂兵衛151度目の四国巡礼時のもの。手印の案内に従い舗装された道を南に向かう
茂兵衛道標(140度目)
上述舗装道の一筋東、耕地の間を南に抜ける簡易舗装がある。この道は少し進んだところで上述茂兵衛道標から上る舗装道と合わさるが、こちら道を歩く遍路もいたようで、途中道の右側に茂兵衛道標が立つ。
「右 彌谷寺」、手印と共に「七十三番 七十二番」と刻まれる。明治28年(1895)、茂兵衛140度目の四国巡礼のときのもの。コンクリート塀の前に立ち、裏面は読めないが、「鶴多ちしあとへ往きて徒む若菜可那(つゆたちし あとへゆきてつむ わかなかな)」と添歌が刻まれるとのこと。
ところで「右 彌谷寺」とあるのだが、右は耕地でそれらしき道はない。どこから移されたのかチェックする。どうもこの辺りにあった遍路宿・坂口屋前に立てられていたようである。坂口屋は茂兵衛定宿ではあったとのことである。

七十二番札所 出釈迦(しゅっしゃか)寺

簡易舗装の道と舗装道路が合わさるすぐ先に出釈迦寺がある。舗装道路の東側に大きな駐車場。山門への参道は舗装道の西側に続く緩やかな坂道を上る。
山頭火句碑
山門への坂道を上りはじめた一番手前に大きな石碑が建つ。結構新しいその石碑には「山あれば山を観る」と刻まれる。山頭火の句集『山行水行』の冒頭にある「山あれば山を観る 雨の日は雨を聴く 春夏秋冬 あしたもよろし ゆうべもよろし」からとられたものだろう。大きな句碑の前に小さな石碑がある。「飲みたい水が音をたてていた」といった句が刻まれるようだ。
山頭火は昭和3年(1928)、46歳の時と昭和14年(1839)57歳の時の二度、四国遍路の旅に出ている。が、『山行水行』は「昭和9年の秋、其中庵にて」とあり、そこに収められている句は「昨年の八月から今年の十月」までに詠んだ句の中から選んだものとある。昭和8年から9年にかけて山頭火は広島、神戸、京都、名古屋をへて木曽を旅しているが、四国遍路にはでていない。石碑の句は四国遍路とも出釈迦寺ともかかわりはなく、その描く光景ゆえに選ばれたもののようだ。実際、「飲みたい水が音をたてていた」も『山行水行』の木曽三句のひとつであった。
修行大師立像
石段の途中には「四国霊場 第七十二番 我拝師山 出釈迦寺」と刻まれた寺名碑と大きな修行大師立像が二体。山頭火の句碑同様、それほど古いものではないようだが、我拝師山を「借景」にした姿はなかなか、いい。
子宝の三鈷の松
参道脇に「子宝の三鈷の松」。「この松は雄の松で、『子宝の三鈷の松』と呼ばれています。親の大樹から、たくさんの小松が生まれ、また葉は三鈷の松になっている、珍しい松です」とある。
Wikipediaによれば、「三鈷」とは「密教の法具としての金剛杵は,この武器が堅固であらゆるものを摧破(さいは)するところから,煩悩を破る悟りの智慧の象徴として採り入れられたもので,両端の刃先の形によって,1本だけ鋭くとがった刃先の独鈷(独股)(とつこ),その刃先に両側から勾(かぎ)形に湾曲した刃を2本備えた三鈷(三股)」とあった。
それはそれでいいのだが、それでは通常の松の葉って、どんな形状だったっけ。 チェックすると二本で一組となっているのが多いとある。三鈷の松は三本で一組となっている松の葉のようだ。
当日は特に気にすることもなく通り過ぎたため、二本なのか三本なのか確認はしていないのだが、本家本元の高野山の三鈷の松も通常は二葉であるが、中に三葉のものも見つかるという。
そもそも、三鈷の松の由来は、空海が真言密教を中国で習得した後、日本のどこに道場を開いたものやらと、密教法具の三鈷杵を明州の浜より空高く投げたところ、帰国後空海が修行の地を探して訪れた高野山にて松にひっかかっている三鈷杵を見つけ、故にその地を真言密教の道場としたということにある。
ということは、三葉の松というより、三鈷杵がひっかかっていた故の「三鈷の松」の比重のほうが重い、ということだろう。それがいつしか高野山の三鈷の松にあやかって、この地に限らず各地に「三鈷の形をした松葉」となって広まったのだろう、かと。傍には安産地蔵尊も立つ。
山門手前の道標
坂を上ると山門手前、右手にひらべったい石に刻まれた道標がある。手印と共に「七十三番ココデス 捨身ケ嶽十三丁 七十二番ソコデス 七十四番十六丁」と刻まれる。
結構多くの道標を見てきたが、「ココデス ソコデス」はじめてのような気がする。

「捨身(シャシン)ケ嶽禅定」の案内
小ぶりな山門を潜ると、境内左手に「捨身(シャシン)ケ嶽禅定」の案内がある。断崖絶壁を落ちる稚児とそれを受け止めようとする天女の絵と共に、「第七十三番 出釈迦寺 奥の院 捨身(シャシン)ケ嶽禅定 弘法大師(幼名 真魚 まお)七才の時救世の大誓願を立て、五岳の随一たる当山に登り三世の諸仏十方向の薩埵を念じ、「我仏法に入りて一切のの衆生を済度せんと欲す。吾願成就するものならば釈迦牟尼世尊影現して證明を与え給へ成就せざるものならば一命を捨てて此身を諸仏に供養し奉る」と唱え断崖絶壁の頂より白雲も迷う谷底に身を跳らし飛び給いし紫雲の湧き起せらる中に大光明を放って釈迦牟尼仏百宝の蓮花に座しご出現せられ羽衣を身に纏うた天女天降り大師を抱き止め「一生成仏」と宣り玉ふ。
この神秘不可思議なる仏陀の霊光に感謝し霊験を併給に記念し、世の人々に仏縁を結ばしめんが為に捨身ケ嶽(しゃしんがだけ)に寺を建立し、ご本尊釈迦牟尼仏を安置せられ捨身誓願の霊場として多くの善男善女の信仰の中心となっている霊山です」とある。
捨身飼虎(しゃしんしこ)説話
この稚児捨身のベースは有名な法隆寺の玉虫厨子に描かれる「捨身飼虎」の説話にあるとする。お釈迦さまがその前世にて薩埵王子と称された時、山中にて餓死しかかっていた親子の虎を救うべく、高所より身を投げ飢えた虎にその身を供した。このおこない故に王子は生まれ変わってお釈迦様となった言う。 幼き大師が身を投じた我拝師山も、かつては倭斯濃山と称されたと言う。「わしのやま」とはお釈迦さまゆかりの霊鷲山(りょうじゅせん)の和名である。この倭斯濃山も後付けの命名かもしれない。
捨身飼虎説話、山名が相まって、空海とお釈迦様の「つながり」を強める意図をもって後世に「つくられた」お話ではあろうか。

本堂・大師堂・地蔵堂(虚空蔵菩薩堂とも)
境内に入ると西側に本堂、その右手に大師堂、一段高いところに地蔵堂(虚空蔵菩薩堂?)が建つ。すべて東に向く。
寺名は我拝師山求聞持院出釈迦寺と称す。寺伝によれば、空海が釈迦如来出現の霊験により我拝師山頂(捨身ケ嶽)の少し下、現在の奥の院の地に堂宇を建て、自ら釈迦如来を刻み本尊となす。これが出釈迦寺の由来だろう。
山号となる我拝師山も釈迦如来出現をもって、倭斯濃山(これも後付けの命名かもしれないが)を改め我拝師山、私(空海)が御師である釈迦如来を拝した山としたのだろう。
求聞持院については、境内に「出釈迦寺は弘法大師七歳の捨身誓願の霊跡であるとともに大師は四国八十八ヶ所ご開創の砌り、再度当地に巡錫、虚空蔵求聞持の法を修行されました。故に当山院号を求聞持院と号します。この求聞持の法とは虚空蔵菩薩のご真言を二百遍お唱えする法でそのご修行のお姿が当山求聞持大師です。
この求聞持の法を修する事によって一切の教法の文義悉く暗記する事が出来るといわれています。故に学業成就又物忘れの多い方は是非ご利益をいただいて下さい」といった案内もあった」との求聞持院の由来も案内していた。
西行法師歌碑
求聞持大師像の横に西行法師歌碑の案内。小ぶりな石碑に「西行法師歌碑(江戸時代1779)七十三番出釈迦寺當山奥之院弘法大師道所禅定場江是ヨリ十三丁 南無阿弥陀佛行導所(梵字)西行上人
めぐりあはん ことのちぎりぞ たのもしき きびしき山の ちかいみるかな 安政八年(後略)施主 和州(後略)美野田弥八郎(後略)」と刻まれる。江戸時代に大和の国の美野田弥八郎さんによって建てられたもの。

歌は『山家集』に次の詞書とともに載る(注;原文はひらがな書):「曼荼羅寺の行道所へ登るは、世の大事にて、手を立てたるやうなり。大師の、御経書きて埋ませおはしましたる山の峯なり。坊の外は、一丈ばかりなる壇築きて建てられたり。それへ日毎に登らせおはしまして、行道しおはしましけると、申し伝へたり。巡り行道すべきやうに、壇も二重に築き廻されたり。登るほどの危ふさ、ことに大事なり。構へて這ひまはり着きて

めぐり逢はんことの契りぞありがたき厳しき山の誓ひ見るにも

歌の意味は「その昔弘法大師は、この地で釈迦如来にめぐりあわれたという。その契りのありがたさと同じく、自分も今大師行道の跡にめぐり逢うことのできた因縁をありがたく思う。この嶮しい山をよじ登り行道を行われた大師誓願の跡に立ち、大師を偲ぶにつけても」とのこと。
仁安3年(1168)、西行法師は白峰御陵を訪ね、その後善通寺の弘法大師の遺跡を巡り、この地に庵を結んだ。その折に詠まれた歌であろう。
曼荼羅寺奥の院
現在本堂、大師堂は山裾の地に建つが、上述の如く当初の堂宇は現在の奥の院の地にあり曼荼羅寺の奥の院であったようだ
承応2年(1653)、澄禅の『四国遍路日記』には「出釈迦山エ上ル(中略)少シ平成所在、是昔ノ堂ノ跡ナリ、釈迦如来石像、文殊菩薩石像ナト在、近年堂ヲ造立シタレバ、魔風起テ吹崩ナルト也。(中略)曼荼羅寺ノ奥院ト可云山也」とあり、山腹のお堂を曼荼羅寺の奥の院と記している。
寂本の『四国遍礼霊場記』。山上に堂跡。
麓に銅はあるが寺名はない。
元禄2年(1689)に書かれた寂本の『四国遍礼霊場記』にも出釈迦寺を我拝師山山上とし、堂はなく、これも曼荼羅寺奥の院とした上で、「宗善という入道が麓に寺を建立したそうだ」の一文を付けている。
同じ頃の真念の『四国遍路道指南』にも、「この寺の札所は山上にあるが、由緒あって堂宇はない。そのため近年になって麓に堂、寺を建て、札を納める」とある。
曼荼羅寺の奥の院から出釈迦寺として札所となったのは、この頃以降のことのようであり、上述西行の歌碑に「七十三番出釈迦寺當山奥之院」とあるように安永8年(1779)にはこの地に出釈迦寺が建ち、山上の堂宇は出釈迦寺奥の院となっている。
捨身ケ嶽遥拝所
本堂より一段高い地蔵堂(虚空蔵堂?)へと石段を上ると、捨身ケ嶽遥拝所がある。大師像の横に石碑があり、そこには身を投げる空海とそれを救う釈迦如来と天女の図が描かれるとのことだが、風雨に晒され絵柄を見ることができなかった。我拝師山をよく見れば、奥の院らしき建物も見える。遥拝所横に立つ石仏は虚空蔵菩薩と言う。




出釈迦寺から奥の院禅定へ

奥の院禅定に向かう;10時10分
境内から成り行きで山へと向かう簡易舗装の道を奥の院禅定へと向かう。道端には舟形石仏が立つ。四国遍路の札所の本尊石像のようだ。道はほどなく出釈迦寺東の駐車場と出釈迦寺の間を南に上ってきた車道と合流する。

奥の院禅定参道口駐車場;10時13分
割と新しい石灯籠の建ち並ぶ駐車場入口に、これも新しく立てられたような西行歌碑がある。「筆の山 かき登りても見つるかな 苔の下なる岩のけしきを」と刻まれるこの歌は、出釈迦寺で見た西行の歌と同じく『山家集』におさめられたものである。 
西行法師歌碑
詞書には「やがてそれが上は、大師の御師(釈迦如来)に逢ひまゐらせさせおはしましたる峯なり。「わがはいしさ」と、その山をば申すなり。その辺の人は「わがはいし」とぞ申しならひたる。山文字をば捨てて申さず。また筆の山とも名付けたり。遠くて見れば、筆に似て、まろまろと山の峯の先のとがりたるやうなるを、申し慣はしたるなめり。
行道所より、構へてかきつき登りて、峯にまゐりたれば、師にあはせおはしましたる所のしるしに、塔を建ておはしましたりけり。塔の礎はかりなく大きなり。高野の大塔などばかりなりける塔の跡と実。苔は深く埋みたれども、石大きにして、あらはに見ゆ。筆の山と申す名につきて」とあり歌(筆の山にかき登りても見つるかな苔の下なる岩の気色を)に続く。

歌に筆の山と記される山は、当時我拝師山のことを筆の山とも称したとある(西行の思い違いかもしれない)。現在我拝師山と並び北東に「筆ノ山」があり、詞書を読まなければ少々混乱しそう。

現在の奥の院のあるところには、かつて高野山の大塔のような塔が建っていたようだが、西行道行の頃には既になく、苔むしたその跡が残るのみ、であったようだ。
歌の意味は「筆の山に、筆で字を書きつけるごとくかきついて登り、見たことだ。今は苔の下に埋もれてしまっている塔の礎である大きな岩のさまを」。
なお、「やがてそれが上」とは上述境内の西行歌碑の詞書を踏まえたものである。

土径であろうとの予想に反し、舗装された奥の院参道を進む。寄進された石灯籠の多さに、このお寺さまへの信仰のほどが知られる。石灯籠は結構新しいが、四国遍路札所の舟形石仏は古い趣。19番札所、立江寺の本尊延命地蔵菩薩らしき石仏を見遣りながら進むと、参道左手に与謝野晶子・寛庭園がある。

与謝野晶子・寛庭園;10時15分
石碑には「讃岐路は 浄土めきたり 秋の日の五岳のおくに おつることさへ   晶子
昭和6年(1931)に善通寺で詠んだ歌。当時の善通寺高等女学校で講演を行った。この歌には善通寺五岳と讃岐の風土が想いを込めて詠まれている。晶子自筆の色紙は当時善通寺高等女学校の教諭であった武内正躬氏が所蔵していたもので、平成18年に発見された」といったことが刻まれていた。
石碑の横には与謝野晶子・寛の歌碑が立つ。
「讃岐路は浄土めきたり秋の日の五岳のおくにおつることさへ 晶子」
「たもとふり西行上人も見しるらん飯能の山のわが道に立つ  寛」
と刻まれるようである。
この公園は平成18年(2006)に造られたという。ということは、比較的新しめの石灯籠や舗装された参道はこの頃に建立・整備されたのだろうか。
●讃岐五岳
讃岐五岳とは札所・善通寺の裏から連なる山並み。香色山〔こうしきざん〕、筆の山、我拝師山、中山、火上山〔ひかみやま〕という五つの山のことを指す。なお、善通寺の山号は五岳山とする。大師修行の場とされる五岳ゆえの山号ではあろう。

参道を上る
石灯篭の間に菩提樹。「昔、お釈迦さまが、この樹下に座して覚りを開らかれた為にこの名がついた、神聖な木」といった案内を見やりながら参道を上る。右手には札所名は読めないが大日如来の石仏。
左手の石灯篭の竿を見ると、「秋風や 空海法師をさなくて 見たる讃岐の碧瑠璃の空 秋風遍路」と与謝野晶子、「善通寺 秋のゆうべに我が立つも 大師若くてふみませる土 秋風遍路」と与謝野寛の句が、家内安全や先祖供養などを記す石灯篭の中に見える。
さらに右手には御神木 ひのき(香川の保存木) の案内があり、次いで澤田ふじ子さんの『遍照の海』より選句された句碑が立てられ、「わが許に大師(ひと)ありますや遍路道」と刻まれる。なんだかもりだくさん。

柳の水;10時22分
その先に柳の水。禅定手水場 薬師瑠璃光如来と書かれた石碑が建つ。大師御加持水とも伝わるこの水場、当日目にすることはなかったのだが、「この柳の水は古くより多くの不治の病の人々を救った寺伝にもある霊験水です。現在も癌等病気の方が薬を飲む為に他県よりこの霊水に対し、三礼、おつとめをして水をくみにこられます。霊験水の近くでは決して不浄なことはしないで下さい。霊験水の病苦がつきます。禅定信徒総代」といった案内もある(あった?)ようだ。薬師瑠璃光如来の石碑が建つ所以である。

西行法師禅定御遺跡;10時23分
柳の水のすぐ上に西行法師禅定御遺跡。特段の説明はない。その右手には鎌倉時代の高野山の碩学の僧、道範阿闍梨の歌碑が立ち、 「鷲の山つねにすむなる夜半の月 きたりて照らす峯にぞありける」とある。寛元元年(1243)に禅定参拝の際に詠んだ句。一時期讃岐に流されたというからその折のことだろう。ということは、この頃、我拝師山は上述、鷲の山(倭斯濃山)と呼ばれていたのだろう。


参詣道 世坂;10時28分
道に「参詣道 世坂」と刻まれた石碑が建つ。その下に「大師行道所に至る 世に世坂と号す  道範阿闍梨 寛元元年(1243)九月二十一日参詣 同阿闍梨「南海流浪記」より」とある。
それはそれでいいのだが、何故世坂が不明。五来重氏によると、お接待の施物が置かれていたので「施坂」。それが転化しえ「世坂」とも。もっとも空海の出自である佐伯氏の氏寺である曼陀羅寺は、その昔「世坂寺」と称されたようであり、また前述の道範阿闍梨も『南海流浪記』には、「大師の御行道所に至る。世に世坂参詣と号す」と「世坂参詣」と記す。なんらか空海との繋がりをい感じる「世坂」ではある。単なる妄想。

世坂を上ると里の景色も見えてくる。石仏を見やりながら進むと「出釈迦寺祥桜」の案内。一木に一重と八重が咲く珍しい桜のようだ。
その先に「六甲の名花 幻の「七段花」の案内。江戸時代にオランダ人シーボルトが『日本植物誌』で紹介して以来、誰もがその実物を見たことがなく、幻の花と呼ばれていたが、昭和34年(1955)神戸の六甲山で見つかり栽培されている花とのこと。花音痴には吉祥桜共々、その有難さはあまりわからない。
里を背にした六十番札所・横峰寺の石仏(10時29分)を越した先で舗装道から右に折れる土径がある。







西行法師腰掛石;10時33分
そろそろ舗装も切れるのかと土径を進む。六十一番札所・香園寺の石仏の佇む道を進むと、ほどなく舗装道に合流。一瞬の土道であった。そこに西行法師腰掛岩があった。誰それの腰掛岩は散歩をはじめていくつ出合っただろう。


風穴
道の右手に高野杉を見遣りながら進むと、同じく道の右手に「風穴」の案内。とりたてて穴はみえないのだが、案内石碑を囲む石垣の間から風が送られてくるのだろうか。風穴の先には稚児桜があった。







の遠望;10時39分
急坂をこの辺りまで上ると里の景色が広がる。讃岐平野と瀬戸の海、先般、弥谷寺から海岸寺道を辿る途中に立ち寄った天霧山が一望。古き遍路札所の石仏が趣を添える。



奥の院参拝者駐車場;10時43分
左手には奥の院の堂宇もはっきりと見えてくる。結構急峻な岩場の上に建っている。ほどなく前方に山門、左手に参詣者駐車場が見えてくる。毎月、旧暦の5日に奥の院で法要があるとのこと。そのために車道、駐車場が整備されたのだろうか。山道を想定していたのだが、結局奥の院まで舗装された道が続いていた。
それにしても、この急坂を車で上るにはちょっと「勇気」がいるかも。昔神戸の御影辺りで歩いた屏風のような急坂を思い出した。


奥の院

奥の院山門;10時45分
奥の院山門に到着。出釈迦寺の境内を離れ歩きだしてからおおよそ30分かかった。山門には「捨身ケ嶽禅定」、石碑には「四国奥の院第一 禅定」とあった。
禅定
禅はサンスクリットの音訳、定は漢訳。禅すなわち定ということだろうか、意味は、精神を集中し、三昧(さんまい)に入り、寂静の心境に達すること、霊山に上り修行すること」と「コトバンク」にあった。
五岳山縦走ルート
山門右手に五岳山縦走ルートの案内がある。香色山、筆ノ山、我拝師山、中山、 火上山と続く大師ゆかりの聖域を辿るルート。善通寺のお供えや寺の造営以外に草木の伐採、また狩猟は禁じられていたとある。善通寺の山号が五岳山とされる所以を再確認。
我拝師山の説明に、「奥の院から50mほど岩場をよじ登った捨身ケ嶽は、弘法大師が身を投げたところと伝えられている。現在は岩場の上に護摩壇と稚児大師が祀られている」とある。高所恐怖症には少々キツイが、ちょっと寄ってみようと思う。 案内板脇には南に下るような「有坂方面 程坂下山道」の案内に「出釈迦寺迄2時間」とある。程坂は大日峠を超えてきた県道49号の辺りにある。そこから有岡方面へと北東に向かい、我拝師山と筆の山の鞍部を抜けて出釈迦寺に出るルートなのだろうか?案内の意図がわかりにくい。


摩崖摩崖五輪塔:10時48分
山門を潜り奥の院のお堂に進む。ここも道は舗装されていた。道の右手の大岩には張り付くように石仏が祀られている。その大岩の傍に「摩崖 五輪塔 室町時代初期」とある。どこだろうと探すと、大岩の表面に「五輪塔」らしきものがうっすら見える。これって、弥谷寺での摩崖五輪塔を見ていたので、なんとなくわかったが、そうでなければわからなかった、かも。


鐘楼;10時52分
お堂手前の岩場に鐘楼。先日高屋神社で天空の鳥居を見たが、これも天空の鐘楼といったもの。屹立する崖端に建つ。
鐘楼の隅、崖際に「層塔 奈良時代-平安時代中期」とある。古い趣。笠を三層に重ね、笠の上に相輪が立つ。相輪の上部が欠けているように見える。


鐘楼を乗せる大岩の表面には南北朝時代の摩崖五輪塔が刻まれる。これも初めて見る人には、よくわからない、かも。
五輪塔
下から四角の方形、球形、宝形屋根型、半球形、宝珠型の石が積まれるが、それぞれ、地・水・火・風・空といった古代インドで宇宙を構成する五大要素のことを象徴する、という。もっとも、五輪塔は本家インドにも、経由地中国にも存在しないようであり、平安時代後半に供養塔として日本で造立がはじまったようである。



粟島社・石鉄大神宮
鐘楼を支える大岩下に粟島社と石鉄太神宮の祠があった。石鉄とは石鎚神社のことだろうが、「太神宮」という名称はあまりみたことがない。また、粟島社とこの奥の院のかかわりも、よくわからない。少し寝たしておく。













根本御堂(ねもとみどう);10時53分
鐘楼の石段を下り、お堂にお参り。根本御堂(ねもとみどう)と称される。お堂の正面に「弘法大師捨身誓願遺跡」「釈迦如来出現之霊場」大書された表札が左右に懸る。お堂は通夜堂お堂は通夜堂にもなっており、毎月15日の法要には泊まる信者で賑わう、と。
このお堂は昭和の初め頃、点在していた小堂を統合して建てられたとWikipediaにある。ここが300年頃前に麓に寺が移されるまでは札所であった。


弘法大師建立大塔の跡
お堂の前に石碑が建ち、「弘法大師建立大塔の跡」とある。裏には上述、西行の『山家集』の詞書の一部、「師にあはせおはしましたる所の標に、塔を建ておはしましたりけり。塔の礎はかりなく大きなり。高野の大塔などばかりなりける塔の跡見ゆ。苔は深く埋みたれども、石大きにして、露に見ゆ。西行法師『山家集』より 仁安二年(1167年)禅定参拝」が刻まれる。
釈迦如来出現の標として、大師は大塔を建立したが、その建物は今はなく、礎石が苔むして埋もれている、と。


中務茂兵衛の名を刻んだ水盤
お堂の前に立つ水盤には正面に「奉納 中務茂兵衛」と刻まれていた。
〇中務茂兵衛
中務茂兵衛。本名:中司(なかつかさ)亀吉。弘化2年(1845)周防(すおう)国大島郡椋野村 (現山口県久賀町椋野)で生まれた中務茂兵衛は、22歳の時に四国霊場巡礼をはじめ、大正11年(1922)に78歳で亡くなるまで生涯巡礼の旅を続け、実に280回もの巡礼遍路行を行った。四国遍路はおおよそ1,400キロと言うから、高松と東京を往復するくらいの距離である。一周するのに2カ月から3カ月かかるだろうから、1年で5回の遍路行が平均であろうから、280回を5で割ると56年。人生のすべてを遍路行に捧げている。

奥の院から御行場へ

御行場入口;10時54分
奥の院山門傍の五岳山縦走ルートの我拝師山の案内にあった,大師捨身の捨身ケ嶽に向かう。アプローチを探すと、お堂の下に通路が抜けており、「御行場入口」の案内があった。
岩倉大師 
お堂の下を潜り堂裏に。お堂を裏に出たところに、岩倉大師という稚児大師が祀られる岩窟があったようだが見逃した。行場までは険路のためこの地にも稚児大師を安置した、と。禅定行場の篤信者からの寄進によるとのことである。


鎖場;10時55分
奥の岩場に偶然、
目治篭彫不動尊が写っていた
お堂の裏手に出ると眼前に岩場が広がる。岩場の入口には注連縄が張られ、いかにも修行の行場といった趣。スタートするとほどなく鎖場に。斜度はキツイが鎖を助けに岩場を進む。
目治篭彫不動尊(めなおしかごほりふどうそん)
当日は気づかなかったのだが、岩場南面の岩壁に目治篭彫不動尊(めなおしかごほりふどうそん)が彫られている、と。
明治の頃、重い目の病に冒された石工がこの捨身ケ嶽で行により病は回復、 石工はお大師さんへのお礼へと捨身ケ嶽の崖上から籠を吊るし、年月をかけてお不動さんを崖に彫り上げた、とのこと。メモの段階で写真を見ていると、偶然にも岩壁に彫られたお不動さまが鬱っていた。

捨身ケ嶽の御行場:11時
稚児大師
護摩壇
第一の鎖場を抜け、左手が切り立った崖の箇所(2,3mといったほんの僅かな距離)をへっぴり腰で山肌の小枝を握り、そこから岩場に這い上がる。岩場には鎖が整備されており、鎖を握ってやっと一安心。
岩場を上ると狭い平場に出る。北の崖面には稚児大師像。西に向かって護摩壇となっている。ここが幼き大師が身を投げたと伝わる「捨身ケ嶽の御行場」である。
「弘法大師旧跡 護摩壇」と刻まれた石碑の碕、崖際に小さな大師像が佇む。東は我拝師山頂に遮られ見通しはよくないが、南北と西の眺望は誠に、いい。高所恐怖症であり少々おっかなびっくりの岩場上りであったが、来てよかったと思う。
記事などを見ると、御行場をその厳しき岩場ゆえにパスしている方も多いようだが、わたしでもなんとか行けるので、大概の方は問題なく登れると思う。
捨身ケ嶽誓願の聖地
護摩壇のある平場のすぐ上に「捨身ケ嶽誓願の聖地」の石碑と共に幾多の石仏が並ぶ。何となく厳かな雰囲気を感じる。我拝師山頂はその先に見えるが、行場で十分とここで長めの休憩をとる。


出釈迦寺に戻る;12時
休憩を済ませ、再びおっかなびっくりで鎖を握りしめて岩場を下り、切り立った崖の箇所を右手を見ないように進み、鎖場を下り奥の院へ戻る。 後は来た道を下り出釈迦寺に戻る。時間は12時。往復おおよそ2時間の奥の院禅定散歩となった。

西行庵
出釈迦寺を離れ次の札所に向かう前、出釈迦寺の近くにある西行庵に立ち寄る。 出釈迦寺から遍路道を少し北に戻り、𠮷原大師堂対面に西に向かう道がある。その角にある「西行庵」の案内に従い道なりに西南に進む。途中、分岐に案内がなくちょっと戸惑ったが、なんとか西行庵に着く。おおよそ1キロ弱といったところだろうか。庵は竹藪の中に建つ。銅板葺きの庵は比較的新しい。再建されたもの。二間四方の広さであった。
庵の傍にあった案内には「平安時代を代表する歌人西行法師は、元永元年(1118)武士の家に生まれ俗名を佐藤義清(のりきよ)と名乗りました。
十八歳で京都御所を警護する「北面の武士」となり文武両道で活躍していましたが、二十三歳の時、突然出家して仏門に入り、僧「西行」となり諸国行脚の旅を重ねました。
仁安二年(1167)五十歳の頃、讃岐への旅に出、恩顧を受けた崇徳上皇の白峰御陵に参拝したあと、弘法大師の遺徳を偲んで善通寺を訪れ、大師が修行を積んだ我拝師山を仰ぐ当地に庵を結び(水茎の岡)、数年間(「西讃府志」では五年間)逗留しました。また、曼荼羅寺境内にも昼寝石や傘懸桜など西行に関わる伝承地が残されています。
曇りなき 山にて海の 月見れば 島ぞ氷の 絶え間なりける(山家集) 庵の跡は荒廃していましたが、地元有志が浄財を集め、西行法師800年忌にあたる平成元年(1989)、現在の「西行庵」を再建しました。 吉原地区連合自治会、吉原郷土研究か会、監修 善通寺市教育委員会」とあった。

歌に「島ぞ氷の 絶え間なりける」と詠まれる。氷と瀬戸の海は結びつき難い。どこか別の地で詠まれたものだろうか。チェックする。
『山家集』に「大師のおはしましける御あたりの山に庵結びて住みけるに、月いと明くて、海の方曇りなく見えければ
曇りなき山にて海の月見れば島ぞ氷の絶え間なりける」とある。
どうやらこの地で詠んだ歌のようだ。
庵の前面には天霧山が聳え、瀬戸の海は見えないが、どこか近くの山に上り詠んだのだろう、

この歌に続いて「山家集」は、次の歌を載せている。
「住みけるままに、庵いとあはれに覚えて
今よりはいとはじ命あればこそかかる住まひのあはれをも知れ」
厳しい庵の日々も、命あればこそ、と詠う。

更に、この歌に続けて
「庵の前に松の立てりけるを見て
ここをまたわれ住み憂きてうかれなば松はひとりにならんとすらん」とある。
この庵を去った後、松が取り残されてしまう、と詠っている。

西行の歌碑
庵の左手、なにかの台石の正面と側面に3首の歌が刻まれる。 「山さとにうき世いとわむ友もがな くやしくすぎし昔かたらむ」 「山里に秋の来にしと思ひしか 苦しかりける木枯の風」 「山里に人来る世とは思わねど とはるることのうとくなり行く」 とのことである。
石碑
庵の脇には「西行上人いほり跡」と刻まれた古い石碑も残っていた。

七十四番札所 甲山寺へ


西行庵へと寄り道したが、七十三番札所 出釈迦寺から七十四番札所 甲山寺への道ははっきりしない。手掛かりとしては海岸寺道を廻り曼陀羅寺へと進む遍路道、県道48号を南に折れ、曼陀羅寺へと向かう途中道端に立つ、茂兵衛道標(88度目)に「右 甲山寺」とあった。この道標まで戻り、甲山寺を目指すことにする。

西行庵分岐点の自然石道標
西行庵を離れ、少し西に進んだ後、北に丘を下る舗装された道を進み、曼陀羅道を曼陀羅寺へと歩いた途中にあった西行庵分岐点の自然石道標まで戻る。







茂兵衛道標(88度目)
西行庵分岐点の自然石道標を右に折れ、曼陀羅寺を目指し山門前の道を北に向かい茂兵衛道標(88度目)へと戻る。

県道48号沿いの茂兵衛道標(241度目)
県道48号へと北に進み、県道を右折ししばらく県道48号を東に進む。県道48号に県道217号が北から合流するT字路に茂兵衛道標(241度目)。この道標には「曼陀羅寺 出釈迦寺 弥谷寺」が刻まれ、特段甲山寺への遍路道を示すものではない。
甲山寺までおおよそ1キロ。甲山寺たる所以の標高87mの小高い独立丘陵である甲山も見える。現在では県道48号をそのまま東に進み甲山寺に向かうお遍路さんも多いようだが、甲山北麓の広田川傍に標石があるとのこと。その場所へと続く道を進むことにする。


弘田川沿いの標石
県道217号とのT字路を越えてすぐ、県道から左に入る道がある。左に折れると直ぐ「四国のみち」の石標があり、そこから東へ0.9キロの表示がある。甲山北麓へと真っすぐに東に続く道を進むと、弘田川へとあたる。その角に「甲山寺0.1km 出釈迦寺2.9km」と記された四国のみちの石標。この道筋が出釈迦っ寺からの遍路道であったようだ。
「四国のみち」の脇に「弥谷寺 へん路みち 弘化四年」と刻まれた標石があった。上述弘田川傍の標石がこれである。

七十四番札所 甲山寺

弘田川にそって少し上流に進むと、右手に甲山寺がある。甲山寺脇の水門から取水した用水路を斜めに覆うコンクリート蓋の先に「四国霊場 第七十四番」 「医王山多宝院 甲山寺」と刻まれた比較的新しい寺名碑が左右に並ぶ。
中門
境内へと進むと右に直角に曲がるように中門がある。なんとなく不自然なアプローチ。昔の境内図には弘田川から真っすぐにこの門へのアプローチがある。
この中門が昔の山門ではなかろうか。平成20年(2008)に、境内南の砕砂工場側、広い駐車場がある側に山門が建てられた、と言う。そのために現在では中門とされているのではないだろうか。




中門の2基の標石
中門(旧山門)前に2基の標石。右手は手印と共に「出釈迦寺 善通寺 大正四年」と刻まれる。手印からすれば、今回辿った甲山北麓裾を辿るルートが 遍路道のようだ。
門の左手には茂兵衛道標。「是ヨリ善通寺ㇸ十丁 明治廿一年」と刻まれる。茂兵衛100度目の四国巡礼のもの。







本堂
正面石段を上ると本堂。天正年間の兵火により伽藍焼失。『四国遍礼巡礼記(1689)』には「昔の大伽藍の所いえども荒涼せり」とあるが享保20年(1735)に再建された。本尊は薬師如来。弘仁12年(821)、空海が満濃池の築池別当の勅命を受けこの地に。工事完成を祈願し薬師如来を刻み仮堂に安置。工事が完成し朝廷よりくだされた銭二万をもって堂塔を建て、薬師如来を安置した、と。


香台
本堂前にある香台は「伊藤萬蔵寄進、周旋人中務茂兵衛 明治三十年」と刻まれる。札所観音寺では伊藤万蔵寄進の石灯篭に出会った。また、57番札所永福寺では同じく萬蔵寄進の香台を見た。
伊藤萬蔵
伊藤 萬蔵(いとう まんぞう、1833年(天保4年) -1927年(昭和2年)1月28日)は、尾張国出身の実業家、篤志家。丁稚奉公を経て、名古屋城下塩町四丁目において「平野屋」の屋号で開業。名古屋実業界において力をつけ、名古屋米商所設立に際して、発起人に名を連ねる。のち、各地の寺社に寄進を繰り返したことで知られる。

大師堂・毘沙門洞窟
本堂の左、一段高いところに鐘楼と大師堂。大師堂は寛保2年(1742)再建されたもの。
大師堂の左に毘沙門天を祀る洞窟がある。洞窟に入ると中央に石の毘沙門天が祀られる、と。

寺伝に拠れば、空海が善通寺と曼陀羅寺の間に霊地を探していると、この岩窟から老婆が現れ、この地に堂塔を建てよと告げたため、大師は毘沙門天を刻み洞窟に安置した。これがこのお寺のはじまりとのこと。 後年、この寺を甲山寺と名付けたのは、山容が毘沙門天の甲に似ていた故、という。





西国三十三所石造巡礼道
毘沙門洞窟の左に石碑があり、「従是 西国三十三所石造巡礼道」と刻まれる。江戸末期に開かれたという甲山を巡る巡礼道に上る。土径に並ぶ西国霊場の観音様にご挨拶しながら進むと表参道と裏参道と記された分岐。
とりあえず表参道を進むと独立丘陵頂上の平坦地に出る。頂上の草叢の中に菊の御紋とともに「神武天皇孝明天皇震儀」と刻まれた石が立っていた。
神武天皇孝明天皇震儀石
震儀の意味は不詳。漢語には「帝王の儀容」とある。儀礼にのっとったお姿といった意味だろうか。それがなにか分からないが、天皇の退位の折などに、祖先神である初代神武天王と高祖父、祖父などペアでその御陵に報告されるようだ。この石碑の建立時期は明治時代ともされるので、明治天皇の即位か退位の折に、祖先神の神武天皇と父の孝明天皇をお祀りしたのだろうか。単なる妄想。根拠なし。
朝比奈弥太郎
この甲山には天霧城の出城があり、香川氏の武将朝比奈弥太郎が居を構えた、と。元禄年間三好氏との元禄合戦において勇猛ぶりを発揮するが、武運つたなく虚しくなった。

山頂から巡礼道を戻り、途中から裏参道に入る。道なりに進むが麓に下りる直前の竹林で道が消える。里が見えるため成り行きで進むと運よく石段があり、里道に戻る。そこは甲山北麓を廻る道であり、甲山寺の境内から少し北に下りていた。


七十四番 甲山寺から七十五番札所 善通寺へ

甲山寺から善通寺に向かう。距離にして1キロほど。境内を離れ、弘田川に架かる橋に向かう。と、橋の少し北、用水路取水水門や取水施設のあるところに標石が立つ。

弘田川の用水路施設傍に標石
標石には「弘法大師御誕生所善通寺伽藍 東 高松・仏生山、瀧宮」「南 金毘羅・善通寺道」「北 丸亀 多度津 金倉寺 塩屋御坊」と刻まれる。その位置は前述中門の真東。昔の境内図には弘田川から真っすぐに山門(現在の中門)に進む参道が描かれる。現在は塀で閉ざされ、山門も南の駐車場に移っているが、ここがかつての三門へのアプロ―チだろう。
駐車場の石柱
また昔の記事には、山門へは瑠璃光橋という石橋を渡ったという。その石橋だが、善通寺第十一師団の火薬庫があったという現在の駐車場に、唐突な感じで3基の石柱が並べられていた。確かめたわけではないのだが、いかにもかつての石橋らしき「雰囲気」を醸し出していた。





T字路の標石
橋を渡り先に進むとT字路にあたる。その角に標石。手印と共に「へんろ」の文字が刻まれる。手印に従い右に折れ弘田川に注ぐ支流を渡り、道なりに左折。更に道なりに右折し「国立病院機構こどもとおとなの医療センター」前の通りに出る。



国立病院機構こどもとおとなの医療センター
かつての遍路道はここから南へと善通寺に向かったのだろうが、この地の南には明治(1897)に善通寺第十一師団の衛戍病院が建ち、現在も国立南病院機構こどもとおとなの医療センターの敷地となり通り抜けはできない。医療センターの敷地の北に沿う道を進み、敷地が切れる東北端角から南へ進む道へと迂回する。
国立病院機構こどもとおとなの医療センター
「こともとおとなの」って、あたりまえのことをわざわざ明記したようで、なんだか面白い。陸軍の衛戍病院が戦後国立善通寺病院と国立療養所小児病院と分かれたものが、平成25年(2013)に両病院が統合されるに際し、「合わせ技」の命名としたのだろうか。

仙遊寺
医療センターの少し東に仙遊寺がある。野木将軍ゆかりのお堂ともあるので、ちょっと立ち寄り。医療センター北端の道を進み、敷地に沿って南に曲がることなくそのまま東に少し入ると最近建て替えられたような新しいお堂が建つ。平成26年(2014)のGoogle Street Viewにはお堂がない。それ以降に建てられたということだろう。
境内入り口には「弘法大師幼児霊場 仙遊寺」とある。お堂の傍にあった案内は昭和の半ばころに書かれたもののようで、今風にまとめてみる。
仙遊寺縁起
「仙遊寺縁起 この寺は大師幼少の頃の霊場であり、幼くして崇仏の念のつよかった大師は、5,6歳の頃から泥土で仏像、御堂をつくり礼拝したと伝わる。
ある日、屏風ヶ浦の辺りを巡視した問民苦使(もんみんくんし、地方監察官)が、遊ぶ大師の姿を見て、跪づく。随員がその訳を尋ねると、「この子は凡人にあらず、四天王が白蓋(びゃっかい)を捧げてこれを護れと聞き伝える」と言った。
里人は大師を神童と称えて、後世にこの礼拝した土地を仙遊ヶ原として、此処に本尊・地蔵菩薩を安置して旧跡としたとされている。なお、この本尊は「夜泣地蔵」と申し、各所より沢山の人が礼拝に訪れる」とある。弘法大師幼児霊場の所以である。白蓋とは白い絹で張った天蓋のこと。
乃木将軍
案内には続けて、「また、かつて日本軍の第十一師団の練兵場を造るに際し、仙遊ヶ原の旧跡も他に移転したが、当時の師団長・乃木将軍は霊夢によって直ちに元の位置に戻すべしと、練兵場の中央に仙遊ヶ原の霊跡を保存し、現在に至る。
世界広しといえど、練兵場内に仏堂があったことは耳にしないとは。なお、昭和26年7月7日を以って寺名を旧跡に因んで仙遊寺と呼称することになった」とあった。
お堂の左手には「仙遊原古跡」の石碑と、その横に「第十一師団官下日露戦争戦病没者奉安殿」と書かれた小さなお堂が建っていた。

旧練兵場跡遺跡
練兵場でチェックしていると、頻繁に「旧練兵場跡遺跡」が登場する。西は上述医療センターから東は「国立研究開発法人農業・食品産業技術開発研究機構 西日本農業研究センター 四国研究センタ‐までの東西1キロ、南は四国学院大学辺りまでの0.5キロのおよそ45万平方キロという広大な地域に広がる縄文時代から中世にかけて、特に弥生時代前期から古墳時代にかけて栄えた大集落跡。大集落跡を示す数多くの建物遺構(竪穴式住居跡、掘立柱建物跡など)と共に、周辺地域との交流を示す物品・土器、鍛冶炉のある竪穴式住居といった鉄製品の加工をおこなった遺跡などが見つかっている、とのこと。
有岡古墳群
この善通寺地区、旧練兵場跡遺跡に限らず五岳山の南麓、弘田川が山間に流れ出る有岡地区には3世紀末から7世紀にかけての有岡古墳群があり、中でも野田古墳は全長44.5m.後円部径21mの前方後円墳。前方後円墳といえば大和朝廷、ということで、中央との深い関係が示される。
出釈迦寺の奥の院禅定でのハイキングコースの案内に、「有岡はこちらに下る」といった案内があり、有岡って何か見どころでもあるにだろか、などと思っていたのだが、古墳の里であったわけだ。

犬塚
医療センター北東角に戻り、ほんの少し進むと、東に入る細い道があり、その入り口に総本山善通寺の案内とともに「犬塚」右の矢印があった。 入り口には犬塚の案内があり、「この犬塚は、角礫凝灰岩製の笠塔婆で高さ2.5メートル、四方には風化しているが大日如来を示す梵字の"バンが刻まれている。作者は不明で鎌倉時代の作と推定される。
空海が唐から持ち帰った薬草(麦の種子)にまつわる義犬伝説があり、昭和六十二年七月二十一日、善通寺市の史跡として指定され、古くからの信仰を今に伝えている。善通寺市教育委員会」とある。

細路を奥に進むと屋根を葺いた小屋の中、玉垣に囲まれた笠塔婆が建っていた。 案内にあたように塔身に金剛界大日如来を示す「種子(しゅうじ、しゅじ)」が刻まれている。
種子は仏教において、仏尊を象徴する一音節の呪文(真言)。大日如来を示す種子(日本では種子梵字でもって表すことが普通のよう)の音読みが「バン(vam)]ということのようだ。
笠塔婆
種子が刻まれた笠塔婆は台の上に角柱の塔身を置き、その上に笠を乗せ、笠の上に宝珠・相輪を立たせる。板碑の先駆けとなる石塔と言われ、平安後期にはじまり、鎌倉後期に広まった。当初供養塔として建てられた笠塔婆も、時代とともにその目的も変わり、五穀豊穣などの民間信仰の対象となっていったようである。
義犬伝説
で、この笠塔婆にまつわる義犬伝説って? 「讃岐の伝説(草薙金四郎)」を参考に概略をまとめると;「空海が唐に留学していた時のこと。空海はある薬草を求めて天竺まで 行く。その薬草は厳しく管理され、薬草の畑には番人や番犬がいた。
空海は3粒の種を採取するも隠すところがない。仕方なく自分の股の肉を裂いてその中に隠すが、一匹の番犬が吠え立てる。番人は空海の体を調べるが、何も見つからない。怒った番人はその犬をたたき殺してしまった。
空海はその死骸を もらい受け、長安まで持ち帰り、真言密教の秘法をもってその犬を生き返らせた。犬は空海を慕い、仏教経典、薬草の種と共に帰朝する空海の供をし、その後も常に空海のそばを離れることなく、死んだあとはここに祀られた」。
どこが義犬かちょっとわかりにくいが、それよりなにより薬草の「種子」という言葉にフックがかかる。笠塔婆の「種子」と薬草の「種子」。このアナロジーにより「種子」にかかわるお話ができたのだろうか。何の根拠もないが、そうであれば誠に面白い。
ちなみに持ち帰った薬草は麦とある。ビタミン不足からくる脚気やくる病に効果があった「薬草」だったのだろう。その麦が讃岐名物のうどんのルーツでもある、とするのはあまりに空海贔屓となるのだろうか。

七十五番札所 善通寺の廿日橋
犬塚を出て道を南にくだり、右に本坊境内、左に善通寺伽藍を分ける廿日橋に到着。
本日は距離が短いわりに、あれこれ気になることも多くメモが長くなった。本日はここで打ち止め。札所善通寺のあれこれは次回のメモに回す。


弥谷寺から曼陀羅寺への旧遍路道は二つある。一つは先回歩いた海岸寺経由の道。一旦曼荼羅寺と真逆の方向、瀬戸の海に面した空海生誕の地に建つ海岸寺にお参りし、そこから曼荼羅寺へと打ち戻す道である。 今回はもうひとつの遍路道、曼陀羅道を辿り曼陀羅寺へと向かう。ルートは、弥谷寺仁王門前の石段右手に立つ茂兵衛道標から右に折れ、おおよそ3キロ強、弥谷山西麓の曼荼羅道を歩くことになる

本日のルート;
曼荼羅道経由の曼荼羅寺への遍路道
弥谷寺仁王門前石段上の茂兵衛道標(100度目)>四国霊場四番札所大日寺の本尊石仏>>自然石の標石>四国霊場六番札所安楽寺の本尊石仏>十一面観音石像>六丁標石>蛇岩池>曼陀羅道の案内>法然上人蛇身石の標石>蛇岩>高松道手前に標石>石造地蔵菩薩立像>大池土手に2基の標石>大池土手上に石仏、「法然上人蛇身石」の案内と標石>茂兵衛道標(157度目)と地蔵尊坐像>旧国道11号に石仏群>七仏寺>茂兵衛道標(137度目)>西行庵分岐点の標石>茂兵衛道標(158度目)>茂兵衛道標(133度目)>茂兵衛道標(151度目)>第七十二番札所曼荼羅寺
弥谷山西麓・海岸寺経由の遍路道
県道221号の標石>津島神社>大見村道路元標>郡界石


曼荼羅道経由の曼荼羅寺への遍路道

弥谷寺仁王門前石段上の茂兵衛道標(100度目)
曼陀羅道は仁王前の石段を上がったところに立つ茂兵衛道標が始点。弥谷寺仁王門とは逆の右に折れる。
この茂兵衛道標は明治21年(1888)、茂兵衛100度目の四国遍路巡時のもの。「左本堂」、手印と共に「善通寺 金毘羅みち」と刻まれる。
通常金毘羅道は国道377号筋を伊予見峠を超えて進む道筋だろうが、この場合は高松道が通る近く、国道11号の鳥坂(とっさか)峠を超えて善通寺から金毘羅さんへと向かう道筋を案内しているように思う。
徳右衛門道標
石段から弥谷寺の仁王門への石段山側に徳右衛門道標が立ち、そこには「従是曼陀羅寺迄廿五丁」と刻まれる。一丁はおおよそ109mであるから、おおよそ3キロ程の距離となる。
この徳右衛門には徳右衛門道標によく見る、梵語も大師像もなく、背丈も常より少し高く、また、「与里これ満たらじ」と振り仮名がふられている、とのことである。

四国霊場四番札所大日寺の本尊石仏
歩き始めるとすぐ、道の左手に石仏が立つ。台座に「第四番 大日寺」とある。仏は胸の前で左手をこぶしに握り立てた人差し指を右手で包む智拳印の印相。本尊である金剛界の大日如来の像。左手は衆生、包む右手は仏を意味する。




自然石の標石
茂兵衛道標から土径を少し進み、山に向かって草の茂る中へと右に折れる辺り、道の右手に凝灰岩の自然石に刻まれた手印だけの標石がある。上部が欠け、摩耗が激しい。

2基の石仏
道の右手に2基の石仏。台座に乗った大師坐像(?)ともう一基。形式は先に見た大日寺の石仏と同じであるが、台座も壊れ寺名は読めない。




四国霊場六番札所安楽寺の本尊石仏
先に進むと「第六番 安楽寺」と台座に刻まれた石仏とその上手にも石仏が佇む。上手の石仏の寺名は読めない。
「第六番 安楽寺」と刻まれた石仏は、右手は立てた手のひらを前に向けた施無畏印、左手は手のひらを上に向け膝上に乗せた与願印を結ぶ。与願印は手のひらを前に向け下に垂らすのが如来の印相ではあるが、上に向けているのは薬壷(やっこ)を持つ薬師如来の印相。安楽寺の本尊である。
施無畏印は衆生の畏れを解きほぐし、与願印は衆生の願いを聞き届けるサインとのことである。
安楽寺石仏の横に「弥谷寺800m 曼陀羅寺 出釈迦寺3.4km」の標識が立つ。 因みに、四番と六番があったわけであり、とすれば先ほど道の右手に見た石仏は札所五番地蔵寺であろうし、石仏は本尊延命地蔵菩薩かもしれない。

十一面観音石像
道は竹林の中に入る。道の左手に石仏。台座はなく、寺名は不明だが十一面観音のように思える。石仏はここで終わる。
道は三豊市三野原大見と善通寺市碑殿町にの境を進んでるようである。







六丁標石
先に進み両側を竹林で囲まれた下り坂の左手に、倒れかけた標石があり「六丁目」と刻まれる。距離から考えれば弥谷寺からの丁数のように思える。この辺りは善通寺市碑殿町に入っているようだ。


蛇岩池
ほどなく道は開ける。左手に二つの池を見乍ら歩くと二つ目の池(蛇岩池)の畔で山道は終わり簡易舗装の道に出る。曼陀羅道スタート地点から大よそ20分程度であった。合流点には「弥谷寺」の標識が立つ。

曼陀羅道の案内
合流点を右に折れ簡易舗装の道を少し進むと「曼陀羅道」の案内があった。案内には地図と共に「四国遍路道 曼陀羅道 四国八十八ヶ所霊場を巡る遍路道は、徳島県・高知県・愛媛県・香川県の4県にまたがり弘法大師ゆかりの霊場をつなぐ、全長1400キロメートルにおよぶ壮大な巡礼道です。古来より人々の往来や文化交流の舞台となっている遍路道には数多くの石造物等の文化財や「お接待」の文化が残されています。
曼陀羅道は71番弥谷寺と72番曼陀羅寺をつなぐ遍路道で、道中には『四国遍礼名所図会』(寛政12年(1800))の文献資料にも記された地蔵菩薩立像などの石造物や水茎の岡の西行庵、七仏大師堂なとの堂宇を見ることができ、近世以降ほとんどかわらずに遍路道の道程が残っていることが解かります。
特に、三豊市三野町の弥谷寺山門前から善通寺碑殿町の蛇谷池堤までの約0.9kmの区間は山間部を通る未舗装の道が残り、遍路が往来した昔ながらの古道の景観を留めています。
現在も昔とかわらない巡礼の風景を垣間見ることのできるこの区間は、江戸時代以降広く民間に普及した四国遍路の文化を物語る巡礼の道として歴史的価値が認められ、平成26年、国指定史跡『讃岐遍路道』に追加指定されました。善通寺教育委員会」とあった。
案内には写真も掲示され、先ほど出合った「6丁目」の標石は弥谷寺までの距離とあった。また、地蔵菩薩立像はこの先で出合うことになる。
「国指定史跡『讃岐遍路道』に追加された」とあるのでこの他にもあるようだ。チェックすると、いつだったか歩いた第81番札所白峯寺から第82番札所根香寺間にある根香寺道も国指定史跡『讃岐遍路道』となっていた。

法然上人蛇身石の標石
更に少し道を進むと車道に合流する。その合流点に標石が立ち、手印と共に「法然上人蛇身石 是ヨリ一丁 大正二年六月吉日」と刻まれる。
手印は今来た道を戻る方向を示す。遍路道が蛇岩池畔で簡易舗装道に合流する箇所まで戻り、そこを左へと池に沿って進む。池の北にある一軒の民家を見遣り少し坂を上り道が左に曲がる辺り、道の右手に口を開けたような大岩が木の間に見える。

蛇岩
案内も何もないのだが、ぽっかりとあいた口の辺りに石碑らしきものが見える。道を離れ大岩に寄ると「法然上人」の文字とともに上人立像が刻まれていた。
 ●「蛇石(じゃいし)」(法然上人蛇身石)
蛇石について、「仲多度郡史」には、「西碑殿(私注;地名)の山腹蛇谷池にあり。建永の昔法然上人當國に流されて本郡に謫居の折、 地方の靈跡を巡禮し、此の池邊に來りし時、弟子淨賀に向ひ、汝の父は蛇となりて 此の岩中に苦しめり、其の泣聲汝の耳に入らすやと云はれしも、淨賀少しも聞へ されは、疑惑の間に石工を雇ひ、其石を割らせたるに、一尾の小蛇這ひ出しと 云ふ。淨賀は信州、角割親政の二男なり。親政甞て郷里觀音寺の寺領、一町八反 歩の土地の證文を盗み取り、己か所有となしたり。其後故ありて當地に來り、 出釋迦寺に居住せしか遂に死歿す。而して生前に犯せし罪に依り、此の山裾に 蛇となりて苦しみを受けしと云ふ。是により蛇石の稱あり。地名、池名なとにも 殘りて、其の石今尚存せりと云ふ」と記される。

高松道手前に標石
蛇身石から法然上人蛇身石の標石まで戻り、道なりに下ると前方に高松道が走る。
道が高松道のアンダーパスを潜る手前の道角に標石が立つ。手印と共に「へんろみち 大正十二年六月吉日」と刻まれる。

高速道の高架下を潜り高速道に沿って東側の道を進む。道の右手には上池が見える。このあたりの地名は「碑殿」。地名の由来は「相傳フ昔行基彌谷寺ヲ開キシ時道標ノ碑ヲ立因テ名ヲ得タリト云」とある。
現在は善通寺市??原地区の碑殿町となっているが、旧名は多度郡吉原郷碑殿村。碑殿村は東碑殿と西碑殿よりなるが、両地区は天霧山を隔てて飛び地となっている。

石造地蔵菩薩立像
道が上池と大池の間を進むようになる手前、道の左手に巨大な石造りの地蔵菩薩立像が立つ。4mほどもあるようだ。地蔵菩薩は民家の建物の庭に立つ。
Wikipediaに拠れば,鳥坂の大地蔵と称され、弥谷寺へ奉納しようと運ばれる途中、あまりの重さ故に寺への奉納に替えてこの地に建てられた、と。

大池土手に2基の標石
道の右手、大池土手の草叢に2基の標石がある。傾いた標石には「左いや** 右**」と刻まれ、もうひとつには手印と共に「是ヨリ七拾一番へ十三**」と刻まれる、と。

大池土手上に石仏、「法然上人蛇身石」の案内と標石
大池の土手に「法界萬霊」と刻まれた石仏が立つ。その先、池の畔に標石が立ち、ふたつの手印が順路・逆路の遍路道を指す。
その傍に先ほど訪れた「蛇石(法然上人蛇身石)」の案内がある。地図による場所の案内と共に上述「仲多度郡史」に書かれた案内をわかりやすい言葉で説明する;「健永2年(1207年)法然の弟子が後鳥羽上皇の怒りを買い、師匠の法然は土佐へ流されることになった。その途次讃岐に留まり布教活動中、一年も経ないうちに放免となり、摂津まで帰った。その間中讃地区を中心に法然上人の足跡が多く残る。
その折、地方を巡礼し当地に来たとき、法然上人は弟子の浄賀に「汝の父は蛇となってこの岩の中で苦しんでいる。その泣き声が汝には聞こえないのか」と言われたが、浄賀には少しも聞こえず、疑惑ながらも石工を雇ってこの岩を割ると、一匹の小蛇が這い出たという。
浄賀は信州の角割親政の二男であり、親政はかつて郷里の観音寺の寺領一町八反歩の土地の証文を盗んで自分のものとした。その後当地に来て出釈迦寺に居住したが、そこで死没した。
しかし、生前の罪によって、この山裾に蛇となって苦しみを受けていたという(大正七年「仲多度郡史)などによる)。
昭和16年、片山家の世話で岩の中に法然上人の歌碑が建立されました。
さむくとも 袂に いれよ 西の風 弥陀の国より 吹くと思えば
(この歌は法然の弟子の親鸞の作との説もあります)。
法然の史跡は中讃に多くありますが、この近くでは善通寺五重塔の南側の法然上人逆修塔、まんのう町宮田の法然堂があり、それぞれ前述の歌が刻まれています」とあった。

茂兵衛道標(157度目)と地蔵尊坐像
大池を過ぎ国道11号へと向かう。道は東へ弧を描く道を分けるが、遍路道は道を横切り細路へ入る。細路入口角に茂兵衛道標と地蔵尊坐像。茂兵衛道標は手印と共に「右弥谷寺 明治三十年八月」と刻まれる。茂兵衛157度目の四国遍路巡礼の折に立てたもの。
また、屋根付きの地蔵尊座像の台座も標石となっており、「三界萬霊」の文字と共に「左へんろみち」と刻まれる。手印も見て取れる。

旧国道11号に石仏群
標石に従い細路へと入ると国道11号に沿って弧を描く道筋に出る。旧国道11号筋かと思う。その道筋、細路から出た所を少し西に戻ったあたりにいくつかの石像が並ぶ。石像を見遣り、道を東へと取って返し国道11号に出る。
大池の畔に茂兵衛道標(88度目)
国道11号に合流する手前、民家の軒先を大池へと下ると池の畔に茂兵衛道標が立つ。手印と共に「弥谷寺」と刻まれるが、手印は弥谷寺とは真逆の方角を示す。国道整備の折に、どこからか移されたものだろう。「明治十一年 八拾八遍目為供養」と刻まれる。
鳥坂峠
この地から少し国道を西に戻ると鳥坂峠がある。上述、弥谷寺仁王門石段前の茂兵衛道標でメモした、金毘羅さんへ向かう峠道のひとつではあろう。
の昔は鳥となって飛ばなければ越えられないような険しい峠であったのだろうが、現在は国道整備にともない山が大きく切り開かれ、難所の名残を留めることはない。

七仏寺
国道11号を少し進むと左に入る道が分岐する。旧国道筋だろう。その道を進むと、道の左手にふたつの石碑があり、大池へと下る坂の左手に屋根付きの石造地蔵坐像、右手には標石がある。坂道の下、大池の畔に古さびた堂宇がひとつ建つ。伝承によれば、空海が五穀豊穣と疫病からの救済を祈り七体の薬師如来を刻んたことに始まると言われ、往昔七堂伽藍を誇ったと伝わる番外霊場医王山七仏寺である。西行法師も訪れたと伝わるこの大師遺跡も、昔を偲ばせるものは石碑の他に何も残らない。
お堂に乳薬師と書かれた額が見える。江戸の頃、池の堤の改修時に工事の無事を祈り工事責任者である庄屋の乳母を人柱にしたという秘話に因み、ここで祈ると乳の出がよくなるとの伝えから、とのこと。乳母の人柱と乳の出がよくなる、との関係は如何なるロジックなのかよくわからない。
西行法師歌碑
お堂への入り口にある2基の石碑のひとつが西行法師の歌碑と言う。道に向かった面には「月見よといもの子」とか「おこしに」「何か」といった文字と下端に「西行上人」の文字が見える。
全文が如何なるものか、あれこれチェックすると、江戸時代の狂歌集である「『古今夷曲集』巻第三「秋歌」 に「名月の夜畑なる芋ぬすめるをとらへけれはぬす人のよめる  月見よといもか子とものねいりたを起しにきたは何かくるしき」という歌がある。
芋盗人を捉えたときの言い訳として、「あなたの子どもが美しい月 も見ず眠り込んでいるので起こしに来たのです 、とは少々苦しい言い訳めいて感じる」と言った意味だろうか。歌の意味はそれとしてこの歌が西行の詠んだものとのエビデンスがない。もう少々チェックすると、この芋盗び譚の流れに関連し西行が登場する。
『詩学大成抄』 に;西行法師ノ八月十五日夜明月ニ芋ヲハタケエヌスミニイカレタレハ芋マフリガミツケテトラエテシバツタソユルセト云テ歌ヲヨウタレハユルイタゾ歌ニ  月ミヨトイモガフシドノソヽリコヲヲコシニキタハ何カクルシキ
トヨウタソヲカシイ事ナレトモ名誉ノ歌ナリ」とある。
ここでは「芋盗み」が「妹盗み」の色合いも帯びているようである。

それはともあれ、歌碑に刻まれる歌が西行の作かどうかはっきりしなくなってきた。更にチェックすると、小林幸夫さん(東海学園大学)の「十五夜の歌(餅と芋の昔話)」の中の「芋盗み」の昔話の項目があり、香川県には「西行芋盗み説話」がいくつか伝わり、その中の善通寺の七仏寺の昔話として「西行芋盗み説話」があった;
「西行はこの地までやってきたのだが、八月十五日に月があまりに美しいので、 芋畠へ出て月を眺めていた。ところが付近の百姓がこれはてっきり芋盗人にちがいないと思って、我が芋畠で何をするぞととがめると、西行は今夜は芋名月の晩だから芋をひとつくだされといった。
すると百姓は歌をひとつ詠んでくだされば差し上げようという。西行は
月見よと芋の子どもの寝入りしを起しにきたか何かくるしき
という歌を詠んだ。何かわけのわからぬ歌だが、百姓は喜んで、西行に芋を与えたという。この歌が七仏寺の前に刻まれて建っているのである。
語り手が 「何かわけのわからぬ歌だが」、と言うように意味さえ判然とつかめていない西行が「歌の手柄」によって許される歌徳説話であるが(中略)話者の関心はこの話の事実性にあるようだ。「この歌が七仏寺の前に刻まれて建っているのである」という語りに、それはあらわれている。その意味では、この昔話は、伝説に近づいているのだ」とあった。

以下は妄想;どうもこの歌が西行の詠んだものかどうかは、どうでもいいように思えてきた。事実前述『古今夷曲集』以外にも、ほぼ同じ歌が「新撰狂歌集」に「(前略)捕らえて縛めければ 盗人 月見よと芋が子ともの寝入りたを起こしにきたは何かくるしき」とある。要は中秋の名月に芋を供える習慣があり、芋盗みより中秋の名月を連想させる狂歌が歌われており、その中のひとつが少々のバリエーションを加えられ、西行の詠んだ歌、それも歌の力を示す昔話となって芋盗みのコンテキストで使われたのだろう。西行も芋盗みの歌を読んではいるが、それが使われなかったのは芋盗み>妹盗みを連想させる歌故であったのだろうか。
尚、歌碑の裏面には「此方 へんろ こんぴら 道」と刻まれ、標石も兼ねる。
古験松の碑
西行の歌碑横の石に大きく刻まれる文字は「古*枩」と読める。このお堂には大師お手植えの「古験松」の碑があるとのこと、枩は「まつ」のことのようであるから、「古験枩」と刻まれているのだろう。
石碑
坂の入口、右手にある石碑には「弘法大師御作 七佛薬師如来 安政八」といった文字が刻まれる。七仏寺の由来ともなった弘法大師が刻んた薬師如来の案内である。




茂兵衛道標(137度目)
七仏寺を離れた旧国道はすぐに国道11号に合流。遍路道はそのまま交差点を直進し県道48号善通寺詫間線を進む。遍路道は少し東に進み三井之江東交差点の手前で右に分岐し民家の間の細路に入る。その入り口角に茂兵衛道標が立つ。順打ち・逆打ち両方向を示すふたつの手印と共に、「右多度津 丸かめ 明治廿二年」と言った文字が刻まれる。茂兵衛137度目の巡礼時に立てた道標である。

西行庵分岐点の標石
道なりに進み、道の右手に「西行庵」と書かれた石灯篭の脇に自然石の標石があり、「左 水くき道 三丁** 安永三**」と刻まれる、と言う。 「水くきの道」とは西行法師寓居の「水茎〈くき)の岡」への道を示したもの。右手にカーブして上る道を進むことになる。遍路道は道なりに更に進む。


茂兵衛道標(158度目)
ほどなく遍路道は花籠池に当たる。その西北端の道脇に茂兵衛道標が立つ。手印と共に「弥谷寺 出釈迦寺 明治三十年」などと刻まれる。茂平158度目の巡礼時に立てたもの。出釈迦寺は第七十三番札所である。





茂兵衛道標(133度目)
遍路道は花籠池とその東の溜池の間を進む。花籠池の土手に茂兵衛道標があったとのことだが、訪問時(2019年3月)には土手の護岸工事のため道標は撤去され、ブルーシートに包まれて道端に置かれていた。

茂兵衛道標(151度目)
更に道なりに進むと五差路に出る。遍路道が五差路に出る正面に茂兵衛道標が立つ。手印と共に「弥*寺 出釈迦寺 明治廿九年」と刻まれる。茂兵衛151度目の巡礼時に建てたもの。ここは曼荼羅寺と出釈迦寺への分岐点。道を左に折れれるとすぐ曼荼羅寺、南に進むと出釈迦寺となる。


第七十二番札所曼荼羅寺
茂兵衛道標の左に曼荼羅寺。道標を左に折れてすぐ、境内に接してうどん屋があるが、歩き遍路にはお接待で無料とのこと。お寺さまへはうどん屋横から境内へと石段を下りることもできるが、オーソドックスなアプローチとして山門からと境内に沿った緩やかな坂を東に下る。
山門へと右折する箇所に石碑があり「成田山不動明王祈念所 是より東」と刻まれる。成田山不動明王祈念所がどこを指すのか不明。
仁王門
この石碑を左折しすると仁王門が建つ。金剛力士が左右に並ぶ仁王門に「我拝師山曼荼羅寺」とある。仁王門の前、「笠松大師(不老松)」の木標の立つ左手に寺柱石、「四国七十二番 本尊大日如来霊場」と刻まれるが、裏には「左甲山寺 十丁余 明治二十四年」と刻まれた標石となっている。茂兵衛117度目巡礼時に立てたものである。

本堂
境内に入り池に架かる橋を渡ると正面に本堂。本堂には「弘法大師御母玉依御前菩提所」とある。寺伝によれば、この寺は弘法大師の先祖である多度郡の郡司であった佐伯氏の氏寺として推古四年(596)に創建され、世坂寺と称したことにはじまる、その後唐より帰朝の大師が金剛界・胎蔵界の両界曼荼羅を安置、その根本仏たる大日如来を本尊とし、世の安寧と母玉依の菩提を祈念し堂宇を建立。我拝師山曼荼羅寺と改めた、と。
鎌倉時代には、後堀河天皇から寺領を給わるほど栄えたが、永禄3年(1560年)阿波の三好実休による天霧城攻めの兵火で焼亡、さらに、慶長年間(1596~1615年)に戦火を受けた、とのこと。
天霧城は千回の海岸寺道経由曼荼羅寺の遍路歩きの途中に立ち寄った。
大師堂
本堂右手に観音堂、左手に八幡宮、境内の南側に大師堂があり、天気がよければお堂の背後に我拝師山(標高481m)の山頂近くにあるかつての曼荼羅寺奥の院、現在の出釈迦寺奥の院禅定・行場が見える、とのことである。
西行の歌碑
本堂左手に2基の石碑が立つ。大きいほうには「西行法師笠掛松 昼寝石」と刻まれ、小さいほうは「笠掛桜」とあり、文字と共に西行の歌が刻まれる、と。
昼寝石は石碑前の平たい石のことだろう。寺近くの水茎の岡に庵を結んだ西行が時にこの寺を訪れ、昼寝を楽しんだとのことと言う。
また笠松桜と刻まれた小さい石碑には、表面に多くの文字が刻まれている。何が刻まれているのかチェックすると、詞書とともに西行の詠んだ二種の歌が刻まれる、と:
「四国のかたへぐしてまかりける同行の都へかへりけるに 西行上人
帰りゆく人のこゝろをおもふにも はなれがたきはみやこなりけり
かの同行の人かたみとて此桜に笠をかけ置けるを見て
    笠はありその身はいかになりぬらん あはれはかなきあめがしたかな 」
共に(具して)四国へと歩いた西住法師が都に戻る際に詠んだ歌とのこと。「帰りゆく」の歌は「都に帰る君の心を想像してみると、切るに切れないのは同行の私との仏縁ではなくて、やはり都との血縁の方だったね(和歌文学大系21から抜粋)」の意。
笠松(不老松)
本堂左手、客殿や庫裡がある前に「笠松大師」の祠が建ち、その後ろに不老松と刻まれた石碑と「笠松(不老松)」の案内がある。「当寺の名物だった「不老の松」は平成13年から14年にかけて松くい虫のために枯死しました。この円形の場所が元あったところです」とあり、枯死前の如何にも笠の形をした大きな松の写真があった。弘法大師が寺号を我拝師山曼荼羅寺と改めた時のお手植えの松ではあったよう。
境内の標石
茂兵衛道標(180度目)
橋を渡った右手に茂兵衛道標。手印と共に「出釈迦寺 甲山寺 明治丗二年」といった文字が刻まれる。茂兵衛180度目の四国遍路巡礼時の道標である。








その反対側、鐘楼前に5基の標石が並ぶ。
仁王門側手前から
「出釈迦じに十三丁 かぶやまじに十三丁」
境内整備に際し、本堂手前右手にあったものを移したようだ。「かぶやまじ」は四国第七十四番札所甲山寺のこと。
その横に並ぶ4基の標石には
「(梵字)南大師遍照金剛 右遍ろみち願主真念」
真念道標とのこと。
「左 万たら寺 いやたに寺 道」
「いやたに 右こんひら道 左 扁ろ道
「へんろミち 南無阿弥陀仏」
などと刻まれるとのこと。境内整備前には記録にないようであり、これもどこからか移されたもののようである。

以上で弥谷寺から曼荼羅道経由の曼荼羅寺までのメモは終わり。


弥谷山西麓・海岸寺経由の遍路道

これで弥谷寺から曼荼羅寺までの遍路道として、海岸寺道と曼荼羅道をメモしたが、メーンではないものの、もうひとつ弥谷山の西麓を進み海上の小島に鎮座する津島ノ宮にお参りし、海岸寺を経て曼荼羅寺へ向かう道もあったようだ。 概要だけをメモしておく。
ルート始点は弥谷寺の山門辺りから西麓へと進む道があったようだ。山門辺りを彷徨い遍路道らしき道を探したのだが、結局見つからなかった。
県道221号の標石
山麓の道はトレースできなかったが、県道221号に標石があった。県道の東にある峠池の北、その池の先、山麓から県道221号に合流する地点に標石が立つ。 「右 もとやま寺二り半 くわんおん寺三り 左いやたに寺十三丁 せんつうじ一り 半 明治丗九年」などと刻まれるようだ。




津島神社
県道を海辺まで進むと海上250mの沖の小島に鎮座する津島神社がある。平時は島を蒸結ぶ橋は橋板が外され渡ることはできないようだ。社は子どもの守り神として信仰を集め、8月の大祭の日には津島ノ宮駅が臨時開業するとのこと。そういった折に橋板が敷かれるのだろうか。
大見村道路元標
津島ノ宮駅には「大見村道路元標」が立つ。Wkikipediaには、道路元標とは「道路の起終点を示す標識である。 日本の道路元標が国によって定められたのは、里程調査のための明治時代初期のものと、大正時代の旧・道路法施工令公布の時のものと、二つの時期にわたって道路に設置されたものがある。正確には、大正時代に設けられたものが「道路元標」とよばれるもので、明治時代に設けられたものは里程元標(りていげんぴょう)といい、大正期の道路元標の前身となるものである。
これ以外に現在、一般国道などの起終点などで見ることが出来る道路元標は、昭和時代の太平洋戦争後に設置されたもので、その設置基準については法的な根拠はなく、道路の付属物の扱いで記念碑的なものとして建てられたものである」とある。大見村ができたのは明治23年(1890)とのことであるので、この元標は大正の頃のものだろうか。
郡界石
また、津島ノ宮から県道21号・さぬき浜街道に沿って走る予讃線と海岸線の間の道を少し東に進むと「郡界是ヨリ仲多度郡 郡界 是ヨリ三豊郡」と刻まれた境界石が立つ。
遍路道は県道21号を海岸に沿って進み海岸寺へと向かう。

これで弥谷寺から曼荼羅寺への遍路道のメモ終了。次回は七十二番札所・曼荼羅寺から七十三番札所・出釈迦寺を打ち、七十四番札所甲山寺、七十五番札所善通寺へと向かう。




弥谷寺を打ち終え次の札所七十二番 曼陀羅寺へと向かう。曼陀羅寺への旧遍路道は二つある。ひとつは弥谷寺から南西に直接曼荼羅寺を目指す道。もう一つは一旦曼荼羅寺と真逆の方向、瀬戸の海に面した空海生誕の地に建つ海岸寺にお参りし、そこから曼荼羅寺へと折り返す道である。
直接曼荼羅寺を目指すルートは、弥谷寺仁王門前の石段右手に立つ茂兵衛道標から右に折れ、おおよそ3キロ強の曼荼羅道を歩く。海岸寺経由の遍路道は、弥谷寺護摩堂から本堂の逆方向、天霧山への尾根道を進み、弥谷山と天霧山の間の鞍部から山道を里に下り、予讃線海岸寺駅近くにある海岸寺へと北に向かう。その距離おおよそ5キロほど。そこから5キロほど南へと折り返し曼荼羅寺を目指す道である。
曼荼羅道は弥谷山西麓の土径を進むもの。海岸寺道は荒れているではあろう山道を下るもの。どちらにも惹かれる。ということで、曼荼羅寺への遍路道はふたつともカバーすることにした。最初は海岸寺道経由、次いで曼荼羅道を辿り曼荼羅寺への遍路道をメモする。

本日のルート;
海岸寺を経由して曼荼羅寺へ向かう遍路道
弥谷寺護摩堂を左に>48番西林寺の石仏>52番太山寺の石仏>泰山寺の石仏>番道の合流点に石仏2基>白方遍路道分岐点>(天霧城跡へ)>犬返し・犬走り道分岐点>犬走り道から二の丸跡に>天霧城跡>犬返しの険>白方遍路道への分岐点に戻る>岩屋霊場>砂防ダム>車道に出る>虚空蔵寺>畠の中に標石>観音堂川傍分岐点の標石>民家脇の標石>白方小学校傍の標石>県道21号合流点手前に2基の標石>海岸寺>海岸寺奥の院>県道21号右角の標石>仏母院>熊手八幡宮>JR予讃線踏切>遍路道はふたつに分かれる>東西神社参道口に標石>県道48号の茂兵衛道標>曼陀羅寺手前の茂兵衛道標>曼陀羅寺


海岸寺を経由して曼荼羅寺へ向かう遍路道

弥谷寺から海岸寺へ

弥谷寺護摩堂を左に:9時38分 
海岸寺経由の道は弥谷寺の護摩堂から本堂とは逆、天霧山への尾根道を進むことになる。護摩堂前の標石には正面に「七十一番当寺本堂道 明治四十三年」といった文字が刻まれ、その右側面には「海岸寺道」と刻まれる。また、「天霧城跡」と書かれた木の標識も立つ。案内に従い護摩堂を右に折れる。



四十八番札所西林寺の本尊石仏;9時40分
簡易コンクリートの道を進むとすぐに「天霧城跡へ 白方へ(へんろみち)」と書かれた標識が立つ。白方は明治23年)1890年の町村制施行時に西白方、東白方、奥白方村が合併してできた、かつての多度郡白方村のこと。海岸寺のある旧地名。現在海岸寺のある辺りは那珂郡と合併し仲多度郡多度津町西白方となっている。
そのすぐ先、道の右手に石仏が立つ。台座に「四拾八番 西林寺」と刻まれる。右手は垂下、左手には蓮華を活けた花瓶をもった姿。本尊の十一面観音だろう。松山市の札所。
多度郡・那珂郡
多度郡も那珂郡、古代律令制度下の郡名。地名の由来もすぐわかるかと思ったのだが、当該行政域にその説明は見当たらない。あれこれチェックすると、多度の「度」は得度からとの記事もあった。官の得度を得た僧、私度僧(官許を得ないで得度した僧尼;沙弥・優婆夷・優婆塞)、自度僧(師につくことなく自ら剃髪・出家)など、多くの僧尼の住まう郡、ということだろうか。
また、那珂は全国各地にある地名。海部族に関わる地名のことのよう。「なか」の「な」は「灘」の「な>海、海岸線」、「か」は格助詞「の」の連体修飾語、「学校の友達」の「の」の意とも言う。「なか」は「海の(ある)郡」といった由来だろうか。単なる妄想ではある。

第五十二番 太山寺の本尊石仏;9時45分
簡易舗装も切れ、土径の尾根道となった遍路道を5分ほど進むと左手に石仏。「第五拾二番太山寺」と台座にある。右手は垂下、左手には蓮華を活けた花瓶をもった姿は前述西林寺に同じ。本尊十一面観音かと。松山市の札所。

五十六番札所 泰山寺の本尊石仏:9時50分
更に遍路道を10分ほど歩くと、道の左手の木立の中に石仏が立つ。台座には「第五拾六番 泰山寺」と刻まれる。右手に錫杖、左手に如意宝珠をもつ本尊地蔵菩薩像だろう。今治市の札所。





 道の合流点に石仏2基;9時52分
その先、右手から道が合わさる。地図に天霧山南麓からの道が描かれる。その道だろう。合流箇所の角に石仏が2基並ぶ。その内、大きめの舟形地蔵の下部には手印が刻まれ道標ともなっている。

この先遍路道に四国霊場の本尊石仏は見当たらない。五十六番札所で切れるのも、ちょっと中途半端。見つけられなかったのだろうか。
それにしても弥谷寺の石仏の並びはどのようになっているのだろう。先回の散歩で仁王門手前、弥谷寺入り口ともいえるところに第二十九番札所国分寺の本尊・千手観音、十二番札所焼山寺の舟形地蔵(右手に宝剣、左手に宝珠をもつ本尊の虚空蔵菩薩とはお姿が異なる)が置かれていた。場所柄、とってつけた、というか唐突な印象を受けた。元々はどのような配置で石造が並んでいたのだろう。

白方(海岸寺)遍路道分岐点:9時59分
10分弱歩くと道の左手に2基の石仏。大日如来、釈迦像と刻まれる。大日如来は宝冠をかぶり智拳印(左手をこぶしで握り立てた人差し指を右手で握る)を結ぶ。右手は仏、左手は衆生。煩悩の衆生を包み込むということか。通常、如来は装身具を身に着けない薄衣だけの姿であるが、大日如来は王者の如く宝冠などの装飾を見に纏う。釈迦如来は見慣れたお釈迦さまの姿。
2基の石仏の先に「白方へ へんろみち」左の木標と、「天霧城本丸」への木標が立つ。弥谷寺に来るまでは天霧城のことは何も知らなかったのだが、寺入り口の案内にあった「国指定史跡」の文字に惹かれ、ちょっと立ち寄ることに。

犬返し・犬走り道分岐点;10時14分
遍路道分岐点に立つ舟形地蔵にお参りし、尾根道を進む。5分ほど歩くと隠砦跡の標識。城への道を土塁で隠している、といった記事もあるが、門外漢には土塁と自然地形の区別がつくわけもなく、先に進む。
それから更に5分、犬返し・犬走り道分岐点に。右手の上りが犬返し道、左手の尾根を巻く道が犬走り道。犬も通りたくないような険路は勘弁と、迷うことなく犬走り道を選ぶ。犬走り道は「空堀/古井戸」と続くとの案内もあった。

犬走り道から二の丸跡に這い上がる;10時25分
始めはよかったのだが、犬走り道は次第に踏み跡も消えてゆく。犬走り道には「井戸」にも出合えるとの案内もあり、すこし我慢し道なき道を進んだのだが、踏み跡が全く消えてしまった。峠越えは萌えるも、古城にそれほど萌えるわけでもないため、これ以上は勘弁と犬走り道を離れ尾根道に這い上がることにする。
GPSを頼りに結な構傾斜を30mほど尾根に向かって這い上がる。とそこ天霧城二の丸跡とあった。もう少々犬走り道を我慢すれば古井戸があり、そこから本丸に上れるようであった。

天霧城跡
弥谷寺入り口にあった天霧城跡の縄張り図の写真で位置を確認。二の丸の西にある本丸跡に一旦戻り、そこから二の丸の東にある三の丸、空堀、方形郭と進み、北東端の方形郭に。
北東端の方形郭の標識には「東西神社へは降りることができません」と書かれている。天霧山の南麓が採石場として山肌が大きく削られている。それが通行止めの因だろうか。
途中空堀への案内はあるのだが、いかにも空堀跡といった崖と平坦部コントラストを感じるところに肝心の空堀の標識は無く、ちょっと戸惑ったりはしたが一応天霧城跡をカバー。遺構らしき遺構を見分ける力があるわけでもなく、城跡からの遠景を楽しみ遍路道分岐点に下り返す。
天霧城
弥谷寺入口にあった案内を掲載する;
「国指定史跡 天霧城は、山の地形などを利用した天然の要塞(砦)を造り出した山城です。古代から鎌倉時代にかけて造られた城はそのほとんどが山城で、柵をめぐらし、要所に門や櫓(やぐら)を設ける程度の簡単なものでした。室町時代に入り戦乱が長期化するようになり、戦闘の規模が大きくなると城郭の規模も次第に大きくなっていきました。中世の城郭は有事に対しての構えを持った在地の武将の居館跡等も含めると、その数は香川県下だけでも四百ヶ所近くが確認されています。その中で天霧城跡はその自然地形を巧みに利用した規模の雄大さといい、実践的な確かな縄張り(構造形式)といい、いかにも要害堅固であり、陸海との方向の動向にも十分に対応ができるという、地理的な好条件も備えた四国屈指の山城といえます。
香川氏は、相模国香川荘出身の鎌倉権五郎の末裔といわれており、14世紀後半に讃岐の守護細川氏に従って入部しました。そして、西讃岐の要衝である多度津・本台山(現在の桃陵公園付近)に常の居館を構えました。
その後、西讃岐守護代の地位を得た香川氏が、有事に備えた詰めの城が天霧城です。本台山から天霧城までは直線で3km程、また、中世山城の基本的構造である『守るに易く攻めるに難い』という理想的な山城でした。
香川氏が天霧城を築城した天霧山は、善通寺市・三豊市・多度津町と境を接し、瀬戸内海に臨む弥谷山系の北東部に一段高まる山塊です。弥谷山(標高382m)から天霧山(381m)にかけての山頂部には、数か所に高まりがあります。また、山の周囲は急崖急坂の斜面で、全山が自然の要害地形を形成しています。
天霧城跡の縄張り造作の形式は、戦国時代末期頃(16世紀後半頃)に該当しますが、東方尾根の調査では、出土遺物等から15~16世紀に築造されていたことが判明しています。これは短期(一時期)の築造ではなく、必要に応じて徐々に拡張・増強されたことを示しています」。

この城は土佐の長曾我部氏の四国制覇の折に降伏し臣下の礼をとる。その後秀吉の四国攻めの折には城を棄て長曾我部氏のもとに逃げ廃城となったようである。 なお、この城は大化の改新の時、東讃の屋島軍団(牟礼軍団)、中讃の城山軍団(阿野軍団)とともに、西讃の多度郡三井郷に天霧軍団(白方軍団)が置かれたとき、その居城をこの城に求めたとも言われるが、定かではない。

犬返しの険;10時52分 
往路は結構急な斜面を下る。虎ロープが延々とはられる。犬返しの険と称される所以である。「犬返しの険」の木標の少し先で犬走り・犬返し分岐点に戻る。
尾根道を隠砦へと向かう途中、送電線鉄塔のある辺りから天霧山から瀬戸の海の遠景を楽しみ遍路道分岐点に戻る。





白方遍路道への分岐点に戻る;11時18分
十一面観音(三十三番谷汲山華厳寺
天霧山と遍路道の分岐点に戻る。分岐点から遍路道を下りはじめる道の右手に石仏が立つ。「三十三番 谷汲山」とある。西国三十三観音霊場三十三番谷汲山華厳寺の本尊十一面観音である。右手は垂下、左手には蓮華を活けた花瓶をもつ。







遍路道に立つ西国観音霊場の本尊石仏
聖観音(三十一番姨綺耶山 長命寺)
千手観音(二十番西山善峯寺)
遍路道を下ると路傍に石仏が立つ。縁者の供養の石仏、中には石祠に祀られるものもあるが、西国三十三観音霊場の本尊石仏が並ぶ。出だしは三十二番繖山観音正寺の本尊千手観音、三十一番姨綺耶山 長命寺の本尊聖観音と続く、すべて揃っているわけではないが結構揃っている。
実のところ、遍路分岐点にあった三十三番も含め、遍路道に並ぶ番号付きの石仏は里に下るまで四国霊場の札所と思い込んでいた。これが西国三十三観音霊場の本尊石仏では?と思ったのは、山道を下り切った里の虚空蔵寺にあった石仏に「一番 那智山」とあったため。
馬頭観音(二十九番青葉山 松尾寺)
さすがに那智山といえば青岸渡寺でしょう、それならいままでの石仏も四国霊場ではなく西国三十三観音霊場ではと思い直し、ピストン往路では注意しながら石仏をみるとすべて観音さまであり、観音霊場のお寺さまであった。ピストン往復ならではの「成果」ではある。
観音菩薩
Wikipediaをもとに簡単にまとめる;観音菩薩は大慈大悲を本誓とする菩薩。ために、あまねく衆生を救済すべくさまざまな姿に変えて現れる。基本となる一面二臂(ひとつの顔とふたつの腕)からなる聖観音(しょうかんのん)のほか、千手観音、十一面観音など、変化観音と呼ばれる様々な形で現れる。あらゆる人を救い、人々のあらゆる願いをかなえるという観点から、多面多臂(多くの顔と多くの腕)の超人間的な姿に表されたわけである。
六観音
真言系では聖観音、十一面観音、千手観音、馬頭観音、如意輪観音、准胝観音を六観音と称し、天台系では准胝観音の代わりに不空羂索観音を加えて六観音とする。六観音は六道輪廻(ろくどうりんね、あらゆる生命は6種の世界に生まれ変わりを繰り返すとする)の思想に基づき、六種の観音が六道に迷う衆生を救うという考えから生まれたもので、地獄道 - 聖観音、餓鬼道 - 千手観音、畜生道 - 馬頭観音、修羅道 - 十一面観音、人道 - 准胝観音、天道 - 如意輪観音という組み合わせになっている。
なお、千手観音は経典においては千本の手を有し、それぞれの手に一眼をもつとされているが、実際に千本の手を表現することは造形上困難であるために、唐招提寺金堂像や葛井寺の乾漆千手観音坐像などわずかな例外を除いて、42本の手で「千手」を表す像が多い。
この山道に並ぶ観音像には聖観音、十一面観音、千手観音、不空羂索観音、如意輪観音があった。准胝観音(十一番深雪山醍醐寺の本尊)もあったように思う(?)のだが、写真を撮り忘れた。

岩屋霊場;11時44分
西国観音霊場の本尊石仏に一礼しながら遍路道を下る。途中少々わかりにくい箇所もあるが、木に張られた赤いリボンを目安に30分ほど下りると岩壁前にお堂が建つ。お堂前には西国観音霊場十五番 新那智山観音寺の本尊である十一面観音の石仏。 石段を上りお堂に。お堂の左に「天霧八王山奥之院 本尊薬師如来」、右には「弘法大師御修行之御遺跡 涅槃岩屋霊場 愛染明王、弘法大師之尊像安置」と書かれた木札があった。
「天霧八王山奥之院」とは、これから下る里にある虚空蔵寺の奥の院とのこと。お堂内部の石窟は幅・高さは4m、奥行き2m弱といったものであった。ここで空海が修行した、とのである。

砂防ダム:11時59分
不空羂索観音(九番興福寺)
荒れた沢筋の遍路道を下る。途中沢に架けられた簡易橋(11時55分)で沢の右岸に渡りそこから数分歩くと道の右手に西国観音霊場九番 興福寺の本尊である不空羂索観音が立つ。その辺りになると空も開け、里が近づいた実感。大きな砂防ダム脇にでる。

不空羂索観音
Wikipediaには、「「不空」とは「むなしからず」、「羂索」は鳥獣等を捕らえる縄のこと。従って、不空羂索観音とは「心念不空の索をもってあらゆる衆生をもれなく救済する観音」を意味する」とある。

車道に出る;12時5分
砂防ダム脇の急な階段を下りる。砂防ダムから数分、道の右手に西国観音霊場四番 槇尾山 施福寺の本尊千手観音(12時4分)、その先に車道が見える、車道の沢に架かる橋袂に西国観音霊場三番 風猛山 粉河寺の本尊千手観音石仏が立つ。 尾根道の遍路道分岐点からおおよそ50分で里に下りてきた。

西国観音霊場二番 紀三井寺 護国院の本尊十一面観音石仏;12時5分 
車道を下ると道の右手に西国観音霊場二番 紀三井寺 護国院の本尊十一面観音石仏。遍路道を下りはじめた頃は特段意識することなく、何気なく写真を撮っていたのだが、霊場番号が少なくなるにつれ、この西国観音霊場石仏は、里のどこからはじまるのだろうとの好奇心から、結構真剣に追っかけることになった。 ここが二番ということはすぐ先にある虚空蔵寺から始まるのでは、との予感。
天霧城の案内
石仏対面には天霧城跡案内。おおよそは前掲の弥谷入り口にあった説明と同じだが、最後に「多度津町奥白方から天霧城に登るルートは、古くから弥谷寺への巡礼ルートとなっており、また海岸寺を起点とする七ヶ所まいりのルートとも重なっています。道道には三十三観音霊場としての石仏が並ぶなどの信仰の道としても現在も利用されています」と付け加えられていた。
七ヶ所まいり
Wikipediaには「七ヶ所まいり(しちかしょまいり・ななかしょまいり)とは、四国八十八箇所霊場のうち、香川県にある第71番札所弥谷寺から第77番道隆寺までを遍路する参拝方法の総称。江戸時代後期の寛政12年(1800年)に書かれた『四国八十八番寺社名勝』には「足よはき人は此印七り七ヶ所めぐれば四国巡拝にじゅんず」とあり、古来1日で巡礼できる遍路として利用されていたことが窺える。
また、71番より遍路を始める風習は、弥谷寺ふもとの多度津湾が金刀比羅宮に参拝するための海の玄関口として栄えていたこと。1770年以降より旅籠屋で配られた道中案内記によれば、善通寺(私注;第75番)を誕生の地、弥谷寺を入学の地、海岸寺を産湯の地として金比羅山とあわせて紹介しており、四国八十八箇所遍路の大衆化以前より、弘法大師ゆかりの三箇所と金比羅山の参詣がすでに一般化していたことなどが理由とされている。
「足よはき人は此印七り七ヶ所めぐれば四国巡拝にじゅんず」とあるように、足弱きが故に四国八十八箇所を巡ることができない人も、この七ヶ所、七里を巡ることにより四国遍路巡礼と同じ功徳を得ることができる、ということだろう。なお、Wikipediaに産湯の地海岸寺とあることから、この七か所まいりは、今から訪れる海岸寺から始めるように思える。

虚空蔵寺;12時7分
道なりに虚空蔵寺の裏側から境内に入る。境内には石仏、石塔が多い。お寺様はお堂といった風情。弘法大師開基とのこと。本尊も大師の守本尊とされる虚空蔵菩薩とのことである。
虚空蔵菩薩
「虚空蔵」はアーカーシャガルバ(「虚空の母胎」の意)の漢訳で、虚空蔵菩薩とは広大な宇宙のような無限の智恵と慈悲を持った菩薩、という意味である。そのため智恵や知識、記憶といった面での利益をもたらす菩薩として信仰される。その修法「虚空蔵求聞持法」は、一定の作法に則って真言を百日間かけて百万回唱えるというもので、これを修した行者は、あらゆる経典を記憶し、理解して忘れる事がなくなるという(Wikipedia)。

空海が弥谷寺の大師堂獅子窟で虚空求聞持法を修したとあった。室戸岬の洞窟・御厨人窟に籠り虚空求聞持法を修したとは知られる話ではあるが、あちらこちらに同様のお話が伝わる。
西国観音霊場一番那智山青岸渡寺の本尊如意輪観音
如意輪観音(一番 青岸渡寺)
境内で西国観音霊場の一番那智山青岸渡寺の本尊如意輪観音の石仏を探す。お堂の前、水場の近くの緑に隠れ気味の本尊石仏があった。
如意輪観音
Wikipediaには、「如意輪観音は基本、座像または半跏。片膝を立てる六臂が多いが、これとはまったく像容の異なる二臂の半跏像もある。手には尊名の由来である如意宝珠と法輪をもつ」とあるが、この石仏は方膝を立てた二臂の座像。手には如意宝珠と法輪をもっていた。遍路道にあった西国観音霊場の本尊石仏は確かにこの虚空蔵寺からスタートしていた。




境内の標石
境内を表口に進む左手に標石があり、「従是 弥谷寺** 屏風白方海岸寺十四丁 文化六巳**」と刻まれた標石がある。小石を固めたような礫岩の標石はあまり見たことがない。
また、表参道口の右手、車道のガードレール脇に「是ヨリ十八丁 右彌谷寺道 左山道」と刻まれた標石が立つ。







畠の中に標石
車道を進む。ブドウ棚が目につく。少し里に下りたところ、道の右手の畠の中に標石が立つ。虚空蔵寺で見た礫岩の小石を固めたもの。風化が激しい。「左屏風浦白方**道 右彌谷寺道」と刻まれるようだ。






観音堂川傍の標石
道を進み観音堂川の右岸に出る。観音堂川は山道を下ってきた遍路道谷筋の沢からの流れである。その左岸から来る道に架かる橋を左に見やり、少し進むと道は二つに分かれる。その分岐点に標石が立つ。「左屏風浦白方海岸寺奥院・たと津・丸可め 道」と刻まれる。






民家脇の標石
標石の指示に従い左手の道を観音堂川に沿って進む。ほどなく道の左手、民家脇の細路角に標石が立つ。「右たとつ 丸かめ道 左屏風浦白方海岸寺」と刻まれる。
この標石、よく見ると「右」と「屏風浦白方海岸寺」の部分が硯彫りとなって窪んでいる。伊予の札所散歩の折、同名であった円明寺という寺名での混乱を避けるため、延命寺と改名した寺名を硯彫りで刻み直していたが、「右」と書き直す前は「左」と言うことになる。とすれば元の場所は道の反対側、その場合、「左」方向は「弥谷寺」と書かれていたのであれば辻褄が合うのだが、はてさて。

白方小学校傍の標石
民家の間の細路を進むと小丘に上ることになる。坂道を上り切り、白方小学校前の車道に出る合流点手前に標石が立つ。手印と共に「屏風浦道 いやたに道」と刻まれる。








県道21号合流点手前に2基の標石
白方小学校の西側の坂道を下ると道は予讃線海岸寺駅に当たる。往昔の道は先に続いていたのだろうが、現在は駅と線路に阻まれ迂回することに。
駅の西の踏切を渡り、一旦駅前まで戻り、一応道をつなぎ県道21号へと進む。県道合流点手前の左右に標石が立つ。
右側の標石には「屏風ケ浦 左屏風ケ浦 右まんたら寺道」、左側は「弘法大師御母公旧跡仏母院東三丁 昭和十二年春」と刻まれる。道を渡ると前に海岸寺がある。





海岸寺

正面に二王堂。常の金剛力士ではなくここには地元出身の相撲の力士が左右に立つ。元大関琴ケ濱と元関脇大豪の等身大の彫刻である。
案内を簡単にまとめると、「二王門(二力士門) 正式には金剛力士といい、仁王という。正し、昔朝鮮に王(ワン)という兄弟があり、佛門の警護に当たったことに因み二王とも。当寺はその故事による。
貧寺として後世に残る像を造る資力なく、郷土出身の力士の顕彰を兼ねて造立。地元の彫刻家の手による」とある。

境内に入ると本堂。真言宗醍醐派。納経山迦毘羅衛院(かびらえいん)海岸寺と称す。寺伝によればこの地は空海の母である玉依御前の出身地であり、空海はこの寺の奥の院のある地で生まれたとも言う。奈良時代後期、宝亀5年(774)のことである。
迦毘羅城はネパールで生まれた釈尊の地。当寺の院号を迦毘羅衛院(かびらえいん)とするのは、釈尊と対比しての日本の聖地・空海誕生の寺ということを示すのだろう。
大同2年(807)大師34歳のとき弥勒菩薩を刻み堂宇に祀ったのが当寺の開創とされ、往時七堂伽藍を建立し四十九坊を数える大寺であったそうだが、現在は境内には鐘楼と一つの堂宇が残るだけ。境内裏手は海岸に続く公園となっていた。道脇に十三佛が並ぶ。
十三佛
十三佛とは、先日弥谷寺でみた十王堂に祀られる十王、地獄において亡者の審判をおこなう十尊をもとに、江戸時代に日本でつくられた十三の仏。
十王は平安末期、末法思想と共に深く日本に浸透し、初七日、四十九日といった十の節目に、地獄に送るか否かといった審判を行う閻魔王を代表とする十の諸王であるが、鎌倉時代となって十王それぞれに本地としての仏と相対させるようになった。それが十三佛である。
閻魔王の本地仏は地蔵菩薩。閻魔王以外はそれほど知名度がないため省略する。




海岸寺奥の院

大師生誕の産屋旧跡は海岸寺奥のにある。海岸寺から県道を少し西に戻り、予讃線を渡ったところ。森の上に奥の院の二重塔が見える。田舎帰省の折、車窓から見える印象的な塔として記憶に残るが、奥の院の大塔・多宝塔であっ。 鐘楼を兼ねた山門を潜り境内に。山門は仁王様ではなく四天王が護る。
山門前に標石
山門前に手印と共に、「タドツ十八丁 右弥谷寺三十丁 明治二十四年」と刻まれた標石がある。










産井
境内右手、赤く塗られた覆屋は大師誕生のときの「産井(井戸)」。産湯に使う水を汲んだ、と。
湯手掛の松
産井の対面の、これも赤く塗られた覆屋は湯手掛の松。産婆が手拭を掛けた松、とか。今は枯れて切株だけとなっている。
産屋も湯手掛の松も平安末期に大師信仰故に造られた、とも。


大師堂
境内正面に大師堂。大師童形の像が祀られる、と。
大塔
薬師如来の祀られる大塔。これが帰省の旅に車窓から眺めていた二重の塔。








文殊堂
納経山に造られたミニ四国霊場の石仏を見遣りながら丘を上ると文殊堂。瀬戸の眺めを楽しむ。
烏瑟沙摩(うすさま)堂
ミニ四国霊場を上り切ったところに烏瑟沙摩堂がある。烏瑟沙摩明王を祀る。 Wikipediaによれば、烏瑟沙摩明王とは「人間界と仏の世界を隔てる天界の「火生三昧」(かしょうざんまい)と呼ばれる炎の世界に住し、人間界の煩悩が仏の世界へ波及しないよう聖なる炎によって煩悩や欲望を焼き尽くす反面、仏の教えを素直に信じない民衆を何としても救わんとする慈悲の怒りを以て人々を目覚めさせようとする明王の一尊(中略)心の浄化はもとより日々の生活のあらゆる現実的な不浄を清める功徳があるとする、幅広い解釈によってあらゆる層の人々に信仰されてきた火の仏である。」とある。
「不浄を浄化するとして、密教や禅宗等の寺院では便所に祀られることが多い」ともあった。

これで弥谷寺から海岸寺までのメモは終了。ここから第七十二番札所曼陀羅寺に折り返す。




海岸寺から曼陀羅寺へ

遍路道を曼陀羅寺へと向かう前に、近くにあるもうひとつの大師ゆかりの寺を訪ねる。仏母院がそれである。
海岸寺二王門前、弥谷寺からの遍路道が県道21号にあわさる箇所にあった標石、「弘法大師御母公旧跡仏母院東三丁 昭和十二年春」に従い、大師の母の生まれた地に建つ仏母院に向かう。

県道21号右の標石
県道を東に進み、広田川を渡ってしばらく歩くと県道右手に標石2基が立つ。大きく平たい石の前には仏母院の看板が立ち少し見づらいが、「弘法大師御えな塚 南一丁 御母公旧跡 仏母院」、脇の角柱の標石には「弘法大師御母公旧跡 屏風ヶ浦 仏母院」と刻まれる。
標石に向かって西の広田川方面から道が続く。県道整備以前の遍路道は県道21号の南を進むこの径であったかもしれない。県道を右に折れ仏母院に進む。



仏母院
2014年(Google street view)
2019年現在
南に少し進むと仏母院。道の左手が本堂、右手は比較的新しい建物が立っている。御母公堂・位牌堂とある。Google Street View(2014年)にはお堂が写っている。それがもとの御母公堂だろう。?16年老朽化のために建て替えられたようだ。建物正面に「御母公 不動明王 弘法大師」とある。元の御母公堂に祀られていた尊像名が昔の名残を留めるのみ。

本堂
山門を潜り、道の左手の本堂境内に。真言醍醐派。「八幡山仏母(ぶつも)院三角(みすみ)寺と称す。こじんまりとした本堂。玉依御前がこの地の産土神熊手八幡宮の八幡神に祈りここで空海を出産したと伝わる。
唐から帰国した空海が寺院を整備し三角寺と名付けた、と。熊手八幡宮の別当寺院となり山号を八幡山とした。
戦国時代の永禄年間(1558年-1570年)に戦乱により荒廃したが、その後、修験者の大善坊が再興したことから、寺院名も大善坊と称したが、江戸時代前期の寛永15年(1638年)嵯峨御所より「仏母院」の院号を下賜され、寺院名が大善坊から仏母院に改められた。

「仏母院」は、仏とも仰がれる大師の母公の御屋敷の地であったことから、一切仏を生み出す胎蔵界曼陀羅仏母院(遍智印)よりのアナロジーにより「仏母院」、三角寺は、胎蔵界曼陀羅仏母院の中央にあり、すべての如来の知恵を象徴する燃え盛る三角の印(三角智印)に由来するようだ。
虚空蔵のお堂
山門の左手に虚空蔵のお堂。大善坊の祈願仏であった虚空蔵菩薩を現在荒魂神社のある八幡山(仏母院のすぐ東の山)の御堂より昭和2年(1927)に移した、と。修験者大善坊は大師が虚空蔵持聞法を修したと伝わる八幡山の御堂で修行の日々であった、とか。



御住(みすみ)屋敷跡
本堂の道を隔てた逆側は、御母公堂・位牌堂から北の駐車場を底辺とした三角形となっており、三角(みすみ)地と称する。三角寺、大師母公の御住(みすみ)と、「みすみ」で揃える。三角の地形故か、御住の故か、はたまた曼陀羅由来の三角寺名の故か、なんらかの強い「意図」を感じる。
大師産湯の井
三角地の北端、駐車場の道端に大師産湯の井。覆屋で囲まれるが少々殺風景。
施入八幡銘石碑
駐車場と御母公堂・位牌堂の境、道に平行に3基の石塔が並ぶ。「施入」とは寺社に物や財を奉納すること。八幡様に奉納するということだろうから、八幡神社の別当寺当時の名残を示すものかと思う。


甑(こしき)灯籠
施入八幡名石碑に垂直に3基の石造物が並ぶ。飯を蒸す甑に密閉された仏さまが石灯籠の内に安置される、と。古代からの保食神(うけもちの神;財宝の神)への信仰。10世紀初頭の建立、と。
えな塚
御母公堂・位牌堂の南端を建物裏手に廻り込み、耕地の端の細道をちょっと進むと笹に囲まれた小さな祠。「大師胞衣(えな)塚」。五輪塔と石造物があり、大師の「へその緒」が祀られると伝わる。大師産湯の井戸は各所にあるが、胞衣はここだけだろう。


道標2基
御母公堂・位牌堂前に2基の道標。1基は「左 弘法大師胞衣塚 御母公旧蹟」と刻まれる。もう一基には、手印と共に「北三丁 弘法大師えな塚 御母公仏母院」と刻まれる。300mほど南から移されたものだろう。









熊手八幡宮
仏母院の縁起にあった大師ゆかりの熊手八幡にもちょっと立ち寄り。県道21号に戻り少し東に進み左手の道に入る。ほどなく熊手八幡。
随身門には神馬と共に高麗犬が社を護る。木製彩色の古風を残す。町有形文化財。社殿にお参り。境内に残る、古の社であろう石の小祠群に惹かれる。
熊手の由来は、神功皇后征韓の折りに用いた御旗、長鉤(熊手)がご神体の故と。凱旋の時、屏風浦に至り蔵を造りてこれを蔵め、とある。
なお、熊手八幡の先、県道合流点に荒魂神社がありお参りしたが、仏母院の縁起にある荒魂神社は八幡山にある荒魂神社ではあった。ちょっとはやとちり。 ともあれ、これで海岸寺周辺の大師ゆかりの地を廻り終えた。ここから第七十二番札所 曼陀羅寺へ向けて遍路道を進む。

JR予讃線踏切
熊手八幡より仏母院に戻り、道なりに南に進み広田川に架かる橋を渡る。橋を渡ると県道217号にあたる。県道を左に折れるとJR予讃線踏切。
この踏切手前の田んぼの端に「北三丁 弘法大師えな塚 御母公仏母院」標石があった、という。現在は見当たらない。と、そういえば先ほど仏母院の御母公堂・位牌堂前前に、同じ文字の刻まれた標石があった。この地から移されたものであった。

遍路道はふたつに分かれる
踏切を超えると遍路道はふたつにわかれたようだ、ひとつはそのまま県道217号を進む。もう一つは天霧山の東裾を東西神社に向けて進むもの。大きく整備された県道を避け、山裾を進む道をとる。
線路を渡ったところで大きく右に折れ民家の間の道を進む。

東西神社参道口に標石
山裾の道を進むと東西神社に出る。東西神社の名前の由来は?境内にあった案内にも特に記されていない。古くは善通寺の鎮守である五社明神のひとつ塔立明神と称されたが、天霧城の東麓、伊豫街道に接する要路にあったため中世の戦乱災禍により衰退。天正年間天霧城主香川之景(信景)が再興し後世東西大明神と称された、といった記事も見かけたが、これも何故東西神社となったかは不明である。
それはともあれ、神社参道口の伊予街道(旧太政官道)と交差する箇所に標石があり、「従是まんたらしへ十四丁」と刻まれる。

七人同志碑
標石左手に「七人同志の碑」が立ち、「森甚右衛門」の略伝が示される。先回の散歩で出会った七義士神社に祀られる七万人にも及び農民一揆を指揮したひとりである。



県道48号の茂兵衛道標
国道11号、高松自動車道を越え県道48号に当たる。曼荼羅寺へはここを右に曲がるが、左折し茂兵衛道標を確認に向かう。
この茂兵衛道標は予讃線の踏切でふたつに分かれた県道217号を進む道筋。県道は高松道まで続き、そこで左に折れるが、遍路道はそのまま直進し県道48号に合流。その角に茂兵衛道標が立つ。
手印と共に「曼荼羅寺 出釈迦寺 弥谷寺 明治四十四年」と刻まれる。茂兵衛241度目の巡礼時の道標である。


茂兵衛道標
元に戻り少し西に進んだところで県道を左折し曼荼羅寺に向かう。道の右側に「右甲山寺 明治十九年」と刻まれた茂兵衛88度目巡礼時の道標である。
この道標から民家の間を道なりに進むと、ほどなく七十二番札所曼荼羅寺に着く。
これで弥谷寺から海岸寺を経由する曼荼羅寺へのメモはおしまい。次回は弥谷寺から直接曼荼羅寺に向かう曼荼羅道の歩き遍路ルートをメモする。
六十七番札所・雲辺寺からはじめた讃岐遍路歩きも阿讃山脈の山道を下り、讃岐の里道を辿り六十九番札所・観音寺まで進んだ。
今回は観音寺からはじめ、七十番札所 本山寺、七十一番 弥谷寺へと向かう。観音寺から本山寺まではおおよそ5キロ、本山寺から弥谷寺まではおおよそ11キロ。17キロはどの長丁場となる。
観音寺から本山寺までの遍路道は、本山寺近くに行くまで標石が乏しく、特に観音寺市街にはほとんどと言っていいほど標石が見当たらない。特段の標石マニアではないのだが、旧遍路道の目安としている標石がないのは、旧遍路道を歩いているといった実感に乏しくちょっと残念。一方、本山寺から弥谷寺までは標石も多く、遍路道の周辺にもあれこれ興味を引く名前の社などがあり、ちょっと立ち寄りも多くなってしまった

雲辺寺からはじめた讃岐の遍路歩きは、まだはじまったばかりではあるが、何となく伊予の札所と趣が異なるように感じる。特段の理由が有るわけでもなく、何となくである。もう少し歩けば、その因がもう少し見えてくるものがあるかもしれない。ともあれ、今回は観音寺市からお隣の三豊市に入り、その先の善通寺市の手前まで讃岐の里の遍路道をメモする。


本日の散歩;六十九番札所 観音寺>旧市街を抜け県道5号に>県道5号を県道49号・村黒町交差点に>立専寺>加麻良神社>六地蔵と標石>本山寺橋南詰めの標石>七十番札所 本山寺
七十番札所 本山寺>三差路の標石>四国の道の標識と標石>茂兵衛道標(100度目)>妙音寺>忌部神社石標>>忌部神社>茂兵衛道標(157度目)>大津池西南隅の茂兵衛道標(164度目)と標石>宇賀神社>七義士神社>東角屋池傍の徳右衛門道標>>異形十三重塔>加茂高津神社>茂兵衛道標(150度目)>県道221号と国道11号合流点手前に標石>標石を兼ねる石造群>常夜灯と標石>落合の標石>落合大師堂>地蔵尊傍の標石>手印のみの標石>弥谷寺の寺名石>八丁目大師堂>第七十一番札所・弥谷寺

六十九番札所 観音寺
六十九番札所 観音寺から次の札所への遍路道は、財田川の北を辿るものと南を辿るものがあったようだ。しかし、現在そのルートは共にはっきりしていない。今回はちょっと気になる標石が残るという財田川の南側、旧市街を進むことにした。

旧市街を抜け県道5号に
琴弾山東麓に沿って琴弾八幡の大鳥居まで戻り三架橋を渡る。旧遍路道南側に渡ると成り行きで旧市街の細路に入る。しばらく北東へ歩き、道の左手に白藤稲荷(茂西自治会館傍)。ささやかな稲荷の社ではあるが、かつては近郷近在だけでなく、伊予の川の江からも参詣に訪れたという。小祠の先で県道5号に出る。

県道5号を県道49号・村黒町交差点に
県道5号の右手に観音寺第一高等学校、左手に荒魂神社。社にお参りし先に進むと県道49号・村黒町交差点にあたる。その手前100mの辺りに左に分岐する旧道があり、その角に標石があったとのこと。この標石が前述の「」ちょっと気になる標石であったのため、結構探したのだが見当たらなかった。
添歌付標石
標石には「生連来て残る毛能こそ石者はかり 我が身ハ消えしむかし成ら無(生まれ来て残るものこそ石ばかり 我が身は消えし 昔なるらむ)」と刻まれていた、とのこと。観音寺の商人三崎屋亦八の立てたものではないかとも言われる。
これは伊予の遍路道、西条市(旧小松町)の六十二番札所・宝寿寺から六十三番・吉祥寺に向かう途次に立っていたという茂兵衛道標(東宇和郡宇和町卯之町の愛媛県歴史文化博物館に保存)の添え歌「うま禮来天能古留茂の登天石はか里 我身ハ消へし無可能志な里希り」の元歌では、との記事もあった。
旧道角は更地となっていた。更地にする時にどこかに移されたのだろうか。ちょっと楽しみにしていただけに少々残念であった。

立専寺
右手に高木神社を見遣り県道5号を進むと、道の左手に加麻良神社の名が地図にある。名前に惹かれちょっと立ち寄ることに。社傍に西連寺、立専寺の名も見える。そのお寺様経由の道を進む。西連寺、立専寺にお参り。
立専寺の鐘楼の撞木は滑車付き。こんな撞木初めて目にした。この鐘楼は明治の神仏分離の折、琴弾八幡宮より移されたもの、と言う。


加麻良神社
道なりに進み独立丘陵に鎮座する加麻良神社に。

三ッ鳥居
本殿参道を進むと、参道脇に注連縄のはられた鳥居が建つ。特に社殿はない。横にあった案内には、この社は讃岐で最も古い社で、延喜式内社として記される以前より鎮座する。またこの丘陵そのものが神体山・御神室山(橘亀山)である、とする。
鳥居は三ッ鳥居(三輪鳥居)様式。明神鳥居の両脇に小さな鳥居が並ぶ。神体山そのものを祀るものとして平成十二年(2000)に建てられた、とあった。加麻良は神室からの転化である。
本殿
讃岐にある24の延喜式内社が並ぶ参道を進み本殿にお参り。本殿境内に木の鳥居。橿原神宮遥拝所とあった。
社伝には、この社は大己貴神(おおなむち;)と少彦名神(すくなひこな)の2神による四国経営の御霊蹟と。ここから四国の開発がはじまった、という。鎮座地の流岡は、三豊市高瀬にある大水上神社に(香川用水散歩の折に訪れた)来た少彦名神が毎夜泣き叫ぶため、大水上神は桝に乗せて流したところ、当地に流れ着いたとの故事による。周囲一面が海であった頃の話、とか。

延喜式内社
延長5年(927)の『延喜式』に記載された全国の神社一覧。「官社」として認められた社ということである。

六地蔵と標石
予讃線を潜り県道5号を先に進むと道の左に六地蔵。石の小祠の中にある。常の六地蔵は六体並び立つが、この六地蔵は一石に二躰づつ、三段に分かれて彫られた坐像となっている。こんな六地蔵を見たのは初めて。
六地蔵脇に県道から分岐した細路があるが、石祠の傍に標石。「左本山寺四丁 右又右金毘羅四里 願主 上市浦観音寺 三崎屋亦八」と刻まれる。前述の県道49号手前にあったとされる添歌標石の寄進者とされる商人である。三崎屋亦八の詳細不詳。
「右又右」は右折を二回しろ、ということ。伊予見峠を越えて金毘羅さんに向かう金毘羅道の案内だろう。

本山寺橋南詰めの標石
標石に従い細路を進む。観音寺市と三豊市の市境なっている細路を進むと財田川の土手に出る。
土手を進むと財田川に架かる本山寺橋の南詰に標石。「右いよ 左小松尾寺 明治廿二年」と刻まれる。川の真ん中で観音寺市から三豊市に入る。
いよ街道
「いよ」は旧伊予街道のこと。律令時代の南海道太政官道である。先回の散歩で茂兵衛道標と真念道標の立つ旧伊予街道と出合ったが、そこから道を辿ると、如何にも太政官道の名残を伝える「大道」といった地区を抜け、この地に繋がる。
旧伊予街道の道筋でもある本山寺橋を渡る。対岸には本山寺の堂宇、五重塔が見える。結構大きなお寺さまのようだ。


七十番札所 本山寺

橋を渡ると、旧伊予街道に面して七十番札所 本山寺の山門。大草鞋が左右に架かる

山門手前の標石2基
山門左の標石には「右遍路道 左うら門与寺門入納経所あり 寛政九丁巳」と刻まれる。丁巳は「ひのとみ」。
右の標石には「七十一番彌谷寺程三里 六十八番九番観音寺里程一里 昭和二年 市出商人連中」と刻まれる、と言う。市出とはこの地で市を出した商人達のよう。
寺前を通る伊予街道を讃岐と伊予の商人が、阿波の野呂内からは六地蔵越え辺り(野呂内越え)を越えて下って来た阿波の商人達が、この地にて市を開く交通の要衝であったとのことである。


本堂
境内正面に本堂。本尊は馬頭観音。四国霊場で馬頭観音を本尊とするのはこのお寺様だけである。建物は香川唯一国宝に指定されている。伊予と讃岐、また阿波からの往還の要衝の地故に、牛馬を大切にしたことだろう。







大師堂
平成26年(2014)に大師像が開帳され、毎月21日に開帳されている、と言う。折から参拝に訪れたバスでの団体参詣の方々がお大師さまにお参りしていた。









五重塔重塔
本堂裏手に大正二年(1923)に再建された五重塔。












十王堂
本堂左手に十王堂。十王とは閻魔王を含めた10尊。亡者の罪の多寡を審判し、地獄へ置送るなど六道輪廻を司る。生前に十王を祀れば死して後の罪を軽減してくれるとの信仰より、このお堂にお参りするのだろう。







鎮守堂
十王堂の左に社のような建物。神社によく見る注連縄がはられる。室町末期の様式を残す小さな社は鎮守堂。檜皮葺き屋根が素朴でいい。
この社には善女龍王像を祀る。請雨秘宝の霊神とされる龍王の一尊。弘法大師が京都神泉苑にて雨請の修法をおこなった時にその勧請により姿を現したとされる。





仁王門
境内南端に仁王門。室町中期の建物とされ重要文化財に指定されている。正面三間、奥行き二間一戸。正面柱間三つの内の真ん中の一間が通路となっている。








北端冠木門の茂兵衛道標
境内北端にある庫裏の旧伊予街道側に冠木門。その外に茂兵衛道標。摩耗が激しく手印が見えるのみ。茂兵衛127度目巡礼の際のものである。

寺伝によれば、この寺は弘法大師一夜建立の寺とされる。大師自ら阿波の国から木材を伐採した、と。前述伊予・讃岐・阿波からの交通の要衝と記した如く、阿讃山脈を越えた交流が古よりあった、ということか。
四国の寺は長曾我部四国攻略の折に灰燼に帰したものが多いが、このお寺さまは本堂、仁王堂が焼失を免れている。阿弥陀如来が住職の身代わりとなり寺を救ったとのお話が残る。
また、このお寺は農民一揆の集結地としても知られる。いつだったか香川用水散歩の折、七義士神社に出合ったが、この社に祀られる七名の有力農民に率いられ当時の三野郡、豊田郡、多度郡、那珂郡を巻き込む大規模な農民一揆であったよう。
なおこのお寺さまは京都の石清水八幡神を祀る。嘉禎2年(1236)京都石清水八幡宮の末社別当寺として二千石が給され祈祷所と定められたという。二千石の寺領をもち、七堂伽藍、二十四坊を有する四国有数の大寺院であった、とのことである。

三差路の標石
本山寺を離れ、寺家と言う如何にも門前町の名残を示す地名の街並みを少し進むと北西から合わさる道との三差路。その角に標石が立つ。手印と共に、「彌谷寺」の名が刻まれる。








四国の道の標識と標石
さらに道を進むと、南からの道と合わさる三差路角に「四国のみち」の標識と木の遍路標識があり、その傍に標石が立つ。手印と共に「是ヨリ東二丁 世話人藤田 本田」「平城天皇勅願所四国霊場第七十番 大同弐年九月下旬弘法大師一夜建立 本堂乾角落旧跡地蔵堂」「昭和十年」などといった文字が読める。




茂兵衛道標(100度目)
この標石から少し先、道の右手の民家敷地の角に茂兵衛道標が立つ。「右琴平宮 壱百度目為供養 周防圀大島郡 中務茂兵衛」、手印と共に「弥谷寺 是ヨリ二里三十二丁余」「明治廿一年」と言った文字が刻まれる。また、この道標には「法の花咲く道道の匂い希り」の添え歌も刻まれているとのことである。
琴平宮への案内は伊予見峠に至る金毘羅街道には右折、ということだろう。


妙音寺
遍路道は国道11号に合流。ここからはしばらく国道を歩くことになる。予讃線本山駅への六の坪交差点を越え、少し進むと道の右に妙音寺がある。本山寺奥の院であり、古代寺院のひとつと言われるお寺様へちょっと立ち寄り。
国道左にある五十鈴神社手前を右折、神社境内端の坂を左折し妙音寺へ。古き趣の山門への道筋に「建石? うちもど里」と刻まれた石柱がある。「?」は「迄」。建石まで打ち戻り、と言う意味だろうか。とはいうものの建石は地名?不詳である。







土塀の参道を進み本堂に。Wikipediaによれば、「寺伝によれば、飛鳥時代天武天皇治世の白鳳5年(665年または676年)に創建されたと言われ、讃岐国最古の寺院の一つと伝えられる。平安時代初期の弘仁年間(810年- 824年)嵯峨天皇の勅願所となり、空海(弘法大師)によって現在の寺号となったと伝えられている。
戦国時代に入り天正2年(1574年)長宗我部元親軍の侵攻により伽藍は火災に遭った。この時、本尊の阿弥陀如来は自ら雨を降らせて難を逃れたと伝わっている。 天正の戦火で寺院は荒廃した。その後、江戸時代中期の正徳年間(1711年 - 1716年)旭応阿闍梨によって復興された。また、寛政年間(1789年 - 1801年)に清雅恵洞和尚が伽藍を整備した。
当寺院に祀られている不動明王は霊験不動尊と言われ、祈念すると夢の中でお告げがあると言われることから、別名「夢見不動」とも呼ばれている」とあった。本尊の阿弥陀如来は国の重要文化財指定となっている。

忌部神社石標
国道11号に戻り先に進む。高松道の「さぬき豊中IC」への出入口少し手前で遍路道は国道から右に入る。池端の道を進むと「高松道さぬき豊中IC」へのアプロ―チ道にブロックされ現在は直進できない。アプローチ道に沿って右に折れ、アプローチ道下を抜けるトンネルを通り国道側へと戻る。
ブロックされた遍路道の反対側まで戻り北に進むと「忌部神社」と刻まれた大きな石標が立つ。いつだったか阿波の忌部神社を辿ったこともあり、ここらへもちょっと立ち寄り。




忌部神社
遍路道から左に折れ忌部神社に。境内に特に由緒などの案内はない。阿波の忌部神社はあれこれチェックしたのだが、讃岐と忌部神社、忌部氏の関係は?
讃岐忌部
讃岐忌部(さぬきいんべ)氏は、日本各地に分布する忌部氏の一族のひとつ。手置帆負命(たおきほおひのみこと)を祖神とする。阿波忌部は天日鷲命(あめのひわしのみこと)、紀伊忌部は彦狭知命(ひこさしりのみこと)、出雲忌部は櫛明玉命(くしあかるだまのみこと)をその祖先神とするが、すべて天太玉命(あめのふとだまのみこと)が天孫降臨の際に随従した五柱(五部の神)である。
出雲の忌部氏の祖先神櫛明玉命は「玉作の工人を率いて日向に御降りになり、命の子孫一族は所属の工人と共に出雲玉造郷に留まって製玉に従事した」とあるように、攻玉技術をもって勾玉などの調製にあたっていた。
阿波の忌部氏の祖先神である天日鷲命は、穀木(かじ)麻を植え製紙・製麻・紡織の諸業を創始したと伝わる。麻や穀(楮)は、木綿(もめん)が日本に伝わる以前の糸・布・紙の原料であり、そこからつくられた原料のことを「木綿(ゆう)」と呼ばれ、布を織り、神事の幣帛や紙垂などに使われたようである。 そしてこの讃岐の忌部氏の祖である手置帆負命。「手置帆負命が孫、矛竿を造る。其の裔、今分かれて讃岐国に在り。年毎に調庸の外に、八百竿を貢る」とあるように、朝廷に毎年800本もの祭具の矛竿を献上していたとされる。讃岐忌部氏は、矛竿の材料である竹を求めて、いまの香川県三豊市豊中町笠田竹田忌部の地に居を構え、そこを拠点として特に西讃(せいさん)地方を開発したようである(Wikipedia)」とある。
讃岐は竿を貢ぐ国ということから、竿調国(さおのみつぎ)と呼ばれ、それが「さぬき」という国名になったという説もあるようだ(Wikipedia)。

Wikipediaにはまた、「善通寺市大麻町の式内社・大麻(おおさ)神社」の社伝には、「神武天皇の時代に、当国忌部と阿波忌部が協力して麻を植え、讃岐平野を開いた」という旨の記述が見え、大麻山(おおさやま)山麓部から平野部にかけて居住していたことが伺える。この開拓は、西讃より東讃(とうさん)に及んだものといわれている」といった記事もある。讃岐忌部氏の讃岐開発の事績と共に古来より讃岐と阿波の交流が盛んであったことがわかる。
忌部氏
忌部氏って結構興味深い氏族である。通説では、忌部氏の本宮は奈良県樫原町忌部町にある天太玉神社(あめのふとたま)とされ、そこから各地方へ忌部氏が下って行ったとされる。
それに対し、中央・地方の忌部は阿波忌部がその母体となっており、阿波忌部の全国進出とあわせて技術と文化の伝播をもたらした。つまりはヤマト王権も阿波忌部がその成立を支えた。こうした阿波忌部の起点となるのは麻植郡であるとするから、いうなれば麻植郡は日本そのものの発祥の地である、といったものである
下総の地の名前の由来について忌部氏との関りを示す記事もある。『古語拾遺』には、「天富命、さらに沃壌を求め、阿波の斎部(いつきべ)を分かち。東国に率い行き、麻穀を播殖す。好麻の生ずるところ、故にこれを総国という。穀木(かじき;ゆうのき)の生ずるところ、故にこれを結城郡という。故語に麻を総というなり、今の上総下総の二国これなり」と言う。下総が阿波の忌部氏によって開かれたようにも読める。門外漢故に真偽のほどは不明だが、なんとなく忌部氏って面白い。
なお、『古語拾遺』は忌部氏の後裔である斎部広成が著したものであり、斎部とは忌部と同義、天富命とは天太玉命の孫と伝わる。

茂兵衛道標(157度目)
遍路道に戻り北に進むと新屋敷の集落、道の右手に茂兵衛道標がある。手印と共に「本山寺 弥谷寺」と刻まれるが、手印があらぬ方向を示している。理屈の上では道の左手の何処かにあったものを移したのではないだろうか。明治丗年、茂兵衛157度目の巡礼道標である。






大津池西南隅の茂兵衛道標(164度目)と標石
さらに少し進むと大津池に出る。その西南隅、民家のブロック塀の前に「四国のみち」の標識、自然石の標石、そして茂兵衛道標が立つ。
自然石には手印と共に「本山二十五丁 彌谷八十五丁」、茂兵衛道標には手印と共に「本山寺 箸蔵寺 明治丗一年」と刻まれる。この手印もあらぬ方向を向いている。本山寺との位置関係でいえば、遍路道の右側のどこかに立っていたものを移したのだろう。茂兵衛164度目の巡礼の折の道標である。
金毘羅さんの奥の院と称される箸蔵寺はいつだったか箸蔵寺から土讃線財田駅へと続く箸蔵道を歩いたことがある。この地からの道筋は不詳だが、金毘羅街道を越え、財田川に沿って歩いていけば土讃線財田駅近くに出る。この地から箸蔵寺へのルートも興味を覚える。

屏風浦へんろ道の標石
茂兵衛道標などの標石がある角の道を隔てた反対側、一段低いところに石碑がいくつか並ぶが、そのひとつ、平べったい石に手印と共に「屏風浦へんろ道」と刻まれる。予讃線海岸寺駅近くにある弘法大師生誕の地に建つ海岸寺のことを屏風浦と称するようである。海岸寺に迫る天霧山、弥谷山の山容が海から見ると屏風を広げたように見える故、と。
七十一番弥谷寺を打ち七十二番曼荼羅寺に向かうお遍路さんの中には、直接曼荼羅寺へ向かうことなく、一旦曼荼羅寺とは真逆の海岸寺へと向かい、そこから曼荼羅寺へと折り返す者もいたとのことである。とまれ、大師生誕のお寺さまへの道標である。

宇賀神社
標石前の大津池の東に宇賀神社がある。「どぶろく祭り」で知られる、と。ここにもちょっと立ち寄り。
この社、古くは岡神社と称し、手置帆負命に随従してこの地に住み笠を縫い給うたその子孫がこの里に住み祖神笠縫神を祀った。またこの里を笠縫の里といい、笠岡村とよんだ、とする。現在でもこの辺りは豊中市笠田笠岡と呼ばれるようである。手置帆負命は前述讃岐忌部氏の祖先神である。
境内には酒蔵のような蔵が建つ。明治33年には濁酒醸造の許可を受け、祭りには一般参賀者に振る舞っているようである。

社殿裏手には玉垣に護られ注連縄の張られた球状巨石が鎮座する。巨石信仰?ここからは単なる妄想。讃岐忌部氏の祖・手置帆負命は天照が天岩戸に隠れたときに御殿を建てた神と言う。また阿波忌部氏の祖先神 ・天日鷲命 は天岩戸開きに大きな功績をあげた神とも言う。どちらも天岩戸に関りが深い。で、天岩戸って巨石を想起する。
神社前の池を隔てた彼方に見える七宝山を眺め、遍路道に戻る。

七義士神社
道上、大道といった如何にも古代太政官官道・南海道の名残を残す地区を越えると、道は国道11号に合流する。その合流地点に何だか見たことのある社と池。 いつだったか香川用水東部幹線を辿ったときに出合った社であった。
その時のメモを再掲;権兵衛神社(七義士神社)と称されるこの社は、江戸時代中期、9代将軍家重のときに勃発した讃岐最大の一揆の首謀者として処刑された、七人の義民(義人)を祀る神社。
寛延年間(1748-1750)、数年来の風水害に加え役人の横暴な振る舞いにより、丸亀・多度津両藩の百姓は疲弊に貧していた。徳政などの願い効なく、一揆を計画。首謀者は丸亀藩の5名、多度津藩の2名の百姓。その中での指導者が丸亀藩笠岡村の大西権兵衛であった。
寛延3年(1750)年1月20日には、一揆の呼びかけに応じた多度郡・三野郡・豊田郡の百姓は財田川の本山河原に集結。22日には鳥坂峠を越えて那珂・多度郡勢と善通寺で合流。このときの一揆の総勢は6万人余に達したと言う。
この動きに対し藩側は23日に一揆勢と会合をもち、嘆願をほぼ認め、一揆勢は解散し帰村する。しかし、その後状況は一変。全国で勃発する一揆に危機感を抱いた幕府が、20日には百姓の強訴・徒党の禁令を発令していたことを知った丸亀・多度津両藩は妥協案を完全に反故にし、一揆首謀者を捕縛。7月28日には大西権兵衛他7名をい金倉河畔において打首・獄門の刑に処せられた。
鳥居右手の「此の世をば泡と見て来しわが心 民に代わりて今日ぞ嬉しき」と刻まれた大きな碑は、そのときの権兵大西権兵衛の辞世の句と言われる。 村人はこの七人を義士として密かに弔い続けたが、明治の御一新になり、七義士の威徳を偲び権兵衛ゆかりの笠田村に神社が建てられ、7人の義民は神として祀られた。
先ほど訪れた宇賀神社は、境内梵鐘を合図に一揆が立ち上がり、本山寺は一揆が集合した場所であった。歩けばあれこれつながってくる。

東角屋池傍の徳右衛門道標
七義士神社から国道11号を池に沿って少し進むと直ぐ、遍路道は池端から左に分岐すする道に入る。この辺りを「六ッ松」と呼ぶ。現在からは想像もできないが、かつては木々が生い茂り昼なお暗い一帯であった、とか。夜は暮れ六ッから明け六ッまではひとりで通るには怖すぎ、連れを待っていたとのこと。六ッ待つ>六ッ松と転化した。
溜池の間を縫うように進むと東角屋池。その傍、セメント造りの小祠に徳右衛門道標が建つ。献花筒には花も供される。道標に大師座像が刻まれているためのようだ。「是より弥谷寺迄壱里十八丁 寛政八丙辰三月」と刻まれる。丙辰は「ひのえたつ」。この小祠を一里松地蔵堂とするのは、かつてこのあたりに一里塚があった故だろう。
暮れ六ッ・明け六ッ
朝、薄明が始まった時を明け六つとし、夕方、薄明が終わった時を暮れ六つとして、時刻の基準とした。江戸時代までの時刻法の一つ。
午前0時;九ッ(子ノ刻)>午前2時;八ッ(丑ノ刻)>午前4時;七ッ(寅ノ刻)>午前6時;明け六ッ(卯ノ刻)>午前8時;五ッ(辰ノ刻)>午前10時;四ッ(巳ノ刻)>午後0時; 九ッ(午ノ刻)>午後2時; 八ッ(未ノ刻)>午後4時 ;七ッ(申ノ刻)>午後6時;六ッ(酉ノ刻)>午後8時l 五ッ(戌ノ刻)>午後10時;四ッ(亥ノ刻)

草木も眠る丑三ッ時というけど、丑は八ッでは?干支の刻は2時間。それを四等分してそれぞれ、一ッ、二ッ、三ッ、四ッとしたようだ。で、午前2時からはじまる丑の刻の丑三ッとは、午前3時から3時半ということになる。

異形十三重塔
徳右衛門道標が祀られる小祠を超えると右手に松葉碕池。池を超えると遍路道は国道11号から分かれる道と交差。遍路道はそのまま先に進むが、国道11号傍に見える大きな石の塔にちょっと立ち寄り。
交差箇所を右に折れ、国道11号の少し東に立つ石の塔に向かう。国道から右に入る道を進むと石の塔に。
威徳院勝造寺層塔とある。案内には「案内には「香川県指定有形文化財 昭和38年4月9日指定 この層塔は永和4年3月6日(1378年)に建立されたもので、通称「石ノ塔」と呼ばれている。総高7,1m、塔身は凝灰岩の切り石を十三層に積み重ねたもので他に類例がなく、異形十三重塔とも呼称される。
300年後(1678年)丸亀藩主京極高豊公が散失した塔?を集め、且つその欠けたところを補い修復した。更に300年たち損傷が甚だしいく倒壊の危機に瀕したので、香川県・旧高瀬町(現三豊市)・地元住民が一体となって、昭和52年(1977年)3月6日に解体修理に着手し同年5月14日に完成した」とある。
伝わるところでは、この塔は若狭国の八百比丘尼(やおびくに)によって建てられたとする。八百比丘尼の伝説は各地に残る。Wikipediaには「八百比丘尼(やおびくに、)は、人魚など特別なものを食べたことで長寿になった比丘尼である。福井県小浜市と福島県会津地方では「はっぴゃくびくに」、栃木県西方町真名子では「おびくに」、その他の地域では「やおびくに」と呼ばれる。(中略)その伝説は全国28都県89区市町村121ヶ所にわたって分布しており、伝承数は166に及ぶ(とくに石川・福井・埼玉・岐阜・愛知に多い)[33]。白比丘尼(しらびくに)とも呼ばれる。800歳まで生きたが、その姿は17~18歳の様に若々しかったといわれている[34]。地方により伝説の細かな部分は異なるが大筋では以下の通りである。
八百比丘尼の伝説
ある男が、見知らぬ男などに誘われて家に招待され供応を受ける。その日は庚申講などの講の夜が多く、場所は竜宮や島などの異界であることが多い。そこで男は偶然、人魚の肉が料理されているのを見てしまう。その後、ご馳走として人魚の肉が出されるが、男は気味悪がって食べず、土産として持ち帰るなどする。その人魚の肉を、男の娘または妻が知らずに食べてしまう。それ以来その女は不老長寿を得る。その後娘は村で暮らすが、夫に何度も死に別れたり、知り合いもみな死んでしまったので、出家して比丘尼となって村を出て全国をめぐり、各地に木(杉・椿・松など)を植えたりする。やがて最後は若狭にたどり着き、入定する。その場所は小浜の空印寺と伝えることが多く、齢は八百歳であったといわれる。

とはいえ依然この塔が建てられた目的は不明。塔には大日如来を示すような梵語がかすかに見える。なお、威徳院勝造寺はこの塔の少し南東にあるお寺さま。

加茂高津神社
遍路道に戻り北に進む。道の左手に加茂高津神社。香川県神社誌には、「傳ふるところによれば、此の地は皇子屋鋪とて妙法院二品尊澄法親王(私注;宗良親王)の御遺跡にして當社は親王を祀れり。元弘二年(私注;1332)三月後醍醐天皇(私注;宗良親王の父)隠岐に移らせ給ひ、親王は本郡詫間浦に移らせ給ひたるも、詫間の気候御身に適し給はずじて當地遷らせらる。
依って此の地を皇子屋鋪といひ、又親王の遺跡を記念せむ為祠を建てて王子権現と稱し親王を奉齋すといへり。
(中略)或いは云ふ。皇子屋鋪の地に古く賀茂神を奉齋しありしが、天正年間兵火に罹り寛文年間社殿を再建して王子権現といひ、明治十五年摂津難波に倣ひ今の社號に改む」とある。
宗良親王故に王子権現と称されたのは分かった。が高津神社となった所以は「摂津難波に倣ひ」とあるだけではっきりしない。チェックすると、江戸の頃、王子を応神と取り違えたとの記事がある。摂津難波に仁徳天皇、その父の応神天皇を祭神とする高津神社がある。それに倣ったということだろうか。単なる妄想ではある。

茂兵衛道標(150度目)
予讃線高瀬駅への道との交差点を直進すると高瀬川の手前、民家にもたれかかるように茂兵衛道標が立つ。摩耗が激しく「右金毘羅」、手印と共に「本山寺」、「弥谷寺」が刻まれる。明治二十九年、茂兵衛150度目の巡礼時のもの、と言う。




県道221号と国道11号合流点手前に標石
遍路道は高瀬川の土手に阻まれ左折し、高瀬川橋の西詰で県道221号に乗り換える。道を進み県道が国道に合流する手前にY字の分岐点。その分岐点に「四国のみち」の標識とともに、平べったい標石があり、手印と共に「これよりいやたに寺三十九丁 打越へ?風ケ浦六十九丁」と刻まれる。
屏風ケ浦は予讃線海岸寺駅の近く、空海誕生の地海岸寺のあたりを海から見た姿。海岸に迫る天霧、弥谷山が屏風を広げたように見えるから。「打越」は? 遍路用語に「打戻り」といったものがある。打越しもそういった用語だろうか、地名だろうか。不明である。



標石を兼ねる石造群
分岐点の標石に従い左手の道に入ると、標石脇に高い柱碑、大師座像、壊れた屋根石下の石造物がある。墓石らしにものも見える。
「光明真言一億万遍」「文政」などの文字が読める柱碑の台座には手印が刻まれる。またその隣の大師座像の台石にも「左へんろみち 是ヨリいやたに三十九丁 是ヨリもとやまへ** 寛政十二」といった文字が刻まれ、共に遍路標石となっている。




常夜灯と標石
分岐点を境に三豊市高瀬町から同じく三豊市三野町に入る。大道>道免>鳥坂へとほぼ国道11号筋を進むかつての太政官道・旧伊予街道と先ほどの分岐点で別れた遍路道は、弥谷山に向かって一直線に進むことになる。原>出井>落合>弥谷と続く道筋の出井の辺りに大きな常夜灯があり、その傍に標石がある。手印と共に、「是より弥谷寺」と刻まれる。





落合の標石
常夜灯の先で北西に緩やかにカーブする道が、北東へと抜ける道と交差する角に標石がある。手印と共に「もとやま寺* いやだに寺道」「明治三十九年」と刻まれる。遍路道は標石の手印に従い道を右折する。







落合大師堂
右折し民家の間の狭い道を進むとすぐ落合大師堂がある。常夜灯や多くの古い石造物の中に標石が1基ある、と。大師像が彫られた石碑がそれらしき、とは思うのだが摩耗が激しくよくわからなかった。








地蔵尊傍の標石
更に道を少し進むと民家軒下といったところに、地蔵尊、金毘羅常夜灯、地神の祠があり、地蔵尊傍に標石がある。手印と共に「右丸かめ 左いや谷 道」と刻まれる。また、足をたらした地蔵尊の台石にも手印、そして「右丸か免道 左へんろふ*」「文政五」といった文字が刻まれ、標石となっていた。







手印のみの標石
水路を越え少し進むと、道の左手の電柱脇に標石。手印もほとんど摩耗しそれと言われなければわからない。










弥谷寺の寺名石
しばらく道を進み、東西に走る車道を超えると道の両側に「四国第七十一番弥谷寺」と刻まれた寺名石が建つ。ここが弥谷寺の参道口。寺名柱の手前、車道と交差する角に標石があり、手印と共に「本山寺 弥谷寺」が刻まれる。


八丁目大師堂
参道口を進み県道48号を渡り、北に進む。一筋北の車道に「四国のみち」の標識があり、ゆるやかなカーブの道を進むと弥谷山に向かう大きな車道に出る。弥谷寺への車道でもある。
車道を少し進み「弥谷寺車道」と刻まれた石柱で遍路道は左に入る。そこに八丁目大師堂。「弥谷寺本堂へ1,000米 大師堂納経所700米 仁王門400米」と書かれた案内がある。一丁は約109m、八丁は約872mである。
大師堂少し手前の一段高いところに標石があり、「従是本山寺江百*丁 従是本堂江八丁」と刻まれる。里を眺めると讃岐特有のお椀を伏せたような山が見える。貴峰山(とみねやま;標高228m)ではないだろうか。


第七十一番札所・弥谷寺


八丁目大師堂から土径を進む。道に沿って舟形地蔵などの石仏が並ぶ。道なりに進むと八丁目大師堂で別れた車道にあたる。車道を超えると弥谷寺の駐車場。バスでのお遍路さんが多い。


天霧城跡の案内
駐車場を上がり、参詣のシャトルバス乗り場のある広場に出る。山腹の本堂まで640段余の石段があるようで、途中までシャトルを利用される団体お遍路さんが目についた。
境内案内などのある反対の谷側に大師座像、第二十九番札所国分寺の本尊・千手観音、十二番札所焼山寺の舟形地蔵(右手に宝剣、左手に宝珠をもつ本尊の虚空蔵菩薩とはお姿が異なる)の横に国指定史跡天霧城跡の案内。縄張りや由来が記されている(この城跡には次回訪れる)。



茂兵衛道標
灌頂川に架かる橋を渡ると石段。25段の石段を上ったところに茂兵衛道標が立つ。「左本堂 右本山寺」、手印と共に「善通寺 金毘羅道 明治廿一年」と刻まれる。茂兵衛100度目の巡礼標石である。
○曼陀羅道
茂兵衛道標の前にも新しい石標が立ち「曼荼羅寺3.1粁 出釈迦寺3.3粁」と書かれる。ここを左に進むのが次の札所曼七十二番荼羅寺、七十三番出釈迦寺への遍路道のようである。曼陀羅道と呼ばれるようだ。



徳右衛門道標
次の石段右手に徳右衛門道標。「従是曼荼羅寺迄廿五丁」と刻まれる。通常の徳右衛門道標にある梵字、大師像もなく、高さも高く、一見しては徳右衛門道標とはわからなかった。











俳句茶屋
二段目の石段二十段を上ると俳句茶屋。休業中なのか取り壊されているのか、ともあれ現在は利用できる状態ではなかった。俳句好きの先代主人の好みで参拝客の俳句が張られているとのことである。


仁王門
俳句茶屋より五十四段の石段を上ると仁王門。正面に阿吽二体の仁王像、裏手には大草鞋が吊るされている。大草鞋は巡礼旅の安全、草履を撫で患部を治癒する撫で仏といったものなど、お寺さまで様々。
仁王門を潜った右手に四国霊場八十八番大窪寺石造。右手に薬壺らしきものをもっているようにも見える。本尊の薬師如来だろうか。

石仏
寺域には数多くの石仏が並ぶのだが、四国遍路札所にしても順がバラバラ。二十九番の横に二十二番、そしてここには八十八番。何らかの事情で移されたのだろうか。

灌頂川に架かる法雲橋傍の摩崖五輪塔
仁王門を越え小刻みに現れる石段を上り灌頂川に沿って進む。この辺りを賽の河原と称するよう。参道脇の小さな石積みの塔を見やり、大岩の間を抜けると法雲橋。橋の右手の岩には2基の五輪塔が刻まれる。







金剛拳菩薩
橋を渡ると広場に出る。シャトルバスもこの辺りまで来ているように思える。広場正面に6m余の巨大な鋳銅製仏像。金剛拳菩薩とのこと。元禄年間に造られたもの。
金剛界曼荼羅を構成する九つのパーツ(九会)の内、中央部(成会)での中尊となる金剛界大日如来を囲む阿閃・宝生・阿弥陀・不空成就の四仏の四方(東西南北)にあらわれる四親近菩薩、計十六菩薩の一つ。
堅固なる拳で衆生の貪・瞋・痴(三毒)の緊縛を破る菩薩のようだ。弥谷寺のHPの説明には、「衆生が煩悩による苦しみに縛られるのを解放する仏様といわれます。また、修行の完成を意味し十六大菩薩の最後の一尊にあたり、如来になる直前のお姿ともいえる菩薩様です」とあった。
仏様のランクは如来>菩薩>明王>天部の順になる。菩薩最終ランクであり、仏様になる直前というから結構有難い菩薩さまであった。



大師堂
四国中央市の大王製紙社主である井川氏寄進の鉄製の階段、煩悩を消す108段階段を上りきると正面に大師堂。岩壁に食い込むように建てられている。石段を上り下足し大師堂に入る。左納経所、右大師御影堂。御影堂をぐるりと
回りこむと獅子窟。大師修行の場。暗くてはっきりとは見えない獅子窟をお参りし、大師堂を出る。


大師堂手前の標石
大師堂への石段を上り切る手前右手に標石がある。「右札所道 左大師堂道 元治元」といった文字が刻まれる。
大師堂岩壁の行者像
岩壁に行者姿の石像。雨乞いの祈祷するも、その霊験無きを恥じ焼身往生をした行者様と言う。








十王堂
大師堂から右に進み、左手一段高い岩場にある多宝塔を見やり進むと広場にでる。正面に香川氏の墓、右手に鐘楼と観音堂、正面一段高いところに十王堂がある。
十王とは閻魔王を含めた十尊。亡者の罪の多寡を審判し、地獄へ置送るなど六道輪廻を司る。生前に十王を祀れば死して後の罪を軽減してくれるとの信仰より、このお堂にお参りするのだろう。 この寺は「亡くなった人の霊のゆく寺」とも言われる。地元には身寄りを亡くした人が、その霊を背負うよう背中に手を回しこの寺に上り、霊を下した後は一切振り向くことなく里へと戻るといった習慣もあったようだ。十王堂の横に観音堂があるのは、地獄に行くことなく浄土へとの想いもあるのだろうか。先ほど歩いた参道を賽の河原と呼ぶ所以である。

護摩堂・海岸寺道分岐点
観音堂から石段を上り詰めたところに護摩堂。岩に掘り込まれた洞窟となっている。
護摩堂右手に標石と道案内。「本堂、水場は左、天霧城は右の案内」、また標石には、「海岸寺道」、手印と共に「第七十一番当寺本堂道 明治四十三年」と刻まれる。
〇海岸寺道
海岸寺道とは予讃線海岸寺駅近くにある弘法大師生誕の地と言われる海岸寺への道。七十一番弥谷寺から七十二番曼荼羅寺へと直接進まず、一旦真逆の瀬戸の海方向へと向かい海岸寺をお参りした後、曼荼羅寺を打つ遍路道である。 天霧山への尾根道を進み、弥谷山と天霧山の鞍部から里に下り、北へと瀬戸の海岸に向かうようである。

水場
護摩堂から左に向かうと岩場に出る。岩場には大きな石仏が祀られた水場がある。弥谷山からの地下水が枯れることなく湧き出るよう。








摩崖仏阿弥陀三尊像
水場からは上り下り、ふたつの石段が本堂に上る。石仏、五輪塔の立ち並ぶ石段に沿った凝灰岩の岩壁には摩崖仏が見える。阿弥陀三尊像とのこと。鎌倉時代に地元の匠の手によるもの。雨風に晒され、もろい凝灰岩の崩壊から像を護るようにセメントの庇が取り付けられていた。凝灰岩の窪みには小さな仏さまも祀られていた。



本堂
剣五山千手院弥谷寺。真言宗善通寺派。本尊は千手観音。自伝によれば、行基開山。聖武天皇の庇護を受け、蓮華山八国寺(やこくじ)と称した。 その後空海がこの地、獅子窟で修行。求聞持の秘法を修するや天から五柄の剣が舞い降る。これにより山号を五剣山と改め、寺名も弥谷寺とした、とある。 天正年間、長曾我部氏の四国征服の折り、この寺と峰続きの天霧城に籠る香川氏を攻め、寺は灰燼に帰す。後に讃岐の領主生駒一生、江戸期には丸亀藩主京極氏の庇護を受け堂宇が再建され現在に至る、とのことである。
〇虚空蔵求聞持法
「虚空蔵」はアーカーシャガルバ(「虚空の母胎」の意)の漢訳で、虚空蔵菩薩とは広大な宇宙のような無限の智恵と慈悲を持った菩薩、という意味である。そのため智恵や知識、記憶といった面での利益をもたらす菩薩として信仰される。その修法「虚空蔵求聞持法」は、一定の作法に則って真言を百日間かけて百万回唱えるというもので、これを修した行者は、あらゆる経典を記憶し、理解して忘れる事がなくなるという(Wikipedia)。

本堂前から讃岐の里の遠景を楽しみ、本日の散歩を終える。次回は七十一番弥谷寺から七十二番曼荼羅寺へ向かう。

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