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一宮寺よりはじめ、八十四番札所屋島寺へ向かう。常の如く標石を目安にして旧遍路道を辿ったわけだが、今回はちょっと厄介ではあった。一宮寺からしばらくの間は宅地開発などで旧遍路道が消えているところが多く、時に現れる標石を繋ぐだけで精一杯。
その、時に現れる標石の位置確認はGoogle Street Viewを活用。古き資料に残るデータからおおまかな道筋や標石の位置を推定し、Google Street Viewでチェック。幸いにして今回は市街地ということもあり結構Street Viewで標石を確認することができた。
そしてその位置をiphoneにインストールしているG-Map Toolという無料GPS活用アプリにプロット。その位置を目安に旧遍路道資料にあるルートに極力近い道筋を辿るといったもの。辿ったトラックログはGPS watchであるSUUNTO Traverseでとり一宮寺から屋島寺までの遍路道をなんとか繋げた。便利になったものである。
ともあれ、散歩に出かける。

本日のルート:八十三番札所一宮寺>田村神社>県道12号の北に地蔵堂と2基の標石>県道172号と水路合流点の標石>自然石標石>三名神社東の標石>手引き地蔵>手印だけの標石が続く>光臨寺傍の標石>太田天満宮>伏石八幡>野田池の地蔵堂と標石>松縄東公園の南に2基の標石が続く>琴平電鉄長尾線歩行者踏切の標石>夷神社>分かれ股地蔵と標石>高須公民館脇に標石>春日川橋東詰に標石>新川橋東詰に標石>相引川・大橋北詰にお堂と標石>双ッ池南の標石>遍照院傍に「四国のみち」指導標
屋島寺表参道登山口>弘法大師加持水>十二丁・十三丁石>不喰梨弘大師>畳岩>名号石>徳右衛門道標>八十四番札所 屋島寺仁王門


八十三番札所一宮寺
一宮寺への遍路道は、順打路である八十二番根香寺からのふたつのルート、香西口ルートと鬼無口ルートのいずれの道を辿っても、また逆打ルートである七十九番天皇寺から八十一番白峰寺、八十二番根香寺を経て八十番国分寺に至り、そこからこの八十三番一宮寺へと辿る遍路道をとっても共に境内西側に至る。一宮寺の正面仁王門は境内の東側にあり、順路は寺の北西角、大師堂脇から入ることになるし、逆打ちルートは西門(裏門)から境内に入ることになる。

順打路より境内に入ると左手に大師堂。大師堂の右手に本堂がある。境内は比較的こじんまりとした趣。Wikipediaに拠れば、「神毫山 大宝院 一宮寺。一宮寺(いちのみやじ)は、香川県高松市一宮町にある真言宗御室派の寺院。讃岐国一宮の田村神社に隣接する。本尊は聖観音。 寺伝によれば、義淵により法相宗の寺院として大宝年間(701年 ? 704年)に建立され、年号にちなみ大宝院と称したと伝えられる。そして、和銅年間、諸国に一の宮が制定された際、讃岐一宮・田村神社の第一別当として行基が堂宇を改修し一宮寺と改めたという。その後大同年間(806年 ? 810年)に空海(弘法大師)が伽藍を整備し、106cmの聖観世音菩薩像を刻んで安置し、真言宗に改宗した。
1584年(天正12年)の兵火により焼失するも、宥勢大徳により中興される。延宝7年(1679年)に時の高松藩主である松平頼常によって田村神社が両部神道から唯一神道に改められたため当寺以外に12あったと云われる宮寺は廃止される。唯一存続を許された当寺は、それまで神社とは一体で同一場所にあったが、分離され現在地に移転、別当寺は解職され、本地仏であった正観音像は当寺の本尊となり、一国一宮として選ばれていた神社の四国八十八箇所83番札所は当寺が引き継いだ。 明治初期の神仏分離より200年も早く神仏の分離が行われ現在に至る」とある。

義淵は玄昉、行基の師であり当寺は古刹であったようだ。それはともあれ、その後神仏習合の時世のもと、田村神社の別当寺となるが、17世紀には高松藩主により田村神社と分離され、現在の地に移ったとある。
両部神道とは、日本の神は仏教の仏が衆生救済のため仮の姿で現れたとする真言宗の本地垂迹説をもとにした神仏習合思想。唯一神道とは吉田神道とも伊勢神道とも呼ばれるようだが、仏は日本の神が仮の姿で現れたものとする説。主客逆転、日本の神を外来の神である仏の上位にとらえているように思える。
お寺がなんとなくこじんまりしていると感じたのは、この田村大明神から分離され、唯一残された一寺といった歴史も関係しているのだろうか。

薬師如来
本堂手前左に石の祠に薬師如来が祀られる。祠には石の扉がある。意地悪なおタネばーさんが扉から頭を入れると地獄の釜の音が聞こえ、頭が抜けなくなった。罪を悔い改めると願うと扉が開き助かった。弘法大師の戒めであるとの話が伝わる。

三基の石塔
本堂左側に古く大きな石造りの塔が並ぶ。そのうち一基には宝治元年(1247)の銘がある。大宝院供養塔と称されるこの3基の石塔は孝霊天皇、百襲姫命 (ももそひめのみこと)、吉備津彦命(五十狭芹彦命とも)。18世紀中頃に田村神社から移したとのこと。百襲姫、吉備津彦は第七代孝霊天皇の子とも伝わる。

仁王門
菩薩堂にお参りに境内東の仁王門に。仁王と大わらじのある仁王門を潜ると正面は田村神社の境内を区切る塀が南北に続く。
茂兵衛道標
仁王門左に茂兵衛88度目の道標。「四国第八拾三番 四国八十四番屋島寺道 明治十九年」といった文字が刻まれる。右側にも標石。「右 仏生山道十八丁 左やしま道三里」、手印と共に「釈迦涅槃像・圓光大師御旧跡 見真大師御直作像 仏生山 是より十八丁」と刻まれる。

仏生山
仏生山とは仏生山法然寺のこと。一宮寺から南東、高松市仏生山町にある法然上人二十五霊場のひとつ。
Wikipediaには「鎌倉時代前期の建永2年(1207年)に讃岐に配流された浄土宗開祖の法然が立ち寄った那珂郡小松荘(現まんのう町)に生福寺が建立される。
江戸時代前期の寛文8年(1668年)に徳川光圀の実兄にあたる高松藩初代藩主松平頼重が、戦乱で荒れ果てていた生福寺を法然寺と改名して、香川郡百相郷(現在地)に3年の歳月を要し移転・建立した[1]。寺院背後の仏生山丘陵上を削平し「般若台」と呼ばれる松平家の墓所を設けて、当寺院を高松松平家の菩提寺とした」とある。

田村神社
仁王門を出て田村神社に向かう。正面仁王門前に南北に続く塀にそって北に進み、右折し境内北側の大鳥居前に出る。一宮寺は田村神社の別当寺でもあったわけで、この寺と社を遮るような塀に少し違和感。どうも、かつて一宮寺仁王門に向かい合うように田村神社の鳥居があったようだ。いつの頃状況が変わったのか不明ではあるが、田村神社は平成21年(2009)に大改装が行われたとの記事があった。その折にでも一宮寺に面する鳥居はなくなったのだろうか。単なる妄想。根拠なし。
裏参道
ともあれ大鳥居を潜り境内に。結構大きい。金ぴかのお迎え布袋尊に迎えられる。讃岐七福神巡りの布袋尊が田村神社であるためだろうか。赤い鳥居の裏参道を進むと中央に八咫烏と刻まれた石碑が立つ。この社の祭神の中に高倉下命が記される。神武天皇の東征時に登場する熊野の神である。それ故の八咫烏であろうか。
北参道
裏参道の赤い鳥居を左折すると、今度は中央にさぬき獅子を置く北参道。ここも赤い鳥居が続く。参道を進み正面に七福神巡り、弁天社、宮島社を見遣り右折すると天満宮、素婆倶羅社、宇都伎社、本殿と続く。
素婆倶羅社と宇都伎社
素婆倶羅社、宇都伎社は末社ではあるが、本社社殿と同規模の大きな社殿。素婆倶羅社の祭神は少名毘古那命。少名毘古那命は大国主命とペアで登場し、国造りから酒造りまで多様な分野をカバーする。ここでは安産など女性の守護神とされる。
宇都伎社の祭神は大地主神(おおとこぬしのかみ) 倉稻魂神(うかのみたまのかみ)。大地主神は田畑を司る神であり、倉稻魂神は室町以降には稲荷神として民衆に信仰された穀物豊穣の神。この社は衣食住を司る神と、さぬき七福神の布袋尊を祀る。布袋さんの大きな袋には日常生活に必要なものがすべて入っていた。とか。

境内には満蒙開拓者殉難之碑の碑、海軍少年飛行兵之碑、忠魂碑など鎮魂のための石碑や十二支巡りの造作、桃太郎話に仮託した犬・猿・雉と吉備津彦・倭迹迹日百襲姫命の石造、竜神の像など多くの石碑・石造が「展開」する。あまりにいろいろなものがありすぎて、とてもすべてメモできそうもない、
いくつものログに、田村神社はご利益神のテーマパークとの記述があったが、その通り。延喜式讃岐一之宮といった荘厳な雰囲気ではなく、なんだか明るい。平成21年(2009)に創立1300年を記念して大改装を行ったときの方針であった、とか。

Wikipediaをもとに田村神社の概要をまとめると;「田村神社(たむらじんじゃ);一帯は湧水地であり、現在も当社の奥殿が深淵の上に建てられているように、水神信仰を基盤とした神社である。別称として「田村大社」「一宮神社」「定水(さだみず)大明神」「一宮大明神」「田村大明神」とも。「田村」の社名は鎮座地名による。
祭神は以下の5柱で、「田村大神」と総称される。倭迹迹日百襲姫命 (やまとととひももそひめのみこと)、五十狭芹彦命 (いさせりひこのみこと:別名を吉備津彦命(きびつひこのみこと)、猿田彦大神 (さるたひこのおおかみ)、天隠山命 (あめのかぐやまのみこと;別名を高倉下命(たかくらじのみこと)、天五田根命 (あめのいたねのみこと) - 別名を天村雲命(あめのむらくものみこと)。 田村大神について、中世の書物では猿田彦大神や五十狭芹彦命を指すとされ、近世には神櫛別命・宇治比売命・田村比売命・田村命など様々で一定していない。社殿創建前は井戸の上に神が祀られていたという社伝から、元々は当地の水神(龍神)であったとする説もある。

社伝によれば、古くは「定水井(さだみずのい)」という井戸にいかだを浮かべて、その上に神を祀っていたという。その後、和銅2年(709年)に行基によって社殿が設けられたのが創建とする。この「定水井」は現在も奥殿の下にある。当初は義淵僧正によって大宝年間(701年-704年)に開基された一宮寺と同一視(建物も同じ)されていた。

朝廷の当社に対する信仰は篤く、平安時代には度々神階の授与が行われている。また延長5年(927年)の『延喜式神名帳』では「讃岐国香川郡 田村神社」と記載され名神大社に列したほか、讃岐国一宮として信仰された。建仁元年(1201年)には正一位の昇叙があったとされ、弘安7年(1284年)7月日の銘を有する「正一位田村大明神」の扁額が残っている。
また武家からも崇敬・統制を受け、長禄4年(1460年)には細川勝元により、社殿造営や寄進のほか「讃岐国一宮田村大社壁書」(高松市指定文化財)が定められた。これは当社の関係者に対し、守るべき事項を26箇条で記したものである。
天正年間(1573年-1592年)には兵火により一切経蔵を焼失したが、仙石秀久から社領100石を寄進された。その後も社領の寄進を受け、藩主が松平大膳家に代わったのちも祈願所として崇敬された。
延宝7年(1679年)、高松藩主であった松平氏により一宮寺が分割され、後に一宮寺は別の地に移された。その際、一国一宮として選ばれていた四国八十八箇所の札所と本地・正観音像は、一宮寺に移される。
明治4年(1871年)、近代社格制度において国幣中社に列した。現在に伝わる神宝は「田村神社古神宝類」として国の重要文化財に指定されている」

あまりにいろいとありすぎて、祭神のあれこれなどを深堀する気力がなくなってしまった。というより、祭神は後世の政治力学で創出されたものであり、もともとは境内に龍神として示現される水神様を祀ったものだろう。社の建つ地はかつて香東川の川淵であったよう。付近には出水(泉)も多く、社の本殿奥に神座があり、その下には深い淵があり水神である龍神が棲むという伝説がある。社の別称に「定水大明神」とあった。その語感からは、いかにも絶えることのない水を想起する。そんな稲作の生命線である水を水神として信仰の対象としたのがこの社のはじまりではないだろうか。 田村神社はこの辺りで終わりにし、遍路道へと戻ることにする。

■屋島寺への旧遍路道■

県道12号の北に地蔵堂と2基の標石
一宮寺から屋島寺への遍路道は仁王門を出て、田村神社の塀に沿って北に進む。途中右折すれば上述田村神社の北参道の大鳥居に出るが、遍路道は直進し県道12号を超える。県道の対面に北東に進む水路がある。遍路道はその水路に沿って進むことになる。
少し進むとブロック造りの地蔵堂があり、その前に標石2基が立つ。ひとつは茂兵衛道標。手印と共に「扁んろ道 明治十九年」の文字が刻まれる。もう一基の標石には手印と「八十三番一ノ宮寺ハコチラ」と刻まれる。
茂兵衛道標の手印は北を指すが、これはどうも高松市街真ん中にある高野山別院経由屋島寺への遍路道を指すようで、直接屋島寺に向かう道はここを右折する。

県道172号と水路合流点の標石
右折するといっても現在、そこは道と言うか民家の間の水路といったもので、特段道はない。とりあえず水路脇を進み県道172号に合流。
古い資料には国道との合流点に標石があるというが、なかなか見つけられない。あちこち探していると、水路が国道下に潜り込む手前、水路の石垣に標石らしきものが挟み込まれている。石垣を組み上げるために利用したのだろうか。






自然石標石
県道を越えた遍路道は北東へと上る、と古い資料にある。が、現在ではこの辺りは宅地開発されており遍路道は消えている。
次の目印は一筋北の道筋にある自然石道標。遍路道ではないだろうが水路に沿って進み、一筋北の道に出て右折し少し東に向かうと、道の左手に自然石の標石があった。手印と共に「左やしま」と刻まれていた。

三名神社東の標石
自然石の指示に従い道を左折。水路に沿って北東へと進むと「おさか脳神経外科病院」の南に出る。その東は国道192号。遍路道は国道を渡り東へと進む。ほどなく道の左手に三名神社があり、そこから50mほど進むと道の左手に標石がある。手印に従い左折し北に向かう。

手引き地蔵
北に折れる角、道の右手が一段高いスペースとなっており北西角に小堂がふたつ並ぶ。洪水のため流されて来たものとされ、「手引き地蔵」と呼ばれるようだ。






手印だけの標石が続く
北に進むと一筋先の道との交差に手印だけの標石。更に一筋先の交差部にも少し傾いた手印だけの標石。手印は北を指すが民家の敷地となっており先に進めない。道を右に折れる。




田圃の中を進む
道を右に折れると直ぐに民家傍に標石が立つ。手印は北を指す。指示に従い田圃の中の細路を進む。次の遍路道のルート目安は光臨寺傍にある標石だが、そこまでは標石もなく、成り行きで進むしかない。



光臨寺傍の標石
田圃の中の道を右折>左折>右折>左折と繰り返し県道147号に一旦出る。その先も成り行きで北進し水路脇に続く道に出る。
弧を描く水路脇の道を進み県道280号東側に。そのまま光臨寺の北側の道を進むと県道166号に当たる。合流点を左に折れると県道右側に標石。「右屋し満道 左高ま津道」と刻まれる。



太田天満宮
次のルート目安は太田天満宮だが、古い遍路道資料にある標石から北東に進む道はない。ここから先天満宮までは標石もなく、どうしたものかとあちこち彷徨うと、標石から少し南に戻った水路脇に遍路タグがあった。
遍路タグに従って水路脇の道を進み県道171号に。が、その先は遍路道案内のタグも見つけることができず、結局成り行きで進み太田天満宮の少し東に出る。今回は宅地開発などで旧遍路道が分断され、ルート確定が結構難しい。

伏石八幡
次のルート目安は伏石八幡。その間標石はない。古い資料にある道筋は、太田天満宮を左に見て県道171号を東進し、琴平電鉄を越えた一筋先の道を左に折れて北進。高松自動車道の高架を潜り、一筋北の道にあわさる交差部から北東に進む道筋に入り伏石八幡に進む、とある。その資料に従い伏石八幡前の参道に出る。
伏石神社
伏石八幡の由緒を刻んだ石碑に三石神社の由来とある。どういうこと?石碑には「伏石神社 三石神社の由来 祭神:応神天皇・神功皇后・玉依姫命 慶長七年寺島弥兵吉長の創建と伝えられ昔から当社東の方立石神社南東の居石神社とともに三所八幡又三石八幡といわれている。祭神は毒蛇を憎みその危害から人々を守る神として知られている。
今から三百七十七年前慶長六年八月のある晩この村の郷士寺島弥兵吉長は家から南西約三百メートルの林の中から出ているあやしい光を見つけた。不思議に思いながらそのまま寝たが、あくる晩もまた次の晩もその光が見えるのであった。不審に思った吉長はその正体を見届けようと家来を連れて林にわけ入った。あやしい光は林の中程にある大きな石から出ており、その石は方一丈余(約三メートル四方、高さ三尺約一メートル)ちょうど伏したような形のもので地面に埋まっている部分はどれくらいあるか想像もつかない大石であった。
吉長は「これはただの石ではない。神様が自分を呼び寄せるために光を出したに違いない」と一心に石に祈りそのわけをおうかがいしたのである。神様のお告げは次のようであった。
ここから二百歩ばかり東へ行くと立石という大きな石がある。松縄村には流石があり、また屋島の麓蒲生の海底には鰭石(ひれいし)といわれる石がある。この四つの石はみな神の宿る神石である。世の人々はこれを知らないから今ここにそのありかを教えておく。これからは神として年ごとの祭りを怠ってはならぬ」と。吉長はおそれ多く思いここに社を建て村の産土神としてまつることになったという。
亀石
幣殿の北に大きな亀石がある。この亀石は寺島屋敷の西南角に安置していたものを第十四代政吉氏が昭和二年の寄贈したものである。
立石神社
祭神:応神天皇・神功皇后・玉依姫命
伏石神社の参道を東へ進むこと約三百メートル。大きなもちの木を中心とした森がある。ここに鎮座ましますのが立石神社である。この神社は昔から三所八幡又三石神社のひとつとして崇敬されている。約三百七十年余り前寺島弥兵衛吉長が伏石のかみさ神に祈りを捧げたとき神様から教えられたご神石(立った形をしている石)があり、これが神体として祀られている。
居石神社
祭神:応神天皇・神功皇后・玉依姫命
保安年間居石五郎右衛門網光が祀ったものでその子孫は姓を佐藤といい又居石ともいう。 当社は保安五年居石五郎右衛門網光が勧請したもので出水「鹿の井」と深い関係がある。(以下略)」。

ここからわかることは、神の宿る石は四つであるが、ひとつは海底であり社を建てることができないため、神の宿る石をご神体とした社を三社建立。それが三石神社。この伏石神社はその第一社。由緒にある松縄村の流石とは伏石神社の南東、高松自動車道のすぐ南にある居石神社。ここが第三社と言うことだろう。

野田池の地蔵堂と標石
遍路道は野田池に向かう。伏石八幡鳥居前に東西に続く大きな道は「馬場道」と称されるようだ。この先、野田池までの遍路道ははっきりしない。野田池手前の蓮池土手に地蔵堂が残るとあるので、成り行きで県道43号を東に越えて蓮池に。
池の北東角にある地蔵堂を確認し伏石中央公園の東端を北に進み野田池に。池の土手に地蔵堂が立つ。脇の石碑には「このお地蔵さまは享保十二(西暦1727)湛明元江和尚と宝暦六(西暦1757)博道覚性沙弥二人のため、また野田池の安全と多くの人々の冥福を祈って建立されたものと思われる」とあった。年号は没年であろう。地蔵堂の脇には手印だけの標石もあった。

松縄東公園の南に2基の標石が続く
野田池から先の遍路道もはっきりしない。古い資料には野田池からまっすぐ北に300m進み右折。そこから東に進み、比較的大きな道を越えると標石があり。そこを左折し北へと向かい松縄東公園の東側に出るとある。松縄東公園への途次には2基の標石がある、とのこと。
Google Street Viewで標石確認
野田池からの北進は距離が300mほど、とあるので右折箇所は分かるのだが、そこから東進した後に左折する箇所がはっきりしない。その曲がり角を特定するためGoogle Street Viewを活用。資料にある曲がり角の標石と松縄東公園へ北進する道の途中にあるという2基の標石を探す。 松縄東公園から南へとStreet Viewでチェックし2基の標石は確認できた。曲がり角の標石を見つけることはできなかったが、なんとなくルートが見えてきた。

野田池を出発。北に300mほど進み右折し東進。チェックできた標石に北進する道を左折。少し北に進み手印だけの標石を確認。そこから先にT字路。右折し次の角を左折し松縄東公園へと進むと直ぐ、道の右手の家庭菜園端に標石があった。この標石の手印の上には元の石が庇(ひさし)の用に張り出している。あまり見かけない姿の標石だ。

琴平電鉄長尾線歩行者踏切の標石
古い遍路道資料には、松縄東公園から先は北に進み、県道10号を越えて松縄北公園方向へ進むとあるが、県道10号南に建物が建ち先に進めない。取り敢えず建物を迂回し松縄北公園へと進む道を辿るが遍路標識は見当たらない。
古い資料に拠れば、ルート目安となる標石は琴平電鉄長尾線歩行者踏切を渡ったところにあるとのこと。成り行きで道を進み右折・左折を繰り返し線路脇の道筋に出る。道を東に進み琴電の歩行者踏切を渡ると標石があった。

夷神社
踏切を渡った遍路道は琴電の線路に沿って進み、琴電踏切を渡ることなく交差点を直進し、詰田川に架かる木太橋を渡る。道は県道10号とある。川に沿って少し進み、道が南にカーブする手前に夷神社。遍路道は夷神社脇の道を左に入る。
夷神社
「祭神 八重事代主命 この社には、釣り竿を担ぎ鯛を小脇に抱えた石像がある。漁師たちが守護神として蛭子神(八重事代主命)を祭ったと言われている。
夷神社は蛭子宮(讃岐国名所図会)、蛭子の社(入江神社記)、蛭児大明神(翁謳夜話・讃州府誌)などと称せられている。また全讃史には「何年に祭られたが知らずとあり、寛永以前はこの地は入江にて漁者も住居し、蛭子宮ありて、地名を夷と言う。
寛永十四年(1637)生駒藩の時、この地以北の地を干拓して新田とした」と記されている。
夷神社は海岸線に位置し、地名も夷村と名付けられたと言われる歴史の古い神社である。昭和六十一年に本殿を改築して、夷地区の集会所としても使われている。 平成十年五月 木太地区文化協会」

分かれ股地蔵と標石
夷神社脇の細路を進み車道に出る。遍路道はここを左に折れて北に向かう。少し進むと道が二股に分かれる。その分岐点に小さな地蔵堂と標石がある。石柱には「分かれ股地蔵」とある。地蔵様の右手にある標石には「右屋島 左高松 寛政十」といった文字が刻まれる。


高須公民館脇に標石
道を北に進むと高須公民館の南、隣の建物の間に挟まれるように地蔵尊が祀られる。その高須公民館の北西角に標石。手印と共に「防州大島郡安下庄 嘉永」と言った文字が刻まれる。遍路道は手印に従い右折する。






春日川橋東詰に標石
高須公民館の北を右折し北東進した遍路道はT字路で左折。JR高徳線の軌道を潜り県道155号に出る。そこで右折し春日川に架かる春日川橋に。橋の西詰に地蔵堂。「ぽっくり地蔵」とある。また橋を渡ると東詰にお地蔵さまが石柱上に座る標石があり、手印と共に「右やしま寺 明治三十年」と刻まれる。手印に従い県道を更に東に進む。


新川橋東詰に標石
次いで新川に架かる新川橋を渡ると橋の東詰に標石があり、手印と共に「やし満 右一之宮 東徳島 西高松 北やし満」と刻まれる。遍路道はここを左折し県道155号を離れ県道150号に乗り換え相引川の右岸を北に進む。
相引川
なんだか面白い名前。チェックするとその由来は、「川の両端がともに海に繋がっているため、潮の満ち引き時には川の水が東西両方向から満ち、両方向へ向かって引いていくことから、相引川と呼ばれるようになったとする説がある。また、東側の河口付近に位置する檀ノ浦で行われた屋島の戦いの際に、源氏・平氏の双方が互いに譲らず引き分けたことを由来とする説もある」とあった。

それにしても奇妙な川。その成り立ちをチェックする。Wikipediaに「源平合戦(1185年)の時代には屋島と四国本土はかなり離れていた。江戸前期までは海であり、満潮時には海水が東西から満ち、干潮時には東西に分かれたことから「相引浦」と呼ばれたという。
生駒氏統治時代(1600年 - 1640年)の寛永14年(1637年)、生駒高俊が堤防を築かせ、屋島と四国本土は陸続きになったが、松平氏統治時代(1642年 - 1871年)になって、古来の妙跡を惜しんだ初代藩主松平頼重の命によって1647年(正保4年)に水路が復元され、現在の相引川の形が完成した」とあり、続けて「鎌倉前期の軍記物語の『平家物語』には、「・・・潮の引いています時には、陸と島との間は馬の腹もつかりません。」と記述され、浅い海であったとされている。また、1633年(寛永10年)の『讃岐国絵図』は、屋島は海を挟んで島として描かれている。そして、1789年頃(寛政頃)の『讃岐一円図』は、屋島は川で隔てられた島であり、1808年(文化5年)に測量された『伊能大図』は、現在と同様に相引川を挟んで島となっている」とそのエビデンスを示していた。

相引川・大橋北詰にお堂と標石
相引川に架かる大橋を渡ると北詰に立派なお堂が建つ。お不動さんを祀るとされるお堂の庇の下に4基の石造物とその外側に5基の石柱が残る。
石柱は旧大橋の石柱。「大橋」と刻まれる。4基の石造物はすべて標石を兼ねているようである。そのうち1基は角柱標石、3基は舟形地蔵丁石。角柱標石には正面に「南無阿弥陀仏」、「是よりやしま寺へ十九丁 一のみや江百五十丁」と刻まれる。建立近視者の菩提を弔う石碑のようだ。3基の舟形丁石には「一丁目 享保」「右扁ろミち」「二丁目 享保十」と言った文字が刻まれる、と言う。

双ッ池南の標石
北に進み、琴電潟元駅と、如何にも往昔の干潟の趣を残す駅の東側にある踏切を越え三叉路を北東に進む道をとる。しばらく進むと県道14号と交差。遍路道はここで左折し県道14号に乗り換えて北に進む。
ほどなく右から道が合わさる前面に土手。道の交差する土手下に「四国のみち」の指導標、大きな角柱石碑と共に標石があり、手印と共に、「左やし満道 文政二」といった文字が刻まれる。 傍には「屋島遍路みち案内(弘法の道)」があり、屋島寺への上り、屋島寺から八栗寺へと下る遍路道筋にある12か所の旧跡の案内があった。
八十五番札所八栗寺への遍路道
この交差部を左へと、屋島の山裾を進む道も遍路道。屋島寺を打ち終えた後、ここまで戻り次の札所八栗寺へと向かう遍路もいたようだ。

遍照院傍に「四国のみち」指導標
標石に従い道を進むと、二ツ池の西側、道の左手のガードレール外に標石がある。大師坐像が浮き彫りとなった結構大きな標石だ。手印と供に「一のみやミち 百三十丁」と刻まれる。
次第に急坂となった道を進み、左手に屋島小学校を見遣り先に進むと、道の右手に遍照院がありその先で道は二つに分かれる。その分岐点に「四国のみち」の指導標が立ち、遍路道は直進。 上述双ッ池土手下の「遍路みち案内」に、遍照院には弘法大師作の仏像が祀られる、とあった。

●八十四番札所 屋島寺表参道●

屋島寺表参道登山口
舗装された道を進み、民家も途切れ林に入る頃、道の左右に3基ほど舟形地蔵標石が続く。「七丁目」「九丁目」、共に「享保十一」と刻まれる、と。




道の左右の未舗装箇所には結構な数の車が停る。屋島寺なのか屋島のお山なのか、ともあれ車をここまで寄せて屋島へと向かうようだ。道はその先で石段となる。






石段付近には標石らしき傾いた石柱、左手の林の中にも舟形地蔵。「右 左」といった文字が刻まれており、標石となっている。







弘法大師加持水
石段となり車の進入を止めた先も幅3mほどの舗装された道が続く。4分ほど歩くと道の右手に多数の石造物があり、石柱に「弘法大師加持水」とあり、案内には「弘法大師が、仏天を供養し誦呪加寺(呪文を読み仏の加護保持を祈とうすること)をしたといわれる水です。
干ばつで各地の池や井戸水が枯れても、この湧水は絶えることがありません。 また、路傍の石碑に字が刻まれていますが、弘法大師の筆跡だと伝えられています」とあった。
数個の自然石に囲まれた湧水がかろうじて残っていた。
弘法大師加持水の先、道の右手に2基の舟形地蔵が並ぶ。

十二丁・十三丁石
加持水からほどなく道の右手に地蔵石仏、次いで4分程あるくと十二丁、更に5分ほどで十三丁の舟形地蔵丁石が現れる。道は相変わらず舗装され、朝の散歩のお山に上り、そして下りてくる多くの人にすれ違う。



不喰梨弘大師
十三丁石から4分程歩くと道の右手に再び石仏群が現れる。中央の等身大坐像の台座には「不喰梨弘大師」の文字が刻まれる。その横、大きな石碑は「くわすのなし これよ里本堂へ三丁 文政六」と刻まれ丁石ともなっている。
不喰梨の案内には「空海(弘法大師)が屋島に登ったとき、梨がおいしそうに熟していたので一つ所望をなさいました、でも持主は「うまそうに見えてもこれは食べられない不喰の梨です」と嘘を言ってことわりました。その後、この梨はほんとうに石のように固く食べられなくなってしまつたと伝えられています」とあった。

梨に限らずこの類の伝説は多い。芋、蕨、栗、柿、胡桃、そして水など。パターンも意地悪な場合は「不自由」に、親切な村人の場合は「恵まれる」といった勧善懲悪の型をとる。 こういった救荒食物や弘法水といった伝説は中世以降全国を遊行した高野聖に拠ることが多いと言う。

畳岩
不喰梨から数分で十五丁の舟形地蔵丁石。そこから5分ほどで畳岩。西行法師が屋島で「宿りしてここにかりねの畳岩,月は今宵の主ならぬ」と 詠じたとされる。屋島の頂上部を構成する讃岐岩室安山岩という固い岩石の発達した板状節理に拠る。
因みに屋島の美しい台形姿を構成するのは山頂部の堅い讃岐岩質安山岩は固く侵食に耐え元の姿を留める一方、中腹より下の花崗岩質は削れられなだらかな斜面となった故、と言う。 畳岩の直ぐ先には2基の舟形地蔵が並ぶ

名号石
数分進むと不動明王の石仏、さらに数分で自然石に「南無阿弥陀仏」と刻まれた名号石。前述「屋島の遍路みち案内」には、「地元の人はこの石の前でこけると腹がいたくなるから転ばぬようにせよ」とのいいつたえから、この石を腹くわり石と呼んでいる」とあった。屋島には弘法大師が仏の名を刻んだ名号石が3基あるとのことだが、これはそのひとつ。


徳右衛門道標
西国観音霊場二番札所の石仏をみやりながら進み右に折れると屋島寺の山門前に石段。石段を上る途中、右手に徳右衛門道標。「是より八栗寺迄一里 右八くり道 寛政十二」といった文字が刻まれる。この道標、常の徳右衛門道標と大師坐像の姿が異なり椅子にお座りになっていなかった。
それよりなにより、「右八くり」の示す方向は?先に建つ仁王門を越えると右折し屋島南嶺裾を南西に続く道がある。その道を指すのだろうか。はっきりしない。

八十四番札所 屋島寺仁王門
徳右衛門道標の先ににに仁王門。八十三番札所 一宮寺より八十四番番札所 屋島寺までの旧遍路道を繋いだ。次回は屋島寺から八十五番札所八栗寺までの旧遍路道を辿る。


先月は2回に分けて、八十二番札所 根香寺より五台山を下り八十三番札所 一宮寺へと向かう旧遍路道を、東に下り古刹香西寺を経由する香西口ルートと、南東に直接鬼無に下る鬼無口ルートをメモした。これらは七十九番札所 天皇寺より八十番 国分寺、八十一番白峰寺、八十二番根香寺を打ち八十三番一宮寺へと辿る、所謂順打ちルートである。
先般メモしたように、七十九番天皇寺から八十三番一宮寺への旧遍路道は、この順打ちルートとは異なる「逆打ちルート」がある。八十番国分寺から五台山の急登上り八十一番の白峰へと辿るルートを避け、七十九番天皇寺から高屋神社を経て八十一番白峰寺へと上り、八十二番根香寺を打った後、八十番国分寺へと下るルートである。江戸の中頃に開かれた、とのこと。
今回のメモは、この逆打ちルートを辿り、国分寺を打った後、八十三番一宮寺へと向かう、おおよそ2里(8㎞)の旧遍路道をトレースする。常の如く、旧遍路道の目安は処々に建つ標石である。

本日のルート;80番札所国分寺>関ノ池の地蔵尊>国道11号バイパスに「四国のみち」指導標>赤池地蔵堂>県道183号との交差部に2基の標石>下福家の自然石標石>県道12号三木国分寺線の「四国のみち」指導標>三界万霊地蔵尊>魔除大師>南海道一里松跡>県道282号交差点に横内地蔵尊と金毘羅堂>県道44号交差点に標石>円座橋西詰めの地蔵と標石>円座橋東詰めの舟形標石>小堂に舟形地蔵標石>標石と茂兵道標>一宮寺手前の石仏標石>細路に手印標石>札所83番一宮寺駐車場北西角に標石>札所83番一宮寺


関ノ池の地蔵尊
国分寺山門前を少し東に向かい、右折し県道33号・丸亀街道、その先の予讃線・瀬戸大橋線の踏切を越え、関ノ池の東堤に。池の東北角、柱と屋根だけの覆屋に大きな地蔵尊が佇む。台座に三界万霊と刻まれる。明治十二年(1879)の建立。両サイドに無縁仏と刻まれた比較的新しそうな五輪塔と古い趣の石仏が並ぶ。
仁和二年(886)、讃岐守となった菅原道真が国分寺門外の蓮池で蓮の花が開くのを見て、七言二十四韻の詩を詠った。その蓮池は関の池の前身とも伝わる。現在の関の池は昭和十四年(1939)から2年の歳月をかけて修築されたものと地蔵尊脇の石碑にあった。

国道11号バイパスに「四国のみち」指導標
関ノ池の東堤を進み、池の東南端にある取水口に架かる「関の池橋」を渡り、国道11号バイパスに出る。関の池橋下を流れる水路には「野間川」とある。池から流れる水路に川名?地図をトレースすると、関ノ池は北に点在する池と結ばれれており、その池は五台山からの沢筋と繋がっていた。沢から流れ出た水を有効活用した溜池群なのだろうか。
遍路道は国道11号を南にクロスするが、その角に「四国のみち」の指導標。一宮寺8.1kmとある。

赤池地蔵堂と標石
国道を渡り南東に少し進むと四つ角があり、遍路道は左折し東に向かう道に乗り換える。左折して直ぐに地蔵堂。赤池地蔵堂と呼ばれるようだ。道の南に池があるが、それが赤池だろうか。
お堂には大きな地蔵石仏と墓石らしき石が並ぶ。お堂の外、東側に自然石の標石。「右瀧宮道 左へんろ」と刻まれるようだ。
瀧宮
瀧宮はここから南西、琴平電鉄滝宮駅近くにある瀧宮神社(綾歌郡綾川町瀧宮)のこと。瀧宮神社の東隣には讃岐国府の官舎跡ともされる瀧宮天満もあり、この地は菅原道真の雨乞祈願で知られ、「雨乞い念仏踊り」を今に伝える。

県道183号との交差部に2基の標石
道の左手に「元国分高等小学校跡」の石碑を見遣りながら東に進むと、県道183号・綾川国分寺線と交差する東側、道の左右に標石が立つ。北側の標石には手印と大師像、そして一宮寺の文字が見える。南側の商店前の標石北面には「右国分寺 南瀧の宮道 左一ノ宮寺 北高松道」、西面には手印と共に「四国八十二番奥院・一国三十六番霊場 鷲峰寺 南八丁」と刻まれる。



鷲峰(じゅうぶ)寺
高松市国分寺町柏原、鷲ノ山(標高322m)の東麓にある八十二番札所根香寺の奥の院。天平勝宝6年〈754〉、鑑真和尚創建と伝わる古刹。平安時代前期、貞観二年〈860〉には円珍により智証大師十七檀林のひとつとして清和天皇の直願所となった。
智証大師は円珍の諡号。円珍は弘法大師空海の甥とも、姪の子とも言われる。

下福家の自然石標石
県道183号を越えると道の左手に大きな地蔵坐像。道の先には右手に讃岐特有のお椀を被せたような六ツ目山(標高317m)、左手に伽藍山(標高216m)が見える。 道をしばらく進み本津川を越えると、下福家の県道39号四辻手前に自然石の標石。「是与国分寺二十一丁 一ノ宮五十四丁」と刻まれる。

福家
香川では「ふけ」と読むようだ。平安末期、讃岐藤原氏の二代目、羽床を称した藤原資高の四男資光は地名をとり新居氏と改名。源平の乱で源氏に与し戦功をたてた。その新居の系が福家を名乗った、と。福家を名乗ったのが先か、福家という地を領した故の福家かはっきりしない。
チェックすると、「さぬき国分寺町誌」に 「福家は、不毛(ふけ)が語源で、元来は農作物を産しないこと、特に稲作に適さない土地を指すことが多く、不毛(ふもう)の土地であったことを意味する。 しかし鎌倉時代までに綾(讃岐藤原)氏の一族である福家氏などの在地領主が開発して水田化されたものである。豊かになった不毛の地にちなんで雅字をもって福家と充てたものであろう」としている。不毛という「地形」の地を新居氏が開拓し、地形を雅字に充て福家と改称し、地名も福家となった、ということだろうか。

県道12号三木国分寺線の「四国のみち」指導標
県道183号を越えると次の四辻南西角に標石。手印と共に、「右国分寺 左一の宮」と刻まれる。遍路道は田圃の中を六ツ目山と伽藍山の間の鞍部へと向かう。ほどなく県道12号三木国分寺線と斜めに交差。交差部には「四国のみち」の指導標が立つ。

県道12号合流部の三界万霊地蔵尊
県道12号を斜めに越えた遍路道は、県道12号に沿って弧を描き再び県道12号に合流。合流点には台座に「三界万霊」と刻まれた結構大きな地蔵が座る。峠を境に行政区域もかつての綾歌郡国分寺町(現在は高松市国分寺町)から高松市域に入る。
県道12号との合流点、地蔵尊の対面に石柱が見える。「青光山万灯寺 石鉄大権現別院登山口 昭和廿五年」」と刻まれる。この寺は「身代り薬師如来」として知られるようだ。

魔除大師
県道12号を少し東に下ると、道の左手にお堂がある。案内には、「渡唐山遍照院 当院は真言宗の寺院で、高野山金剛三昧院の出張所である。弘法大師をまつり「唐渡りのお大師さん」と呼ばれて親しまれている。
昔このあたりには悪魔や山賊がしきりに出没して民衆を苦しめていた。たまたま四国霊場を開山した弘法大師がこの地に来られ、早速七昼夜の真言密教を修めて彼らを唐の地に渡し民心を安んじられたという。そこでご本尊を魔除大師また厄除大師とも名付けている。
毎年五月二十一日に大法要が営まれ、この日を唐渡市という。かつては競馬が開かれ、農具や苗物などの店が立ち並んで、遠近からの参拝者で賑わった。
当院の南側には新四国八十八カ所や真宗二十四拝の仏像などが整備されている。この付近からの遠望は素晴らしく、高松百景のひとつに選ばれている。 檀紙地区地域おこし運営委員会」とあった。
新四国八十は八カ所や真宗二十四拝は明治後期に設置されたもの、県道12号や高松自動車道建設工事のため放置されていたが、平成3年(1991)に整備されたようだ。
真宗二十四拝
真宗の祖親鸞上人の弟子24人(二十四輩)開基の寺を巡る真宗門徒の霊地巡礼。元は全国各地を巡るが、他の巡礼と同様に地域や境内に「写し霊場」が設けられた。
写し霊場は江戸後期に盛んに設置された後、明治末期から昭和初期にかけても設置ブームが再現したようであり、この写し霊場もその折に設けられたものであろうか。因みに香川の寺院のおよそ4割が真宗という。

南海道一里松跡
魔除大師から先、県道12号を少し下った遍路道は高松道・高松西インター手前で県道を右に折れ、高松道を潜り県道12号の南を東進。県道178号・山崎御厨線、県道44号・円座香南線を越え古川を渡る。古川を越えて直ぐ、明治に檀紙・円座・川岡三カ村組合立として開設された堂山高等小学校の案内板の前に石碑があり、南海道一里松跡とあった。
古代官道である南海道は一宮寺・田村神社から西に、御厩(みまや)、六ッ目山の北の鞍部を越え国府に繋がっていたようだ。ということは知らず古代官道の道筋を辿っていたということだろうか。 御厩は魔除大師の北に御厩池があり、その辺りを御厩地区と地図にある。
檀紙
檀紙(だんし)とは、縮緬状のしわを有する高級和紙で、平安時代以後、高級紙の代表とされ、中世には備中・越前と並び讃岐国がその産地として知られた。讃岐では檀紙の原料となる「檀(まゆみ)」が本津川の支流である古川に繁茂した。檀紙地区には古川が貫流するゆえの地名であろうか。
檀紙地区の北には紙漉といった地名も残り、盛んに紙を漉いていたとのことだが、慶長年間というから16世紀茉から17世紀初頭の頃に途絶えたと。檀紙の原料が後に楮(こうぞ)が取って代わったとのことと何か関係があるのだろうか。
檀(まゆみ)を真弓とも書くのは、そのしなり故に弓の材料としても重宝したから、とか。
円座
円座はガマやスゲ、イグサで編み上げられた円形・渦巻き状の平らな敷物。菅円座とも呼ばれ、宮廷や神社で使われた。高松藩初代藩主松平頼重は円座職人である葛西氏を藩のお抱えとして庇護し幕府に献上している。葛西氏は東国の出。上代に讃岐に移り代々円座師として続いたという。が、現在この技術を受け継ぐ職人は2017年現在でただひとり、との記事があった。円座という地名はこれに拠るのだろう。
堂山
この地区の南西に標高302mの堂山がある。堂山小学校の名前の由来だろう。因みに「組合立学校」とは、小規模な自治体が公共事業を行うため作られた組合により開設された学校のこと。各自治体を越え、近隣する地区、複数の自治体が共同で設立した学校。

県道282号交差点に横内地蔵尊と金毘羅堂
道を東に進み国道32号を越え県道282号との交差手前、道の左手にコンクリート造りのお堂があり2基の石仏が祀られる。そのうち1基はお大師様のようだ。案内には「横内地蔵尊」とあった。横内は地区の名前である。
交差点を渡った東南角には小さいながらも瓦葺きの金毘羅堂。傍には大権現と刻まれた金毘羅常夜灯、大きく突出した手印と共に「一宮 高松 天保四」と刻まれた標石、その間に五角柱の石碑が並ぶ。
お堂傍にあった案内には「横内の四つ辻は、古代の南海道(官道)と金毘羅街道の交差点で、多くの旅人が往来し、大変繁盛した土地であります。
金毘羅末社;幕末の頃この地に?の御幣が天から降ってきました。地元の人々は本社の許しを得て、御幣を祀る末社を建てました。
金毘羅灯籠と道しるべ;金毘羅さんに参詣する旅人の道案内としてつくられた灯籠と「道しるべ」があります
地蔵;旅人の健康と安全を祈願する地蔵が安置されていましたが、道路拡張工事のため西方50mに移転しています。横内の地蔵盆は九月二十三日の夜、近在の人たちがたくさん集まり賑やかにおこなわれていました。
大納言頼経の墓;鎌倉幕府四代摂家将軍頼経は、北条氏に追われ讃岐国に落ちてきました。因縁の深いこの地に墓がつくられ、中に五輪の骨壺が納められています。常に四季の花が供えられ、線香の香りが絶えません」とあった。

横内地蔵堂の地蔵尊はここから移されたのだろう。また、五角柱の石柱は大納言頼経の墓のようだ。石面には「大納言頼経神霊 十月三日」と刻まれる、と。頼経が讃岐に落ちた記録は見当たらない。39歳、京都でむなしくなった、と。

県道44号交差点に標石
かつて金毘羅街道沿いの宿場町として栄えたという円座を東に進む。確認していないが、金毘羅街道は南西へと続く琴平電鉄琴平線に沿って道筋があったのだろうか。 県道282号の一筋東、県道44号との交差する西南角に上部の破損した標石。台座の上に乗る。道を隔てた東北角には「四国のみち」の指導標が立つ。



円座橋西詰めの地蔵と標石
香東川に架かる円座橋の西詰め、道の右手に等身大の地蔵尊立像。地蔵の傍に標石があり、「右 左」といった文字だけが残る。








円座橋東詰めの舟形標石
香東川を渡った東詰めにも舟形地蔵標石。「一宮寺へ十丁 国分寺へ一里半 昭和五十四年」といった文字が刻まれる。昭和54年(1979)建立なのに「丁」や「里」? 古くなり破損したものを修復し直したものだろうか。





小堂に舟形地蔵標石
遍路道は円座橋東詰めの舟形地蔵標石を右折し土手道を進む。香東川右岸を少し進むと左に分かれる道。道なりに進むと道の右手、道が東へとカーブする辺りに小堂があり。「右丸かめ 左」といった文字が刻まれる。






標石と茂兵道標
東に進むと香東橋東詰で別れた道に合流。合流点に小堂がありその傍に2基の標石。茂兵兵衛道標が立つ。1基は147度目の茂兵衛道標。手印と共に「一宮寺」「国分寺」「明治弐十九年」といった文字が刻まれる。もう一基の標石には「右八十番国分寺 一里十丁 皇紀二千六百年」といった文字が刻まれる。



一宮寺手前の石仏標石
道を東に進み御坊川を超えると、道の左手に標石が立つ。道路側には石仏立像が刻まれ、西面側には手印と共に「左へんろ道 札所へ二兆丁 寛政十二年」といった文字が刻まれる。 指示にある左は一見すると民家の敷地のようにも見える。が、何となくフェンスに沿って道らしき雰囲気もあり、標石の指示に従い左に折れる。高松南高等学校との境の細路を進む。

細路に手印標石
この道で大丈夫?などと思いかけた頃、細路に手印標石。オンコースとわかり一安心。成り行きで進むと車道に合流。そこに一宮寺駐車場があった。




札所83番一宮寺駐車場北西角に標石
駐車場の北西角、大師座像の下に「太札 二丁 明治四十三年」と刻まれた標石がある。「太札」と読めるのだけど何だろう。それはともあれ、標石を東に進むと山門があり、八十三番札所一宮寺の西門(裏門)にあたる。裏門内側右に手印と共に「八十三番札所」と刻まれた標石があった。

これで八十番札所・国分寺から八十三番札所・一宮寺へと辿る旧遍路道のメモを終える。次回は一宮寺から八十四番札所屋島寺への旧遍路道をトレースする。


根香寺から一宮寺への遍路道の2回目。今回はお山を南に直接鬼無に下り、一宮寺へと向かう遍路道をメモする。
このルートはあまりお遍路さんが歩かないのか、WEBにはこのルートの案内記事が少ないようだ。詳しいルート図も見当たらず、荒れた道故に利用されないのか、などと思いながら山道を辿ったのだが、指導標も立ち、道も整備されており、山裾までは道に迷うことはなかった。
山裾から鬼無の香西口ルートとの合流点までは遍路タグや指導標を見付けることはできなかったが、ルートのポイントとなる箇所はカバーしたので鬼無口ルートと考えてもほぼ間違いないだろう。

このルートは鬼無で香西口経由の遍路道に合流する。鬼無駅南の石灯籠と標石の立つ箇所が合流点だが、そこから一宮寺までは先回の香西口ルートの道筋と同じ。鬼無口ルートを辿るお遍路さんへの利便性のため、合流点から先は先回メモした一宮寺までの道筋もコピー&ペーストしておく。

本日のルート;
香西口ルート
82番札所・根香寺>香西口への下山口>山道を下る>八丁目>9丁目>里の車道と合流>民家生垣の標石>桑崎下橋の東に標石>十五丁舟形地蔵丁石>地蔵堂>神在口の鳥居と標石2基>香西寺>萬徳寺>御旅地蔵>瀬戸大橋線・鬼無駅>香西口・鬼無口ルート合流点・自然石灯篭と標石
鬼無口ルート
82番札所・根香寺>根香寺仁王門前を根香寺道に>根香寺道三丁目休憩所>根香寺道と鬼無口への分岐点>遍路墓>車道に出る>車道を逸れて土径へ>車道をクロスし坂を下り再び車道へ>一瞬土径に入り再び車道に>盆栽通り分岐>車道を右に折れる>香西口・鬼無口ルート合流点・自然石灯篭と標石
香西口・鬼無口共通ルート
自然石灯篭と標石>民家脇に標石>あごなし地蔵堂と石の卒塔婆>飯田お遍路休憩所>高地蔵>飯田の観音さん>古宮社>茶臼塚>定木の常夜灯と標石>舟形地蔵丁石>遍路標石と舟形地蔵>四ッ又地蔵>潜水橋>遍路墓2基>自然石の標石>成合橋北詰めの石仏標石>成合神社参道口の標石>小堂の舟形地蔵丁石>Y字路の標石>遍路小屋>83番札所・一宮寺



鬼無口ルート

根香寺仁王門前を根香寺道に
根香寺から鬼無に下るルートを探る。WEBに参考になる情報をスキミング&スキャニング。はっきりと道筋をガイドする地図は見つからなかったが、どうも、白峰寺から根香寺への根香寺道の三丁目標石のある辺りから麓に下るようだ。
国土地理院の地図をチェックすると、根香寺道の三丁辺りから県道180号の東側を南に下り、途中、県道180号から分岐し鬼無に下る道筋の東に沿って麓へ下線が描かれる。それが遍路道?と、あたりをつける。

根香寺仁王門から根香寺道に入る。入り口は仁王門前の駐車場谷側端、南に上る舗装された道がそれ。道の入り口には舟形地蔵丁石が立ち、一丁目と刻まれる
根香寺道
根香寺道は白峰寺から根香寺までの間、おおよそ5キロほどの遍路道。澄禅(ちょうぜん)の『四国遍路日記』(承応2(1653)年)には、「白峰ヨリ五拾町往テ根香寺ニ至ル」との記述があり、真念の『四国遍路道指南(みちしるべ)』(貞享4(1687)年)にも「これより根香寺まで五十町」と書かれている。一丁(町)はほぼ109mであるので、おおよそ距離も合致し、少なくとも江戸時代前期に使われた遍路道と推測される。
この根香寺道のうち、白峰寺出発点の一部と根香寺寺近くのおおよそ2.3キロが昔の面影を良く残すとして平成25年(2013)に国の史跡として指定されている。

根香寺道三丁目休憩所
舗装された道は歩き始めると直ぐに土径となる。道の右手に二丁目と刻まれた舟形地蔵丁石をみやりながら5分ほど歩くと空が開ける。そこには休憩所と遍路小屋。休憩所の手前に標石が立ち、正面には梵字、大師像と共に「是ヨリ一宮迄二里半」と刻まれる。また側面には「崇徳天皇御遺詔地千尋嶽是ヨリ一丁」とある。
千尋嶽は崇徳天皇がその風光を賞で,御陵を造るようにと言 った場所だと言われる。ここから少し西に435mのピークがあるが、そこが千尋嶽だろうか。
崇徳帝の御陵
帝の御陵は千尋嶽ではなく白峰寺の白峰御陵にある。その経緯は?チェックすると、江戸時代後期の儒者である中山城山がまとめた『全讃史』の「根香寺」の項に崇徳院とのゆかりを示す記述があった。
「保元中、崇徳帝 数々行幸を為し給ひて、風景の勝を愛し給へり。甞て詔して曰く、朕千秋の後は、必ず此の山に葬れよ(根来寺の景観を愛で、幾度も行幸を繰り返し、亡くなった後はこの寺に葬れ、と言った。)」、と。
が、「長寛二年八月二十六日、崩じ給ひ、従者 霊輿を奉じて 此の山に到れり。乃ち 僧徒 相議して曰く、吾が山は 即ち 大悲轉法の所、百王鎮護の場なり。豈に 凶穢の物を入るべきや と。乃ち 南嶺に出して 之を拒む(崇徳院が亡くなった時、遺言故に根香寺に棺を運び入れようとしたのだが、根香寺の僧は、崇徳院を"凶穢"として入山を拒んだ)」、と。 「是を以って、已むを得ずして 神輿を反す。時に、輿中に聲ありて曰く、何故反す、と。因って 其の地を謂つて "何故嶺" と曰ふ。遂に 白峯に奉葬せり。 此の寺の衰廃は もと、其れ之れの由る。厥(そ)の後、数々災ありき。亦、"帝の祟(たたり)" と云う」、と。
しかたなく神輿を戻すに、"何故、返すか" との声があった。「根香寺」のあたりの嶺 を、"那是か;何故嶺(なぜかれい)" と呼ぶようになった所以、とか。そして、白峯山に埋葬することになったわけだが、東西一里餘、十七檀林もあった大寺であった根香寺がその後衰退したの、崇徳帝の "祟り" によるもの、と言われる、と記されていた。

休憩所の傍には小祠と共に「崇徳天皇 遥拝小祠」と刻まれた石碑があり、上述エピソードと共に、「崇徳天皇御遺詔地千尋嶽是ヨリ一丁」とある崇徳天皇の遥拝所の小祠が荒れ果てたがゆえに、此の地に小祠を立てたといった記事が刻まれていた。

根香寺道と鬼無口への分岐点
鬼無への分岐点を探す。休憩所や遍路小屋傍にもう一基標石が立つ。手印は右を示し「国分寺六十四丁 瑞岡駅四十七丁」と刻まれる。瑞岡駅とあるからそれほど古いものではないだろう。
それよりなにより、瑞岡駅は国分寺の東2.3キロほど鬼無側にあるわけで、距離からすればこの標石の意味するところは、この分岐から瑞岡駅を経て国分寺への道を案内するということになる。ということは、へんろころがしの急坂経由国分寺の遍路道ではなく、鬼無口経由国分寺までの遍路道を案内しているようにも思える。
思うに、79番札所・天皇社から81番・白峰寺を経て82番・根香寺に進み、80番札所・国分寺へと下った後、82番札所・一宮寺へと向かう逆遍路道の標石か、とも。79番天皇寺から80番国分寺へと順路を進み、81番、82番に向かうへんろころがし・一本松の峠への急登を避けるため、江戸の中頃開かれた逆遍路道の道筋だろう。逆遍路道のルートは根香寺から一本松の峠・へんろころしの急坂を国分寺へと下っていたのだろうと思っていたのだが、いつの頃開かれたか不明だが、この鬼無口から国分寺へと向かう遍路道もあったようだ。
それはともあれ、この標石は鬼無口への手掛かり。このあたりに鬼無口分岐点があるだろうと辺りを彷徨うと、標石の右、というか少し西側に、比較的新しい石柱があり。そこには一宮寺方面と白峰へと向かう根香寺道の分岐案内があった。ここが根香寺道から鬼無口への分岐であろう。なんとか分岐点がみつかった。

遍路墓
一宮寺方面の指示が示す草の中に入る。ちょっとふあん。が、しばらく進むと踏まれた土径となり、一安心。6分ほど南に歩くと道の右手に6基ほどの石碑が並ぶ。遍路墓のように思える。
分岐点から南に下ってきた遍路道は遍路墓の辺りから等高線に沿って東に進む。国土地理院の地図でチェックすると、県道180号から東に向かって分岐し鬼無へと下る道に沿って進んでいる。遍路道が切れてもエスケープできる道があるわけで、さらに安心し先に進む。

車道に出る
東に向かった遍路道は北東に突き出た尾根筋突端を大きく廻り、途中激しく茂る草藪を突き抜けなどしながら遍路墓からおよそ20分歩くと舗装された歩道に出る。




車道を逸れて土径へ
車道を少し進み、北東に突き出た尾根を回り込んだ車道が南へと下る辺り、道の左手の草の中に遍路道と書かれたタグがある。
車道を逸れて土径を進むとほどなく車道へと上る道がある。確認のためその道を車道に上ると、そこには遍路道を案内する石柱があった。先の遍路道分岐点は草に隠れ見逃してしまいそうだが、こちらには一宮寺と刻まれた石柱であり、見逃すことはないだろう。

車道をクロスし坂を下り再び車道へ
遍路道を10分ほど下ると車道に当たり、その車道の対面に道が下る。結構な急坂でありしかも簡易舗装されており、雨上がりということもあって、ツルツルと滑り足元が危うい。道の右手には盆栽用の松が植えられている。
道の左手に舟形地蔵丁石を見遣り坂を数分下ると再び車道に当たる。ここからはしばらく車道を進むことになる。

一瞬土径に入り再び車道に
車道を南東へとしばらく進む。尾根筋に挟まれた赤子谷を抜け、東の尾根筋で車道が大きく南にヘアピン状に曲がるところに一宮寺と刻まれた石碑が立つ。車道を逸れ土径に入る。道筋には舟形地蔵丁石も立つ。
5分ほど歩くと遍路道は車道に合流する。ヘアピン状に曲がった車道が北に戻ったところである。

盆栽通り分岐
車道を7分ほど歩くと盆栽通りの標識。その左手に石柱と遍路道案内のタグ。石碑には一宮寺は右、遍路道タグには「へんろ道」は左との案内。共に一宮寺へと向かうわけだが泣き別れ。石柱の示す一宮寺への道は盆栽通りを下っていくのだろう。
ここは遍路道の案内タグに従い左へと車道を進む。
盆栽通り
鬼無は錦松、黒松、五葉松と言った全国の松盆栽の80%を生産する世界一の松盆栽お植木の里。歴史は今を遡ること200年、瀬戸内の沿岸に自生する松を植え、鉢植えとして販売したことに始まる。黒松を鉢植えに仕立てた鬼無仁三郎、販路を開拓した渡辺半太郎、黒松の突然変異種の錦松の接ぎ木に成功し大量生産を可能とした末澤喜一など先人の努力の賜物とのことである。

車道を右に折れる
盆栽通りへの分岐から車道を進むと直ぐ、最初のカーブを廻りガードレールが一瞬途切れるところ、ガードレール端に遍路道案内のタグ。うっかりすると見落としてしまいそう。遍路道案内タグに従い、その切れたガードレールから右に分岐する道に乗り換える。
舗装された道を進み、右手に見える池をこえたあたり、道の左手に谷北上集会所。遍路道は谷北上集会所前を通る、といった記事もあったの、オンコースであることを確認。

香西口・鬼無口ルート合流点へ
谷北上集会所から先の鬼無ルートの遍路道は、公民館前バス停を経て伊予街道、予讃線を越えて香西口からの遍路道に合流するという。地図をチェックすると谷北上集会所から直ぐ右折し、一筋南の道筋に公民館前バス停がある。その通りは先ほど出合った「盆栽通り」分岐から一宮寺へと向かう道筋のよう。盆栽通り分岐で分かれた道はここで合さり一宮寺へ向かうようである。
鬼無小学校前を右折し、公民館前バス停のある通りを左折、県道33号・伊予街道を越え予讃線の踏切を渡り直進すると、香西口遍路道との合流点である「八幡宮」と刻んだ3mほどの自然石と標石のある箇所に到着する。


香西口・鬼無口ルート合流点から一宮寺へ

根香寺から鬼無口に下る遍路道のメモはここまで。これから先一宮寺までは先回辿った香西口経由のメモを再掲する。

香西口・鬼無口ルート合流点・自然石灯篭と標石
鬼無駅前を南に下ると道の左手に大きな自然石の燈篭が見える。「八幡宮」と刻まれた石灯篭の前に標石があり、「左いちのみや」と刻まれる。
八幡社とは後述する、飯田の八幡様と称される岩田神社のことだろうか。 標石脇には遍路道表示もあり、ここでY字となった径に折れる。と、すぐに墓地を囲む生垣に埋もれるように標石が立ち、「是よ里一宮六十七丁」と刻まれる。
なおこの地は次回メモする根香寺からお山を直接鬼無に下る遍路道との合流点でもある。

民家脇に標石
径を進むと県道177号に当たる。遍路道は県道を突き切り民家の間の径に入る。径の角に標石があり、手印と共に「是よ里一のみや」と刻まれる。
径を進むと古さびた堂宇。道端大師堂とある。地蔵堂を超えると遍路道は本津川の堤に出る。昔の遍路道は本津川に下り、そこに架かる接待橋を渡ったようである。現在は少し下流に架かる永代橋を渡るが、この橋を接待橋とも呼ぶようだ。

あごなし地蔵堂と石の卒塔婆
永代橋を渡るとあごなし地蔵堂とその後ろに4mほどの卒塔婆。お堂の前の案内には、「孔雀藤 ふじなみや 音なきかぜのよりどころ 梅下庵主人
孔雀藤は樹齢八百年を数えると推定され、その名称は明治三十年(1897)ころに、孔雀の羽ように艶やかな藤であるというところから付けられた。
昭和十四年(1939)、香川県天然記念物の指定となり、昭和四十六年(1971)県の自然物の指定となる(この孔雀藤は岩田神社境内にある)。
遍路道
遍路道には一見してそれとわかる道標・丁石が立てられている。遍路は、それを道案内に札所から札所へ迷うことなく、大師の辿られた跡を慕って修行して歩けば、解脱成仏できると信じたようである。
根香寺から永代橋(接待橋)を渡ると卒塔婆・顎無地蔵・源岩田山蓮香寺本尊千手観世音菩薩安置所(観音さん)がある。これを東に進み、道祖伸より代官道を通り四ッ又地蔵へ、さらに一宮寺に行く道を遍路道という」とあった。

あごなし地蔵の説明はなかったが、歯痛に後利益あり、という。あごがどうして歯痛?チェックすると大阪府豊中市にある萩乃寺の秘仏・あごなし地蔵尊のいわれが見つかった。そこには、廃仏毀釈の嵐に巻き込まれた隠岐の島の伴桂寺より難を逃れるべく萩乃寺に遷座したとあり、秘仏あごなし地蔵尊のいわれとして、「平安初期の参議で歌人としても名高い小野篁卿が承和5年(838)12月、隠岐の島へ流されたときに阿古という農夫が身の回りの世話をしました。ところがこの阿古は歯の病気に大層苦しんでいたので、世話になったお礼にと、篁卿は代受苦の仏である地蔵菩薩を刻んでこれを授けました。阿古が信心をこらして祈願するとたちまち病が平癒し、卿も程なく都へ召し返されたので、奇端は偏にこの地蔵尊の加護したまうところと、島民の信仰を集めました。
その後、仏像は島の伴桂寺にまつられ「阿古直し」がなまって尽には、「あごなし地蔵」と呼称されるに至ったといわれています」とあった。
また、埼玉の広済寺にある「あごなし地蔵」は文字通り顎がない。顎がなければ歯もないわけで、歯痛がおきることもない、とのこと。
前者はいわれとしては面白いが、一般化するとすれば後者の広済寺のほうがわかりやすどうだ。お地蔵さまも心ももち顎がないように思える。

飯田お遍路休憩所
道なりに東に進むと岩田神社に。飯田の八幡さまとして知られる岩田神社は旧飯田郷四ケ村の氏神である。拝殿左手の藤棚は前述の如く孔雀藤と称され名所とのことだが季節外れ。拝殿にお参りし遍路道に戻る。
遍路道は岩田神社前で右に折れ、南下するが、右折する少し手前に真新しい遍路休憩所があった。飯田お遍路休憩所と呼ばれる。今まで結構多くの遍路休憩所や遍路小屋を見てきたが、この休憩所は最上のカテゴリーに入るように思える。

高地蔵
岩田神社前を右に折れ南に下る道に入るとすぐ、道の右手に二本柱の小屋根をいただいた高地蔵がある。台座を含めておおよそ6m弱あるだろうか。飯田の南、檀紙地区の旧家が牛の供養に立てたという。
檀紙
檀紙(だんし)とは、縮緬状のしわを有する高級和紙で、平安時代以後、高級紙の代表とされ、中世には備中・越前と並び讃岐国がその産地として知られた。讃岐では檀紙の原料となる「檀(まゆみ)」が本津川の支流である古川に繁茂した。檀紙地区には古川が貫流するゆえの地名であろうか。
檀紙地区の北には紙漉といった地名も残り、盛んに紙を漉いていたとのことだが、慶長年間というから16世紀茉から17世紀初頭にかけて途絶えたと。檀紙の原料が後に楮(こうぞ)が取って代わったとのことと何か関係があるのだろうか。
檀(まゆみ)を真弓とも書くのは、そのしなり故に弓の材料としても重宝したから、とか。

飯田の観音さん
高地蔵の横に集会所といった趣の建物がある。そこが飯田の観音様。外壁に取り付けられた木の札には「源 岩田山蓮香寺 本尊千手観世音菩薩安置所」とある。飯田神社の別当寺であった蓮香寺跡という。

古宮社
南下した遍路道は右手に「岩田神社御旅所」の案内があるコンクリート打ちっぱなしといった土台、左手に地蔵堂のある角を左に折れる。道を進むと左手に「五大神」と刻まれた自然石の石碑と「古宮社」と刻まれた石碑の立つお堂がある。

古宮社は地図に飯田神社と記される。これは上述岩田神社の旧地であり。延喜式内帳には式外社として『射田神』を祀るとある。およそ800年前に現岩田神社のある場所に遷座した、と言う。
五大神
お堂の前に「五大神」と刻まれた自然石が立つ。五大神って何だろう?チェックする。なんとなくではあるが、地神(じしん)さま、地神信仰と関連あるように思える。その年の稲の豊作を願い、農業にゆかりの深い土地神様を祀るようだ。
で、五神との関係は? どうも農業に関係深い神として「天照大神(あまてらすおおかみ)・少彦名命(すくなびこなのみこと)・埴安媛命(はにやすひめのみこと)・大己貴命(おおなむちのみこと)・倉稲魂命(うがのみたまのみこと)」の五神が挙げられ、五角柱の各面に五神名が刻まれる地神塔が見受けられるとのことだが、ここは「五大神」と刻むことで良しとしたのだろうか。単なる妄想。根拠なし。

茶臼塚
古宮社から少し進むと道の左手にふたつの小祠。これこそ地神さまかと思ったのだが、井岩田神社近くにあった案内に「茶臼塚」と記された場所のようだ。
で、茶臼塚って?これもはっきりしないが、応仁の乱の頃、この辺り(定木)を領した飯田氏がその祖先を祀るため立てられたようだ。
貞治元年(正平十七、1362)に細川頼之が讃岐の宇多津に上陸した時、一宮の大宮司らと共に細川氏に与し、その後も、頼之傘下で伊予の河野氏討伐に出張っている。 その後、香西氏に与しその重臣として長曾我部と戦う。秀吉の四国征伐の後は讃岐の領主となった生駒氏の家臣となった、とある。茶臼と飯田氏のいわれは不詳。

定木の常夜灯と標石
遍路道は東に進む。県道176号との合流点に常夜灯と標石がある。常夜灯は高さ4mほどの大きな自然石の灯籠。灯籠横の標石には手印と共に、「右 一宮 三十五丁 天保十三年」といった文字が刻まれる。標石の手印は直進ではなく右折を示す。



舟形地蔵丁石
手印に従い右折し、県道に沿った細路を少し南に下ると舟形地蔵丁石が立つ。「左 一ノ宮道」と示す指示に従い左折し県道に当たる。県道の対面には「一宮寺」と刻まれた石柱と遍路タグ。県道を渡る。

遍路標石と舟形地蔵
細路を進み民家の並ぶ通りにT字に当たる。遍路道はそのすぐ先を左折する。ほどなく道の右手に遍路標石と舟形地蔵。お大師さまを彫りぬいた標石には「一の宮へ三十二丁」とある。手印に従い右折する。




四ッ又地蔵
道なりに進むと友常池の北に小さな地蔵堂と標石がある。標石には手印と共に「左 一ノ宮道 三十一丁 明治廿九年」と刻まれる。あれ?手印は右を指すが、文字は左一ノ宮と相反する。手印と文字が間尺に合わない標石を時に見る。標石側からみての手印とも言うが、少々わかりづらい。
地蔵堂に案内があり、おじぞうさんの説明と共に四ッ又地蔵の由来として、「夫婦塚の飯田用水と檀紙からくる水路が合流して四つに分流するところ(四ッ又)にある」故とする。 夫婦塚はこの先、香東川に架かる潜水橋の少し上流にある墓地のようだ。源平合戦の死者をまとめて弔った塚で、道を挟んで両側にあったため夫婦塚と呼ばれたとする。檀紙からの水路は本津川支流の古川からの養水だろうか。

潜水橋
道なりに進み香東川の土手に出る。土手には舟形地蔵が佇む。檀が繁茂したのはこの香東川との記事も見かけたが、それはともかく遍路道は土手を下りて潜水橋を渡ったという。 潜水橋ということは沈下橋だろう。今も川に橋というか、堰と一体となった沈下橋があるのだが、通行止めの指示があり、少し上流の中森大橋を渡り右岸にでる。因みに香東川にはいくつか所謂、「沈下橋」が残るようだ。
標石
潜水橋から中森大橋に向かう途中、土手下に墓地がある。前述夫婦塚の辺りではあろうとおもうのだが、その墓地の土手上に笠のついた結構大きな標石があり手印と共に「一宮道」とあった。手印は中森大橋の方向を指していた。

遍路墓2基
中森大橋を渡り、潜水橋が香東橋を渡る箇所まで戻る。その土手には2基の遍路墓があった。ひとつには「摂州兵庫津船大工町 俗名義兵衛 文政十」、もう一方には「法名 知膳尼 嘉永元年」と刻まれると言う。遍路道は東進し、香川高専の辺りで右に折れ、南下する。


自然石の標石
南に下り高松自動車道の高架と当たる手前、道の右側にある「おへんろさん休憩所」と書かれた食事処の前に自然石の標石。手印と共に「一のみや道」と刻まれる。
高松自動車道の下、香川高専前交差点を渡り更に南下。県道171号に当たるとそこを左折し東進。県道282号・高松市勅使町交差点を右折し香東川に架かる成合橋へと南下する。



成合橋北詰めの石仏標石
香東川に架かる成合橋手前、道の左手に四本柱屋根付きの石仏が佇む。造りは結構新しい。享和2年(1802)の作で台座を含めて1.5mほどといった記事があるが、とてもそれほど古いは思えないし少々小ぶりな感もする。レプリカなのだろうか。前の2本の柱にはそれぞれ「右こんぴら道 左一のみや道」と刻まれる。



成合神社参道口の標石
遍路道は東に向かい、国道32号・成合大橋東交差点を横切り成合神社境内の北端を進む。境内の社叢を越えた先、民家の塀に遍路道の案内があり右折すると神社参道に。その角に雑草に隠れるように標石があり手印と共に「南 一宮道 根香寺道」と刻まれる。
成合
成合の由来は、成合地区の東にある本村の飯沼氏の出自である丹後国・成相にあるようだ。『今昔物語』の「丹後国成合観音霊験記」には成相寺の縁起として。「雪深い草庵で修行の僧。食べ物も尽き、食を本尊に祈る。と、堂外に傷つき倒れた猪。禁戒を破り食する。雪も消え里人が堂内を見るに、鍋に木屑、そして両腿の切り削がれた観音さま。僧は観音さまが身代わりになってくれたと、木屑を腿に着けると元の姿に戻った、と。故に成合〈相〉と。いつもながら昔の人の豊かな想像力に驚かされる。

小堂の舟形地蔵丁石
参道を抜けると遍路道は南に折れる。民家の間の一車線ほどの道を進むと、道の左手に小堂があり、中に祀られる舟形地蔵は「此方 一宮道 文化九年」と刻まれ丁石となっている。舟形地蔵丁石の横には小さな石造座像も祀られていた。





Y字路の標石
道なりにしばらく進み、南北に走る道に合流。少し南に下るとY字路がありその分岐点に標石が立つ。手印と共に「一宮道 右安原道 弘化三年」と刻まれる。安原道は南の塩江町への道のよう。遍路道は手印に従い左の道に入る。





遍路小屋
道なりに進み一宮中学校の西側を下り、一宮小学校の傍で御坊川を渡り民家の間のクランク状の道を右折・左折・右折と進み南に下ると遍路小屋がある。




八十三番札所・一宮寺 
遍路小屋を南に下り、県道12号・一宮町交差点を南に越え道なりに進み、高松南高等学校の辺りで左に折れると札所八十三番一宮寺の境内北側にあたる。


根香寺より一宮寺への遍路道はふたつある。ひとつは五台山を東に下り、香西(神在)口から鬼無を経て一宮寺へ向かうもの。おおよそ15km弱。もうひとつはお山を南東に下り、直接鬼無を経て一宮寺へ向かう遍路道である。おおよそ13km強の遍路道である。
東へ香西口へと下りる遍路道は2キロほど大廻りのように思えるのだが、四国遍路の最古の資料とも言われる澄禅の『四国遍路日記』には「東の浜に下ってカウザイ(高松市香西地区)から南へ向かって、大道(金毘羅高松街道)を横切り三里行って一ノ宮(田村神社、高松市一宮町、現在の八十三番一宮寺の東隣)に至る」とある。江戸時代初期の遍路道は香西口に下っていたようだ。思うに、香西西町にある古刹・四国別格霊場十九番香西寺をお参りした後、一宮寺を打ったのかとも。
根香寺から一宮寺への遍路道は、オーソドックスには香西口への下るものだろうが、距離的には鬼無へとお山を下りる道が近そう。で、どうせのことならと、ふたつの遍路道をカバーする。鬼無に下るルートの案内はあまり見当たらないのだが、行けばなんとかなるだろうと、常の如く行きあたりばったりのスタンスで散歩に出かけた。

本日のルート;
■香西口ルート
82番札所・根香寺>香西口への下山口>山道を下る>八丁目>9丁目>里の車道と合流>民家生垣の標石>桑崎下橋の東に標石>十五丁舟形地蔵丁石>地蔵堂>神在口の鳥居と標石2基>香西寺>萬徳寺>御旅地蔵>瀬戸大橋線・鬼無駅>香西口・鬼無口ルート合流点・自然石灯篭と標石
鬼無口ルート
82番札所・根香寺>根香寺仁王門前を根香寺道に>根香寺道三丁目休憩所>根香寺道と鬼無口への分岐点>遍路墓>車道に出る>車道を逸れて土径へ>車道をクロスし坂を下り再び車道へ>一瞬土径に入り再び車道に>盆栽通り分岐>車道を右に折れる>香西口・鬼無口ルート合流点・自然石灯篭と標石
香西口・鬼無口共通ルート
自然石灯篭と標石>標石>民家脇に標石>あごなし地蔵堂と石の卒塔婆>飯田お遍路休憩所>高地蔵>飯田の観音さん>古宮社>茶臼塚>定木の常夜灯と標石>舟形地蔵丁石>遍路標石と舟形地蔵>四ッ又地蔵>潜水橋>遍路墓2基>自然石の標石>成合橋北詰めの石仏標石>成合神社参道口の標石>小堂の舟形地蔵丁石>Y字路の標石>遍路小屋>一宮寺


香西口ルート

香西口への下山口;10時27分
根香寺から香西口へと下る道筋をチェックする。と、根香寺の近くから国土地理院地図にお山を東へと下るルートが描かれている。お寺の山門を出て舗装された道を少し下ると、「四国のみち」の指導標があり、そこに「一瀬神社2.5km 香西口4.4km」とあり、「遍路道」のタグもついている。下山口はあっけなく見つかった。
「四国のみち」の指導標の脇が根香寺の駐車場となっており、そこに車をデポし山道に入る。常の如く山道を下りて車道まで下り、そこからピストンで引き返し山道と車道合流点へと車を廻し、ピストンを繰り返し、遍路道をトレースすことになる。

山道を下る
ジグザグの山道を下る。「四国のみち」として整備されており快適なコースだ。随所に「四国のみち」の指導標が立つ。25分ほど歩き標高を70mほど下げると小さな沢(10時52分)。沢を跨ぎ、獣侵入防止柵(10時57分)を出ると空が開ける。途中六丁の丁石があるとのことだが、見付けることはできなかった。

八丁目:10時59分
柵を出ると直ぐ、道の右手に2基の舟形地蔵丁石。一基は「八丁」と読めるが、もう一基は上部が破損し「丁目」だけが残る。
丁石の辺りはちょっとした展望台となっている。当日は雨模様で見ることはできなかったが、晴れていれば前面に屋根形をした勝賀山が見えたようである。標高364mの山頂は南北約350m、東西約160mの平坦地となっており、そこに勝賀城跡があるとのこと。土塁を巡らせた中世の山城である。
勝賀城
後鳥羽上皇が北条氏討伐を策した承久の乱(1221)で鎌倉幕府に与し、その戦功によりこの地の郡司として任じられた香西氏が要城とした城跡。香西氏は室町期には讃岐守護の管領細川氏の重臣として、また塩飽・村上といった水軍と通じ大いに栄え、秀吉の四国攻めで滅ぼされるまでおよそ4世紀に渡りこの地を支配した。

9丁目;11時16分
みかん、びわ畑に囲まれた道を下る。「四国のみち」の指導標が左を指すところに、道を右に入れとの遍路タグ。「四国のみち」から逸れて、ビワ畑の間の道を少し下ると小さな祠に舟形地蔵丁石があり、「九丁目」とあった。

里の車道と合流
九丁目の丁石から少し下り、車道に合流。何となく里に下りた感もあり、GPSに合流点のウエイポイントを取り、根香寺の車デポ地まで引き返す。ピストンは結構大変ではあるが、「ピストンで行く」と性根を決めれば、あれこれの段取りを考える必要もなく気楽ではある。
ともあれ、下った道をデポ地へと引き返す。復路、見落としたであろう「六丁目」の丁石に注意し乍ら戻ったが、前述の如く結局見付けることはできなかった。

民家生垣の標石
根香寺からの山道が車道と合流する地点まで車を廻し、そこにデポし散歩を再開。道なりに進むと桑崎池の土手下にある民家の生垣に隠れるように標石があった。「右 ねごろ」と読める。が、現在の道筋では方向が間尺に合わない。舗装された車道ではない遍路道があるのか、または標石がどこからか移されたのか不明である。



桑崎下橋の東に標石
「右 ねごろ」の標石から先の遍路道ははっきりしない。桑崎下橋の東に標石があるとのことであり、ということは桑崎池からの流れに架かる橋であろうと桑崎池から流れる水路に沿って下り桑崎下橋に。
桑崎下橋を渡ると直進方向は民家の鉄骨屋根下に入る。民家の敷地のようでもあるが、その先に坂らしき道筋。控えめに歩を進めると、道は鉄骨屋根の下を抜けて坂に続いており、上り口に標石があった。なんとなく道が繋がった。
標石には「すくこうさい道二十五丁 すく祚ころ寺道十五丁 白み祚寺道六十五丁 天保二年」と刻まれるという。

十五丁舟形地蔵丁石
坂を少し上ると右に折れる細路があり、分岐点に十五丁と刻まれた舟形地蔵丁石が立つ。道なり進み大きな池の土手下を進む。この辺りに十七丁の丁石があるとのことだが、生い茂った草に隠れているのか見付けることはできなかった。が、あちこちと探し彷徨っていると、土手上の池の畔に「十六丁」の舟形地蔵丁石があった。

地蔵堂
池の土手が切れる辺りで道はふたつに分かれる。「四国のみち」の指導標は立つのだが、ちょっと方向がわかりづらい。遍路道は右手にある勝賀山の山裾を進むといった記事もあり、なんとなく右に折れる。
道を折れて進むと結構大きな車道と合流。これが遍路道?と、少し不安になるが、しばらく進むと地蔵堂があった。桑崎池の先で遍路道は地蔵堂前を通る、といった記事もあり、オンコースと一安心。

神在口の鳥居と標石2基
しばらく広い車道を進むと右手に「四国のみち」の指導標が立ち、そこから右へ分岐する道がある。
道を右に入り細路を進むと鳥居と2基の標石、そして地蔵堂。標石には手印と共に、「志ろみね道」「左根香寺道 大正三年」と刻まれていた。遍路道はここで県道16号に合流する。
神在(しんざい)
神在は香西(こうざい)に由来すると思っていた。神在を「こうざい」とよめないこともない。「こうざい」の音に神在の漢字を当てたのだろうと思っていた。が、はっきりとはわからないのだが、神在(しんざい)は菅原道真由来、といった記事も見かけた。
神在口の北に牛ノ鼻と呼ばれる岬があるが、そこは菅原道真が大宰府配流の途中、舟を繋いだと伝わる地。どこ特定できなかったが、神在山は道真こと菅神のいた山故とのこと。鎮西、新祭、深際などとも呼ばれたが後に神在となった、とか。
と、あれこれの説もあるが、なんとなく神在はこの地の有力氏族である香西(こうざい)氏故との感が強い。

香西寺
県道16号を進み香西北町交差点で県道を離れ右に折れて香西寺へ。参道左手に手印と共に「香西寺 立石公園」とある。立石公園は香西寺の裏山にある公園のようだ。さぬき百景 香西寺と刻まれた寺名碑を見遣り仁王門を潜ると正面に毘沙門堂。国の重要文化財指定の毘沙門天立像を安置する。
その左手に本堂。真言宗大覚寺派。四国別格二十霊場第十九番札所。本尊は地蔵菩薩。 Wikipediaには「寺伝によれば、奈良時代の天平11年(739年)に行基が勝賀山の北麓に庵を結び、宝幢を刻んで宝幢山勝賀寺として創建したといわれている。この場所は奥の堂と呼ばれており、奈良時代?平安時代の瓦片が出土することから寺院跡とみなされ、勝賀廃寺と呼称されている。平安時代前期の弘仁8年(817年)空海(弘法大師)が現在地に寺院を移し、地蔵菩薩像を刻んで安置したと言われる。

嵯峨天皇の勅願寺となり、朱雀天皇の讃岐国勅旨談議所となったが、その後は衰微していたようである。 鎌倉時代になり、この地の豪族・香西左近将監資村が鎌倉幕府の命により寺院を再興し香西寺と名付けた。その後は香西氏の庇護を受けることとなった。
南北朝時代には室町幕府の守護大名の細川頼之が本津(現在の香西東町)に移転し、香西氏11代当主の香西元資が地福寺と改称した。
戦国時代の天正年間(1573年 - 1592年)には戦火により伽藍が焼亡した。桃山時代に讃岐国の大名として配された生駒親正が復興し高福寺と名を改めた。
江戸時代前期の万治元年(1658年)失火により伽藍を焼失し、再び現在の地に移転した。寛文9年(1669年)高松藩初代藩主松平頼重が伽藍を整備し別格本山 香西寺と改称した。しかし、その後も失火に見舞われ再建がなされている」とある。
四国別格二十霊場
空海ゆかりの番外霊場のうち、20のお寺様が集まり昭和43年(1968)に組織したもの。高知と愛媛の県境からはじめた歩き遍路の道すがら、宇和島の龍光院、大洲の十夜ヶ橋永徳寺、西条市の西山興隆寺と生木地蔵正善寺、四国中央市の延命寺と龍仙寺(札所三角寺奥の院)そして椿堂常福寺、香川に入り観音寺市の萩原寺、多度津町の海岸寺、そして徳島県の箸蔵寺と知らず別格霊場をカバーしていた。

お寺さまは香西氏が要城とした勝賀城のある勝賀山の北東麓。前述立石公園からは勝賀山が見渡せ、そこには香西伊賀守(香西住清)の石碑が立つという。
香西住清
鎌倉期、勝賀城を築いた香西資村の後裔は室町期に入り二系に分かれる。ひとつは京にあり管領細川氏に仕え(上香西氏)、もうひとつは讃岐の領地を差配した(下香西氏)。香西住清は下香西氏の流れ。下香西家は細川、三好氏といった讃岐支配者の傘下となるも、住清の代になり三好氏と離反。その後長曾我部傘下に入り、秀吉の四国征伐時に下野した。

萬徳寺
香西寺のすぐそばに萬徳寺。山門は鐘を上部に吊った鐘楼門となっている。また、山門左右に立つ像は石造り。仁王様のようでもあり、仁王・金剛力士と同じく天部の護仏天のようでもある。
なんとなく気になりチェックすると、「萬徳寺山門に置かれている仁王像は金剛力士像ではなく、甲冑をつけた二天将姿の石像。獣の皮を剥いで作った鎧を着た姿に彫られた武将像で、向って左側の像は右手に獅噛(しかみ)も彫られている。おそらく四天王の中の持国天と増長天(または持国天と多聞天)が二尊形式をとって山門(二天門)を守っていると思われる。(ふるさと探訪資料)」といった記事があった。
またこのお寺様の本尊である毘沙門天は聖徳太子作とも伝わる。手足に聖徳太子手刻と伝わる銘文があるとのこと。33年に一度御開帳の秘仏とされる。

天長7年(830)。天長山祥福寺として毘沙門天を本尊に開基され、国司時代の菅原道真により修造が進んだとのことである。
鐘楼山門に惹かれて何気なくお参りしたお寺さまで、あれこれと興味深い事柄に出合った。取り敢えず訪ねてみるという散歩のポリシーを再確認

御旅地蔵
萬徳寺を離れた遍路道は南へと下る。宇佐八幡参道から南に延びる道と交差する箇所で遍路道は右に折れる。県道177号とある。
県道177号を南に下ると。ほどなく道の右手に小祠。傍の石碑に「御旅地蔵」とある。御旅って?チェックすると、この地蔵祠の北にある宇佐八幡の御旅所が香西南町にあり、それゆえの「御旅」のようであった。
小祠の脇に「勝賀城跡 登山道」の標識があり、勝賀山へと続く道が南西へと延びていた。
宇佐八幡
香西資村が承久の乱の戦功により幕府御家人としてこの地に来た時に、備前の宇佐八幡を勧請したもの。藤尾山山上に鎮座する。
藤尾山には上述香西住清が長曾我部への備えとして勝賀城より本拠を移した藤尾城があったようである。

瀬戸大橋線・鬼無駅
御旅地蔵から南に、薬師山(標高78m)の東裾を下り県道33号に合流。県道33号を更に南に鬼無駅の手前で左に折れ、踏切を渡る。踏切を渡った遍路道は直ぐに右に折れ、瀬戸大橋線・鬼無駅前を南に下ることになる。
鬼無
寛永10年(1633)の「讃岐国絵図」には「毛無」とあるようだ。毛無とは木無からの転化で、木が生えていない地を意味する。 また、「香西(こうざい)記・全讃史・讃州府志」にはこの地にある熊野神社(昭和63年に熊野権現桃太郎神社と社名変更)の項に、「熊野権現が悪行を働く鬼の害を除き、鬼無(おにな)しになった。そこで祠を建て奉斎し、遂に地名の由来となった」とある。どちらが正しいのかわからない。
桃太郎伝説
鬼退治といえは桃太郎ということで、鬼無を桃太郎のお話と被らせた説明も多い。が、我々がイメージする桃太郎の鬼退治といったストーリーは江戸の頃、草双紙などでほぼ定着し、明治に入り明治20年(1887)の国定教科書を嚆矢に絵本などで人々の間に広まったもののようだ。元々の桃太郎伝説とは異なる、と。
桃太郎伝説は全国各地に伝わる。桃太郎といえば岡山を連想するが、これは1960年以降のキャンペーンの成果と言う。結構新しい。きび団子と吉備団子、岡山といえば桃といったイメージも桃太郎>岡山と言う図柄形成に大きく作用しているのだろうか。
香川では昭和の初期から桃太郎伝説発祥の地との主張があったようだ。鬼無の地名の由来に桃太郎が登場するのも、また元は熊野神社であったものを桃太郎神社とその名を変えたもの、その流れの一環かとも思える。
岡山にしろ香川にしろ、瀬戸の島にすむ鬼・外敵(塩飽諸島の海賊など)との攻防があっただろうし、今に伝わる桃太郎伝説との親和性は高いと思える。

香西口・鬼無口ルート合流点・自然石灯篭と標石
鬼無駅前を南に下ると道の左手に大きな自然石の燈篭が見える。「八幡宮」と刻まれた石灯篭の前に標石があり、「左いちのみや」と刻まれる。
八幡社とは後述する、飯田の八幡様と称される岩田神社のことだろうか。 標石脇には遍路道表示もあり、ここでY字となった径に折れる。と、すぐに墓地を囲む生垣に埋もれるように標石が立ち、「是よ里一宮六十七丁」と刻まれる。
なおこの地は次回メモする根香寺からお山を直接鬼無に下る遍路道との合流点でもある。

民家脇に標石
径を進むと県道177号に当たる。遍路道は県道を突き切り民家の間の径に入る。径の角に標石があり、手印と共に「是よ里一のみや」と刻まれる。
径を進むと古さびた堂宇。道端大師堂とある。地蔵堂を超えると遍路道は本津川の堤に出る。昔の遍路道は本津川に下り、そこに架かる接待橋を渡ったようである。現在は少し下流に架かる永代橋を渡るが、この橋を接待橋とも呼ぶようだ。

あごなし地蔵堂と石の卒塔婆
永代橋を渡るとあごなし地蔵堂とその後ろに4mほどの卒塔婆。お堂の前の案内には、「孔雀藤 ふじなみや 音なきかぜのよりどころ 梅下庵主人
孔雀藤は樹齢八百年を数えると推定され、その名称は明治三十年(1897)ころに、孔雀の羽ように艶やかな藤であるというところから付けられた。
昭和十四年(1939)、香川県天然記念物の指定となり、昭和四十六年(1971)県の自然物の指定となる(この孔雀藤は岩田神社境内にある)。
遍路道
遍路道には一見してそれとわかる道標・丁石が立てられている。遍路は、それを道案内に札所から札所へ迷うことなく、大師の辿られた跡を慕って修行して歩けば、解脱成仏できると信じたようである。
根香寺から永代橋(接待橋)を渡ると卒塔婆・顎無地蔵・源岩田山蓮香寺本尊千手観世音菩薩安置所(観音さん)がある。これを東に進み、道祖伸より代官道を通り四ッ又地蔵へ、さらに一宮寺に行く道を遍路道という」とあった。

あごなし地蔵の説明はなかったが、歯痛に後利益あり、という。あごがどうして歯痛?チェックすると大阪府豊中市にある萩乃寺の秘仏・あごなし地蔵尊のいわれが見つかった。そこには、廃仏毀釈の嵐に巻き込まれた隠岐の島の伴桂寺より難を逃れるべく萩乃寺に遷座したとあり、秘仏あごなし地蔵尊のいわれとして、「平安初期の参議で歌人としても名高い小野篁卿が承和5年(838)12月、隠岐の島へ流されたときに阿古という農夫が身の回りの世話をしました。ところがこの阿古は歯の病気に大層苦しんでいたので、世話になったお礼にと、篁卿は代受苦の仏である地蔵菩薩を刻んでこれを授けました。阿古が信心をこらして祈願するとたちまち病が平癒し、卿も程なく都へ召し返されたので、奇端は偏にこの地蔵尊の加護したまうところと、島民の信仰を集めました。
その後、仏像は島の伴桂寺にまつられ「阿古直し」がなまって尽には、「あごなし地蔵」と呼称されるに至ったといわれています」とあった。
また、埼玉の広済寺にある「あごなし地蔵」は文字通り顎がない。顎がなければ歯もないわけで、歯痛がおきることもない、とのこと。
前者はいわれとしては面白いが、一般化するとすれば後者の広済寺のほうがわかりやすどうだ。お地蔵さまも心ももち顎がないように思える。

飯田お遍路休憩所
道なりに東に進むと岩田神社に。飯田の八幡さまとして知られる岩田神社は旧飯田郷四ケ村の氏神である。拝殿左手の藤棚は前述の如く孔雀藤と称され名所とのことだが季節外れ。拝殿にお参りし遍路道に戻る。
遍路道は岩田神社前で右に折れ、南下するが、右折する少し手前に真新しい遍路休憩所があった。飯田お遍路休憩所と呼ばれる。今まで結構多くの遍路休憩所や遍路小屋を見てきたが、この休憩所は最上のカテゴリーに入るように思える。

高地蔵
岩田神社前を右に折れ南に下る道に入るとすぐ、道の右手に二本柱の小屋根をいただいた高地蔵がある。台座を含めておおよそ6m弱あるだろうか。飯田の南、檀紙地区の旧家が牛の供養に立てたという。
檀紙
檀紙(だんし)とは、縮緬状のしわを有する高級和紙で、平安時代以後、高級紙の代表とされ、中世には備中・越前と並び讃岐国がその産地として知られた。讃岐では檀紙の原料となる「檀(まゆみ)」が本津川の支流である古川に繁茂した。檀紙地区には古川が貫流するゆえの地名であろうか。
檀紙地区の北には紙漉といった地名も残り、盛んに紙を漉いていたとのことだが、慶長年間というから16世紀茉から17世紀初頭にかけて途絶えたと。檀紙の原料が後に楮(こうぞ)が取って代わったとのことと何か関係があるのだろうか。
檀(まゆみ)を真弓とも書くのは、そのしなり故に弓の材料としても重宝したから、とか。

飯田の観音さん
高地蔵の横に集会所といった趣の建物がある。そこが飯田の観音様。外壁に取り付けられた木の札には「源 岩田山蓮香寺 本尊千手観世音菩薩安置所」とある。飯田神社の別当寺であった蓮香寺跡という。

古宮社
南下した遍路道は右手に「岩田神社御旅所」の案内があるコンクリート打ちっぱなしといった土台、左手に地蔵堂のある角を左に折れる。道を進むと左手に「五大神」と刻まれた自然石の石碑と「古宮社」と刻まれた石碑の立つお堂がある。

古宮社は地図に飯田神社と記される。これは上述岩田神社の旧地であり。延喜式内帳には式外社として『射田神』を祀るとある。およそ800年前に現岩田神社のある場所に遷座した、と言う。
五大神
お堂の前に「五大神」と刻まれた自然石が立つ。五大神って何だろう?チェックする。なんとなくではあるが、地神(じしん)さま、地神信仰と関連あるように思える。その年の稲の豊作を願い、農業にゆかりの深い土地神様を祀るようだ。
で、五神との関係は? どうも農業に関係深い神として「天照大神(あまてらすおおかみ)・少彦名命(すくなびこなのみこと)・埴安媛命(はにやすひめのみこと)・大己貴命(おおなむちのみこと)・倉稲魂命(うがのみたまのみこと)」の五神が挙げられ、五角柱の各面に五神名が刻まれる地神塔が見受けられるとのことだが、ここは「五大神」と刻むことで良しとしたのだろうか。単なる妄想。根拠なし。

茶臼塚
古宮社から少し進むと道の左手にふたつの小祠。これこそ地神さまかと思ったのだが、井岩田神社近くにあった案内に「茶臼塚」と記された場所のようだ。
で、茶臼塚って?これもはっきりしないが、応仁の乱の頃、この辺り(定木)を領した飯田氏がその祖先を祀るため立てられたようだ。
貞治元年(正平十七、1362)に細川頼之が讃岐の宇多津に上陸した時、一宮の大宮司らと共に細川氏に与し、その後も、頼之傘下で伊予の河野氏討伐に出張っている。 その後、香西氏に与しその重臣として長曾我部と戦う。秀吉の四国征伐の後は讃岐の領主となった生駒氏の家臣となった、とある。茶臼と飯田氏のいわれは不詳。

定木の常夜灯と標石
遍路道は東に進む。県道176号との合流点に常夜灯と標石がある。常夜灯は高さ4mほどの大きな自然石の灯籠。灯籠横の標石には手印と共に、「右 一宮 三十五丁 天保十三年」といった文字が刻まれる。標石の手印は直進ではなく右折を示す。



舟形地蔵丁石
手印に従い右折し、県道に沿った細路を少し南に下ると舟形地蔵丁石が立つ。「左 一ノ宮道」と示す指示に従い左折し県道に当たる。県道の対面には「一宮寺」と刻まれた石柱と遍路タグ。県道を渡る。

遍路標石と舟形地蔵
細路を進み民家の並ぶ通りにT字に当たる。遍路道はそのすぐ先を左折する。ほどなく道の右手に遍路標石と舟形地蔵。お大師さまを彫りぬいた標石には「一の宮へ三十二丁」とある。手印に従い右折する。




四ッ又地蔵
道なりに進むと友常池の北に小さな地蔵堂と標石がある。標石には手印と共に「左 一ノ宮道 三十一丁 明治廿九年」と刻まれる。あれ?手印は右を指すが、文字は左一ノ宮と相反する。手印と文字が間尺に合わない標石を時に見る。標石側からみての手印とも言うが、少々わかりづらい。
地蔵堂に案内があり、おじぞうさんの説明と共に四ッ又地蔵の由来として、「夫婦塚の飯田用水と檀紙からくる水路が合流して四つに分流するところ(四ッ又)にある」故とする。 夫婦塚はこの先、香東川に架かる潜水橋の少し上流にある墓地のようだ。源平合戦の死者をまとめて弔った塚で、道を挟んで両側にあったため夫婦塚と呼ばれたとする。檀紙からの水路は本津川支流の古川からの養水だろうか。

潜水橋
道なりに進み香東川の土手に出る。土手には舟形地蔵が佇む。檀が繁茂したのはこの香東川との記事も見かけたが、それはともかく遍路道は土手を下りて潜水橋を渡ったという。 潜水橋ということは沈下橋だろう。今も川に橋というか、堰と一体となった沈下橋があるのだが、通行止めの指示があり、少し上流の中森大橋を渡り右岸にでる。因みに香東川にはいくつか所謂、「沈下橋」が残るようだ。
標石
潜水橋から中森大橋に向かう途中、土手下に墓地がある。前述夫婦塚の辺りではあろうとおもうのだが、その墓地の土手上に笠のついた結構大きな標石があり手印と共に「一宮道」とあった。手印は中森大橋の方向を指していた。

遍路墓2基
中森大橋を渡り、潜水橋が香東橋を渡る箇所まで戻る。その土手には2基の遍路墓があった。ひとつには「摂州兵庫津船大工町 俗名義兵衛 文政十」、もう一方には「法名 知膳尼 嘉永元年」と刻まれると言う。遍路道は東進し、香川高専の辺りで右に折れ、南下する。


自然石の標石
南に下り高松自動車道の高架と当たる手前、道の右側にある「おへんろさん休憩所」と書かれた食事処の前に自然石の標石。手印と共に「一のみや道」と刻まれる。
高松自動車道の下、香川高専前交差点を渡り更に南下。県道171号に当たるとそこを左折し東進。県道282号・高松市勅使町交差点を右折し香東川に架かる成合橋へと南下する。



成合橋北詰めの石仏標石
香東川に架かる成合橋手前、道の左手に四本柱屋根付きの石仏が佇む。造りは結構新しい。享和2年(1802)の作で台座を含めて1.5mほどといった記事があるが、とてもそれほど古いは思えないし少々小ぶりな感もする。レプリカなのだろうか。前の2本の柱にはそれぞれ「右こんぴら道 左一のみや道」と刻まれる。



成合神社参道口の標石
遍路道は東に向かい、国道32号・成合大橋東交差点を横切り成合神社境内の北端を進む。境内の社叢を越えた先、民家の塀に遍路道の案内があり右折すると神社参道に。その角に雑草に隠れるように標石があり手印と共に「南 一宮道 根香寺道」と刻まれる。
成合
成合の由来は、成合地区の東にある本村の飯沼氏の出自である丹後国・成相にあるようだ。『今昔物語』の「丹後国成合観音霊験記」には成相寺の縁起として。「雪深い草庵で修行の僧。食べ物も尽き、食を本尊に祈る。と、堂外に傷つき倒れた猪。禁戒を破り食する。雪も消え里人が堂内を見るに、鍋に木屑、そして両腿の切り削がれた観音さま。僧は観音さまが身代わりになってくれたと、木屑を腿に着けると元の姿に戻った、と。故に成合〈相〉と。いつもながら昔の人の豊かな想像力に驚かされる。

小堂の舟形地蔵丁石
参道を抜けると遍路道は南に折れる。民家の間の一車線ほどの道を進むと、道の左手に小堂があり、中に祀られる舟形地蔵は「此方 一宮道 文化九年」と刻まれ丁石となっている。舟形地蔵丁石の横には小さな石造座像も祀られていた。





Y字路の標石
道なりにしばらく進み、南北に走る道に合流。少し南に下るとY字路がありその分岐点に標石が立つ。手印と共に「一宮道 右安原道 弘化三年」と刻まれる。安原道は南の塩江町への道のよう。遍路道は手印に従い左の道に入る。





遍路小屋
道なりに進み一宮中学校の西側を下り、一宮小学校の傍で御坊川を渡り民家の間のクランク状の道を右折・左折・右折と進み南に下ると遍路小屋がある。




八十三番札所・一宮寺 
遍路小屋を南に下り、県道12号・一宮町交差点を南に越え道なりに進み、高松南高等学校の辺りで左に折れると札所八十三番一宮寺の境内北側にあたる。

これで一宮寺への香西口ルートはお終い。次回は鬼無ルートをメモする。
今回は天皇寺・高照院から白峰寺へ向かう逆打ち遍路道をカバーする。このルートが開かれたのは江戸の中期以降、と言う。国分寺から一本松峠へのへんろころがしの急登を避け、七十九番札所である天皇寺高照院から高家神社に向かい、八十一番白峰寺、八十二番根香寺を打ち、八十番国分寺へと下って行くルートである。高屋口ルートと称される。
国分寺仁王門前の標石は八十三番札所・一の宮へのルートを案内していた。この逆打ちコースは多くの遍路に利用されていたのだろう。

メモは天皇寺高照院から標石を目安にお高家神社に向かい、白峰神社参道への分岐点までとし、その先稚児ヶ嶽を左手に見遣りながら西行の道を白峰寺へと上るルートは既に歩き終えた国分寺・白峰寺・根香寺散歩のメモに託す。


高家神社経由の八十一番札所白峰神社への遍路道
衛士坂の遍路道>予讃線踏切>県道33号を交差>原集落四つ辻の標石>原集落の標石>民家塀角の石灯籠>茂兵衛道標(137度目)>長命寺跡碑>姫塚>中川原集落入口の標石>県道16号アンダーパス前に石灯籠>雲井御所>中川原集落の標石>県道脇に標石>田圃の畦道を白峰中学校北側の道に>県道16号北側の標石>神谷川東詰めの標石>遍照院分岐点の石柱と標石>石灯篭と標石>遍照院経緯の遍路道合流点の標石>(遍照院>遍照院東側の標石>防火用水池脇の標石)>高家神社>高家神社傍、県道180号脇の標石>高家神社から白峰寺参道分岐点へ


高家神社経由の81番札所白峰神社への遍路道


衛士坂の遍路道
前述の如く、天皇寺高照院の正面赤鳥居を左折し旧丸亀街道の四つ辻に。既述の如く、左手に石灯籠と標石、右手に茂兵衛道標、四つ辻から北に下る坂道の右角に舟形地蔵が立つ。
国分寺への遍路道はここを右に曲がったが、茂兵衛道標も舟形標石も四つ角を直進する高家神社への遍路道を指す。
舟形石仏の傍に「衛士坂の遍路道」とある。この坂道は「衛士坂」と呼ばれるようだ。案内には、行き倒れとなった遍路を弔う石地蔵とあり、時代は明治かそれ以前か定かではないが、石工の刻んだ「へんろ」の文字がかすかに残る、とあった。地蔵標石の手印に従い坂道を下る。

予讃線踏切
緩やかな坂を下ると予讃線の踏切。「遍路踏切」と称される、と。巡打ちルートである80番国分寺から81番白峰寺への「へんろころがし」の急登を避け、逆打ちルートである79番高照院から81番白峰寺・82番根来寺、そして80番国分寺を打つこのルートを辿った遍路道の名残だろうか。

県道33号を交差
右手に八十場駅を見遣り、踏切を渡ると県道33号。県道を越えた遍路道はちょっと右手、駅方向に進み、田圃を北に進む道へと左に折れる。
八十場
古くは矢蘇場、弥蘇場、八十蘇場とも書かれた、と。景行天皇の御代、南海の悪魚を制すべく出向いた讃留禮王子と八十人の軍勢が、王子の持参した泉(前述の八十場の泉)の水で蘇生したが故の地名であることは既に記した。



原集落四つ辻の標石
畑の中を北西に直線に進んだ道は、ほどなく北東へと進む比較的大きな車道に合わさる。遍路道はここを右に折れて東へと向かう。
しばらく進むとこれも比較的大きな車道と交差。遍路道は坂出市役所西庄公民館の少し北、西庄の原集落の四つ辻を直進するが、四つ辻右角の民家の壁前に標石がある。手印と共に「扁路う道 是与白峯寺五十丁 嘉永五」といった文字が刻まれる。



原集落の標石
原集落の中を少し進むと、道の右手、電柱の根元に小さな標石があり、手印と共に「へん**」と刻まれる、と。摩耗しほとんど読めない。遍路道はここを左折する。








民家塀角の石灯籠
ちょっと進むと塀に囲まれたお屋敷の角に石灯籠がある。火袋の下に、「金」、「白」と刻まれる。金毘羅さんと白峰寺への奉灯の意。文化十四年のもと、と言う。遍路道はここを右折する。







茂兵衛道標(137度目)
道を進むとT字路の突き当り。その正面電柱の前に茂兵衛道標がある。手印と共に「右 天王 明治に二十七年」といった文字が刻まれる。逆打ち遍路の道案内だ。茂兵衛137度目の巡礼時のもの。







長命寺跡碑
道は綾川の土手に向かう。土手に上る手前、道の右手に4mほどの大きな石柱。長命寺跡の石碑。大正時代に建てられたもの。
長命寺
保元の乱に敗れ讃岐配流となった崇徳上皇が住んだ雲井の御所(後述)との説もあるお寺さまであった。長曾我部勢の兵火により焼失し、現在はこの石柱だけが残る。




姫塚
道が綾川の土手に上る長命寺石碑から200mほど西、田圃の中に如何にも塚を想わせる緑が茂る。Google Mapでチェックすると「姫塚」とある。ちょっと立ち寄る。
四方をブロック塀で囲まれた中に自然石があり、「崇徳天皇姫塚」と刻まれる。 上述、前述の菊塚は男児であったが、こちらは崇徳上皇と綾高遠の息女の間に生まれた皇女の墓とのことであった。




中川原集落入口の標石
往昔の遍路道は長命寺跡の石碑から綾川の土手に出た辺りより川を渡ったようだが、そこには橋はない。左岸を少し、県道16号に架かる新雲井橋を渡り、橋の東詰めを右折した後、直ぐに中川原の集落へと、道を左に折れる。土手を下りるとすぐに標石。手印と共に「左扁ろ道 寛政十」といった文字が刻まれる。遍路道は左に折れる。





県道16号アンダーパス前に石灯籠
標石を左に折れた遍路道は、すぐに右に折れ県道16号に沿った旧道を進むが、右に折れず左に向かうと県道16号アンダーパス前に石灯籠があり、「白峯」と刻まれる。このアンダーパスを抜けると崇徳上皇ゆかりの「雲井御所」へと通じる。
雲井御所
県道16号に架かる新雲居橋の東詰め、堤防から少し離れた中川観音堂の隣に「雲井の御所」があった。 案内を簡単にまとめると;崇徳上皇が讃岐に配流されたとき、いまだ御所ができていなかったので、国府に勤める当地の庁官であった綾高遠(あやのたかとお)の邸宅を仮の御所としたと伝えられる。
上皇はこの御所で3年を過ごしながらも、都を恋しく思い詠んだ歌か「ここもまた あらぬ雲井となりにけり 空行く月の影にまかせて」。月の光が雲次第で思うに任せられないように、ここも思いもよらない住処(御所)になってしまったなぁ...、と言った意味。雲井の御所の名はこの歌に由来する、と。また里の名も雲井の里とも称されるが、上皇が愛でた「うずら」をこの里に離されたが故に「うずらの里」とも。
崇徳上皇は府中鼓ケ丘木ノ丸殿の完成をもって遷御され、時代が経るにつれこの雲井の御所の場所もはっきりしなくなったが、天保6年(18835)に,高松藩主松平頼恕(まつだいらよりひろ)公によって,この雲井御所の跡地が推定され,現在の林田の地に雲井御所之碑が建立された,とあった。

中川原集落の標石
道を少し東に進むと、道の右手民家のブロック塀の前に標石。手印と供に、「是ヨリ白峯江三十六里 弘化四」といった文字が刻まれる。
県道脇に標石
この標石の少し手前に県道16号に出る道があり、県道角に標石。「雲井御所跡 西二丁」とある。アンダーパスができる前は、ここから雲井御所へと向かったのだろう。と言うか、現在は新雲井橋を渡り、東詰めを直ぐに左折すると道なりに雲井御所があるが、新雲井橋ができたのが昭和54年(1979)と言うから、それ以前はこの標石の道筋が雲井御所へのメーンルートであったのかもしれない。




田圃の畦道を白峰中学校北側の道に
旧道を進むと道は左に折れ、県道16号に合流するが、遍路道は直進し、田圃の畦道を抜け、県道187号を横切り、白峰中学校北側の道に出る。中学校の敷地が切れるところで左折し、県道16号を横切る。







県道16号北側の標石
県道を越え50mほどのT字路角に標石。手印と共に「八十一番 八十二番 八十番 左へんろ逆べんり」と刻まれる。八十一番>八十二番>八十番と進む逆打ちがべんり、と示す。
遍路道はここを右折すると思うのだが、手印は更に北方向を示す。昔は電柱に南東面してもたれかかるようにあった、といった記事もある。それならルートに合うのだが、現在はシッカリ固定されている。据え付け直されたのだろう。




神谷川東詰めの標石
手印で少々混乱し、ひょっとしたら間違い、などと思いながら道を進むと神谷川にあたる。そしてその東詰めに誠に立派な標石が立つ。オンコースであることがわかり一安心。
笠石のついた標石には、手印と供に「すぐ扁ん路ミち 四国八十一番霊刹 これより弐拾五丁三拾間 南此方 国分寺 壱里弐拾四丁 瀧之宮 弐里弐拾四丁四拾間 高松 四里弐拾六丁 一之宮 三里弐拾八町二拾間 仏生山 四里拾八町五拾間 寛政六」といった文字が刻まれる。







遍照院分岐点の石柱と標石
神谷川を渡り少し進むと、道の左手に2基の石柱。ひとつは寺名石碑。「厄除大師御旧跡 納経御祈願所 慈氏山 松浦寺」とある。もうひとつは標石。手印と共に、「厄除大師**みち 当山ハ大師乃かいき 本尊ハ四十二歳自作のみゑい** 慈氏山遍照院 *門内より**」といった文字が刻まれる。
高家神社への遍路道はここで二つのルートに分かれる。ひとつは直進し白峰山の山裾を高家神社にすすむルート。もうひとつはこの標石を左に曲がり遍照院前を経由して高家神社に向かうもの。

ついでのことではあるので、ふたつのルートを辿ろうと思うが、先ずは標石から直進するルートを進むことにする。


石灯篭と標石
北東に道を進み比較的大きな車道・鴨川(停)五色台線を横切り山裾に。山裾を左に弧を描火袋がない石灯籠と標石がある。
石灯籠には「白峯大権現 天照皇大神宮 金毘羅大権現 氏神 嘉永七年」といった文字が刻まれる。
標石は二面の角に大師像を浮き彫りにする。あまり記憶にない造りだ。また手印は右手の山方向を指し、「志ろみ年江是与六丁」と刻まれる。ここから左に折れ山道を白峰寺への遍路道があったのだろう。それにしても六丁とは。700m弱ということはほぼ直登ルートとなるようだ。


遍照院経緯の遍路道合流点の標石
集落の中を進み、坂を上ると松井春日神社。道はそこから下りとなり、右から道が合わさるT字路。そこが遍照院経由の遍路道との合流点。そこに標石が立つ。手印と共に「扁んろミち 安政四年」といった文字が刻まれる。







遍照院経由の遍路道
遍照院への分岐点の標石を左に折れ道を直進すると遍照院の石段前に出る。石段は草に埋もれている。
遍照院
弘法大師が四十二歳の厄年のとき、この寺で修行されたと伝わる。その故に「厄除大師」として知られる。境内には大師修行の求聞持石と呼ばれる大石がある、と。かつては多くの遍路が立ち寄った寺と言う。
遍照院東側の標石
遍路道は石段前を右折。民家と田圃の間の細路を進み、車道・鴨川(停)五色台線に合流したところ、道の左に小さな標石。手印と共に「すぐ扁んへん** 文久三」といった文字が刻まれる。
防火用水池脇の標石
車道を分かれ斜めに数メートル進むと道に出る。前面に防火用水があり、その前に三角形の自然石標石がある。手印と共に「へんろミち」と刻まれる。 遍路道はここを左に折れ、道なりに進むと状上述遍照院経由の遍路道合流点の標石箇所に出る。




高家神社
遍照院経由のルートを合わせた遍路道は、ほどなく道を進むと県道180号にあたる。T字路を右に折れ県道180号を進むと高家神社に着く。
参道入り口に「血の宮」、鳥居には「崇徳天皇」、随身門にも「崇徳天皇 高家神社」とある。「国史見在之社 高家神社 崇徳天皇御舊跡 血ノ宮」と刻まれた古い石碑もあった。
坂出市のWEBサイトには「昔からここには高家首(たかやおびと)の一族が居住し,遠い祖先である天道根命(あめのこやねのみこと)をお祀りして氏神としました。里の人には森の宮とも呼ばれ,貞観九年従五位下を奉られています。 崇徳上皇崩御ののち,白峰山に遺体を運ぶ途中,高屋村阿気(あけ)という地に棺を休めた時,にわかに風雨雷鳴があり,棺を置いた六角の石に,どうしたことか血が少しこぼれていたといいます。
葬祭の後,里の人は上皇の神霊を当社殿に合祀し,また,血のしたたった石も社内に納めました。俗に血の宮と称される理由です。また,朱(あけ)の宮ともいわれています。
地名の阿気(揚)も,そこから出たことなのかもわかりません」とあった。 死後十数日が立つにもかかわらず鮮血が零れ落ちたという台石も境内に祀られている。

高家首とか天道根命などちょっと気になるのだが、本筋からはるか離れてしまいそうであり、高家神社は崇徳上皇と深く関係した由緒をもつ社ということを以て思考停止。隣の観音寺にお参りし境内を離れる。
国史見在之社
コトバンクには、「六国史(りっこくし)に神名、社名がみえるが、『延喜式(えんぎしき)』巻9、10の神名帳には登載されていない神社をいう。国史現在社(げんざいしゃ)、国史所載社(しょさいしゃ)、式外社(しきげしゃ)ともいった。式内社とともに朝廷の尊崇厚く、由緒ある神社として重んじられる。その数は60余か国390余社に及び、記載の事由は授位、奉幣(ほうへい)、祭祀(さいし)、祈請(きせい)、鎮祭などによる。著名な社(やしろ)として石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)、大原野(おおはらの)神社、香椎宮(かしいぐう)などがある。また所在未詳のものが少なくない」とある。


高家神社傍、県道180号脇の標石
県道180号と高家神社参道との分岐点の左右に標石がある。道の右手に3基。「二十七丁目」「左しろみね道 是より二十七丁 大正二年」、手印と共に「白峰御陵参道 昭和十年」とある。
県道左手、「四国のみち」の木標の脇に2基の標石。小さな標石には手印と共に 「志ろ*ね」、大きな標石は茂兵衛道標。手印と共に八十一番 旧道 へんろみち 明治二拾七年」といった文字が刻まれる。茂兵衛134度目巡礼時のもの。


高家神社から白峰寺へのルート
高家神社から先は旧遍路道はなくなっているようだ。県道180号・鴨川(停)五色台線を1.7 キロほど進み、左に「白峰寺(徒歩)1km」の木標で車道を離れ白峰寺へと向かうことになる。
正面には稚児ヶ嶽が見える。ここはいつだったか国分寺から根香寺、そして白峰寺へと歩き、麓の青海神社(煙の宮)へと下ったルートの途中。これから先は先回のルートメモに渡すことにして、今回のメモはこれで終了。
順打ち・逆打ちで天皇寺高照院と国分寺、白峰寺、根香寺への遍路道を繋いだ。次回は順打ちであれば八十二番・根香寺から八十三番・一の宮、逆打ちであれば八十一番・国分寺から八十三番・一の宮への旧遍路道を歩くことにする。
七十九番札所 高照院・天王寺を打ち終え八十番札所・国分寺へ。そしてその次は八十一番札所・白峰寺ということになるのだが、国分寺から白峰寺、更には八十二番札所である根香寺はすでに歩き終えている。
そのートは国分寺から北に向かい、一本松峠への急登を上り八十二番・根香寺から八十一番白峰寺を打ち、稚児ヶ嶽を右手に見遣りながら西行の道と称される長い石段を麓の青海神社へと下った。
その当時は特段遍路歩きといった想いもなく、山好きの弟に、どこか讃岐で面白い散歩道は?といってガイドしてもらったルートであった。
今回、遍路歩きというコンテキストでその時歩いたルートをチェックすると、そのルートは古い遍路道。江戸中期以降はこの急登ルートを避け、高照院・天王寺から白峰山西の山裾にある高家神社に向かい、そこから白峰寺へと向かう高屋口ルートが利用されという。国分寺から白峰寺へと向かう順路に対し、81白峰寺・82番根香寺・80番国分寺と辿る逆打ちルートである。天皇寺高照院から国分寺・白峰寺・根香寺を打つ遍路道はふたつあったようだ。
このふたつの遍路道のうち逆路ルートは次回に廻し、今回は順路ルートをカバーする。天皇寺高照院から国分寺を打ち、次いで白峰寺へと順路の遍路道を一本松峠に上る登山口までをメモし、その先は既に歩き終えた国分寺・白峰寺・根香寺散歩のメモに託す。

本日のルート;
七十九番天皇寺天照院から八十番札所国分寺へ
七十九番札所 天皇寺高照院>表参道の標石>旧丸亀道との四つ辻の標石>八十場駅前の六地蔵>城山(きやま)神社標石>開法寺>鼓岡神社>内裏泉>菊塚>椀塚>柳田の碑>讃岐国府跡>国府印鑰明神遺跡>綾坂橋西詰めの標石>綾坂説教所跡>国道11 号バイパス東の遍路墓と地蔵標石>日向王の塚>第八十番札所 国分寺
八十番札所国分寺から八十一番白峰寺への登山口へ
築地塀に沿って北に>地神と二丁標石>三丁目標石>四丁目標石>3基の標石>六丁標石>神崎池>神崎池東の標石>一本松峠への登山口に


七十九番札所 天皇寺高照院

当日は八十場の清水から裏参道を辿り白峰宮境内に。七十八番札所金華山天王寺高照院の本堂・大師堂は白峰宮境内につつましく建っていた。
崇徳上皇の霊を慰めるその歴史的経緯故か、院号より寺号が先にくる珍しい寺。元は天皇寺を抱く金山(標高280m)の中腹にあり、古くは金華山妙成就寺摩尼珠院と称された。金華も摩尼珠も空海ゆかりの縁起をもつ。
金華は金山権現が左右に持した金剛鈴と白蓮華より。空海が八十場の霊泉を閼伽井とし秘法修行のとき金山の守護神である金山権現(金山権現の化身である天童とも)が現前した、と伝わる。摩尼珠は大師修法の間、嶺に舎利(如意宝珠とも摩尼珠)を埋めた故。
大師は、その霊域にあった霊木で本尊十一面観音、脇侍阿弥陀如来、愛染明王の三尊像を刻造して安置。寺は霊場とされ、七堂伽藍が整い境内は僧坊を二十余宇も構えるほど隆盛したという。
その後、嵯峨天皇の御代になり、保元の乱(1156)に敗れ、讃岐に配流され更には誅された崇徳上皇の霊を慰めるため、この地に崇徳天王社が建立される。それに応じ院宣をもって摩尼珠院は崇徳天皇社の別当寺となり金山山麓よりこの地に移った。この故に、人は摩尼珠院を「天皇寺」とよび、崇徳天皇社を「天皇さん」と呼んだ
。 明治初年、神仏分離令によって摩尼珠院は廃寺となる。79番札所は筆頭末寺の奇香山高照院(約2km北の林田町にあった)が引き継いだ。崇徳天皇社は白峰宮と改称。また、明治天皇の宣旨により崇徳院御霊は京都白峯神宮へ戻った。 その後、高照院は、明治20年(1887)摩尼珠院跡の現在地に天皇寺高照院として移転した。

寺の歴史的経緯を眺めると、寺号が院号の先にあること、本堂や大師堂が白峰宮の境内につつましく建つ所以も納得できる。
札所
ところで、札所について、江戸時代、1653年に著された澄禅の『四国遍路日記』に、「大師御定ノ札所ハ彼金山ノ薬師也」とある。現在は荒れ果てているようだが、金山に当寺の奥の院である瑠璃光寺(金山薬師)がある。行基が薬師如来を本尊として堂宇を開創したとの縁起が残る。
空海の開いた摩尼珠院は、荒れ果てた行基開創の堂宇を再興したものとも伝わるが、それはともあれ、『四国遍路日記』に従えば、江戸の頃まで札所は現在地ではなく摩尼珠院の元地であったようにもとれる。

続けて『四国遍路日記』には、「子細由緒ヲモ知ラズ 辺路修行ノ者ドモガ、此寺ヲ札所ト思ヒ 巡礼シタルガ初ト成、・・・金山薬師ハ在テ無ガ如ニ成シ」とする。由緒を知らない遍路は、崇徳天皇社を札所と思い込み、いつしか金山薬師は在って無きが如し、となってしまった」とする。


七十九番天皇寺天照院から八十番札所国分寺への遍路道

天皇寺から白峰寺・根香寺へと辿る順路の遍路道である次の札所・国分寺へと向かう。

表参道の標石
朱に塗られた三輪鳥居を潜り境内を出る。表参道は東へと直進するが、鳥居を出てすぐ、境内に沿って北に進む道の角に標石。「白峯寺へんろみち 是ヨリ五十六丁 明治七」と刻まれる。八十番国分寺ではなく、八十一番白峰寺を案内する。
上述の如く、国分寺から白峰寺へと順路で進む、国分寺・一本松峠経由の遍路道ではなく、白峰寺から根香寺、そして国分寺へと進む遍路道の案内となっている。手印は表参道ではなく北を示す。標石に従い左折し境内に沿って北に進む。




旧丸亀道との四つ辻の標石
ほどなく道は旧丸亀街道に当たる。前回歩いた八十場の清水の標石を右折し裏参道に進むことな、標石を直進すればここに進む。表参道から向かう遍路道でもある。
この四つ辻に大きな自然石の灯籠、標石、舟形地蔵が立つ。自然石の燈篭前にある標石には、「天皇社 札所 摩尼珠院 寛政十二」といった文字が刻まれる。寛政十二年と言えば西暦1800年。1653年の澄禅の『四国遍路日記』では本来の札所は金山山麓の薬師堂であるのに、由来の知らない遍路は天皇社を札所と勘違いしている、などとの記述があったが、19世紀に入る頃には札所は摩尼珠院となっていたようだ。
四つ辻東角には茂兵衛道標。「明治二十七年」、茂兵衛135度目巡礼時の道標。指を二本伸ばす手印はあまり見ない。その指し示す方向は北。国分寺ではなく白峰寺への遍路道を示す。四つ辻北角の船形標石も「左 へんろ道」と白峰寺への遍路道を指すが、国分寺への遍路道はこの四つ辻を右に折れ、東へと向かうことになる。




八十場駅前の六地蔵
道なりに進むと八十場駅南の六地蔵堂脇に出る。駅前を南北に走る道を横切り白峰宮の赤鳥居に向かう表参道も横切り、国道11号バイパスの高架を潜り予讃線の南に沿って続く道を進む。別宮とか醍醐とか、別宮八幡や醍醐寺に因む地名が続く。別宮など如何にも崇徳上皇に関係ありそうな地名である。
3基の石仏が並ぶ民家を見遣りながら進むと、遍路道は予讃線鴨川駅手前で予讃線を越え県道33号に合流する。

城山(きやま)神社標石
国道を少し進み、弘法寺地区で県道33号を離れ右に折れ、再び予讃線の踏切を越え鼓岡神社への道を進む。
鼓岡神社手前の四つ辻に石碑があり、手印と共に「讃岐国之始祖 延喜式内当国廿四社之一明神大 県社城山神社」「此西鎮座 大正二年」といった文字が刻まれる。
その傍の石碑には「本村は古の甲知郷(こうちごう)仁にして国府のありし所也 仁和四年大旱仁当たり国主菅公が讃岐八十九郷二十萬蒼生の為仁雨城山(きやま)神仁祈りし処は是より二十二丁頂上にあり 昭和八年 府中村」とある。 ●菅公
菅公とは菅原道真公のこと。仁和四年(888)、43歳の頃讃岐守(讃岐国司)を拝任し、2年間讃岐に下向した。その後宇多天皇の信任を受け要職を歴任するが、異例の出世への妬みなのか、宇多天皇と醍醐天皇との確執なのか、ともあれ讒言により大宰府に左遷される。昌泰四年(901)というから56歳の頃だろう。



城山神社
なんとなく気になりちょっと立ち寄り。石碑を右に折れ道なりに進むと西山神社の先に城山神社が鎮座していた。こじんまりした社ではあるが社格は讃岐に三社ある式内社(明神大社)のひとつ。祭神は折に触れ登場する神櫛(かみくし)別命。景行天皇の御代、悪魚退治で知られ、讃岐国造の祖とされる




開法寺
遍路道に戻り、鼓岡神社へと向かうと、趣のある鐘楼が建つ。石碑には白鼓山開法寺とある。近くに奈良時代以前の古寺、讃岐最古の寺であったという開法寺跡があり、なんらかの関係があるのか?と思ったのだが、どうも関係はないようで、浄土真宗の寺とあった。




鼓岡神社
開法寺前の道を進むと鼓岡神社に着く。いつだったか白峰寺から根香寺を辿った時、崇徳上皇ゆかりの地ということで一度訪れたことはあるのだが再訪。 城山(標高162m)の山裾に鎮座する神社入口の石碑に「鼓岡神社 崇徳上皇行在所」とある。石段を上ると、広い境内、その奥に鳥居。鳥居から先に続く石段を上ると拝殿がある。
案内には、「鼓岡神社由緒 当社地は、保元平治の昔、崇徳上皇の行宮木の丸殿の在ったところで、長寛二年(1164年)八月二十六日崩御されるまでの六年余り仙居あそばされた聖蹟である。
建久二年(1191年)後白河上皇近侍阿闍梨章実、木の丸殿を白峰御陵に移し跡地に之に代えるべき祠を建立し上皇の御神霊を奉斎し奉ったのが鼓岡神社の創草と云はれている。伝うるに上皇御座遊のみぎり、時鳥の声を御聞きになり深く都を偲ばせ給い。
鳴けば聞き、聞けば都の恋しきに この里過ぎよ、山ほととぎす
と御製された。 時鳥 上皇の意を察してか、爾来この里では不鳴になったと云はれている。
境内には、木の丸殿、凝古堂、観音堂、杜鵑塚(ほととぎす塚)鼓岡行宮旧址碑、鼓岡文庫などがあり、付近には、内裏泉、菊塚、ワン塚などの遺跡がある」とあった。
境内には「瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞおもふ」と刻まれた石碑、案内にもあった「鳴けば聞き、聞けば都の恋しきに この里過ぎよ、山ほととぎす」由来の杜鵑塚(ほととぎす塚),「
などがあった。
擬古堂
また、境内には大正2年(1913)、崇徳上皇没後750年祭を記念し、木の殿を再現すべく建てられた「擬古堂」もあった。
案内には「保元元(1156)年、保元の乱に敗れた崇徳上皇は讃岐へと配流され、長寛2(1164)年、ここ鼓岡で四十五歳の生涯を終えます。
上皇が暮らしたところは御所(天皇が住む屋敷)であるにも関わらず、とても粗末な造りであったため「木の丸殿」と呼ばれ、上皇を慕って訪れた笛の師蓮如(結局上皇と会うことは叶いませんでした)にも次のように詠まれています。 朝倉や 木の丸殿に入りながら 君にしられで 帰る悲しさ
この建物は大正二(1913)年、崇徳上皇750年大祭が挙行された際に造られたものです。粗末だったとされる木の丸殿を偲び、その雰囲気を模して造られているため「擬古堂」という名称が与えられました。
また、『白峯寺縁起』によると、実際に上皇が暮らした木の丸殿は、上皇亡き後その菩提を弔うため、遠江阿闍梨章實という人物により御陵(上皇のお墓)近くに移され、これが今の頓証寺殿となったとされています」とあった。
御所としては粗末なのだろうが、田舎のどこにでもある民家といった風情。都に送った大部の写経をおこなったのもこの場所とのこと。大河ドラマでは、都に送ったものの、無残にもつき返され、怒りのあまり「われ魔王となり天下に騒乱を起こさん」と、日々凄まじい形相となって、後白河上皇らに深い怨みを抱きながら憤死する、ということであるが、それはどうも、『保元物語』や『雨月物語』の筋書きのようであり、実際は、この地で穏やかな日々を送ったとの説もある。
「鳴けば聞き、聞けば都の恋しきに この里過ぎよ、山ほととぎす」も、上皇の嘆きを察し、地元の人々がホトトギスの鳴き声が聞こえないように、追っ払っていた、とも伝わる。
また、木の丸殿は、その名の如く丸太で組まれた簡素な館との説とされるが、3年の歳月をかけたとの記録や古絵図にある上皇崩御後この御所を移した言われる頓証寺(白峰寺にある。現在のものは再建)の規模を示す古絵図などからして、立派な御所であったとの説もあるようだ。

ついでのことでもあるので、鼓岡神社の案内にもあった、付近の崇徳上皇の遺跡を巡る。


内裏泉
鼓岡神社北東端の四つ辻傍、擬古堂北側の斜面下に内裏泉(だいりせん)と称される水場がある。「内裏泉 木丸殿御井 崇徳上皇は長寛二年(1164)に崩御されるまで六年間、府中鼓ヶ岡の木ノ丸殿にお住いになられました。この泉はその頃に上皇の飲用に供された泉で、内裏泉と呼ばれ、地形上も谷筋に位置していることもあり、決して大旱魃にも枯れない泉であると伝えられています」とある。
この水で、目を洗うと目が悪くなる、との言い伝えがあるようだ。? チェックすると、高貴な人が飲んでいた水を大切に守るため、村人が意図して流した噂との記事もあった。
菊塚
内裏泉から開法寺方面に少し戻ると道に沿った民家敷地に「菊塚」がある。崇徳上皇の御子の墓と言う。崇徳上皇が雲井御所(後述)に居たとき、警護役の綾高遠(あやのたかとう)の息女との間になした男子。上皇の一字を与え顕末と称した、と。
椀塚
菊塚の先を右に折れると、道の左手、畑の中に「椀塚」がある。案内を簡単にまとめると、「讃岐配流となった崇徳上皇は松山の津という港に着船し、林田町にある仮の御所(雲井御所)で2年間過ごした後、国府に近い鼓岡の木の丸殿に移された。
国府の厳しい監視の中、人に会うことも、出歩くこともせず、淋しい日々の中この地で崩御し、白峯に祀られた。
この椀塚は、崇徳上皇が使用していた食器を埋めたとされる塚。年代不詳だが(?冢;わんづか))と刻まれた石が残る。
その真偽のほどは定かではないが、崇徳上皇の地域の与えた影響の程はわかる」といった案内があった。
松山の津
場所は県道161号・さぬき浜街道沿いにある。道は山稜の間をすり抜ける。道の左右の山は雄山(標高139m)と雌山(164m)。「松山の津」の案内は、その雄山を抜ける手前の道路脇にあった。案内には、崇徳院の讃岐配流までの経緯と、松山の津の説明がある。
「敗れた崇徳上皇は讃岐に配流となり、ここ松山の津に着いたとされる。津とは港のことであり、当時の坂出地域の玄関口となる場所であった。その頃は今よりも海が内陸部まで迫っており、この雄山のふもとも海であったと考えられる」、と。津=港ではあるが,松山は古くから条理制地割りの設けられているところで,海岸から府中の国府に至る重要な場所でもあったのだろう。
案内に「浜ちどり 跡はみやこへ かよへども 身は松山に 音(ね)をのみぞなく 保元物語」の歌も添えられていた。讃岐に到着した崇徳上皇が都を恋しく思って詠んだ歌とされるが、江戸時代に書かれた上田秋成の「雨月物語」では、讃岐配流の後、写経に勤しんだ上皇が、せめてお経の筆跡だけでも京の都に置いて欲しいと朝廷に送った歌ともされる。上で鳥羽上皇の弔いのために送った写経が都で受け取りを拒まれ、崇徳院が激怒し怨霊したとメモしたが、その写経と関係があるのだろう、か。単なる妄想。根拠なし。
柳田の碑
県道33号のJA香川の国道を隔てた対面にある自動車整備工場(?)の裏手の予讃線の線路脇に「柳田」の碑がある。誠にささやかなこの石碑は、崇徳上皇暗殺説にまつわる地。讃州府誌にも長寛ニ年八月二条帝陰に讃の士人に命じ弑せしめたり(二条帝は讃岐の武士・三木近安(保)というものに命じて、崇徳上皇暗殺を計画した)と記されている。
その説によると、刺客の知らせを聞いた上皇は木の丸殿から綾川方面へと逃れる。川沿いには柳が立ち並んでおり、上皇は柳の根元の穴に隠れるも、衣が川面に映り刺客に誅せられた。以来、この地では柳が育たなくなったとか、刺客が白馬の馬に跨り紫の手綱であったことから、「紫」は禁色とされた、とか。
いつだったか白峰寺を訪れた時、白峯寺の幕には五色あったにもかかわらず、頓証寺殿の幕には紫と白が除かれ、三色の幕となっていた。この暗殺話と関係があるのだろうか。単なる妄想。根拠なし。因みに現在の綾川は当時の流路と変わっているので、柳田の碑と川筋が離れている。

讃岐国府跡
内裏泉まで戻り四つ辻を東に進む遍路道に戻る。予讃線手前、道の右手に「讃岐国司庁」の木標が立つ。国司庁とは国府の中枢施設。国司が政務を執る施設である。大化の改新後、国ごとに設けられた方5町の国府跡が残る。
国府印鑰明神遺跡
国府関連の遺跡と言えば、崇徳上皇の遺跡を求め柳田に向かう途中、水田の真ん中に石碑が見えた。柳田の碑かと思い、畦道を進むに、石碑には「国府印鑰明神遺跡」とある。
印鑰(いんやく)とは国庁の印鑑や鍵の保管庫こと。印鑑や鍵の重要性に鑑み、明神として祀り、関係役人のモチベーション高揚に役した。石碑の別面には、"府中邨奨學義田" と刻まれる、と。大正4、5年(1915,16)の頃、"奨学義会"という組織が、この周辺の民有地を買い上げ、遺跡として、当時の府中村に寄付した、ということである。
この国府印鑰明神遺跡に限らず、この辺りの本町には帳次(ちょうつぎ:諸帳簿を扱った役所)、状次(じょうつぎ:書状を扱った所)、正倉(しょうそう:国庁の倉)、印鑰(いんやく:国庁の印鑑、鍵の保管所)、聖堂(せいどう:学問所)といった地名が残っている、との記事もあった。

綾坂橋西詰めの標石
予讃線、県道33号を横切り綾川に。綾川に架かる綾坂橋の西詰に標石が立つ。 「城山神社七丁 鼓岡神社五丁 国庁之跡 西四丁 綾坂橋架設記念 昭和十年」と刻まれる。
更に橋の少し上流に2基の標石が見える。手印と共に「左へん路道 是与国分寺十八丁」の遍路標識と「延喜式内明神大社 城山神社 是よ里西に御座 天保六」と刻まれる。

綾坂説教所跡
橋を渡ると道は緩やかな上りとなる。国道11号坂出丸亀バイパスに沿って上りつめたところでバイパスと最接近する。
道なりに下ると道の右手、民家の玄関前に綾坂説教所跡の石碑が立つ。 説教所とは一般的に言えば、宗教法人法に縛られることなく、一般の建物に仏像を安置し、定期あるいは随時に布教を行う場所とされるが、この綾坂説教所がどのような性格のものであったか不詳である。



国道11 号バイパス東の遍路墓と地蔵標石
説教所を後に東に下る遍路道は県道33号の北で左に折れ、国道11号坂出丸亀バイパスの高架下を潜る。国道の東側は細い急坂となる。坂を上り緩やかに下る道を少し進むと、道の左手に遍路墓と地蔵標石があった。
遍路墓には「四国遍路常次郎墓 安政五年」、地蔵の台座には「国分寺江五丁 天王江七十丁 文化九 世話人前谷講中」といった文字が刻まれる。

日向王の塚
北東に進む遍路道が県道33号に最接近するところに日向王の塚があった。松の木の下に小石が積まれているのがその塚のようだ。その名が刻まれた灯籠が傍に立つ。
『全讃史』に景行天皇の御代、南海に大魚があり船を呑み込むなどして人々を苦しめていたため、武穀王(たけかいおう)に命じて退治させた。
武穀王は讃留霊王(さるれおう)とも称され、讃岐の国造であったとも伝えられる。日向王は讃留霊王の七代目の子孫。古代に綾川流域を中心とした阿野郡に勢力を誇った綾氏の祖先とされる。この塚が王の墓跡とされる」とある。
この南海の悪魚、武穀王・讃留霊王は、折に触れて登場する。南海の悪魚とは海賊のことであろうか。その海賊を退治したのが景行天皇の御子である日本武尊の第五子である武穀王。武穀王は讃留霊王とも称されるとあるが、讃留霊王は景行天皇の御子である神櫛王ともある。はるか昔の伝説であろうから、どちらがどちらであっても門外漢にはかまわないが、ともあれその讃留霊王は讃岐国造の始祖であり、綾氏の祖先とするようだ。
で、讃留霊王って、讃岐に留まる霊なる王と読める。武穀王であれ、神櫛王であれ「讃岐に留まり国造の祖となったが故の讃留」か?と妄想したのだが、本居宣長はこの漢字は後世の当て字であり。「サルレ」の音のみが有意とするとある。妄想だった。


第八十番札所 国分寺

道なりに進むと四国霊場第八十番札所国分寺の仁王門前に着く。国分寺には一度訪れたことがあるのだが、記憶は薄れイメージしていた国分寺は、備中の国分寺ではあった。それはともあれ、結構な構えのお寺さまである。
仁王門脇の「縁起略記」によると、「天平13年(741)、聖武天皇の勅願、行基菩薩の開基により国ごとに建立された讃岐の国分寺(金光明四天王護国之寺)。創建当時は二町四方(東西3町、南北2町、とも)あり、南より南大門を入り、東に七重の塔、中央に中門・金堂、講堂などの諸堂があった。現在古義真言宗御室派の別格本山で四国第八十番の札所である」とのこと。
仁王門前の標石
仁王門前、左手に4基の標石が並ぶ。手前の摩耗激しい標石には「扁ん路道  是与り** 寛延元」といった文字が刻まれる。ついでちょっと縦長の標石には「是よ里白峯五十丁 一のミや七十五丁 文化八」、その隣は茂兵衛道標。「一之宮道 是ヨリ七十五丁 左高松 明治十九年」と刻まれる。茂兵衛88度目の四国霊場巡礼時のもの。四つめの標石は、仁王門前、左手に立つ常夜灯傍にあった。自然石の標石には「右一の宮」と刻まれていた。
一の宮
一の宮は第八十三番札所。ここで八十三番札所を案内するということは、七十九番札所から八十一番白峰寺、そして八十二番根香寺を討ち終え、八十番国分寺へと下り、八十三番一の宮寺へと辿る遍路が多くいた、ということだろう。この逆打ちの高屋口ルートは後述。
七重塔礎石
仁王門を潜り境内に。参道の左右に八十八ヶ所霊場の石仏が並ぶ。参道右手に千躰地蔵堂。その前に大きな礎石が並ぶ。仁王門前の案内にあった七重の塔跡。であろう。
境内にあった「国分寺由来」によれば、「創草寺の七重塔礎石。すべての国分寺は五重塔ではなく七重塔であった。この塔址は心礎(中心柱が乗る礎石)とともに合計17個の礎石があり、5間四方の塔で、京都の東寺の五重塔(高さ東洋一)以上の大塔であった」と。現在は礎石の上に鎌倉時代に造られた石造りの七重の塔が残る。
梵鐘
参道左手に鐘楼。当山創建当時、奈良朝鋳造の旧国宝・重要文化財との案内があった。歴史のある鐘だけに、その歴史に相応しい伝説・実説も伝わる。大蛇の伝説や高松城の時鐘がそれである。
大蛇の伝説とは、その昔讃岐のある淵に棲む大蛇が近隣の人々を苦しめていた。それを聞いた弓矢の名人が、国分寺の千手観音の御加護のもと鐘をかぶり、現れた大蛇を退治。その鐘は国分寺に奉納された、といった話である。
また、高松城の時鐘とは、国分寺の鐘の音が気に入った高松の城主生駒一正公が、田一町を寄進し、その代わりとして鐘を城内に運び時鐘にせんとした。が、その鐘は少しもならず、城下では怪異な出来事が起き、また殿様までが病にかかり、その夢枕に毎夜鐘が立ち「もとの国分にいぬ いぬ」と。
これは鐘の祟りかと、鐘を国分寺に戻すと元の平静な城下に戻った、といった話である。「鐘がものいうた 国分の鐘が 元の国分にいぬというた」。この歌はそのときつくられたもので、そのことを記した証文が残る、という。実説とされる所以である。
金堂礎石
正面に本堂。その手前、梵鐘の左手に閻魔堂、梵鐘と本堂の間に毘沙門堂が建つが、そのあたり一面に礎石が並ぶ。その数三十三個。その昔の金堂(本堂)跡である。「国分寺由来」には。「実測間口東西14間(1間=1.8m)。奥行(南北)7間の大堂」とあった。
本堂
池に架かる橋を渡ると本堂。創建当初の講堂跡に建てられたものであり、九間四面の入母屋造り、本瓦葺き。鎌倉中期の建築といわれ重要文化財に指定されている。本堂には本尊の千手観音が佇む。約5m、欅材の一本造りの観音さまは重要文化財である。
大師堂
本堂前の池の脇には弁財天の小祠と七福神の石像が並ぶ。国分寺は「さぬき七福神」の中、弁財天を主尊としている。願かけ金箔大師像にお参りし、右手に進むと大師堂と納経所があった。多宝塔のような二重の塔が大師堂、手前の建物が納経所。堂の前には千体地蔵が群立する。

国家鎮護、社会の安定を祈願し建立された国分寺ではあるが、古代律令国家体制の崩壊とともに、国家による管理・庇護が受けられなくなり衰退する。そしてその中興の祖が弘法大師空海とも伝わる。弘仁年間(810-824)に弘法大師が訪れ、行基作の5・3mの大立像(本尊)を補修した、と。
しかしながら、中興された堂宇も、天正年間(1573-1592)、土佐の長曽我元親軍の兵火に晒され、本堂と鐘楼だけを残し全て焼失。慶長年間(1579~1614)、讃岐国主である生駒一正によって再興され、江戸時代には、高松藩主松平家代々によって庇護された、とのことである。


国分寺より八十一番札所白峰寺登山口までの遍路道


国分寺を討ち終えれば次は八十一番札所白峰寺。何度かメモしたように国分寺から八十一番白峰寺、八十二番根香寺は既に歩き終えている。国分寺から北に進み一本峠への急登を上っていったわけだ。
国分寺から先はその時のメモに任せてもいいかとも思ったのだが、当時は「遍路歩き」といった想いはなく、山歩きの面白いコースとして弟にガイドしてもらったということもあり、標石を目安にした旧遍路道を捜し歩いたわけではない。
その時歩いたルートは国分寺仁王門前にあった「歩きへんろさんへ」に案内のある、仁王門から東に進み次いで北へと向かうコースであるが、遍路標石は逆方向、西に少し戻りそれから北に進むルートに残っているとのこと。
どうせのことなら、白峰寺への登山口までは標石の残る旧遍路道をトレースし、そこから先は、既に歩き終えたメモに託すことにする。

築地塀に沿って北に
仁王門から少し西に戻ると直ぐに理髪店があり、その手前に北に進む細路がある。理髪店手前を右に折れ、復元された国分寺の築地塀に沿って進む。




地神と二丁標石
田圃の中を進むと緑に茂る木立が前面に見える。その木立の下は塚状となっており地神の小祠と舟形地蔵、そして石仏があった。舟形地蔵は標石となっており、「二丁目」と刻まれる。


三丁目標石
二丁目標石を右に折れ、田圃の畦道を進み、用水路を渡ったところに舟形地蔵。標石となっており、「三丁目」と刻まれる。








四丁目標石
用水路に沿って先に進む。ほどなく用水路から離れ左に弧を描く道の先に車道が見える。遍路道は車道に出ることなく先に進む。と、水路に沿った道端に舟形地蔵。「四丁目」と刻まれる標石となっている。





3基の標石
遍路道はT字路に当たる。左に折れ車道に出ると、その四つ辻の少し南に3基の標石が並ぶ。「五丁目」「*丁目」、手印と共に「へん***」といった文字が刻まれる。道路整備の折、どこからか移されたものだろう。






六丁標石
四つ辻からほんの少し北に車道を進むと、道の右手に舟形地蔵。「六丁目」と刻まれる。





神崎池
車道を進むと神崎池。「四国のみち」の木標に従い、遍路道はここで右に折れ、この池の南堤を東に向かう。








神崎池東の標石
神崎池の土手を東に進み、集落に入る。途中、国分寺仁王門から東に進んだ後北へと向かう遍路道とT字路で合流。そこから少し東に進みT字路角に標石。「扁ん路道」と刻まれる


一本松峠への登山口に
遍路道はここを左に折れ登山口へと向かう。しばらく歩き、墓地の辺りで舗装が切れ一本松への山道となる。ここから先はいつだったか歩いた散歩のメモに任す。



もうひとつの遍路道
神崎池を左に折れて一本松経由の遍路道に進むルートとは別に、神崎池の西側に標石が続く。ここから北に進み国分台の中央を直登し白峰へと進む遍路道もあったようだ。
2基の標石
車道を少し北に進むと2基の標石が立つ。手印と共に「右へんろ道」と刻まれた標石と、「八丁目」と刻まれた舟形地蔵標石。遍路道はここで車道を離れ、田圃の中を進む。





九丁目
田圃の畦道に小さな覆屋のついた舟形地蔵。「九丁目」と刻まれる。







十丁目
舗装された道に出る。少し左に北に進む道。その角に「十丁目」と刻まれた舟形地蔵と手印と共に「へんろ道」と刻まれる。
比較的新し目の石柱。「新へんろ道 (四国のみち)へ」とあり、手印は東を指す。




十一丁目
北へと国分台へと進む道の右手に十一丁目と刻まれた舟形標石。標石はこれで終わる。昔はここから白峰へと這い上がる遍路道もあったのだろう。
道隆寺から天皇寺までの旧遍路道歩きの2回目。郷照寺から天皇寺までの旧遍路道を、件(くだん)の如く標石を目安にトレースする。
今回も、途中「ゆるぎ岩」といった言葉に惹かれ、ちょっと寄り道をしながらの歩き遍路メモ。
本日のルート;
七十七番札所・道隆寺から七十八番郷照寺へ
七十七番札所・道隆寺>地蔵堂傍の茂兵衛道標>天満宮傍、T字路角の標石>塩屋別院>正宗寺>寿覚寺南の金毘羅標石>(太助灯篭へ>寿覚院山門前の常夜灯と標石>太助灯篭)>丸亀市街を抜け宇多津に入る>県道左側に地蔵堂>誰袖(たがそで)の標石>誰袖(たがそで)の標石>本妙寺>郷照寺参道前の徳右衛門道標>七十八番札所郷照寺
七十八番札所・郷照寺から七十九番札所・天皇寺へ
七十八番札所郷照寺>閻魔堂>大束川手前、公園傍の標石>西光寺>聖通寺分岐点の標石>(聖通山のゆるぎ石)>県道33号との交差角に標石>巨石に刻まれた不動尊>白金町の本街道右側に標石>本街道を東へ>標石2基の分岐点で本街道から右に折れる>予讃線・瀬戸大橋線踏切先の標石>八十場の霊泉>茂兵衛道標(100度目)>裏参道への標石>第七十九番札所高照院


七十八番札所郷照寺

大吉地蔵尊の前に標石
細くゆるやかな坂を上る。山門前に「大吉地蔵」と呼ばれる地蔵尊。台座に刻まれる「大吉」は願主の名。備中の人。「四国廿一度巡拝供養」とも刻まれる。 地蔵前の道脇に標石。手印と共に「大師道 弘化三年」といった文字が刻まれる。
鐘楼
山門を潜り、道を進むと堂宇の一段低い広場に鐘楼がある。なんとなく唐突な感があるが、元は大師堂傍にあったものがここに移されたようだ。が、鐘楼からの宇多津の眺めは、いい。
案内に鐘楼の鐘にまつわる伝説が記されていた。江戸の頃、この鐘が割れた。折しも堺から遍路にきていた鋳物師に鋳造依頼。金を鋳直す材料として蓄えていた銅鏡を山から運ぶことに。
と、とみくま村の庄屋さんと一緒に銅鏡を運んでくれたお爺さんが突然姿を消す。人々はそのお爺さんを春日明神であろうと噂をした、と。造り直した鐘はよく鳴り本州まで聞こえ、あまつさえその音色に誘われて龍神までも現れた、とか。
この鐘はその歴史的価値ゆえに戦時の金属供出にも免れ、現在に至る」と言ったことが書いてあった。
そのお爺さんは龍神の化身とか、鐘は鋳直しではなく富熊村の庄屋の心願成就の祝いに境から鐘を鋳る名人を呼び、鐘を造ったとかいろいとバリエーションがあるようだ。
本堂
石段を上ると右手に納経所、正面は本坊。右に折れると本堂がある。寛保年間と言うから18世紀中頃の建立。本尊は阿弥陀如来。御詠歌は「踊りはね念仏唱う道場寺 拍子それえて鉦を打つなり」。
御詠歌は踊り念仏を想起させる。札所の宗派は今までもあまり気にしたことはないのだが、御詠歌が気になりチェックすると宗派は踊り念仏で知られる一遍上人の時宗とのこと。四国札所で唯一の時宗の寺ではないだろうか。
Wikipediaに拠ると、「寺伝によれば、行基が神亀2年(725年)に一尺八寸(55cmという説も)の阿弥陀如来を本尊として道場寺の名で開基した。大同2年(807年)に空海(弘法大師)が伽藍を整備した。その時に厄除の誓願を修し大師像を納め、それが「厄除うたづ大師」として信仰されていると云われている。 仁寿年間(851年から854年)には理源大師が阿弥陀三昧の行を修した。寛和年間(985年から987年)には恵信僧都が釈迦如来の絵図を納め釈迦堂を建立した。
正応元年(1288年)には一遍上人が遊行の折に3か月逗留し踊り念仏の道場を開いた。その後も栄えたが天正の兵火(1576年から1585年)で堂宇を焼失するも寛文4年(1664年)高松藩主松平頼重により再興、その時の住持と徳川家の関係により、時宗に属し郷照寺と改称した。しかし、『四国遍礼名所図会』(1800年刊)にも1826年の納経帳にも道場寺となっている。四国八十八箇所では珍しい異なる2つの宗派が共存する寺になっている」とあった。
説明にある「ふたつの宗派が共存する」の意味するところは門外漢には不詳だが、開基の頃は天台宗。空海の縁で真言宗、その後荒れ果てていた堂宇を一遍が直し時宗、江戸の頃は浄土宗の僧が住職をつとめ、現在は時宗と宗派は何度か変わっている。また、道場寺の名前の示す如く、この寺は高野聖の往来する修験道と関係深い寺であった、とも。
寺名といえば、道場場から郷照寺となる間に、江照寺と称される時期もあったとする。入り江が入り込んでいた地形からの命名。その後町屋が増えたため郷照寺とした、とか。宗派だけでなく、寺名も何度か変わっているようだ。

「ふたつの宗派が共存する」と言えば札所六十七番の大興寺を思い起こす。真言と天台のふたつの大師堂が建っていた。
ぽっくりさん
本堂右前に3基の石仏。讃岐の三大ぽっくりさん、とのことだが、少し大きな釈迦座像の他2基がぽっくりさんなのだろうか。はっきりしなかった。また、三大という、その他の二つのポックリさんは?特段、これに関する記事はヒットしなかった。

庚申堂
本堂右前に庚申堂。お寺の境内に庚申堂が建つのは珍しい。内部には見ざる、言わざる、聞かざるの三猿を従えた青面金剛像が祀られるとのこと。お堂傍には撫で仏も佇んでいた。
庚申信仰と三猿
庚申信仰と三猿の関係は?庚申(かのえさる)からとも、また庚申の夜、天帝に宿主の罪を告げ口する三尸(さんし)の虫に己が罪を見なかった、聞かなかった、そして告げ口しないで、との願いから、とも。
道教では人には魂(コン)、魄(ハク)、三尸(さんし)という三つの霊が宿る、と言う。宿主が亡くなると魂(コン)は天に、魄(ハク)は地下に戻る。幽霊の決まり文句「恨めしや~、コンパクこの世にとどまりて恨みはらさずおくものか~」のコンパクがそれ。
三尸は宿主が亡くなると自由になれるとされる。自由になりたいがため、宿主がむなしくなることを待ち望むわけだ。この三尸、旧暦の60日ほどで一回というから、年に6,7回巡りくる庚申(かのえさる)の日、人が眠りにつくと宿主の体を抜け出す。天帝に宿主の罪を告げるためだが、そのレポートにより天帝は宿主の寿命を決める、とか。
宿主をむなしくし、はやく自由になりたい三尸に、あることないこと告げ口されたらかなわんと、人は寝ないで朝を迎えた。これが庚申待ち。眠らなければ三尸は体を抜けだすことができないためである。
庚申信仰と青面金剛
で、庚申信仰と青面金剛の関係は? 道教の天帝を仏教では帝釈天とみなすようであり、青面金剛がその帝釈天の使者であるが故と。また三尸の語呂合わせでもないだろうが、伝尸病(でんし;結核)に霊験あらたかとされるのが青面金剛であった故、とも。
大師堂
本堂の左を歩き、石段を上ると大師堂。上述の如く、大同2年(807年)に空海(弘法大師)が伽藍を整備した。その時に厄除の誓願を修し大師像を納め、それが「厄除うたづ大師」として信仰されていると云われている。




万体観音堂
大師堂の左、地下に万体観音堂がある。地下の回廊の左右に3万を越す小さな観音像が並ぶ。
淡島明神
大師堂の左、少し上ると淡島明神。案内には「以空上人と天女のはなし」とあり、大雑把にまとめると「江戸の頃、この讃岐の地で疫病がはやり、お産の後に体を壊す女性があまた出た。で、高野山の高僧以空上人にお願いし、この寺で安産子宝・女病平癒・良縁成就の請願を立て、加多の淡島神社より本尊を勧請。淡島明堂を建て女性達の守護神となした」とあった。
天女さまの言及はないが、和歌山市加多にある全国の粟島神社の総本社である淡嶋神社の淡島神は、住吉神の女妃。夫人の病に霊験あらたかともされるので、天女とは淡島神のこと?
以空上人
上人は木食上人として知られる。コトバンクには、「肉類,五穀を食べず,木の実や草などを食料として修行することを木食といい,その修行を続ける高僧を木食上人といった。
高野山の復興に尽くした安土桃山時代の応其(おうご)(木食応其)は,広く木食上人の名で知られるが,江戸時代前期には摂津の勝尾寺で苦行を続け霊験あらたかな僧として知られた以空(いくう),中期には京都五条坂の安祥院中興の祖となった養阿,江戸湯島の木食寺の開基として知られる義高,後期には特異な様式の仏像を彫刻して庶民教化に尽くした五行(木喰五行明満)があらわれるなど,木食上人として崇敬された高僧は少なくない。
木食は苦修練行の一つで,それを行うことによって身を浄め,心を堅固にすることができるとされたが,経典や儀軌の中に木食の典拠は見いだせない」とあった。
このお寺様の本堂裏手に木食上人堂がある、との記録もあったが見つからなかった。
常盤明神
淡島堂の左手に小さな社。常盤明神とあり、案内には「狸が神様になったりんお話」とあり、簡単にまとめると「足利時代、この寺にいた臨阿という僧が傷ついた狸を助けた。
臨阿が主人である細川頼之公の供で都に帰る。やがて飢饉や兵火が起こり、この寺も悪者に襲われる。が、狸は寺を護るべく奮闘。これを見た地元民も協力し、寺を護り今に伝いた」とあった。
小さな社の傍に狸が祀られたのは、それゆえのことであった。
細川頼之
いつだったか、伊予の河野氏ゆかりの地を訪ね歩いたとき、折に触れて細川来之が登場してきた。南北朝の争乱記、同じ武家方の細川と伊予の河野が相争うことに最初は混乱した。
「えひめの記憶」には「足利尊氏は、すでに幕府開設以前の建武三年(一三三六)二月、官軍と戦って九州へ敗走する途中、播磨国室津で細川一族(和氏・顕氏ら七人)を四国に派遣し、四国の平定を細川氏に委任した(梅松論)。 幕府成立後も、細川一族は四国各国の守護職にしばしば任じられ、南北朝末期(貞治四年~応安元年)、細川頼之のごときは、四国全域、四か国守護職を独占し、「四国管領」とまでいわれている(後愚昧記)。
もちろんこの「四国管領」というのは正式呼称ではなく、鎌倉府や九州探題のような広域を管轄する統治機構ではない。四国四か国守護職の併有という事態をさしたものであろう。頼之の父頼春も「四国ノ大将軍」と呼ばれているが(太平記)、これも正式呼称ではあるまい。
ともかく幕府は細川氏によって、四国支配を確立しようとしたことは確かである。その結果、細川氏は四国を基盤に畿内近国に一大勢力を築き上げ、さらにその力を背景に頼之系の細川氏(左京大夫に代々任じたので京兆家と呼ぶ)が本宗家となり、将軍を補佐して幕政を主導した。
南北朝末期、細川氏は二度(貞治三年、康暦元年)にわたって伊予へ侵攻し、河野通朝・通堯(通直)父子二代の当主を相ついで討死させた。侵攻にはそれぞれ理由があるが、その根底には、細川氏による四国の全域支配への野望があったのではないだろうか」とあった。
偶々であるがその細川氏の四国の拠点である宇多津を歩けて、なんとなくあれこれが繋がってきたように思える。


七十八番札所・郷照寺から七十九番札所・天皇寺へ■

閻魔堂
郷照寺を販れ遍路道に戻る。参道を下り切ったところ、徳右衛門道標の斜め前に閻魔道がある。「四国一のえんま大王像」と書かれた看板に惹かれお参り。堂内には閻魔様を中央に、左右に大王像が並ぶ。十王像だろうか。
十王とは閻魔王を含めた十尊。亡者の罪の多寡を審判し、地獄へ送るなど六道輪廻を司る。生前に十王を祀れば死して後の罪を軽減してくれるとの信仰がある。お寺さまに十王堂があるのはそのためだろう。が、閻魔様以外の尊像はあまり知名度がなく、ひとり閻魔さまだけが知られる。

大束川手前、公園傍の標石
古い宇多津の街並みを抜け、大束川を渡る手前、道の左手にある公園の前に標石がある。「東 高松 西 丸亀 道 すぐ金毘羅道 すぐ かわぐち 天保二年」と刻まれる。
「かわぐち」の意味するところは不詳だが、大束川に架かる橋の辺りが往昔の「鵜多の津」であったというから、そこを指すのだろうか。





西光寺
水門のある橋の手前、なまこ塀・土塀に囲まれた一見、武家屋敷といった風情の寺がある。西光寺である。
城郭伽藍様式の境内に。本堂の前面の勾欄には龍の彫り物が目立つ。本堂にお参り。本堂

左手の境内に舟屋形茶室があった。周囲は板戸で覆われ内部を見ることはできない。
案内には「江戸時代末期に建造した旧多度津藩藩主の御座船と伝えられる船屋形である。 由来については定かでないが六十二艘立の「順風丸」とする説や三十五反帆を誇った御座船 「日吉丸」とみる説などがあってその伝承も一定していない。
廃藩置県後西光寺境内に移し一部改造が 加えられたが昭和五十七年の移築解体修理によって創建当初の姿に復元されたこの種の遺構は殊に少なく 現在確認されている船屋形は本件を除けば旧姫路藩の船屋形(相楽園内)と旧熊本藩の細川家船屋形(熊本城内)と数えるのみである」とあった。





聖通寺分岐点の標石
クロスする県道193号を直進、瀬戸大橋線の高架を潜ると、その先に県道33号。遍路タグの案内があり、指示に従い県道のアンダーパスを潜り抜けると五差路。五差路といっても左手は工場跡の更地。大型ショッピングセンターが建ちはじめている。ここを北に進むと聖通寺。
その角に手印と共に「七十九番 天**」と刻まれた標石が立つ。遍路道はここを右に折れる。ここに遍路道案内のタグがあり迷うことはない。指示に従い、聖通寺山と右手の角山の鞍部に向かって緩やかな坂を進む。
聖通山のゆるぎ石
聖通寺山に聖通寺城があった、と言う。麓に聖通寺もある。細川氏由ゆかりの寺、ないしは館跡でもあったのだろうかとちょっと立ち寄り。古いお寺さまではあるが細川氏の館ではなく、館は郷照寺の南西の円通寺、多門寺の辺りであったよう。調べて行けばいいものを、成り行き任せであり、いか仕方なし。
で、地図をチェックすると聖通寺山に「ゆるぎ岩」のマークがある。なんとなく気になりゆるぎ岩に向かう。

途中聖通寺城跡である常盤公園がある。特段の遺構はなし。展望も木々に遮られ宇、それほどよくもなかった。
ゆるぎ岩は巨石が並ぶ。どれがゆるぎ岩かよくわからなかった。適当に岩を揺らすが、揺れることもなかった。後からあれこれ記事を読むと、岩を動かしている方も多いので、もう少々真面目にすれば動いたの、かも。




県道33号との交差角に標石
遍路道に戻る。上述道標に従い、ゆるやかな坂を上り切った鞍部、県道33号と交差する山側に石碑と共に標石がある。石碑には「奥院岩薬師如来」、標石には「へんろ道 東坂出へ 西宇多津町へ 七十八番?二十一丁、二キロ半 七十九番へ一里 四キロ」と刻まれる。







巨石に刻まれた不動尊
県道を渡ると道の左手に田尾公園がある。ここにも遍路道案内のタグがある。公園内を抜けるようだ。
指示に従い車道を左に折れ、公園へのアプローチ道に入ると、道の左手、民家の前に巨大な岩に彫られた不動明王の像があった。

白金町の本街道右側に標石
田尾公園を抜け、そのまま東に進む本街道に入り直進。右手に大きな境内をもつ八幡社、進んで右手に州賀金毘羅社の小さな社にお参りし、八幡町から白金町に入る。道の右手に「すぐ邊路路 左こんぴら道」と刻まれた標石があった。



本街道を東へ、坂出市街を抜ける
遍路道は交差点を越え、そのまま本町のアーケード商店街に入る。アーケードを抜けると元町・京町、室町、旭町、横津町と直進し坂出市街を抜ける。

標石2基の分岐点で本街道から右に折れる
横津川を越え、本街道が金山の山裾に接する辺り、道の右手に2基の標石がある。手印と共に、「七十八番 七十九番 扁ん路道」「邊ろ道 右七十九番崇徳**」といった文字が刻まれる。遍路道はここで本街道と分かれ右に折れる。




予讃線・瀬戸大橋線踏切先の標石
細い道を進み予讃線・瀬戸大橋線の「金山国道踏切」を渡り、少し進むと、道の左手に標石がある。手印と共に、「崇徳天皇道 札所へ四丁」と刻まれる。









八十場の霊泉
金山(標高280m)の東山裾を進むとやがて八十場の霊泉に着く。森と泉とお堂。崇徳上皇ゆかりの地と思うだけで、なんだかちょっと身構える。
泉の脇に石碑があり、「崇徳上皇御殯*御遺跡 白峰宮」と刻まれる。その脇の案内には、「八十蘇場の清水
  やそばの水はドンドン落ちる  つるべでくんで ヤッコでかやせ
むかしから讃岐のわらべたちに唱われたこの泉は、いかなる早天にも濡れることなく、今も清冽に流れている。

景行天皇の御代、南海に征して悪魚の毒に悩んだ讃留霊皇子(讃留霊王)とその軍兵八十八人は童子の捧げるこの水によって蘇ったがゆえに、八十蘇場の水との伝説を持ち、芳甘清碧な水は古くより薬水として尊ばれ、茶人にも愛されて、遠くは阿波山中より求め来る人も多いという。
八百年のむかし、保元の乱 によって綾北に配流された崇徳上皇が南狩 9年にして鼓岡行在所に崩ぜられるや御殯*の地となり、御尊体をこの霊水にひたして損腐を防いだ聖地でもある。 老杉は天を覆って森厳の気を生じ、清水は酒々として行人の心を濯ぐ、やそばはまごとに霊泉の聖地である 坂出ライオンズクラブ」とあった。

現在は八十場、昔は矢蘇場、この案内には八十蘇場、Googleの地図には野沢井(崇徳上皇ゆかりの地)とある。清水の傍にある地蔵堂脇には「西国三十三所石物観音彌蘇場道、とあった。
讃留霊王
綾氏の祖先とする。讃留霊王は景行天皇の御子神櫛王ともいわれ、「讃岐の国造の始祖」の系と言う。

茂兵衛道標(100度目)
清水の前は金山と城山の間を進んできた道が合わさるT字路。その角に「道場寺 第七十九番霊場 左 高松 明治廿一年」と刻まれる。第七十九番霊場の手印は右(南)を指す。左に進む遍路道もあるが、今回は道標に従い右に折れる。






裏参道への標石
ほどなく道は分岐。分岐点に手印と共に「左へんろみち」と刻まれる。左に折れる道は第七十九番札所高照院、というか天王寺というか、白峰宮の裏参道。第七十九番札所高照院に着いた。

2回に分けてメモした七十七番札所道隆寺から七十九番札所までの旧遍路道散歩を終える。



仲多度郡多度津町の道隆寺から、丸亀市域を抜け綾歌郡宇多津町の郷照寺を打ち、坂出市市街を抜けて天王寺まで、おおよそ13キロの遍路道を辿る。 当日は道隆寺から天皇寺まで進んだのだが、道隆寺から郷照寺までの間、あれこれ寄り道しメモが結構長くなってしまった。
今回のメモは郷照寺までの遍路道のメモとし、その先は次回に廻す。

本日のルート;
七十七番札所・道隆寺から七十八番郷照寺へ
七十七番札所・道隆寺>地蔵堂傍の茂兵衛道標>天満宮傍、T字路角の標石>塩屋別院>正宗寺>寿覚寺南の金毘羅標石>(太助灯篭へ>寿覚院山門前の常夜灯と標石>太助灯篭)>丸亀市街を抜け宇多津に入る>県道左側に地蔵堂>誰袖(たがそで)の標石>誰袖(たがそで)の標石>本妙寺>郷照寺参道前の徳右衛門道標>七十八番札所郷照寺
七十八番札所・郷照寺から七十九番札所・天皇寺へ
七十八番札所郷照寺>閻魔堂>大束川手前、公園傍の標石>西光寺>聖通寺分岐点の標石>(聖通山のゆるぎ石)>県道33号との交差角に標石>巨石に刻まれた不動尊>白金町の本街道右側に標石>本街道を東へ>標石2基の分岐点で本街道から右に折れる>予讃線・瀬戸大橋線踏切先の標石>八十場の霊泉>茂兵衛道標(100度目)>裏参道への標石>第七十九番札所高照院


七十七番札所・道隆寺から七十八番郷照寺へ■

七十七番札所・道隆寺からスタート
道隆寺を打ち終え、次の札所に向かう。境内から出るのも、また境内から少し離れた本坊からでるのも、遍路道は境内北側を丸亀市街へと走る車道を進むことになる。
本坊は結構風格がある。総本山醍醐寺のもと、全国に六つある真言宗醍醐派の大本山のひとつ。
こじんまりとした境内を歩きながら、第三世が空海の実弟である法光大師、第四世が円珍こと智証大師、第五世が理源大師と高僧が住職を務めたということに何となく??を感じていたのだが、この本坊を見て納得。
本坊北角の標石を直進し遍路道にでる。


地蔵堂傍の茂兵衛道標
道隆寺を出て東に向かった道はすぐ丸亀市域に入る。丸亀に入って直ぐ、道の右手に地蔵堂があり、その脇に茂兵衛道標が立つ。「右どう里う寺 左道場寺 明治二十七年」と刻まれる。茂兵衛134度目巡礼時のもの。道場寺は七十八番札所・郷照寺の古い呼び名である。

天満宮傍、T字路角の標石
金倉川を渡り、讃岐塩屋駅を越えると道の左手に天満宮。その東側、T字路角に標石が立つ。「本派本願寺 塩屋別院 本願寺坊舎」の文字と「逆へん路通りぬけ道あり」と刻まれる。「抜け道云々」の指示するところは不明だが、ここでちょっと遍路道を離れ標石の指す塩屋別院に立ち寄る。
本派本願寺
本派本願寺とは西本願寺の異称。大谷派本願寺に対してのもの。西本願寺とは浄土真宗本願寺派の本山である本願寺の通称。大谷派は浄土真宗十派の一。第12世教如が、徳川家康の寄進を受けて烏丸に東本願寺を建立したのち、独立したもの。明治14年(1881)東派から大谷派に改称(「コトバンク」より)。

塩屋別院
予讃線を潜るとほどなく誠に大きな山門と広い境内、堂々とした伽藍をもつ塩屋別院がある。本堂前にあった案内には、「本願寺塩屋別院の起源は、江戸時代の慶長20(1615)年に播州赤穂(現 兵庫県赤穂市)の教法寺と門徒30戸が塩田開墾のため、集団移住したのが始まりである。
当初は教法寺道場と称し、寛永20(1643)年讃州那珂郡塩屋村総道場教法寺と称する寺号を賜わり、以来、念仏者の中心道場となっていった。
当時の敷地は東西二十五間、南北三十間(750坪)本堂は東向き七間四面、境内の地上げに必要な築石は丸亀城築城の残石で補ったと言われている。
享保19(1734)年に本願寺塩屋別院となり、延享2(1745)年面積を六段六畝十三歩(1993坪)に拡大し、現在の本堂の建設に入り、それまでの本堂を対面所とした。
現在の本堂は、寛延2(1749)年に起工し、上棟は安永(1775)年でおよそ30年の歳月を要した。さらに完工までに相当の年月を要し、大工棟梁も3人目にして完成したと言い伝えられている。
また本堂完工後、書院・奥座敷・学寮・講堂・表門・鐘楼・表納所・経堂・土蔵・輪番所・講中詰所・集会所・茶室等が順次建てられ、全ての完成まで50年余りを要したと推測される。
平成5年より平成大修復を策定実施し、平成7年に本堂屋根修復・大書院の修復を完了し、平成9年には研修会館を新築した」とあった。

それにしても立派な構えである。讃岐遍路歩きの折々に、曼荼羅道での蛇岩や善通寺の法然上人逆修の塔など、上人ゆかりの地に出合った。承元の法難により讃岐配流となった上人は放免されるまでの10ヶ月間、讃岐各地での布教をおこなったというから、上人の浄土往生の教えが広まったのだろうか。
もとより、この塩屋別院は浄土真宗であり、法然の開いた浄土宗ではないが、浄土真宗の開祖親鸞は法然の教えを継承し発展させたものである。浄土真宗とは浄土往生を説く真実の教え、ということのようだ。
ドイツ兵俘虜収容所
尚また、案内には「本願寺塩屋別院におけるドイツ兵俘虜収容所」の案内があり、「大正3(1914)年に勃発した第一次世界大戦。イギリスと交戦中のドイツに対して、日本は同盟関係にあったイギリスとともに中国領土内でドイツと戦火を交えた。数か月間の攻防が続いた後、ドイツ軍は最後の砦となっていた青島(チンタオ)が陥落し、降伏した。その際、捕虜として捕えられたドイツ兵4,627人が、日本にあった12か所(四国には松山、徳島、丸亀の3か所)の俘虜収容所に送られた。
同年11月16日、多度津港へ入港後、丸亀俘虜収容所(本願寺塩屋別院)に収容された俘虜324人は2年5か月もの長い間、丸亀で俘虜生活を送ることとなる。その間の塩屋別院門信徒との交流・俘虜たちの暮らしぶり等、当時の貴重な写真も残っている。
当時の俘虜の生活は、個人個人を尊重した収容所運営を図っており、運動する事やビールを飲むこと等を許可する運営が行われていた。やがて彼らの能力を活かす機会も増え始めソーセージを作ったり技術者として学校等で技能の指導を行ったりしていた。
また、俘虜のエンゲルを中心に楽団を結成し、26回もの演奏会を開催している。その中で、男性合唱団も2団体結成され「収容所合唱団」として独自のコンサートも開催し、活発に活動していた。彼らの音楽活動は、丸亀の収容所から始まり、その後、徳島の板東俘虜収容所へ移り、そこでも音楽活動が盛んになった」との説明が当時の写真と共にあった。

第一次大戦の捕虜収容所といえば、松江中佐が所長であった徳島の坂東俘虜収容所が有名だが、偶々訪れたこの丸亀にも同様の精神で運営された収容所があった。松山で出合った日露戦争でのロシア兵捕虜収容所の写真、市民と道後温泉で寛ぐ姿、三津浜で海水浴を楽しむ姿、将校は市内の民家を借りて住むことも認められていた、といったことなどを思い起こす。
松江中佐と坂東俘虜収容所は『ふたつの山河;中村彰彦著(文春文庫)』に詳しい。

正宗寺
遍路道筋に戻り少し東に進むと、道の右手に正宗寺がある。何気なく立ち寄る。と、ここも法然上人ゆかりの地であった。
法然上人櫂堀井戸
道を少し南に折れ、境内入口に。入り口に佇む北向地蔵にお参りし境内に。境内南端に覆屋があり、その下が井戸となっている。
法然上人が、讃岐の塩飽諸島の笠島浦(かさじまうら)から、讃岐金刀比羅宮の東麓、九条家の荘園である小松庄へ移ることになり、船でこの地・塩屋に上陸。この時、水を願って船の櫂で地面を掘ると、水が湧きだしてきた、と。 櫂堀井戸の名前の由来である。当時はこの辺りが海岸線であったということだろう。
なお、安政五年(1858)の『西讃府誌』には「棹の清水」として伝えられ、「信じられないことであるが誰もがこのことを知っているので、仕方なく載せた」という内容の添え書きまであるという。
舟つ奈き岩
井戸の東、木の下に二つの石碑がある。ひとつは「舟つ奈き岩」とある。法然上人上が讃岐上陸の折の岩だろうか。またその横に自然石。何か刻まれているようだがはっきりしない。自然石に「ほうねん上人かいの水 南無(なむ)は船阿弥陀(あみだ)のかいで堀(ほる)清水(しみず)末の世までも仏仏(ふつふつ)とわく」と刻まれるとの記事があったので、その石碑かもしれない。

法然堂もあるこのお寺さまは、法然上人が去ったあと、弟子の成阿坊が残り、草庵を守り教えを広めたとのことである。
北向き地蔵
散歩の折に触れて北向き地蔵に出合う。今までスルーしていたのだが、そもそも何故に「北向き」を特別視するのだろう。チェックする。 地蔵菩薩の住む浄土である?羅陀山(きゃらだせん;須弥山を囲む七金山のひとつ)は南にある。故におのずと地蔵は北を向くことになる、と言う。それはそれでいいのだが、北向き地蔵と敢えて挙げる説得力に乏しい。
北は鬼門など忌むべき方角とされる。それにも関わらず敢えて北を向くことが、逆に特別な霊威を感じるといった信仰故との説もある。また、中国には王者南面の思想がある、と言う。京都御所しかり、天皇陵(御醍醐帝を除き)しかりである。北は「下座」と言うことだろう。
で、何故に「北向き」を特別視するか、ということだが、それはお地蔵さまの「役割」をはっきりと表したもの故、と言う。釈迦入滅後、弥勒菩薩が現れるまでの気の遠くなるような間、この現世に仏が不在となる。その間仏に代わり六道を輪廻する衆生を済度するのが地蔵菩薩とされる。「一斉衆生済度の請願を果たさずば、我、菩薩界に戻らじ」と、地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道に現れ、下座にある我々に寄り添い済度するということだろう。
全国に北向き地蔵は400体ほどある、と言う。敢えて北を向く故の霊威なのか、民衆に寄り添う故の下座としての北向きなのか門外漢にはわからないが、何となく「北向き」を特別視する理由はわかったように思える。

寿覚院南に金毘羅標石
道を東に進み、西汐入橋に架かる塩屋橋を越え更に直進すると寺の境内に行く手を阻まれる。辺りはいくつもの寺が集まる寺町で寺のようだ。
T字路を右に折れ寿覚院の南、県道21号(丸亀宅間豊浜線)に入り、少し東に進むと県道33(交差点から北は県道204号)と交差する。その交差点の少し手前、県道21号の右側に金毘羅標石。
「左こんぴら道 すぐこんひら 右かわくち 明治十三」といった文字が刻まれる。
丸亀街道
金毘羅道標の脇に「こんぴら湊 丸亀街道」の案内が詳しいルート図と供にある。案内には「こんぴら湊 まるがめ街道  現在こんぴらさんとして親しまれている金刀比羅宮 は、古くから金毘羅大権現として広く信仰を集めていました。 特に江戸時代後期には金毘羅参詣が一般庶民の間で人気となり多くの人々が参詣に訪れるようになりました。
主な金毘羅街道として、丸亀街道 、高松街道 、多度津街道 、阿波街道 、伊予・土佐街道 の5街道 が知られています。この中でもっとも多くの参詣客が利用し、にぎわったといわれているのが丸亀街道です。 丸亀から金毘羅までの約3里(12km)の道筋には今も、道標 、丁石 (距離を表す単位である丁数が 刻まれている石造物 )、燈籠 が多く残され、往時のにぎわいを今に伝えています」とあった。

太助灯篭へ□

ルート図には随所に金毘羅標石が立っている。そのうちに歩いてみたい、などとルート図を辿っていると四国への上陸地点、金毘羅街道のスタート地点である丸亀湊に「太助灯篭」とある。何となく名前に惹かれちょっと立ち寄ることに。
寿覚院山門前の常夜灯と標石
ルート図を辿り金毘羅標石の道を隔てた北、寿覚院と民家の間の道を進む。と、ほどなく寿覚院山門前に金毘羅常夜灯と標石が立つ。常夜灯には「大阪講中」と刻まれる。標石には手印と共に、「こんぴら せんつじ へんろみち」「往昔金毘羅大権現 當山十一面観世音 明治五年」と言った文字が刻まれる。
京極家の前の丸亀藩主山崎氏の菩提寺である寿覚院の本尊は十一面観音である。
太助灯篭
予讃線・丸亀駅、更にみなと公園西側の道路脇にたつ常夜灯を見遣り丸亀港へ。港の太助灯篭は予想以上に大きくすぐわかった。傍にあった案内には「金毘羅講燈籠  丸亀 は金毘羅参詣客の上陸地で、門前みなととして栄えてきた。金毘羅講寄進のこの青銅燈籠は、天保九年 (一八三八)の製作で、高さ五・二八メート ル、蓮華をかたどり八角形である。
ここの船溜り(新堀湛甫)を築造するとき、当地の金毘羅宿の主人柏屋団次らが発起で江戸に行き、江戸および近国で千人講を作り、江戸本所相生町の富商塩原太助の奉納金八十両をはじめ、千三百五十七人が出し合った金でできた信仰と、航路標識とかねたもので、江戸講中の代表、八十両の最商領寄附者の名をととめて、一名「太助燈籠 」とも呼んでいる。
天保の昔、対岸にニ基・福島湛甫にニ基建てられたが、戦時中の金属回収で姿を消し、この一基だけが残っている。金毘羅街道 の「一の燈籠」である。 丸亀市教育委員会」とあった。
塩原太助
Wikipediaには「江戸の豪商。裸一貫から身を起こし、大商人へと成長。「本所に過ぎたるものが二つあり、津軽屋敷に炭屋塩原」と歌にまで詠われるほどの成功をおさめた」とある。
塩原太助には散歩の折々に出合った。隅田区では太助ゆかりの塩原橋に出合った。足立区の東陽寺では太助のお墓に出合った。群馬と新潟を隔てる三国峠を越えたとき、途中にあった猿ヶ京温泉の辺りは塩原太助の生まれたところ、と言う。長年歩いているとあれこれと繋がってくるものである。
因みに塩原太助を一躍有名人としたのは三遊亭円朝の『塩原太助一代記』と言う。

新堀湛甫・福島湛甫
湛甫(たんぽ)とは「船の停泊するところ」の意。太助灯篭の少し東、岸壁にあった石碑、「湛甫(しんぼりたんぽ)のみち」には、「天保3(1832)年、丸亀藩主は幕府の許可を得て、西平山の海岸に湛甫を築いた。東西80間(145,44m)、南北40間(72,72m)、入口15間(27,27m)の湛甫が完成された。
この湛甫を新堀湛甫(しんぼりたんぽ)と呼び、その付近一帯の地名を新堀と呼んだ。湛甫ができると、阪神、岡山からの金毘羅参拝の船が往来し、いままでにもまして丸亀はいっそう繁栄した」とある。
福島湛甫は新堀湛甫より以前、それまで船着場として使われていた内浦湛甫に代わり、文化三年(1806)に築造された。役夫およそ6万名弱が投入された、と言う。
上述太助灯篭は新堀湛甫築造に際し、夜間航行の標として十二基計画された灯篭の第一号。上述の説明に拠れば、太助灯篭を含め新堀湛甫には三基建てられた、ということになる。
港の公園には大阪と丸亀を結ぶ金毘羅参拝の定期舟船(月参船)である金参船をかたどった遊具などが造られていた。月参船は丸亀京極家の第六代藩主である京極高朗(在位1811‐1850)の頃就航した、と言う。
遍路道に戻る。

丸亀市街を抜け宇多津に入る
遍路道は上述金毘羅道標の先にある交差点を直進し丸亀市街を抜ける。右手には丸亀城が見える。
交差点を直進する四車線の道路は県道21号・県道33号重複路線。丸亀市街を抜ける遍路道には標識は残らない。道路整備により撤去され、お城近くの市立図書館の庭に道路元標識など他の石造物と共に集められているようである。
●丸亀城
丸亀城は以前訪れたこともあり、今回はパス。
標高66mの小山・亀山に築かれた城。「扇の勾配」と称される城壁のカーブが美しい。石垣の高さは日本一と言う。城は室町の頃、管領細川頼之の重臣である奈良元保安により築造。現在の構えは慶長2年(1598)から5年の歳月をかけ、生駒親正とその子・一正により、西讃防備のため高松城の支城として造られたもの、と。
後の寛永18年(1641)丸亀藩主として山崎家治が入城、次いで万治元年(1658)に京極高和が城主となり、明治まで京極六万石の城下町として栄えた。 因みに丸亀の由来は、城の築かれた亀山の姿より。円形のその姿より、生駒氏築城の頃は「円亀」と呼ばれたようだが、その後「丸亀」となった、とか。

県道左側に地蔵堂
土器川に架かる蓬莱橋を越え土器町にはいる。県道21号はここで終わり、この道は県道33号高松善通寺線となって東に進む。汐止めゲートらしき施設が海側にある新内橋を渡ると香川県綾歌郡宇多津町に入る。
道を進み、JR宇多津駅の駅前通りが県道にあわさるT字路に地蔵堂がある。地蔵堂の裏手は独立丘陵である青ノ山(標高224m)となっている。



誰袖(たがそで)の標石で県道を右折
地蔵堂から県道194号の高架を潜るとほどなく、道の左手に立派な標石がある。「西 丸亀道右 扁ん路道 文久三」が刻まれる。この標石は指にもった扇子が方向を示し、手元には袖が刻まれている。このような袖まで刻まれた標石のことを「誰袖(たがそで)の標石(しるべいし)」と呼ぶようだ。寄進者は宇多津の魚問屋の主人とのことである。
同様の「誰が袖道標」には愛媛県西条市丹原で出合った。





宇夫階(うぶしな)神社
標石を右折すると宇夫階神社の正面鳥居前に出る。趣のある社。Wikipediaには 「伝承では、宇夫階神社は紀元前から鵜多郡の郷に鎮座し、宇夫志奈大神として祀られている。景行天皇の皇子日本武尊の子、武殻王(たけかいこおう)が阿野郡に封ぜられた際に、瀬戸内海海岸を船で御巡視したが、暴風雨に遭遇し、王は驚いて宇夫志奈神に祈念すると、小烏が跳び風波を凌ぐ道しるべとなり王を導いた。 王は大変喜び、水夫に命じて烏に従い、泊島(丸亀市塩飽本島泊)に漂着し難を逃れた。これより宇夫志奈大神を一層篤く崇められ、小烏大神と称されるようになったとされる。現在でも「小烏(こがらす)さん」との別称が地域で受け継がれている。
また光仁天皇により、779年(宝亀10年)には社殿再興のことが伝えられている。 さらに平城天皇の806年(大同元年)10月、藤原鎌足四世の孫左京大夫藤麻呂の孫とされる、津の郷の長者、末包和直に宇夫志奈大神の託宣があり、末包は当時の国守に上申し、神主となり長く祭祀を行い来った。翌807年、平城天皇の治世に、社殿から光明が射すことが度々あり、勅命により現在の位置に遷座し社殿が造営された」とある。
古い社である。鉄筋コンクリート造りの拝殿は別として、境内の建物の多くは登録有形文化財に指定されていた。
本殿
本殿は伊勢神宮外宮の第一別宮である多賀宮の旧正殿を移している、と。当社の本殿・拝殿が昭和47年(1972)に火災により焼失。この年が伊勢神宮の式年遷宮の時期でもあったため、旧多賀宮を貰い受け本殿とした。20年毎にすべてを造り変え、本来であれば見ることのできない伊勢神宮の社が今に残る。
本殿を拝することができるのかどうか、伊勢様式を真似た神明造り鉄筋コンクリート造銅板葺の拝殿を奥へと回り込む。屋根全体が銅合金版で覆われており、元の白木屋根の多賀宮は奥に配されているのか、拝すること叶わず。本殿建物のどこまでが文化財の指定を受けているのか不明だが、昭和の建物が文化財指定を受けるのは珍しいようである。
巨石(いわさか)と御膳岩
本殿はともあれ、拝殿から奥へと回り込んでいると、「巨石(いわさか)と御膳岩」の案内があった。案内には「この巨岩は古代祭祀の遺跡である。いわさかは神座と呼ばれ、古代より信仰の対象としてあがめられていた。これに対し御前岩は神饌(私注;しんせん:神に供える酒食(しゅし))を置き献ったものである。
また、いわさかは巨石文化の遺構ともいわれ、その形状は高さ5.5m,直径4mであり、重さは三百トン以上と推定される」とある。




本殿裏手に巨大な岩があり、それが巨岩。本殿右手、これも巨大な石灯篭の立つあたりに御膳石があった。古代祭祀が行われていた場所に社が建てられた、ということだろうか。
宇夫階(うぶしな)
ところでこの宇夫階(うぶしな)神社に祀られる宇夫志奈大神って?チェックしてもヒットしない。が、なんとなく産土(うぶすな)神に関係ありそうな気がする。「産土神」とは、その地に生まれた人の守護神。地縁に基づく信仰である。谷川健一氏に拠れば、生まれ落ちて最初に触れる砂が産土の語源であり、その土地の霊が子供の守護神になるという信仰がその原点である、と。
実際、産土神を宇夫須那神、宇夫志奈神とも記すという。古代祭祀の頃まで遡る地域共同体の守護神といったところだろうか。単なる妄想。根拠なし。

□もうひとつの遍路道□

この鳥居前で、上述「誰袖の標石」ルートと合流するもうひとつの遍路道がある。そのルートは上述県道194号の高架を潜ると直ぐ県道を逸れ、右に折れる脇道に入る。ほどなく手印と共に「七十八番郷照寺」と刻まれた標石があり、そこを右折。緩やかな坂をのぼり、そして道なりに坂を下ると鳥居前に出る。遍路タグはこちらの道を示していた。



本妙寺
静かな佇まいの家並を進む。右手に建つ本妙寺。美しく整えられたアプローチ、その先に立つ2基の銅像に惹かれちょっと立ち寄り。銅像は日蓮大菩薩、日隆大聖人菩薩。山門を潜り本堂にお参り。
境内に大きな石柱。「日隆大聖人御舊跡 鳳凰霊水」とある。案内に拠ると「本妙寺はおよそ550年の昔、室町時代のはじめ後花園天皇の嘉吉2年、この地に布教に来られた法華宗中興の祖日隆聖人によって開かれた。聖人御歳五十八。秋山土佐守建立、日蓮大菩薩ゆかりの番神堂(私注;丸亀旧市街の番神宮)において法華教を説かれた。
当時この地は鵜足津と言い、将軍足利義満公を育てた細川頼之公の領国であり、居住地でもあったことから、讃岐の国の政治経済文化の中心地、港湾都市として大いに栄えていた。しかし、この地は海浜のため飲料に供する水が乏しく、人々は体調を損ね、大いに難渋しておりました。それを憐れんだ聖人は、自らの杖をもってこの地にあった桐の巨木の根本を掘られた。と、そこより清澄なる水が渾々と湧き出で、またその時、桐の巨木にはこの世の瑞鳥鳳凰が飛翔し舞い降りた。
人々は眼前の奇跡に驚き、聖人の教えに帰依し。 以来この水は、鳳凰霊水と呼ばれ、いかなる干ばつにも一日として涸れることなく 湧き続けており、御題目を唱えつつ戴くことによって、不老長寿、すなわち成人病等について霊験まこと にあらたかと伝えられる」と言いったことが書かれていた。
鵜足津
鵜足津は鵜足郡の津のこと。鵜足の津には古来、手置帆負命(たおきほおいのみこと)の子孫が代々、矛竿(ほこさお)を朝廷に献上するに際し、この津ヨリ船出した、との伝説が残る。
また、この矛竿の大和朝廷への貢物より古くは竿調国(さおつきのくに)と称され、それが「さぬき」に転化したとの説もある。讃岐国の由来である。 この地、津の郷が文献に現れるのは9世紀前半。このころ既に海上交通の要衝となっていた。
南北朝の頃、南朝方に与し阿波に下った従兄細川清氏が白峰城に陣を張ると、 室町幕府の管領細川頼之が宇多津に上陸。郷照寺裏の青ノ山に対陣し清氏を討つ。その後頼之は館を聖通寺城下に置き、宇多津は守護領国讃岐の政治の中心ともなり栄えることになる。聖通寺城は宇多津の東側、聖通寺山にあった。

郷照寺参道前の徳右衛門道標
本妙寺を離れ先に進むと、道の左手に自然石の門のような造作がある。壁はコンクリートブロックの上に古い屋根を被せたお堂。地蔵堂のようである。そこを少し東に進むと郷照寺の案内がある。
その角に「是より天の社まで一里半」と刻まれた徳右衛門道標がある。 天の社は七十九番札所 高照院天皇寺のこと。郷照寺はここを右に曲がり、ゆるやかな坂を上る。

あれこれ寄り道が多く、メモが結構長くなった。当日はこの先、天皇寺まで進んだのだが、今回のメモはここまで。郷照寺から先は次回に廻す。
先回は善通寺から七十六番 金倉寺までの旧遍路道をメモした。今回は金倉寺から七十七番札所 道隆寺への遍路道をメモする。
またついでのことでもあるので、善通寺から金毘羅さんを参拝し金倉寺への遍路道に戻るルートも加えた。善通寺から金毘羅さんはすぐお隣。これまた7キロほどである。善通寺から金毘羅宮を参詣し、七十六番 金倉寺への遍路道に戻る方も多いのでは、との想いではある。
更に追加。善通寺から道隆寺までの遍路道を歩いた後、善通寺赤門筋にある善通寺郷土館を訪れたのだが、そこで頂いた資料に善通寺市内、石神神社経由で金倉寺へと辿る遍路道があり、その遍路道のほうが先回歩いた金倉道への遍路道より古い、とのこと。
旧遍路道を辿る者としては、これをメモしないわけには、ということで元禄の頃の遍路道と郷土館の方がおっしゃる旧遍路道を最後に付け加える。

本日のルート;
第七十六番札所・金倉寺から第七十七番札所・道隆寺へ
76番札所・金倉寺>金倉寺駐車場入口の標石>県道33号手前に茂兵衛道標(115度目)>六条地蔵堂の標石>国道11号を越え葛原正八幡宮へ>お堂傍に標石>茂兵衛道標(143度目)>2基の標石>道隆寺南の標石>第七十七番札所・道隆寺

金毘羅経由、金倉寺への遍路道
多度津金毘羅道;善通寺から金毘羅宮
善通寺赤門>県道24号を右折>護国神社・乃木神社>県道47号に>南部小学校先で県道47号と分かれる>四つ辻の2基の標石(伽藍道が合流)>三界萬霊地蔵尊>原御堂>土讃線踏切手前の金毘羅標石>土讃線脇の金毘羅石灯籠>清少納言 史跡衣掛けの松跡>四国ガスのガスタンク>金倉川に沿って進む>39基の並び石灯籠>大宮橋東詰めに高灯籠>一の橋西詰の金毘羅宮参道口に
伽藍道(多度津金毘羅道の枝道)
南大門>鶴ケ峰西>樽池>四つ辻で多度津金毘羅道に合流
多度津金毘羅道・魚道・遍路道金毘羅宮から金倉寺;
四国ガスのガスタンクに戻る(多度津金毘羅道)>尽誠学園前の標石(魚道が寸断されており、国道319号・県道25号を進む)>金毘羅灯籠の標石へ>金倉寺への遍路道に

石神神社経由、金倉寺への遍路道
赤門>県道24号>旧多度津金毘羅道>県道48号>3基の標石>石神神社から高松自動車道へ>榎之木涌の標石>かりてい道>道隆寺



■第七十六番 金倉寺から第七十七番札所 道隆寺への遍路道■

金倉寺駐車場入口の標石
金倉寺を離れ、次の札所七十七番 道隆寺へ向かう。寺の西側にある金倉寺駐車場の入口、道脇に標石がある。手印と共に、「へん路みち 明治十九年」と刻まれる。






県道33号手前に茂兵衛道標(115度目)
駐車場を出て、境内西側の道を北に。道の対面にある御詠歌大和流の総本山・徳善寺を越えた先、県道33号の手前に徳善寺の境内に沿って左に弧を描く道があり、その角に茂兵衛道標が立つ。手印と共に「道隆寺 金倉寺 明治二十三年」の文字が刻まれる。茂兵衛115度目の巡礼時の道標である。

御詠歌大和流
詠歌とは元は和歌を詠むことを意味したが、御詠歌は巡礼歌の俗称として用いられる。平安期にその起源をもつという巡礼歌は、中世以降盛んとなり全国各地で発展した。大正10年(1921)になり各地に伝えられた巡礼歌を収集・編集し、従来の俗謡としての巡礼歌を近代的な理論に基ずく仏教音楽として巡礼歌を発展させたのが大和流と言う。
大和流は真言宗系ではあるも、特定宗派に属することはなかったが、その後徳的宗派に属する御詠歌流派が誕生した、と言う。

六条地蔵堂の標石
茂兵衛道標手前を左に折れ、弧を描く細路を50mほど西に進み県道を越える。県道を越えた処にある「へんろ道拡張整備」の竣工碑を見遣り北へと進むと、十字路北角に六条地蔵堂がある。その庵の前、石灯籠脇に「右 へんろミ* 明和」などと刻まれた標石がある。




国道11号を越え葛原正八幡宮へ
六条地蔵堂の十字路を直進し国道11号を抜けると畑の中を進む遍路道案内は右を示す。正面には清酒金陵の多度津工場があり、迂回するのだろう。右折点には標石らしき石が埋もれるが文字も読めず確証はない。
遍路道案内に従い右折し、畑の中の細路(軽自動車一台が通れる程度)を進み、成り行きで左折し鬱蒼と茂る森に向かう。森は葛原正八幡。玉垣に沿って道を進み、八幡の森ほたるの里とされる緑の中を歩くと立派な随身門がある。

葛原正八幡
随身門を潜り境内に入り拝殿にお参り。かつては一国一社と呼ばれた古い社である。延久五年(1073)、道隆寺住職の勧請による。往時は茶店、宿などで賑わったが、明治5年(1873)の大火により現状のものとなったようだ。
葛原八幡付近の旧遍路道
成り行きで随身門に進み拝殿から境内を北西に斜めに横切り出口へと向かった。出口は境内西側を北に向かう道に合流するが、その道が東西に走る道路と交差するところに2基の茂兵衛道標がある。
本来の遍路道、清酒工場が建つ前は、清酒工場前で左に折れることなく現在の工場敷地を横断し、この茂兵衛道標へと繋がっていたのではないかと思う。
延命地蔵尊
ということで手掛りでもないだろうかと社境内と清酒工場敷地が接するところまで戻る。途中には標石もあった。また清酒工場敷地が接する傍には延命地蔵堂が建っていた。
標石
延命地蔵堂から境内西側に沿う道を北に進み、右手に忠魂碑を見遣りながら進むと大木の下に「四国のみち」の石碑がある。そして、その横に標石が立つ。手印と共に「こんぞをじみち」と刻まれる。



2基の茂兵衛道標
上述境内出口の2基の道標。左手の道標には「こんぴら道 金倉寺道 明治十九年」、右手は「右丸亀 道隆寺 明治十九年」と刻まれる。共に茂兵衛88度目巡礼時のものである。






逆南無阿弥陀佛石碑
遍路標石ではないのだが、この社に逆南無阿弥陀佛石碑があると言う。逆文字、というか、裏側から見た南無阿弥陀佛の文字が刻まれる、と。八十八歳のお年寄りの女性が左手で書いたとのこと。物事は時に裏側から見ることも必要との教えのようだ。
これはおもしろそうと石碑を探す。最初は直ぐに見つかるだろうと高を括っていたのだが、これを見付けるのが結構大変だった。昔の資料にはお堂の傍にある、とのことだがお堂は延命地蔵堂だけ。その辺りには見つからない。
それではとグーグルで検索。写真が出て来た。曼珠沙華の花の中に立つとのコメント。お堂はない。曼珠沙華も花が咲いていればすぐわかるだろうが、その季節ではない。県指定天然記念物となっている社叢を彷徨い、それらしき草花が広がるところに石碑が立っていた。場所は上述忠魂碑の南側傍といったところであった。

お堂傍に標石
北にしばらく進むと、道の右手にお堂がある。その北側、畑の角に標石がある。「へんろ道」と刻まれる。






壊れた茂兵衛道標〈143度目

古い記録には、このお堂の東に破損した上部のみの茂兵衛道標が横倒しになって置いてある、と。あれこれ辺りを探すがそれらしにものは見つからない。 少し南に戻ると十字路角の民家にカーブミラーがあり、その傍に横倒しになった如何にも道標らしきものがあった。「道隆寺道 壱百四十三度目 中務」といった文字が残るとのことである。

茂兵衛道標(143度目)
北に道を進み豊原小学校を越えておおよそ100m、そこにも茂兵衛道標がある。 手印と共に「道隆寺 金倉寺 明治二十八年」といった文字が刻まれる。これも上述壊れた茂兵衛道標と同じく143度目の巡礼時のものである。

2基の標石
北に200mほど進むと、道の右手に2基の標石が立つ。ひとつは坐像の下に手印と共に「すぐへんろみち 是ヨリ札所江五丁」と刻まれた縦長の標石。もうひとつは舟形石仏であり、その台座に「北へん路道」と刻まれる。

道隆寺南の標石
道を少し進むと道の右手に「道隆寺右」の案内がある。そこを右に折れ先に進むと十字路に標石がある。手印と共に同じ面に「こんぴら こんさうじ せんつうじ 道」、また別の面には手印と共に「札所」と刻まれる。
札所への手印に従い左に折れると第七十七番札所 道隆寺の山門にあたる。


第七十七番札所・道隆寺

真言宗醍醐派大本山の寺院。詳しくは桑多山 明王院 道隆寺(そうたざん みょうおういん どうりゅうじ)と号する。本尊は薬師如来。

仁王門
山門となる仁王門を潜る。身の丈4mほどの仁王像は札所の中でも最大級のもの、とか。






ブロンズの観音像
境内に入ると参道脇に80センチほどのブロンズ製観音像が並ぶ。像は境内を縫って密門(裏門)までも続いていた。昭和49年(1974)、全国の観音霊場を参拝した信徒さんが発願いし、全国より浄財を集め昭和50年に完成した。その数200体弱とのことである。

本堂
境内を進むと正面に本堂。右手に鐘楼、大師堂、その奥に多宝塔と並ぶ。 本尊の薬師如来は秘仏で拝観できないが、脇佛として右に日光菩薩、左に月光菩薩と薬師三尊が並び、その他持国天、多聞天、増長天、広目天の仏法を守護する四天王が立つ。
薬師三尊
薬師如来を中尊とし、日光菩薩を左脇侍、月光菩薩(がっこうぼさつ)を右脇侍とする三尊形式。
日光菩薩・月光菩薩
日光菩薩・月光菩薩は、薬師如来の浄土である東方瑠璃光世界の主要な菩薩であるとして言及されるが、薬師如来の脇侍として造像される以外に、日光菩薩・月光菩薩単独での信仰や造像はないと言ってよい。
日光菩薩は、一千もの光明を発することによって広く天下を照らし、そのことで諸苦の根源たる無明の闇を滅尽するとされ、月光菩薩は月の様な清涼をもって衆生の生死煩悩の焦熱から離れるという意味がある(Wikipedia)。

Wikipediaには、「天平の頃この付近は桑園であった。寺伝によれば、和銅5年、当地の領主である和気道隆(私注:金倉寺を創建した和気道善の弟)が桑の大木が夜ごと怪しい光を放ったのでその方向に矢を射ると、矢が乳母に当たり誤って殺してしまった。これを悲しんだ道隆は桑の大木を切り、薬師如来を刻んで堂に安置したのが起源であるという。
道隆の子の朝祐は、大同2年(807年)唐から帰朝した空海に頼み、90cmほどの薬師如来を彫像し、その胎内に道隆の像を納め本尊とし、また、空海から受戒を受け第2世住職となって、七堂伽藍を建立し父の名から「道隆寺」と号した。
第3世は空海の実弟の真雅僧正(法光大師)が継ぎ23坊を建立、第4世は円珍(智証大師)で五大明王を彫像し護摩堂を建立し、第5世の聖宝(理源大師)の代には「宝祚祈願所」となり大いに栄えた。
しかし、貞元年間(976年から978年)の大地震による被害や、康平3年(1060年)の兵火や、天正の兵火による災難にあって興亡を繰り返した」とある。 「宝祚」とは天子、天皇の位のこと。天皇の祈願所ということだろ。 それほど大きなお寺さまでもないのだが、高僧が並ぶ。かつては大いに栄えたお寺様ではあったのだろう。

鐘楼
通常の鐘とは異なり、鐘の上部、音をためるための擬宝珠が無く梵字がついている、とのこと。それもあってか(?)戦時の供出を免れている。









大師堂・多宝塔・妙見宮
大師堂の傍には空海に許しを請う衛門三郎の像がある。多宝塔は二重塔。妙見宮は上述の寺伝にある、桑の木の光を妙見とみたて堂を建てた、と。この寺は妙見信仰で賑わったとのことである。
衛門三郎
伊予国荏原荘(現在の松山市恵原(えばら)町)に住む長者であった衛門三郎。性悪にして、ある日現れた托鉢の乞食僧の八日に渡る再三の喜捨の求めに応じず、あろうことか托鉢の鉢を叩き割る。八つに割れた鉢。その翌日から八日の間に八人の子供がむなしくなる。
子どもをなくしてはじめて己れの性、悪なるを知り、乞食僧こそ弘法大師と想い、己が罪を謝すべく僧のあとを追い四国路を辿る。故郷を捨てて四国路を巡ること二十一度目、阿波国は焼山寺の麓までたどりついたとき、衛門三郎はついに倒れる。
と、今わの際に乞食僧・弘法大師が姿を見せる。大師は三郎の罪を許し、伊予の国主河野家の子として生まれかわりたいとの最後の願いを聞き届ける。三郎を葬るにあたって、大師は彼の左手に「右衛門三郎」と記した小石を握らせた。 その後、河野家に一人の男子が生まれ、その子は左手にしっかりと小石を握っており、開こうとしない。そこで安養寺の住職に願い祈祷のおかげもあり、手を開くとそこには「右衛門三郎」の文字が記されていた、と。河野氏はこの不思議な石を寺に奉納し、寛平4年(892年)に、安養寺はその伝承にならって石手寺と改名した。五十一番札所石手寺の縁起である。

松山市の札所47番・八坂寺辺りから石手寺にかけて、幾たびか衛門三郎に「出合っ」た。邸宅があったとされる地区故のことではあろう。

粟島堂
境内左手にある。茶堂とある。かつては御接待所であったのだろうか。

潜徳院殿堂
本堂左手に京極家の御典医であった京極佐馬造高甫公を弔う五輪塔が祀られる。眼科医として知られ、死後も道隆寺に魂魄を留め眼病平癒を誓願した、と。潜徳院は戒名の一部。現在も目なおし観音として知られ、紙一面に「め」の字を書いたお札を納める。

密門(裏門)の標石
潜徳院殿堂を過ぎると裏門に出る。門脇に標石があり、「四国第七十七番 道隆寺 本尊薬師如来 是より右 宇多図津** 道場寺迄一里半**」とある。道場寺は78番札所郷照寺の別名である。
標石に従い、寺の北を東西に走る道を東へ、丸亀市街へと向かう。



本坊
現在の納経所はこの境内にあり、参拝を終えた遍路は裏門(密門)より次の札所へと向かう人もあるが、本来の札所のある本坊はこの境内から南東へと少し離れたところにある。
本坊へ向かう。
仁王門前の標石
仁王門の右手に標石があり、「是ヨリ七十八番ㇸ一里半」とある。手印は東を指す。手印に従い東に進む










湿地脇に標石
少し進むと水草の茂る湿地北に標石がある。「右金蔵寺 左うたつ道場寺・丸亀ミち 明治三年」と刻まれれる。この標石を南に折れる。
本坊
南に折れると誠に堂々とした土塀が続く。寺名碑には「大本山」と記される。真言宗醍醐派の大本山。総本山は醍醐寺。全国に六つある大本山のひとつ。
多くの高僧が住持したお寺さまにしては、こじんまりしているなあ、と思っていたのだが、大本山と書かれた本坊を目にし、また、かつてはこの本坊を含めた一帯が寺域ではあったのだろう。であれば納得。

本坊経由の遍路道は、湿地脇の標石まで戻り、そのまま北に進み、寺の裏門から出た道に合流して丸亀に向かう。

以上、金倉寺から道隆寺までの遍路道をメモした。これで善通寺から道隆寺への遍路道のメモを終え、次いで金毘羅さん経由の遍路道ルートをメモする。





■金毘羅宮経由、金倉寺への遍路道■

金毘羅道
善通寺市域から金毘羅宮へ続く、所謂金毘羅道は大きく分けて3ルートある。
そのⅠ;多度津金毘羅道
多度津港より南に下り、善通寺市内の中心部を抜け、市の南にある鶴ケ峰の東を上り、峠を越えて大麻山裾の集落に下り、おおよそ土讃線に沿って金毘羅さんへと続く道。
そのⅡ;伽藍道
上述多度津金毘羅道の枝道。善通寺市内から鶴ケ峰の西を上り、峠を越えた後、山裾に下る前に多度津金毘羅道に合流する。善通寺の伽藍境内から進む故の名ではあろうか。伽藍道から多度津金毘羅道を進むコースが善通寺と金毘羅さんの最短距離である。
そのⅢ;魚道
へんろ道とも呼ばれるように、多度津より南に道隆寺へと至り、そこからは遍路道を南下し、金倉寺への遍路道で出合った「左 こんぴら道五十丁」と刻まれた金毘羅灯籠まで進む。
ここから先は金倉川と土讃線の間を進み、土讃線が金倉川を渡る辺りで上述多度津金毘羅道に合流したようだが。現在ほとんど道は途切れている。尚、魚道は参詣人で賑わう琴平へ毎朝新鮮な魚を運んだ故の名である。

これを想うに、善通寺から金毘羅さん経由、金倉寺へのルートは、多度津金毘羅道またはその枝道である伽藍道を進み金毘羅さんへ。戻りは魚道を進み遍路道と魚道の分岐点、上述金毘羅灯籠を経て金倉寺へと向かうのがいいかと思う。


多度津金毘羅道を善通寺から金毘羅宮へ

県道24号を右折
善通寺から多度津金毘羅道へのアプローチは、善通寺赤門を出て赤門筋を進み県道24号を右折。右折した県道24号が多度津金毘羅道。
旧多度津金毘羅道
交差点を右折することなく、直進し本郷通りを少し進むと県道48号の一筋東に、旧多度津金毘羅道が残る。民家の間を縫う細い道筋である。

護国神社・乃木神社
道を進むと右手に護国神社、その手前に乃木将軍を祀る乃木神社がある。拝殿には乃木将軍と夫人の大きな写真が飾られていた。



県道47号に
陸上自衛隊善通寺駐屯地、元の陸軍第十一師団の敷地左に沿って南下しT字路に。県道24号は右に折れるが、金毘羅道はここを左折し少し進み、県道47号を右折。山麓への上りとなる。

南部小学校
南部小学校先で県道47号と分かれる 熊ヶ池の西、鶴ケ峰の東に沿って上る県道47号を進み峠を越え、南部小学校の南で県道から離れ南への道に入る。

四つ辻の2基の標石
道を少し進むと四つ辻があり、道の両側に標石が立つ。東側に立つのが金毘羅標石。手印と共に「金毘羅道 明治十」といった文字が刻まれる。
西側の標石は舟形地蔵標石。手印と共に「こんひらみち がらんみち」の文字が刻まれる。ここが多度津金毘羅道と伽藍道の合流点である。

地蔵池堤の三界萬霊地蔵尊
四つ辻を左に折れ道を進むと地蔵池の土手に。そこに三界萬霊地蔵尊が佇む。
三界萬霊
三界とは欲界、色界、無色界。欲界は食欲、睡眠欲、淫欲といった本能的欲望の世界。色界は形あるものの世界。欲界は越えるも、未だ物に囚われる世界。無色界は欲望も物へのこだわりからも自由になった精神世界のこと。三界萬霊はこれら三つの世界、すべての精霊を供養することのようだ。


原御堂
三界萬霊地蔵尊の手前で土手を下りる。直ぐ先に県道47号が走るが、県道に出ることなく、山裾の道を進み南光、西川の集落を抜ける。道なりに進むと県道47号に合流。道の反対側に原御堂がある。
原御堂には大師坐像が残る。文化二年と刻まれている、と。その右隣、小さな鐘堂前の石碑は芭蕉の句碑。「世を旅にしろかく小田の行もどり」と刻まれる、と。
「しろかく」は「代掻く」は田植え前の田をおこす作業のこと。田圃の中を行ったり来たりを、自分の往ったり来たりの漂白の旅に合わせているとのこと。 この句は各地に句碑として残り、尾張の医師で俳人である山本荷兮(やまもと-かけい)にあてたものともされるので、特段この地との関連はないようだ。
金毘羅石灯籠と金毘羅標石
原御堂から県道47号を少し善通寺方面へ戻ると、道の東側に金毘羅灯籠と金毘羅標石が立つ。標石には「左こんぴら道」と刻まれる。
金毘羅石灯籠には表に「金刀比羅神社」、裏に「出雲大社」と刻まれる。昔の記録に、県道47号に沿った多度津金毘羅道は、「金刀比羅神社」「出雲大社」と刻まれた金毘羅灯籠で左に折れ、広い道に出るとあるので、原御堂に出る手前、道なりに左の折れたあたりにあったものを移したものかもしれない。

土讃線踏切手前の金毘羅標石
県道47号を少し進むと土讃線踏切手前、日本独特(?)のホテルの脇に標石がある。「こんぴら せんつじ道 たきのみや道 大正三年」と刻まれたこの標石の指示に従い、県道47号を離れ右へと細路に入る。
たきのみや道は不詳だが、この地を東に向かったところに綾歌郡綾歌町瀧宮という地名があるので、そちら方面への道かもしれない。





土讃線脇の金毘羅石灯籠
昔の記録では県道47号から離れた道は現在土讃線のすぐ西に立つ金毘羅石灯籠の辺りで土讃線を渡り、その先、岩崎バス停のあたりで国道319号を越えた、とのこと。
左手の土讃線を注意しながら歩くと線路脇に立つ金毘羅石灯籠があった。踏切跡らしき風情はあるのだが、現在踏み切とはなっていないためそのまま先に進む。





清少納言 史跡衣掛けの松跡
道を進むとトンネルがあり、トンネルを抜けると道の左手に「清少納言 史跡衣掛けの松」の案内がある。石段もなにもないのだが、とりあえず崖をよじ登ると草に覆われた小さな平場があった。
松は枯れたのだろう、今は残らない。清少納言が金毘羅参拝の途中、この地で松に衣を掛け休息したとの伝承が残る。




四国ガスのガスタンク
道を進み大麻琴平買田線に合流する。この道を直進すれば琴平に着くのだが、古い記録では岩崎バス停あたりで国道を越えた多度津金毘羅道は、国道と金倉川の間を進み四国ガスのガスタンク辺りに向かったとのこと。
右手を見ると緑のガスタンクが見える。大麻琴平買田線と国道319号、そして金倉川に囲まれた場所である。目標を確認し、岩崎バス停あたりまで戻り、旧道を辿ろうとはしたのだが、用水路はガスタンクまで続くが、道らしきものはない。用水路に沿って進むプランは止めとしガスタンクへと向かう。このガスタンクの辺りで多度津金毘羅道と魚道が合流したようである。

金倉川に沿って進む
ガスタンクまで進むがそれから先に道はない。しかも土讃線で行く手が遮られる。仕方なく大麻琴平買田線まで戻り、土讃線を越えた先で金倉川の土手へと向かう。 古い記録に、金毘羅多度津道は金倉川の土手を進んだとあるのだが、現在は土手らしきものはない。また道も途中で切れる。さてこの先は? と、ガスタンクへと続いた用水路沿いに道がある。その道筋を進むと金倉川沿いの道に出た。
この路がオンコースかどうか不明だが、とりあえず先に進む。

39基の並び石灯籠
金倉川沿いの道を進み、昭和橋南詰め、次いで高薮橋南詰めを越えると道筋はカーブし、川から少し離れる。その曲がり角、道の右手民家の前に金毘羅石灯籠と39基の並び石灯籠が続く。
砂岩の軟質石材で造られた灯籠は文久、元治、慶応など幕末のものが目立つ。国も佐渡、越前、越後、甲州、松前、豊後など全国に及び、奉納講中には大阪陸尺(駕かき人足)、江戸の日雇い仲間一同といったものまである。金毘羅信仰の人気がこれだけでも十分確認できる。並び灯籠の間にある玄関から家人が出てくる。なんだか印象的な光景だ。国の重要有形民俗文化財に指定されている。
金毘羅鳥居跡の碑
並び石灯籠の南端に「金毘羅多度津旧街道遺跡並び灯籠及び鳥居跡 この地にありし粟島奉献の鳥居、昭和48年高灯籠前に移す」と刻まれた石碑が立つ。 この道筋が金毘羅道の御オンコースであることが確認でき、一安心。






大宮橋東詰めに高灯籠
道なりに進むと、金倉川の対岸、大宮橋の東詰めに高灯籠が見える。これが高灯籠だろう。上述高灯籠前に移すとあった鳥居を確認に向かう。琴電琴平駅横にある広場に高灯籠があり、それを囲む金毘羅宮北神苑と書かれた石碑横に鳥居があった。
高灯籠
慶応元年(1865)に建てられた高さ27mの灯籠。日本一高い灯籠であり、国の重要有形文化財に指定されている、瀬戸内海を航海する船の指標として建てられ、船人がこんぴらさんを拝む目標灯となっていた、とある。
内陸のこの地にある「灯台」が航海の標となるとは思えないが、その昔は10キ れています。ロほど離れた丸亀沖からもこの灯籠の「火」は見えたのだろう。電気も派手なネオンもなく、高い建物もない往時であれば可能かもしれない。 高い石の基壇の上に木製の灯台が築かれ内部は三階建て、壁に江戸時代の人々の落書きが今も残されている、とのことだが、現在内部には入れないようだった。

一の橋西詰の金毘羅宮参道口に
更に道なりに進み、左に金倉川に架かる一の橋。ここを右に折れると金毘羅さんの参道となる。






伽藍道;多度津金毘羅道の枝道

善通寺から金毘羅道への最短ルート。善通寺を出て、上述2基の標石のある四つ辻で多度津金毘羅道に合流し、その先は多度津金毘羅道を進む。

南大門を出て県道24号へ南下
善通寺伽藍境内の南大門を出て、道なりに南下。ゆうゆうロードと呼ばれる陸上自衛隊善通寺駐屯地の敷地の間を南下し、県道24号と交差する。




乃木館
交差点の少し東、自衛隊利駐屯地の中に乃木館がある。建物は第十一師団司令部であったもの。執務室には初代司令官の乃木希典以下、代々の司令官が座る。館内には山下奉文をはじめとした著名な軍人の軍服や日露戦争の資料なども展示されていた。

地蔵堂
県道24号を突き切り、山麓への上り道にはいる。完全舗装の車道を少し進むと道の右手にお堂がある。特に名は書かれていないが、このあたりに「身代わり地蔵」があったとの記録もあるので、そのお堂かもしれない。




樽池傍の地蔵尊
鶴ヶ峰の西を上り八丁原を越え樽池に。この辺りが峠のようだ。池の傍に地蔵尊が佇む。道は整備され昔の金毘羅道の面影はないが、地蔵尊、地蔵堂がその名残だろうか。八丁原は南大門から八丁が地名の由来、とか。


四つ辻で多度津金毘羅道に合流
峠を越えると道は東に下る。少し進み右に折れ、上述四つ辻の標石へと向かう。伽藍道はこの先は多度津金毘羅道の道筋となる。



金毘羅宮から第七十六番札所・金倉寺へ

今回は金毘羅道のルート確認。何度もお参りしている金毘羅さんは今回はパスし、金倉寺へと折り返す。多度津金毘羅道と魚道の合流点であったとされる、上述四国ガスのガスタンクまで多度津金毘羅道を戻るが、その先の魚道は寸断されといる。
行きつ戻りつの旧魚道探しも楽しそうではあるが、今回の主旨は遍路道歩き。現在の国道319号と金倉川の間を抜けたというさ魚道はパスし、国道319号。県道25号を進み、先回の善通寺から金倉寺への遍路道にあった県道25号の標標石まで戻り、その先は遍路道を進むルートをメモする。

四国ガスのガスタンクに戻る
上述四国ガスのガスタンクまでは同じルートを戻る。往昔はこのガスタンクから先は金毘羅道のひとつである魚道として、国道319号と金倉川の間を進んだようだが、現在では道は寸断されているようだ。ということで、国道319号を北に進む。

県道25号、尽誠学園前の標石
国道319号をしばらく進み、生野南交差点で左に折れる県道25号に乗り換え、尽誠学園前に。道の左手、斜めに県道に交わる箇所に標石。「右 金蔵寺道 左 善通寺道」とある。
この斜めに県道に合わさる道は、先回の散歩で善通寺から金倉道へと向かう道筋で、赤門筋、本郷通りを直進し神櫛神社で左折した箇所。
この道筋は遍路道とは逆に神櫛神社を右折し斜めに進み、善通寺駅のすぐ南で土讃線を越えてこの標石へと続く。善通寺から魚道をつなぐ道筋である。かつては県道25号を越え、県道と金倉川の間を通る魚道へと向かったのだろう。

県道25号左手の標石へ
誠学園を越え、赤門筋から本郷通りへと延びる道筋が県道24号となって県道25号に合わさるT字路を越え、先回の遍路道でであった県道25号左手にある標石に。

金毘羅灯籠の標石へ
標石を右折。「左 こんぴら道五十丁 右せんつじ道 十八丁 安政六」と刻まれた金毘羅石灯籠の標石に進む。そこが遍路道と金毘羅街道魚道の分岐点。ここから北へと先回メモの遍路道を金倉寺へと向かう。

これで金毘羅宮経由、金倉寺への遍路道を繋いだ。


■石神神社経由の金倉寺への遍路道■

善通寺の郷土館で偶々教えてもらった石神神社経由の遍路道をメモする。先回辿った金倉寺への遍路道より古い、という言葉だけでフックが掛った。

旧多度津金毘羅道へ
遍路道は赤門筋を進み、本郷通りにはいるとすぐに左折。県道48号の一筋東の細路が旧多度津金毘羅道という。

3基の標石
旧多度津金毘羅道もすぐに県道48号に合流。交差点を越え県道212号となった通りを北に進む.瓢箪池を越えた先で県道212号と分かれ道を北進。ほどなく道の右手に3基の標石。
標石は右から真念道標。右面には「南無大師遍照金剛」、正面には「右へん路道 願主真念」などの文字が刻まれる。
中央は大師坐像が刻まれ、「へんろミち 是寄り石神御社へ八丁 是ヨリ金倉寺へ十八丁」の文字。
左の標石には「石神社 文化二」といった文字が刻まれる。
真念
真念は空海の霊場を巡ること二十余回に及んだと伝わる高野の僧。現在我々が辿る四国霊場八十八ヶ所はこの真念が、貞亭4年(1687)によって書いた「四国邊路道指南」によるところが多い、とか。四国霊場八十八ヶ所の全容をまとめた、一般庶民向けのガイドブックといったものである。霊場の番号付けも行い順序も決めた。ご詠歌もつくり、四国遍路八十八ヶ所の霊場を完成したとのことである。四国では真念道標は 三十三基残るとのこと。
遍路そのものの数は江戸時代に入ってもまだわずかであり、一般庶民の遍路の数は、僧侶の遍路を越えるものではなかようだが、江戸時代の中期、17世紀後半から18世紀初頭にかけての元禄年間(1688~1704)前後から民衆の生活も余裕が出始め、娯楽を兼ねた社寺参詣が盛んになり、それにともない、四国遍路もまた一般庶民が辿るようになった、とのことである。

石神神社から高松自動車道へ
標石に従い右折すると、道の右手に石神神社、その南に吉田八幡宮がある。この石神神社から、高松自動車道を越えるまでは高速道路建設のため標石も残らず、これといった目安がない。
香川県教育委員会などの調査報告書のルートを参考に進む。ルートはゆるやかな坂、というか湧水地(出水)への窪みを下りそして上る。そこに用水路があり、その用水路に沿って進むとある。
その案内に従い用水路脇の土径を進むが、ほどなく道が切れ、田圃の畦道を歩くことになった。
この箇所は用水路の直ぐ先にある立派な車道まで進み、そこを右折し高松自動車道を潜るのがいいようだ。

榎之木涌の標石
古い記録には道を直進し東西に走る旧十一号線を越え、50mほどのところを旧11号に沿って東西に走る「かりてい道」を右折する、とある。
「かりてい」とは、地元では「おかるてんさん」との愛称で親しまれた、札所道隆寺にあった詞利帝(かりてい)堂のことだろう。やっと道隆寺への遍路道の手掛かりが見えて来た。
とはいうものの、旧国道11号がどの道か不明だが、現在の国道11号の南を進む道が旧国道ではと北に進む。
旧国道筋らしき道に到着。予想に反し細い道筋であるので地図をチェック。と、少し西に「榎之木涌」と如何にも湧水といったマークが地図に載る。遍路道とは関係ないのだが、湧水フリークとしては見逃すわけにいかず、少し西に進むと道の北側に「榎之木涌」があった。
湧水池といったイメージとは異なりコンクリートで囲まれている。近年工事がなされたようだ。昔の写真をチェックすると、まるで趣の異なる野趣あふれる出水であった。
案内には「善通寺市周辺には出水(ですい) ・ 湧 (ゆう) と呼ばれる泉がたくさんあり、旱魃のときにも枯れることなく地域の人々の生活を支えてきました。
そのひとつで、善通寺市の下吉田町にある「榎之木湧(えのきゆう)」は、出水の近くに榎の大木があったことからこう呼ばれるようになったとも言われています。
この「榎之木湧」の清涼で豊富な湧水(わきみず)は、古くは地域住民の飲料水として利用され、現在では下流に広がる約17町歩の水田を潤すと共に、水辺には多くの人が集まり世間話に花を咲かせたり、子供たちが水しぶきを上げるなど、地域の人々の憩いの場所となっています。
その昔、丸亀京極藩(まるがめきょうごくはん)のお殿様が休憩するために永榎亭(えいかてい)と名づけられた「お茶屋」と呼ばれる休憩所があり、ところてんの名所であったとも言われています。生活に根ざしたこの出水は、地域の人々によって大切に守られています」とあった。

それはそれとして、「榎之木湧」に大きな標石が立つ。「東 高松七里 西 観音寺五里」と共に「右 金倉寺詞利帝」と刻まれる。この辺りを東西に進む道が「かりてい道」であった。ふと立ち寄ったところで思わぬ遍路道の手掛かりがみつかった。

かりてい道
「榎之木湧」から東に旧国道らしき道を東に進む。古い記録には「かりてい道」は旧国道の一筋北とある。それらしき、更に細い道が東西に続く。その道筋に乗り換え田圃の中の道を東に進む。途中地蔵堂もあり、なんとなく「かりい道」らしき風情。
道を進むと土讃線金蔵寺駅手前で旧国道筋らしき道に合流。

金倉寺
踏切を渡り県道25号を越えると左手に見慣れた新羅神社、そして金蔵寺山門が現れた。

これで今回のメモを終える。次回は丸亀市内を抜け宇多津の第78番札所・郷照寺を打ち、坂出市内の第79番札所・高照院(天皇寺)を目指す。
先回のメモでは七十二番札所 曼荼羅寺からはじめ、七十三番 出釈迦寺、七十四番 甲山寺を打ち七十五番札所 善通寺までの道筋を辿った。
今回は善通寺参拝からはじめ、七十六番 金倉寺を打ち七十七番札所 道隆寺へ と旧遍路道を辿る。おおよそ7キロほどだろう。
メモは2回に分ける。ついでのことではあるので、2回目には善通寺から金毘羅宮までの金毘羅道もメモした。善通寺から金毘羅さんはすぐお隣。これまた7キロほどである。善通寺から金毘羅宮を参詣し、七十六番 金倉寺への遍路道に戻る方も多いのでは、との想いではある。
本日のルート;第七十五番札所善通寺>赤門>乳薬師>神櫛神社で左折>県道25号を越える>金毘羅石灯籠の標石>村上池西の標石>旅姿大師の標石>民家脇の標石>茂兵衛道標(121度目)>第七十六番札所 金倉寺



第七十五番札所・善通寺

先回は七十四番札所・甲山寺から南に下り、善通寺の境内を二分する道に入り、西の本坊境内脇の水路に架かる廿日橋までメモした。今回は善通寺のメモから始める。

五岳山屏風ヶ浦誕生院善通寺。真言宗善通寺派総本山。真言宗では高野山金剛峰寺、京都の東寺と共に大師三大遺跡のひとつとされる。西の本坊境内、東の伽藍境内からなり、共に結構大きい。四国で最大の寺域と言う。それでも往時の半分のスケールとのこと。
空海誕生の地ともされる。誕生院の所以である。ちなみに屏風浦とは善通寺の西に連なる五岳山(香色山、筆ノ山、我拝師山、中山、火上山)の峰々が海に向かって屏風の如く屹立する故。かつてはこのあたりまで海が迫っていた、と言う。

空海生誕の地ともれえるこの地であるが、空海の生家である佐伯氏は、代々讃岐の国造の家系。善通寺域一帯が空海の父である佐伯善通卿の邸宅であったとも、佐伯氏の氏寺であったとも言う。

弘法大師生誕の地は、以前歩いた海岸寺も、そう呼ばれる。どちらが生誕の地であるか門外漢には分からないが、どちらも共に空海ゆかりの地ではあるのことに変わりはないだろう。

寺伝によれば、唐より帰朝した空海は大同2年(807)、この誕生の地に唐の都長安の青竜寺を模した寺院建立を計画。空海の父である佐伯善通卿よりこの地の寄進を受け竣工。父の名をとり善通寺とした。敷地は現在の凡そ倍。15の堂塔、49の僧坊よりなる大寺院であった、と。

その後一時荒廃した時期もあったようだが、その都度朝廷や時の権力者の助けにより寺威は続くも、永禄の大火により伽藍は悉く灰燼に帰す。現在の伽藍はその後再建されたものである。
永禄の大火
戦国時代、主の細川氏を倒し阿波をその手におさめた三好氏は讃岐に侵攻。東讃を抑え、次いで西讃を窺うが、西讃に覇を唱える香川氏が天霧城を拠点にそれに抗する。
戦は膠着状態となり三好氏は善通寺をその本陣とし相対する。結局は天霧城を攻略できず和議を結び阿波に戻ることになるが、退陣の折の残り火が燃え広がり善通寺は焼失した。これを永禄の大火と言う。永禄元年(1558)のことである。

さてと、かつては誕生院と善通寺という二つの寺でもあったと言われる本坊境内と伽藍境内、どちらからお参りしようか?
と、小学校の修学旅行での思い出、漆黒の通路を歩いたお堂からはじめようと思い立った。チェックするとそのお堂は本坊境内の御影堂、所謂大師堂の地下の戒壇巡りと言う。ということでまずは西の本坊境内、誕生院からお参りをはじめる。


■本坊境内■

廿日橋
廿日橋、といっても用水路に架かる石橋ではあるが、橋を渡る。勅願寺であった当寺は、一般の参拝は二十日だけと限られていたその歴史が橋名の由来、とか。橋の少し南には勅使門がある。

仁王門
金剛力士像は南北朝時代・応安3年(1370)の作と言う。運慶につながる運長の作との記事もあるが門外漢にはわからない。わからないが、運長といえば江戸時代の京都の仏師である北川運慶だろうし、であれば時代は大きく変わる。 運長は、西大寺(奈良県)の愛染明王(あいせんみょうおう)坐像(重文)や、高野山真言宗総本山金剛峯寺(和歌山県)の金剛力士立像(吽形(うんぎょう)像、重文)などの作者として知られる。

御影堂回廊
仁王堂を潜ると屋根付き回廊が御影堂へと続く。大正4年(1915)に建てられたというから、それほど古いものではない。が、なかなか、いい。






御影堂
大師堂のことを当寺は御影堂と称する。御影堂は札堂・中殿供養殿・奥殿と分かれ、奥殿には大師直筆の「目引き大師」の絵像が祀られるとのことだが、興味関心は何十年ぶりの漆黒の通路歩き。
戒壇めぐり
お堂に入り右手より階段を下りる。すぐに真っ暗。漆黒とはこういうことを指すのだろう。空間感覚もマヒ。
通路の壁に手を付け、それを頼りに進むしかない。通路には曼陀羅の諸仏が描かれているとのことだが、見えるはずもない。恐る恐るすり足で歩を進めると薄明りに地蔵尊が浮かぶ。ここが凸となっている地下通路の先端部。センサーで感じるのか、突然流れる空海のお話をしばし聞き、そこからまた漆黒の通路を戻りお堂に出る。
うっすらとした記憶ではコンクリートの通路ではなく木であったようにも思うのだが、はっきりしない。ともあれおおよそ100mほどの距離だが結構懐かしい思い出を追体験できた。

親鸞上人堂
御影堂に向かって右手、親鸞上人堂がある。親鸞上人自作の親鸞上人尊像が祀られる。案内に拠ると、「鎌田の御影」と称されるこの尊像は、上人が下総国鎌田庄(現在の千葉県市川市)の信者宅に滞在し法談。帰洛を惜しむ信者のため上人自ら木像を彫ったもの。
その背に残された「讃岐善通寺は弘法大師生誕の霊地にてわが師法然上人は彼の地に詣でて自ら逆修の塔を建てたまえ、我も彼の寺へ詣でなんと思えど、その願いを果たさず。願わくはこの像を彼の地に送り、今生の願望を遂げしめよ」との遺命によりこの地に送られたものとある。




■伽藍境内■



中門
廿日橋に戻り、中門を潜り伽藍境内に入る中門を潜る。五重塔、楠の巨木が印象的。

金堂
中門から境内を直進すると左手に金堂。所謂本堂である。七間四面、二層のどっしりした建物。本尊は薬師如来。空海の作とされる永禄の戦火で破損した元の薬師如来をその胸に納める、と。3メートル弱の仏さま。上述運長の作との記録が残る。
戦国時代に金堂が消失して以後、善通寺には金堂も五重塔もない状態が続くが、江戸期の入り元禄年間に再建の動きが本格化する。
元禄7年(1694)に、仁和寺門跡が大師誕生之霊地として善通寺伽藍再興をうながす令旨を出し、元禄?年(1699)金堂が棟上され、翌13年本尊薬師如来坐像が、上述京都御室の大仏師北川運長の手によって完成した、とのことである。




五重塔
境内に三間半四方、およそ45mの五重塔が聳える。現在のものは四代目。弘化2年(1846)着工、明治17年(1884)完成、総けやき造りの塔と言う。
「はあ、大師慕って霞に中を 娘遍路の鈴が鳴る 夢を誘うような五重の塔に  偲ぶ想いに花が咲く(?;このあたりうろ覚え) 来なよ 寄りなよ おいでなよ ほんまに ええとこ 善通寺 善通寺」。
小学校での修学旅行の時バスガイドさんに教えてもらい、いまだに忘れずにいる善通寺の歌を思わず小声で歌う。



楠の巨木
南大門を潜って左、楠の巨木が残る。幹の周囲12m、高さ40m。香川県の天然記念物に指定されている。その西側、善通寺領の氏神である五社明神社を覆うように、さらに巨大と思える楠の巨木が残る。案内に拠れば、空海はその著『三教指帰』に「楠が日を遮る浦に住まう」といったことを書いている。また、『全讃史』にも「楠の巨木があり大師誕生の時よりある」といったことを記していた。
楠の巨木と言えば、田舎である愛媛県新居浜市の家の周りにもいくつもあった。今はすべて伐採されてしまっている。この歳になってそれを惜しむ。

佐伯祖廟
五社明神社を覆う楠の巨木の近くにこじんまりとした社が建つ。案内には「弘法大師は宝亀5年(774)、讃岐国多度郡屏風浦(善通寺)にお生まれになりました。
この地方の豪族、佐伯直田公(さえきあたいたきみ)・善通卿と玉寄御前(たまよりごぜん)の三男です。
この佐伯祖廟堂には父君善通卿と母君玉寄御前の御尊像を泰安してあり、「佐伯明神」、「玉寄明神」と称しております。なお五色山の頂上には佐伯家代々の霊廟がございます」とあった。
香色山
案内にある五色山とは、善通寺の西隣、標高157mほどの香色山(こうしきやま)のことだろう。山頂には「佐伯直遠祖神」と刻まれた石碑が立つ。

三帝御廟
伽藍境内西南隅に三帝御廟がある。「総本山善通寺に綸旨院宣を賜い御信心深い後嵯峨・亀山・後宇多三天皇の御遺言により御爪髪を納め、宝塔を三基建立したる三帝の御廟であります」とあった。





南大門
かつての正面。日露戦争の戦勝を記念して明治41年(1908)に再建された。屋根の四隅に四天王像を配する。

法然上人 逆修の塔
本坊境内の親鸞上人堂でメモした「法然上人逆修の塔」がこれである。五重塔のすぐ南にある。
逆修塔とは、死後の往生をねがって生前に自らが建立するもの。塔は高さ4尺(約130cm)の石造の五輪塔。四国に流された浄土宗の開祖・法然上人が自身の爪髪を埋めて立てたと伝わる。
が、五輪塔の部材は法然が活躍した鎌倉期より後の室町から戦国時代にかけてのもとと言う。現存する五輪塔は法然が建立したものではない、ということか。
法然上人と善通寺
法然上人は所謂「承元の法難」により土佐配流に処される。時に75歳であった、と。
京を離れ土佐へと、丸亀の塩屋の津に上陸した法然上人は、法然に帰依していた関白藤原兼実公の計らいもあり、讃岐に留まることに。その折に空海ゆかりの善通寺に訪れたとのことである。
先般、曼陀羅道を歩き、曼陀羅寺へ向かう途中、法然上人ゆかりの蛇岩に出合った。
□承元の法難
Wikipediaには「承元の法難(じょうげんのほうなん)は、後鳥羽上皇によって法然の門弟4人が死罪とされ、法然と親鸞ら7人が流罪にされた事件。法然は土佐だが、その弟子親鸞は越後に流されることとなる。
「南無阿弥陀仏を認めるか認めないか」という純粋な宗教的対立がきっかけとなった事件ではない。法然の門弟たちが後鳥羽上皇の寵愛する女官たちと密通したうえ、上皇の留守中に彼女たちが出家してしまったため、後鳥羽上皇の逆鱗に触れたという話で、密通事件さえ起きなければ、宗教がもとで人が死ぬことはなかったと言える」とあった。

利生塔
五重塔の南東、東院の境内隅にある石塔。元は暦応元年(1338)、南北朝の戦乱犠牲者の菩薩を弔い国家安泰を祈念すべく足利尊氏・直義が命じた、「国ごとに一寺・一塔の建立」の内、讃岐の一塔として建てられた五重塔であった。が、上述、永禄の大火より焼失したため、後に石造の利生塔がその替わりとして建てられたと伝わる。高さ2.8mの角礫凝灰岩(かくれきぎょうかいがん)の石塔である。
一寺一塔
暦応元年(1338年)、足利尊氏・直義兄弟は夢窓疎石(むそうそせき)のすすめで、南北朝の戦乱による犠牲者の霊を弔い国家安泰を祈るため、日本60余州の国ごとに一寺一塔の建立を命じた。
寺は安国寺、塔は利生塔と呼ばれ、讃岐では安国寺を宇多津の長興寺に、利生塔は善通寺の五重塔があてられた。
利生塔は興国5年(1344年)、善通寺の中興の祖とも称される宥範(ゆうばん)によってもうひとつの五重塔として建てられた。



善通寺から七十六番札所・金蔵寺への遍路道

赤門
善通寺参拝を終え次の札所・金倉寺への遍路道に向かう。遍路道は伽藍境内の東門、朱に塗らえる通称赤門口から進むことになる。







赤門七仏薬師(乳薬師)
善通寺の巡拝を終え、伽藍境内の東側にある赤門を離れ赤門筋に出る。美しく整備された道を直進すると、道の左手、善通寺郷土館の隣にお地蔵さま。赤門七仏薬師とも乳薬師とも称される。

案内によれば、「西に3キロ、??原大池のほとりに赤門七仏薬師(別名乳薬師)の本尊がある。弘法大師がお堂を建て、自ら薬師七体の石像を刻み、五穀豊穣と衆生の疫病退散を願う。
その後中世の戦乱で焼失するが、承応元年(1652)年、大池の工事中に石像が見つかり、現在の地にお祀りされ、安永八年(1779)には七仏薬師として再興された。
この七仏薬師にお参りするとお乳の出がよくなることから、乳薬師とも呼ばれ、昭和50年頃までは県外からのお参りもあったが、その後は訪れる人も減り、現在はその面影はない。
この赤門商店街の「赤門七仏薬師」は善通寺創建1200年を記念し、吉原七仏薬師寺より勧請された」とあった。

𠮷原の七仏薬師堂には、曼陀羅寺道を曼陀羅寺へと辿る途中で出合った。お堂はそれほど整備されているようには思えないが、案内に旧暦6月17日(十七夜)には本尊が公開されるとのことである。

神櫛神社で左折、細路に入る
赤門筋を進み県道48号を越えると、道は県道24号・本郷通りとなる。本郷通りを直進し神櫛神社まで進む。
神櫛神社の境内西端、本郷通りの左手に「76 金倉寺 2.7km」と刻まれた比較的新しそうな遍路標石がある。標石に従い左折し本郷通りを離れ細路に入る。
神櫛神社
社伝に拠れば、空海が勧請・創建。この地の産土神とする。祭神は神櫛王命、或は神櫛王の御子神、或は武國凝別皇子を祀るとも言われ、江戸時代までは皇子権現社と称された。
神櫛王
記紀に伝わる古代皇族。第十二代景行天皇の子とされる。『日本書記』では讃岐国造の祖とされる。讃岐の有力氏族がその祖とする所以だろう。墓は香川県高松市牟礼にある。

遍路道と金毘羅道分岐点
この地は金倉寺への遍路道と金毘羅宮への参拝道の分岐点でもあった。遍路道の逆、境内に沿って右に折れる道は金毘羅参拝道のひとつである「魚道」へとつながっていた。魚道を含めた金毘羅参拝道は次回のメモに廻す。

県道25号を越える
遍路道は北東へと進む。随所に遍路札の案内があり道を間違うことはないだろう。道なりに工場裏の細路を少し進むと右に折れて土讃線を越える。この右折点だけがちょっと注意必要。
土讃線を潜り県道25号に出る。県道対面に比較的新しい遍路標石があり、県道を渡り先に進む。

金毘羅石灯籠の標石
標石に従い軽自動車なら通れそうな細路を進むと、道は弧を描き先ほど分かれら県道24号に再びあたる。県道24号は県道25号に一時相乗りし東へとむかっているようだ。道の北側にも新しい遍路標石が整備されている。
ほどなく「四国のみち」の標石。遍路道を案内する。「七十六番 金倉寺 1.4km」とある。
その標石の対面、水路傍に金毘羅石灯籠。「左 こんぴら道五十丁 右せんつじ道 十八丁 安政六」と刻まれる。

こんぴら道
前述、金毘羅参拝道である「魚道」はこのあたりから琴平まで県道25号と金倉川の間を進んだという。今はその道筋は残っていないようだが、この金毘羅灯籠が記す「こんぴら道」は「魚道」のことだろう。
この道筋が多度津と琴平を結ぶ最短コースであり、金毘羅参りで賑わう琴平へと、多度津で水揚げされた魚が毎朝走ったのが、その名の由来とのこと。

村上池西の標石
金毘羅石灯籠からほどなく、右手に村上池の堤が見える道端、畑の角に標石がある。よく見ると彫られた僧の手が左を示す。注意深く見ると標石に刻まれた僧の姿もあれこれバリエーションがあるようだ。「右 まるかめ**」とも刻まれている、と。




旅姿大師の標石
遍路道はこの先で高松自動車道を潜る。道の左に山王地主権現の小石祠を認め、その先にある民家のブロック塀に張り付くように標石が立つ。笠を手にした、如何にも巡礼途中といった大師像が刻まれる。このような旅姿の大師像ははじめて見た。「是ヨリ金倉寺札所江三** 天保十五年」と刻まれる。



民家脇の標石
県道18号を越え先に進むと、道の左側、これも民家塀に張り付くように標石がある。「左 こんぞうじ道 四丁 右 ぜんつうじ道 廿五丁」と刻まれる。金倉寺まで400mほどになってきた。

集落の間の道を進むと、金倉寺の山門前に出る。門前前の名残を感じる昔風の家並も残る。

茂兵衛道標(121度目)
山門前T字路の道角に少し傾いた茂兵衛道標が立つ。手印と共に「善通寺 金毘羅 明治二十四年」の文字が刻まれる。
この道標には添句「真如乃月かゝや久や法の道 冷善」が刻まれる。茂兵衛121度目の巡礼時のものである。







第七十六番札所 金倉寺

鶏足山宝幢院(けいそくさんほうどういん)金倉寺。天台宗寺門派。本尊は薬師如来。

寺名石碑
山門前の左右に大きな石柱。右手の石柱には「四国第七十六番霊場 智証大師御誕生所 詞利帝母御出現之地 明治二十三年」、左手には「当山本尊薬師如来」と刻まれる。共に茂兵衛道標で知られる中務茂兵衛の周旋による。左手の石柱には「壱百拾五度目」と茂兵衛の巡礼時も刻まれる。

この寺は茂兵衛が得度を受け、法名義教をいただいた寺である。明治十年(1877)、茂兵衛30度目の巡礼の折、33歳のときのこと。
中務茂兵衛
中務茂兵衛。本名:中司(なかつかさ)亀吉。弘化2年(1845)周防(すおう)国大島郡椋野村 (現山口県久賀町椋野)で生まれた中務茂兵衛は、22歳の時に四国霊場巡礼をはじめ、大正11年(1922)に78歳で亡くなるまで生涯巡礼の旅を続け、実に280回もの巡礼遍路行を行った。
道標は、茂兵衛が厄年である42歳のとき、遍路行が88回を数えたことを記念して建立をはじめ、その数250基以上にも及ぶ(230基ほどは確認済、とか)。
文化遺産としても高く評価されている道標の特徴は、比較的太めの石の四角柱(道標高の平均約124cm)で、必ず建立年月と自らの巡拝回 数を刻んでいる、と。

鐘楼
仁王門を潜り境内へ。左手には高いところに鐘が吊られた鐘楼が建つ。高く延びた長い支柱が印象的。なんだか面白い。









本堂
境内を進むと正面に本堂。Wikipediaに拠れば、「774年(宝亀5年)景行天皇の子孫の和気道善(円珍の祖父)が金輪如意(如意輪観音)を祀って一堂を建立し自在王堂と呼ばれていた。 851年(仁寿元年)道善の子である和気宅成の上奏により、自在王堂を官寺とし道善寺と名付けた。
その後、宅成の子である円珍が846年(承和13年)に入唐、858年(天安2年)帰朝した後、故郷の当寺に訪れて長安の青龍寺に倣した伽藍を造営、薬師如来を彫像して本尊とした。
貞観3年(861)伽藍の造営を終え、落慶の斎会に円珍が再訪する。928年(延長6年)醍醐天皇の勅命により金倉郷(かなくらごう)から名前をとり現在の「金倉寺」、山号は釈迦十大弟子の迦葉尊者が入定した山名の「鶏足山」と改め隆盛をきわめた。
その後、幾多の兵火により重要文化財の自画像と本尊などの宝物以外は焼失、慶長11年(1606)それまで無住寺になっていたが、近くの真言寺院に後見してもらい一時期真言宗になるが、窮状を知った高松藩主の松平頼重により、天台宗に戻り再興、慶安4年(1651)には、智証大師御影堂を始め、諸堂や客殿、庫裏にいたるまで再建し現在に至る」とある。
智証大師円珍
山門前の石柱にあったように、この寺は智証大師円珍生誕の地。弘仁五年(814)のことである。母は空海の妹とも言われ、空海にとっては甥ということになる。空海の姪の子との説もあるが、ともあれ空海とは近しい縁者ではある。
十五歳で最長の弟子に師事。厳しい修行の後に入唐し在唐六年、帰朝後、天台宗第五代座主となる。

詞利帝堂
本堂左手に詞利帝堂。詞利帝母(かりていも)、所謂鬼子母神を祀る堂。円珍五歳の時現れたと伝わる。
詞利帝母
詞利帝母は夜叉を意味するサンスクリット語(ハーリーティー)の音写。500とも1000とも一万とも言われる子を持ち、その子たちを育てるため人の子供を食べていた。それをみかねた釈迦は詞利帝母の最愛の末子を隠す。半狂乱となり探すも見つからず、詞利帝母は釈迦に縋る。
釈迦は最愛の子を失う悲しみを説き、悔い改めた詞利帝母は仏法の守護神となった。子供の守り神との所以である。地元では「おかるてんさん」の愛称で呼ばれているとのこと。

大師堂
祖師堂とも呼ばれるこのお堂の扁額には中央に智証大師、右に弘法大師、左に神變菩薩とある。本堂に祀られるお像も、中央に智証大師、右に弘法大師、左に神變菩薩(役行者)と並ぶようだ。四国88箇所札所の中で、中央に弘法大師ではない像が祀られるのはこの寺だけとのことである。
大師号
「大師は弘法に奪われ、太閤は秀吉に奪わる」とのことばがある。大師=弘法大師と思い込んでしまいそうだが、大師は弘法大師だけでなく他にもたくさんいる。大師号は高徳な僧に朝廷から勅賜の形で贈られる尊称の一種で、多くは死後に賜る諡号である。
最初に大師号を賜ったのが最澄こと伝教大師であり、弘法大師がはじめてというわけでもなく、20名以上いる大師のひとりであるではあるのだが、お大師さんといえば弘法大師。空海の人気のほどが分かる。
茂兵衛道標
大師堂の右手に茂兵衛道標が立つ。明治廿一年の文字と共に、手印が大師堂を指す。また大師堂石段も茂兵衛の周旋による、と言う。









乃木将軍の銅像
大師堂左手前に羽織、袴姿の乃木希典将軍の像が立つ。元は軍服姿であったようだが、第二次世界大戦時に供出された。この銅像と軍馬の供出により、鐘楼の鐘が供出から免れた、とも。
●乃木将軍妻返しの松
このお寺様は乃木将軍の寓居であったとも言われ、境内には「乃木将軍妻返しの松」もあった。明治31年(1898)、善通寺第十一師団の師団長として着任。以来3年ほどこの寺を寓居としたが、訪れた婦人を玄関払いしたとのことである。寺に泊めるのを憚ってのこと、とも。

一太郎母子の松
戦前の軍国美談として小学校の国語読本にも載った、「一太郎やーい」の主人公岡田梶太郎とその母がこの寺に植えたものと言う。
日露戦争出征のため、多度津から軍船に乗る息子梶太郎の名を大群衆の中で叫び注目を浴びたため、照れ隠しで「天子さまに御奉公」と言ったことが、「一太郎」となって天皇への御奉公の美談として創られた。当の本人は長いことこの美談の主人公であったことを知らなかったようである。
明治生まれの祖父に連れられ、芝居小屋といった映画館に10円を払い、嵐寛寿郎主演の『明治天皇と日露大戦争』を見に行った世代にはわかるだろうが、今の世代に一太郎と言われても、なんこと、と思うだろうなあ。

金倉寺常接待処
境内を彷徨っていると奉納石に支えられた木造小屋の傍に何となく気になる石碑がある。見ると「金倉寺常接待処」と刻まれていた。かつて接待処として使われていたのだろうか。
結構札所を巡ったが、接待処の石碑ははじめて目にした。




神仏混淆の名残
境内には天満宮など神道の祠が残る。明治の神仏分離令以前の神仏混淆時代の名残だろう。境内の楠の巨木も印象的であった。






新羅神社
境内に接して新羅神社がある。境内はさっぱりとしたもの。渡来氏族である秦氏と関係深和気氏とのかかわりであろうか。チェックすると、和気氏ではなく智証大師との関りの社のようである。
唐より帰朝した智証大師こと円珍は、叡山に現れた老翁に導かれるまま山を下り、園城寺に。円珍は園城寺を再建し、そこにお堂を建て唐より持ち帰った経典を納めた。この老翁は園城寺の守護神である新羅明神であった。
かつての日本の朝廷は百済系、新羅系といった渡来系王族よりなる。壬申の乱の大友の皇子が百済系、大海皇子が新羅系とはよく聞く話である。
が、園城寺は百済系の大友皇子を弔うための寺。そこに新羅の神?これ以上はきちんと調べなければわからないが、円城寺のあるあたりには新羅系の渡来人が多く住んでいたようであり、園城寺建立以前からこの地の守護神として祀られていたのかもしれない。単なる妄想だが、道隆寺と新羅神社の繋がりを自分なりに納得。

善通寺のあれこれでメモが長くなった。今回はここまで。次回は金倉寺から道隆寺への遍路道をメモする。



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