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先回は善通寺から七十六番 金倉寺までの旧遍路道をメモした。今回は金倉寺から七十七番札所 道隆寺への遍路道をメモする。
またついでのことでもあるので、善通寺から金毘羅さんを参拝し金倉寺への遍路道に戻るルートも加えた。善通寺から金毘羅さんはすぐお隣。これまた7キロほどである。善通寺から金毘羅宮を参詣し、七十六番 金倉寺への遍路道に戻る方も多いのでは、との想いではある。
更に追加。善通寺から道隆寺までの遍路道を歩いた後、善通寺赤門筋にある善通寺郷土館を訪れたのだが、そこで頂いた資料に善通寺市内、石神神社経由で金倉寺へと辿る遍路道があり、その遍路道のほうが先回歩いた金倉道への遍路道より古い、とのこと。
旧遍路道を辿る者としては、これをメモしないわけには、ということで元禄の頃の遍路道と郷土館の方がおっしゃる旧遍路道を最後に付け加える。

本日のルート;
第七十六番札所・金倉寺から第七十七番札所・道隆寺へ
76番札所・金倉寺>金倉寺駐車場入口の標石>県道33号手前に茂兵衛道標(115度目)>六条地蔵堂の標石>国道11号を越え葛原正八幡宮へ>お堂傍に標石>茂兵衛道標(143度目)>2基の標石>道隆寺南の標石>第七十七番札所・道隆寺

金毘羅経由、金倉寺への遍路道
多度津金毘羅道;善通寺から金毘羅宮
善通寺赤門>県道24号を右折>護国神社・乃木神社>県道47号に>南部小学校先で県道47号と分かれる>四つ辻の2基の標石(伽藍道が合流)>三界萬霊地蔵尊>原御堂>土讃線踏切手前の金毘羅標石>土讃線脇の金毘羅石灯籠>清少納言 史跡衣掛けの松跡>四国ガスのガスタンク>金倉川に沿って進む>39基の並び石灯籠>大宮橋東詰めに高灯籠>一の橋西詰の金毘羅宮参道口に
伽藍道(多度津金毘羅道の枝道)
南大門>鶴ケ峰西>樽池>四つ辻で多度津金毘羅道に合流
多度津金毘羅道・魚道・遍路道金毘羅宮から金倉寺;
四国ガスのガスタンクに戻る(多度津金毘羅道)>尽誠学園前の標石(魚道が寸断されており、国道319号・県道25号を進む)>金毘羅灯籠の標石へ>金倉寺への遍路道に

石神神社経由、金倉寺への遍路道
赤門>県道24号>旧多度津金毘羅道>県道48号>3基の標石>石神神社から高松自動車道へ>榎之木涌の標石>かりてい道>道隆寺



■第七十六番 金倉寺から第七十七番札所 道隆寺への遍路道■

金倉寺駐車場入口の標石
金倉寺を離れ、次の札所七十七番 道隆寺へ向かう。寺の西側にある金倉寺駐車場の入口、道脇に標石がある。手印と共に、「へん路みち 明治十九年」と刻まれる。






県道33号手前に茂兵衛道標(115度目)
駐車場を出て、境内西側の道を北に。道の対面にある御詠歌大和流の総本山・徳善寺を越えた先、県道33号の手前に徳善寺の境内に沿って左に弧を描く道があり、その角に茂兵衛道標が立つ。手印と共に「道隆寺 金倉寺 明治二十三年」の文字が刻まれる。茂兵衛115度目の巡礼時の道標である。

御詠歌大和流
詠歌とは元は和歌を詠むことを意味したが、御詠歌は巡礼歌の俗称として用いられる。平安期にその起源をもつという巡礼歌は、中世以降盛んとなり全国各地で発展した。大正10年(1921)になり各地に伝えられた巡礼歌を収集・編集し、従来の俗謡としての巡礼歌を近代的な理論に基ずく仏教音楽として巡礼歌を発展させたのが大和流と言う。
大和流は真言宗系ではあるも、特定宗派に属することはなかったが、その後徳的宗派に属する御詠歌流派が誕生した、と言う。

六条地蔵堂の標石
茂兵衛道標手前を左に折れ、弧を描く細路を50mほど西に進み県道を越える。県道を越えた処にある「へんろ道拡張整備」の竣工碑を見遣り北へと進むと、十字路北角に六条地蔵堂がある。その庵の前、石灯籠脇に「右 へんろミ* 明和」などと刻まれた標石がある。




国道11号を越え葛原正八幡宮へ
六条地蔵堂の十字路を直進し国道11号を抜けると畑の中を進む遍路道案内は右を示す。正面には清酒金陵の多度津工場があり、迂回するのだろう。右折点には標石らしき石が埋もれるが文字も読めず確証はない。
遍路道案内に従い右折し、畑の中の細路(軽自動車一台が通れる程度)を進み、成り行きで左折し鬱蒼と茂る森に向かう。森は葛原正八幡。玉垣に沿って道を進み、八幡の森ほたるの里とされる緑の中を歩くと立派な随身門がある。

葛原正八幡
随身門を潜り境内に入り拝殿にお参り。かつては一国一社と呼ばれた古い社である。延久五年(1073)、道隆寺住職の勧請による。往時は茶店、宿などで賑わったが、明治5年(1873)の大火により現状のものとなったようだ。
葛原八幡付近の旧遍路道
成り行きで随身門に進み拝殿から境内を北西に斜めに横切り出口へと向かった。出口は境内西側を北に向かう道に合流するが、その道が東西に走る道路と交差するところに2基の茂兵衛道標がある。
本来の遍路道、清酒工場が建つ前は、清酒工場前で左に折れることなく現在の工場敷地を横断し、この茂兵衛道標へと繋がっていたのではないかと思う。
延命地蔵尊
ということで手掛りでもないだろうかと社境内と清酒工場敷地が接するところまで戻る。途中には標石もあった。また清酒工場敷地が接する傍には延命地蔵堂が建っていた。
標石
延命地蔵堂から境内西側に沿う道を北に進み、右手に忠魂碑を見遣りながら進むと大木の下に「四国のみち」の石碑がある。そして、その横に標石が立つ。手印と共に「こんぞをじみち」と刻まれる。



2基の茂兵衛道標
上述境内出口の2基の道標。左手の道標には「こんぴら道 金倉寺道 明治十九年」、右手は「右丸亀 道隆寺 明治十九年」と刻まれる。共に茂兵衛88度目巡礼時のものである。






逆南無阿弥陀佛石碑
遍路標石ではないのだが、この社に逆南無阿弥陀佛石碑があると言う。逆文字、というか、裏側から見た南無阿弥陀佛の文字が刻まれる、と。八十八歳のお年寄りの女性が左手で書いたとのこと。物事は時に裏側から見ることも必要との教えのようだ。
これはおもしろそうと石碑を探す。最初は直ぐに見つかるだろうと高を括っていたのだが、これを見付けるのが結構大変だった。昔の資料にはお堂の傍にある、とのことだがお堂は延命地蔵堂だけ。その辺りには見つからない。
それではとグーグルで検索。写真が出て来た。曼珠沙華の花の中に立つとのコメント。お堂はない。曼珠沙華も花が咲いていればすぐわかるだろうが、その季節ではない。県指定天然記念物となっている社叢を彷徨い、それらしき草花が広がるところに石碑が立っていた。場所は上述忠魂碑の南側傍といったところであった。

お堂傍に標石
北にしばらく進むと、道の右手にお堂がある。その北側、畑の角に標石がある。「へんろ道」と刻まれる。






壊れた茂兵衛道標〈143度目

古い記録には、このお堂の東に破損した上部のみの茂兵衛道標が横倒しになって置いてある、と。あれこれ辺りを探すがそれらしにものは見つからない。 少し南に戻ると十字路角の民家にカーブミラーがあり、その傍に横倒しになった如何にも道標らしきものがあった。「道隆寺道 壱百四十三度目 中務」といった文字が残るとのことである。

茂兵衛道標(143度目)
北に道を進み豊原小学校を越えておおよそ100m、そこにも茂兵衛道標がある。 手印と共に「道隆寺 金倉寺 明治二十八年」といった文字が刻まれる。これも上述壊れた茂兵衛道標と同じく143度目の巡礼時のものである。

2基の標石
北に200mほど進むと、道の右手に2基の標石が立つ。ひとつは坐像の下に手印と共に「すぐへんろみち 是ヨリ札所江五丁」と刻まれた縦長の標石。もうひとつは舟形石仏であり、その台座に「北へん路道」と刻まれる。

道隆寺南の標石
道を少し進むと道の右手に「道隆寺右」の案内がある。そこを右に折れ先に進むと十字路に標石がある。手印と共に同じ面に「こんぴら こんさうじ せんつうじ 道」、また別の面には手印と共に「札所」と刻まれる。
札所への手印に従い左に折れると第七十七番札所 道隆寺の山門にあたる。


第七十七番札所・道隆寺

真言宗醍醐派大本山の寺院。詳しくは桑多山 明王院 道隆寺(そうたざん みょうおういん どうりゅうじ)と号する。本尊は薬師如来。

仁王門
山門となる仁王門を潜る。身の丈4mほどの仁王像は札所の中でも最大級のもの、とか。






ブロンズの観音像
境内に入ると参道脇に80センチほどのブロンズ製観音像が並ぶ。像は境内を縫って密門(裏門)までも続いていた。昭和49年(1974)、全国の観音霊場を参拝した信徒さんが発願いし、全国より浄財を集め昭和50年に完成した。その数200体弱とのことである。

本堂
境内を進むと正面に本堂。右手に鐘楼、大師堂、その奥に多宝塔と並ぶ。 本尊の薬師如来は秘仏で拝観できないが、脇佛として右に日光菩薩、左に月光菩薩と薬師三尊が並び、その他持国天、多聞天、増長天、広目天の仏法を守護する四天王が立つ。
薬師三尊
薬師如来を中尊とし、日光菩薩を左脇侍、月光菩薩(がっこうぼさつ)を右脇侍とする三尊形式。
日光菩薩・月光菩薩
日光菩薩・月光菩薩は、薬師如来の浄土である東方瑠璃光世界の主要な菩薩であるとして言及されるが、薬師如来の脇侍として造像される以外に、日光菩薩・月光菩薩単独での信仰や造像はないと言ってよい。
日光菩薩は、一千もの光明を発することによって広く天下を照らし、そのことで諸苦の根源たる無明の闇を滅尽するとされ、月光菩薩は月の様な清涼をもって衆生の生死煩悩の焦熱から離れるという意味がある(Wikipedia)。

Wikipediaには、「天平の頃この付近は桑園であった。寺伝によれば、和銅5年、当地の領主である和気道隆(私注:金倉寺を創建した和気道善の弟)が桑の大木が夜ごと怪しい光を放ったのでその方向に矢を射ると、矢が乳母に当たり誤って殺してしまった。これを悲しんだ道隆は桑の大木を切り、薬師如来を刻んで堂に安置したのが起源であるという。
道隆の子の朝祐は、大同2年(807年)唐から帰朝した空海に頼み、90cmほどの薬師如来を彫像し、その胎内に道隆の像を納め本尊とし、また、空海から受戒を受け第2世住職となって、七堂伽藍を建立し父の名から「道隆寺」と号した。
第3世は空海の実弟の真雅僧正(法光大師)が継ぎ23坊を建立、第4世は円珍(智証大師)で五大明王を彫像し護摩堂を建立し、第5世の聖宝(理源大師)の代には「宝祚祈願所」となり大いに栄えた。
しかし、貞元年間(976年から978年)の大地震による被害や、康平3年(1060年)の兵火や、天正の兵火による災難にあって興亡を繰り返した」とある。 「宝祚」とは天子、天皇の位のこと。天皇の祈願所ということだろ。 それほど大きなお寺さまでもないのだが、高僧が並ぶ。かつては大いに栄えたお寺様ではあったのだろう。

鐘楼
通常の鐘とは異なり、鐘の上部、音をためるための擬宝珠が無く梵字がついている、とのこと。それもあってか(?)戦時の供出を免れている。









大師堂・多宝塔・妙見宮
大師堂の傍には空海に許しを請う衛門三郎の像がある。多宝塔は二重塔。妙見宮は上述の寺伝にある、桑の木の光を妙見とみたて堂を建てた、と。この寺は妙見信仰で賑わったとのことである。
衛門三郎
伊予国荏原荘(現在の松山市恵原(えばら)町)に住む長者であった衛門三郎。性悪にして、ある日現れた托鉢の乞食僧の八日に渡る再三の喜捨の求めに応じず、あろうことか托鉢の鉢を叩き割る。八つに割れた鉢。その翌日から八日の間に八人の子供がむなしくなる。
子どもをなくしてはじめて己れの性、悪なるを知り、乞食僧こそ弘法大師と想い、己が罪を謝すべく僧のあとを追い四国路を辿る。故郷を捨てて四国路を巡ること二十一度目、阿波国は焼山寺の麓までたどりついたとき、衛門三郎はついに倒れる。
と、今わの際に乞食僧・弘法大師が姿を見せる。大師は三郎の罪を許し、伊予の国主河野家の子として生まれかわりたいとの最後の願いを聞き届ける。三郎を葬るにあたって、大師は彼の左手に「右衛門三郎」と記した小石を握らせた。 その後、河野家に一人の男子が生まれ、その子は左手にしっかりと小石を握っており、開こうとしない。そこで安養寺の住職に願い祈祷のおかげもあり、手を開くとそこには「右衛門三郎」の文字が記されていた、と。河野氏はこの不思議な石を寺に奉納し、寛平4年(892年)に、安養寺はその伝承にならって石手寺と改名した。五十一番札所石手寺の縁起である。

松山市の札所47番・八坂寺辺りから石手寺にかけて、幾たびか衛門三郎に「出合っ」た。邸宅があったとされる地区故のことではあろう。

粟島堂
境内左手にある。茶堂とある。かつては御接待所であったのだろうか。

潜徳院殿堂
本堂左手に京極家の御典医であった京極佐馬造高甫公を弔う五輪塔が祀られる。眼科医として知られ、死後も道隆寺に魂魄を留め眼病平癒を誓願した、と。潜徳院は戒名の一部。現在も目なおし観音として知られ、紙一面に「め」の字を書いたお札を納める。

密門(裏門)の標石
潜徳院殿堂を過ぎると裏門に出る。門脇に標石があり、「四国第七十七番 道隆寺 本尊薬師如来 是より右 宇多図津** 道場寺迄一里半**」とある。道場寺は78番札所郷照寺の別名である。
標石に従い、寺の北を東西に走る道を東へ、丸亀市街へと向かう。



本坊
現在の納経所はこの境内にあり、参拝を終えた遍路は裏門(密門)より次の札所へと向かう人もあるが、本来の札所のある本坊はこの境内から南東へと少し離れたところにある。
本坊へ向かう。
仁王門前の標石
仁王門の右手に標石があり、「是ヨリ七十八番ㇸ一里半」とある。手印は東を指す。手印に従い東に進む










湿地脇に標石
少し進むと水草の茂る湿地北に標石がある。「右金蔵寺 左うたつ道場寺・丸亀ミち 明治三年」と刻まれれる。この標石を南に折れる。
本坊
南に折れると誠に堂々とした土塀が続く。寺名碑には「大本山」と記される。真言宗醍醐派の大本山。総本山は醍醐寺。全国に六つある大本山のひとつ。
多くの高僧が住持したお寺さまにしては、こじんまりしているなあ、と思っていたのだが、大本山と書かれた本坊を目にし、また、かつてはこの本坊を含めた一帯が寺域ではあったのだろう。であれば納得。

本坊経由の遍路道は、湿地脇の標石まで戻り、そのまま北に進み、寺の裏門から出た道に合流して丸亀に向かう。

以上、金倉寺から道隆寺までの遍路道をメモした。これで善通寺から道隆寺への遍路道のメモを終え、次いで金毘羅さん経由の遍路道ルートをメモする。





■金毘羅宮経由、金倉寺への遍路道■

金毘羅道
善通寺市域から金毘羅宮へ続く、所謂金毘羅道は大きく分けて3ルートある。
そのⅠ;多度津金毘羅道
多度津港より南に下り、善通寺市内の中心部を抜け、市の南にある鶴ケ峰の東を上り、峠を越えて大麻山裾の集落に下り、おおよそ土讃線に沿って金毘羅さんへと続く道。
そのⅡ;伽藍道
上述多度津金毘羅道の枝道。善通寺市内から鶴ケ峰の西を上り、峠を越えた後、山裾に下る前に多度津金毘羅道に合流する。善通寺の伽藍境内から進む故の名ではあろうか。伽藍道から多度津金毘羅道を進むコースが善通寺と金毘羅さんの最短距離である。
そのⅢ;魚道
へんろ道とも呼ばれるように、多度津より南に道隆寺へと至り、そこからは遍路道を南下し、金倉寺への遍路道で出合った「左 こんぴら道五十丁」と刻まれた金毘羅灯籠まで進む。
ここから先は金倉川と土讃線の間を進み、土讃線が金倉川を渡る辺りで上述多度津金毘羅道に合流したようだが。現在ほとんど道は途切れている。尚、魚道は参詣人で賑わう琴平へ毎朝新鮮な魚を運んだ故の名である。

これを想うに、善通寺から金毘羅さん経由、金倉寺へのルートは、多度津金毘羅道またはその枝道である伽藍道を進み金毘羅さんへ。戻りは魚道を進み遍路道と魚道の分岐点、上述金毘羅灯籠を経て金倉寺へと向かうのがいいかと思う。


多度津金毘羅道を善通寺から金毘羅宮へ

県道24号を右折
善通寺から多度津金毘羅道へのアプローチは、善通寺赤門を出て赤門筋を進み県道24号を右折。右折した県道24号が多度津金毘羅道。
旧多度津金毘羅道
交差点を右折することなく、直進し本郷通りを少し進むと県道48号の一筋東に、旧多度津金毘羅道が残る。民家の間を縫う細い道筋である。

護国神社・乃木神社
道を進むと右手に護国神社、その手前に乃木将軍を祀る乃木神社がある。拝殿には乃木将軍と夫人の大きな写真が飾られていた。



県道47号に
陸上自衛隊善通寺駐屯地、元の陸軍第十一師団の敷地左に沿って南下しT字路に。県道24号は右に折れるが、金毘羅道はここを左折し少し進み、県道47号を右折。山麓への上りとなる。

南部小学校
南部小学校先で県道47号と分かれる 熊ヶ池の西、鶴ケ峰の東に沿って上る県道47号を進み峠を越え、南部小学校の南で県道から離れ南への道に入る。

四つ辻の2基の標石
道を少し進むと四つ辻があり、道の両側に標石が立つ。東側に立つのが金毘羅標石。手印と共に「金毘羅道 明治十」といった文字が刻まれる。
西側の標石は舟形地蔵標石。手印と共に「こんひらみち がらんみち」の文字が刻まれる。ここが多度津金毘羅道と伽藍道の合流点である。

地蔵池堤の三界萬霊地蔵尊
四つ辻を左に折れ道を進むと地蔵池の土手に。そこに三界萬霊地蔵尊が佇む。
三界萬霊
三界とは欲界、色界、無色界。欲界は食欲、睡眠欲、淫欲といった本能的欲望の世界。色界は形あるものの世界。欲界は越えるも、未だ物に囚われる世界。無色界は欲望も物へのこだわりからも自由になった精神世界のこと。三界萬霊はこれら三つの世界、すべての精霊を供養することのようだ。


原御堂
三界萬霊地蔵尊の手前で土手を下りる。直ぐ先に県道47号が走るが、県道に出ることなく、山裾の道を進み南光、西川の集落を抜ける。道なりに進むと県道47号に合流。道の反対側に原御堂がある。
原御堂には大師坐像が残る。文化二年と刻まれている、と。その右隣、小さな鐘堂前の石碑は芭蕉の句碑。「世を旅にしろかく小田の行もどり」と刻まれる、と。
「しろかく」は「代掻く」は田植え前の田をおこす作業のこと。田圃の中を行ったり来たりを、自分の往ったり来たりの漂白の旅に合わせているとのこと。 この句は各地に句碑として残り、尾張の医師で俳人である山本荷兮(やまもと-かけい)にあてたものともされるので、特段この地との関連はないようだ。
金毘羅石灯籠と金毘羅標石
原御堂から県道47号を少し善通寺方面へ戻ると、道の東側に金毘羅灯籠と金毘羅標石が立つ。標石には「左こんぴら道」と刻まれる。
金毘羅石灯籠には表に「金刀比羅神社」、裏に「出雲大社」と刻まれる。昔の記録に、県道47号に沿った多度津金毘羅道は、「金刀比羅神社」「出雲大社」と刻まれた金毘羅灯籠で左に折れ、広い道に出るとあるので、原御堂に出る手前、道なりに左の折れたあたりにあったものを移したものかもしれない。

土讃線踏切手前の金毘羅標石
県道47号を少し進むと土讃線踏切手前、日本独特(?)のホテルの脇に標石がある。「こんぴら せんつじ道 たきのみや道 大正三年」と刻まれたこの標石の指示に従い、県道47号を離れ右へと細路に入る。
たきのみや道は不詳だが、この地を東に向かったところに綾歌郡綾歌町瀧宮という地名があるので、そちら方面への道かもしれない。





土讃線脇の金毘羅石灯籠
昔の記録では県道47号から離れた道は現在土讃線のすぐ西に立つ金毘羅石灯籠の辺りで土讃線を渡り、その先、岩崎バス停のあたりで国道319号を越えた、とのこと。
左手の土讃線を注意しながら歩くと線路脇に立つ金毘羅石灯籠があった。踏切跡らしき風情はあるのだが、現在踏み切とはなっていないためそのまま先に進む。





清少納言 史跡衣掛けの松跡
道を進むとトンネルがあり、トンネルを抜けると道の左手に「清少納言 史跡衣掛けの松」の案内がある。石段もなにもないのだが、とりあえず崖をよじ登ると草に覆われた小さな平場があった。
松は枯れたのだろう、今は残らない。清少納言が金毘羅参拝の途中、この地で松に衣を掛け休息したとの伝承が残る。




四国ガスのガスタンク
道を進み大麻琴平買田線に合流する。この道を直進すれば琴平に着くのだが、古い記録では岩崎バス停あたりで国道を越えた多度津金毘羅道は、国道と金倉川の間を進み四国ガスのガスタンク辺りに向かったとのこと。
右手を見ると緑のガスタンクが見える。大麻琴平買田線と国道319号、そして金倉川に囲まれた場所である。目標を確認し、岩崎バス停あたりまで戻り、旧道を辿ろうとはしたのだが、用水路はガスタンクまで続くが、道らしきものはない。用水路に沿って進むプランは止めとしガスタンクへと向かう。このガスタンクの辺りで多度津金毘羅道と魚道が合流したようである。

金倉川に沿って進む
ガスタンクまで進むがそれから先に道はない。しかも土讃線で行く手が遮られる。仕方なく大麻琴平買田線まで戻り、土讃線を越えた先で金倉川の土手へと向かう。 古い記録に、金毘羅多度津道は金倉川の土手を進んだとあるのだが、現在は土手らしきものはない。また道も途中で切れる。さてこの先は? と、ガスタンクへと続いた用水路沿いに道がある。その道筋を進むと金倉川沿いの道に出た。
この路がオンコースかどうか不明だが、とりあえず先に進む。

39基の並び石灯籠
金倉川沿いの道を進み、昭和橋南詰め、次いで高薮橋南詰めを越えると道筋はカーブし、川から少し離れる。その曲がり角、道の右手民家の前に金毘羅石灯籠と39基の並び石灯籠が続く。
砂岩の軟質石材で造られた灯籠は文久、元治、慶応など幕末のものが目立つ。国も佐渡、越前、越後、甲州、松前、豊後など全国に及び、奉納講中には大阪陸尺(駕かき人足)、江戸の日雇い仲間一同といったものまである。金毘羅信仰の人気がこれだけでも十分確認できる。並び灯籠の間にある玄関から家人が出てくる。なんだか印象的な光景だ。国の重要有形民俗文化財に指定されている。
金毘羅鳥居跡の碑
並び石灯籠の南端に「金毘羅多度津旧街道遺跡並び灯籠及び鳥居跡 この地にありし粟島奉献の鳥居、昭和48年高灯籠前に移す」と刻まれた石碑が立つ。 この道筋が金毘羅道の御オンコースであることが確認でき、一安心。






大宮橋東詰めに高灯籠
道なりに進むと、金倉川の対岸、大宮橋の東詰めに高灯籠が見える。これが高灯籠だろう。上述高灯籠前に移すとあった鳥居を確認に向かう。琴電琴平駅横にある広場に高灯籠があり、それを囲む金毘羅宮北神苑と書かれた石碑横に鳥居があった。
高灯籠
慶応元年(1865)に建てられた高さ27mの灯籠。日本一高い灯籠であり、国の重要有形文化財に指定されている、瀬戸内海を航海する船の指標として建てられ、船人がこんぴらさんを拝む目標灯となっていた、とある。
内陸のこの地にある「灯台」が航海の標となるとは思えないが、その昔は10キ れています。ロほど離れた丸亀沖からもこの灯籠の「火」は見えたのだろう。電気も派手なネオンもなく、高い建物もない往時であれば可能かもしれない。 高い石の基壇の上に木製の灯台が築かれ内部は三階建て、壁に江戸時代の人々の落書きが今も残されている、とのことだが、現在内部には入れないようだった。

一の橋西詰の金毘羅宮参道口に
更に道なりに進み、左に金倉川に架かる一の橋。ここを右に折れると金毘羅さんの参道となる。






伽藍道;多度津金毘羅道の枝道

善通寺から金毘羅道への最短ルート。善通寺を出て、上述2基の標石のある四つ辻で多度津金毘羅道に合流し、その先は多度津金毘羅道を進む。

南大門を出て県道24号へ南下
善通寺伽藍境内の南大門を出て、道なりに南下。ゆうゆうロードと呼ばれる陸上自衛隊善通寺駐屯地の敷地の間を南下し、県道24号と交差する。




乃木館
交差点の少し東、自衛隊利駐屯地の中に乃木館がある。建物は第十一師団司令部であったもの。執務室には初代司令官の乃木希典以下、代々の司令官が座る。館内には山下奉文をはじめとした著名な軍人の軍服や日露戦争の資料なども展示されていた。

地蔵堂
県道24号を突き切り、山麓への上り道にはいる。完全舗装の車道を少し進むと道の右手にお堂がある。特に名は書かれていないが、このあたりに「身代わり地蔵」があったとの記録もあるので、そのお堂かもしれない。




樽池傍の地蔵尊
鶴ヶ峰の西を上り八丁原を越え樽池に。この辺りが峠のようだ。池の傍に地蔵尊が佇む。道は整備され昔の金毘羅道の面影はないが、地蔵尊、地蔵堂がその名残だろうか。八丁原は南大門から八丁が地名の由来、とか。


四つ辻で多度津金毘羅道に合流
峠を越えると道は東に下る。少し進み右に折れ、上述四つ辻の標石へと向かう。伽藍道はこの先は多度津金毘羅道の道筋となる。



金毘羅宮から第七十六番札所・金倉寺へ

今回は金毘羅道のルート確認。何度もお参りしている金毘羅さんは今回はパスし、金倉寺へと折り返す。多度津金毘羅道と魚道の合流点であったとされる、上述四国ガスのガスタンクまで多度津金毘羅道を戻るが、その先の魚道は寸断されといる。
行きつ戻りつの旧魚道探しも楽しそうではあるが、今回の主旨は遍路道歩き。現在の国道319号と金倉川の間を抜けたというさ魚道はパスし、国道319号。県道25号を進み、先回の善通寺から金倉寺への遍路道にあった県道25号の標標石まで戻り、その先は遍路道を進むルートをメモする。

四国ガスのガスタンクに戻る
上述四国ガスのガスタンクまでは同じルートを戻る。往昔はこのガスタンクから先は金毘羅道のひとつである魚道として、国道319号と金倉川の間を進んだようだが、現在では道は寸断されているようだ。ということで、国道319号を北に進む。

県道25号、尽誠学園前の標石
国道319号をしばらく進み、生野南交差点で左に折れる県道25号に乗り換え、尽誠学園前に。道の左手、斜めに県道に交わる箇所に標石。「右 金蔵寺道 左 善通寺道」とある。
この斜めに県道に合わさる道は、先回の散歩で善通寺から金倉道へと向かう道筋で、赤門筋、本郷通りを直進し神櫛神社で左折した箇所。
この道筋は遍路道とは逆に神櫛神社を右折し斜めに進み、善通寺駅のすぐ南で土讃線を越えてこの標石へと続く。善通寺から魚道をつなぐ道筋である。かつては県道25号を越え、県道と金倉川の間を通る魚道へと向かったのだろう。

県道25号左手の標石へ
誠学園を越え、赤門筋から本郷通りへと延びる道筋が県道24号となって県道25号に合わさるT字路を越え、先回の遍路道でであった県道25号左手にある標石に。

金毘羅灯籠の標石へ
標石を右折。「左 こんぴら道五十丁 右せんつじ道 十八丁 安政六」と刻まれた金毘羅石灯籠の標石に進む。そこが遍路道と金毘羅街道魚道の分岐点。ここから北へと先回メモの遍路道を金倉寺へと向かう。

これで金毘羅宮経由、金倉寺への遍路道を繋いだ。


■石神神社経由の金倉寺への遍路道■

善通寺の郷土館で偶々教えてもらった石神神社経由の遍路道をメモする。先回辿った金倉寺への遍路道より古い、という言葉だけでフックが掛った。

旧多度津金毘羅道へ
遍路道は赤門筋を進み、本郷通りにはいるとすぐに左折。県道48号の一筋東の細路が旧多度津金毘羅道という。

3基の標石
旧多度津金毘羅道もすぐに県道48号に合流。交差点を越え県道212号となった通りを北に進む.瓢箪池を越えた先で県道212号と分かれ道を北進。ほどなく道の右手に3基の標石。
標石は右から真念道標。右面には「南無大師遍照金剛」、正面には「右へん路道 願主真念」などの文字が刻まれる。
中央は大師坐像が刻まれ、「へんろミち 是寄り石神御社へ八丁 是ヨリ金倉寺へ十八丁」の文字。
左の標石には「石神社 文化二」といった文字が刻まれる。
真念
真念は空海の霊場を巡ること二十余回に及んだと伝わる高野の僧。現在我々が辿る四国霊場八十八ヶ所はこの真念が、貞亭4年(1687)によって書いた「四国邊路道指南」によるところが多い、とか。四国霊場八十八ヶ所の全容をまとめた、一般庶民向けのガイドブックといったものである。霊場の番号付けも行い順序も決めた。ご詠歌もつくり、四国遍路八十八ヶ所の霊場を完成したとのことである。四国では真念道標は 三十三基残るとのこと。
遍路そのものの数は江戸時代に入ってもまだわずかであり、一般庶民の遍路の数は、僧侶の遍路を越えるものではなかようだが、江戸時代の中期、17世紀後半から18世紀初頭にかけての元禄年間(1688~1704)前後から民衆の生活も余裕が出始め、娯楽を兼ねた社寺参詣が盛んになり、それにともない、四国遍路もまた一般庶民が辿るようになった、とのことである。

石神神社から高松自動車道へ
標石に従い右折すると、道の右手に石神神社、その南に吉田八幡宮がある。この石神神社から、高松自動車道を越えるまでは高速道路建設のため標石も残らず、これといった目安がない。
香川県教育委員会などの調査報告書のルートを参考に進む。ルートはゆるやかな坂、というか湧水地(出水)への窪みを下りそして上る。そこに用水路があり、その用水路に沿って進むとある。
その案内に従い用水路脇の土径を進むが、ほどなく道が切れ、田圃の畦道を歩くことになった。
この箇所は用水路の直ぐ先にある立派な車道まで進み、そこを右折し高松自動車道を潜るのがいいようだ。

榎之木涌の標石
古い記録には道を直進し東西に走る旧十一号線を越え、50mほどのところを旧11号に沿って東西に走る「かりてい道」を右折する、とある。
「かりてい」とは、地元では「おかるてんさん」との愛称で親しまれた、札所道隆寺にあった詞利帝(かりてい)堂のことだろう。やっと道隆寺への遍路道の手掛かりが見えて来た。
とはいうものの、旧国道11号がどの道か不明だが、現在の国道11号の南を進む道が旧国道ではと北に進む。
旧国道筋らしき道に到着。予想に反し細い道筋であるので地図をチェック。と、少し西に「榎之木涌」と如何にも湧水といったマークが地図に載る。遍路道とは関係ないのだが、湧水フリークとしては見逃すわけにいかず、少し西に進むと道の北側に「榎之木涌」があった。
湧水池といったイメージとは異なりコンクリートで囲まれている。近年工事がなされたようだ。昔の写真をチェックすると、まるで趣の異なる野趣あふれる出水であった。
案内には「善通寺市周辺には出水(ですい) ・ 湧 (ゆう) と呼ばれる泉がたくさんあり、旱魃のときにも枯れることなく地域の人々の生活を支えてきました。
そのひとつで、善通寺市の下吉田町にある「榎之木湧(えのきゆう)」は、出水の近くに榎の大木があったことからこう呼ばれるようになったとも言われています。
この「榎之木湧」の清涼で豊富な湧水(わきみず)は、古くは地域住民の飲料水として利用され、現在では下流に広がる約17町歩の水田を潤すと共に、水辺には多くの人が集まり世間話に花を咲かせたり、子供たちが水しぶきを上げるなど、地域の人々の憩いの場所となっています。
その昔、丸亀京極藩(まるがめきょうごくはん)のお殿様が休憩するために永榎亭(えいかてい)と名づけられた「お茶屋」と呼ばれる休憩所があり、ところてんの名所であったとも言われています。生活に根ざしたこの出水は、地域の人々によって大切に守られています」とあった。

それはそれとして、「榎之木湧」に大きな標石が立つ。「東 高松七里 西 観音寺五里」と共に「右 金倉寺詞利帝」と刻まれる。この辺りを東西に進む道が「かりてい道」であった。ふと立ち寄ったところで思わぬ遍路道の手掛かりがみつかった。

かりてい道
「榎之木湧」から東に旧国道らしき道を東に進む。古い記録には「かりてい道」は旧国道の一筋北とある。それらしき、更に細い道が東西に続く。その道筋に乗り換え田圃の中の道を東に進む。途中地蔵堂もあり、なんとなく「かりい道」らしき風情。
道を進むと土讃線金蔵寺駅手前で旧国道筋らしき道に合流。

金倉寺
踏切を渡り県道25号を越えると左手に見慣れた新羅神社、そして金蔵寺山門が現れた。

これで今回のメモを終える。次回は丸亀市内を抜け宇多津の第78番札所・郷照寺を打ち、坂出市内の第79番札所・高照院(天皇寺)を目指す。
先回のメモでは七十二番札所 曼荼羅寺からはじめ、七十三番 出釈迦寺、七十四番 甲山寺を打ち七十五番札所 善通寺までの道筋を辿った。
今回は善通寺参拝からはじめ、七十六番 金倉寺を打ち七十七番札所 道隆寺へ と旧遍路道を辿る。おおよそ7キロほどだろう。
メモは2回に分ける。ついでのことではあるので、2回目には善通寺から金毘羅宮までの金毘羅道もメモした。善通寺から金毘羅さんはすぐお隣。これまた7キロほどである。善通寺から金毘羅宮を参詣し、七十六番 金倉寺への遍路道に戻る方も多いのでは、との想いではある。
本日のルート;第七十五番札所善通寺>赤門>乳薬師>神櫛神社で左折>県道25号を越える>金毘羅石灯籠の標石>村上池西の標石>旅姿大師の標石>民家脇の標石>茂兵衛道標(121度目)>第七十六番札所 金倉寺



第七十五番札所・善通寺

先回は七十四番札所・甲山寺から南に下り、善通寺の境内を二分する道に入り、西の本坊境内脇の水路に架かる廿日橋までメモした。今回は善通寺のメモから始める。

五岳山屏風ヶ浦誕生院善通寺。真言宗善通寺派総本山。真言宗では高野山金剛峰寺、京都の東寺と共に大師三大遺跡のひとつとされる。西の本坊境内、東の伽藍境内からなり、共に結構大きい。四国で最大の寺域と言う。それでも往時の半分のスケールとのこと。
空海誕生の地ともされる。誕生院の所以である。ちなみに屏風浦とは善通寺の西に連なる五岳山(香色山、筆ノ山、我拝師山、中山、火上山)の峰々が海に向かって屏風の如く屹立する故。かつてはこのあたりまで海が迫っていた、と言う。

空海生誕の地ともれえるこの地であるが、空海の生家である佐伯氏は、代々讃岐の国造の家系。善通寺域一帯が空海の父である佐伯善通卿の邸宅であったとも、佐伯氏の氏寺であったとも言う。

弘法大師生誕の地は、以前歩いた海岸寺も、そう呼ばれる。どちらが生誕の地であるか門外漢には分からないが、どちらも共に空海ゆかりの地ではあるのことに変わりはないだろう。

寺伝によれば、唐より帰朝した空海は大同2年(807)、この誕生の地に唐の都長安の青竜寺を模した寺院建立を計画。空海の父である佐伯善通卿よりこの地の寄進を受け竣工。父の名をとり善通寺とした。敷地は現在の凡そ倍。15の堂塔、49の僧坊よりなる大寺院であった、と。

その後一時荒廃した時期もあったようだが、その都度朝廷や時の権力者の助けにより寺威は続くも、永禄の大火により伽藍は悉く灰燼に帰す。現在の伽藍はその後再建されたものである。
永禄の大火
戦国時代、主の細川氏を倒し阿波をその手におさめた三好氏は讃岐に侵攻。東讃を抑え、次いで西讃を窺うが、西讃に覇を唱える香川氏が天霧城を拠点にそれに抗する。
戦は膠着状態となり三好氏は善通寺をその本陣とし相対する。結局は天霧城を攻略できず和議を結び阿波に戻ることになるが、退陣の折の残り火が燃え広がり善通寺は焼失した。これを永禄の大火と言う。永禄元年(1558)のことである。

さてと、かつては誕生院と善通寺という二つの寺でもあったと言われる本坊境内と伽藍境内、どちらからお参りしようか?
と、小学校の修学旅行での思い出、漆黒の通路を歩いたお堂からはじめようと思い立った。チェックするとそのお堂は本坊境内の御影堂、所謂大師堂の地下の戒壇巡りと言う。ということでまずは西の本坊境内、誕生院からお参りをはじめる。


■本坊境内■

廿日橋
廿日橋、といっても用水路に架かる石橋ではあるが、橋を渡る。勅願寺であった当寺は、一般の参拝は二十日だけと限られていたその歴史が橋名の由来、とか。橋の少し南には勅使門がある。

仁王門
金剛力士像は南北朝時代・応安3年(1370)の作と言う。運慶につながる運長の作との記事もあるが門外漢にはわからない。わからないが、運長といえば江戸時代の京都の仏師である北川運慶だろうし、であれば時代は大きく変わる。 運長は、西大寺(奈良県)の愛染明王(あいせんみょうおう)坐像(重文)や、高野山真言宗総本山金剛峯寺(和歌山県)の金剛力士立像(吽形(うんぎょう)像、重文)などの作者として知られる。

御影堂回廊
仁王堂を潜ると屋根付き回廊が御影堂へと続く。大正4年(1915)に建てられたというから、それほど古いものではない。が、なかなか、いい。






御影堂
大師堂のことを当寺は御影堂と称する。御影堂は札堂・中殿供養殿・奥殿と分かれ、奥殿には大師直筆の「目引き大師」の絵像が祀られるとのことだが、興味関心は何十年ぶりの漆黒の通路歩き。
戒壇めぐり
お堂に入り右手より階段を下りる。すぐに真っ暗。漆黒とはこういうことを指すのだろう。空間感覚もマヒ。
通路の壁に手を付け、それを頼りに進むしかない。通路には曼陀羅の諸仏が描かれているとのことだが、見えるはずもない。恐る恐るすり足で歩を進めると薄明りに地蔵尊が浮かぶ。ここが凸となっている地下通路の先端部。センサーで感じるのか、突然流れる空海のお話をしばし聞き、そこからまた漆黒の通路を戻りお堂に出る。
うっすらとした記憶ではコンクリートの通路ではなく木であったようにも思うのだが、はっきりしない。ともあれおおよそ100mほどの距離だが結構懐かしい思い出を追体験できた。

親鸞上人堂
御影堂に向かって右手、親鸞上人堂がある。親鸞上人自作の親鸞上人尊像が祀られる。案内に拠ると、「鎌田の御影」と称されるこの尊像は、上人が下総国鎌田庄(現在の千葉県市川市)の信者宅に滞在し法談。帰洛を惜しむ信者のため上人自ら木像を彫ったもの。
その背に残された「讃岐善通寺は弘法大師生誕の霊地にてわが師法然上人は彼の地に詣でて自ら逆修の塔を建てたまえ、我も彼の寺へ詣でなんと思えど、その願いを果たさず。願わくはこの像を彼の地に送り、今生の願望を遂げしめよ」との遺命によりこの地に送られたものとある。




■伽藍境内■



中門
廿日橋に戻り、中門を潜り伽藍境内に入る中門を潜る。五重塔、楠の巨木が印象的。

金堂
中門から境内を直進すると左手に金堂。所謂本堂である。七間四面、二層のどっしりした建物。本尊は薬師如来。空海の作とされる永禄の戦火で破損した元の薬師如来をその胸に納める、と。3メートル弱の仏さま。上述運長の作との記録が残る。
戦国時代に金堂が消失して以後、善通寺には金堂も五重塔もない状態が続くが、江戸期の入り元禄年間に再建の動きが本格化する。
元禄7年(1694)に、仁和寺門跡が大師誕生之霊地として善通寺伽藍再興をうながす令旨を出し、元禄?年(1699)金堂が棟上され、翌13年本尊薬師如来坐像が、上述京都御室の大仏師北川運長の手によって完成した、とのことである。




五重塔
境内に三間半四方、およそ45mの五重塔が聳える。現在のものは四代目。弘化2年(1846)着工、明治17年(1884)完成、総けやき造りの塔と言う。
「はあ、大師慕って霞に中を 娘遍路の鈴が鳴る 夢を誘うような五重の塔に  偲ぶ想いに花が咲く(?;このあたりうろ覚え) 来なよ 寄りなよ おいでなよ ほんまに ええとこ 善通寺 善通寺」。
小学校での修学旅行の時バスガイドさんに教えてもらい、いまだに忘れずにいる善通寺の歌を思わず小声で歌う。



楠の巨木
南大門を潜って左、楠の巨木が残る。幹の周囲12m、高さ40m。香川県の天然記念物に指定されている。その西側、善通寺領の氏神である五社明神社を覆うように、さらに巨大と思える楠の巨木が残る。案内に拠れば、空海はその著『三教指帰』に「楠が日を遮る浦に住まう」といったことを書いている。また、『全讃史』にも「楠の巨木があり大師誕生の時よりある」といったことを記していた。
楠の巨木と言えば、田舎である愛媛県新居浜市の家の周りにもいくつもあった。今はすべて伐採されてしまっている。この歳になってそれを惜しむ。

佐伯祖廟
五社明神社を覆う楠の巨木の近くにこじんまりとした社が建つ。案内には「弘法大師は宝亀5年(774)、讃岐国多度郡屏風浦(善通寺)にお生まれになりました。
この地方の豪族、佐伯直田公(さえきあたいたきみ)・善通卿と玉寄御前(たまよりごぜん)の三男です。
この佐伯祖廟堂には父君善通卿と母君玉寄御前の御尊像を泰安してあり、「佐伯明神」、「玉寄明神」と称しております。なお五色山の頂上には佐伯家代々の霊廟がございます」とあった。
香色山
案内にある五色山とは、善通寺の西隣、標高157mほどの香色山(こうしきやま)のことだろう。山頂には「佐伯直遠祖神」と刻まれた石碑が立つ。

三帝御廟
伽藍境内西南隅に三帝御廟がある。「総本山善通寺に綸旨院宣を賜い御信心深い後嵯峨・亀山・後宇多三天皇の御遺言により御爪髪を納め、宝塔を三基建立したる三帝の御廟であります」とあった。





南大門
かつての正面。日露戦争の戦勝を記念して明治41年(1908)に再建された。屋根の四隅に四天王像を配する。

法然上人 逆修の塔
本坊境内の親鸞上人堂でメモした「法然上人逆修の塔」がこれである。五重塔のすぐ南にある。
逆修塔とは、死後の往生をねがって生前に自らが建立するもの。塔は高さ4尺(約130cm)の石造の五輪塔。四国に流された浄土宗の開祖・法然上人が自身の爪髪を埋めて立てたと伝わる。
が、五輪塔の部材は法然が活躍した鎌倉期より後の室町から戦国時代にかけてのもとと言う。現存する五輪塔は法然が建立したものではない、ということか。
法然上人と善通寺
法然上人は所謂「承元の法難」により土佐配流に処される。時に75歳であった、と。
京を離れ土佐へと、丸亀の塩屋の津に上陸した法然上人は、法然に帰依していた関白藤原兼実公の計らいもあり、讃岐に留まることに。その折に空海ゆかりの善通寺に訪れたとのことである。
先般、曼陀羅道を歩き、曼陀羅寺へ向かう途中、法然上人ゆかりの蛇岩に出合った。
□承元の法難
Wikipediaには「承元の法難(じょうげんのほうなん)は、後鳥羽上皇によって法然の門弟4人が死罪とされ、法然と親鸞ら7人が流罪にされた事件。法然は土佐だが、その弟子親鸞は越後に流されることとなる。
「南無阿弥陀仏を認めるか認めないか」という純粋な宗教的対立がきっかけとなった事件ではない。法然の門弟たちが後鳥羽上皇の寵愛する女官たちと密通したうえ、上皇の留守中に彼女たちが出家してしまったため、後鳥羽上皇の逆鱗に触れたという話で、密通事件さえ起きなければ、宗教がもとで人が死ぬことはなかったと言える」とあった。

利生塔
五重塔の南東、東院の境内隅にある石塔。元は暦応元年(1338)、南北朝の戦乱犠牲者の菩薩を弔い国家安泰を祈念すべく足利尊氏・直義が命じた、「国ごとに一寺・一塔の建立」の内、讃岐の一塔として建てられた五重塔であった。が、上述、永禄の大火より焼失したため、後に石造の利生塔がその替わりとして建てられたと伝わる。高さ2.8mの角礫凝灰岩(かくれきぎょうかいがん)の石塔である。
一寺一塔
暦応元年(1338年)、足利尊氏・直義兄弟は夢窓疎石(むそうそせき)のすすめで、南北朝の戦乱による犠牲者の霊を弔い国家安泰を祈るため、日本60余州の国ごとに一寺一塔の建立を命じた。
寺は安国寺、塔は利生塔と呼ばれ、讃岐では安国寺を宇多津の長興寺に、利生塔は善通寺の五重塔があてられた。
利生塔は興国5年(1344年)、善通寺の中興の祖とも称される宥範(ゆうばん)によってもうひとつの五重塔として建てられた。



善通寺から七十六番札所・金蔵寺への遍路道

赤門
善通寺参拝を終え次の札所・金倉寺への遍路道に向かう。遍路道は伽藍境内の東門、朱に塗らえる通称赤門口から進むことになる。







赤門七仏薬師(乳薬師)
善通寺の巡拝を終え、伽藍境内の東側にある赤門を離れ赤門筋に出る。美しく整備された道を直進すると、道の左手、善通寺郷土館の隣にお地蔵さま。赤門七仏薬師とも乳薬師とも称される。

案内によれば、「西に3キロ、??原大池のほとりに赤門七仏薬師(別名乳薬師)の本尊がある。弘法大師がお堂を建て、自ら薬師七体の石像を刻み、五穀豊穣と衆生の疫病退散を願う。
その後中世の戦乱で焼失するが、承応元年(1652)年、大池の工事中に石像が見つかり、現在の地にお祀りされ、安永八年(1779)には七仏薬師として再興された。
この七仏薬師にお参りするとお乳の出がよくなることから、乳薬師とも呼ばれ、昭和50年頃までは県外からのお参りもあったが、その後は訪れる人も減り、現在はその面影はない。
この赤門商店街の「赤門七仏薬師」は善通寺創建1200年を記念し、吉原七仏薬師寺より勧請された」とあった。

𠮷原の七仏薬師堂には、曼陀羅寺道を曼陀羅寺へと辿る途中で出合った。お堂はそれほど整備されているようには思えないが、案内に旧暦6月17日(十七夜)には本尊が公開されるとのことである。

神櫛神社で左折、細路に入る
赤門筋を進み県道48号を越えると、道は県道24号・本郷通りとなる。本郷通りを直進し神櫛神社まで進む。
神櫛神社の境内西端、本郷通りの左手に「76 金倉寺 2.7km」と刻まれた比較的新しそうな遍路標石がある。標石に従い左折し本郷通りを離れ細路に入る。
神櫛神社
社伝に拠れば、空海が勧請・創建。この地の産土神とする。祭神は神櫛王命、或は神櫛王の御子神、或は武國凝別皇子を祀るとも言われ、江戸時代までは皇子権現社と称された。
神櫛王
記紀に伝わる古代皇族。第十二代景行天皇の子とされる。『日本書記』では讃岐国造の祖とされる。讃岐の有力氏族がその祖とする所以だろう。墓は香川県高松市牟礼にある。

遍路道と金毘羅道分岐点
この地は金倉寺への遍路道と金毘羅宮への参拝道の分岐点でもあった。遍路道の逆、境内に沿って右に折れる道は金毘羅参拝道のひとつである「魚道」へとつながっていた。魚道を含めた金毘羅参拝道は次回のメモに廻す。

県道25号を越える
遍路道は北東へと進む。随所に遍路札の案内があり道を間違うことはないだろう。道なりに工場裏の細路を少し進むと右に折れて土讃線を越える。この右折点だけがちょっと注意必要。
土讃線を潜り県道25号に出る。県道対面に比較的新しい遍路標石があり、県道を渡り先に進む。

金毘羅石灯籠の標石
標石に従い軽自動車なら通れそうな細路を進むと、道は弧を描き先ほど分かれら県道24号に再びあたる。県道24号は県道25号に一時相乗りし東へとむかっているようだ。道の北側にも新しい遍路標石が整備されている。
ほどなく「四国のみち」の標石。遍路道を案内する。「七十六番 金倉寺 1.4km」とある。
その標石の対面、水路傍に金毘羅石灯籠。「左 こんぴら道五十丁 右せんつじ道 十八丁 安政六」と刻まれる。

こんぴら道
前述、金毘羅参拝道である「魚道」はこのあたりから琴平まで県道25号と金倉川の間を進んだという。今はその道筋は残っていないようだが、この金毘羅灯籠が記す「こんぴら道」は「魚道」のことだろう。
この道筋が多度津と琴平を結ぶ最短コースであり、金毘羅参りで賑わう琴平へと、多度津で水揚げされた魚が毎朝走ったのが、その名の由来とのこと。

村上池西の標石
金毘羅石灯籠からほどなく、右手に村上池の堤が見える道端、畑の角に標石がある。よく見ると彫られた僧の手が左を示す。注意深く見ると標石に刻まれた僧の姿もあれこれバリエーションがあるようだ。「右 まるかめ**」とも刻まれている、と。




旅姿大師の標石
遍路道はこの先で高松自動車道を潜る。道の左に山王地主権現の小石祠を認め、その先にある民家のブロック塀に張り付くように標石が立つ。笠を手にした、如何にも巡礼途中といった大師像が刻まれる。このような旅姿の大師像ははじめて見た。「是ヨリ金倉寺札所江三** 天保十五年」と刻まれる。



民家脇の標石
県道18号を越え先に進むと、道の左側、これも民家塀に張り付くように標石がある。「左 こんぞうじ道 四丁 右 ぜんつうじ道 廿五丁」と刻まれる。金倉寺まで400mほどになってきた。

集落の間の道を進むと、金倉寺の山門前に出る。門前前の名残を感じる昔風の家並も残る。

茂兵衛道標(121度目)
山門前T字路の道角に少し傾いた茂兵衛道標が立つ。手印と共に「善通寺 金毘羅 明治二十四年」の文字が刻まれる。
この道標には添句「真如乃月かゝや久や法の道 冷善」が刻まれる。茂兵衛121度目の巡礼時のものである。







第七十六番札所 金倉寺

鶏足山宝幢院(けいそくさんほうどういん)金倉寺。天台宗寺門派。本尊は薬師如来。

寺名石碑
山門前の左右に大きな石柱。右手の石柱には「四国第七十六番霊場 智証大師御誕生所 詞利帝母御出現之地 明治二十三年」、左手には「当山本尊薬師如来」と刻まれる。共に茂兵衛道標で知られる中務茂兵衛の周旋による。左手の石柱には「壱百拾五度目」と茂兵衛の巡礼時も刻まれる。

この寺は茂兵衛が得度を受け、法名義教をいただいた寺である。明治十年(1877)、茂兵衛30度目の巡礼の折、33歳のときのこと。
中務茂兵衛
中務茂兵衛。本名:中司(なかつかさ)亀吉。弘化2年(1845)周防(すおう)国大島郡椋野村 (現山口県久賀町椋野)で生まれた中務茂兵衛は、22歳の時に四国霊場巡礼をはじめ、大正11年(1922)に78歳で亡くなるまで生涯巡礼の旅を続け、実に280回もの巡礼遍路行を行った。
道標は、茂兵衛が厄年である42歳のとき、遍路行が88回を数えたことを記念して建立をはじめ、その数250基以上にも及ぶ(230基ほどは確認済、とか)。
文化遺産としても高く評価されている道標の特徴は、比較的太めの石の四角柱(道標高の平均約124cm)で、必ず建立年月と自らの巡拝回 数を刻んでいる、と。

鐘楼
仁王門を潜り境内へ。左手には高いところに鐘が吊られた鐘楼が建つ。高く延びた長い支柱が印象的。なんだか面白い。









本堂
境内を進むと正面に本堂。Wikipediaに拠れば、「774年(宝亀5年)景行天皇の子孫の和気道善(円珍の祖父)が金輪如意(如意輪観音)を祀って一堂を建立し自在王堂と呼ばれていた。 851年(仁寿元年)道善の子である和気宅成の上奏により、自在王堂を官寺とし道善寺と名付けた。
その後、宅成の子である円珍が846年(承和13年)に入唐、858年(天安2年)帰朝した後、故郷の当寺に訪れて長安の青龍寺に倣した伽藍を造営、薬師如来を彫像して本尊とした。
貞観3年(861)伽藍の造営を終え、落慶の斎会に円珍が再訪する。928年(延長6年)醍醐天皇の勅命により金倉郷(かなくらごう)から名前をとり現在の「金倉寺」、山号は釈迦十大弟子の迦葉尊者が入定した山名の「鶏足山」と改め隆盛をきわめた。
その後、幾多の兵火により重要文化財の自画像と本尊などの宝物以外は焼失、慶長11年(1606)それまで無住寺になっていたが、近くの真言寺院に後見してもらい一時期真言宗になるが、窮状を知った高松藩主の松平頼重により、天台宗に戻り再興、慶安4年(1651)には、智証大師御影堂を始め、諸堂や客殿、庫裏にいたるまで再建し現在に至る」とある。
智証大師円珍
山門前の石柱にあったように、この寺は智証大師円珍生誕の地。弘仁五年(814)のことである。母は空海の妹とも言われ、空海にとっては甥ということになる。空海の姪の子との説もあるが、ともあれ空海とは近しい縁者ではある。
十五歳で最長の弟子に師事。厳しい修行の後に入唐し在唐六年、帰朝後、天台宗第五代座主となる。

詞利帝堂
本堂左手に詞利帝堂。詞利帝母(かりていも)、所謂鬼子母神を祀る堂。円珍五歳の時現れたと伝わる。
詞利帝母
詞利帝母は夜叉を意味するサンスクリット語(ハーリーティー)の音写。500とも1000とも一万とも言われる子を持ち、その子たちを育てるため人の子供を食べていた。それをみかねた釈迦は詞利帝母の最愛の末子を隠す。半狂乱となり探すも見つからず、詞利帝母は釈迦に縋る。
釈迦は最愛の子を失う悲しみを説き、悔い改めた詞利帝母は仏法の守護神となった。子供の守り神との所以である。地元では「おかるてんさん」の愛称で呼ばれているとのこと。

大師堂
祖師堂とも呼ばれるこのお堂の扁額には中央に智証大師、右に弘法大師、左に神變菩薩とある。本堂に祀られるお像も、中央に智証大師、右に弘法大師、左に神變菩薩(役行者)と並ぶようだ。四国88箇所札所の中で、中央に弘法大師ではない像が祀られるのはこの寺だけとのことである。
大師号
「大師は弘法に奪われ、太閤は秀吉に奪わる」とのことばがある。大師=弘法大師と思い込んでしまいそうだが、大師は弘法大師だけでなく他にもたくさんいる。大師号は高徳な僧に朝廷から勅賜の形で贈られる尊称の一種で、多くは死後に賜る諡号である。
最初に大師号を賜ったのが最澄こと伝教大師であり、弘法大師がはじめてというわけでもなく、20名以上いる大師のひとりであるではあるのだが、お大師さんといえば弘法大師。空海の人気のほどが分かる。
茂兵衛道標
大師堂の右手に茂兵衛道標が立つ。明治廿一年の文字と共に、手印が大師堂を指す。また大師堂石段も茂兵衛の周旋による、と言う。









乃木将軍の銅像
大師堂左手前に羽織、袴姿の乃木希典将軍の像が立つ。元は軍服姿であったようだが、第二次世界大戦時に供出された。この銅像と軍馬の供出により、鐘楼の鐘が供出から免れた、とも。
●乃木将軍妻返しの松
このお寺様は乃木将軍の寓居であったとも言われ、境内には「乃木将軍妻返しの松」もあった。明治31年(1898)、善通寺第十一師団の師団長として着任。以来3年ほどこの寺を寓居としたが、訪れた婦人を玄関払いしたとのことである。寺に泊めるのを憚ってのこと、とも。

一太郎母子の松
戦前の軍国美談として小学校の国語読本にも載った、「一太郎やーい」の主人公岡田梶太郎とその母がこの寺に植えたものと言う。
日露戦争出征のため、多度津から軍船に乗る息子梶太郎の名を大群衆の中で叫び注目を浴びたため、照れ隠しで「天子さまに御奉公」と言ったことが、「一太郎」となって天皇への御奉公の美談として創られた。当の本人は長いことこの美談の主人公であったことを知らなかったようである。
明治生まれの祖父に連れられ、芝居小屋といった映画館に10円を払い、嵐寛寿郎主演の『明治天皇と日露大戦争』を見に行った世代にはわかるだろうが、今の世代に一太郎と言われても、なんこと、と思うだろうなあ。

金倉寺常接待処
境内を彷徨っていると奉納石に支えられた木造小屋の傍に何となく気になる石碑がある。見ると「金倉寺常接待処」と刻まれていた。かつて接待処として使われていたのだろうか。
結構札所を巡ったが、接待処の石碑ははじめて目にした。




神仏混淆の名残
境内には天満宮など神道の祠が残る。明治の神仏分離令以前の神仏混淆時代の名残だろう。境内の楠の巨木も印象的であった。






新羅神社
境内に接して新羅神社がある。境内はさっぱりとしたもの。渡来氏族である秦氏と関係深和気氏とのかかわりであろうか。チェックすると、和気氏ではなく智証大師との関りの社のようである。
唐より帰朝した智証大師こと円珍は、叡山に現れた老翁に導かれるまま山を下り、園城寺に。円珍は園城寺を再建し、そこにお堂を建て唐より持ち帰った経典を納めた。この老翁は園城寺の守護神である新羅明神であった。
かつての日本の朝廷は百済系、新羅系といった渡来系王族よりなる。壬申の乱の大友の皇子が百済系、大海皇子が新羅系とはよく聞く話である。
が、園城寺は百済系の大友皇子を弔うための寺。そこに新羅の神?これ以上はきちんと調べなければわからないが、円城寺のあるあたりには新羅系の渡来人が多く住んでいたようであり、園城寺建立以前からこの地の守護神として祀られていたのかもしれない。単なる妄想だが、道隆寺と新羅神社の繋がりを自分なりに納得。

善通寺のあれこれでメモが長くなった。今回はここまで。次回は金倉寺から道隆寺への遍路道をメモする。



七十一番札所 弥谷寺から七十二番札所 曼荼羅寺に至る二つの遍路道(海岸寺道曼荼羅道)をカバーし終え、七十三番 出釈迦寺、七十四番 甲山寺、七十五番 善通寺へと遍路道を辿る。距離は4キロほど。田舎の愛媛県新居浜市を朝に出たとしても十分に時間の余裕がある。
出釈迦寺奥の院禅定御行場の護摩壇
どこか立ち寄るところはとあれこれチェック。と、出釈迦寺の近くに西行ゆかりの庵がある。また、出釈迦寺の裏に聳える、といっても標高481mほどなのだが、その山・我拝師(がばいし)山に出釈迦寺の奥の院がある、という。地図を見るとヘアピンではあるが道は奥の院まで続いている。2時間もあればこの2か所もカバーできそう。
ということでルーティング。曼荼羅寺を出て、出釈迦寺、出釈迦寺奥の院、西行庵と辿り、道を東に折り返し甲山寺、そして善通寺へと向かうことにした。 出釈迦寺奥の院の行場は、高所恐怖症のわが身には少々キツイところではあったが、その眺望も含め結構な達成感を感じることになった。 そのため、というわけでもないのだ、出釈迦寺や奥の院のメモが結構長くなり、当日訪れた七十五番札所 善通寺のあれこれは次回に回し、今回は札所・善通寺到着までの遍路道のメモとする。

本日のルート;
七十二番札所 曼荼羅寺から七十三番 出釈迦寺へ
茂兵衛道標(151度目)>七十二番札所 出釈迦寺(しゅっしゃか)
出釈迦寺から奥の院禅定へ
奥の院禅定参道口駐車場>与謝野晶子・寛庭園>柳の水>西行法師禅定御遺跡>参詣道 世坂>西行法師腰掛石>西行法師腰掛石>風穴>奥の院参拝者駐車場
奥の院から御行場へ
奥の院山門>摩崖摩崖五輪塔>鐘楼>根本御堂>御行場入口>鎖場>>捨身ケ嶽の御行場
七十四番札所・甲山寺へ
出釈迦寺に戻る>西行庵西行庵分岐点の自然石道標>茂兵衛道標(88度目)>県道48号沿いの茂兵衛道標(241度目)>広田川沿いの標石>七十四番札所 甲山寺
七十四番 甲山寺から七十五番札所 善通寺へ
弘田川の用水路施設傍に標石>T字路の標石>国立病院機構こどもとおとなの医療センター>仙遊寺>犬塚>七十五番札所 善通寺の廿日橋


七十二番札所 曼荼羅寺から七十三番 出釈迦寺へ

茂兵衛道標(151度目)
曼荼羅寺を離れ、七十三番札所 出釈迦寺に向かう。南へおおよそ500mほどのところにある。境内を出てお接待のあるうどん屋さん前の三叉路に茂兵衛道標。 南へと上る緩やかな坂を示す手印と共に出釈迦寺の文字が刻まれる。明治29年(1894)、茂兵衛151度目の四国巡礼時のもの。手印の案内に従い舗装された道を南に向かう
茂兵衛道標(140度目)
上述舗装道の一筋東、耕地の間を南に抜ける簡易舗装がある。この道は少し進んだところで上述茂兵衛道標から上る舗装道と合わさるが、こちら道を歩く遍路もいたようで、途中道の右側に茂兵衛道標が立つ。
「右 彌谷寺」、手印と共に「七十三番 七十二番」と刻まれる。明治28年(1895)、茂兵衛140度目の四国巡礼のときのもの。コンクリート塀の前に立ち、裏面は読めないが、「鶴多ちしあとへ往きて徒む若菜可那(つゆたちし あとへゆきてつむ わかなかな)」と添歌が刻まれるとのこと。
ところで「右 彌谷寺」とあるのだが、右は耕地でそれらしき道はない。どこから移されたのかチェックする。どうもこの辺りにあった遍路宿・坂口屋前に立てられていたようである。坂口屋は茂兵衛定宿ではあったとのことである。

七十二番札所 出釈迦(しゅっしゃか)寺

簡易舗装の道と舗装道路が合わさるすぐ先に出釈迦寺がある。舗装道路の東側に大きな駐車場。山門への参道は舗装道の西側に続く緩やかな坂道を上る。
山頭火句碑
山門への坂道を上りはじめた一番手前に大きな石碑が建つ。結構新しいその石碑には「山あれば山を観る」と刻まれる。山頭火の句集『山行水行』の冒頭にある「山あれば山を観る 雨の日は雨を聴く 春夏秋冬 あしたもよろし ゆうべもよろし」からとられたものだろう。大きな句碑の前に小さな石碑がある。「飲みたい水が音をたてていた」といった句が刻まれるようだ。
山頭火は昭和3年(1928)、46歳の時と昭和14年(1839)57歳の時の二度、四国遍路の旅に出ている。が、『山行水行』は「昭和9年の秋、其中庵にて」とあり、そこに収められている句は「昨年の八月から今年の十月」までに詠んだ句の中から選んだものとある。昭和8年から9年にかけて山頭火は広島、神戸、京都、名古屋をへて木曽を旅しているが、四国遍路にはでていない。石碑の句は四国遍路とも出釈迦寺ともかかわりはなく、その描く光景ゆえに選ばれたもののようだ。実際、「飲みたい水が音をたてていた」も『山行水行』の木曽三句のひとつであった。
修行大師立像
石段の途中には「四国霊場 第七十二番 我拝師山 出釈迦寺」と刻まれた寺名碑と大きな修行大師立像が二体。山頭火の句碑同様、それほど古いものではないようだが、我拝師山を「借景」にした姿はなかなか、いい。
子宝の三鈷の松
参道脇に「子宝の三鈷の松」。「この松は雄の松で、『子宝の三鈷の松』と呼ばれています。親の大樹から、たくさんの小松が生まれ、また葉は三鈷の松になっている、珍しい松です」とある。
Wikipediaによれば、「三鈷」とは「密教の法具としての金剛杵は,この武器が堅固であらゆるものを摧破(さいは)するところから,煩悩を破る悟りの智慧の象徴として採り入れられたもので,両端の刃先の形によって,1本だけ鋭くとがった刃先の独鈷(独股)(とつこ),その刃先に両側から勾(かぎ)形に湾曲した刃を2本備えた三鈷(三股)」とあった。
それはそれでいいのだが、それでは通常の松の葉って、どんな形状だったっけ。 チェックすると二本で一組となっているのが多いとある。三鈷の松は三本で一組となっている松の葉のようだ。
当日は特に気にすることもなく通り過ぎたため、二本なのか三本なのか確認はしていないのだが、本家本元の高野山の三鈷の松も通常は二葉であるが、中に三葉のものも見つかるという。
そもそも、三鈷の松の由来は、空海が真言密教を中国で習得した後、日本のどこに道場を開いたものやらと、密教法具の三鈷杵を明州の浜より空高く投げたところ、帰国後空海が修行の地を探して訪れた高野山にて松にひっかかっている三鈷杵を見つけ、故にその地を真言密教の道場としたということにある。
ということは、三葉の松というより、三鈷杵がひっかかっていた故の「三鈷の松」の比重のほうが重い、ということだろう。それがいつしか高野山の三鈷の松にあやかって、この地に限らず各地に「三鈷の形をした松葉」となって広まったのだろう、かと。傍には安産地蔵尊も立つ。
山門手前の道標
坂を上ると山門手前、右手にひらべったい石に刻まれた道標がある。手印と共に「七十三番ココデス 捨身ケ嶽十三丁 七十二番ソコデス 七十四番十六丁」と刻まれる。
結構多くの道標を見てきたが、「ココデス ソコデス」はじめてのような気がする。

「捨身(シャシン)ケ嶽禅定」の案内
小ぶりな山門を潜ると、境内左手に「捨身(シャシン)ケ嶽禅定」の案内がある。断崖絶壁を落ちる稚児とそれを受け止めようとする天女の絵と共に、「第七十三番 出釈迦寺 奥の院 捨身(シャシン)ケ嶽禅定 弘法大師(幼名 真魚 まお)七才の時救世の大誓願を立て、五岳の随一たる当山に登り三世の諸仏十方向の薩埵を念じ、「我仏法に入りて一切のの衆生を済度せんと欲す。吾願成就するものならば釈迦牟尼世尊影現して證明を与え給へ成就せざるものならば一命を捨てて此身を諸仏に供養し奉る」と唱え断崖絶壁の頂より白雲も迷う谷底に身を跳らし飛び給いし紫雲の湧き起せらる中に大光明を放って釈迦牟尼仏百宝の蓮花に座しご出現せられ羽衣を身に纏うた天女天降り大師を抱き止め「一生成仏」と宣り玉ふ。
この神秘不可思議なる仏陀の霊光に感謝し霊験を併給に記念し、世の人々に仏縁を結ばしめんが為に捨身ケ嶽(しゃしんがだけ)に寺を建立し、ご本尊釈迦牟尼仏を安置せられ捨身誓願の霊場として多くの善男善女の信仰の中心となっている霊山です」とある。
捨身飼虎(しゃしんしこ)説話
この稚児捨身のベースは有名な法隆寺の玉虫厨子に描かれる「捨身飼虎」の説話にあるとする。お釈迦さまがその前世にて薩埵王子と称された時、山中にて餓死しかかっていた親子の虎を救うべく、高所より身を投げ飢えた虎にその身を供した。このおこない故に王子は生まれ変わってお釈迦様となった言う。 幼き大師が身を投じた我拝師山も、かつては倭斯濃山と称されたと言う。「わしのやま」とはお釈迦さまゆかりの霊鷲山(りょうじゅせん)の和名である。この倭斯濃山も後付けの命名かもしれない。
捨身飼虎説話、山名が相まって、空海とお釈迦様の「つながり」を強める意図をもって後世に「つくられた」お話ではあろうか。

本堂・大師堂・地蔵堂(虚空蔵菩薩堂とも)
境内に入ると西側に本堂、その右手に大師堂、一段高いところに地蔵堂(虚空蔵菩薩堂?)が建つ。すべて東に向く。
寺名は我拝師山求聞持院出釈迦寺と称す。寺伝によれば、空海が釈迦如来出現の霊験により我拝師山頂(捨身ケ嶽)の少し下、現在の奥の院の地に堂宇を建て、自ら釈迦如来を刻み本尊となす。これが出釈迦寺の由来だろう。
山号となる我拝師山も釈迦如来出現をもって、倭斯濃山(これも後付けの命名かもしれないが)を改め我拝師山、私(空海)が御師である釈迦如来を拝した山としたのだろう。
求聞持院については、境内に「出釈迦寺は弘法大師七歳の捨身誓願の霊跡であるとともに大師は四国八十八ヶ所ご開創の砌り、再度当地に巡錫、虚空蔵求聞持の法を修行されました。故に当山院号を求聞持院と号します。この求聞持の法とは虚空蔵菩薩のご真言を二百遍お唱えする法でそのご修行のお姿が当山求聞持大師です。
この求聞持の法を修する事によって一切の教法の文義悉く暗記する事が出来るといわれています。故に学業成就又物忘れの多い方は是非ご利益をいただいて下さい」といった案内もあった」との求聞持院の由来も案内していた。
西行法師歌碑
求聞持大師像の横に西行法師歌碑の案内。小ぶりな石碑に「西行法師歌碑(江戸時代1779)七十三番出釈迦寺當山奥之院弘法大師道所禅定場江是ヨリ十三丁 南無阿弥陀佛行導所(梵字)西行上人
めぐりあはん ことのちぎりぞ たのもしき きびしき山の ちかいみるかな 安政八年(後略)施主 和州(後略)美野田弥八郎(後略)」と刻まれる。江戸時代に大和の国の美野田弥八郎さんによって建てられたもの。

歌は『山家集』に次の詞書とともに載る(注;原文はひらがな書):「曼荼羅寺の行道所へ登るは、世の大事にて、手を立てたるやうなり。大師の、御経書きて埋ませおはしましたる山の峯なり。坊の外は、一丈ばかりなる壇築きて建てられたり。それへ日毎に登らせおはしまして、行道しおはしましけると、申し伝へたり。巡り行道すべきやうに、壇も二重に築き廻されたり。登るほどの危ふさ、ことに大事なり。構へて這ひまはり着きて

めぐり逢はんことの契りぞありがたき厳しき山の誓ひ見るにも

歌の意味は「その昔弘法大師は、この地で釈迦如来にめぐりあわれたという。その契りのありがたさと同じく、自分も今大師行道の跡にめぐり逢うことのできた因縁をありがたく思う。この嶮しい山をよじ登り行道を行われた大師誓願の跡に立ち、大師を偲ぶにつけても」とのこと。
仁安3年(1168)、西行法師は白峰御陵を訪ね、その後善通寺の弘法大師の遺跡を巡り、この地に庵を結んだ。その折に詠まれた歌であろう。
曼荼羅寺奥の院
現在本堂、大師堂は山裾の地に建つが、上述の如く当初の堂宇は現在の奥の院の地にあり曼荼羅寺の奥の院であったようだ
承応2年(1653)、澄禅の『四国遍路日記』には「出釈迦山エ上ル(中略)少シ平成所在、是昔ノ堂ノ跡ナリ、釈迦如来石像、文殊菩薩石像ナト在、近年堂ヲ造立シタレバ、魔風起テ吹崩ナルト也。(中略)曼荼羅寺ノ奥院ト可云山也」とあり、山腹のお堂を曼荼羅寺の奥の院と記している。
寂本の『四国遍礼霊場記』。山上に堂跡。
麓に銅はあるが寺名はない。
元禄2年(1689)に書かれた寂本の『四国遍礼霊場記』にも出釈迦寺を我拝師山山上とし、堂はなく、これも曼荼羅寺奥の院とした上で、「宗善という入道が麓に寺を建立したそうだ」の一文を付けている。
同じ頃の真念の『四国遍路道指南』にも、「この寺の札所は山上にあるが、由緒あって堂宇はない。そのため近年になって麓に堂、寺を建て、札を納める」とある。
曼荼羅寺の奥の院から出釈迦寺として札所となったのは、この頃以降のことのようであり、上述西行の歌碑に「七十三番出釈迦寺當山奥之院」とあるように安永8年(1779)にはこの地に出釈迦寺が建ち、山上の堂宇は出釈迦寺奥の院となっている。
捨身ケ嶽遥拝所
本堂より一段高い地蔵堂(虚空蔵堂?)へと石段を上ると、捨身ケ嶽遥拝所がある。大師像の横に石碑があり、そこには身を投げる空海とそれを救う釈迦如来と天女の図が描かれるとのことだが、風雨に晒され絵柄を見ることができなかった。我拝師山をよく見れば、奥の院らしき建物も見える。遥拝所横に立つ石仏は虚空蔵菩薩と言う。




出釈迦寺から奥の院禅定へ

奥の院禅定に向かう;10時10分
境内から成り行きで山へと向かう簡易舗装の道を奥の院禅定へと向かう。道端には舟形石仏が立つ。四国遍路の札所の本尊石像のようだ。道はほどなく出釈迦寺東の駐車場と出釈迦寺の間を南に上ってきた車道と合流する。

奥の院禅定参道口駐車場;10時13分
割と新しい石灯籠の建ち並ぶ駐車場入口に、これも新しく立てられたような西行歌碑がある。「筆の山 かき登りても見つるかな 苔の下なる岩のけしきを」と刻まれるこの歌は、出釈迦寺で見た西行の歌と同じく『山家集』におさめられたものである。 
西行法師歌碑
詞書には「やがてそれが上は、大師の御師(釈迦如来)に逢ひまゐらせさせおはしましたる峯なり。「わがはいしさ」と、その山をば申すなり。その辺の人は「わがはいし」とぞ申しならひたる。山文字をば捨てて申さず。また筆の山とも名付けたり。遠くて見れば、筆に似て、まろまろと山の峯の先のとがりたるやうなるを、申し慣はしたるなめり。
行道所より、構へてかきつき登りて、峯にまゐりたれば、師にあはせおはしましたる所のしるしに、塔を建ておはしましたりけり。塔の礎はかりなく大きなり。高野の大塔などばかりなりける塔の跡と実。苔は深く埋みたれども、石大きにして、あらはに見ゆ。筆の山と申す名につきて」とあり歌(筆の山にかき登りても見つるかな苔の下なる岩の気色を)に続く。

歌に筆の山と記される山は、当時我拝師山のことを筆の山とも称したとある(西行の思い違いかもしれない)。現在我拝師山と並び北東に「筆ノ山」があり、詞書を読まなければ少々混乱しそう。

現在の奥の院のあるところには、かつて高野山の大塔のような塔が建っていたようだが、西行道行の頃には既になく、苔むしたその跡が残るのみ、であったようだ。
歌の意味は「筆の山に、筆で字を書きつけるごとくかきついて登り、見たことだ。今は苔の下に埋もれてしまっている塔の礎である大きな岩のさまを」。
なお、「やがてそれが上」とは上述境内の西行歌碑の詞書を踏まえたものである。

土径であろうとの予想に反し、舗装された奥の院参道を進む。寄進された石灯籠の多さに、このお寺さまへの信仰のほどが知られる。石灯籠は結構新しいが、四国遍路札所の舟形石仏は古い趣。19番札所、立江寺の本尊延命地蔵菩薩らしき石仏を見遣りながら進むと、参道左手に与謝野晶子・寛庭園がある。

与謝野晶子・寛庭園;10時15分
石碑には「讃岐路は 浄土めきたり 秋の日の五岳のおくに おつることさへ   晶子
昭和6年(1931)に善通寺で詠んだ歌。当時の善通寺高等女学校で講演を行った。この歌には善通寺五岳と讃岐の風土が想いを込めて詠まれている。晶子自筆の色紙は当時善通寺高等女学校の教諭であった武内正躬氏が所蔵していたもので、平成18年に発見された」といったことが刻まれていた。
石碑の横には与謝野晶子・寛の歌碑が立つ。
「讃岐路は浄土めきたり秋の日の五岳のおくにおつることさへ 晶子」
「たもとふり西行上人も見しるらん飯能の山のわが道に立つ  寛」
と刻まれるようである。
この公園は平成18年(2006)に造られたという。ということは、比較的新しめの石灯籠や舗装された参道はこの頃に建立・整備されたのだろうか。
●讃岐五岳
讃岐五岳とは札所・善通寺の裏から連なる山並み。香色山〔こうしきざん〕、筆の山、我拝師山、中山、火上山〔ひかみやま〕という五つの山のことを指す。なお、善通寺の山号は五岳山とする。大師修行の場とされる五岳ゆえの山号ではあろう。

参道を上る
石灯篭の間に菩提樹。「昔、お釈迦さまが、この樹下に座して覚りを開らかれた為にこの名がついた、神聖な木」といった案内を見やりながら参道を上る。右手には札所名は読めないが大日如来の石仏。
左手の石灯篭の竿を見ると、「秋風や 空海法師をさなくて 見たる讃岐の碧瑠璃の空 秋風遍路」と与謝野晶子、「善通寺 秋のゆうべに我が立つも 大師若くてふみませる土 秋風遍路」と与謝野寛の句が、家内安全や先祖供養などを記す石灯篭の中に見える。
さらに右手には御神木 ひのき(香川の保存木) の案内があり、次いで澤田ふじ子さんの『遍照の海』より選句された句碑が立てられ、「わが許に大師(ひと)ありますや遍路道」と刻まれる。なんだかもりだくさん。

柳の水;10時22分
その先に柳の水。禅定手水場 薬師瑠璃光如来と書かれた石碑が建つ。大師御加持水とも伝わるこの水場、当日目にすることはなかったのだが、「この柳の水は古くより多くの不治の病の人々を救った寺伝にもある霊験水です。現在も癌等病気の方が薬を飲む為に他県よりこの霊水に対し、三礼、おつとめをして水をくみにこられます。霊験水の近くでは決して不浄なことはしないで下さい。霊験水の病苦がつきます。禅定信徒総代」といった案内もある(あった?)ようだ。薬師瑠璃光如来の石碑が建つ所以である。

西行法師禅定御遺跡;10時23分
柳の水のすぐ上に西行法師禅定御遺跡。特段の説明はない。その右手には鎌倉時代の高野山の碩学の僧、道範阿闍梨の歌碑が立ち、 「鷲の山つねにすむなる夜半の月 きたりて照らす峯にぞありける」とある。寛元元年(1243)に禅定参拝の際に詠んだ句。一時期讃岐に流されたというからその折のことだろう。ということは、この頃、我拝師山は上述、鷲の山(倭斯濃山)と呼ばれていたのだろう。


参詣道 世坂;10時28分
道に「参詣道 世坂」と刻まれた石碑が建つ。その下に「大師行道所に至る 世に世坂と号す  道範阿闍梨 寛元元年(1243)九月二十一日参詣 同阿闍梨「南海流浪記」より」とある。
それはそれでいいのだが、何故世坂が不明。五来重氏によると、お接待の施物が置かれていたので「施坂」。それが転化しえ「世坂」とも。もっとも空海の出自である佐伯氏の氏寺である曼陀羅寺は、その昔「世坂寺」と称されたようであり、また前述の道範阿闍梨も『南海流浪記』には、「大師の御行道所に至る。世に世坂参詣と号す」と「世坂参詣」と記す。なんらか空海との繋がりをい感じる「世坂」ではある。単なる妄想。

世坂を上ると里の景色も見えてくる。石仏を見やりながら進むと「出釈迦寺祥桜」の案内。一木に一重と八重が咲く珍しい桜のようだ。
その先に「六甲の名花 幻の「七段花」の案内。江戸時代にオランダ人シーボルトが『日本植物誌』で紹介して以来、誰もがその実物を見たことがなく、幻の花と呼ばれていたが、昭和34年(1955)神戸の六甲山で見つかり栽培されている花とのこと。花音痴には吉祥桜共々、その有難さはあまりわからない。
里を背にした六十番札所・横峰寺の石仏(10時29分)を越した先で舗装道から右に折れる土径がある。







西行法師腰掛石;10時33分
そろそろ舗装も切れるのかと土径を進む。六十一番札所・香園寺の石仏の佇む道を進むと、ほどなく舗装道に合流。一瞬の土道であった。そこに西行法師腰掛岩があった。誰それの腰掛岩は散歩をはじめていくつ出合っただろう。


風穴
道の右手に高野杉を見遣りながら進むと、同じく道の右手に「風穴」の案内。とりたてて穴はみえないのだが、案内石碑を囲む石垣の間から風が送られてくるのだろうか。風穴の先には稚児桜があった。







の遠望;10時39分
急坂をこの辺りまで上ると里の景色が広がる。讃岐平野と瀬戸の海、先般、弥谷寺から海岸寺道を辿る途中に立ち寄った天霧山が一望。古き遍路札所の石仏が趣を添える。



奥の院参拝者駐車場;10時43分
左手には奥の院の堂宇もはっきりと見えてくる。結構急峻な岩場の上に建っている。ほどなく前方に山門、左手に参詣者駐車場が見えてくる。毎月、旧暦の5日に奥の院で法要があるとのこと。そのために車道、駐車場が整備されたのだろうか。山道を想定していたのだが、結局奥の院まで舗装された道が続いていた。
それにしても、この急坂を車で上るにはちょっと「勇気」がいるかも。昔神戸の御影辺りで歩いた屏風のような急坂を思い出した。


奥の院

奥の院山門;10時45分
奥の院山門に到着。出釈迦寺の境内を離れ歩きだしてからおおよそ30分かかった。山門には「捨身ケ嶽禅定」、石碑には「四国奥の院第一 禅定」とあった。
禅定
禅はサンスクリットの音訳、定は漢訳。禅すなわち定ということだろうか、意味は、精神を集中し、三昧(さんまい)に入り、寂静の心境に達すること、霊山に上り修行すること」と「コトバンク」にあった。
五岳山縦走ルート
山門右手に五岳山縦走ルートの案内がある。香色山、筆ノ山、我拝師山、中山、 火上山と続く大師ゆかりの聖域を辿るルート。善通寺のお供えや寺の造営以外に草木の伐採、また狩猟は禁じられていたとある。善通寺の山号が五岳山とされる所以を再確認。
我拝師山の説明に、「奥の院から50mほど岩場をよじ登った捨身ケ嶽は、弘法大師が身を投げたところと伝えられている。現在は岩場の上に護摩壇と稚児大師が祀られている」とある。高所恐怖症には少々キツイが、ちょっと寄ってみようと思う。 案内板脇には南に下るような「有坂方面 程坂下山道」の案内に「出釈迦寺迄2時間」とある。程坂は大日峠を超えてきた県道49号の辺りにある。そこから有岡方面へと北東に向かい、我拝師山と筆の山の鞍部を抜けて出釈迦寺に出るルートなのだろうか?案内の意図がわかりにくい。


摩崖摩崖五輪塔:10時48分
山門を潜り奥の院のお堂に進む。ここも道は舗装されていた。道の右手の大岩には張り付くように石仏が祀られている。その大岩の傍に「摩崖 五輪塔 室町時代初期」とある。どこだろうと探すと、大岩の表面に「五輪塔」らしきものがうっすら見える。これって、弥谷寺での摩崖五輪塔を見ていたので、なんとなくわかったが、そうでなければわからなかった、かも。


鐘楼;10時52分
お堂手前の岩場に鐘楼。先日高屋神社で天空の鳥居を見たが、これも天空の鐘楼といったもの。屹立する崖端に建つ。
鐘楼の隅、崖際に「層塔 奈良時代-平安時代中期」とある。古い趣。笠を三層に重ね、笠の上に相輪が立つ。相輪の上部が欠けているように見える。


鐘楼を乗せる大岩の表面には南北朝時代の摩崖五輪塔が刻まれる。これも初めて見る人には、よくわからない、かも。
五輪塔
下から四角の方形、球形、宝形屋根型、半球形、宝珠型の石が積まれるが、それぞれ、地・水・火・風・空といった古代インドで宇宙を構成する五大要素のことを象徴する、という。もっとも、五輪塔は本家インドにも、経由地中国にも存在しないようであり、平安時代後半に供養塔として日本で造立がはじまったようである。



粟島社・石鉄大神宮
鐘楼を支える大岩下に粟島社と石鉄太神宮の祠があった。石鉄とは石鎚神社のことだろうが、「太神宮」という名称はあまりみたことがない。また、粟島社とこの奥の院のかかわりも、よくわからない。少し寝たしておく。













根本御堂(ねもとみどう);10時53分
鐘楼の石段を下り、お堂にお参り。根本御堂(ねもとみどう)と称される。お堂の正面に「弘法大師捨身誓願遺跡」「釈迦如来出現之霊場」大書された表札が左右に懸る。お堂は通夜堂お堂は通夜堂にもなっており、毎月15日の法要には泊まる信者で賑わう、と。
このお堂は昭和の初め頃、点在していた小堂を統合して建てられたとWikipediaにある。ここが300年頃前に麓に寺が移されるまでは札所であった。


弘法大師建立大塔の跡
お堂の前に石碑が建ち、「弘法大師建立大塔の跡」とある。裏には上述、西行の『山家集』の詞書の一部、「師にあはせおはしましたる所の標に、塔を建ておはしましたりけり。塔の礎はかりなく大きなり。高野の大塔などばかりなりける塔の跡見ゆ。苔は深く埋みたれども、石大きにして、露に見ゆ。西行法師『山家集』より 仁安二年(1167年)禅定参拝」が刻まれる。
釈迦如来出現の標として、大師は大塔を建立したが、その建物は今はなく、礎石が苔むして埋もれている、と。


中務茂兵衛の名を刻んだ水盤
お堂の前に立つ水盤には正面に「奉納 中務茂兵衛」と刻まれていた。
〇中務茂兵衛
中務茂兵衛。本名:中司(なかつかさ)亀吉。弘化2年(1845)周防(すおう)国大島郡椋野村 (現山口県久賀町椋野)で生まれた中務茂兵衛は、22歳の時に四国霊場巡礼をはじめ、大正11年(1922)に78歳で亡くなるまで生涯巡礼の旅を続け、実に280回もの巡礼遍路行を行った。四国遍路はおおよそ1,400キロと言うから、高松と東京を往復するくらいの距離である。一周するのに2カ月から3カ月かかるだろうから、1年で5回の遍路行が平均であろうから、280回を5で割ると56年。人生のすべてを遍路行に捧げている。

奥の院から御行場へ

御行場入口;10時54分
奥の院山門傍の五岳山縦走ルートの我拝師山の案内にあった,大師捨身の捨身ケ嶽に向かう。アプローチを探すと、お堂の下に通路が抜けており、「御行場入口」の案内があった。
岩倉大師 
お堂の下を潜り堂裏に。お堂を裏に出たところに、岩倉大師という稚児大師が祀られる岩窟があったようだが見逃した。行場までは険路のためこの地にも稚児大師を安置した、と。禅定行場の篤信者からの寄進によるとのことである。


鎖場;10時55分
奥の岩場に偶然、
目治篭彫不動尊が写っていた
お堂の裏手に出ると眼前に岩場が広がる。岩場の入口には注連縄が張られ、いかにも修行の行場といった趣。スタートするとほどなく鎖場に。斜度はキツイが鎖を助けに岩場を進む。
目治篭彫不動尊(めなおしかごほりふどうそん)
当日は気づかなかったのだが、岩場南面の岩壁に目治篭彫不動尊(めなおしかごほりふどうそん)が彫られている、と。
明治の頃、重い目の病に冒された石工がこの捨身ケ嶽で行により病は回復、 石工はお大師さんへのお礼へと捨身ケ嶽の崖上から籠を吊るし、年月をかけてお不動さんを崖に彫り上げた、とのこと。メモの段階で写真を見ていると、偶然にも岩壁に彫られたお不動さまが鬱っていた。

捨身ケ嶽の御行場:11時
稚児大師
護摩壇
第一の鎖場を抜け、左手が切り立った崖の箇所(2,3mといったほんの僅かな距離)をへっぴり腰で山肌の小枝を握り、そこから岩場に這い上がる。岩場には鎖が整備されており、鎖を握ってやっと一安心。
岩場を上ると狭い平場に出る。北の崖面には稚児大師像。西に向かって護摩壇となっている。ここが幼き大師が身を投げたと伝わる「捨身ケ嶽の御行場」である。
「弘法大師旧跡 護摩壇」と刻まれた石碑の碕、崖際に小さな大師像が佇む。東は我拝師山頂に遮られ見通しはよくないが、南北と西の眺望は誠に、いい。高所恐怖症であり少々おっかなびっくりの岩場上りであったが、来てよかったと思う。
記事などを見ると、御行場をその厳しき岩場ゆえにパスしている方も多いようだが、わたしでもなんとか行けるので、大概の方は問題なく登れると思う。
捨身ケ嶽誓願の聖地
護摩壇のある平場のすぐ上に「捨身ケ嶽誓願の聖地」の石碑と共に幾多の石仏が並ぶ。何となく厳かな雰囲気を感じる。我拝師山頂はその先に見えるが、行場で十分とここで長めの休憩をとる。


出釈迦寺に戻る;12時
休憩を済ませ、再びおっかなびっくりで鎖を握りしめて岩場を下り、切り立った崖の箇所を右手を見ないように進み、鎖場を下り奥の院へ戻る。 後は来た道を下り出釈迦寺に戻る。時間は12時。往復おおよそ2時間の奥の院禅定散歩となった。

西行庵
出釈迦寺を離れ次の札所に向かう前、出釈迦寺の近くにある西行庵に立ち寄る。 出釈迦寺から遍路道を少し北に戻り、𠮷原大師堂対面に西に向かう道がある。その角にある「西行庵」の案内に従い道なりに西南に進む。途中、分岐に案内がなくちょっと戸惑ったが、なんとか西行庵に着く。おおよそ1キロ弱といったところだろうか。庵は竹藪の中に建つ。銅板葺きの庵は比較的新しい。再建されたもの。二間四方の広さであった。
庵の傍にあった案内には「平安時代を代表する歌人西行法師は、元永元年(1118)武士の家に生まれ俗名を佐藤義清(のりきよ)と名乗りました。
十八歳で京都御所を警護する「北面の武士」となり文武両道で活躍していましたが、二十三歳の時、突然出家して仏門に入り、僧「西行」となり諸国行脚の旅を重ねました。
仁安二年(1167)五十歳の頃、讃岐への旅に出、恩顧を受けた崇徳上皇の白峰御陵に参拝したあと、弘法大師の遺徳を偲んで善通寺を訪れ、大師が修行を積んだ我拝師山を仰ぐ当地に庵を結び(水茎の岡)、数年間(「西讃府志」では五年間)逗留しました。また、曼荼羅寺境内にも昼寝石や傘懸桜など西行に関わる伝承地が残されています。
曇りなき 山にて海の 月見れば 島ぞ氷の 絶え間なりける(山家集) 庵の跡は荒廃していましたが、地元有志が浄財を集め、西行法師800年忌にあたる平成元年(1989)、現在の「西行庵」を再建しました。 吉原地区連合自治会、吉原郷土研究か会、監修 善通寺市教育委員会」とあった。

歌に「島ぞ氷の 絶え間なりける」と詠まれる。氷と瀬戸の海は結びつき難い。どこか別の地で詠まれたものだろうか。チェックする。
『山家集』に「大師のおはしましける御あたりの山に庵結びて住みけるに、月いと明くて、海の方曇りなく見えければ
曇りなき山にて海の月見れば島ぞ氷の絶え間なりける」とある。
どうやらこの地で詠んだ歌のようだ。
庵の前面には天霧山が聳え、瀬戸の海は見えないが、どこか近くの山に上り詠んだのだろう、

この歌に続いて「山家集」は、次の歌を載せている。
「住みけるままに、庵いとあはれに覚えて
今よりはいとはじ命あればこそかかる住まひのあはれをも知れ」
厳しい庵の日々も、命あればこそ、と詠う。

更に、この歌に続けて
「庵の前に松の立てりけるを見て
ここをまたわれ住み憂きてうかれなば松はひとりにならんとすらん」とある。
この庵を去った後、松が取り残されてしまう、と詠っている。

西行の歌碑
庵の左手、なにかの台石の正面と側面に3首の歌が刻まれる。 「山さとにうき世いとわむ友もがな くやしくすぎし昔かたらむ」 「山里に秋の来にしと思ひしか 苦しかりける木枯の風」 「山里に人来る世とは思わねど とはるることのうとくなり行く」 とのことである。
石碑
庵の脇には「西行上人いほり跡」と刻まれた古い石碑も残っていた。

七十四番札所 甲山寺へ


西行庵へと寄り道したが、七十三番札所 出釈迦寺から七十四番札所 甲山寺への道ははっきりしない。手掛かりとしては海岸寺道を廻り曼陀羅寺へと進む遍路道、県道48号を南に折れ、曼陀羅寺へと向かう途中道端に立つ、茂兵衛道標(88度目)に「右 甲山寺」とあった。この道標まで戻り、甲山寺を目指すことにする。

西行庵分岐点の自然石道標
西行庵を離れ、少し西に進んだ後、北に丘を下る舗装された道を進み、曼陀羅道を曼陀羅寺へと歩いた途中にあった西行庵分岐点の自然石道標まで戻る。







茂兵衛道標(88度目)
西行庵分岐点の自然石道標を右に折れ、曼陀羅寺を目指し山門前の道を北に向かい茂兵衛道標(88度目)へと戻る。

県道48号沿いの茂兵衛道標(241度目)
県道48号へと北に進み、県道を右折ししばらく県道48号を東に進む。県道48号に県道217号が北から合流するT字路に茂兵衛道標(241度目)。この道標には「曼陀羅寺 出釈迦寺 弥谷寺」が刻まれ、特段甲山寺への遍路道を示すものではない。
甲山寺までおおよそ1キロ。甲山寺たる所以の標高87mの小高い独立丘陵である甲山も見える。現在では県道48号をそのまま東に進み甲山寺に向かうお遍路さんも多いようだが、甲山北麓の広田川傍に標石があるとのこと。その場所へと続く道を進むことにする。


弘田川沿いの標石
県道217号とのT字路を越えてすぐ、県道から左に入る道がある。左に折れると直ぐ「四国のみち」の石標があり、そこから東へ0.9キロの表示がある。甲山北麓へと真っすぐに東に続く道を進むと、弘田川へとあたる。その角に「甲山寺0.1km 出釈迦寺2.9km」と記された四国のみちの石標。この道筋が出釈迦っ寺からの遍路道であったようだ。
「四国のみち」の脇に「弥谷寺 へん路みち 弘化四年」と刻まれた標石があった。上述弘田川傍の標石がこれである。

七十四番札所 甲山寺

弘田川にそって少し上流に進むと、右手に甲山寺がある。甲山寺脇の水門から取水した用水路を斜めに覆うコンクリート蓋の先に「四国霊場 第七十四番」 「医王山多宝院 甲山寺」と刻まれた比較的新しい寺名碑が左右に並ぶ。
中門
境内へと進むと右に直角に曲がるように中門がある。なんとなく不自然なアプローチ。昔の境内図には弘田川から真っすぐにこの門へのアプローチがある。
この中門が昔の山門ではなかろうか。平成20年(2008)に、境内南の砕砂工場側、広い駐車場がある側に山門が建てられた、と言う。そのために現在では中門とされているのではないだろうか。




中門の2基の標石
中門(旧山門)前に2基の標石。右手は手印と共に「出釈迦寺 善通寺 大正四年」と刻まれる。手印からすれば、今回辿った甲山北麓裾を辿るルートが 遍路道のようだ。
門の左手には茂兵衛道標。「是ヨリ善通寺ㇸ十丁 明治廿一年」と刻まれる。茂兵衛100度目の四国巡礼のもの。







本堂
正面石段を上ると本堂。天正年間の兵火により伽藍焼失。『四国遍礼巡礼記(1689)』には「昔の大伽藍の所いえども荒涼せり」とあるが享保20年(1735)に再建された。本尊は薬師如来。弘仁12年(821)、空海が満濃池の築池別当の勅命を受けこの地に。工事完成を祈願し薬師如来を刻み仮堂に安置。工事が完成し朝廷よりくだされた銭二万をもって堂塔を建て、薬師如来を安置した、と。


香台
本堂前にある香台は「伊藤萬蔵寄進、周旋人中務茂兵衛 明治三十年」と刻まれる。札所観音寺では伊藤万蔵寄進の石灯篭に出会った。また、57番札所永福寺では同じく萬蔵寄進の香台を見た。
伊藤萬蔵
伊藤 萬蔵(いとう まんぞう、1833年(天保4年) -1927年(昭和2年)1月28日)は、尾張国出身の実業家、篤志家。丁稚奉公を経て、名古屋城下塩町四丁目において「平野屋」の屋号で開業。名古屋実業界において力をつけ、名古屋米商所設立に際して、発起人に名を連ねる。のち、各地の寺社に寄進を繰り返したことで知られる。

大師堂・毘沙門洞窟
本堂の左、一段高いところに鐘楼と大師堂。大師堂は寛保2年(1742)再建されたもの。
大師堂の左に毘沙門天を祀る洞窟がある。洞窟に入ると中央に石の毘沙門天が祀られる、と。

寺伝に拠れば、空海が善通寺と曼陀羅寺の間に霊地を探していると、この岩窟から老婆が現れ、この地に堂塔を建てよと告げたため、大師は毘沙門天を刻み洞窟に安置した。これがこのお寺のはじまりとのこと。 後年、この寺を甲山寺と名付けたのは、山容が毘沙門天の甲に似ていた故、という。





西国三十三所石造巡礼道
毘沙門洞窟の左に石碑があり、「従是 西国三十三所石造巡礼道」と刻まれる。江戸末期に開かれたという甲山を巡る巡礼道に上る。土径に並ぶ西国霊場の観音様にご挨拶しながら進むと表参道と裏参道と記された分岐。
とりあえず表参道を進むと独立丘陵頂上の平坦地に出る。頂上の草叢の中に菊の御紋とともに「神武天皇孝明天皇震儀」と刻まれた石が立っていた。
神武天皇孝明天皇震儀石
震儀の意味は不詳。漢語には「帝王の儀容」とある。儀礼にのっとったお姿といった意味だろうか。それがなにか分からないが、天皇の退位の折などに、祖先神である初代神武天王と高祖父、祖父などペアでその御陵に報告されるようだ。この石碑の建立時期は明治時代ともされるので、明治天皇の即位か退位の折に、祖先神の神武天皇と父の孝明天皇をお祀りしたのだろうか。単なる妄想。根拠なし。
朝比奈弥太郎
この甲山には天霧城の出城があり、香川氏の武将朝比奈弥太郎が居を構えた、と。元禄年間三好氏との元禄合戦において勇猛ぶりを発揮するが、武運つたなく虚しくなった。

山頂から巡礼道を戻り、途中から裏参道に入る。道なりに進むが麓に下りる直前の竹林で道が消える。里が見えるため成り行きで進むと運よく石段があり、里道に戻る。そこは甲山北麓を廻る道であり、甲山寺の境内から少し北に下りていた。


七十四番 甲山寺から七十五番札所 善通寺へ

甲山寺から善通寺に向かう。距離にして1キロほど。境内を離れ、弘田川に架かる橋に向かう。と、橋の少し北、用水路取水水門や取水施設のあるところに標石が立つ。

弘田川の用水路施設傍に標石
標石には「弘法大師御誕生所善通寺伽藍 東 高松・仏生山、瀧宮」「南 金毘羅・善通寺道」「北 丸亀 多度津 金倉寺 塩屋御坊」と刻まれる。その位置は前述中門の真東。昔の境内図には弘田川から真っすぐに山門(現在の中門)に進む参道が描かれる。現在は塀で閉ざされ、山門も南の駐車場に移っているが、ここがかつての三門へのアプロ―チだろう。
駐車場の石柱
また昔の記事には、山門へは瑠璃光橋という石橋を渡ったという。その石橋だが、善通寺第十一師団の火薬庫があったという現在の駐車場に、唐突な感じで3基の石柱が並べられていた。確かめたわけではないのだが、いかにもかつての石橋らしき「雰囲気」を醸し出していた。





T字路の標石
橋を渡り先に進むとT字路にあたる。その角に標石。手印と共に「へんろ」の文字が刻まれる。手印に従い右に折れ弘田川に注ぐ支流を渡り、道なりに左折。更に道なりに右折し「国立病院機構こどもとおとなの医療センター」前の通りに出る。



国立病院機構こどもとおとなの医療センター
かつての遍路道はここから南へと善通寺に向かったのだろうが、この地の南には明治(1897)に善通寺第十一師団の衛戍病院が建ち、現在も国立南病院機構こどもとおとなの医療センターの敷地となり通り抜けはできない。医療センターの敷地の北に沿う道を進み、敷地が切れる東北端角から南へ進む道へと迂回する。
国立病院機構こどもとおとなの医療センター
「こともとおとなの」って、あたりまえのことをわざわざ明記したようで、なんだか面白い。陸軍の衛戍病院が戦後国立善通寺病院と国立療養所小児病院と分かれたものが、平成25年(2013)に両病院が統合されるに際し、「合わせ技」の命名としたのだろうか。

仙遊寺
医療センターの少し東に仙遊寺がある。野木将軍ゆかりのお堂ともあるので、ちょっと立ち寄り。医療センター北端の道を進み、敷地に沿って南に曲がることなくそのまま東に少し入ると最近建て替えられたような新しいお堂が建つ。平成26年(2014)のGoogle Street Viewにはお堂がない。それ以降に建てられたということだろう。
境内入り口には「弘法大師幼児霊場 仙遊寺」とある。お堂の傍にあった案内は昭和の半ばころに書かれたもののようで、今風にまとめてみる。
仙遊寺縁起
「仙遊寺縁起 この寺は大師幼少の頃の霊場であり、幼くして崇仏の念のつよかった大師は、5,6歳の頃から泥土で仏像、御堂をつくり礼拝したと伝わる。
ある日、屏風ヶ浦の辺りを巡視した問民苦使(もんみんくんし、地方監察官)が、遊ぶ大師の姿を見て、跪づく。随員がその訳を尋ねると、「この子は凡人にあらず、四天王が白蓋(びゃっかい)を捧げてこれを護れと聞き伝える」と言った。
里人は大師を神童と称えて、後世にこの礼拝した土地を仙遊ヶ原として、此処に本尊・地蔵菩薩を安置して旧跡としたとされている。なお、この本尊は「夜泣地蔵」と申し、各所より沢山の人が礼拝に訪れる」とある。弘法大師幼児霊場の所以である。白蓋とは白い絹で張った天蓋のこと。
乃木将軍
案内には続けて、「また、かつて日本軍の第十一師団の練兵場を造るに際し、仙遊ヶ原の旧跡も他に移転したが、当時の師団長・乃木将軍は霊夢によって直ちに元の位置に戻すべしと、練兵場の中央に仙遊ヶ原の霊跡を保存し、現在に至る。
世界広しといえど、練兵場内に仏堂があったことは耳にしないとは。なお、昭和26年7月7日を以って寺名を旧跡に因んで仙遊寺と呼称することになった」とあった。
お堂の左手には「仙遊原古跡」の石碑と、その横に「第十一師団官下日露戦争戦病没者奉安殿」と書かれた小さなお堂が建っていた。

旧練兵場跡遺跡
練兵場でチェックしていると、頻繁に「旧練兵場跡遺跡」が登場する。西は上述医療センターから東は「国立研究開発法人農業・食品産業技術開発研究機構 西日本農業研究センター 四国研究センタ‐までの東西1キロ、南は四国学院大学辺りまでの0.5キロのおよそ45万平方キロという広大な地域に広がる縄文時代から中世にかけて、特に弥生時代前期から古墳時代にかけて栄えた大集落跡。大集落跡を示す数多くの建物遺構(竪穴式住居跡、掘立柱建物跡など)と共に、周辺地域との交流を示す物品・土器、鍛冶炉のある竪穴式住居といった鉄製品の加工をおこなった遺跡などが見つかっている、とのこと。
有岡古墳群
この善通寺地区、旧練兵場跡遺跡に限らず五岳山の南麓、弘田川が山間に流れ出る有岡地区には3世紀末から7世紀にかけての有岡古墳群があり、中でも野田古墳は全長44.5m.後円部径21mの前方後円墳。前方後円墳といえば大和朝廷、ということで、中央との深い関係が示される。
出釈迦寺の奥の院禅定でのハイキングコースの案内に、「有岡はこちらに下る」といった案内があり、有岡って何か見どころでもあるにだろか、などと思っていたのだが、古墳の里であったわけだ。

犬塚
医療センター北東角に戻り、ほんの少し進むと、東に入る細い道があり、その入り口に総本山善通寺の案内とともに「犬塚」右の矢印があった。 入り口には犬塚の案内があり、「この犬塚は、角礫凝灰岩製の笠塔婆で高さ2.5メートル、四方には風化しているが大日如来を示す梵字の"バンが刻まれている。作者は不明で鎌倉時代の作と推定される。
空海が唐から持ち帰った薬草(麦の種子)にまつわる義犬伝説があり、昭和六十二年七月二十一日、善通寺市の史跡として指定され、古くからの信仰を今に伝えている。善通寺市教育委員会」とある。

細路を奥に進むと屋根を葺いた小屋の中、玉垣に囲まれた笠塔婆が建っていた。 案内にあたように塔身に金剛界大日如来を示す「種子(しゅうじ、しゅじ)」が刻まれている。
種子は仏教において、仏尊を象徴する一音節の呪文(真言)。大日如来を示す種子(日本では種子梵字でもって表すことが普通のよう)の音読みが「バン(vam)]ということのようだ。
笠塔婆
種子が刻まれた笠塔婆は台の上に角柱の塔身を置き、その上に笠を乗せ、笠の上に宝珠・相輪を立たせる。板碑の先駆けとなる石塔と言われ、平安後期にはじまり、鎌倉後期に広まった。当初供養塔として建てられた笠塔婆も、時代とともにその目的も変わり、五穀豊穣などの民間信仰の対象となっていったようである。
義犬伝説
で、この笠塔婆にまつわる義犬伝説って? 「讃岐の伝説(草薙金四郎)」を参考に概略をまとめると;「空海が唐に留学していた時のこと。空海はある薬草を求めて天竺まで 行く。その薬草は厳しく管理され、薬草の畑には番人や番犬がいた。
空海は3粒の種を採取するも隠すところがない。仕方なく自分の股の肉を裂いてその中に隠すが、一匹の番犬が吠え立てる。番人は空海の体を調べるが、何も見つからない。怒った番人はその犬をたたき殺してしまった。
空海はその死骸を もらい受け、長安まで持ち帰り、真言密教の秘法をもってその犬を生き返らせた。犬は空海を慕い、仏教経典、薬草の種と共に帰朝する空海の供をし、その後も常に空海のそばを離れることなく、死んだあとはここに祀られた」。
どこが義犬かちょっとわかりにくいが、それよりなにより薬草の「種子」という言葉にフックがかかる。笠塔婆の「種子」と薬草の「種子」。このアナロジーにより「種子」にかかわるお話ができたのだろうか。何の根拠もないが、そうであれば誠に面白い。
ちなみに持ち帰った薬草は麦とある。ビタミン不足からくる脚気やくる病に効果があった「薬草」だったのだろう。その麦が讃岐名物のうどんのルーツでもある、とするのはあまりに空海贔屓となるのだろうか。

七十五番札所 善通寺の廿日橋
犬塚を出て道を南にくだり、右に本坊境内、左に善通寺伽藍を分ける廿日橋に到着。
本日は距離が短いわりに、あれこれ気になることも多くメモが長くなった。本日はここで打ち止め。札所善通寺のあれこれは次回のメモに回す。


弥谷寺から曼陀羅寺への旧遍路道は二つある。一つは先回歩いた海岸寺経由の道。一旦曼荼羅寺と真逆の方向、瀬戸の海に面した空海生誕の地に建つ海岸寺にお参りし、そこから曼荼羅寺へと打ち戻す道である。 今回はもうひとつの遍路道、曼陀羅道を辿り曼陀羅寺へと向かう。ルートは、弥谷寺仁王門前の石段右手に立つ茂兵衛道標から右に折れ、おおよそ3キロ強、弥谷山西麓の曼荼羅道を歩くことになる

本日のルート;
曼荼羅道経由の曼荼羅寺への遍路道
弥谷寺仁王門前石段上の茂兵衛道標(100度目)>四国霊場四番札所大日寺の本尊石仏>>自然石の標石>四国霊場六番札所安楽寺の本尊石仏>十一面観音石像>六丁標石>蛇岩池>曼陀羅道の案内>法然上人蛇身石の標石>蛇岩>高松道手前に標石>石造地蔵菩薩立像>大池土手に2基の標石>大池土手上に石仏、「法然上人蛇身石」の案内と標石>茂兵衛道標(157度目)と地蔵尊坐像>旧国道11号に石仏群>七仏寺>茂兵衛道標(137度目)>西行庵分岐点の標石>茂兵衛道標(158度目)>茂兵衛道標(133度目)>茂兵衛道標(151度目)>第七十二番札所曼荼羅寺
弥谷山西麓・海岸寺経由の遍路道
県道221号の標石>津島神社>大見村道路元標>郡界石


曼荼羅道経由の曼荼羅寺への遍路道

弥谷寺仁王門前石段上の茂兵衛道標(100度目)
曼陀羅道は仁王前の石段を上がったところに立つ茂兵衛道標が始点。弥谷寺仁王門とは逆の右に折れる。
この茂兵衛道標は明治21年(1888)、茂兵衛100度目の四国遍路巡時のもの。「左本堂」、手印と共に「善通寺 金毘羅みち」と刻まれる。
通常金毘羅道は国道377号筋を伊予見峠を超えて進む道筋だろうが、この場合は高松道が通る近く、国道11号の鳥坂(とっさか)峠を超えて善通寺から金毘羅さんへと向かう道筋を案内しているように思う。
徳右衛門道標
石段から弥谷寺の仁王門への石段山側に徳右衛門道標が立ち、そこには「従是曼陀羅寺迄廿五丁」と刻まれる。一丁はおおよそ109mであるから、おおよそ3キロ程の距離となる。
この徳右衛門には徳右衛門道標によく見る、梵語も大師像もなく、背丈も常より少し高く、また、「与里これ満たらじ」と振り仮名がふられている、とのことである。

四国霊場四番札所大日寺の本尊石仏
歩き始めるとすぐ、道の左手に石仏が立つ。台座に「第四番 大日寺」とある。仏は胸の前で左手をこぶしに握り立てた人差し指を右手で包む智拳印の印相。本尊である金剛界の大日如来の像。左手は衆生、包む右手は仏を意味する。




自然石の標石
茂兵衛道標から土径を少し進み、山に向かって草の茂る中へと右に折れる辺り、道の右手に凝灰岩の自然石に刻まれた手印だけの標石がある。上部が欠け、摩耗が激しい。

2基の石仏
道の右手に2基の石仏。台座に乗った大師坐像(?)ともう一基。形式は先に見た大日寺の石仏と同じであるが、台座も壊れ寺名は読めない。




四国霊場六番札所安楽寺の本尊石仏
先に進むと「第六番 安楽寺」と台座に刻まれた石仏とその上手にも石仏が佇む。上手の石仏の寺名は読めない。
「第六番 安楽寺」と刻まれた石仏は、右手は立てた手のひらを前に向けた施無畏印、左手は手のひらを上に向け膝上に乗せた与願印を結ぶ。与願印は手のひらを前に向け下に垂らすのが如来の印相ではあるが、上に向けているのは薬壷(やっこ)を持つ薬師如来の印相。安楽寺の本尊である。
施無畏印は衆生の畏れを解きほぐし、与願印は衆生の願いを聞き届けるサインとのことである。
安楽寺石仏の横に「弥谷寺800m 曼陀羅寺 出釈迦寺3.4km」の標識が立つ。 因みに、四番と六番があったわけであり、とすれば先ほど道の右手に見た石仏は札所五番地蔵寺であろうし、石仏は本尊延命地蔵菩薩かもしれない。

十一面観音石像
道は竹林の中に入る。道の左手に石仏。台座はなく、寺名は不明だが十一面観音のように思える。石仏はここで終わる。
道は三豊市三野原大見と善通寺市碑殿町にの境を進んでるようである。







六丁標石
先に進み両側を竹林で囲まれた下り坂の左手に、倒れかけた標石があり「六丁目」と刻まれる。距離から考えれば弥谷寺からの丁数のように思える。この辺りは善通寺市碑殿町に入っているようだ。


蛇岩池
ほどなく道は開ける。左手に二つの池を見乍ら歩くと二つ目の池(蛇岩池)の畔で山道は終わり簡易舗装の道に出る。曼陀羅道スタート地点から大よそ20分程度であった。合流点には「弥谷寺」の標識が立つ。

曼陀羅道の案内
合流点を右に折れ簡易舗装の道を少し進むと「曼陀羅道」の案内があった。案内には地図と共に「四国遍路道 曼陀羅道 四国八十八ヶ所霊場を巡る遍路道は、徳島県・高知県・愛媛県・香川県の4県にまたがり弘法大師ゆかりの霊場をつなぐ、全長1400キロメートルにおよぶ壮大な巡礼道です。古来より人々の往来や文化交流の舞台となっている遍路道には数多くの石造物等の文化財や「お接待」の文化が残されています。
曼陀羅道は71番弥谷寺と72番曼陀羅寺をつなぐ遍路道で、道中には『四国遍礼名所図会』(寛政12年(1800))の文献資料にも記された地蔵菩薩立像などの石造物や水茎の岡の西行庵、七仏大師堂なとの堂宇を見ることができ、近世以降ほとんどかわらずに遍路道の道程が残っていることが解かります。
特に、三豊市三野町の弥谷寺山門前から善通寺碑殿町の蛇谷池堤までの約0.9kmの区間は山間部を通る未舗装の道が残り、遍路が往来した昔ながらの古道の景観を留めています。
現在も昔とかわらない巡礼の風景を垣間見ることのできるこの区間は、江戸時代以降広く民間に普及した四国遍路の文化を物語る巡礼の道として歴史的価値が認められ、平成26年、国指定史跡『讃岐遍路道』に追加指定されました。善通寺教育委員会」とあった。
案内には写真も掲示され、先ほど出合った「6丁目」の標石は弥谷寺までの距離とあった。また、地蔵菩薩立像はこの先で出合うことになる。
「国指定史跡『讃岐遍路道』に追加された」とあるのでこの他にもあるようだ。チェックすると、いつだったか歩いた第81番札所白峯寺から第82番札所根香寺間にある根香寺道も国指定史跡『讃岐遍路道』となっていた。

法然上人蛇身石の標石
更に少し道を進むと車道に合流する。その合流点に標石が立ち、手印と共に「法然上人蛇身石 是ヨリ一丁 大正二年六月吉日」と刻まれる。
手印は今来た道を戻る方向を示す。遍路道が蛇岩池畔で簡易舗装道に合流する箇所まで戻り、そこを左へと池に沿って進む。池の北にある一軒の民家を見遣り少し坂を上り道が左に曲がる辺り、道の右手に口を開けたような大岩が木の間に見える。

蛇岩
案内も何もないのだが、ぽっかりとあいた口の辺りに石碑らしきものが見える。道を離れ大岩に寄ると「法然上人」の文字とともに上人立像が刻まれていた。
 ●「蛇石(じゃいし)」(法然上人蛇身石)
蛇石について、「仲多度郡史」には、「西碑殿(私注;地名)の山腹蛇谷池にあり。建永の昔法然上人當國に流されて本郡に謫居の折、 地方の靈跡を巡禮し、此の池邊に來りし時、弟子淨賀に向ひ、汝の父は蛇となりて 此の岩中に苦しめり、其の泣聲汝の耳に入らすやと云はれしも、淨賀少しも聞へ されは、疑惑の間に石工を雇ひ、其石を割らせたるに、一尾の小蛇這ひ出しと 云ふ。淨賀は信州、角割親政の二男なり。親政甞て郷里觀音寺の寺領、一町八反 歩の土地の證文を盗み取り、己か所有となしたり。其後故ありて當地に來り、 出釋迦寺に居住せしか遂に死歿す。而して生前に犯せし罪に依り、此の山裾に 蛇となりて苦しみを受けしと云ふ。是により蛇石の稱あり。地名、池名なとにも 殘りて、其の石今尚存せりと云ふ」と記される。

高松道手前に標石
蛇身石から法然上人蛇身石の標石まで戻り、道なりに下ると前方に高松道が走る。
道が高松道のアンダーパスを潜る手前の道角に標石が立つ。手印と共に「へんろみち 大正十二年六月吉日」と刻まれる。

高速道の高架下を潜り高速道に沿って東側の道を進む。道の右手には上池が見える。このあたりの地名は「碑殿」。地名の由来は「相傳フ昔行基彌谷寺ヲ開キシ時道標ノ碑ヲ立因テ名ヲ得タリト云」とある。
現在は善通寺市??原地区の碑殿町となっているが、旧名は多度郡吉原郷碑殿村。碑殿村は東碑殿と西碑殿よりなるが、両地区は天霧山を隔てて飛び地となっている。

石造地蔵菩薩立像
道が上池と大池の間を進むようになる手前、道の左手に巨大な石造りの地蔵菩薩立像が立つ。4mほどもあるようだ。地蔵菩薩は民家の建物の庭に立つ。
Wikipediaに拠れば,鳥坂の大地蔵と称され、弥谷寺へ奉納しようと運ばれる途中、あまりの重さ故に寺への奉納に替えてこの地に建てられた、と。

大池土手に2基の標石
道の右手、大池土手の草叢に2基の標石がある。傾いた標石には「左いや** 右**」と刻まれ、もうひとつには手印と共に「是ヨリ七拾一番へ十三**」と刻まれる、と。

大池土手上に石仏、「法然上人蛇身石」の案内と標石
大池の土手に「法界萬霊」と刻まれた石仏が立つ。その先、池の畔に標石が立ち、ふたつの手印が順路・逆路の遍路道を指す。
その傍に先ほど訪れた「蛇石(法然上人蛇身石)」の案内がある。地図による場所の案内と共に上述「仲多度郡史」に書かれた案内をわかりやすい言葉で説明する;「健永2年(1207年)法然の弟子が後鳥羽上皇の怒りを買い、師匠の法然は土佐へ流されることになった。その途次讃岐に留まり布教活動中、一年も経ないうちに放免となり、摂津まで帰った。その間中讃地区を中心に法然上人の足跡が多く残る。
その折、地方を巡礼し当地に来たとき、法然上人は弟子の浄賀に「汝の父は蛇となってこの岩の中で苦しんでいる。その泣き声が汝には聞こえないのか」と言われたが、浄賀には少しも聞こえず、疑惑ながらも石工を雇ってこの岩を割ると、一匹の小蛇が這い出たという。
浄賀は信州の角割親政の二男であり、親政はかつて郷里の観音寺の寺領一町八反歩の土地の証文を盗んで自分のものとした。その後当地に来て出釈迦寺に居住したが、そこで死没した。
しかし、生前の罪によって、この山裾に蛇となって苦しみを受けていたという(大正七年「仲多度郡史)などによる)。
昭和16年、片山家の世話で岩の中に法然上人の歌碑が建立されました。
さむくとも 袂に いれよ 西の風 弥陀の国より 吹くと思えば
(この歌は法然の弟子の親鸞の作との説もあります)。
法然の史跡は中讃に多くありますが、この近くでは善通寺五重塔の南側の法然上人逆修塔、まんのう町宮田の法然堂があり、それぞれ前述の歌が刻まれています」とあった。

茂兵衛道標(157度目)と地蔵尊坐像
大池を過ぎ国道11号へと向かう。道は東へ弧を描く道を分けるが、遍路道は道を横切り細路へ入る。細路入口角に茂兵衛道標と地蔵尊坐像。茂兵衛道標は手印と共に「右弥谷寺 明治三十年八月」と刻まれる。茂兵衛157度目の四国遍路巡礼の折に立てたもの。
また、屋根付きの地蔵尊座像の台座も標石となっており、「三界萬霊」の文字と共に「左へんろみち」と刻まれる。手印も見て取れる。

旧国道11号に石仏群
標石に従い細路へと入ると国道11号に沿って弧を描く道筋に出る。旧国道11号筋かと思う。その道筋、細路から出た所を少し西に戻ったあたりにいくつかの石像が並ぶ。石像を見遣り、道を東へと取って返し国道11号に出る。
大池の畔に茂兵衛道標(88度目)
国道11号に合流する手前、民家の軒先を大池へと下ると池の畔に茂兵衛道標が立つ。手印と共に「弥谷寺」と刻まれるが、手印は弥谷寺とは真逆の方角を示す。国道整備の折に、どこからか移されたものだろう。「明治十一年 八拾八遍目為供養」と刻まれる。
鳥坂峠
この地から少し国道を西に戻ると鳥坂峠がある。上述、弥谷寺仁王門石段前の茂兵衛道標でメモした、金毘羅さんへ向かう峠道のひとつではあろう。
の昔は鳥となって飛ばなければ越えられないような険しい峠であったのだろうが、現在は国道整備にともない山が大きく切り開かれ、難所の名残を留めることはない。

七仏寺
国道11号を少し進むと左に入る道が分岐する。旧国道筋だろう。その道を進むと、道の左手にふたつの石碑があり、大池へと下る坂の左手に屋根付きの石造地蔵坐像、右手には標石がある。坂道の下、大池の畔に古さびた堂宇がひとつ建つ。伝承によれば、空海が五穀豊穣と疫病からの救済を祈り七体の薬師如来を刻んたことに始まると言われ、往昔七堂伽藍を誇ったと伝わる番外霊場医王山七仏寺である。西行法師も訪れたと伝わるこの大師遺跡も、昔を偲ばせるものは石碑の他に何も残らない。
お堂に乳薬師と書かれた額が見える。江戸の頃、池の堤の改修時に工事の無事を祈り工事責任者である庄屋の乳母を人柱にしたという秘話に因み、ここで祈ると乳の出がよくなるとの伝えから、とのこと。乳母の人柱と乳の出がよくなる、との関係は如何なるロジックなのかよくわからない。
西行法師歌碑
お堂への入り口にある2基の石碑のひとつが西行法師の歌碑と言う。道に向かった面には「月見よといもの子」とか「おこしに」「何か」といった文字と下端に「西行上人」の文字が見える。
全文が如何なるものか、あれこれチェックすると、江戸時代の狂歌集である「『古今夷曲集』巻第三「秋歌」 に「名月の夜畑なる芋ぬすめるをとらへけれはぬす人のよめる  月見よといもか子とものねいりたを起しにきたは何かくるしき」という歌がある。
芋盗人を捉えたときの言い訳として、「あなたの子どもが美しい月 も見ず眠り込んでいるので起こしに来たのです 、とは少々苦しい言い訳めいて感じる」と言った意味だろうか。歌の意味はそれとしてこの歌が西行の詠んだものとのエビデンスがない。もう少々チェックすると、この芋盗び譚の流れに関連し西行が登場する。
『詩学大成抄』 に;西行法師ノ八月十五日夜明月ニ芋ヲハタケエヌスミニイカレタレハ芋マフリガミツケテトラエテシバツタソユルセト云テ歌ヲヨウタレハユルイタゾ歌ニ  月ミヨトイモガフシドノソヽリコヲヲコシニキタハ何カクルシキ
トヨウタソヲカシイ事ナレトモ名誉ノ歌ナリ」とある。
ここでは「芋盗み」が「妹盗み」の色合いも帯びているようである。

それはともあれ、歌碑に刻まれる歌が西行の作かどうかはっきりしなくなってきた。更にチェックすると、小林幸夫さん(東海学園大学)の「十五夜の歌(餅と芋の昔話)」の中の「芋盗み」の昔話の項目があり、香川県には「西行芋盗み説話」がいくつか伝わり、その中の善通寺の七仏寺の昔話として「西行芋盗み説話」があった;
「西行はこの地までやってきたのだが、八月十五日に月があまりに美しいので、 芋畠へ出て月を眺めていた。ところが付近の百姓がこれはてっきり芋盗人にちがいないと思って、我が芋畠で何をするぞととがめると、西行は今夜は芋名月の晩だから芋をひとつくだされといった。
すると百姓は歌をひとつ詠んでくだされば差し上げようという。西行は
月見よと芋の子どもの寝入りしを起しにきたか何かくるしき
という歌を詠んだ。何かわけのわからぬ歌だが、百姓は喜んで、西行に芋を与えたという。この歌が七仏寺の前に刻まれて建っているのである。
語り手が 「何かわけのわからぬ歌だが」、と言うように意味さえ判然とつかめていない西行が「歌の手柄」によって許される歌徳説話であるが(中略)話者の関心はこの話の事実性にあるようだ。「この歌が七仏寺の前に刻まれて建っているのである」という語りに、それはあらわれている。その意味では、この昔話は、伝説に近づいているのだ」とあった。

以下は妄想;どうもこの歌が西行の詠んだものかどうかは、どうでもいいように思えてきた。事実前述『古今夷曲集』以外にも、ほぼ同じ歌が「新撰狂歌集」に「(前略)捕らえて縛めければ 盗人 月見よと芋が子ともの寝入りたを起こしにきたは何かくるしき」とある。要は中秋の名月に芋を供える習慣があり、芋盗みより中秋の名月を連想させる狂歌が歌われており、その中のひとつが少々のバリエーションを加えられ、西行の詠んだ歌、それも歌の力を示す昔話となって芋盗みのコンテキストで使われたのだろう。西行も芋盗みの歌を読んではいるが、それが使われなかったのは芋盗み>妹盗みを連想させる歌故であったのだろうか。
尚、歌碑の裏面には「此方 へんろ こんぴら 道」と刻まれ、標石も兼ねる。
古験松の碑
西行の歌碑横の石に大きく刻まれる文字は「古*枩」と読める。このお堂には大師お手植えの「古験松」の碑があるとのこと、枩は「まつ」のことのようであるから、「古験枩」と刻まれているのだろう。
石碑
坂の入口、右手にある石碑には「弘法大師御作 七佛薬師如来 安政八」といった文字が刻まれる。七仏寺の由来ともなった弘法大師が刻んた薬師如来の案内である。




茂兵衛道標(137度目)
七仏寺を離れた旧国道はすぐに国道11号に合流。遍路道はそのまま交差点を直進し県道48号善通寺詫間線を進む。遍路道は少し東に進み三井之江東交差点の手前で右に分岐し民家の間の細路に入る。その入り口角に茂兵衛道標が立つ。順打ち・逆打ち両方向を示すふたつの手印と共に、「右多度津 丸かめ 明治廿二年」と言った文字が刻まれる。茂兵衛137度目の巡礼時に立てた道標である。

西行庵分岐点の標石
道なりに進み、道の右手に「西行庵」と書かれた石灯篭の脇に自然石の標石があり、「左 水くき道 三丁** 安永三**」と刻まれる、と言う。 「水くきの道」とは西行法師寓居の「水茎〈くき)の岡」への道を示したもの。右手にカーブして上る道を進むことになる。遍路道は道なりに更に進む。


茂兵衛道標(158度目)
ほどなく遍路道は花籠池に当たる。その西北端の道脇に茂兵衛道標が立つ。手印と共に「弥谷寺 出釈迦寺 明治三十年」などと刻まれる。茂平158度目の巡礼時に立てたもの。出釈迦寺は第七十三番札所である。





茂兵衛道標(133度目)
遍路道は花籠池とその東の溜池の間を進む。花籠池の土手に茂兵衛道標があったとのことだが、訪問時(2019年3月)には土手の護岸工事のため道標は撤去され、ブルーシートに包まれて道端に置かれていた。

茂兵衛道標(151度目)
更に道なりに進むと五差路に出る。遍路道が五差路に出る正面に茂兵衛道標が立つ。手印と共に「弥*寺 出釈迦寺 明治廿九年」と刻まれる。茂兵衛151度目の巡礼時に建てたもの。ここは曼荼羅寺と出釈迦寺への分岐点。道を左に折れれるとすぐ曼荼羅寺、南に進むと出釈迦寺となる。


第七十二番札所曼荼羅寺
茂兵衛道標の左に曼荼羅寺。道標を左に折れてすぐ、境内に接してうどん屋があるが、歩き遍路にはお接待で無料とのこと。お寺さまへはうどん屋横から境内へと石段を下りることもできるが、オーソドックスなアプローチとして山門からと境内に沿った緩やかな坂を東に下る。
山門へと右折する箇所に石碑があり「成田山不動明王祈念所 是より東」と刻まれる。成田山不動明王祈念所がどこを指すのか不明。
仁王門
この石碑を左折しすると仁王門が建つ。金剛力士が左右に並ぶ仁王門に「我拝師山曼荼羅寺」とある。仁王門の前、「笠松大師(不老松)」の木標の立つ左手に寺柱石、「四国七十二番 本尊大日如来霊場」と刻まれるが、裏には「左甲山寺 十丁余 明治二十四年」と刻まれた標石となっている。茂兵衛117度目巡礼時に立てたものである。

本堂
境内に入り池に架かる橋を渡ると正面に本堂。本堂には「弘法大師御母玉依御前菩提所」とある。寺伝によれば、この寺は弘法大師の先祖である多度郡の郡司であった佐伯氏の氏寺として推古四年(596)に創建され、世坂寺と称したことにはじまる、その後唐より帰朝の大師が金剛界・胎蔵界の両界曼荼羅を安置、その根本仏たる大日如来を本尊とし、世の安寧と母玉依の菩提を祈念し堂宇を建立。我拝師山曼荼羅寺と改めた、と。
鎌倉時代には、後堀河天皇から寺領を給わるほど栄えたが、永禄3年(1560年)阿波の三好実休による天霧城攻めの兵火で焼亡、さらに、慶長年間(1596~1615年)に戦火を受けた、とのこと。
天霧城は千回の海岸寺道経由曼荼羅寺の遍路歩きの途中に立ち寄った。
大師堂
本堂右手に観音堂、左手に八幡宮、境内の南側に大師堂があり、天気がよければお堂の背後に我拝師山(標高481m)の山頂近くにあるかつての曼荼羅寺奥の院、現在の出釈迦寺奥の院禅定・行場が見える、とのことである。
西行の歌碑
本堂左手に2基の石碑が立つ。大きいほうには「西行法師笠掛松 昼寝石」と刻まれ、小さいほうは「笠掛桜」とあり、文字と共に西行の歌が刻まれる、と。
昼寝石は石碑前の平たい石のことだろう。寺近くの水茎の岡に庵を結んだ西行が時にこの寺を訪れ、昼寝を楽しんだとのことと言う。
また笠松桜と刻まれた小さい石碑には、表面に多くの文字が刻まれている。何が刻まれているのかチェックすると、詞書とともに西行の詠んだ二種の歌が刻まれる、と:
「四国のかたへぐしてまかりける同行の都へかへりけるに 西行上人
帰りゆく人のこゝろをおもふにも はなれがたきはみやこなりけり
かの同行の人かたみとて此桜に笠をかけ置けるを見て
    笠はありその身はいかになりぬらん あはれはかなきあめがしたかな 」
共に(具して)四国へと歩いた西住法師が都に戻る際に詠んだ歌とのこと。「帰りゆく」の歌は「都に帰る君の心を想像してみると、切るに切れないのは同行の私との仏縁ではなくて、やはり都との血縁の方だったね(和歌文学大系21から抜粋)」の意。
笠松(不老松)
本堂左手、客殿や庫裡がある前に「笠松大師」の祠が建ち、その後ろに不老松と刻まれた石碑と「笠松(不老松)」の案内がある。「当寺の名物だった「不老の松」は平成13年から14年にかけて松くい虫のために枯死しました。この円形の場所が元あったところです」とあり、枯死前の如何にも笠の形をした大きな松の写真があった。弘法大師が寺号を我拝師山曼荼羅寺と改めた時のお手植えの松ではあったよう。
境内の標石
茂兵衛道標(180度目)
橋を渡った右手に茂兵衛道標。手印と共に「出釈迦寺 甲山寺 明治丗二年」といった文字が刻まれる。茂兵衛180度目の四国遍路巡礼時の道標である。








その反対側、鐘楼前に5基の標石が並ぶ。
仁王門側手前から
「出釈迦じに十三丁 かぶやまじに十三丁」
境内整備に際し、本堂手前右手にあったものを移したようだ。「かぶやまじ」は四国第七十四番札所甲山寺のこと。
その横に並ぶ4基の標石には
「(梵字)南大師遍照金剛 右遍ろみち願主真念」
真念道標とのこと。
「左 万たら寺 いやたに寺 道」
「いやたに 右こんひら道 左 扁ろ道
「へんろミち 南無阿弥陀仏」
などと刻まれるとのこと。境内整備前には記録にないようであり、これもどこからか移されたもののようである。

以上で弥谷寺から曼荼羅道経由の曼荼羅寺までのメモは終わり。


弥谷山西麓・海岸寺経由の遍路道

これで弥谷寺から曼荼羅寺までの遍路道として、海岸寺道と曼荼羅道をメモしたが、メーンではないものの、もうひとつ弥谷山の西麓を進み海上の小島に鎮座する津島ノ宮にお参りし、海岸寺を経て曼荼羅寺へ向かう道もあったようだ。 概要だけをメモしておく。
ルート始点は弥谷寺の山門辺りから西麓へと進む道があったようだ。山門辺りを彷徨い遍路道らしき道を探したのだが、結局見つからなかった。
県道221号の標石
山麓の道はトレースできなかったが、県道221号に標石があった。県道の東にある峠池の北、その池の先、山麓から県道221号に合流する地点に標石が立つ。 「右 もとやま寺二り半 くわんおん寺三り 左いやたに寺十三丁 せんつうじ一り 半 明治丗九年」などと刻まれるようだ。




津島神社
県道を海辺まで進むと海上250mの沖の小島に鎮座する津島神社がある。平時は島を蒸結ぶ橋は橋板が外され渡ることはできないようだ。社は子どもの守り神として信仰を集め、8月の大祭の日には津島ノ宮駅が臨時開業するとのこと。そういった折に橋板が敷かれるのだろうか。
大見村道路元標
津島ノ宮駅には「大見村道路元標」が立つ。Wkikipediaには、道路元標とは「道路の起終点を示す標識である。 日本の道路元標が国によって定められたのは、里程調査のための明治時代初期のものと、大正時代の旧・道路法施工令公布の時のものと、二つの時期にわたって道路に設置されたものがある。正確には、大正時代に設けられたものが「道路元標」とよばれるもので、明治時代に設けられたものは里程元標(りていげんぴょう)といい、大正期の道路元標の前身となるものである。
これ以外に現在、一般国道などの起終点などで見ることが出来る道路元標は、昭和時代の太平洋戦争後に設置されたもので、その設置基準については法的な根拠はなく、道路の付属物の扱いで記念碑的なものとして建てられたものである」とある。大見村ができたのは明治23年(1890)とのことであるので、この元標は大正の頃のものだろうか。
郡界石
また、津島ノ宮から県道21号・さぬき浜街道に沿って走る予讃線と海岸線の間の道を少し東に進むと「郡界是ヨリ仲多度郡 郡界 是ヨリ三豊郡」と刻まれた境界石が立つ。
遍路道は県道21号を海岸に沿って進み海岸寺へと向かう。

これで弥谷寺から曼荼羅寺への遍路道のメモ終了。次回は七十二番札所・曼荼羅寺から七十三番札所・出釈迦寺を打ち、七十四番札所甲山寺、七十五番札所善通寺へと向かう。




弥谷寺を打ち終え次の札所七十二番 曼陀羅寺へと向かう。曼陀羅寺への旧遍路道は二つある。ひとつは弥谷寺から南西に直接曼荼羅寺を目指す道。もう一つは一旦曼荼羅寺と真逆の方向、瀬戸の海に面した空海生誕の地に建つ海岸寺にお参りし、そこから曼荼羅寺へと折り返す道である。
直接曼荼羅寺を目指すルートは、弥谷寺仁王門前の石段右手に立つ茂兵衛道標から右に折れ、おおよそ3キロ強の曼荼羅道を歩く。海岸寺経由の遍路道は、弥谷寺護摩堂から本堂の逆方向、天霧山への尾根道を進み、弥谷山と天霧山の間の鞍部から山道を里に下り、予讃線海岸寺駅近くにある海岸寺へと北に向かう。その距離おおよそ5キロほど。そこから5キロほど南へと折り返し曼荼羅寺を目指す道である。
曼荼羅道は弥谷山西麓の土径を進むもの。海岸寺道は荒れているではあろう山道を下るもの。どちらにも惹かれる。ということで、曼荼羅寺への遍路道はふたつともカバーすることにした。最初は海岸寺道経由、次いで曼荼羅道を辿り曼荼羅寺への遍路道をメモする。

本日のルート;
海岸寺を経由して曼荼羅寺へ向かう遍路道
弥谷寺護摩堂を左に>48番西林寺の石仏>52番太山寺の石仏>泰山寺の石仏>番道の合流点に石仏2基>白方遍路道分岐点>(天霧城跡へ)>犬返し・犬走り道分岐点>犬走り道から二の丸跡に>天霧城跡>犬返しの険>白方遍路道への分岐点に戻る>岩屋霊場>砂防ダム>車道に出る>虚空蔵寺>畠の中に標石>観音堂川傍分岐点の標石>民家脇の標石>白方小学校傍の標石>県道21号合流点手前に2基の標石>海岸寺>海岸寺奥の院>県道21号右角の標石>仏母院>熊手八幡宮>JR予讃線踏切>遍路道はふたつに分かれる>東西神社参道口に標石>県道48号の茂兵衛道標>曼陀羅寺手前の茂兵衛道標>曼陀羅寺


海岸寺を経由して曼荼羅寺へ向かう遍路道

弥谷寺から海岸寺へ

弥谷寺護摩堂を左に:9時38分 
海岸寺経由の道は弥谷寺の護摩堂から本堂とは逆、天霧山への尾根道を進むことになる。護摩堂前の標石には正面に「七十一番当寺本堂道 明治四十三年」といった文字が刻まれ、その右側面には「海岸寺道」と刻まれる。また、「天霧城跡」と書かれた木の標識も立つ。案内に従い護摩堂を右に折れる。



四十八番札所西林寺の本尊石仏;9時40分
簡易コンクリートの道を進むとすぐに「天霧城跡へ 白方へ(へんろみち)」と書かれた標識が立つ。白方は明治23年)1890年の町村制施行時に西白方、東白方、奥白方村が合併してできた、かつての多度郡白方村のこと。海岸寺のある旧地名。現在海岸寺のある辺りは那珂郡と合併し仲多度郡多度津町西白方となっている。
そのすぐ先、道の右手に石仏が立つ。台座に「四拾八番 西林寺」と刻まれる。右手は垂下、左手には蓮華を活けた花瓶をもった姿。本尊の十一面観音だろう。松山市の札所。
多度郡・那珂郡
多度郡も那珂郡、古代律令制度下の郡名。地名の由来もすぐわかるかと思ったのだが、当該行政域にその説明は見当たらない。あれこれチェックすると、多度の「度」は得度からとの記事もあった。官の得度を得た僧、私度僧(官許を得ないで得度した僧尼;沙弥・優婆夷・優婆塞)、自度僧(師につくことなく自ら剃髪・出家)など、多くの僧尼の住まう郡、ということだろうか。
また、那珂は全国各地にある地名。海部族に関わる地名のことのよう。「なか」の「な」は「灘」の「な>海、海岸線」、「か」は格助詞「の」の連体修飾語、「学校の友達」の「の」の意とも言う。「なか」は「海の(ある)郡」といった由来だろうか。単なる妄想ではある。

第五十二番 太山寺の本尊石仏;9時45分
簡易舗装も切れ、土径の尾根道となった遍路道を5分ほど進むと左手に石仏。「第五拾二番太山寺」と台座にある。右手は垂下、左手には蓮華を活けた花瓶をもった姿は前述西林寺に同じ。本尊十一面観音かと。松山市の札所。

五十六番札所 泰山寺の本尊石仏:9時50分
更に遍路道を10分ほど歩くと、道の左手の木立の中に石仏が立つ。台座には「第五拾六番 泰山寺」と刻まれる。右手に錫杖、左手に如意宝珠をもつ本尊地蔵菩薩像だろう。今治市の札所。





 道の合流点に石仏2基;9時52分
その先、右手から道が合わさる。地図に天霧山南麓からの道が描かれる。その道だろう。合流箇所の角に石仏が2基並ぶ。その内、大きめの舟形地蔵の下部には手印が刻まれ道標ともなっている。

この先遍路道に四国霊場の本尊石仏は見当たらない。五十六番札所で切れるのも、ちょっと中途半端。見つけられなかったのだろうか。
それにしても弥谷寺の石仏の並びはどのようになっているのだろう。先回の散歩で仁王門手前、弥谷寺入り口ともいえるところに第二十九番札所国分寺の本尊・千手観音、十二番札所焼山寺の舟形地蔵(右手に宝剣、左手に宝珠をもつ本尊の虚空蔵菩薩とはお姿が異なる)が置かれていた。場所柄、とってつけた、というか唐突な印象を受けた。元々はどのような配置で石造が並んでいたのだろう。

白方(海岸寺)遍路道分岐点:9時59分
10分弱歩くと道の左手に2基の石仏。大日如来、釈迦像と刻まれる。大日如来は宝冠をかぶり智拳印(左手をこぶしで握り立てた人差し指を右手で握る)を結ぶ。右手は仏、左手は衆生。煩悩の衆生を包み込むということか。通常、如来は装身具を身に着けない薄衣だけの姿であるが、大日如来は王者の如く宝冠などの装飾を見に纏う。釈迦如来は見慣れたお釈迦さまの姿。
2基の石仏の先に「白方へ へんろみち」左の木標と、「天霧城本丸」への木標が立つ。弥谷寺に来るまでは天霧城のことは何も知らなかったのだが、寺入り口の案内にあった「国指定史跡」の文字に惹かれ、ちょっと立ち寄ることに。

犬返し・犬走り道分岐点;10時14分
遍路道分岐点に立つ舟形地蔵にお参りし、尾根道を進む。5分ほど歩くと隠砦跡の標識。城への道を土塁で隠している、といった記事もあるが、門外漢には土塁と自然地形の区別がつくわけもなく、先に進む。
それから更に5分、犬返し・犬走り道分岐点に。右手の上りが犬返し道、左手の尾根を巻く道が犬走り道。犬も通りたくないような険路は勘弁と、迷うことなく犬走り道を選ぶ。犬走り道は「空堀/古井戸」と続くとの案内もあった。

犬走り道から二の丸跡に這い上がる;10時25分
始めはよかったのだが、犬走り道は次第に踏み跡も消えてゆく。犬走り道には「井戸」にも出合えるとの案内もあり、すこし我慢し道なき道を進んだのだが、踏み跡が全く消えてしまった。峠越えは萌えるも、古城にそれほど萌えるわけでもないため、これ以上は勘弁と犬走り道を離れ尾根道に這い上がることにする。
GPSを頼りに結な構傾斜を30mほど尾根に向かって這い上がる。とそこ天霧城二の丸跡とあった。もう少々犬走り道を我慢すれば古井戸があり、そこから本丸に上れるようであった。

天霧城跡
弥谷寺入り口にあった天霧城跡の縄張り図の写真で位置を確認。二の丸の西にある本丸跡に一旦戻り、そこから二の丸の東にある三の丸、空堀、方形郭と進み、北東端の方形郭に。
北東端の方形郭の標識には「東西神社へは降りることができません」と書かれている。天霧山の南麓が採石場として山肌が大きく削られている。それが通行止めの因だろうか。
途中空堀への案内はあるのだが、いかにも空堀跡といった崖と平坦部コントラストを感じるところに肝心の空堀の標識は無く、ちょっと戸惑ったりはしたが一応天霧城跡をカバー。遺構らしき遺構を見分ける力があるわけでもなく、城跡からの遠景を楽しみ遍路道分岐点に下り返す。
天霧城
弥谷寺入口にあった案内を掲載する;
「国指定史跡 天霧城は、山の地形などを利用した天然の要塞(砦)を造り出した山城です。古代から鎌倉時代にかけて造られた城はそのほとんどが山城で、柵をめぐらし、要所に門や櫓(やぐら)を設ける程度の簡単なものでした。室町時代に入り戦乱が長期化するようになり、戦闘の規模が大きくなると城郭の規模も次第に大きくなっていきました。中世の城郭は有事に対しての構えを持った在地の武将の居館跡等も含めると、その数は香川県下だけでも四百ヶ所近くが確認されています。その中で天霧城跡はその自然地形を巧みに利用した規模の雄大さといい、実践的な確かな縄張り(構造形式)といい、いかにも要害堅固であり、陸海との方向の動向にも十分に対応ができるという、地理的な好条件も備えた四国屈指の山城といえます。
香川氏は、相模国香川荘出身の鎌倉権五郎の末裔といわれており、14世紀後半に讃岐の守護細川氏に従って入部しました。そして、西讃岐の要衝である多度津・本台山(現在の桃陵公園付近)に常の居館を構えました。
その後、西讃岐守護代の地位を得た香川氏が、有事に備えた詰めの城が天霧城です。本台山から天霧城までは直線で3km程、また、中世山城の基本的構造である『守るに易く攻めるに難い』という理想的な山城でした。
香川氏が天霧城を築城した天霧山は、善通寺市・三豊市・多度津町と境を接し、瀬戸内海に臨む弥谷山系の北東部に一段高まる山塊です。弥谷山(標高382m)から天霧山(381m)にかけての山頂部には、数か所に高まりがあります。また、山の周囲は急崖急坂の斜面で、全山が自然の要害地形を形成しています。
天霧城跡の縄張り造作の形式は、戦国時代末期頃(16世紀後半頃)に該当しますが、東方尾根の調査では、出土遺物等から15~16世紀に築造されていたことが判明しています。これは短期(一時期)の築造ではなく、必要に応じて徐々に拡張・増強されたことを示しています」。

この城は土佐の長曾我部氏の四国制覇の折に降伏し臣下の礼をとる。その後秀吉の四国攻めの折には城を棄て長曾我部氏のもとに逃げ廃城となったようである。 なお、この城は大化の改新の時、東讃の屋島軍団(牟礼軍団)、中讃の城山軍団(阿野軍団)とともに、西讃の多度郡三井郷に天霧軍団(白方軍団)が置かれたとき、その居城をこの城に求めたとも言われるが、定かではない。

犬返しの険;10時52分 
往路は結構急な斜面を下る。虎ロープが延々とはられる。犬返しの険と称される所以である。「犬返しの険」の木標の少し先で犬走り・犬返し分岐点に戻る。
尾根道を隠砦へと向かう途中、送電線鉄塔のある辺りから天霧山から瀬戸の海の遠景を楽しみ遍路道分岐点に戻る。





白方遍路道への分岐点に戻る;11時18分
十一面観音(三十三番谷汲山華厳寺
天霧山と遍路道の分岐点に戻る。分岐点から遍路道を下りはじめる道の右手に石仏が立つ。「三十三番 谷汲山」とある。西国三十三観音霊場三十三番谷汲山華厳寺の本尊十一面観音である。右手は垂下、左手には蓮華を活けた花瓶をもつ。







遍路道に立つ西国観音霊場の本尊石仏
聖観音(三十一番姨綺耶山 長命寺)
千手観音(二十番西山善峯寺)
遍路道を下ると路傍に石仏が立つ。縁者の供養の石仏、中には石祠に祀られるものもあるが、西国三十三観音霊場の本尊石仏が並ぶ。出だしは三十二番繖山観音正寺の本尊千手観音、三十一番姨綺耶山 長命寺の本尊聖観音と続く、すべて揃っているわけではないが結構揃っている。
実のところ、遍路分岐点にあった三十三番も含め、遍路道に並ぶ番号付きの石仏は里に下るまで四国霊場の札所と思い込んでいた。これが西国三十三観音霊場の本尊石仏では?と思ったのは、山道を下り切った里の虚空蔵寺にあった石仏に「一番 那智山」とあったため。
馬頭観音(二十九番青葉山 松尾寺)
さすがに那智山といえば青岸渡寺でしょう、それならいままでの石仏も四国霊場ではなく西国三十三観音霊場ではと思い直し、ピストン往路では注意しながら石仏をみるとすべて観音さまであり、観音霊場のお寺さまであった。ピストン往復ならではの「成果」ではある。
観音菩薩
Wikipediaをもとに簡単にまとめる;観音菩薩は大慈大悲を本誓とする菩薩。ために、あまねく衆生を救済すべくさまざまな姿に変えて現れる。基本となる一面二臂(ひとつの顔とふたつの腕)からなる聖観音(しょうかんのん)のほか、千手観音、十一面観音など、変化観音と呼ばれる様々な形で現れる。あらゆる人を救い、人々のあらゆる願いをかなえるという観点から、多面多臂(多くの顔と多くの腕)の超人間的な姿に表されたわけである。
六観音
真言系では聖観音、十一面観音、千手観音、馬頭観音、如意輪観音、准胝観音を六観音と称し、天台系では准胝観音の代わりに不空羂索観音を加えて六観音とする。六観音は六道輪廻(ろくどうりんね、あらゆる生命は6種の世界に生まれ変わりを繰り返すとする)の思想に基づき、六種の観音が六道に迷う衆生を救うという考えから生まれたもので、地獄道 - 聖観音、餓鬼道 - 千手観音、畜生道 - 馬頭観音、修羅道 - 十一面観音、人道 - 准胝観音、天道 - 如意輪観音という組み合わせになっている。
なお、千手観音は経典においては千本の手を有し、それぞれの手に一眼をもつとされているが、実際に千本の手を表現することは造形上困難であるために、唐招提寺金堂像や葛井寺の乾漆千手観音坐像などわずかな例外を除いて、42本の手で「千手」を表す像が多い。
この山道に並ぶ観音像には聖観音、十一面観音、千手観音、不空羂索観音、如意輪観音があった。准胝観音(十一番深雪山醍醐寺の本尊)もあったように思う(?)のだが、写真を撮り忘れた。

岩屋霊場;11時44分
西国観音霊場の本尊石仏に一礼しながら遍路道を下る。途中少々わかりにくい箇所もあるが、木に張られた赤いリボンを目安に30分ほど下りると岩壁前にお堂が建つ。お堂前には西国観音霊場十五番 新那智山観音寺の本尊である十一面観音の石仏。 石段を上りお堂に。お堂の左に「天霧八王山奥之院 本尊薬師如来」、右には「弘法大師御修行之御遺跡 涅槃岩屋霊場 愛染明王、弘法大師之尊像安置」と書かれた木札があった。
「天霧八王山奥之院」とは、これから下る里にある虚空蔵寺の奥の院とのこと。お堂内部の石窟は幅・高さは4m、奥行き2m弱といったものであった。ここで空海が修行した、とのである。

砂防ダム:11時59分
不空羂索観音(九番興福寺)
荒れた沢筋の遍路道を下る。途中沢に架けられた簡易橋(11時55分)で沢の右岸に渡りそこから数分歩くと道の右手に西国観音霊場九番 興福寺の本尊である不空羂索観音が立つ。その辺りになると空も開け、里が近づいた実感。大きな砂防ダム脇にでる。

不空羂索観音
Wikipediaには、「「不空」とは「むなしからず」、「羂索」は鳥獣等を捕らえる縄のこと。従って、不空羂索観音とは「心念不空の索をもってあらゆる衆生をもれなく救済する観音」を意味する」とある。

車道に出る;12時5分
砂防ダム脇の急な階段を下りる。砂防ダムから数分、道の右手に西国観音霊場四番 槇尾山 施福寺の本尊千手観音(12時4分)、その先に車道が見える、車道の沢に架かる橋袂に西国観音霊場三番 風猛山 粉河寺の本尊千手観音石仏が立つ。 尾根道の遍路道分岐点からおおよそ50分で里に下りてきた。

西国観音霊場二番 紀三井寺 護国院の本尊十一面観音石仏;12時5分 
車道を下ると道の右手に西国観音霊場二番 紀三井寺 護国院の本尊十一面観音石仏。遍路道を下りはじめた頃は特段意識することなく、何気なく写真を撮っていたのだが、霊場番号が少なくなるにつれ、この西国観音霊場石仏は、里のどこからはじまるのだろうとの好奇心から、結構真剣に追っかけることになった。 ここが二番ということはすぐ先にある虚空蔵寺から始まるのでは、との予感。
天霧城の案内
石仏対面には天霧城跡案内。おおよそは前掲の弥谷入り口にあった説明と同じだが、最後に「多度津町奥白方から天霧城に登るルートは、古くから弥谷寺への巡礼ルートとなっており、また海岸寺を起点とする七ヶ所まいりのルートとも重なっています。道道には三十三観音霊場としての石仏が並ぶなどの信仰の道としても現在も利用されています」と付け加えられていた。
七ヶ所まいり
Wikipediaには「七ヶ所まいり(しちかしょまいり・ななかしょまいり)とは、四国八十八箇所霊場のうち、香川県にある第71番札所弥谷寺から第77番道隆寺までを遍路する参拝方法の総称。江戸時代後期の寛政12年(1800年)に書かれた『四国八十八番寺社名勝』には「足よはき人は此印七り七ヶ所めぐれば四国巡拝にじゅんず」とあり、古来1日で巡礼できる遍路として利用されていたことが窺える。
また、71番より遍路を始める風習は、弥谷寺ふもとの多度津湾が金刀比羅宮に参拝するための海の玄関口として栄えていたこと。1770年以降より旅籠屋で配られた道中案内記によれば、善通寺(私注;第75番)を誕生の地、弥谷寺を入学の地、海岸寺を産湯の地として金比羅山とあわせて紹介しており、四国八十八箇所遍路の大衆化以前より、弘法大師ゆかりの三箇所と金比羅山の参詣がすでに一般化していたことなどが理由とされている。
「足よはき人は此印七り七ヶ所めぐれば四国巡拝にじゅんず」とあるように、足弱きが故に四国八十八箇所を巡ることができない人も、この七ヶ所、七里を巡ることにより四国遍路巡礼と同じ功徳を得ることができる、ということだろう。なお、Wikipediaに産湯の地海岸寺とあることから、この七か所まいりは、今から訪れる海岸寺から始めるように思える。

虚空蔵寺;12時7分
道なりに虚空蔵寺の裏側から境内に入る。境内には石仏、石塔が多い。お寺様はお堂といった風情。弘法大師開基とのこと。本尊も大師の守本尊とされる虚空蔵菩薩とのことである。
虚空蔵菩薩
「虚空蔵」はアーカーシャガルバ(「虚空の母胎」の意)の漢訳で、虚空蔵菩薩とは広大な宇宙のような無限の智恵と慈悲を持った菩薩、という意味である。そのため智恵や知識、記憶といった面での利益をもたらす菩薩として信仰される。その修法「虚空蔵求聞持法」は、一定の作法に則って真言を百日間かけて百万回唱えるというもので、これを修した行者は、あらゆる経典を記憶し、理解して忘れる事がなくなるという(Wikipedia)。

空海が弥谷寺の大師堂獅子窟で虚空求聞持法を修したとあった。室戸岬の洞窟・御厨人窟に籠り虚空求聞持法を修したとは知られる話ではあるが、あちらこちらに同様のお話が伝わる。
西国観音霊場一番那智山青岸渡寺の本尊如意輪観音
如意輪観音(一番 青岸渡寺)
境内で西国観音霊場の一番那智山青岸渡寺の本尊如意輪観音の石仏を探す。お堂の前、水場の近くの緑に隠れ気味の本尊石仏があった。
如意輪観音
Wikipediaには、「如意輪観音は基本、座像または半跏。片膝を立てる六臂が多いが、これとはまったく像容の異なる二臂の半跏像もある。手には尊名の由来である如意宝珠と法輪をもつ」とあるが、この石仏は方膝を立てた二臂の座像。手には如意宝珠と法輪をもっていた。遍路道にあった西国観音霊場の本尊石仏は確かにこの虚空蔵寺からスタートしていた。




境内の標石
境内を表口に進む左手に標石があり、「従是 弥谷寺** 屏風白方海岸寺十四丁 文化六巳**」と刻まれた標石がある。小石を固めたような礫岩の標石はあまり見たことがない。
また、表参道口の右手、車道のガードレール脇に「是ヨリ十八丁 右彌谷寺道 左山道」と刻まれた標石が立つ。







畠の中に標石
車道を進む。ブドウ棚が目につく。少し里に下りたところ、道の右手の畠の中に標石が立つ。虚空蔵寺で見た礫岩の小石を固めたもの。風化が激しい。「左屏風浦白方**道 右彌谷寺道」と刻まれるようだ。






観音堂川傍の標石
道を進み観音堂川の右岸に出る。観音堂川は山道を下ってきた遍路道谷筋の沢からの流れである。その左岸から来る道に架かる橋を左に見やり、少し進むと道は二つに分かれる。その分岐点に標石が立つ。「左屏風浦白方海岸寺奥院・たと津・丸可め 道」と刻まれる。






民家脇の標石
標石の指示に従い左手の道を観音堂川に沿って進む。ほどなく道の左手、民家脇の細路角に標石が立つ。「右たとつ 丸かめ道 左屏風浦白方海岸寺」と刻まれる。
この標石、よく見ると「右」と「屏風浦白方海岸寺」の部分が硯彫りとなって窪んでいる。伊予の札所散歩の折、同名であった円明寺という寺名での混乱を避けるため、延命寺と改名した寺名を硯彫りで刻み直していたが、「右」と書き直す前は「左」と言うことになる。とすれば元の場所は道の反対側、その場合、「左」方向は「弥谷寺」と書かれていたのであれば辻褄が合うのだが、はてさて。

白方小学校傍の標石
民家の間の細路を進むと小丘に上ることになる。坂道を上り切り、白方小学校前の車道に出る合流点手前に標石が立つ。手印と共に「屏風浦道 いやたに道」と刻まれる。








県道21号合流点手前に2基の標石
白方小学校の西側の坂道を下ると道は予讃線海岸寺駅に当たる。往昔の道は先に続いていたのだろうが、現在は駅と線路に阻まれ迂回することに。
駅の西の踏切を渡り、一旦駅前まで戻り、一応道をつなぎ県道21号へと進む。県道合流点手前の左右に標石が立つ。
右側の標石には「屏風ケ浦 左屏風ケ浦 右まんたら寺道」、左側は「弘法大師御母公旧跡仏母院東三丁 昭和十二年春」と刻まれる。道を渡ると前に海岸寺がある。





海岸寺

正面に二王堂。常の金剛力士ではなくここには地元出身の相撲の力士が左右に立つ。元大関琴ケ濱と元関脇大豪の等身大の彫刻である。
案内を簡単にまとめると、「二王門(二力士門) 正式には金剛力士といい、仁王という。正し、昔朝鮮に王(ワン)という兄弟があり、佛門の警護に当たったことに因み二王とも。当寺はその故事による。
貧寺として後世に残る像を造る資力なく、郷土出身の力士の顕彰を兼ねて造立。地元の彫刻家の手による」とある。

境内に入ると本堂。真言宗醍醐派。納経山迦毘羅衛院(かびらえいん)海岸寺と称す。寺伝によればこの地は空海の母である玉依御前の出身地であり、空海はこの寺の奥の院のある地で生まれたとも言う。奈良時代後期、宝亀5年(774)のことである。
迦毘羅城はネパールで生まれた釈尊の地。当寺の院号を迦毘羅衛院(かびらえいん)とするのは、釈尊と対比しての日本の聖地・空海誕生の寺ということを示すのだろう。
大同2年(807)大師34歳のとき弥勒菩薩を刻み堂宇に祀ったのが当寺の開創とされ、往時七堂伽藍を建立し四十九坊を数える大寺であったそうだが、現在は境内には鐘楼と一つの堂宇が残るだけ。境内裏手は海岸に続く公園となっていた。道脇に十三佛が並ぶ。
十三佛
十三佛とは、先日弥谷寺でみた十王堂に祀られる十王、地獄において亡者の審判をおこなう十尊をもとに、江戸時代に日本でつくられた十三の仏。
十王は平安末期、末法思想と共に深く日本に浸透し、初七日、四十九日といった十の節目に、地獄に送るか否かといった審判を行う閻魔王を代表とする十の諸王であるが、鎌倉時代となって十王それぞれに本地としての仏と相対させるようになった。それが十三佛である。
閻魔王の本地仏は地蔵菩薩。閻魔王以外はそれほど知名度がないため省略する。




海岸寺奥の院

大師生誕の産屋旧跡は海岸寺奥のにある。海岸寺から県道を少し西に戻り、予讃線を渡ったところ。森の上に奥の院の二重塔が見える。田舎帰省の折、車窓から見える印象的な塔として記憶に残るが、奥の院の大塔・多宝塔であっ。 鐘楼を兼ねた山門を潜り境内に。山門は仁王様ではなく四天王が護る。
山門前に標石
山門前に手印と共に、「タドツ十八丁 右弥谷寺三十丁 明治二十四年」と刻まれた標石がある。










産井
境内右手、赤く塗られた覆屋は大師誕生のときの「産井(井戸)」。産湯に使う水を汲んだ、と。
湯手掛の松
産井の対面の、これも赤く塗られた覆屋は湯手掛の松。産婆が手拭を掛けた松、とか。今は枯れて切株だけとなっている。
産屋も湯手掛の松も平安末期に大師信仰故に造られた、とも。


大師堂
境内正面に大師堂。大師童形の像が祀られる、と。
大塔
薬師如来の祀られる大塔。これが帰省の旅に車窓から眺めていた二重の塔。








文殊堂
納経山に造られたミニ四国霊場の石仏を見遣りながら丘を上ると文殊堂。瀬戸の眺めを楽しむ。
烏瑟沙摩(うすさま)堂
ミニ四国霊場を上り切ったところに烏瑟沙摩堂がある。烏瑟沙摩明王を祀る。 Wikipediaによれば、烏瑟沙摩明王とは「人間界と仏の世界を隔てる天界の「火生三昧」(かしょうざんまい)と呼ばれる炎の世界に住し、人間界の煩悩が仏の世界へ波及しないよう聖なる炎によって煩悩や欲望を焼き尽くす反面、仏の教えを素直に信じない民衆を何としても救わんとする慈悲の怒りを以て人々を目覚めさせようとする明王の一尊(中略)心の浄化はもとより日々の生活のあらゆる現実的な不浄を清める功徳があるとする、幅広い解釈によってあらゆる層の人々に信仰されてきた火の仏である。」とある。
「不浄を浄化するとして、密教や禅宗等の寺院では便所に祀られることが多い」ともあった。

これで弥谷寺から海岸寺までのメモは終了。ここから第七十二番札所曼陀羅寺に折り返す。




海岸寺から曼陀羅寺へ

遍路道を曼陀羅寺へと向かう前に、近くにあるもうひとつの大師ゆかりの寺を訪ねる。仏母院がそれである。
海岸寺二王門前、弥谷寺からの遍路道が県道21号にあわさる箇所にあった標石、「弘法大師御母公旧跡仏母院東三丁 昭和十二年春」に従い、大師の母の生まれた地に建つ仏母院に向かう。

県道21号右の標石
県道を東に進み、広田川を渡ってしばらく歩くと県道右手に標石2基が立つ。大きく平たい石の前には仏母院の看板が立ち少し見づらいが、「弘法大師御えな塚 南一丁 御母公旧跡 仏母院」、脇の角柱の標石には「弘法大師御母公旧跡 屏風ヶ浦 仏母院」と刻まれる。
標石に向かって西の広田川方面から道が続く。県道整備以前の遍路道は県道21号の南を進むこの径であったかもしれない。県道を右に折れ仏母院に進む。



仏母院
2014年(Google street view)
2019年現在
南に少し進むと仏母院。道の左手が本堂、右手は比較的新しい建物が立っている。御母公堂・位牌堂とある。Google Street View(2014年)にはお堂が写っている。それがもとの御母公堂だろう。?16年老朽化のために建て替えられたようだ。建物正面に「御母公 不動明王 弘法大師」とある。元の御母公堂に祀られていた尊像名が昔の名残を留めるのみ。

本堂
山門を潜り、道の左手の本堂境内に。真言醍醐派。「八幡山仏母(ぶつも)院三角(みすみ)寺と称す。こじんまりとした本堂。玉依御前がこの地の産土神熊手八幡宮の八幡神に祈りここで空海を出産したと伝わる。
唐から帰国した空海が寺院を整備し三角寺と名付けた、と。熊手八幡宮の別当寺院となり山号を八幡山とした。
戦国時代の永禄年間(1558年-1570年)に戦乱により荒廃したが、その後、修験者の大善坊が再興したことから、寺院名も大善坊と称したが、江戸時代前期の寛永15年(1638年)嵯峨御所より「仏母院」の院号を下賜され、寺院名が大善坊から仏母院に改められた。

「仏母院」は、仏とも仰がれる大師の母公の御屋敷の地であったことから、一切仏を生み出す胎蔵界曼陀羅仏母院(遍智印)よりのアナロジーにより「仏母院」、三角寺は、胎蔵界曼陀羅仏母院の中央にあり、すべての如来の知恵を象徴する燃え盛る三角の印(三角智印)に由来するようだ。
虚空蔵のお堂
山門の左手に虚空蔵のお堂。大善坊の祈願仏であった虚空蔵菩薩を現在荒魂神社のある八幡山(仏母院のすぐ東の山)の御堂より昭和2年(1927)に移した、と。修験者大善坊は大師が虚空蔵持聞法を修したと伝わる八幡山の御堂で修行の日々であった、とか。



御住(みすみ)屋敷跡
本堂の道を隔てた逆側は、御母公堂・位牌堂から北の駐車場を底辺とした三角形となっており、三角(みすみ)地と称する。三角寺、大師母公の御住(みすみ)と、「みすみ」で揃える。三角の地形故か、御住の故か、はたまた曼陀羅由来の三角寺名の故か、なんらかの強い「意図」を感じる。
大師産湯の井
三角地の北端、駐車場の道端に大師産湯の井。覆屋で囲まれるが少々殺風景。
施入八幡銘石碑
駐車場と御母公堂・位牌堂の境、道に平行に3基の石塔が並ぶ。「施入」とは寺社に物や財を奉納すること。八幡様に奉納するということだろうから、八幡神社の別当寺当時の名残を示すものかと思う。


甑(こしき)灯籠
施入八幡名石碑に垂直に3基の石造物が並ぶ。飯を蒸す甑に密閉された仏さまが石灯籠の内に安置される、と。古代からの保食神(うけもちの神;財宝の神)への信仰。10世紀初頭の建立、と。
えな塚
御母公堂・位牌堂の南端を建物裏手に廻り込み、耕地の端の細道をちょっと進むと笹に囲まれた小さな祠。「大師胞衣(えな)塚」。五輪塔と石造物があり、大師の「へその緒」が祀られると伝わる。大師産湯の井戸は各所にあるが、胞衣はここだけだろう。


道標2基
御母公堂・位牌堂前に2基の道標。1基は「左 弘法大師胞衣塚 御母公旧蹟」と刻まれる。もう一基には、手印と共に「北三丁 弘法大師えな塚 御母公仏母院」と刻まれる。300mほど南から移されたものだろう。









熊手八幡宮
仏母院の縁起にあった大師ゆかりの熊手八幡にもちょっと立ち寄り。県道21号に戻り少し東に進み左手の道に入る。ほどなく熊手八幡。
随身門には神馬と共に高麗犬が社を護る。木製彩色の古風を残す。町有形文化財。社殿にお参り。境内に残る、古の社であろう石の小祠群に惹かれる。
熊手の由来は、神功皇后征韓の折りに用いた御旗、長鉤(熊手)がご神体の故と。凱旋の時、屏風浦に至り蔵を造りてこれを蔵め、とある。
なお、熊手八幡の先、県道合流点に荒魂神社がありお参りしたが、仏母院の縁起にある荒魂神社は八幡山にある荒魂神社ではあった。ちょっとはやとちり。 ともあれ、これで海岸寺周辺の大師ゆかりの地を廻り終えた。ここから第七十二番札所 曼陀羅寺へ向けて遍路道を進む。

JR予讃線踏切
熊手八幡より仏母院に戻り、道なりに南に進み広田川に架かる橋を渡る。橋を渡ると県道217号にあたる。県道を左に折れるとJR予讃線踏切。
この踏切手前の田んぼの端に「北三丁 弘法大師えな塚 御母公仏母院」標石があった、という。現在は見当たらない。と、そういえば先ほど仏母院の御母公堂・位牌堂前前に、同じ文字の刻まれた標石があった。この地から移されたものであった。

遍路道はふたつに分かれる
踏切を超えると遍路道はふたつにわかれたようだ、ひとつはそのまま県道217号を進む。もう一つは天霧山の東裾を東西神社に向けて進むもの。大きく整備された県道を避け、山裾を進む道をとる。
線路を渡ったところで大きく右に折れ民家の間の道を進む。

東西神社参道口に標石
山裾の道を進むと東西神社に出る。東西神社の名前の由来は?境内にあった案内にも特に記されていない。古くは善通寺の鎮守である五社明神のひとつ塔立明神と称されたが、天霧城の東麓、伊豫街道に接する要路にあったため中世の戦乱災禍により衰退。天正年間天霧城主香川之景(信景)が再興し後世東西大明神と称された、といった記事も見かけたが、これも何故東西神社となったかは不明である。
それはともあれ、神社参道口の伊予街道(旧太政官道)と交差する箇所に標石があり、「従是まんたらしへ十四丁」と刻まれる。

七人同志碑
標石左手に「七人同志の碑」が立ち、「森甚右衛門」の略伝が示される。先回の散歩で出会った七義士神社に祀られる七万人にも及び農民一揆を指揮したひとりである。



県道48号の茂兵衛道標
国道11号、高松自動車道を越え県道48号に当たる。曼荼羅寺へはここを右に曲がるが、左折し茂兵衛道標を確認に向かう。
この茂兵衛道標は予讃線の踏切でふたつに分かれた県道217号を進む道筋。県道は高松道まで続き、そこで左に折れるが、遍路道はそのまま直進し県道48号に合流。その角に茂兵衛道標が立つ。
手印と共に「曼荼羅寺 出釈迦寺 弥谷寺 明治四十四年」と刻まれる。茂兵衛241度目の巡礼時の道標である。


茂兵衛道標
元に戻り少し西に進んだところで県道を左折し曼荼羅寺に向かう。道の右側に「右甲山寺 明治十九年」と刻まれた茂兵衛88度目巡礼時の道標である。
この道標から民家の間を道なりに進むと、ほどなく七十二番札所曼荼羅寺に着く。
これで弥谷寺から海岸寺を経由する曼荼羅寺へのメモはおしまい。次回は弥谷寺から直接曼荼羅寺に向かう曼荼羅道の歩き遍路ルートをメモする。
六十七番札所・雲辺寺からはじめた讃岐遍路歩きも阿讃山脈の山道を下り、讃岐の里道を辿り六十九番札所・観音寺まで進んだ。
今回は観音寺からはじめ、七十番札所 本山寺、七十一番 弥谷寺へと向かう。観音寺から本山寺まではおおよそ5キロ、本山寺から弥谷寺まではおおよそ11キロ。17キロはどの長丁場となる。
観音寺から本山寺までの遍路道は、本山寺近くに行くまで標石が乏しく、特に観音寺市街にはほとんどと言っていいほど標石が見当たらない。特段の標石マニアではないのだが、旧遍路道の目安としている標石がないのは、旧遍路道を歩いているといった実感に乏しくちょっと残念。一方、本山寺から弥谷寺までは標石も多く、遍路道の周辺にもあれこれ興味を引く名前の社などがあり、ちょっと立ち寄りも多くなってしまった

雲辺寺からはじめた讃岐の遍路歩きは、まだはじまったばかりではあるが、何となく伊予の札所と趣が異なるように感じる。特段の理由が有るわけでもなく、何となくである。もう少し歩けば、その因がもう少し見えてくるものがあるかもしれない。ともあれ、今回は観音寺市からお隣の三豊市に入り、その先の善通寺市の手前まで讃岐の里の遍路道をメモする。


本日の散歩;六十九番札所 観音寺>旧市街を抜け県道5号に>県道5号を県道49号・村黒町交差点に>立専寺>加麻良神社>六地蔵と標石>本山寺橋南詰めの標石>七十番札所 本山寺
七十番札所 本山寺>三差路の標石>四国の道の標識と標石>茂兵衛道標(100度目)>妙音寺>忌部神社石標>>忌部神社>茂兵衛道標(157度目)>大津池西南隅の茂兵衛道標(164度目)と標石>宇賀神社>七義士神社>東角屋池傍の徳右衛門道標>>異形十三重塔>加茂高津神社>茂兵衛道標(150度目)>県道221号と国道11号合流点手前に標石>標石を兼ねる石造群>常夜灯と標石>落合の標石>落合大師堂>地蔵尊傍の標石>手印のみの標石>弥谷寺の寺名石>八丁目大師堂>第七十一番札所・弥谷寺

六十九番札所 観音寺
六十九番札所 観音寺から次の札所への遍路道は、財田川の北を辿るものと南を辿るものがあったようだ。しかし、現在そのルートは共にはっきりしていない。今回はちょっと気になる標石が残るという財田川の南側、旧市街を進むことにした。

旧市街を抜け県道5号に
琴弾山東麓に沿って琴弾八幡の大鳥居まで戻り三架橋を渡る。旧遍路道南側に渡ると成り行きで旧市街の細路に入る。しばらく北東へ歩き、道の左手に白藤稲荷(茂西自治会館傍)。ささやかな稲荷の社ではあるが、かつては近郷近在だけでなく、伊予の川の江からも参詣に訪れたという。小祠の先で県道5号に出る。

県道5号を県道49号・村黒町交差点に
県道5号の右手に観音寺第一高等学校、左手に荒魂神社。社にお参りし先に進むと県道49号・村黒町交差点にあたる。その手前100mの辺りに左に分岐する旧道があり、その角に標石があったとのこと。この標石が前述の「」ちょっと気になる標石であったのため、結構探したのだが見当たらなかった。
添歌付標石
標石には「生連来て残る毛能こそ石者はかり 我が身ハ消えしむかし成ら無(生まれ来て残るものこそ石ばかり 我が身は消えし 昔なるらむ)」と刻まれていた、とのこと。観音寺の商人三崎屋亦八の立てたものではないかとも言われる。
これは伊予の遍路道、西条市(旧小松町)の六十二番札所・宝寿寺から六十三番・吉祥寺に向かう途次に立っていたという茂兵衛道標(東宇和郡宇和町卯之町の愛媛県歴史文化博物館に保存)の添え歌「うま禮来天能古留茂の登天石はか里 我身ハ消へし無可能志な里希り」の元歌では、との記事もあった。
旧道角は更地となっていた。更地にする時にどこかに移されたのだろうか。ちょっと楽しみにしていただけに少々残念であった。

立専寺
右手に高木神社を見遣り県道5号を進むと、道の左手に加麻良神社の名が地図にある。名前に惹かれちょっと立ち寄ることに。社傍に西連寺、立専寺の名も見える。そのお寺様経由の道を進む。西連寺、立専寺にお参り。
立専寺の鐘楼の撞木は滑車付き。こんな撞木初めて目にした。この鐘楼は明治の神仏分離の折、琴弾八幡宮より移されたもの、と言う。


加麻良神社
道なりに進み独立丘陵に鎮座する加麻良神社に。

三ッ鳥居
本殿参道を進むと、参道脇に注連縄のはられた鳥居が建つ。特に社殿はない。横にあった案内には、この社は讃岐で最も古い社で、延喜式内社として記される以前より鎮座する。またこの丘陵そのものが神体山・御神室山(橘亀山)である、とする。
鳥居は三ッ鳥居(三輪鳥居)様式。明神鳥居の両脇に小さな鳥居が並ぶ。神体山そのものを祀るものとして平成十二年(2000)に建てられた、とあった。加麻良は神室からの転化である。
本殿
讃岐にある24の延喜式内社が並ぶ参道を進み本殿にお参り。本殿境内に木の鳥居。橿原神宮遥拝所とあった。
社伝には、この社は大己貴神(おおなむち;)と少彦名神(すくなひこな)の2神による四国経営の御霊蹟と。ここから四国の開発がはじまった、という。鎮座地の流岡は、三豊市高瀬にある大水上神社に(香川用水散歩の折に訪れた)来た少彦名神が毎夜泣き叫ぶため、大水上神は桝に乗せて流したところ、当地に流れ着いたとの故事による。周囲一面が海であった頃の話、とか。

延喜式内社
延長5年(927)の『延喜式』に記載された全国の神社一覧。「官社」として認められた社ということである。

六地蔵と標石
予讃線を潜り県道5号を先に進むと道の左に六地蔵。石の小祠の中にある。常の六地蔵は六体並び立つが、この六地蔵は一石に二躰づつ、三段に分かれて彫られた坐像となっている。こんな六地蔵を見たのは初めて。
六地蔵脇に県道から分岐した細路があるが、石祠の傍に標石。「左本山寺四丁 右又右金毘羅四里 願主 上市浦観音寺 三崎屋亦八」と刻まれる。前述の県道49号手前にあったとされる添歌標石の寄進者とされる商人である。三崎屋亦八の詳細不詳。
「右又右」は右折を二回しろ、ということ。伊予見峠を越えて金毘羅さんに向かう金毘羅道の案内だろう。

本山寺橋南詰めの標石
標石に従い細路を進む。観音寺市と三豊市の市境なっている細路を進むと財田川の土手に出る。
土手を進むと財田川に架かる本山寺橋の南詰に標石。「右いよ 左小松尾寺 明治廿二年」と刻まれる。川の真ん中で観音寺市から三豊市に入る。
いよ街道
「いよ」は旧伊予街道のこと。律令時代の南海道太政官道である。先回の散歩で茂兵衛道標と真念道標の立つ旧伊予街道と出合ったが、そこから道を辿ると、如何にも太政官道の名残を伝える「大道」といった地区を抜け、この地に繋がる。
旧伊予街道の道筋でもある本山寺橋を渡る。対岸には本山寺の堂宇、五重塔が見える。結構大きなお寺さまのようだ。


七十番札所 本山寺

橋を渡ると、旧伊予街道に面して七十番札所 本山寺の山門。大草鞋が左右に架かる

山門手前の標石2基
山門左の標石には「右遍路道 左うら門与寺門入納経所あり 寛政九丁巳」と刻まれる。丁巳は「ひのとみ」。
右の標石には「七十一番彌谷寺程三里 六十八番九番観音寺里程一里 昭和二年 市出商人連中」と刻まれる、と言う。市出とはこの地で市を出した商人達のよう。
寺前を通る伊予街道を讃岐と伊予の商人が、阿波の野呂内からは六地蔵越え辺り(野呂内越え)を越えて下って来た阿波の商人達が、この地にて市を開く交通の要衝であったとのことである。


本堂
境内正面に本堂。本尊は馬頭観音。四国霊場で馬頭観音を本尊とするのはこのお寺様だけである。建物は香川唯一国宝に指定されている。伊予と讃岐、また阿波からの往還の要衝の地故に、牛馬を大切にしたことだろう。







大師堂
平成26年(2014)に大師像が開帳され、毎月21日に開帳されている、と言う。折から参拝に訪れたバスでの団体参詣の方々がお大師さまにお参りしていた。









五重塔重塔
本堂裏手に大正二年(1923)に再建された五重塔。












十王堂
本堂左手に十王堂。十王とは閻魔王を含めた10尊。亡者の罪の多寡を審判し、地獄へ置送るなど六道輪廻を司る。生前に十王を祀れば死して後の罪を軽減してくれるとの信仰より、このお堂にお参りするのだろう。







鎮守堂
十王堂の左に社のような建物。神社によく見る注連縄がはられる。室町末期の様式を残す小さな社は鎮守堂。檜皮葺き屋根が素朴でいい。
この社には善女龍王像を祀る。請雨秘宝の霊神とされる龍王の一尊。弘法大師が京都神泉苑にて雨請の修法をおこなった時にその勧請により姿を現したとされる。





仁王門
境内南端に仁王門。室町中期の建物とされ重要文化財に指定されている。正面三間、奥行き二間一戸。正面柱間三つの内の真ん中の一間が通路となっている。








北端冠木門の茂兵衛道標
境内北端にある庫裏の旧伊予街道側に冠木門。その外に茂兵衛道標。摩耗が激しく手印が見えるのみ。茂兵衛127度目巡礼の際のものである。

寺伝によれば、この寺は弘法大師一夜建立の寺とされる。大師自ら阿波の国から木材を伐採した、と。前述伊予・讃岐・阿波からの交通の要衝と記した如く、阿讃山脈を越えた交流が古よりあった、ということか。
四国の寺は長曾我部四国攻略の折に灰燼に帰したものが多いが、このお寺さまは本堂、仁王堂が焼失を免れている。阿弥陀如来が住職の身代わりとなり寺を救ったとのお話が残る。
また、このお寺は農民一揆の集結地としても知られる。いつだったか香川用水散歩の折、七義士神社に出合ったが、この社に祀られる七名の有力農民に率いられ当時の三野郡、豊田郡、多度郡、那珂郡を巻き込む大規模な農民一揆であったよう。
なおこのお寺さまは京都の石清水八幡神を祀る。嘉禎2年(1236)京都石清水八幡宮の末社別当寺として二千石が給され祈祷所と定められたという。二千石の寺領をもち、七堂伽藍、二十四坊を有する四国有数の大寺院であった、とのことである。

三差路の標石
本山寺を離れ、寺家と言う如何にも門前町の名残を示す地名の街並みを少し進むと北西から合わさる道との三差路。その角に標石が立つ。手印と共に、「彌谷寺」の名が刻まれる。








四国の道の標識と標石
さらに道を進むと、南からの道と合わさる三差路角に「四国のみち」の標識と木の遍路標識があり、その傍に標石が立つ。手印と共に「是ヨリ東二丁 世話人藤田 本田」「平城天皇勅願所四国霊場第七十番 大同弐年九月下旬弘法大師一夜建立 本堂乾角落旧跡地蔵堂」「昭和十年」などといった文字が読める。




茂兵衛道標(100度目)
この標石から少し先、道の右手の民家敷地の角に茂兵衛道標が立つ。「右琴平宮 壱百度目為供養 周防圀大島郡 中務茂兵衛」、手印と共に「弥谷寺 是ヨリ二里三十二丁余」「明治廿一年」と言った文字が刻まれる。また、この道標には「法の花咲く道道の匂い希り」の添え歌も刻まれているとのことである。
琴平宮への案内は伊予見峠に至る金毘羅街道には右折、ということだろう。


妙音寺
遍路道は国道11号に合流。ここからはしばらく国道を歩くことになる。予讃線本山駅への六の坪交差点を越え、少し進むと道の右に妙音寺がある。本山寺奥の院であり、古代寺院のひとつと言われるお寺様へちょっと立ち寄り。
国道左にある五十鈴神社手前を右折、神社境内端の坂を左折し妙音寺へ。古き趣の山門への道筋に「建石? うちもど里」と刻まれた石柱がある。「?」は「迄」。建石まで打ち戻り、と言う意味だろうか。とはいうものの建石は地名?不詳である。







土塀の参道を進み本堂に。Wikipediaによれば、「寺伝によれば、飛鳥時代天武天皇治世の白鳳5年(665年または676年)に創建されたと言われ、讃岐国最古の寺院の一つと伝えられる。平安時代初期の弘仁年間(810年- 824年)嵯峨天皇の勅願所となり、空海(弘法大師)によって現在の寺号となったと伝えられている。
戦国時代に入り天正2年(1574年)長宗我部元親軍の侵攻により伽藍は火災に遭った。この時、本尊の阿弥陀如来は自ら雨を降らせて難を逃れたと伝わっている。 天正の戦火で寺院は荒廃した。その後、江戸時代中期の正徳年間(1711年 - 1716年)旭応阿闍梨によって復興された。また、寛政年間(1789年 - 1801年)に清雅恵洞和尚が伽藍を整備した。
当寺院に祀られている不動明王は霊験不動尊と言われ、祈念すると夢の中でお告げがあると言われることから、別名「夢見不動」とも呼ばれている」とあった。本尊の阿弥陀如来は国の重要文化財指定となっている。

忌部神社石標
国道11号に戻り先に進む。高松道の「さぬき豊中IC」への出入口少し手前で遍路道は国道から右に入る。池端の道を進むと「高松道さぬき豊中IC」へのアプロ―チ道にブロックされ現在は直進できない。アプローチ道に沿って右に折れ、アプローチ道下を抜けるトンネルを通り国道側へと戻る。
ブロックされた遍路道の反対側まで戻り北に進むと「忌部神社」と刻まれた大きな石標が立つ。いつだったか阿波の忌部神社を辿ったこともあり、ここらへもちょっと立ち寄り。




忌部神社
遍路道から左に折れ忌部神社に。境内に特に由緒などの案内はない。阿波の忌部神社はあれこれチェックしたのだが、讃岐と忌部神社、忌部氏の関係は?
讃岐忌部
讃岐忌部(さぬきいんべ)氏は、日本各地に分布する忌部氏の一族のひとつ。手置帆負命(たおきほおひのみこと)を祖神とする。阿波忌部は天日鷲命(あめのひわしのみこと)、紀伊忌部は彦狭知命(ひこさしりのみこと)、出雲忌部は櫛明玉命(くしあかるだまのみこと)をその祖先神とするが、すべて天太玉命(あめのふとだまのみこと)が天孫降臨の際に随従した五柱(五部の神)である。
出雲の忌部氏の祖先神櫛明玉命は「玉作の工人を率いて日向に御降りになり、命の子孫一族は所属の工人と共に出雲玉造郷に留まって製玉に従事した」とあるように、攻玉技術をもって勾玉などの調製にあたっていた。
阿波の忌部氏の祖先神である天日鷲命は、穀木(かじ)麻を植え製紙・製麻・紡織の諸業を創始したと伝わる。麻や穀(楮)は、木綿(もめん)が日本に伝わる以前の糸・布・紙の原料であり、そこからつくられた原料のことを「木綿(ゆう)」と呼ばれ、布を織り、神事の幣帛や紙垂などに使われたようである。 そしてこの讃岐の忌部氏の祖である手置帆負命。「手置帆負命が孫、矛竿を造る。其の裔、今分かれて讃岐国に在り。年毎に調庸の外に、八百竿を貢る」とあるように、朝廷に毎年800本もの祭具の矛竿を献上していたとされる。讃岐忌部氏は、矛竿の材料である竹を求めて、いまの香川県三豊市豊中町笠田竹田忌部の地に居を構え、そこを拠点として特に西讃(せいさん)地方を開発したようである(Wikipedia)」とある。
讃岐は竿を貢ぐ国ということから、竿調国(さおのみつぎ)と呼ばれ、それが「さぬき」という国名になったという説もあるようだ(Wikipedia)。

Wikipediaにはまた、「善通寺市大麻町の式内社・大麻(おおさ)神社」の社伝には、「神武天皇の時代に、当国忌部と阿波忌部が協力して麻を植え、讃岐平野を開いた」という旨の記述が見え、大麻山(おおさやま)山麓部から平野部にかけて居住していたことが伺える。この開拓は、西讃より東讃(とうさん)に及んだものといわれている」といった記事もある。讃岐忌部氏の讃岐開発の事績と共に古来より讃岐と阿波の交流が盛んであったことがわかる。
忌部氏
忌部氏って結構興味深い氏族である。通説では、忌部氏の本宮は奈良県樫原町忌部町にある天太玉神社(あめのふとたま)とされ、そこから各地方へ忌部氏が下って行ったとされる。
それに対し、中央・地方の忌部は阿波忌部がその母体となっており、阿波忌部の全国進出とあわせて技術と文化の伝播をもたらした。つまりはヤマト王権も阿波忌部がその成立を支えた。こうした阿波忌部の起点となるのは麻植郡であるとするから、いうなれば麻植郡は日本そのものの発祥の地である、といったものである
下総の地の名前の由来について忌部氏との関りを示す記事もある。『古語拾遺』には、「天富命、さらに沃壌を求め、阿波の斎部(いつきべ)を分かち。東国に率い行き、麻穀を播殖す。好麻の生ずるところ、故にこれを総国という。穀木(かじき;ゆうのき)の生ずるところ、故にこれを結城郡という。故語に麻を総というなり、今の上総下総の二国これなり」と言う。下総が阿波の忌部氏によって開かれたようにも読める。門外漢故に真偽のほどは不明だが、なんとなく忌部氏って面白い。
なお、『古語拾遺』は忌部氏の後裔である斎部広成が著したものであり、斎部とは忌部と同義、天富命とは天太玉命の孫と伝わる。

茂兵衛道標(157度目)
遍路道に戻り北に進むと新屋敷の集落、道の右手に茂兵衛道標がある。手印と共に「本山寺 弥谷寺」と刻まれるが、手印があらぬ方向を示している。理屈の上では道の左手の何処かにあったものを移したのではないだろうか。明治丗年、茂兵衛157度目の巡礼道標である。






大津池西南隅の茂兵衛道標(164度目)と標石
さらに少し進むと大津池に出る。その西南隅、民家のブロック塀の前に「四国のみち」の標識、自然石の標石、そして茂兵衛道標が立つ。
自然石には手印と共に「本山二十五丁 彌谷八十五丁」、茂兵衛道標には手印と共に「本山寺 箸蔵寺 明治丗一年」と刻まれる。この手印もあらぬ方向を向いている。本山寺との位置関係でいえば、遍路道の右側のどこかに立っていたものを移したのだろう。茂兵衛164度目の巡礼の折の道標である。
金毘羅さんの奥の院と称される箸蔵寺はいつだったか箸蔵寺から土讃線財田駅へと続く箸蔵道を歩いたことがある。この地からの道筋は不詳だが、金毘羅街道を越え、財田川に沿って歩いていけば土讃線財田駅近くに出る。この地から箸蔵寺へのルートも興味を覚える。

屏風浦へんろ道の標石
茂兵衛道標などの標石がある角の道を隔てた反対側、一段低いところに石碑がいくつか並ぶが、そのひとつ、平べったい石に手印と共に「屏風浦へんろ道」と刻まれる。予讃線海岸寺駅近くにある弘法大師生誕の地に建つ海岸寺のことを屏風浦と称するようである。海岸寺に迫る天霧山、弥谷山の山容が海から見ると屏風を広げたように見える故、と。
七十一番弥谷寺を打ち七十二番曼荼羅寺に向かうお遍路さんの中には、直接曼荼羅寺へ向かうことなく、一旦曼荼羅寺とは真逆の海岸寺へと向かい、そこから曼荼羅寺へと折り返す者もいたとのことである。とまれ、大師生誕のお寺さまへの道標である。

宇賀神社
標石前の大津池の東に宇賀神社がある。「どぶろく祭り」で知られる、と。ここにもちょっと立ち寄り。
この社、古くは岡神社と称し、手置帆負命に随従してこの地に住み笠を縫い給うたその子孫がこの里に住み祖神笠縫神を祀った。またこの里を笠縫の里といい、笠岡村とよんだ、とする。現在でもこの辺りは豊中市笠田笠岡と呼ばれるようである。手置帆負命は前述讃岐忌部氏の祖先神である。
境内には酒蔵のような蔵が建つ。明治33年には濁酒醸造の許可を受け、祭りには一般参賀者に振る舞っているようである。

社殿裏手には玉垣に護られ注連縄の張られた球状巨石が鎮座する。巨石信仰?ここからは単なる妄想。讃岐忌部氏の祖・手置帆負命は天照が天岩戸に隠れたときに御殿を建てた神と言う。また阿波忌部氏の祖先神 ・天日鷲命 は天岩戸開きに大きな功績をあげた神とも言う。どちらも天岩戸に関りが深い。で、天岩戸って巨石を想起する。
神社前の池を隔てた彼方に見える七宝山を眺め、遍路道に戻る。

七義士神社
道上、大道といった如何にも古代太政官官道・南海道の名残を残す地区を越えると、道は国道11号に合流する。その合流地点に何だか見たことのある社と池。 いつだったか香川用水東部幹線を辿ったときに出合った社であった。
その時のメモを再掲;権兵衛神社(七義士神社)と称されるこの社は、江戸時代中期、9代将軍家重のときに勃発した讃岐最大の一揆の首謀者として処刑された、七人の義民(義人)を祀る神社。
寛延年間(1748-1750)、数年来の風水害に加え役人の横暴な振る舞いにより、丸亀・多度津両藩の百姓は疲弊に貧していた。徳政などの願い効なく、一揆を計画。首謀者は丸亀藩の5名、多度津藩の2名の百姓。その中での指導者が丸亀藩笠岡村の大西権兵衛であった。
寛延3年(1750)年1月20日には、一揆の呼びかけに応じた多度郡・三野郡・豊田郡の百姓は財田川の本山河原に集結。22日には鳥坂峠を越えて那珂・多度郡勢と善通寺で合流。このときの一揆の総勢は6万人余に達したと言う。
この動きに対し藩側は23日に一揆勢と会合をもち、嘆願をほぼ認め、一揆勢は解散し帰村する。しかし、その後状況は一変。全国で勃発する一揆に危機感を抱いた幕府が、20日には百姓の強訴・徒党の禁令を発令していたことを知った丸亀・多度津両藩は妥協案を完全に反故にし、一揆首謀者を捕縛。7月28日には大西権兵衛他7名をい金倉河畔において打首・獄門の刑に処せられた。
鳥居右手の「此の世をば泡と見て来しわが心 民に代わりて今日ぞ嬉しき」と刻まれた大きな碑は、そのときの権兵大西権兵衛の辞世の句と言われる。 村人はこの七人を義士として密かに弔い続けたが、明治の御一新になり、七義士の威徳を偲び権兵衛ゆかりの笠田村に神社が建てられ、7人の義民は神として祀られた。
先ほど訪れた宇賀神社は、境内梵鐘を合図に一揆が立ち上がり、本山寺は一揆が集合した場所であった。歩けばあれこれつながってくる。

東角屋池傍の徳右衛門道標
七義士神社から国道11号を池に沿って少し進むと直ぐ、遍路道は池端から左に分岐すする道に入る。この辺りを「六ッ松」と呼ぶ。現在からは想像もできないが、かつては木々が生い茂り昼なお暗い一帯であった、とか。夜は暮れ六ッから明け六ッまではひとりで通るには怖すぎ、連れを待っていたとのこと。六ッ待つ>六ッ松と転化した。
溜池の間を縫うように進むと東角屋池。その傍、セメント造りの小祠に徳右衛門道標が建つ。献花筒には花も供される。道標に大師座像が刻まれているためのようだ。「是より弥谷寺迄壱里十八丁 寛政八丙辰三月」と刻まれる。丙辰は「ひのえたつ」。この小祠を一里松地蔵堂とするのは、かつてこのあたりに一里塚があった故だろう。
暮れ六ッ・明け六ッ
朝、薄明が始まった時を明け六つとし、夕方、薄明が終わった時を暮れ六つとして、時刻の基準とした。江戸時代までの時刻法の一つ。
午前0時;九ッ(子ノ刻)>午前2時;八ッ(丑ノ刻)>午前4時;七ッ(寅ノ刻)>午前6時;明け六ッ(卯ノ刻)>午前8時;五ッ(辰ノ刻)>午前10時;四ッ(巳ノ刻)>午後0時; 九ッ(午ノ刻)>午後2時; 八ッ(未ノ刻)>午後4時 ;七ッ(申ノ刻)>午後6時;六ッ(酉ノ刻)>午後8時l 五ッ(戌ノ刻)>午後10時;四ッ(亥ノ刻)

草木も眠る丑三ッ時というけど、丑は八ッでは?干支の刻は2時間。それを四等分してそれぞれ、一ッ、二ッ、三ッ、四ッとしたようだ。で、午前2時からはじまる丑の刻の丑三ッとは、午前3時から3時半ということになる。

異形十三重塔
徳右衛門道標が祀られる小祠を超えると右手に松葉碕池。池を超えると遍路道は国道11号から分かれる道と交差。遍路道はそのまま先に進むが、国道11号傍に見える大きな石の塔にちょっと立ち寄り。
交差箇所を右に折れ、国道11号の少し東に立つ石の塔に向かう。国道から右に入る道を進むと石の塔に。
威徳院勝造寺層塔とある。案内には「案内には「香川県指定有形文化財 昭和38年4月9日指定 この層塔は永和4年3月6日(1378年)に建立されたもので、通称「石ノ塔」と呼ばれている。総高7,1m、塔身は凝灰岩の切り石を十三層に積み重ねたもので他に類例がなく、異形十三重塔とも呼称される。
300年後(1678年)丸亀藩主京極高豊公が散失した塔?を集め、且つその欠けたところを補い修復した。更に300年たち損傷が甚だしいく倒壊の危機に瀕したので、香川県・旧高瀬町(現三豊市)・地元住民が一体となって、昭和52年(1977年)3月6日に解体修理に着手し同年5月14日に完成した」とある。
伝わるところでは、この塔は若狭国の八百比丘尼(やおびくに)によって建てられたとする。八百比丘尼の伝説は各地に残る。Wikipediaには「八百比丘尼(やおびくに、)は、人魚など特別なものを食べたことで長寿になった比丘尼である。福井県小浜市と福島県会津地方では「はっぴゃくびくに」、栃木県西方町真名子では「おびくに」、その他の地域では「やおびくに」と呼ばれる。(中略)その伝説は全国28都県89区市町村121ヶ所にわたって分布しており、伝承数は166に及ぶ(とくに石川・福井・埼玉・岐阜・愛知に多い)[33]。白比丘尼(しらびくに)とも呼ばれる。800歳まで生きたが、その姿は17~18歳の様に若々しかったといわれている[34]。地方により伝説の細かな部分は異なるが大筋では以下の通りである。
八百比丘尼の伝説
ある男が、見知らぬ男などに誘われて家に招待され供応を受ける。その日は庚申講などの講の夜が多く、場所は竜宮や島などの異界であることが多い。そこで男は偶然、人魚の肉が料理されているのを見てしまう。その後、ご馳走として人魚の肉が出されるが、男は気味悪がって食べず、土産として持ち帰るなどする。その人魚の肉を、男の娘または妻が知らずに食べてしまう。それ以来その女は不老長寿を得る。その後娘は村で暮らすが、夫に何度も死に別れたり、知り合いもみな死んでしまったので、出家して比丘尼となって村を出て全国をめぐり、各地に木(杉・椿・松など)を植えたりする。やがて最後は若狭にたどり着き、入定する。その場所は小浜の空印寺と伝えることが多く、齢は八百歳であったといわれる。

とはいえ依然この塔が建てられた目的は不明。塔には大日如来を示すような梵語がかすかに見える。なお、威徳院勝造寺はこの塔の少し南東にあるお寺さま。

加茂高津神社
遍路道に戻り北に進む。道の左手に加茂高津神社。香川県神社誌には、「傳ふるところによれば、此の地は皇子屋鋪とて妙法院二品尊澄法親王(私注;宗良親王)の御遺跡にして當社は親王を祀れり。元弘二年(私注;1332)三月後醍醐天皇(私注;宗良親王の父)隠岐に移らせ給ひ、親王は本郡詫間浦に移らせ給ひたるも、詫間の気候御身に適し給はずじて當地遷らせらる。
依って此の地を皇子屋鋪といひ、又親王の遺跡を記念せむ為祠を建てて王子権現と稱し親王を奉齋すといへり。
(中略)或いは云ふ。皇子屋鋪の地に古く賀茂神を奉齋しありしが、天正年間兵火に罹り寛文年間社殿を再建して王子権現といひ、明治十五年摂津難波に倣ひ今の社號に改む」とある。
宗良親王故に王子権現と称されたのは分かった。が高津神社となった所以は「摂津難波に倣ひ」とあるだけではっきりしない。チェックすると、江戸の頃、王子を応神と取り違えたとの記事がある。摂津難波に仁徳天皇、その父の応神天皇を祭神とする高津神社がある。それに倣ったということだろうか。単なる妄想ではある。

茂兵衛道標(150度目)
予讃線高瀬駅への道との交差点を直進すると高瀬川の手前、民家にもたれかかるように茂兵衛道標が立つ。摩耗が激しく「右金毘羅」、手印と共に「本山寺」、「弥谷寺」が刻まれる。明治二十九年、茂兵衛150度目の巡礼時のもの、と言う。




県道221号と国道11号合流点手前に標石
遍路道は高瀬川の土手に阻まれ左折し、高瀬川橋の西詰で県道221号に乗り換える。道を進み県道が国道に合流する手前にY字の分岐点。その分岐点に「四国のみち」の標識とともに、平べったい標石があり、手印と共に「これよりいやたに寺三十九丁 打越へ?風ケ浦六十九丁」と刻まれる。
屏風ケ浦は予讃線海岸寺駅の近く、空海誕生の地海岸寺のあたりを海から見た姿。海岸に迫る天霧、弥谷山が屏風を広げたように見えるから。「打越」は? 遍路用語に「打戻り」といったものがある。打越しもそういった用語だろうか、地名だろうか。不明である。



標石を兼ねる石造群
分岐点の標石に従い左手の道に入ると、標石脇に高い柱碑、大師座像、壊れた屋根石下の石造物がある。墓石らしにものも見える。
「光明真言一億万遍」「文政」などの文字が読める柱碑の台座には手印が刻まれる。またその隣の大師座像の台石にも「左へんろみち 是ヨリいやたに三十九丁 是ヨリもとやまへ** 寛政十二」といった文字が刻まれ、共に遍路標石となっている。




常夜灯と標石
分岐点を境に三豊市高瀬町から同じく三豊市三野町に入る。大道>道免>鳥坂へとほぼ国道11号筋を進むかつての太政官道・旧伊予街道と先ほどの分岐点で別れた遍路道は、弥谷山に向かって一直線に進むことになる。原>出井>落合>弥谷と続く道筋の出井の辺りに大きな常夜灯があり、その傍に標石がある。手印と共に、「是より弥谷寺」と刻まれる。





落合の標石
常夜灯の先で北西に緩やかにカーブする道が、北東へと抜ける道と交差する角に標石がある。手印と共に「もとやま寺* いやだに寺道」「明治三十九年」と刻まれる。遍路道は標石の手印に従い道を右折する。







落合大師堂
右折し民家の間の狭い道を進むとすぐ落合大師堂がある。常夜灯や多くの古い石造物の中に標石が1基ある、と。大師像が彫られた石碑がそれらしき、とは思うのだが摩耗が激しくよくわからなかった。








地蔵尊傍の標石
更に道を少し進むと民家軒下といったところに、地蔵尊、金毘羅常夜灯、地神の祠があり、地蔵尊傍に標石がある。手印と共に「右丸かめ 左いや谷 道」と刻まれる。また、足をたらした地蔵尊の台石にも手印、そして「右丸か免道 左へんろふ*」「文政五」といった文字が刻まれ、標石となっていた。







手印のみの標石
水路を越え少し進むと、道の左手の電柱脇に標石。手印もほとんど摩耗しそれと言われなければわからない。










弥谷寺の寺名石
しばらく道を進み、東西に走る車道を超えると道の両側に「四国第七十一番弥谷寺」と刻まれた寺名石が建つ。ここが弥谷寺の参道口。寺名柱の手前、車道と交差する角に標石があり、手印と共に「本山寺 弥谷寺」が刻まれる。


八丁目大師堂
参道口を進み県道48号を渡り、北に進む。一筋北の車道に「四国のみち」の標識があり、ゆるやかなカーブの道を進むと弥谷山に向かう大きな車道に出る。弥谷寺への車道でもある。
車道を少し進み「弥谷寺車道」と刻まれた石柱で遍路道は左に入る。そこに八丁目大師堂。「弥谷寺本堂へ1,000米 大師堂納経所700米 仁王門400米」と書かれた案内がある。一丁は約109m、八丁は約872mである。
大師堂少し手前の一段高いところに標石があり、「従是本山寺江百*丁 従是本堂江八丁」と刻まれる。里を眺めると讃岐特有のお椀を伏せたような山が見える。貴峰山(とみねやま;標高228m)ではないだろうか。


第七十一番札所・弥谷寺


八丁目大師堂から土径を進む。道に沿って舟形地蔵などの石仏が並ぶ。道なりに進むと八丁目大師堂で別れた車道にあたる。車道を超えると弥谷寺の駐車場。バスでのお遍路さんが多い。


天霧城跡の案内
駐車場を上がり、参詣のシャトルバス乗り場のある広場に出る。山腹の本堂まで640段余の石段があるようで、途中までシャトルを利用される団体お遍路さんが目についた。
境内案内などのある反対の谷側に大師座像、第二十九番札所国分寺の本尊・千手観音、十二番札所焼山寺の舟形地蔵(右手に宝剣、左手に宝珠をもつ本尊の虚空蔵菩薩とはお姿が異なる)の横に国指定史跡天霧城跡の案内。縄張りや由来が記されている(この城跡には次回訪れる)。



茂兵衛道標
灌頂川に架かる橋を渡ると石段。25段の石段を上ったところに茂兵衛道標が立つ。「左本堂 右本山寺」、手印と共に「善通寺 金毘羅道 明治廿一年」と刻まれる。茂兵衛100度目の巡礼標石である。
○曼陀羅道
茂兵衛道標の前にも新しい石標が立ち「曼荼羅寺3.1粁 出釈迦寺3.3粁」と書かれる。ここを左に進むのが次の札所曼七十二番荼羅寺、七十三番出釈迦寺への遍路道のようである。曼陀羅道と呼ばれるようだ。



徳右衛門道標
次の石段右手に徳右衛門道標。「従是曼荼羅寺迄廿五丁」と刻まれる。通常の徳右衛門道標にある梵字、大師像もなく、高さも高く、一見しては徳右衛門道標とはわからなかった。











俳句茶屋
二段目の石段二十段を上ると俳句茶屋。休業中なのか取り壊されているのか、ともあれ現在は利用できる状態ではなかった。俳句好きの先代主人の好みで参拝客の俳句が張られているとのことである。


仁王門
俳句茶屋より五十四段の石段を上ると仁王門。正面に阿吽二体の仁王像、裏手には大草鞋が吊るされている。大草鞋は巡礼旅の安全、草履を撫で患部を治癒する撫で仏といったものなど、お寺さまで様々。
仁王門を潜った右手に四国霊場八十八番大窪寺石造。右手に薬壺らしきものをもっているようにも見える。本尊の薬師如来だろうか。

石仏
寺域には数多くの石仏が並ぶのだが、四国遍路札所にしても順がバラバラ。二十九番の横に二十二番、そしてここには八十八番。何らかの事情で移されたのだろうか。

灌頂川に架かる法雲橋傍の摩崖五輪塔
仁王門を越え小刻みに現れる石段を上り灌頂川に沿って進む。この辺りを賽の河原と称するよう。参道脇の小さな石積みの塔を見やり、大岩の間を抜けると法雲橋。橋の右手の岩には2基の五輪塔が刻まれる。







金剛拳菩薩
橋を渡ると広場に出る。シャトルバスもこの辺りまで来ているように思える。広場正面に6m余の巨大な鋳銅製仏像。金剛拳菩薩とのこと。元禄年間に造られたもの。
金剛界曼荼羅を構成する九つのパーツ(九会)の内、中央部(成会)での中尊となる金剛界大日如来を囲む阿閃・宝生・阿弥陀・不空成就の四仏の四方(東西南北)にあらわれる四親近菩薩、計十六菩薩の一つ。
堅固なる拳で衆生の貪・瞋・痴(三毒)の緊縛を破る菩薩のようだ。弥谷寺のHPの説明には、「衆生が煩悩による苦しみに縛られるのを解放する仏様といわれます。また、修行の完成を意味し十六大菩薩の最後の一尊にあたり、如来になる直前のお姿ともいえる菩薩様です」とあった。
仏様のランクは如来>菩薩>明王>天部の順になる。菩薩最終ランクであり、仏様になる直前というから結構有難い菩薩さまであった。



大師堂
四国中央市の大王製紙社主である井川氏寄進の鉄製の階段、煩悩を消す108段階段を上りきると正面に大師堂。岩壁に食い込むように建てられている。石段を上り下足し大師堂に入る。左納経所、右大師御影堂。御影堂をぐるりと
回りこむと獅子窟。大師修行の場。暗くてはっきりとは見えない獅子窟をお参りし、大師堂を出る。


大師堂手前の標石
大師堂への石段を上り切る手前右手に標石がある。「右札所道 左大師堂道 元治元」といった文字が刻まれる。
大師堂岩壁の行者像
岩壁に行者姿の石像。雨乞いの祈祷するも、その霊験無きを恥じ焼身往生をした行者様と言う。








十王堂
大師堂から右に進み、左手一段高い岩場にある多宝塔を見やり進むと広場にでる。正面に香川氏の墓、右手に鐘楼と観音堂、正面一段高いところに十王堂がある。
十王とは閻魔王を含めた十尊。亡者の罪の多寡を審判し、地獄へ置送るなど六道輪廻を司る。生前に十王を祀れば死して後の罪を軽減してくれるとの信仰より、このお堂にお参りするのだろう。 この寺は「亡くなった人の霊のゆく寺」とも言われる。地元には身寄りを亡くした人が、その霊を背負うよう背中に手を回しこの寺に上り、霊を下した後は一切振り向くことなく里へと戻るといった習慣もあったようだ。十王堂の横に観音堂があるのは、地獄に行くことなく浄土へとの想いもあるのだろうか。先ほど歩いた参道を賽の河原と呼ぶ所以である。

護摩堂・海岸寺道分岐点
観音堂から石段を上り詰めたところに護摩堂。岩に掘り込まれた洞窟となっている。
護摩堂右手に標石と道案内。「本堂、水場は左、天霧城は右の案内」、また標石には、「海岸寺道」、手印と共に「第七十一番当寺本堂道 明治四十三年」と刻まれる。
〇海岸寺道
海岸寺道とは予讃線海岸寺駅近くにある弘法大師生誕の地と言われる海岸寺への道。七十一番弥谷寺から七十二番曼荼羅寺へと直接進まず、一旦真逆の瀬戸の海方向へと向かい海岸寺をお参りした後、曼荼羅寺を打つ遍路道である。 天霧山への尾根道を進み、弥谷山と天霧山の鞍部から里に下り、北へと瀬戸の海岸に向かうようである。

水場
護摩堂から左に向かうと岩場に出る。岩場には大きな石仏が祀られた水場がある。弥谷山からの地下水が枯れることなく湧き出るよう。








摩崖仏阿弥陀三尊像
水場からは上り下り、ふたつの石段が本堂に上る。石仏、五輪塔の立ち並ぶ石段に沿った凝灰岩の岩壁には摩崖仏が見える。阿弥陀三尊像とのこと。鎌倉時代に地元の匠の手によるもの。雨風に晒され、もろい凝灰岩の崩壊から像を護るようにセメントの庇が取り付けられていた。凝灰岩の窪みには小さな仏さまも祀られていた。



本堂
剣五山千手院弥谷寺。真言宗善通寺派。本尊は千手観音。自伝によれば、行基開山。聖武天皇の庇護を受け、蓮華山八国寺(やこくじ)と称した。 その後空海がこの地、獅子窟で修行。求聞持の秘法を修するや天から五柄の剣が舞い降る。これにより山号を五剣山と改め、寺名も弥谷寺とした、とある。 天正年間、長曾我部氏の四国征服の折り、この寺と峰続きの天霧城に籠る香川氏を攻め、寺は灰燼に帰す。後に讃岐の領主生駒一生、江戸期には丸亀藩主京極氏の庇護を受け堂宇が再建され現在に至る、とのことである。
〇虚空蔵求聞持法
「虚空蔵」はアーカーシャガルバ(「虚空の母胎」の意)の漢訳で、虚空蔵菩薩とは広大な宇宙のような無限の智恵と慈悲を持った菩薩、という意味である。そのため智恵や知識、記憶といった面での利益をもたらす菩薩として信仰される。その修法「虚空蔵求聞持法」は、一定の作法に則って真言を百日間かけて百万回唱えるというもので、これを修した行者は、あらゆる経典を記憶し、理解して忘れる事がなくなるという(Wikipedia)。

本堂前から讃岐の里の遠景を楽しみ、本日の散歩を終える。次回は七十一番弥谷寺から七十二番曼荼羅寺へ向かう。
六十七番札所 大興寺を打ち、次の札所である六十八番札所 神恵院 六十九番札所 観音寺へ向かう。現在六十八番札所 神恵院は六十九番札所 観音寺境内にある。四国遍路の中でも一寺二札所はここだけである。
その因は明治の神仏分離令にある。もとの六十八番札所は琴弾八幡宮。それが神仏分離令により本尊が観音寺境内にある西金堂に移され、琴弾神社別当寺であった神恵院(じんねいん)が六十八番札所・神恵院本堂となった。
神恵院が六十九番札所観音寺境内に移されたのは、琴弾八幡宮と観音寺の深いつながり故。寺伝によれば観音寺は空海が開基した、と言う。大同2年(708)琴弾八幡の別当寺であった法相宗弥勒帰敬寺に第7代住職として止宿。阿弥陀如来尊像を描き本尊とし琴平山神恵寺と名付けた。
空海は続けて、八幡宮に祀られる神功皇后が聖観音菩薩の生まれ変わりとし、自らの手で聖観音菩薩を刻み、この地に七宝山観音寺を開創した。平城天皇の勅願によるものと、言う。
かつて観音寺は琴弾八幡宮の神宮寺・別当寺として琴弾八幡宮の納経をおこなっていた。それが、観音寺も六十九番札所となったため、琴弾八幡宮は神恵院の院号で納経をおこなうことになったわけだが、神仏分離のためその琴弾八幡の本尊が引っ越すことになる。この折、観音寺境内のお堂を提供し六十八番札所神恵院(じんねいん)とたわけだが、上記歴史的繋がりからみれば、なんら違和感はない。

大興寺から神恵院・観音寺のある琴弾山までおおよそ7キロ。里道を観音寺市内へと向かうことにする。

本日のルート;一丁標石(?) > 二丁標石>三丁・四丁標石 / 五丁標石>六丁標石 / 自然石標石>茂兵衛道標と八丁地蔵標石>九丁標石>茂兵衛道標と大師坐像 >十三丁・十四丁標石>六十八番道標石>真念道標>お堂脇に標石>二十三丁標石/二十一標石>県道6号角に茂兵衛道標>池之尻交差点の道標>三十一丁標石 / 三十二丁標石>三十三・三十四丁標石>三十五・三十六丁標石>三十七 ・三十八丁標石>四国中千躰大師>旧伊予街道との交差箇所に茂兵衛道標と真念道標>柏木神社手前の舟形地蔵>植田天満宮>加茂神社の道標>県道237号にあたる>予讃線余茂田踏切>市谷川左岸を県道6号・明治橋へ>地神様に2基の道標>光明寺の道標>殿町交差点に2基の道標>三架橋>琴弾八幡宮>琴弾八幡から神恵院・観音寺へと琴弾山を下る>本殿裏の石段下り口に丁石>「椿説弓張月」の案内>象ケ鼻展望台>六十八番札所・神恵院 / 六十九番札所・観音寺
■天空の鳥居・高屋神社

一丁標石(?) / 二丁標石
大興寺を離れ、極楽橋の架かる水路に沿って北に進む。舗装された農道といった道である。道が水路の左岸に渡る手前のT字路角に舟形地蔵丁石が立つ。摩耗が激しく文字は読めない。
左岸に渡った道を進むと、右手のガードレールの外に丁石。二丁とあるので、手前の丁石は一丁の地蔵標石だろう。

三丁・四丁標石 / 五丁標石
道なりに左に折れ溜池の土手下の草叢に3基の標石。三丁の標石2基と四丁標石。1基はすぐにわかるのだが、その他の2基は草に隠れて、見逃しやすい。
五丁標石は道を進んだ左手、民家の石垣とブロック塀の間に立つ。

六丁標石 / 自然石標石
溜池北西端の三界万霊塔を見遣り進むと、道の右手に六丁標石。はるか北には観音寺市と三豊市の海岸に連なる山並みが見える。結構いい景色だ。
遍路道が比較的大きな車道に合流する角に自然石の標石がある。手印と共に「左 へんろ 嘉永三戌 上河内中」と刻まれる。

茂兵衛道標と八丁地蔵標石
車道に出るとすぐに左に入る遍路標識がある。名称不詳のお堂脇の坂を下ると国道377号に出る。遍路道は左に折れ国道に沿って東に進む。

●遍路道の案内を左に入らず直進すると国道に合わさる箇所に2基の道標が立つ。 大きいのが茂兵衛道標。手印とともに「神恵院 小松尾寺 明治二十九年」と刻まれる。茂兵衛149度目の巡礼時のもの。
その横の舟形地蔵丁石には「是ヨリ小松尾寺江八丁」と読める。逆打ち遍路の標石となっている。手には錫杖をもつ。
中務茂兵衛
中務茂兵衛。本名:中司(なかつかさ)亀吉。弘化2年(1845)周防(すおう)国大島郡椋野村 (現山口県久賀町椋野)で生まれた中務茂兵衛は、22歳の時に四国霊場巡礼をはじめ、大正11年(1922)に78歳で亡くなるまで生涯巡礼の旅を続け、実に280回もの巡礼遍路行を行った。
道標は、茂兵衛が厄年である42歳のとき、遍路行が88回を数えたことを記念して建立をはじめ、その数250基以上にも及ぶ(230基ほどは確認済、とか)。文化遺産としても高く評価されている道標の特徴は、比較的太めの石の四角柱(道標高の平均約124cm)で、必ず建立年月と自らの巡拝回 数を刻んでいる、と。
国道377号
国道377号は、大野原白坂あたりから、三豊市と仲多度郡まんのう町の境にある伊予見峠を越え牛屋口に至る金毘羅道筋とほぼ重なる。ために金毘羅街道とも称される。
金毘羅街道
伊予・土佐からの金毘羅道(伊予・土佐街道)は、伊予の川之江で土佐街道を合わせ、余木埼で伊予から讃岐に入り箕浦に。豊浜からはおおむね国道377号に沿って伊予見峠を越え、牛屋口から金毘羅宮に向かう。

九丁標石
国道を少し東に進むと、道の左手に九丁地蔵標石が立つ。阿讃山脈を借景になかなかいい眺めだ。標石には「九丁 明香四丁辛」と刻まれる、と。手には錫杖を持つ。
干支(えと)
明香は明和のことのようだ。10の干と12の支の組み合わせからなる60干支のうちの24番目。西暦を60で割って27余る年が丁亥(ひのとい)となる。明和四年は西暦1767。29 x 60 +27=1767とぴったりと合う。
因みに日本での干支は10の干(かん)と12の支(し)からなる干支の、12の支だけを取り出して「干支」とする。Wikipediaによれば、「日本では「干支」を「えと」と呼んで、ね、うし、とら、う、たつ...の十二支のみを指すことが多いが、「干支」は十干と十二支の組み合わせを指す語であり、「えと」は十干において「きのえ(甲)」「きのと(乙)」「ひのえ(丙)」「ひのと(丁)」と陽陰に応じて「え」「と」の音が入ることに由来するので、厳密には二重に誤りである」とある。
因みに、上述車道合流部の自然石に刻まれた「嘉永三戌」であるが、嘉永3年は西暦1850年。干支でいえば康戌(かのえいぬ)となる。「康」が消えているのだろうか。

茂兵衛道標と大師坐像
国道を少し東に進むと三豊市域から観音寺市域に入る。そのすぐ先で遍路道は国道377から離れ、左へと分岐する旧国道へと進む。
茂兵衛道標
少し小高くなった道を進むと右手の民家の間に道標と大師坐像がある。道標は茂兵衛道標。正面に「左いよ道 小松尾道」、裏面に「左 小松尾道」、側面に手印と「壱百度目供養」などの文字が刻まれる。遍路道は側面の手印に従い、旧国道から右に折れ民家の間を抜ける細路に入る。
大師坐像
茂兵衛道標の横に大師坐像。台座に手印と「十方施主 光明真言十万遍「天保八年」と刻まれる。
〇十方施主
仏教では東・西・南・北を四方。上・下を二方、東西南北の間の四維(東南・西南・西北・東北)を加えたものを十方と言う。十方世界とは全ての世界、ということ。十方施主とはこの世のすべての人の勧請により建てられた、ということを意味する。
光明真言
Wikipediaには「光明真言とは密教の真言(真実の言葉)。神秘性を保つため梵語で唱える。
「om amogha vairocanaオーン 不空なる御方よ 毘盧遮那仏(大日如来)よ オン アボキャ ベイロシャノウ
  maha-mudra mani padma偉大なる印を有する御方よ 宝珠よ 蓮華よ マカボダラ マニ ハンドマ
jvala pravarttaya hum 光明を 放ち給え フーン (聖音)ジンバラ ハラバリタヤ ウン」
光明真言は大師堂に掲げていることも多いので目にすることも多いだろう。
光明真言の功徳としてWikipediaには:
「過去の一切十悪五逆四重諸罪や、一切の罪障を除滅する。 十悪五逆四重諸罪によって、地獄・餓鬼・修羅に生まれ変わった死者に対し、光明を及ぼして諸罪を除き、西方極楽国土に往かせる。先世の業の報いによる病人に対し、宿業と病障を除滅する」とある。

十三丁・十四丁標石
民家の間の細路を犬に吼えられながら進むと国道377号に出る。遍路道は国道を突き切り、畑の畦道といった土径を進む。遍路標識も何もない。偶々地元の方が畑作業をしており、お話をすると国道建設に際し標石が移された、と。
細路より国道を渡ったところから、農地の間を成り行きで進むと溜池の南西角に十三丁・十四丁標石が立つ。

六十八番道標石
先に進むと墓地に入る。特に道筋はないようだが、とりあえず墓地を抜け車道に出る。そこを少し北に進むと建材置き場の脇に標石が立つ。丁石ではなく、「六十八番道 大正十三年」と刻まれる。六十八番札所神恵院への道標だ。

真念道標
道の左手に金神神社の社叢。道が金神神社へと左折する角、民家の生垣に2基の石柱。その小さなほうが真念道標。手印と共に「へん路みち 願主真念」と刻まれる。
金神神社
社名は「三寶大荒神 金神神社」とある。香川県神社誌に「辻村郷社菅生神社境外末社」、西讃府誌に「金神祠 荒神祠 原にあり 二祠相殿金神は往昔鋳物師此地にありし時祭ると云」、神社考に「金神宮村社在 原村 所祭金山彦命傳云昔鋳工多居 千此因所 祭也 今移居 辻村」と見ゆ」、とある。
当地に住みついた鋳工がお祀りしたのだろう。
また、「三寶大荒神」は日本で生まれた仏神のようだ。神道、密教、山岳信仰などさまざまな信仰が混淆し生まれた、と。仏法僧の三宝を守護し、不浄を厭離する。古来日本では台所や竈が最も清浄なる場所とされたため、民間信仰として火や竈の神として祀られるようになった(Wikipedia)。

お堂脇に標石
金神神社前の道を西に進むと豊田小学校、右手に大通寺。大通寺は筒井順慶の後裔ゆかりの寺と言う。境内には酒樽を利用した茶室があった。水琴窟もあるとのことだが、わからなかった。
大通寺西の四つ角を越え少し西に進むとお堂があり、山界万霊碑が祀られる。そのお堂脇に標石が立つ。「観音寺五十丁 小松尾寺二十丁 大正八年」とある。正面は修繕され文字は見やすくなっている。

二十三丁標石/二十一標石
道なりに進む。左手に二十三丁の標石。更に進み仁池手前の心光院の道路に面した石垣上に3基の舟形地蔵が並ぶ。左端には「二十一丁」の文字が読める。どこからか移されたものだろう。
ここには二十五丁の標石があるようだが、中央の地蔵は上半分が欠けており、右端は摩耗が激しく文字は読めなかった。

県道6号角に茂兵衛道標
道が県道6号(24号併用)に当たる合流点に茂兵衛道標が立つ。手印と共に小松尾寺 左金毘羅道」「明治二十八年」と刻まれる。280回に及ぶ四国遍路の百四十三度目のものである。
金毘羅道
ここにも金毘羅道の案内がある。上述の国道377号の金毘羅道と結構離れている。金毘羅道といっても一本というわけではなく、鎌倉街道と同じく金毘羅さんに向かう道はすべからく金毘羅道というわけで、この金毘羅道は上述伊予見越えのルートができる以前の、高瀬から金蔵寺を経て金毘羅宮に向かう「金毘羅古道」ともいうルートではなかろうかと思う。古道というだけで、なんとなくトレースしてみたくなった。そのうちに。

池之尻交差点の道標
道を左に折れ県道6号を進むと池之尻交差点。その西南角、低いコンクリートでブロックされた一角に道標が立つ。「くあんおんじ道四十丁 小松尾道三十丁」と刻まれる。かつてはこのブロック内に金毘羅道標など石塔が集められていたとのことだが、今はすべて撤去されていた。




三十一丁標石 / 三十二丁標石
県道6号は池之尻交差点を道なりに直進するが、交差点を右に折れる民家間の径を少し入ったところ、電柱の前に三十一丁の標石がある。
また、池之尻交差点から県道6号を少し進むと、道の右手の生垣に三十二丁の標石があった。

三十三・三十四丁標石
高松自動車道を潜る県道6号を少し進むと道の右手に2基の舟形地蔵。上半分が書けている地蔵標石は「三十四丁」、少し大きめの地蔵標石には「三十三丁」と刻まれた丁数がはっきり読める。




三十五・三十六丁標石
高松自動車道を越えるとすぐ、道の右手に「お遍路さんの休憩所」がある。椅子と休憩ベンチの簡易なものだ。
遍路休憩所はバス停でもあるようで、バス停の案内ポールが立つ傍、電柱の前に2基の標石がある。三十五、三十六丁の標石だ。高松道建設時に移されたのかとも思ったのだが、三十三・三十四丁標石も含め、それ以前の記録に既にまとめられている。
県道6号の始まりは昭和34年(1959)に認定された徳島県道・香川県道込野観音寺線。昭和47年(1972)には徳島県道・香川県道110号込野観音寺線として再認定。さらに平成5年(1993)に主要地方道として指定され、平成6年(1994)島県道・香川県道6号込野観音寺に認定されている。道路変遷の過程での移設だろうか。

三十七 ・三十八丁標石
赤土池の畔、道の右手のガードレールの間に三十七 と三十八丁の2基の舟形地蔵標石が立つ。
ところで、舟形地蔵のお姿であるが、舟形は後光を表すものだろう。お地蔵さまも錫杖を持つもの、持たないもの、宝珠を持つものなどがあるようだ。いままであまり気にしていなかったのだが、今回あるきはじめた大興寺からの舟形地蔵丁石では、八丁と九丁の標石だけが錫杖をもち、その他の地蔵丁石は合掌するお姿であった。

四国中千躰大師
標石の反対側、池の畔の赤土池改修碑の横に角柱石碑が建つ。上部に大師座像が刻まれるこの角柱は「四国中千躰大師」「文化六** 真念再建願主照蓮 世話人徳嶋講中」とあるようだ。
この大師坐像(手印付)は真念の道標建立の志を受け継ぎ、四国中に千躰の大師像(手印付き)を立てようとした阿波の人・照蓮が建てた大師像。現在阿波に50基、土佐六基、讃岐三基が確認されている。伊予にないのは、文化六年(1809)から十二年(1815)にかけて標石を建立した照蓮に先立ち、標石建立をなした武田徳右衛門が伊予出身であるため、と。徳右衛門建立の標石百十四基の半数以上が伊予に立っている。
千躰建立はならなかったものの、その構想は壮大。江戸の頃、真念から徳右衛門、照蓮と続き、明治に至り中務茂兵衛へと続く遍路道標建立の流れの一翼を担う人物である。照蓮の詳細は不詳とされる。

旧伊予街道との交差箇所に茂兵衛道標と真念道標
県道6号を進み国道11号との植田交差点を越えると、国道の一筋北に旧伊予街道が通る。県道が旧伊予街道と交差する西角に茂兵衛道標と真念道標が立つ。「しこくの道」の石柱も横に並び落とすことはないだろう。
茂兵衛道標は風化が激しく「百*い*度目為供養」といった文字が微かによめる、と。真念道標には「南無大師遍照** これよりくわんおんじ」といった文字が刻まれる。
旧伊予街道
この道は古代の南海道太政官道筋と言われる。讃岐の国府と伊予・土佐の国府を結ぶ古代に官道である。7世紀の中頃、大化の改新により中央集権が強化され、中央と地方の連絡のため国府を結ぶ官道を整備し駅伝の制度をつくった。
讃岐国には大川郡から三豊郡まで、刈田・松本・三谿(みたに)・河内・甕井(みかい)・柞田(くにた)駅の6駅がおよそ20キロ毎に設けられた。柞田(くにた)駅は国道 11号を南に下った柞田川を渡った先にその跡が残る。

柏木神社手前の舟形地蔵
旧伊予街道と県道6号の交差箇所を少し西に戻り若宮神社にお参り。遍路道は国道6号直進するルートと、旧伊予街道を右に折れ菅原道真ゆかりの植田天満宮を経由するルートのふたつに分かれる。とりあえず旧伊予街道>植田天満宮ルートを歩く。
道を少し進むと柏木神社手前の四つ角、民家の塀に埋め込まれたような舟形地蔵が立つ。錫杖を右肩に乗せたお姿である。遍路道はこの辻を左に折れる。

植田天満宮
水路に沿って少し進むと道の右手に植田天満宮。菅原道真お手植えの松で知られる。道真は仁和2年(886)、讃岐守(讃岐国司)を拝任し下向し、寛平2年(890)帰京する。
お手植え松は枯れ、その巨大な株だけが社殿左手にある覆屋下に保存されていた。 株の左右に2基の道標が残される。
右手の道標には正面に「従是下植田」、側面に「丸亀江五里半 金毘羅江四里半 川之江四里 琴弾山迄廿五丁 観音寺町口迄十五丁 すしかへはか道 弘化三丙午年九月建立」と刻まれる。 「すしかへはか道」は何だろう?
左手の道標には「右 うゑ田松 松より観音寺すくみちあり 寛政十年戌午七月」などと記される。
年号(元号)と干支
弘化3年は1846。丙午(ひのえうま)。西暦を60で割って46余る年が丙午(60Ⅹ30 +46=1846)。寛政十年戌午(1798)60で割って58余る年(60 x 29 + 58=1798)。 ところで、どうして年号と干支を併記するのだろう?ふつうに考えればころころと変わる年号より、60年周期ではあるが一貫性のある年数を計算できる干支のほうが便利ためかとも思う。年利計算をしようにも、年号では通算何年かすぐわからないだろうし。


加茂神社の道標
植田天満宮前の道を進み、道なりに左にカーブすると加茂神社に当たる。その玉垣角の間に挟まれるように大きな常夜灯と道標が立つ。
道標には手印と共に「へんろ道 加茂神社」と刻まれる。また、常夜灯の竿の部分に「道観音寺 嘉永六癸丑(みずのとうし)六月吉祥日」と刻まれる。



県道237号にあたる
加茂神社にお参りし、道標に従い右に折れ、玉垣にそってぐるっと加茂神社を周り、道なりに進んだ最初の四つ角を右に折れる。道なりにしばらく進むと道の左手に観音寺キリスト協会がある。協会がオンコースの目安。
さらに道を進むと左手に回転寿司チェーン店があり、そこで県道237号に当たる。




予讃線余茂田踏切
遍路道は県道を横切り、細い道に進む。細い道もすぐ終わり、舗装された道を成り行きで進むと予讃線・余茂田踏切に出る。





市谷川左岸を県道6号・明治橋へ
この先の遍路道ははっきりしない。余茂田踏切を渡った先にある市谷川の左岸を下り、県道6号まで進み明治橋を渡り、市谷川右岸に出たようである。とろあえず市谷川左岸を明治橋まで進む。





旧伊予街道からのもうひとつの遍路道
植田天満宮を経由しないもうひとつの遍路道は、県道6号をそのまま直進し市谷川に架かる明治橋に進むもの。ふたつの遍路道は明治橋で合流する。
この道筋には特段の道標などはないが、途中道の右手に薬師庵がある。元禄時代に建てられたもの。薬師堂と観音堂は釣り屋(渡り廊下)でつながれているが、老朽化が激しく崩れてしまいそうになっていた。


地神様に2基の道標
明治橋を渡るとすぐ、道は左右に分かれるが、左へ進む道の左手に汐入地蔵尊を祀るお堂がある。遍路道はこのお堂の前を進むことになる。
道を進み比較的大きな道と交差する手前、道の左手に地神の石祠があり、そこに2基の道標が置かれている。
1基は手印と共に「琴弾神社 小松尾寺 明治丗二年」、もう1基には「右 へん*」と刻まれる。

光明寺の道標
道を渡ると左手に仏証寺。遍路道は仏証寺の道を隔てた逆側から右に入る。道を進むと光明寺があり、遍路道は光明寺を越えて左に折れる。その角に立派な道標が立つ。「左へん路道」と流麗な筆で太く刻まれる。

殿町交差点に2基の道標
光明寺の道標を左に折れ、殿町交差点に。仏証寺から右に折れて光明寺に向かうことなく、直進すればこの交差点にあたる。
交差点の北東角に2基の道標。1基は「右小松尾道」とはっきり読めるが、もうひとつは手印らしきものが見えるだけではあった。


三架橋
遍路道は交差点を超えて道なりに進み、県道21号・大和町交差点を右折し財田川にかかる三架橋を渡る。対岸には琴弾八幡の鎮座する琴弾山が現れる。
Wikipediaには「三架橋(さんかばし)は、香川県観音寺市にある鉄骨コンクリート製の橋である。財田川の下流にかかっており、海から数えて三番目の橋。日本百名橋にも選ばれた観音寺市を代表する名橋。三連のアーチを描く欄干が特徴。
三架橋の歴史は古く、「金比羅参詣名所図会」(1848年(嘉永元年))に「三架橋は、琴弾山麓の染川にあり、3橋つづいて架かるゆえに号したという。川原で染物をなし、その橋詰は観音寺の町で商家、蔵が建ち3つの太鼓橋が架かっている」と記されています。また、これとは別に、三架橋の名は、琴弾八幡宮の参賀橋であることに由来するとも言われている。江戸時代には、三連の太鼓橋であった。明治18年に平面の木橋に改められ、1935年(昭和10年)に現在の橋に替えられた」とある。
旧遍路道
光明寺から三架橋までの旧遍路道もはっきりしない。光明寺を左折せず直進すると現在「ひがし児童公園」となっている辺りに観音寺城1跡が残る。旧遍路道は今歩いた道の少し北を進んだとも言われる。

琴弾八幡宮
三架橋を渡ると正面に琴弾山(58.3m)。山頂に明治の神仏分離令まで六十八番札所であった琴弾八幡宮が鎮座する。現在の六十八番札所・神恵院、六十九番札所・観音寺は琴弾山裾の東縁を進むことになるが、今回は琴弾山に上り琴弾八幡宮にお参りし、本殿から琴弾山を札所へと下ることにする。
山裾の境内も広い。駐車場を兼た境内には参集殿、神幸殿や摂社、忠魂碑、源氏との深いつながりを示す源平屋島合戦の案内などもあった。

一夜庵道しるべ
境内入口に建つ巨大な銅製の鳥居の右、財田川に注ぐ小川左岸に自然石の碑がある。案内に「一夜庵道しるべ 北三丁 下下の宿あり一夜庵  ここから北約三百米興昌寺境内に俳祖山崎宗鑑の遺跡 一夜庵があります」とある。
一夜庵は宗鑑が享禄元年(1528)結んだ数寄屋造りの庵で、日本最古の俳蹟と言われる。一夜庵は、一夜以上の滞在を許さなかったことに由来する、と。で、句にある「下下の宿あり一夜庵」ってどういう意味?宗鑑の句に「上は立ち 中は日ぐらし 下は夜まで 一夜泊まりは下々の下の客」がある。庵を訪ねる客のうち、上客はすぐに退去する人、ほどほどの(中)客は日暮れまでいる人、よくない客は夜までいる人、一晩泊まるのは最悪の客」と。
この句はどうも逆説的な言い方のようで、下下と言われようが、堂々と泊まっていく俳人を期待したようだ。一茶クラスになるとは「下下も下下下下の下国の涼しさよ」と詠む。
三架橋の南詰の西側にある専念寺境内には小林一茶の句碑が建つ。「 元日や さらに旅宿と おもほえず」。年が明けたが、ここが旅の宿とは思えない、と。一茶はこの地に四年間滞在したとある。

早苗塚
広い境内を散策し、琴弾山へと石段参道を進むことに。承応2年〈1653〉丸亀城主山崎虎之助寄進の高さ7.2mの一之鳥居手前右手に早苗塚。「早苗塚 松尾芭蕉が奥の細道の途次、福島で詠んだ句
"早苗とる手もとやむかし しのぶ摺" この直筆短冊を小西帯河が所蔵していたが二六庵竹阿(一茶の師)の指導で句碑建立した。安永四年(1775年)。その後天保十年(1839)再建す」とある。 小西帯河は地元の俳人。「しのぶ摺」はいくつか解釈があるようでここでは思考停止。

船霊大神
隋神門を潜り、本殿へと続く381段の石段を上る。ほどなく右手に「船霊大神」の社。縁起に拠れば,大宝3年(703)、西方の空鳴動し太陽も月も光を失う。この地に草庵を結びし日証が浜に出ると船があり、琴を弾く者あり。「吾は八幡大菩薩。宇佐より来る。この地の風光去りがたし」と。日証驚き山上に上げ鎮守として祀る」と。
昔はここにお舟があった、とも、元禄二年(1689)に書かれた寂本の『四国遍礼霊場記』には「お琴ならびにお舟は、今にいたるまで殿内に崇め奉られている」と記す。

木之鳥居
二之鳥居を越えるとその先に木の鳥居。鉄パイプ、屋根で覆われたこの鳥居は源義経の寄進による。案内には「木之鳥居 古来八幡信仰の篤い源氏方は元暦2年(1185)、義経が屋島の合戦勝利し、更に平氏追討の成功を祈願して当社に名馬「望月」とこの木之鳥居を奉納した」とある。
鳥居を支える石の台座には「琴弾宮 三之鳥居 宝暦十一年辛巳」と刻まれる。

妙見道の道標
左右に並ぶ立派な玉垣の右手、少し切れ目がある玉垣の柱に「妙見道」と刻まれる。参道から右手に折れる道筋を示しているようだ。その直ぐ先に「是より二丁 寛政七乙卯」と刻まれた丁石も立つ。
妙見道とは?はるか離れた宅間の地に妙見山に妙見宮が鎮座するが、そこではないだろう。かつて、琴弾八幡の参道途中から観音寺へと抜ける道があったようであり、その途中の産巣日(むすび)神社・妙見社でもあったのだろか。標石の記す二丁は観音寺までの距離かもしれない。妙見道へと少し入ったが進めそうもなく元に戻った。

真念道標
参道石段を上り詰め、参道が右に折れる箇所の正面角に真念道標。「左 へん路みち」と刻まれる。






本殿前の道標
真念道標を左に折れ平坦な参道を少し進む。右に折れ本堂に上る石段手前に道標が立つ。「左下向道」と刻まれる。





本殿
鳥居を潜り石段を上ると正面に拝殿・本殿、右手に絵馬堂がある。お参りをすませ絵馬堂からの眺めを楽しむ。
歴史
社の歴史は古く、上述の大宝3年(703)、日証上人が八幡大菩薩をこの山中に祀ったことにはじまる。このとき社の神宮寺として後に六十八番札所となる観音寺の前身・神宮寺宝光院を建立。
大同2年(807)空海が八幡神の本地仏である阿弥陀如来を描き安置。このときより神仏習合の社となる。その後、室町の頃には札所六十八番となり、観音寺がその別当寺として納経を行う。
中世期は八幡宮の主祭神・応神天皇をその祖先神とする源氏の信仰厚く社殿の造営、寄進を受ける。
明治になり、神仏分離令により本地・阿弥陀如来画像(絹本著色琴弾八幡本地仏像)は観音寺境内の西金堂に移され、琴引神社と改名。第二次世界大戦後ことひき八幡宮と改称された。
祭神
祭神は神功皇后、応神天皇、玉依姫の三神。八幡神は応神天皇と同一視される故ではあろう。神宮皇后はその母。この社は八幡神の姫神とも母神とのされる玉依姫を祀るが、八幡三神としては玉依姫に替わり、比売神(ひめがみ)を祀ることも多い。
Wikipediaに拠れば、比売神とは「アマテラスとスサノオとの誓いで誕生した宗像三女神、すなわち多岐津姫命(たぎつひめのみこと)・市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)・多紀理姫命(たぎりひめのみこと)の三柱とされ、筑紫の宇佐嶋(宇佐の御許山)に天降られたと伝えられている」とある。

琴弾八幡から神恵院・観音寺へと琴弾山を下る
琴弾八幡から神恵院・観音寺には、本殿裏手にある石段を下りて進むことにする。特に道案内はないのだが、あってしかるべきとの判断故。本殿左手の社務所、展望台を過ごし本殿裏手まで進むと石段があった。
本殿裏の石段下り口に丁石
石段の下り口に丁石。「二丁」の文字が刻まれる。札所までの丁石ではあろうと、石段を下りる。






「椿説弓張月」の案内
石段を下りたその先、注連縄を潜り境内を出ると琴弾山頂の平坦部に出る。麓からの自動車道が通る。その左手、木々の茂みの中に「「弓張月」いわれ」の案内。
「江戸時代の読本作家、滝沢馬琴の書いた「椿説弓張月」のなかに源為朝の妻白縫が観音寺、琴弾の宮で夫の仇討ちをしたという話があります。為朝が京の戦いで敗れたとき、鎮西太宰府の舘(やかた)を守っていた白縫は召し使い八人とともに讃岐観音寺、琴弾の宮に落ち、神仏に夫の無事を祈っていました。 一方京では、敗れ傷ついた為朝は家来の武藤太の家に身をひそめました。その時武藤太は「為朝を捕えた者には過分のほうびをとらす」という敵方のおふれに目がくらんで密告したため為朝は捕われて八丈島に流されました。
主君を敵方に売った武藤太は"痴(し)れ者"として非難され居たたまらなくなって手下二人と西国に落ちました。
流れついたのが讃岐の国室本の港(観音寺市室本町)でした。港にあがった武藤太は武運に縁の深い琴弾の宮の近いのを知って参拝しました。祈る言葉は悪人らしく、為朝密告の恩賞の少なかったうらみごとだったのです。白縫は拝殿に祈る男の言葉からその男が夫の仇と知ったのです。「これこそ神の導き」と白縫は、ある月の夜酒宴と美女の琴で武藤太を誘い出し、みごと夫の仇を討ったのです。
いまも観音寺市琴弾八幡宮の境内には、この仇討ちを伝える史跡が保存され観光客が絶えません」とあった。

椿説とは珍説・異説。といった意味。椿説弓張月の読みは「ちんぜい ゆみはりつき」と思っていたのだが、「ちんせつ」が元の読み方のようだ。主人公は鎮西八郎為朝(ちんぜいはちろう ためとも)故に「ちんぜい ゆきはりづき」とも読むよう。
なお、案内はあったが、「椿説 弓張月」の碑は見当たらなかった。

象ケ鼻展望台
弓張月の案内から少し先に進むと「象ケ鼻展望台」。観音寺といえば、というほど有名な銭形の見晴らしポイントだ。砂でつくった寛永通宝で知られる銭形は知ってはいたが、見るのははじめて。銭形を見下ろすビューポイントがどこかも知らなかったのだが、また成り行きで進んだところが最高の見晴らしポイントであった。
案内には「寛永十年(1633年)時の将軍家光公から讃岐巡遣使を派遣するとの知らせを受けて丸亀藩主生駒高俊公が領内巡視の際このことを聞いた地元の古老たちがなにか領主歓迎のためにと銭形の砂絵を一夜のうちに作りあげたとつたえられています。
この山頂から眺めると円く見えますが実際は東西132メートル南北90メートルの楕円形となっています 以来砂上の一大芸術として長く保存されています。 この銭形を見た人は健康で長生きできて金に不自由しなくなるといわれています」とあった。
とはいうものの、寛永通宝がえきたのは寛永十三年(1636)であるから、少々タイムラグがある。お話はお話としておくべきか。


六十八番札所・神恵院 / 六十九番札所・観音寺
象ケ鼻展望台より車道を道なりに下る。しばし進むと道の右手に「神恵院・観音寺」の案内がある。

西国33観音霊場
遍路道は車道を離れ六十八番札所・神恵院 / 六十九番札所・観音寺の境内に向かう。道に沿って観音石像が立つ。西国三十三観音霊場を表す観音さまである。


薬師堂
道なりに進むと薬師堂に出る。ここが神恵院(じんねいん)本堂であった観音寺西金堂。明治の神仏分離令の折、琴弾八幡宮より本地・阿弥陀如来画像(絹本著色琴弾八幡本地仏像)を移し琴弾八幡遇に替わり六十八番札所・神恵院(じんねいん)となった。
現在、神恵院はこの薬師堂から別の場所に移されているのだが、古い資料を頼りに歩いていた為、薬師堂には六十八番札所本堂の案内もなく、その右手にあるという六十八番大師堂も見当たらず、そのうえ左手にはコンクリート造りの多宝塔・心経殿があり混乱の極み。あちこちと結構彷徨うことになった。

六十九番札所・観音寺本堂
薬師堂から石段を下り、石段に向かって右手に観音寺本堂がある。真言宗大覚寺派。本尊は聖観音。室町初期の建物で重要文化財に指定されている。
寺伝によれば観音寺は空海が開基した、と言う。大同2年(708)琴弾八幡の別当寺であった法相宗弥勒帰敬寺に第7代住職として止宿。上述阿弥陀如来尊像を描き本尊とし琴平山神恵寺と名付けた。空海は続けて、八幡宮に祀られる神功皇后が聖観音菩薩の生まれ変わりとし、自らの手で聖観音菩薩を刻み、この地に七宝山観音寺を開創した。平城天皇の勅願によるものとのこと。
伽藍は奈良の興福寺の東西金堂、中本堂の制にならい建立。中本堂は現在六十九番札所本堂となっているこの建物。聖観音と四天王を祀る。西金堂は現在の薬師堂に薬師如来と十二神将を祀り、東金堂(現在の開山堂)には弥勒菩薩を祀った、と。 前述の如く神仏分離令時に琴弾八幡・別当寺であった神恵院を観音寺の西金堂に迎え、一寺二札所ということになったのは、このような歴史的経緯を踏まえてのことであった。

開山堂
本堂右手を置奥に入るとコンクリート造りの開山堂がある。かつての東金堂。その先で琴弾山から観音寺へと下る道の上り口があり、そこに標石。「左 さいこく道 天保十三庚子」とある。境内に立つ観音像(西国三十三観音霊場)への道を指す。

六十九番観音寺大師堂
観音寺本堂の反対側、境内左手に大師堂。

六十八番神恵院の本堂
観音寺大師堂の手前にコンクリート造りの建物がある。その建物を潜った先に本堂。平成14年〈2002〉に新築され、西金堂から移された。西金堂は現在薬師堂となっているのは既に述べた。


六十八番神恵院の大師堂
元の大師堂は台風で失われ、現在は神恵院本堂手前、十王堂の右半分が大師堂となっている。

伊藤萬蔵寄進の石灯籠
石段を下り、表参道を山門へと進む。参道途中、左右に大きな石灯籠が建つ。正面に向かって右手の灯籠は伊藤萬蔵寄進のもの。愛媛の57番札所永福寺では万蔵寄進の線香立てを見た。石造りの立派なものであった。
伊藤萬蔵
伊藤 萬蔵(いとう まんぞう、1833年(天保4年) -1927年(昭和2年)1月28日)は、尾張国出身の実業家、篤志家。丁稚奉公を経て、名古屋城下塩町四丁目において「平野屋」の屋号で開業。名古屋実業界において力をつけ、名古屋米商所設立に際して、発起人に名を連ねる。のち、各地の寺社に寄進を繰り返したことで知られる。

仁王前の道標2基
参道を進むと仁王門。仁王門の前、石段の下り口に2基の標石。1基は徳右衛門道標。「これ与本山寺一里」と刻まれる。本山寺は次の札所。もうひとつには「すぐ辺路道 文政十二己丑(つちのとうし)」と刻まれる。




仁王
仏は如来、菩薩、明王、天部の四カテゴリーに分かれる。Wikipediaに拠れば、「如来」とは「仏陀」と同義で「悟りを開いた者」の意、「菩薩」とは悟りを開くために修行中の者の意、なお顕教では、十界を立てて本来は明王部を含まない。これに対し密教では、自性輪身・正法輪身・教令輪身の三輪身説を立てて、その中の「明王」は教令輪身で、如来の化身とされ、説法だけでは教化しがたい民衆を力尽くで教化するとされる。そのため忿怒(ふんぬ)といって恐ろしい形相をしているものが多い。

以上3つのグループの諸尊に対して、「天部」に属する諸尊は、仏法の守護神・福徳神という意味合いが濃く、現世利益的な信仰を集めるものも多数存在している」とある。天部に属する尊像としては仁王(金剛力士)、鬼子母神、吉祥天などである。
仁王さまとも称される金剛力士は、仏敵を打ちすえる金剛杖を持つが故の呼称。仁王ももとは二王であったのが仁王となった、とか。

これで本日の散歩はお終い。次は七十番札所本山寺から七十一番弥谷寺あたりまで進もうと思う。

天空の鳥居・高屋神社
で、遍路には関係ないのだが、地図を見ていると天空の鳥居が目に入った。それほど離れてもいないのでちょっと立ち寄り。標高400mほどの稲積山頂にある高屋神まで麓から1時間弱歩く。頂上まで自動車道もある。天空の鳥居はなかなか良かった。

雲辺寺から「四国のみち」として整備された遍路道を麓に下り、麓から阿讃山脈に切り込んだ粟井川の谷筋を3キロほど歩き里に出る。そこからは山裾を2キロほど東に歩けば67番札所・大興寺に着く。
粟井川の谷筋に沿った遍路道には30有余の丁石が並ぶ。山中の遍路道ならともかく、里道にこれほどの舟形地蔵丁石が並ぶところがあっただろうか。ちょっと思い起こせない。地元の方が大切に残して頂いたのだろう。
また粟井川の谷筋の遍路道を歩きながら、どこかで見たことがあるような景色に出合った。それはいつだったか辿った香川用水の水路筋であった。遍路道が香川用水の水路筋とクロスしていたのだ。こんなところまで水路を追っかけて来ていたようだ。

ともあれ、涅槃の道場と称される香川・讃岐の23か所の最初の札所・大興寺に向けて進むことにする。
本日のルート;旧遍路道標識>徳右衛門道標と三十二丁標石>遍路墓>二丁標石>角柱標石(36丁)>四丁標石>六丁標石>「南無阿弥陀仏」碑>七丁標石>八丁標石>九丁標石>十丁標石と自然石標石>十一丁標石>十二丁標石/十三丁標石>十四丁標石 / 十五丁標石>十六丁標石 / 十七丁標石>金毘羅常夜灯と十八丁標石>六部供養塔と十九丁標石>廿丁標石と六部供養塔・舟形地蔵>二十二丁標石 / 二十三丁標石>二十四丁標石>二十五丁標石 / 二十六丁標石>二十七丁標石と三界万霊>二十八丁標石が2基>土佛観音堂前の真念道標>県道240号と遍路道の分岐路に道標>三十丁標石と手印だけの自然石>三十一丁標石と道標>三十二丁標石>標石>四つ角に標石>七丁標石>六丁標石と石造群>四つ辻に2基の標石>五丁標石>四丁標石 / 三丁標石>二丁標石と石仏群>大興寺裏参道前の四辻の標石>六十七番札所 大興寺

旧遍路道標識
スタート地点は先回散歩の終点、小池の西端、旧遍路道標識の立つところ。雲辺寺から山道を麓に下りた広域幹線林道・五郷財田線の雲辺寺登山口を少し西に戻ったところだ。標識に従い右に折れ粟井川の谷筋へと向かう。

徳右衛門道標と三十二丁標石
旧遍路道を右に折れると直ぐ、道の右側の生垣模様の木立の中に道標が2基並ぶ。ひとつは「是より小松尾寺へ一里」と刻まれた徳右衛門道標。もう一基は三十二丁と刻まれた舟形地蔵丁石である。麓に下る遍路道の途中、十九丁石で途切れた舟形地蔵丁石はこの地で三十二丁石として現れる。
この地は白藤大師堂の旧地。現在は集落の中に移されていた(次回のメモに記す)。
●徳右衛門道標
徳右衛門こと武田徳右衛門は越智郡朝倉村(現在の今治市)、今治平野の内陸部の庄屋の家系に生まれる。天明元年(1781)から寛政四年(1792)までの十一年間に、愛児一男四女を次々と失い、ひとり残った娘のためにも弘法大師の慈悲にすがるべし、との僧の勧めもあり、四国遍路の旅にでる。
その遍路旅は年に3回、10年間続いた。で、遍路旅をする中で、「道しるべ」の必要性を感じ、次の札所までの里数を刻んだ丁石建立を思い立ち、寛政6年(1794)に四国八十八ヶ所丁石建立を発願し、文化4年(1807)に成就した。その数は102基に及ぶとのことである(「えひめの記憶」を参考に概要をまとめる)。
因みに、幾多の遍路道標を建てた人物としては、この武田徳右衛門のほか、江戸時代の大坂寺嶋(現大阪市西区)の真念、明治・大正時代の周防国椋野(むくの)村(現山口県久賀町)の中務茂兵衛が知られる。四国では真念道標は 三十三基、茂兵衛道標は二百三十基余りが確認されている。

遍路墓
白藤大師堂にも関係あるのか、道の反対側の一段高いところにはいくつもの遍路墓が祀られていた。基本お墓の写真を撮るのは憚られるのだが、このときは地元の方がきれいにお掃除されていたので、思わずシャッターを押した。





二丁標石
少し下ると二丁石。三十二丁まで続いた雲辺寺からの距離を示す舟形地蔵丁石に代わり、ここからは旧白藤大師堂から大興寺に向かう遍路道の距離を示す舟形地蔵丁石が並ぶことになる(旧白藤大師堂までの距離といったほうが正確、かも)。
三十二丁石のすべては文政十三年庚寅年七月の建立とのこと。小さな木の覆屋に収まるこの丁石には「先祖代々」の文字が刻まれる、という。

角柱道標
少し下ると道の左手、覆う草に埋もれる石垣にもたれかかるように角柱道標がある。「小松尾寺へ三十六丁 明治四十四年五月実測」と刻まれる。地蔵丁石と異なり、小松尾の地にある札所・大興寺までの距離を示す。一丁はおおよそ109mというから、4キロ弱となる。

四丁標石
如何にも旧遍路道といった趣の道を少し進むと、道の左手、竹林を背にして四丁の地蔵丁石がある。この丁石も小さな木の覆屋の中に立つ。








六丁標石
道の右手に覆屋に立つ六丁と刻まれた地蔵丁石。元の遍路道は道路を右に入った丘の上を進んだようだが、現在は荒れたブッシュとなり踏み分け道すら残らず、とても歩くことはできなかった。
六丁石も丘の上の旧遍路道にあったのだろうが、現在は簡易舗装された道端に移されていた。

「南無阿弥陀仏」碑
簡易舗装を少し進むと、道の左、ガードレールの外に「南無阿弥陀仏」と刻まれた石碑が立つ。







七丁標石
その碑の傍、小さな丘から簡易舗装道に下る坂の途中に、これも木の覆屋の中に、少し大きめの地蔵丁石が立つ。七丁の標石だ。「七丁 左雲へん寺道」と刻まれる、と。 実のところ、この丁石を探して、六丁石から丘の上に続いたという旧遍路道に入り込み、ブッシュに阻まれながら、あちらこちらと彷徨った挙句、諦めて道に戻るとこの丁石に出合った。思うに、この丁石も六丁標石と共にブッシュに覆われた旧遍路道から移されたものかと思う。

八丁標石
七丁標石辺りまで下ると粟井川の谷筋に集落が見えてくる。左手には大きな溜池・新池もある。
七丁標石の先で車道は左に折れ新池の畔へと進むもの、右に折れ集落に下りるものと二つに分かれる。が、旧遍路道はその間、養鶏場の敷地のようなところを下る土径を進むことになる。坂の途中、養鶏場の右手の道端に「八丁」の標石が立つ。

九丁標石
養鶏場を越え、粟井川を渡る手前に九丁標石。これも同様に舟形地蔵丁石。 舟形地蔵丁石とは、舟形の光背を背にした地蔵菩薩に丁数を刻んた標石のこと。光背は後光のこと。舟形(舟御光)の形状以外には不動明王の火焔光、円光、宝珠光などがある。




十丁標石と自然石標石
粟井川に架かる橋を渡り右岸に移る。右岸橋詰めに覆屋に立つ十丁の標石と自然石の標石が並んで立つ。自然石標石には手印とともに、「右 うんぺんじ 左 こまつをじ」「明治三十九年 施主 福岡県備前郡**長野寅太郎」と刻まれるという。




十一丁標石
粟井川右岸を進む車道は県道240号。少し進むと石碑の並ぶお堂の道端に十一丁の標石がある。覆屋はない。
お堂には「四国八十八カ所 番外白藤大師堂」とある。上述、広域幹線林道・五郷財田線から旧遍路道に折れてところ、徳右衛門道標と三十二丁標石のところにあったものが、この地に移されたのだろう。現在は奥谷自治会館となっている。
入口の石碑には明和年間に出羽の和尚の開基。壮麗を極めたが明治になり、第十一師団の陸軍演習場として買収されこの地に移った、といったことが刻まれている。
●第十一師団陸軍演習場
明治30年(1897)、善通寺に第十一師団司令部が設置され、『雲邊寺原演習場要図』に示される山麓一帯が演習場となった。地図によれば、なるほど新池の南はすべて演習場となっている。






十二丁標石/十三丁標石
道の右毛に上部が欠けた十二丁の標石が立つ。「へん路道」と刻まれるようだ。 十三丁標石も道の右側、小さな木の覆屋の中に立つ。








十四丁標石 / 十五丁標石
道の右手に十四丁、十五丁と続く。十五丁標石は石仏が2基縦に並ぶ。後ろの石仏は摩耗が激しく、上部が縦に割れている。前の舟形地蔵に「十五」の文字が読める。



十六丁標石 / 十七丁標石
十六丁石は道の左側、ガードレールの切れ目に立つ。272mピークを借景に美しい絵柄となっている。十七丁石は少し大振りな姿で道の右手に立つ。




金毘羅常夜灯と十八丁標石
粟井川に架かる橋を超えると道の右手に金毘羅宮の石碑、金毘羅常夜灯などが並ぶ。その先、道路法面の前にちょこんと十八丁の標石が置かれる。




六部供養塔と十九丁標石
道の右手に木の覆屋に地蔵様。台座に「六十六部 越前圀」の文字が刻まれる。その先、道の右手に十九丁の標石。
●六十六部
六十六部とは、かつての日本を成していた六十六の国毎の霊場に、法華教を納めるべく廻国巡礼すること、またはその人。
ではその霊場は?チェックすると、中世のころは六十六の霊場を巡ったようだが、特に霊場が固定することなく、近世中後期には数年から10年ほどかけて数百の巡礼地を巡ることも少なくなかったようである。
六十六部における巡礼は聖地というよりは、鎌倉期以降に登場する「神国思想」「国土即仏土論」といった思想を背景とし、国全体を「聖地」と見立て巡礼する、といったことに重きを置くとの論もあった(「六十六部廻国とその巡礼地 小嶋博己)。

廿丁標石と六部供養塔・舟形地蔵
道の右手、民家の前に立つ廿丁の標石。その先には六十六部供養塔と古い舟形地蔵が並ぶ。舟形地蔵は摩耗が激しく丁数など読めないが、六部供養塔には、「遍路 六部札供養 享保九年」と刻まれる、と。






二十二丁標石 / 二十三丁標石
道の右側、覆屋に座るお地蔵様の少し先に二十二丁、二十三丁の標石が続く。
●お地蔵さま
お地蔵さまといえば野辺の地蔵を思い起こす。誠に身近な存在である。とはいえ、お地蔵さんって、地蔵菩薩と称される如く広い意味での仏様のランクでいえば、如来>菩薩>明王>天部という上位ランクにあり、お釈迦様が入寂後、次の弥勒菩薩が現れるまでの気の遠くなるような仏様不在の現世にあって、六道(地獄道・餓鬼道・修羅道・人道・天道)を輪廻する衆生を救済する誠にありがたい菩薩である。
日本においてお地蔵様がこれほど身近な存在となった理由について、Wikipediaには「日本においては、浄土信仰が普及した平安時代以降、極楽浄土に往生の叶わない衆生は、必ず地獄へ堕ちるものという信仰が強まり、地蔵に対して、地獄における責め苦からの救済を欣求するようになった。
姿は出家僧の姿が多く、地獄・餓鬼・修羅など六道をめぐりながら、人々の苦難を身代わりとなり受け救う、代受苦の菩薩とされた」とある。このあたりにその因があるのだろう。

二十四丁標石
岩鍋池の手前、県道右側の法面前に二十四丁の標石が立つ。
●香川用水
池の南端あたりを香川用水の西部幹線が走る。ここがどこかで見たことのある景色の地であった。いつだったかその流路を探して彷徨ったわけである。 その時は流路の手がかりを見つけることができなかったのだが、今回のメモの段階で昭和49年(1974)にこの池の水源として香川用水から直接できるようになった、との記述を見付けた。
であれば、どこかにその施設があるはず。と、池の南端にコンクリートの建屋があり、そこから池に水が注いでいた。場所的にも香川用水流路でもあるので、用水はその施設の東西を流れているのかと思う。
岩鍋池
岩鍋池は、雲辺寺山の谷筋からの水を平野開口部で堰き止めた溜池。築造は室町時代後半の大永 7 年(1527年)と伝えられる。築造当時の堤防は、現在の位置より少し上流であったようだが、江戸時代初期の寛永7年(1630年)に西嶋八兵 衛により現在の地に増改築された。

二十五丁標石 / 二十六丁標石
岩鍋池に沿って通る県道240号東側に二十五丁標石と二十六丁標石が並んで立つ。前面の岩鍋池は冬枯れで水はない。





二十七丁標石と三界万霊
すぐ先、道の東側に二十七丁標石とその横に三界万霊。三界万霊とは欲界・色界・無色界の三界すべての霊をこの石塔に宿らせ供養する。





二十八丁標石が2基
池の北端近くに二十八丁と刻まれた標石と、自然石に仏像と二十七丁と刻まれた道標が並ぶ。自然石は明治五年のもとと言う。
池の北端、県道240号から岩鍋池堤防への道が分かれる箇所に「四国のみち」の標石。「雲辺寺7.2km 大興寺1.9km」と刻まれる。


土佛観音堂前の真念道標
「四国のみち」の標石の前面、県道から堤防の道が分かれる箇所に集会所といった建物が見える。近づくと「土佛観音堂」とある。その観音堂の境内というか庭に真念道標が立つ。電柱やガードレールで少々窮屈そうである。正面には「左 遍ん路みち」と刻まれる。
●真念
真念は空海の霊場を巡ること二十余回に及んだと伝わる高野の僧。現在我々が辿る四国霊場八十八ヶ所はこの真念が、貞亭4年(1687)によって書いた「四国邊路道指南」によるところが多い、とか。四国霊場八十八ヶ所の全容をまとめた、一般庶民向けのガイドブックといったものである。霊場の番号付けも行い順序も決めた。ご詠歌もつくり、四国遍路八十八ヶ所の霊場を完成したとのことである。四国では真念道標は 三十三基残るとのこと。
遍路そのものの数は江戸時代に入ってもまだわずかであり、一般庶民の遍路の数は、僧侶の遍路を越えるものではなかったようだが、江戸時代の中期、17世紀後半から18世紀初頭にかけての元禄年間(1688~1704)前後から民衆の生活も余裕が出始め、娯楽を兼ねた社寺参詣が盛んになり、それにともない、四国遍路もまた一般庶民が辿るようになった、とのことである。

県道240号と遍路道の分岐路に道標
遍路道は土佛観音堂の先で県道から別れ右の径に入る。その分岐点に割と大きい道標が立つ。手印と共に、「右 こまつおじ すぐこんぴら 左くぁんおんじ」と刻まれる。文政四年(1821)のもの。

三十丁標石と手印だけの自然石
集落への生活道として舗装された道を進むと右手に三十丁標石と手印だけの自然石が立つ。標石の対面には地元の方がつくられた遍路休憩所があった。
このあたりも香川用水西側幹線水路を辿り彷徨ったところ。標石手前あたりから南に分岐する道に進むと、原隧道を抜け岩鍋池への城谷隧道に入る城谷開水路が遍路道の少し南を走る。

三十一丁標石と道標
集落に入る手前、道の右手に覆屋に建つ三十一丁の地蔵標石と「へんろミチ」と刻まれた道標が立つ。






三十二丁標石
道の右手にこれも覆屋に三十二丁標石がある。雲辺寺からの山道を下り、広域幹線林道・五郷財田線から右に折れる旧遍路道の二丁からはじまった文政十三年建立の地蔵丁石はこの三十二丁でおしまいとなる。

「是より小松山道」の標石
道の右手に「是より小松山道」と刻まれる標石。











四つ角に「こまつを寺」標石
遍路道はほどなく南北に通る比較的大きな道と交差。四辻角に「四国のみち」の標石と並び、手印と共に「こまつを寺」と刻まれた標石が立つ。遍路道は直進する。


七丁標石
遍路道を進むと七丁標石。今までの文政十三年の舟形地蔵丁石が旧白藤大師堂からの距離を示すのではなく、ここから小松尾寺(大興寺)までの距離を示す標石となる。
つらつら思うに、またなんの根拠もないのだけれと、旧白藤大師堂からの三十二丁までの標石は、その主たる対象が大興寺ではなく、白藤大師堂であったのではないだろうか。白藤大師堂の石碑には、高僧が法灯を継ぎ堂塔の伽藍の結構は壮麗を極めた、とあった。今では想像もできないほどの有難いお寺さまに向かう地元の人たちへの道案内ではなかったのではないだろうか。

六丁標石と石造群
大原自治会館の道を隔てた道の南側に元治元年の自然石常夜灯などの石造物の中に六丁標石も立つ。
横には地元のご夫妻の古い時代と思しき写真とともに仏像を納めた祠が建っていた。


四つ辻に2基の標石
その先、四辻に2基の標石。左手には自然石に「すぐへんろ」、「兵庫」といった文字が読める。裏には「迷者タメニ**建立ス 明治二十二年」が刻まれる、と。
四つ辻右手の標石は、一段高い畑の畦端に立つ。見た目に比較的新しい角柱標石であり、「小松尾寺 昭和五十七年十二月」と刻まれる。

五丁標石
2基の標石のある四つ辻を道なりに直進し、小高い丘の坂を上りきった墓地のところに五丁の舟形地蔵標石が立つ。このあたりが観音寺市と三豊市(旧三豊郡山本町)の境となっている。
三豊市
律令制の頃、讃岐国の三野郡と豊田郡に属す。明治32年(1899)町村制施行時に三豊郡となる。行政合併時の常の如く、三野の「三」と豊田の「豊」の合わせ技の命名だろう。その後、昭和30年(1955)、三豊郡の西部が観音寺市となり、平成18年(2006)に山本町など三豊郡の七町が合併し三豊市となる。

四丁標石 / 三丁標石
三豊市域に入った坂を下り切った道の左手、T字路ガードレール脇に四丁の地蔵標石。そこから少し進んだ道の右手に舟形地蔵が立つ。文字は読めないが三丁標石のようだ。



二丁標石と石仏群
小高い独立丘陵に上る坂の手前に石造物が集まる。その中に二丁標石。三界萬霊碑と並ぶ。






大興寺裏参道前の四辻の標石
坂を上り切った角に「四国のみち」の角柱とその傍に自然石の標石があり、「へんろ」の文字が読める。
直進すれば大興寺の裏参道ではあるが、現在は裏参道からの参拝は歓迎されていないようで、丘陵東にある表参道へと廻ることになる。
四つ辻を右折、さらに道なりに左折し丘陵を下り表参道側に出る。駐車場も整備されている。


六十七番札所 大興寺

石造地蔵道標と2基の茂兵衛道標
駐車場から丘陵の東に沿って流れる水路を渡り大興寺表参道に向かう。水路を渡ると道の右手に石造の大きなお地蔵さまと2基の道標が立つ。
石造地蔵尊の台座には「へんろミち 弘化四」と刻まれ、道標にもなっている。その横に並ぶ2基の道標は共に茂兵衛道標。
手印と共に「雲邊寺 明治三十三年」と刻まれる道標は茂兵衛179度目のもの。「右小松尾寺 明治廿壱年」と刻まれるものは百度目のもの。
門前で「右小松尾寺」というもの異なものであり、どこからか移されたものだろう。
中務茂兵衛
中務茂兵衛。本名:中司(なかつかさ)亀吉。弘化2年(1845)周防(すおう)国大島郡椋野村 (現山口県久賀町椋野)で生まれた中務茂兵衛は、22歳の時に四国霊場巡礼をはじめ、大正11年(1922)に78歳で亡くなるまで生涯巡礼の旅を続け、実に280回もの巡礼遍路行を行った。
道標は、茂兵衛が厄年である42歳のとき、遍路行が88回を数えたことを記念して建立をはじめ、その数250基以上にも及ぶ(230基ほどは確認済、とか)。文化遺産としても高く評価されている道標の特徴は、比較的太めの石の四角柱(道標高の平均約124cm)で、必ず建立年月と自らの巡拝回 数を刻んでいる、と。


仁王門
水路に架かる石造りの極楽橋を渡ると仁王門がある。金網で覆われた仁王様が多いなか、このお寺さまは直接拝顔できる。伝運慶作とのこと。
裏側には大草鞋。旅の安全を祈るとも、撫で仏ならぬ撫で草鞋で患部を撫でて傷を癒すとも、お寺さまでそれぞれであるが、このお寺様はどうだろう。
仁王門手前には「四国霊場六十七番 小松尾寺道 明治四十七年」と刻まれた角柱標石が立つ。

仁王さまと吉三郎
仁王門に建つ、鎌倉期の作ともされる阿吽二体の仁王様のうち、口を開いた阿形の仁王様は江戸の頃に修理された、と。
その修理に際し、八百屋お七の恋人吉三郎が登場する話が伝わる。吉さん恋しと放火し、江戸の町を焼き、火炙りの刑に処せられお七の供養に四国遍路に出た吉三郎。この寺で傷んだ仁王様の首を見て、その修理勧進を申し出て四国遍路を続けた、と。お話はお話としてそっとしておこう。


カヤの大木
仁王門を潜り本堂への石段右手に巨大な樹木。案内には「県指定自然記念物 胸高幹周4.1m 樹高20m 樹齢1200年余り 形状 自然形 イチイ科の常緑針葉樹。弘法大師四国修行の砌りイチイの種子を植えたと伝えられている」とあった。






楠の大木
石段を上った踊り場脇に、これも巨大な楠木が聳える。子供の頃、愛媛の家の周りにも誠に巨大な楠が聳えていたのだが、今はすべて切り倒されており、この木を見るにつけ、少し残念な気持ちになった。






本堂
寺伝によれば、天平14年(742)熊野三社権現鎮護のため建立。弘仁13年(822)嵯峨天皇の勅命により弘法大師が開基した。讃岐国の熊野信仰の拠点とされたようである。本尊の秘仏薬師如来は弘法大師の自刻とされる。 尚、熊野三社権現は現在大興寺奥の院として本堂南西に祀られる。
堂宇は天正年間、というから16世紀後半、長曾我部軍の兵火により本堂を残して消失。現在の堂宇は江戸の頃、慶長年間(1596?1614)の再建による。

熊野三社権現
権現とは「権(仮)の姿で現れる」ということ。熊野本宮・新宮・那智の熊野三山に祀られていたそれぞれの神は,元々は別個の信仰により成立したものだが、平安の頃になるとそれぞれの神を合祀し三山と総称されるようになる。 その神々が仏教の影響のもと本地垂迹説での解釈により阿弥陀如来(本宮)、薬師如来(新宮)、千手観音(那智社)が神という仮の姿で現れたとするのが熊野三社権現。

熊野の神々が宿る熊野は、隈野(くまの;辺鄙な地)故、奈良時代から山林修行の地として知られ、役の行者(えんのぎょうじゃ)を始まりとする修験者が修行の地としてこの地に入ったと伝えられる。
奈良時代、特に後期以降には世俗的な寺から離れ、熊野・大峰の山中で修行・修験道に励んでいた園城寺の修験僧の影響もあり、熊野の修験道が個人の修験道レベルから中央の寺社勢力に組み込まれていくことになる。当然、熊野信仰に仏教の色彩・影響が色濃くでることになり、その結果としての本地垂迹説での本地仏の登場であり、熊野三社権現ではあろう。
大師堂
本堂右側に大師堂。弘法大師空海を祀る。








大天台師堂
本堂右側に天台大師堂。天台大師智顗(ちぎ)禅師 を祀る。隋の時代の中国の高僧。知者大師とも称される。大師はインドからもたらされた経典の中の法華経を重視し、法華教を核とした天台教学を打ち立てる。その教えをまとめた法華三大部〈法華玄義(ほっけげんぎ)、法華文句(ほっけもんぐ)、摩訶止観(まかしかん)〉は鑑真によって日本にもたらされた。
最澄はその教えを深く学ぶべく唐に渡り天台山で修行を重ねた末に日本に戻り、天台宗を開いた。その故をもって、天台宗では宗祖は伝教大師最澄、高祖は天台大師知者とする。

天台と真言、ふたつの大師堂
このお寺様は真言宗善通寺派。そこに天台大師堂がある?そもそもが四国遍路って、真言宗の祖・弘法大師空海を慕っての巡礼なのでは?
なにゆえに真言と天台の大師堂が?ということだが、四国遍路の成り立ちを思うに、それほど奇異なことではないようだ。四国の霊場を巡る四国遍路が弘法大師空海信仰と深く結びつくようになった(大師一尊化)のは室町以降のこととされ、それ以前の四国の霊場は多様な信仰が重なり合った霊場からなっていたようである。

「えひめの記憶」によれば、「四国遍路の始まりは、平安末期、熊野信仰を奉じる遊行の聖が「四国の辺地・辺土」と呼ばれる海辺や山間の道なき険路を辿り修行を重ねたことによる、と言われる。『梁塵秘抄』には、「われらが修行せし様は、忍辱袈裟をば肩に掛け、また笈を負ひ、衣はいつとなくしほ(潮)たれ(垂)て、四国の辺地(へち)をぞ常に踏む」とある。
とはいうものの、四国遍路が辿る四国八十八カ所霊場は霊地信仰であって熊野信仰といった特定の信仰で統一されたものではないようだ。自然信仰、道教の影響を受けた土俗信仰、仏教の影響による観音信仰、地蔵信仰などさまざまな信仰が重なり合いながら四国の各地に霊場が形成されていった。
高野山系と叡山系の念仏聖、本山派(天台宗聖護院派)や当山派(真言宗醍醐派)の修験者なども、それぞれ修行の霊場を作りあげていったのだろう。
それが、四国各地の霊場に宗派に関係なく弘法大師を祀る大師堂が建てられ、遍路はその大師堂にお参りする大師信仰(遍照一尊化)が大きく浮上してきたのは室町の頃、と言われる。そこには弘法大師の人気と共に、真言宗醍醐派の修験僧、遊行の僧である高野聖の影響が考えられるとのことである。
以上のことを踏まえれば、ある時期、修験道のメッカ熊野三社権現の霊刹として開基された大興寺に真言、天台両系統の聖、修験者が集い、その祖を祀っていたことはそれほど不思議なことではないかと思う。
辺地から遍路
因みに「辺地」が「遍路」と成り行くプロセスは、辺地(へじ)を遊行する道ということから「辺路」となる。熊野の巡礼道が大辺路、中辺路と呼ばれるのと同じである。そして、辺路が「遍路」と転化するのは室町の頃、高野聖による四国霊場を巡る巡礼=辺路の「遍照一尊化」の故の「遍」の借用のようである。
四国八十八か所
ついでのことではあるが、この霊地巡礼が八十八箇所となった起源ははっきりしない。平安末期、遊行の聖の霊地巡礼からはじまった四国の霊地巡礼であるが、数ある四国の山間や海辺の霊地は長く流動的であり、それがほぼ固定化されたのは室町時代末期と言われる。高知県土佐郡本川村にある地蔵堂の鰐口には「文明3年(1471)に「村所八十八ヶ所」が存在した事が書かれている。 ということはこの時以前に四国霊場八十八ヶ所が成立していた、ということだろう。遍照一尊化も室町末期のことであり、四国遍路の成立が室町末期と言われる所以である。
貞亭4年(1687)に真念よって書かれた四国遍路のガイドブックである「四国邊路道指南」も室町期にほぼ固まっていた88か所がそのベースにある、という。
〇四国八十八霊場の宗派
様々な信仰が重なり合って成立し、大師一尊化により真言宗の祖・空海と同一視されてもいる四国八十八ヶ所の霊場であるが、現在でも天台宗が4ヵ寺、臨済宗が2ヵ寺、曹洞宗が1ヵ寺、時宗が1ヵ寺もある。
大師一尊化が進む以前は四十番観自在寺がかつては天台宗であり、四十九番の浄土寺はその名の示すが如く浄土宗であり、五十一番の石手寺ももとは法相宗。また四つの国に1ヵ寺ずつある国分寺は華厳宗であったように、大師一尊化以前はさらに真言宗以外の霊場が多かったものと思われる。
さらに神仏習合の時代は、愛媛の五十五番札所が大山祇神社であったり、香川の六十八番札所が琴彈八幡宮であったりと、10ほどの神社が札所ともなっている。霊場がさまざまな信仰が重層的に発展して形成された所以である。

境内の標石
表参道の石段を上がり切った右側に「六十八番 くわんおん寺 二里」と刻まれた標石。
境内左手に手印と共に「小松尾寺」」と刻まれた標石がある。これもどこかららか移されたものだろう。


また、境内右手,庫裡の敷地に2基の道標がある。門は閉じられ中に入ることはできないが、板塀の間から道標は確認できた。
ひとつは真念道標。「左 へん路みち 願主真念 為父母六親 施主讃岐」と刻まれる。もう一基には「左 へん路ミち」と刻まれる、「という。

二回に分けてメモした六十六番札所 雲辺寺から六十七番札所 大興寺への歩き遍路もこれでおしまい。次回は六十八番札所 観音寺に向かう。



平成30年(2018)の5月、愛媛県四国中央市にある六十五番札所から香川県と徳島県の境を画する阿讃山脈の山中、標高910mの高所にある六十六番札所雲辺寺まで歩いた。平成29年(2017)の冬、予土国境からはじめた伊予の歩き遍路の締めくくりとして、三角寺から雲辺寺への三つの遍路道()を辿り伊予の遍路道繋ぎの旅の大団円としたわけである。

これをもって当初予定していた愛媛の遍路道、それも道標を目安にできるだけ旧遍路道を辿る散歩を終え、それでよし、と思っていたのだが、今となって雲辺寺から先、讃岐の遍路道を辿ってみたくなった。
ほぼ半年ぶりに歩き遍路を再開する。今回のルートは雲辺寺から阿讃山脈を下り四国遍路の「涅槃の里」、讃岐平野にある六十七番札所 大興寺大興寺まで、おおよそ10キロ弱の遍路道である。


本日のルート;六十六番札所 雲辺寺>雲辺寺山無線基地局>下山口>萩原寺分岐>「みき邊路道」標石>遍路墓(阿讃縦走路分岐点)>六十六部供養塔>二丁石>六丁石>七丁石>九丁石>丁石(拾丁目)>十一丁石>十二丁石>十三丁石>十五丁石>十六丁石>十九丁石>「四国のみち」木標(大興寺まで6.4km)>「一升水」案内>「四国のみち」木標(大興寺まで5.7km)>林道交差>広域幹線林道・五郷財田線と交差>旧遍路道

雲辺寺ロープウエイ
先回歩き終えた雲辺寺へと向かう。阿讃山脈の山中、標高910m地点に位置する雲辺寺までは観音寺市の大野原から雲辺寺まで上るロープウエイを利用する。高松道を大野原インターで下り、途中、香川用水散歩の時に出合った萩原寺を経てナビのガイドで雲辺寺ロープウエイ乗り場に。
常の如く単独車行。雲辺寺から山道を下った後は、この車デポ地まで一度戻ることになる。4キロほど車回収に歩くことになるが、仕方なし。

ロープウエイ片道チケットを購入。ゴンドラにはスキーやスノボー姿の人が。雲辺寺山にスノーパーク雲辺寺が地図に載っていた。昭和64年(1989)開業、全長2594m、標高差652mを上るゴンドラは山稜遥か高所を進む。高所恐怖症には少々辛い。

六十六番札所 雲辺寺
ロープウエイを下り雲辺寺へ向かう。道はすぐに香川県境を越え徳島県に入る。香川県最初の札所雲辺寺の本堂は徳島県にある。その理由ははっきりしないが、江戸の頃には阿波藩領にある雲辺寺が既に讃岐の関所寺とみなされていたようである。あれこれの顛末は、先回散歩のメモをご覧いただくこととして先に進む




五百羅漢
本堂への道の両側に幾多の五百羅漢像が並ぶ。仏陀に寄り添った500人の弟子・最高の修行者とも称されるとすれば、五百の石造があるのだろう。中国の福建省で造られたとか、空海が修行した福建省の五百羅漢院の羅漢像を模したものとか言われる。先代住職の発願により、平成10年(1998)より七年の歳月をかけ造られた、とのことである。
そのためだろうか、涅槃像傍には、いかにも中国風の石塔も立つ。

山門脇の茂兵衛道標
本堂にお参りし、先回見落とした山門傍の茂兵衛道標を確認。道標とともに「旅うれし只ひとすじ尓法の道(たびうれし ただひとすじに ほうのみち)との添歌が刻まれる。
山門は本堂傍、愛媛からの遍路道に続く参道にあったものを建て替えたようで、結構新しい。山門前から雲に覆われた徳島側、吉野川の谷筋を覆う雲を眺める。香川県側は雲ひとつなかったのだが、阿讃山脈を境に全く異なった景観を呈していた。
大師乳銀杏
「四国のみち」の案内と思しき「大興寺 9.2粁(キロ)」の標石に従い大興寺への下山道に向かうとすぐ、大師乳銀杏の案内。「巨大な木を乳銀杏と言う。乳のでない人のため弘法大師が銀杏の苗を植え、乳がでるように念じた。と、木の幹を削り煎じて飲むと乳がでるようになった」とある。
推定樹齢1200年の古木。初代は株だけ。子孫の三本の銀杏がそれを囲む。幹から垂れる気根が乳に似ている故の命名とも。

雲辺寺山無線基地局:9時49分
ロープウエイ山頂駅からお寺さまへのアプローチ道だけでなく、下山口に向かう道の両側にも幾多の五百羅漢。通常五百羅漢は山域の広い範囲に建つことがおおいのだが、ここには途方もない数の羅漢像が集中している。どうも山崩れを避け、引っ越ししたようである。
それはともあれ、道を進むと雲辺寺山無線基地局。NTT、KDDなどの無線中継基地のようである。里から見える雲辺寺のパラボラアンテナなどがこれであろう。雲辺寺本堂からおおよそ10分のところにある。

下山口;9時53分
無線基地局から4分程進むと四国の道の木標、石柱などが立つ。歩き遍路道左の案内がある分岐箇所の左側に石の道標。「小松尾寺へ七十二丁」と刻まれる。明治44年(1911)に立てられたもの。小松尾寺は67番・大興寺のこと。小松尾の地にあるが故である。遍路道は左に入る土径となる。

萩原寺分岐;9時59分
6分ほど進むと道の左手に木柱があり、手前の板札には「萩原寺 ロープウエイ」との手書き文字。ここから左、ロープウエイ下の沢筋に下りロープウエイ山麓駅を経て荻原寺へと行くのだろう。山地図にはルートが描かれていないが歩いた方のブログもあった。
その木柱の右手に2基の道標。手印とともに「小松尾道 大正十四年」と刻まれた道標と「一丁」と刻まれた舟形地蔵丁石が立つ。

「みき邊路道」標石:10時6分
5分ほど進むと、道の左手に「みき邊路道」と刻まれた小さな標石がある。

遍路墓(阿讃縦走路分岐点);10時16分
更に10分ほど進むと右手が開ける。左手に県境尾根筋が続くようだ。六地蔵越えに続く阿讃縦走ルートではあろうが、特に案内はない。分岐箇所、木の脇に遍路墓があった。備前の遍路が眠るという。
不動明王が彫られた舟形地蔵と三丁石もあるといった記事もあったが、見当たらなかった。

六十六部供養塔:10時21分
5分ほど下ると木の傍に六部供養塔。「奉納六十六部中供養 明和元年」とともに、「右へんろ 左*き原 道」の文字も刻まれる。標石ともなっていた。
「*き原」?大野原字萩原(はぎわら)だろうか。とすれば、先の萩原分岐と同様、この辺りからも萩原へと下る道があった(ある)のだろうか。標石上部にくっきりと浮き出た仏坐像が印象的。
六十六部
六十六部とは、全国六十六箇所の霊場に大乗妙典を奉納する目的でおこなわれた巡礼、もしくは巡礼者を指す。日本廻国とも称され、巡礼者を六部とも略した。文字に刻まれた「中供養」とは、廻国途中になんらかの機縁が生じ建立したものを意味するようだ。

二丁石:10時30分
次いで「二丁」と刻まれた舟形地蔵丁石。距離からすれば一丁石から離れすぎている。どこからか移されたものだろう。この下山ルートは昭和61年(1986)頃、「四国のみち」として整備され、それ以前の山道とは様相が変わったようである。移転はその際のことだろうか。
四国のみち
歩き遍路や山歩きをしていると、折に触れて「四国のみち」の木標に出合う。よくよく考えると、「四国のみち」って何だろう?チェックすると、「四国のみち」とは歴史・文化指向の国土交通省ルート(約1,300km)と、自然指向の環境省ルート(約1,600km)の総称。環境省ルートは「自然遊歩道」が正式名称であるが、ルートは重なる道筋も多く、まとめて「四国のみち」と称されるようだ。
環境省ルートは、「四季を通じて手軽に楽しく、安全に歩くことができる自然遊歩道」として整備されたのはわかるのだが、何故建設省が?そこには道路整備だけでなく、自然派志向の世論もあり、昭和52年(1977)以降「自転車道」「歩道」の整備をも重視することになった背景があるようだ。
この建設省ルートは基本遍路道を基本としながらも、既存道路の利用という前提もあり、札所を結ぶとはいいながら遍路道との重なりは6割弱とのこと。国道、県道、市町村道、林道整備がその主眼にある故ではあろう。
上に建設省ルートが歴史・文化指向といった意味合いは、札所や遍路道の歴史的・文化的価値を見出し、モータリゼーションの発展にもない、昭和59年(1984)には15万人もの人が訪れるおとになった四国遍路を観光資源としてそれを繋ぐ道を整備していったようにも思える。

六丁石;10時35分
「雲辺寺1.5km 大興寺8.1km」と書かれた「四国のみち」の木標の傍に立つ。









七丁石;10時39分
「七丁」と「念仏供養」の文字がはっきり読める。そもそも幾多の仏の中で、何故に地蔵菩薩が丁石として登場するのだろう。
地蔵菩薩の菩薩とは、仏の位で言えば、如来>菩薩>明王>天部にあり、もう少々徳を積めば最高位の如来になれるポジション。人を救うといった誓願をたて現世に留まり徳を積んでいる仏であるが故に、最もポピュラーな仏さま。その故だろうか。そのうちに調べてみたい。

九丁石:10時46分
この丁石には錫杖を抱いた地蔵菩薩が彫られる。錫杖をもつもの、持たないもの、錫杖も右肩・左肩(右手は錫杖、左手は如意宝珠)など舟形(光背)地蔵もその姿は様々だ。
地蔵菩薩、野辺に佇むお地蔵さんとして身近な存在であるが、もともとは結構有り難い仏さま。仏陀が寂した後、次の仏陀(弥勒菩薩)が現れるまでの間、現世に留まり六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅・人道・天道)を輪廻する衆生を救済してくださる。
地はサンスクリットの「大地」、蔵は「胎内」から。大地が全ての命を育む力を蔵するように、苦悩の人々を、その無限の大慈悲の心で包み込み、救う所から名付けられたとされる(wiki)。

丁石(拾丁目):10時54分
上部が破損。ふたつに分かれた舟形地蔵丁石の上部に「拾丁目」と刻まれ、下部には「享保五年庚子七月廿四日」、そして「片桐市**」といった文字が刻まれる。「目」があったり、日付があったり、奉納者らしき人名があったりと、この丁石は他のものと少し異なっている。

十一丁石:11時
傍に「雲辺寺2.1km 大興寺7.5km」と書かれた「四国の道」の木標がある。







十二丁石:11時9分
「へんろみち」の説明ボードの傍にある。木のベンチもある。








十三丁石:11時14分
この辺りが雲辺寺から里に下りるまでのおおよそ半分。標高は600mほど。おおよそ300m下ってきたことになる。









十五丁石:11時25分
「雲辺寺2.7km 大興寺8.9km」と書かれた「四国の道」の木標傍にある。「大興寺 8.9km」としか読めないのだが、距離が増えるのはおかしい。6.9kmであれば理屈に合うのだが。







十六丁石:11時30分
左手が開け、木のベンチがある傍に立つ。








十九丁石:11時41分
木のベンチ手前に立つ。丁石はここから里に下りるところまで見つけることができなかった。まったくないのは不自然。「四国のみち」整備の際にでもどこかにまとめられたのだろうか。または、この辺りから旧遍路道は「四国のみち」とは別ルートであったのだろうか(これは妄想)。


「四国のみち」木標(大興寺まで6.4km)
19丁石から2分程下ると「四国のみち」の木柱。「雲辺寺3.2km 大興寺6.4km」とある。先ほどの「大興寺8.9km」は何だったのだろう。見間違い?



「一升水」の標識:1154分
空は更に開け、「へんろみち」の説明ボード(11時47分)を越えた辺りからは里が全面に開ける。地形図を見ると鞍部になっていた。
鞍部の先、449mピークの手前で軽く右に折れ、数分歩くと「四国のみち」の木標がある。「雲辺寺3.5km 大興寺6km」と記された木標傍の木柱に「一升水」と記される。
特に案内はないのだが、地図を見ると先ほどに鞍部に向けて沢が切り込んでいる。このあたりに滾々と湧き出る湧水でもあったのだろう。

辺りは木のベンチも整備された休憩所となっており、鰻淵の案内ボードもあった。鰻淵は遍路道の東側の谷で、林道から少し入ったところにある、と記される。林道は東の谷・沢筋が注ぐ粟井ダム湖縁に見える林道のことだろうか。不明である。
なお、この地には「坂瀬山林区財産境界」と記された石も立つ。坂瀬山林区が入会権をもつ山林という事だろうか。財産はこの場合、山林を指す。
一升水
散歩の折々で一升水に出合う。四国中央市の土佐北街道・横峰越え、香川の箸蔵道などで出合った一升水が記憶に残るが、共に弘法大師空海ゆかりのものであったが、この地の一升水は?

「四国のみち」木標(大興寺まで5.7km):12時6分
道端に「第125号」と書かれた石柱(11時57分)。何だろう?少し下ると「四国のみち」の木標。大興寺まで5.7kmとある。更に下ると石柱(12時10分)。摩耗が激しく手掛かりがない。これまた何だろう。
はっきりはわからないのだが、この辺りには陸軍用地の標石が残ると言う。大野原内野々一帯には陸軍第11師団の広大な雲辺寺陸軍演習場があったようであり、形からすれば各地に残る陸軍用地境界石と似ているようだ。「第**号」も陸軍境界石に記されるパターンではあるが、共に不明である。

林道交差;12時34分
陸軍境界石らしき石柱から20分ほど下ると舗装された道に交差する。粟井ダム方面を結ぶ林道だろう。林道を隔てた北側に「四国のみち」の木標が立つ。
「大興寺5.1km 雲辺寺」4.5km」と書かれた木標傍に遍路道直進との矢印がある。地図を見ると、一筋北に東西に走る林道がある。道を横切り先に進む

広域幹線林道・五郷財田線と交差;12時40分
前に広がる里の景色を見ながら数分下ると舗装された道に出る。ここが雲辺寺への登山口だと思う。雲辺寺から5キロ弱の山道をおおよそ3時間で下ってきたことになる。
遍路道が林道との交差する箇所に「四国のみち」の木標が立ち、「雲辺寺4.6km」, 「大興寺5km 雲辺寺3.3km 五郷ダム4.8km」と記される。何故唐突に「五郷ダム」?
どうもこの林道は広域幹線林道・五郷財田線のようだ。三豊郡財田町灰倉からこの地を越えて雲辺寺ロープウエイ山麓駅前を経て五郷ダム方面へと進む(林道起点はこちら側)故の「五郷ダム」の案内だろう。
この交差箇所に旧遍路道の案内もある。手書きの案内は消えかけており。うっかりすると見逃してしまいそうな案内ではあるが、指示に従い左折する。

旧遍路道;12時49分
林道を10分弱西に進み、池を越えたあたりに旧遍路道右折の案内がある。遍路道は右に折れ里に下るが、ここで遍路道歩きは一時中断。単独車行の原則としている、山道を下り車道に出たところで車デポ地へ戻るというルールに従い、車デポ地である雲辺寺ロープウエイ山麓駅まで4キロ弱を戻る。

散歩のメモも今回はここでお終い。里道を大興寺まで辿る遍路道メモは次回に廻す。雲辺寺から里までの遍路道は、「四国のみち」として整備されていたこともあり、至極快適な下りではあった。
面河渓散歩の第一回は,面河への道の道すがら気になったあれこれでメモを終えた。今回は面河渓のメモ。当日は常の如く事前準備無し。成り行き面河山岳博物館手前、石鎚スカイラインが右に折れる手前の駐車場に車を停め,取りあえず歩を進め面河山岳博物館脇にある面河渓散策図でおおよそのルーティング。面河散策ルートは面河山岳博物館がスタート地点であった。
まずは面河山岳博物館から始まる「関門コース」の遊歩道を進み、次いで「面河本流コース」へ。面河本流コースを遊歩道終点まで歩いた後は折り返し、「パノラマ台亀腹遊歩道コース」へと上る山道を経由し「鉄砲石川コース」を歩くことにした。

ルートは予定通りではあったが、そのメモの主眼は当初イメージしていた「紅葉の落ち葉の中をのんびり歩く」といったものとは違ったものになった。勿論、当日は左右に斧で削られたような岸壁が対峙する景勝・関門の渓谷、巨大な一枚岩の大岸壁・亀腹やいくつもの奇岩、開けた河原に敷かれたような一枚岩とも見える白い河床。面河渓を形づくるこれら地形・地質を見ながら、「こんな景観・渓谷はどのようにできたのだろう」と思いながらも、のんびりと散歩をたのしんだのだが、メモの段階でこの面河の景観は石鎚火山活動に伴う陥没カルデラ形成時の「賜物」であることを知った。面河の案内にある結晶片岩とか凝灰岩とか石灰岩とか、何のことやらさっぱりわからなかった岩層・岩質も、今から1500万年前に起きたこの石鎚の火山活動とそれにともなう陥没カルデラ生成の各プロセスを表すものであることもわかった。
門外漢の,それも少々付け焼刃の感は否めないが、景勝面河渓の散歩を地質・地層面の視点を交えてメモしようと思う。

本日のルート;
関門コース
面河山岳博物館>猿飛谷の出合>空船橋>通天橋
面河本流コース
五色河原>亀腹岩>面河茶屋>鶴ケ背橋>蓬莱渓>紅葉河原>第二キャンプ場>下熊淵>上熊淵>石鎚山登山口入り口の鳥居>熊淵橋>休憩所>虎ケ滝>苔の桟道
パノラマ台亀腹遊歩道コース
紅葉河原>パノラマ台の木標>玉
ねぎ岩>急な上り>尾根道>馬の背>亀腹展望台・石鎚山の展望>パノラマ台>隧道入り口・下山口
鉄砲石川コース
隧道>櫃の底>鉄砲キャンプ場>千段の滝>紅葉石>お月岩>兜岩>鎧岩>布引の滝

面河渓

石鎚スカイラインに折れる手前に関門駐車場
面河川に沿って進んで来た県道12号は、前方に面河山岳博物館が見える手前で右に折れ石鎚スカイラインとなるが、面河渓は面河山岳博物館方面へと直進する。事前準備がないため、どこが面河渓のスタートラインか不明だが、県道が石鎚スカイラインへと右折する手前にあった駐車場に車を停める。そこが関門散策コースの駐車場であった。
石鎚スカイライン
石鎚陥没カルデラ(『愛媛の地質』)
昭和45年(1970)開通。当初は有料道路であったが平成7年(1995)に無料開放される。上り口の標高は650m、終点の石鎚登山口ともなっている土小屋は標高1500m。18キロほどの区間を1000mほど駆け上がる山岳道路である。
『愛媛の地質;永井浩三(愛媛文化双書刊行会)』に拠れば、石鎚スカイラインは1500万年前に石鎚の火山活動によってつくられた石鎚陥没カルデラ内を10キロに渡り走り、陥没させた環状断層を3回横切っている、とする。同書に掲載のカルデラの周囲縁線と国道地理院2万五千分の一の地図を見比べると、面河渓に入ってすぐの猿飛谷を抜け、ご来光の滝の展望ができる長尾根展望台手前の金山谷でカルデラの周縁と石鎚スカイラインが合わさっている。地質の門外漢であり確証はないが、これらの箇所がその断層部だろうか。
「岩石鉱物鉱床学会誌「四国 石鎚陥没カルデラと天狗岳火砕流」
陥没カルデラはその径が7キロから8キロの円形状になっている。「岩石鉱物鉱床学会誌(第64巻第1号;1970年7月5日:吉田武義)「四国 石鎚陥没カルデラと天狗岳火砕流」にあった地質図によれば、その域は、東は石鎚スカイラインに沿って猿飛谷から金森谷、スカイラインから離れ番匠谷を横切り、北は鶴の子の頭から石鎚山の天狗岳、二の森、堂ケ嶺に至る稜線の北(鞍瀬川の源流部)を走り、西は堂ケ森西の六部峠から坂瀬川右岸の山稜を下り、南は坂瀬川の谷筋から面河渓の関門・猿飛谷を結んだ外縁に囲まれた一帯のようである。

面河山岳博物館
散策図(面河山岳博物館)
石鎚スカイラインを見遣り、直進すると面河山岳博物館がある。建物の手前に面河渓の散策案内図があり、ここではじめ本日の散歩のルーティングをする。面河散策ルートは面河山岳博物館がスタート地点であった。このまずは面河山岳博物館から始まる「関門コース」の遊歩道を進み、次いで「面河本流コース」へ。面河本流コースを遊歩道終点まで歩いた後は折り返し、「パノラマ台亀腹展望台」へと上る山道を経由し「鉄砲石川コース」を歩くことにした。
行きあたりばったりで来た面河散策ルートも決まった。散歩の前に面河山岳博物館にちょっと立ち寄り。石鎚参詣の動植物や岩石・地質に関する資料が常設展示されている。
猿飛佐助の碑
博物館の前に石碑が立つ。何気なく見ると「猿飛佐助の碑」とある。猿飛佐助って、子供の頃から真田十勇士のひとりとして馴染みの忍者である。何故この地に猿飛佐助の碑が?チェックすると思わぬ話が現れた。
立川文庫は明治から大正にかけ、講談速記をもとに刊行された文庫シリーズ。猿飛佐助は200冊近いシリーズの中に登場する人物である。実在の人物をンベースにしたものか、想像上の人物か定かではないが、猿飛佐助を生み出したのが文庫本を企画した一族の池田真繭子さん。愛媛県今治の出身であり、超人的ヒーローの名前を考えたとき、この地の猿飛谷に架かる猿飛橋を想い起こし、「猿飛」の名が生まれたとする。
誕生譚としてはよくできていると思うし、実際に博物館の上流、関門遊歩道の途中に「錦木の滝」をなす猿飛谷の上流に橋はあるが、空船橋とある。猿飛橋は石鎚スカイラインが猿飛谷上流を跨ぐところに架かってはいるが、そもそも明治や大正の頃に橋があったのだろうか。




関門コース■ 

面河山岳博物館の建物下の駐車場を抜け関門コースを歩く。未だ紅葉の残る散策路を5分ほど歩くと渓谷の右手に滝が見える。錦木(にしき)の滝と呼ばれるようだ。この滝は上述の猿飛谷から落ちているように思える。 錦木の滝 このあたりの渓谷は板状の節理をもつ白い岩壁が、斧で削いたように渓谷の左右に屹立し、仁淀ブルーで名高い仁淀川源流の面河川の清流と相まって美しい渓相を呈する。岩質は石英閃緑岩と言う。
猿飛谷
猿飛佐助の誕生譚はともあれ、錦木の滝が落ちる猿飛谷は前述の石鎚スカイラインのところでメモしたように石鎚陥没カルデラの周縁部にあたる、と言う。そして『愛媛の地質;永井浩三(愛媛文化双書刊行会)』の陥没カルデラの円形周縁部の説明に「安山岩の円形分布図の周縁部のうち関門付近で安山岩とその外側の結晶片岩とが断層で接している」と記す。
関門の渓谷美を形成する岩石は石英閃緑岩。上述書籍では「関門付近で安山岩と結晶片岩が断層で接する」、との記述。地質の門外漢にはなにがなにらやわからないので『愛媛の地質』をもとにちょっと整理してみる。
石英閃緑岩は花崗岩と同じカテゴリーと考えていいだろう。花崗岩は火山活動にともなう火成岩のカテゴリーのひとつ深成岩の代表的なものであり、地下のマグマだまりから地表に貫入したもののようだ。
安山岩も火成岩のもうひとつのカテゴリーである噴出岩であり、火砕流の堆積によってできたもの(石鎚の火砕流堆積物は安山岩とも(溶結)凝灰岩とも記されている)。 一方、結晶片岩は火成岩とは異なる変成岩のグループに属する。変成岩とは海底に堆積した泥や海底火山の噴出物が、1億年前頃に起きた地殻変動によって地下で押し込まれ、高熱と圧力で変成したものと言う。
これらの岩石を石鎚のケースに即し古い順から年代順に並べると、結晶片岩(変成岩)>安山岩(火成岩の噴出岩カテゴリー)>花崗岩(火成岩の深成岩カテゴリー)となる。
これを1500万年前に起きた石鎚の火山活動とそれにともなう陥没カルデラの形成に即してまとめると;
第一フェーズ;もともと石鎚一帯には結晶片岩を主とする変成岩の地層が分布していた。地下深所にあったものが、隆起により地表に現れ、変成岩の上にかぶさっていた他の岩層が侵食作用により削られた結果、変成岩が地表に現れたのだろう。
第二フェーズ;1500万年前、石鎚で火山活動が起きその火砕流が堆積し一面が安山岩や凝灰岩などの火成岩・噴出岩の岩層で覆われた
第三フェーズ;火山活動にともない500mほどの成層火山が出現するが、その後環状の割れ目ができ陥没カルデラが形成される
第四フェーズ;陥没地塊に割れ目ができ、そこに地下からマグマが貫入し花崗岩層ができた
これからわかることは陥没カルデラ周縁部の外は結晶片岩からなる変成岩の岩層、周縁内部の陥没カルデラは安山岩・凝灰岩(火成岩・噴出岩カテゴリー)で覆われ、その中に地下より貫入した花崗岩(火成岩・深成岩カテゴリー)がある、
ということだろう。
上述関門における、安山岩・結晶片岩・花崗岩の混在は、この地が陥没カルデラの周縁部であり、かつこの地に地下からマグマが貫入し花崗岩層を残した結果ということだろう。
と、自分なりには美しく整理できたと思ったのだが、『愛媛の地質;永井浩三(愛媛文化双書刊行会)』の地質図にも、「岩石鉱物鉱床学会誌(第64巻第1号;1970年7月5日:吉田武義)「四国 石鎚陥没カルデラと天狗岳火砕流」に掲載の地質図にも、関門のあたりに花崗岩層は描かれていない。花崗岩層はもうほんの少々上流に記されている。これって誤差の範囲?と思い込む。

空船橋
昭和2年の空船橋(面河山岳博物館)
錦木の滝から先に進み、空船橋を渡り左岸に移る。渓谷の幅は6mから25mほど。底の小石が見えるような浅瀬もあれば、水深6mほどの深い淵もあり、仁淀ブルーにも濃淡のバリエーションがある。
ところでこの空船橋、「えひめの記憶」には、「当時は、道など全くなく、がけをよじ、岩から岩へ跳び渡っての観光であったが、新しい景観が眼前に開けるたびに空船橋や蓬莱渓と名をつけ、今にその名が残っている」とある。これは先回のメモで、明治43年(1910)に地元の教員であった石丸富太郎氏の熱意に応じた『海南新聞』が文人・写真家など9名のメンバーでおこなった面河探索の折の記述であるが、その当時から木橋か吊り橋かといった「橋」が架かっていた、ということだろうか。面河山岳博物館主催の講座パンフレットには。昭和2年(1927)に撮影された空船橋が掲載されている。木橋で現在より少し下流との説明があった。少なくとも昭和初期には橋が架かっていたことは間違いないようだ。それはともあれ、左岸を進み通天橋に。石門遊歩道はここで車道に出る。

通天橋
通天橋は車道に架かる。通天橋の下流は岩壁が屹立する狭い渓谷と空船橋、上流は開けた川床に大きめの岩石が転がる。下流と対照的な渓相を呈する橋の上流で鉄砲石川が面河川に合わさる。その合流点辺りは「想思渓」と呼ばれる。
因みにこの通天橋は昭和30(1955)年頃架けられたものと言う。「えひえの記憶」に拠れば、昭和30年に石鎚山が国定公園に指定されることを受け、観光客の増加を見越しその前から面河渓周辺の自動車道及び林道の整備が急速に進んだとのこと。昭和27年(1952)に関門から五色河原(後述する)に抜ける林道工事が始まり昭和30年に完成。関門の遊歩道もこのときに造られた、と。
また昭和43年(1968)から44年にかけ、増大する観光客に対応するため関門から五色河原までの一部区間は倍の幅に広げられ、現在の車道となっている。

三つの隧道
通天橋まで歩き、先に車道が続くのを確認。峠のピストン歩きの習性故か、土径から車道に出ると即車を停めている場所に折り返す。車道を戻ると途中三つの隧道が抜けていた。昭和30年(1955)頃の林道整備に合わせ通したものだろう。

●面河渓開勝の碑
三つの隧道を抜けた先、道の山側に石碑が立つ。面河渓開勝の碑とあり、明治43年(1910)の面河渓探勝団の事績が刻まれていた。『海南新聞(後の愛媛新聞)』の後援のもと、詩人・画家・登山家・写真家からなる9名の踏査団がこの地を訪れ、その後十数回に渡り海南新聞紙上で面河の魅力を伝えた。これにより面河が世に知られるようになったと言う。
松山から黒森街道を徒歩で進み、面河渓では道なき道を崖をよじ登り、岩から岩へと飛び渡っての探査団の事績を刻んでいた。
石碑を読み終え、崖下の渓谷、岩場を進む遊歩道を見遣りながら面河山岳博物館に戻り、その先の関門駐車場で車をピックアップし、車道を通天橋方面へと走らす


面河本流コースの始点となる五色河原へと向かう。途中、通天橋を越え鉄砲石川が面河川と合流するあたりを「想思渓」と称するが、車道からは樹木に阻まれその眺めは見えない。面河本流に沿って車を走らせると、川に水路施設がちらりと見えた。

面河第一承水堰
当日は砂防堰堤かな、などと思いながらもそのまま通り過ぎたのだが、メモの段階でその施設が先回メモした面河ダムに水を送る承水堰であることがわかった。面河ダムは水の少ない瀬戸内側に、分水嶺を越えて仁淀川水系の水を 送り利水・発電に供するダムであるが、そこに貯める水は仁淀川水系の三つの支流からも水を送る。面河第一承水堰もそのひとつである。
承水堰には面河第二承水堰もあるとする。場所を特定する資料は見付けることができなかったが、国土地理院の2万五千分の一の地図には鉄砲石川にそれらしきものが見える。確証はないが、面河と言う名称からすれば鉄砲石川にあっても不思議ではないだろう。


面河本流コース

五色河原
車を進め五色河原に。岩と水と林が織りなす五色の綾がその由来だろうか。五色の綾もさることながら、一枚岩とも見える滑状の白い花崗岩の河床が広がる五色河原と、その背景に屹立する亀腹の大岩壁の眺めは誠に印象的な景観である。
車は成り行きで花崗岩の河床を跨ぐ低い五色橋を渡り面河川の左岸に移る。そこには国民宿舎面河と記した建物があったが、どう見ても営業中のようには見えない。建物前の駐車場に車を停め、散歩を再開する。因みに同宿舎は平成28年(2016)3月末をもって閉館したとようだ。

亀腹
五色橋に戻り眼前に聳える亀腹の第岩壁をゆっくりと眺める。結構な迫力である。高さ110m、幅200mと言う。岩壁の中央部に垂直に走る凹面を境に左右に分かれる大岩壁は、各中央部がビール樽のように少し膨れる。亀腹の所以であろう。
このような巨大な岸壁がどのようなプロセスで造られ、その岩層は何からできているのだろう。当日はその疑問だけが残ったが、メモの段階でその岩層について、ある人は溶結凝灰岩(火山灰や軽石といった火山噴出物の岩片が高温故に溶結したもの)と言い、またある人は花崗岩と言う。
凝灰岩とか花崗岩と言われても何のことのことかさっぱりわからず、前述『愛媛の地質;永井浩三(愛媛文化双書刊行会)』などをスキミング・スキャニングした「成果」が、既にそれらしくメモした石鎚火山活動であり陥没カルデラであり、面河周辺の結晶片岩・凝灰岩・花崗岩云々である。これら石鎚・面河の地質に関するメモのすべてのはじまりは、この奇岩・亀腹を見たときに感じた疑問からはじまった。
陥没カルデラの地層(『愛媛の地質』)
それはともあれ、前述メモの如く凝灰岩か花崗岩かによってその生成プロセスは真逆となる。凝灰岩であれば陥没カルデラに堆積した岩層が削られそして残ったものであろうし、花崗岩であればカルデラに地下のマグマが貫入しできたものとなる。
どちらが正解か門外漢には分からないが、『愛媛の地質;永井浩三(愛媛文化双書刊行会)』には亀腹は「石鎚火山活動の最後にできたカコウ岩類である。このカコウ岩類は石鎚カルデラ火山の入り込んだものである」とある。
陥没カルデラには標高500mほどの成層火山ができたとも言うし、また上述『岩石鉱物鉱床学会誌(第64巻第1号;1970年7月5日:吉田武義)』の「四国 石鎚陥没カルデラと天狗岳火砕流」に掲載されていた陥没カルデラの岩層図を見ても、この辺りは花崗岩層となっている。なんとなく亀腹の岩層が花崗岩かな、とも思えてきた。




鶴ケ背橋
五色橋を渡り面河川右岸に戻り橋詰めから面河川左岸を上流に向かう。すぐに出合う面河第一駐車場から川に沿って進むと渓泉亭・面河茶屋がある。このあたりは亀腹の真正面。改めてその迫力に魅了される。
面河茶屋の前を抜け少し進むと「鶴ケ瀬橋」が架かる。橋を右岸に渡り遊歩道を進む。橋を渡った先にも散策案内図がある。
渓泉亭
現在は食堂のみが営業しているが、「えひめの記憶」に拠れば、かつてここには昭和5年(1930)に建てられたモダンな洋館風の旅館・渓泉亭があったようだ。車も入れない「秘境」にモダンな旅館を建てたのは、後に面河村の村長(当時は杣川村)の進取の精神によるところが大きいとする。
昭和36年(1961)に伊予鉄道に買収されるなどの経緯を経て、昭和50年(1975)代に観光客数のピークを迎えるも、その後客数の減少にともない、旅館の営業はなく、現在食堂のみが残っている。

蓬莱渓
鶴ケ瀬橋の上流は蓬莱渓と呼ばれる。広い滑状の花崗岩の河床には発達した板状節理が見える。その上を清流が流れ落ちる。この辺りは「第一キャンプ場」と呼ばれるキャンプサイトとなっている。






紅葉河原
蓬莱渓から遊歩道を少し進むと「パノラマ台へ」と書かれた木標が立つ。亀腹展望台からパノラマ台へと続くハイキングコースの入口のようだ。本流コースを歩き終えこのコースに入ることにして先に進むと「紅葉河原」の木標が立つ。
紅葉の頃は少し過ぎており、足元に落ち葉として道一面に敷かれている。ちょっと残念。 渓層も五色河原や蓬莱渓の一面の滑床といった風情から少し異なり、花崗岩の河床に礫や岩が転がるものとなっていた。

下熊淵
遊歩道を進む。道の左手の山塊には発達した節理を持つ大岩が続く。見飽きることがない。メモの段階であらためて写真を見ると、山塊の岩層は凝灰岩と言うより花崗岩のような気がしてきた。と言うことは亀腹もその岩層は花崗岩である、ということになりそうだ。
ほどなく「下熊淵」と書かれた木標。紅葉河原の開けた河床と異なり、下熊渕は狭い渓谷となりS字に曲がる河から滝が落ち深い淵を造っている。
熊が口を開けた姿に似た岸頭故の命名とするが、遊歩道からそれを実感することはできなかった。

上熊淵
下熊淵からおよそ30m歩くと上熊淵の木標。上熊淵は木標からの眺めより、下熊淵から上熊淵に向かう途中で左手が開けた箇所に現れる、左右が迫る渓谷と淵の景観、それが上熊淵だろうと思うのだが、その眺めのほうがいいように思う。

石鎚登山口
上熊淵からほどなく「石鎚登山口」の標識。信仰のお山故か、登山口には鳥居が建つ。登山ルートは標高1,525mの面河山の尾根道に上り、御来光の滝を下る面河川の源流域を右手に身ながら、稜線を進み標高1982mの石鎚山天狗岳に向かうようだ。 この辺りの標高は780mほどであるから、比高差およそ1,200m上ることになる。このルートは往昔、石鎚の裏参道と称されたようである。
ちなみに現在は、北からはロープウエイで石鎚中腹の成就社(標高およそ1400m)まで行きそこから上れるし、南は石鎚スカイラインの終点土小屋(標高1500mほど)から石鎚に登れる。
表参道
この地から石鎚に上る裏参道ルートに対し、表参道ルートは加茂川の谷筋の集落である河口から今宮道を成就社に上り、そこから石鎚天狗岳を目指すことになる。いつだったが、その今宮道を三十六王子社を辿りながら上ったことがある。標高200mほどの河口から標高1,400m上ることになるのでその比高差は、裏参道ルートと「ほぼ同じ1,200m。4時間半ほどかかっただろうか。結構きつかった。
成就社から石鎚天狗岳までは通常3時間ほどといったものだろうが、これもいつだったか真冬に雪の石鎚に上ったことがある。凍える寒さの記憶が残る。

熊淵橋
遊歩道は熊淵橋を渡る。橋へのアプローチ、橋の架かる渓谷の仁淀ブルーの美しい水、そして淵に水を落とす白い花崗岩の奇岩。亀腹とともに印象に残る景観であった。



水呑の獅子
左岸に渡ると「水呑の獅子」と書かれた木標。指す方向からすると、熊淵橋から見た淵に水を落とす箇所の、白く、また得も言われぬ形状を示す奇岩のようだ。獅子には見えないが誠にいい姿の岩であった。

虎ケ淵
遊歩道を進むと「虎ケ淵」と書かれた木標。少し離れた先に切り立った岸壁に挟まれた渓谷に、滝と淵が見える。そこが虎ケ淵だろう。少し遠くではあるが節理をもつ岩肌に樹木・草木が着生した大岩壁に惹かれた。




苔の桟道
遊歩道はその先のブルーシートが置かれたところで通行止め。と、右手に木が敷かれた道が崖を高巻きしている。ここが苔の桟道かと思う。桟道を少し進んだが、案内図には遊歩道としてはこの辺りが終点とあり、当日も道が荒れ気味となったところで引き返したのだが、その先もルートは続き、山肌に取り付いた桟道を経て九天の滝や霧ケ迫滝を経て御来光の滝へと向かうようだ。面河古道とも称されるよう。
今回は面河渓散策、ということで桟道を少し進んだところで「本流コース」散策を終え、「パノラマ台」への木標地点に引き返すことにした。




御来光の滝
落差100m、日本の滝100選にも選ばれている御来光の滝へは、面河渓谷を遡るルートのほかに、長尾根展望台傍のカーブミラーのところから、比高差300mの面河渓に下りるアプローチ、もある。この夏鮎釣りの知人を案内し下りたトラックログを参考のため掲載しておく。


パノラマ台亀腹遊歩道コース

「パノラマ台」の木標
紅葉河原辺りまで引き返し、「パノラマ台」の木標から山道に入る。紅葉の少し残る山道を上ると倒木が道を塞ぐ。お気楽にこのルートに入ったのだが、結構な山道。比高差200mほど上り、面河山から落ち面河川と鉄砲石川を分かつ山稜の尾根道まで引っ張られることになった。

天然ひのきの大木
15分歩き、尾根筋に。標高は920mほど。道を上り切り、下りになるところに天然のひのきの大木が立っていた。標識は何もなく、ルートはちょっとわかりにくいが、ひのきの大木辺りから成り行きで尾根に沿って道を下ると、左右に渓谷を見下ろす馬の背といった尾根筋に出る。
イメージでは展望台は山道を上り切ったところにあるだろうと思っていたので、展望台をやり過ごしたのか、ちょっと不安になる。また左右が切り立った崖となる馬の背は、高所恐怖症のわが身には少々きつい。

亀腹展望台
天然ひのきのから10分ほど尾根筋を下り、このまま山からおりてしまうのだろうかと、少し不安になった頃、道脇に「亀腹展望台」と書かれた木標が現れた。運よく見付けたものの、辿ってきたルート側からは見落としそうに思える。
標高886m辺りにある展望台からは面河山の稜線が見える。石鎚天狗岳はその稜線の向こうから顔を出しているはずなのだが、ちょっと分からなかった。
深い面河の谷も印象に残った。当日はその深い谷に御来光の滝があるのだよな、といった感慨ではあったが、メモの段階で石鎚陥没カルデラとしての面河の谷を知ることになり、同じ写真を見ても、少し違った「景色」が見えて来た。
展望台からは面河川を隔ててその先に冠山(標高1881m)らしき山、そして鉄砲石川谷筋の白い岩壁などの眺めが楽しめる。

パノラマ台
亀腹展望台の標識で、オンコースであることを確認。数分道を下ると鉄梯子が見える。特に案内はないのだが、パノラマ台へのアプローチだろうと鉄の梯子を上る。その先は岩場となり、パノラマ台はそこから左右が落ち込んだ狭い岩場の先にある。高所恐怖症の身には少々きつい。雨上がりで岩場が濡れているよな、危険だよな、と自分に言い聞かせ岩場で撤退。パノラマ台からは面河川と鉄砲石川の谷筋が見えるようである。

隧道入口に
パノラマ台を後にして道を下る。「パノラマ台」と書かれた標識も立っている。通常パノラマ台や亀腹展望台にはこちらのコースから上ってくるのだろう。
道を下ることおよそ5分で車道に下りる。下り口には「鉄砲石キャンプ場」の標識が立つ。標識の示す方向には隧道があった。
また、下り口には「パノラマ台亀腹遊歩道案内図」もあった。やはりこちらが展望台へのメーンルートだろう。
ここで「パノラマ台亀腹遊歩道コース」は終了。次は隧道を抜けて鉄砲石川コース」に向かう。

鉄砲石川コース

隧道を抜け鉄砲石川の谷筋に入る
「パノラマ台亀腹遊歩道コース」を下り、右手直ぐにある隧道を抜けて鉄砲石川の谷筋に入る。この隧道は昭和30年(1955)の石鎚山の国定公園指定に伴う観光客増加を見据え、昭和27年(1952)実施された関門から五色河原までの自動車道や林道整備の一環として行われた、と(「えひめの記憶」)。工事は昭和29年(1954)から始まり昭和36年(1961)に完成したというから隧道の開通もその間のことだろう。
なお、この工事が行われる以前、鉄砲石川筋に入るには、上述面河第一承水堰の辺りに吊り橋があり、そこを通っていたとのことである。

櫃の底
隧道を抜けると鉄砲石川筋に。隧道を抜けた辺りでは、ありふれた河原だな、などとも思ったのだが、進むにつれ岩と水が綾なす景観、その存在だけて印象的な奇岩が現れる。それとも知らず思わずシャッターを切ったのが「櫃の底」であったようだ。
鉄砲石川に落ちる小さな滝と澄んだ淵が美しい。その先も大岩壁が連なる。岩壁上に並ぶ針葉樹林との組み合わせも面白い。

紅葉石
紅葉石((株)NTOのWeb siteより)

林道を進み鉄砲石キャンプ場に。道脇に「千段滝」、木の根元に「紅葉石」の標識。標識はあるのだが、どこを指すのか分かりにくい。とりあえず林道からキャンプ場に下り、鉄砲石川の川沿いに出る。
どこが紅葉石か不明だが、取敢えず撮った写真が紅葉石のある辺りだったようだ。「えひめの記憶」に「このあたり一帯は白色の岩石でこれにカエデの葉のように集まった黒色電気石の結晶が明りょうに現れている。それぞれ一葉の長さが一〇センチ内外で数一〇〇個ずつ二か所にあり」とある楓の葉のような結晶らしき斑点が、岩壁に着生した草木の手前に見える。それが紅葉石だろうか。学術的には非常に貴重な岩と言う。
鉄砲石
当日は見落としたが、キャンプ場あたりから山に入る道があり、そこを上ると種子島銃のような形をした石があるとのこと。鉄砲石川の由来の石だ。

千段の滝
次いで千段の滝を探して川筋を歩く。と、鉄砲川に合わさる沢が目に入る。鉄砲石川の浅瀬を飛び石で対岸に渡り沢筋に入る。が、沢に転がる大岩、強烈な倒木群に気勢を削がれ途中撤退。再び林道に戻る。
メモの段階でチェックするとこの滝は、後述する布引の滝と同様に緩傾斜の岩盤を流れ落ちる、と。千段の由来は水平に通る幾多の節理の数をもって「千段」とみなしたのだろう。沢の出合いから10分程度で滝に出合うとのことであった。

お月石
林道を進むと鉄砲石川に架かる橋があり、そこに「お月石」の標識があり、右岸を指す。橋から見るとそう言われればお月さまとも見える奇岩がある。お月さまでなくても十分印象に残る節理を持つ大岩・大岩壁であった。


兜岩
橋を渡ると今度は橋の上流左岸をさす木標がある。お月岩と似た姿を持つ多くの節理を持つ大岩壁であるが、縦に交わる割れ目と合わさり「兜」と名付けたのだろう。その直ぐ上に鎧岩があるようだが、当日は案内も見当たらずそのまま通り過ぎた。





布引の滝

橋を渡り少し進むと左手に緩やかな傾斜の岩壁があり、水平の節理を切る二条の縦の割れ目をささやかに水が流れる。おおよそ40mの滝であった。






巨大な倒木箇所で撤退
さらに先に進み、案内にある赤石河原まで行こうと思ったのだが、ほどなく誠に巨大な倒木が道を塞ぐ。潜ることもできず跨ぐこともできず、通り抜けるには河原に下りて迂回するしかない。そこまでして「河原」に行くモチベーションもなく、ここで撤退し駐車場へと戻る。



駐車場へ
林道を戻り隧道を抜けると国民宿舎脇に出る。国民宿舎と隧道の間に面河渓第二駐車場と書かれた駐車場を抜け、車を停めた国民宿舎前の駐車場に戻り、本日の散歩を終える。

常の如く、下調べをすることもなく、成り行きでの面河渓散歩。当日は不思議、疑問を抱きつつもその答えだす術もなく、とりあえずのんびり・ゆったりの景勝散策であったが、メモの段階で面河渓の成り立ちをチェックすると石鎚火山活動、それに伴う陥没カルデラといった誠に興味深い出来事が現れた。面河渓への道すがらの黒森峠や面河ダムのあれこれと相まって、思いもかけないような面河渓散歩のメモ「となった。成り行き任せの散歩は、やはり楽しい。



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