二ヶ領用水散歩 そのⅢ 川崎堀を歩く:久地円筒分水から川崎堀を辿り、大師堀・町田堀分岐の鹿島田まで

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先回の二ヶ領用水散歩2回目は、宿河原取水堰から宿河原線を二ヶ領本川との合流点まで下り、二ヶ領本川を平瀬川まで下った。途中、多摩川の旧堤防、霞堤、横土手など、多摩川右岸を護る堤防が登場するのだが、一部その痕跡は残るにせよ、その全体像に関する資料も見つけられず、多摩川の霞堤の絵姿、横土手の位置づけなど、いまひとつわからないままではあったが、それは「宿題」とし、ともあれ平瀬川までメモした。
今回は、平瀬川を渡り、二ヶ領用水と言えば、と言うほど有名な久地の円筒分水を訪ね、円筒分水から分かれる幾筋かの用水路のうち、本流でもある川崎堀を下り、大師堀と町田堀に分かれる鹿島田まで辿ることにする。


本日のルート:平瀬川>平瀬川トンネル>久地の円筒分水>久地神社>雨乞い弁天>久地不動尊>濱田橋>溝口神社>大石橋>新雁追(がんおい)橋>中原堰>南田堰>平成橋>二子坂戸緑道>石橋供養塔>第三京浜>関神社>井田堰>八つ目土と水道水源地>木月堰>薬師橋から白田橋>中原街道・神地橋>今井堰>渋川分岐点>中丸子堰>上平間堰>苅宿堰>鹿島田堰>御幸橋跨線橋>鹿島田橋>川崎堀踏切>大師堀・町田堀分岐点




平瀬川
往昔、多摩川の水を二カ所の堰で取入れ久地で合流した二ヶ領用水の水を、川崎堀(取水路)、根方堀、久地・溝の口・二子堀、六ヶ村堀の四つの堀に分けた久地分量樋跡を越えると、二ヶ領本川は平瀬川に遮られ地表から消える。用水は平瀬川の下を潜り、サイフォンで対岸に吹き上がる。
先回の散歩でメモしたが、二ヶ領本川、そして宿河原堰で取水した用水は、その80%をこの平瀬川に放流するとのことである。どの程度か不明ではあるが、僅かな梨畑や水田を潤すにしても、基本は稲田取水所で工業用水として多摩川表流水を1日20万立方メートル(東京ドーム約50個分)取水し、内径1.5mの導水管(第5導水管)で生田浄水場まで原水を送るのが、現在の二ヶ領本川の主たる機能となっているのだろう。
旧平瀬川
この平瀬川は昭和15年(1940)に開削された人工の河川である。それ以前の河道は此の地より上流の南武線の南、上之橋から溝の口駅の東へと、総合高津中央病院の裏を通り、二ヶ領用水・川崎堀にかかる平成橋の通り、すこし南に残る橋(欄干が残るだけ)手前で二ヶ領用水・川崎堀の旧流路に合流していたようである。

平瀬川トンネル
平瀬川の上流部にトンネルが2つ見える。ひとつは昭和15年(1940)できたもの。平瀬川は、昭和15年(1940)以前は、上流で大雨が降ると、毎年にように中流域は氾濫した。
平瀬川トンネルは、この豪雨による氾濫を防ぐため昭和15年(1940)から20年(1945)にかけて津田山を堀抜き、平瀬川の水をショートカットで多摩川に流すトンネルとして掘削された。円筒分水が生まれる契機ともなったのが、この平瀬川トンネル掘削・平瀬川改修工事である。
昭和20年(1940)にトンネルが完成。毎秒30立法メートルの流下能力があったトンネルであるが、昭和30年(1955)代から、平瀬川上流域の宅地化が進み、アスファルトで覆われ、保水力の低下した上流域では毎年のように氾濫が繰り返されるようになった。
その対策としてトンネルがもう一本掘られることになり、昭和42年から45年(1967‐1970)に工事が行われ毎秒80立法メートル、1時間に50㎜までの雨量に耐えられる構造の第二トンネルが完成した。
左手の少し小さいトンネルが昭和20年(1945)に完成したトンネルである。現在ふたつのトンネル合わせて時間雨量50mm、流下能力110立法メートルであるが、上流域での洪水予防のため、時間雨量90mm、流下能力230立法メートルに対応すべく、昭和20年(1945)のトンネル拡大改修計画がなされているとのことである。
津田山
因みに、トンネルが穿つ津田山であるが、かつては七面山と呼ばれていた。それが津田山となったのは、この丘陵地を宅地再開発した玉川電気鉄道社長の津田興二氏の名前に拠る。



久地の円筒分水
平瀬川を渡り、平瀬川脇にある久地の円筒分水に。文字通り、「円筒」形をしている。円は二重になっており、中央に直径8mの円形壁、その外周に直径16mの越流壁、越流壁の外側は堀となっている。
施設にあった「円筒分水」の案内に拠れば、「中野島と宿河原の多摩川から取り入れられたニヶ領用水は久地で合流し、「久地分量樋」へ導かれていた。 「久地分量樋」は、川崎堀、根方堀、六ヶ村堀、久地・二子堀に水を分ける施設。それぞれの耕地面積に応じて用水の幅を分割する樋(水門)が使われていたが、水量をめぐる争いが絶えず、より正確な分水が望まれていた。
この円筒分水がつくられたのは昭和16年。サイフォンの原理を応用して新平瀬川の下をくぐり、円筒の切り口の角度で分水量を調節するしくみになっている。農業用水の施設としては、当時の科学技術の粋を集めた大変すぐれたものだった。」とあり。
また「国登録有形文化財 二ヶ領用水久地円筒分水」には、「この円筒分水工と呼ばれる分水装置は、送水されてくる流量が変わっても分水比が変わらない定比分水装置の一種で昭和16(1941)年に造られました。
内側の円形の構造物は整水壁とも呼ばれ、一方向から送水されて吹き上げる水を放射状に均等にあふれさせ、送水されてくる流量が変わっても、円弧の長さに比例して一定の比率で分水される、当時の最先端をいく装置でした。平成10(1998)年6月9日に、国登録有形文化財となっています」とあった。

中央にある直径8mの円筒は、サイフォンの原理で中央の円筒から噴き上がり、波立つ水面の乱れを抑える整水壁の役割。その外側の直径16mの円筒壁は、ここで分水する四つの堀、それぞれの灌漑面積に合わせた比率の長さ(川崎堀38.471m、根方堀7.415m、六ヶ村堀2.702m、久地堀1.675m、)で仕切られ、越流壁の外側の各堀に、流量が変化しても、各堀に一定の比率で分水されるようになっている、とのことである。
平賀栄治の顕彰碑
円筒分水傍に平賀栄治の顕彰碑が建ち、そこには「二ヶ領用水400年・久地円筒分水70年記念 平賀栄治 顕彰碑 この世界に冠たる独創的な久地円筒分水は、平賀栄治(ひらがえいじ)が設計し手がけたもので、1941(昭和16)年に完成した。多摩川から取水されたニケ領用水を平瀬川の下をトンネル水路で導き、中央の円筒形の噴出口からサイフォンの原理で流水を吹き上げさせて、正確で公平な分水比で四方向へ泉の用に用水を吹きこぼす装置により、灌漑用水の分水量を巡って渇水期に多発していた水争いが一挙に解決した。
平賀栄治は1892(明治25)年甲府市生まれ。東京農業大学農業土木学科を卒業し、宮内省低湿林野管理局、農商務省等の勤務を経て、1940(昭和15)年に神奈川県の多摩川右岸農業水利改良事務所長に就任。多摩川の上河原堰や宿河原堰の改修、平瀬川と三沢川の排水改修、そして久地円筒分水の建設などに携わった。川崎のまちを支える水の確保に全力を捧げた「水恩の人」は1982(昭和57)年、89歳の生涯を閉じた」とあった。

円筒分水傍には「二ヶ領用水久地分量樋」の説明もあり、既にメモしたことと重複するので文章をママ掲載するのは省略するが、二ヶ領用水の概要と田中丘隅の改修、そして久地分量樋の明治43年(1910)撮影の写真が掲載されており、昭和16年(1941)、平賀栄治の設計建設により、水害防止の貯めの新しい平瀬川の開削と二ヶ領用水の伏せ越し、久地円筒分水を完成。これによって二ヶ領用水久地分量樋は久地大圦樋とともに、その役割を終えた、といったと説明があった。
また、「二ヶ領用水知絵図」の案内もあり、平成四年作成作成されたこの地図には、過去・現在・未来の視点から用水の姿が描かれ、用水が最も広く張りめぐらされた江戸時代後期―明治初期の姿と都市化が進んだ現在の姿を対比して図示していた。
川崎堀
国道409号・府中街道の南を武蔵小杉へと流れ、東海道新幹線を越えた南で国道409号・府中街道と南武線を北に越え、南武線・鹿島田駅の北で大師堀と町田堀に分かれる分岐点まで続く。
根方堀
川崎堀の南を下り、四つの支線に分かれ大雑把に言って、高津区の西南部を潤す
六ヶ村堀
国道409号・府中街道と川崎堀筋の間を第三京浜の手前まで下る
久地・(溝口)二子堀
幾つかの支線に分かれ、円筒分水から東に向かい久地を潤し、また、国道409号に沿って南東に下り溝口を潤す。

久地神社
久地円筒分水からは、用水本流であろう川崎堀を下ろうと思うのだが、地図をチェックすると、円筒分水の近くに久地神社、そして久地不動尊がある。ちょっと立ち寄り。
円筒分水から平瀬川を渡り直し、丘陵裾の道を進むと久地神社がある。鳥居を潜り拝殿にお参り。境内の案内には「神社の創立年代は定かではないが、風土記には「赤城社、村の南の丘にあり、此所の鎮守なり、社二間に一間半、東南向、前に石段あり木の鳥居たてり、村内浄元寺持」と記載されています。
江戸時代、神仏習合の時代には、赤城社と称され、現在本社とする溝口神社と兄弟神と伝えられていたことから、武を司る毘沙門天・財を司る弁財天をお祀りしていたと云われております。
明治初年、神仏分離により神体は、近隣寺院に合祀され、祭神を天照大神と改め、社名を久地神社と改称致しました。現社殿は、昭和四十一年十月に再建されたものである」とあった。

元、赤城社とあるが、溝口神社も元は赤城大明神を祀る赤城社であったということで、溝口神社が当社の本社であった、ということは納得。境内に「牛頭天王」と刻まれた石碑がある。明治20年(1887)に幕府の命で梅の栽培をはじめた梅屋敷の川辺森右衛門、同良右衛門親子が建立奉納したものとのことだが、赤城信仰と牛頭天王・祇園=素戔嗚信仰の関係は不明。ひょっとすれば、明治に合祀され久地神社となった社のひとつに天王社でもあったのだろうか。単なる妄想。根拠なし。

雨乞い弁天
社から平瀬川へ戻り、丘陵に続く坂道を登り久地不動尊に向かう。道の右手に池と小祠が見える。この池は日照りが続いても水が絶えることがなく、「雨乞い弁天」と称されていた、とのこと。
この弁天さまは、元禄年間(1688~1703)にかつて上杉氏に仕えていた女性が尼となり久地に永住したと伝えられ、弁天堂は弁財天とその比丘尼を祀った御堂とも言われる。
弁天堂、弁財天がなに故この地に?チェックすると、現在の久地神社、そしてその本社である溝口神社の祭神は天照大神ではあるが、それは明治の神仏分離の際、お伊勢を勧請した故のことであり、赤城社と呼ばれていた当時、毘沙門天と弁財天を祀っていた、といった記事を目にした。で、明治の神仏分離政策で赤城社のご神体が浄元寺に預けられたが、比丘尼を祀った弁天社は篤い信仰に支えられ今に姿を留めている、とのことである。尚、この比丘尼の音が転化したものが「久地」の地名の由来との説もある。
最初はこの弁天様は久地不動尊の一部かとも思ったのだが、どうも久地神社ゆかりの祠であったようである。

久地不動尊
坂道を上りきったところに久地不動尊。本堂脇に倶利伽羅剣と不動明王。倶利伽羅剣は不動明王が右手に持つ剣で、不動明王の象徴とされ、貪瞋痴(貪欲、怒りの心、真理に対する無知の心)の三毒を破る智恵の利剣である。倶利伽羅剣と不動明王は一体のものとみなされ、つまり、二体の不動明王が佇む、ということになる。
元は浅草の吉原にあったが、不動明王様は吉原遊郭の喧騒に耐え切れず、もっと静かな場所に移せ、とのお告げ。それもあって、この地に移すことにしたのだが、その直前に関東大震災が起こり、堂宇全焼。お不動さまは古井戸に飛び込み難を逃れた、と。

濱田橋
開渠となった川崎堀を下る。用水に沿った道を進み、国道246号・厚木街道の陸橋を渡ると、ほどなく濱田橋。溝口で生まれた、第一回の人間国宝認定者である陶芸家の濱田庄司氏を記念したもの。元は無名の丸太一本橋であったようだ。
濱田橋の命名は平成4(1992)年のことかと思う。これといった資料はないのだが、橋脇にあった濱田橋と濱田庄司氏の案内碑にある説明の最後に、濱田先生を称え濱田橋と命名した、とあり、その後に平成四年六月吉日とあったため。
濱田庄司
案内にあった説明を簡単にまとめる;明治27年(1894)溝口で生まれ、本名象二。高津小学校に学び、東京工業大学(注;東京高等工業学校窯業科)卒業。英国人陶芸家バーナード・リーチと共に陶芸にめざめ、栃木県益子で作陶に入り、益子焼を芸術にまで高める。
柳(注;宗悦)・河合(注;寛次郎)らと民藝運動を興し、沖縄文化等に注目する。
日本民芸館二代目館長(注;初代柳宗悦)。昭和30年(1955)第一回人間国宝、昭和43年(1968)文化勲章受章。七面山麓宗隆寺に眠る。
バーナードリーチや柳宗悦氏といった民藝運動については、いつだったか手賀沼散歩で出合ったことを思いだす。

濱田橋に陶板で「春去春来」という言葉が残されているが、春は益子で作陶に精進し、冬になると沖縄へ行っていたことに由来する、とか。「(NPO多摩川エコミュージアム 散策こみち」には、濱田氏が幼少の頃、この橋の辺りで泳ぎ、溺れそうになったというエピソードをもって、橋改修の時、濱田橋と命名したとする。


宗隆寺
宗隆寺にちょっと寄り道。山門前に石橋供養塔。現在は暗渠となるが、宗隆寺 の脇から山門前にかけて二ヶ領用水の「根方堀」が流れ、大山街道の栄橋交差点方面へと流れていたようである。
本殿にお参り。元は天台宗本立寺と号したが、住職と地頭が見た霊夢により日蓮宗に改宗し、池上本門寺の末となる、との話が残る(異説もある)。境内には「世を旅に 代かく小田の ゆきもどり」と刻まれる芭蕉の句碑が建つ。文政12年(1829)玉川老人亭宝水(溝口の灰吹薬局2代目二兵衛により建立された、とのこと。



七面山
濱田庄司氏の記念碑の案内にあったように、境内の東に七面山と称する丘陵南端部が見える。先ほど訪れた久地神社、久地不動尊のあった丘陵の舌状突端部ではあるが、途中国道246号により、切り裂かれ切通しとなっている。七面山と称する所以は、日蓮宗において重要な七面大明神(七面天女)からではあろう。
お寺の裏手の丘陵は宗隆寺古墳群が残るという。境内から成り行きで丘陵・七面山に登る。高さが1mから2mといった古墳が、どれなのかいまひとつ判然としないが、「日露戦争記念碑」と刻まれた石碑、その横にも石碑が建つ。乃木大将記号の「日露戦争記念碑」が残ると言うが、石碑がそれであろうか。裏山には「日清戦争記念碑」、また日露戦争で戦死した軍人の招魂碑が残るとのことであるので、そのどちらかであろうか。

溝口神社
宗隆寺のすぐ東に溝口神社。先ほど訪れた久地神社の本社ということもあり、足をのばし、社殿にお参り。境内にあった案内に拠れば、「神社の創立年代は定かではありませんが、神社保存の棟札よれば、宝永5年(1709年)武州橘樹郡稲毛領溝口村鎮守、赤城大明神の御造営を僧・修禅院日清が修行したと記されております。江戸時代は神仏習合に よりまして、溝口村の鎮守・赤城大明神と称されておりました。
明治維新後、神仏分離の法により、溝口村(片町・上宿・中宿・下宿・六軒町・六番組)の総鎮守として祀るべく新たに伊勢神宮より御分霊を奉迎し、御祭神を改め溝口神社と改称、更に明治6年(1873年)幣帛共進村社に指定されました。(以下略)」とあった。
溝口神社と簡易水道
境内に「川崎の歴史ガイド 溝口神社と簡易水道」があり、「赤城社と呼ばれた溝口の総鎮守。この辺りは飲み水に不自由した。親井戸から水を引いた時代、ようやく完成させた簡易水道の時代、参道脇の水神社や水道組合碑が当時の苦労を物語る」とある。
「川崎の歴史ガイド」のパネル脇には水神様の小祠と、その裏に石の水道組合碑が建つ。昭和10年(1935)に建てられた石碑には、昭和4年(1929)から6年(1931)にかけての水道組合の軌跡を刻む。大石橋(濱田橋の少し下流)からJR溝口駅のすぐ東にある片町交差点(角に庚申塔がある)辺りは水に恵まれず、地元民の力によって親井戸を掘り竹や木の管を通し、樋を埋めた子井戸まで水を通したようである。

大石橋
濱田橋に戻り、用水を下り西浦橋を越えると大石橋。この大石橋が架かる道筋は、大山街道・矢倉沢往還である。橋の両脇にはコンクリートの模擬常夜灯が街道の趣を伝える。
現在はコンクリートの橋ではあるが、江戸の頃は、文字通り大きな石橋で、長さ6間(約11m)幅8尺(約2.4m)とある。が、ちょっと疑問。そんなに大きな一枚岩があるのだろうか?チェックすると、「大山街道 ふるさと館」の資料に、「この大石橋の由来は、川の真ん中に橋脚を立てて「枕石」 をのせ、その上に長さ七尺、幅一尺五寸くらいの「渡り石」を並べて架けてあったことから、大石橋と呼ばれるようになった」とあった。納得。
溝口水騒動
大石橋の由来はともあれ、この橋の北東に、溝口水騒動のきっかけをつくり、打ち壊しにあった溝口村の名主である問屋・丸屋の鈴木七右衛門の屋敷があった。二ヶ領用水を巡る幾多の水争いの中で最大の事件として知られる。
騒動の経緯をまとめる;文政4年(1821)、旱魃による水不足に苦しむ二ヶ領用水下流・川崎領の19の村は、役人に訴え、その結果、7月4日の夕刻から7日の夕刻にかけて、久地分量樋で川崎堀以外の用水口を一時止め、川崎領への通水が約束されることとなる。が、当日になっても水は流れてこない。その因は、溝口村名主である鈴木七右衛門と久地村の農民が自分たちの村への水を確保すべく、分量樋の水役人を追い払い、川崎堀を堰止めたためであった。
川崎領の村民は役人に訴えるも解決されないため、7月5日会合が行われ、丸屋・鈴木家の打ち壊しが決議された。翌6日、府中街道を北上。その数、一万四千余人となった、という。そして溝口村の村民と衝突。鈴木家と隣家2軒を打ち壊す事態となる。
この騒動の結果、川崎領の名主・村民にお叱りや罰金が科され、溝口村名主の鈴木七右衛門は所払いの厳罰、農民には罰金、そして騒動を取り締まることのできなかた役人も処分を受けた。

先ほど溝口神社で、溝口村の水不足の歴史を知ったばかりでもあり、堰を止めた溝口・久地にもよっぽどの窮状に見舞われていたのだろうかと、妄想する。

雁追(がんおい)橋
曙橋を下り、田園都市線を越えると、新雁追橋がある。橋脇に「川崎の歴史ガイド 雁追橋」のパネルがあり、「溝口付近は、江戸時代、将軍家の御鷹場として、野鳥が保護されていた。農産物を荒らす鳥を追い払う農民の苦労が橋の名となって残る。雁追橋は、もとは平瀬川にかかっていた」とある。

中原堰
平瀬川トンネルのメモのところで「旧平瀬川の流路は平瀬川トンネルの南、南武線の更に南にある、上之橋から溝の口駅の東へと、総合高津中央病院の裏(南側)を通り、二ヶ領用水・川崎堀にかかる平成橋の通り、すこし南に残る橋(弁慶橋だろう。といっても欄干が残るだけ)手前で二ヶ領用水・川崎堀の旧流路に合流していたようである」とメモした。総合高津中央病院はこの新雁追橋のすぐ南にある。ちょっと立ち寄り。
総合高津中央病裏の流路跡は現在自転車置き場となっているが、そこに「中原堰」の案内がある。案内には「ここに中原堰を保存。この関はかつてこの地を流れていた平瀬川に設けられた農業用施設。せき止められた水は用水路で導かれ、中原の田畑を潤していた。江戸時代から使われていたものだが、1915(大正4年)年に中原村の人々の手によりコンクリート製に改修されて堅固なものになった。堰の壁には建設に尽力した四ヶ村(上小田中、新城、下小田中、神地)の責任者・中原村村長・石工の名が記された銘板が埋め込まれている。(中略)。高津にある堰だが、中原の人によって造られ、中原の土地に水を引くものであり「中原堰」と名付けられた」とあった。

四ヶ村(上小田中、新城、下小田中、神地)は南武線・武蔵新城駅、武蔵中原駅の南北に跨る一帯(神地は武蔵中原駅の北)。二ヶ領用水の根方堀がこの辺りを流れているのだが、それだけでは不足で旧平瀬川からも水を求めたのだろか。

南田堰
中原堰に立ち寄ったついでに、その少し東にある南田堰に向かう。溝口駅前商店街の通りのど真ん中に「南田堰跡」があった。「川崎の歴史ガイド 南田堰」のパネルには、「円筒分水からわかれた支流の中で最も山側の「根方十三ヶ村堀」がここを流れていた。この近くにあった南田堰をめぐり、明治末期に溝口と久本側の大きな水騒動が起こった」とある。
根方十三ヶ村堀
円筒分水で分かれた「根方十三ヶ村堀」はこの南田堰で東部、中央部、西部と幾筋もの支流に分かれ各地区を潤す。南田の堰を巡る水騒動は、この堰で分岐する際の分水量を巡り、各地域が相争ったのであろう。

平成橋
用水を下り平成橋に。既にメモしたように、この橋の少し南で旧平瀬川と旧川崎堀が合流する。現在は河川改修し直線化している川崎堀であるが、改修前の流路は円筒分水から下流、蛇行を繰り返し下る。ついでのことであるので、合流点の確認に、平成橋から南に向かう。





平成橋から少し東に道を入るとほどなく道の両側に橋の欄干が残り、その下流に如何にも流路跡といった暗渠が続く。この流路は旧川崎堀と思われる。旧平瀬川はこの橋跡の少し上流で旧川崎堀に合わさったようである。
橋跡の西には梨畑が広がるが、Google Mapの衛星写真を見ると、総合高津中央病院の南から、如何にも流路跡といった道筋、そして緑の帯がこの梨畑の南に続いている。この梨畑の南西端辺りがふたつの旧流路の合流点かと思う。残念ながら梨畑から石の高欄の橋跡だけが残るところへと歩くことはできなかった。

二子坂戸緑道
平成橋に戻り、二子新生橋を越え二子塚橋に。二子塚橋の南に「二子坂戸緑道」がある。この緑道は昭和16年(1941)河川改修が行われ、流路が直線化する以前の旧川崎堀の流路である。二子と坂戸、河をその境とする二つの地域の境を流れた旧川崎堀を暗渠化した後を、公園などを含んだ緑道としている。用水北側の二子は「ふたつの塚(古墳)」、用水南側の坂戸は、元は「坂土」で、二子の渡しへと「下った地」に由来するとの説がある。
因みに、二ヶ領用水改良工事は昭和11年(1936‐1844)から19年にかけて行われた。

石橋供養塔
蛇行する二子坂戸緑道を抜けると用水に架かる境橋の脇に出る。緑道が道に当たるところに石塔があり「川崎の歴史ガイド 石橋供養塔」のパネルが建つ。説明には「この緑道がかつて二ヶ領用水の本流だった。寛政五年ここに架けられた石橋は二子方面と結ぶ大切な橋で、当時の供養塔が残っている。昭和16年、用水は今の流路につけ変えられた」とあった。
この橋は坂戸橋(供養塔脇に「橋戸橋」と刻まれた石碑が建つ)と呼ばれ、坂戸村から二子方面に渡る唯一の橋。寛政5年(1793)に木橋から石橋に架け替えられた時に石橋供養塔が建てられた。供養塔には「南無妙法蓮華経」と「南無阿弥陀仏」の題目が刻まれているが、それは村民の信仰する日蓮宗と真言宗に「配慮」したもの、とか。


第三京浜
境橋で、旧川崎堀の流路である二子坂戸緑道から、河川改修された現在の川崎堀に戻る。地域も二子を離れ北見方に入る。旧路はそのまま北見方と坂戸の境界線を下っているようである。
北見方の由来は、鎌倉幕府の有力御家人である江戸氏の後裔であり、世田谷区喜多見に居を構えた喜多見氏に拠るとも、文字通りどこかの親村の「北の方角」に開発した新田集落とか諸説あるようだ。
単調な用水沿いの道を進むと第三京浜の高架が見えてくる。第三京浜を潜ると。宮内地区に入る。川崎堀の南に小田中地区があるが、宮内と小田中の境を旧川崎堀が流れていたように思える。
旧川崎堀
旧川崎堀の流路痕跡が残るものかと第三京浜の高架下を彷徨う。確たるものはないのだが、旧川崎堀の流路辺りの高架下に水路渠があり、下流に延び、第三京浜を越えた先に暗渠が続く。
第三京浜を越えると小田中に関神社がある。「堰」に関係あるのかと思い、ちょっと立ち寄り。途中大弁財天の小祠があったりして、如何にも水路跡らしき道筋が関神社の方に下っていた。




関神社
関神社にお参り。新編武蔵風土記稿に拠れば、「(上小田中村)関明神社 村の北の方にて小名大ヶ谷戸にあり。其所の鎮守なり。近江国逢坂にたてる関明神のうつしなり。社南向2間に1間の覆屋あり。小社前に鳥居あり。例祭は9月17日宝蔵寺の持なり」とある。
「近江逢坂にたてる関神社のうつしなり」とは、この地を開墾した原氏(武田家の家臣原美濃守の後裔)の信仰した関蝉丸神社を此の地に分霊したこと。「大ヶ谷戸」とは元は「大茅野」と呼ばれた原野を開いた原氏が「大ヶ谷戸」と呼んだことにはじまる。現在も大谷戸小学校などの名にその歴史を残す。

井田堰
「旧川崎堀」と社の南に流れる「根方十三ヶ村堀」に囲まれた関神社を離れ、現在の川崎堀に戻る。「竹橋」の傍に取水口らしきものが見える。井井田堀がここで川崎堀から分かれる取水口のように思う。
井田堀
此の地で川崎堀から分かれた井田堀は南下し中原街道をクロスし、下小田中から井田に向かって下る。堰はかつて蛇籠で造られ、用水幅も7mほどもあった、とか。

八つ目土と水道水源地
井田堰取水口のある竹橋からひとつ先の「大ヶ谷戸橋」の手前に「歴史ガイド八つ目土と水道水源地」のパネルがあり、「八回目の土手という意味もあるという。ここは多摩川の旧堤防で、それほど度々決壊した所でもある。今の河川敷には、大正八年開設された市内最初の水道水源地、宮内貯水場があった」との説明があった。
明治時代の「東京今昔マップ 首都」を見ると、多摩川の堤は北見方、下野毛の南端部,川崎堀の少し北に沿って下り、井田堀そしてこの案内パネルのある辺りから宮内地区の境を多摩川に向かって大きく弧を描いて東に突出し、宮内と等々力の境に沿って今度は弧を描いて西に凹み、小杉陣屋地区との境を再び大きく弧を描いて東に突き出している。八つ目土にしても、井田堰にしても堤のすぐ傍のように見える。度々決壊した箇所との説明も古い地図と合わせてみれば納得できる。
また、宮内貯水場も堤外地に見える。説明には宮内貯水場は大正8年(1919)に開設とあるが、この多摩川の表流水を取水した宮内貯水池から導水した戸手浄水場(幸区役所傍)が完成したのは大正10年(1921)とのこと。これが川崎の近代水道のはじまりと言う。
戸手浄水場
その戸手浄水場も、昭和13年(1938)には菅さく井群から取り入れた多摩川の伏流水を水源とする生田浄水場、そして昭和29年(1954)には相模湖下流の沼本取水口で取り入れた相模川水系の水を水源とする長沢浄水場の整備などにともない、昭和43年(1954)、その役割を終える。

木月堰
「八つ目土と水道水源地」の案内パネルのあった「大ヶ谷戸橋」を南に下り、最初に架かる橋(宮戸橋のようだ)の脇に「木月堰」がある。ここから木月堀が分岐する。
木月堀
当地で川崎堀から分かれた木月堀は、川崎堀と井田堀に囲まれ南東に流れ、中原街道を越えて下小田中から木月へと下る。
木月堀分岐点から富士通の工場の東、川崎堀にかかる「上家内橋」の辺りまでは井田堀、木月堀、川崎堀が接近し並走して南東へと下る。

薬師橋から白田橋
宮内と上小田中地区の境を画する用水を下る。薬師橋の北には春日神社と常楽寺。いつだったか小杉を辿り、用水普請の差配をした小泉次太夫の陣屋を辿ったとき、春日神社の辺りから等々力緑地辺りを彷徨った。常楽寺は奈良時代、聖武天皇の祈願所として行基が開基との縁起が伝わる。薬師橋は薬師堂の遺構故の命名だろうか。
用水を更に下ると白田橋。橋の北に高元寺、南に泉沢寺の甍を見遣る。高元寺は川崎最古の寺子屋が開かれた寺、泉沢寺は世田谷領主・吉良氏の菩提寺。元は烏山(世田谷)にあったものが、火災で焼け落ちこの地に移った。

中原街道・神地
白田橋の辺りで、用水の北は小杉御殿町、南は今井上町に変わる。小杉御殿は家康の駿府往来の際の宿舎、鷹狩の休憩などのため二代将軍が建てたもの。とはいうものの、その心は開幕時、新領国の安定・整備のために設けられたものであり、藩幕体制が磐石なものとなってくると、その存在意義が薄くなり、同時に主街道が東海道に移ったこともあり、17世紀の中旬頃にはその役割を終え廃止された、とか。
用水が中原街道と交差するところに神地橋。橋脇に「歴史ガイド 二ヶ領用水と神地橋」のパネルがあり、「稲毛領・川崎領を潤した二ヶ領用水の本流は、ここ神地(こうじ)橋で中原街道と交わる。用水の恵みを受け、この辺りでとれた質の良い米は特に「稲毛米」と呼ばれ、江戸の人々に喜ばれた」とあった。 神地は地名に残る「耕地」に由来するとの説もある。実際、「今昔マップ 首都 1965-68」には宮内から南は、西下耕地、南耕地、下耕地、新田耕地、中耕地、中原街道を挟んで北は家附耕地、南は道下耕地などの地名が記載されている。往昔は泉沢寺の門前市が栄えた神地宿といった名もあった神地ではあるが、現在は地名として残ってはいない。
旧中原街道
旧中原街道は、江戸から相州の平塚中原に通じる道で、中原往還、相州街道とも呼ばれた。また中原産の食酢を江戸に運ぶ運送路として利用されたため、御酢街道とも呼ばれた。はじまりはよくわかっていないが、すでに近世以来存在し、家康の江戸入府のときは、東海道が未だ整備されていたかった、ということもあり、徳川家康が江戸に入国した際に利用され、その後、部分改修されて造成された街道である。
江戸初期には参勤交代の道としても利用されたが、公用交通のための東海道が整備されると、脇往還として江戸への物資の流通や将軍の鷹狩などにもしばしば利用された。 また、平塚からは東海道よりも近道だったため、急ぎの旅人には近道として好まれたという。中原街道;中世以来の主要道。平塚の中原と江戸を結ぶ。東海道の脇往還でもあった。はじまりはよくわかっていない。が、本格的に整備されたのは小田原北条の頃から。家康の江戸入府のときは、東海道が未だ整備されていたかった、ということもあり、この街道を利用した、と。
中原には将軍家の御殿(別荘)があったようである。上に「中世以来」とあるが、Wikipediaによれば、小田原北条氏の時代に本格的な整備が行われたようで、狼煙をあげ、それを目印に道を切り開いたとされる。 中原街道の経路は、江戸城桜田門(後に虎の門)から国道1号桜田通り、東京都道・神奈川県道2号、神奈川県道45号を通り平塚に向かう。また「中原街道」という名称も、江戸期に徳川幕府が行った慶長9年(1604)の整備以降であり、それ以前は相州街道あるいは小杉道とも呼ばれていたようである。

今井堰
神地橋のすぐ下流で今井堀の堰がある、という。行きつ戻りつ、取水口を探したのだが見つからなかった。後からチェックすると、取水口は取り払われているようである。







今井堀
この地で川崎堀と分かれた今井堀は今井神社の前を通り、南に下る。川崎堀に沿って今井上町緑道があり、いかにも水路跡らしき風情の道があったが今井堀跡だろうか。また、今井神社の鳥居の前には水路に架かる石橋が残る。さらに南に下って、南武線の高架手前の交差点の名は「今井堀踏切」とあった。南武線が高架になる前、今井堀が南武線とクロスしていたのだろう。さらに、南武線の高架橋にも「今井堀架道橋」とあった。水路は南に下り、渋川近くまで延びる。悪水落としの渋川に合わさっていたのだろうか。不明である。

今井神社

鎌倉初期、坂東八平氏の一、秩父次郎重忠の一族である小宮筑後守入道道康の霊を祀るため創建されたと伝わる。小宮筑後守入道道康についての資料は見つからなかったが、館は今井西町付近にあったようで、江戸時代にはその子孫は村の庄屋を務めた、と。元は山王社と呼ばれていたが、明治に日枝神社となり、さらに明治43年、旧今井村にあった弁天社、稲荷社を合祀し、村名をとり今井神社となった。



渋川分岐点
南武線の高架を潜ると水門が見える。渋川との分岐点である。水門脇に「川崎歴史ガイド 渋川と水車」のパネルがあり、「明治中頃まで、このあたりでは用水を利用したいくつかの水車が回り、精米が行われていた。他に麦を使った製粉も行われ、木月村や井田村、今井村の冬の副業である素麺業に使われた」とあった。
渋川
この水門で分かれた渋川は、今井、木月と下り、東急東横線の元住吉駅の東傍を越え、西加瀬で東海道新幹線の高架を潜り矢上川に合流する2.4キロほどの水路。現在は川底に内径10.4mもの雨水貯留管が埋められ、都市型雨水対策の水路の趣が強いが、元は水田を灌漑した水を排水する「悪水堀・落とし堀」ではあった。
渋川分岐傍にある大乗院には久地円筒分水の建設をはじめとした二ヶ領用水の改築、平瀬川改修に尽力した平賀栄治が眠る。

中丸子堰
渋川分岐から少し下流、現在の総合自治会館手前辺りに堰があったとのことだが、現在、取水口はみあたらない。ところで、この辺りは小杉であるのに、何故に中丸子?どうも、この地の東にある中丸子村の飛び地がここにあり、ここから中丸子へと水を引いていたようである。
中丸子堀
この地で川崎堀と分かれた中丸子堀は、自治会館から府中街道を南東に下り、東横線ガードを潜り、綱島街道市ノ坪交差点あたりから中丸子村にはいっていたようである。川崎市作成の用水マップには、中丸子堀から分かれた中丸子市の坪悪水、また、中丸子堰辺りから、中丸子村と逆の西の田中へと下る田中堀などが描かれている。

上平間堰
東急東横線の高架を潜った先に「仲よし橋」がある。かつてこの辺りには上平間堰の取水口があったようだ。現在は痕跡もないが、川床に杭を打ち込み、草で間を詰めた、所謂、「草堰」または「乱杭堰」と呼ばれるものであったようだ。
上平間堀
この地で分岐した水路は、府中街道に沿って、少し南を南東に下り、府中街道が東海道新幹線を潜り、横須賀線跨いで西側に移るとともに線路の西側に移り、一時、府中街道の北を流れた後、府中街道に沿って平間配水所辺りへとくだっていたようだ。かつては幅が11mもの水路で市ノ坪川とも称された、ともあるが、明治以降の地図をみてもそれらしき水路は見つけることができなかった。

苅宿堰
中原平和公園の中を流下する用水路に沿って進む。戦前、この地には戦闘機の計器などを製造する軍需工場・東京航空計器があった。ために、昭和20年(1945)4月14日の川崎大空襲に際しては、最初に火の手が上がった地とも言われる。 戦後跡地は駐留軍に接収され、米軍印刷局があり、ベトナム戦争時の謀略ビラや偽札の印刷が行われたと言う。昭和50年(1975)、返還され、跡地を平和公園と住吉高校としたようである。
公園内には旧流路の道筋も残ると言うが、現在の川崎堀は公園整地に際し、直線化されている。その用水路に沿って下り、公園を離れ住吉中学の東、東名高速高架手前に架かる昭和橋脇に取水口がある。現在の苅宿堰かとも思えるが、往昔の苅宿堰は、もっと上流、平和公園のある辺りにあったようである。
苅宿堀
川崎市作成の用水マップに拠れば、平和公園辺りで川崎堀から別れた苅宿堀は、川崎堀の少し東を南下し、住吉中学西脇を下り、東海道新幹線を越え苅宿小学校辺りまで下る。また、住吉中学の南で分岐する流れもあり、南東に向かい新幹線を越え、御幸橋跨線橋手前に流路を変え県道111号の東を県道に沿って下り、南加瀬で矢上川に合流する。

鹿島田堰
新幹線の高架を潜り、苅宿一号橋を越えた先にある無名の橋の辺りに鹿島田橋があったようである。痕跡はなにもないのだが、その分岐点らしき辺りに、苅宿一号橋とこの橋を繋ぐ、唐突に、妙に広い道がある。なんだろう?
鹿島田堀
今ひとつはっきりとはしないのだが、川崎市が作成した用水マップに拠ると、南東に向かい、横須賀線の東に移り、川崎堀の東を川崎堀に沿って下り、府中街道が川崎用水と合わさるあたりで流路を変えて南に向かう。そこから南武線に沿ってしばらく進んだ後、再度流路を変えて南西に向かい鶴見川手前の小倉へと進む。

御幸橋跨線橋
鹿島堀は横須賀線によって行く手を遮られる。横須賀線を跨ぐ御幸橋跨線橋を渡り線路の東側に移動。この跨線橋、横須賀線を跨ぐにしては線路の数が多すぎる。チェックすると、この橋の少し南にはかつて東洋一の規模の新鶴見操車場があり、京浜地区を発着するすべての貨車を「捌いていた」。操車場は昭和59年(1984)に信号所の機能は残し、貨物操車場としての機能は停止した。 横須賀線はこの貨物線を活用したものであり、多くの線路はこの横須賀線・湘南新宿線、そして貨物線の線路ではあろう。

鹿島田橋
跨線橋を渡り、川崎堀脇に下りる。平間駅入口交差点から東に向かう道に架かる大鹿橋、擬宝珠のデザインが施された朱印橋、府中街道とクロスするところには古い石橋の高欄が橋に平行に残る鹿島田橋に。鹿島田橋から先に進む川崎堀は南武線に遮られる。
朱印橋って、ちょっと気になる。チェックすると、少し東にある浄蓮寺に水戸光圀公の御朱印が届いたときに、この橋を通ったことに由来する、とか。


川崎堀踏切
府中街道に戻り、先に進むと南武線を渡る踏切があり、その名も川崎堀踏切と言う。ここにも古い水路に架かったであろう石橋の高欄が踏切を渡った東詰めに残されている。







大師堀・町田堀分岐点
川崎堀踏切から川崎堀が南武線を潜り東側に出る箇所に向かう。成り行きで線路沿って北に戻り用水出口に。金網のフェンスに囲まれたコンクリート造りの水路から出てくる用水を確認し、用水を少し戻り鳥居形造形物が特徴的な水路施設に。川崎堀はここで終了。ここからは右に町田堀、左に大師堀と二つに分かれ下流へと下ることになる。

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