青梅の丘陵地を歩いた。先日買った本『多摩丘陵の古城址;(田中祥彦;有峰書店新社)』にも記載のあった二俣尾の辛垣城跡、中世の奥多摩渓谷を支配した三田一族の終焉の地を歩こうと思った。
JR青梅線・青梅駅
Jr青梅線・青梅駅で下車。駅前に青梅観光案内所。近辺の地図を手にいれる。青梅丘陵ハイキングコースを経て、その先の辛垣城までの山道の案内が載っている。ガイドに従い、線路脇を少し東に戻る。
すぐにT字路。左折し青梅線を跨ぐ陸橋を越え道なりに進む。永山公園通りに。テニスコートを左に眺めながら坂道を上る。おおきくS字に蛇行する急勾配の坂。上りきり尾根道に。十字路の右手は青梅鉄道公園。道標に従い左に折れると青梅丘陵ハイキングコース。
青梅丘陵ハイキングコース
ハイキングコースはすこぶる気持ちいい。左手に青梅の市街が広がる。木の名前でも知っておれば、あれこれ情景描写もできるのだろうが、なにせ、スギ・ヒノキではない、と自信なく言える程度の我が身が少々情けない。
金比羅社
少し進むと「風の子太陽の子広場」への分岐。かまわず直進。ちょっとした上り。上りきったあたりに金比羅社。さらに進み、さらに坂を登ると第一休憩所。このあたりで簡易舗装は切れる。
叢雨橋
少し歩き第二休憩所。休憩所近くに大きな石の塔と石仏が。石仏からは多くの手が出ている。千手観音菩薩だ。道なりに進むと叢雨橋(むらさめばし)。橋の下は川という感じではなく、峠道といった雰囲気。とはいっても誰も歩いている感じはしない。
橋の下は丁度、小曽木街道の青梅坂トンネルの上あたり。昔はこの小曽木街道を通り、丘陵北側の成木地区で算出する石灰や、山々で伐採された木材を江戸に運んでいたのだろう。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
第四休憩所
先に進む。尾根下の森下町とか裏宿への分岐が。かまわず進む。麻利支天尊梅園神社経由裏宿町への分岐。麻利支天は武士の護り本尊。
再び急な坂。南側斜面が開ける。送電線の鉄塔を越え第四休憩所に。ここからの青梅市街の眺めは美しい。しばし眺めを楽しみ再び歩を進める。
矢倉台の休憩所
ゆるやかな上り坂。樹林の中を進むと宮の平駅・日向和田駅方面への分岐。かまわず進むと急な坂。本日の散歩道で最大の勾配。上りきったところが矢倉台の休憩所。第四休憩所よりさらに美しい眺め。
由来書によれば、ここは物見櫓のあったところ。物見櫓(矢倉台)の由来書;青梅市、かつての杣保(そまほ)に拠点を置いた豪族三田氏は代々、市内東青梅の勝沼城に居住していたが、北条氏照の八王子滝山入場による、多摩地方の情勢の変化を受け、永禄年間(1556年から1569年)の初め頃、二俣尾の辛垣山に城を築いたと言われる。物見櫓(矢倉台)はこの辛垣城(西城)から南東役3キロメートルに位置し、戦略上重要な物見の場所であった」という。
三方山の頂上
矢倉台を下り樹林の中を進む。道標。「左 日向和田 右辛垣城」。ここからはアップダウンの激しい山道となる。「辛垣城 左へ2.7km」と。左折して西へむかう尾根道に。樹林を越えると送電線の鉄塔。さらに尾根道そして上り。結構きつい。ピークに上り切る。北側が開ける。眺めは圧倒的に素晴らしい。三方山の頂上だろう。標高454m。
名郷峠
ピークを越え尾根道を進む。右手斜面が伐採されている。足元は少々怖いが、眺めは素晴らしい。「辛垣城跡700m 電電山1.2km」の道標。アップダウンの尾根道が続く。いやはやきつい。
「二俣尾方面」の道標のある分岐点からは急激な下り。下りきったところが名郷峠。標高400m。道標によれば「辛垣城200m 電電山700m 二俣尾1.6km 成木1.2km」。城跡まであと一息。それと、ここから二俣尾に下りられる。それがなによりうれしい。いま降りてきたあの坂を、また上りたいなどとは金輪際思わない。
名郷峠は二俣尾から成木地区に抜ける峠道の交差点。往時の交通の要衝。長尾峠の別名もある。この峠道を「おかね道路」と呼んだとも。
辛垣城跡
峠を越え尾根道を進む。道の左手にある山に登る分岐が。「辛垣城跡登り口」と手書き文字。すごい坂道。勘弁してほしい、って感じ。膝というか足の蝶番(ちょうつがい)がギクシャク。
狭小な曲輪跡を越え大岩を切り取った急な坂を登りきる。削平地が。200坪程度か。周囲は急斜面。城址と言われれば、そういうもんか、といった状況。少なくともここに篭城できる、といった城構えではない。山の砦でといえば正確であろうか。
辛垣城の由緒書が。辛垣城跡;「この辛垣山(標高450メートル)の山頂には、青梅地方の中世の豪族三田氏がたて籠もった天嶮の要害である辛垣城があり、市内東青梅6丁目(旧師岡)の勝沼城に対して西城と呼ばれる。
永禄6年(1563年)、八王子の滝山城主北条氏照の軍勢に攻められ落城、城主三田綱秀は岩槻城(埼玉県岩槻市)に落ち延びたが、同年10月その地で自害し、三田一族は滅亡した。
城跡にあたる山頂の平坦部は大正末期までおこなわれた石灰岩の採掘により崩れ、往時の遺構ははっきりしない」、と。
三田氏
平将門の後裔とする三田氏、奥多摩・青梅地方の50数カ村、つまり日向・日蔭の河岸段丘とその周辺、つまりは多摩川の谷奥=三田谷と呼ばれ杣の保を支配し文化を伝えた三田一族は小田原・北条氏と奥多摩の谷筋で激戦を繰り返す。上杉の勇将・岩槻の太田正資と連携しながら奮戦。しかし、五日市、戸倉、檜原での戦いに破れ、二俣尾の辛垣城での決戦で敗れた。「カラカイノ南ノ山ノ玉手箱アケテクヤシキ我身ナリケリ」。落城の時、三田綱秀が詠んだと言われる歌。二俣尾の谷合家に日記に伝わる。辛垣城の南にあるなにか、多分砦かなにかだろう、そこでなにか予想外の展開が起こり、結果的に勝敗を決するなにかが起きた、のだろう。一説によれば、辛垣城の南尾根にある砦・桝形城がその舞台とか。
ともあれ、この激しい武蔵野合戦は谷底の合戦、段丘上の合戦と呼ばれる。付近には軍畑、首塚などの激しい合戦にまつわる地名がのこる。とはいうものの、当時の合戦は殲滅戦ではない。主郭の家屋が炎上した時点で勝敗が決し、主将の降伏か自刃で終了し、それ以上の殺戮はなかったわけだから、常のこととして少々の誇張もある、かも。
二俣尾駅
しばし休憩し再び急坂を名郷峠まで戻り、二俣尾へのルートを下りる。二俣尾は交通の要衝。西は青梅街道または甲州裏街道とも呼ばれ大菩薩へ通じる道。北は名栗を経て秩父大宮へいく古道がここでわかれるので二俣尾という名前がついた。現在は北の飯能へと県道193号線が走っているが、この道は往時の鎌倉街道山ノ道、 通称秩父道。いつだったか、高尾から秩父に向かって歩いた道。昔は軍事、経済の往還として賑わったことだろう。勿論、信仰の道としても北の秩父盆地から御岳権現社への参拝道もここを通ったのだろう。で、二俣尾駅に戻り本日の散歩の予定終了。
青梅の由来
JR青梅線・青梅駅
Jr青梅線・青梅駅で下車。駅前に青梅観光案内所。近辺の地図を手にいれる。青梅丘陵ハイキングコースを経て、その先の辛垣城までの山道の案内が載っている。ガイドに従い、線路脇を少し東に戻る。
すぐにT字路。左折し青梅線を跨ぐ陸橋を越え道なりに進む。永山公園通りに。テニスコートを左に眺めながら坂道を上る。おおきくS字に蛇行する急勾配の坂。上りきり尾根道に。十字路の右手は青梅鉄道公園。道標に従い左に折れると青梅丘陵ハイキングコース。
青梅丘陵ハイキングコース
ハイキングコースはすこぶる気持ちいい。左手に青梅の市街が広がる。木の名前でも知っておれば、あれこれ情景描写もできるのだろうが、なにせ、スギ・ヒノキではない、と自信なく言える程度の我が身が少々情けない。
金比羅社
少し進むと「風の子太陽の子広場」への分岐。かまわず直進。ちょっとした上り。上りきったあたりに金比羅社。さらに進み、さらに坂を登ると第一休憩所。このあたりで簡易舗装は切れる。
叢雨橋
少し歩き第二休憩所。休憩所近くに大きな石の塔と石仏が。石仏からは多くの手が出ている。千手観音菩薩だ。道なりに進むと叢雨橋(むらさめばし)。橋の下は川という感じではなく、峠道といった雰囲気。とはいっても誰も歩いている感じはしない。
橋の下は丁度、小曽木街道の青梅坂トンネルの上あたり。昔はこの小曽木街道を通り、丘陵北側の成木地区で算出する石灰や、山々で伐採された木材を江戸に運んでいたのだろう。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
第四休憩所
先に進む。尾根下の森下町とか裏宿への分岐が。かまわず進む。麻利支天尊梅園神社経由裏宿町への分岐。麻利支天は武士の護り本尊。
再び急な坂。南側斜面が開ける。送電線の鉄塔を越え第四休憩所に。ここからの青梅市街の眺めは美しい。しばし眺めを楽しみ再び歩を進める。
矢倉台の休憩所
ゆるやかな上り坂。樹林の中を進むと宮の平駅・日向和田駅方面への分岐。かまわず進むと急な坂。本日の散歩道で最大の勾配。上りきったところが矢倉台の休憩所。第四休憩所よりさらに美しい眺め。
由来書によれば、ここは物見櫓のあったところ。物見櫓(矢倉台)の由来書;青梅市、かつての杣保(そまほ)に拠点を置いた豪族三田氏は代々、市内東青梅の勝沼城に居住していたが、北条氏照の八王子滝山入場による、多摩地方の情勢の変化を受け、永禄年間(1556年から1569年)の初め頃、二俣尾の辛垣山に城を築いたと言われる。物見櫓(矢倉台)はこの辛垣城(西城)から南東役3キロメートルに位置し、戦略上重要な物見の場所であった」という。
三方山の頂上
矢倉台を下り樹林の中を進む。道標。「左 日向和田 右辛垣城」。ここからはアップダウンの激しい山道となる。「辛垣城 左へ2.7km」と。左折して西へむかう尾根道に。樹林を越えると送電線の鉄塔。さらに尾根道そして上り。結構きつい。ピークに上り切る。北側が開ける。眺めは圧倒的に素晴らしい。三方山の頂上だろう。標高454m。
名郷峠
ピークを越え尾根道を進む。右手斜面が伐採されている。足元は少々怖いが、眺めは素晴らしい。「辛垣城跡700m 電電山1.2km」の道標。アップダウンの尾根道が続く。いやはやきつい。
「二俣尾方面」の道標のある分岐点からは急激な下り。下りきったところが名郷峠。標高400m。道標によれば「辛垣城200m 電電山700m 二俣尾1.6km 成木1.2km」。城跡まであと一息。それと、ここから二俣尾に下りられる。それがなによりうれしい。いま降りてきたあの坂を、また上りたいなどとは金輪際思わない。
名郷峠は二俣尾から成木地区に抜ける峠道の交差点。往時の交通の要衝。長尾峠の別名もある。この峠道を「おかね道路」と呼んだとも。
辛垣城跡
峠を越え尾根道を進む。道の左手にある山に登る分岐が。「辛垣城跡登り口」と手書き文字。すごい坂道。勘弁してほしい、って感じ。膝というか足の蝶番(ちょうつがい)がギクシャク。
狭小な曲輪跡を越え大岩を切り取った急な坂を登りきる。削平地が。200坪程度か。周囲は急斜面。城址と言われれば、そういうもんか、といった状況。少なくともここに篭城できる、といった城構えではない。山の砦でといえば正確であろうか。
辛垣城の由緒書が。辛垣城跡;「この辛垣山(標高450メートル)の山頂には、青梅地方の中世の豪族三田氏がたて籠もった天嶮の要害である辛垣城があり、市内東青梅6丁目(旧師岡)の勝沼城に対して西城と呼ばれる。
永禄6年(1563年)、八王子の滝山城主北条氏照の軍勢に攻められ落城、城主三田綱秀は岩槻城(埼玉県岩槻市)に落ち延びたが、同年10月その地で自害し、三田一族は滅亡した。
城跡にあたる山頂の平坦部は大正末期までおこなわれた石灰岩の採掘により崩れ、往時の遺構ははっきりしない」、と。
三田氏
平将門の後裔とする三田氏、奥多摩・青梅地方の50数カ村、つまり日向・日蔭の河岸段丘とその周辺、つまりは多摩川の谷奥=三田谷と呼ばれ杣の保を支配し文化を伝えた三田一族は小田原・北条氏と奥多摩の谷筋で激戦を繰り返す。上杉の勇将・岩槻の太田正資と連携しながら奮戦。しかし、五日市、戸倉、檜原での戦いに破れ、二俣尾の辛垣城での決戦で敗れた。「カラカイノ南ノ山ノ玉手箱アケテクヤシキ我身ナリケリ」。落城の時、三田綱秀が詠んだと言われる歌。二俣尾の谷合家に日記に伝わる。辛垣城の南にあるなにか、多分砦かなにかだろう、そこでなにか予想外の展開が起こり、結果的に勝敗を決するなにかが起きた、のだろう。一説によれば、辛垣城の南尾根にある砦・桝形城がその舞台とか。
ともあれ、この激しい武蔵野合戦は谷底の合戦、段丘上の合戦と呼ばれる。付近には軍畑、首塚などの激しい合戦にまつわる地名がのこる。とはいうものの、当時の合戦は殲滅戦ではない。主郭の家屋が炎上した時点で勝敗が決し、主将の降伏か自刃で終了し、それ以上の殺戮はなかったわけだから、常のこととして少々の誇張もある、かも。
二俣尾駅
しばし休憩し再び急坂を名郷峠まで戻り、二俣尾へのルートを下りる。二俣尾は交通の要衝。西は青梅街道または甲州裏街道とも呼ばれ大菩薩へ通じる道。北は名栗を経て秩父大宮へいく古道がここでわかれるので二俣尾という名前がついた。現在は北の飯能へと県道193号線が走っているが、この道は往時の鎌倉街道山ノ道、 通称秩父道。いつだったか、高尾から秩父に向かって歩いた道。昔は軍事、経済の往還として賑わったことだろう。勿論、信仰の道としても北の秩父盆地から御岳権現社への参拝道もここを通ったのだろう。で、二俣尾駅に戻り本日の散歩の予定終了。
青梅の由来
そうそう、青梅の由来。昔平将門が杖代わりにしていた梅の木をこの地に植える。が、実が赤くなることなく、青いままであるので青梅となったとか。それからまた、青梅の梅の名所を吉野郷と。何故。吉野って、桜の名所。実のとこと、この郷、桜の郷にしようとした、とか。それがうまくいかず、梅の郷とはなったが、吉野の名前だけが残った。桜の話はどこかで聞きかじった話。吉野の解釈は自分なりの田舎解釈。真偽の程は定かならず。
ちなみに日向道(ひなた)と日蔭道。お世話になっている先生に日向先生がいる。気になって調べてみた。あたりまえの解釈は「陽の当たる道と陽が当たらない道」。なかには神奈川日向薬師
のように、日向薬師までの「日向道は、もともと修験者が通る道で、それ以外の参拝者は、日陰道を通ったそうです」と。先生の名前の由来はどちらからであろうか。
ちなみに日向道(ひなた)と日蔭道。お世話になっている先生に日向先生がいる。気になって調べてみた。あたりまえの解釈は「陽の当たる道と陽が当たらない道」。なかには神奈川日向薬師
のように、日向薬師までの「日向道は、もともと修験者が通る道で、それ以外の参拝者は、日陰道を通ったそうです」と。先生の名前の由来はどちらからであろうか。
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