東京下町散歩 江東区 (7):江東区(亀戸エリア)へ

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江東区散歩も最後のエリア。区内では最も古い地帯。とはいっても、江戸以前は江東区はここ以外の地帯は湿地帯。この亀戸のあたりが臨海部、というわけで、砂洲状の微高地や入り江が入り組んだ地帯であった。亀戸の名前はこの島が、小さな亀の形をしていたとか、海浜に面した港(津)であったとか、飲料用の井戸があったとか諸説、あり。ともあれ、「亀島」「亀津」「亀津島」「亀井戸」などと呼ばれたことに由来する。室町時代の地図に「亀島」「亀井戸」といった地名が見える。中世にまで遡る寺社も多い、幕府の直轄領に歩を進める。

埋め立ての歴史(江東区発行の『江東区のあゆみ』より);
正保年間(1644年から);柳島・小梅・押上(亀戸1・2・3丁目)




本日のルート: 総武線・亀戸駅 > 横十間川 > 亀戸水神通り・水神社 > 香取神社 > 神明宮跡 > 北十間川・天祖神社 > 横十間川・龍眼寺 > 亀戸天神

総武線・亀戸駅から横十間川に
総武線・亀戸駅で下車。総武線に沿って西に横十間川まで戻る。川に沿ってすこし北に。道脇に亀戸銭座跡。江戸時代の通貨鋳造場のあったところ。寛永通宝をつくっていた。そのすぐ北に日清紡績創業の地の碑。陸軍被服工廠などを経て、現在はスポーツ施設とかマンションに様変わりしている。
蔵前通りまで進み天神橋東詰めを右折。明治通の交差点まで進み右折。すこし南に下り、左折。亀戸水神通りを東に進む。

亀戸水神通り・水神社
亀戸水神通りを進み、東部亀戸線・亀戸水神駅の手前に「亀戸水神社」。道の脇にこじんまりした神社。このあたり海に近く低湿地帯。その開墾に際し、水害からこの地をまもるため作られた。神社の案内書によれば、堤防の突端に、まわりの地面より高く石垣をつくり石祠が祭られた。ついでながら、水神さんと祇園さんは関係あるらしい。
それにしても神社の構えの割には神社の名前のついた通りや小学校があったりと、なんとなく気になる神社。室町時代の古地図にも「水神社」って記述があるし、昔はもっと大きな構えだったのだろうか。チェックする。創建は16世紀の享保年間、というから室町幕府12代将軍・足利義晴の頃。結構古い。奈良県吉野の丹生川上神社を勧請したもの。祭神は弥都波能売神(ミズハノメノカミ)という水を司る女神さま。朝廷からの信仰も篤く、社格高い「明神」号をもつ社であった。社殿は昭和20年の東京大空襲で焼失した。

蔵前通りの北を明治通りに戻る
少し北に進み蔵前通りを越えると常光寺。亀戸の七福神のひとつ寿老人が祀られている。西に進むと石井神社。石神社と呼ばれたとも。民家の間に挟まれて少々窮屈な感じ。油断すると見過ごしてしまいそう。おしゃもじ様と言われ、咳の病を治す神社として信仰を集めた。おしゃもじを神社から借り、効果あればふたつにして返すのがルール。境内にいくつかのしゃもじがあった。この神社の神体は石棒。石の神様=しゃくじん>しゃくし>杓子=おしゃもじに繋がる。ついでに、「しゃくじん」、を「せきじん」とよぶこともあり、せきじん>咳き>咳の病に効く、といあいなる次第。ちなみに、都内で石を神体とするのは、いつか散歩したちきにであった石神井神社、葛飾区立石の熊野神社、豊島区西巣鴨の正法院の石神、板橋区仲宿の文殊院の石神などがある。西に進み、明治通りの手前に東覚寺。亀戸の七福神の弁財天が祀ってある。通りを隔てた西に香取神社がある。

香取神社
明治通りに。北に向かってすこし進む。香取神社。天智天皇4年(665年)創立。藤原鎌足が「亀の島」に船を寄せ、香取大神を勧請し旅の安全を願った。以来、亀戸の総鎮守。平将門の乱を平定した藤原秀郷が戦勝の返礼として弓矢を奉納。その故事にちなみ勝矢祭りがおこなわれるといった由来書。祭神は経津主(フツヌシ)。アマテラスの命を受け、まつろわぬ民を平定した、ということで武門の神様として信仰されてきた。
本宮は千葉県佐原市にある上総一ノ宮の香取神宮。経津主(フツヌシ)神を祭神とするこの神社は「古利根川東岸」、つまりは埼玉県東部、東武日光線沿線東側、もっと具体的には、埼玉県東部の春日部市、越谷市、三郷市、千葉県野田市、柏市、東葛飾郡に数多く分布している。ついでのことなので、鈴木理生さんの『幻の江戸百年』に書いてあった祭祀圏、平たく言えば神様の勢力圏について概略をまとめておく。 香取神社は上にメモしたように、上総の国、つまりは隅田川の東、川筋で言えば古利根川に沿って数多く分布している。隅田川の西、つまりは武蔵野国にはまったく無いといってもいいほど。一方、武蔵の国、つまりは隅田川の西、埼玉県や東京を中心におよそ230社も分布しているのが氷川神社。本社は大宮にある武蔵一ノ宮の氷川神社。川筋でいえば少々大雑把ではあるが荒川・多摩川水系といってもいいだろう。
これほどきっちりと分かれているということは、それぞれの地域はまったく別系統の人々によって開拓されたといってもいい、かと思う。香取神宮の神様は経津主(フツヌシ)。『日本書紀』によるとフツヌシとはアマテラスの命を受け天孫降臨の尖兵として、タケミカヅチ神とともに出雲の国へ行き、大国主命に国譲りをさせた神様。沼を隔てて鎮座する茨城県鹿島市の鹿島神宮の祭神・タケミカズチの神と同神とされる。アマテラスの尖兵といったことであるから、大和朝廷系・有力氏族とかかわりの深い神さまの系統であるのだろう。本来は物部系の氏神。物部氏の勢力が衰えて以降は中臣・藤原氏が氏神とする。ちなみに、由来書の藤原鎌足が勧請した、とのくだりは、香取=中臣・藤原氏の深い関係を示唆するもので、実際にこの地にきたかどうか、とは関係ない、かも。
一方の氷川神社。祭神はスサノオノ命。考昭天皇の代に出雲大社から勧請された。「氷川」とは出雲の「簸川(ひのかわ)」に由来するとも言われる。大和朝廷に征服された部族の総称=出雲族系統の神様である。ついでのことながら、東西にくっきり分かれる氷川神社と香取神社の祭祀圏の間に分布する神様がいる。つまりは、そういった神様を祭る部族がいる、ということ。その神様は「久伊豆神社」。元荒川と古利根川の間に100社近くが分布している。祭神はスサノ須佐之男直系の「大己貴命」というから氷川系に近い部族であるのだろう。この「久伊豆神社」の祭祀圏はほとんどが河川の氾濫によりできた沖積地帯。台地上の立地は既に氷川さんとか、香取さんに占拠されている、ということであろから比較的新しい時代の開拓民の集団であったのだろう。本社は不明である。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


香取神社の近くに普門院・神明宮跡
香取神社を離れ南西方向のすぐのところに普門院。亀戸の七福神のひとつ毘沙門天が。そうそう、香取神社にも亀戸の七福神のうち恵比寿神と大黒神があった。北に進み入神明宮跡を探す。なかなか見つからない。あきらめかけた頃、ひょいと顕れる。民家に囲まれた駐車場の脇に碑文があるだけ。由来書によれば、昔この地は海上に浮かぶ小島。往来する船の安全を祈ってこの宮を勧請。明治40年に土錘(魚網のおもり)が出土。昭和62年に、香取神社に合祀された、と。近くに梅屋敷跡があるはず。が、見つからなかった。

北十間川・天祖社
北十間川に沿って北西方向に。すぐ天祖神社。推古天皇の頃(593〜628年)の創建と伝えられる。亀戸の七福神の福禄寿が。天祖神社は、もともとは伊勢信仰の社であった、神明宮が明治の神仏分離令の折に、天祖神社と改名したところがほとんどである。

横十間川・龍眼寺
横十間川を南に下る。龍眼寺。品のいいお寺さん。亀戸の七福神のひとつ布袋尊が祭られている。このお寺、元禄の頃から萩を全国から集め幾千株にしたことから、別名萩寺とも呼ばれる。文人墨客多数訪れたのだろう。平岩弓枝さんの『御宿かわせみ』にも登場していた。

亀戸天神
南に下って亀戸天神に。寛文2年(1662年)大鳥居信祐が天満宮を勧請。梅と藤の名所。言わずと知れた学問の神様。中江兆民の碑をはじめ多くの筆塚もある。なかでも気になったのが塩原太助奉納の灯篭。灯篭に興味があるわけでなく塩原太助のこと。どこで覚えたのか定かではない。が、子供のころに読んだ本に出ていたのだろう。愛馬との別れの話だったのか、親孝行の、といったコンテキストだったのか、それもで覚えていない。で、調べてみた。
江戸で生まれたが故あって育てられる。16歳になって、江戸にでて独立の決心。愛馬「あお」との別れ。一時は大川に身を投げよう、ともした。が、通りかかった薪炭商山口善右衛門に助けられる。一念発起。努力をかさね「本所に過ぎたるものが二つあり、津軽大名、炭屋塩原」と言われるまでの豪商となった、とか。 今回で江東区散歩はおしまい。下町低地・埋め立ての歴史散歩は、次は隅田区に。

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