多摩川堤散歩;喜多見から狛江へ

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野川も歩いた。野川に注ぐ仙川も歩いた。そして道の途中、喜多見、狛江が気になっていた。野川に注ぐ入間川も、その名前が気になっていた。埼玉・高麗郷と入間川、狛江と入間川。なにか関連があるのだろうか。六郷用水で出会った次太夫、その記念公園・次太夫堀記念公園も気になっていた。で、今日は、これら気になっていた、そして取りこぼしていたところをまとめて面倒、ってルートを歩く。スタート時点の設定ルートは;仙川―入間川―次太夫堀記念公園―狛江の多摩川土手、そしてその後はケセラセラ、ということで京王線に乗る。



今回のルート;
仙川>実篤公園>入間川>明照院>糟嶺神社>中央研修センター>百万遍供養塔>喜多見不動尊>次太夫堀公園・民家園>宇奈根>観音寺>氷川神社>多摩川土手>多摩川土手・猪方地区>多摩川土手・小田急交差>多摩川土手・和泉地区>多摩川土手・水神前>多摩川土手・西河原公園>万葉碑>京王線国領駅

京王線仙川


仙川下車。駅前の案内図で入間川の流路チェック。京王 線をくぐったあたりから入間川が開渠となっている。線路に沿って調布方面に。道の途中、先日の散歩で偶然出会った実篤公園に寄る。子供のころから、水のあるところに住みたいと願っていた作家武者小路実篤氏が70歳から20年間住んだところ。崖線の特徴を生かした家のつくり。尾根道部分に入口。坂をくだり家屋、湧水池。規模の違いはあるにしろ、目白崖線にあった黒田家、細川家の大名屋敷のつくりと構想は同じ。

実篤公園を出て、道なりに歩き、入間川の開渠部に。H鋼で補強されたコンクリート敷きの河川。中央の溝に水がわずかに流れる。川沿いの散歩道はあったり、なかったり。ほとんど無かった。流路から離れないようにと、右に行ったり、左に行ったり。何回か行き止まりにも。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

明照院
仙川駅から下りてくる114号線をこえ入間町アパートとかNTTアパートのあたりを歩く。突然目の前にすごい石組み。まるでお城のようなお寺。明照院(みょうしょういん)。16世紀中旬開基。天台宗。本堂、観音堂、えんま堂、地蔵尊、六地蔵、巡拝供養塔など。観音堂には調布七福神の一つ「弁財天」が。

糟嶺神社
お寺の隣の小高い岡に糟嶺神社(かすみねじんじゃ)。陵山といわれる小高い丘を、高い所の糟嶺神社、低所の明照院と二分している。糟嶺神社は農業の神・糟嶺大神をまつる。社殿は多摩地に残る4つの墳陵のうちの一つといわれる。高さ3.81m、周囲127mの墳陵となっている。

道なりに進み、野川と合流。谷戸橋をこえ、パークシティ成城前の整地された芝生公園でちょっと休憩。なんとなく左に「そびえる」崖線が気になりる。野川に沿って喜多見不動に直行する予定変更し住宅街を入間公園に。

左手の崖に向かう。そびえる崖。行けども、行けども金網でガード。大回りに周り、歩けども金網。後でわかったのだが、中央研修センター(NTT関連だと思うが)の巨大な敷地、というか森であった。

百万遍供養塔
丘の上で114号線に出る。中央研修センターに沿って坂を下りる途中に百万遍供養塔が。天明元年(1781)、当時の入間村 原の念仏講の人たちが、泉村泉龍寺(狛江市)の延命子安地蔵尊に詣でる人たちのために建てたもの。塔身に「是より泉むら 子安地蔵尊二十五丁 右 世田谷 目黒道 左り 江戸四ッ谷道」と。参詣者たちの道しるべとしての役割も。 往古、このあたりは七曲り道と呼ばれた。小道・藪道・坂道が多く、ひとけもなく道に迷いやすいところであったとのこと。参詣者たちはこの道標を見て安堵したに違いない。道路標識のありがたさは、身をもって知る昨今。ちなみに、このあたりの地名・入間って、渓谷の入り込んだ場所のこと。また、野川にかかる谷戸橋の谷戸とは 丘陵地の谷間で小川の源流域のこと。源流地帯の森や沼池などをひっくるめて"谷戸"という。

喜多見不動
坂道を下り、再び入間町アパート、NTTアパートの敷地内から明照寺・糟嶺神社前を抜け野川に。またまたパークシティ成城前をとおり、小田急線との交差まで。ちょっと手前で崖線・神明の森みつ池へと一筋内側の道に。
神明の森みつ池の湧水地を越え、小田急線との交差直前の坂道。あれ、これって前回上った道?で、喜多身不動はその坂道と小田急高架の間に挟まれてひっそり鎮座していた。入口にハケから勢いよく滝が落ちている。喜多見慶元寺の境外仏堂で、本尊は不動明王座像。創建は明治。喜多見の住人が成田山新勝寺から不動明王座像に入魂。堂宇と並んで、岩屋不動、玉姫稲荷、蚕所大神をまつった小祠も。

次太夫堀公園・民家園
おまいりを済ませ、小田急線の下をくぐり、次太夫堀公園・民家園に向かう。この公園には名主屋敷や民家が移築され、江戸時代後期から明治にかけての農村風景を再現している「次太夫堀」とは、稲毛・川崎領(神奈川県川崎市)の代官・小泉次太夫の指揮により開発された農業用水路。慶長二年(1597)から十五年をかけて完成。
「次太夫堀」は正式には「六郷用水」という。多摩川の和泉地区で水を取り入れ、世田谷領(狛江市の一部、世田谷区・大田区の一部)と六郷領(大田区)の間、約23kmを流れていた。世田谷領内を流れる六郷用水は、「次太夫堀」と呼ばれていた。が、現在の六郷用水(次太夫堀)は丸子川として一部残っているだけとなっている。その丸子川は先日、仙川散歩のとき偶然出会い、そのスタート地点の流路の素朴な赴き・野趣豊かなせせらぎに結構感激した。

宇奈根
次太夫堀公園・民家園から先のコースは11号線・大田調布線を下り、東名高速を越えたあたりの宇奈根を歩き、そのあとは狛江に戻るといった段取り。宇奈根に行く理由は特に無く、単に地名の「うなね」という響きに魅せられただけ。

宇奈根に、なにかランドマークを、ということで、東名高速近くの観音寺と氷川神社。観音寺は天台宗の古刹。永正年間(1504~1521)川越喜多院・実海僧上の創立。氷川神社は宇奈根・喜多見・大蔵の三ヶ村に祭られた氷川三所明神の一社。「建速素戔嗚尊を祭り、宝永年間観音寺の別当として再建。天明の末年、橘千蔭が氷川神社におまいりし、[うしことのうなねつきぬきさきくあれとうしはく神にぬさ奉る]と歌をよむ。

江戸のころにはこの宇奈根地区、多摩川に注ぐ細流に蛍が棲み、初夏の蛍狩に多くの文人が訪れた、とのこと。橘千蔭もそのひとりだったのだろう。で、その宇奈根の由来だが、これがはっきりしない。古代稲作では、溝渠(こうきょ:水田用の水路)を「ウナニ」と呼び、これが訛って「宇奈根」となったとする説。 うなね(項根) 首の付け根。後頸部。くびねっこ。宇奈根の地名も、この地域の形状が多摩川に突き出した首ねっこに似ていたためという説など諸説ある。さてどちらだろう。


神社を出て多摩川堤へ。堤防はすぐ近く。途中、宇奈根の歴史を書いた案内が公園に。昔は蚕の畑が多かった。暴れ川故、川筋が今とは結構違っていた、といったことが書いてあった。
当初の予定では、多摩川堤からすぐに戻り、街中の道を狛江の氷川神社、慶元寺、須賀神社といった段取りで、と考えていた。が、堤上の散歩道が非常に心地よい。
夕刻。夕日に向かって歩く。川向こうの多摩の丘陵地帯の夕景など、逆光の効果もあり、往古・大古の昔もかくやあるらん、といった趣。去りがたく、結局狛江市内の神社巡りはやめ、多摩川堤の散歩道を小田急・和泉多摩川駅まで歩くことに。

岸辺のアルバム

小田急との交差近く、猪方地区。ここはあの「岸辺のアルバム」の舞台のはず。山田太一さんの作品だったと思う。昭和49年 (1974)9月1日、狛江市猪方の多摩川堤防が決壊、家屋19軒が流出した大洪水を伏線においた名作ドラマ。ジャニスイアンの主題歌とともに結構記憶に残る。

六郷用水の取水地に水神さま

小田急と交差。右手に和泉多摩川駅。まだまだ歩き足りない、というか夕景が魅力的。地図をチェック。狛江市中和泉、西河原公園のところに水神前が。次太夫堀公園・民家園で六郷用水の取水地点は和泉村、と書いていた。この水神は六郷用水の取水地と関係あるにちがいない、と仮説設定。
堤防に沿った散歩道を歩き、取水塔のあるところへ。たぶん和泉の取水地点であろうと右端の公園をチェック。西河原公園。向かいにこじんまりした神社、というか鳥居とあとは、なんだかなあ、といったさっぱりしたもの。
由来書:水神社由緒「此の地は寛平元年(889年)九月二十日に六所宮(明治元年伊豆美神社と改称)が鎮座されたところです。その後天文十九年(1550年)多摩川の洪水により社地流出し、伊豆美神社は現在の地に遷座しました。  この宮跡に慶長二年(1597年)水神社を創建しその後小泉次大夫により六郷用水がつくられその偉業を讃え用水守護の神として合祀されたと伝えられる。 明治二十二年(1889年)水神社を改造し毎年例祭を行って来ました。昭和三年(1928年)には次大夫敬慕三百四拾二年祭を斉行 もとより伊豆美神社の末社として尊崇維持されて来ました。伊豆美神社禰宜 小町守撰」と。

万葉碑

水神社前の信号のところに「万葉碑」への標識。住宅街をちょっと中に入る。100メートルも行かないうちにこ石碑が。横にある家の庭といったこじんまりしたたたずまい。石碑にの歌;
多摩川に さらす手づくり さらさらに何ぞこの児の ここだ 愛しき」
万葉集巻14
松平定信(楽翁・白河藩主)の書とのこと。


狛 江=「高麗」。ここに移り住んだ朝鮮からの渡来人が機織りの技術を伝えた。多摩川にさらす手づくり、とは多摩川で晒した布のこと。ちなみに、調布の由来、奈良時代、税制の「調(その地方の特産品を納める)」に多摩川で晒した布を納めたことから名付けられたとされている。この辺り、周囲には古墳や遺跡が多数分布している。が、本日は日没のためここでおしまい。暗闇のなか、京王線国領まで歩き帰途につく。

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