渋谷川水系散歩 Ⅳ ; 渋谷川から古川へと下る

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港区を2回に渡り歩いた。が、いまひとつ土地勘がしっくりしない。であれば、台地を刻んで流れる渋谷川・古川にそって北から歩いてみよう、と考えた。開析された谷筋と尾根道のアップダウンを辿れば、なんとなく全体の姿がわかる、かと。(日曜日, 9月 10, 2006のブログを修正)



本日のルート:JR 渋谷駅>明治通り・渋谷警察署>金王八幡宮>金王神社前>八幡坂>明治通り・氷川橋>氷川神社>国学院大学前>白根記念渋谷郷土博物館・文学館>南郭坂・広尾高校前>羽澤ガーデン>チェコ大使館>祥雲寺>外苑西通り・広尾橋>天現寺>光林寺>五の橋>三光坂>池田山公園>JR五反田駅

渋谷駅
渋谷川が開渠となるのは渋谷駅前。六本木通りと明治通りが交差するあたり。京王井の頭線・渋谷駅で下車。渋谷警察署を目安に進む。東急・東横線のガードを超えたあたりに、コンクリートで固められた渋谷川。少々窮屈そう、ではある。渋谷川はこの先、恵比寿駅近くの渋谷橋あたりまで明治通りに沿って下る。が、ビルに囲まれた開渠路。散歩には少々味気ない。で、川筋を意識しながらも、東に盛り上がる台地に向かうことに。

金王八幡社
渋谷警察から明治通りを少し進み、台地に登る。台地を登りきったところに「金王八幡社」。創建は11世紀末に遡る。平家の祖・平高望の子孫・平武綱がつくった、と。源義家に従い戦った後三年の役で武名をあげた武綱は、この渋谷一帯を領地とする。で、この地に八幡宮をまつったのが「金王八幡宮」のはじまり。その後、武綱の孫・河崎重家の代に天皇より「渋谷」姓を賜る。当時は「渋谷八幡宮」と呼ばれていた。
「渋谷」の名前を賜った由来が一風変わっている。河崎重家が御所警護の際、取り押さえた賊の名前が「渋谷何某」。その功を称えた掘河院が「以降、渋谷と名乗るべし」といった、とか。倒した敵の名前を名乗るのは名誉なことであった、そうな。
何ゆえ「金王」、ということだが、あれこれ説がある。渋谷重家の子どもの名前・金王丸に由来する、との説もある。子供を求める重家が、八幡様にお祈り。「金剛夜叉明王」が妻女の体に宿る夢。正夢となり、無事男子を授かる。「金」剛夜叉明「王」の初めと終わりの字を取って「金王」と。少々,出来すぎている感もあり。 

(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


ついでに重家のその後;源義朝に従った保元の乱で殊勲大。その後、平治の乱では、義朝討ち死の報を義朝の妻女・常盤御前に伝え、重家はこの渋谷の地で出家。義朝の菩提をとむらう重家に転機が訪れたのは、頼朝が奥州の義経征伐の折り、重家に従軍を求めた時。頼朝の強い要望に断わりきれず参戦するも、常盤御前の子である義経を討つことはできず、戦いにおいて落命した、と。
この金王八幡社付近は渋谷城があったところ。小田原北条氏の武蔵進出の際の合戦で焼け落ちた。渋谷警察の裏にあたりには、古くは堀之内という地名があった、とか。この城址は台地の西端。眼前には水量豊かな渋谷川水系の川が行く筋も流れており、その水を引いた堀があったのだろう。

氷川神社
神社を離れ金王神社前交差点に進む。この道筋は青山学院の西側を下り、六本木通り・渋谷2丁目交差点を越えてくる。台地から渋谷川に向かっては金王神社前あたりから「八幡坂」となって下る。八幡坂を下り終えると明治通り・並木橋交差点。明治通りにそって次の交差点、渋谷川に氷川橋のかかる東交番前を台地方向に折れ、坂を登る。坂の途中で南に折れ、道なりに進むと「氷川神社」参道入口。
結構広い境内。4000坪程度あるようだ。鬱蒼とした緑の中に鎮座する。境内には相撲場。江戸郊外三大相撲のひとつ、金王相撲が開催されていた、とか。渋谷最古の神社とも言われる。何度かメモしたように、氷川神社は全国で261社。そのうち埼玉に162社。東京に68社といったふうに関東ローカルなお宮さま。本社は武蔵一ノ宮である大宮の氷川神社。出雲族の武蔵氏が武蔵国造となってこの地に移ってきたとき、氷川信仰が武蔵の地に普及した。「氷川」の名は出雲の「簸川;現在の斐伊川)」に由来する。もとは、荒川を簸川に見立て、畏敬の念をもって信仰していたのであろう。
氷川神社が祀られた村々はその成立が比較的古く、多くは関東ローム層の丘陵地帯に位置している。森林を開墾し谷の湿地を水田とした人たちが生活のより所として、氷川神社を建てたのであろう。氷川神社の祭祀圏は荒川西岸。香取神社の祭祀圏は荒川東岸ときっちりと分かれている。散歩を通してこのルールをはずしていたのは、北区・赤羽あたりに香取神社があった1件のみ。

白根記念渋谷区郷土博物館・文学館

氷川神社の北に國學院大學。國學院大學前交差点を進み常陸宮邸方向に進むと白根記念渋谷区郷土博物館・文学館。館内を一廻りし、『渋谷文化財マップ』『散策マップ』などを入手。一服しながら天現寺まで、つまりは港区までのルートを探す。郷土館から日赤通りに向かい、台地上の道を進み祥雲寺を経由して広尾、そして天現寺に至るコースがよさそう。





南郭坂
郷土館を離れ、國學院前交差点に戻る。そこからは南に折れ、広尾高校方面に進む。しばらく進むと広尾高校前交差点。台地を渋谷川方向に下りる坂は「南郭坂」。江戸中期の儒学者・服部南郭の別邸があったところ。16歳で和歌と絵画をもって柳沢吉保に仕える。荻生徂徠の高弟のひとり。経学の太宰春台に対し詩文の南郭と並び称された。古文辞学と詩を学ぶ。で、34歳で在野に下りこの地に「隠居」、とか。
古文辞学って、明の時代に流行った「文は秦漢、詩は盛唐」をよし、とする懐古主義の文学運動、とか。なんのことかよくわからんが、いまのところは、いまひとつ問題意識なし、をもって,よし、とする。とりあえず、高校時代に李白とか杜甫といった盛唐の詩歌を、わけもわからず覚えたのは、江戸期の古文辞学派が『唐詩選』を「有り難き物」とした賜物であろうか。勝手な解釈であり、正誤のほど定かならず。

いもり川
広尾高校前を東に折れ、広尾高校裏交差点を越え、坂を下る。あれ、このあたり、見覚えがある。羽澤ガーデン。元満州鉄道総裁の邸宅を使ったレストラン。結構利用した。が、どうも営業を終了したようだ。羽澤ガーデンあたりは谷地。昔は「いもり川」が流れていたよう。昔の地図には、「いもり橋」「小橋」「どんどん橋」といった名前がある。地図で見る限りでは、六本木通り・常陸宮邸あたりから、東4丁目の交差点(常陸宮邸前の五叉路)をとおり広尾2丁目、3丁目の低地を進み広尾2丁目で渋谷川に合流。合流点は渋谷川の恵比寿橋と新橋の間といったところ。

日赤通り

いもり川の谷筋から、ふたたび坂をのぼる。坂をのぼりきったところが日赤通り。日赤医療センターや聖心女子大の裏手を一直線に南に下る尾根道・台地道。このあたりは、堀田備中守(佐倉藩・千葉県)の下屋敷があったところ。
『江戸名所図会』などには、この広尾の原は一面のススキ。江戸時代の広尾は、麻布の西に広がる行楽地。将軍の鷹狩りや市民の土筆つみ・月見の里でもあった。広尾の原には「土筆が原」の別名もあった、とか。
下屋敷って、大名の別邸であったり、上屋敷への供給する菜園をもっていたり、海岸付近では荷揚げ場であったりと、その機能はいろいろ。上・中・下屋敷は江戸城からの距離をもってタグ付けされていた。お城から最も近いのが上屋敷、遠いのが下屋敷、である。

祥雲寺

日赤通り・ チェコ大使館前を通り、しばらく進むと道は祥雲寺に阻まれ東西に分かれる。道なりに坂を西に下り、明治通り・広尾1丁目交差点、渋谷川にかかる新橋のあたりに出る。明治通りを東に少し進み祥雲寺に。
祥雲寺は黒田長政の嫡子・忠之が赤坂溜池の黒田家上屋敷内に建立した龍谷山興雲寺がもと。寛文6年(1666年)には麻布台に移り,瑞泉山祥雲寺と改める。 寛文8年(1668年)には江戸の大火により現在の地に移る。もともとは、黒田長政がなくなったとき、長政が深く帰依していた京都大徳寺の龍岳和尚を開山としたわけでもあり、境内には黒田家累代の墓とともに、墓標形として建てられた大きい長政の墓がある。
祥雲寺には、岡本玄冶の墓もある。岡本玄冶のことは中央区日本橋人形町を散歩したときにちょっとメモした。春日八郎の『お富さん』の歌に「粋な黒塀、。。。、えっさほう、玄治店(げんやだな)」がある。子供のころに覚えた歌をいまだに覚えている。その玄治店って、岡本玄冶が家主の長屋のこと。人形町の拝領屋敷を長屋にしていたのだろう。この玄冶さん、将軍秀忠・家光の侍医。千石取り、というから殿様並。家光が疱瘡を患ったとき、ものの見事に治療し評価を高めた。もっとも、玄治を今にその名を残す存在としらしめたのは、お富さんであり、切られ与三郎の登場する歌舞伎の舞台「与話情浮名横櫛」であることはいうまでもない。

広尾橋・笄川

寺を離れ、外苑西通りに出る。広尾橋交差点。広尾橋は、その昔、ここを流れていた「笄川(こうがいがわ)」にかかっていた橋。笄川は舌状台地となっている青山墓地の両脇の谷筋が源流点。途中、いく筋もの流れをあわせながら南下して天現寺橋で渋谷川に合流。渋谷川水系では宇田川に次ぐ規模の支流ではあった。1937年に大部分が暗渠に。部分的に各地に残っていた開渠も東京オリンピック前後までには完全に暗渠化されている。

天現寺橋交差点​・天現寺

少し南に進むと天現寺橋交差点。交差点脇に天現寺。臨済宗大徳寺派。天現寺橋は元々、笄川(こうがいがわ)に架かっていた橋の名前。現在の渋谷川に天現寺橋が架かっているが、元々は別の名前の橋だった、とか。
渋谷川の対岸に慶応幼稚舎ができて通学用に架け替えられた「慶応橋」と、その隣に市電用の橋梁が架けられたわけだが、二つの橋を合体した形で架け替えられるとき、天現寺橋の名が復活した、と。この橋を境に上流を渋谷川、下流を古川に分けられる。

光林寺

天現寺橋から渋谷川改め、古川を東に進む。すぐ光林寺に着く。オランダ人ヒュースケンの墓がある。安政3年(1856年)、ハリスとともに下田着。日米修好通商条約締結交渉に活躍し。渡航先のアメリカで、ドイツ語、フランス語等もできる語学力をかわれて日本に赴任。陽気闊達な性格であり、江戸滞留の外国人間で名を知られる。が、プロシア使節と日本側の通訳として通っていた「赤羽接遇所」からアメリカ公使館のあった麻布善福寺への帰途、「中の橋」のたもとで攘夷派の薩摩藩士の刃に倒れる。乗馬が好きで江戸城のあたりを闊歩していたのが、攘夷志士の気に障った、とも。1861年1月15日、28歳の若さであった。
善福寺ではなくこの光林寺に埋葬された理由は、善福寺は土葬を禁じていたため。この寺は土葬が可能であったわけだ。台地下の窪地に寺はあるが、台地も寺域となっており、境内はすこぶる広い。

池田山公園
光林寺からは東五反田の池田山公園を目指す。五の橋を渡り、白金3丁目を進み、三光坂下で大久保通りを越え、三光坂を登り、目黒通りに出る。このあたりはこれで3回目。結構土地勘ができてきた。目黒通りからは目白台3丁目の「三田用水跡」あたりを再び通り、上大崎1丁目の宅地を過ぎると、「池田山公園」にあたる。NTT東日本関東病院のすぐ裏手であった。

池田山公園は岡山藩池田家下屋敷跡。池田山公園自体は7,000平方メートルであるが、下屋敷自体は往時3.8万平方メートル。NTT東日本関東病院の敷地も下屋敷の一部であった。公園は窪地にあり、回遊式庭園となっている。三田上水を引き込んでいた、と。
ちなみに昔の大名屋敷で現在公園になっているところをメモする;戸越公園(熊本藩細川家)、白金の国立自然教育園(高松藩松平家)、小石川後楽園(水戸藩徳川家)、東京大学(金沢藩前田家)、芝離宮(小田原藩大久保家)、赤坂御所(紀州徳川家)、明治神宮(彦根藩井伊家)、戸山公園(尾張藩徳川家)、新宿御苑(高遠藩内藤家)、青山墓地(郡上藩青山家)など。
公園を離れ、公園に沿って上大崎1丁目と東五反田5丁目の境の坂道をのぼり、南に台地上を進む。「ねむの木の庭」前を通り、台地を下りJ
R五反田駅に到着。本日の予定終了。

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