浅草散歩 浅草七福神巡り;そのⅠ

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浅草七福神散歩_1;浅草寺・浅草神社;年明けのとある休日、浅草七福神巡りに出かけた。都内のパワースポットを訪れ、霊験あらたかなるを、体現する。もって、恋愛強年間のスタートに、との想いを巡らす会社の皆様とご一緒した次第。あれこれ歩き、各所で七福神に出会ってはいた。実際、浅草七福神の鎮座する寺社はすべて「巡り」済み。で、勝手知ったる、わが町の如く、七福神巡りのルーティングをおこなう;大黒天(浅草寺)>恵比寿(浅草神社)>毘沙門(待乳山聖天)>福禄寿(今戸神社)>布袋尊(橋場不動院)>寿老人(石浜神社)>弁財天(吉原神社)>寿老人(鷲神社)>福禄寿(矢先神社)、といった段取りで巡ることにする。

土地勘は問題なし。目を閉じても歩けそう。が、先般の散歩でも正面切って「七福神」を意識して歩いたわけでもない。「七福神」って良く聞くのだが、あまり詳しいことも知らない。で、「七福神」の何たるかについてまとめる。

七福神、って簡単に言えば、(幸)福をもたらす七人の神さま、ってこと。「福の神」という名前は中世の民間信仰の中に現れている。室町末期、応仁の乱といった戦乱により疲弊した庶民の心に、福を求める土壌があったこと、また室町以前の神様・仏様は鎮護国家、五穀豊穣といった、国や村といった共同体の「福」を願うものであったわけだが、室町になると商業活動がはじまった頃でもあり、庶民・個人の幸福への願いを託す信仰がはじまった。こうした庶民の福の神信仰の広がりを背景に、七福神信仰がはじまった。七福神といっても、はじめから七神そろっていたわけでもないようだ。また、メンバーの交代もあれこれ、おこなわれていた、と。

はじまりは、大黒天。次いで、恵比須さんとペアーとなる。が、二神で満足することなく女神・弁才天が加わり三神となる。日本古来の守神・恵比寿さんに、中国をへてインドから伝わった大黒さま・弁天さまを加えた三神信仰がはじまった。弁才天がメンバーとなるに際しては、吉祥天という女神さまとのコンペがあったよう。が、結局選ばれたのは弁才天。吉祥天は同じ美女ではあるが、少々怖い女神と思われていたから、とか。

三神が決定。が、何が物足らなかったのか、京の民人は毘沙門天を加える。多聞天との習合、とも言われる。そして、次には四神では縁起が悪いかも、ということで布袋和尚を加えて五福神となる。それでも物足らず、福禄寿と寿老人をエイヤ、とばかり付け加え、七福神を誕生させた。三神でも、五神でも 六神でもなく八神でもなく、七神としたのは、仏教経典の「七難即滅七福即生」にちなんだとか、中国の「竹林の七賢」にちなんだとか、諸説あり。

室町に興った七福神信仰も人気が大ブレークしたのは江戸時代。きっかけは、天海僧正による、七福神信仰の奨励。家康の政治指南でもあった天海は、七福神のもつ七徳によって天下を統一した家康の威徳と、その徳を拝みなさい、ということであったのだろう。江戸も中期以降、庶民が豊かになるにつれ、レクレーションを兼ねた「七福神巡り」が全国に広まることになる。先般メモした秩父観音霊場巡りが江戸庶民に広がるプロセスと同じ。メンバー交代の動きもあった、とか。
神様でもない福禄寿と寿老人がメンバーって、いかがなものか、と、福禄寿の変わりに吉祥天を加えるべし、って意見も。猩猩を寿老人の代わりに入れるべし、って説も。猩猩って、想像上の獣。福をもたらす海の霊獣と考えていたよう。また、福助とお福さんを加えるべし、との意見も。
あれこれと途中経過があったものの、インドのヒンドゥー教や中国思想などから候補が選ばれ、日本的な神さまにアレンジされ、厳しい選抜戦に勝ち残ったのが現在の七福神。現在、 全国で80箇所以上の「七福神巡り」がある、という。



本日のルート;大黒天(浅草寺)>恵比寿(浅草神社)>毘沙門(待乳山聖天)>福禄寿(今戸神社)>布袋尊(橋場不動院)>寿老人(石浜神社)>弁財天(吉原神社)>寿老人(鷲神社)>福禄寿(矢先神社)、

七福神散歩をはじめる。メモは七福神のコメント以外は先般歩いた台東区散歩のメモをコピー&ペースト。はてさて、集合場所は東武浅草駅。雷門通りを西に進み、「雷門」に。道を隔てて南側にある「浅草観光文化センター」で資料集め。
ところで、浅草は台東区にある。読みは、「タイトウ」区。台東区の「台」は上野の高「台」、「東」は上野の高台の東、つまりは浅草を指す、という。「台」は台覧、「東」は聖徳太子ではないが、「日の出ずるところ」であり、台も東も、どちらにしてもありがたい言葉である、と。
それにしても台東区って、少々分かりにくい。ひねり過ぎ?この散歩をするまで、浅草って隅田川の東、墨田区にあると思っていた。実際歩いてみて上野から結構近いところにあった、と改めて気づいた。区名 を決めるときは、東区とか上野区,宮戸区とかなどいろいろ案はあったよう。候補のひとつである上野浅草区でもなっていれば、少々わかりやすかった、かも。 ともあれ、最初の目的地、大黒天のある浅草寺に。

大黒天;
浅草寺浅草寺に伝わる縁起によると、創建は推古36年というから628年。漁師の檜前浜成(ひのくま・はまなり)と竹成(たけなり)が隅田川から拾い上げた金の観音像を、村長・土師中知(はじのなかとも)の家におまつりしたのが浅草寺のはじまり、と。
その後、大化元年(645年)には勝海上人が観音堂を建立。縁起は縁起以上のものではないにしても、すくなくとも平安時代の中頃には立派なお堂ができていたようではある。頼朝も治承4年(1180年)隅田川を渡り、武蔵の国へ攻め入るとき、浅草寺で戦勝祈願をしたというし、頼朝の父の義朝も浅草観音の信者であったというし、鎌倉の地に鶴岡八幡宮を造営の際、地元の宮大工など頼むに足らず、ということで、浅草寺をたてた浅草の宮大工を呼び寄せた、ともいうし、あれやこれやで結構昔から浅草寺は賑わっていた、そのことは間違いなさそう。
それにしても、それにしても、である。仏教伝来は538年。漁師の檜前浜成(ひのくま・はまなり)と竹成が隅田川から金の観音像を拾い上げたのが628年。伝来以来、一世紀弱で川から拾い上げた「もの」が「仏像」であると、一介の漁師がわかるものであろうか。あるとすれば、わずか一世紀弱で仏教が一般市民にも広まっていた、ということであろうか。
と、あれこれ考えながら、ふと気がついた。檜前浜成(ひのくま・はまなり)と竹成っていかにも渡来系の人。墨田区の散歩でメモしたように、この浅草湊は帰化人の橋頭堡であった。とすれば渡来系帰化人って、仏教を持ち込んだ人たちであろうから、拾い上げた像が「仏像」だとすぐにわかって当然でもあろう。結論;浅草湊は帰化人によって開かれた。仲見世通りを進み、浅草寺本堂におまいり。

それにしても境内にはいろいろな神や仏がそろっている。念仏堂、涅槃堂。閻魔堂などのお堂が169、お稲荷さんが35、不動堂が11、地蔵堂が10、弁天社が7、恵比寿・大黒さまが10。権現様もある。神や仏のデパートのようなお寺さんと呼ばれていた。
秘仏のご開帳も盛ん。江東区散歩のときの回向院は出開帳(でがいちょう)のナンバーワンのお寺であったが、この浅草寺は居開帳(いがいちょう)、つまりは自分のお寺の秘仏を自分のお寺でご開帳するって催しが二年に一度の割合で開かれていた、という。秘仏ご開帳の利益は膨大。『観光都市 江戸の誕生;安藤優一郎(新潮新書)』によれば、文化4年(1807年)のご開帳では70日間(本来は60日が最大)のイベントで、儲けが今の金額でおよそ2億円。この金額は通常の浅草寺のお賽銭額の3分の2にもなるという。
それではと、これも本来は33年に一度しかできないものを、あれこれ理由をつけて頻繁にイベントを催したお寺もあったようで、成田山新勝寺など150年の間に10回というから、15年に一度出開帳をおこなっている。ビジネスマネジメントの立場からして、気持ちはわからないでもない。

大黒天;福の神として最も早く祀られたのがこの大黒さま。もとはヒンズー教の破壊の神・シバ神。が日本に仏教とともに入ってきたときはお寺の食を司る神、台所の守り神 となっていた、と。日本に持ち込んだのは、天台宗の開祖最澄である。天台寺院の厨房に大黒天が置かれるようになったことから、この信仰が庶民にも広がった。台所の神から台所を司る主婦の守護神となり、さらには家の守護神となった、とか。
大黒天人気上昇の背景に、大国主命(おおくにぬしのみこと)の存在があった。 今日丁度手に入った『江戸の小さな神々;宮田登(青土社)』によれば、「最澄が天台宗の守護神として三輪山の三輪明神を勧請したという縁起があり、大国天の姿をした三輪明神が叡山に招かれ大国主命の神霊として、天台宗の守護神となった」、と。袋を担いだ大黒天の姿と、「大きな袋を肩にかけ」の大国主命の姿、大黒=大国という語呂も、大黒天と大国主命の混同に効果的であった、かも。記紀伝説に登場する日本を代表する「大国主命」の力も大いに影響し、福の神、打出の小槌をもっての無尽蔵の財宝と富のシンボルとして全国的に信仰されるようになった。

恵比寿;
浅草神社浅草寺の本堂から 少し奥というか北に浅草神社。檜前浜成と竹成、それと土師中知の3人を祭神とする。その後、神仏習合、というか本字垂迹というか、ともあれ「神も仏も皆同じ」といった論法で村長の土師中知が阿弥陀如来、浜成と竹成がその脇時の観音菩薩と勢至菩薩であるという権現思想が生まれ、この浅草神社が三社権現と呼ばれるようになる。「三社さま」の由来である。後に東照権現(家康)もおまつりされた。
本殿、弊殿、拝殿は共に慶安2年(1649年)家光公によって再建。この神社の祭礼である三社祭りは、以来江戸の三大祭りとなって今に至る。○ 恵比須さん。大黒さまに次いで登場した福の神。七福神の中で唯一の日本の神さま。ご存知、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊邪那岐命(いざなみのみこと)の三男、夷三郎が恵比須、とか。九州・日向の里からたどり着いたのが、摂津国西宮(兵庫県西宮市)。夷神社があるところ。
「えびす」の語源は、もともとは「夷」。海の遠方から富を授けてくれる神・漁業の神さまとして信仰される。はるかかなたの地から福をもたらす恵比寿さんは、寄神(よりかみ)、客神(まろうどかみ)であるがゆえに、農民や商人にも信仰され、農村では田の神、山村では山の神としても信仰される。ために、豊作の神様と。恵比須を全国に広めたのは、西宮夷神社の神人たち。全国を回り、恵比須を神像を配ったり、年末・年始に家々を廻り「エビス舞わし」などを披露し販促にこれ務めた。その結果、恵比須は大黒天と並んで全国で商売繁盛神として信仰されるようになった、とか。熊野の御師による熊野信仰の普及はあれこれ調べたことがある。恵比寿さんの祭祀圏の拡大もそのうちに調べてみよう。

浅草神社を離れ、花川戸地区に。名前に惹かれる。由来ははっきりしない。が、旧町名由来案内、によれば、「川や海に臨む地に戸をつけることが多いという。花川戸の地は、桜の並木あるいは対岸の墨堤に咲く桜など桜と隅田川に結びついていたので、この名がついたのではなかろうか」と。結構納得。
花川戸2丁目の花川戸公園に「姥が池跡碑」と「助六歌碑」。姥ヶ池(うばがいけ)は、昔、隅田川に通じていた大池。明治24年に埋立てられた。姥ヶ池にまつわる「石枕伝説」が残る:昔、浅茅ヶ原(あさじがはら)の一軒家で、 娘が連れてくる旅人の頭を石枕で叩き殺す老婆がいた。ある夜、娘が旅人の身代わりになって、天井から吊るした大石の下敷きになって死ぬ。 それを悲しんで悪業を悔やみ、老婆は池に身を投げて果てる。里人はこれを姥ヶ池と呼んだ。(東京都教育委員会による碑文)、と。

「助六歌碑」は「歌舞伎十八番助六」の歌碑。市川団十郎の当たり芸。あらすじは;助六は花川戸の侠客。助六は実は曽我五郎である、と。曽我物の「おきまり」。源家の家宝「友切丸」を探すため、毎夜吉原で喧嘩三昧。相手に刀を抜かし「友切丸」かどうか調べる。
吉原の遊郭三浦屋の揚巻は、人気全盛の花魁。助六といい仲。髭の意休は権力と金を嵩にきて揚巻に言い寄る。が、相手にされない。意休は助六を罵倒。刀を抜く。この刀こそ「友切丸」。意休を討ち果たして刀を奪う。助六は揚巻の助力で吉原から逃れた。代々の団十郎は曽我五郎を荒事の典型とする。助六もそのひとつ。助六の決まり文句:「江戸八百八町に隠れのねえ杏葉牡丹の紋付も桜に匂う仲の町、花川戸の助六とも、また揚巻の助六ともいう若いもの間近くよって面像おがみ、カッカッ奉れえ」

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