讃岐 四国札所散歩:80番札所から始め、81番白峯寺、82番根香寺と、讃岐路の歩き遍路を楽しむ

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平成24年(2013)の初散歩。年末から田舎の愛媛県新居浜市に帰省していたこともあり、今年の歩きはじめは、四国札所の「歩き遍路」から始めよう、と。 「歩き遍路」のデビューは昨年秋のお祭り帰省のとき。愛媛の久万の山中にある44番札所大宝寺から45番札所の岩屋寺までの遍路道を辿った。ちょっとした峠や、のどかな野道など、なかなか風情のある小径が残っていた。 で、今回もどこか適当な遍路道をとあれこれ考え、当初は石鎚山への中腹にある60番札所・横峯寺を辿ろう、などと考えていたのだが、道の凍結が心配、との弟のアドバイス。四国の山を歩き倒しているエキスパートの言には「諾」と頷くのみ。その代案としてプランしてくれたのが讃岐路の遍路道。讃岐の国分寺から始まるルートは弟の地元であり、勝手知ったる散歩道とのこと。良きガイドの後に続くだけで、よさそうである。
メンバーは長崎から帰省中のもうひとりの弟を含め、還暦を過ぎた兄弟3人。弟二人は翌日、雪の石鎚山登山を控えているのだが、これも恒例の正月行事とのことで、その足慣らしに丁度いい、などと余裕のコメントで讃岐路の歩き遍路に向かった。


本日のルート;さぬき浜街道>80番国分寺>一本松の峠>十九丁の分岐点>足尾大明神>82番根香寺>81番白峯寺>崇徳上皇御陵>西行の道>青海神社>神谷神社>松山の津>高屋神社>鼓岡神社>雲井の御所跡>国府印鑰明神遺跡 柳田

さぬき浜街道
田舎の愛媛県新居浜市から松山自動車道に乗り川之江ジャンクションで高松自動車道に入り、坂出インターチェンジで高速を下り国道11号線を進み、上氏部交差点で県道187号を北に進み林田町交差点あたりで高松に住む弟の車と合流。弟の車を先導車に「さぬき浜街道」を東に進む。
「さぬき浜街道」って、なんだか歴史のある街道のような名称であるが、昭和63年(1988)に開通した産業臨海産業道路。高松と中西讃地域の工業地帯を結び、瀬戸大橋開通に伴う交通量の増大に対応すべく計画したものである。

「さぬき浜街道」をしばらく東に向かい、坂出市青海町にある青海神社脇に車を停める。ここは81番白峯寺の下山口。本日の散歩の終了地点である。ここに車を一台置き、あとの一台に乗り換えて散歩のスタート地点である国分寺に向かう。出発点と到着点が離れているときには、車2台での行動は便利である。

八十番霊場・国分寺
国分寺までの道は運転手任せであり、どこをどう走ったのか定かではないが、ともあれ国道11号に戻り、予讃線・国分駅近くの前谷東交差点で県道33号に入り、国分寺の駐車場に車を停める。
正面の仁王門の前に立つに、さすがに結構な構えである。仁王門の脇にある「縁起略記」によると、「天平13年(741)、聖武天皇の勅願、行基菩薩の開基により国ごとに建立された国分寺(金光明四天王護国之寺)。創建当時は二町四方(東西3町、南北2町、とも)あり、南より南大門を入り、東に七重の塔、中央に中門・金堂、講堂などの諸堂があった。現在古義真言宗御室派の別格本山で四国第八十番の札所である」とのこと。

○七重の塔跡
仁王門をくぐり参道を進む。参道の両脇には松並木と八十八箇所の石仏が並ぶ。参道の右手に幾多の礎石が残る。仁王門前の案内にあった七重の塔跡であろう。 境内にあった「国分寺由来」によれば、「心礎(中心柱が乗る礎石)」とともに合計17個の礎石があり、5間四方の塔で、京都の東寺の五重塔(高さ東洋一)以上の大塔であった」と。現在は鎌倉時代に造られた石造りの七重の塔が残る。

 ○鐘楼
先に進むと参道左手に鐘楼。奈良朝鋳造の重要文化財との案内があった。歴史のある鐘だけに、その歴史に相応しい伝説も伝わる。大蛇の伝説や高松城の時鐘の伝説がそれである。
大蛇の伝説とは、その昔讃岐のある淵に棲む大蛇が近隣の人々を苦しめていた。それを聞いた弓矢の名人が、国分寺の千手観音の御加護のもと、鐘をかぶって現れた大蛇を退治。その鐘は国分寺に奉納された、といった話である。
また、高松城の時鐘の伝説とは、国分寺の鐘の音が気に入った高松の城主生駒一正が、家臣に命じて城下に運び時の鐘とした。が、その鐘が時を告げるようになって以来、城下では怪異な出来事が起き、また殿様までが病にかかるしまつ。これは鐘の祟りかと、鐘を国分寺に戻すと元の平静な城下に戻った、といった話である。

○本堂
参道を進むと正面に本堂があるが、本堂の前はその昔、金堂があったところ。三十三個の礎石が残る。案内にあった「国分寺由来」には。「実測間口東西14間(1間=1.8m)。奥行(南北)7間の大堂」とあった。
池に架かる橋を渡ると本堂。創建当初の講堂跡に建てられたものであり、九間四面の入母屋造り、本瓦葺き。鎌倉中期の建築といわれ重要文化財に指定されている。本堂には本尊の千手観音が佇む。約5m、欅材の一本造りの観音さまは重要文化財である。
○大師堂
本堂前の池の脇には弁財天の小祠と七福神の石像が並ぶ。国分寺は「さぬき七福神」の中、弁財天を主尊としている。願かけ金箔大師像にお参りし、右手に進むと大師堂と納経所があった。多宝塔のような二重の塔が大師堂、手前の建物が納経所。堂の前には千体地蔵が群立する。

国家鎮護、社会の安定を祈願し建立された国分寺ではあるが、古代律令国家体制の崩壊とともに、国家による管理・庇護が受けられなくなり衰退する。そしてその中興の祖が弘法大師空海とも伝わる。弘仁年間(810-824)に弘法大師が訪れ、行基作の5・3mの大立像(本尊)を補修した、と。霊場に定められたものこの頃、とか。
しかしながら、中興された堂宇も、天正年間(1573-1592)、土佐の長曽我元親軍の兵火に晒され、本堂と鐘楼だけを残し全て焼失。慶長年間(1579~1614)、讃岐国主である生駒一正によって再興され、江戸時代には、高松藩主松平家代々によって庇護された、とのことである。

○中務茂兵衛

歩き遍路を始めるべく仁王門をくぐり境内を離れる。と、境内に入る時には気付かなかった石碑があり「一之宮道」と刻まれる。讃岐の一宮は高松市一宮町にある田村神社。その道標であろうかとチェック。一宮道の道筋に関する資料は見つけることができなかったのだが、チェックのプロセスで、幕末から明治・大正にかけて遍路史に足跡を残す人物が登場してきた。この石碑を建てた中務茂兵衛がその人である。
中務茂兵衛。本名:中司(なかつかさ)亀吉。弘化2年(1845)周防(すおう)国大島郡椋野村 (現山口県久賀町椋野)で生まれた中務茂兵衛は、22歳の時に四国霊場巡礼をはじめ、大正11年(1922)に78歳で亡くなるまで生涯巡礼の旅を続け、実に280回もの巡礼遍路行を行った。四国遍路はおおよそ1,400キロと言うから、高松と東京を往復するくらいの距離である。一周するのに2カ月から3カ月かかるだろうから、1年で5回の遍路行が平均であろうから、280回を5で割ると56年。人生のすべてを遍路行に捧げている。
で、件(くだん)の道標であるが、中務茂兵衛が厄年である42歳のとき、遍路行が88回を数えたことを記念して建立をはじめ、その数250基以上にも及ぶ(230基ほどは確認済、とか)道標のひとつ。
文化遺産としても高く評価されている道標の特徴は、比較的太めの石の四角柱(道標高の平均約124cm)で、必ず建立年月と自らの巡拝回 数を刻んでいる、と。国分寺の道標には、正面に「一之宮道」、右に「明治19年3月吉祥日 / 讃州高松通り町一丁目」、左に「高松」、裏に「88度目為供養 / 行者 中司茂兵エ建之」と刻まれる。

追記;
一宮道のことを讃岐一宮としたが、これは第八十三番札所である一宮寺の誤り。このメモの当時は特段遍路のことに興味関心があったわけでもなく、八十番国分寺の次は八十一番白峰であろうから、一宮道が札所案内であるとは思わなかった。
後年、讃岐の遍路道を辿ったとき、80番・国分寺から81番・白峰寺へと向かう順路の遍路道の他、79番・天皇寺から81番・白峰寺>82番・根香寺>80番・国分寺へと進む逆路の遍路道があることを知った。国分寺から白峰寺への急登、「へんろころがし」を避けるため江戸時代中期以降に利用された遍路道とのこと。
この標石は逆打ち遍路が国分寺から一宮寺に進む遍路道の案内であった。





国分台
国分寺を離れ歩き遍路を開始。国分寺の東側を山稜に向かって進む。正面に聳える山は国分台。標高407m。遍路道はこの国分台と403mピークの間の鞍部に向かって上ることになる。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平23業使、第631号)」)

山道を進むと道脇にむき出しになった白い岩肌が見える。案内によるとこの白い岩肌は「ギョウカイカクレキ岩」。今から1000万年前、瀬戸内地方は激しい火山活動にみまわれ、そのときの溶岩のかけらと火山灰が積もってできた岩石とのこと。国分台は大平山(479m)とともに、瀬戸内海に張り出した巨大な溶岩台地である五色台の南に控える山稜。因みに五色台の由来は、瀬戸内海に面する北の紅峰(245m)から南に、黄峰(175m)、黒峰(375m)、青峰(449m)、白峰(335m)と続く5つの峰に拠る。

石鎚神社
坂道を進むと「石鎚神社」の案内。ちょっと寄り道。道から少し入ったところに沢があり、水かけ大師像が安置されていた。沢を越えたところにまことにささやかな石の祠があり、そこが石鎚神社であった。
石鎚信仰は愛媛県にある関西一の高山・霊峰石鎚山を神体とする山岳信仰。役の行者を開山の祖とし、中世以降山岳修験の道場として栄え、日本七霊山のひとつとして並び称された。『石鎚山と瀬戸内の宗教文化;西海賢二著(岩田書院)』によれば、『其の山高く嶮しくして凡夫は登り到ることを得ず。但浄行の人のみ登りて居住す』るしかなかった石鎚山に、一般の人びとが登拝するようになったのは、近世も中期以降に講中が組織されるようになってから。お山の大祭の頃には、講を差配する先達に導かれ幟を立て、ホラ貝を鳴らし、愛媛県下ばかりではなく岡山、広島、山口県下一円からお山に上ってきた、とある。この讃岐の地にも講中があっただろうし、その信者が祀ったものであろう、か。現在でも石鎚神社の講者活動する信者は100万人にも及ぶ、とか。

一本松の峠
先に進むと休憩所があり、そこには修行大師の石仏が佇む。修行大師とは弘法大師空海の修行中の姿ではあろう。後ろを振り返ると国分寺町が一望のもと。讃岐特有のお椀を逆に置いたような山が平地にその姿を示す。
それにしても平野の中にお椀を逆にした、と言うか、おむすび形の山が目につく。チェックすると、香川県の山はその山麓が風化されやすい花崗岩、中腹から上は硬く風化しにくい火山岩であるサヌカイト(安山岩の一種)でできている、と。で、気の遠くなるほどの時間をかけて大地が浸食される過程で、安山岩の部分が少ない大地が「おむすび山」として残り、帯状に長い安山岩がのっかった大地は屋島のような台地地形となった、とか。安山岩は火山噴火でつくられたが、それははるか昔々の話である。
「へんろ転がし」などと称される急坂、というか、整備されて階段状に造られた道を上る。四国は「へんろ転がし」ではあろうが、散歩の折々には「座頭転がし」と呼ばれる急坂によく出会う。江戸期の甲州街道の談合坂パーキングエリアのあたりにも、また、旧東海道の箱根東坂を越えるときにも「座頭転がし」と称される急坂、険路があった。
へんろ坂を上り切ると「一本松の峠」。これと言って目立つ松が残るわけでもなく、台地上をはしる県道180号(鴨川停車場五色台線:坂出市のJR四国鴨川駅近くから高松に至る一般県道)に出る。

○サヌカイト
県道180号をクロスし、再び山道に入る。ほどなく林が帯状に切り開かれている。防火帯とのことである。一本の松の峠の西側には陸上自衛隊の国分台演習場、高屋射撃場がある。善通寺は元陸軍第十一師団の司令部があったところで、現在も陸上自衛隊の第14旅団の司令部があり、これらの演習場や射撃場は隊区内の施設である。防火帯は火砲使用故のセイフティネットであろうか。
大平山の山麓道の途中に「カンカン石」の案内。案内によると、「讃岐の名石として知られるカンカン石(讃岐石)は木槌で叩くと美しい音色を響かせ、江戸の頃から謦石(がいせき;吊るして鳴らす石の楽器)として知られる。明治24年(1891)にドイツの岩石学者ワインシェンクはサヌカイト(讃岐の石)と命名し、世界に紹介した。この岩石は五色台意外に金山(坂出)、二上山(大阪府、奈良県)にも産する。今から1000万年前の激しい火山活動の産物である」、とあった。弟は途中、それらしき岩石はないものかと石ころを探し、石を叩くも、それらしき音色の石が見つかることはなかった。

十九丁の打ちもどり
落ち葉を踏みしめ林の中を進むと祠に祀られた、お地蔵様の佇む場所に出る。脇に案内があった。案内を簡単にまとめると、「遍路道に立つ道標;ここは三札所(注:80番国分寺、81番白峰寺、82番根香寺)のわかれ道。三岐路にある道標には「十九丁打ちもどり」と記される。遍路がはじまった頃には、ここから国分寺(注;今まで辿ってきた道)はなかったようで、江戸時代の後半になって80番札所の国分寺から81番札所の白峰寺への上りが厳しかったために、81番の白峰寺から82番の根香寺に進み、再びこの道を戻り国分寺に下るコースがつくれた、とのこと。「打ちもどし」とは根香寺から国分寺へと82番から80番へと札所を逆に戻りましょう、ということ。
ところで、案内にもあった「打ちもどし」と刻まれた道標であるが、お地蔵様の周囲に立つ4つの道標の中でも、ひときわ大きい石の道標に刻まれる、と言う。その石碑は国分寺で出会った中務茂兵衛さんが建てたもの、とのことだが、どうも記憶に残っていない。見逃したのか、はたまた、なんらかの事情でどこかに移されていたのだろか。はてさて。因みに「十九丁とは根香寺まで十九丁(約2キロ)ということ。

足尾大明神
十九丁の分岐点から少し進むと林を出て、県道180号に出る。ここからはしばらく県道180号を進むと道脇に足尾大明神。鳥居はあるのだが、休憩所といった風情。縁台に座り少々休憩をしながら、その前にある小祠にある足尾大明神にお参り。草鞋が吊るされるなど、アシバサンと称される足の神様の名残が残る。ここは旧吉水寺の鎮守社であったようで、清水庵と呼ばれる接待所もあったとのこと。

崇徳天皇の名が刻まれた石碑
県道281号との合流点を先に進むと道脇に「根香寺本堂775m」の道標。ここから遍路道は再び県道を離れ笹の茂る道に入る。ほどなく道脇に石碑がある。刻まれた文字を見るに「崇徳天皇御道詔地・・・」と前半だけはなんとか読めた。
崇徳天皇?折しも大河ドラマで登場し、演じた俳優の井浦新の魅力もあり印象に残っていた人物である。後白河天皇との戦い(保元の乱)に敗れ讃岐に配流されたことは知っていたのだが、この辺りが崇徳天皇配流ゆかりの地であることは全く知らなかったので少々の驚きと喜び。
後でわかったのだが、82番根香寺の次に辿る81番白峰寺には、崇徳院の御陵があるし、そもそも国分寺には崇徳院ゆかりの地が数多く残っていた。散歩の前の事前準備をほとんどしない、成り行き任せの散歩が基本であるので、こういった意外な楽しみも登場する。
で、根香寺と崇徳天皇はどういった関係があるのだろうか、とチェック。石碑に関する資料は見つからなかったのだが、江戸時代後期の儒者である中山城山がまとめた『全讃史』の「根香寺」の項に崇徳院とのゆかりを示す記述があった。
「保元中、崇徳帝 数々行幸を為し給ひて、風景の勝を愛し給へり。甞て詔して曰く、朕千秋の後は、必ず此の山に葬れよ(根来寺の景観を愛で、幾度も行幸を繰り返し、亡くなった後はこの寺に葬れ、と言った。)」、と。
が、「長寛二年八月二十六日、崩じ給ひ、従者 霊輿を奉じて 此の山に到れり。乃ち 僧徒 相議して曰く、吾が山は 即ち 大悲轉法の所、百王鎮護の場なり。豈に 凶穢の物を入るべきや と。乃ち 南嶺に出して 之を拒む(崇徳院が亡くなった時、遺言故に根香寺に棺を運び入れようとしたのだが、根香寺の僧は、崇徳院を"凶穢"として入山を拒んだ)」、と。
「是を以って、已むを得ずして 神輿を反す。時に、輿中に聲ありて曰く、何故反す、と。因って 其の地を謂つて "何故嶺" と曰ふ。遂に 白峯に奉葬せり。 此の寺の衰廃は もと、其れ之れの由る。厥(そ)の後、数々災ありき。亦、"帝の祟(たたり)" と云う」、と。
しかたなく神輿を戻すに、"何故、返すか" との声があった。「根香寺」のあたりの嶺 を、"何故嶺(なぜかれい)" と呼ぶようになった所以、とか。そして、白峯山に埋葬することになったわけだが、東西一里餘、十七檀林もあった大寺であった根香寺がその後衰退したの、崇徳帝の "祟り" によるもの、と言われる、と記される。この石碑は幾度もの行幸に関係あるものだろう、か。はてさて。

八十二番霊場・根香寺
遍路道を抜け根香寺の仁王門に。仁王様とともに大きな草鞋が吊るされる。仁王堂をくぐり、石段を下り緑の参道を進み石段を上る。踊り場の右手には「役行者の像」。手前に「牛頭天王像」、左手には「水かけ地蔵」。
先の石段を上り右手に大師堂、六角堂、左手に納経所、五大堂。五大堂には、弘法大使の開基ゆかりの五大明王である、不動明王、降三世夜叉明王、軍茶利夜叉明王、大威徳夜叉明王、金剛夜叉明王が佇む。



○白猴欅(はっこうけやき)
五大堂の脇に「白猴欅(はっこうけやき)」。智証大師が当山開基の時、この樹下に山王権現が現れ、また、白い猿が下りてきて、大師を守護し創業を助けたと云う。樹齢約1,600年。樹幹の周囲約7m。昭和50年頃枯れてしまい、平成3年に保存のため、根を切り、屋根をつけて、生えていたとおりの位置に据えた」、とあった。

○智証大師円珍
智証大師円珍は弘法大師空海の甥。社伝によれば、弘仁年間(810~824年)、弘法大師空海は、当地を訪れ、5つの峰々(紅峰、黄峰、黒峰、青峰、白峰)に金剛界曼荼羅の五智如来を感じ、ここの地を密教修行の地とし、その青峰たるこの地に花蔵院を創建し、五大明王を祀った。
その後、天長9年(832年)、智証大師円珍が訪れた際、老翁の姿をした山の鎮守である一(市)之瀬明神に出会い「この地にある毘沙門谷、蓮華谷、後夜谷に道場を作り、蓮華谷の木で観音像を作りなさい」というお告げによりを受ける。その後青峰で老僧の姿をした山王権現に出合い、開山をするにあたり、一(市)之瀬明神と山王権現を鎮守として祀り、蓮華谷の霊木をもって千手観音像を刻み千手院を創建。両大師が創建した2院を総称して、根香寺となった、と。
一(市)之瀬明神はこの地の他で登場することはないが、山王権現って、伝教大師・最澄が比叡山に天台宗を開くとき、修行した中国天台山の山王祠を模した山王祠をつくたわけで、このお寺さまが天台宗であるがゆえの、後付けであろうか。単なる妄想。根拠なし。

閼伽井
次の目的地である81番白峰寺へと、「十九丁の打ちもどり」の分岐点まで戻る。ここからは、国分寺から辿った道ではなく81番白峰寺への道をとる。木々で囲われた「樹木のトンネル」を,落ち葉を踏みしめながら進む。「遍路頑張れ」の遍路札を見やりながら進むと、竹林に囲まれた道となる。南が開けた辺りを越え、ささやかな沢を渡り先に進む。道脇には「へんろみち」と刻まれたもの、「三十八丁目」と刻まれたお地蔵様などが佇む。
道を進むとお地蔵様の脇に「閼伽井」と刻まれた石碑。脇に「閼伽井と丁石 」の案内。簡単にまとめると;「閼伽井」とは神仏に捧げる水のわく井戸で、この付近は白峰寺の寺領で、水は枯れることなく、遠い昔からここを歩くお遍路さんが、冷水で喉をうるおし、手を清めたとされている。
また丁石とは地蔵菩薩と次の札所までの丁数を刻んだもの。丁石は約109m毎に立っており、一人山道を歩くお遍路さんが頼りとした。丁石は江戸時代後期に建てられた。これら丁石は五台山に分布しない「かんかん石」でつくられており、おそらく庵治などの石切り場からこの地まで運ばれたもの。篤き信仰心の賜物である、と。




○第十一師団
「八十一番しろみね寺 八十二番ねごろ寺」と刻まれた石碑を見やり、「三十九丁」と刻まれた丁石の辺りで森、というか林が切れ、開けた場所に出る。フェンスで囲まれた向こうは陸上自衛隊善通寺駐屯地の演習場。防衛庁の石標の脇に「陸軍用地」と刻まれた石標が建つ。陸上自衛隊善通寺駐屯地は、元陸軍11師団司令部のあったところ。初代司令官は乃木希典。日露戦争では乃木将軍率いる第三軍に編入され旅順攻略線、続いて川村景明大将の鴨緑江軍に組み入れられ奉天会戦に参加。その後も、シベリア出兵、上海事変などの戦役に参加。上海事変後は満州に駐屯。太平洋戦争では一部がグアムに派遣され玉砕するも、師団主力は昭和20年(1945)、本土防衛のため四国に戻り終戦を迎えた。







毘沙門窟
道を進むと大きな石灯籠があり、毘沙門窟の案内がある。毘沙門窟は白峰寺の奥の院、とのこと。石畳の参道を進み、急な石段を50mほど下ると岩壁を穿った四畳半ほどの空間に毘沙門天の石像が安置されていた。 

摩尼輪塔と下乗石
毘沙門窟から500mほど先にすすむと石塔と「下乗石」と刻まれた石標、そして雨露を凌ぐだけ、といった少々粗末な囲いの中に石像が建つ。脇にあった「摩尼輪塔と下乗石」の案内によると、「摩尼輪塔(県指定有形文化財)は、苦しい仏道修行の中でも特に最終の位を表す「摩尼輪」(塔の円盤部分)にちなんでこのように呼ばれています。また、この塔は、下に「下乗」と書いてあり長い遍路道もやっと聖地に近づいたことを教えています。下乗とは、ここからは聖地であるからどんな高貴な者でも乗り物からおりて、自分で歩いて参拝しなさいということです。
この摩尼輪塔は、1321年(元応三年二月十八日、鎌倉時代末期)密教の僧、金剛仏子宗明によって建てられた全国でも珍しい塔です。
一方左手にある下乗石の裏には、1836年(天保七年丙申春三月、江戸時代末)高松藩が古い摩尼輪塔を小屋でおおって保存し新しくこの碑を建てたことが刻まれています」とある。
「下乗石」と刻まれた道票が江戸の頃に建てられた「下乗石」で、その右手の笠を乗せた石像が摩尼輪塔。とは言うものの、摩尼輪塔のことを下乗石とも称されるようである。
摩尼輪塔の脇に風雨に晒された案内があり、「香川県指定建造物 石造笠塔婆」とある。案内によると「この笠塔婆は白峯参道高松道が白峯寺境内に達した地点に元応三年二月十八日、願主金剛仏子宗明(塔身在銘)によって建立されたもので、角礫質凝灰岩を用いている。
塔は基壇、基礎、塔身、蓋、宝珠と重ねられているが、塔身の正面下部に「下乗」の二字を彫付けているので、下乗石と呼ばれ、又塔身上部に金剛界大日如来の種子バンを刻んだ円盤(摩尼輪)を填込んでいるので摩尼輪塔とも呼ばれている。
摩尼輪とは仏道修行によって悟りを得た究極の位のことで、この塔はこれより白峯の聖地に入る究極地の意から建立されたもので、したがってここより内部は一切の乗物を禁ずるために「下乗」の二字が刻まれたのであろう。この形は全国にも珍しいものである。
もと南、西からの白峯参道にも同様のものが建設されていたが破損亡失していたので、高松藩は各々の地点に再建あるいは添碑を建て、その保存を図った。左側の下乗石はその中の一つで、天保七年三月建立された添碑で、碑の裏側にこの笠塔婆の由来を刻んでいる」、とある。先ほど見た「摩尼輪塔と下乗石」と同じことを書いてはあるのだが、「石造笠塔婆」などと書いてあったので、よく読めばわかるとは言うものの、少々紛らわしかった。

八十一番霊場・白峰寺

○七棟門
「摩尼輪塔と下乗石」から300mで白峰寺に。境内への入口には山門。高麗形式の左右に2棟の塀を連ねたもので、棟数合わせて7棟あるが故に「七棟門」とも。享保3年(1803)に再建。左右から中央へと盛り上がる棟の組み合わせが印象的である。

○玉章(たまずさ)の木
境内に入ると右手に客殿。延宝年間(1673~1680)に高松藩主が寄進した建物で,入母屋造,本瓦葺の建物。正面には護摩堂。護摩堂にお参りし、左に折れる参道を進むと右手に本堂に向かう石段、正面には勅額門が見える。本堂に上る前に勅額門に向かうと門の手前に「玉章の木」の案内。
案内によれば、都を追われた崇徳上皇はほととぎすの鳴き声にも都をしのばれ、「鳴けば聞く聞けば都の恋しきにこの里過ぎよ山ほととぎす」と詠じる。ほととぎすは、その意を察して、この大木の葉を巻いて嘴を差し入れ、声をしのんで鳴いた、と。その巻いた葉の形が玉章(手紙)に似ているため、ほととぎすの落とし文、玉章と呼ばれ、その葉を懐中にすれば、かならず良い便りがあるとのことで、若い男女には特に珍重された。名木玉章木は枯れ、五色台自然科学館に保管されており、現在の木は新たに植えられたもの、とのことである。 

 ○勅額門
玉章(たまずさ)の木の先に勅額門。勅額門と称される所以は、応永21年(1414)に後小松天皇が奉納した勅額(国宝)が掲げられているため。勅額は「頓証寺」と読めた。"頓証(とんしょう)"とは、通常の修行を経ずにただちに悟りを得るという意味。崇徳天皇の法名かとも思ったのだが、どうもそうではないようだ。
チェックすると、非業の死を遂げた崇徳院の没後、天変地異が起こるその因は崇徳院の怨霊故と怖れ、院の霊を鎮める願いを込めて朝廷より名付けられた寺の名前のようである。建久2年(1191)、保元の乱の政敵である後白河院の命により、崇徳院の行在所(現在の鼓岡神社の辺り)をこの地に移し仏堂を建てた。崇徳院を讃岐に配流した後白河院故に、供養をおこない、速やかに迷いを断ち、悟りを開き怨念を鎮める願いを込めて頓証寺と名付けたのではあろう。 門をくぐり境内に。通常門の左右には仁王像が定番ではあろうが、この門の左右には随神としての源為義・為朝の立像がある、とか(通常非公開。正月3が日など限定された日時に公開されている、とのこと)。保元の乱で崇徳天皇に与した武将が随神として控えるのではあろう。

頓証寺
頓証寺は白峯寺の所属仏堂であり、崇徳天皇の霊を祀る御廟所。頓証寺は多くの公家や武士から尊崇を受けた、とか。「十三重石塔」や頓証寺境内にある石燈籠、白峯陵の石塔は源頼朝が奉納した、とも伝わる。また、頓証寺が時に「頓証寺殿」と称されるのは、室町時代には後小松天皇から頓證寺の勅額を賜ったことによる。
頓証寺の拝殿は檜皮葺き・前面蔀戸、紫宸殿に擬して庭前に左近の桜、右近の橘が植えられ、中央に上皇尊霊、左に天狗の白峰大権現、右に御念持仏十一面観世音菩薩が祀られている。白峰大権現とはもとは、相模の国大山の修験の大行者。後に讃岐の白峯に入山し大先達となる。聖地白峯山の守護神(鎮守)として崇め祀られ、また崇徳天皇の守護神(謡曲 松山天狗、雨月物語、等に登場)としても知られる。
現在の建物は、頓証寺、勅額門とも江戸時代初期の延宝年間(1673~1681年)に高松藩初代藩主・松平頼重が再建したものといわれており、その後も歴代高松藩主により手厚く庇護された。

「崇徳天皇御陵遥拝所 西行法師廟参の遺蹟」
寺の左手に「崇徳天皇御陵遥拝所 西行法師廟参の遺蹟」の案内。脇に回り込むと少々小ぶりな石像と「西行」の案内;仁安元年神無月の比、西行法師四国修行の砌当山に詣で、負を橋の樹にかけ法施奉りけるに御廟震動して御製あり 「松山や浪に流れてこし船の やがて空しくなりにけるかな」
西行涙を流して御返歌に
「よしや君昔の玉の床とても かからん後は何にかはせん」
御納受もやありけむ度鳴動したりけるとなん、と。
何故、このような難しげな文章の案内文を掲げるのか? 訝りながらも、意訳するに「仁安元年神無月の比(頃)、というから、1166年10月、西行法師が四国修行の途中でこの地に詣で、負(修験者(しゆげんじや)・行脚(あんぎや)僧が仏具・衣類などを入れて背に負う、脚・開き戸のついた箱)を橋の木に掛けて供養するに、廟堂が振動し、『讃岐の松山の津(注;白峰寺の近くにある)に流されてきた船(注;崇徳院自身のこと)も 今は跡形もなくかってしまった』と崇徳院が詠いかける。それに対して西行は涙を流し、『仮にわが君が素晴らしい御殿にお住になっていたとしても、お亡くなりになってしまった後は、それが何になりましょうか』、といったことだろうか。

京において崇徳院と親交を深めていた西行は、仁安元年というから、崇徳院がなくなった長寛2年(1164)の2年後、この地を訪れた。後白河院によって頓証寺が建立される23年前のことであり、当時崇徳院の御陵は荒れ果てていた、と言う。で、西行が何故に崇徳院と親密であったか、ということだが、西行は元は北面の武士として院御所に詰めて警護にあたっていたこと、和歌・管弦を通しての交流があったこと、などが挙げられる。その他、真偽のほどは定かではないが、西行こと佐藤義清が北面の武士の時に崇徳院の生母である待賢門院璋子と恋愛関係にあったたことも一因との説もある。
因みに案内にあった西行と崇徳院のかけあいは上田秋成の『雨月物語』の第一編「白峰」に描かれているもの。二つの歌は『山家集』からとられたもので、ともに西行の歌とされる。『雨月物語』では「よしや君昔の玉の床とても かからん後は何にかはせん」の後に「刹利(せつり)も須陀(しゅだ)もかはらぬものをと」と続く。「天子さまも死後の世界では皆一緒。すべてを忘れ成仏してください」と。

小ぶりな西行の石像の少し先に西行歌碑があり、「よしや君昔の玉の床とても かからん後は何にかはせん」と刻まれる。先に進むと崇徳院の白峰御陵遥拝所。木々に遮られ白峰御陵はよく見えないが、一礼し、頓証寺を離れ本堂へと向かう。

○薬師堂
勅額門を出て左に石段を上る。石段いくつかに分かれている。最初の石段を上ると、左に薬師堂(金堂)。天和元年(1681)に高松二代藩主松平頼常が再建したもの。正面須弥壇には、弘法大師作と伝える薬師如来座像。脇に日光月光菩薩、十二神将が控え、金剛界大日如来、胎蔵界大日如来(雲慶作と伝う)が合祠されている。右手には鐘楼堂がある。

○行者堂
2番目の石段を上ると左手に行者堂。安永8年(1779)の高松6代藩主松平頼真が再建したお堂。本尊は、役の小角の自作木像。雲慶作と伝えられる閻魔王など十王をはじめ、伽羅陀山地蔵尊(堪慶作と伝えられる)が合祀されている。右手には廻向堂。

○本堂
3番目の石段を上ると正面に本堂(観音堂)、左手に阿弥陀堂、右手に大師堂が建つ。白峯寺は平安時代初期の弘仁6年(815)、弘法大師が白峯山中に宝珠を埋めて閼伽井を掘り、衆生済度を祈願に堂宇を建立したのがはじまり。その後、貞観2年(860)年、弘法大師の甥の智証大師円珍が山頂できらめく光を見つけて登頂。山の神である白峯大権現の神託を受け、瀬戸内海で霊光・異香を放つ流木を引きあげて千手観世音を刻まれ安置したのが現在の本尊と伝わる。本堂は再三火災にあい、現存の建物は慶長四年(一五九九)高松城主生駒近規の再建されたものである。

○阿弥陀堂
本堂の左手にある宝形造りの阿弥陀堂は永正7年(1510)に創建され、延宝8年(1680)に高松藩主の修理した白峯寺堂塔中最古のお堂。堂内中央に阿弥陀三尊が安置される。後方に木造阿弥陀小立像千体が五段に並べ安置されているために、千体堂とも呼ばれている。
この本尊阿弥陀仏の体の中には,高松藩主松平頼重の遺髪が収められているとも云われており,万治年間高松藩は,この阿弥陀堂の供養料として十石を寄進している。本堂の北方には「勧請」がある。石を積み重ねた壇状とし、経を埋めた経塚であろうといわれる
○大師堂
本堂の右手には大師堂。弘法大師尊像を祀る。文化8年(1811)8代高松藩主松平頼儀が再建したもの。

白峯御陵
境内を離れ、頓証寺の崇徳天皇御陵遥拝所方向へ成り行きで進む。境内を出て右方向へと少し進むと右手に下りの石段があり、その先の上りの石段の先に、いかにも御陵といった風情の一隅がある。そこが第75代崇徳天皇の御陵である。敷地は1688坪ほど。石の玉垣を巡らす。

保元の乱に敗れ讃岐に配流となった崇徳院(崇徳院は死後に送られた諡号、安元三年(1177)のことである。配流前は「新院」。配流後は「讃岐院」と称されていた)は、白峯山麓林田郷での仮御所である雲井御所(綾高遠の館。讃岐国府庁の主席官人・野太夫綾高遠の隣)にて3ヶ年過ごし、その後府中の皷ヶ丘・木丸殿(現在の鼓岡神社のあたり)に移り6ヶ年、都合9年間配所の月日を過ごし、長寛2年(1164)崩御。都からの検視を経て白峯に送られ荼毘に付されその場に葬られ,その地を御陵とした。陵は,積み石の方墳であったと云われている。
御陵の玉垣の外に2基の五輪塔があるが、これは源頼朝により保元の乱において崇徳院に与し敗れた源為義、為朝のために奉納されたもの。そこ頃までは、御陵も整備されていたのではあろうが、時代が経るにつれ、また、都から遠く離れた地の御陵であったこともその要因となり,江戸時代には荒廃していた、とのことである。今日見るように整備されたのは初代高松藩主頼重,五代頼恭,十一代頼聡らにより,修復が重ねられたため。

○崇徳院
WIKIPEDIAをもとに崇徳院のことを讃岐配流の因ともなった、後白川天皇との関係を軸に少し整理しておく:崇徳天皇は鳥羽天皇の第一皇子。とは言うものの、実の父は、鳥羽天皇の父である白河法皇とも言われる。母は待賢門院璋子。後白河天皇は同母弟、近衛天皇は異母弟。子に重仁親王・覚恵がいる。
保安4年(1123)、鳥羽天皇より譲位され、5歳で即位。75代天皇となる。大治5年(1130)、藤原忠通の娘聖子を中宮とした。
保延5年(1139)、鳥羽院の室美福門院得子に躰仁(なりひと)親王が生まれると、鳥羽院は同親王を皇太子に立て、永治元年(1141)、即位させた(近衛天皇)。以後、鳥羽院を本院、崇徳院を新院と称した。
近衛天皇は久寿2年(1155)7月に崩じ、崇徳院は子の重仁親王の即位を望んだが、結局鳥羽第四皇子である雅仁親王が即位(後白河天皇)する。皇太子には後白河の皇子が立てられた。鳥羽天皇としては、白川法皇の寵愛を受けた待賢門院璋子の子であり、白川法皇の子であろうとされる崇徳上皇(新院)の血統を排除したかったのではあろう。
翌年の保元元年(1156)7月2日、鳥羽院が崩御すると、崇徳上皇・後白河天皇は互いに兵を集め、ついに内乱に至る(保元の乱)。11日未明、後白河方の奇襲に始まった武力衝突は、その日のうちに上皇方の完敗に決着した。
崇徳院は讃岐に流され、最初の3年は仮御所である雲井御所、その後の6年は府中の皷ヶ丘・木丸殿と、都合9年間配所の月日を過ごし、長寛2年(1164)崩御は上でメモしたとおり。
雲井御所での3年間は讃岐国府庁の主席官人・野太夫綾高の配慮もあり、その娘を妻にするなど比較的穏やかな日々を送ったようだが、皷ヶ丘木丸殿に移ってからは孤独感を深め、後白河上皇への恨みを募らせた、とか。きっかけは、父の鳥羽上皇を弔うため写経全190巻を都に送るも、写経には呪いが込められているという理由で受け取り拒否されたこと。
その仕打ちに激怒した上皇は、「われ魔王となり天下に騒乱を起こさん」と、舌の先を食い切り、その血で誓状を書きつけたお経を海に沈める。以来、爪も髪も切らず、髭も剃らず、衣もほころびに任せたまま、日々凄まじい形相となって、後白河上皇らに深い怨みを抱きながら亡くなった。大河ドラマの井浦新さんの演技の、まま、である。もっとも、この話も『雨月物語』などに描かれたものであり、実際は穏やかな日々を送った、とも。

十三重石塔
白峯御陵を離れ、参道を少し戻り、駐車場脇にある「十三重塔」に。東西に2基が建つ。高さはともに5m強。源頼朝が崇徳上皇の供養のために建てたと伝えられており、頼朝塔とも伝わるが、実際は鎌倉後期に作られたものの、よう。 東塔は板石を組み合わせた基壇で,基壇から七重までの内部を空洞とし,塔身の種子も不動三尊を刻んだ珍しいもので、 四国の石塔中第一のものと言われる。 






西行の道
十三重石塔を離れ、白峯御陵の前を下る参道に戻る。参道の下を見るに、いかにも長い石段が続く。下るにつれて、白峰の台地とその連なりである五色台の台地に挟まれた青海の町が眼下に見えてくる。
石段参道の脇には比較的新しい歌碑が建てられており、その数八十八基。参道入口まで続く。西行の歌集である『山家集』からとられたものが多いようである。
上で、崇徳院とのエピソードでメモした西行の「松山の 波の景色は 変わらじを かたなく君は なりましにけり」の歌碑などを見やりながら石段を下る。参道入口あたりは、「ほととぎす 夜半に鳴くこそ哀れなれ 闇に惑ふは なれ独りかは」、「憂きことの まどろむ程に忘られて 覚めれば夢の ここちこそすれ」、「おもひきや 身を浮雲となりはてて 嵐のかぜに まかすべしとは」と続き、最後、と言うか参道の最初は「思ひやれ 都はるかに沖つ波 立ちへだてたる心細さを」と崇徳院の歌となっていた。意味はそれほど難しくないので省略するが、讃岐配流された直後から、少し当地での生活に慣れた時期の崇徳院の心情が垣間見える。




崇徳院は幼時から和歌を好み、歌会・歌合を頻繁に催したとのこと。在位中、百首歌を召す(崇徳天皇初度百首)。譲位後、二度目の百首歌を召し(『久安百首』)、久安六年(1150)までに完成仁平元年(1151)頃、第六勅撰和歌集『詞花和歌集』を撰進させた。詞花集初出。勅撰入集計八十一首。藤原清輔撰の私撰集『続詞花集』では最多入集歌人(十九首)。百人一首に歌を採られている。有名な崇徳院の御歌「瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞおもふ」も、境内のどこかにあった石碑で見かけた。

稚児ケ嶽
西行の道の石段を振り返り白峰寺方向を見やると、急な崖面となった岩山がある。岩の間からは滝も流れ落ちている。五色台の西端、白峰山にある稚児ケ嶽の断崖絶壁から流れ落ちる「稚児の滝」である。この滝はは雨が降った後だけ目にすることができる、とか。当日は運よく滝の流れが見えた。稚児ケ嶽は讃岐院(崇徳上皇)が荼毘に付されたところ、と言うから、白峰御陵も、稚児ケ嶽の山稜の一部にあるのだろう。
稚児ケ嶽の地名は、日本武尊とその兵士を救った稚児に由来する。その昔、悪魚に苦しめられるこの地の人々を救うべく、日本武尊とその兵士が派遣される。見事に悪魚は退治したものの、毒気にあたり気を失う。その時、白峰山の方から雲に乗って神童が現れ、水を兵士たちに与えると皆、蘇(よみがえ)った、と。で、その神童が飛び帰っていった山を稚児ヶ嶽と名付けた、とか。
因みに、兵士達を蘇生させた霊水は八十場の水、と伝わる。予讃線八十場駅近く、79番札所の近くにある「八十場の清水」がそれであり、また、その清水は崇徳上皇が亡くなったとき、都からの使者の検死が終わるまで浸しておいたところ。検死を終えた後、稚児ケ嶽に運ばれた。







青海神社
「西行法師の道、崇徳天皇白峯の陵」、と刻まれた大きな石碑越しに白峰を拝み、参道入口近くにある青海神社に向かう。境内に案内には「保元の乱崇徳天皇當国に遷幸あらせられ 長寛二年(西紀一一六四)8月26日府中村鼓ヶ岡に崩御遊ばさる 同年9月18日戌の刻玉躰を白峰山に荼毘し奉りし時、當地(現社地)紫煙棚引 其の中に尊遍白く顕れ暫時にして消え失せたる跡に一霊玉残れり 依って春日神社祠官 冨家安明 宮殿を造宮し天皇の霊を奉齋すと云ふ  夫れより崇徳天応煙の宮とも又文字とも奉称す。爾来里人氏神として崇敬せり 則霊玉は天皇ご所持の品にして今も殿内に奉蔵せり」、と。
崇徳上皇の遺体を白峰山の稚児ヶ嶽で荼毘に付したときの煙が,東の方にたなびいてここに溜まった。これを見た春日神社の神官が社殿を造営し,上皇の霊をお祀りしたため,青海神社は「煙の宮」とも呼ばれる。また、煙はここで輪になり,その中に天皇尊号の文字が現われ,煙の消えた後には上皇が大切にされていた玉が残った、と。「又文字」の所以だろう、か。

神谷神社
青海神社の駐車場に止めていた車に乗り、ここで散歩は終了。後は時間の許す限り地元在住の弟のガイドで崇徳院ゆかりの地や名所・旧跡を廻る。最初は神谷神社。国宝の本殿があるとのことで、如何なるものか訪れることに。
県道161号・さぬき浜街道を西に向かい、高屋町辺りで県道16号、160号に乗り換え南に折れ神谷町へと進む。少し進み県道が神谷川に交差する手前で左に折れ、川に沿って集落の中の道を進む。しばらく進むと鳥居があるが駐車場が見当たらないので少し先に進むと本殿近くに駐車場があり、そこに駐車。
車を降りて境内に。案内によれば、「御由緒 神谷の渓谷にあった深い渕から自然に湧き出るような一人の僧が現われ渕の傍にあった大岩の上に祭壇を設け天津神を祀り国家安泰五穀豊穣を祈ったのが神谷神社の創始と謂われている。其の後嵯峨天皇弘仁三壬辰年阿刀大足が大に社殿を造営再興し春日四柱の神を相殿に勧請し、益々霊験著く阿野郡北一円の守護神として人々の崇敬が深く、 又境内を流れる川の奥に深夜神々が奏する神楽の鈴の音がすると言うのでこの里を神谷と呼ばれたとも謂う」とある。
社殿前の鳥居をくぐり石段を登ると、朱色が鮮やかな「神門」。その奥には、桧皮葺きの屋根の本殿がある。鎌倉初期に建築された三間社流造のわが国最古の神社建築で国宝に指定されている。随身として安置されていた阿吽一対の木像随身立像も鎌倉風の作りの重要文化財に指定されている、と。
  その有難い国宝の本田は神門からはいまひとつ全容を見ることができない。神門の横に回り、裏に回りなどしてなんとか本殿の一部を拝観。本殿の後方100メートル位の山中に、大きな岩があり、「影向石」と称されるが、この大岩が由緒書にある徳ある僧が天津神を祀った大岩であろう、か。

松山の津
次の目的地は、と聞くと「松山の津」とのこと。場所は県道161号・さぬき浜街道沿いにある。神谷神社を離れ県道161号の合流点へと県道16号を北に向かう。途中、合流点手前の高屋町にも「高屋神社」と言う崇徳院ゆかりの社があったが、見逃した。
高屋神社は「血の宮」とも称され、崇徳院の遺骸を八十場の清水から白峯に移す際、道の途中にある高屋神社境内の石に置いたところ、おびただしい血が滴ったのがその名の由来とされる。

県道161号に合流し、さぬき浜街道を西に少し進むと、道は山稜の間をすり抜ける。道の左右の山は雄山(標高139m)と雌山(164m)。「松山の津」の案内は、その雄山を抜ける手前の道路脇にあった。案内には、崇徳院の讃岐配流までの経緯と、松山の津の説明がある。
「敗れた崇徳上皇は讃岐に配流となり、ここ松山の津に着いたとされる。津とは港のことであり、当時の坂出地域の玄関口となる場所であった。その頃は今よりも海が内陸部まで迫っており、この雄山のふもとも海であったと考えられる」、と。津=港ではあるが,松山は古くから条理制地割りの設けられているところで,海岸から府中の国府に至る重要な場所でもあったのだろう。
案内に「浜ちどり 跡はみやこへ かよへども 身は松山に 音(ね)をのみぞなく 保元物語」ともある。讃岐に到着した崇徳上皇が都を恋しく思って詠んだ歌とされるが、江戸時代に書かれた上田秋成の「雨月物語」では、讃岐配流の後、写経に勤しんだ上皇が、せめてお経の筆跡だけでも京の都に置いて欲しいと朝廷に送った歌ともされる。上で鳥羽上皇の弔いのために送った写経が都で受け取りを拒まれ、崇徳院が激怒し怨霊したとメモしたが、その写経と関係があるのだろう、か。単なる妄想。根拠なし。

雲井の御所
次の目的地は雲井の御所。松山の津から「さぬき浜街道」を更に西に進み、綾川の手前で左折し、綾川沿いの堤防を進む。県道16号と綾川が交差する手前に「雲井の御所」。堤防から少し離れた中川観音堂の隣に「雲井の御所」があった。 案内を簡単にまとめると;讃井配流されたとき、いまだ御所ができていなかったので、国府に勤める当地の庁官であった綾高遠(あやのたかとお)の邸宅を仮の御所としたと伝えられる。
上皇はこの御所で3年を過ごしながらも、都を恋しく思い詠んだ歌か「ここもまた あらぬ雲井となりにけり 空行く月の影にまかせて」。月の光が雲次第で思うに任せられないように、ここも思いもよらない住処(御所)になってしまったなぁ...、と言った意味。雲井の御所の名はこの歌に由来する、と。また里の名も雲井の里とも称されるが、上皇が愛でた「うずら」をこの里に離されたが故に「うずらの里」とも。
崇徳上皇は府中鼓ケ丘木ノ丸殿の完成をもって遷御され、時代が経るにつれこの雲井の御所の場所もはっきりしなくなったが、天保6年(1835年)に,高松藩主松平頼恕(まつだいらよりひろ)公によって,この雲井御所の跡地が推定され,現在の林田の地に雲井御所之碑が建立された。

鼓岡神社
「雲井の御所」を離れ、綾川に沿って上流に進み国道11号に。綾川を渡り、県道33号を予讃線に沿って讃岐府中方面へと進む。鼓岡神社は予讃線・讃岐府中駅の少し手前にある城山(標高162m)の山裾に鎮座していた。神社入口の石碑に「鼓岡神社 崇徳上皇行在所」とある。道脇に車を停め石段を上ると、運動場のような広い境内、その奥に鳥居。鳥居から先に続く石段を上り拝殿に。
案内には、「鼓岡神社由緒 当社地は、保元平治の昔、崇徳上皇の行宮木の丸殿の在ったところで、長寛二年(1164年)八月二十六日崩御されるまでの六年余り仙居あそばされた聖蹟である。建久二年(1191年)後白河上皇近侍阿闍梨章実、木の丸殿を白峰御陵に移し跡地に之に代えるべき祠を建立し上皇の御神霊を奉斎し奉ったのが鼓岡神社の創草と云はれている。伝うるに上皇御座遊のみぎり、時鳥の声を御聞きになり深く都を偲ばせ給い。
鳴けば聞き、聞けば都の恋しきに この里過ぎよ、山ほととぎすと御製された。 時鳥 上皇の意を察してか、爾来この里では不鳴になったと云はれている。 境内には、木の丸殿、凝古堂、観音堂、杜鵑塚(ほととぎす塚)鼓岡行宮旧址碑、鼓岡文庫などがあり、付近には、内裏泉、菊塚、ワン塚などの遺跡がある」とあった。
境内には「瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞおもふ」と刻まれた石碑、案内にもあった「鳴けば聞き、聞けば都の恋しきに この里過ぎよ、山ほととぎす」由来の杜鵑塚(ほととぎす塚)などがあった。 また、境内には大正2年(1913)、崇徳上皇没後750年祭を記念し、木丸殿を再現すべく建てられた「擬古堂」もあったようだが見逃した。「擬古」とは昔の様式をまねる、との意味であり、崇徳上皇住んでいた当時の粗末な「御所」を再現している、と。建物も柱は丸太、棰は皮付きの木材を用いるなど当時の姿を模している。御所の名が「木の丸殿」と称される所以であろう、か。
都に送った大部の写経をおこなったのもこの場所とのこと。大河ドラマでは、都に送ったものの、無残にもつき返され、怒りのあまり「われ魔王となり天下に騒乱を起こさん」と、日々凄まじい形相となって、後白河上皇らに深い怨みを抱きながら憤死する、ということであるが、それは上でメモしたように、『保元物語』や『雨月物語』の筋書きのようであり、実際は、この地で穏やかな日々を送ったとの説もある。「鳴けば聞き、聞けば都の恋しきに この里過ぎよ、山ほととぎす」も、上皇の嘆きを察し、地元の人々がホトトギスの鳴き声が聞こえないように、追っ払っていた、とも伝わる。
擬古堂から歩いて5分程の所に、崇徳上皇が使用していた食器を埋めたとされる塚(盌冢;わんづか))が残っている。また、擬古堂の北側、斜面の下に内裏泉(だいりせん)と称される水場がある。崇徳上皇はここの水を生活に使用していた、と。 地元の人は「この水を飲むと、目が悪くなる」という噂を流し、高貴な人が飲んでいた水を大切に守っていたとのこと。共に見逃した。

国府印鑰明神遺跡
次の目的地は柳田。崇徳上皇暗殺説の現場とされるところである。鼓岡神社の脇に史跡地図があり、鼓岡神社のすぐ近く、予讃線の脇にある。成り行きで進むと、水田の真ん中に石碑が見える。柳田の碑かと思い、畦道を進むに、石碑には「国府印?明神遺跡」とある。どうも「柳田」の碑ではないようだ。
後からチェックすると「国府印鑰明神遺跡」であった。印鑰(いんやく)とは国庁の印鑑や鍵の保管庫こと。印鑑や鍵の重要性に鑑み、明神として祀り、関係役人のモチベーション高揚に役した。石碑の別面には、"府中邨奨學義田" と刻まれる、と。大正4、5年の頃、"奨学義会"という組織が、この周辺の民有地を買い上げ、遺跡として、当時の府中村に寄付した、ということである、

この国府印鑰明神遺跡に限らず、この辺りの本町には帳次(ちょうつぎ:諸帳簿を扱った役所)、状次(じょうつぎ:書状を扱った所)、正倉(しょうそう:国庁の倉)、印鑰(いんやく:国庁の印鑑、鍵の保管所)、聖堂(せいどう:学問所)といった地名が残っているようであり、この辺り・本町に国府(国庁)があったものとされている。予想外の国府関連の史跡の登場であった。

柳田
再び「柳田」の碑を探す。結局、県道33号のJA香川の国道を隔てた対面にある自動車整備工場(?)の裏手の予讃線の線路脇に「柳田」の碑があった。誠にささやかなこの石碑は、崇徳上皇暗殺説にまつわる地。讃州府誌にも長寛ニ年八月二条帝陰に讃の士人に命じ弑せしめたり(二条帝は讃岐の武士・三木近安(保)というものに命じて、崇徳上皇暗殺を計画した)と記されている。
その説によると、刺客の知らせを聞いた上皇は木の丸殿から綾川方面へと逃れる。川沿いには柳が立ち並んでおり、上皇は柳の根元の穴に隠れるも、衣が川面に映り刺客に誅せられた。以来、この地では柳が育たなくなったとか、刺客が白馬の馬に跨り紫の手綱であったことから、「紫」は禁色とされた、とか。 そういえば、白峯寺の幕には五色あったにもかかわらず、頓証寺の幕には紫と白が除かれ、三色の幕となっていた。この暗殺話と関係があるのだろうか。単なる妄想。根拠なし。因みに現在の綾川は当時の流路と変わっているので、柳田の碑と川筋が離れている。

讃岐あるき遍路もこれで終了。散歩のはじめには思ってもみなかった崇徳院が登場するなど、結構内容豊かな散歩が楽しめた。弟の名ガイドに深謝。

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