旧中山道散歩 碓井峠越えⅡ;沓掛宿から追分宿をへて信濃鉄道・御代田駅に

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中山道・碓氷峠越えを終え、ご老公諸国漫遊お供旅の2日目は中山道19番目の沓掛宿から20番・追分宿をへて、しなの鉄道・御代田まで。
渓齋英泉の手になる、『木曾街道 沓掛の駅 平塚原雨中之景』では浅間下ろしの風と雨に難渋する旅人と牛馬、『木曾街道 追分宿 浅間山眺望』には大きく迫る浅間山と広大な裾野そして馬と、共に浅間と牛馬が描かれる。浅間根腰三宿と称された、軽井沢宿・沓掛宿・追分宿は、天明3年(1783)、その浅間山の噴火で壊滅的な被害を受けている。被害は甚大で賑わいは長らく停滞した。また、沓掛宿と追分宿の間にある古宿や借宿の集落は農民の駄賃変稼ぎの牛馬(中馬)の宿として賑わったようである。
現在は緑豊かな別荘地である根腰三宿は、往昔一面の原野であったと言う。明治に入り、開墾が奨励され製材とともに治水を兼ねた植林事業が進み、樹林豊かな現在の景観をつくりあげた。また、明治から大正にかけて、軽井沢地区からはじまった別荘地開発は沓掛宿の北一帯にも及び、幕末から明治維新にかけて寂れた宿は次第に現在の賑わいを取り戻すことになる。本日の散歩は右手にその雄大な浅間の山を眺めながら、その裾野に広がる別荘開発の歴史を想いながらの、のんびり・ゆったりの散歩とする。

参考資料;『街道の日本史17 中山道;山田忠雄編(吉川弘文館)』『中山道を歩く;児玉幸多(中央公論社)』『信濃路をゆく;児玉幸多(学習研究社)』『軽井沢物語;宮原安春(講談社)』『広重・英泉の木曾街道六十三次旅景色(人文社)』





本日のルート;宮之前一里塚>長倉神社>沓掛宿>脇本陣満寿屋>沓掛本陣跡>くさつ道道標>道祖神>二十三夜供養塔>道端の社>借宿集落>馬頭観音>女街道・馬頭観音>遠近神社>馬頭観音>草津街道分岐道標>追分>追分一里塚>信濃追分郷土館>浅間神社>御影用水>芭蕉句碑>堀辰雄文学記念館>旧脇本陣油屋旅館>本陣跡>高札場>つたや>諏訪神社>泉洞寺>枡形の茶屋>分去れ・善光寺道(北国街道)>中山道69次記念館>千が滝湯川用水温水路>大山神社>御代田の一里塚>しなの鉄道・御代田駅

湯川
湯川の東、国道18号・碓氷バイパスから少し北に入ったところにある宿を離れ、本日の最初の目的地である長倉神社へと向かう。バイパスを西に向かい湯川を渡る。湯川は上州境の小瀬御林を源流とし千曲川に注ぐ。水質の温気があり、冬も凍らないため湯川と呼ばれる。
湯川は治水計画に支障のない範囲で、自然に近い河道整備を行う事業として、昭和63年(1989)に「ふるさとの川モデル事業」として認可された。現況河床を変化させず、現状の木々を生かしたまま河川の流可能力のとれる断面とするなど、自然環境への影響が極力抑えられている。また、護岸施工部についても、発生土による覆土を行うことにより、植物の現況復帰も早めるようにしている、とのこと。ぱっと見た目には護岸工事のない、自然河川のように見える。

しなの鉄道・中軽井沢駅
鳥居東交差点を右に折れ、上越新幹線のガードをくぐり、しなの鉄道・中軽井沢駅手前を右に折れる。中軽井沢駅は明治43年(1910)、信越線・沓掛駅として開業。昭和31年(1956)、中軽井沢に改称した。幕末から明治にかけ衰退した浅間根腰三宿のうち、軽井沢の開発が進むのを目の辺りにし、町の発展のため沓掛・追分宿の住民は鉄道駅の設置を陳情。明治42年(1909)には夏の3ヶ月だけ臨時停車場ができ、その翌年に沓掛駅ができ、学生相手の旅館や少数の別荘が建てられはじめた。しかし、当時は一面の原野であった、とのことである。
中軽井沢駅は、現在(2012年6月)、大改装中であった。駅は(株)星野リゾートが窓口業務を行っている、とのこと。その星野リゾートは軽井沢の開発がはじまった明治の頃、中軽井沢の北の原野にて林業からはじめ、大正には温泉の掘削をおこない、中軽井沢の北、湯川沿いに星野温泉を開いている。沓掛宿から草津温泉に向かった湯治客は復路に弱アルカリの星野温泉で肌を癒した、とか。宿には北原白州、島崎藤村など多くの文人が逗留し作品を表した。
明治43年(1910)の大洪水の時には軽井沢の矢ヶ崎川とともに、この地の湯川も氾濫した。と言う。それを防ぐには原野であった山野に樹木を育てる必要があると、製材用植林もさることながら治水の目的での植林に励んだ、とのこと。落葉松からはじめるも、根の張り方が弱く台風に弱い、ということもあり、次第にニレ、ナラ、ドングリ、カシといった広葉樹林へとシフトしていった、とのことである。植林は別荘地の雰囲気開発のため、などと思い込んでいたのだが、実際は治水事業の意味合いも大きかった、ということでもあろう。
ちなみに、北原白秋の詩として有名な落葉松「カラマツはさびしかりけり たびゆくはさびしかりけり」のくだりは、心象風景の描写ではあろうが、まだ植林をはじめたばかりであり、実際に未ださびしげな(たよりなさそうな)松の描写もあった、とか(『軽井沢物語;宮原安春(講談社)』)

宮之前一里塚
駅の南の道を東に進み、湯川の手前に「宮之前一里塚」と刻まれた石碑。うっかりすれば見落としそうなささやかな石碑である。塚の名残はなにも、ない。中山道が、しなの鉄道の北側に移った時期ははっきりしない。安政2年(1773)の浅間の大噴火により沓掛宿が壊滅状態になった後、道が付け替えられた、とも。19世紀初頭の文化年代、幕府によってに造られた『中山道分間延絵図』では、宮之前の一里塚は既に中山道の南に描かれている。宮之前の由来は、今から訪れる長倉神社から、であろう。

長倉神社
湯川に架かる長倉橋の右に長倉神社。国道18号を越え、橋の手前に石祠が残る。鳥居をくぐり湯川に架かる赤く塗られた鉄製の神橋を渡り境内に。延喜式に記録が残る長倉神社のイメージを抱き訪れたのではあるが、古社の雰囲気はあまり、ない。
由来によれば、江戸の頃は八幡宮と称されたようである。中世にはこの辺りは長倉保、長倉郷と呼ばれており、また往昔の延喜式には勅使牧である長倉牧や、東山道の長倉駅とともに延喜式神明帳に神社の記載があり、その言い伝え故に、この社が長倉神社と称するようになった、とも。
長倉の牧は平安朝の初期に設定された佐久三牧(他に望月、塩野)の一つで、中軽井沢を中心に軽井沢高原一帯を占める広大な官牧であった。牧からは、朝廷へ馬を納めたり、駅馬などの交通産業上、大きな役割を果たした、とのことである。

沓掛時次郎の石碑
境内の八坂神社や西宮神社にお参りし、境内裏手の長倉公園にある沓掛時次郎の石碑に向かう。木枯紋次郎や、テレビドラマ「てなもんや三度笠」のあんかけの時次郎とごちゃ混ぜではあったが、沓掛時次郎は長谷川伸の描く股旅物の主人公。
「千両万両枉(ま)げない意地も 人情搦めば弱くなる 浅間三筋のけむりの下で 男沓掛時次郎」「あっしは旅にんでござんす。一宿一飯の恩があるので、怨(うら)みもつらみもねえお前さんに敵対する、信州沓掛(くつかけ)の時次郎という下らねえ者でござんす」は、代表的な決めぜりふ。つらつら想い起こせば、市川雷蔵主演の映画を3本立て10円の映画館で見たのは、はるか昔の話。

脇本陣満寿屋
長倉神社を離れ、国道18号に戻る。ほどなく道路南側に大きな前庭のある旅館「岳南枡屋本店」が沓掛宿の脇本陣跡。玄関に「脇本陣満寿屋清兵衛」の看板が掛かっていた。

中軽井沢交差点・日本ロマンチック街道
脇本陣跡から少し進むと中軽井沢交差点。ここから北に「日本ロマンチック街道」が延びる。北に進めば上でメモした星野温泉、更に北にいけば大正時代に入って堤康次郎の開発した千ヶ滝地区、また、更に北に進めば浅間山の溶岩で知られる「鬼押出し」に続く。

沓掛本陣跡
交差点を過ぎると、誠に普通の民家の表札といった趣で、塀に「本陣 土屋」とある。うっかりすると見落とすほどのものであり、実際我々も引き返して探すことになった。
沓掛宿は天保14年(1843)の記録によれば、人口は502人。家数166軒。本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠屋17軒を揃えた、と言う。その宿場町は、昭和26年(1951)の大火で街のほとんどが焼失し、往時の面影を伝えるものはほとんど残っていない。
渓齋英泉の手になる、『木曾街道 沓掛の駅 平塚原雨中之景』では浅間下ろしの風と雨に難渋する旅人と中馬(牛馬)が描かれている。牛馬は水運の便がない信州での大量運輸手段であり、農民が自分の育てた馬で荷物を運ぶ駄賃稼ぎをしたものを、牛も含め「中馬」と呼ぶ。中馬は荷物の積み替えもなく、目的地まで直送できたので「岡船」とも呼ばれ商人達に盛んに利用された(『広重・英泉の木曾街道六十三次旅景色(人文社)』)。
数年前。信州から越後に向けて「塩の道」を歩いたが、荷運びは越後では牛、信濃では馬が中心であったようだ。それはともあれ、「沓掛」とはその塩の道にもあったし、全国の峠辺りに多い地名でもある。馬(牛)のわらじを「沓」といい、坂道にさしかかるところで馬のわらじを取替え、旅の安全を祈ってその「沓」を木などに「掛」けたところ、という意味、である。

くさつ道道標
先に進むと道端にささやかな石碑。「くさつ道道標」である。草津・大笹道の分岐点とのこと。草津は言わずもがなではあるが、大笹道とは、江戸時代に善光寺平と上州を経て江戸を結ぶ脇往還として物資輸送の重要な道筋であった。道筋は須坂市の福島宿から鮎川に沿って井上、八町、栃倉と上り仁礼宿を経て山道に入り鳥井峠を越越えて大笹宿(群馬県嬬恋)に到る。大笹から江戸へは、東に向かい大戸を経て高崎に到る大戸通りと、大笹宿から南に下り沓掛宿へと向かう沓掛通りがあり、共に中山道に合流し江戸へと繋げた。

古宿
くさつ道道標を越えるとほどなく旧中山道は国道18号から分かれる。この辺り一帯は古宿と呼ばれる。佐久地方最古の集落とも言われ、中山道道佐久・上州間の米穀中継地、中馬の宿として栄え、近年まで曲家があった、とも。幕府の設けた「宿」には公用の為の伝馬人足と馬が常備されていたが、一般の商用輸送には中馬と手馬が利用された。中馬は賃馬・中継馬がなまったものと言われる。
道端の道祖神を見やり、先に進み小川を越え、亨保年間と刻まれた石碑や二十二夜供養塔、道端から少し外れた畑の脇にある「道端の社」にお参りし、馬頭観音に到ると、旧道は再び国道18号に合流する。
道祖神や二十二夜供養塔、馬頭観音などが次々と現れる。道祖神って、日本古来の「塞の神」のこと。村の境界にあり、外敵から村を塞ぐ(遮る)神様。石や木を神としておまつりすることが多いよう。この神さま、古事記や日本書紀に登場する。イサザギが黄泉の国から逃れるとき、追いかけてくるゾンビから難を避けるため、石を置いたり、杖を置き、道を塞ごうとした。石や木を災いから護ってくれる「神」とみたてた所以であろう。





道祖神は、この日本固有の神様であった「塞の神」を中国の道教の視点から解釈したもの、とも。道祖神=お地蔵様、ってことにもなっているが、これは、「塞の神」というか「道祖神(道教)」を仏教的視点から解釈したもの。「塞の神」というか「道祖神」の役割って、仏教の地蔵菩薩と同じでしょ、ってこと。神仏習合のなせる業。





お地蔵様と言えば、「賽の河原」で苦しむこどもを護ってくれるのがお地蔵さま。昔、なくなったこどもは村はずれ、「塞の神」が佇むあたりにまつられた。大人と一緒にまつられては、生まれ変わりが遅くなる、という言い伝えのため(『道の文化』)。「塞の神」として佇むお地蔵様の姿を見て、村はずれにまつられたわが子を護ってほしいとの願いから、こういった民間信仰ができたの、かも。
ついでのことながら、道祖神として庚申塔がまつられることもある。これは、「塞の神」>幸の神(さいのかみ)>音読みで「こうしん」>「庚申」という流れ。音に物識り・文字知りが漢字をあてた結果、「塞の神」=「庚申さま」、と同一視されていったのだろう。
二十三夜待ちは月待ち信仰のひとつ。三日月待ち,十三夜待ち,十六夜待ち,十七夜待ち,十九夜夜待ち,二十二夜待ち,二十三夜待ち,二十六夜待ちなどといった月待ち信仰の中で最もポピュラーなもの。満月の後の半月である二十三夜の月が「格好」よかったの、か。皆一緒に月を待つ。庚申待ちと同じく、ささやかな娯楽ではあったのだろう。二十三夜待ちは三夜待ちとも言う。





碓氷バイパス
しばし国道18号を進むと国道18号・碓氷バイパスの道と合流する。碓氷バイパスは入山峠を越えて群馬に向かう。入山峠越えは古い東山道の道とも言われるが、昨日の軽井沢歴史民俗資料館のところでメモしたように、東山道も古東山道と東山道があり、古東山道は入山峠を越えるが、その道筋は伊奈郡高遠あたりから諏訪湖の南東の杖突峠を越え、車山の大門峠を経て雨坂、望月の南を抜け、森泉山の北をかすめ入山峠へと続いている。一方、東山道は富田、伊奈北に向かい、善知鳥峠から塩尻、松本、保福寺峠、小諸、長倉を経て軽井沢、そして碓氷峠を越えている。
いずれにしても、軽井沢歴史民俗資料館の東山道のルートには、この古宿辺りから道筋は説明されていない。入山峠越えが東山道の道筋か否かはともかくとして、近世にはこの古宿、それともう少し西の借宿村を起点に入山峠に向かい、入山村から遠入川を原村に抜ける道があり、その道筋は入山道と呼ばれた、とのことである。

女街道・姫街道
国道18号から脇道に入り歩を進めると、ほどなく南に分岐する道脇に「女街道・姫街道」の案内。「入り鉄砲 出女と、女改めの厳しい碓氷の関所を避けて、裏街道を通る女性が多かったので、女街道とか姫街道といわれた。この地より由井・釜ヶ淵橋を渡り風越山 荒漠たる地蔵ヶ原を横切り和美峠、入山峠を往来した」、と案内にある。とは言うものの、入山峠を越える道は横川関所の手前の原村に合流するし、南の和美峠を越え下仁田に出る道も、途中に西牧の関がある。更に南の余地峠越えの道には南牧の関。十石峠越えには白井の関などがあり、そうそう簡単には通れないようになっている。街道の案内の反対側の分岐道入口には馬頭観音が建っている。

遠近神社
姫街道を過ぎるとほどなく道の右手に「村社 遠近宮」。名前に惹かれてちょっと立ち寄り。ボランティアの人が境内を掃き清めている。社は素朴なもの。案内によれば、「祭神 磐長姫命 創立年代不詳なれど古来より当地の産土神として亨保年間には社殿鳥居が整備されたが、それより古く当借宿地方開発の守護神として祀られたもの。信濃なる浅間の嶽にたつ煙 をちこち人の見やはとがめぬ、という在原業平の歌によって遠近宮と奉称されたものと思う祭神磐長姫命は浅間山の守り神。富士山の木花咲耶姫の御姉神である」とある。歌は「信濃の国の浅間山から立ち上る煙は、あちこちにたなびくが、遠くの人や近くの人は見とがめない。噴火した煙であるのに騒がないのは、どうしたものだろう」といった意味だろう。
遠近宮の名前の由来は歌の聞き間違い、との説がある。蜀山人の『壬戌紀行』には「かりやど村の人家をへて左に社あり、遠近宮といへる額かけたる鳥居たてり。是はかの遠近人のみやはとがめねという歌をききあやまりて、浅間の山のほとりにたてしなるべし」、と。遠近人の見やは>遠近人の宮、となった、ということのようだ。





借宿集落
この辺りを借宿と言う。借宿の意味は、「かり」が「切り払われた急斜面」と言ったことであり、「借宿」は「急斜面に挟まれた谷間や湿地」を表すことが多いようだが、この地の借宿は、沓掛宿と追分宿の「間の宿」であった、とのことであるので、「仮の宿」といったものか、とも。実際、日本各地にある借宿は日本武尊が東征のみぎり、仮の宿とした、との由来が残る。






西長倉道路元標
借宿集落を僅かに残る旧家を眺めながら先に進む。旧家の反対側の道脇に「西長倉村道路元標(げんぴょう)」。道路元標とは道路の起点・終点・経過地を表示するための標識。大正9年(1920)に全国に設置。明治期に設置されたものは里程元標と呼ばれる。市町村にひとつ設置され、戦前の道路網整備の基点となったもの。「西長倉村」とは戦前まで存在した村名である。






馬頭観音
先に進むと道脇に巨大な馬頭観音の石碑。4mほどもある、と言う。中馬の宿として栄えた借宿の名残を残す。馬頭観音は牛馬の守り神として江戸の頃は庶民の信仰を得るが、もともとは観音菩薩の化身である六観音のひとつ。ほかの観音様はおだやかなお顔であるが、この馬頭観音だけは憤怒の形相をもつ。雄々しき馬の如く長躯駆けつけ、衆生の無知煩悩を排除し、大食の馬の如く、すべての諸悪を煩悩を食い尽くす。




草津街道分岐道標
先に進むと再び国道18号に合流。合流点に「草津街道分岐道標」がある。この先にある追分宿郷土館には「蓮如上人、豊臣秀次などがこの地を通り草津へと湯治に訪れた、とあった。
しばらく国道に沿って進むと陸橋に「軽井沢追分」といった標識が見えてくる。その先の道脇に「標高1003m」の標識。国道18号碓氷バイパスの入山峠が標高1030mであるので、碓氷バイパス開通前の国道18号の最高地点、ということだろう。






追分一里塚
小学校の前を国道に沿ってすすむと、道路脇に追分一里塚。国道の両側に不完全ながらも塚の風情を残す。日本橋から39里目。京までは91里14町、というだから359キロである。軽井沢地区には3カ所の一里塚があった、とのことだが、現在その面影を偲ばせるのはこの一里塚のみである。一里塚の先で中山道は国道を離れ旧路に入る。



追分宿郷土館
旧路を進むと追分宿郷土館。入口前に3mほどの馬頭観音の石碑が建つ。追分宿の問屋商人が役馬の安全・供養を祈願し寛政6年(1794)に建てたもの。もとは別の場所にあったものが、明治11年(1878)の明治天皇北陸巡幸の際に破棄されたものをこの地に移した。

郷土館にちょっと立ち寄り。館内の展示案内によれば、「追分宿は中山道と北国街道の分岐点にあり、また草津街道にも近く、官道東山道の頃から交通の要衝。江戸時代に参勤交代が実施されるようになり、浅間根腰三宿(軽井沢・沓掛・追分)のひとつとして栄える。追分節で「追分一町二町三町四町ある中で」とうたわれるように、宿場としては他の宿場と比較できないほど整備され、中山道69次のうち、もっとも栄えた宿場である。
貞亨年間(1673~1687)には旅籠71軒、茶屋18軒、商家28軒。元禄時代には戸数152軒、人口900人弱で男より女が200名も多かった。女性が多いのは旅籠が飯盛女を抱えていたため。宿には本陣1,脇本陣2があった」、と。天保14年(1843)、人口712人、家数103軒、旅籠35軒、本陣1軒、脇本陣2軒。文化期(1894-1817)、旅籠53軒のうち43軒が飯盛女をおく。「浅間山から追分見れば、飯盛女がうろうろし」。このような女性が歌ったのが追分節の原点、と言う。
碓氷峠を越える馬子唄に由来する追分節は、三味線に合わせ宿場の飯盛女哀愁切々と唄うその調べは旅人の心にしみこみ、北国街道を北上し越後追分として船頭歌に、さらに北上して酒田追分、新庄追分を経て蝦夷地に入り、松前追分、江差追分と広まった、とのこと。「浅間山さん なぜ焼けしゃんす 裾に三宿 もちながら」「追分ます形の茶屋で ほろと泣いたが忘らりょか」。
渓斉英泉の「木曾街道 追分宿 浅間山眺望」には大きく迫る浅間山と広大な裾野が描かれる。浅間三宿と称された、軽井沢宿・沓掛宿・追分宿は天明3年(1783)のその浅間山の噴火で壊滅的な被害を受けている。被害は甚大で賑わいは長らく停滞した、と。もっとも、上でメモしたようの、19世紀に入り、天保、文化年間には天明の噴火以前ほどではないが、結構宿は復旧しているようである。




浅間(あさま)神社
追分郷土館の横に浅間神社。案内によれば、「本殿は室町時代のもので、町内の木造建築としては最古のものである。浅間大神遥拝の里宮で大山祇神と磐長姫神の2神が祀られている。明治2年(1869)5月より浅間山の鳴動が特に激しく鎮静祈願のため同年9月明治天皇の勅祭が行われた社として有名である。」とある。
祭神の磐長姫神は大山祇神の娘で、木花開耶姫命の姉神。普通、「浅間神社」は「せんげんじんじゃ」と読み、木花開耶姫命を御祭神とした富士山本宮浅間大社(静岡県富士宮市)を総本社とするが、ここは「あさまじんじゃ」と読み、磐長姫神を御祭神としている。この地の浅間山の御祭神が磐長姫神ということであろう。





芭蕉句碑
境内に芭蕉句碑「ふき飛す石も浅間の野分哉」。寛政5年(1793)の春秋庵二世長翠の書で、浅間焼け石に覆われた追分原に野分けが吹く頃の風情を描く。境内には「追分節発祥の地」の碑も建つ。





御影用水(千ヶ滝用水)
神社の前を流れる清流は御影用水。中軽井沢から北に延びる日本ロマンチック街道の星野温泉の北、堤康二郎の開発した千ヶ滝地区のセゾン現代美術館の更に北にある千ヶ滝を水源とし、小諸市の御影新田(御影、一ッ谷、谷地原)までの30キロ弱を浅間山麓の等高線に沿ってつくられた用水路。慶安3年(1650)頃、柏木小右衛門が小諸藩主・青山宗俊に願い、私財をなげうち3年の歳月をかけた開削したもの。御影用水には二流あり、ひとつは千ヶ滝からの水を直接通したもの、もうひとつは千ヶ滝の水が注ぎ込む湯川から引いたもの。前者を千ヶ滝用水、後者を湯川用水と呼ぶようである。ということは、この神社の前を流れる用水は正確には千ヶ滝用水、であろう。地図を見るに、二流はほぼ平行に軽井沢から小諸へと進んでいる(もっとも、旧水路は昭和に改修され流路は大きく変わっている、とか)。
この地を流れる千ヶ滝用水用水は坂を下ったあたりで昔はふたつに分かれ、ひとつは追分宿内の通の中央を流れ、もうひとつは中山道を横切り左手に流れていた。そこに昇進橋がかかり、そこが宿の東端であった、とか。

堀辰雄文学記念館
昇進橋を渡ると追分の集落に入る。ほどなく掘堀辰雄文学記念館。大正末から昭和のはじめまでこの地に住み『風たちぬ』『美しい村』などを著す。B級路線の我々、と言うか私には少々敷居が高く、足早に通理過ぎる。

大黒屋跡
堀辰雄文学記念館の横に大黒屋という旅籠があった、とか。現在は旅籠の名残は何もないが、この旅籠は幕末、官軍の東山道先鋒(赤報隊一番隊)の分遣隊が分宿したところ。碓氷峠占拠を目指したこの赤報隊の分遣隊は、官軍総督府の「裏切り」により追討を受け、「官軍」に攻撃され壊滅することになる。追分戦争とも呼ばれるこの赤報隊(嚮導隊)の追分宿における顛末をメモする;慶応4年(1868)、官軍の先鋒隊として編成され、道中宣撫と年貢半減を旗印にかかげ中山道を東下。しかし、年貢半減は軍資金を供給した三井や鴻池といった豪商の利権と相反することになり、新政府はこの年貢半減を撤回。東下した赤報隊の解散を決定。
三番隊からなる赤報隊は二、三番隊は命に服すも、一番隊を率いた相良総三はこの命令を無視。相良は下諏訪に留まるも、その分遣隊(赤報隊改め嚮導隊)60名ほどは、追分に進出し碓氷峠を占拠。その間、年貢半減の宣撫とともに、各藩に軍資金を求めるなどの行動を示す。この動きに対し東山道総督府は嚮導隊の逮捕を命じ、信州諸藩300名は攻撃を開始。この追分宿も戦場となり、越後屋和三郎他13軒焼失。幹部の金原忠蔵など3名戦死、7名負傷、30数名が捕縛された。相良総三も、下諏訪においてその部下とともに縛についた。後の祭りではあるが、碓氷峠にはその後名誉回復された赤報隊の幹部である金原忠蔵の碑がある、とのことである。

旧脇本陣油屋旅館
掘辰雄文学記念館、旧宅を過ぎると右手に油屋。もとは街道左手にあった。明治・大正に追分が寂れたときも、油屋は旅籠を営む。昭和12年(1937)焼失し、道の反対に映る。堀辰雄、中村真一郎など多くの文士が滞在した宿、とのことである。




本陣跡
現在の油屋隣りに旧本陣の土屋家。加賀の前田家などが宿泊。明治天皇の行在所でもあった。現在は、明治天皇の行在所の石の標柱がのこるだけ。






高札場
古代から明治時代初期にかけ,幕府や諸藩の施策・法令を板面に記し、往来に掲示して庶民に周知せしめるもの。関所や湊、橋の袂、村の入り口・中心地などに高札場を設けた。高札番という役人が常時、高札場の整備・管理にあたった。と。法令に関しては「万民に周知の事」と言う理由で簡単に出版が許されたばかりでなく、高札の文章は寺子屋の書き取りの教科書としても推奨されていました。




明治天皇の御膳水

本陣と街道をはさみ南東の空き地には、明治天皇が北陸巡幸の際、本御膳水として利用していた湧き水がある、と。湧水フリークとしては行きつ戻りつ、湧水点を探す。中山道脇に道標があったが、少々わかりにくい案内ではあった。





諏訪神社
「旅館つたや」の「蔦屋清三」と書かれた古い下げ看板を見やりながら先に進むと古き社。諏訪神社とある。追分諏訪神社、逐分大明神などと記された大般若経が残る。とか。創建は不詳ながら、大般若経は嘉応元年(1260)から延宝3年(1675)に奉納されたとのことであるから、少なくとも鎌倉時代には勧請されたものではあろう。祭神は建御名方命、誉田別命、稻魂命など。

泉洞寺
泉洞寺は慶長3年(1598年)の開創。開創の禅師は元三河の武士。天正3年(1575)長篠の戦いに遭遇、数多くの戦死者を目のあたりにして無常心をいだき、当時敵方であった武田軍の本陣地、長篠の曹洞宗医王寺にて剃髪し出家したと伝わる。
元は仙洞寺との寺名であったが、江戸の頃火災に遭い、火除けの願を込めて「泉洞寺」と改名した、とある。本尊様は聖観世音菩薩様。寺には追分宿の遊女も眠る、とか。

枡形の茶屋・つがる屋
先に進み、壁面に枡の形の「つがるや」の屋号を漆喰塗りで浮き出す「つがる屋」に。このあたりが宿の西口(京口)である。枡形とは、宿の防衛のため、見通しのきかないように道を鉤の手に曲げ、2.5Mの石垣状の土手で囲ったもの。現在は道が通され、往昔の面影は何もないが、このつがる屋は枡形内にあった、ということだろう。

分去れ・善光寺道(北国街道)
旧道が国道18号に合流し、少し進んだあたりで再び国道から右に小径が分岐するところに石塔・石仏が建つ。追分の分去れと呼ばれ、中山道と北国街道が分かれるところ。右の小径が小諸・上田・善光寺をへて高田で北陸道に繋がる道筋である。
分去れ、という言葉に惹かれる。道中で知り合った旅人が、この地で袂を分けて去りゆく姿を想う。このような美しい言葉を知ったことだけでも、今回の散歩の価値は十分にあった。

分去れの三角地の頂点にはささやかな道祖神。その後ろに「北国街道道標」。正面には「東 二世安楽 追分町」、右側面は「従是北国街道」左側面は「従是中山道」、そして裏面には「西于時延宝七己未年(1679)三月○日」と彫られている、と。続いて「森羅亭万象の歌碑」。「世の中は ありのままにぞ霰(あられ)ふるかしましとだに 心とめぬれば」と。森羅亭万象は、江戸時代中期の博物学者・戯作者で有名な平賀源内の門人で狂歌師・桂木甫燦のことと言われる。
羅亭万象の歌碑は江戸・深川にある富岡八幡でも見かけた。「ふしの嶺世におおへとももろひとに 笠きてくらすすがたみせたり」、と。なお、平賀源内を森羅亭万象とし、弟子の桂川甫粲を森羅亭万象二世とする説もあるようだ。

歌碑の隣に手水鉢のような形の道しるべ石がある。正面には「さらしなは右 みよしのは左にて 月と花とを追分の宿」という道案内の歌が彫られている、と。他の三面には、「江戸江(へ)三八里」「御岳(木曽)江三三里半」、「金毘羅(讃岐)江一五〇里半」などと、この地から各地への里程が示されている。道しるべ石の後ろには、中山道でも屈指の大きさをもつ常夜灯。寛政元年(1789)春に建立され、台石には「町内安全」「是より左伊勢」などと大きく彫られているようである。
その横、北国街道に面して立つ観音像は、鳥羽天皇の天永年間(1110~12)に彫像された勢至観音菩薩と、言われる。またその奥にも観音立像。正面に「牛馬千匹飼」とあるこの馬頭観音像は安永三年(1774)11月、役馬持連中が建立したものと言われる。

中山道69次記念館
国道18号から南に斜めに分岐する旧中山道に入ると、国道18号・浅間サンライン交差点から南に通る道との交差する脇に中山道69次記念館。信濃毎日新聞社刊『中山道69次を歩く』の著者でもある岸本豊さんが建てたもの。二階建ての建物は中山道69次の各宿場毎に資料が整理されている。誠に驚くべき資料である。一冊の本が、これほどまでの資料によって裏打ちされているという事実に、お気楽な散歩メモを書く我が身を少々反省。
展示を眺めていると、岸本さんが折に触れ解説に来てくれた。元は徳島で地理の教師であった岸本さんのあれこれの解説のうち、印象に残ったことがふたつある。ひとつは「中山道」の名前の由来。中仙道などとも書かれていたこの街道が「中山道」となったのは正徳6年(1716)のこと。新井白石の建議により、「五幾七道之中に東山道、山陰道、山陽道いずれも山の字をセンと読み申し候。東山道の内の中筋の道に候故に、古来より中山道と申事に候」との触書を出した。東山道の中筋というであるので、中山道である、ということだ。「五街道宿御取扱秘書」に「中山道只今之迄仙之字書候得共向後山之字可書之」とある。いままでは「仙」の字を使ったが、今後は「山」の字にしなさい、という意味である。
岸本さんの解説で印象に残ったもうひとつの話は、『木曾街道六十九次旅景色』に冠する渓斉英泉と安藤広重の話。21番・追分宿の二つ先、23番岩村田の『木曽道中』では英泉は座頭の大喧嘩を描く。通常宿場の絵図には副題があり、そのテーマを具体的に描くものであるが、この図には副題もなく、一面座頭の大喧嘩だけが描かれる。このあまりに「大胆な」構図がきっかけとなり、いまひとつ人気が出なかった英泉に代わり、東海道53次で人気を博した安藤広重に木曽道中の絵図を依頼することになった、とか。実際、『木曾街道六十九次旅景色』には英泉が描く宿場は24点,広重は46点となっている(板橋から大津までの69次と起点の日本橋、広重が別版で描いた中津川宿の合計71点。因みに広重の「雨の中津川」には印刷ミス、というか逆版刷の作品があり、超高値がついていると、岸本さんの言)

笑坂
分去れを離れ、国道から左手に斜めに分岐する旧中山道に入る。道は緩やかな坂になっており「笑坂」と呼ばれる。由来は、小田井宿方面からやってきた旅備置が追分宿の灯りが見えると、思わず笑顔になったから、とか。小田井宿から追分宿までの6キロは一軒の人家もない荒涼とした原野であったようで、追分の宿を見て、一安心し笑みをもらしたのであろう。



千ヶ滝湯川用水温水路
溶岩の焼け石などを見やりながらしばらく進むと道の南側に広い水路が見える。千ヶ滝湯川用水温水路、とある。上でメモした御影用水の千ヶ滝用水と湯川用水の内、湯川用水の水路跡か、とも。湯川用水も千ヶ滝を源流とし、湯川に一度水を落とし、再び湯川から導水した故に「千ヶ滝湯川用水温水路」と呼ばれるのであろう、か。もっとも、慶安3年(1650)に小諸藩の柏木小右衛門が艱難辛苦の末開削した御影水路は昭和30年代、40年代に大幅に改修、新たに掘削され、旧水路とは異なる水路となっているようであり、定かではない。温水路とは水路を拡げ浅瀬とし、太陽熱をたっぷり吸収し水温を上げるためのもの。千ヶ滝からの源流の水温は15度ほどであり、そのままでは灌漑用水としては水温が低すぎ、冷害を引き起こすため、幅20m、長さ934mの温水路を通すことにより水温を1.5度ほど引き上げている、とのことである。温水路は昭和42年に完成した。
地図を見やると、追分宿の浅間神社の前を流れていた千ヶ滝用水は、この地、温水路の道の逆側で千ヶ滝湯川用水温水路と合流しているが、これも昭和の改修の結果だろう、か。

御代田の一里塚
「千ヶ滝湯川用水温水路」を越えると御代田地区に入る。御代田の由来は、明治の御代に四つの村が合併して出来た、ため。ほどなく久保沢川。地図を見やると千ヶ滝湯川用水温水路が暗渠となり中山道をくぐり、その先で千ヶ滝用水と合流した川筋である。往昔の御影用水の流路は定かではないが、御影用水は小諸の御影新田へと水路を開削したわけであるから、南に下るこの久保沢川筋とは異なる西へと進む水路があったのだろう、か。


道脇のささやかなる大山神社にお参りし、先に進む。その先100m辺り、中山道を7mほど南に入ったところに御代田(大久保)の一里塚。一里塚の定石通り、左右に塚が残り、特に西塚は直径13m、周囲40m、高さ5mと、ほぼ完全な形で残されている。記録には「一りつか 榎1つづつ 畠中にあり」、とあり、元々は、これも定石通りに榎が植えられていたが、現在は立派な垂れ桜。明治の頃、戦勝を祝い植えられたと言う。
東西対の塚が残る一里塚は僅かであるが、この地の中山道は寛永12(1635)年に改修されて、道が東に移り一里塚は道から離れることになった。そのために道路の拡張にあうこともなく、今日まで残った、と言う。


しなの鉄道・御代田駅
御代田の一里塚からはしなの鉄道・御代田駅に向かい、今回の中山道散歩を終え、しなの鉄道・軽井沢に引き返し、新幹線にて一路家路へと。


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