数年前のこと、旧水戸街道を取手宿からはじめ、藤代宿をかすめ藤代宿へと辿った。そのときは、若柴宿の静かな佇まい、そしてその集落の先にある「牛めの坂」の「森に迷い込んだような錯覚に」といった写真のキャプションに惹かれての散歩ではあったのだが、その散歩で思いがけなく将門ゆかりの旧跡に出合った。「将門」というキーワードにフックがかかり、あれこれチェックすると、守谷市から取手市にかけて、昔の下総相馬の地に将門ゆかりの旧跡が数多く残っている。それでは、ということではじめた将門ゆかりの旧跡を辿る散歩も守谷市域を終え、取手市域へと向かうことに。
守谷市域では将門の旧跡だけでなく、小貝川と鬼怒川の分離、大木台地を掘り割っての鬼怒川の新水路を辿るといった水路フリークには避けて通れない散歩なども加わり、結局4回に渡っての散歩となった。守谷市の中央図書館でチェックした取手市域に残る将門の旧跡を見るに、旧水戸街道散歩で歩いた市域東部を除き、守谷市と境を接する西部と中央部の2回程度でおおよそカバーできそうである。
ということで、取手散歩の第一回は守谷市域からはじめ取手の西部地域に残る将門の旧跡を、北の小貝川から南の利根川まで、台地と低地の入り組む地形の変化も楽しみながら歩くことにする。
本日のルート;成田エクスプレス・守谷駅>和田の出口>守谷市みずき野>取手市市之台>姫宮神社>香取神社>郷州小学校>取手市戸頭地区>永蔵寺>戸頭神社>利根川堤防>七里の渡し>米ノ井の神明宮>龍禅寺>桔梗塚>関東常総線・稲戸井駅
成田エクスプレス・守谷駅
散歩のスタート地点は守谷からはじめる。はじめて守谷城跡を辿った頃から数カ月がたっており、守谷本城のあった平台山といった台地、その台地を囲む低地の景観の記憶が薄れてきており、ついでのことなら、守谷本城辺りの景観を見やりながら取手市域に進もうと思ったわけである。
駅を下り通いなれた道を進み台地に上り、左手に守谷本城のある台地や、その先の小貝川沿いに続く台地の景観を楽しみながら歩く。川沿いの台地は低地に分断されている。小貝川の水流により削られたものか、水流により堆積された台地なのか定かではないが、赤法花、同地、そしてこれから向かう市之台といった台地が断続して続く。
守谷市みずき野
守谷本城を右手に眺めながら台地端を進む。右手は、その昔、舟寄場があったと言われる「和田の出口」。その台地の下は低地が台地に切り込み、いまだに湿地の趣を残している。湿地に生える木々などを眺めながら、奥山新田の台地に上り、再び出合った奥山新田の薬師堂にお参りし、南へと台地を下り「みずき野十字路」に。その昔、「郷州原」とよばれ、樹木生い茂る一帯であった「みずき野」の低地帯も、現在は宅地開発された住宅街となっている。
みずき野十字路を左に折れ、最初の目的地である市之代の姫宮神社に向かう。みずき野の住宅街は台地を下った低地部に広がる。調整池(地)などもあるようだが、標高で見る限り、台地と低地の境あたりまで開発され尽くしているようである。因みに、調整「地」は国土交通省の使用名であり、調整「池」は農林水産省の使用名とのこと。
取手市市之台
みずき野の宅地が切れるあたりに奥山新田の台地端が舌状に突出している。この台地上に香取の社があるのだが、姫宮神社からの戻る時に寄ることにして、とりあえず姫宮神社に向かうことにする。
奥山新田地区の台地を下り、低地を進み小貝排水路を越え、先に見える市之代の台地へと進む。市之台の台地は取手市であり、南北を低地で囲まれた台地には集落がある。この集落だけではないのだが、守谷辺りを散歩して困るのは犬の放し飼い。放し飼いの犬に吠えられることなど都内ではないので、少々怖い思いをしながら、成り行きで集落を進み姫宮神社に。
七里の渡し
「七里の渡し」は対岸の布施弁天で知られる布施や根所を結ぶ。「将門記」にある「大井の津」とも比される。幕末には流山から撤退した土方歳三も利根川をこの七里の渡しで渡り、戸頭-下妻-下館-白石-会津と下っていった。その七里の渡しは、享保15年(1730)に、土浦高津ー小張ー守谷ー戸頭ー布施と続く水戸街道の脇往還の完成とともに人馬の往来が多くなったようである。
また、陸路だけでなく、七里の渡しには「布施河岸」があり、江戸の中頃には船運も全盛期を迎える。利根川の東遷事業が完成し、銚子から利根川を関宿まで遡り、そこから江戸川に乗換えて江戸へと下る「内川廻り」とよばれる船運路が開かれたが、関宿辺りに砂州が堆積し船運に支障をきたすようになる。そこで、この地の布施河岸で荷を降ろし、江戸川の流山・加山河岸へと荷を運ぶことになった、とか。因みにこの陸路の物流ルートも流山での利根運河の開鑿により利根川と江戸川が直接結ばれることになり、主役の座を明け渡すこととなる。
米ノ井の神明神社
利根川の堤防を離れ、戸頭の台地に戻り次の目的地である米ノ井地区の神明神社にむかう。祭神は天照大御神。創建、由緒ともに不詳ではあるが、この辺りは伊勢神宮御料である相馬の御厨があったところ。将門は10数年に及ぶ京の都での御所の警備、禁裏滝口の衛士を終え、相馬の御厨の下司として下総に戻ってきたわけであり、その頃には伊勢神宮から天照大御神を分霊し神明の社を祀ったものか、とも。単なる妄想。根拠無し。
神明神社は米ノ井地区の北の上高井戸にも鎮座する。利根川の北の下総相馬の西のこの辺り一帯は相馬の御厨、そしてその西は犬養家の所領地。若き日の将門の拠点ではあったのだろう。戸頭地区には、御街道、館ノ越、宮の前、御所車、白旗、新屋敷、西御門、中坪、花輪、西坪、供平(ぐべ)など京の都を偲ばせる珍しい地名が残る。若き日々を京で過ごした将門が当時を思い起こして名付けた地名、とも。
○相馬御厨
ところで、この相馬御厨であるが、正式に成立したのは大治5年(1126),千葉常重が相馬郡司に任命され相馬郡布施郷を伊勢神宮に寄進してからと言う。千葉氏は将門の一門である下総平家の後裔であり、という事は、将門の時代には正式な相馬御厨は存在しないことになる。
どういうことかとチェックすると、『将門地誌:赤城宗徳(毎日新聞)』に、将門の父の良将の所領を伯父達に掠め取られた将門に対し、将門が京で仕えた大政治家である藤原忠平が、下総の伊勢の御厨に所領地を寄進することにより、その下司として安心して領地の開発に専念できるようにとの配慮であった、といった記事があった。将門が相馬御厨の下司云々の下りは、相馬の地にあった御厨の下司、といったことを簡略化して表現したものであろう、か。ともあれ、正式な相馬御厨は将門の取手市の米ノ井、高井戸一帯をといった御厨とは比較にならない、守谷、取手だけでなく、我孫子、柏一帯も包み込む広大ものであった、とか。
龍禅寺
道を進み米ノ井の舌状台地の端に龍禅寺。山門をくぐり本堂にお参り。寺の創建は延長2年(924)。承平7年(937)には将門が堂宇を寄進、と。慶長2年(1649)には三代将軍家光により十九石三斗の朱印状を受けている。境内には犬槇(イヌマキ)の大木が立つ。
○龍禅寺三仏堂
境内には取手市内に残る最古の建造物と言われる三仏堂がある。茅葺の重厚な美しさが誠に魅力的である。寺伝によれば、将門がここで生まれたとか、左甚五郎が一夜で作ったとの言い伝えがある。開創は不詳ではあるが、承平7年(937)に将門が修復したと「由緒書」に伝わる。三仏堂内の三仏とは本尊釈迦・弥陀・弥勒の三尊像。運慶の作とも伝わり、それぞれ過去・現在・未来の世を表す、と。
将門は父母の冥福を祈り、自らの守り本尊として三仏を崇敬したが、将門敗死の後は一時荒廃するも、源頼朝が建久3年(1251)国守千葉介常胤に命じて修理させた、と。現在の三仏堂は永禄12年(1569)に建てられたもので、茅葺の美しさとともに、正面に張り出された外陣、他の3方にも付けられたこし、といった独特な堂宇の姿が印象的。昭和51年に国指定重要文化財に指定されている。
寺に伝わる伝説によれば、将門が武運長久祈願のため、竜禅寺三仏堂に詣でたとき、堂前の井戸水が噴き上げて中から米があふれ出たと。境内に井戸は見あたらなかったが、この伝説が「米ノ井」の地名の由来、とか。もっとも、井とは堰のことで、これはかつて利根川沿いに堰を築き、水田を開拓した将門の功績を伝説として組み上げたものではあろう。
次の目的地は本日の最後の目的地である「桔梗塚」。関東常総線の稲戸井駅近くの国道294号沿い、マツダ自動車販売の脇にあるとのこと。それらしき場所に着いてもマツダの看板などどこにも、ない。トヨタのディーラーはその付近にあったので、その生垣の中を覗き込んだりして塚を探す。結局トヨタの対面にその塚はあった。マツダのディーラーは店を移ったのか、その地には無かった。
国道脇のささやかなマサキの垣根の中に、将門の愛妾・桔梗の前の墓と伝えられる碑があった。案内によると「桔梗の前は秀郷の妹であり将門の愛妾となったが、戦が始まってから、将門側についたという兄の言葉に騙されて兄に情報を提供。秀郷はこれにより勝利を得たが、このことが暴露されると後世まで非難されると考え、この場所で桔梗の前を殺害した、と。里人おおいに哀れみ、塚を築いて遺骨を納めました。ここに植えられた桔梗に花が咲かなかったので、この辺りでは「桔梗は植えない、娘がいつまでも嫁に行けなくなるから。」と伝えられている(不咲桔梗伝説)。また、桔梗の前については、将門と共に岡(旧藤代町)の朝日御殿に住み、将門の死を聞いて、桔梗田といわれた沼に入水して果てた、とも。
桔梗の前のことはよくわかっていない。「将門地誌:赤城宗特(毎日新聞)」には香取郡佐原領内牧野郷の長者、牧野庄司の娘の小宰相、と記される。小宰相とは、素晴らしい女性との意味である。「将門記」にはその人物像を「妾はつねに貞婦の心を存し」と描く。竜禅寺に伝わる話では、桔梗の前は大須賀庄司武彦の娘で、将門との間に三人の子を設け、薙刀の名人であったと伝わる。
一方,その真逆の桔梗の前の人物像を伝える話しも多い。曰く「将門追討の将・秀郷に内通し、将門の秘密を教え、その滅亡の端緒をつくった」「桔梗は京の白拍子で、上洛中の将門に見染められとんを機縁に、秀郷の頼みで将門の妾となったが、将門の情にほだされて秀郷の命に背いたため、米ノ井の三仏堂に御詣りに行った途中、秀郷のによって殺された」といったものである。「将門地誌:赤城宗特(毎日新聞)」では、これらの伝説は、江戸時代に芝居で興味本位につくられたもの、とする。
上で承平7年(937)、将門と伯父の良兼戦いのにより芦津江の地で妻子ともに殺された、とメモした。この「妻」とは将門の正妻である真壁郡大国玉の豪族、平真樹(またて)の娘、君の御前である。桔梗の前も一緒に捕縛されたが、桔梗の前だけが解き放されている。義兼が桔梗の前に懸想した故との説もある。義兼が桔梗の前の父親である香取郡佐原領内牧野郷の長者、牧野庄司の勢力と敵対しないための政治的配慮との説もある(「将門地誌:赤城宗特(毎日新聞)」)。 桔梗の前については出自など、あれこれの伝説があり、門外漢には不詳であるが、記録に何も残らない正妻に比べての露出量を鑑みるに,さぞかしインンパクトをもった人物であったのだろう。
常総線・稲戸井駅
これで長かった本日の散歩も終了。関東常総線の稲戸井駅に向かい、一路家路へと。
守谷市域では将門の旧跡だけでなく、小貝川と鬼怒川の分離、大木台地を掘り割っての鬼怒川の新水路を辿るといった水路フリークには避けて通れない散歩なども加わり、結局4回に渡っての散歩となった。守谷市の中央図書館でチェックした取手市域に残る将門の旧跡を見るに、旧水戸街道散歩で歩いた市域東部を除き、守谷市と境を接する西部と中央部の2回程度でおおよそカバーできそうである。
ということで、取手散歩の第一回は守谷市域からはじめ取手の西部地域に残る将門の旧跡を、北の小貝川から南の利根川まで、台地と低地の入り組む地形の変化も楽しみながら歩くことにする。
本日のルート;成田エクスプレス・守谷駅>和田の出口>守谷市みずき野>取手市市之台>姫宮神社>香取神社>郷州小学校>取手市戸頭地区>永蔵寺>戸頭神社>利根川堤防>七里の渡し>米ノ井の神明宮>龍禅寺>桔梗塚>関東常総線・稲戸井駅
成田エクスプレス・守谷駅
散歩のスタート地点は守谷からはじめる。はじめて守谷城跡を辿った頃から数カ月がたっており、守谷本城のあった平台山といった台地、その台地を囲む低地の景観の記憶が薄れてきており、ついでのことなら、守谷本城辺りの景観を見やりながら取手市域に進もうと思ったわけである。
駅を下り通いなれた道を進み台地に上り、左手に守谷本城のある台地や、その先の小貝川沿いに続く台地の景観を楽しみながら歩く。川沿いの台地は低地に分断されている。小貝川の水流により削られたものか、水流により堆積された台地なのか定かではないが、赤法花、同地、そしてこれから向かう市之台といった台地が断続して続く。
守谷市みずき野
守谷本城を右手に眺めながら台地端を進む。右手は、その昔、舟寄場があったと言われる「和田の出口」。その台地の下は低地が台地に切り込み、いまだに湿地の趣を残している。湿地に生える木々などを眺めながら、奥山新田の台地に上り、再び出合った奥山新田の薬師堂にお参りし、南へと台地を下り「みずき野十字路」に。その昔、「郷州原」とよばれ、樹木生い茂る一帯であった「みずき野」の低地帯も、現在は宅地開発された住宅街となっている。
みずき野十字路を左に折れ、最初の目的地である市之代の姫宮神社に向かう。みずき野の住宅街は台地を下った低地部に広がる。調整池(地)などもあるようだが、標高で見る限り、台地と低地の境あたりまで開発され尽くしているようである。因みに、調整「地」は国土交通省の使用名であり、調整「池」は農林水産省の使用名とのこと。
取手市市之台
みずき野の宅地が切れるあたりに奥山新田の台地端が舌状に突出している。この台地上に香取の社があるのだが、姫宮神社からの戻る時に寄ることにして、とりあえず姫宮神社に向かうことにする。
奥山新田地区の台地を下り、低地を進み小貝排水路を越え、先に見える市之代の台地へと進む。市之台の台地は取手市であり、南北を低地で囲まれた台地には集落がある。この集落だけではないのだが、守谷辺りを散歩して困るのは犬の放し飼い。放し飼いの犬に吠えられることなど都内ではないので、少々怖い思いをしながら、成り行きで集落を進み姫宮神社に。
(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)
姫宮神社
姫宮神社は将門の娘が祀られる、といったイメージと異なり、ピカピカのお宮さま。平成22年(2010)頃再建されたようである。境内には地域の集会所や消防の火の見櫓などがあり、古式豊かな、といった風情はどこにも残っていなかった。
それでも鳥居の左手前には、文化年間(19世紀初頭)に造られた弁財天、西国秩父坂東百観音、聖徳太子像、社殿裏手には文化年間建造の愛宕大権現、享保年間(18世紀前半)の大杦(大杉)大明神の石祠など、古き歴史をもつ社の名残を残す。
○将門の娘
ところで、この社、祭神は櫛稲田姫命。ヤマタノオロチの生贄になるところをスサノオに助けられ、その妻となった女神である。それはそれとして、上でメモしたようにこの社には将門の娘が祀られる、と言う。将門の娘と言えば、数年前に将門の旧跡を辿って坂東市の岩井にある国王神社を訪れたとき、その社秘蔵の将門の木造は、将門の三女(二女とも)である「如蔵尼」が刻んだものであり、その地に庵を結び父の冥福を祈った、とあった。その如蔵尼のことであろう、か。
とは言うものの、将門と伯父の良兼の争いにより将門の正妻とその子は悉く誅されたとも伝わるし,その時に共に捕縛された愛妾はその後解放され子をなした、とのことであり、ここで言う、将門の娘が誰を指すのかも定かではなく、また、如蔵尼が実在の人物かどうかも定かではないが、関東から東北にかけて如蔵尼の伝説が伝わっているようである。
その伝説にある如蔵尼の話は、一族滅亡の際に、一時は冥途の閻魔庁まで行くも、地蔵菩薩に罪なき身故と助けられ蘇生。その後出家し如蔵尼と称しひたすらに地蔵菩薩を信仰したといったもの。
ところで、将門の娘と言えば、滝夜叉姫の話も伝わる。滝夜叉姫の話とは、将門の娘「五月姫」は、父の無念を晴らすため貴船の神より授かった妖術をもって下総国の猿島を拠点に朝廷に背く。名も「滝夜叉姫」と名を変える。朝廷は勅命により陰陽博士大宅中将光圀を下総の国に派遣し、陰陽の秘術を以って滝夜叉姫を成敗。改心した滝夜叉姫は、仏門に入って将門の菩提を弔う、といったもの。この滝夜叉姫の話は江戸時代以降に芝居などで創作されたもの、と言う。ともあれ、人気者の将門故、その娘も伝説となって今に残るのであろう。
○市之台古墳群
境内を出たところに大師堂とおぼしき古きお堂があり、その脇には墓地がある。ここは元の西蔵寺のあったところ。姫宮神社は小貝川を見下ろすところにあったが、西蔵寺が廃寺になったときにこの地に移った、と。姫宮神社の元の地には今も「古姫さま」と呼ばれる小祠がある、と言う。
ところで、この市之台の小貝川に面する縁辺部、小貝川にかかる稲豊橋の南北にかけて1号から15号までの市之台古墳群が並ぶ。もう少し事前準備をしておれば、古姫様を訪ね、結果として市之台古墳群の辺りを彷徨えたのだが、例に拠っての「後の祭り」である。
また、稲豊橋の手前の交差点辺りには「将門土偶の墓」もあったようだ。取手市教育委員会・取手市郷土文化財調査研究委員会:昭和47年3月31日発行)の資料によれば、「明治7年11月道路改修の際破甕発掘。中に身に甲冑を纏たる如き粘土の偶像あり容貌奇異なり笑ふが如く怨むが如き一騎の兵士なり古考の口碑に徴するに西暦939年天慶2年平将門叛し島広山の支城て戦い平貞盛藤原秀卿(筆者注:「郷」の誤か)等に殺さる。爾後残卒の死屍を島広墟に葬ると雖も同装たる土偶を見るものなし。其一隅を島広山の北なる(市ノ代村)字古沼の所に埋没し霊魂の冥福を祈ると云う」、と。
この辺りで土偶や甲冑などが発掘されると、平将門由来の、といったことになるようであり、なんとなく市之台古墳群からの発掘物のようにも思えるのだが、門外漢故、真偽のほど定かならず。
香取神社
市之台の台地を離れ、県道328号を再び戻り、低地から奥山新田の台地に入った辺りで右に分岐する道に入る。市域は再び守谷市に入る。立派な門構えのある農家の手前あたりから左の細路を進むと、木々に囲まれた一角に香取の社があった。誠に香取の社が多い。
神社にお参りし、神社から直接県道328号に出るルートはないものかと、神社周囲を歩きルートを探す。神社裏手の竹林に入り込み藪漕ぎをするも、眼下に見える「みずき野」の宅地開発された住宅地区との間の崖を下る道はない。神社に戻り、畑の畦道といったルートから県道を目指すも、深いブッシュで遮られる。
国木田独歩は、『武蔵野』の一節で。「武蔵野に散歩する人は、道に迷うことを苦にしてはならない。どの路でも足の向くほうへ行けば必ず其処に見るべく、感ずべき獲物がある。武蔵野の美はただその縦横に通ずる数千条の路を当てもなく歩くことに由って始めて獲られる。春、夏、秋、冬、朝、昼,夕、夜、月にも、雪にも、風にも、霧にも、霜にも、雨にも、時雨にも、ただこの路をぶらぶら歩いて思いつき次第に右し左すれば随所に吾等を満足さするものがある(中略)同じ路を引きかえして帰るは愚である。迷った処が今の武 蔵野に過ぎない。まさかに行暮れて困ることもあるまい。帰りもやはり凡そその方角をきめて、別な路を当てもなく歩くが妙。そうすると思わず落日の美観をうる事がある。日は富士の背に落ちんとして未だ全く落ちず、富士の中腹に群がる雲は黄金色に染まって、見るがうちに様々の形に変ずる。連山の頂は白銀の鎖のような雪が次第に遠く北に走て、終は暗澹たる雲のうちに没し てしまう」、と言う。我もかくありたいのだが、結局は日和(ひより)、来た道を県道に折り返す。
郷州小学校
みずき野の住宅街に戻り、郷州小学校の裏手の台地部、現在の小山公民館のある辺りに将門の老臣・増田監物が砦を構え「古山」と称した、と。この辺り一帯だけが宅地開発から逃れ耕地を残す。なお。郷州小学校の「郷州」は上にメモしたように現在のみずき野地区の昔の地名。宅地開発される以前の「郷州原」と呼ばれる樹林地帯の名残を名前に残す。その昔、愛宕地区から取手市上高井地区をへて岡で台地を下り、取手の低地にある山王に向かう、郷州海道と呼ばれる古道もあった、とか。
取手市戸頭地区
みずき野の宅地街を抜け、関東常総線、国道294号・乙子交差点を越え、県道47号を南に下り乙子南交差点に。「乙子」は「億布(おふ)」が由来、とか。多くの麻布が産出された所の意味、と言う(「将門地誌:赤城宗徳(毎日新聞社)」)。 交差点脇にある駒形神社は守谷散歩の最初に訪ねた。その交差点の三叉路で県道を離れ、左手に進むと再び取手市の戸頭地区に入る。
宅地の中を成り行きで南東方向へ向かうと、思わず戸頭9丁目の台地端に出てしまい、眼下に広がる低地、そしてその向こうの利根川の眺めを楽しむ。戸頭公園を抜け、台地を少し下り戸頭8丁目から7丁目の宅地を進み、再び台地に上り永蔵寺へと向かう。戸頭の由来は「津頭」から。台地を下ったところに「七里の渡し」があり、その渡場=川湊=津に由来するのだろう。
永蔵寺
訪れた永蔵寺は赤いトタン屋根といったお寺さま。天慶4年(941)開山。創立時は守谷の高野にあり,往昔48ヶ寺もの門末と20石の朱印地を有した大寺院であったようだが、明治初めの廃仏毀釈令により衰退した。どうも、本堂と思った赤いトタン屋根の堂宇が薬師堂のようである。
この薬師堂は 新四国相馬霊場の札所三十四番。高知県本尾山種間寺の移し寺、と。将門の守り本尊と伝わる薬師如来(戸頭瑠璃光薬師)が祀られる。また境内には新四国相馬霊場四十五番札所もある。愛媛県の久万高原にある岩屋寺の移し寺である小祠には阿弥陀如来が祀られる。
○新四国相馬霊場
新四国相馬霊場とは利根川の流れに沿って、茨城県取手市に58ヶ所、千葉県柏市に4ヶ所、千葉県我孫子市に26ヶ所あり、合わせて88ヶ所の札所、このほかに番外として我孫子市に89番札所が存在する。
昔、宝暦年間(1751~1764)に江戸の伊勢屋に奉公し、取手に店をもった伊勢屋源六(光音禅師)が長禅寺にて出家し、四国八十八カ所霊場の砂を持ち帰り、近くの寺院・堂塔に奉安し札所としたのが始まり。江戸時代近在の農民や江戸町民が巡拝し賑わったという。光音禅師は取手市の長禅寺観音堂修築と取手宿の発展に尽力し、市内にある琴平神社境内に庵を結び余生を送った有徳の人である。
戸頭神社
古い家並みの旧集落を抜けると台地端に戸頭神社があった。創建は不祥だが元は香取の社と称されていた。「北相馬郡志」に「地理志料云、戸頭者津頭也、疑古駅址、観応二年(1351年)、足利尊氏、奉戸頭郷於香取神宮云々」とある。足利尊氏が所領地であった戸頭領を、武運長久を祈り下総一宮である佐原の香取神宮に寄進し創建された、とのこと。この社はその際に分祠されたのであろう、か。単なる妄想。根拠無し。で、戸頭神社となったのは明治45年のこと。同村の鹿島(村社)、八坂、面足、阿夫利各神社を合祀し改称された。
境内には天満宮や幾多の石祠がある。中には渡河仙人権現宮と称される石祠もある、と。どの石祠が「渡河仙人さま」の祠かよくわからないが、万治2年(1659)作のこの石祠は、神社のある台地端を下ったところにある「戸頭(七里)の渡」の安全祈願のためのもの、と言う。
ところでこの戸頭神社にの辺りに将門の外祖父である犬養春枝の館があったとの説もある。犬養家は「防人部領士」、簡単に言えば防人のトレーニングセンターの長といったもの。トレーニングセンターは関東常総線・新取手駅南の寺田の一帯。小字の「駒場」に名残を残す。この地に館を構えた犬養家は、乙子の由来でメモしたように、豊かな麻の産物を京に送り金に換え内証豊な家系として防人のトレーニングの任にあたったとのことである(「将門地誌:赤城宗徳(毎日新聞)」)。
利根川の堤防
台地を下り利根川の堤防に向う。この辺りの低地は、かつては藺沼と呼ばれた低湿地帯であり、道の周りに茂るのは藺=イグサなのだろうか、葦なのだろうか、よくわからないが、ともあれ堤防に上る。
七里もあるわけはないが、広大な利根の流れが眼前に広がる。堤防も現在立っている外堤防と内堤防があり、その間は調整池(地)となっている。堤防右手に新大利根橋が見えるが、七里の渡し跡の碑はその橋の辺りにあるようだ。
姫宮神社は将門の娘が祀られる、といったイメージと異なり、ピカピカのお宮さま。平成22年(2010)頃再建されたようである。境内には地域の集会所や消防の火の見櫓などがあり、古式豊かな、といった風情はどこにも残っていなかった。
それでも鳥居の左手前には、文化年間(19世紀初頭)に造られた弁財天、西国秩父坂東百観音、聖徳太子像、社殿裏手には文化年間建造の愛宕大権現、享保年間(18世紀前半)の大杦(大杉)大明神の石祠など、古き歴史をもつ社の名残を残す。
○将門の娘
ところで、この社、祭神は櫛稲田姫命。ヤマタノオロチの生贄になるところをスサノオに助けられ、その妻となった女神である。それはそれとして、上でメモしたようにこの社には将門の娘が祀られる、と言う。将門の娘と言えば、数年前に将門の旧跡を辿って坂東市の岩井にある国王神社を訪れたとき、その社秘蔵の将門の木造は、将門の三女(二女とも)である「如蔵尼」が刻んだものであり、その地に庵を結び父の冥福を祈った、とあった。その如蔵尼のことであろう、か。
とは言うものの、将門と伯父の良兼の争いにより将門の正妻とその子は悉く誅されたとも伝わるし,その時に共に捕縛された愛妾はその後解放され子をなした、とのことであり、ここで言う、将門の娘が誰を指すのかも定かではなく、また、如蔵尼が実在の人物かどうかも定かではないが、関東から東北にかけて如蔵尼の伝説が伝わっているようである。
その伝説にある如蔵尼の話は、一族滅亡の際に、一時は冥途の閻魔庁まで行くも、地蔵菩薩に罪なき身故と助けられ蘇生。その後出家し如蔵尼と称しひたすらに地蔵菩薩を信仰したといったもの。
ところで、将門の娘と言えば、滝夜叉姫の話も伝わる。滝夜叉姫の話とは、将門の娘「五月姫」は、父の無念を晴らすため貴船の神より授かった妖術をもって下総国の猿島を拠点に朝廷に背く。名も「滝夜叉姫」と名を変える。朝廷は勅命により陰陽博士大宅中将光圀を下総の国に派遣し、陰陽の秘術を以って滝夜叉姫を成敗。改心した滝夜叉姫は、仏門に入って将門の菩提を弔う、といったもの。この滝夜叉姫の話は江戸時代以降に芝居などで創作されたもの、と言う。ともあれ、人気者の将門故、その娘も伝説となって今に残るのであろう。
○市之台古墳群
境内を出たところに大師堂とおぼしき古きお堂があり、その脇には墓地がある。ここは元の西蔵寺のあったところ。姫宮神社は小貝川を見下ろすところにあったが、西蔵寺が廃寺になったときにこの地に移った、と。姫宮神社の元の地には今も「古姫さま」と呼ばれる小祠がある、と言う。
ところで、この市之台の小貝川に面する縁辺部、小貝川にかかる稲豊橋の南北にかけて1号から15号までの市之台古墳群が並ぶ。もう少し事前準備をしておれば、古姫様を訪ね、結果として市之台古墳群の辺りを彷徨えたのだが、例に拠っての「後の祭り」である。
また、稲豊橋の手前の交差点辺りには「将門土偶の墓」もあったようだ。取手市教育委員会・取手市郷土文化財調査研究委員会:昭和47年3月31日発行)の資料によれば、「明治7年11月道路改修の際破甕発掘。中に身に甲冑を纏たる如き粘土の偶像あり容貌奇異なり笑ふが如く怨むが如き一騎の兵士なり古考の口碑に徴するに西暦939年天慶2年平将門叛し島広山の支城て戦い平貞盛藤原秀卿(筆者注:「郷」の誤か)等に殺さる。爾後残卒の死屍を島広墟に葬ると雖も同装たる土偶を見るものなし。其一隅を島広山の北なる(市ノ代村)字古沼の所に埋没し霊魂の冥福を祈ると云う」、と。
この辺りで土偶や甲冑などが発掘されると、平将門由来の、といったことになるようであり、なんとなく市之台古墳群からの発掘物のようにも思えるのだが、門外漢故、真偽のほど定かならず。
香取神社
市之台の台地を離れ、県道328号を再び戻り、低地から奥山新田の台地に入った辺りで右に分岐する道に入る。市域は再び守谷市に入る。立派な門構えのある農家の手前あたりから左の細路を進むと、木々に囲まれた一角に香取の社があった。誠に香取の社が多い。
神社にお参りし、神社から直接県道328号に出るルートはないものかと、神社周囲を歩きルートを探す。神社裏手の竹林に入り込み藪漕ぎをするも、眼下に見える「みずき野」の宅地開発された住宅地区との間の崖を下る道はない。神社に戻り、畑の畦道といったルートから県道を目指すも、深いブッシュで遮られる。
国木田独歩は、『武蔵野』の一節で。「武蔵野に散歩する人は、道に迷うことを苦にしてはならない。どの路でも足の向くほうへ行けば必ず其処に見るべく、感ずべき獲物がある。武蔵野の美はただその縦横に通ずる数千条の路を当てもなく歩くことに由って始めて獲られる。春、夏、秋、冬、朝、昼,夕、夜、月にも、雪にも、風にも、霧にも、霜にも、雨にも、時雨にも、ただこの路をぶらぶら歩いて思いつき次第に右し左すれば随所に吾等を満足さするものがある(中略)同じ路を引きかえして帰るは愚である。迷った処が今の武 蔵野に過ぎない。まさかに行暮れて困ることもあるまい。帰りもやはり凡そその方角をきめて、別な路を当てもなく歩くが妙。そうすると思わず落日の美観をうる事がある。日は富士の背に落ちんとして未だ全く落ちず、富士の中腹に群がる雲は黄金色に染まって、見るがうちに様々の形に変ずる。連山の頂は白銀の鎖のような雪が次第に遠く北に走て、終は暗澹たる雲のうちに没し てしまう」、と言う。我もかくありたいのだが、結局は日和(ひより)、来た道を県道に折り返す。
郷州小学校
みずき野の住宅街に戻り、郷州小学校の裏手の台地部、現在の小山公民館のある辺りに将門の老臣・増田監物が砦を構え「古山」と称した、と。この辺り一帯だけが宅地開発から逃れ耕地を残す。なお。郷州小学校の「郷州」は上にメモしたように現在のみずき野地区の昔の地名。宅地開発される以前の「郷州原」と呼ばれる樹林地帯の名残を名前に残す。その昔、愛宕地区から取手市上高井地区をへて岡で台地を下り、取手の低地にある山王に向かう、郷州海道と呼ばれる古道もあった、とか。
取手市戸頭地区
みずき野の宅地街を抜け、関東常総線、国道294号・乙子交差点を越え、県道47号を南に下り乙子南交差点に。「乙子」は「億布(おふ)」が由来、とか。多くの麻布が産出された所の意味、と言う(「将門地誌:赤城宗徳(毎日新聞社)」)。 交差点脇にある駒形神社は守谷散歩の最初に訪ねた。その交差点の三叉路で県道を離れ、左手に進むと再び取手市の戸頭地区に入る。
宅地の中を成り行きで南東方向へ向かうと、思わず戸頭9丁目の台地端に出てしまい、眼下に広がる低地、そしてその向こうの利根川の眺めを楽しむ。戸頭公園を抜け、台地を少し下り戸頭8丁目から7丁目の宅地を進み、再び台地に上り永蔵寺へと向かう。戸頭の由来は「津頭」から。台地を下ったところに「七里の渡し」があり、その渡場=川湊=津に由来するのだろう。
永蔵寺
訪れた永蔵寺は赤いトタン屋根といったお寺さま。天慶4年(941)開山。創立時は守谷の高野にあり,往昔48ヶ寺もの門末と20石の朱印地を有した大寺院であったようだが、明治初めの廃仏毀釈令により衰退した。どうも、本堂と思った赤いトタン屋根の堂宇が薬師堂のようである。
この薬師堂は 新四国相馬霊場の札所三十四番。高知県本尾山種間寺の移し寺、と。将門の守り本尊と伝わる薬師如来(戸頭瑠璃光薬師)が祀られる。また境内には新四国相馬霊場四十五番札所もある。愛媛県の久万高原にある岩屋寺の移し寺である小祠には阿弥陀如来が祀られる。
○新四国相馬霊場
新四国相馬霊場とは利根川の流れに沿って、茨城県取手市に58ヶ所、千葉県柏市に4ヶ所、千葉県我孫子市に26ヶ所あり、合わせて88ヶ所の札所、このほかに番外として我孫子市に89番札所が存在する。
昔、宝暦年間(1751~1764)に江戸の伊勢屋に奉公し、取手に店をもった伊勢屋源六(光音禅師)が長禅寺にて出家し、四国八十八カ所霊場の砂を持ち帰り、近くの寺院・堂塔に奉安し札所としたのが始まり。江戸時代近在の農民や江戸町民が巡拝し賑わったという。光音禅師は取手市の長禅寺観音堂修築と取手宿の発展に尽力し、市内にある琴平神社境内に庵を結び余生を送った有徳の人である。
戸頭神社
古い家並みの旧集落を抜けると台地端に戸頭神社があった。創建は不祥だが元は香取の社と称されていた。「北相馬郡志」に「地理志料云、戸頭者津頭也、疑古駅址、観応二年(1351年)、足利尊氏、奉戸頭郷於香取神宮云々」とある。足利尊氏が所領地であった戸頭領を、武運長久を祈り下総一宮である佐原の香取神宮に寄進し創建された、とのこと。この社はその際に分祠されたのであろう、か。単なる妄想。根拠無し。で、戸頭神社となったのは明治45年のこと。同村の鹿島(村社)、八坂、面足、阿夫利各神社を合祀し改称された。
境内には天満宮や幾多の石祠がある。中には渡河仙人権現宮と称される石祠もある、と。どの石祠が「渡河仙人さま」の祠かよくわからないが、万治2年(1659)作のこの石祠は、神社のある台地端を下ったところにある「戸頭(七里)の渡」の安全祈願のためのもの、と言う。
ところでこの戸頭神社にの辺りに将門の外祖父である犬養春枝の館があったとの説もある。犬養家は「防人部領士」、簡単に言えば防人のトレーニングセンターの長といったもの。トレーニングセンターは関東常総線・新取手駅南の寺田の一帯。小字の「駒場」に名残を残す。この地に館を構えた犬養家は、乙子の由来でメモしたように、豊かな麻の産物を京に送り金に換え内証豊な家系として防人のトレーニングの任にあたったとのことである(「将門地誌:赤城宗徳(毎日新聞)」)。
利根川の堤防
台地を下り利根川の堤防に向う。この辺りの低地は、かつては藺沼と呼ばれた低湿地帯であり、道の周りに茂るのは藺=イグサなのだろうか、葦なのだろうか、よくわからないが、ともあれ堤防に上る。
七里もあるわけはないが、広大な利根の流れが眼前に広がる。堤防も現在立っている外堤防と内堤防があり、その間は調整池(地)となっている。堤防右手に新大利根橋が見えるが、七里の渡し跡の碑はその橋の辺りにあるようだ。
七里の渡し
「七里の渡し」は対岸の布施弁天で知られる布施や根所を結ぶ。「将門記」にある「大井の津」とも比される。幕末には流山から撤退した土方歳三も利根川をこの七里の渡しで渡り、戸頭-下妻-下館-白石-会津と下っていった。その七里の渡しは、享保15年(1730)に、土浦高津ー小張ー守谷ー戸頭ー布施と続く水戸街道の脇往還の完成とともに人馬の往来が多くなったようである。
また、陸路だけでなく、七里の渡しには「布施河岸」があり、江戸の中頃には船運も全盛期を迎える。利根川の東遷事業が完成し、銚子から利根川を関宿まで遡り、そこから江戸川に乗換えて江戸へと下る「内川廻り」とよばれる船運路が開かれたが、関宿辺りに砂州が堆積し船運に支障をきたすようになる。そこで、この地の布施河岸で荷を降ろし、江戸川の流山・加山河岸へと荷を運ぶことになった、とか。因みにこの陸路の物流ルートも流山での利根運河の開鑿により利根川と江戸川が直接結ばれることになり、主役の座を明け渡すこととなる。
米ノ井の神明神社
利根川の堤防を離れ、戸頭の台地に戻り次の目的地である米ノ井地区の神明神社にむかう。祭神は天照大御神。創建、由緒ともに不詳ではあるが、この辺りは伊勢神宮御料である相馬の御厨があったところ。将門は10数年に及ぶ京の都での御所の警備、禁裏滝口の衛士を終え、相馬の御厨の下司として下総に戻ってきたわけであり、その頃には伊勢神宮から天照大御神を分霊し神明の社を祀ったものか、とも。単なる妄想。根拠無し。
神明神社は米ノ井地区の北の上高井戸にも鎮座する。利根川の北の下総相馬の西のこの辺り一帯は相馬の御厨、そしてその西は犬養家の所領地。若き日の将門の拠点ではあったのだろう。戸頭地区には、御街道、館ノ越、宮の前、御所車、白旗、新屋敷、西御門、中坪、花輪、西坪、供平(ぐべ)など京の都を偲ばせる珍しい地名が残る。若き日々を京で過ごした将門が当時を思い起こして名付けた地名、とも。
○相馬御厨
ところで、この相馬御厨であるが、正式に成立したのは大治5年(1126),千葉常重が相馬郡司に任命され相馬郡布施郷を伊勢神宮に寄進してからと言う。千葉氏は将門の一門である下総平家の後裔であり、という事は、将門の時代には正式な相馬御厨は存在しないことになる。
どういうことかとチェックすると、『将門地誌:赤城宗徳(毎日新聞)』に、将門の父の良将の所領を伯父達に掠め取られた将門に対し、将門が京で仕えた大政治家である藤原忠平が、下総の伊勢の御厨に所領地を寄進することにより、その下司として安心して領地の開発に専念できるようにとの配慮であった、といった記事があった。将門が相馬御厨の下司云々の下りは、相馬の地にあった御厨の下司、といったことを簡略化して表現したものであろう、か。ともあれ、正式な相馬御厨は将門の取手市の米ノ井、高井戸一帯をといった御厨とは比較にならない、守谷、取手だけでなく、我孫子、柏一帯も包み込む広大ものであった、とか。
龍禅寺
道を進み米ノ井の舌状台地の端に龍禅寺。山門をくぐり本堂にお参り。寺の創建は延長2年(924)。承平7年(937)には将門が堂宇を寄進、と。慶長2年(1649)には三代将軍家光により十九石三斗の朱印状を受けている。境内には犬槇(イヌマキ)の大木が立つ。
○龍禅寺三仏堂
境内には取手市内に残る最古の建造物と言われる三仏堂がある。茅葺の重厚な美しさが誠に魅力的である。寺伝によれば、将門がここで生まれたとか、左甚五郎が一夜で作ったとの言い伝えがある。開創は不詳ではあるが、承平7年(937)に将門が修復したと「由緒書」に伝わる。三仏堂内の三仏とは本尊釈迦・弥陀・弥勒の三尊像。運慶の作とも伝わり、それぞれ過去・現在・未来の世を表す、と。
将門は父母の冥福を祈り、自らの守り本尊として三仏を崇敬したが、将門敗死の後は一時荒廃するも、源頼朝が建久3年(1251)国守千葉介常胤に命じて修理させた、と。現在の三仏堂は永禄12年(1569)に建てられたもので、茅葺の美しさとともに、正面に張り出された外陣、他の3方にも付けられたこし、といった独特な堂宇の姿が印象的。昭和51年に国指定重要文化財に指定されている。
寺に伝わる伝説によれば、将門が武運長久祈願のため、竜禅寺三仏堂に詣でたとき、堂前の井戸水が噴き上げて中から米があふれ出たと。境内に井戸は見あたらなかったが、この伝説が「米ノ井」の地名の由来、とか。もっとも、井とは堰のことで、これはかつて利根川沿いに堰を築き、水田を開拓した将門の功績を伝説として組み上げたものではあろう。
(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)
次の目的地は本日の最後の目的地である「桔梗塚」。関東常総線の稲戸井駅近くの国道294号沿い、マツダ自動車販売の脇にあるとのこと。それらしき場所に着いてもマツダの看板などどこにも、ない。トヨタのディーラーはその付近にあったので、その生垣の中を覗き込んだりして塚を探す。結局トヨタの対面にその塚はあった。マツダのディーラーは店を移ったのか、その地には無かった。
国道脇のささやかなマサキの垣根の中に、将門の愛妾・桔梗の前の墓と伝えられる碑があった。案内によると「桔梗の前は秀郷の妹であり将門の愛妾となったが、戦が始まってから、将門側についたという兄の言葉に騙されて兄に情報を提供。秀郷はこれにより勝利を得たが、このことが暴露されると後世まで非難されると考え、この場所で桔梗の前を殺害した、と。里人おおいに哀れみ、塚を築いて遺骨を納めました。ここに植えられた桔梗に花が咲かなかったので、この辺りでは「桔梗は植えない、娘がいつまでも嫁に行けなくなるから。」と伝えられている(不咲桔梗伝説)。また、桔梗の前については、将門と共に岡(旧藤代町)の朝日御殿に住み、将門の死を聞いて、桔梗田といわれた沼に入水して果てた、とも。
桔梗の前のことはよくわかっていない。「将門地誌:赤城宗特(毎日新聞)」には香取郡佐原領内牧野郷の長者、牧野庄司の娘の小宰相、と記される。小宰相とは、素晴らしい女性との意味である。「将門記」にはその人物像を「妾はつねに貞婦の心を存し」と描く。竜禅寺に伝わる話では、桔梗の前は大須賀庄司武彦の娘で、将門との間に三人の子を設け、薙刀の名人であったと伝わる。
一方,その真逆の桔梗の前の人物像を伝える話しも多い。曰く「将門追討の将・秀郷に内通し、将門の秘密を教え、その滅亡の端緒をつくった」「桔梗は京の白拍子で、上洛中の将門に見染められとんを機縁に、秀郷の頼みで将門の妾となったが、将門の情にほだされて秀郷の命に背いたため、米ノ井の三仏堂に御詣りに行った途中、秀郷のによって殺された」といったものである。「将門地誌:赤城宗特(毎日新聞)」では、これらの伝説は、江戸時代に芝居で興味本位につくられたもの、とする。
上で承平7年(937)、将門と伯父の良兼戦いのにより芦津江の地で妻子ともに殺された、とメモした。この「妻」とは将門の正妻である真壁郡大国玉の豪族、平真樹(またて)の娘、君の御前である。桔梗の前も一緒に捕縛されたが、桔梗の前だけが解き放されている。義兼が桔梗の前に懸想した故との説もある。義兼が桔梗の前の父親である香取郡佐原領内牧野郷の長者、牧野庄司の勢力と敵対しないための政治的配慮との説もある(「将門地誌:赤城宗特(毎日新聞)」)。 桔梗の前については出自など、あれこれの伝説があり、門外漢には不詳であるが、記録に何も残らない正妻に比べての露出量を鑑みるに,さぞかしインンパクトをもった人物であったのだろう。
常総線・稲戸井駅
これで長かった本日の散歩も終了。関東常総線の稲戸井駅に向かい、一路家路へと。
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