阿波 歩き遍路:第十二番札所 焼山寺から第十三番札所 大日寺へ その② 建治寺道

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先回のメモでは焼山寺を下った岩鍋集落よりはじめ、玉ヶ峠経由で20号線に下り、広野で21号に乗り換え大日寺へと歩いた。その道すがら、広野に「奥の院」を案内する標石があり、チェックするとそれは広野で県道21号を離れ、標高495mの西龍王山麓にある大日寺奥の院・建治寺を経由して大日寺に向かう遍路道であった。
かつては多くのお遍路さんが辿った巡礼道とも言う。ルートはあまりはっきりしないのだが、建治寺からの下りには鎖場や建治の瀧といった、ちょっと惹かれるワードもある。いかにも修験のお山といった趣ではあるが、その雰囲気が如何なるものか歩いてみることにした。
広野が標高60mほど。建治寺の標高が300mほどであるので、250mほど高度を上げればいい。広野の県道21号・建治道分岐点の伊藤萬蔵寄進の標石には「奥の院18丁」とあったが、実際の建治寺までの距離は18丁=1,962mを大きく上回る4キロ弱あった。 昔の遍路道筋とは異なる?とは思えど、基本標石を辿っての上りであり昔道の距離ではあったかと思う。 標石との距離の違いはともあれ、この4キロほどの上りに2時間。そこから荒れた沢筋を下り県道21号に戻るまで3キロ弱。ここで1時間半。全行程8キロほどのところを3時間半ほどかけて歩いたことになる。
足を踏み入れる前は、人里離れた山道をはっきりとしたルート図もなく歩くのはかなわん、などと思っていはいたのだが、上りの道筋の半分近くは山麓の集落を抜ける道であり気持ちも楽に歩けた。下りの鎖場は多くの記事にあるような「難所」といったものでもなく、危険と感じるところも特に無かった。只、下りは荒れた沢筋の道であり、沢筋に立つ四国霊場本尊石仏を目安に下る箇所もいくつかあったが、ルーティングにそれほど困ることもないかと思う。

建治寺道を歩くことなく、県道21号を建治寺分岐点から下りの県道21号合流点まで距離は5キロ強。時間も1時間強で歩けるだろう。建治道は県道21号ルートより距離は3キロ、時間は2時間半ほど余分にかかることになる。長旅で歩き疲れたお遍路さんに、さてどうだろう。単調な県道歩きの気分転換オプションとして、以下メモする。


本日のルート;
■上り;広野の建治寺道分岐点>伊藤万蔵標石>庚申塔と168丁石>2基の標石(169丁)>169丁石>中尾多七標石と163丁石>170丁石>中尾多七標石>中尾多七標石と172丁石>173丁石>舗装路に出る>177丁石>四国千躰大師標石>179丁石と石造物>西明寺寺道分岐点>>182丁石>大師堂>舗装道を離れる>石垣に標石>石仏と176丁石>山道に入る>車道に出る>祠に標石>車道に出る;中尾多七標石>171丁石>自然石標石>中尾多七標石>8丁石>7丁石>6丁石>5丁・4丁石と地蔵標石>建治寺
下り;山門>鎖場への分岐点>3丁石>建治の瀧>木の鳥居>権現道標石>奥の院標石>奥の院標石>県道21号の億の院標石


建治寺道

■上り■

広野の建治寺道分岐点
広野小学校の県道21号の反対側に「四国十三番奥の院 十八丁」と刻まれた標石が立つ(午前7時53分)。十三番札所大日寺の奥の院である建治寺を経由する遍路道は伊藤萬蔵寄進のこの標石より県道20号と分かれ山麓へと向かう。
伊藤萬蔵
伊藤 萬蔵(いとう まんぞう、1833年(天保4年) -1927年(昭和2年)1月28日)は、尾張国出身の実業家、篤志家。丁稚奉公を経て、名古屋城下塩町四丁目において「平野屋」の屋号で開業。名古屋実業界において力をつけ、名古屋米商所設立に際して、発起人に名を連ねる。のち、各地の寺社に寄進を繰り返したことで知られる。

庚申塔と168丁石
舗装された坂道を20mほど上ると道の左手、石垣の前に4基の石造物(午前7時53分)。1基は庚申塔。1m強はありそうだ。右端の舟形地蔵は「百六十八丁と刻まれる丁石。焼山寺からの丁数である。





2基の標石
更に10m、3基の石像物(午前7時55分)。左端の角柱石は「十三番奥ノ院近道 建治寺」、中央の舟形地蔵には「百六十八丁」と刻まれるようだ。
左に鮎喰川の谷が開けた眺めを楽しみながら緩やかな坂を上る。と、突然遍路道脇にあった民家の2階から「お遍路さん、建治寺への道は荒れて危険。通れませんよ。県道を歩きなさい」との声。 今までも遍路道を歩いていると、地元の方に「荒れて危険、通れない」と幾度かアドバイス頂いたのだけれど、藪漕ぎとはなったが、通れないところはなかったので、「どの程度か確認し危なそうであれば戻ります」と応え先に進むことにした。

169丁石・中尾多七標石と丁石
道の右手に「百六十九丁」の舟形地蔵(午前7時59分)。直ぐ先に2基の標石(午前8時1分)。「へんろ道」の文字と両端矢印の線が特徴的な中尾多七標石と舟形地蔵丁石。丁数ははっきりしない。

中尾多七標石
中尾多七さん達が昭和37年から昭和38年(1963)にかけて建てた標石は阿波の23番札所までに60近くにのぼると言う。特徴は「へんろ道」の文字と、その上に両端に矢印のついた線。線には直線の他、カーブしたものなどがあり、道方向を示す。 中尾多七標石は阿波だけでなく伊予の竜光寺道、香園寺奥の院道など、道の迷いやすい山道にも見られる、と。

170丁石・中尾多七標石
舗装された道は続く。道の左手に「百七十丁」の舟形地蔵丁石(午前8時3分)。鮎喰川の谷を背景にいい雰囲気。そこから数分、道の左手に中尾多七標石(午前8時6分)と続く。



2基の標石の先で舗装路から離れ山道に入る
道に2基の標石(午前8時9分)。1基は中尾多七標石。もう1基は「百七十二丁」の舟形地蔵丁石。その先数分で遍路道案内らしきタグが左の土径を指す(午前8時13分)。舗装路を離れ山道に入る。


173丁石の先は藪漕ぎ
地元の方がおっしゃっていた荒れ具合がどのようなものか気にしながら歩を進める。1分ほど歩くと「百七十三丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午前8時14分)。この辺りまではどうということはなかったのだけれど、その先は猛烈な藪。藪漕ぎに慣れていない方はちょっと大変かもしれない。

舗装道に出る
藪を漕ぎ、小枝を折り先に進む。路肩の不安定なところもあったがそれほど危険というほどではない。怖がりの私でもなんとか行けそうだ。しかし、こんな道がずっと続くのであれば勘弁、と思った頃、舗装された道に出た(午前8時33分)。おおよそ20分の悪路ではあった。建治寺道はここだけがちょっと厄介な個所ではある。



177丁石の先に民家
舗装された道を進む。地図で見ると南馬喰草の辺りで鮎喰川に突き出た支尾根を避け、大きく弧を描く辺りから車道らしきものがここに続く。車道合流点から数分歩くと道の左手に舟形地蔵丁石(午前8時36分)。「百七十七丁」と刻まれる。
その先に民家が見える。民家は全く想像していなかったので、結構気が楽になった。

四国中千躰大師標石・石造物と179丁石
舗装路を進むと石垣に「四国中千躰大師 文化七年」と刻まれた照連の四国千躰大師標石(午前8時39分)。その先数分で眼前が開ける。そこに石造物と舟形地蔵(午前8時43分)。「百七十九丁:と刻まれる。
ここから見る眼下に広がる遠景もいいのだが、山麓を通る舗装路に沿って民家が点在するのを見て、気持ちが楽になった。当初人気のない山道が続くのだろうと思っていただけにその安心感は、今はやりのフレーズで言えば、「半端ねえ」といったところ。
四国中千躰大師標石
文化年間(1804~1816)の僧・照蓮により建てられた標石。真念の志を受け継ぎ、四国中に千体の道標を建てようとした(総数未確認)。徳島は出身地ということもあり56基残る、と。

西明寺道分岐点
山麓を走る舗装道を鮎喰川の谷筋を見やりながらのんびり歩く。5分ほど進むと道の分岐点。その角に2基の標石が立つ(午前8時49分)。比較的新しい1基には、「金玉山 西明寺道」、古い標石には「成田山御分*不動尊道 十三番うちぬけ 是より三丁」とあるようだ。
地図を見ると県道近くまで下りていかなければならない。当日は、「まあいいか」と寄り道をパスしたのだが、メモの段階でチェックすると、往昔お遍路さんが足を向けたお寺さまであった。
道筋には標石も立ち、寺の前には徳右衛門道標も立つとのことであり、行けばよかったと、今となっては後の祭りではある。

182丁石・大師堂
道の右手に「百八十二丁」の舟形地蔵丁石(午前8時53分)。その先に風雪に耐えた趣の大師堂。常夜灯も立つ。





遍路道分岐点に3基の石柱
大師堂の直ぐ先、道の右手に3基の石造物(午前8時57分)。左端の自然石には、手印と共に、「右へんろ道」の文字が読める。その他の石造物は風化が激しく文字は読めない。 そこに遍路道右折の遍路タグがある。水路溝に沿って舗装された狭い坂が上っている。建治寺へはここを右に折れる。


集落の車道を逸れ遍路道に
集落の車道を離れ右に折れ狭い道を数分上ると集落を走る広い車道に出る(午前9時)。車道を歩くと右手石垣前に「十*丁」といった文字が読める(午前9時1分)。その先で遍路道は集落を走る車道を離れ右に折れる(午前9時4分)。
分岐点には遍路タグもあり、その先に鳥居が立つ。

常夜灯と16丁石
コンクリート壁前の舗装された狭い道を上ると大きな常夜灯と座像石仏があり、その傍に舟形地蔵(午前9時6分)。「右 十六丁」と読める。ここからは建治寺までの丁数表示となるようだ。
とすれば、先ほど集落の石垣前に立っていた丁石も建治寺への丁数を示すものではあったのだろう。



車道を上る
16丁石の先で車道に出る(午前9時8分)。土径との分岐があり、「徒歩近道」は土径とあるが、遍路道タグは右の車道方向を示す。ちょっとわかりにくいが、遍路タグに従い車道を進む。
車道地図で見るとこの車道はギザギザと曲がりながらこの先で神山森林公園へと続く車道に合流している。




山道に入る
車道を数分歩くと道の左手に遍路タグがあり、車道を逸れた土径方向を示す(午前9時12分)。竹林の中の土径を進む。




車道に出る
土径を5分ほど歩くと舗装道に出る(午前9時18分)。先ほど分かれた集落から上る車道である。
車道を進むと道の右手に石の祠。建治寺を案内する石祠の中に不動明王像と並び舟形地蔵丁石。「十二丁」のようにも読める。石祠前には両端矢印の線と共に「へんろ道」と刻まれた中尾多七標石も立っていた。

森林候公園への車道をクロスし山道に
数分歩くとアスファルト舗装の車道に出る(午前9時21分)。徳島県立神山森林公園へと上る車道のようだ。
遍路道は車道をクロスし山道へと入る。車道を越えたところには「建治寺本堂 1,150米」の真新しい標石があり、その傍に中尾多七標石が立つ。
ここから尾根筋まで、比高差100mほど上ることになる。

11丁石と自然石標石
車道クロス部では舗装された道も直ぐ土径となる。数分で石垣前に舟形地蔵丁石。「右十一丁」と刻まれる(午前9時24分)。その先数分で自然石標石。摩耗が激しく文字は読めない(午前9時26分)。



10丁石と中尾多七標石・8丁石
数分歩くと遍路道タグと共に、2基の標石(午前9時28分)。1基は「*十丁」と刻まれる舟形地蔵丁石。もう1基は中尾多七標石。
5分ほど歩くと舟形地蔵丁石(午前9時34分)。「八丁」と刻まれる。


7丁・6丁石
数分で「七丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午前9時28分)。更に数分で「六丁」の舟形地蔵丁石(午前9時41分)。木々の間に空が見える。尾根筋は近い。




5丁・4丁石と地蔵標石先で建治寺への車道に合流
数分で尾根筋に上る。そこには地蔵や舟形地蔵が立つ(午前9時44分)。その先には車道が走る。
舟形地蔵は2基。「五丁」「四丁」と刻まれる。舟形地蔵丁石に挟まれるように地蔵座像。そこには「左焼山道 右北*道」と刻まれる。「*」の部分ははっきり見えるのだけれど、何という字か読めない。教養の無さが悔やまれる。
これらの標石の右にも標石がある。手印だけがうっすら見える。
山道はここで建治寺へと続く車道に出る。森林公園に上る車道から山道に入り20分強で参道車道に出た。

建治寺車道を建治寺へ
車道を進む。道は尾根筋を少し東に廻り込み、300m等高線辺りを進むことになる。5分強歩くと寺の駐車場(午前9時52分)。駐車場から尾根の東側の遠景、お寺さまにお参りした後に下る遍路道ではあろう谷筋、その先の鮎喰川の遠景を楽しむ。





参道に1丁石
駐車場の端に寺標石。その先に、広すぎもせず狭すぎもしない、ほどよい幅の参道が続く。 直ぐ参道右手に「一丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午前9時55分)。
上りにおおよそ2時間かかったことになる。






第十三番大日寺奥の院建治寺

駐車場の右手、小高い場所に常夜灯。往昔、津田の湊(徳島市の南部)の漁師たちの灯台の火でもあったようで、毎年津田の漁師より油の寄進を受けたとある。玉姫大明神の小社も祀られる。玉姫稲荷さんがここに祀られる所以は不詳。

参道を進むと右手に宿坊。左手に厄除大師堂。正面に東面した本堂と続く。本堂には「四国三十六不動霊場」の幡が立ち並ぶ。当寺は第十二番霊場とのこと。
本堂にお参り。東寺真言宗。山号は大滝山。本尊は金剛蔵王大権現。脇仏として阿弥陀如来が祀られる。
建治龍門窟
大師堂の右手に「建治龍門窟」と書かれた石柱。先に進むと狭い洞窟が続き、最奥部には不動明王が祀られる。
建治寺縁起
境内にあった建治寺縁起には、「当山は白鳳時代天智天皇(661~671)の頃、役行者(神変大菩薩)の開基にして金剛蔵王大権現を本尊として祀る。
その昔、役行者が大峯山にて、かかる末世の衆生を救済すべく濁世降魔の尊をと祈念すれば、一天にわかに曇り大地鳴動して出現されたのが金剛蔵王大権現である。
弘仁年間(810~824)、弘法大師四国巡錫の折、当山に登り霊験あらたかなその聖地に感じ入り、修行場所として最適な霊地と逗留されることとなった。
大師修行中、ある夜、本尊金剛蔵王大権現を感得し、斎戒沐浴して御尊像を彫刻、深く岩窟の奥に安置し祀られた。
本尊金剛蔵王大権現は、右手に三鈷杵をいただき、左手は刀印を結び腰に安んじて、右足は虚空を蹴り、左足は強く大地を踏みしめる。
御身の青黒なるは大慈悲をあらわし、右手の三鈷杵は魔障を避け、左手の刀印は降魔の利剣。 右足は天魔を蹴散らし、左足は地下の悪魔を踏み砕く。
御身青黒色にして恐髪逆立ち、裂けんばかりの口には阿字を含み、睨みすえる眼はまさに忿怒の形相で、心悪しき物には恐怖と戦慄を覚える御姿である。
時代は下って、天正十三年(1585)蜂須賀家政が阿波藩主として入国後、豊臣秀吉の征朝郡に従い出陣することとなったが、戦況不利となり苦戦をしいられていたある晩、夢枕に白髪の翁が現われて勝利に導く霊示をされた。
半信半疑不思議に思いはしたものの、お告げの通り軍を進めたところ大勝を博する結果となり、大いに喜ばれた。
凱旋後、その仙人の風貌をした白髪の老翁こそ、建治寺の本尊金剛蔵王大権現の化身であったことが判り、藩公深く畏敬して城の守り本尊となすべく城下(眉山麓)に一寺を建立し、金剛蔵王大権現並びに薬師如来を勧請して寺号と共に移したのである。
これが現在の大滝山薬師であり持明院である。
然るにそれ以後というもの、寺に奇異なる現象が頻発し、藩公大いに恐れて高僧に伺いをたてさせたところ、本尊が元の建治寺に帰山を望まれていることがわかった。
しかし、藩公は御本尊を手放したくないため、仏師に建治寺より持ち帰った御尊像に似せて、もう一体の金剛蔵王大権現を作らせた。
礼を篤くしてそれを当山に祀り安置したものの、寺における変異は続き、困り果てた末、遂に薬師如来を残して弘法大師御作の御本尊を返されることになった。
故に、阿吽二体の金剛蔵王大権現像(弘法大師作は阿形、蜂須賀公の彫らせたものは吽形)が建治寺の岩屋奥に祀られ、今に到っている。
役行者が金剛蔵王大権現を勧請することによって始まった輝かしい建治寺の歴史は、弘法大師の威徳によって不滅の金字塔が打ち立てられた (四国霊場第十三番奥の院修験根本道 場として発展)
霊験あらたかな聖地を守り続ける心は絶えることなく受け継がれ、近年では(安政時代) 貞阿上人の業績にと、今なお脈々と命打っているのである」とあった。

〇貞阿上人 貞阿上人って?チェックすると「徳島 建縁起復活公演 小屋掛け人形浄瑠璃バスツアー」というページがあり、そこに貞阿上人の記事があった。
貞阿上人:貞阿上人は、文化二年(1805)3 月 12 日、 加賀国連華村(現石川県金沢市)の井口権三の三男と して生まれた。俗名を花寺貞信といい、安政 2 年 (1855)4月28日阿波国入田村の観正寺で得度した。 遍路として四国霊場を巡り、観正寺に足をとどめ、当 時、観正寺末であった金剛菩薩堂(現建治寺)で修行 した。以後、寺の復興と布教に努め、多くの信者をえ た。実際、上人建立の写し霊場、八十八の石塔の中に は、徳島城内の奥女中衆の寄進もあり、上人が広い階 層の信者の帰依を得ていたことが知られる。明治 8 年 (1875)2 月 18 日、補訓導を拝命したと記録にあり、 当時、観正寺に置かれた小学校で教鞭をふるったと考 えられる。明治 18 年旧 7 月 3 日に没した。享年 81 歳。墓碑銘に「白蓮舎照道貞阿上人」とある。

またそこには人形浄瑠璃「実録 建治山御法之花、貞阿上人滝行場之段 」のストーリーが書かれおり、「忠蔵と左代の兄妹が、仇敵を追って敵討ちの 旅に出たのが三年前。長い旅路のはてに弘法大師のお告げを聞き、阿波の霊場十三番札所大日寺奥ノ院建冶寺にやってくる。そして、建冶寺の滝で滝行する宿敵石川藤斎は人々に崇め慕われている貞阿上人その人であった。仇討ち装束に身を固めた兄妹は、滝行をする無心の上人に後ろから斬りかかろうとする。 目に入る「正道頓悟居士」と彫られた背中の入れ墨。 それは亡き父の戒名であった。そのとき、天にわかにかき曇り落雷響く雲の彼方から、建冶寺の本尊蔵王大 権現と亡くなった父正作が現れる。父は兄妹に、藤斎のこれまでの所行を語って聞かせる。故意に殺めたのではないこと、返り討ちにしてくれとの書置きはお家再興を奮起させるためのものであったこと、正作の戒名を入れ墨にまでして菩薩を弔っていたこと、大勢の人々に功徳を施し幼かった兄妹のことはかたときも れなかったこと、再任官をさせるため無抵抗で打たれる覚悟をしていること等々である。真実を知らされ た兄妹は、仇敵藤斎憎しの考えを改めて、藤斎の功徳に感謝すると共に、悲願であるお家再興を胸に秘め、 心静かに国元へ帰っていく」とあり、続けて
「この作品は幕末から明治初 年にかけて、建冶寺の中興の祖と讃えられた貞阿という人物から取材して創作されたものである。貞阿は四国巡礼中、観正寺に杖をとどめ、建冶寺で荒行を重ね、 観正寺から僧籍をゆるされ、後、建治寺の住職となった。貞阿は篤行の人として人望も厚く、信者も四方から集まり寺は栄えた。しかし上人の過去における経歴には不明なことが多く様々な伝説が生まれた」とあった。
この外題がつくられたのは明治末か大正の頃。地元の方がストーリーを徳島出身の文楽関係者が三味線と語りを受けもちつくられた、数少ない阿波オリジナルの浄瑠璃とあった。 少し長くなったが、物語、伝説がつくられるプロセスとして興味を覚え全文引用させて頂いた。


建治寺から県道21号に下る■

建治瀧ルートに下る;午前10時9分
境内を離れ大日寺へと、下りの遍路道に向かう。「十三番瀧行場へ(階段下る) 下の道場山門より下ってください 途中瀧行場を通過して大日寺に行けます」の案内、遍路タグに従い石段を下りて下の広場に。
広場(道場)では修験儀式といった準備が行われていた。柴燈護摩の広場とあるので、柴燈護摩の準備なのだろうか。
柴燈護摩
Wikipediaには「大柴燈護摩供(だいさいとうごまく)とは、野外で行う大規模な護摩法要のことである。柴燈大護摩供(さいとうおおごまく)と呼ぶ場合もある。
伝統的な柴燈護摩は真言宗を開いた空海の孫弟子に当たる聖宝理源大師が初めて行ったといわれており、醍醐寺をはじめとする真言宗の当山派修験道の法流を継承する寺院で行われる事が多い。すなわち、日本特有の仏教行事である。
伝統的な真言宗系当山派の柴燈護摩に柴の字が当てられているのは、山中修行で正式な密具の荘厳もままならず、柴や薪で檀を築いたことによる。なお、天台宗系本山派が行う野外の護摩供養は、「採燈護摩」というが、真言宗系当山派の柴燈護摩から「採取」した火により行われたので、その字が当てられるようになった。また、真言宗醍醐派の正当法流を汲む真如苑宗(真如三昧耶流)では、斉の字を当てて「斉燈護摩」と呼称している」とあった。

山門を出て滝行場へ;午前10時9分
柴燈護摩の広場の北端にささやかな山門が建つ。下山の遍路道は上述案内の通り、この山門を潜り滝行場へと向かう。
山門を潜ると荒れた沢筋。そこには四国八十八霊場の本尊石仏が並ぶ。大師座像とペアで並んでいる。


鎖場分岐点;午前10時17分
八十八霊場の石仏を目安に岩場の沢筋を下る。ほどなく遍路道は沢筋から離れる。石の祠に祀られる六十七番札所小松尾寺(大興寺)の本尊薬師如来の先に中尾多七標石(午前10時17分)。その直ぐ先で道はふたつに分かれる。
分岐点には「直進 鎖坂道 すべり注意」「左道 迂回路(安全)」とある。とりあえず直進し鎖場へ。

鎖場;午前10時21分
62番宝寿寺の十一面観音、60番横峰寺の大日如来などに一礼しながら道を進むと鎖場に。それほど危なそうではない。鎖をしっかり握り、足場を確保し鎖場を下りる。岩場には石仏が立つ。はっきりとは見なかったのだが、四国霊場本尊石像ではないようだ。




鎖場下に3丁石;午前10時29分
鎖場を下り切ったところに「三丁」の丁石。そこに遍路道は右とある。ここは要注意。この案内は鎖場迂回路の案内。当日は案内に従い右に進んだのだが、鎖場分岐点まで引っ張られ、 元に戻ることになった。





岩場の行場;午前10時29分
三丁石まで戻り、沢筋に向かうと梯子のかかった岩場に出る(午前10時29分)、梯子の上に岩壁を穿った溝といったものが見える。オーバーハング気味のルートを進むと岩場の行場があるようだ。高所恐怖症のわが身はご勘弁と梯子上りは避ける。
梯子の右手、岩場下にも石仏が並ぶ。ここも注意が必要。石仏が並ぶならそれが遍路道かと右に向かい大岩を上るが、その先はなんとなく遍路道っぽくない。
梯子の岩場に戻りルートを探すと沢方向への道案内があった。

建治の瀧;午前10時33分
沢筋へと下ると数分で右手に瀧。30m弱といったところだろうか。水はほとんど落ちていない。地形図を見ても、滝の上流部の区間も短く、大雨の後以外に水は流れようもない、滝の傍のお堂には不動明王と共に上述、貞阿上人も祀られている、と。






木の鳥居;午前10時46分
金治谷川の沢に架かる橋を渡り遍路道を下る。道は荒れている。遍路タグや四国88霊場の本尊石仏を目安に沢の右岸を下ると木の鳥居があった。





ごんげん道標石;午前10時49分
倒木を潜り、53番札所圓明寺の本尊阿弥陀如来石仏に一礼し成り行きで下ると、手印と共に「ごんげん道」と刻まれた標石があった。建治寺の本尊である蔵王権現を指すのだろう。


廃屋に;午前11時9分
四国霊場の本尊石仏を目安に進む。48番札所西林寺の本尊十一面観音を越えた辺りで遍路道は沢の左岸に移る。道に沿って続く四国霊場の本尊石仏に頭を下げながら歩くと、沢筋の道は平坦な道へと変わる(午前11時3分)。そこから5分強、廃屋が見えてくる。

「左おくの院」標石;午前11時13分
道を進み38番札所金剛福寺の本尊千手観音石像を越えたあたりで遍路道は車道にでる。建治寺よりおおよそ1時間で下りてきた。
車道合流点に「左おくの院」と刻まれた標石。その傍にルート図と共に、建治寺まで車道1700m,遍路道1200mの案内があった。
車道は県道21号より、南谷川(金治谷川)の谷筋を上り建治寺へと向かうルートのようだ。

「おくのいん」標石;午前11時24分
車道を進む。里は開け民家も現れる。四国霊場18番札所恩山寺の本尊薬師如来の立つ少し先、上述「おくの院」標石から10分ほど歩くと南谷川徒金治谷川の合流地点にT字路。その角に2基の標石。「おくおいんみち 文久三」「名勝建治乃瀧 右上」と刻まれる。 遍路道はここを左折し県道21号に向かう

橋傍に石仏群;午前11時34分
10分ほど歩くと遍路道は橋を渡り川の右岸に。橋傍に6基の石仏。四国霊場の本尊石仏だろう。大師像とのペアであるので3霊場だろうが、左端の石仏に「六番」と読める以外、摩耗が激しく札番号はわからなかった。
石仏群の向かいにもペアの石仏。「五番」のように読めた。

県道21号の奥の院碑石;午前11時43分
数分あるくと道は3つにわかれる。その真ん中の道、すぐ先にペアの石仏が並ぶ(午前11時38分)。札番号は読めなかったが、流れからすれば四国霊場本尊座像ペアであろうとその道筋を進む。建治寺から続いた四国88霊場の本尊石仏の一番がどこから始まるのか確認したかったのだが、結局わからずに終わってしまった。
そこから道なりに数分、県道21号の合流点、「四国十三番奥院建治瀧 登山道是より 大正五年建立」とかかれた標石が立つところで出た。


建治寺道散歩はこれでお終い。建治寺までの上り2時間、建治寺から県道21号奥の院標石までおおよそ1時間半弱。お寺の参拝も含めおおよそ4時間の散歩となった。

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