阿讃 箸蔵街道散歩 そのⅠ;琴平の「金比羅さん」の奥の院・阿波の箸蔵寺より、阿波と讃岐を隔てる阿讃山脈・箸蔵街道を辿り讃岐へと下る

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年の瀬も押し迫った、と言うか、諸人こぞりて、クリスマスを祝う日、弟と二人、琴平の「金比羅さん」の奥の院、阿波の箸蔵寺より阿波と讃岐を隔てる阿讃山脈を辿り讃岐へと下る箸蔵街道を歩くことにした。
讃岐側の下り口の最寄り駅は土讃線・財田駅、上り口は阿波の箸蔵寺近くの土讃線・箸蔵駅。大雑把な計画は土讃線・財田駅に車をデポし、列車で阿讃山脈を抜け吉野川流域の段丘面にある土讃線・箸蔵駅で下車。そこから箸蔵寺にお参りし、阿讃山脈の尾根道を辿り土讃線・財田駅に下る、といったもの。 阿讃山脈を穿つトンネルを走る列車ではほんの30分弱ではあるが、阿讃山脈の峰々を越えてゆく箸蔵街道は、距離にして15キロ程度ではあるが、歩きでは5時間以上かかるようである。
この散歩は古の金比羅さんへの参詣路を辿ることもさることながら、阿波と讃岐を隔てる阿讃山脈を越えることが楽しみである。吉野川流域の道を車で徳島に向かう時、それも徳島への高速道路もなく、吉野川に沿って国道を走りながら、北に聳える阿讃山脈が如何なる風情なのか前々から気になっていた。長年の念願が、というほど大袈裟ではないが、それでも結構な楽しみで散歩当日を迎えた。



本日のルート;土讃線・財田駅へ向かう>土讃線・財田駅>土讃線・猪ノ鼻トンネル>秘境の駅・坪尻駅;9時52分>土讃線・箸蔵駅;9時57分>遍路道上り口;10時5分>道標;10時9分>2丁石;10時13分>8丁石;10時20分>9丁石;10時30分(標高350m)>高灯篭;10時37分(標高395m)>野口雨情の歌碑>仁王門;10時39分>「箸蔵山」と刻まれた鳥居;10時43分>鞘橋(さやばし);10時45分>「金比羅大権現」と刻まれた鳥居;10時50分>護摩殿;10時55分>方丈(本坊);10時57分>鐘楼堂;10時59分>本殿;11時3分>八十八ヵ所御砂踏;10時7分

土讃線・財田駅へ向かう
実家のある愛媛県新居浜市を出て国道11号を進み、四国中央市を越え、観音寺市豊浜町(昔の三豊郡豊浜町)に至り、予讃線・豊浜駅の手前で琴平に向かう県道377号に乗り換え、財田川が県道277号とクロスする手前の長瀬交差点で県道5号に入る。
県道5号を少し進むと「香川用水記念公園」の案内。「用水」という言葉に滅法弱く、なおかつ、銅山川疏水散歩の折に「香川用水」のことを知った我が身としては、誠にもって興味津々の地ではあるのだが、それは後日のお楽しみとして先を急ぐ、
県道5号を進み戸川交差点で国道32号(阿波別街道)から少し北に向かい、県道202号へと右に折れると土讃線・財田駅に至る。県道202号は財田駅の北にある有名な「満濃池」近くから土讃線・財田駅を結ぶ結構短い県道ではある。

○吉野川総合開発計画と香川用水
吉野川は四国山地西部の石鎚山系にある瓶ヶ森(標高1896m)にその源を発し、御荷鉾(みかぶ)構造線の「溝」に沿って東流し、高知県長岡郡大豊町でその流路を北に向ける。そこから四国山地の「溝」を北流し、三好市山城町で吉野川水系銅山川を合わせ、昔の三好郡池田町、現在の三好市池田町に至り、その地で再び流路を東に向け、中央地溝帯に沿って徳島市に向かって東流し紀伊水道に注ぐ。本州の坂東太郎(利根川)、九州の筑紫次郎(筑後川)と並び称され、四国三郎とも呼ばれる幹線流路194キロにも及ぶ堂々たる大河である。
吉野川は長い。水源地は高知の山の中。この地の雨量は際立って多く、下流の徳島平野を突然襲い洪水被害をもたらす。徳島の人々はこういった大水のことを「土佐水」とか「阿呆水」と呼んだとのこと。吉野川の洪水によって被害を蒙るのは徳島県だけである。
また、その吉野川水系の特徴として季節によって流量の変化が激しく、徳島県は安定した水の供給を確保することが困難であった。吉野川の最大洪水流量は24,000m3/秒と日本一である。しかし、これは台風の時期に集中しており、渇水時の最低流量は、わずか20m3/秒以下に過ぎない。あまりにも季節による流量の差が激しく、為に徳島は、洪水の国の水不足とも形容された。
さらにその上、徳島県の吉野川流域の地形は、河岸段丘が発達し、特に吉野川北岸一帯は川床が低く、吉野川の水を容易に利用することはできず、「月夜にひばりが火傷する」といった状態であった、とか。
つまるところ、吉野川によって被害を受けるのは徳島県だけ、しかもその水量確保も安定していない。その水系からの分水は他県にはメリットだけであるが、徳島県にとってのメリットはなにもない、ということであろう。古くから吉野川水系からの分水を四国各県は嘱望したが、徳島県と各県の協議が難航した理由はここにある。
この各県の利害を調整し計画されたのが 昭和41年(1966)に策定された吉野川総合開発計画。端的に言えば、吉野川源流に近い高知の山中に早明浦ダムなどの巨大なダムをつくり、洪水調整、発電、そして香川、愛媛、高知への分水を図るもの。
高知分水は早明浦ダム上流の吉野川水系瀬戸川、および地蔵寺川支線平石川の流水を鏡川に導水し、都市用水や発電に利用。愛媛には吉野川水系の銅山川の柳瀬ダムの建設に引き続き新宮ダム、更には冨郷ダムを建設し法皇山脈を穿ち、四国中央市に水を通し用水・発電に利用している。徳島へは池田ダムから吉野川北岸用水が引かれ、標高が高く吉野川の水が利用できず、「月夜にひばりが火傷する」などと自嘲的に語られた吉野川北岸の扇状地に水を注いでいる。
そして、香川用水。池田町に池田ダムをつくり、早明浦ダムと相まって水量の安定供給を図り、香川にはこのダムから阿讃山脈を8キロに渡って隧道を穿ち、香川県の財田に通し、香川用水記念公園にある東西分水工より、東には東部幹線水路、西には西部幹線水路によりで讃岐平野を潤す。
東部幹線水路は 三豊市で高瀬支線(三豊市高瀬町まで流れる全長約11kmの水路)に分かれ、その後、琴平町、まんのう町、丸亀市、綾川町、高松市、三木町、さぬき市と経て、東かがわ市まで伸びる全長約74kmの水路。西部幹線水路 は東西分水工から、観音寺市まで流れる全長約13kmの水路が築かれている(「藍より青く吉野川」を参考にメモしました)。

土讃線・財田駅
9時過ぎに財田駅に到着。弟は既に到着していた。無人駅前には巨大な「タブノキ」が残る。駅開設50周年を記念して植樹された、と言う。駅の開業は大正12年(1923)、と言うから昭和48年(1973)に移されたのだろう。樹齢700年と言うから、何処からか移されたのではあろう。
タブノキ
タブの木の脇にあった案内によると、「タブノキはイヌグスともいい、クスノキ科の高木。樹高20m、径1mにも達する。古来、日本人の樹霊信仰の対象となっていたもののひとつ。温暖な海岸地方に多く見られる。
樹皮はタンニンを含み、八丈島の黄八丈の樺染めに利用される。樹皮と葉は粘質物が特徴で、線香の粘結剤として使われる」といった説明があった。
旧はしくらみち
そのタブノキの案内の横にはこれから歩く「旧はしくらみち」の案内。「むかし、人々は讃岐の金比羅さんにお参りして、更に阿波(徳島県)の箸蔵寺へ足をのばしていました。はしくらみちは信仰の道として繁盛し、阿波と讃岐の交易に重要な役割を果たしてきました。この道の途中には里程を示す道しるべ、二軒茶屋(平成8年改築)などがあります。なお、百丁石から約5kmは現在の四国のみちとはことなっています。尾根づたいに続く道から眺める四方の景観はすばらしく、澄んだ空気の味は格別です(財田町教育委員会)」といった説明があった。
「百丁石」とは箸蔵寺までの里程を示す石碑。百丁とはおよそ11キロ。今回は箸蔵寺から辿るため、最後に出合う里程石となるのだろう。

土讃線・猪ノ鼻トンネル
9時38分に一両の各駅停車ワンマンカーが到着。切符は下車時に社内で精算する。財田駅を出ると列車は阿讃山脈に入る。等高線を見るに、山塊の切れ目部分は平地を進み、切れ目がなくなったところでトンネルに入り、トンネルを出ると川筋の谷間を進み、その谷筋が切れる猪ノ鼻峠で再び猪ノ鼻トンネルに入る。
猪ノ鼻トンネルは全長3,845m。1929年開通。開通当時は中央本線の笹子トンネルに次いで国内第二の長さのトンネルであった。四国においても、昭和25年(1950)土讃線の大歩危トンネル(4,179m)が開通するまで四国での最長トンネルだった(昭和61年(1986)には予讃線・犬寄トンネル(6,012m)が開通)。

秘境の駅・坪尻駅;9時52分
猪ノ鼻トンネルを出ると列車は鮎苦谷川の谷筋に出る。川を南に渡り山塊を穿つ短いトンネルを抜けると土讃線・坪尻駅に。列車は駅のホームを少し先に進み、停車。そして運転手が後方の運転室に移り、列車を坪尻駅に入れる。 この駅はスイッチバック方式の駅として鉄道マニア垂涎の駅とのこと。実際「撮り鉄君」が駅でカメラを構えていた。そういば、テレビでも「秘境駅」として紹介されていた。
昔は駅から30分ほど山を登ったところに木屋床と呼ばれる集落があり、そこの住民が利用していたが、現在では集落に道路が整備され鉄道を利用する人はほとんどいないようである。
で、何故スイッチバックか、ということだが、設立当時は信号所であったのではないだろか、散歩の折々で信号所が駅になったところに出合う。 ついでのことながら、地図を見ると坪尻駅の西に鮎苦谷川が隧道を抜ける。地形図を見ると、坪尻駅辺りが自然の流路のように見える。チェックすると、駅のあるところが元々、鮎苦谷川の谷底であったところで、駅の敷地を確保するため、隧道で川の流路を変え、川底を埋め立てて当時の信号所を造ったとのことである。

土讃線・箸蔵駅;9時57分
坪尻駅を離れ鮎苦谷川の谷筋を時にトンネルを抜けながら列車は巨大な吉野川の川筋に出る。吉野川によって形成された河岸段丘面を西に進み土讃線・箸蔵駅に到着。
駅には箸蔵寺への道案内はあるだろうと思っていたのだが、何もない。とりあえず成り行きで東へと向かう。





遍路道上り口;10時5分(標高155m)
駅を離れ、駅前の道を成り行きで東に向かう。道は吉野川の発達した河岸段丘面を走る。河岸段丘は河川の旺盛な侵食作用と地殻変動などによって形成されるが、四国三郎とも称される吉野川の激しい流量による河川侵食作用もさることながら、この辺りの吉野川は日本最大の断層である中央構造線に沿って東流しており、吉野川の激しい流量にこの太古の地殻変動が相まってこのように発達した河岸段丘が形成したのであろう。
上にメモした吉野川総合開発計画のところで、「徳島県の吉野川流域の地形は河岸段丘が発達し、特に吉野川北岸一帯は川床が低く、吉野川の水を容易に利用することはできず、「月夜にひばりが火傷する」といった状態であった」との説明の背景はこういうことである。
それはともあれ、成り行きで先に進み道が国道32号に合流する辺りの道脇にコンクリートの坂道があり、そこにささやかな「遍路道」の案内がある。地図をチェックしても、その先に登山道とか参道といった道はわからない。箸蔵寺は四国別格15番札所でもあるとのことであり、「遍路道」でもあるのだろうと道を山に向かって右に折れる。
○四国別格二十霊場
四国には88の四国八十八箇所霊場の他、空海が足跡を残した伝わる番外霊場と呼ばれるがあり、その数は二百とも三百とも伝わる。その番外霊場のうち20の寺院が集まり昭和43年(1968)に創設してものが四国別格二十霊場と称する。

道標;10時9分(標高198m)
道を進むと5分程度で道標がある。「箸蔵寺まで1.8キロ」「雲辺寺まで約19キロ」とある。進行方向がいまひとつはっきりしないのだが、なんとなく箸蔵寺方面を示しているように思える。
であれば、この雲辺寺への遍路道は、阿讃縦走路を進むルートであろうか。大雑把なルートは、この後で訪れる猪ノ鼻峠への分岐から猪ノ鼻峠に向かい、「四国のみち」を中蓮寺峰に向かい、更に六地蔵越を経て尾根道を雲辺寺へと向かうようである。



2丁石;10時13分(標高220m)
参道と言うより山道といった風情の道を進むと遍路道標らしき石碑が立つ。文字は摩耗し読むことはできない。更に、そのすぐ先に2体の石仏が並び、右手の石仏には「二丁」と刻まれている。これは、財田駅近くに建つ箸蔵寺まで百丁石の一連の丁石だろうか。はっきりしないが、「二丁」と刻まれているのは、はっきり読み取れる。
では1丁石は何処?とチェックしたのだが、はっきりしなかった。弟によれば、途中道脇に丁石らしきものが倒れていたとのことだが、はっきりしない。それはともあれ、丁石は箸蔵寺百丁石から箸蔵寺まで、といった説明がよくあるが、この丁石を見る限り、お寺を越えて参道までカバーすることになるようだ。

8丁石;10時20分(255m)
先に進み、右手に三好高校の山地農場 が開ける手前で車道と交差。遍路道はそこを横断し数段の石段を上り先に進む。と、また石仏が佇み、そこには「八丁」と刻まれる。2丁石からこの8丁石までは300mもないように思える。本来なら600m強なければ理屈に合わないのだが、どういうことだろう。実用性を失った丁石故、なおざりにされている、ということだろか。不明である。







9丁石;10時30分(標高350m)
8丁石を越え、山腹をほぼ直登する参道が標高310m辺りから等高線に沿ってトラバース気味に東に向かうと9丁石があり、この丁石もはっきりと「八丁」の文字が刻まれていた。


高灯篭;10時37分(標高395m)
9丁石から山腹を等高線を少し上げながら進むと、南東に下る尾根筋の突端部に大きな建造物が見える。遠目からはコンクリート造りなのだろう、などと想っていたのだが、実際は木造の、しかも国登録有形文化財(建造物)に指定されている「高灯籠」であった。高灯籠が建つ尾根筋突端部から吉野川の川筋、発達した河岸段丘、川を隔てた南に聳える四国山地が一望のもとである。
灯籠前に案内があり、「箸蔵寺高灯篭は、木造二重灯篭、宝形造桟瓦葺の建物で、下重(がじゅう)と上重(じょうじゅう)の釣り合いがよく、均衡のとれた優美な姿をみせている。寺域の最下段にあり、吉野川を一望できる丘上(通称カザミノ丘)に建つ。建物は、下重の切石積基壇の上に袴腰を付け、北面出入口には唐破風屋根をかける。下重組物は出組で、軒を扇垂木、上重は絵様肘木と二軒繁(ふたのきしげ)垂木としている。上層は方一間で、柱や天井を漆喰塗込とし、四面に花頭窓を開くなど特異な形式を持つ木造灯篭である。
かつては、この地方の産業を支えていた刻みたばこ業者などの舟運関係者が吉野川を遡上する際の灯台として役目を果たしていた。建築年代は棟札により、明治17年(1884)築である。
現在も建築当時の姿をとどめ、古くから水上安全の神などで信仰される箸蔵寺を象徴する特異な建造物として、国の登録有形文化財(建造物)に認められた(三好市教育委員会)」とあった。この高灯籠は吉野川往来の舟の目印ともなり、十数キロ先からその灯りが見えて、とのことである。

ところで、案内に、「地方の産業を支えていた刻みたばこ」という一文。先般、土佐北街道を四国中央市の川之江から法皇山脈を越えて銅山川谷筋にある新宮町に下ったのだが、その地はかつて阿波からもたらされた「刻みたばこ」が主要商品作物であったとメモした。気になりちょっと寄り道して「刻みたばこ」をチェック
○阿波の刻みたばこ
江戸の頃から阿波の特産品として藍とたばこがあったと言う。阿波のたばこはキセルに詰め燻らす刻みタバコである。主要生産地は徳島の三好郡が中心。急斜面で稲作に不向きなこの地方ではタバコが栽培され、霧の発生する山間地の地形も好材料となり独特の味わいのある葉タバコの生産が可能となった。実際徳島での葉タバコの生産の95%が三好・美馬の山間部で生産されたとのことである。
明治に入り、刻み道具の近代化により生産量も飛躍的に拡大し販路は全国に広がり、たばこ集散地であった池田、井川を中心にタバコ長者が登場することになる。
しかし、明治に全盛期を迎えたタバコ産業は、明治37年(1904)の政府によるタバコの専売制交付により大打撃を受け、衰退に向かう。専売制の理由は、日露戦争の戦費を賄うため、と言う。

野口雨情の歌碑と12丁石
高灯籠の北は広場となっている。そして、その広場の東側の上をロープウエイが通る。広場の先、と言うか上には石段があり、大きな山門が見える。とすれば、箸蔵寺はここから先が境内ではあろうから、ロープウエイにより景観が少々損なわれるのは否めないが、今歩いて来た遍路道を上ることが困難な善男善女にとっての便宜を考えれば、善しとすべしではあろう。
因みにロープウエイと遍路道以外のアプローチとしては、遍路道入り口の東から登る一車線の道が、先ほどの三好高校の山地農場脇を大きく西に抜け、そこから反転しこの広場まで通っているようである。

それはともあれ、その石段脇に12丁石と歌碑が建つ。そこには、「見たか蔵谷千畳敷や 藤の根元の笠の水 雨情」とある。案内には「野口雨情は昭和11年2月14日、箸蔵地区を視察 11節の箸蔵小唄を残した。この詩はその第9節でありこの地区の伝説地である蔵谷の行場と湧水地・笠の水を詠んだものである(三好市教育委員会)」とあった。
蔵谷の行場はこの広場の駐車場から谷に10分ほど下ったところにあるようだ。しかし、湧水池・笠の水が何処かはよくわからない。弘法大師が箸蔵街道を辿り、喉が渇いたため持っていた杖を土に指すと、そこから水が湧き出た。その湧水地は後から訪ねる「一升水」と言うことはわかるが、笠の水の話は、笠に水を入れ箸蔵までたどり着くと、眼下に大河吉野川を目にし、その笠の水を池に移された、とのこと。それ以来、その地には傘一杯の水が涸れることなく、道行く日人の渇きを潤した、とのことで、その地を笠の水大師と称するようであるが、どこにあるのか特定できなかった。

仁王門;10時39分(標高405m)
石段の上にある山門は「仁王門」であった。箸蔵寺の本来の山門であり、両脇に仏教を守護する仁王様(金剛力士)の安置されている。また、門の中央には大きな草鞋が3足奉納されていた。遍路の旅の安全を祈ったものであろうか。
門の脇にあった案内によると、「国登録有形文化財 仁王門 箸蔵寺仁王門は、箸蔵山の中腹にあり、高灯篭から方丈へ向かう参道入口に構える。木造二重門で、脇間に金剛力士像を安置している。建物は、入母屋造桟瓦葺きで、切石積基壇に建ち、上重・下重とも出組詰組で、二軒繁(ふたのきしげ)垂木などの細部をもつ。上重は、正面中央に両開きの参唐戸を付け、両脇に花頭窓を開けるほか、内部に壇を構え、釈迦如来坐像と十六羅漢を安置する。
粽(ちまき)桟唐戸、藁座、花頭窓などに禅宗様式を多用し、間斗束(はざまはかるたば)、長押(なげし)、舞良戸に和様を組み入れた折衷様式の見応えのある建築物である。(三好市教育委員会)」とあった。
建築年代は棟札により明治13年(1880)とも、また、明治41年(1908)に高知県から移築されたとの説もあるようだ。現在建築当時の姿をとどめ、近代における本格的な禅宗様式の二重門として高い評価を得ている、とのこと。

禅様式? この箸蔵寺は真言宗御室派の本山。真言宗のお寺様に禅宗様式の伽藍? 気になってチェックすると、京都にある皇室の御寺として知られる泉湧寺も真言宗であるが境内の伽藍配置は禅宗様式と言われるので、こういったケースもあるのだろう。

扁額に「箸蔵山」と刻まれた鳥居;10時43分(標高418m)
参道は仁王門から続く整備された参道を進むと「箸蔵山」との扁額がかかる鳥居がある。お寺さまに鳥居。これは明治元年(1968)の神仏分離令によりそれまで神仏混淆であった寺社が分かれるまで普通であった寺社の姿である。
少々乱暴ではあるが、神仏混淆・習合とは、日本古来の宗教で人々に身近ではあるが教義をもたない神道と、膨大な経典による教義はあるが、外来の宗教であり民衆には敷居が高い仏教が、それぞれの強みと弱みを補完し合い普及を図る、今でいうところのコラボレーションン・マーケティングである、と自分流に解釈している。

■真言宗御室派
ところで、この箸蔵寺、立派な鳥居が参道に堂々と残るように、明治の神仏分離の影響を受けず昔の神仏混淆の姿を留めるが、その原因は、この箸蔵寺が真言宗御室派であったことにある、とのこと。
箸蔵寺のHPの説明に拠ると、真言宗御室派とはユネスコの世界遺産にも登録されている京都の仁和寺を本山とする宗派。仁和四年(888年)に、宇多天皇により建立されたお寺で、その後も皇室の系統が住職を務める門跡寺として明治維新を迎える。
で、明治維新当時の仁和寺の門跡は、最後の皇室出身者である純仁(じゆんにん)法親王であり、親王は勅命により還俗し、小松宮彰仁(こまつのみやあきひと)親王として戊辰戦争で旧幕府軍を討伐する官軍の総大将となった。つまりは、新政府軍の総大将が御室派のトップであったことが箸蔵寺が、神仏分離を免れた理由である、とのことである。

鞘橋(さやばし);10時45分(標高)
鳥居のすぐ先で参道は切り込んだ沢筋を渡り東に折れる。その沢筋に屋根のついた趣のある橋が架かる。鞘橋(さやばし)と称する、とのこと。橋の袂には天狗の石像。山岳修験の霊山には役の行者とともに天狗の像がつきものだが、この箸蔵寺も、はじまりは山岳修験の行場でもあったのだろうか。それとも、本家の琴平の金比羅さんの開山縁起に役の行者が登場することを踏まえたストーリーだろうか。天狗は金比羅大権現の眷属故のことだろうか。妄想が拡がる。

扁額に「金比羅大権現」と刻まれた鳥居;10時50分(標高467m)
鞘箸の先は整備された石段。本坊に続く石段は400段にもなると、言う。その石段の途中に、またもや大きな鳥居。扁額には「金比羅大権現」とある。 箸蔵寺の本尊は金比羅大権現と言う。「権現」の「権」とは「仮」とか「代わり」と言った意味であり、権現は「仏が神と言う仮の姿で現れた」とする意味であり、本地垂迹によれば、その本地は不動明王とも、毘沙門天、十一面観音ともされる。もっともそれって後付けの理屈ではあろう。
で、その「金比羅」とは、ということだが、Wikipediaによれば、金比羅とは「クンビーラ(マカラ)。元来、ガンジス川に棲む鰐を神格化した水神で、日本では蛇型とされる。クンビーラ(マカラ)はガンジス川を司る女神ガンガーのヴァーハナ(乗り物)でもある」とされる。金毘羅権現が海上交通の守り神として信仰されてきた所以はここにある。
それはそれとして、琴平の象頭山松尾寺の縁起によれば、大宝年間に修験道の役小角が象頭山に登った際に金毘羅(宮比羅、クンビーラ)の神験に遭ったのが開山の由来との伝承があり、これが象頭山金毘羅大権現になったとされる。上でメモしたクンビーラ(金比羅)は日本では薬師如来を守護する「薬師十二神将」の筆頭の仏さま「宮毘羅(くびら)大将」とされた、とも説明されるが、役の行者の山岳修行の頃に、この理屈が定着していたか否か門外漢にはわからない。
よくわからないながらもメモを続けると、江戸の頃までは松尾寺の本尊であった金比羅大権現は明治の神仏分離により、金比羅さんは神社となり現在は金比羅宮と呼ばれ、大物主を主祭神とした。とすれば、神仏混淆の姿を今に残す箸蔵寺は、俗に言う「金比羅宮の奥の院」とのフレーズには違和感を持つ。「現在は金比羅宮と呼ばれるようになった金比羅さん(松尾寺)の奥の院だった」と言うほうが、実情を反映しているのではないだろうか。

護摩殿;10時55分(標高505m)
石段を上り切ると正面に護摩殿、その横に本坊が建つ。共に国指定重要文化財である。護摩殿の案内によれば、「護摩殿は本殿を少し小さくしたような建物で、全体の構成や彫刻の様子もほぼ同じであることから、造営の時期は本殿の造営と同じ時期といわれる。
建物は入母屋造りの外陣と宝形造りの奥殿を切妻造りの内陣で繋いだ複合社殿形式であり、本殿同様規模が大きく目を見張る建築である。 意匠も優れており、外殿が三手先(みてさき)、内陣が二手先、奥殿が三手先とし、建物の格付けに合わせて使われれているほか、彫刻が多用され、装飾性を 高めている。
このように複合社殿形式としながらも奥殿屋根のように仏寺建築を混交する手法は極めて特異性をもち、その時代の建築を知る上で貴重な建築物である(三好市教育委員会)」とある。箸蔵寺のHPには、護摩堂は「本殿」を見本に建立されたものであり、1200年近くの歴史を持つ「護摩祈祷(ごまきとう)」は現在ここで毎朝毎晩修されている、と。また、護摩堂の前にある石灯籠は、歌舞伎の「八代目市川団十郎」により寄進されたもの、とあった。

方丈(本坊);10時57分(標高505m)
護摩殿の東に方丈(本坊)が建つ。方丈前からは眼下に吉野川、正面には四国山地が聳える。方丈(本坊)の案内によれば、「方丈(本坊)は東西に長い建物で、部屋がいくつのあり、寝泊りする人たちへの食事を準備する庫裏や宿坊・納経所・書院・離座敷などと接合する大規模な建築である。安政3年(1856)の箆(へら)書きがある平瓦が残り、本殿の一連の造営と一致している。
建物全体は入母屋造りであるが、方丈やや中央に張り出しの切妻造りで妻側に建築時代を示す唐破風の装飾が付けられる大玄関がある。その西側には小玄関があり、大玄関から小玄関の廻りが方丈の顔となる。特に開閉装置の戸袋の彫刻は荘厳で鏡板前面に虎の彫刻が施されている。このような大規模で装飾的な社殿建築は、四国にも類がなく、その時代の建築を知るうえで貴重な建造物である(三好市教育委員会)」とあった。

鐘楼堂;10時59分(標高517m)
護摩殿に戻り、先に進むと、護摩殿の東に鐘楼堂が建つ。魅力的な堂宇である。国指定重要文化財である。案内には、「鐘楼堂は護摩殿や薬師堂と一連の造営で江戸時代末期から明治初頭に建立されたといわれている。
一般の鐘楼によく見られる袴腰風の造りとは逆の発想で下層の柱の間を板壁で囲う楼造とする特異な建物で、四本場柱の鐘楼と比べるとひとまわり大きい建築である。屋根は勾配の穏やかな入母屋造りで浅瓦を葺き、軒には一間の扇状の垂木を配し禅宗の造り方を取り入れている。
境内にある他の建物と比べると、彫刻が少なく簡素な意匠であるのは鐘を撞くという機能を優先させたものといわれている。
このような特異な建物は四国にも類がなく、その時代の建築を知る上で貴重な建築物である(三好市教育委員会)」とあった。

造営の時期は江戸時代末期から明治初頭、と案内にあったが、箸蔵寺は江戸時代の寛文7年(1677年)と文政9年(1826年)の火災により伽藍の大半を焼失した、とのこと。つまり、現在見られる建造物は概ね文政の火災以後、江戸時代末期に建立されたもの、ということである。

薬師堂
鐘楼堂の手前から鳥居を潜り本堂に上る石段が続く。鳥居には「金比羅大権現」とある。本殿に続く石段は200段ほどあるようだ。その石段の「踊り場」の東に薬師堂が建つ。この堂宇も国指定重要文化財である。祈祷札から建立の時期は文久元年(1861)直前と伝わる。案内によれば、「建物は三間四方で宝形造の屋根を付け、正面に一間の向拝を構える。組物は身舎(もや)や平三斗(ひらみつど)、向拝を出三斗(でみつど)とし、附属堂の様相を呈している。
堂内にある厨子は紅梁や木鼻の絵葉から江戸時代中期の様相を顕している。破風尻など至ところに彫金を多用し、浅唐戸、中備彫刻など全体に彩色するなど賑やかに仕上げられ、禅宗様式が色濃く出ている。建物よりも古く文政9年(1826)の大火の際に持ち出され、火災を免れたものといわれている。このような大規模で装飾的な社殿建築は、四国にも類がなく、その時代の建築を知るうえで貴重な建造物である(三好市教育委員会)」とあった。

天神社本殿
石段を挟んで薬師堂の逆側に石垣に沿って横に続く石段があり、その先に天神社がある。国指定重要文化財である社に案内には、「天神社は小さい社であるが、細部まで彫刻が多用され、虹梁(こうりょう)の模様などから江戸末期一連の造営といわれている。
神仏の信仰が混在していた時期には寺院に神社があるのは普通であって、今日では神社の形をしていても仏堂の名を使う寺院が多い中で箸蔵寺ではかつての信仰の様子をよく残していることがわかる神社本殿である。
このような特異で見応えのある建造物は、四国にも類がなく、その時代の建築を知るうえで貴重な建造物である(三好市教育委員会)」とあった。

本殿;11時3分(標高543m)
仁王門から数えると600段とも言われる長い石段を上り終えると正面に本殿が建つ。案内には「国指定重要文化財 本殿 箸蔵寺では中心を本殿と呼び、仏教と神道が一体となっていた時代の様相を色濃く残している。
建物は外殿(げでん)、内陣、奥殿からなり、山を背に建てられているため、外陣向拝部の地面から奥殿仏間の床までの高低差は11.38メートルある。入母屋造りの奥殿と入母屋造りの外陣を切妻造りの内陣で繋いだ複合社殿形式で全国的にも最大級の規模を有する。細部の意匠が特に優れており、組物や彫刻が多様されている。
安政元年(1854)以降に着工され、文久元年(1861)までに一部の制作え残しほぼ完成したといわれ、すべてが完成したのは明治初頭といわれる。 このような大規模で装飾的な社殿建築は、四国にも類がなく、その時代の建築を知るうえで貴重な建造物である(三好市教育委員会)」とある。

ここに箸蔵寺の本尊である「金比羅大権現」が祀られる。本尊は開山以来秘仏となっており、歴代の住職でさえも拝顔することはできないようである。
寺伝によれば天長5年(828年)、というから平安時代前期、四国巡錫中の弘法大師が、当地に金毘羅大権現の神託を受けたとのこと。「箸を挙ぐる者、我誓ってこれを救はん」がそれである。大師は自ら金毘羅大権現の像を刻み堂宇を建立したことが当寺院の始まりと伝えられている
。 「箸を挙ぐる者」とは、すべての人々が使う箸の喩あり、「すべての人々」の意味である。即ち、すべての国民を救済する、ということであり、この喩が箸蔵寺の由来でもある。

箸に纏わる話が箸蔵寺のHPにあった。「讃岐のこんぴらさんのお祭りの時に使われた箸を箸蔵山にすむ天狗様が当山に運び納めたという「天狗の箸運び伝説」が地元で語り継がれており、これらのことより箸蔵寺は、「こんぴら奥の院 箸蔵山」の名で多くの方々に親しまれています」とのこと。箸蔵寺が金比羅さんの奥の院の由来である。先ほどの鞘箸脇の天狗さまは、箸蔵山に棲んでいた天狗様ということ、か。

八十八ヵ所御砂踏;10時7分(標高543m)
本堂が建つ一帯は広い敷地が広がる。本堂右手には観音堂、左手には五大力尊、十三重の塔、御影堂と続き、左手の奥には広い「八十八ヵ所御砂踏」がある。「八十八ヵ所御砂踏」にはコの字形に四国八十八カ所の霊場を勧請し、各霊場の砂を納める石仏が佇む。
八十八ヵ所御砂踏脇に木標があり、「遍路道」と書かれている。またその木標の下に「はしくら街道」と書かれた木標も。「箸蔵街道」はここから始まる。

金比羅さんの奥の院と言うから、ほどほどの堂宇かとも思っていたのだが、参道入口から本殿までおよそ1時間もかかり、国指定重要文化財の堂宇が立ち並ぶ誠に大きなお寺さまであった。で、あれこれメモが長くなってしまった。今回のメモはここまでとし、箸蔵街道歩きのメモは次回に廻す。

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