川崎 夢見ヶ崎散歩:鹿島田から夢見ヶ崎を歩く

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昨年、何度かに分けて二ヶ領用水を辿った。その途中、ニケ領用水が大師堀町田堀のふたつに分流する辺り、南武線・鹿島田駅の西に夢見ヶ崎という丘陵があるのを知った。多摩丘陵からの独立した標高30mほどの独立丘陵である。 当日は用水散歩に気が急いており、夢見ヶ崎はパスしたのだが、そのうち歩いてみたいと思っていた。
夢見ヶ崎に惹かれた理由は古墳群が残るとか、川崎の工業用地の土砂確保のため丘陵が削られた、といったこともあるのだが、最大の要因は至極単純。「夢見ヶ崎」という「名称」そのものに惹かれたためである。

今年に入り、とある休日、何処と言って歩きたいところが思い浮かばない。であれば、ということで、気になっていた「夢見ヶ崎」を歩いてみることにした。



本日のルート;鹿島田西跨線橋・西詰>杉山神社>小倉緑道>無量院>小倉のトマトソース工場跡>小倉用水池の由来碑>南加瀬貝塚跡>庚申様の祠>夢見ヶ崎公園>白山古墳の標>夢見ヶ崎動物公園周辺の古墳の案内>寿福寺>白山古墳跡>跨線橋・小倉陸橋>南武線踏切>東明寺>御嶽神>塚>称名寺


南武線・鹿島田駅
夢見ヶ丘への最寄りの南武線・鹿島田駅で下車。二ヶ領用水散歩に際し、幾度も訪れた駅ではあるが、二ヶ領用水の本流が大師堀と町田堀に分かれていた箇所は駅の東側。駅の西側を歩くのははじめてである。
●南武線
南武線は大正10年(1921)設立の南武鉄道がそのはじまり。首都圏を走るいくつかの私鉄と同じく、多摩川右岸の砂利採取販売が主たる設立の目的であった。また、これも他の私鉄設立時の状況と同じく、事業資金集めが難航し、五日市鉄道や青梅鉄道がそうであったように、浅野財閥が経営に参画し、事業が動き始める。
浅野財閥は、五日市や青梅の石灰を川崎のセメント工場へ運ぶため、現在の中央線>東海道線といったルートを使っていたのだが、この迂回輸送ルート避け、立川から直接川崎へと運ぶべく、経営傘下にある五日市鉄道を南武鉄道に合併し、奥多摩・秋川筋からの石灰を川崎にショートカットで運搬することを可能とした。
南武鉄道の貨物輸送は順調に発展するが、旅客輸送に関しては。開業当初「シジュウカラ電車」と呼ばれるように、運転手と車掌のみ、といった状況であったようだが、昭和初期には久地の梅林、稲田堤の桜など沿線各地をPRし、客足の拡大をはかったようである。
昭和10年(1935)を過ぎると、川崎の軍需工場との利便性などで沿線各地に工場も進出し、客足も飛躍的増大し通勤ラッシュの様相を呈したとのことである。その後戦局の悪化に伴い、昭和19年(1944)国有化され国有鉄道南武線となった。

鹿島大神
駅を下り、鹿島大神に向かう。幾度もこの辺りを歩きながら、鹿島田の地名の由来ともなったこの社に、未だお参りをしていなかった。鎌倉時代、この地の開墾に入った人々が当時武蔵で知られていた鹿島神宮を勧請した社である。
駅から成り行きで進み、横須賀線・新川崎駅の東口、少し北に鹿島大神。境内に滑り台といった遊具が見える。境内入口にある「川崎歴史ガイドパネル」には「鹿島大神は鎌倉時代の創建で村の鎮守となった。やがて開墾が進み水田ができると鹿島大神に寄進し、のちに鹿島田の水田・・・(注;ママ)こうして鹿島田という地名が生まれたらしい」、との説明があった。現在、横須賀線・新川崎駅となっている新鶴見操車場の建設に伴って、昭和2年(1927)この地に移されたとのことである。

新川崎駅
夢見ヶ崎に向かう。その独立丘陵との間には誠に広い線路敷地が広がる。かつては新鶴見操車場であり、現在はその跡地を横須賀線や貨物列車が走る。線路を跨ぐ歩道橋を西に向かう。線路にはいくつもの貨物機関車が止まっており、少しだけ貨物操車場の名残が感じられた。
●新鶴見操車場
新鶴見操車場が始動したのは昭和4年(1929)。発展著しい京浜工業地帯への原材料や製品などの貨物輸送ルートが焦眉の急となり、品川と鶴見駅を結ぶ貨物路線が建設され(品鶴線)、その貨物操車場としてスタートした。
南武線が武蔵小杉で大きくカーブしているのは、元々の計画路線であった二ヶ領用水・府中街道沿いの敷設ルートが新鶴見操車場にあたるため、それを避けるべく大きく迂回した、とのことである。
京浜工業地帯の貨物輸送の幹線として、最盛時は1日5000両もの貨物を捌いたこの操車場も、鉄道輸送の需要減少に伴い昭和59年(1984)、信号所としての機能を残し、操車場の機能は廃止となった。
●新川崎駅
その新鶴見操車場跡に新川崎駅がある。JR川崎駅とは結構離れているのだが、「新川崎」としたその理由は?チェックする。昭和55年(1980)開業のこの駅は、当初「新鹿島田操車場」との案もあったようだが、この路線の開かれる主因が、混雑する東海道線から横須賀線を分けることにあり、貨物線として開かれた品鶴線をバイパス路線として活用し横須賀線を通す、といったこともあり、それなら品川と鶴見の間にある「川崎駅」の代替駅でしょうと、言うとこで「新川崎駅」となったようだ。
新川崎駅には開業時は横須賀線(横須賀・総武快速電車)が走ったが、平成13年(2001)からは湘南新宿ラインの列車も走るようになった。また、貨物列車も大半は新東海道貨物線や武蔵野線に移されたが、現在でも品鶴線から山手貨物線を経由して東海道と東北方面を結ぶ貨物列車も走っているとのことである。多くの線路が並ぶわけである。
◆品鶴線と新幹線
因みに、貨物線として開かれた品鶴線であるが、この路線跡は新幹線の路線としても活用されている。新幹線建設時、用地確保が困難なため、品川から武蔵小杉辺りまでは品鶴線を活用し、武蔵小杉の先で東へと分かれる。前々から、品川を出た新幹線が何故にスピードアップを妨げる急なカーブで進むのか不思議ではあったのだが、これで長年の疑問が解消された。ものごとには、須(すべから)らく、その理由があるものである。

鹿島田西跨線橋・西詰
跨線橋を渡り橋の西詰に。東に見える小高い丘陵が夢見ヶ崎ではあろう。そのまま丘陵に進もうか、それとも、二ヶ領用水散歩で水路跡だけチェックしていた「小倉用水」を辿ってみようか、と少し悩む。で、少し寄り道とはなるのだが、小倉用水跡に向かうことにした。




■小倉用水

跨線橋西詰から南に下る。地図をチェックすると、道路に沿って立つ高層マンション群が切れ、かつての新鶴見操車場敷地跡に公園が現れる辺り、日吉小学校の少し南から、如何にも水路跡らしき道筋が見える。
細路に入り込むと、道の両側が段差となっており、水路跡の印象が強い。

◆日吉小学校
散歩の時は特に気にならなかったのだが、メモの段階で「日吉」小学校の名称が気になった。特に地名に日吉はなく、日吉と言えば、当地川崎ではなく、慶応のある横浜市でしょう?チェックすると、慶応大学日吉キャンパス開校に端を発した横浜市と川崎市の日吉村合併騒動が現れた。
経緯はこういうことである;日吉の由来は明治22年(1889)から昭和12年(1939)まで続いた日吉村による。この日吉村は、現在は川崎市幸(さいわい)区にある「小倉」「鹿島田」「南加瀬」「北加瀬」の4字と、横浜市側にある「矢上(矢上川から西側が現在の日吉町、川を境に川崎に矢上が残る)」「箕輪」「駒林(現在の日吉本町)」「駒ヶ橋(現在の下田町など)」の4字を合わせた8区域となっていた。
で、この日吉村は川崎市に合併の予定であったのだが、昭和9年(1934)、慶応大学が矢上にキャンパスを開校することから状況が大きく変わる。合併相手として横浜市が名乗りを上げたわけである。
途中の横浜市と川崎市の日吉村を巡る綱引きのあれこれは省略するとして、日吉村は鶴見川を境に、川の西は横浜市、東は川崎市に合併することになった、とか。日吉小学校は昔の日吉村時代の名残。逆に、横浜側の日吉地区にも川崎市の地名である「矢上」を冠した名称も残っている。

●杉山神社
水路跡を進みながら地図をみると、道筋の近くにに杉山神社が見える。水路跡を離れ、ちょっと寄り道。境内の案内には「当社の鎮座は古く、飛鳥時代、大化の改新によって国郡制度を敷いた頃より祀られており、近年まで境内地にあった神木樹齢一千年余の二株の古松がその歴史を物語っている。当時、小倉村は、皇室直轄領として栄え、杉山大神は、その村落の守護神として農業生活の中枢となして来た。
戦国時代に至り、北條氏家臣で小机城主であった笠原氏の崇敬を受け、しばしばその代参を迎えた。
江戸時代には、小倉村は、旗本松下氏の領地となり、領主松下氏は、乗馬して参詣したと伝えられ、近年まで鳥居前に下馬札が立てられていた。 新編武蔵風土記には、「杉山社、村の東北端にあり本社は覆屋あり、前に石の鳥居あり、本地不動、長さ三尺許の立像なり、村の総鎮守なり、無量院持」とある。

鳥居脇には庚申塔。案内には、「江戸時代の享保20年乙卯年11月に小倉講中八人によって祀られた道中村落安全の神で。三猿を基盤にした青面金剛像が刻まれています。
元は杉山神社南側の南加瀬尋常高等小学校の校庭の傍にあり、その講中は庚申の夜に眠ると凶事が起こる、という言い伝えから、その夜は当番の家に集まり、飲食をしつつ村の様々な相談事をして夜を明かした。御堂並びに周囲の改修を記念してこれを記す 平成元年 講中」とあった。

また、鳥居の先には石橋があった。小倉堀からの引水なのか、小倉堀にあった石橋を移したものか、詳細は不明である。

◆杉山神社は由緒不明の「ローカル神」
杉山神社は、帷子川、大岡川水系で、多摩川の西の地域だけ、とはいうものの、現在の旭区にはなにもないのだが、ともあれ、誠にローカルな神様。19世紀のはじめ頃、武相に70余社ほどあった、とか。
杉山神社が歴史に登場するのは平安時代、9世紀の中頃と言う。『続日本後記』に「武蔵国都筑郡の枌(杉)山神社が霊験あるをもって官弊に預かった」、とか、「これまで位の無かった武蔵国の枌(杉)山名神が従五位下を授かった」とある。
また10世紀の始めの『延喜式』に、都筑郡唯一の式内社とある、当時最も有力な神社であったのだろう。が、本社はどこ?御祭神は誰、といったことはなにもわかっていない。

●小倉緑道
民家の間を弧を描きながら進んだ水路跡の道は、杉山神社の南を通る車道とクロスした先から、植木を境に車道と歩道に分かれた道となって南に下る。小倉小学校の北を通る車道をクロスした南角に「「川崎歴史ガイドパネル」の「小倉用水」の案内。「近くに鶴見川が流れるものの川床が低く、そこから水を引けなかったために、享保年間、二ヶ領用水から小倉池へ分流する形で開設。穀倉地帯小倉の米作はこの用水によって支えられた」とある。
小倉地区には昔から池や沼が点在していたが、次第に土砂などにより湿地状態となり、多くは水田として利用されていったようだが、小倉池もそのひとつ。二ヶ領用水と繋がれることになり、広さは1町8反と言うから180m四方といった大きさとなったようだ。場所は現在の小倉小学校の辺りにあった、とも言われる。
因みに、小倉の地名の由来は「武蔵の国府に米を送る倉」、「鎌倉期の豪族小倉氏」などが挙げられる。

●無量院
「小倉用水案内パネル」から少し北東に寄り、無量院に寄り道。山門入口に「川崎歴史ガイドパネル 無量院と小倉池の伝説」があり、「清水山無量院満財寺。境内には寛文元(1661)年に造立した市内最古の庚申塔がみられる。また、無量院には小倉池の底にあったという龍宮にまつわる伝説が残っている」とある。

◆龍宮伝説
誤って小倉池に落ちて行方知らずとなったおじいさんが、3年後、当人の法事の時に龍宮から戻ってきた。が、龍宮でもらった玉手箱を開けたため亡くなってしまう。玉手箱に残っていた観音様と龍の鱗を供養として無量院の本尊胎内と燈籠に納めた、と。ために無量院には龍燈観音が残る。

龍宮城とか玉手箱とか、どのような経緯でこのストーリーが出来上がったのか興味深いのだが、少なくとも、山門前にあった石碑に刻まれていた「龍燈観音」の由来はこれでわかった。


◆庚申塔
境内に入る。品のいいお寺様の印象。境内には案内にあった庚申塔があった。庚申塔とはいいながら石灯籠となっている。幾多の庚申塔と出合っているが、石灯籠の庚申塔は珍しい。そこに彫られる三猿も印象的。
案内によると、「庚申塔(石灯籠) 中国には道教という思想があり、庚申信仰もその一つとして、平安時代にわが国に伝わり、江戸時代から庶民の間にも広まりました。
庚申信仰とは、六十日ごとに巡ってくる庚申の夜に眠ってしまうと、三尸という虫が体内から抜け出して天に昇り、天帝にその人の罪過を報告するので、庚申の夜は眠らずに、庚申待といって、健康長寿を祈願するものです。そこで庚申塔が、礼拝の本尊として建てられるようになりました。
本庚申塔は、市域に現存する三百余基の中では最も古く、江戸時代の寛文元年(一六六一)に建てられたものです。塔の形態は仏教の法具である燈籠ですが、その竿部に三猿を彫り出し、庚申信仰を表わしています。三猿は、腰を落とした姿勢で正面を向き、右から口・耳・目を塞いで、この世での罪過は「言わざる・聞かざる・見ざる」というポーズをとっています。性別の表現は控え目ですが、右から雄・雌・雄の順に並んでいます。
川崎市教育委員会は、昭和六十三年十一月二十九日、本庚申塔を川崎市重要郷土資料に指定しました 川崎市教育委員会」とあった。

●小倉のトマトソース工場跡
無量院から東に向かう道がT字路となるところに、誠に立派なお屋敷がある。そこはかつてトマトソース工場があった、と。明治初期から小倉一帯ではトマト栽培がおこなわれ、大正の中頃、それを原料にトマトソースを商品として製造した。当時としては「ハイカラ」な商品は東京の洋食屋に牛車で売り歩いたが、最盛期には年間20万本製造し、商品はほとんど海軍に納品された、という。

●小倉用水池の由来碑
小倉用水跡を埋め立て(1952年)緑道とした道を下り、県道14号・南加瀬交番交差点に。交差点手前の緑の中に小倉用水の石碑があり、その脇の案内には「小倉用水池の由来 小倉、南加瀬地域に水田農業が開始された歴史は大変古い、しかし、水利ガ悪く日照りや、水害に苦しみつつ、人々は不安定な水利用に長い幾世代を耐えてきた。徳川時代慶長の始め稲毛、川崎二ケ領用水の開さくに伴い、地域の人々はこぞってこの用水の引き込みに努力し、その成果として小倉用水池の原形が出来たものと推定される。
以来約四百年間、多くの困難(こんなん)を克服し、水門管理を始め分水仕法の創出など維持管理のために、ついやした多大な努力と犠牲によって広さ八・八ヘクタールの小倉用水池が逐次(ちくじ)完成されていつた。これによって農業は大きく発展し、人々の生活を支えてきた小倉用水池は、文字通り生命の池ともいうべき大きな役割を果してきた。
一方、満々としてたたえられた池面に、四季折々、風情を映(うつ)し、地域の歴史を宿してきた用水池も、戦後の急速な都市化の波に、その役割は漸次(ぜんじ)減退(げんたい)し、昭和四十二年約1ヘクタールの用地を市に無償(むしょう)譲地(じょうち)し、僅(わず)かに排水路として命脈(めいみゃく)を保ってきたが、昭和五十二年下水管渠(げすいかんきょう)の埋設(まいせつ)に伴い水路ガ埋立られ、名実ともに小倉用水池は、地域の歴史から姿を消すこととなった。今、この跡に緑ゆたかな緑道の完成したことを機会に用水池の由来を記した次第である(以下略)」とある。

当日は、ここで引き返したのだが、メモの段階で地図を見ると、県道南にも「小倉緑道」が続いていた。悪水落しとして鶴見川に繋がっていたのだろうか。



■夢見ヶ崎

小倉用水跡の道を引き返し、水路跡の道筋、ひとつ西側筋にある「夢見ヶ崎動物公園入口交差点」まで戻る。その角には「日吉交番」があった。ここから夢見ヶ崎の丘陵に上ることになる。

南加瀬貝塚跡
道を北に進み、日吉小学校手前、合同庁舎の辺りで三筋に分かれる道を左端にとると、坂の北側に「川崎歴史ガイドパネル 南加瀬貝塚跡」があり、「南加瀬貝塚 関東地方では珍しい弥生時代の貝塚で出土した土器は我が国における縄文、弥生時代を区分する最初の標識土器としいて重視された。明治末、大規模工場地の造成にここの土砂が使われた」とあった。

貝塚があったということは、縄文海進期には、この辺りは海であったのだろう。それはいいのだが、後半の説明がちょっと言葉足らず。チェックすると、大規模工場地とは川崎駅近く、明治41年(1908)創業開始の東芝堀川工場のこと。その工場も平成11年(1999)には操業を停止し、現在商業施設・ラゾーナ川崎プラザとなっている。
また、「ここの土砂が使われた」とあるが、丘陵を切り崩した土砂ではあろうが、その規模は?チェックすると、日吉交番から来た道筋と、合同庁舎の西にあるJR 東日本の社宅群の南に通る道筋に囲まれた一帯であったようだ。切り崩した跡地をJR東日本が取得し、球場として使われていた時期もあったようだが、現在は社宅、公園、特養施設などが建っている。

庚申様の祠
貝塚のすぐ脇に小祠。庚申さまが祀られる。案内は文字が消え、読みにくいが、「夢見ヶ崎庚申様とその由来」には、「太田道灌築城ゆかりの夢見ヶ崎の地 元この山麓南端、今の日吉交番所在地にあったが、交通の便宜のためこの地に移した。奉斎時期は近世江戸時代。御神体は江戸末期もの」といったことが書かれていた。








夢見ヶ崎公園
丘陵の坂道を登る。眼下には削り取られた丘陵跡の平坦地に立つ社宅が見える。崖面は急な斜面となっている。急斜面の先端に鎮座する稲荷神社を見遣りながら坂を上る。
坂道は車道となっており、自家用車が列をなして停車している。その時は知らなかったのだが、丘陵上には公園や動物園があり、その駐車待ちの車ではあった。特に駐車場があったようにも思えないのだが、丘陵上の平坦部手前にあるロータリー辺りが駐車スペースとなっているのだろう。

白山古墳の標識
ロータリーから丘陵上の平坦部、丘陵東側にある夢見ヶ丘公園に上る。多くの家族連れでにぎわっている。公園の端に「白山古墳の標」がある。また、「白山古墳」と「加瀬7号古墳」のイラスト案内がある。
最初は今一つ、その案内の主旨がわからなかったのだが、その後、公園にあtったこの丘陵の古墳群を示した詳しい地図を見て、この白山古墳と加瀬7号古墳の案内が、その規模を公園に再現した、その案内であることがわかった。 切り崩され、今は姿を留めない全長87m、後円部の直径42mという巨大な前方後円墳の白山古墳と、直径30mの円形古墳の加瀬7号古墳を、公園にその大きさを再現すべく、公園のレイアウトがなされていた。

夢見ヶ崎動物公園周辺の古墳の案内
とりあえず、丘陵上よりの景色を眺めようと、見晴らしのいい場所を求めて丘陵東端へと向かう。と、そこに丘陵上にあった古墳の地図とその案内があった。案内に拠ると、「夢見ヶ崎動物公園周辺の古墳夢見ヶ崎の細長い台地には、現在わかっているだけでも、11基の古墳が築造されていました。
そのなかでも白山古墳は、全長87mの大きな前方後円墳で、武蔵国でも最古級の、4世紀後半に築造されたものです。特に、後円部の木炭槨(もくたんかく)から発見された三角縁神獣鏡は、初期ヤマト政権から、この古墳の被葬者に分与されたものと考えられる歴史的にも貴重な鏡です。
白山古墳の西隣には、7世紀代に築造された第六天古墳が位置していました。こちらは、墳丘径19mの大形の円墳で、横穴式石室からは、勾玉・金銅製鈴等の副葬品とともに、11体もの遺骸が発見されました。
両古墳とも、その後、削られてしまいましたが、この公園内には、加瀬山第三号墳や獣面鏡・鉄斧等を出土した第4号古墳をはじめとする高塚古墳が、いくつか現存しております。重要な文化財の保護に、皆様のご協力をお願いします。 なお、夢見ヶ崎と呼ばれる地名のおこりは、太田道灌がここに陣をしいて築城を計画したが、ある夜、自分の兜(かぶと)を鷲に持ち去られるという縁起のよくない夢を見たので、築城をあきらめたという故事からきていると伝えられています。 昭和62年10月川崎市教育委員会」とあった。

上にメモしたように、この案内を見て、先ほどの白山古墳および加瀬7号墳の案内の主旨を理解するとともに、この丘陵上に11もの古墳があったことがはじめてわかった。地図には丘陵上には1号から8号までの古墳、丘陵下には白山古墳と第六天古墳と11の古墳は記載されてはいないが、とりあえず丘陵からの景観とともに、古墳跡をカバーすることにする。
◆夢見ヶ崎の由来
夢見ヶ崎は。案内にあるように、太田道灌がこの地で「夢を見た」ことに由来する。元々は加瀬山と呼ばれ、古くから江戸湾を一望できる景勝の地として知られていた。蜀山人こと太田南畝も、『調布日記』に「此処より見る所、南は金川の海、東は品川の海、空もひとつに見わたされて、帆かけ舟の見ゆるなど絵にもかかまほし、むかふに一むらしげる森は池上の本門寺なり」と描く。
このような地勢上のメリットより道潅はこの地に拠点をと考えたのではあろう。現在は高いビル、埋め立てられ遠くなった海岸線のためか、南畝の描く景観は望むべくもなかったが、それでも独立丘陵から見下ろす景観は気持ちのいいものではあった。

◆9号墳
古墳巡りの最初は9号墳。古墳や地図の案内のある裏手の塚が9号墳。円墳で塚の上に小祠。道灌を祀る八幡さまとも言われる。木々に遮られ見晴らしは良くない。





◆2号墳
9号墳から更に東、慰霊碑を越えて丘陵突端に進むと2号墳。木々に囲まれた小さな塚といったもの。古墳と言えば古墳かなあ、といったもの。更にこの先に1号墳があったようだが、案内に「滅」とあったのでパスした。

◆展望台
2号墳から広場に戻り、3号墳に向かう。広場に建つ展望台、といっても、丘陵下の展望はなく、公園内しか見えない。上ったわけではないのだが、案内にあった白山古墳、加瀬7号古墳の規模感を見渡す「展望台」なのだろか。

◆3号墳
3号古墳は丘陵上ではなく、丘陵斜面にある。広場から歩道に折れ、アプローチを探すと、歩道脇に案内。「加瀬山第3号墳 夢見ヶ崎動物公園内に存在する加瀬山古墳群は、矢上川の東方、標高28m~32mの細長い独立台地上に位置しています。昭和45年、神奈川県教育委員会が実施した墳丘調査では、円墳9基が確認されました。
そのなかの第3号墳は、7世紀後半に築かれた南方に入口をもつ横穴式石室墳です。昭和28年の発掘調査では、鉄釘、麻織断片、成人男子人骨片が発見されています。現在、石室は内部を補強し、保存してあります。 昭和60年10月 川崎市教育委員会」とある。
道標に従い石段を下りていくと再び案内。「加瀬台3号墳 この古墳は7世紀中頃に築かれました。主体部は南側に入口をもち、玄室のまえに前室をもつ特異な構造で、複室構造の「横穴式石室」とよばれます。石室の石組みは、石に面取りの加工を施して積み重ねたもので、切石切組の手法によるものです。これは仏教の伝来にともなってあらわれた寺院建築の技術を取り入れたものでした。昭和25年(1950)の調査では、人骨・鉄釘・麻織断片・須恵器小片が発見されました。 平成23年3月 川崎市・日吉郷土史会」とあり、その傍、斜面に柵で覆われた古墳があった。

◆4号墳
再び丘陵上の平坦地に戻り、4号墳に向かう。場所は日蓮宗了源寺の西側。本堂にお参りし、脇を抜け4号墳跡らしき塚に。4号墳は、5世紀後半に築造された円墳であり、明治末年に獣身鏡(じゅうしんきょう)2面と鉄斧が出土したと伝えられている。見晴らしは非常によく、ちょっと一休み。


◆6号墳
5号墳は地図に「滅」とあるので、熊野神社の西側にある6号墳に向かう。了源寺から西は夢見ヶ崎動物公園となっており、親子連れで賑わう歩道を進むと、ほどなく道の北側に熊野神社。天正15年(1587)、北条氏直の創建と伝わる社にお参りし、成り行きで西に向かうと小高い塚。6号墳には浅間神社が祀られていた。

◆7号墳
動物公園を抜けた先、天照皇大神の社の辺りに7号墳が地図にある。天照皇大神は平坦地から3mほどの高さの塚の上に鎮座する。7号墳の上に造られた社のようである。社の南に丘陵を一直線に下りる石段がある。天照皇大神への参道ではあろう。
社に上る石段手前に「道灌・氏政両公の由緒」の案内。案内には「大田道灌公瑞祥の夢見;室町時代中期の康正・長禄年間(1455-1457年頃)、大田道灌公が当社に参籠し、その暁の夢に東北の空に縁起のよい丹頂鶴が舞うのを見て、その地に江戸城を築いた、との言い伝えがある。
北条氏政公社殿を造営;戦国時代の明応(1492‐1500)の頃、当社は小田原北条氏の祈願者となり、北条早雲公の曾孫氏政の君は、当地に荘厳優美なおうmz八棟造りの社殿を造営し、毎月代参を派遣して月次祭を斎行した」とある。

ここでの道灌の「夢見」は瑞祥として扱われている。同じ場所で見た夢が、「凶事」となったり、「吉事」となったり、ということではあるが、縁起が悪いということでこの地での築城を諦め、江戸の地に城を築いた、ということだから、考えようによっては、話の辻褄は合っている。
とは言うものの、夢で城の場所を選ぶはずもなく、江戸を築城の地として選んだのはその立地上の判断ではあろう。東には関東内陸、また旧利根川・常陸川水系を通って銚子沖から東北地方に通じる船運の拠点である浅草湊、そして、西には中世には既に全国的規模の海上交通の要衝として、紀伊半島や東海から太平洋を渡ってくる船運と浅草湊からの船運を結ぶ拠点であった品川湊を扼し、また軍事上では川越・岩槻から延びる防御ラインとして古河公方と対峙するには江戸が最適な拠点であった、ということではあろう。

◆8号墳
丘陵上の古墳の最後、8号墳は天照皇大神の北、丘陵北西端に記されている。塚もなく、古墳跡と云われなければ、普通の平坦地。わずかに残る「高み」に古墳を想う、のみ。
古墳跡は判然としないのだが、丘陵西、そして北の眺めは気持ちいいものであった。





●削り取られた丘陵
[東京地形図 Tokyo Terrain]をもとに作成
しかし、眺めはいいのだが、丘陵西側が「バッサリ」と切り崩されている感がある。丘陵西端に富士や大山などの方向を案内するボードと共に、「白山古墳と秋草文壺」があり、その場所は、西側正面に位置する山とある。山と言うより、住宅の一画に緑の森といったものが見える。そこが白山古墳のあった場所のようである。丘陵西端から相当離れたところにある。
古墳の案内で白山古墳、第六天古墳は削り取られたとあったが、てっきり白山古墳や第六天古墳は丘陵裾だろうと思っていたのだが、そうでもない。鶴見川近くまで続いていた丘陵の西半分がバッサリ切り崩されたようである。 丘陵西端直下の切り崩された跡の平坦地には、現在瀟洒なマンションが建設されているが、案内地図には「国鉄北加瀬アパート」が記されていた。かつての新鶴見操車場で働く職員の官舎であったよう。
その西、未だ少し緑が残る辺りが白山古墳、第六天古墳があったあたり。更に鶴見川近くまで丘陵が切り崩され、その土砂が売られたようだ。その時期は、丘陵東端と時期が異なり昭和12年頃(1937)からのこと、と聞く。丘陵北にある三菱ふそうの工場もその土砂で敷地整備が行われた、と。
◆白山古墳と秋草文壺
台地西端に「白山古墳と秋草文壺」の案内があり、「白山古墳 白山古墳は古墳時代前期の4世紀後半に築造された前方後円墳です。前方後円墳は方形と円形の墳丘が組み合わさった形をしていて、近畿地方の勢力との関係を示すものだと考えられています。昭和12年に慶應義塾大学によって発掘されました。 副葬品としては三角縁神獣鏡を含む5面の鏡と、鉄刀・鉄剣のほか鉄鏃、鉄製農耕具、勾玉・管玉・ガラス小玉などの装飾具類が出土しました。この展望台に西側正面に位置する山が、土取りで消滅した白山古墳の跡地です。(展望台のベンチは円墳や方墳をイメージしてつくってあります)。
秋草文壺(国宝) 秋草文壺は昭和17年白山古墳の後円部下方から出土しました。高さが40.5センチあり、火葬した骨を納めた蔵骨器として使用されていました。平安時代の末、12世紀に焼かれたもので、ススキ・ウリ・柳・トンボなどが流麗な筆致で描かれています。日本陶器史上の優品です」とあった。

切り崩された崖面を下る
白山古墳跡に向かうべく、バッサリと切り取られた丘陵西端の崖面に造られた坂道を下る。坂道の途中には太田道灌と山吹の花にまつわる言い伝えがこの地にも残るとある。
道灌と山吹の逸話の舞台とされるところはこれで何箇所目だろう。鎌倉の朝比奈切通りからはじまり、越生、都内の豊島区高田の面影橋、荒川区町屋の小台橋近くと幾つも思い起こされる。有名人・道灌故のことではあろう。坂道には夢見ヶ崎こと加瀬山の案内とともの太田道灌の案内もあった。
●太田道灌

案内には「室町時代の武将で、関東の武将の中でも、都の文人とも、引けをとらぬ文人であり、名を資長と言いました。大田道灌は扇谷上杉に仕えて上杉定正の執事を務め、25歳(1457)の時に江戸城を築きました。
夢見ヶ崎は太田道灌が築城する場所を探しに訪れたと言われています。その後、道灌は上杉氏を支えて関東地域の平定に従事しました」とあった。
道灌のゆかりの地を訪ね、埼玉の越生岩槻、横浜の小机城跡、都内の合戦の地である平塚城や石神井城、江古田・沼袋などを歩いたことが懐かしい。






◆太田道灌の「山吹の里」
太田道潅、といえば「山吹の花」といわれるくらい有名であるが、ちょっとおさらい;道潅が狩に出る。突然の雨。農家に駆け込み、蓑を所望。年端もいかない少女が、山吹の花一輪を差し出す。「意味不明?!」と道潅少々怒りながらも雨の中を家路につく。家に戻り、その話を近習に語る。ひとりが進み出て、「それって、後拾遺集にある、醍醐天皇の皇子・中務卿兼明親王が詠んだ歌ではないでしょうか」、と。「七重 八重 花は咲けども山吹のみのひとつだに なきぞ悲しき」。「蓑ひとつない貧しさを山吹に例えたのでは」、と。己の不明を恥じた道潅はこのとき以来、歌の道にも精進した、とか。





寿福寺
崖面の坂を下り切ったところは一面の平坦地。山を切り崩した国鉄職員官舎跡地の再開発も南半分は瀟洒なマンションが建っているが、北半分は未だ空き地といった状態であった。
白山古墳跡の目安となる白山幼稚園へと向かうべく地図を見ると、右手に寿福寺がある。ちょっと立ち寄り。
浄土宗のお寺様。境内に「大亀石」の案内。「南加瀬、越路の新堀平次郎は力持ちで、"力持平次郎"と呼ばれて、祭りや駒岡のお穴様に出向きこの大岩を動かし、人々を驚かせていた。明治14年(1881)まで生きていた。
石の材質は"六ヶ村"と言われ、小松石、新小松、根府川、白丁場等の安山岩の総称で、江戸築城の際も利用した。
軽いものは"差し上げる"が、重い石は抱き上げたり、片方を地に付けて立てればいい。というのが「力石」の競い方」、といったことが説明されていた、 散歩の折々で「力石」に出合うが、この石は誠に大きい。通常卵型の力石は90キロから200キロと言われるが、この寺の亀の甲のような形をした大石は300キロほどあるとの記事もあった。
◆鬼熊

説明の最初に店の屋号と鬼熊という名が記されている。何だろう?『鬼熊の力石(高島慎助;四日市大学論叢)には』、力持ちの一人として熊次郎を取り上げ、「熊治郎は、四股名を鬼熊と言い、江戸川区船堀の出身。幕末の文政・天保の頃から明治初期にかけて活躍した力持ちであったという。神田鎌倉河岸の酒問屋豊島屋本店の奉公人であった」とあり屋号も大亀石の屋号と同じである。そして大熊が持ち上げた力石のひとつにこの寿福寺の大亀石が挙げられている。 その大熊と、次に続く「川崎平次郎が之を持った」との繋がりがよくわからない。少し「寝かせておく」ことにする。

白山古墳跡
寿福寺を出て、白山古墳跡の目安として前述の案内にあった白山幼稚園に向かう。きれいさっぱり削られ平地となった旧国鉄官舎跡地に建つマンション脇の道を抜け、白山幼稚園に。と、その通りを隔てた北加瀬熊野台公園入口に石柱と「川崎歴史ガイドパネル」が建つ。
石柱には中央に「恋路 近くから国宝秋草文壺出土」とあり、「右川崎道 末吉橋 神奈川道」「左 北加瀬の辻 平間の渡し 小杉」と刻まれていた。石柱は真新しい感じで、歴史を感じるようなものではなかった。


その右手に「川崎歴史ガイドパネル 白山古墳跡」とあり「この近くに市内最大の前方後円墳の白山(はくさん)古墳があった。昭和12年の発掘と調査で三角縁神獣鏡など貴重な副葬品が出土した。戦前川崎に進出した工場用地の盛土用として削られ、ほぼ消滅した」とあった。
夢見ヶ崎にあった古墳の案内地図によると、白山幼稚園の南東、未だ緑が残る小さな丘の辺りが白山古墳、その東に第六天古墳、秋草文壺はその小さな丘の南裾の辺り、仁藤家の敷地内と記されていた。







跨線橋・小倉陸橋
白山幼稚園から南に下り、仁藤家であろうお屋敷の角で広い車道に出る。左手に夢見ヶ崎の丘陵を眺めながら、また、先ほど訪れた丘陵上の天照皇大神への参道入口を見遣り、かつての新鶴見操車場を再び越える。結構長い跨線橋である。残すは、「川崎歴史ガイドパネル」に記されている、南武線の東にある東明寺、御嶽神社、そして称名寺だけとなった。

南武線踏切
跨線橋・小倉陸橋を下り、東明寺に向かい道なりに進む。と十字に交差した車道を南北に南武線が通る。踏切の遮断機は8台見える。こんな踏切見たことない。






東明寺
踏切から北東に進み、古川小学校の手前に東明寺。境内入口には「塚越の灸 東明寺」とある。本堂、鐘楼などコンクリート造りといったもので古き風情はない。境内にあった「川崎歴史ガイドパネル」には「東明寺と酒づくりの絵馬」の案内があり、「もとは、東京芝増上寺の末寺で、天正17(1589)年、浄円がここに住み、のちに増上寺の貞蓮が止住。東明寺の名は、慶長18(1613)年、徳川家康が鷹狩りのため小杉の西明寺に泊まった際、給仕にあたった貞蓮が家康から身分を問われ、東にある小庵の主と答えたところからその名がついた。現在、毎月3・8のつく日に開かれる灸施寮は、塚越の灸として著名である。
またこの寺には、江戸末期の作といわれる酒造りの過程を描写した絵馬が残っている。絵馬には、その頃、塚越村で最も大きな造り酒屋であった新開屋六右衛門の名もみられる。江戸時代における酒造りの様子をうかがい知る上で貴重な資料である」とあった。

そのほか、「東明寺の文化財」の案内もあり「当寺には江戸時代後期に描かれたものと考えられる「紙本着色閻魔府之図」が所蔵されています。
本図は縦191cm、横154cmの大画面の上部に閻魔王を描き、使者の罪業を裁くための人頭杖や浄波瑠の鏡、眷族(従者)などを呈しながらもその表情は明るくユニークで、リズミカルな手の動きとともに叱咤の声が聞こえてくるようです。 中央には罪人の舌を抜く、釜で煮るなどの責め苦のほかに、修羅道を描いています。右上には不動明王、右下には賽の河原で石を積む子供達とこれを救済する地蔵菩薩、左下には女人が落ちる血の池地獄と如意輪観音が描かれています。 このように十王の中でも庶民に最も知られる閻魔王と、地獄を同画面に描くという構成により地獄の世界観を強調し、庶民の仏教への帰依を促したのでしょう。
このように十王の中でも庶民に最も知られる閻魔王と、地獄を同画面に描くという構成により地獄の世界観を強調し、庶民の仏教への帰依を促したのでしょう。
また、仏教美術史の中で近世仏画は一般的に類型化が進んだものが多いとも言われますが、本図は鬼卒の明るい表情など、地獄絵の近世的な新しい展開として注目されます。
本図は、平成8(1996)年1月25日、川崎市重要美術品に指定されました。 なお、保存上の都合により、一般公開はしておりません。川崎市教育委員会」とあった。

御嶽神社
東明寺の少し西に御嶽神社。境内に「川崎歴史ガイドパネル」があり「御嶽神社と塚越 近くに地名の由来となった円墳がある。御嶽神社創建時にこの円墳の一部が盛土として使われた際、刀剣が出土した。また、南北朝時代のものと考えられる板碑が出土してる」とある。


社の創建年度は不詳。案内の如く、社殿は小高い塚の上に建てられている。文化・文政期(1804年から1829年)に編まれた武蔵国の地誌にも『新編武蔵風土記』に「御嶽社(現御嶽大神)は塚越村北の方丘上にあり、本殿七尺四方、拝殿二間半に二間、共に東向なり前に石段二十級ありて其の下に鳥居あり(寛政元年)例祭は九月十九日なれど其の年を定めず、作物豊稔の年に祭れり」とあるようだ。
また、案内にあった刀剣は盗難にあい紛失した、という。板碑が境内に残るか彷徨ったが、見つからなかった。その代わり「樋碑」と刻まれた石碑があった。このあたりの用水に架かっていた木製の用水樋を石に改修した記念碑のようである。



越塚
で、案内にあった円墳。「近くに」とあるだけで、場所などわからない。どうしたものかと、とりあえず社の前の道を北に進んでいると、道の右手にコンクリートブロックに囲まれた塚らしきものが民家の間に見える。敷地は個人の家の中のようで、塚に行くことはできなかった。高さ3m弱。直径17mほどの規模であったよう。

称名寺
残すは称名寺のみ。御嶽神社から古墳跡の塚に進んだ同じ道筋を少し北に向かったところにある。山門脇には「赤穂義士所縁の寺」と刻まれた真新しい石碑があった。
境内にあった案内には「称名寺の文化財 当寺は、浄土真宗大谷派に属し、赤穂浪士所縁の寺といわれています。
当寺所蔵の紙本着色・四十七士像は、大石内蔵助を頂点に、赤穂浪士四十七士を左右対称的に配した桂掛風縦長の小品です。図様は、江戸時代に入って盛行した戦国武将列影図を模範にしたもので、精緻に描かれた、画格の高い作品です。延享元年(1744)かおの年記をもっています。
川崎市教育委員会は、この絵画を、昭和60年12月24日、川崎市重要歴史記念物に指定しました 川崎市教育委員会」とある。

が、これでは赤穂浪士所縁の所以がわからない。チェックすると、このお寺さまの近くに住んでいた地主の軽部五兵衛は江戸の赤穂家や吉良家に肥料となる下肥の請負のため両家に出入りしており、刃傷事件以降、赤穂家の浪士を応援し、吉良家に出入りして得た情報を、浅野家に伝えていた、とか(軽部五兵衛の墓は先ほど訪れた夢見ヶ崎の了源寺にあるとのこと)。
そんな縁もあり、仇討前にこの近くに浪士のひとり富森助右衛門が住まいした関係上、江戸入り前、大石内蔵助も富森助右衛門宅に10日ほど滞在したとも伝わる。

お寺には上記文化財のほか、内蔵助、大高源吾、堀部安兵衛らの書画などが残されているとのことである。また、文化財の案内の前に石碑があったが、当日は何を書いているのかもわからなかったのだが、メモの段階でチェックすると、山鹿素行の歌碑とのことであり、「幾秋も 光変わらず 澄む月は 雲らぬ世々の 為しとぞ知る 素行」と刻まれているようである(もっとも、オリジナルは「幾阿起裳 飛可り・・・」といったもののようではある。
●山鹿素行
江戸時代前期の儒学者・軍学者。山鹿流兵法の祖であり、山鹿素行は赤穂浪士の討ち入りのとき、大石内蔵助が山鹿流兵法の陣太鼓で指揮したことで知られる。
会津若松の生まれ。幼少の頃江戸に出て、朱子学を学ぶも、後年、幕府の御用学である朱子学を批判。ために播州赤穂藩にお預けとなり、藩士の教育をおこなうことに。大石内蔵助も門弟のひとりであった。

これで本日の散歩は終了。途中、昨年歩いた大師堀跡などを見遣りながら、成り行きで南武線・鹿島田駅に。

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