土佐 四万十川と片峠散歩 そのⅡ;四万十川本流・支流の源流点と窪川盆地の片峠を辿る

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「海に背を向けて流れる川 四万十川の奇妙なはじまり;四万十川は奇妙な川である。その最東部の支流である東又川は、土佐湾の岸からたった二キロしか離れていない地点からはじまっているのに、海にすぐ入らず、海に背を向けてえんえんと西へ流れる(『誰でも行ける意外な水源 不思議な分水;堀淳一(東京書籍)』)」という記事にフックが掛かり、延々と150キロほど車を走らせ土佐に向かった今回の散歩。
当初は、支流とはいいながら土佐湾のすぐ傍に源流点があり、しかも海に落ちることなく西へ、その後北西に大きく弧を描き山間の地を、蛇行を繰り返しながら、四万十市中村で土佐湾に注ぐ、というその流路に興味を覚え土佐に向かったのだが、その過程でいくつもの片峠も目にすることができた。

散歩の当日は、それだけのことではあったのだが、メモをする段階で、現在西へと大廻りする四万十川は、はるか昔は南流し直接土佐湾へと注いていたことがわかった。知らず訪れた片峠もその流路でもあった。四万十川西流の要因は、南海トラフの跳ね返りによる海岸山脈(興津ドーム)に阻まれた故とのことであるが、その海岸山脈も知らず目にしていた。
常の如く、事前準備無しの、誠にお気楽な散歩ではあったが、いくつか「後の祭り」はあったものの、如何なる天の配材か、基本結果オーライ,予定調和で終った初日であった。
四万十川と片峠を辿る散歩の二日目。基本帰り道途中の、「行きがけの駄賃(?)」といったものではあるが、高岡郡津野町の不入山(いらずやま)の山麓、標高1200mほどのところにある、四万十川源流点を訪ねることにする。

源流点といっても、登山口から徒歩25分程度。身構えるほどのことはなかろうと、専用GPS端末に地図を入れることもなく、iphoneの無料アプリGmap Toolsに当該場所をキャッシュで読み込み、電波が通じなくても山地図で現在位置を確認できるようにして四万十川源流点のマーキングに向かう。
道の途中で坂本龍馬脱藩(脱藩という用語は明治以降。それ以前は「出奔」と言ったようだ)の道である布施ヶ坂を通るが、そこも結構な片峠のようである。 四万十川と片峠散歩の締め、としては偶々ではあるが、おさまりのいいルーティングとなった。



本日のルート;国民宿舎・土佐>国道197号・新荘川筋に>布施ヶ坂>布施ヶ坂峠;六番目の片峠>船戸で県道378号に乗り換える>県道378号から源流点登山口への分岐点>源流点登山口に>四万十川源流点に>源流点登山口に戻る


◆二日目◆

国民宿舎・土佐を出発
朝7時、太平洋から上る日の出を眺め、国民宿舎を出発。四万十川(松葉川)の源流点に向かう。距離はおおよし50キロ。1時間半ほど走ることになる。途中、布施ヶ坂を上りきったところも片峠とのこと。源流点散歩の前に窪川盆地最後の片峠を越えることになる。

国道197号・新荘川筋に・須崎市から高岡郡津野町に
県道23号を須坂まで戻り、ナビのガイドに従って県道315号を土佐湾に注ぐ御手洗川に沿って進み、田の道トンネルを抜ける。トンネル辺りが御手洗川水系と新荘川の水系の分水界となっている。
トンネルを抜け、新荘川水系・道の川に沿ってくだり、平野で国道197号に乗り換える。ここから布施ヶ峠の先で不入山の四万十川源流点に向かう県道378号に乗り換えるまで20キロほどを新荘川に沿って進むことになる。行政区域は平野から新荘川を少し遡った二又橋を境に、須崎市から高岡郡津野町に変わる。
津野
津野氏由来の地名である。Wikipediaに拠れば、高岡郡の豪族津野氏の出自は元藤原氏であり、伊予から土佐に入り高岡郡津野山を開拓し、名を津野と改めたとの説があるが信憑性は低いとし、「津野氏は最初は津野荘の地頭となり、その後山深い津野新荘の地頭も兼ねるようになったと考えられる」とする。
その津野荘は「京の賀茂御祖神社の荘園で、高岡郡吾井郷津野保(現 高知県須崎市吾井郷)にあった。本来は土佐国の賀茂御祖神社の荘園は土佐郡潮江荘であったが津波により水没、代わって津野荘が立荘された。 また、津野新荘は土讃線土佐新荘駅や新荘川にその名をとどめており、名称からして津野荘の成立後に津野新荘が成立したものと考えられる。 新荘川の流域に津野氏の山の拠点となった姫野々城がある」とある。
新荘川
新荘川の由来は、津波で水没した潮江荘に代わり新たに立荘された津野荘に拠る。

布施ヶ坂
道を進むと姫野々がある。龍馬が脱藩し、佐川から朽木峠を経て新荘川筋まで下りてきた場所だ。姫野々を越え県道377号が国道と分かれるあたりから先、「布施」と冠したいくつものトンネルを抜け布施ヶ坂トンネル手前の「道の駅・布施ヶ坂」で休憩。V字に切れ込んだ新荘川の谷筋の景観を楽しむ。段々になった茶畑にも惹かれた。
布施
お布施の代わりに坂の地所を献上した故とある(「土佐地名往来(高知新聞社)」)。 ●龍馬脱藩の道
道の駅の案内に、新荘川筋から布施ヶ坂峠に向かう古往還ルートとともに、その道筋が龍馬脱藩の道とあった。龍馬脱藩の道は、昨年、梼原の先、予土国境の峠を越えて大洲へと辿ったのだが(脱藩の道Ⅰ脱藩の道Ⅱ脱藩の道Ⅲ脱藩の道Ⅳ脱藩の道Ⅴ)、高知から梼原までは未踏である。現在の国道・県道を元に大雑把な道筋を整理しておく。
文久2年(1862)3月24日、高知の城下を夜半に出発。国道33号、土讃線に沿て伊野、日下まで。土讃線日下駅辺り国道33号から分かれ南西に県道291号、途中から県道に乗り換え佐川に。佐川から国道494号を南に下り、斗賀野トンネル辺りで国道を離れ川の内の谷を上り朽木峠(536m)に。
朽木峠から三間の川、樺の川の谷筋を経て新荘川筋の津野町姫野々に出る。そこから布施ヶ坂に続く国道197号を進み、途中から県道377号に入り、布施ヶ坂峠に上って来る。峠から先は国道197号筋を梼原に。梼原から先は、先般5回に分けて歩いたので、ここでは省略。道を辿り、朽木峠を越えてみたくなった。

⑥ 布施ヶ坂峠;六番目の片峠
九十九折れの県道377号が布施ヶ坂峠に向かう道の下を穿つ国道197号・布施ヶ坂トンネルを抜けると、平坦地。典型的な片峠となっている。地図を見ると新荘川の源流が峠すぐ近くまで迫っていた。また、峠を境に県道377号は378号に変わっていた。
トンネルを抜けると直ぐの船戸町で右に折れ県道378号に入る。奈路という地名が登場する。高知の各所で見かける地名だが、「山麓の平地」といった意味のようだ。
船戸
船戸ってなんとなく気になる。山間の地に「船戸」?舟運と関係あるのだろか?チェックすると、舟運とも道祖神・塞神様ともとれる記事があった。愛知淑徳大学の研究論叢「高知県四万十川上流域旧東津野村船戸のくらしと音楽;岩井正浩」に拠れば、「『東津野村史』では船戸の地名について次のように述べている。
土佐州郡志に「古太平と曰い後に舟戸と名づく、村の中山出舟入舟の名有り之に由って名づくるか」(原漢文)と書かれており、出船入船といかにも船運といったものだが、続けて「中越穂太郎著「津野山異談続編」地名の起り十一頁に は、「船戸不入山に山積神社がある。神社台帳によると船戸神を右山峯岩上に祭り、後、大山祇(おおやまつみのかみ)、ついで慶長年間磐土神(いわつちのかみ)を祭るとあり、これによれば不入山に船戸神を祭ったのは慶長以前のことであり、ずっと古くから船戸神は祭られてあり、この祭神が地名と変じたものと思われる」とする。
また、「船戸神とは伊弉諾尊(いざなぎのみこと) の投げ給まえる杖になりませる神が黄泉醜女(よみのしこめ)を支え留め、尊の身の安全を 図った道の神で「くなどの神」ともいえば「ふなどの神」とも言っている。いわゆる「道祖神」のことで津野山地帯では「道ろく神」ともいっている」とあった。
舟運より、船戸神・「岐神(くなと、くなどのかみ)」のほうに惹かれる。Wikipediaに拠れば、「くなど」は「来な処」すなわち「きてはならない所」の意味。もとは、道の分岐点、峠、あるいは村境などで、外からの外敵や悪霊の侵入をふせぐ神であり、道祖神の原型とされる。読みをふなと、ふなど -のかみともされるのは、「フ」の音が「ク」の音と互いに転じやすいためとする説がある、とする。

船戸で県道378号に乗り換える
県道378号を不入山の四万十川(松葉川)源流点に向かう。集落が切れた先は一車線の山道。舗装・整備はされており、対向車の心配以外は至極快適な道である。



県道378号から源流点登山口への分岐点
道を10分強走ると県道脇に「四万十川源流点 3km(左)」の標識と、「鶴松ヶ森登山口(右)」の標識が立つ。標識前は結構広いスペースがあり、ここにデポするかどうかちょっと悩む。この先の源流点への道がどのようなものかわからないが、「えいや」の気分で車を先に進める。

路面凍結地手前に車をデポ
車を10分程度走らしただろうか。その先の路面が凍結している。ノーマルタイヤでは進めそうもない。狭い山道にかろうじて切返しができそうなスペースを見つけ、何回も何回も切返し、車を方向展開し、崖脇のスペースに車をデポ。復路の「安心感」を確保し、林道を源流点登山口まで歩くことにする。

源流点登山口に
車を下り、凍結したコーナーを進む。結構滑る。その先は凍結もしておらず、車で進めば、とも思うが、凍結箇所で大胆にスリップ・転倒したわけで、用心に如くは無し(しくはなし)。
登山口まで1キロの標識を見遣りながら進むと、その先は全面凍結となっていた。車をデポしてよかった。数回転倒しながらも慎重に進み源流点登山口に到着。車デポ地点からおおよそ15分ほどかかった。

四万十川源流点に
「源流点まで25分」の標指脇の大岩ステップ部から沢に入る。はじめは沢脇を進むが、途中から沢の岩場に入る。所々に架かる道案内のリボンを目安にルートをとるが、所詮は岩場を直登すれば源流点に着くわけで、ルートに不安はない。
沢の景観は、「苔むした幻想的」といったものではない。沢登りで多くの美しい沢を見た目には、よくある景観のひとつ。雪が積もった雪庇を踏み抜くことに注意しながら進むと、木標が見えてきた。そこが源流点であった。
源流点からは小滝となって水が落ちる。水の流れはその先にも見えるが。それほど興をそそる景観でもないため、遡上は木標が立つ箇所で終了。木標には「渡川(四万十川)の源流点 幹線流路延長196㎞の流れここに発す」とあった。
渡川
Wikipediaに拠れば、「河川法上では昭和3年(1928)から平成6年(1994)まで「渡川」が正式名称だったが、平成6年(1994)7月25日に「四万十川」と改名された。一級河川の名称変更はこれが初めて。
江戸時代には「四万十川」と書いて「わたりがわ」と呼ばれていたこともあるという。また「四万渡川」と書かれることもあった。これが省略されて「渡川」の名称が発生したものと思われる。宝永5年(1708年)の土佐物語には「四万十川 わたりがわ」と記されているという」とある。渡川は多くの河川と同様に、大川とも本川とも呼ばれたともあり、また通称ととして四万十川とも呼ばれていたようだ。四万十川の由来は、たくさんの川を集めたとか、四万川と十川が合わさったものとか諸説ある。
それはそれでいいのだが、渡川がどうして四万十川となったかよくわからない。チェックすると、渡川が四万十川となったかについて、昭和58年(1983)放送のNHK特集「土佐四万十川 清流と魚と人と」において、「日本最後の清流四万十川」と紹介されたことが要因との記事を目にした。この放送をきっかけに、通称であった四万十川が「全国区」となり、それではと地域住民の要望もあり渡川に変わり四万十川が正式名称となった、とか。真偽のほどは不明ではある。


源流点登山口に戻る
源流点から成り行きで下ると、沢の左岸に「帰路」があり、途中までは岩場を下ることはなかった。途中、岩場を渡り沢の右岸を下り登山口に戻る。これで、本日のメーンイベントは終了。凍結した道を車デポ地まで戻る。


県道378号から国道197号へのショートカットは路面凍結で引き返し
登山口から県道378号に戻る。ここから140キロほどを走ることになる。ナビでは戻りのルートは県道378号を南に戻り国道197号に戻れ、とあるが、結構大廻り。地図を見ると、県道は北に続き、山越えをすれば国道439号と合流している。道は狭いだろうが、こんなところを走る車などいないだろうと北に向かう。
快適に尾根筋へと上っていったのだが、尾根筋手前で路面凍結。結局元に戻る。戻る途中の路面も、上るときはわからなかったのだが、結構凍っているように見えた。

義堂・絶海像
県道378号を源流点登山口への分岐点まで戻り、四万十川に沿って少し下ると道脇の小高い塚に像が立つ。ちょっと立ち寄り。四万十川の源流域を背景に二体の像が立つ。
石碑の案内に拠れば;「義堂絶海像建立之記 義堂は正中2年(1325)に、絶海は建武3年(1336)共に不入山麓に生まれました。この両僧は五山文学の双璧とうたわれています。五山文学というのは中世我が国に伝来した禅宗の僧侶たちの手になる漢詩文文学の文化でありますが、その特色は朱子学の紹介とこれを基とした政治理念の指導であります。
義堂は文で有名なばかりでなく管領足利基氏父子上杉氏さらには将軍足利義満の政治顧問として活躍し、絶海は詩文にすぐれ後年将軍義満の政治顧問として活躍しました(後略)昭和50年6月 義堂絶海銅像建設期成同盟会」とあった。 詩文はともあれ、五山の僧が政治的にも活躍した所以は、留学中(当時の明)に培った人脈とコミュニケーションに必要な漢文の素養故。莫大な利益をもたらす遣明使の正史・副史も足利義満以降は五山の僧であった、とか。

国道197号に戻る
義堂・絶海像を訪ねた後、県道378号を下り、国道194号に戻る。ここから一路瀬戸内へと戻る。

ちょっとメモ;土佐への往路・復路でいくつか気になることがあったのだが、ひとつだけ以下の個人用忘備録から取り出して、ここにメモしていく。
川川
上八川川とか枝川川に限らず、小川川、北川川、四万川川など「川川」と重なる川名が目につく。今まで結構川筋を歩いているのだが、このようなケースに出合ったことがない。この辺り特有の命名法なのだろうか。なんとなく気になりチェックすると、特に高知に限ったものではなく、5万分の一の地図で見るだけでも全国に100ほどある、という(「地名を解く6;今井欣一」)。
その記事に拠れば、この場合の「小川」とか「北川」は、川の名前ではなく、地名とのこと。地名に偶々「川」があり、そこを流れる川故の「川」の重複と見えているようだ。また、「小川」など「川」がつく地名も、もともとは「岡端・岡側」であった「端・側」に川の字をあてたものが多いとある。岡の端の崖下には「川」が流れているから、「川」をあてたのでは、と。
関係ないけど、ナイル川や、インダス川、ガンジス川も、ナイルもインダスもガンジスも川の意であり、「川川」ではある。

忘備録
以下は自分用のメモ;遠いと思い、なんとなく敬遠していた土佐ではあるが、昨年の龍馬脱藩の道散歩での梼原、そして今回の土佐湾に面する地へのドライブで土地勘もできてきた。で、土佐に来ることも多くなるとおもうのだが、今までは車のナビ言われるまま、谷筋を走り、トンネルを抜け、ひたすら走るだけ。トンネルを抜ける快適なドライブではそれもわからない。行政区域も知らず入り、知らず抜けると言ったものである。今後のこともあり、以下往路・復路を分水界・行政区域を意識しメモしておく。

往路

国道194号;寒風山を抜け、高知県吾川郡いの町吉野川水系に
Google Earthで作成
国道11号を西条市まで進み、加茂川橋西詰を左折し国道194号に入る。四国山地のど真ん中を抜いた寒風山トンネル(5432m)を抜けると高知県吾川郡いの町に入る。トンネルを抜けたすぐ左手はいつだったか弟と沢登りを楽しんだ一の谷。長又川と一の谷の合流点から下流は吉野川水系桑瀬川となる。
桑瀬川を下り出合橋で中野川川を合わせ葛原川となった川筋を少し下り本川トンネルを抜けるとダム湖に出合う。トンネルの少し北に大橋ダムがあり、吉野川はそこから北東へと下る。

仁淀川水系・枝川川に
ダム湖に沿って吉野川を遡上し、吉野川本流の最上流部のダムである長沢ダムからの水を合わせる立橋から先、吉野川に注ぐ大森川を南下し、竹の奈路で新大森トンネル、枝畝トンネルを抜けると仁淀川水系・枝川川筋に出る。新大森トンネル、枝畝トンネルの抜ける山稜が吉野川水系と仁淀川水系の分水界となっているようだ。
枝川
支流のことかとおもったのだが、「土佐地名往来(高知新聞社)」には、朝倉庄の"新しい村"。枝郷が転訛とあった。
奈路
奈路という地名も高知によく登場する。山麓の平地といった意味のようだ。

県道18号に乗り換え:いの町から高岡郡越知町に
枝川川筋を南下し、恩地で上八川川に合流し、上八川川となった川筋を南下すると柳瀬上分で仁淀川にあたる。そこから県道18号を仁淀川上流方向に向かうことになるのだが、ここで行政区域は長かった吾川郡いの町から離れ、高岡郡越知町に変わる。恩地は日陰の地とも、穏田=隠し田といった意味があるようだ。
越智
伊予の越智氏ゆかりの地か、ともおもったのだが、「土佐地名往来(高知新聞社)」では、横倉の尾根のふもと「尾方おち」転訛、とする。
上八川
「土佐地名往来(高知新聞社)」には、かみやかわ;神の酒を造った川。みわがわ(神河)とある。
川川
ところで、上八川川とか先ほど出合った枝川川に限らず、小川川、北川川、四万川川など「川川」と重なる川名が目につく。今まで結構川筋を歩いているのだが、このようなケースに出合ったことがない。この辺り特有の命名法なのだろうか。なんとなく気になりチェックすると、特に高知に限ったものではなく、5万分の一の地図で見るだけでも全国に100ほどある、という(「地名を解く6;今井欣一」)。
その記事に拠れば、この場合の「小川」とか「北川」は、川の名前ではなく、地名とのこと。地名に偶々「川」があり、そこを流れる川故の「川」の重複と見えているようだ。また、「小川」など「川」がつく地名も、もともとは「岡端・岡側」であった「端・側」に川の字をあてたものが多いとある。岡の端の崖下には「川」が流れているから、「川」をあてたのでは、と。
関係ないけど、ナイル川やガンジス川も、ナイルもガンジスも川の意であり、「川川」ではある。
吾川郡・高岡郡
吾川の由来はいの町「波川」に拠るとあった。波川と「小川」の派生である(「地名を解く6;今井欣一」)。しかし、「土佐地名往来」には「波川は古くは高岡郡波川村。かつて高岡郡にあった吾川郷が転じて波川になった」とあり、これでは堂々巡りである。
「土佐地名往来(高知新聞社)」では「仁淀川の「三輪河」その後「輪河」、「吾河」に転じた川名。吾は阿で大の義」とする。なんとなくおさまりが、いい。 また、高岡郡の由来は現在の土佐市にある四国霊場三十五番札所・清龍寺あたりの丘陵に拠る、ようだ。明治の頃は現在の土佐市も高岡郡であった。

国道33号;仁淀川水系を進み高岡郡越知町から高岡郡佐川町に
川に沿って南西に進み、蛇行する川筋をショートカットする浅尾トンネル、今成トンネルを抜けると横倉で国道33号に合流する。国道を左に折れ、仁淀川水系大桐川に架かる越知橋を渡り赤土トンネルを越える。トンネル手前で高岡郡越知町から高岡郡佐川町に変わる。

国道494号;高岡郡佐川町から須崎市に。水系は土佐湾に注ぐ桜川となる
トンネルの先で仁淀川水系・柳瀬川を渡り土讃線・佐川駅近くで国道33号から分かれ、国道494号に乗り換える。柳瀬川に注ぐ春日川を渡り、猿丸峠、斗賀野トンネルを抜け土佐湾に注ぐ桜川水系の本流に出合う。行政区は斗賀野トンネルの南で高岡郡佐川町から須崎市に変わるが、この行政区の境は桜川の途中となっており、仁淀川水系との分水界がその境とはなっていないようだ。ともあれ、桜川本流に沿って南に下り須崎市に入る。須崎の「須」は砂洲のこと。

国道56号;窪川盆地への上り口・久礼の街に
国道494号は須崎市内で終わり、引き続いて国道56号を西に向かう。新荘川水系本流の橋を渡り、角谷トンネル、焼坂トンネルを抜け、久礼川を渡り土佐久し礼に到着。ここから窪川盆地へと上ってゆくことになる。

復路

国道197号を東に向かい松葉川と梼原川の分水界をトンネルで抜ける
Google Earthで作成
四万十川源流点から県道378号を国道197号まで戻り、ナビがリードする東向きに抗い、西に進む。松葉川に注ぐ支流に沿って道を進み、トンネルを抜けると梼原川水系の力石川。トンネル辺りが松葉川水系と梼原川水系の分水界のようだ。



檮原川水系・力石川に沿って下り、北川川谷筋の国道439号に乗り換え
力石川に沿って下り、力石川が梼原川水系・北川川に合流する辺りで、国道439号に乗り換える。北川川に沿って国道439号を上る。はじめは二車線だった道も高度をあげるにつれ狭くなる。

矢筈トンネルが梼原川水系と仁淀川水系の分水界。高岡郡津野町から吾川郡仁淀川町に入る
矢筈峠の矢筈トンネルを抜けると。源流点から北上しようとした県道378号が合わさる。矢筈峠が梼原川水系と仁淀川水系の分水界。行政区域も高岡郡津野町から吾川郡仁淀町に変わる。

仁淀川水系・長者川の谷筋を下り仁淀川を渡り国道33号に
峠からは仁淀川水系・長者川に沿って谷筋を下り、大渡ダムの少し下流で仁淀川本流に合流した川筋を少し下り、仁淀川左岸に渡り国道33号に合流。

土居川筋で国道439号に乗り換え、新大峠トンネルを越え国道194号に
仁淀川に沿ってしばらく下流へと進み、土居川が合流するところで、土居川筋を進む国お道494,439号併走区間を進み、狩山川が土居川に注ぐあたりで、国道438号と分かれ国道439号に入る。
国道439号を狩山川に沿って上り、新大峠トンネル(2928m)を越える。仁淀川水系に変わりはないが、行政区域は吾川郡仁淀川町から吾川郡いの町に変わる。トンネルを抜け仁淀川水系・小川川を下り、小川川が注ぐ北川川に架かる広瀬橋を渡り国道194号に合流。往路で走った道に出た「川川」が懐かしい。
新大峠トンネル
寒風山トンネル(5432m)に次ぐ、四国第二の長さのトンネル。平成14年(20029開通。新大峠トンネルの北にヘアピンの道が続く大峠トンネルがあるが、その険路でなく新大峠トンネルのバイパスが走れてよかった。

国道194号をひたすら新居浜へと
正確には国道194号と国道439号が並走する道を北に進み、北川川に枝川川が注ぐ箇所で、国道439号と分かれた国道194号を一路北へ、実家に向かう。残すところ60キロくらいである。1時間ほどの頑張りだ。

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