古河散歩;古河公方ゆかりの地を歩く

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古河を歩く
平将門のゆかりの地を訪ねることになった。会社の同僚のお誘い。坂東市の岩井に「国王神社」がある、という。いかにも「新皇」を称した将門に相応しい名前の神社。実際のところ、平将門にそれほど興味・関心があるわけではないのだが、持ち前の好奇心のなせる業、男3名での道行き、となる。
ところで、坂東市って一体何処だ?聞きなれない地名。チェックする。平成の市町村合併で誕生した。岩井市と猿島町が平成17年に一緒になった、と。場所は茨城。利根川を挟んで千葉県・野田市と境を接する。予想に反して、結構近くにあった。
今回は車を使ったカー&ウォーク。せっかく機動力があるのだから、坂東市の近辺でどこか見どころは、と地図をチェック。東北道・久喜インターから東へ利根川へと目をやる。坂東市を探す。久喜市、幸手市をへて、江戸川と利根川の分岐点。そこから利根川沿いに南に下ると坂東市があった。あれ?途中の江戸川・利根川分岐点にあるのは「関宿」。そしてその少し上に「古河」がある。
関宿は、利根川の東遷事業、つまりは、古来江戸湾に流れ込んでいた利根川を、銚子へと瀬替えする際の分岐点として登場する地。前々から行ってみたかったところ。古河はいうまでもなく、古河公方の館があった地。なぜこの地に古河公方が館を構えたのか、この地でなければならなかったのか、気になっていた。
思いがけなく、前々から気になっていた場所が、突然「登場」した。であれば、ということで, コースは古河市・古河公方館跡からはじめ、坂東市岩井の将門ゆかりの地を巡り、締めは千葉県野田市関宿の江戸川・利根川分岐点へ、という段取りとした。
将門をきっかけにはじまった今回の散歩というかツアーではあるが、平安中期の将門だけでなく、室町期の古河公方、そして江戸期の利根川瀬替えの地・関宿と、時空を巡り楽しむ1日となった。メモは結構手ごわそう。(水曜日, 5月 09, 2007のブログを修正)


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本日のルート;古河市>古河歴史博物館>高見泉石記念館>利根川>古河総合公園>古河公方別邸>・・・>境歴史民俗資料館>逆井城址公園>岩井・国王神社>岩井営所跡>関宿城

久喜インター
久喜インターを降り、利根川に架かる利根川橋に進む。今回はカーNAVIの誘導であるため、経路はよくわからず。渋滞を避けてガイドしてくれる。正確には帯電話のカーEZ助手席ナビ。話は後先逆になるが、黒目川・落合川散歩のとき携帯のNAVIウォークの有料サービスを使い始めたとメモしたが、それはこのときの携帯カーNAVI・助手席ナビのあまりのパフォーマンスのよさに感激したため。音声ガイドで車でもちゃんとガイドしてくれる。であれば、歩きなど問題もなかろう、と使い始めたわけである。

国道4号線
国道4号線を進む。この国道、東京の日本橋から青森まで続く。陸上距離が最も長い、とか。743.2キロもある。大雑把に言って、昔の日光街道・奥州街道(江戸から白河)、仙台道(白川から仙台)、松前道(仙台から函館)を進む、という。


古河歴史博物館
国道4号線を古河駅前近くで西に折れ、最初の目的地・古河歴史博物館に。あれこれ資料を手に入れる。この博物館の敷地は古河城の一郭。12世紀頃は下河辺氏の居城。江戸期は小笠原・松平・小笠原・奥平・永井そして、土井・堀田・松平と続く。中世・15世紀の頃は、古河公方の居城。本来の目的である古河公方のメモをはじめる前に、下河辺氏と土井氏のことをちょっとまとめておく。

下河辺氏
12世紀のころの文書には下河辺の名前がしばしば登場する。下河辺荘という地名も登場する。この下河辺荘って、八乗院御領の寄進系荘園。北は古河・渡良瀬遊水地あたりから、南は葛西、東は下総台地・江戸川から西は元荒川あたりまで含む広大なもの。下河辺氏ってこの荘園の荘司から興った氏族であろう。治承4年(1180年)、以仁王の平家追討の令旨を受け源頼政が挙兵。下河辺は頼政に従軍。が、平家軍に敗れる。で、自害した頼政の首をこの地まで持ち帰り、菩提をとむらった、と。記念館の北西に頼政神社がある。何故かと思っていたのだが、こういう所以かと納得。

土井氏
最初の大老・利勝から前後150年あまり、この地を領する。利勝は家康の子であった、とも。開幕時の重鎮。その他に有名な人物は15代・利位(としつら)。雪の殿様と呼ばれる。雪の結晶を観察し日本で最初の雪の科学書『雪華図説』を著す。大阪城代のとき、大塩平八郎の乱を鎮定。その功を認められ京都所司代、老中、老中首座に。

古河城
古河城のあれこれについて、ちょっとまとめておく。館内に古河城の模型。また歴史館で手に入れた資料によれば、古河公方がこの地に入城したころは、城というより「御陣」といった程度のものだった、よう。その後改修が続けられ、御座所から「古河城」へとなってゆく。小笠原氏、松平氏、奥平氏、永井氏と城郭の改修と城下の整備にあたった、と。古河城の天守に相当する御三階櫓が完成したのは、土井利勝が城主となった翌年、寛永11年(1634)のこと。博物館のあたりは、諏訪曲輪と呼ばれる出城。渡良瀬川堤防のあたりにあった本丸を中心とする城との間には「した掘り」と呼ばれる大きな堀が描かれている。諏訪曲輪と本丸・丸の内は「御成道」と呼ばれる土手で繋がる。将軍が日光東照宮におまいりするときに通る道、であるとか。本丸も二の丸も丸の内も周囲すべてが掘で囲まれた「水城」である。

古河公方
はてさて、露払いは終わり、本命である古河公方のメモに進む。古河に来た最大の理由は、何ゆえ、古河公方がこの地に館を構えたのか、を知りたかったから。先日、伊豆・韮山で偶然掘越公方の館跡に出会い、あれこれ調べ、韮山・掘越の地に館を構えたのか、なんとなくわかった。同様に、古河を歩くことをきっかけに、「古河」でなければならなかった所以を把握しようと思う。
上杉禅秀の乱
「古河」の地であるべき所以の前に、そもそもの古河公方について、ちょっとまとめておく。はじまりは鎌倉公方・足利持氏。管領である上杉家と対立。クーデター(上杉禅秀の乱)により駿河に追放されるも、最後は幕府の助力でクーデター勢力を鎮圧。その後、5代将軍義量の死。持氏は将軍になれるとおもっていた。が、管領畠山満隆らの策謀によりその願い叶わず。結局、義教が還俗し6代将軍に。

永享の乱
鎌倉府・持氏と幕府との対立が激化。関東管領・上杉憲実が融和に努めるも、挫折。憲実は故郷・上野国に退く。持氏は追討軍派遣。それに対抗し、将軍・義教は持氏追討軍派遣決定。1438年、幕府軍が鎌倉攻撃。上杉憲実が幕府側につき、持氏敗れる。持氏は出家し助命を願うが、義教それを許さず。持氏自害。これを「永享の乱」、という。

結城合戦
持氏の3人の遺児は鎌倉を逃れる。次男・三男のふたりは日光、四男の永寿王丸(後の成氏)は信濃に。流浪の身となった持氏の遺児に対し、結城城の結城氏朝が救いの手。室町幕府に対し結城城にて挙兵。これが「結城合戦」。南原幹夫さんの『天下の旗に叛いて:新潮文庫』に詳しい。主君の遺児を擁し、「義」によって挙兵した氏朝に対し、利根川以東の豪族が集結。この結城合戦って、簡単に言えば、管領上杉家と東関東の豪族の対決と読み解けばいい、かも。
この動きに対し将軍義教は追討軍派遣。十万の大軍が結城に結集。結城軍1万。1年の攻防の末結城城は落城。持氏の遺児次男・三男のふたりは京への護送の途中、美濃・垂井で義教の命で殺される。四男の永寿王丸(後の成氏)は沙汰を待つ。その間に義教が赤松満祐に暗殺される(嘉吉の変)。永寿王丸は混乱に乗じ助かる。
この永寿王丸が後の古河公方・成氏。文安4年(1447年)、越後守護上杉房定の斡旋で永寿王丸を奉じて鎌倉幕府復興。鎌倉公方・足利成氏、となる。しかし関東管領・上杉憲忠と対立。親同士の宿敵の因縁が子の代まで、といった図式。成氏が憲忠邸を襲撃し殺害。「享徳の大乱」が勃発。成氏勢は府中・高安寺に陣。

古河公方
いつだったか高安寺にでかけたことがある。藤原秀郷の開基で館であった、とか。秀郷って平将門を討ち取った人物。俵藤太って、我々の世代では「むかで退治」で有名なわけだけど、そんなこと知っている人も少なくなっているよう。ともあれ、高安寺に陣を張った成氏であるが、分倍河原の合戦で勝利するなど緒戦は有利に展開。が、駿河守護今川範忠の鎌倉制圧を受け、康正元年(1455年)、古河に本拠を移す。これが古河公方。最初に住んだのが古河城の南にある「鴻巣の御所」。2年後、下河辺氏の居館であった、古河城を改修し、ここを本拠とする。

掘越公方
長禄2年(1458年)、幕府は足利政知を鎌倉公方に。とはいうものの、鎌倉に入ることも叶わず伊豆の韮山・掘越に館。掘越公方、と呼ばれる。このあたりの経緯は伊豆韮山散歩のときにメモしたとおり。文明14年(1483年)、幕府と成氏の和議成立。「都鄙合体」と「呼ばれる。掘越公方が北条早雲に滅せられるまでふたりの公方が存在することになる。
古河公方のその後。成氏の子孫が古河公方を世襲。16世紀前半、家督争い。足利義明が子弓公方として分裂。天文15年(1546年)、足利晴氏が川越の戦い(日本三大夜戦)で北条氏康に破れ、実質的に古河公方が滅ぶ。

古河公方がなんたるか、についてのメモ終了。ついで、本題の何ゆえに「古河」かについて。偶然のことではあるが、高円寺の古本屋で『日本人はどのように国土をつくったか;学芸出版社』という本を手に入れていた。その中に「古河公方の天と地、あるいは乱の地文学」という箇所がある。以前読んではいたのだが、如何せん土地勘とか問題意識が希薄であり、まったく頭に入っていなかった。が、今回実際に歩き、その気になって読むと、なんとなくポイントがつかめた。以下そのメモである。
古河の地に館を構えた理由:第一にこのあたり、下河辺荘を中心とした現在の利根川以東の地が成氏の御料地であった、ということ。また、その御料地とも関係あるかもしれないが、利根川以西が管領・上杉の領地であったのに対し、御料地のある利根川・渡良瀬川、太日川以東の関東北部、あるいは東部の上総・下総・下野の豪族は鎌倉公方・持氏の遺児にシンパシーを寄せていた。宇都宮氏・小山氏・結城氏・野田氏・簗田(やなだ)氏・千葉氏などである。勿論、力を増した管領上杉に対し、快く思わず、足利家嫡流という盟主を擁し失地回復を図ろうといたことも否めない。ともあれ、古河を含む一帯は、成氏にとって友軍の中の「安全地帯」であった、ということ。
では、その安全地帯の中で、何故「古河」であったか、ということだが、それは、この古河の地が舟運・陸運の交通の要衝であった、ということ。常陸川(ひたち)水系(現在の利根川水系)、渡良瀬川から古利根川水系(大雑把に言って、現在の江戸川)といった水系が入り乱れ、つながり、迷路状に絡み合う、一種の「運河地帯」であったのだろう。現在からはなかなか想像できないが、往古の舟運というのは商品流通の手段としては重要であったようで、各川筋には数多くの河岸がある。利根川水系では高崎に近い倉賀野など江戸時代、物流の一大集散地であった、とか。実際、関宿合戦に勝利し、梁田氏から関宿(現在の江戸川と利根川の分岐点)の支配権を奪い取った北条氏照など「一国にも値する」と大喜びしたほどである。津料、ひらたくいえば通行料も結構なものであったのだろう。関宿合戦については、後ほどメモする。
船運の要の地であった古河は、陸路の要衝・クロスロードでもあった。舟運は便利ではある。が、大軍の移動といった大規模物流・機動性には少々難がある。それを補うのは陸路。その点からしても、古河は幸手、元栗橋をへて古河に通じる奥州本道とも呼ばれる鎌倉街道、東山道武蔵路の途中から北東へ分岐し、鷲宮をへて渡良瀬川を越え古河に至る奥州便路といった鎌倉を結ぶ当時の幹線道路が交差していた。

鷹見泉石記念館
さてさて、やっと散歩に出かける。歴史博物館を離れ、道を隔てて南隣に鷹見泉石記念館。鷹見泉石って、渡辺崋山の描く国宝「鷹見泉石像」が有名(東京国立博物館所蔵)。土井利位の家老として活躍。幕府中枢の要人を補佐する立場であった泉石の残した膨大な日記は、当時の重要事件を記録してあり、その高い資料性ゆえに、国の重要文化財に指定されている。
「ダン・ヘンドリック・ダップル」という西洋の名前をしばしば用い、洋学界にも貢献した。韮山代官、江川太郎左衛門とも親交あったようである。韮山散歩のイチゴ狩りが思い出される。この記念館は水戸天狗党の乱に巻き込まれ、幕府にくだった水戸藩士100名を収容したところでもある。

長谷寺
泉石記念館を離れ、渡良瀬川の堤に向かう。西に向かう道は昔の御成道、か。往古、左右は水をたたえるお濠であったのであろう。道の南には長谷寺。日本三大長谷のひとつ、とされる。鎌倉から勧請されたもの。これまた鎌倉の長谷寺から名越の切通しへの散歩が懐かしい。
ともあれ、歴史館で手に入れた資料では、濠の端に見える。これは江戸になってからのことであろう。中世のころは、お城も整備されていなく、入り江の対岸に鬼門除けとして鎮座されていた、とか。

渡良瀬川の堤防
成行きで進み、渡良瀬川の堤防に。すぐ北には渡良瀬川遊水地が広がる。現在の土木・治水技術をもってしても、こういった調整池・遊水地が必要な「あばれ川」であったとすれば、昔はこのあたり一帯は幾多の細流が入り乱れる、大湿地帯が広がっていたのであろう。
遊水池の南には利根川が流れる。が、これは江戸の利根川の東遷事業で掘削された水路。「新川通り」などと呼ばれていたよう。昔は栗橋あたりを源流とする常陸(ひたち)川が銚子に向かって流れていたのであるが、利根川の東遷以前には江戸湾へと流れこんでいた渡良瀬川も、時として常陸川へ流れ込んでいた、と。この遊水池の規模を見るにつけ、大いに納得。

古河城址

渡良瀬川の堤防を歩く。ひょっこり、「古河城址」の案内。昔の本丸のあったあたり、とか。渡良瀬川の河川改修で取り壊されたのであろう。それにしても、結構大きな構え。南北1800m、東西550mにも及んだ、と。資料を見ると、本丸あたりに頼政神社が。現在は歴史博物館の北西にある。この神社も河川改修工事のときに移されたものであろう。

古河総合公園・古河公方館跡
新三国橋まで下り、東に折れ古河総合公園に。郷土物産展といったイベントで人が集まっていた。なにがうれしかった、といって、秩父で買った「田舎饅頭」がここでも手にはいったこと。祖母の味を堪能する。
公園を南に進む。池、というか、沼にかかる橋を渡り、池に挟まれた下状台地の雑木林の中に。ここに古河公方館跡がある。足利成氏が古河に移り、最初に館を構えたところ。鴻巣御所と呼ばれた。ちょっとした堀切や虎口付近には土塁らしきものも残る。義氏と氏女の墓所があった。義氏って、秀吉の頃の古河公方。氏女って、義氏の息女。秀吉により、子弓公方・足利義明の孫に嫁ぎ、下野・喜連川に。あれこれの有為転変の末、この地でなくなった、と。

古河の地形
カシミール3Dでつくった地形図で古河城、古河公方館跡を取り巻く地形をチェック。さきほどの『日本人はどのように国土をつくったか;学芸出版社』を参考にする。歩いているときにはそれほど地形のうねりを感じることはできなかったのだが、あらためて地形図をみると、古河城・館の地は下総台地の西端・猿島台地と呼ばれる低い台地上にある。
この台地は東西、そして南を川・湿地で囲まれている。西は渡良瀬川。東は昔、大山沼と呼ばれる沼地があった。明治に干拓され現在は向掘川と呼ばれる細流が残すだけである。が、昔はこの川は渡良瀬川上流にあたる思川の派川であり、水量豊かな流れであった、とか。ちなみに、鴻巣御所を取り巻く、御所沼であるが、これは向掘川の豊かな地下水流というか伏流水が台地下をくぐり、この御所沼の谷戸の奥に湧き出たものではないか、と言われている。
この向掘川、昔は大山沼入り、その先、栗橋のちょっと東あたりで利根川に流れ込んでいた。利根川といっても、江戸期に東遷事業で開削された「赤堀川」と呼ばれた流れではある。
で、開削以前はどうか、というと、このあたりは、南に進み江戸湾に流れる渡良瀬川水系と、栗橋あたりを源流点とし、東へと進む常陸川(ひたちがわ)を隔てる、曖昧なる「分水嶺」といったところ、と『日本人はどのように国土をつくったか』では指摘する。つまりは、大山沼の水も渡良瀬川水系に流れることもあれば、逆に渡良瀬川の水が常陸川に流れこむこともあったのでは、と。猿島台地の両端は、流れの向きの不安定で滞りやすい湿地を成していたため、古河は西・東・南の三方を水に囲まれた要害の地であった、という。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

『日本人はどのように国土をつくったか』の記述を続ける。「渡良瀬川を望む、この猿島台地の西縁に、流れと平行して深く北方へ切れ込む谷戸がある。それと行き違うように低い台地が南に向かって細長く突き出していた。立崎と呼ばれるその岬の先端に古河公方は城を構えた。いわゆる水城である。そこから少し南に、やや太い谷戸が東に向かって、台地へ切れ込んでいる。八つ手の葉のように分かれたその先端は、台地の分水嶺の近くまで貫入して、反対側の向掘川から延びた伏流水が音を立てて湧き出していた。八つ手になったその谷戸状の沼に三方を囲まれた舌状台地が突出している。
疎林に覆われたその眺めの良い場所に、公方の居館・鴻巣御所があった。沼はいまでも御所沼と呼ばれている。古河公方の居城と館はこうした湿地の迷路の奥にあった」、と。つまりは、古河の地は、猿島台地という水に囲まれた要害の地であった、ということだ。
なぜ、古河なのか、という疑問も、地政学的、および地形学的に自分なりに納得。散歩の距離の割りにメモに時間をとられた。が、長年の疑問も解消し、次の目的地に、心も軽く向かうことにする。

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