千川上水散歩 そのⅠ;玉川上水・境橋分水口から中村橋まで

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歳末のとある休日、どこといって散歩のルートが想い浮かばない。こういった時は川筋を辿ることにしている。とはいうものの、都内の川筋は大体歩いた。用水・上水も結構辿った。残っているのは大所では千川上水跡くらい。

千川上水は江戸六上水のひとつである。元禄9年(1696)徳川綱吉の時代、道奉行伊奈平八郎掛かりで開発が行われ、土木家河村瑞軒の設計のもと、多摩郡仙川村の徳兵衛、太兵衛が開削にあたった。
そもそもの目的は江戸の小石川御殿、湯島聖堂、上野東叡山、浅草寺に水を引くこと。お武家さま中心の計画ではある。そしてその余水を神田上水以東の小石川、本郷、湯島、外神田、下谷、浅草までの武家、寺社、そして町屋に飲料水として渡した。江戸の町の3分の1にあたる地域を潤した、という。その後、18世紀になると流域の村々の懇願を受け、灌漑用水として井草、中村、中新井、長崎、滝野川、巣鴨村等7個所の分水を設け、20ほどの村々の田畑を潤した。
享保7年(1722)には儒学者室鳩巣の提言を以てして、玉川上水、神田上水だけを残し、 千川上水をはじめ、青山上水、三田上水、本所上水(亀有上水)の4上水を廃止した。江戸の大火の原因が上水・用水開削による地下水脈の乱れによるとの理由からである。以後、一時的に上水として復活することもあったが、主として、村々の潅漑用水として使われた。

(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


明治以降は、水車による精米・精麦、製粉が行われるようになったほか、紡績所や製紙会社、印刷局などの工業用水としても利用された。また、1880年(明治13年)には、岩崎弥太郎が設立した「千川水道会社」により飲料水としても使われた。その後、東京市の改良水道の普及で1908年(明治41年)、千川水道会社は解散。1970年(昭和45年)には東京都水道局板橋浄水場が上水からの取水を止め、1971年(昭和46年)には大蔵省印刷局抄紙部への給水も止み、千川上水はその長い歴史を終えた。
千川上水の歴史は大まかに以上の通りである。が、千川上水に関する興味・関心は歴史よりその地形にある。千川上水は標高64mの境橋から、標高28mの巣鴨まで30キロ弱を尾根筋に沿って武蔵野台地を下る。玉川上水・境橋の分水口から、石神井川水系と神田川水系(善福寺川・妙正寺川)の分水界でもある尾根筋を東に向かって進む水路は、東長崎の手前で北東にほぼ直角に曲がる。その先は谷端川や妙正寺川の谷筋となるので、谷に落ちないように、尾根に沿って曲がるのあろう。カシミール3Dでつくった地形図を見ると、まさしくその通り、その後流路は尾根筋から外れないよう板橋に向かって進んでいる。一度でも下に落ちれば、自然流路としては上に戻れないわけであるから、精緻な測量技術を持って尾根から外れないように流路を決めていったのだろう。玉川上水・境橋分水口から巣鴨の千川上水浄水場跡まで、歴史=時、と地形=空を想い描き千川上水跡散歩にでかけることにする。



本日のルート;JR武蔵境駅>武蔵境通り・独歩通り>千川交差>武蔵野第二小学校>都道123号線>境橋>都道7号線>阿波洲神社>柳橋>武蔵野大学前>関前橋>電通研究所前>更新橋>石神井西中前>都道4号線・関前一丁目交差点>千川通り>立野橋>西武新宿線>上井草駅前交差点>新青梅街道・井草4丁目交差点>環八・八成橋第二交差点>八成橋>富士見台駅入口>西武池袋線・中村橋

JR武蔵境
玉川上水の境橋にある千川上水の分水堰に向かう。最寄りの駅はJR武蔵境駅。武蔵と何処かの境が地名の由来かとも思っていたのだが、実際は境新田、から。出雲松江藩の屋敷奉行の境本氏が御用屋敷のあった場所を幕府より貰い受け新田を開発、その名を境新田開発とした。駅の南には境本公園も残る。
工事中のため右往左往しながらも駅北口に下り、商店街を抜け成り行きで北に向かう。武蔵境通りと地図にあるが、商店街を抜けた辺りから70mほどを「独歩通り」と呼ぶ。通りを北に進むと境浄水場手前に玉川上水・桜橋があるが、その橋の袂に国木田独歩文学碑がある。「今より3年前のことであった。自分は或友と市中の寓居を出て三崎町の停車場から境まで乗り、其処で下りて北へ真直に四五丁ゆくと櫻橋という小さな橋がある」と、国木田独歩の『武蔵野』の一節が刻まれている。
桜橋を玉川上水に沿って少し西に戻ったところに境山野(さんや;山野は字名)緑地があるが、この地は「独歩の森」とも呼ばれる。独歩の日記『欺かざるの記』には、「遂に櫻橋に至る。橋畔に茶屋あり。老婆老翁二人すむ。之に休息して後、境停車場の道に向かひぬ。橋を渡り数十歩。家あり、右に折るる路あり。此の路は林を貫いて通じる也。直ちに吾等此の路に入る。林を貫いて、相擁して歩む。恋の夢路!余が心に哀歓みちぬ」とある。その後に独歩と結婚することになる佐々木信子と共に歩いた「記憶して忘するる能はざる日々」の舞台ではあろう。

仙川と交差
武蔵境通りを北に進むと仙川に当たる。仙川は多摩川水系野川の支流。武蔵小金井の貫井北町、東京学芸大学の北にあるサレジオ学園あたりを源頭点とし西に進み、武蔵境あたりで進路を南に変え世田谷区鎌田で野川に合流する。いつだったか3回にわけ野川流域を辿った。武蔵小金井あたりで出会った三光院、そこでの山岡鉄舟と任侠小金井次郎とのエピソードを思い出す。武蔵野二小交差点で左に折れ、武蔵高校前交差点で都道123号線を北に進む。都道123号境調布線は武蔵境・境橋交差点から調布市上石原を結ぶ。国立天文台脇を通るため通称、天文通り、とも呼ばれる。

境橋分水口
都道123号線を進むと都道7号杉並あきるの線に当たる。都道7号線は通称、「五日市街道」と呼ばれる。家康の江戸入府の後、秋川筋の五日市(現在、あきるの市)や檜原から木材や隅などを江戸に運ぶため整備された。都道123号線が五日市街道にあたるところに玉川上水に架かる境橋がある。
玉川上水は羽村で多摩川の水を取り入れ、武蔵野台地の尾根を進み大江戸四谷の大木戸に至る、全長43キロほどの上水路。江戸の人々に水を供給した。現在、羽村で取水された水は小平監視所まで流れ、そこからは東村山浄水場に送られる。監視所から下流は1965年(昭和40年)の新宿・淀橋上水場の廃止とともに送水を停止し、しばらくは「空堀」状態ではあったが、1986年(昭和61年)の清流復活事業により再び水流が復活した。水流は復活した、とはいうものの、それは多摩川の水ではなく昭島の多摩川上流水再処理センターで高度処理された下水ではある。ここ境橋のあたりまで流れる水は、この清流復活事業として供給される水、ということだ。


柳橋
千川上水はこの境橋の辺りが始点。千川上水跡を辿るべく。五日市街道方面を見やると、道の中央に緑地帯がある。なんらかの痕跡でもあるものか、と緑地帯に入る。中央には水路が整備されていた。開渠の水路には水が流れる。清流復活事業による水流である。千川上水は境橋の上流200mほどのところで玉川上水から分水されていた。現在でも清流復活事業により玉川上水に流される水量の20%、おおよそ1万トン(1日)程度の水が分水される、と言う。1万トン、ってどの程度か想像もできないが、イラクでの自衛隊の給水のニュースで、1日70から80トンの水でほぼ2万人分とあった。ということは、おおざっぱに言えば200万人から250万人分の水量、ということだろう、か。
水路に沿って整備された遊歩道を先に進む。関前5丁目交差点で井ノ頭通りと交差。井ノ頭通りはここで終わるが、交差点の先も道が一直線に多摩湖に向かう。多摩湖自転車道とも呼ばれるこの道は、多摩湖から境浄水場に延びる水道管の上を走る。快適なサイクリング道でもあり、遊歩道でもある。小金井公園の東、石神井川上流部で川を跨ぐ水路の馬の背を思い出す。


阿波洲(あわしま)神社
地図をみると柳橋交差点の少し先に阿波洲(あわしま)神社がある。武蔵境通りを少し北に進み、左に折れてちょっと立ち寄り。高校だったろうか、校庭の脇につつましやかに佇む。宝暦2年、と言うから、1752年、粟島明神を勧請。18世紀前半より開発された上保谷新田の鎮守として信仰をあつめた。粟島明神は紀州加太浦の粟島明神が総社。人形供養の神社としても知られる。祭神は頗梨采女(はりさいにょ)という女神さま。祇園精舎の守護神である牛頭天皇の后、とされる。祭神が女神さま、ということもあり、安産や婦人の病平癒など女性の信仰を集めた。

鈴木街道
柳橋を越え武蔵野大学前交差点に。都道7号・五日市街道はここを右に折れ、吉祥寺方面へと進む。学園前のバス停脇に大きな庚申塚。天下泰平、五穀成就、また、疫病など災難が村に入ってこないようにと、上保谷新田の人々によって新田の入り口に建てられた。

この庚申塚の脇を学園に沿って西に進む道は鈴木街道とも呼ばれる。鈴木新田と上谷保新田を結ぶもの。鈴木新田は八代将軍吉宗の頃、武蔵野台地に開かれた新田のひとつ。小金井から小平にかけ、武州多摩郡貫井村(現小金井市)の名主、鈴木利左衛門により開発された。道は先ほど訪れた阿波洲神社の北側の道を進み小金井公園の北抜ける。その先の小金井街道との交差点のあたりに鈴木町という町名が残る。鈴木新田って、このあたりだろう、か。

井口橋
武蔵野大学前交差点で一時暗渠となった千川上水は、交差点の先で再び水路を現す。欅と桜の木立の下を遊歩道が走る。遊歩道入り口のフェンスの中に庚申塔と石橋供養塔が佇む。石橋供養塔は天保12年(1841年)に古くからあった井口橋を石橋に架け替えたとき、当時の関村の人々が完成の記念と、村への悪霊進入を防ぐべく建てられたもの。このあたりの標高60m。
武蔵野大学から先の道幅は今までよりは狭くなる。上水も道のセンターではなく、道に沿って北側を流れる。それにしても快適な遊歩道ではある。千川上水散歩をためらっていた理由のひとつは、ルートから見れば如何にも排気ガスをたっぷりと吸い込む、といったイメージがあったことだが、案に相違して、それほどのことは、ない。


関前橋交差点
よし窪橋、千川橋をへて関前橋に。関前橋で道は二つに分かれる。千川上水はそのまま東へと先に進む。地図でチェックするとその道筋は都道7号とあり東伏見4丁目で青梅街道にあたる。また、北に折れる道も都道7号線とあり、東伏見交差点で青梅街道にあたる。??都道7号線って、先ほど武蔵野大学前交差点で右に折れた、はず?はてさて、都道7号のルートは一体どうなっているのだろう?青梅街道との交差点から先には7号線のルートは見あたらない。チェックすると、武蔵野大学交差点から先、青梅街道に続く道は、都道7号線の青梅街道との連絡支線であった。

更新橋
千川上水はNTT武蔵野研究開発センターのある電通研究所交差点で都道7号線と別れ右に折れる。道幅は更に狭くなる。車の流れも少なくなり、散歩に不都合は何も、ない。石橋の三郡橋に進む。名前の由来は多摩郡(関前村、西久保村)、新座郡(上保谷新田)、豊島郡(関村)の三つの郡の境であるから、だろう。このあたりの標高58m。
西窪橋を越え更新橋に。橋の袂に庚申塔の祠があり青面金剛像が祀られている。青面金剛像は本来、病を流行らせる神。病鬼を逃れるために祀られる、とは、逆説的で面白い。古い祠と緑、そして上水の佇まいは、誠に、いい。更新橋は、「庚申>こうしん」との音の転化ではあろう。

吉祥寺橋
西北浦橋、桂橋、東北浦橋と越える。水路脇に「千川上水施餓鬼亡霊供養塔」。名前は少々おどろおどろしいが、溺死し成仏できない餓鬼亡霊たちへの施し(供養)をする塔、と言う。水路は今でこそ、つつましやかな水量であるが、昔は結構な水量であったのだろう。
供養塔の先には吉祥寺橋。道の左手に畑が見えてくる。右手は井口家の屋敷林、とある。誠に美しい景観。千川散歩で、このような落ち着いた風景が楽しめるとは予想していなかった。橋を右に折れ、JR西荻窪駅へと向かう道と離れ、屋敷林脇を進む上水に沿って先に進む。橋から先は練馬区に入る。

青梅街道
舗装のされていない小径を進む。テニスコートを右に、さらに進んで石神井西中学校を左手に、水路の両側に宅地が迫ったり、左手に畑地が再び現れたり、時に暗渠となる緑の水路脇を進む。田中橋、久山橋、竹下橋を越え、吉祥寺橋から1.2キロ程度歩き青梅街道に。
青梅街道に架かる橋は伊勢橋と呼ばれた。元は伊勢殿橋と呼ばれていたようだ。上水開設を監督した御道奉行の伊勢平八郎に由来するのだろう。ここには水番所もあった、とか。江戸の人たちの飲み水を清潔に維持するところである。この辺りを水道端と呼ぶのも、その故であろう。このあたりの標高は52m。
境の分水口で取水した1万トンの水量うち7千トンが、ここから南の善福寺池に送られる。善福寺池を水源とする善福寺川の水量を増やし、そこを源流とする善福寺川を浄化するためである。往古豊かであった善福寺池の湧水も最近はポンプアップされている、とか。
水道端で別れた善福寺池への導水管は、青梅街道に沿って竹下稲荷まで下り、そこを右に折れ道なりに進み、善福寺川への落口へと続く。池に直接再生水を落とすのは、富栄養化などで差し障りがあるのだろう。この地で分水され、残り3千トンとなった千川上水はこれ以降、暗渠の中を進むことになる。

関のかんかん地蔵
千川上水が暗渠となって青梅街道をくぐる関前1丁目交差点から、少し西にすすんだところに「関のかんかん地蔵」。妙な名前に引かれてちょっと寄り道。青梅街道に沿った酒屋の横に佇むこのお地蔵さまは、石でたたけば願いが叶うとのこと。で、長年叩かれ続け足元が痩せてしまい、近年補修された。名前の由来は、叩いた音、から。『新編武蔵風土記』に「石地蔵像 坐像長六尺、青梅道ノ北側二立リ、関ノ地蔵ト云、祈願ヲナスモノ石ニテ打ハ、カ子(カネ)ノ音アルヲモテ、カンカン地蔵トモ云ウ」、と。

田中水車
青梅街道を越えると千川上水は暗渠となる。千川通りに沿って400mほどは千川上水緑道と呼ばれるが、散歩した2010年11月は水道管交換の工事中であった。都道439号椎名町上石神井線、通称千川通りと呼ばれるこの道は、豊島区南長崎6丁目を起点に青梅街道・関前1丁目交差点に至る道。千川上水は起点の南長崎まで、千川通りに沿って走る。
立野橋で緑道はお終い。立野橋交差点から西武新宿線・上石神井駅へと上る道脇に庚申塔が佇む。立野橋を越えるとほどなく道の左側に上石千川児童公園。なにやら案内らしきものが目に入りちょっと立ち寄る。田中水車の案内。この公園のそばに昭和44年頃まで水車があったとのことである。田中水車は所有者が田中さんであった、から。別名観音水車とも呼ばれるのは、このあたりの小字が観音山であったためである。千川上水には時期によって加減はあるものの、13カ所に水車があった、と伝わる。

(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)



西武新宿線と交差
先に進むと歩道と車道に段差が出てくる。西武新宿線上石神井車両基地南側付近では1mほどにもなるだろう、か。これはかつて築樋が通っていた名残。千川上水は尾根筋に切り込んだ妙正寺川への谷筋を築樋で跨いでいた、と言う。いつだったか井草を彷徨い、妙正寺池まで歩いたことがある。そのとき青梅街道近くの「切り通し公園」から西武新宿線井荻駅を経て妙正寺池に続く井草川に出合った。カシミール3Dでチェックすると築樋があったあたりに窪みが見える。上でメモした妙正寺川の谷筋は正確には妙正寺川支流の井草川の開析谷だろう。
千川通りは上石神井駅西の踏切で西武池袋線を越える。暗渠を流れてきた水は踏切手前で一瞬姿を現す。西武線の鉄橋は「千川上水橋梁」とあった。この辺りの標高は50m。
西武線を越えた千川通りは上井草駅入口交差点を越え、左手に屋敷林などを見やりながら先に進む。明治の頃、このあたりに東京同潤社糸線器工場があった。この製糸工場は糸を晒すとき千川上水からの分水を活用していた、と言う。

環八交差
井草四丁目交差点で新青梅街道にあたる。新青梅街道を越えるとほどなく環八・八成橋第二交差点。八成橋って、なんとなく惹かれる名前。往時、このあたりは小字を八成と呼ばれた。新青梅街道と旧早稲田通りが交差する北に八成小学校があるが、そのあたりの地形が「皿のような地形」であった、とのこと。カシミール3Dでチェックしても「皿」っぽい地形はよくわからないが、皿という語感からひょっとして「鉢成」ではないだろうか。チェックすると八成にある石像物に「鉢成講中」と刻まれているものがある。皿、というか鉢のような地形であったのだろう、か。単なる妄想。根拠無し。このあたりの標高47m。

旧早稲田通り交差
環八を越えるとすぐに旧早稲田通り・八成交差点。旧早稲田通りは、その昔所沢道と呼ばれ、中野の鍋屋横町から保谷を経て所沢に続いた道。『豊嶋郡誌』には「豊多摩郡の北部を走りて、同郡井荻村より本郡石神井村に来り、同村の中腹を東西に貫きて、大泉村の南端より北多摩郡保谷村に去り、進んで埼玉県所沢町に達す」、とある。

長命寺道
旧早稲田通りを越え200mほど東に進むと千川通りの北側に「長命寺道」の道標。その昔、下井草から北上し往時この地に架かっていた三兵橋を渡り東高野とも呼ばれた長命寺に至る参詣道があった。いつだったか自転車で和光の白子の宿に向かっていたとき、笹目通りを進み、西武池袋線を越えたあたりで何気なく左に折れると、鬱蒼とした森があり、なんらかの神社仏閣があるものかと進み、偶然出会った名刹であった。鬱蒼とした森、と言えば江戸の頃の散歩の達人、村尾嘉陵の『江戸近郊道しるべ』に長命寺のことが書いてある。そこには鬱蒼としていた森を住職が伐採し売り払ったので、近頃は高い木が残っていない、といった記述があった。

中村橋
道を進み富士見台1丁目交差点を越えると中野区に入る。先を進むとほどなく富士見台駅前交差点。その昔、この地には九頭龍橋が架かっていた。石神井方面と練馬を結ぶ往還にかかる石橋であった、と言うが、その面影は、今はない。千川通りを先に進む。中村橋に近づくと道脇に桜のベルトが続く。中村橋西歩道橋手前に九頭龍弁財天の祠。元は富士見台駅前交差点の九頭竜橋のあたりにあったものを、この地に移したもの。渡邊龍神、弘法大師、子庚申、馬頭観音などが祀られている。日も暮れた。千川に架かる中村橋の名前を冠した西武池袋線・中村橋で本日の散歩を終える。

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