案下道散歩;夕焼け小焼けの里を歩く

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何も考えることなく、ひたすら歩きたいと思った。さて、どこに行こうか。と、思い浮かんだのが案下道。現在の陣馬街道である。いつだったか陣馬山に登ったとき、山稜の北側、案下川の谷筋に下った。陣馬高原下から西東京バスに乗り高尾に戻る道すがら、案下とか「夕やけ小やけの里」とか恩方、といった地名が続く。何となく気になる地名だ。
案下は仏教の案下所から。修行を終え入山する僧が準備を整え出発する親元(親どり;親代わり)の家のこと。なんともいい響きの名前だ。恩方もいい地名。奥方が変化した、との説がある。山間の奥の方、と言うところだろう、か。近くに寺方とか壱分方、弐分方といった地名もあるので、なんとなく納得できる説ではある。
その奥の方から続く案下道を下り、山峡を縫ってきた浅川が開けるあたり、圏央道が南北に走る近くには浄福寺もある。この近辺に覇を唱えた大石氏の館といった城址がある。案下城とか恩方城などと呼ばれたこの城址にも前々から訪ねてみたいと思っていた。言葉の響きに魅せられたのだろう。
今回の散歩のルートは、事前準備なしの成り行き任せ。とりあえず夕焼け小焼けの里までバスで行き、後は案下川(浅川)に沿って谷間の道を行き当たりばったりで辿り、浄福寺あたりまで下ればいいか、などと想い浮かべる。誠に、誠にお気楽散歩に出かけることにした。



本日のルート:夕焼け小焼けふれあいの里>宮尾神社>薬師堂>力石>興慶寺>狐塚>黒沼田>駒木野の旧家>浄福寺>稲荷堂>松竹橋>川原宿>中小田野

夕やけ小やけの里
京王線高尾駅で下車。駅前で陣馬高原下へのバスに乗る。駅前の20号線を越え、南浅川を渡り、廿里(とどり)古戦場跡である廿里の坂を上り北に進む。中央高速と交差し、八王子城跡入口を越え県道61号線を進み、北浅川を越え川原宿交差点に。そこを西に折れ陣馬街道に入る。道は北浅川に沿って進む。川はほどなく浅川と名前を変える。蛇行を繰り返し流れる川筋を、この道を再び歩いて下るのか、などと想いながら進むと「夕焼け小やけの里」バス停に。
バスを下り、案内を探す。バス停には案内は、なし。道を少し戻ったあたりに見える建物に向かう。途中、浅川に架かる橋を渡り、先に進むと結構多くの家族連れ。建物は「夕やけ子やけ ふれいあいの里」といった農業体験型レクレーションセンター。家族連れはそこに遊びに来た人たちであった。郷土名産店をちょっとひやかし、園の入り口にある地域観光マップで見どころをチェック。「夕焼け小やけの碑」は近くに宮尾神社にある。川沿いにはいくつかのお寺が続く。「♪山のお寺の鐘が鳴る♪」わけであるから、近在のお寺を外すわけにはいかないだろうと、場所とお寺の名前を一応チェック。道すがら訪ねることにする。

「夕やけ小やけの碑」
「夕やけ小やけの ふれあいの里」の入り口近く、都道521号線の向かい側に上り口の階段。小道を進む。道脇に石の仏が佇む。ほどなく石段と鳥居。石段を登ると宮尾神社の境内に。祭神は底筒男命(そこつつおおのみこと)、中筒男命、上筒男命などの神々。これらの神々は住吉神社三神。宮尾神社が高留住吉社と呼ばれていた所以である。宮尾神社はこの山が宮尾山であるから。高留はこのあたりの地区の呼び名。境内に童謡「夕やけ小やけの碑」。この神社神官の次男であった作詞家中村雨紅(本名高井宮吉)を記念して建てられた。ペンネームの雨紅は野口雨情の門にあったから。青山師範学校で学び、日暮里第二小学校をへて日暮里第三小学校に奉職中(1919年;大正8年)にこの歌詞を創った、と。長野の善光寺にも「夕焼け小焼けの碑」がある。作曲家草川信が長野出身であった、ため。日暮里第二小学校、日暮里第三小学校にも記念碑がある、とか。
境内の端から西に開けた谷間を見下ろす。高留の集落が見える。関場とも呼ばれ、その昔口留番所があった。詮議の厳しい小仏峠・小仏の関を避け、この道筋を通り和田峠へと抜ける人馬を取り締まった。開けた谷間の北の谷筋が醍醐川、南が案下川の谷筋。ふたつの川が合わさり、夕やけ小やけバス停の少し先で浅川となる。醍醐川の川筋を先に進むと市道山をへて秋川の川筋・笹平に抜ける、とか。この道筋はその昔、秋川筋・檜原の村人が八王子方面への往来に使った峠道。そのうちに歩いてみたい。

 薬師堂
神社を離れ、バス停あたりまでも戻る。次は案内にあった薬師堂。どういった祠かも知らず、とりあえず成り行きで進む。見つからなければ、それはそれで、よし。ふれあいの里を越え、宮ノ下地区を浅川に沿って下る。薬師堂を探し、川向こうを見やる。と、お堂らしき赤いトタン屋根が目に入る。陣馬街道を離れ、成り行きで川筋に。小さな橋を渡り、少し進むと畑の傍に地蔵堂。お堂の前には十三夜塔。昔はこの里でも月待ちの行事が行われていたのだろう。お堂は里山の風景に誠によく似合っていた。
十三夜待ちは月待ち信仰のひとつ。三日月待ち,十三夜待ち,十六夜待ち,十七夜待ち,十九夜夜待ち,二十二夜待 ち,二十三夜待ち,二十六夜待ちなどがある。月待ち信仰の中で最もポピュラーなものが二十三夜待ち。満月の後の半月である二十三夜の月が「格好」よかったの、か。皆一緒 に月を待つ。十三夜待ちは9月13日の十三夜が月輪を背負う虚空蔵菩薩の縁日であった、ため。真言密教や修験道の普及とともに広まった。月待ち信仰って、庚申待ちと同じく、庶民のささやかな娯楽ではあったのだろう。

興慶寺
畑の畦道のような小径を進み、再び北浅川を渡り戻し陣馬街道に戻る。大きく湾曲する北浅川に沿って下り、狐塚地区に入る。縄文中期の住居跡が発掘されたとの記事もあるこの狐塚で思い起こすのは、横地監物。秀吉の小田原攻めの折、上杉景勝軍などの猛攻で落城した八王子城の城代家老。再起を図り城を脱出。尾根伝いに進み、この狐塚あたりで案下道に下り、その後、醍醐、市道山を越えて檜原城を目指した、と。もっとも、八王子城にて力戦の末自刃、との説もあり、その最後ははっきりしない。それはともあれ、横地監物にまつわる後日談。横地監物の奮戦を武士の鑑とした家康は、その忘れ形見を捜し出し、近習とする。その後兄は馬術指南となり、晩年は平山に宗印寺を開基。弟は、水戸藩家老として同藩創生期の礎を築いた、と。

陣馬街道を離れ、狐塚の山麓にある興慶寺に向かう。13世紀末創建の庵がはじまり。その後広園寺の住職が開基。八王子の京王線山田駅近くにある広園寺は、鎌倉幕府の創設に貢献した大江氏が寄進したもの。和田合戦で和田義盛に与力し敗れた横山党に代わり、八王子一帯を領した。京王片倉駅の南にある片倉城も大江氏の拠点である。広園寺も堂々とした構えのお寺さまであった。それはともかく、興慶寺境内から見る里の景観、陣馬山へ続く山稜は誠に美しかった。

皎月院
黒沼田(くるみた)を過ぎ、駒木野に。立派な蔵をもつ旧家が道脇に建つ。駒木野って、高麗来野から、との説もある。高麗からの渡来人が開いたところ、と。もっとも、関東全域に帰化人の開拓の跡があるわけで、この説のインパクトは今ひとつ。また、駒木戸から、との説もある。馬を飼う牧の木戸、ということだ。八王子には由比の牧とか小野の牧など、いくつかの牧もあり、此の説もそれなりの納得感がある。
それにしても、毎度のことながら、地名の由来は諸説定まること、なし。もとは「音」があり、それに「文字識り」が文字をあてる。その文字をもとに「物識り」があれこれ蘊蓄を加える。意味が広がるわけである。とすれば、それはそれで致し方、なし。

佐戸を越え次の目的地である 皎月院(こうげついん) に進む。恩方中学を越えたあたりで陣馬街道を左に折れる。中学校の傍に 皎月院。心源院の隠居寺。心源院と言えば信玄の娘・松姫が武田家滅亡の折、甲斐から脱出し安住の地となしたところ。松姫は心源院で髪を下ろし信松尼となった。陣馬街道と都道61号線が交差する川原宿近くにある。
そういえば、「夕やけ小やけの里」の少し先、案下川と醍醐川が合流する高留地区に金昇(照)庵という庵があった、と言う。松姫が甲斐からの山越えの難路を逃れたどり着いた庵。甲斐の韮崎の城を出てから50日以上たっていた、と言う。ついでのことながら八王子市内に信松院がある。武田家滅亡後、家康により召し抱えられた旧武田家臣が松姫のために開基したもの。旧武田家の家臣よりなる八王子千人同心の屋敷町のそばにあった。松姫も心やすらかに余生を送れたことだろう。恩方第二小学校校庭隅にある金昇庵址の碑文:「信玄第六女松姫ら、勝沼開桃寺を脱し甲斐路の山谷を武州案下路の山険を踏み分け、和田峠を下り、高留金昇庵に仮の夢を結ぶ。故郷の風雪はるかに偲び肌寒きを受け、転じて河原宿心源院の高僧に参禅し、更に転じて横山(八王子)御所水に移り住み、機織りの手作りに弟妹を育つ。(中略)徳川氏江戸に入府と共に甲斐の旧臣八王子千人同心を結び、八王子守衛に来り住し、松姫の安否を尋ね、米塩の資を助く」、と。皎月院自体は誠に慎ましやかなるお寺さまではあるが、心源院=松姫とのつながりで、あれこれとフックが掛かる。

浄福寺城址
陣馬街道に戻り先に進む。ほどなく大久保のバス停。「夕やけ小やけの里」へのバスはこの大久保の停留所で道脇の空き地に入り、一回転した上で、更に先に進んだ。そのときは、「意味がわからん」、とひとり呟いたのだが、どうもこの停留所はバスの乗り継ぎ地となっているようだ。高尾からのバスはこの大久保を経由して陣馬高原下まで進むが、八王子から陣馬街道を上るバスは、この大久保が終点。空き地は八王子からのバスの回転スペースであった、よう。物事には、それなりの理由はある、ということだ。 少し進むと浄福寺。道脇に「新城跡」の案内。境内脇の小径を先に進む。庵を巻き、山中へ進む。細路を進むが結局行き止まり。山頂への道を探すが、見つからず。引き返す。堀切りとか虎口といった遺構が山中に残る、とか。とはいえ、道は整備されておらず、気軽に上れるわけも、なし。
この城址、新城とも、案下城とも、浄福寺城とも、松竹(まつたけ)城とも、千手山城とも称される。新城は本城(八王子城)に対する第二の城(支城)から。案下・松竹は地名から。千手山は寺号から。築城も大石信重とも大石定久とも。信重は大石氏の中興の祖。定久は大石氏が小田原北条の軍門に下るときの当主。どちらがこの城の築城主か不明ではあるが、そのことはそれほど気にならない。信濃の大石郷を出自とし、木曽義仲の係累と姻戚関係を結び義仲の後裔と称し、上杉管領家に仕え実力を発揮。入間からはじめ次第に勢力を拡大し、二宮館、高月城、滝山城とこのあたり一帯に拠点を築く。浄福寺城は、この過程のどこかで、甲斐への抑えに築かれたものだろう。ちなみに大石定久が養子とし家督を譲った北条氏照が滝山城を棄て八王子城を築城してからは、浄福寺城はその出城(新城)となった、と。

境内に戻る。本堂前は広場となっており、その先は石垣積みの土堤。南面した広場から松竹や大久保地区が展望される。八王子城山の山中を穿った圏央道がその北浅川を跨いで南北に走る。狭い谷間を縫ってきた北浅川が台地・扇状地へと大きく開く喉口を圏央道は一跨ぎにし、再び恩方トンネルとなって山中に潜る。
境内を離れ、陣馬街道を越え北秋川筋へと進む。上れなかった浄福寺城址の山容を眺めるため。標高360m、比高差150mといったところ。大きく湾曲した北秋川を西に戻り直し、大沢町会会館あたりにあるお稲荷さんにお詣りし、再び陣馬街道に戻る。

松竹橋
圏央道をくぐり、松竹橋(まつたけ)交差点に。このあたりは八王子城の搦め手。八王子の城攻めの際、大手口からの前田利家勢と呼応し戦局に決定的打撃を与えた上杉景勝軍の進撃路。松竹橋を渡った先に八王子城へと上る道があるよう。先日八王子城の城山方面からこの松竹へと下る道を探したのだが、結局みつからなかった。いつか、この松竹口から城に上ってみたい。どうせのこと、薮漕ぎの難路ではあろう。ちなみに、松竹は昔、松嶽と表記されていた、と。松嶽稲荷神社があるのは、その名残、か。

川原宿交差点
川原宿道を進み川原宿交差点に。陣馬街道と都道61号線が交差する。この都道61号線って、その昔の鎌倉街道山の道。秩父道とも呼ばれ、高尾から川原宿を経て、川口川筋の上川橋、そして秋川筋の網代へと進む。高尾からこの秩父道を辿り、妻坂峠を越えて秩父に入ったのは何時だったのか。懐かしい。
川原宿は往古、案下道と鎌倉街道が交差する交通の要衝であり、そこに宿ができたのだろう。川原宿交差点の近く、北浅川の南に心源院がある。

日も暮れてきた。川原宿橋を渡りその先、中小田野バス停あたりで本日の散歩を終了する。後日談ではあるが、この中小田野の少し東、北浅川と小津川・山入川が合流するあたり、陵北大橋の北にある宝生寺を訪ねたことがある。折しも夕暮れ。橋から見た陣馬の山々の夕焼けは誠に、誠に美しかった。夕焼け小焼けの作詞家・中村雨紅は夏冬の休暇には、八王子から案下道を実家のある高留へと歩いて往来した、と言う。陣馬の山陰に沈む夕日。案下の谷間に続く浄福寺、皎月院、心源院、興慶寺などの寺。その寺から打ち鳴らされる鐘の音。家路へとはやる帰郷の心。夕焼け小焼けの詩情を育んだ情景って、このような景観であったのだろう、か。

ちなみに、夕焼け小焼けの、小焼け、ってなんだろう。気になった。口調を揃えるため、との説もある。「仲良し・小よし」、「粋・小粋」、「しゃく・こしゃく」、「憎らしい・こにくらしい」などなど。また、夕焼けを描写する表現とする説も。夕焼けの空が赤く染まる「大焼け」、雲の下からあたる一瞬の赤焼けを表す「中焼け」、そして沈んだ太陽の余韻で赤く染まるのが「小焼け」とか。どちらにしても、美しい言葉ではある。

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