新河岸川を歩いた時のことである。黒目川との合流点で行き止まりとなり、結構辛い思いをしたことがある。そのとき以来、その黒目川が気になっていた。いつか源流点から新河岸川との合流点まで歩こうと思っていた。また、ひさしぶりに、何も考えないで、ぶらぶら歩きたい、とも感じていた。
最近の散歩は「歌枕巡り」、というか、名所旧跡・神社仏閣巡りの趣がちょっと強い、かも。秩父観音霊場にしても、千葉の国府台・真間散歩にしても、時空散歩、というか、時=歴史メモが続いている。本来は、気楽に、行き当たりばったりで歩くのが好きなわけである。で、「そうだ、黒目川を気ままに歩こう」ということに。
最近の散歩は「歌枕巡り」、というか、名所旧跡・神社仏閣巡りの趣がちょっと強い、かも。秩父観音霊場にしても、千葉の国府台・真間散歩にしても、時空散歩、というか、時=歴史メモが続いている。本来は、気楽に、行き当たりばったりで歩くのが好きなわけである。で、「そうだ、黒目川を気ままに歩こう」ということに。
本日のルート;西武多摩湖線・萩山駅>多摩湖自転車道>萩山町>西部新宿線交差>水道道路>新青梅街道>小平霊園西端>出水川>恩多町>公園橋(東村山運動公園下)>下里地区・ごみ処理施設・リサイクルセンター>新所沢街道>東久留米卸売市場>所沢街道>黒目川合流・新小金井街道>都大橋>新宮前通り>氷川神社>新宮前通り>西団地前交差点>にいやま親水公園>柳窪野球広場(東久留米十小学校の東)>柳窪緑地遊歩道>天神橋>天神社・長福寺>新青梅街道>西武多摩湖線・萩山駅
西武・多摩湖線萩山駅
黒目川の源流点は小平霊園内の「さいかち窪」とか。中央線で国分寺駅。西武・多摩湖線に乗り換え、萩山駅に。
駅前に「多摩湖自転車道路」が走る。何度かメモしたように、多摩湖近くの村山浄水場から武蔵境近くの境浄水場まで、一直線に続くサイクリングロード。自転車道路を過ごし、萩山地区を成行きで進む。西武新宿線を越えると野火止用水にあたる。
昨年野火止用水を歩いた。歩いているときはわからなかったのだが、用水の流路は台地の尾根道といったところを走っていた。カシミール3Dで地形図をつくってはじめてわかった。黒目川はその台地の下、崖線の下を流れている。今回は台地上を流れる野火止用水、そして崖線を形づくる台地を「意識」しながら、黒目川散歩を楽しもうと、気持ちも弾む。新青梅街道を西に、小平霊園に向かう。
武蔵野線
ちょっと脱線。地図をチェックしていると、野火止用水と西武新宿線が交差するあたり、「武蔵野線」のルートが描かれている。地上にはなにもないわけであるので、これって地下のトンネルを走っている、ってこと。
路線を辿ると、新小平駅で一瞬地上に顔を出し、またすぐ地下に潜る。そういえば、多摩の稲城を散歩しているとき、トンネルの入口に出会い、出口を探すと川崎・宮前区の梶ヶ谷操車場まで続いていた。これも武蔵野線の一部。武蔵野南線とか、武蔵野貨物線と呼ばれる。土・休日の臨時列車以外は貨物専用線となっている、とか。
武蔵野線ができるきかっけは、1967年の新宿駅での山手貨物線・列車転覆炎上事件。その列車が米軍の燃料輸送列車であったため、そんな危険な貨物が都心部を走るのは好ましくない、ということで都心を遠く離れたこの郊外に路線計画がなされた、と。本来であれば貨物専用でいいわけであるが、住民の理解を得るために旅客営業もおこなわれることに、した。住宅開発が進むベッドタウンに貨物だけでは具合が悪かったのだろう、というまことしやかな説も。
とは言うものの、この武蔵野線が最初に計画されたのは1927年というし、戦中の中断を経て1964年頃には工事がはじまったようではあるので、こういった話は「都市伝説」のひとつ、かも。
武蔵野線は横浜市鶴見駅から千葉県西船橋駅までが路線区間である。が、定期での旅客営業を行っているのは府中本町から西船橋方面だけ。武蔵野線に「寄り道」したのは、この路線開設が湘南新宿ラインとか埼京線のサービス開始に繋がっている、から。これらの路線は昔の山手貨物線を使っているわけで、埼京線や湘南新宿ラインを多用する我が身としては武蔵野線に「感謝」というわけである。寄り道が長くなった。散歩に戻る。
小平霊園の西端
小平霊園の西端に。新青梅街道から北にコンクリート護岸の川筋が現れる。これが黒目川?源流点は小平霊園内の「さいかち窪」ということであるので、霊園西端に沿って南に進む。塀というかフェンスに遮られ中には入れない、それらしき場所を眺めるが、それらしき水源などなにもなし。新青梅街道下からの突然の水が湧き出るはずもない。どこから水が流れてきているのか??小平霊園に沿った道が、いかにも川筋といった雰囲気。暗渠下というか道路下に川筋が続いている、とは思うのだが確認するすべもなし。ということで、源流探しをあきらめ、川筋を北に進むことにする。
出水川
この川筋、実のところ黒目川ではなかった。それがわかったのは、ずっと下って、本物の黒目川に合流する地点でのこと。この川は「出水川」であった。ともあれ、川筋に沿って恩田町を下る。典型的な都市型河川といった雰囲気。昔は生活排水などで河川汚染が結構大変であったように思える。
公園橋を交差すると西に東村山公園。リサイクルセンターを越えると新所沢街道。東久留米卸売市場の脇を進む。下里地区の新宮橋のあたりではコンクリート蓋水路。所沢街道の手前はコンクリート蓋に覆われた遊歩道となっている。下里団地のあたりもコンクリート蓋水路が続く。先に進み本村小学校を超えると水量豊かな川筋と合流。水草も美しく生い茂り、川筋の両側に遊歩道が整備されている。これが黒目川、であった。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
黒目川の水源に向かう
少々迷った。このまま先に進むか否か。段取り優先であれば、そのまま先に、ということではあるが、黒目川の美しく・豊かな水量が、如何せん、気になった。水源がどのようなものか見たい、と思った。また、なによりも、豊かな水量が気になった。源流点はすぐ近くの小平霊園。深山幽谷でもあるまいし、これほどの水量が湧水だけから生まれているとは思えない。どこかの水処理センターで高度処理された下水が流されているのでは、などと、「豊かな水量」の原因を確かめたい、と思った。で、合流点から黒目川を源流点に向かい遡ることに、した。
こういった、気楽な散歩がいい。段取りも何もなく、成行きで歩くのがいい。道に迷えば、迷ったなりに 進めばいい。興味が向けば、それに向かってきままに進めばいい。国木田独歩の『武蔵野』の一節を思い出す:「武蔵野に散歩する人は、道に迷うことを苦にしてはならない。どの路でも足の向くほうへ行けば必ず其処に見るべく、感ずべき獲物がある。武蔵野の美はただその縦横に通ずる数千条の路を当てもなく歩くことに由って始めて獲られる。春、夏、秋、冬、朝、昼,夕、夜、月にも、雪にも、風にも、霧にも、霜にも、雨にも、時雨にも、ただこの路をぶらぶら歩いて思 いつき次第に右し左すれば随所に吾等を満足さするものがある」
「同じ路を引きかえして帰るは愚である。迷った処が今の武蔵野に過ぎない。まさかに行暮れて困ることもあるまい。帰りもやはり凡そその方角をきめて、別な路を当てもなく歩くが妙。そうすると思わず落日の美観をうる事がある。日は富士の背に落ちんとして未だ全く落ちず、富士の中腹に群がる雲は黄金色に染まって、見るがうちに様々の形に変ずる。連山の頂は白銀の鎖のような雪が次第に遠く北に 走て、終は暗澹たる雲のうちに没してしまう」。(国木田独歩『武蔵野』)。
都大橋で 西妻川が合流
合流点から新小金井街道に沿って流れる黒目川の川筋を上流に向かう。遊歩道が整備されて多くの人達が散歩を楽しんでいる。新宮前通りと交差する「都大橋」のあたりで別の川筋が合流。これは白山公園から流れてくる支流・西妻川。白山公園は滝山団地の水害防止のための調整池の役割も果たしている、とか。
氷川神社
都大橋を越えると遊歩道はなくなる。一時川筋から離れ新宮前通りを進む。少し歩くと氷川神社。新宮前通りの南を流れてきた黒目川は神社前で新宮前通りと交差し、神社の台地の下をぐるっと迂回する。
自然豊かな小川の雰囲気。台地下を少し川筋に沿って歩いたが直ぐに行き止まり。畠の中を新所沢街道まで続く。川筋から離れ、新宮前通りに戻り新所沢街道まで進む。
久留米西団地
新所沢街道を越えると久留米西団地。ここからしばらく川筋を歩ける。川の両側に芝生が植えられ、親水公園として整備されている。河川敷が広いのは増水時対策のための調整地も兼ねているのだろう。
この地域は大雨時の浸水常襲域であった、とか。ために、都市型水害に強い公共下水道雨水幹線の整備を行った。黒目川・出水川雨水幹線と呼ばれる。堤防の下を5キロ以上管が通っており、降雨時に一定以上増水した雨水は、この管を流れ、下流部平成橋のあたりで黒目川に合流することになる。これにより1時間当たり50mmの降雨に対しての安全が確保されることになった、とか。この親水公園は、この工事に際し、地表部分をコンクリート造りの護岸ではなく自然岸としてつくられたもの。
久留米西団地を越えると遊歩道が消える。川筋を歩くこともできない。水量もぐっと減っている。ということは、親水公園でなんらか人工的に水を「補給」しているのであろう。「豊かな水量」の源のひとつは、ひょっとしてこの辺り、かも。
再び川筋から離れて歩く。川から離れないように意識しながら先に進む。川は東久留米第十小学校をぐるりと迂回するように流れる。黒目川には柳窪5丁目にある 北原公園の湧水が、このあたりに流れ込んでいる、とか。とはいうものの、水量が増えているわけでもないので、それほどの湧水、というわけでもないのだろう。川筋を歩けないので合流点はわからない。
天神社
森の小道を進み天神橋に。橋のあたりから天神社への参道が続く。森の小道を進む。このあたりになると水量は極めて少なくなっている。ちょっとさびしい小川といった趣き。天神社前に湧水点がある。東京名湧水57に選ばれた、とか。とはいうものの、どこから湧き出しているのかもよくわからない、ほど。黒目川の貴重な水源と言われるとすれば、目には定かに見えねども、川底から湧き出ているのだろうか。
天神社にお参り。梅ノ木の脇に、「柳窪梅林の碑」。;西面に「柳窪里梅林之記」:、東面に「菅公(菅原道真)の碑」。「柳窪里梅林之記」は安政4年(1857年)、大国魂神社の宮司・猿渡盛章が書いたもの。久留米の地名が「来梅」とか「来目」とかかれている。東側には「ちとせとて まつはかぎりのあるものを はらだにあらば はるはみてまし」という菅原道真の歌が書かれている」、と。久留米の地名は「黒目川」に由来する、とされる。が、そもそも、黒目川の由来が何か分からないとことにはどうもしっくりこない。「来梅」ってなんとなく納得感が高いようには、思うが(追記;その後、この天神さまを数回訪れた。工事の最中であり、野趣豊かな雰囲気が少々損 なわれていたように見えた。さて、現在はどうなっているのだろう)。
新青梅街道脇天神社から新青梅街道脇までは川筋は歩けない。川筋のとおる竹林を眺めながら川筋の西を平行に進み新青梅街道に。黒目川が新青梅街道に当たるあたりを確認。ほとんど
西武・多摩湖線萩山駅
黒目川の源流点は小平霊園内の「さいかち窪」とか。中央線で国分寺駅。西武・多摩湖線に乗り換え、萩山駅に。
駅前に「多摩湖自転車道路」が走る。何度かメモしたように、多摩湖近くの村山浄水場から武蔵境近くの境浄水場まで、一直線に続くサイクリングロード。自転車道路を過ごし、萩山地区を成行きで進む。西武新宿線を越えると野火止用水にあたる。
昨年野火止用水を歩いた。歩いているときはわからなかったのだが、用水の流路は台地の尾根道といったところを走っていた。カシミール3Dで地形図をつくってはじめてわかった。黒目川はその台地の下、崖線の下を流れている。今回は台地上を流れる野火止用水、そして崖線を形づくる台地を「意識」しながら、黒目川散歩を楽しもうと、気持ちも弾む。新青梅街道を西に、小平霊園に向かう。
武蔵野線
ちょっと脱線。地図をチェックしていると、野火止用水と西武新宿線が交差するあたり、「武蔵野線」のルートが描かれている。地上にはなにもないわけであるので、これって地下のトンネルを走っている、ってこと。
路線を辿ると、新小平駅で一瞬地上に顔を出し、またすぐ地下に潜る。そういえば、多摩の稲城を散歩しているとき、トンネルの入口に出会い、出口を探すと川崎・宮前区の梶ヶ谷操車場まで続いていた。これも武蔵野線の一部。武蔵野南線とか、武蔵野貨物線と呼ばれる。土・休日の臨時列車以外は貨物専用線となっている、とか。
武蔵野線ができるきかっけは、1967年の新宿駅での山手貨物線・列車転覆炎上事件。その列車が米軍の燃料輸送列車であったため、そんな危険な貨物が都心部を走るのは好ましくない、ということで都心を遠く離れたこの郊外に路線計画がなされた、と。本来であれば貨物専用でいいわけであるが、住民の理解を得るために旅客営業もおこなわれることに、した。住宅開発が進むベッドタウンに貨物だけでは具合が悪かったのだろう、というまことしやかな説も。
とは言うものの、この武蔵野線が最初に計画されたのは1927年というし、戦中の中断を経て1964年頃には工事がはじまったようではあるので、こういった話は「都市伝説」のひとつ、かも。
武蔵野線は横浜市鶴見駅から千葉県西船橋駅までが路線区間である。が、定期での旅客営業を行っているのは府中本町から西船橋方面だけ。武蔵野線に「寄り道」したのは、この路線開設が湘南新宿ラインとか埼京線のサービス開始に繋がっている、から。これらの路線は昔の山手貨物線を使っているわけで、埼京線や湘南新宿ラインを多用する我が身としては武蔵野線に「感謝」というわけである。寄り道が長くなった。散歩に戻る。
小平霊園の西端
小平霊園の西端に。新青梅街道から北にコンクリート護岸の川筋が現れる。これが黒目川?源流点は小平霊園内の「さいかち窪」ということであるので、霊園西端に沿って南に進む。塀というかフェンスに遮られ中には入れない、それらしき場所を眺めるが、それらしき水源などなにもなし。新青梅街道下からの突然の水が湧き出るはずもない。どこから水が流れてきているのか??小平霊園に沿った道が、いかにも川筋といった雰囲気。暗渠下というか道路下に川筋が続いている、とは思うのだが確認するすべもなし。ということで、源流探しをあきらめ、川筋を北に進むことにする。
出水川
この川筋、実のところ黒目川ではなかった。それがわかったのは、ずっと下って、本物の黒目川に合流する地点でのこと。この川は「出水川」であった。ともあれ、川筋に沿って恩田町を下る。典型的な都市型河川といった雰囲気。昔は生活排水などで河川汚染が結構大変であったように思える。
公園橋を交差すると西に東村山公園。リサイクルセンターを越えると新所沢街道。東久留米卸売市場の脇を進む。下里地区の新宮橋のあたりではコンクリート蓋水路。所沢街道の手前はコンクリート蓋に覆われた遊歩道となっている。下里団地のあたりもコンクリート蓋水路が続く。先に進み本村小学校を超えると水量豊かな川筋と合流。水草も美しく生い茂り、川筋の両側に遊歩道が整備されている。これが黒目川、であった。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
黒目川の水源に向かう
少々迷った。このまま先に進むか否か。段取り優先であれば、そのまま先に、ということではあるが、黒目川の美しく・豊かな水量が、如何せん、気になった。水源がどのようなものか見たい、と思った。また、なによりも、豊かな水量が気になった。源流点はすぐ近くの小平霊園。深山幽谷でもあるまいし、これほどの水量が湧水だけから生まれているとは思えない。どこかの水処理センターで高度処理された下水が流されているのでは、などと、「豊かな水量」の原因を確かめたい、と思った。で、合流点から黒目川を源流点に向かい遡ることに、した。
こういった、気楽な散歩がいい。段取りも何もなく、成行きで歩くのがいい。道に迷えば、迷ったなりに 進めばいい。興味が向けば、それに向かってきままに進めばいい。国木田独歩の『武蔵野』の一節を思い出す:「武蔵野に散歩する人は、道に迷うことを苦にしてはならない。どの路でも足の向くほうへ行けば必ず其処に見るべく、感ずべき獲物がある。武蔵野の美はただその縦横に通ずる数千条の路を当てもなく歩くことに由って始めて獲られる。春、夏、秋、冬、朝、昼,夕、夜、月にも、雪にも、風にも、霧にも、霜にも、雨にも、時雨にも、ただこの路をぶらぶら歩いて思 いつき次第に右し左すれば随所に吾等を満足さするものがある」
「同じ路を引きかえして帰るは愚である。迷った処が今の武蔵野に過ぎない。まさかに行暮れて困ることもあるまい。帰りもやはり凡そその方角をきめて、別な路を当てもなく歩くが妙。そうすると思わず落日の美観をうる事がある。日は富士の背に落ちんとして未だ全く落ちず、富士の中腹に群がる雲は黄金色に染まって、見るがうちに様々の形に変ずる。連山の頂は白銀の鎖のような雪が次第に遠く北に 走て、終は暗澹たる雲のうちに没してしまう」。(国木田独歩『武蔵野』)。
都大橋で 西妻川が合流
合流点から新小金井街道に沿って流れる黒目川の川筋を上流に向かう。遊歩道が整備されて多くの人達が散歩を楽しんでいる。新宮前通りと交差する「都大橋」のあたりで別の川筋が合流。これは白山公園から流れてくる支流・西妻川。白山公園は滝山団地の水害防止のための調整池の役割も果たしている、とか。
氷川神社
都大橋を越えると遊歩道はなくなる。一時川筋から離れ新宮前通りを進む。少し歩くと氷川神社。新宮前通りの南を流れてきた黒目川は神社前で新宮前通りと交差し、神社の台地の下をぐるっと迂回する。
自然豊かな小川の雰囲気。台地下を少し川筋に沿って歩いたが直ぐに行き止まり。畠の中を新所沢街道まで続く。川筋から離れ、新宮前通りに戻り新所沢街道まで進む。
久留米西団地
新所沢街道を越えると久留米西団地。ここからしばらく川筋を歩ける。川の両側に芝生が植えられ、親水公園として整備されている。河川敷が広いのは増水時対策のための調整地も兼ねているのだろう。
この地域は大雨時の浸水常襲域であった、とか。ために、都市型水害に強い公共下水道雨水幹線の整備を行った。黒目川・出水川雨水幹線と呼ばれる。堤防の下を5キロ以上管が通っており、降雨時に一定以上増水した雨水は、この管を流れ、下流部平成橋のあたりで黒目川に合流することになる。これにより1時間当たり50mmの降雨に対しての安全が確保されることになった、とか。この親水公園は、この工事に際し、地表部分をコンクリート造りの護岸ではなく自然岸としてつくられたもの。
久留米西団地を越えると遊歩道が消える。川筋を歩くこともできない。水量もぐっと減っている。ということは、親水公園でなんらか人工的に水を「補給」しているのであろう。「豊かな水量」の源のひとつは、ひょっとしてこの辺り、かも。
再び川筋から離れて歩く。川から離れないように意識しながら先に進む。川は東久留米第十小学校をぐるりと迂回するように流れる。黒目川には柳窪5丁目にある 北原公園の湧水が、このあたりに流れ込んでいる、とか。とはいうものの、水量が増えているわけでもないので、それほどの湧水、というわけでもないのだろう。川筋を歩けないので合流点はわからない。
柳窪緑地
道は小学校の東を南に下る。柳窪野球場のあたりを西に折れ、川筋に出会う。このあたりから森・柳窪緑地自然公園がはじまる。深い森の中に散歩道が整備されている。とても東京とは思えないような自然が残る。
道は小学校の東を南に下る。柳窪野球場のあたりを西に折れ、川筋に出会う。このあたりから森・柳窪緑地自然公園がはじまる。深い森の中に散歩道が整備されている。とても東京とは思えないような自然が残る。
天神社
森の小道を進み天神橋に。橋のあたりから天神社への参道が続く。森の小道を進む。このあたりになると水量は極めて少なくなっている。ちょっとさびしい小川といった趣き。天神社前に湧水点がある。東京名湧水57に選ばれた、とか。とはいうものの、どこから湧き出しているのかもよくわからない、ほど。黒目川の貴重な水源と言われるとすれば、目には定かに見えねども、川底から湧き出ているのだろうか。
天神社にお参り。梅ノ木の脇に、「柳窪梅林の碑」。;西面に「柳窪里梅林之記」:、東面に「菅公(菅原道真)の碑」。「柳窪里梅林之記」は安政4年(1857年)、大国魂神社の宮司・猿渡盛章が書いたもの。久留米の地名が「来梅」とか「来目」とかかれている。東側には「ちとせとて まつはかぎりのあるものを はらだにあらば はるはみてまし」という菅原道真の歌が書かれている」、と。久留米の地名は「黒目川」に由来する、とされる。が、そもそも、黒目川の由来が何か分からないとことにはどうもしっくりこない。「来梅」ってなんとなく納得感が高いようには、思うが(追記;その後、この天神さまを数回訪れた。工事の最中であり、野趣豊かな雰囲気が少々損 なわれていたように見えた。さて、現在はどうなっているのだろう)。
新青梅街道脇天神社から新青梅街道脇までは川筋は歩けない。川筋のとおる竹林を眺めながら川筋の西を平行に進み新青梅街道に。黒目川が新青梅街道に当たるあたりを確認。ほとんど
水はない。ということは、天神社あたりの湧水は黒目川の水源としては重要っていうこと、か。
小平霊園内の「さいかち窪」
小平霊園内に入る。なんとなく川筋っぽい地形を探す。雑木林が霊園入口近くに残っている。雑木林に向かう。木の生えていない窪んだ川床があった。ここが川筋だろう。水はないのだが、なんとなく、土が「ふわふわ」している、よう。適当に歩く。結局「さいかち窪」、ってところは確定できなかったが、なんとなくこの辺りであろう、というだけで十分に満足。
小平霊園内に入る。なんとなく川筋っぽい地形を探す。雑木林が霊園入口近くに残っている。雑木林に向かう。木の生えていない窪んだ川床があった。ここが川筋だろう。水はないのだが、なんとなく、土が「ふわふわ」している、よう。適当に歩く。結局「さいかち窪」、ってところは確定できなかったが、なんとなくこの辺りであろう、というだけで十分に満足。
黒目川の水源は?
黒目川を一応源流まで辿る。あれほど豊かな水量の源はいまひとつわからない。なんとなく久留米西団地あたりの親水公園で供給される水が「源流」のひとつ、か。それから、あれこれチェックすると、天神橋の下流あたりで山崎製パン武蔵野工場からの浄水処理されたきれいな水が黒目川を潤している、とか。川筋は歩けないので、実際の合流点は見たわけではないのだが、天神社のあたり極めのて少ない水量が、氷川神社のあたりではそれなりの水量になっているわけで、ということは、その間でなんらかの給水がなされたわけで、湧水でもなければ、人工的に造水するしかないであろう。ということで、黒目川の源流は親水公園からの水と、パン工場からの水?どちらにしても、人工造水、と自分としては十分に納得。本日の散歩を終える。
黒目川を一応源流まで辿る。あれほど豊かな水量の源はいまひとつわからない。なんとなく久留米西団地あたりの親水公園で供給される水が「源流」のひとつ、か。それから、あれこれチェックすると、天神橋の下流あたりで山崎製パン武蔵野工場からの浄水処理されたきれいな水が黒目川を潤している、とか。川筋は歩けないので、実際の合流点は見たわけではないのだが、天神社のあたり極めのて少ない水量が、氷川神社のあたりではそれなりの水量になっているわけで、ということは、その間でなんらかの給水がなされたわけで、湧水でもなければ、人工的に造水するしかないであろう。ということで、黒目川の源流は親水公園からの水と、パン工場からの水?どちらにしても、人工造水、と自分としては十分に納得。本日の散歩を終える。
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