杉並 善福寺川筋の窪地・水路跡散歩 Ⅰ;堀之内の旧流路(揚堀)と松ノ木支流、成田東支流を辿る

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善福寺の谷筋から青梅街道の尾根筋に上る途中、思いがけず出合った窪地を走る小沢川の水路跡散歩のメモに際し、カシミール3D(無料のソフト)を使い数値地図5mメッシュ(標高)の段彩図を作成した。そして、そこにくっきりと表示された、青梅街道の南北の川筋から切れ揉む窪地が気になり、歩き始めた杉並の川筋窪地散歩も3回目。
第一回の青梅街道南の善福寺川から北に切れ込む小沢川の窪地散歩、第二回の青梅街道の北の桃園川の川筋から切れ込む窪地散歩を終え、今回は第一回の小沢川、第二回での堀ノ内支流と同様、善福寺川から北に切れ込む窪地を歩くことにする。
第一回のメモに際し、作成した段彩図によると、善福寺川に繋がる窪地は結構ある。散歩は一回では終わらないだろう。ルートは、段彩図にくっきり浮かび上がる窪地にカシミール3Dでルートを描きトラックに変換、そのトラックデータをKMLファイルでエクスポートし、Googleのマイページに読み込む。次いでiphoneの無料アプリGmap Toolsに読み込み、そのルート図を頼りに歩くことにする。


本日のルート;
堀之内の善福寺川旧流路・揚堀(?)を辿る
揚堀排水口>車止め>堀之内橋への道とクロス>崖線下の水路>本村橋への道とクロス>済美小学校の校庭に水路は潜る>鉄柵で囲われた水路跡>武蔵野橋に

松ノ木支流を辿る
松ノ木地区を北に源流点に向かう>水路跡に出合う(成田東1-46)>五日市街道とクロス>松ノ木支流源流点(成田東3-1)>成田1-44と41の境>世尊院別院の東を下る>車道に出る(成田東1-14)>道に水路跡の案内図>松ノ木遺跡>松ノ木支流が善福寺川旧流路に合わさる

成田東支流を辿る
善福寺川の旧流路との合流点>和田堀公園北から水路跡らしき道を進む>松ノ木中学一筋北の車道に>金太郎の車止め(成田1-9)>水路跡が途切れる>遊歩道のような水路跡>成田東支流源流点

堀ノ内の善福寺川旧流路・揚堀(?)を辿る

先回の散歩で、善福寺川松ノ木支流のスタート地点である武蔵野橋に向かう途中、現在済美山運動公園、昔の富士銀行グランド付近を進んだ。その時、済美山運動公園の台地下にある済美小学校の北に、鉄柵で塞がれた水路跡らしき箇所が目にとまった。
その時は何だろう?といった程度で先に進んだのだが、メモの段になり『杉並の川と橋(杉並区郷土博物館)』の中の「日本済美学校・敷地概念図」を見ていると、日本済美学校の敷地であった、現在の済美山運動公園やその台地下の善福寺川の流路との間に、三つの流れが描かれていた。
その流れは、河川改修が行われ、複雑に流れる流路を一本化する以前の善福寺川の流れのようである。で、先回の散歩で偶然目にした済美小学校の北に残る流路跡は善福寺川の旧流路を活用した揚堀跡ではなかろうかと窪地散歩に向かう道すがら、揚堀跡(?)を辿ることにした。


堀ノ内の旧流路・揚堀排水口(?)
揚堀の下流排水口がどの辺りにあるのか、あれこれ調べる。『杉並の川と橋;杉並区立郷土博物館』には昭和25年(1950)には済美橋(武蔵野橋のひとつ上流)まで河川改修工事がなされた、とある。この河川工事がどの程度のものか不明である。カシミール3Dのプラグインのタイルマップにある「東京今昔マップ1944‐1954」を見る限りでは、河川の一本化はなっておらず、現在の環七の前身の道の手前で複数の川筋が北に向かって蛇行している。道とクロスする川に架かるのは方南橋(現在は残っていない)だろうか。
「東京今昔マップ1965‐1968」には善福寺川は一本化され現在の川筋を流れており、環七が通っている。環七は昭和39年(1964)の東京オリンピックに間に合うよう整備されたもので、この辺りの工事は昭和36年(1961)に実施されたという。
『杉並の川と橋』によれば、水田であった一帯は環七によって二分され、田圃は埋め立てられ、善福寺川の一本化にともなう排水路工事が実施され、多くの排水管が埋め込まれ水処理を実施した、と言う。
とすれば、排水口が環七を越えた先にあるとも思えない。確証はないが、とりあえず、善福寺川が環七とクロスする和田堀橋の西側手前辺りに排水口の名残を求めることにする。
ということで、方南通りの通る台地尾根筋から環七を善福寺川の谷へと下る。 和田堀橋から善福寺川を少し上流に進むと、如何にも水路跡といった細路がある。排水口はないが、「東京今昔マップ1944‐1954」に記される一本化以前の複数の流れの一筋の流路に近い。確証はないが、旧流路を活用した揚堀跡であろう、と思い込む。
今昔マップ
上に、カシミール3D(フリーソフト)のプラグインのタイルマップにある「東京今昔マップ1944‐1954」とメモしたが、WEBにも公開されている。Google Mapと左右並べて表示してあり、位置も同期するので今昔を比較するのに便利である。

車止め
細路を進むとほどなく広い道に出る。水路跡の痕跡はないのだが、ゆるやかな蛇行が水路跡を想起させる。道なりに進むと定塚橋の南、民家の間に車止めがあり、その先にも車止めが立ち並ぶ。
『杉並の川と橋』によれば、このあたりは「定塚窪」と呼ばれ、環七ができるまでは、環七の西にある和田南田圃とつながった水田が広がっていたとのことである。複雑な流れの善福寺川の川筋流路一本化の工事以前の、水田の中を幾多の水路が流れた光景を想像するのは今となっては難しい。
定塚
定塚の由来は何だろう。高岡大仏で知られる高岡市にある定塚(じょうづか)の由来は、僧が入定(生きたまま土中に入り即身成仏する)したとも、旅人が入定した塚、とも言われる。この地の由来は不詳。

堀之内橋への道とクロス
少し狭くなった道を進む。左右が道より高くなっており、時に道と段差のある石段なども見える。如何にも水路跡といった姿である。その先で堀ノ内橋への道とクロスする。
堀之内
館を意味する。和田の地名にあるように、和田義盛の館との説もあるが、中野の哲学堂のある公園も義盛の館跡とも言うし、そもそも「わだ」って「湾曲」するという意味もあるようだ。地名の由来は諸説あり、定まることなし。
堀之内の由来もさることながら、もっと気になるのが「和田堀」。和田堀橋とか和田堀公園とかいろいろ登場するので気になってチェック。明治の頃町村制施行に際し、このあたりを名高い妙法寺のある「堀之内村」とすべし、との案に和田村が難色を示し「和田堀之内村」となった。が、あまりに、長すぎるとして、大正15年(1926)の町制施行時に「和田堀町」となった、という歴史がその背景にあった。

崖線下の水路
堀之内橋への道を越えると水路跡は細路となる。石段でドアに入る民家、高い段差の上に建つ民家など如何にも水路跡といった雰囲気。その先にはマンション(ガーデン堀ノ内住宅)の敷地との境に鉄柵があり、水路はゆるやかに曲がり進む。北の崖面は高く、「7段ほどの梯子でドアに入る民家もある。水路跡は方南通りが通る台地尾根筋からマンション入口へと下るアプローチ手前で鉄柵で行く手を遮られる。

本村橋への道とクロス
マンション入口アプローチの先に水路跡の道が続く。鉄柵で囲まれており、入ることができないのか、とも思ったのだが、その道を散歩している人がいる。入口は鉄柵で遮れているので、そこを乗り越え割と広い水路跡を進む。 堀ノ内子供園と呼ばれる公園を右手に見ながら車道にクロス。方南通りから大正寺坂を下り本村橋へと続く道である。「本村橋」はこの辺りの地名であった「堀之内本村」由来のものだろう。
大正寺坂
『杉並の川と橋』には、済美運動公園の南を下る坂を「大正寺坂」と記してある。昔、坂の手前、大宮小学校のある辺りに大正寺と呼ばれるお寺さまがあったようだ。また、同書には大正寺坂を下ったところに「大聖寺橋」が記載されている。大正寺の本尊が「大聖不動明王」故の橋名だろうか。
カシミール3Dのプラグインのタイルマップにある「今昔マップ首都 1896-1909」に記載された水路を見ると、丁度今歩いてきた道が水路と重なり、本村橋への通りとクロスする地点が「大聖寺橋」が架かっていたように思える。

済美小学校の校庭に水路は潜る
結構広い道を進むと済美小学校にあたる。「今昔マップ首都 1896-1909」には、小学校の辺りに大きな池が記載されている。『杉並の川と橋』には、「清明が池」とある。明治40年(1907)に済美運動公園のある台地(小屋の台、通称済美山)一帯に創設された、日本済美学校の憩いの場として水田を池に造り替えたとのことである。
日本済美学校
明治40年(1907)、今井恒郎によって創設された私立校。全寮制の少人数教育をもとに、自然の中で働き、かつ学ぶことを重視した教育を実践したとのこと。校舎は済美山運動公園のある台地(「小屋の台」、済美山と呼ばれた)に、台地から善福寺川の本流までの間は学校の水田や茶畑、野菜畑そして前述の池があったようである。戦後校舎と用地が杉並区に寄贈された。障害児教育にも取り組んだようで、それが現在の済美養護学校に繋がるのだろう。

済美運動公園
かつて池であった済美小学校を迂回し、日本済美学校の校舎のあった済美運動公園にちょっと立ち寄る。昔は富士銀行のグランドで気軽に入ることはできなかったが、今は区民の運動場であり、オープンな広場となっている。







鉄柵で囲われた水路跡
運動場を下り、済美小学校から通りを挟んだ民家の間に鉄柵で囲われた水路跡に向かう。今回の善福寺川旧流路・揚堀散歩のきっかけとなった場所である。水路跡は厳重に締め切られており、中に入ることはできない。民家の間をぐるっと迂回し、水路跡出口に。そこも厳重に鉄柵で囲われていた。民家に囲まれた、何とも不思議な空間である。
向山橋
『杉並の川と橋』によれば、この済美小学校前から熊野橋に通じる道の「清明が池」の北に向山橋が記載されている。何か痕跡がないものかと彷徨うも、特にそれらしきものは見つからなかった。

武蔵野橋に
鉄柵で囲われた水路出口辺りは台地の裾となる。崖に沿って進むと済美公園にあたる。水路跡は公園を突き抜けて武蔵野橋の辺りに向かったようだ。「今昔マップ首都 1896-1909」には武蔵野橋のひとつ上流に架かる済美橋辺り(当時は橋は無いが)から二筋に分かれ、崖線下を進む水路と武蔵野橋方向へと流れる水路が記載されている。また、武蔵野橋方向に流れる水路も熊野橋(当時は無い)の北で二手にわかれ、一筋は現在の善福寺川筋に近いルート、もうひとつは「清明が池」に注ぎ、池から南に下り、崖線筋の水路と合流する。その分岐点は「堀之内堰」と記されている。
思うに、今辿って来た水路跡は、済美橋辺りで二つに分かれた崖線側の水路跡を核にして、複雑に乱れる善福寺川の水路を一本化した後に造られた揚堀(田用水路)ではないだろうか。揚堀の取水口は武蔵野橋の辺りのようではあるが、周辺が川辺まで公園化されており、取水口は残っていなかった。


松ノ木支流を辿る

窪地散歩のついでに寄った堀之内の揚堀、というか、水路一本化工事以前の善福寺川の旧流路の一つを辿り終え、次は善福寺川の窪地に残る(であろう)水路跡散歩に向かう。
窪地はカシミール3D(無料のソフト)を使い数値地図5mメッシュ(標高)の段彩図を作成したわけだが、武蔵野橋から青梅街道の台地に切れ込んだ窪地に残る堀ノ内支流(仮称)跡は先回の桃園川の窪地散歩への道すがらカバーした。 今回の窪地散歩で最初に訪れる窪地は、和田堀公園辺りから北に、五日市街道の少し先まで、おおよそ松ノ木と成田東の境をなしている。仮に松ノ木支流とする。


松ノ木地区を北に源流点に向かう
武蔵野橋から善福寺川を上流に進み、荒玉水道道路に架かる済美橋を越え、大松橋に。そこからは数値地図5mメッシュ(標高)の段彩図であたりをつけた、窪地の北端部、松ノ木支流の源流点とされる梅里中央公園の南東下に成り行きで進む。
大松・松ノ木
大松橋は南の大宮と北の松ノ木を繋ぐ故の命名だろう。大松橋から善福寺の川筋を離れ、松ノ木地区を北に進む。松ノ木の地名は、大宮神社参道に残る「鞍掛けの松」がその由来とされる。
鞍掛けの松
平安時代、源義家が奥州征伐の途中、この松に蔵を掛けたとの伝承が残り、『江戸名所図会』にも記載されている松である。この辺りには鎌倉街道中ツ道・奥州道が通っていた、とのことである。
荒玉水道道路
荒玉水道とは大正から昭和の中頃にかけて、多摩川の水を砧(世田谷区)で取水し、野方(中野区)と大谷口(板橋区)に送水するのに使われた地下水道管のこと。荒=荒川、玉=多摩川、ということで、多摩川・砧からだけでなく、荒川からも水を引く計画があったようだ。が、結局荒川まで水道管は延びることはなく板橋の大谷口で計画中止となっている。
野方と大谷口に合った給水塔は、現在その機能を終え、野方給水所は、災害用給水槽として、また大谷口給水塔は大谷口配水所として災害非常の給水施設として使われている、と。配水系統も野方は野方大谷口線から導水され、大谷口配水所は朝霞浄水場の配水系とつながっているようである。 砧給水所(現在は砧浄水場となり世田谷区の一部に給水しているようだ)からこの杉並の妙法寺あたりまで一直線に延びている10キロほどの道筋を荒玉水道道路、と呼ぶ。

水路跡に出合う(成田東1-46)
松ノ木地区を成り行きで北に進み、五日市街道の手前で東に向かい成田東に入る。と、目の前に「車止め」のある、以下にも水路跡といった細路が民家の間を抜けている。位置からして、松ノ木支流であろう。実際のところ、源流点が簡単に見つけられるか心配していたのだが、偶然にも水路跡に出合った。これで、水路跡の痕跡を辿れは源流点に到達できると、ちょっと安心した。



五日市街道とクロス
水路跡を北に進むとほどなく五日市街道とクロス。道を隔てて斜め北の方向に「車止め」のついた細路が見える。
五日市街道
五日市街道であった。五日市街道は、秋川筋の檜原や五日市の木材や炭を江戸の町に運ぶため整備されたもの。また秋川筋・伊奈の石工が江戸城の普請に往来した街道でもある。武蔵野台地の新田開発は五日市街道に沿って進んだ、と言われる。文字面で見ても今一つ実感がわかなかったのだけれど、玉川上水やその分水を辿った時、五日市街道に沿った新田の地を実際に歩くことにより、結構リアリティをもって感じられるようになった。

松ノ木支流源流点(成田東3-1)
五日市街道からゆるやかなカーブを描く細路を進むと車止めがあり(成田東3-1)、その先は、道が広がっている。その道を少し北に進んでみたり、東の梅里にある梅里中央公園辺りに、なんらかの水路跡の痕跡でもないものかと彷徨うも、特に何も見つけられなかった。車止めのあったところが源流点のようである。『杉並の川と橋』によれば、公園の西側に水源となった湿地があった、とのことである。
成田・梅里
成田の地名は、成宗村と田端村を合せたもの。地名によくあるパターン。梅里は青梅街道の近く、ということで命名。元は馬橋村・高円寺村域であったが、「馬橋」を避け、少し趣のある「梅里」とした、とある。

成田1-44と41の境
源流点から、偶然水路跡に出合った成田1-46まで戻り、そこから南に続く水路跡を進む。成田1-44と41の境で車道に出るが、すぐに民家の間の細路に曲がり込む。
この成田1-44と41の境までは、松ノ木と成田東地区の境の一筋東を下ってきたが、この先の水路跡は松ノ木と成田東地区の境となっている。昔の村境に水路・川などが利用されたと言うが、如何にもその通りである。

世尊院別院の東を下る
民家の間に入り込んだ水路跡を進む。左右が高くなっている箇所、石段で段差がわかる箇所など、如何にも水路跡といった趣の細路である。細路の東に世尊院別院がある。阿佐ヶ谷にあった世尊院の別院とのことである。




世尊院
世尊院は阿佐ヶ谷駅の北、中杉通りに沿ってある。昭和27年(1952)、中杉通りの開削にともない、境内が分断され、本堂と観音堂が通りを挟んで泣き別れの状態になっている。
桃園川散歩、そして先日の桃園川の窪地散歩の折などに傍を掠っているこのお寺様の歴史は古い。永享元年(1429)に阿佐ヶ谷にあった宝仙寺が中野に移った頃、それを惜しんだ地元民が小寺として残したのがそのはじまりと言う。宝仙寺は大宮八幡宮の別当寺であった、とも。阿佐ヶ谷に居を構えた江戸氏の庶流・「あさかや殿」の庇護のもと作られたのであろうか。
「あさかや殿」が歴史に現れた記録は応永27年(1420年)の『米良文書』にある。熊野那智神社の御師が武蔵国の大檀那の江戸氏一門の苗字を書き上げた中に、中野殿などとともに登場する。「あさかや殿」はこのあたりを拠点に土地を拓きながら、戦乱の続く南北朝を生き抜いたのであろう。その衰退の時期はつまびらかではない。が、上にメモしたように、永享元年(1429年)頃に中野に移ったということは、その頃には庇護する威勢を失っていたのであろうかと思う。一般公開はしていない。観音堂にまつられている聖観音像は南北朝の作と言われる。ちなみに阿佐ヶ谷の地名の由来は「浅ケ谷」から。桃園川が流れる「浅い谷〔地〕」、であったということだろう。


車道に出る(成田東1-14)
左右に水路跡との段差のある道を進むと車道に出る。水路跡は依然として成田東と松ノ木地区の境を下っている。上で、昔の村境などに川筋が利用されたとメモしたが、川跡を行政区の境としているところで記憶に残るのは根岸の里の音無川跡。荒川区と台東区の境となっていた。


道に水路跡の案内図
松ノ木1-6と成田東1-8の車道を越え、8段ほどの段差のある水路跡からの石段を見遣りながら進むと、車道に斜めからクロスし先に道は続く。車道は松ノ木中学の一筋北の道である。道を進むと、道に水路跡を地図に書き込んだコンクリートの案内が埋め込んである。余りに唐突で、いまひとつ意図がよくわからない。

松ノ木遺跡
水路跡は松ノ木中学のある台地の崖下を進み、和田堀公園へと進むようではあるが、ついでのことでもあるので、久しぶりに松ノ木遺跡に立ち寄ることにした。
水路跡の道から松ノ木中学のある台地に上り、公園となっている台地端を進むと松ノ木遺跡(松ノ木1-13)に着く。松ノ木遺跡には古墳時代の復原住居と土師式保存竪穴がある。30戸くらいの家族が住んでいたと想定されている。善福寺川中流域の松ノ木や済美台といった台地群は、杉並の古代人の「はじまり」の地ではないかと言われる。善福寺川を隔てて南の台地上には大宮遺跡がある。大宮八幡宮の北門を出た崖の縁がその場所である。
松ノ木遺跡
松ノ木遺跡の案内板によれば、「昭和40年夏、ここで弥生時代末期の墓三基本発掘した。中央に墓穴を設け、周囲に溝がめぐらされていた。形が四角なので方形周溝墓と呼ばれ、墓より壷形土器五個、勾玉一個・ガラス玉十二個出土した」、と。
人々は集落を環り・区切り、区画ごとにまとまった生活集団をしていたのであろう。台地から見下ろす崖下の河川敷、現在の和田堀運動場とか、和田堀公園では水稲耕作がおこなわれていたのだろう。川では魚を捕り、川を離れれば一面の原野。台地の奥に出かけては狩をしていたのであろう。『和名類聚抄』によれば、平安前期の武蔵野・多摩郡は10の郷からなっており、そのひとつ、「海田(あまだ)郷」に現在の杉並区が含まれる。で、この海田(あまだ)が変化し「わだ(和田)」となった、との説もある。このあたりに点在した原始期からの集落がそのまま古代に受け継がれ、古代期においても地域の中心となり、地名も「あまだ>わだ」と受け継いできたとも想像できる。

松ノ木支流が善福寺川旧流路に合わさる
松ノ木遺跡のある台地、といっても数メートルなのだが、その台地を下り、松ノ木支流の流路らしき水路が記載される「今昔マップ首都 1896-1909」に従い善福寺川に向かう。
その「今昔マップ首都」には御供米橋の少し上流から現在の大宮橋辺りにむけて旧水路のうちのひとつが流れている。その地図を参考にすると松ノ木遺跡の下辺りで松ノ木支流は旧流路に合わさるようだ.。今は公園の一帯も当時は田圃ではあるが、松ノ木支流は善福寺川筋の田圃よりも、天水田圃と呼ばれ、雨水を頼りとしていた上流部の一帯を潤すのが目的ではあったのだろう。



成田東支流を辿る

カシミール3D(無料のソフト)を使い作成した数値地図5mメッシュ(標高)の段彩図で浮かび上がった善福寺川に切れ込む窪地を辿る散歩も、東から堀之内支流、松ノ木支流と辿った。次は松ノ木支流と下流部は同じ窪地だが、途中で北東に切れ込み、現在の東田小学校あたりまで続く窪地を辿ることにする。

善福寺川の旧流路との合流点
善福寺川との合流点は、「今昔マップ首都 1896-1909」を見ると、松ノ木支流と同じく、御供米橋の少し上流から現在の大宮橋辺りにむけて流れる旧水路跡に合流している。和田堀公園の中、釣り堀武蔵野園の南、大成橋と御供米橋の間、といったところだろうか。

和田堀公園北から水路跡らしき道を進む
水路スタート地点を探すに、和田堀公園から東田小学校辺りに向けて緩やかにカーブを描きながら進み道筋を探すと、「釣り堀 武蔵野園」の西からそれらしき道筋見える。とりあえず、そこからスタートすることに。
和田堀公園と宅地の境を進み、小公園のあるところで北東にカーブを描く道に入る。公園に沿って続く舗装された小径には下水のマンホールがあり、水路跡である予感。


松ノ木中学一筋北の車道に
道を進み松ノ木中学一筋北の車道とクロスするところに車止めが現れる。水路跡の予感がぐっと高まる。その先も道にはマンホール、道の左右は高くなり、如何にも水路跡の趣である。





金太郎の車止め(成田1-9)
民家の間の細路を進むと比較的広い車道に出る。車道の先に続く水路跡には、杉並区で川跡・暗渠を示す「金太郎のイラスト」の車止めがある。ここで水路跡と確信する。
金太郎の車止め
昭和47年(1972)頃から、杉並区内の古い小川や用水路などを暗渠化し遊歩道として整備した際、 その車止めの柵として金太郎のイラストの付いた柵が立てられたようだ。何故金太郎?
ひとつには子供の遊び場である、ということをはっきりさせるため、また、家族で昔話を話し合うきっかけとして「金太郎」が選ばれたとも、金太郎が熊と遊ぶ=子ど同士が遊ぶ場所であることを示すためとも説明される。

水路跡が途切れる
コンクリート蓋のある水路跡を進む。道は誠に狭くなり、人ひとり通るのがやっとといったほどになる。その狭い水路跡を進むと水路跡が行き止まりとなる。マンションを迂回し、水路が続く、であろう先に向かうと、そこから北に水路跡が見えた。
しかし、狭い水路跡暗渠である。それでも、この辺り一帯は所謂「天水田圃」であり、台地から湧き出す僅かな湧水でも貴重なものとして、水路がひかれたのではあろうと思う。

遊歩道のような道
迂回した先に現れた水路跡は、道の中央に置かれた横置きのコンクリート柱によって区切られ、水路跡はコンクリート蓋で覆われた暗渠として北に向かう。先でコンクリート蓋の暗渠は狭まり、駐車場脇に出る。




成田東支流源流点
その先は唐突に広い遊歩道といった造りの道が続く。そして東田小学校の北から南西にカーブする道筋にT字路で辺り、水路跡の痕跡は消える。彩段図の最奥部にピンを立て、「今昔マップ首都 1998-05」で確認すると、その場所は五日市街道を越えた、杉並東洋幼稚園の東辺である。昭和の始まりの頃まで、この辺りは「水流し」と呼ばれていたようでもあり、遊水でも湧いていたとすれば、この辺りが成田東支流の源流点かとも思うのだが。 水路跡を想起させるような道もなく、成田東支流散歩はここでお終いとする。 
当日は、これから先、善福寺川に沿って成田東、五日市街道に架かる尾崎橋をへて、成田西、そして田端神社の先荻窪地区の大谷戸橋まであるいたのだが、後半は次回に廻す。

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