金町駅から水元公園・小合溜井と中川堤をぐるっと一周し、金町駅に戻る
葛飾を歩く。先回、曳舟川跡を歩いていたとき、地図で水元公園を見つけた。水路の湾曲の具合が面白い。なによりも、その溜が「小合溜井(こあいたるい)」などと呼ばれる。いかにもなんらかの歴史を感じるような名前に惹かれた。
水元公園は小合溜井を中心とした水郷地帯、である。この小合溜井は江戸時代・享保14年(1729年)につくられた旧古利根川というか中川の遊水地。江戸川の増水時、ここに水を引き入れ、江戸の町を洪水から護るためにつくられた。また、普段は東葛西領50余カ村の水田を潤すための上下之割用水の水源。「水元」という名前の由来でもある。小合は室町時代の地名「小鮎」から。
古利根川とか中川とか、川が入り組みややこしい。ちょっと、まとめ:本来、利根川は江戸湾に流れ込んでいた。流路は現在の中川・旧中川とか江戸川(太日川)の流れといったところか。江戸時代になり利根川の東遷事業、つまりは、茨城県の銚子に流すように瀬替工事・治水工事がおこなわれた。結果、残された川筋、つまりは江戸に流れ込んでいた川筋、これを古利根川と呼ぶ。
古利根川といっても、河川工事が行われているわけもなく、もちろんのこと一筋ではない。いくつもの細流がわかれている。となれば、それぞれの流路は水量が減ってくる。そのため農民は堰を設け水田用の水を確保することに。これが溜井。亀有溜井といったものもあったようだ。
堰を設け、南に流れる水路を止める。堰き止められた水は、低くきを求めて東に流れ現在の太日川、現在の江戸川筋に合流した。小合溜井を通る川筋・小合川筋は、このようにしてできた古利根川の川筋であった。
宝永元年(1704年)、この古利根川が溢れた。太日川・江戸川の大増水により、古利根川に逆流した暴れ水が、八潮市と葛飾区の境、現在の大場川と中川の合流点あたりの堰(猿ヶ俣・八潮市大瀬間の締め切り堰)に押し寄せ、堤防が決壊。葛西領と江戸下町一帯が大水害に見舞われた。
この大洪水に懲り、江戸を洪水の被害から防ぐため、将軍吉宗の命により、享保14年(1729年)井沢弥惣兵衛の手によって治水工事が開始された。井沢弥惣兵衛は見沼通船堀、見沼代用水などを差配した治水・利水工事のスペシャリストである。小合川筋の古利根川は江戸川合流点手前で堰を設け溜井をつくった。これが「小合溜井」。
一方、猿ヶ俣・八潮市大瀬の堰以南の川筋、古利根川の細路・流路を開削し広い川筋を設けた。これが中川。正確には、中川とはこのあたりより下流を指すのだが、現在ではこれより上流も中川と呼ばれている。ちなみに、江戸川だが、もとは渡良瀬川の下流。太日川とも呼ばれ、利根川とは別の流れで江戸湾に流れていた。1641年には上流部で人工水路が開削され、利根川の水も取り入れて流れている。
ということで、葛飾散歩一回目は、水元公園からスタートし、葛飾と埼玉、葛飾と足立の境を区切る川筋を、ぐるりと一周することにする。葛飾区は昭和7年に東京府南葛飾郡の水元村、金町、新宿町、亀青町、南綾瀬村、本田町、奥戸村の7つの町村が合併してできたわけだが、今回の散歩は大雑把に言って、昔の水元村と金町巡りといったところか.。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
葛飾を歩く。先回、曳舟川跡を歩いていたとき、地図で水元公園を見つけた。水路の湾曲の具合が面白い。なによりも、その溜が「小合溜井(こあいたるい)」などと呼ばれる。いかにもなんらかの歴史を感じるような名前に惹かれた。
水元公園は小合溜井を中心とした水郷地帯、である。この小合溜井は江戸時代・享保14年(1729年)につくられた旧古利根川というか中川の遊水地。江戸川の増水時、ここに水を引き入れ、江戸の町を洪水から護るためにつくられた。また、普段は東葛西領50余カ村の水田を潤すための上下之割用水の水源。「水元」という名前の由来でもある。小合は室町時代の地名「小鮎」から。
古利根川とか中川とか、川が入り組みややこしい。ちょっと、まとめ:本来、利根川は江戸湾に流れ込んでいた。流路は現在の中川・旧中川とか江戸川(太日川)の流れといったところか。江戸時代になり利根川の東遷事業、つまりは、茨城県の銚子に流すように瀬替工事・治水工事がおこなわれた。結果、残された川筋、つまりは江戸に流れ込んでいた川筋、これを古利根川と呼ぶ。
古利根川といっても、河川工事が行われているわけもなく、もちろんのこと一筋ではない。いくつもの細流がわかれている。となれば、それぞれの流路は水量が減ってくる。そのため農民は堰を設け水田用の水を確保することに。これが溜井。亀有溜井といったものもあったようだ。
堰を設け、南に流れる水路を止める。堰き止められた水は、低くきを求めて東に流れ現在の太日川、現在の江戸川筋に合流した。小合溜井を通る川筋・小合川筋は、このようにしてできた古利根川の川筋であった。
宝永元年(1704年)、この古利根川が溢れた。太日川・江戸川の大増水により、古利根川に逆流した暴れ水が、八潮市と葛飾区の境、現在の大場川と中川の合流点あたりの堰(猿ヶ俣・八潮市大瀬間の締め切り堰)に押し寄せ、堤防が決壊。葛西領と江戸下町一帯が大水害に見舞われた。
この大洪水に懲り、江戸を洪水の被害から防ぐため、将軍吉宗の命により、享保14年(1729年)井沢弥惣兵衛の手によって治水工事が開始された。井沢弥惣兵衛は見沼通船堀、見沼代用水などを差配した治水・利水工事のスペシャリストである。小合川筋の古利根川は江戸川合流点手前で堰を設け溜井をつくった。これが「小合溜井」。
一方、猿ヶ俣・八潮市大瀬の堰以南の川筋、古利根川の細路・流路を開削し広い川筋を設けた。これが中川。正確には、中川とはこのあたりより下流を指すのだが、現在ではこれより上流も中川と呼ばれている。ちなみに、江戸川だが、もとは渡良瀬川の下流。太日川とも呼ばれ、利根川とは別の流れで江戸湾に流れていた。1641年には上流部で人工水路が開削され、利根川の水も取り入れて流れている。
ということで、葛飾散歩一回目は、水元公園からスタートし、葛飾と埼玉、葛飾と足立の境を区切る川筋を、ぐるりと一周することにする。葛飾区は昭和7年に東京府南葛飾郡の水元村、金町、新宿町、亀青町、南綾瀬村、本田町、奥戸村の7つの町村が合併してできたわけだが、今回の散歩は大雑把に言って、昔の水元村と金町巡りといったところか.。
photo by harashu
本日のコース:
JR常磐線・金町駅 > 葛西神社 > 金蓮院 > 半田稲荷 > 江戸川の堤・金町関所跡 > 松浦の梵鐘 > 南蔵院の「しばられ地蔵」 > 香取神社・「上下之割用水跡(うえしたのわり)」 > 閘門橋(こうもんばし) > 遍照院 > 葛西御厨神明宮 > 猿が又水神様 > 安福寺・飯塚の夕顔観音 > 富士神社・富士塚 > JR常磐線・金町
JR 常磐線・金町駅・葛西神社に
最寄の駅は JR 常磐線・金町駅。下車し線路に沿って東に進む。江戸川堤防近くに葛西神社。このあたり一帯の総鎮守。平安末期、葛西清重により香取神宮を分霊し創建された。江戸時代には徳川家康によりご朱印十石を受ける。葛西神社となったのは明治になってから。「江戸まつりばやし」のルーツといわれる「葛西ばやし」発祥の地でもある。ちなみに、葛西清重って、現在の隅田川と江戸川の間に広がる東京下町低地を開発し所領した葛西一族の重鎮。頼朝の覚え目出度く、後々奥州総奉行となる人物だ。
金蓮院
葛西神社を離れ西に進む。東金町3丁目に金蓮院。特段ここを目指していたわけではないのだが、鬱蒼とした森に惹かれてなんとなく訪れた。槙の大樹で有名。境内に愛染明王の像がある。愛染明王、って梵語で「ラーガ」。赤、とか愛欲って意味らしい。煩悩としての愛欲を、そのまま仏の悟りに変える力、愛欲煩悩即菩提をもつ明王である、と。
半田稲荷
先に進む。次の目的地は東金町4丁目にある半田稲荷。和銅4年(710年)鎮座の古刹。先日購入した『江戸近郊ウォーク』(安倍孝嗣・田中優子:小学館)の中に「半田稲荷詣での記」という記事があった。尾張徳川家の藩士・村尾嘉陵の散歩の記録である。そこには「尾張・紀州両藩の士、その他諸侯の士、江戸の町々、品川あたりの者などが、ここまで月詣でする、という」と書いてある。どんなところなのか、なんとなく気になっていた。
村尾嘉陵の日記にあるように、江戸名所のひとつ。歌舞伎、芸能界、花柳界、魚河岸を主とする講中も多く、月詣が盛んにおこなわれたよう。疱瘡、はしか、安産の神様。境内に神泉遺構。昔は湧水井戸だったとは思うが、現在は水はなし、井戸跡を囲む石柵には寄進者として市川団十郎の名も。ちなみに、この神社、尾張徳川家の立願所。現在の社殿も尾張家の寄進、とか。
それにしても、それにしても、である、この神社が何故また歌舞伎、花柳界などの贔屓を得るようになったのか。ちょいと調べてみた:時は昔、明和・安永の頃(1764 - 81年)、体中赤ずくめで「葛西金町半田の稲荷、疱瘡も軽いな、発疹(はしか)運授 安産守りの神よ。。。」と囃し江戸を練り歩き、チラシを配る変な坊主がいた。この坊主は神田在の願人坊主。半田稲荷のキャンペーン要員。この販促企画が大ヒット。この坊主が来ると、景気がよくなるとまで言われた。
この噂は上方まで伝わった。で、その人気に目をつけた市川団蔵が天明4年(1784年)、大阪角座で歌舞伎芝居として上演。明和2年(1765年)、江戸市村座にて中村仲蔵も上演。文化10年(1813年)には坂東三津五郎も願人坊主を演じ、大人気を博する。歌舞伎だけでなく、川柳で「股引と羽織で半田行く所」と読まれたり、長唄で歌われたりと、江戸庶民に深く「刺さった」ようだ。で、神泉遺跡に市川団十郎の名があったり、歌舞伎、芸能界、花柳界の贔屓を得るようになった、のだろう。飯塚の夕顔観音、渋江の客人大権現とともに葛西の流行神でもあった。
江戸川の堤・金町関所跡
半田稲荷を離れ、江戸川に沿って進む。葛西大橋、葛西橋への道筋とクロスし江戸川の堤近くに。堤の手前、下水道局東金町ポンプ所脇に金町関所跡。水戸街道が江戸川を渡るところに位置する江戸の東の関門。4名の関所番が常駐していたと。対岸の松戸との間は渡船が常備。将軍の小金原への鷹狩のときは川に高瀬舟を並べて臨時の橋とした、とか。
水元公園・「松浦の鐘」
金町関所跡から暗渠の上を水元公園に向かう。この暗渠は水元公園から江戸川への水路だろう。東乃橋、西乃橋、天王橋と進み水元公園に。水元公園は小合溜井(こあいたるい)を中心とした水郷風景が楽しめる都内唯一の公園。20万本の花菖蒲、都指定天然記念物オニバスがある。江戸前金魚展示場などを右手に見ながら公園に沿った道筋を進む。「松浦の鐘」。鐘だけが遊歩道というか道のど真ん中に。お寺がなくなり、危急時の早鐘として使われた、と。
南蔵院の「しばられ地蔵」
道路を少し離れて南蔵院に。八代将軍吉宗の頃、南町奉行大岡越前守の「大岡裁き」で有名な「しばられ地蔵」がある。たしかに荒縄でぐるぐる巻きに縛られていた。もとは本所にあったが、関東大震災のあと、この地に移ってきた。
縛られ地蔵のお裁き、とは:昔々呉服問屋の店員さんがお地蔵さんの前で、うとうと居眠り。大切な反物を置き引きされる。で、越前守曰く「面前での盗人を見逃すとは、不埒千万。即刻地蔵を召し取れ」と。お地蔵さんに縄を打つ。前代未聞の地蔵のお裁き。大挙集まった人々が奉行所・お白州にもなだれ込む。越前守曰く「お白州に踏み込むとはなんたる所業。罰金として反物を納めるべし」と。その反物の中に盗まれたものが。かくして、盗人を召し捕らえた、って話。わかたような、わからないようなお話。
JR 常磐線・金町駅・葛西神社に
最寄の駅は JR 常磐線・金町駅。下車し線路に沿って東に進む。江戸川堤防近くに葛西神社。このあたり一帯の総鎮守。平安末期、葛西清重により香取神宮を分霊し創建された。江戸時代には徳川家康によりご朱印十石を受ける。葛西神社となったのは明治になってから。「江戸まつりばやし」のルーツといわれる「葛西ばやし」発祥の地でもある。ちなみに、葛西清重って、現在の隅田川と江戸川の間に広がる東京下町低地を開発し所領した葛西一族の重鎮。頼朝の覚え目出度く、後々奥州総奉行となる人物だ。
金蓮院
葛西神社を離れ西に進む。東金町3丁目に金蓮院。特段ここを目指していたわけではないのだが、鬱蒼とした森に惹かれてなんとなく訪れた。槙の大樹で有名。境内に愛染明王の像がある。愛染明王、って梵語で「ラーガ」。赤、とか愛欲って意味らしい。煩悩としての愛欲を、そのまま仏の悟りに変える力、愛欲煩悩即菩提をもつ明王である、と。
半田稲荷
先に進む。次の目的地は東金町4丁目にある半田稲荷。和銅4年(710年)鎮座の古刹。先日購入した『江戸近郊ウォーク』(安倍孝嗣・田中優子:小学館)の中に「半田稲荷詣での記」という記事があった。尾張徳川家の藩士・村尾嘉陵の散歩の記録である。そこには「尾張・紀州両藩の士、その他諸侯の士、江戸の町々、品川あたりの者などが、ここまで月詣でする、という」と書いてある。どんなところなのか、なんとなく気になっていた。
村尾嘉陵の日記にあるように、江戸名所のひとつ。歌舞伎、芸能界、花柳界、魚河岸を主とする講中も多く、月詣が盛んにおこなわれたよう。疱瘡、はしか、安産の神様。境内に神泉遺構。昔は湧水井戸だったとは思うが、現在は水はなし、井戸跡を囲む石柵には寄進者として市川団十郎の名も。ちなみに、この神社、尾張徳川家の立願所。現在の社殿も尾張家の寄進、とか。
それにしても、それにしても、である、この神社が何故また歌舞伎、花柳界などの贔屓を得るようになったのか。ちょいと調べてみた:時は昔、明和・安永の頃(1764 - 81年)、体中赤ずくめで「葛西金町半田の稲荷、疱瘡も軽いな、発疹(はしか)運授 安産守りの神よ。。。」と囃し江戸を練り歩き、チラシを配る変な坊主がいた。この坊主は神田在の願人坊主。半田稲荷のキャンペーン要員。この販促企画が大ヒット。この坊主が来ると、景気がよくなるとまで言われた。
この噂は上方まで伝わった。で、その人気に目をつけた市川団蔵が天明4年(1784年)、大阪角座で歌舞伎芝居として上演。明和2年(1765年)、江戸市村座にて中村仲蔵も上演。文化10年(1813年)には坂東三津五郎も願人坊主を演じ、大人気を博する。歌舞伎だけでなく、川柳で「股引と羽織で半田行く所」と読まれたり、長唄で歌われたりと、江戸庶民に深く「刺さった」ようだ。で、神泉遺跡に市川団十郎の名があったり、歌舞伎、芸能界、花柳界の贔屓を得るようになった、のだろう。飯塚の夕顔観音、渋江の客人大権現とともに葛西の流行神でもあった。
江戸川の堤・金町関所跡
半田稲荷を離れ、江戸川に沿って進む。葛西大橋、葛西橋への道筋とクロスし江戸川の堤近くに。堤の手前、下水道局東金町ポンプ所脇に金町関所跡。水戸街道が江戸川を渡るところに位置する江戸の東の関門。4名の関所番が常駐していたと。対岸の松戸との間は渡船が常備。将軍の小金原への鷹狩のときは川に高瀬舟を並べて臨時の橋とした、とか。
水元公園・「松浦の鐘」
金町関所跡から暗渠の上を水元公園に向かう。この暗渠は水元公園から江戸川への水路だろう。東乃橋、西乃橋、天王橋と進み水元公園に。水元公園は小合溜井(こあいたるい)を中心とした水郷風景が楽しめる都内唯一の公園。20万本の花菖蒲、都指定天然記念物オニバスがある。江戸前金魚展示場などを右手に見ながら公園に沿った道筋を進む。「松浦の鐘」。鐘だけが遊歩道というか道のど真ん中に。お寺がなくなり、危急時の早鐘として使われた、と。
南蔵院の「しばられ地蔵」
道路を少し離れて南蔵院に。八代将軍吉宗の頃、南町奉行大岡越前守の「大岡裁き」で有名な「しばられ地蔵」がある。たしかに荒縄でぐるぐる巻きに縛られていた。もとは本所にあったが、関東大震災のあと、この地に移ってきた。
縛られ地蔵のお裁き、とは:昔々呉服問屋の店員さんがお地蔵さんの前で、うとうと居眠り。大切な反物を置き引きされる。で、越前守曰く「面前での盗人を見逃すとは、不埒千万。即刻地蔵を召し取れ」と。お地蔵さんに縄を打つ。前代未聞の地蔵のお裁き。大挙集まった人々が奉行所・お白州にもなだれ込む。越前守曰く「お白州に踏み込むとはなんたる所業。罰金として反物を納めるべし」と。その反物の中に盗まれたものが。かくして、盗人を召し捕らえた、って話。わかたような、わからないようなお話。
photo by harashu
香取神社・「上下之割用水跡(うえしたのわり)」
道に戻り、先に進む。香取神社が。下小合村の鎮守。神社の前に南に下る川筋というか掘筋がある。「こあゆの小路」。小合溜井の外堀と内掘をつなぐ水路。勝海舟の書の「香取社」という扁額も。このあたりからなんとなく南西に掘っぽい筋が感じられる。これって「上下之割用水跡(うえしたのわり)」だろう、か。
上下之割用水は享保14年(1729年)、幕府勘定方井沢弥惣兵衛の手によりつくられ、現在の葛飾・江戸川区の中川より東側の耕地を灌漑した。橋を渡り、公園に沿って更に進む。桜並木が続く。「水元さくら堤」。八代将軍吉宗の江戸川治水工事の一つとして、小合溜の整備とともにつくられた江戸川の外堤防(二次堤)。堤の全長は約4キロ弱。ソメイヨシノ、山桜、八重桜などの桜が植えられている。
閘門橋(こうもんばし)
東水元地区を進む。日枝神社。山王神社としてあったが、水元公園の工事にときに場所も移り、名前も変えた、と。熊野神社。境内にタブノキがある。先に進み東水元6丁目の閘門橋(こうもん)に。このあたりが水元公園の最西端。都内唯一のレンガ造りのアーチ橋。閘門とは、水位・水流・水量等調節用の堰のこと。江戸時代この辺りは古利根川(現在の中川)や小合川筋(現在の大場川、小合溜井)が入り組み、水はけの悪い、古利根川の氾濫地域。古利根川と小合川の逆流を防ぐためにこの閘門が設けられた。橋は、明治43年「弐郷半領猿又閘門」としてレンガ造りアーチ橋が造られる。後に、新大場川水門の完成により閘門としての役割を終えた。
大場川に沿って中川に
閘門を離れ、大場川に沿って中川に向かう。大場川は現在の中川と水元公園をつなぐ3キロ弱の川。大場川も、もとはといえば中川。中川も、もとはといえば古利根川、ってことは上でメモしたとおり。
遍照院
水元5丁目三叉路交差点で岩槻街道と交差。しばし川堤の道を離れる。南西に下る。遍照院。和銅元年に開かれたという区内最古の歴史をもつ。天文7年(1538年)の小田原北条氏と安房・里見氏の「国府台合戦」の際,伽藍焼失。以降、再建されたり、火災に遭ったり、水害に遭ったりと、いうのは諸寺院・神社の世の習い。少し南にくだり、水元神社を眺め再び大場川筋に戻る。
葛西御厨神明宮
西水元4丁目に葛西御厨神明宮。葛飾の名所・旧跡の指定地。とはいうものの、手入れの跡はない。由来書も案内もなにもない。葛西御厨の名前に惹かれてきたのだが、知らなければなんの抵抗もなく通り過ぎるだけのお宮、というか小さな祠。
葛西御厨って、葛西にある伊勢神宮の領地ってこと。平安時代末期から現在の隅田川と江戸川に挟まれた下町低地一帯を開発・所領した葛西一族の葛西清重が、領地のうち下葛西と上葛西の33郷、現在の葛飾区を中心とする地域一体を伊勢神宮に寄進した。それが葛西御厨。
神明社は伊勢信仰に由来するお宮。伊勢の内宮(天照皇大神)または外宮(豊受大神)を分霊したもの。もともとは皇室以外が伊勢の神様をおまつりすることなどできなかったようだが、財政難には抗しがたく全国各地に布教活動を始めた。で、各地の武将が神領を寄進し、その地に神明社とか神明宮とか神明神社とは太神宮といった名前でお祀りされた。
近世になって、庶民にも伊勢信仰が広まると、新田開発に際して、農業神である豊受神や天照大神を祀る神明宮が盛んに創建され、村の鎮守として機能していた、ということ、か。日本各地にある天祖神社は明治の神仏分離令のとき、神明社が改名したとことがほとんど、だ。
猿ケ又水神様
神明宮を離れ、大場川と中川の合流点に。新大場川水門脇を通り中川に至る。西水元3丁目の土手道に猿ケ又水神様。小さな祠。なにも案内はなかったが、素朴ないい雰囲気ではあった。猿ケ又の由来は不明。川筋が3方向に分岐していていた、「三ケ又」から転化された、という説もある。
安福寺・飯塚の夕顔観音
少し南に進み安福寺。飯塚村の名主・関口治左衛門が自宅近くの老松の根元から夢のお告げにより観音像と仏具を掘り出す。鎌倉時代の作とか。お堂をつくり夕顔観音としてお祀り。飯塚の夕顔観音として江戸の元禄年間は賑わったとか。安福寺におかれるようになったのは明治になってから。
何故「夕顔観音」か、よくわからない。が、どうもこのあたりとか、千葉に「夕顔観音」にまつわる話が多い。千葉介の祖である平良文も法名・夕顔観音大士。良文にまつわる夕顔観音塚もある、という。足立の瑞応寺に夕顔観音。千葉介の千葉常胤の娘、夕顔姫の菩提をとむらうお寺。
そもそもこの千葉常胤にも夕顔観音にまつわる「羽衣伝説」がある。天女の羽衣を見つけた武将、幾年か天女とともに暮らす。数年たち、天女は天上に戻る。が、武将がなくなったとき、天女地上に現れ、ともに天上の国に。そのとき、一粒の「夕顔」の種を落としていく。その種を拾った子供が種をまくと、すくすく育ち、中から観音さまが。「夕顔観音」と名付ける。この夕顔観音を護り本尊とした子供は大きくなり、立派な武将に成長。それが千葉常胤である、という。
富士神社・富士塚
先に進み、飯塚橋を越え富士神社に。立派な富士塚がある。明治12年に浅間山に土を持って作られたもの。飯塚の富士塚と呼ばれる。散歩をはじめて富士塚を結構沢山見てきた。が、ここの富士塚が今まででは最も立派。
JR 金町駅
富士神社を離れ、中川を下る。三菱ガス化学の工場脇を進み、常磐線と交差。南側には線路に沿って道はない。少し南に下る必要がありそう。で、ガードの北に戻る。線路に沿って細い道が通る。北はまったくの更地。工場跡だろうか。本当に道が続くのかどうか少々不安。が、なんとなく大きな通りに出て一安心。道なりに進み金町駅北口に。本日の予定終了。
水元村と金町はほぼ歩いた。先日の曳舟川散歩は亀青町・本田町といったことろ。次回は金町から新宿町・奥戸町を歩いてみよう。
道に戻り、先に進む。香取神社が。下小合村の鎮守。神社の前に南に下る川筋というか掘筋がある。「こあゆの小路」。小合溜井の外堀と内掘をつなぐ水路。勝海舟の書の「香取社」という扁額も。このあたりからなんとなく南西に掘っぽい筋が感じられる。これって「上下之割用水跡(うえしたのわり)」だろう、か。
上下之割用水は享保14年(1729年)、幕府勘定方井沢弥惣兵衛の手によりつくられ、現在の葛飾・江戸川区の中川より東側の耕地を灌漑した。橋を渡り、公園に沿って更に進む。桜並木が続く。「水元さくら堤」。八代将軍吉宗の江戸川治水工事の一つとして、小合溜の整備とともにつくられた江戸川の外堤防(二次堤)。堤の全長は約4キロ弱。ソメイヨシノ、山桜、八重桜などの桜が植えられている。
photo by harashu
閘門橋(こうもんばし)
東水元地区を進む。日枝神社。山王神社としてあったが、水元公園の工事にときに場所も移り、名前も変えた、と。熊野神社。境内にタブノキがある。先に進み東水元6丁目の閘門橋(こうもん)に。このあたりが水元公園の最西端。都内唯一のレンガ造りのアーチ橋。閘門とは、水位・水流・水量等調節用の堰のこと。江戸時代この辺りは古利根川(現在の中川)や小合川筋(現在の大場川、小合溜井)が入り組み、水はけの悪い、古利根川の氾濫地域。古利根川と小合川の逆流を防ぐためにこの閘門が設けられた。橋は、明治43年「弐郷半領猿又閘門」としてレンガ造りアーチ橋が造られる。後に、新大場川水門の完成により閘門としての役割を終えた。
大場川に沿って中川に
閘門を離れ、大場川に沿って中川に向かう。大場川は現在の中川と水元公園をつなぐ3キロ弱の川。大場川も、もとはといえば中川。中川も、もとはといえば古利根川、ってことは上でメモしたとおり。
photo by harashu
遍照院
水元5丁目三叉路交差点で岩槻街道と交差。しばし川堤の道を離れる。南西に下る。遍照院。和銅元年に開かれたという区内最古の歴史をもつ。天文7年(1538年)の小田原北条氏と安房・里見氏の「国府台合戦」の際,伽藍焼失。以降、再建されたり、火災に遭ったり、水害に遭ったりと、いうのは諸寺院・神社の世の習い。少し南にくだり、水元神社を眺め再び大場川筋に戻る。
葛西御厨神明宮
西水元4丁目に葛西御厨神明宮。葛飾の名所・旧跡の指定地。とはいうものの、手入れの跡はない。由来書も案内もなにもない。葛西御厨の名前に惹かれてきたのだが、知らなければなんの抵抗もなく通り過ぎるだけのお宮、というか小さな祠。
葛西御厨って、葛西にある伊勢神宮の領地ってこと。平安時代末期から現在の隅田川と江戸川に挟まれた下町低地一帯を開発・所領した葛西一族の葛西清重が、領地のうち下葛西と上葛西の33郷、現在の葛飾区を中心とする地域一体を伊勢神宮に寄進した。それが葛西御厨。
神明社は伊勢信仰に由来するお宮。伊勢の内宮(天照皇大神)または外宮(豊受大神)を分霊したもの。もともとは皇室以外が伊勢の神様をおまつりすることなどできなかったようだが、財政難には抗しがたく全国各地に布教活動を始めた。で、各地の武将が神領を寄進し、その地に神明社とか神明宮とか神明神社とは太神宮といった名前でお祀りされた。
近世になって、庶民にも伊勢信仰が広まると、新田開発に際して、農業神である豊受神や天照大神を祀る神明宮が盛んに創建され、村の鎮守として機能していた、ということ、か。日本各地にある天祖神社は明治の神仏分離令のとき、神明社が改名したとことがほとんど、だ。
猿ケ又水神様
神明宮を離れ、大場川と中川の合流点に。新大場川水門脇を通り中川に至る。西水元3丁目の土手道に猿ケ又水神様。小さな祠。なにも案内はなかったが、素朴ないい雰囲気ではあった。猿ケ又の由来は不明。川筋が3方向に分岐していていた、「三ケ又」から転化された、という説もある。
photo by harashu
安福寺・飯塚の夕顔観音
少し南に進み安福寺。飯塚村の名主・関口治左衛門が自宅近くの老松の根元から夢のお告げにより観音像と仏具を掘り出す。鎌倉時代の作とか。お堂をつくり夕顔観音としてお祀り。飯塚の夕顔観音として江戸の元禄年間は賑わったとか。安福寺におかれるようになったのは明治になってから。
何故「夕顔観音」か、よくわからない。が、どうもこのあたりとか、千葉に「夕顔観音」にまつわる話が多い。千葉介の祖である平良文も法名・夕顔観音大士。良文にまつわる夕顔観音塚もある、という。足立の瑞応寺に夕顔観音。千葉介の千葉常胤の娘、夕顔姫の菩提をとむらうお寺。
そもそもこの千葉常胤にも夕顔観音にまつわる「羽衣伝説」がある。天女の羽衣を見つけた武将、幾年か天女とともに暮らす。数年たち、天女は天上に戻る。が、武将がなくなったとき、天女地上に現れ、ともに天上の国に。そのとき、一粒の「夕顔」の種を落としていく。その種を拾った子供が種をまくと、すくすく育ち、中から観音さまが。「夕顔観音」と名付ける。この夕顔観音を護り本尊とした子供は大きくなり、立派な武将に成長。それが千葉常胤である、という。
富士神社・富士塚
先に進み、飯塚橋を越え富士神社に。立派な富士塚がある。明治12年に浅間山に土を持って作られたもの。飯塚の富士塚と呼ばれる。散歩をはじめて富士塚を結構沢山見てきた。が、ここの富士塚が今まででは最も立派。
photo by harashu
JR 金町駅
富士神社を離れ、中川を下る。三菱ガス化学の工場脇を進み、常磐線と交差。南側には線路に沿って道はない。少し南に下る必要がありそう。で、ガードの北に戻る。線路に沿って細い道が通る。北はまったくの更地。工場跡だろうか。本当に道が続くのかどうか少々不安。が、なんとなく大きな通りに出て一安心。道なりに進み金町駅北口に。本日の予定終了。
水元村と金町はほぼ歩いた。先日の曳舟川散歩は亀青町・本田町といったことろ。次回は金町から新宿町・奥戸町を歩いてみよう。
猿ケ又水神様
神明宮を離れ、大場川と中川の合流点に。新大場川水門脇を通り中川に至る。西水元3丁目の土手道に猿ケ又水神様。小さな祠。なにも案内はなかったが、素朴ないい雰囲気ではあった。猿ケ又の由来は不明。川筋が3方向に分岐していていた、「三ケ又」から転化された、という説もある。
上記の記事がありましたが、自分の知るところとは少し違っているので、確認させてください。
1.大場川と中川の合流点とありますが、もともとの中川は今の大場川と今より上流側で合流していました。また中川とは垳(がけ)川と一緒になっていました。
2.小さな祠があるところは、昭和30年まで足立区の佐野地区と結ぶ渡し船の渡し場があったところではないでしょうか。
昭和22年の航空写真を見ると、土手かた川岸に降りる小道が見れますし、葛飾区側には船が留まれるように入江がみれます。
また、佐野地区には、名前ではなく屋号で「渡し場」と呼んでいる人がいます。
矢澤さま
ご指摘誠に有り難うございます。特段のテーマもなく、お気楽に散歩しており、きちんと調べておられる方には笑止のメモかとは思います。
間違いも多いかとは思います。今後もお気づきのことがありましたら、いろいろお教えいただければと思います。ご指摘、重ねて御礼申し上げます。