
その遍路道の道筋については、詳しい資料も見つけられなかったので、「えひめの記憶」の記事にあった、茂兵衛道成から右に折れ、後は市仲集落に有るという真念の道標、その先にも丁石が幾つかある、という情報だけを頼りに、基本成り行きで進むことにする。 往路で茂兵衛道標を右に折れる道筋を見たのだが、道とはいえない、倒木・藪が待ち構える荒れた遍路道のようである。その藪漕ぎがどの程度続くのかわからないが、ともあれ、先回の土佐街道・横峰越えで寄り道した平山集落から峰の地蔵尊までの遍路道と「繋ぐ」ことを唯一の目標に、奥の院・仙龍寺から復路の散歩を開始する。

Ⅱ.復路:奥之院>奥の院出発>「大師修行之護摩岩窟」分岐>4丁石分岐点>茂兵衛道標分岐>車道に復帰>石垣に地蔵丁石>市仲集落>真念道標>15丁石・17丁石>18丁石と道標>大嶽神社と丁石>丁石2体>「四国中央東幹線」鉄塔>奉納石仏>林道に出る>国道から分岐>峰の地蔵尊>堀切峠>尾根道の車道を三角寺分岐へ>三角寺
奥の院出発;10時30分(標高283m)
葛篭折れの石段を上り、道の左手、右手に佇む石仏を見遣りながら上る。結構きつい。途中、85番石仏の側には「奥之院まで一丁」の丁石があった。
「大師修行之護摩岩窟」分岐;10時40分(標高332m)
落ち葉でスリップしないように、山肌に手を添え狭い急坂を慎重に下ると、左手に「へんろ道」の案内。そこを上ると直ぐ岩窟があった。岩窟は狭く斜めに迫り出した岩場の奥にあり、奥に石仏が祀られる。快適とは言い難い。お参りを済ませ元の道に戻る。
4丁石分岐;10時45分(標高378m)
茂兵衛道標分岐;12時(標高472m)
先はどうなるか分からないが、とりあえず手印の示す道筋へ入る。倒木を乗り越え、立木を踏み敷き先に進む。ほどなくブッシュを抜け、沢を越え杉林に入る。踏み跡を探すも、それらしき跡もなく、成り行きで進む。
「 車道に復帰;12時10分(513m)
『四国遍路日記』に「件ノ坂(八丁坂)ヲ山ノ半腹ヨリ東二向キテ恐シキ山ノカケヲ伝ヒ往ク」という記述が見える。この記述から見れば、いま辿った遍路道は、荒れた道とはいうものの、それほどのこともなく、往昔の遍路道はこの地で道に復帰せず、更に山道を進んだのだろうか?それにしては、この先には進めそうには思えない、などと少々悩む。
石垣に地蔵丁石;12時13分(513m)
市仲集落;12時15分
集落で左に上る道がある。遍路道はここを左に折れるのだが、なんの標識もなく、Google Mapには左に折れた道が途中で消えるので、真っ直ぐ道を進んだ のだが、結構進んでも「えひめの記憶」に説明されている遍路道標が現れない。「えひめの記憶」には「やがて遍路道は市仲の集落に入り、かつての新土佐街道と合流して堀切峠に向かう。この合流点あたりに真念道標が立ち、さらにその先の左崖上にも2基の道標がある」とのことであり、真念道標は市仲の集落からそれほど離れてはいないはずである。
で、何となく地図アプリの「距離測」に入っているZenrinの地図を見ると、Google Mapでは途中で切れていた道が掘切峠近くまで続いている。その道が遍路道であろうと左に折れる分岐点まで戻る。山地図にも国土地理院の6000分の一の地図にも載っていない道がどういう経緯でZenrinの地図に載っているのだろう。
真念道標;12時18分標(標高513m)
○真念
「えひめの記憶」をもとに真念についてまとめておく。「四国遍路が一般庶民の間に広まったのは江戸時代になってからといわれる。その功労者の一人に真念がいる。その真念の出自や活動については、ほとんど皆目といってよいほど明らかでない。
真念の著作(『四国邊路道指南(みちしるべ)』・『四国?礼功徳記(へんろくどくき)』)や、真念たちが資料を提供して寂本が著した『四国礼霊場記』の叙(序文)や跋(ばつ)(後書き)に拠れば、『霊場記』の叙に、著者寂本は、「茲に真念といふ者有り。抖?の桑門也。四国遍路すること、十数回」と讃え、また『功徳記』の践辞でも木峰中宜なる人物が、「真念はもとより頭陀の身なり。麻の衣やうやく肩をかくして余長なく、一鉢しばしば空しく、たゝ大師につかへ奉らんとふかく誓ひ、遍礼(へんろ)せる事二十余度に及べり」と記している。 あるいはまた『功徳記』の下巻で「某もとより人により人にはむ、抖?の身」とみずから書くように、真念は頭陀行を専らとする僧であり、なかでも弘法大師に帰依するところきわめて深く、四国八十八ヶ所の大師の霊跡を十数回ないしは二十数回も回るほどの篤信の遊行僧だった。あるいは高野山の学僧寂本や奥の院護摩堂の本樹軒洪卓らとのつながりから推して高野聖の一人だったと解してもよいだろう」とある。
遍路そのものの数は江戸時代に入ってもまだわずかであり、一般庶民の遍路の数は、僧侶の遍路を越えるものではなかったようだが、江戸時代の中期、17世紀後半から18世紀初頭にかけての元禄年間(1688~1704)前後から民衆の生活も余裕が出始め、娯楽を兼ねた社寺参詣が盛んになり、それにともない、四国遍路もまた一般庶民が辿るようになった、と言われる。
15丁石・17丁石;13時3分・13時9分(標高511m・523m)
18丁石と道標:13時12分(標高522m)
大嶽神社と丁石;13時17分(標高535m)
丁石2体
「四国中央東幹線」鉄塔;13時39分(標高505m)
20丁石;13時30分(標高505m)
林道に出る:13時35分(標高498m)
杉林が竹林が混じる辺りで遍路道は林道に出る。林道からカーブする道を下ると国道139号に出る。出口は工事現場の集積所といった風情で、とても遍路道へのアプローチとは思えない。
案内も無いし、また、そこを入ったとしても、林道から竹林で遍路道に入る辺りも案内がないので、この堀切峠側から遍路道に入るのは結構難しそうである。その上、この遍路道の入口の直ぐ南に、如何にも遍路道といった風情の道(鉄塔巡視路だったように思う)が国道から右に折れる。この巡視路はすぐ先で竹林に消えるのだが、堀切峠から奥の院への遍路道をアプローチする人は、十中八九この道に入るように思う。念のためメモする。
国道から分岐;13時40分(標高487m)
峰の地蔵尊;13時46分(標高491m)
先日の土佐街道・横峰越え散歩で、土佐街道の途中にあった「廻国供養塔」に指す「奥の院」に惹かれ、寄り道し、道を辿りこの峰の地蔵尊に出た。要は、峰の地蔵尊にある「雲辺寺」への遍路道の手印が指す方向とは、峰の地蔵尊の道を隔てた間伐展示林の林道を進み、途中左に折れると廻国供養塔に出ることになる。これで、愛媛最後の札所である「六十五番三角寺奥の院・仙龍寺」から讃岐最初の札所「六十六番雲辺寺」への遍路道が繋がった。何となく嬉しい。
堀切峠;13時50分(標高484m)
結局、尾根道の車道を歩くことにしたのだが、これが結構きつかった。上りが延々と続き、2キロ半ほどを300mほど上ることになった。
尾根道の車道を三角寺分岐へ;14時30分(標高751m)
三角寺;13時30分(標高351m)
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追記;
峰の地蔵から平山集落までのルート;
峰の地蔵尊のところでメモしたが、峰の地蔵から平山集落までの遍路道をまとめておく;
峰の地蔵より林道を北東に少し進むと左に逸れる土径がある。林道を逸れ先に進むと分岐点にあり、そこに廻国供養塔が立つ。ここを右に折れると土佐北街道・横峰越えの道。
平山集落への遍路道は左に折れる。平山集落までは遍路道と土佐街道が重なり進む。
少し下ると茂兵衛道標があり、道なりに下ると平山の集落に出る。平山のバス停を経て遍路休憩所に至れば、そこが三角寺から一旦金田の集落まで下り、平山の集落に上ってきた雲辺寺に向かう遍路道である。
詳しくは土佐北街道・横峰越えの記事を参照してください。
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