伊予 歩き遍路:六十五番札所・三角寺から地蔵峠を越えて奥の院・仙龍寺へ下る そのⅡ

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六十五番札所・三角寺から地蔵峠を越えて奥の院・仙龍寺へ下るピストン散歩の復路のメモ。往昔、六十五番札所・三角寺から奥の院・仙龍寺にお参りした遍路は、地蔵峠を下った先にある茂兵衛道標から右に折れ、法皇山脈の南麓をトラバースし「峰の地蔵尊」に至り、そこから土佐街道と一部重なりながら法皇山脈の北麓の平山集落に下り、六十六番札所である讃岐の雲辺寺へと向かった、と言う。
その遍路道の道筋については、詳しい資料も見つけられなかったので、「えひめの記憶」の記事にあった、茂兵衛道成から右に折れ、後は市仲集落に有るという真念の道標、その先にも丁石が幾つかある、という情報だけを頼りに、基本成り行きで進むことにする。 往路で茂兵衛道標を右に折れる道筋を見たのだが、道とはいえない、倒木・藪が待ち構える荒れた遍路道のようである。その藪漕ぎがどの程度続くのかわからないが、ともあれ、先回の土佐街道・横峰越えで寄り道した平山集落から峰の地蔵尊までの遍路道と「繋ぐ」ことを唯一の目標に、奥の院・仙龍寺から復路の散歩を開始する。


本日のルート; Ⅰ.往路;六十五番札所・三角寺>奥の院遍路道へ>最初の舟形地蔵丁石>道標>茂兵衛道標>沢を渡る>48丁石>47丁石>沢を渡ると42丁石>41丁石>39丁石・38丁石>35丁石>33丁石・32丁石>31丁石・30丁石>29丁石>車道>地蔵峠>奥の院への下り道>20丁石・19丁石>桜馬場・18丁石>17丁石・16丁石>15丁石・14丁石>車道に出る>再び車道に>茂兵衛道標>「金光山仙龍寺」の石柱>不動堂>4丁石・新四国霊場分岐点>清滝>弥勒堂・仙人堂>奥之院

Ⅱ.復路:奥之院>奥の院出発>「大師修行之護摩岩窟」分岐>4丁石分岐点>茂兵衛道標分岐>車道に復帰>石垣に地蔵丁石>市仲集落>真念道標>15丁石・17丁石>18丁石と道標>大嶽神社と丁石>丁石2体>「四国中央東幹線」鉄塔>奉納石仏>林道に出る>国道から分岐>峰の地蔵尊>堀切峠>尾根道の車道を三角寺分岐へ>三角寺



奥の院出発;10時30分(標高283m)
岩壁を借景に趣のある奥之院の写真を撮り、鐘楼脇から石段を上る。銅山川に注ぐ、豊かな水量の支流を跨ぐ朱の橋を渡り石段を上る。石段脇には四国八十八箇所霊場に替わる幾多の石仏が佇む。八十八番から進む、逆打ちルートである。
葛篭折れの石段を上り、道の左手、右手に佇む石仏を見遣りながら上る。結構きつい。途中、85番石仏の側には「奥之院まで一丁」の丁石があった。

「大師修行之護摩岩窟」分岐;10時40分(標高332m)
道を進むと、大きな道標があり、「大師修行之護摩岩窟 第六拾五番奥之院」と刻まれる。大師が護摩修行を行った地であろうと、ちょっと道をそれる。すぐに崖が迫り、足元がしっかりとしない下りがある。
落ち葉でスリップしないように、山肌に手を添え狭い急坂を慎重に下ると、左手に「へんろ道」の案内。そこを上ると直ぐ岩窟があった。岩窟は狭く斜めに迫り出した岩場の奥にあり、奥に石仏が祀られる。快適とは言い難い。お参りを済ませ元の道に戻る。




4丁石分岐;10時45分(標高378m)
元に戻り先に進むと、石段も消え、岩場に鎖がついた場所にでる。このあたりが事故の起こる箇所ではあろう。それほと険路とは思えないが慎重に進む。仙龍寺を見下ろしながら進み、葛篭折れの山道を進むと、往路で清滝へと折れた4丁石分岐点に戻った。







茂兵衛道標分岐;12時(標高472m)
不動堂を越え「奥の院八丁 / 三角寺五十丁」、右側に「箸蔵寺七里 / 雲邊寺五里」との手印のある茂兵衛道標まで戻る。手印に従えば、倒木、ブッシュが迎える。
先はどうなるか分からないが、とりあえず手印の示す道筋へ入る。倒木を乗り越え、立木を踏み敷き先に進む。ほどなくブッシュを抜け、沢を越え杉林に入る。踏み跡を探すも、それらしき跡もなく、成り行きで進む。



「 車道に復帰;12時10分(513m)
道無き山肌を進み、これって遍路道?などと思いながらも先へ進むと山側が開け、ほどなく車道に戻る。茂兵衛道標から10分強で車道に復帰したことになる。えひめの記憶」には、「不動堂から市仲への道は、もはや歩く人がないため一面雑草や雑木に覆われ、途中の谷では10m近くにわたって道が崩落している。このあたりは昔から難渋する道だったのだろう。
『四国遍路日記』に「件ノ坂(八丁坂)ヲ山ノ半腹ヨリ東二向キテ恐シキ山ノカケヲ伝ヒ往ク」という記述が見える。この記述から見れば、いま辿った遍路道は、荒れた道とはいうものの、それほどのこともなく、往昔の遍路道はこの地で道に復帰せず、更に山道を進んだのだろうか?それにしては、この先には進めそうには思えない、などと少々悩む。

石垣に地蔵丁石;12時13分(513m)
道に復帰し、遍路道跡らしき痕跡はないものかとすすむと、数分で地蔵丁石が山側の石垣に佇んでいた。丁数は摩耗して読めないが丁石があったことで、この道筋が遍路道であろうとちょっと安心。

市仲集落;12時15分
地蔵丁石の先には道の下に民家が集まる。市仲の集落であろう。谷筋が開け、銅山川の谷筋、その先の四国山地の眺めは美しい。
集落で左に上る道がある。遍路道はここを左に折れるのだが、なんの標識もなく、Google Mapには左に折れた道が途中で消えるので、真っ直ぐ道を進んだ のだが、結構進んでも「えひめの記憶」に説明されている遍路道標が現れない。「えひめの記憶」には「やがて遍路道は市仲の集落に入り、かつての新土佐街道と合流して堀切峠に向かう。この合流点あたりに真念道標が立ち、さらにその先の左崖上にも2基の道標がある」とのことであり、真念道標は市仲の集落からそれほど離れてはいないはずである。
で、何となく地図アプリの「距離測」に入っているZenrinの地図を見ると、Google Mapでは途中で切れていた道が掘切峠近くまで続いている。その道が遍路道であろうと左に折れる分岐点まで戻る。山地図にも国土地理院の6000分の一の地図にも載っていない道がどういう経緯でZenrinの地図に載っているのだろう。

真念道標;12時18分標(標高513m)
左に分岐した道を少し上ると、石垣下に誠にささやかな石柱がある。まさか、とはおもいながも注意深く見ると、「みち」とか「の院」といった文字が刻まれている。上部が破損し正面の文字は摩耗し全く読めないが、これが真念道標であった。
○真念
「えひめの記憶」をもとに真念についてまとめておく。「四国遍路が一般庶民の間に広まったのは江戸時代になってからといわれる。その功労者の一人に真念がいる。その真念の出自や活動については、ほとんど皆目といってよいほど明らかでない。
真念の著作(『四国邊路道指南(みちしるべ)』・『四国?礼功徳記(へんろくどくき)』)や、真念たちが資料を提供して寂本が著した『四国礼霊場記』の叙(序文)や跋(ばつ)(後書き)に拠れば、『霊場記』の叙に、著者寂本は、「茲に真念といふ者有り。抖?の桑門也。四国遍路すること、十数回」と讃え、また『功徳記』の践辞でも木峰中宜なる人物が、「真念はもとより頭陀の身なり。麻の衣やうやく肩をかくして余長なく、一鉢しばしば空しく、たゝ大師につかへ奉らんとふかく誓ひ、遍礼(へんろ)せる事二十余度に及べり」と記している。 あるいはまた『功徳記』の下巻で「某もとより人により人にはむ、抖?の身」とみずから書くように、真念は頭陀行を専らとする僧であり、なかでも弘法大師に帰依するところきわめて深く、四国八十八ヶ所の大師の霊跡を十数回ないしは二十数回も回るほどの篤信の遊行僧だった。あるいは高野山の学僧寂本や奥の院護摩堂の本樹軒洪卓らとのつながりから推して高野聖の一人だったと解してもよいだろう」とある。

ところで、現在我々が辿る四国霊場八十八ヶ所は貞亭4年(1687)真念によって書かれた「四国邊路道指南」によるところが多い、とか。「四国邊路道指南」は、空海の霊場を巡ることすること二十余回に及んだと伝わる高野の僧・真念によって四国霊場八十八ヶ所の全容をまとめた、一般庶民向けのガイドブックといったものである。霊場の番号付けも行い順序も決めた。ご詠歌もつくり、四国遍路八十八ヶ所の霊場を完成したとのことである。
遍路そのものの数は江戸時代に入ってもまだわずかであり、一般庶民の遍路の数は、僧侶の遍路を越えるものではなかったようだが、江戸時代の中期、17世紀後半から18世紀初頭にかけての元禄年間(1688~1704)前後から民衆の生活も余裕が出始め、娯楽を兼ねた社寺参詣が盛んになり、それにともない、四国遍路もまた一般庶民が辿るようになった、と言われる。

15丁石・17丁石;13時3分・13時9分(標高511m・523m)
真念道標から先に進むと標石と出合う。「十五丁」と刻まれる。雑草の茂る開けた地から森に入ると「十七」と刻まれた丁石が石垣の奥まったところに佇む。






18丁石と道標:13時12分(標高522m)
先に進むと「十八」と刻まれた丁石。コンクリートの壁面に囲まれる。その先に道標。「奥の院」とか「天保十四年」と刻まれる。1729年の建立。施主は半田村(?)矢野」と読める。








大嶽神社と丁石;13時17分(標高535m)
道脇に鳥居が建つ。大嶽神社とある。ちょっとお参りと上りはじめたのだが、結構進んでも社が見えない。撤退し、遍路道に戻り杉林の中を進むと摩耗し丁数の読めない丁石。胴の廻りに亀裂がはいっていた。







丁石2体
数字は刻まれているだが丁数がしかとは読めない丁石を見遣りながら進む。








「四国中央東幹線」鉄塔;13時39分(標高505m)
沢にかかる橋を渡り、再び沢に出合う。沢傍に胴体だけの石仏が建つ。丁石だろうか?その先に「四国中央東幹線」の案内。左に入ると鉄塔が建つ。奥之院に下る途中、桜馬場に鉄塔があり、愛媛県の伊方発電所から香川県の讃岐発電所まで、瀬戸内側を東西185キロ結ぶ50万ボルトの基幹送電線であり、川内、東予、讃岐の3変電所と四国中央(東幹線・中幹線・西幹線)から構成されているとメモしたがこの鉄塔も往路の桜の馬場にあった鉄塔も四国東幹線の鉄塔であった。


20丁石;13時30分(標高505m)
道を進むと崖に嵌め込まれたような仏様。丁石かどうか素人には判別できない。その先には「二十」とはっきり刻まれた丁石があった。










林道に出る:13時35分(標高498m)

杉林が竹林が混じる辺りで遍路道は林道に出る。林道からカーブする道を下ると国道139号に出る。出口は工事現場の集積所といった風情で、とても遍路道へのアプローチとは思えない。
案内も無いし、また、そこを入ったとしても、林道から竹林で遍路道に入る辺りも案内がないので、この堀切峠側から遍路道に入るのは結構難しそうである。その上、この遍路道の入口の直ぐ南に、如何にも遍路道といった風情の道(鉄塔巡視路だったように思う)が国道から右に折れる。この巡視路はすぐ先で竹林に消えるのだが、堀切峠から奥の院への遍路道をアプローチする人は、十中八九この道に入るように思う。念のためメモする。

国道から分岐;13時40分(標高487m)
遍路道を国道319号に出た反対側に、「へんろ道」の案内。竹の生える道の堤を進むと一瞬木立の中に入るが、そこもすぐに抜け空が明るくなり尾根にでる。








峰の地蔵尊;13時46分(標高491m)
尾根には「峰の地蔵尊」が建つ。享和2年(1902)の建立である。峰の地蔵尊前の尾根道を走る車道脇には「雲辺寺」への手印が刻まれる。
先日の土佐街道・横峰越え散歩で、土佐街道の途中にあった「廻国供養塔」に指す「奥の院」に惹かれ、寄り道し、道を辿りこの峰の地蔵尊に出た。要は、峰の地蔵尊にある「雲辺寺」への遍路道の手印が指す方向とは、峰の地蔵尊の道を隔てた間伐展示林の林道を進み、途中左に折れると廻国供養塔に出ることになる。これで、愛媛最後の札所である「六十五番三角寺奥の院・仙龍寺」から讃岐最初の札所「六十六番雲辺寺」への遍路道が繋がった。何となく嬉しい。

堀切峠;13時50分(標高484m)
峰の不動尊から数分で掘切峠に出る。さて、ここからどのルートにしよう、とちょっと悩む。坂道を下り、先日歩いた、三角寺から平山集落へと直接進む遍路道、これは今朝車で走った道でもあるのだが、その遍路道を辿るか、尾根道を走る車道を辿り、今朝三角寺から地蔵峠への上りの途中でクロスした地点まで戻ろうか?
結局、尾根道の車道を歩くことにしたのだが、これが結構きつかった。上りが延々と続き、2キロ半ほどを300mほど上ることになった。



尾根道の車道を三角寺分岐へ;14時30分(標高751m)
舗装道をだらだらと、途中に見える四国中央市や瀬戸の眺めに一息つきながら1時間ほど歩き、三角寺からの上りの分岐点に。








三角寺;13時30分(標高351m)
ここからおよそ1時間下り、三角寺に辿り着く。これで本日の散歩は終了。駐車場では「奥の院まで行ったんかね?」と駐車場を所有するお店のおじいさんと世間話をし、一路実家へと車を走らす。





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