青山とか赤坂とかは結構土地勘がある。仕事で夜、大手町とか丸の内で遅くなっても、渋谷まで歩いたりもする。慶応大学から六本木経由で渋谷まで歩いたことも何度もある。が、唯一、よくわからないのは昔の東海道沿い、高輪・白金といったあたり。
わからない、という意味合いは、どちらに進めばどこに行けそう、といった大雑把な土地勘がない、ということ。で、今回の港区散歩は、武蔵野台地の東端、台地と谷筋が複雑に入り組んだ武蔵野台地の末端部を歩くことにする。
散歩前に、カシミール3Dで地形図をつくった。複雑な、そして起伏に富んだ地形。東西に流れる古川が台地を刻んでできたものであろう。台地から湧き出た水が刻んだものであろう。地形のうねりは結構楽しめそう。が、いまひとつランドマーク、というかアンカー・ポイントが絞れない。例によって郷土館に行き資料を入手することから始める。(水曜日, 9月 06, 2006のブログを修正)
綱坂
三井倶楽部の東側に沿って南に下る。「綱坂」と呼ばれる坂道。名の由来は、大江山の酒呑童子退治や羅生門の鬼退治で有名な、平安時代の武将「渡辺綱」が付近に生まれたという伝説によるもの。綱は武蔵守であった父親がなくなるまではこの地に住んでいた。が、その後、難波・攝津に移り摂津渡辺党として活躍。坂田金時などとともに、源頼光の四天王のひとり、となる。
わからない、という意味合いは、どちらに進めばどこに行けそう、といった大雑把な土地勘がない、ということ。で、今回の港区散歩は、武蔵野台地の東端、台地と谷筋が複雑に入り組んだ武蔵野台地の末端部を歩くことにする。
散歩前に、カシミール3Dで地形図をつくった。複雑な、そして起伏に富んだ地形。東西に流れる古川が台地を刻んでできたものであろう。台地から湧き出た水が刻んだものであろう。地形のうねりは結構楽しめそう。が、いまひとつランドマーク、というかアンカー・ポイントが絞れない。例によって郷土館に行き資料を入手することから始める。(水曜日, 9月 06, 2006のブログを修正)
本日のルート;JR田町駅>港区郷土資料館>桜田通り>春日神社>イタリア大使館>綱坂>綱町三井倶楽部>首都高速2号・目黒線>四の橋>白金商店街>三光坂下>日吉坂上>桑原坂>白金台3丁目>NTT関東病院>上大崎1丁目>首都高2号・目黒線>上大崎3丁目>目黒駅>行人坂>五百羅漢>比翼塚>目黒通り・金毘羅坂>矢戸前川緑道>油面地蔵通り>祐天寺>東急・祐天寺駅
JR田町駅
Jr田町駅で下車。田町というのは、駅の三田口(西口)一帯の、昔の呼び名。江戸時代に「田」畑が「町」屋になったため、この名がつけられた、と。現在は田町という地名はこのあたりにはない。明治にはすでに頭に芝をつけ、芝田町とよばれていた、よう。ちなみに駅の東口・芝浦口は、昔は海。1913年から埋め立てがはじまり現在の姿になった、という。
港区立港郷土資料館
国道15号線・第一京浜を渡り郷土資料館に向かう。港区立港郷土資料館は芝5丁目。慶応大学 のすぐ近く。仕事で慶応大学に行くとき通る。慶応仲通商店街の一筋南、三田図書館の中にある。『文化財のしおり』を買い求める。ほかに無料で『港区文化財めぐり』といった資料も入手。常設展示自体はそれほど大きくない。件(くだん)の『常設展示目録』といったものは見あたらなかった。
資料をもとにルートを探す。いまひとつ絞り込めない。はてさてどうしたものだと思案しながら、『港区文化財めぐり』を眺める。と、白金台3丁目に「三田用水路跡」。川跡巡りフリークとしては、なんとなく惹かれる。白金台まで進めば、目黒はすぐそこ。ということで、三田から成行きで白金台に向かい、その後は目黒に出て、先日時間切れでお目にかかれなかった羅漢寺の五百羅漢さまに会いに行こう、というルーティング。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
春日神社・イタリア大使館
桜田通りを北に進む。慶応大学の北に春日神社。三田の総鎮守。天徳2年(958)武蔵国国司藤原正房が、屋敷神として奈良の春日神社を勧請したのが始まり、と。神社を離れ、慶応大学の外縁に沿ってゆるやかな坂道を進むとイタリア大使館。邸内に「大石主税(ちから)以下切腹跡」がある、と。当時は伊予松山藩・松平隠岐守の中屋敷。忠臣蔵の大石内蔵助の実子・主税以下10名が預けられ、切腹したところ。地図を見ると、邸内に池。切腹の場所を掘り返し池とし、その土で池の背後に築山をつくった、と言われるが、その池であろう。明治維新には松下正義公爵家。イタリア大使館になったのは昭和5年から。
綱町三井倶楽部
イタリア大使館の北縁を進むとT字路。突き当たりの鬱蒼とした森は「綱町三井倶楽部」。旧町名・三田綱町は明治以降、東京の高級住宅地の代名詞。三井倶楽部は明治の「お雇い建築家」・ジョサイヤ・コンドル設計。三井財閥の迎賓館として大正2年に竣工。現在は会員制倶楽部のようで、中に入ること叶わず。
JR田町駅
Jr田町駅で下車。田町というのは、駅の三田口(西口)一帯の、昔の呼び名。江戸時代に「田」畑が「町」屋になったため、この名がつけられた、と。現在は田町という地名はこのあたりにはない。明治にはすでに頭に芝をつけ、芝田町とよばれていた、よう。ちなみに駅の東口・芝浦口は、昔は海。1913年から埋め立てがはじまり現在の姿になった、という。
港区立港郷土資料館
国道15号線・第一京浜を渡り郷土資料館に向かう。港区立港郷土資料館は芝5丁目。慶応大学 のすぐ近く。仕事で慶応大学に行くとき通る。慶応仲通商店街の一筋南、三田図書館の中にある。『文化財のしおり』を買い求める。ほかに無料で『港区文化財めぐり』といった資料も入手。常設展示自体はそれほど大きくない。件(くだん)の『常設展示目録』といったものは見あたらなかった。
資料をもとにルートを探す。いまひとつ絞り込めない。はてさてどうしたものだと思案しながら、『港区文化財めぐり』を眺める。と、白金台3丁目に「三田用水路跡」。川跡巡りフリークとしては、なんとなく惹かれる。白金台まで進めば、目黒はすぐそこ。ということで、三田から成行きで白金台に向かい、その後は目黒に出て、先日時間切れでお目にかかれなかった羅漢寺の五百羅漢さまに会いに行こう、というルーティング。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
春日神社・イタリア大使館
桜田通りを北に進む。慶応大学の北に春日神社。三田の総鎮守。天徳2年(958)武蔵国国司藤原正房が、屋敷神として奈良の春日神社を勧請したのが始まり、と。神社を離れ、慶応大学の外縁に沿ってゆるやかな坂道を進むとイタリア大使館。邸内に「大石主税(ちから)以下切腹跡」がある、と。当時は伊予松山藩・松平隠岐守の中屋敷。忠臣蔵の大石内蔵助の実子・主税以下10名が預けられ、切腹したところ。地図を見ると、邸内に池。切腹の場所を掘り返し池とし、その土で池の背後に築山をつくった、と言われるが、その池であろう。明治維新には松下正義公爵家。イタリア大使館になったのは昭和5年から。
綱町三井倶楽部
イタリア大使館の北縁を進むとT字路。突き当たりの鬱蒼とした森は「綱町三井倶楽部」。旧町名・三田綱町は明治以降、東京の高級住宅地の代名詞。三井倶楽部は明治の「お雇い建築家」・ジョサイヤ・コンドル設計。三井財閥の迎賓館として大正2年に竣工。現在は会員制倶楽部のようで、中に入ること叶わず。
綱坂
三井倶楽部の東側に沿って南に下る。「綱坂」と呼ばれる坂道。名の由来は、大江山の酒呑童子退治や羅生門の鬼退治で有名な、平安時代の武将「渡辺綱」が付近に生まれたという伝説によるもの。綱は武蔵守であった父親がなくなるまではこの地に住んでいた。が、その後、難波・攝津に移り摂津渡辺党として活躍。坂田金時などとともに、源頼光の四天王のひとり、となる。
で、三井倶楽部の北縁を東に下る坂道も渡辺綱にまつわる由来をもつ。「綱の手引き坂」がそれ。姥坂とも、馬場坂とも「小山坂」とも。小山坂の由来は、この坂道が旧三田小山町であった、ため。忘れていたが、三田「綱町」の名前の由来も、渡辺綱からきているのだろう。学生時代、平凡社選書で『酒呑童子』を呼んだことがある。これを機会に、もう一度読み返してみようか、と。
古川
三井倶楽部の南を西に進む。慶應グランドの南を進むと首都高速2号・目黒線。その下に古川が流れる。古川は、上流部は渋谷川。渋谷川水系上流部、渋谷以北は以前歩いた。甲骨川とか宇田川とか、代々木上原近辺の散歩の情景が思い出される。童謡・「春の小川」の情景は今となっては望むべくもない。
古川
三井倶楽部の南を西に進む。慶應グランドの南を進むと首都高速2号・目黒線。その下に古川が流れる。古川は、上流部は渋谷川。渋谷川水系上流部、渋谷以北は以前歩いた。甲骨川とか宇田川とか、代々木上原近辺の散歩の情景が思い出される。童謡・「春の小川」の情景は今となっては望むべくもない。
渋谷川が古川と呼ばれるのは「一の橋」より下流。後には、もう少し上流部、天現寺より下流が古川と呼ばれるようになる。「一の橋」から下流は新掘川とも呼ばれる。明暦の大火の後、江戸の都市整備に伴い、1675年、河口の金杉橋あたりから「一の橋」まで掘を開削。川幅を広げ、通船を可能にする改修工事がおこなわれた。新たに掘られた川、ということで「新掘川」、と。もともとの古川は現在の新堀川というか古川の西側を流れていた、と。
三の橋
古川を渡ると桜田通り。「三の橋」の交差点。麻布十番のところにある「一の橋」、その南の「二の橋」、そして古川橋で西に折れた先の「四の橋」、「五の橋」と続く一連の橋名。
橋の名前は古川の付け替え工事に関係する。掘の掘削は、はじめ、河口から「一の橋」とか「二の橋」あたりまで工事が行われた。で、最初に架けられた橋である から、「一の橋」。その後、元禄11年(1698年)、綱吉の別荘・白金御殿が現在の「四の橋」あたりに作られることになる。そのため、「四の橋」あたりまでの河川改修・拡張工事がおこなわれ、それにともない順次橋が架けられたのであろう。
ちなみに「麻布十番」って、白金御殿をつくる時の工区の名称。十番工区が「一の橋」北辺りであったのが、名前の由来とも。また、後に芝西応寺町の馬場がこの地に移つり、「十番の馬場」と呼ばれたようで、ために、麻布「十番」、と呼ばれるようになった、との説もある。が、時系列で考えれば、十番工区が由来というのが妥当だろう。
四の橋・薬園坂
古川橋を西に折れる。新古川橋を過ぎ「四の橋」に。「四の橋」の北に「薬園坂」。健康フリークの家康であった、から、というわけでもないだろうが、幕府には江戸の南北に薬草園があった。北は牛込に。南はこの地に。後にこの薬草園は白金御殿となるのだが、この坂の名前にその名を残す。
「四の橋」は別名「薬園橋」とも呼ばれた。ちなみにこの薬草園、薬草だけでなく花畑もつくられる。二代将軍秀忠が花好きであった、ため。小石川植物園に花畑が多いのも、そのため、だろう。北の薬園は天和元年(1681年)、その地に護国寺が建てられることになり廃園。この地の南薬草園も貞享元年(1684年)、白金御殿の 拡張のために廃止されることに。
で、薬草園はどうなったかというと、館林藩の下屋敷を拡張し、その敷地の一部を使い薬園をつくることになった。その下屋敷というのが小石川の地。現在の小石川植物園のあるところ。館林藩の下屋敷、ってのは、五代将軍綱吉が幼少の時を過ごしたところ。ために、小石川御殿と呼ばれる。また、敷地内に白山神社があったので、白山御殿とも呼ばれた、と。
白金商店街
「四の橋」から古川を渡り南に折れる。白金商店街を進む。白金といえば「白ガネーゼ」といった按配で、セレブなイメージが強い。が、この商店街は1910年発足の、下町風情一杯の町並み。 昔は麻布十番など目じゃなかった、ようではあるが、「街の賑わいOR NOT」のターニングポイントがどこにあるのか、あったのか、少々気になる。品川宿と品川駅周辺、赤羽駅周辺と岩淵宿や、北千住駅周辺と大鳥神社のある花畠のコントラスト。小岩と新小岩も確かそれっぽい話があったよう。昔は鉄道をとるか、とらないかが大きなファクターであったようだが、さて昨今はなにがおおきなファクターとなっているのであろう、か。
三光坂下交差点
先を進む。商店街を出ると車道に。恵比寿から白金1丁目の交差点に進む道筋。「三光坂下」交差点。坂にのぼる途中、専心寺にあった三葉の松が仏具・三鈷(さんこ)に似ていた、というのが名前の由来。ともあれ、このあたりお寺が多い。これは慶應義塾の右側、というか桜田通りの沿ってつくられている「三田寺町」の続き。南の高輪や、西の白金、つまり、この専心寺あたりまで続いている。
このあたりのお寺はほとんどが明暦の大火の後、この地に移った、と。それ以前は八丁掘りにあった、とか。城下町において寺町は町外れに集められ、城の防御拠点とされることが普通。ということは、この白金の地も八丁堀も江戸期においては、郊外であった、ということ、か。
日吉坂上
西光寺、専心寺の間を南西に上る三光坂を進む。聖心女子学園のなどもある閑静なお屋敷町。道なりに進み目黒通りに。少し西に坂をのぼると日吉坂上。目黒通りから桜田通りに下る日吉坂の「上」にあたる。日吉坂の由来は能役者・日吉喜兵衛が付近に住んでいたとか、例によってあれこれ。日吉坂のあたりは八芳園とか都ホテルが。
桑原坂
日吉坂上から南東、明治学院方面には桑原坂が下る。「くわばらざか 今里村の地名のひとつである。その起源について、 特別の説は残っていない」、と。交差点から坂に下るあたりに「古地老稲荷神社」。鳥居の横の説明をメモ;昔「江戸の名物は火事」といわれたほどで火伏せの稲荷信仰がさかんでありました。中でも古地老稲荷は「あが縁日の存続する限りこの地に出火をみせじ」との強い神託により、文政十三年、日吉坂上に鎮座。縁日には不可思議にも雨のおしるしがある。土民その霊験をかしこみ、火伏の稲荷、人丸様、火止る様とも呼び、お祀りする。関東大震災にも 第二次世界大戦空襲にも、火災を免れた」、と。
三の橋
古川を渡ると桜田通り。「三の橋」の交差点。麻布十番のところにある「一の橋」、その南の「二の橋」、そして古川橋で西に折れた先の「四の橋」、「五の橋」と続く一連の橋名。
橋の名前は古川の付け替え工事に関係する。掘の掘削は、はじめ、河口から「一の橋」とか「二の橋」あたりまで工事が行われた。で、最初に架けられた橋である から、「一の橋」。その後、元禄11年(1698年)、綱吉の別荘・白金御殿が現在の「四の橋」あたりに作られることになる。そのため、「四の橋」あたりまでの河川改修・拡張工事がおこなわれ、それにともない順次橋が架けられたのであろう。
ちなみに「麻布十番」って、白金御殿をつくる時の工区の名称。十番工区が「一の橋」北辺りであったのが、名前の由来とも。また、後に芝西応寺町の馬場がこの地に移つり、「十番の馬場」と呼ばれたようで、ために、麻布「十番」、と呼ばれるようになった、との説もある。が、時系列で考えれば、十番工区が由来というのが妥当だろう。
四の橋・薬園坂
古川橋を西に折れる。新古川橋を過ぎ「四の橋」に。「四の橋」の北に「薬園坂」。健康フリークの家康であった、から、というわけでもないだろうが、幕府には江戸の南北に薬草園があった。北は牛込に。南はこの地に。後にこの薬草園は白金御殿となるのだが、この坂の名前にその名を残す。
「四の橋」は別名「薬園橋」とも呼ばれた。ちなみにこの薬草園、薬草だけでなく花畑もつくられる。二代将軍秀忠が花好きであった、ため。小石川植物園に花畑が多いのも、そのため、だろう。北の薬園は天和元年(1681年)、その地に護国寺が建てられることになり廃園。この地の南薬草園も貞享元年(1684年)、白金御殿の 拡張のために廃止されることに。
で、薬草園はどうなったかというと、館林藩の下屋敷を拡張し、その敷地の一部を使い薬園をつくることになった。その下屋敷というのが小石川の地。現在の小石川植物園のあるところ。館林藩の下屋敷、ってのは、五代将軍綱吉が幼少の時を過ごしたところ。ために、小石川御殿と呼ばれる。また、敷地内に白山神社があったので、白山御殿とも呼ばれた、と。
白金商店街
「四の橋」から古川を渡り南に折れる。白金商店街を進む。白金といえば「白ガネーゼ」といった按配で、セレブなイメージが強い。が、この商店街は1910年発足の、下町風情一杯の町並み。 昔は麻布十番など目じゃなかった、ようではあるが、「街の賑わいOR NOT」のターニングポイントがどこにあるのか、あったのか、少々気になる。品川宿と品川駅周辺、赤羽駅周辺と岩淵宿や、北千住駅周辺と大鳥神社のある花畠のコントラスト。小岩と新小岩も確かそれっぽい話があったよう。昔は鉄道をとるか、とらないかが大きなファクターであったようだが、さて昨今はなにがおおきなファクターとなっているのであろう、か。
三光坂下交差点
先を進む。商店街を出ると車道に。恵比寿から白金1丁目の交差点に進む道筋。「三光坂下」交差点。坂にのぼる途中、専心寺にあった三葉の松が仏具・三鈷(さんこ)に似ていた、というのが名前の由来。ともあれ、このあたりお寺が多い。これは慶應義塾の右側、というか桜田通りの沿ってつくられている「三田寺町」の続き。南の高輪や、西の白金、つまり、この専心寺あたりまで続いている。
このあたりのお寺はほとんどが明暦の大火の後、この地に移った、と。それ以前は八丁掘りにあった、とか。城下町において寺町は町外れに集められ、城の防御拠点とされることが普通。ということは、この白金の地も八丁堀も江戸期においては、郊外であった、ということ、か。
日吉坂上
西光寺、専心寺の間を南西に上る三光坂を進む。聖心女子学園のなどもある閑静なお屋敷町。道なりに進み目黒通りに。少し西に坂をのぼると日吉坂上。目黒通りから桜田通りに下る日吉坂の「上」にあたる。日吉坂の由来は能役者・日吉喜兵衛が付近に住んでいたとか、例によってあれこれ。日吉坂のあたりは八芳園とか都ホテルが。
桑原坂
日吉坂上から南東、明治学院方面には桑原坂が下る。「くわばらざか 今里村の地名のひとつである。その起源について、 特別の説は残っていない」、と。交差点から坂に下るあたりに「古地老稲荷神社」。鳥居の横の説明をメモ;昔「江戸の名物は火事」といわれたほどで火伏せの稲荷信仰がさかんでありました。中でも古地老稲荷は「あが縁日の存続する限りこの地に出火をみせじ」との強い神託により、文政十三年、日吉坂上に鎮座。縁日には不可思議にも雨のおしるしがある。土民その霊験をかしこみ、火伏の稲荷、人丸様、火止る様とも呼び、お祀りする。関東大震災にも 第二次世界大戦空襲にも、火災を免れた」、と。
瑞聖寺
目黒通りを少し西に進むと「瑞聖寺」。黄檗宗の名刹。「一山の役寺」という高い寺格をもっていた。山門も趣があるが、大雄宝殿がいかにも、いい。大雄宝殿って本堂といったものだろうか。とにかく豪壮な構え。思いもかけず、いい建物に出会った。こういった出会いが、行き当たりばったりの散歩の楽しみ。
三田用水跡
寺を離れ、白金台3丁目12にある「三田用水跡」を目指す。外苑西通りが目黒通りにT字に交わる交差点・白金台で目黒通りを離れ住宅地に折れる。成行きで進み、マンション・ハイクレスト白金台の敷地縁に「三田用水路跡」の案内。メモ;「三田上水は寛文4年(1664年)、玉川上水を下北沢で分水。中村八郎衛門・磯野助六によって開かれた。白金台、高輪、三田、芝地区に給水。享保7年(1772年)に廃止。が、翌々年から農業用水・三田用水として1宿13カ村に供給。当時の水道は自然の高低差で流れていたため、この付近では堤上に水路を残して通す工夫をした」、と。確かに堤を盛り上げ、その上に水路を通している。水路跡、いかにも堤っぽい。また、その水路跡に家が建てられている。
目黒通りを少し西に進むと「瑞聖寺」。黄檗宗の名刹。「一山の役寺」という高い寺格をもっていた。山門も趣があるが、大雄宝殿がいかにも、いい。大雄宝殿って本堂といったものだろうか。とにかく豪壮な構え。思いもかけず、いい建物に出会った。こういった出会いが、行き当たりばったりの散歩の楽しみ。
三田用水跡
寺を離れ、白金台3丁目12にある「三田用水跡」を目指す。外苑西通りが目黒通りにT字に交わる交差点・白金台で目黒通りを離れ住宅地に折れる。成行きで進み、マンション・ハイクレスト白金台の敷地縁に「三田用水路跡」の案内。メモ;「三田上水は寛文4年(1664年)、玉川上水を下北沢で分水。中村八郎衛門・磯野助六によって開かれた。白金台、高輪、三田、芝地区に給水。享保7年(1772年)に廃止。が、翌々年から農業用水・三田用水として1宿13カ村に供給。当時の水道は自然の高低差で流れていたため、この付近では堤上に水路を残して通す工夫をした」、と。確かに堤を盛り上げ、その上に水路を通している。水路跡、いかにも堤っぽい。また、その水路跡に家が建てられている。
三田用水の水路をラフにメモ;笹塚あたりで玉川上水から分水>中野通りを下り井の頭通り・大山交差点>小田急・東北沢駅>三角橋交差点を東に>東大教養学部の裏手を進み山手通りと交差>松涛2丁目で旧山手通り>代官山・槍ケ崎交差点>その後は南東に一直線>目黒通りと交差する手前・三田2丁目あたりで少々湾曲>山手線にそって下り>目黒通りで東に折れ>白金台で南に折れ>高輪台交差点あたりで国道1号線・桜田通りと交差>高輪3丁目交差点あたりで二つに分岐>ひとつは南に下り、新高輪プリンスホテルをこえたあたりで東に折れ>品川駅前に降りる。もう一方は尾根道を北東に進み井皿子交差点を経由し三田3丁目に下り>慶応大学近く・春日神社あたりから東に進む。また、もうすこし北
に進み東に折れる水路もある、といったところ。
畠山記念館
先に進む。畠山記念館。もと薩摩藩主・島津重豪の別荘。明治維新後は寺島伯邸。その後、荏原製作所の創始者・畠山一清が私邸として購入。茶道具を中心に、書画、陶磁、漆芸、能装束など、日本、中国、朝鮮の古美術品を展示公開。収蔵品は、国宝6件、重要文化財32件を含む約1300件。とはいうものの、常設展示というよりも、企画単位での展示のスタイルのよう。訪れたときは 「明の磁器(?)と能装束」の展示であった。
島津重豪は薩摩藩8代藩主。斉彬はひ孫。斉彬とともにシーボルトと会見するなど「蘭癖」大名の筆頭。将軍家斉に娘を娶わせるなど、江戸後期の政界に大きな影響力をもち、高輪下馬将軍などと呼ばれる。寺島伯爵とは寺島宗則。元薩摩藩士。参議、外務卿、元老院議員、枢密院顧問などを歴任。地図にはこの敷地内に「般若苑」がある、とのとこだが、敷地は更地になっていた。
NTT東日本関東病院
成行きで畠山記念館西側の坂を下る。あれ?どこかで見た景色。NTT東日本関東病院。先日通院したところ。9月には入院し白内障のちょっとした手術をする予定の病院。まったくの偶然。こんなこともあるのか、と。
池田山
病院を東から南にぐるりと回り、次いで、西から北へと再び台地にのぼる。NTT病院の周囲がどうなっているのか、といった好奇心だけ。結構な高級住宅街が続く。このあたりは池田山と呼ばれていたよう。目黒川から見上げるとこの台地、ちょっとした山のように見えたのだろう。池田山と呼ばれた所以は、この地に岡山池田藩の下屋敷があった、から。大崎村でもあったので、「大崎屋敷」とも呼ばれる。
畠山記念館
先に進む。畠山記念館。もと薩摩藩主・島津重豪の別荘。明治維新後は寺島伯邸。その後、荏原製作所の創始者・畠山一清が私邸として購入。茶道具を中心に、書画、陶磁、漆芸、能装束など、日本、中国、朝鮮の古美術品を展示公開。収蔵品は、国宝6件、重要文化財32件を含む約1300件。とはいうものの、常設展示というよりも、企画単位での展示のスタイルのよう。訪れたときは 「明の磁器(?)と能装束」の展示であった。
島津重豪は薩摩藩8代藩主。斉彬はひ孫。斉彬とともにシーボルトと会見するなど「蘭癖」大名の筆頭。将軍家斉に娘を娶わせるなど、江戸後期の政界に大きな影響力をもち、高輪下馬将軍などと呼ばれる。寺島伯爵とは寺島宗則。元薩摩藩士。参議、外務卿、元老院議員、枢密院顧問などを歴任。地図にはこの敷地内に「般若苑」がある、とのとこだが、敷地は更地になっていた。
NTT東日本関東病院
成行きで畠山記念館西側の坂を下る。あれ?どこかで見た景色。NTT東日本関東病院。先日通院したところ。9月には入院し白内障のちょっとした手術をする予定の病院。まったくの偶然。こんなこともあるのか、と。
池田山
病院を東から南にぐるりと回り、次いで、西から北へと再び台地にのぼる。NTT病院の周囲がどうなっているのか、といった好奇心だけ。結構な高級住宅街が続く。このあたりは池田山と呼ばれていたよう。目黒川から見上げるとこの台地、ちょっとした山のように見えたのだろう。池田山と呼ばれた所以は、この地に岡山池田藩の下屋敷があった、から。大崎村でもあったので、「大崎屋敷」とも呼ばれる。
ねむの木の庭
東五反田5-19-5には「ねむの木の庭」。美智子妃殿下の実家・正田邸のあったところ。建物の取り壊しを巡ってあれこれニュースが流れていたのだが、今はねむの木をはじめいろいろな花々が植えられた公園となっている。
五百羅漢寺
道なりに西に。首都高2号目黒線を渡る。インドネシア大使館とかタイ大使館のあたりを進み、JR山手線に沿って続く台地端に。崖下にJR山手線。目黒駅に向かい、最後の目的地五百羅漢寺に向かう。行人坂を下り、太鼓橋を渡り、山手通りを越え五百羅漢寺に。先回は時間切れで閉まっていたので再度の訪問。再びメモする。
東五反田5-19-5には「ねむの木の庭」。美智子妃殿下の実家・正田邸のあったところ。建物の取り壊しを巡ってあれこれニュースが流れていたのだが、今はねむの木をはじめいろいろな花々が植えられた公園となっている。
五百羅漢寺
道なりに西に。首都高2号目黒線を渡る。インドネシア大使館とかタイ大使館のあたりを進み、JR山手線に沿って続く台地端に。崖下にJR山手線。目黒駅に向かい、最後の目的地五百羅漢寺に向かう。行人坂を下り、太鼓橋を渡り、山手通りを越え五百羅漢寺に。先回は時間切れで閉まっていたので再度の訪問。再びメモする。
五百羅漢寺は元禄8年(1695年)、本所に建立。五代将軍・綱吉、八代将軍吉宗の庇護を得て本所五つ目(江東区大島)に「本所のらかんさん」として親しまれる。羅漢様を彫ったのは松雲元慶禅師。もと仏師。耶馬溪の羅漢様に触発され、一念発起、仏の道に仕え、江戸の町を托鉢。集めた浄財をもとに10年の歳月をかけて羅漢様を彫り続けた、と。
さすがに迫力がある。数にも圧倒される。表情にも惹かれる。この地に移ったのは明治41年。やっとのとこで雨露を凌ぐ程度であったものを、昭和54年再建計画が立てられ、56年に現在の近代的建物に収容されるに至った。
目黒不動・比翼塚
五百羅漢寺を離れ、お隣の目黒不動の門前にある「比翼塚」にちょっと立ち寄る。白井権八(本名;平井権八)と吉原の遊女・小紫の悲恋を哀れみ建てられた塚。 この比翼塚って、各地に多い。お七・吉三の比翼塚、お夏・清十郎の比翼塚、などなど。比翼の鳥って、中国の想像上の鳥。雌雄がそれぞれ一目一翼、常に一対となって飛ぶ。ということから、比翼って、男女の契りが深いことの喩えにつかう、と。知らなかったなあ。
さすがに迫力がある。数にも圧倒される。表情にも惹かれる。この地に移ったのは明治41年。やっとのとこで雨露を凌ぐ程度であったものを、昭和54年再建計画が立てられ、56年に現在の近代的建物に収容されるに至った。
目黒不動・比翼塚
五百羅漢寺を離れ、お隣の目黒不動の門前にある「比翼塚」にちょっと立ち寄る。白井権八(本名;平井権八)と吉原の遊女・小紫の悲恋を哀れみ建てられた塚。 この比翼塚って、各地に多い。お七・吉三の比翼塚、お夏・清十郎の比翼塚、などなど。比翼の鳥って、中国の想像上の鳥。雌雄がそれぞれ一目一翼、常に一対となって飛ぶ。ということから、比翼って、男女の契りが深いことの喩えにつかう、と。知らなかったなあ。
油面(あぶらめん)地蔵通り商店街
目黒不動の西、台地の坂をのぼる。不動公園横を通り、目黒通り・金毘羅坂に。明治までこのあたりに金毘羅社があったから。あとは目黒3丁目、中目黒4丁目、祐天寺を経由し東急・東横線・祐天寺駅に。お目当ての古本屋は残念ながら閉まっていた。ともあれ、本日の予定はこれで終了。
祐天寺に向かう途中に「油面(あぶらめん)地蔵通り商店街」があった。面白い名前。ちょいと惹かれた。調べてみた;江戸時代にはこのあたり一帯では菜種
祐天寺に向かう途中に「油面(あぶらめん)地蔵通り商店街」があった。面白い名前。ちょいと惹かれた。調べてみた;江戸時代にはこのあたり一帯では菜種
の栽培が盛んにおこなわれ、その菜種油は芝の増上寺や祐天寺の燈明に使われていた。この菜種油を奉納するかわりに祖税が免除されていたため、このあたりは「油免」と呼ばれていた。それが後に「油面」と変わった、と。地名の由来は実におもしろい。
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