秩父観音霊場散歩 Ⅵ ;秩父鉄道白久から秩父市街、小鹿野へと

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秩父 ろく札所巡りのメモもこれで6回目。5回までは昨年11月から12月にかけてメモした。その後、ことしの春先に2回に分けて札所を巡り、秩父巡礼は一応結願とはなっていたのだが、なんとなくメモをする気が起きなかった。理由は、春先の2度にわたる秩父行きは、本来の目的である「のんびり散歩」から少々離れ、スケジュール優先の仕切りとしていたため。歩くことは歩くのだが、段取り優先でバスを使ったり、電車を使ったり、あまつさえ、最終回など、ついに車を使っていた。
1泊2日のスケジュールを含め、秩父には既に延べ6日ほど秩父に来ていたように思う。このままではあと何回かかるやら。秩父地域経済に少々貢献するのはいいのだが、それにしても、なあ、といった気持ちもあった。また、いままでの巡礼道は、それなりに効率的に廻れる道順であったのだが、残された15ほどの霊場は、札所20番代はまだしも、30番代になると、あちらこちらとお寺が点在し、とてものことバスを利用しなければ、いつ結願となるかわからない。そういった事情もあった。ともあれ、なんとか、あと2回くらいでおさめたい。その思いが強く、バスや電車を乗り継いでの「旅」となり、散歩のメモ、というには少々面映い、といった心根ではあった。
そういった折も折り、秩父往還、そしてまた、川越往還を歩き秩父に入ることにした。昔の人と同じく、峠越えをして秩父札所に入る、って体験をしてみたわけだ。この往還のメモも済ませ、ブログにアップ、とは思ったのだが、なんとなく納まりがよくない。抜けている霊場メモが気になった。やはりメモしておこう、と相成った。薄れ行く記憶に抗いながらのメモ。どこまで思い出すものやら、あまり自信がない。ともあれ、散歩のメモをスタートする。

今回は1泊2日。1日目は秩父鉄道沿いの札所。26番から30番まで。二日目は、1日目の仕上がり次第できめることに。西武秩父駅に到着。そこから秩父鉄道・お花畑駅に。ここには何度きたことやら。で、秩父鉄道にのり、最初の目的地30番札所・法雲寺のある白久駅に。


本日のルート;(初日)30番札所・法雲寺>29番札所・長泉院>28番札所・橋立寺>27番札所・大淵寺>26番札所・円融寺>12番札所・野坂寺>()>19番札所・龍石寺>20番札所・岩之上堂>21番札所・観音寺>
(2日目)本日のルート;31番札所・観音院>32番札所・法性寺

(初日)


30番札所・法雲寺
白久駅から谷津川に沿って歩く。札所は山の斜面を活かしたつくり。正面に「浄土楽園」と呼ばれる庭園。沢の水を引き入れた池。この「心字池」を渡り石段を登る。脇に石仏。観音堂は、この池の後方一段高いところに建つ。本尊は如意輪観音。楊貴妃観音とも呼ばれる。寺伝によれば、1319年(元応元年)鎌倉・建長寺の高僧が、唐の玄宗皇帝が楊貴妃の冥福を祈り彫った像をこの地にもたらした、とか。
ご詠歌;「一心に南無観音と唱うれば 慈悲ふか谷の誓いたのもし」

法雲寺の次は29番札所・長泉院。最寄りの駅は秩父鉄道・武州中川駅。距離は7キロ強。この間を歩くとなると2時間弱かかるよう。スケジュール優先の今回の旅、迷うことなく電車を利用する。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


29番札所・長泉院
この寺は石札堂とも呼ばれる。1234年、性空上人が秩父巡礼の折に納めたという古い石札がある、と。性空上人が秩父に来たことはなかったことは、昨年散歩の折にメモしたとおり。伝説は伝説として物語を楽しむべし、と。台座の上に石の延命地蔵。 本堂正面の欄間に、寺宝の一つである板絵額がある。葛飾北斎52歳と署名入りの楼花の絵であるとか。
先日、会社の同僚と信州の川中島を歩いたとき、小布施に行った。小布施は北斎が83歳のときをはじめとして計4回訪ねてきている。江戸で知り合った、小布施の商人・高井鴻山を訪ねてのこと。小布施にある北斎館で印象的であったのは、「天、我をして五年の命を保たしめば真正の画工となるを得べし」という言葉。90歳でなくなったが、100歳まで生き れば、どういった傑作を描き出したのであろう。それにしても改名31回、転居92回、破天荒な人生であった。境内には古木のしだれ桜。本堂の前方に紅葉大権現。豊川稲荷もあった。寺伝によれば、小笹の茂る岩屋の中の観音像を見出し、お堂を建てた、それがこのお寺さまのはじまり、とか。
ご詠歌;「わけのぼりむすぶささの戸 おしひらき 仏をおがむ身こそたのもし」

長泉寺から28番札所・橋立寺には歩いて向かう。山道を進み、浦山川を渡る。山間には浦山ダム。鄙には稀な郷土資料館。ダム建設とのバーターであろう、と。予想通り、郷土資料館でもあり、浦山ダムのあれこれ展示会場でもあった。山道にとりつき先を急ぐ。しばし歩くと、道に沿って、というか、道の下にそれらしきお堂がちょっと見える。道の脇道から岩山を迂回すると橋立寺に

28番札所・橋立寺
朱塗りの観音堂は石灰岩の岩壁の下に建つ。岩壁は高さ65mもあるだろうか。古代、ここに人が住んでいた、とも。ために、岩陰遺跡とも呼ばれる。本尊は馬頭観世音。札所ではここだけ。鎌倉時代の逸品、と。馬頭観音は六観音・八大明王のひとつ。六観音って、聖観音、十一面観音、千手観音、馬頭観音、如意輪観音、准胝観音。これが真言系。天台系では准胝観音の代わりに不空羂索観音を加えて六観音とする。八大明王とは不動・降三世・大笑(軍荼利)・大威徳・大輪・馬頭・無能勝・歩擲の各明王の総称。
堂の右手に馬堂。左甚五郎作という白馬の像がある。ここには県指定天然記念物の橋立鍾乳洞がある。『秩父回覧記』には弘法大師にまつわる縁起が書かれている。 弘法大師が高野山に居た頃のこと。金胎両部の浄土が日本にあるはず、と。ある翁より、「秩父の橋立に行くべし」との御託宣。大師、この地に。再びかの翁が現れる。その案内で洞窟に。金胎の諸仏の姿を感じる。この地が金胎両部の浄土であると確信。馬頭観音を刻んで、堂宇を建立した、とか。この洞窟が橋立鍾乳洞である。ちなみに、金胎両部とは、金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅のこと。密教独特の宇宙観のことである。この橋立観音は江戸時代には大宮郷の本山修験である今宮坊の持寺。明治の修験道禁止の頃まで修験道が続いていた。
ご詠歌;霧の海たちかさなるは雲の波 たぐいあらじとわたる橋立

橋立堂を離れ、県道73号線を下る。秩父鉄道と交差し、影森駅方向に向かう。国道140号線にそって走る小道を進み、成行きで右折し進むと、大淵寺。

27番札所・大淵寺
この寺の開基伝説にも橋立堂と同じく弘法大師が登場する。昔々、あるお坊さんがこの地に来た。が、病気で足が動かなくなる。たまたま通り合わせたのが弘法大師。観音像を彫って与える。その像を拝むとあら不思議、みるみる病が癒えた、とか。行基と双璧をなす開基伝説の主人公。29番札所・長泉院の性空上人ではないけれど、伝説は伝説として「楽しんで」おこう。本堂前に清水。飲めば長生きするとの言い伝え。境内には不動明王もまつられている。
このお寺には高さ16mもの観音像がある。高崎・大船とともに、関東の三大観音と呼ばれる。左手に蓮華の代わりに剣をもつ。つくられたのが戦前のこと。軍国主義華やかなりし頃のことでもあり、蓮華の代わりに剣をもつ。ために、護国観音、とも。と、見てきたようにメモしたが、実際に見たわけではない。この観音様は、少々山の中にある。20分程度歩くわけで、わかっておれば歩いたのだろうが、どうしたことか、気がつかなかった。大淵寺から護国観音、山腹の岩井堂、琴平神社をへて26番札所・円融寺に抜ける道がある。琴平ハイキングコースと呼ばれ、尾根道散歩が楽しめるとのことではあった。
ご詠歌;「夏山や しげきがもとに露までも こころへだてぬ月の影森」

26番札所・円融寺
大淵寺を離れ、秩父鉄道・影森駅を越え、成行きで右折。円融寺に着く。この寺には、寺宝として守られる鳥山石燕作の「景清牢破りの絵馬」と、石燕の門人石中女が13歳のとき描いたという「紫式部石山寺秋月の図の絵馬」が保管されている。県指定文化財の牢破りの絵馬は、近松門左衛門の浄瑠璃、『出世景清』を題材にしたものであろう、か。景清って、平景清とも藤原景清、とも。俵藤太こと藤原秀郷の子孫。平家方の武将。その勇猛さゆえに悪七兵衛景清と呼ばれる。屋島の合戦でその勇猛ぶりを示すも、壇ノ浦の合戦で破れ、捕らえられ、獄中で断食し果てた、と。が、景清牢破りの段ではないけれど、どういうわけか、全国に景清を巡る伝説が残り、ために、浄瑠璃や歌舞伎でもおなじみの人物となっている。または、浄瑠璃や歌舞伎で有名になったために全国に伝説が広まったのかもしれない。ま、いずれにしても、景清の何が民衆の琴線に触れたのであろう。そのうちに調べてみたい。鳥山石燕は狩野派の絵師。「画図百鬼夜行」といった妖怪絵師として勇名。ユーモアのある石燕の妖怪は水木しげるなどにも影響を与えた、と。
ご詠歌;尋ねいりかすぶ清水の岩井堂 こころの垢を すすがぬはなし(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


円融寺の次は12番札所・野坂寺。段取り優先の今回の散歩、というか旅のため、影森から秩父鉄道に乗り、西武秩父まで進む。西武秩父でおり、駅前の野坂町を進み、国道140号線に。南に少し進むと西武秩父線と交差。ガードをくぐり、西武線に沿って東に進むと野坂寺に。秩父への行き帰り車窓から何度も眺めたお寺さま、であった。

12番札所・野坂寺
参堂を通ると黒塗りの楼門。明治末期の火災で寺は焼失。山門だけは残る。楼上には阿弥陀・釈迦像・十三仏像が安置される。不動明王、釈迦如来、文珠菩薩、普賢菩薩、地蔵菩薩、弥勒菩薩、薬師如来、観世音菩薩、勢至菩薩、阿弥陀如来、阿しゅく如来、大日如来、虚空蔵菩薩。これが13仏。階下両脇には十王が。地獄を統べる10人の王様。閻魔王が代表的、というか閻魔様以外、我々門外漢にはポピュラーでは、ない。この十王が現れることにより、他界にバリエーションが生まれた、と。この思想は江戸期になって13仏信仰に結実する。
本堂に安置する本尊は聖観世音。一木造り。藤原時代の作と言われている。昔、甲斐の国の絹商人がこの地で山賊に襲われる。神仏に助けを求め、南無観世音を唱え続ける。と、お守りが輝き、賊どもは眼を射られて退散。観音の功徳をありがたく思い、この地に堂宇を建て、観世音まつった。これがこの寺の草創、と。本堂の正面に童顔の六地蔵。本堂の右手にお堂。子授け観音と、呑龍上人が祀られている。呑龍様は戦国から江戸期の浄土宗の僧。親孝行ゆえに禁を犯した子供を手厚く保護したことから、「子育て呑龍」と呼ばれ民衆から尊敬された。
ご詠歌;「老いのみに 苦しきものは野坂寺 今おもいしれ 後のよのみち」

野坂寺を終え、はてさて次はどこに、と。今夜の宿は寺尾地区。荒川の西岸、札所22番・童子堂の近く。であれば、ということで宿までの道すがら、札所19番から21番までをカバーしよう、ということにした。すでにお昼もとっくに過ぎている。距離的には丁度いいかと。秩父鉄道に乗り、どちらかといえば最寄りの駅、と言えなくもない大野原の駅に。駅をおり、荒川方面に進む。大畑町に19番札所・龍石寺。

19番札所・龍石寺
砂岩の小山の上に観音堂が建つ。本尊の観音様は室町の作、と。ここにも弘法大師にまつわる由来。日照りで苦しむ人々の前に弘法大師が訪れる。雨乞いの儀式。大岩が二つに割れ、龍が天空に舞い上がる。大雨が降り、地が潤い、豊かな作物が、といったお話である。高い台の上には身代わり地蔵も。三途の川の奪衣婆をまつる三途婆堂も。『地蔵十王経』中に、三途の川や脱衣婆が登場するわけで、上でメモした十王信仰という、地獄の王にその慈悲を願う信仰のことである。
ご詠歌;「あめつちを動かすほどの龍石寺 参いる人には利生あるべし」

次の目的地である20番札所・岩之上堂は荒川の対岸。秩父橋を渡り荒川に沿って少し南に下ると荒川を望む崖の上に札所がある。

20番札所・岩之上堂

札所中最古の建物。荒川に臨む崖の上にある。本尊の聖観音は藤原時代の作。札所中最古の建物。堂内に「猿子の瓔珞」が垂れ下がっている。千疋猿とも呼ばれている。くくり猿をたくさんつくり千羽鶴のように紐をとおしたものである。子の健やかなる成長を祈って母親がつくったもの、とか。観音堂の裏の方に熊野神社があった。
ご詠歌;苔(こけ)むしろ しきてもとまれ 岩の上 玉のうてなも くちはつる身を

石段をのぼり、道にでる。寺尾地区を歩き、県道72号線に。小田蒔中学校、小田蒔小学校の前を進むと道脇に21番札所・観音寺。

21番札所・観音寺
平将門が戦勝祈願のため矢を納めたので矢納堂とも呼ばれる。また、もっと古くは日本武尊が東征の折、ここに立ち寄り、鏑矢を納めたから矢之堂、とも。なおまた、八幡大菩薩の放った矢がここに落ちたためこの名がついた、とも。なおなお、またまた矢納村(現児玉)にあったお寺をここに遷座したので村の名を取って矢納堂、それが訛って矢之堂になったという説も。由来縁起は例によって、あれこれ説があり、定説はない。本尊は聖観音。大正12年の火災からも逃れ、ために「火除けの観音様」とも呼ばれる。行基作との伝えあり。またまた行基が登場。境内には延命地蔵、そして八幡様も。
ご詠歌;梓弓(あずさゆみ) いる矢の堂にもうできて ねがいし法に あたるうれしさ

日もだいぶ暮れてきた。県道72号線を南に進む。しばらく進むと県道を離れ荒川岸に。桜ゴルフ練習場あたりから、台地を荒川に向かってくだる。荒川の崖上といった雰囲気の場所にある宿に入り、本日の予定はこれで終了。散歩から少々時間がたっており、記憶も断片的にしか残っていない。メモはとっとと済ますべし、とあらためて思い直す。

宿で一泊。翌日はどこに、と検討。あれこれ地図を眺め、結局は小鹿野地区、というから西北方向。国道299号線を延々と進めば、志賀坂峠を越え佐久の方面に繋がっている。どうしたところでバスを使わなければ行けそうもない。どこからバスに乗るかとチェック。西武秩父に戻るのもなんだかなら、と調べる。根拠はないのだけれども、国道299号に出ればなんとかなろう、と宿から一直線に長尾根丘陵を越えて国道にでることに。で、就寝。

(2日目)
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宿を出て荒川の段丘崖をのぼり県道72号線に。県道を少し北に戻り、長尾根丘陵にのぼる道に。たまに車も通る道。ジグザクの道をのぼり尾根を越え、長尾根丘陵のその先にある風景をはじめて目にする。畑地が広がるのんびりとした風情。蒔田川を越え、国道299号に。運良く尾根から下ってきた道が国道と合流するところにバス停。また、運良く、ほとんど待つ間もなくバスが来る。
バスに飛び乗り、小鹿野に向かう。これが結構長い。10キロほどもあるだろう。山裾を走り、千束峠を越え、山を下り赤平川を渡り、小鹿野用水と交差するあたりで県道を離れ、街中に入る。小鹿野役場、小鹿野車庫を越え、黒海土バイパスで再び国道に合流する。31番札所・観音院への最寄りのバス停・栗尾はすぐ近く。バスの車窓から見える、稜線がギザギザの山は両神山であろう。
バス停から札所まで山道を歩く。4キロ弱はあろうか。山道といっても舗装道。岩殿沢にそって進む。光珠院を越え、しばらく進むと地蔵堂。新しいお寺様であろうかと思う。が、山腹に広がるお地蔵さんには少々圧倒される。トンネルを抜け、百観音の道案内とともに31番札所・観音院に進む。

31番札所・観音院

道路脇に山門。日本一といわれる石の仁王様。4mもあるだろうか。山門からは観音堂に向かって石段を登る。296段あるという。般若心経276字と、普回向20字の合計の数。普回向20字とは「願以此功徳  (がんにし くどく)普及於一切  (ふぎゅうお いっさい)我等與衆生 (がとうよ しゅじょう)皆共成佛道 (かいぐ じょうぶつどう)のこと。お坊さんが言う、「願わくば この功徳をもって普(あまね)く一切におよぼし 我らと衆生と皆ともに仏道を成(じょう)ぜんことを;十方三世一切(じっぽうさんぜいっさい)の諸仏諸尊菩薩摩訶薩(しょぶつしょそんぼさつまかさつ) 摩訶般若波羅蜜(まかはんにゃはらみつ)」のあの台詞である。一段づつ、お経を唱えながら登っていくと、厄除けのご利益があるとも。
杉林の中を進む。観音堂は昭和47年に再建されたもの。境内には、大岩壁から落ちる滝がある。清浄の滝。滝下には不動明王。弘法大師が彫ったとされる磨崖仏も。西奥の院に石仏群や胎内くぐり、東奥の院には芭蕉句碑とか馬つなぎ跡なとがある。ここは修験者の修行の地であった、とか。
ご詠歌;みやま路を かきわけ尋ね ゆきみれば わしのいわやに ひびく滝つき

観音院を離れ次の目的地・法性寺に。来た道を戻り、小鹿野の市街まで戻る。小鹿野車庫からバスが出ている、と。バス停に着き時刻表をチェック。2時間だか3時間だか、バスが来ることは無い。枝線であり、確か町営バスであったかと。はてさて、どうしたものかと。できれば今日中に33番札所・菊水寺も廻っておきたい、ということもあり、法性院まではタクシーで行くことに。こうなってしまっては、散歩なのか、スタンプラリーなのかわからなくなってきた。メモを書くのを躊躇っていたのは、こういった「歩き」にもとる行動を散歩とすることへの逡巡のため。ともあれ、タクシーで法性寺に(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


32番札所・法性寺
道脇に鐘桜門。79段の石段をのぼる。本堂には薬師如来。本堂の前に舟をこぐ観音像を描いた額。ために、この寺は、「お船観音」とも呼ばれる。観音堂は本堂から更に上に、100mほど石段というか、岩を削った山道をのぼったところにある。宝永年というから、1707年につくられた。舞台造り。観音堂の背後には大きな岩窟。ここは長享二年(1488)当時、般若岩殿と呼ばれた第十五番札所である。縁起では行基菩薩が観音像を彫っておさめた、と。また寺伝には、弘法大師も登場する。 『大般若経』六百巻を書写し納めたとか。
この札所の寺宝は「長享の札所番付」。33札所までしかない、ということは初期の頃の資料。今回歩かなかったのだが、奥の院のある山上の岩場が大きな船の舳先の形をしている、と。ために、岩船山と。またここに建つ観音様を、岩船観音と呼ぶ。
ご詠歌;ねがわくわ はんにゃの舟にのりをえん いかなる罪も浮かぶとぞきく

法性寺を離れ次の目的地は33番札所・菊水寺。お寺の前まで町営バスは来るようだが、なにせ数時間待ちといった時間帯。とてものこと、待っているわけにもいかない。歩きはじめる。どの程度あるいただろうか、長若交差点に。駒木野方面へのバス停がある。が、これって残念ながら南に進む。菊水寺は国道299号線方面というから、どちらかといえば北方向。国道299号線・松井田バス停に到着。残念ながら日没時間切れ。33番札所・菊水寺は次回に廻す。バス停で西武秩父行きのバスを待ち、一路家路へと急ぐ。

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